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気になっていた過去ログですが、見てくださる方がかなりいるので合間に過去ログの写真入れ替えも勧めています。同時に書き直すパターンとなり、ヴェルサイユの書き換えも進まない理由です。日時だけは過去の日付のままにしているので、今後過去ログの編集をした時は頭に「新」をつけさせてもらいます。今回は 「デンマーク王室の王冠」→「エレファント勲章 とデンマーク王室の王冠 」タイトルさえも書き換えました。リンク エレファント勲章 とデンマーク王室の王冠ベルサイユも書き換えた所も解るように「新」を付け加えます。リアルタイムの物はそのままです。リンク ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)マリーアントワネットのトイレも写真共に編集し直しました。リンク (新)マリーアントワネットのトイレとベルサイユ宮殿の事情現在 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)」まで編集済みリンク ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)リンク ベルサイユ宮殿 8 (王のアパルトマン)リンク ベルサイユ宮殿 7 (王妃のアパルトマン)リンク ベルサイユ宮殿 6 (鏡のギャラリー)リンク ベルサイユ宮殿 5 (戦争の間と平和の間)リンク ベルサイユ宮殿 4 (ルイ14世と王室礼拝堂)リンク ベルサイユ宮殿 3 (バロック芸術とは?)大きく変えてませんが写真いれ替えました。リンク ベルサイユ宮殿 2 (入城)リンク ベルサイユ宮殿 1ベルサイユ書き換えはあと2回程度で終わらせる予定ですが、「マリー・アントワネットの居城 3」があるのでそれを年内におわらせます。「アジアと欧州を結ぶ交易路 10」は正月明けになりそうな予感 m(_ _;)m書き換えはともかく、写真選びが難航するのです。多すぎるから・・。エレファント勲章 (Elefantordenen)デンマークで最も位の高い騎士の勲章で、現在は各国王族にも贈られている称号です。以前紹介した金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)と同じ系です。リンク エレファント勲章 とデンマーク王室の王冠リンク 金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)
2020年11月25日
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天球儀の写真を見つけたので追加しました。「ロココ様式を生んだポンパドゥール夫人とサロン文化」で書いてるはずでしたが、啓蒙思想と地動説の方に流れてしまいました。ポンパドゥール夫人から生まれたロココ様式の話しは彼女の経歴と共に「ベルサイユ宮殿 9」に持って行きます。 m(_ _)m17世紀の欧州での啓蒙思想の発展はサロン無くして無かったであろう。また女性を中心に花開いた極めて女性的な文芸文化。特にブーシェ等絵画に見られる恋人達をテーマにした官能を刺激する作品はサロンの中で生まれた。女性がホストになる事が多かったサロンにおいて、乙女の心を揺さぶる甘いテーマは宮廷の女性達の好物だ。彼女らの知性と教養はこれらサロンの中で磨かれ昇華され一つの文化を造りあげた。ロココ様式もその一つ。ポンパドゥール夫人を中心にしたサロンから始まったと定義されている。 以前「ベルサイユ宮殿 7 (王妃のアパルトマン)」で一度紹介しているが、再度・・。。フランス・アカデミーは「ロココ(Rococo)」と言うジャンルはルイ15世の公妾(こうしょう)であったポンパドゥール夫人(Madame de Pompadour) (1721年~1764年)を中心とした前後の60年間の期間に限っている。その定理にのっとってポンパドゥール夫人からロココ文化の紹介予定でしたが、ロココ様式を生むに至った「サロン」文化の話しを先にしないといけなくなりました欧州のハイソサエティー(high society)の中で始まった「サロン」は、特にフランスで盛り上がりを見せた。ポンパドゥール夫人もまたサロンを多く開いた人だ。彼女はルイ15世に見初められる前からパリですでにサロンを主催しヴォルテールとも顔見知りであったし、彼女の宮廷での洗煉された立ち居振る舞いや会話は全てサロン経験の成果なのである。だが、サロンが影響を与えたのは文化芸術だけではない。最初は単なるおしゃべりで始まったサロンの話題はだんだんに政治や思想にまで及ぶ。欧州に啓蒙(けいもう)思想が芽生え、皆の意識が変わる中で未だ、絶対王政を続けるフランス。足下のパリで臣下の彼らは平気で啓蒙思想を語り出した。サロンはフランスにおいて、いろんな、文化に影響を及ぼしたのである。むろん革命にも・・。写真はフォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)とレジデンツ(Residenz)博物館、それに観測器具はブリュッセルのサンカントネール美術館(musée du Cinquantenaire)から持ってきました。フォンテーヌブロー宮殿の建設はルイ13世(Louis XIII)(1601年~1643年)の時代。ちょうど今回紹介するランブイエ侯爵夫人の時代にはまるのです。イタリアからマニエリスムの職人を呼び寄せて建設されたフォンテーヌブロー宮殿の旧部屋のスタイルはランブイエ侯爵夫人が故郷イタリアをイメージした物に近かったはずだと推察しました。※ 実際、ルイ13世の母マリー・ド・メディシスはランブイエ侯爵夫人の家を参考にしているようです。もう一つ、ミラノのレジデンツの方は元はバイエルン王家ヴィッテルスバッハ家の宮殿です。建設は1385年と古いのですが、良い感じの調度品があったので使用しました。ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)ランブイエ侯爵夫人から始まったフランスのサロンアカデミー・フランセーズ(l'Académie française)アンリファインド(unrefined)なフランスロココの予兆? 摂政(Regent)時代のレジェンス様式(Régence)ジル・マリー・オップノール(Gilles-Marie Oppenordt)サロンのホストと来客ルイ15世の時代に全盛を迎えたサロン地動説問題啓蒙思想(けいもうしそう)(Enlightenment)ランブイエ侯爵夫人から始まったフランスのサロン17世紀のフランスにおいて、特筆しなければならないのがサロン(salon)文化の発達である。俗にサロン(salon)とは、主催者となるホスト(host)が場所を提供し、親しい者を集めてお茶をしながら会話を楽しむ・・と言った会から発しているが、最初にサロン文化をフランスに持ち込んだのはランブイエ(Rambouillet)公爵夫人であったとされている。※ ランブイエ(Rambouillet)公爵夫人ことカトリーヌ・ド・ヴィヴォンヌ(Catherine de Vivonne)(1588年~1665年)時はブルボン朝初代のフランス国王アンリ4世治世からルイ13世の治世。17世紀中葉。※ アンリ4世(Henri IV)(1553年~1610年) (在位:1589年~1610年)※ ルイ13世(Louis XIII)(1601年~1643年)(在位:1610年~1643年)彼女は母をイタリアの名門の家系に持ち、父は、ローマ駐在のフランス大使と言う家柄。メディチ家とも血縁のある彼女は母の教育でイタリア語とフランス語の取得の他、学門芸術を広く修めた才女。貴族と言えど文字も書けない女性が多かった時代に自分用の図書室を持ち。読書が好きだったらしい。しかし、大輪の花のように美しかったと言う彼女の弱点は日に当たるのが苦手。日光過敏で気絶する程であり、暖炉の火も苦手だったとか・・。そんな体のせいか? 宮廷での仕事もすぐに引退し、家に人を招く事が楽しみだったらしい。彼女は慈善活動にも喜びを持っていたようだし、人の世話をやく事も楽しみだった?。彼女のサロンは亡き父から相続した屋敷がパレ・ロワイヤル近くにあり、故郷イタリアの建物をイメージして増築。そのデザインを夫人自身が描いて見せたし、内装や調度も吟味して選んだ。それは美術館のように美しく整えられた屋敷であったようだ。ところで、サロンの語源はイタリア由来らしいが、当初フランスではリュエル(ruelle)と呼ばれていたらしい。それは最初に始めたランブイエ公爵夫人が病身で、その寝室からだったと言う事に由来にするらしい。※ リュエルは寝所の柵の中、ベッドの横に位置するスペース。つまり世話係やごく親しい者だけが入る事が許されたスペース。「ベルサイユ宮殿 8 (王のアパルトマン)」でも紹介しています。リンク ベルサイユ宮殿 8 (王のアパルトマン)フォンテーヌブロー宮殿左右のベッド回りに椅子がある所がリュエル(ruelle)ランブイエ侯爵夫人は暖炉の火も苦手で暖房がほとんど使用できない状態。寒さ故に冬はベッドから出られ無かったとも・・。来客は別の部屋で暖を取れたらしいが・・。。※ 資料は「17世紀フランスのサロン」より病身と言うよりは、体質の問題であったが、にも関わらずランブイエ侯爵夫人のサロンはリシュリュー枢機卿、バキンガム公爵、コンラールなど一流の詩人、貴族らが集う。また、常連メンバーには、フランスに発足したばかりのアカデミー・フランセーズ(l'Académie française)の会員ほぼ全員が名を連ねていたと言う。彼女のサロンは20年以上続いた。それは母ゆずりに社交的な長女のジュリー・ダンジェンヌが母をサポートしたからでもあった。アカデミー・フランセーズ(l'Académie française)ルイ13世治世下、1635年に設立されたフランスの国立学術団体。アカデミー・フランセーズ自体が作家で、王室秘書のヴァランタン・コンラール(Valentin Conrart)(1603年~1675年)の家でおこなわれた文芸同好会のサロンから始まっている。宰相リシュリューに認められ、正式にアカデミーは設立。初の会合もヴァランタン・コンラールの家で行われている。当初の目的はフランス語の編纂。またそれ以外にも美術界、学術界、文芸界、等、学問芸術振興の役割が与えられ、各賞や留学などの奨学金も提供する。定員を40人としてメンバーはあらゆる分野のエキスパートから構成されてきたらしい。フォンテーヌブロー宮殿以前の宮殿ではこんなサロンは無かった?フォンテーヌブロー宮殿は集会のサロンが多い。必ずに近いほど各部屋はタペストリーがかけられている。以前ブリュッセルの所でタペストリーについては紹介しているが、タペストリーの本来は芸術牲ではなく、暖房と言う実用牲から始まっている。ガラス窓ができる前は隙間風をしのぐカーテンの役割もしたし、石の壁や床に置く事で部屋はかなり暖くなったはずだ。だが、フランドルのタペストリーは良質な羊毛とずば抜けた技術で芸術牲をも高めた一品に成長。欧州各国の王侯貴族が求めた実用牲のある芸術品なのである。フランドル産は、絵画に相当しうる繊細さと美しさを持っているので絵画の役割も持って部屋に飾られたと言うわけだ。このタペストリーが、所謂パロックの時代になるとルーベンスの絵画のように、大型の油絵に取って代わられて行く。この宮殿の建設当時、ランブイエ侯爵夫人がサロンを開いた時点では、まだゴブラン織りはフランスには無かった。フランドルの綴れ織り技術は、1667年、ルイ14世の時代に宰相コルベールにより国策としてゴブラン織りとしてフランスから売り出されるようになる。全くもってレベルの違うものであったが・・。リンク サンカントネール美術館 2 (フランドルのタペストリー 他)椅子もルイ13世時代からレジェンス様式のもの。アンリファインド(unrefined)なフランス「洗練(せんれん)された」の対義語としてアンリファインド(unrefined)(洗練されていない)にしましたが・・。実はアン4世の治世、またルイ13世の時代に至っても、フランスの宮廷は洗練とは程遠い品の無い状況(野蛮)。アンリ4世自身、野暮な田舎のお兄さん的振る舞いであったそうだ。当然、王や回りの重鎮にいたっても非常に粗野な振舞いで紳士には程遠い存在。アンリ4世妃のマリード・メディシスは輿入れの時にフランスにナイフとォークをもたらしている。それまでフランスでは宮中と言えど手づかみで食べていたのだ。だから夫人のもたらしたイタリアの文化のみならず洗練された貴族の振る舞いに、皆仰天したであろうし、憧れもあったであろう。当時イタリアは文化の最先端を担っていたからなおさらだ。実際、夫人は自分の周りだけでも品格(レベル)を上げたかったのかもしれない。因みに、マリード・メディシスも下品な宮廷劇の品格を上げる為に抵抗と努力をしたらしい。ルイ15世治世下のサロンでは、女性を愛(め)で愛(あい)をささやき、女性の気をひく紳士な行為は当たり前であったが、少し前にランブイエ侯爵夫人がサロンを開いた当時、女性は男性にとって性の対象以外の何物でも無い。欲望むき出しの知性も教養も持ち合わせていない宮廷人ばかりだったと見える。※ ランブイエ侯爵夫人は縁戚のマリー・ド・メディシスがフランスに輿入れする時の世話係に任命されている。結婚当初マリー・ド・メディシス・はフランス語が喋れなかった。二人は野蛮? に近く、今考えれば最もサロンに縁遠い人達ばかりのフランス宮廷に少なからず革新をもたらしたと言える。ランブイエ侯爵夫人のサロンはイタリアの文化を感じられる場であり、他にない知性的なサロンで得る物が多かった社交の場であったのは間違いない。フォンテーヌブロー宮殿壁にはフランドル産のタペストリー。当時はまだ絵画と言えば肖像画か宗教画くらい?ドラマチックな神話や寓意画のテーマは後に油絵に取って代わる。確かにこのタペストリーを油絵で描いたら。ルーベンスの作品に近づくかもしれない。ルーベンス作品のテーマはこんなタペストリー画からから継承されていた? かもしれない。織るより、油絵で描いた方が断然早いし安くすむはず。それだけフランドルのタペストリーは別格の高級品であったが、この作品がフランドル産か? フランス産か? は、接写していないのでちょっとわからない。上の写真の椅子はルイ15世様式、つまりロココ様式に入る。センター・テーブルはおそらく新古典様式。様式はチャンポンでも構わない。フランスでは古い物への敬意が強い。ボロボロでも代々受け継がれた家の歴史となる遺物を棄てる事はまず無い。古い物がある事はその家の歴史を実証する事で自慢なのである。椅子は傷が付いて当たり前、だから新しい椅子をオーダーした時、鎖(くさり)をぶつけてわざと痛めて年期を加えたりするのである。(モダンな椅子にはしないけどね。)レジェンス様式(Régence)の椅子見た目かなりルイ15世様式に近づいているが、足下のX字型の支持棒(ストレッチャー)が特徴。支持棒はバロックからの名残りらしいが、バロックよりも椅子は小ぶりに軽快になっている。逆に支持棒が無くなったルイ15世様式はこれよりも強度がしっかりしてきているのかもしれない。過渡期のせいかレジェンス様式の資料が少ない。これはフランスで買って来た専門書「Le Mobilier Francais (フランスの家具)Les Sieges(椅子)」から持ってきているので間違い無い。ロココの予兆? 摂政(Regent)時代のレジェンス様式(Régence)ルイ15世の摂政となったオルレアン公フィリップ2世は王宮をベルサイユからパリに移した。実は彼はパリで当世流行のサロンを開きたかったからと思われる。実際パレ・ロワイヤルで開いている。※ フィリップ2世が摂政(せっしょう)だったのは1715年から1723年まで。酒と美女が大好きで享楽的な人間だったらしいが、優雅で気楽な事を好んだ。恐らくパリでサロンが盛り上がりを見せるのはこの頃からなのだろう。彼は絵画の膨大なコレクションを有していた事から彼のサロンは絵画自慢の会だったかもしれないが、コレクションを飾る為の部屋や調度にもこだわった。オルレアン公フィリップ2世のセンスはロココの前章と言える物であったのだろう。彼の摂政(Regent)時代をレジェンス様式(Régence)として区別しているが、それは官能的なロカイユのボーダーとシェルの装飾を生み出したジル・マリー・オップノールの存在が大きいかもしれない。ジル・マリー・オップノール(Gilles-Marie Oppenordt)(1672年~1742年)曲面を多用し、幻想的な効果を上げたイタリアのバロック建築家フランチェスコ・ボッロミーニ(Francesco Borromini)(1599年~1667年)になぞらえ、フランスのボッロミーニと呼ばれたロココ様式の創始者の1人。もともとマンサールの弟子であったが、ローマに留学し、主にバロック彫刻の装飾品に特化してベルニーニやボロミーニ、他マニエリスムの作品に学んだらしい。帰国してパリのサンジェルマンデプレとサンシュルピス教会の祭壇で評価を得たらしいがアカデミーには入っていないようで知名度が低いのか?官能的なロカイユのボーダーとシェルの装飾をグロテスクから得ているらしい。グロテスク模様はロココの壁面装飾に突然? 現れたのが不思議であった。洗煉されたグロテスク模様は彼の仕業なのか? グロテスクの紹介も必要ですね。※ ラファエロがいたのを忘れてました。フォンテーヌブロー宮殿宮殿の説明書が無いので定かでないが、この部屋のブルーの椅子はレジェンス様式(Régence)で間違いない。部屋はチャンポンです。バロック前章なのかも。ダイニングの椅子はルイ13世様式のようです。サロンのホストと来客17世紀、パリで流行したサロンでは、ほぼ女性が主人となっている。サロンは数名から数十人規模の物まであったようだが、いずれにせよ主催者となるホスト(host)は金持である事は間違いない。メンバー・リストはないし招待状も無い。当然会則や会費も無い。また、メンバーの身分は問われない。職業、社会階層に関係無く、そこに必要とされる者であり、メンバーの推挙があればそのサロンに参加できたのだ。つまり王侯貴族も平民も同じサロンで同等に語り合う事ができた場なのである。当然であるが、サロンの会話についていけなければ意味が無いし、粗野ではいけない。そこでは洗練された所作は必要とされたが・・。語られるテーマも今までのサロンとはかなり違い非常に高尚なテーマが展開されていたと思われる。ランブイエ侯爵夫人が目指したサロンでも、職業や身分の壁を取り払らい、皆が誰も対等の立場で自由な人間同士の会話を楽しむ会が心掛けられた。またそれには男女の比率も考慮される。若い女性が増えれば貴公子も増える。時の話題となる人、専門のスキルのある人、またあらゆるものに見識の高い人も欲しいし、見目(みめ)の良い洒落(しゃれ)た外見と気の利いたトークのできるパーソナリティー(personality)も必要不可欠。長く続いたランブイエ侯爵夫人のサロンは人材集めも完璧であったと言う事だ。サロンは集会と言う形をしたコミュニケーションの場である。しかもオシャレで新鮮だ。ランブイエ侯爵夫人のサロンが閉じる頃はこれを真似たサロンがあちこちで開かれるようになる。特に17世紀後半、多くの女性が自邸にサロンを開き、貴族、上級ブルジョア層、文人や学者たちがそこに出入りするようになると、同時にあらゆる分野で華やかな新たな文化が続々生み出された。パリのサロンは成長を続けたのである。サロンには家により特性があり、娯楽中心のサロンもあれば学問に中心が置かれる所もある。初期のランブイエ侯爵夫人の場合は、娯楽的要素が強く、当人としては、とにかく来客を楽しませる事に工夫を凝らしたらしい。が、先に紹介した王室秘書のヴァランタン・コンラールのサロンのように、同好の士の集いがアカデミー・フランセーズ(l'Académie française)のような学術団体や専門の機関に成長した会もあったろう。※モリエールの喜劇「滑稽な才女たち」Les Précieuses ridicules ではサロンでの気取った会話を痛烈に皮肉っている。大多数のサロンは通俗的であったのかもしれないが・・。レジデンツ(Residenz)博物館からやはり壁にはタペストリー。椅子はルイ15世様式なのでロココ様式に入るが、壁は博物館の予算の関係で? 手抜き? 新古典様式もどきとなっている。レジデンツ(Residenz)博物館から上の壺セットはレジデンツなのでヴィッテルスバッハ家のコレクションであるが、フランスでも中国からの陶器がかなり輸入される時代になっていた。自慢と話題には欠かせない一品です。白い肌の磁器は欧州人の憧れであった。ルイ15世の時代に全盛を迎えたサロンルイ15世治世下のサロンでは教養ある人々を招き、私的な集まりが多く開かれた。そこには文学者が自作を朗読したり、文学論、演劇論が交わされるなどより知的な会話で盛り上がる。これらサロンの流行が、言語、風俗の洗練に尽くした功績も大きい。著名なサロンで多くの詩人たちが自分の作品を読み、そこでの評判がその作品の成功・不成功を決することにもなる。サロンにおいて人を楽しませ、喜ばせる独自の文学もここで発達。サロンの常連が各自中世の伝説騎士の名をとり、古語で手紙を交換。あるいは古い詩形であるロンドー(rondeau)を復活させ、すべての詩人が競作することも流行した。女性作家がこの頃増えたのもサロンの功績。また女性がニュートンなど科学を話題にするようにもなったし、当然、政治や思想がが語られるようもなる。男性ばかりか、当時流行の啓蒙思想について論じられる事が増えたのは間違いない。科学の発達はもはや時代の話題には欠かせなかったはず。当時のパリのサロンは、社交の場で、人脈造りの場でもあったから、ここに多くの芸術家らが出入りし、サロンのホスト(host)は彼らのパトロン(patron)にもなり素晴らしい芸術を生む手助けをもしている。サロン自体は遊戯に近い集いではあったが、これらサロンの発達は、まだ女性の地位が低く見られていた時代にあって、女性が皆ジャーナリストになるような活気的な勉強会的要素を持ち、女性の社会進出の手助けにもなったのは確か。ルイ15世の公妾となったポンパドゥール夫人、ことジャンヌ・アントワネット・ポワソン(1721年~1764年)は. 公妾になる前からパリのサロンで磨かれて来た。※ 彼女にはそこそこ金持ちの夫がいたからだ。ルイ15世が後年彼女に政治を任せたのは、その能力をかっての事。彼女は王宮に入る前からサロンでヴォルテール(Voltaire)(1694年~~1778年)ら多くの学者らとの人脈も持っていた。彼女の政治手腕はなかなかのものであったと思う。※ ポンパドゥール夫人の経歴に関しては 旧 「ベルサイユ宮殿 9」にて全面近日書き換えします。フォンテーヌブロー宮殿から前にルイ14世の財務総監ジャン・バティスト・コルベール(Jean-Baptiste Colbert)(1619年~1683年)によってゴブラン織りは国策となったと紹介したが、鏡もしかり。ベネチアからの輸入たよる事なく国策で鏡造りが進められた。そればかりか、この時に王家の城を全て一括管理する体制もできている。かつては城毎に建築主任が1人いた。今紹介しているフォンテーヌブロー宮殿もルーブルも、ベルサイユも同じ管理下に置かれていたと言う事だ。コストが重視されたのだろう。コルベールはしっかり者だから。サンカントネール美術館から 観測器具地動説問題神が本当にいると思うか? またそれを信じるか? は別として、現代の私たちは地球が自転しながら太陽の周りを回る惑星だと言う事を知っている。雨、風、雷、地震、津波、火山の爆発。全ての天変地異は地球におかれた環境による自然現象だと言う事を知っている。今の世の中であれば大概の事象は科学的に説明し、証明もできるし、人々はそれをすんなり信じる教養を持ち合わせている。それはどこの国も学校教育が普及してきたからでもあるが・・。宇宙の中心は太陽。地球を惑星とした地動説はカトリックの司祭であったニコラウス・コペルニクス(Nicolaus Copernicus)(1473年~1543年)が亡くなる直前の1543年。著書「天体の回転について」で発表した。1600年、イタリア出身の哲学者で、ドミニコ会の修道士であったジョルダーノ・ブルーノ(Giordano Bruno)(1548年~1600年)は、地動説を主張して火刑にされた。地動説はその後ドイツの天文学者ヨハネス・ケプラー(Johannes Kepler)(1571年12~1630年)が太陽系の惑星の精密な観測結果を分析し遊星間の三法則(ケプラーの法則)を発見。1609年、「新天文学」で定理の第1と第2法則。1619年、「宇宙の調和」で第3法則を発表。この中心との距離が固定されて起こる運動は万有引力であり、後のサー・アイザック・ニュートン(Sir Isaac Newton)(1642年1727年)による万有引力の法則の発見につながる。1610年、望遠鏡を使用して月の観察を行っていたイタリアの科学者ガリレオ・ガリレイ( Galileo Galilei)(1564年~1642年)は「星界の報告」を出版。以降彼は、地動説を支持することになる。当然であるが、地動説は教会との大対立を生んだ。ガリレオは異端審問の宗教裁判にかけられて1633年有罪が確定し終身刑となって悲惨な最後を遂げる。因みに、ローマ教皇庁が誤りを認めてガリレオに謝罪したのは彼の死後350年もたった1992年の事。(時の教皇はヨハネ・パウロ2世)サンカントネール美術館から太陽系儀地球が動いている理論は、教会の考え方からはあり得ない、あってはいけない大問題であった。なぜなら、天も地も神が造った不動の存在であり、宇宙の中心は地球。天は地球を中心として動いているという天動説でできあがっていたからだ。天球儀アウグスブルク、シェッツラー宮殿 (Schaezlerpalais )から実はコペルニクスが現れる1800年前、ギリシャの哲学者により地動説はではすでに存在していた。古代ローマ帝国でキリスト教が公認され欧州がキリスト教化しだすと共に、それら理論は葬られた。つまり、欧州はキリスト教が普及し、彼らの勢力が拡大するとキリスト教色に完全に染められたのである。科学なんて神の領域にあってはいけないものだからだ。レジデンツ(Residenz)博物館からセーブル焼きかもしれない。取り上げたのはこのオブジェが天球儀と地球儀になっていたからだ。啓蒙思想(けいもうしそう)(Enlightenment)啓蒙思想が主流となるのは17世紀後半から18世紀にかけての時代。人間や社会、国家のあり方を根底から見直す動きが欧州に起きた。サロンは、こうした思想もテーマとなる。何より欧州の中でにわかに動き出した近代化へ各国の動きに彼らは敏感であったはず。その源になった問題があるのだが、どの解説も難しくてよく解らない。英語でEnlightenment「啓発」が当てられる。それは仏教やイスラム教では「悟(さと)り」とも訳される。そう、啓蒙思想は「悟り」と言う方が解りやすいかもしれない。では何を悟れと言う事なのか? 先に紹介した地動説しかり、この世は神の世界でできてはないと言う現実だ。故に教会の権威からの脱却、中世は道徳も行動も全てが神の元にあり、教会に管理されていた時代である。まずはその認識の改(あらため)である。また、社会生活の中で存在した身分制度などの封建的な考え方。民は王の僕(しもべ)であると言う人間性を否定する考えは間違いであるとする考え。「知性を得て、純粋に人として理性を高めよ」と言う事になる?世の中は科学も進歩し、航海技術も上がった。地球は半円ではなく、球体である事も解った。世界はつながっていた。今まで何がなんでも教会ありきであった諸々の古き因習。あたりまえだと信じていた世界がまさに否定されている時代である。それら取っ払って見たら? 残るのは?「我れ思う。故に、我れ在り。(われおもう。ゆえに、われあり。)」なのかな? デカルトの言葉が浮かんだ。※ ルネ・デカルト(René Descartes)(1596年~1650年)フランスの哲学者まさに近大化を迎える過渡期に起きた精神の転換点と言う事になる。さらに、混乱の世相の中でプロイセンではフリードリヒ2世(Friedrich II)(1712年~1786年)自らが「反マキャヴェリ論(Anti-Machiavel)」を出版し、「国家の発展を産業や貿易の振興、軍事力の強化などによって図る。」とした。また「君主こそが国家第一の僕(しもべ)」であるとする啓蒙専制主義を打ち出し新たな君主論を論じた。これは当然大反響を持って支持された。※ 実際は言っている事とやっている事は違ったようだが・・。ところが、フランスはどうだ?当時のフランスのブルボン朝ルイ15世の絶対王政とは相反する考え。俗に古い体制「アンシャンレジーム(Ancien régime)」と呼ばれるフランス絶対の王政下では、あろう事か未だ「王権神授説(おうけんしんじゅせつ)」を唱えていた。※ 王権神授説とは「神から与えられた王建により、王は国民に対して絶対的支配権を有する理論。」足下のパリのサロンでも、貴族らが啓蒙思想について論じていたはずだ。公に批判はできずとも、啓蒙思想の広がりは、フランス革命以前のブルボン朝、特に16~18世紀の絶対王政期のフランスの社会政治体制。ルイ14世、ルイ15世の時代の相次ぐ戦争による国家の財政困窮と言う事実。ブルボン王朝は反社会的王政と位置づけられたのである。故に、それら啓蒙主義者の登場はフランスにおいては絶対王政に対する市民革命にもつながってしまった。ルイ16世は高等法院の復活や三部会開催によりこれを打開しようと試みたが王制下の第一身分(聖職者)、第二身分(貴族)らの抵抗を受ける。第三身分が(市民や農民)。身分を買えたブルジョワ層による反発は拡大。彼ら法服貴族が中心となり絶対王政は崩れて行く。そして1789年の市民の反乱。フランス革命は起きたのである。「ベルサイユ宮殿 9」書き換えました。リアルタイムで載せました。以下は後にアドレス変わると思います。リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)back numberリンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)リンク 新新 マリーアントワネットのトイレとベルサイユ宮殿の事情リンク ベルサイユ宮殿 8 (王のアパルトマン)リンク ベルサイユ宮殿 7 (王妃のアパルトマン)リンク ベルサイユ宮殿 6 (鏡のギャラリー)リンク ベルサイユ宮殿 5 (戦争の間と平和の間)リンク ベルサイユ宮殿 4 (ルイ14世と王室礼拝堂)リンク ベルサイユ宮殿 3 (バロック芸術とは?)リンク ベルサイユ宮殿 2 (入城)リンク ベルサイユ宮殿 1 思い出マリー・アントワネットback numberリンク マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃リンク マリー・アントワネットの居城 3 ヴェルサイユ宮殿の王太子妃リンク マリー・アントワネットの居城 2 シェーンブルン宮殿と旅の宿リンク マリー・アントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)
2020年11月19日
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