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2002年11月13日
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 どちらかといえばあまり目立たないでいることを願っていた僕が昨日書いたようにみんなの前で話すようになった。児童会の役員になるというのはそういうことである。後に中学校に入ってからも生徒会の役員になった。放課後、生徒会室というのがあってそこであれこれ話をした。パスカルについて友達に話をしたことを覚えているのだが、中学生の時にパスカルを読んでいたのか今となってはよくわからない。中学生になってからはクラブ活動も熱心にするようになり本を読まなくなったからである。
 こんなことがあって人は変われるものだと思った。ただ自分が優秀でなくてはいけないという思いはずっとあってよくできる同級生と競っていた。後に息子が中学生になって塾に行くことになった時のこと。遅れて塾に通い始めたので、学校よりもはるかに早く進む塾の学習進度についていけず最初の頃試験を受けても二十点くらいの成績しか取れてないことを知った時僕はそんな経験をしたことがなかったのでさぞかしつらいのではないかと思ったが僕の勝手な思い過ごしだったようだ。
 私立の高校を受験するということになって、担任の先生が家庭教師について勉強するようにと勧めた。今になってよくわかるのだが経済的にはかなりの負担だったはずなのに親は何もいわなかった。この家庭教師の先生が仏教を専攻する人だったことがその後の僕の人生に大きな影響を与えることになるが、そのことは僕にも親にもわかっていなかった。研究者という人種を生まれて初めて見たのである。ある時、先生の鞄に『仏教における時と永遠』という本が入っているのが見えた。もとよりその題を見てもどんな本なのか少しもわからなかったがこれまで知らなかった世界があることはわかった。今とは違って塾に行くことも家庭教師につくことも珍しかったこともあって誰にもいわなかったが何かいわれるのを恐れていただけかもしれない。進学した高校は仏教系だったが、僕は宗教者にはならず哲学者になった。
 先に書いたように、中島義道が、人はすべて傲慢にならないように一つの棘が与えられているという説明はよくわかる。講演などで、暗いといわれるとそんな自分のことを受け容れることはできないが「やさしい」なら受け容れられるという話をする時、僕が子どもの頃、ずいぶんとひどいことをいわれても言い返したり、他の人が嫌がるようなことをすすんでいうことはないことを思う。自分の言葉がどんなふうに相手に聞こえるかということを意識できるようになったことをよかったと思う。後にプラトンの書いたものを読むようになった時に、もしも人が不正を行うことか不正を受けることが避けられないのであれば不正を行うことではなく不正を受ける方をむしろ私は選ぶというソクラテスの言葉を聞きその通りだと思った。
 ただあれから考えてみたのだが、仮に「棘」がなかったら僕ははたして傲慢になっていたかというとそんなことはなかっただろうと思う。そんな自信はなかったし、むしろ自信がなかったからこそ、「棘」は僕が対人関係がつまずくことを正当化する理由として機能していたように思う。こんな自分だから他の人との対人関係がうまくいかなくてもしかたがない、なにしろ僕には「棘」があるから、と。こんなふうに考えて積極的に人と関わっていこうとしなかった。生徒会のような活動に参加しようと思ったことが今となっては不思議である。勉強は「棘」の補償として機能したが、勉強もできないのでは困るので勉強以外の活動にエネルギーを注いだとしたらなんとも複雑なことを考えていたことになる。ただ勉強すればよかったというのに。





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最終更新日  2002年11月13日 18時02分09秒
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