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地方消滅 増田寛也編著 2014年 -東京一極集中が招く人口急減- 日本創成会議の提言説明書。確実にやってきた人口減の意味と、日本の新しい構造の創成を説くもの。 高齢人口増、生産年齢人口減、年少人口減、総人口減から、大都市への若年集中継続、地方での高齢者減、大都市での高齢者増、地方で残されていた介護・福祉職口の減、大都市流入収束せず、出産可能女性の地方での減加速、地方都市人口破綻、地方都市消滅、人口急減となる、破綻の未来予測はよくわかりました。 今のままでは、日本の21世紀は全く別の状況になるので、いまから、日本の創成の為に撤退・防衛線として地方に集積域を構築して、仕事、産業を起し、人を集め、出生率をあげるとの目標の設定、着手の緊急性に説得力があります。 しかし、現政権は地方創生を掲げてはいますが、具体的施策とシナリオの実現可能性に不安が大きくなります。政治と行政と個人と企業が利己的活動を控え、連帯がはかられるでしょうか。 日経では、政治屋が地元選挙民へのアピールに地方創生を使い始めているとの指摘もあります。また、大都市の若い人の状況は深刻で、都市の出産・子育て支援の充実は急務との意見もあります。総論のみの喧噪ばかりの悪循環がまたおきるような気もしてきます。 大都市に人が集まるのは、仕事と自己実現機会を求めての事であるのはよくわかります。しかし、地方の状況から職を求めて大都市にきて子育ても苦しい生活水準となるのが現実であるならば、追い詰められた果ての難民かと思ってしまいます。 原因不明となっていますが、この30年で出生数を半分にしてしまった事実は、覚悟を迫る厳しい事態なのだと肝に銘ずる必要があるようです。 米国のピュー・リサーチセンターの調査結果の報道で、日本人は、先進国の中で一番、資本主義を支持していないとの記事がありました。支持者割合は、独73%、米70%、英65%、仏60%、日本47%だそうです。中国は76%、韓国は78%、ベトナム95%だそうです。 日本人は、うんざりしているのかもしれません。それは、まともな事かもしれません。
Oct 30, 2014
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近代文明はなぜ限界なのか 稲盛和夫、梅原猛対談 2008年 -人類を救う哲学ー 吉村作治の案内でお二人がエジプト文明視察に参加したのをきっかけに催された対談。 エジプト文明三千年の存続の根底哲学を考察しながら、近代文明の本質、科学、進歩史観、国家制度の限界を確認した対談集。 デカルトは、我思うゆえ我ありと、自然を支配するのは理性と言うが、理性といいながら裏側には欲望があるそうです。近代文明の本質は、欲望の無限解放で、人間が欲望の奴隷となり、人間性自体を失っていると。むしろ、原始人の方が自然に対して自制心があり、進歩史観で突き進んだ結果、自然破壊と人間破壊が同時進行しているそうです。 もともと資本主義は、算盤とバイブルを持っていたのに、今は、バイブルを忘れてしまって、製造力より得体のない金融力で稼ぐ思考に変容していると評しています。 日本の昔の村では、森の恵みには入合権があり、所有権を超えて恵みは万人のものであったそうです。これは自利利他にかなう正しい規範だそうです。 現代の国家のあり方には疑問が大きく、国益至上で構えるのでは誤りで、利他の心で人類全体の益を考えるべきであると説きます。国家よりも域内での共同体の方が正しい方向と考えられています。 基本の哲学として、進歩から循環の思想へ立ちかえることが必要と指摘されています。エジプト文明は、むしろ循環思想に近いそうです。 テレビに流れるのは、自国の国益を守ると公言する大統領、国務長官、大臣ばかりです。思考態度は、とどのつまりケンカ腰ということになるのでしょうか。
Oct 27, 2014
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若き日本の肖像 寺島実郎 2000年 ー1900年、欧州への旅ー 一世紀前、植民地主義と戦争が猛威を振るうことになる20世紀を志士たちがどのように迎えたのか、欧州との関係で紐解とき、21世紀、新世紀を迎える日本の心構えを説いたもの。100年以上前の志士たちの気迫、緊張、気負い、迷い等の息吹を教えてくれ、妙に力が湧いてきます。 秋山真之、益田孝、渋沢栄一、夏目漱石、西園寺公望、川上音二郎、南方熊楠、青山光子、明石元二郎、広瀬武夫、小村寿太郎、森鴎外等の輝かしい功績の裏にあった彼らの気迫、気概、苦悩、思考を覗き見させてもらった気がする。 その相手である欧州については、パリ、ロンドン、ウィーン、ローマ、マドリード、ハーグ、サンクト・ペテルブルグ、ベルリンを舞台に、ピカソ、マルクス、ニコライ二世、ケインズ、ムッソリーニ、ヒトラー、フランコ、フロイド、ドラッカー等を通じて、帝政、共和制、資本主義、共産主義、ファシズム、社会主義、軍国主義、利己主義、人種差別、カトリックがなんたるかを解き明かしてくれる。 そして、我々の迎えた新世紀について、欧州の社民主義、ステークホルダー資本主義と、米国の株主資本主義を対比し、それらの未来とも対峙する日本の心構えを説いている。 数々のエピソードが紹介されまして、眠っていた気持ちが鼓舞されました。また、漱石がロンドン留学中、苦悩の内に冷静に暗澹たる面持で、日本の開花と世界の未来をみていたことがよくわかりました。 1900年 鏡子への手紙 パリの繁華と堕落は驚くべきものなり 1902年 本邦電 夏目狂せり 1902年 義父中根重一宛 カールマルクスの所論の如きは、 単に純粋の理屈としても欠点有えべくとは存候へども、 今日の世界にこの説の出づるは当然の事と存候。 ただ己のみを考ふる数多の人間に萬金を与へ候とも、 ただ財産の不均衡より国歩の艱難を生ずる虞あるのみと存候。 欧州今日文明の失敗は明かに貧富の懸隔甚しきに基因致候。 後年 曰く 不愉快の二年なり。哀れなる生活を営みたり。 1911年 「現代日本の開化」講演 西洋の開化は内発的であって、日本の現代開化は外発的である。 皮相上滑りの開化である。 戦勝後、上滑りの開花に対する問題意識を見失い、 「虚ろな自己過信」に陥っていく日本への危機感が 表されているそうです。
Oct 22, 2014
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津浪と人間 寺田寅彦 1933年 1933年・昭和8年の三陸大津波の惨事に対して、繰り返される津浪を人間が世代を超えて記録し続けることができない弱さについて説いている。寅彦は地震と津浪について教育することを提唱している。天災と国防 寺田寅彦 1934年 口伝の「天災は忘れた頃にやってくる」について触れている。 文明が進むほど天災による損害の程度は累進する傾向がある事実を自覚して、平静から防御策を講じなければならないのにいっこうにできていないのはなぜかと問う。主な原因は、天災が極めてまれにしか起こらないで丁度人間が前車の転覆を忘れた頃にそろそろ後車を引き出すようになるからだとする。昔の人間は過去の経験を大切に保存蓄積してその教えにたよることがはなはだ忠実であったと評している。 文明は進歩しているのに、伝承を忘れ、同じ徹を踏むとの指摘である。結語では、○国や△国よりも強い天然の強敵に対して国民一致協力して適当な科学的対策を講ずるのも現代に相応しい大和魂の進化の一相として期待すべきでないかと提起している。三陸海岸大津波 吉村昭 1970年 次の地震による大津波を克明に現地資料蒐集し、存命者にも聴取した迫真の実証記録である。 1896年・明治29年6月15日午後7時 1933年・昭和 8年3月 3日午前2時 上記と同じ震源域 1960年・昭和35年5月23日午前4時 震源チリ 24日午前3時大津波到来 その後、半世紀以上経過し、文明は限りなく進歩したが、寅彦の言う通り、損害の程度は累進してしまった。悲劇を伝承して後車が別の轍をふむすべは文明の進歩にはないのであろうか。関東大震災 吉村昭 1973年 1923年・大正12年9月 1日午前11時58分 震源相模湾沖 (近年調査 犠牲者10万5千人 内火災9万2千人)の実証記録。 被害の深刻さ、特に大火の旋風による悲惨さには驚くばかり。本所陸軍被服廠跡での悲劇性には言葉がでない。スカイツリーから浅草に向けて歩き、隅田川を渡るとき枝を張る木々が悲しげに思えてくる。 この天災の中、恐怖の極限にあった民衆の根底に潜んでいた暴力性には心が痛む。また、混乱に乗じて憲兵大尉が起こした殺人事件には底のない暗黒を見る思いがする。 地震予知をめぐる地震学者師弟の確執は、地震学の学理と社会的責任との相克が、今も解決されていないと感じさせられた。 伝承すべき悲劇がここにある。
Oct 17, 2014
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エンジェルフライト 国際霊柩送還士 佐々涼子 2012年 2012年開高健ノンフィクション賞受賞作で、国際的霊柩送還業務に携わる人の業務の過酷さ、発揮される冷静さ、責任感、優しさの実録。事故、事件の最終結末を迎えた人々へ注がれる献身を称えている記録でもあると思う。 おくりびとの二番煎じかとの先入観も感じていたが、読み進めると死とは何か、人と人との係わりに係わる死、残された者にとっての葬式の意義、遺体と向き合うことの生きていく者にとっての意義など考えさせられた。 彼らが献身的に仕上げる防腐処理と納棺は、梅原猛の言う古代日本人の死観での「魂呼び」・たまよびに当たるとの解釈があり、弔いの起源と理解した。また、胃ろうをつくらないということは尊厳死と言うが、いわば餓死させることで、胃ろうが死を迎える者と愛する者に残された時間に果たす役割は尊厳死の短絡な理解ではわからないとの説明に、死を短絡的に類型化してしか理解していなかった事にはっとさせられた。 葬儀の形式の背後には死者への感謝と決別の決意が込められているが、更に、良い弔いは生きいく者に必要な薬となっていると説いている。彼らの献身は、ここが源になっていると称えている。手首の記憶 吉村昭 1972年 樺太で降伏後、ソビエトによる戦闘継続と凌辱行為に対して、集団自決を選んだ看護婦達の純真と規律が痛ましい。服毒量の加減で死にきれなかった存命者が羞恥と自責の念から逃れられず、内省に生きる姿が痛々しい。 佐々涼子の先の本で、親の死は過去を失い、配偶者の死は今を失い、子の死は未来を失うとの引用があったが、同胞の死を弔い続ける生き方をした人の悲しみも計り知れない。
Oct 12, 2014
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恋歌 朝井まかて 2013年 天狗党の蜂起から今年で150年を迎えたそうで、1865年、350人が処刑された敦賀市では、今年も天狗党の慰霊祭が催されたそうだ。当時、処刑が水戸に伝わると、市川三左衛門を頭とした門閥派・諸生党は、天狗党の家族を投獄、皆殺しにし、天狗党を率いて敦賀で斬首された武田耕雲斎の首は、塩漬けで水戸に戻され、晒されたそうだ。そして、数年後、今度は王政復古で天狗党が復権し、武田耕雲斎の孫らが、門閥派・諸生党とその家族に復讐し、私刑の限りを尽くしたそうだ。 この本では、この水戸藩内の狂気に翻弄されながらもこの復讐の応酬に生き残った宿敵同志が人生の終わりを前にしてようやく許しあえる境地にいたる。それまでについやされた40年近い文明開化の月日が痛ましい。長い恩讐の月日を支えたのは、失った夫、恋人、親兄弟への慕情なのか。和歌に込めるしかないやり場が切なくうら悲しい。 吉村昭の「天狗争乱」では、積み重なった史実の苛烈さが淡々と描かれ、ますます悲劇性を感じたが、この本では、つのる思いをよすがに生き抜く女達の条理が、維新の中で死地に赴く武士の条理にあらがうように描かれていると思う。 水戸藩の貧困と抑圧が、内部崩壊をきたし、勤王の地のもののふは根絶やしになったとの歴史観であるようだ。作者は読売のインタビューで水戸の気質は「直情」と感ずると述べている。
Oct 10, 2014
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闇の絵巻 梶井基次郎 1930年 闇への書という短篇もあるが、「闇の絵巻」は、吉村昭が「檸檬」よりも一番好きな短篇だそうで、闇が実に表現されているからだそうだ。 街灯の光の中に入り白く浮き立ち、また闇の中へ薄く消えていく男の後ろ姿、蛙の仕草、特に、山腹の黒の中の電燈をシンバルがバーンと鳴ると表現するなどは秀逸と評価しているそうだ。 闇を出入りする時の気持ち、闇の先への怖れ、闇を照らす光源の心細さ、深い闇に包まれる居心地など、闇にかかわる気持ちのうつろいが捉えられているのでしょう。闇にかかわる表情は、今村昌平の映像の雰囲気と似た気がします。闇にひらめく(鰻) 吉村昭 1978年 今村昌平のカンヌ受賞の「うなぎ」の原作で、映画は本作を軸に、1988年作「仮釈放」のシーンもとりいれたそうです。映画は、千葉県香取市佐原の与田浦が舞台になってましたが、吉村昭の後記によれば、闇にひらめくは、宇和島で見聞した話を素材にしたそうです。 夜が明ける前の暗闇がねっとりしたような靄かかる水路を鰻漁帰りの船が、弁当を持ち待っている女が佇む桜橋にかかるシーンは、傷もつ者が普通の生活を気丈に望む姿を象徴しているようで、映画と原作が共鳴しているように感じられます。
Oct 7, 2014
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白い航跡 吉村昭 1991年 薩摩の進取の気性、武士の魂、開明な藩運営が維新と近代化を推進した好例として、英国式医療を日本に発展定着させる様子が描かれます。薩英戦争、戊辰戦争、日清戦争、日露戦争を試練に陸軍の独式医療と海軍の英国式医療が脚気への対応で対立し、及ぼした結果に悲劇的差が生じたことが明らかにされています。 日清戦争 陸軍 戦死・戦傷死者 1270人 脚気死亡者 3944人 海軍 1人 動員兵員数3096人 日露戦争 陸軍 47000人 27000人 海軍 0人 東大医学部はドイツ医学派で陸軍医局もその学理の先兵で、海軍の採用する英国式臨床中心の医学とは対立的であったそうです。森林太郎(鴎外)は27才の新進気鋭のドイツ留学組として陸軍医務の理論的柱となり、陸軍の兵員食は白米とし、脚気は細菌によるもので食物栄養によるものとする海軍の麦飯、パンの洋食を科学的に誤っていると厳しく糾弾したようです。 海軍の麦飯、洋食を発案推進した高木兼寛は森より一回り以上年上で、大工の息子として生まれながら聡明なことから藩での教育機会を得て英国式医科の研鑽を摘んでゆきます。このくだりは、吉村の晩年作「暁の旅人」の松本良順が思いだされます。松本良順は、初代の陸軍軍医総監になりましたが、森鴎外もこの職に就き、高木兼寛も海軍軍医総監までのぼりつめています。 高木兼寛が食事による脚気撲滅にたどりつくまでの、実験、実証遠洋航海を成し遂げる気迫は、学理のためでなく医療のためであったと感じます。陸軍各駐屯地では、森らの上層部からの指示に抗い麦飯を導入して脚気を撲滅していたにも関わらず、日露戦争出征時はこれを禁じ白米食とさせた陸軍軍医上層部のかたくなさは、何によるものであったのでしょうか。まさに横暴な学理であります。
Oct 5, 2014
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プリズンの満月 吉村昭 1995年 巣鴨プリズンの接収開所から閉鎖まで記録。 万国の法理を超えた戦勝国による処断「平和に対する罪」による極刑の執行記録。国の敗戦と敗者としての生活苦の中に生じる不安定な精神、軍国主義への憎悪と戦犯とされた同胞を思いやる心情の揺れ動きが描かれる。 1945年から投獄開始され、1948年にはA級戦犯死刑囚の処刑、1950年の朝鮮戦争勃発、日本人の刑務官の投入、1952年に日本に移管、1958年閉鎖となる。この間、非情な刑に忍従し、月日を経てようやく和らいでゆく人々の切なさが淡々と描かれる。 渡辺はま子、松島トモ子、淡谷のり子、柳家金五楼などの芸能人や横綱はじめ力士の慰問、プロ野球球場での囚人観戦、プリズンから職場への通勤、一時帰郷の外泊など、戦犯への同胞愛が日本人刑務官の厳格な規律の下での可能な限りの配慮にあらわれ、勝者の法理で課せられた刑罰の苦しみを敗者の法理で克服していったのだと思う。 ニュルンベルグ裁判でも東京裁判でもA級戦犯の遺骨は戦勝国により回収不能となる処置がなされたと言う。償わせる刑と、遺骨を消し去り償える余地のない極刑をも勝者は用意したということか。この命、義に捧ぐ 台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡 門田隆将 2010年 1945年8月ソビエトの侵攻に対して武装放棄せず交戦、撃退し、国民党蒋介石からは日本への引き揚げの黙認を得て、内蒙古より民間人4万人、将兵35万人を帰国させた駐蒙古軍司令官。関東軍が武装放棄しソビエトに抑留された事態とは対照的です。 この時の国民党蒋介石の恩に報いようと、元台湾総督明石元二郎の息子明石元長の画策により1949年、日本から台湾への密航に成功し、蒋介石率いる中華民国軍の軍事顧問として作戦を立案し、1949年10月、押し寄せる中国人民解放軍を金門島古寧頭にて打破した記録である。1952年に空路帰国し、釣りに行っていたと公言したそうです。 敗戦国にありながら恩に報いんがため命を賭けて戦争に行き、人民解放軍を撃退したとは信じがたい英雄行為と思います。敗戦国の法理を実践成功させた気力、知力、胆力は想像を絶します。 官僚化し思考が弱体化した軍国主義軍人を突く著述物が多い中で、かような武人の存在を知り、敗者でも人として法理が守られていたと救われた気分になります。やくざと芸能と 私が愛した日本人 なべおさみ 2014年 不良時代から本物の極道とめぐりあい、親交を重ね、潔よく寡黙な気質に本物の関係を見出した作者が芸能人生を振り返る随筆。河原芸人、歌舞伎の起源から、浅草弾左衛門の元締めとしての役割を説き、役座、極道の有用性、献身、帰依する真の姿を説いています。その生き様が本物で理にかなうと評しているようです。 三木鶏郎、野坂昭如、水原ひろし、勝新太郎、裕二郎、ひばり、安倍晋太郎、金丸、中川昭一、鈴木宗男、扇千景などとの逸話が面白いです。人と人の間で本物の生き方をしている人がいることを説いています。 ここまであから様に書いてあると反社会的勢力とは違う任侠の法理があるやに思えてきてしまいます。それにしても、その筋の人と長くつきあうには頼まぬ事であるという説明は迫力あります。
Oct 3, 2014
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