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関連 Back numberをラストに追加しました。女帝の名案で出された倹約の話がある。マリアテレジアン・イエローについては後で書いているが、ウインナーシュニッツェル (Wiener Schnitzel)(ウイーン風・カツレツ)も女帝の発案と聞いた事がある。食糧事情が悪かった時に女帝は肉を叩いて薄く伸ばし、サイズを大きくすれば満足感が得られると薦めたらしい。※ミラノ風・カツレツと同じ。どちらが先かと言えば本当はこちらが先だったかもしれない。当時のミラノはスペイン系ハプスブルグ家の所領。実は仔牛(こうし)の肉を使ったのにも理由はある。チーズの製造に用いられる凝乳酵素レンネット(Rennet)は仔牛、ヤギなどの第4胃袋の消化液から造られる。その為に昔はチーズ作るを為に大量の仔牛が屠殺(とさつ)されていたから肉は大量にあったのだろう。ついでに言えば乳牛になる牝牛(めうし)は残されるから牡牛(おうし)の仔牛肉と言う事になる。さて、前回の「マリー・アントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)」に引き続きリンク マリー・アントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)今回はハプスブルク家、マリア・テレジア以降の君主家族が夏の離宮として使用していた宮殿。シェーンブルン宮殿( Schloss Schönbrunn)の紹介です。ここはマリーアントワネットが嫁ぐまでに主に過ごしたお気に入りの宮殿でした。冬が来てウイーン王宮に戻る時、シェーンブルンを去るのを皆、名残惜しんだと言われている。幼いモーツアルトにプロポーズされた宮殿でもあります。最も現在の庭園の噴水やグロリエッテはマリーアントワネットが嫁いだ後に造られたものですが・・。今回は女帝マリア・テレジア(Maria Teresia)(1717年~1780年)の11女マリア・アントーニア(1755年 ~1793年)がオーストリアを旅立ち、マリー・アントワネットになるまでをまとめました。途中の宿泊地の宮殿もわかる範囲でのせています。盛り沢山です。マリー・アントワネットの居城 2 シェーンブルン宮殿と旅の宿シェーンブルン宮殿(Schönbrunn Palace)世界最古の動物園マリーアントワネットが嫁ぐまでに主に過ごしたシェーンブルン宮殿マリー・アントワネット(Marie-Antoinette)の縁談と母の不安結婚までの宮中式典帝国内の馬車旅(4月22日~5月6日) メルク・・メルク修道院 ミュンヘン・・ニンフェンブルグ宮殿 アウグスブルグ・・シェッツラー宮殿皇太子妃マリー・アントワネット誕生(1770年5月7日)シェーンブルン宮殿(Schönbrunn Palace)1996年、敷地内にある世界最古の動物園までを含めた施設一帯「シェーンブルン宮殿とその庭園群」が、ユネスコの世界文化遺産に登録。実は以前シェーンブルン宮殿自体は特集しています。(グロリエッタは今回初出しです。)リンク シェーンブルン宮殿・庭園 1 (宮殿中庭)レンク シェーンブルン宮殿・庭園 2 (シェーンブルンの庭園)リンク シェーンブルン宮殿・庭園 3 (ネブチューンの泉とフランス式庭園)正面ゲート地下鉄、シェーンブルン(Schoenbrunn)駅から降りてすぐにシェーンブル宮殿の正面に出る。ウイーン市内からほど近い場所だ。まさにこの撮影場所の後方にウイーン川が流れているのだが、水回りの良いこの土地は1569年、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世(Maximilian II)(1527年~1576年)が狩猟地として買い取った場所。狩猟の途中見つけた泉から「美しい泉」を意味するシェーンブルン(Schoenbrunn)と名が付いた。最初にできた宮殿は2度もオスマントルコ軍に襲われている。1683年に行われたオスマン帝国による大規模なヨーロッパ進撃で再びこの宮殿は襲われた。ヴェネツィア、オーストリア、ポーランドからなる神聖同盟連合と敵対国オスマン帝国は16年間にわたる長い戦争に突入する(1699年)この闘いでは、連合軍であるハプスブルク家(オーストリア)側がオスマン軍に勝利する。が、しかし、連合軍内では神聖ローマ帝国の屋台骨を揺るがす宗教戦争である三十年戦争(1618年~1648年)を終えたばかり。戦争に継ぐ戦争で疲弊。ハプスブルグ家の国力は低下していく。シェーンブルン・イエロー or ハプスブルグ・イエロー or マリアテレジアン・イエローとも呼ばれるパステル・カラーの外壁のイエローは、1780年代に皇帝ヨーゼフ2世により、オーストリア・ハンガリー領内の全ての国家建造物とハプスブルク家の建築物をこのオーカーで塗ることが定められたそうだ。が、そもそもこのイエローは実はゴールドに近い色の変わりとしてマリア・テレジアにより宮廷の外壁に採用されたと言われている。つまりヴェルサイユのようにゴールドで装飾するには予算が無くて代用されたカラーらしいのだ。シェーンブルン宮殿はヴェルサイユ宮殿に対抗するべく1688年改装案が出されるが、予算が足り無く縮小される。戦争や継承戦争で疲弊(ひへい)していたオーストリアには予算はなかったのだ。庭側からの宮殿デザインはヴェルサイユ宮殿が意識されたフランス式庭園である。動物園もしかり、神聖ローマ皇帝フランツ1世は庭園の造園に力をそそいだと言われている。ネプチューンの泉の後ろ側から宮殿側からの庭園。イタリアで生まれた幾何学式庭園。樹木の列植や花壇の幾何学的な構成。それを平坦で広大な敷地のヴェルサイユ宮殿で応用した者がいたアンドレ・ル・ノートル(Andre Le Notre)(1613年~1700年)はイタリアで学んだ平面幾何の庭造りを壮大な宮殿の造園に取り入れた。(従来のイタリアの庭園は規模が小さい。)宮殿と一体化した見事なランドスケープ。それは従来の幾何学模様をベースに並木道さえもその中に折り込み、噴水、階段、刺繍花壇、彫刻を厳密な秩序のもとに配置。史上最も大がかりな宮殿建設をやってのけ、フランスの宮殿建築造園に革命を起こしたのである。17世紀から18世紀、フランス式庭園と呼ばれるこの広域な平面幾何学式庭園は各国、王侯貴族の宮殿建設において流行をみる。美しい庭園を持つ事は貴族のステータスとなった。下はネプチューンの泉(Neptune)とグロリエッテ(Gloriette)宮殿の庭園の目玉となる噴水が下のネプチューンの泉(Neptune)以前噴水は別にのせています。リンク シェーンブルン宮殿・庭園 3 (ネブチューンの泉とフランス式庭園)下はシェーンブルン宮殿と庭園の地図ピンクの円が正面門側に位置する宮殿薄いブルーがネプチューンの泉濃いブルーがグロリエッテ(Gloriette)オレンジの領域がZOO 1752年に造られた世界最古のバロック式動物園世界最古の動物園宮殿の南側の広大な敷地には庭園の他、植物園や動物園もある。今回は前を通っただけで入る時間的余裕もなかったが、1752年に帝国メナジェリー(小動物園)として創設された世界最古の動物園である。これはマリーアントワネットの父であるフランツ・シュテファン(神聖ローマ皇帝フランツ1世(Franz I)(1708年~1765年)が命じて造らせたものでもともとは宮廷内で飼っていた小動物が始まりのようだ。最もきっかけはインドから入手したサイだったらしい。当時上流階級では外国の珍しい動物を飼うのがステータスだったらしいから・・。むろんマリーアントワネットも観ていたはずだ。市民に公開されたのは1779年になるが、息子の神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ2世はアフリカやアメリカに遠征隊を派遣して積極的に動物を集めたと言う。中でもキリンの到着はウイーンでキリン・ブームが起き、ファッションのみならず、「ウィーンのキリン」とい言う戯曲まで作られたと言う。温室(パルメンハウス)1882年に完成。ヨーロッパ大陸最大規模の「温室」らしい。総面積は2,500m²。45000枚以上のガラスがはめられた温室は19世紀当時はなかなかのステータスである。左右に翼を持つシンメトリー。ガラスの宮殿である。ネプチューンの泉から丘を登ると池の奥にグロリエッテ(Gloriette)が見えてくる。グロリエッテ(Gloriette)宮廷付建築家のヨハン・フェルディナント・ヘッツェンドルフ・フォン・ホーエンベルクにより1775年建造。マリーアントワネットは1770年4月にオーストリアを出ているのでこれは見ていない。プロイセン戦の勝利と戦没者の慰霊のために立てたモニュメント。庭園内は非常に広い。ここまで登りで歩いて来たので疲れ果て、下るのにPanorama Bahn Schonbrunnerとか言う連結自動車に乗ってしまった。あまりの快適さに園内を一周半回ってしまった。これお勧めです。7歳のマリア・アントーニア1762年頃7歳なのにすでに凜(りん)とした気品を感じる風貌(ふうぼう)です。上下ともにウィキメディアから借りてきた写真です。いずれもパブリックドメインの写真です。実はシェーンブルン宮殿内部は昔からすべて撮影禁止となっていて、自前の写真がありません。下の鏡の間は、6歳のモーツァルトが7歳のマリア・アントーニアにプロポーズしたと言われるホールです。Great Gallery, Schönbrunn Palace, Vienna鏡もガラスでできているので貴重品です。当時はまだ吹きがラスが主流なので板ガラスにするのはなかなか大変な事。まして鏡はガラス面が平でなければ歪み(ゆがみ)が生じるので非情に製造が難しい。つまり鏡貼りのホールはそこらへんの貴族ではマネのできない高級ホールなのである。こちらもヴェルサイユ宮殿の鏡の間が意識されたものでしょう。設計はヨハン・ベルンハルト・フィッシャー・フォン・エルラッハ(Johann Bernhard Fischer von Erlach )(1656年~1723年)。カールス教会も彼の設計である。リンク カールス教会 2 (失われた帝都の遺産)リンク カールス教会 3 (ウイーン・バロックの巨匠)宮殿自体は2期の工事を経て1765年に完成を見る。宮廷に仕える重臣らの部屋の確保。また何よりここを訪れた国賓らに誇れる宮殿建設が必要であった。ここは神聖ローマ帝国の皇帝の宮殿なのだから・・。1765年、兄・ヨーゼフ2世の婚礼を祝賀して踊る、当時10歳のマリー・アントワネットこの婚礼パーティーは、実はヨーゼフ2世の再婚の式。相手はバイエルン選帝侯カール・アルブレヒトの娘マリア・ヨーゼファ。1765年、父フランツ1世の死に伴い皇帝になったのもこの年であるが、いろんな意味でヨーゼフ2世は残念な皇帝だ。母の天敵フリードリッヒ2世に傾倒し、再婚相手の皇后マリア・ヨーゼファを顧みず、しかも彼女は結婚の2年後に天然痘で亡くなっている。※ カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft)では彼の質素な棺を紹介している。リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 3 マリア・テレジア以降芸術全般に造形の深かったハプスブルグ家。宮廷には歌や踊りが常にあふれていたと言う。特にマリア・テレジアは自分ができなくなった分、子供達には進んで音楽や舞踏を進め、それらを見ては楽しんでいたと言う。音楽や芝居の為に宮廷劇場も建設。モーツァルトとサリエリに作品共演もさせている。美術史美術館にはハプスブルグ家のコレクションが展示されているが、今まで見てきたどこよりもハプスブルグ家の収拾品はセンスが良い。名品と言うより、どれも造形的に一級品のコレクションなのだ。まさに感嘆(かんたん)である。また、陶磁器のコレクションも凄い。ただ並べるだけでなく、それらを壁にはめ込んだりして陶磁器の間などを造ったりしている。こだわりも一級であるが、そのセンスにハズレが無い。芸術を奨励してきたハプスブルグ家の真髄かもしれない。マリー・アントワネット(Marie-Antoinette)の縁談と母の不安マリア・アントーニアは4女マリア・クリスティーナの次にマリア・テレジアに可愛がられた子供だと言う。マリア・アントーニア(後のマリー・アントワネット)の誕生(1755年11月2日) は他の子供達に比べて難産だったと言うから余計に?実はマリア・テレジアは子供達を公平に扱ったわけではなかった。やはり性格もあるのか? 好き嫌い? 期待のかけ方も違ったらしい。※ ほとんどの子供が政略結婚で嫁いで行く中で4女マリア・クリスティーナには恋愛結婚を認めた。マリア・テレジアは「備えあれば憂い無し」? 政略結婚に利用できる子供をとにかく沢山造った中で例外もあったと言う事だ。自身もそうであったが・・。前述したプロイセンに対向するべく、マリア・テレジアはフランスのブルボン王家との政略結婚を画策していた。これは取り急ぎの案件であった。相手はルイ15世の孫。ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)。いや、実は当初女帝はルイ15世と孫の二人に同時に自分の娘を嫁がせる計画をたてていたと言うから驚く。女帝は返事を待っていたが、なかなか決まらなかった中でルイ・オーギュストとの結婚が繰り上がり式にマリア・アントーニアに決まった。(1769年、正式に結婚契約書が結ばれた。)女帝はホットとしたのも塚の間今度は幼い娘がフランスでちゃんとやっていけるのか心配になったのだ。まだ幼い娘に対する母の心配。女帝はマリア・アントーニアの性格を的確に見抜いていた。しかも突然のように決まった結婚で準備もままならなかったし、宮廷の風習も違い過ぎる事を知っていたからだ。女帝は毎晩のようにマリア・アントーニアを自分のベッドに呼んで自ら立ち居振る舞いについて語り聞かせたと言う。特に心配したのは彼女の好奇心の旺盛さ。そして強情な意志。軽はずみで不熱心で、何でも思い通りにしようとして聞かず人の戒めを聞かず、うまくすり抜けてしまう所がある事を承知していた?本来であれば元の国籍を忘れ、完全にフランスの妃に成らなければならないが、女帝は娘に「良きドイツ婦人のままでいなさい。」と諭したらしい。そして恥ずかしがらずにいろんな人に助言を求めるよう言い聞かせたらしい。女帝はこれから彼女がするであろう失敗を予見してできうる限りの注意を娘に与えていたのである。結局女帝の危惧した事が現実に起きる事になるが・・。下の写真もウィキペディアから借りてきました1769年、実年齢13~14歳のマリー・アントワネットの肖像画である。かなり老けて見えるが・・。画家のジョゼフ・デュクルー(Joseph Ducreux),(1735年~1802年)はフランス王太子の婚約者マリア・アントーニアの肖像画を描くためにウィーンに派遣され、完成後に王太子に送られた。マリア・アントーニアの方も王太子の肖像画をもらっている。政略結婚であるが、せめて結婚前にどんな相手かを知るのは気分を高める為にも必要な慣習だったようだ。結婚までの宮中式典結婚契約書がフランスと結ばれたのは1769年の事。1770年4月15日、復活祭の朝、結婚の使者が到着する。 とは言え、あたかもフランスからやってきたと言う体で特別大使に任命された大使が儀礼的に郊外に出てから王宮前に48台の四輪馬車で来訪。 半分以上がウイーン市民に向けたパフォーマンスととれない事もないが、さすがフランスと言わしめる壮大なパレードでウイーンの姫をもらいに来たのである。※ 大使が大金で用意した馬車や馬は後にすぐ売り払われているが・・。 48台の馬車はそれぞれ6頭だての馬車である。このうち2台の特別馬車はルイ15世から未来の孫の為に用意したベルリン式の旅行馬車である。4月16日、特別大使からオーストリアに公式の求婚式が行なわれる。4月17日、マリア・アントーニアはオーストリア・皇位継承権の放棄を宣言。署名。 その夜は兄の招待で来賓1500人の大晩餐会があり、その後に舞踏会が催された。4月18日、この日はフランス側の特別大使がオーストリア宮廷の王侯をもてなす晩餐会がおこなわれた。4月19日、午後6時アウグスティーナ教会でローマ教皇の特派使節により代理結婚式が催される。 王太子の代役をしたのはすぐ上の兄フェルディナントだ。本人はいないがセレモニーは本物の結婚式と同じように行われている。 互いに交換する指輪もある。挙式証明書が作成され、法的に確認され認証されると祝砲がなり式の終了である。後は晩餐会である。 マリア・テレジアが最初の酒を一口飲み干すと祝砲が鳴らされたと言う。そして9人の王侯が金の食器で食事するのを150人の招待客が見守ったらしい。2日後、マリア・アントーニアはオーストリアから旅立つ。マリア・テレジアはルイ15世に3通の手紙をしたためる。それには前述したように、可愛い娘が今後するかもしれない軽率な行いを寛大な心で受け止めて欲しい言う母の切なる願いである。 母と娘の最後の晩について語られてはいないが、危なっかしいが、最も愛しい娘を二度と戻る事のできない遠くの大国に旅立だたせる事への悲しさと隠しきれない不安。二人は泣いて夜を明かしたに違いない。1770年4月21日、376頭の馬に馬車57台を連ねマリア・アントーニアは王宮を出発する。 ウイーンを出てほどなくシェーンブルン宮殿にさしかかる。楽しい思出の詰まった宮殿にお別れを告げる。マリア・アントーニアの部屋は右翼の端側5年前(1765年8月)に父フランツ1世と最後のお別れをしたのもこの宮殿前。長兄の結婚式の為にインスブルグに向かう時マリア・アントーニアを抱きしめて父は出かけた。が、フランツ1世は旅先で突然客死した。普通の者と違い、衣食住には恵まれても皇女して生まれた以上自由意志は無い。両親の愛もほとんど受けないで嫁いで行くのが一般だ。そんな中でマリア・アントーニアは両親から愛されたのは確かだ。もし、国が強くありさえいれば、母はフランスとの縁組みを決める事もなかったろう。きっと長く側に置いて好きな人との結婚を許されたかもしれない。マリア・アントーニアの運命は皮肉の連続だ。ハプスブルグ家を追い詰めた情勢とこれこから嫁ぐブルボン王家に迫る波乱の運命。不安ではあろうが、幸せになれると信じて嫁ぐ幼い女の子にもちゃんと覚悟はあったはずだ。嫁げば2度と戻る事はできない事を知っていたのだから。帝国内の馬車旅(4月22日~5月6日)マリア・アントーニアの旅行用馬車はルイ15世からのプレゼント。どんな馬車かは定かでないが、天蓋に金の花束があしらわれていたらしい事は書かれていた。フランスは革命期にほとんどの物が破壊されているのでハプスブルグ家のようにフランス王室はコレクションが残っていない。下はイメージとして、ヴィッテルスバッハ家のルートヴィヒ2世(Ludwig II)の馬車コレクションから近そうなのをセレクトしました。この馬車は8頭建てですが、確かルートヴィヒ2世の結婚の為に仕立てられた馬車だったかと・・。実際結婚はキャンセルしたので使用しなかったが・・。マリア・アントーニアの旅行用馬車は2台あり、一つは赤いビロードが敷かれ、もう一つは青いビロードが敷かれていて、出発の時、屋根には花束? 花が載せられていた? 飾られていた? と言う。長旅になるので、もう少し快適度と丈夫さがあったかもしれないが・・。馬車の馬は一日に4~5回変更する。宿駅毎に376頭の馬を用意為なければならない。ウイーンからストラスブールまでの街道に2万頭以上の馬が必要だったと言う。まだ馬車が王侯貴族だけの持ち物だった時代、馬を集めるのもかなりの苦労であったろう。メルク・・メルク修道院4月22日、最初の投宿はヴァッハウ渓谷 (Wachau) にあるベネディクト会のメルク修道院(Stift Melk)。 ここで兄のヨーゼフ2世に迎えられて夜は生徒によるオペラが上演された。非情に歴史ある修道院です。もともと要塞がルーツな上に修道院であるが、以前メルクに行った時に修道院に似つかわしくない素敵なパビリオンと庭を見つけた。もしかしたらマリア・アントーニアの為に改装したものかも・・。メルク修道院の敷地内パビリオンマリア・テレジアのお気に入りの絵師が描いた壁絵。リンク メルク修道院(Stift Melk)のバロック庭園とパビリオン※ メルク修道院はヴッハウ渓谷1~9の番外として扱っています。メルク修道院1~4。リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 1 (メルク)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 2 (メルク修道院)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 3 (メルクの十字架)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 4 (メルク修道院教会)4月23日、ランバッハに投宿。4月24日、アルトハイム投宿。4月25日、アルトエッティング投宿。ミュンヘン・・ニンフェンブルグ宮殿4月26日~27日、ミュンヘンのニンフェンブルグ宮殿投宿。 後のバイエルン国王に歓待される。ここでは作法無しにのんびりすごしたようだ。下はミュンヘンのニンフェンブルグ宮殿ここはヴィッテルスバッハ家の宮殿。ミュンヘンはヴィッテルスバッハ家の城下町。ルードビッヒ2世(Ludwig II)が生まれた宮殿であり、彼のコレクションが置かれている。上に紹介した馬車はここからの出典。リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 1 (宮殿と庭)※ 広大な敷地に狩猟館もある。ニンフェンブルク宮殿1~5アウグスブルク・・シェッツラー宮殿4月28日、アウグスブルク、シェッツラー宮殿 (Schaezlerpalais )投宿アウグスブルクの富豪で銀行家だったベネデイクト・アダム・リーベルト男爵(Benedikt Adam Freiherr von Liebert)(1731年~1810年)の屋敷がシェッツラー宮 (Schaezlerpalais )です。投宿する事になったマリア・アントーニアの為に急遽改築。豪華なホールも建設している。クラウディア・アウグスタ街道沿いには商館が連なっている。外観はともかく縦に長く建物は続いている。アウグスブルクは田舎ではあるが商売で成功してリッチな街だったのだ。建物前のヘラクレスの噴水は1600年頃の物なのでマリア・アントーニアも見ている。下のホールでは見事なダンスをひろうしているそうだ。この建物は奥に長いし部屋数もかなりある。リンク アウグスブルク 7 (シェッツラー宮殿 ・Schaezlerpalais)※ アウグスブルク1~94月29日~30日、ギュンスブルク ギュンスブルクではどこに投宿したか記載はなかったが、伯母にあたるが同年のアンヌ・シャルロット・ド・ロレーヌ(1755年~1786年)と2日過ごしている。フランス貴族であるがハプスブルグと縁戚のある彼女はこれにより王太子夫妻の成婚記念の舞踏会で特別待遇の権利をもらいこれが後々事件に発展している。5月1日、リートリンゲン投宿。5月2日、ハプスブルク家の所領であるシュトッカッハ投宿。5月3日、ドナウ・エシンゲン投宿5月4日~5日、フライブルク・イム・ブライスガウ投宿 フライブルク・イム・ブライスガウ(Freiburg im Breisgau)は、黒い森と呼ばれるシュヴァルツヴァルト(Schwarzwald)山地の南の麓に位置する。ドナウ川の水源でもあるが、これがフランス、アルザス地方(アルザス=ロレーヌ)との国境となっている。かつては、フライブルク自体がフランスと度々取り合いになっている場所であった。※ フライブルクは1457年に大学が置かれ古来大学の街。シュヴァルツヴァルト(Schwarzwald)山地を抜ければまもなくフランスへの引き渡し場所。5月6日、シュヴァルツヴァルト(Schwarzwald)山地を抜けシュッテルンの修道院投宿。 ドイツ側での最後の夜。 ここではフランス側の特別大使がストラスブールからすでに出向いて迎え、引き渡しがスムーズに行くよう大使同士の打ち合わせ。引き渡し書類の文面に付いても国王と、両陛下が同等の立場で同意を得たとする内容のものでなければならない。大使には気になるカ所の訂正がほしかったし、誰の名前が最初に登場するかは大きな問題。また、各国典礼には作法があるが、受け渡しの場所にオーストリア側としては天蓋(てんがい)を用意してほしいなど、細かい事もある。結局妥協策として書類はフランス用とオーストリア用の2通の文面が造られる事になったそうだ。5月7日、引き渡し場所はライン川の中洲。特別に玄関が2つある式用の屋敷が建てられた。 昔ならここで全て脱ぎ捨て、全ての持ち物も置いて嫁ぐ慣習だった? 幸いマリア・アントーニアは別室で式服に着替えただけらしい。女官と侍女らと入室。 広間には真紅のビロードを掛けた大テーブルがありそれが国境。その向う側のドアがフランス。公式文書の読み上げが終わるとマリア・アントーニアからマリー・アントワネットとなる。皇太子妃マリー・アントワネット誕生(1770年5月7日)ここでオーストリア側の女官や侍女とお別れ。彼女らが部屋を出、ドイツ側の扉が閉まると同時にフランス側の扉が開く。ド・ノワイユ婦人と侍従のド・ソー・タヴァンヌ伯爵が登場。儀礼的抱擁の挨拶すると彼らはこれからマリー・アントワネットの世話をする侍女や補佐官ら6人を紹介する。年齢までは書いていないが、実はマリー・アントワネットの世話係り担当はルイ15世の今は亡き王妃の世話係りだった者だそうだ。妻である妃を顧みなかった王はその侍従らにまた新しい仕事を与えた。これはある意味トラブル回避である。が、祖母に当たる人の侍従である。皆、かなり高齢なのは間違いない。マリー・アントワネットは途方にくれたに違いない。※ ルイ15世は、実は妃を顧みなかったわけではない。確かに妃の妊娠続きから愛人制度を造ったが、むしろ妃(マリー・レクザンスカ)の方が王を避けていた。1727年から1738年の間に妃は2男8女を出産していて体はボロボロ。また妊娠させられては嫌だったからだ。その辺の事書いています。リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)中洲を出てシュヴァルツヴァルト(Schwarzwald)からストラスブールヘ向け馬車はまた走る。城壁からは祝砲がなり、全ての教会のカリヨンが鳴らされる。ストラスブールでは行政市長がドイツ語で挨拶しようとするのをマリー・アントワネットは遮(さえぎ)った。「ドイツ語で話さないでくださいませ。皆様、今日から私はフランス語しかわからないのですから。」つづく。※ 今回の資料は私が小学生の時にお小遣いで買ったアンドレ・カストロ(Andre Castelot)(1911年~2004年)の「マリー・アントワネット」から出典しています。今頃役に立つなんて・・。それにしても非常に詳しく書かれています。Back numberリンク マリー・アントワネットの居城 1 (ウイーン王宮) マリー・アントワネットの居城 2 シェーンブルン宮殿と旅の宿リンク マリー・アントワネットの居城 3 ヴェルサイユ宮殿の王太子妃リンク マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃関連 Back numberリンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)リンク ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)リンク 新新 マリーアントワネットのトイレとベルサイユ宮殿の事情リンク 新 ベルサイユ宮殿 8 (王のアパルトマン)リンク 新 ベルサイユ宮殿 7 (王妃のアパルトマン)リンク 新 ベルサイユ宮殿 6 (鏡のギャラリー)リンク 新 ベルサイユ宮殿 5 (戦争の間と平和の間)リンク 新 ベルサイユ宮殿 4 (ルイ14世と王室礼拝堂)リンク 新 ベルサイユ宮殿 3 (バロック芸術とは?)リンク 新 ベルサイユ宮殿 2 (入城)リンク 新 ベルサイユ宮殿 1
2020年09月24日
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Break Time (一休み)先週一泊で温泉旅行に出かけた。整形的にはゆっくり暖まると良いよ・・と言われたが少し前に帯状発疹にかかり「温泉ではあまり暖まるな。」と皮膚科で言われたので、せっかくの温泉も中途半端に・・さらに帰宅して思いっきり体調をくずし、コロナだったら迷惑だ・・。と一緒に出かけた弟に叱られマジ不安であった。幸いにも熱も出ず、咳も無い。おそらく単純に疲労と風邪? 一過性で終わり翌日にはケロッと治ったが、本当に今はちょっと体調を崩すとみんなを不安にさせて大いに迷惑をかける事になる。コロナのおかげで皆、何かしらの迷惑を被り、今年の全ての予定が狂ってしまった事だろう。本当に無かった事にしたい悲惨な年である。そんな事を思っていたら100均で、8月なのにすでに来年のカレンダーが発売されているのを見つけた。例年そんなに早く売られていたか? とりあえず私は来年のカレンダーを購入。来年に掛るしか今は希望が無いのよね。ところで、話しはガラっと変わるが、今年は国勢調査の年である。1920年から始まった国勢調査は、今年で21回目。末尾0年の大規模調査の年。しかも100年目の節目の年である。実は3月、ポストに調査員募集の広告が入れられていた。ちょっと興味があって申し込みしたものの、コロナが蔓延。今年は中止? と思っていたらやはり100年目の節目の年だからやるらしい。講習会があり、資料がダンボールで届けられた。日本の人口はおよそ1億2700万人。約5300万世帯が居住しているそうだ。前に日本の人口が世界の中でもかなり多い事を書いたが、今回の国勢調査で動く指導員や調査員だけで80万人にのぼるらしい。※ 2016年08月のデータなので数字は若干増えていると思いますがリンク先のせます。興味のある人は見てください。リンク 日本の人口と世界の人口あれこれ (写真 ハーグの街)因みに国勢調査は住民票に関係無く、そこに3ヶ月以上居住している全ての人(外国人も含む)が対象である。玄関やポストに表札を出さなくなっている人が増えた昨今、空き室かの判別も難しい。思っていた以上に調査員は大変な仕事だったと言う事に気付き、慌てています。さて、今回はBreak Time(一休み)で植物の写真を紹介。実は前からどこかで紹介したかった植物の珍しい種(タネ)です。マダガスカルジャスミンの種(タネ)ハワイで散歩中に見つけたアケビのような実はマダガスカルジャスミンの実。その実の種子は種の揺り籠(ゆりかご)のようなポッドに収まっていました。繁殖の為に、種子を遠くに運ぼうとする形態は、以前紹介したウェルウィッチア(Welwitschia mirabilis)とは全く違うけど、風を利用して遠くに遠くに運ばれようとする機能は一緒。リンク 新 世界で最も醜い植物 第4位 (ウェルウィッチア)実の大きさは長径10cm程度。ほぼアケビと同じくらいのサイズ。種子はタンポポの種子のようにふわふわです。種子自体の大きさは8mm程度。羽根毛の長さも含めると4~4.5cmくらい。実の器のサイズから考えると中に詰められた種は驚くほど大きく広がる。ちょっと羽子板のハネに似ている。英語の説明ではパラシュートと書いてあったので、風に乗って遠くに着床する意味でのパラシュートなのだろう。飛び出た種子が近くの葉っぱにひっかかっています。乾燥するとポッドが開き、さらに乾燥すると羽根毛が乾いてパラシュートのように開くのだろう。雨でこれが落ちて着床?羽根毛はうまくたたまれてポッドの中に収納されているようです。おそらく種の部分が外皮側で中の芯に羽根毛が付いてるのだろう。毒があると言うので実まで採取してこなかったのが残念。こんな実からこんな種子が飛び出るなんてちょっと想定外ですね。遺伝子はどこからこの形に進化したのでしょうね。学名 ステファノティス・フロリブンダ(Stephanotis floribunda)俗に? マダガスカルジャスミン(Madagascar jasmine)ジャスミンの名が付いているがこちらはマダガスカル原産のGentianales(ゲンティアナレス) リンドウ目であり、ジャスミンはLamiales(ラミアレス) Oleaceaeシソ目に入るので厳密にはジャスミンではない。芳香や花の形がにている事から付いた名前かもしれない。APG IVシステムによる分子ベース,の植物分類 本家のジャスミンと比較しました。以上、表にまとめてみたが、マダガスカル・ジャスミンは本家ジャスミンとは、目(Order)から系統が分離。Gentianales(ゲンティアナレス) 和名? リンドウ目※ ゲンティアナレスのメンバーには、コーヒーやプルメリアがある。Apocynaceae(アポシナ科) 和名? キョウチクトウ科※ ヨーロッパ、アジア、アフリカ、オーストラリア、アメリカの熱帯や亜熱帯に自生するこれらは多くは乳白色のラテックスを持っており、多くの種は摂取すると有毒。Apocynaceae(アポシナ科)の名はギリシャ語から由来。犬を遠ざける? 「犬の毒」の意らしい。つまりアポシナ科の植物の多くに毒性がある。マダガスカルジャスミンも美しい花と爽やかな芳香で惑わされるが、葉、花、実、根にはアルカロイド(alkaloid)系の毒が含まれている。因みにジャスミンはLamiales(ラミアレス)シソ目、Oleaceaeオレア科ですが、Oleaceae(オレア科)は多くの場合、花は芳香が強い。分布は亜寒帯からアフリカ、オーストラリア、南米の最南端に至るまで結構コスモポリタンに分布しているらしい。※ Lamiales(ラミアレス)シソ目は従来の形態などに基づく分類からAPG植物分類体系による系統分類に再編が行われ、結構移動が出ている項目です。※ Oleaceae のメンバーには、ジャスミンの他、ライラック、オリーブがある。ちょっとペリカンマンゴにも似ていてる若い実。常緑のつる性低木で、花は春から夏にかけて長期間開花。※ 写真はハワイで撮影。あちらでは年中開化しているが、日本での開花は4月~9月。純白の筒状の花芽。蕾の長さ4~5cmジャスミンに似た芳香。結婚式のブーケにも使われる。ハワイ名 プアメール(Puamale)一見、雄しべや雌しべが見え無いが、花筒の奥に雄しべが5本、雌しべが1本あるらしい。それにしてもこんなかわいらしい花からこんな実がつくなんてね。おわり
2020年09月06日
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