わたしのこだわりブログ(仮)

わたしのこだわりブログ(仮)

2016年05月17日
XML

星 ルターの聖書の発行に関してのリンク先を中に追加しました。 免罪符に反対して教会に反旗し、ルターは宗教改革と言う革命を起こしたのです。
そして密かに隠れたヴイッテンベルク(Wittenberg)のヴァルトブルク城(Wartburg Castle)でルターは聖書のドイツ語への翻訳をしていた。友人のクラナッハが独占契約して市民が読めるドイツ語の聖書を大量発行したのです。



的に反する行為や法律に違反する行為。そんな社会的な罪はもちろんアウトであるが、 キリスト教では神に背く罪、神を信じない罪(不信仰)と言うのが存在する。

アダムとイヴは神の言いつけをやぶってエデンの園にある木の実を食べた。神はそれを怒り彼らをエデンから追放した。 神に反逆した行為が罪であり、人類の祖先である彼らはその時 神から追放以外にもいろいろ罰を受け取った 。(それら罰は子々孫々継がれて行ったのである。)
それがキリスト教で言う 原罪である

原罪から数千年。イエスはそんな「人」が生まれつき背負った罪を一人で被って神に贖罪(しょくざい)したとされキリスト(メシア)になった。
彼の贖罪を信じる者は原罪から開放される・・とされ、キリスト教が生まれたのだ。
※「キリスト」とはヘブライ語のメシア(救世主)の意。(原語ではキリストと読まないが・・)

原罪と贖罪。これがキリスト教の教義とされながらも論争は古代教会時代からずっと続いたそうだ。


アウグスブルク 6 フッゲライ 2 免罪符と フッガー家


フッガー家と免罪符
フッゲライ博物館
フッゲライに入居する資格
聖マルクス(St. Markus)教会


pict-フッゲライ 18.jpg

フッガー家と免罪符
とにかく キリスト教ではたとえ道徳的に素晴らしい人であっても、神を信じない者は全て罪人とされた
少なくとも、 中世の欧州はキリスト教色に塗り固められていた ので 人々は神を信じている事を証明したり認めてもらう行為をいろいろ行ったのである。

フッガー家の低所得者住宅「フッゲライ(Fuggerei)」の設立はその一つとも考えられる。
貧しき者に施しを与える。そして神にその行為を認めてもらいやがては天国の門をくぐりたい・・と言う願いである。
免罪符が大量発行されていた時代であるから、フッガー家の人々は正統な方法で天国に向かおうとした・ ・と言う意味においてはそれは 確かに立派な行いであったのは間違いない
が、しかし、その免罪符がなぜできたのか? と言う理由を考えた時、フッガー家の罪は大きい。

なぜなら、 免罪符の発行は借金で首のまわらなくなったマインツの大司教アルブレヒトが、フッガー家に借金を返す為に始めた事 だからだ。
しかもそれはフッガー家の入れ知恵で決まり、フッガー家は独占販売権を得たと言われている。
かくして フッガー家の代理人が免罪符を売る僧侶にくっついて集金し、そのお金をローマに運んだ のである。

※  免罪符(めんざいふ) ・・贖宥状(しょくゆうじょう)(ラテン語: indulgentia)
簡単に言えば罪 を許される御札。
罪のある者は死後(最後の審判の後に)天国に行く事はできない。もちろん善行と功徳を積む事。信心深くある事など天国へ行く条件は当然厳しい。しかし、教会に寄進する(免罪符を買う)事で罪をチャラにしましょう。と言う物。

当時販売の建前はサンピエトロ寺院の建築費用の捻出であった。
ローマ教会側もその献金を狙って大量発行したのであるが、 販売ではやはりドイツが断トツ多かった ようだ。
(ドイツの司教の借金が多かったと言う事かも・・。)
ルターはそれらに疑問を感じて宗教改革を断行したのである 。(理由はそれだけではないが・・。)

※ ルターの聖書の発行に関しては以下で書いています。
リンク ​ クラナッハ(Cranach)の裸婦 1 (事業家クラナッハ)

First Fugger privatbank

pict-フッガー銀行.jpg
マクシミリアン通りにあるフッガー家の銀行。今も続いていて個人銀行としては欧州で最も大きいらしい。

とにもかくにも 、フッガー家は王侯貴族のみならず司教や教皇らにもお金の貸し付けを行い、いろんな利権を得て急成長していったのである。

フッゲライ(Fuggerei)に戻って
pict-フッゲライ 20.jpg
中で見かけるのはお年寄りばかりである。時代なのかも・・。

ミッテレン・ガッセ13番にあるフッゲライ博物館
pict-フッゲライ 21.jpg
左のドア・・・1階の博物館の入り口
中のドア・・・2階14番の部屋は 作曲家モーツァルトの曾祖父フランツ・モーツァルト(Franz Mozart)一家が1681年から1694年(没)まで住んでいた部屋。

フッゲライの家には通し番号が付けられていて当初は52軒。
1973年に67軒に拡張。140のアパートがあり、現在の入居者は150人ほど。(パンフより)

1階の博物館はフッゲライができた当初の部屋がそのまま展示されている。

pict-フッゲライ 22.jpg
1521年にフッゲライはできているので16世紀の住居と言う事になる。
ここが低所得者の住居であるなら、他の市民はもっと豪華な所に住んでいたのか? と思いきや・・。

当時の都市人口は13000人~17000人。そのうちの無産階級は2000人ほどいたと言う。
商工業が発展すると都市のプロレタリア(労働者階級)も増加。しかし家が足り無かった。
収入のほとんどが家賃に消えて行く・・と言う状況の中でフッガーは低家賃住居の建設を思いついた
基金を創設して建築を勧めた。
だからフッゲライが単純に社会福祉施設と紹介されると語弊があるのだ。
ここは低賃金のブロレタリアのアパートと言うのが当初のコンセプト なのだから・・。

pict-フッゲライ 23.jpg

pict-フッゲライ 25.jpg

pict-フツゲライ 24.jpg

フッゲライに入居する資格
アウグスブルグの市民である事。
カトリック教徒である事。(当時はプロテスタントに改宗する者が増えていた。)
住人は貧しく、罪状は無い事。
賃貸料は年に1ライン・グルデン(現在は(約0.88ユーロ)支払う事。
フッガー創設者の為に日に3度冥福を祈る事。

聖マルクス(St. Markus)教会
pict-フッゲライ 26.jpg
聖マルクス(St. Markus)と言うと解りにくいが、聖マルコと言うと解るかもしれない。
ヴェネチアとの交易で成功していたフッガー家である。
教会はを立ち上げる時に御神体に選んだのはヴェネチアの守護聖人でもある、福音書記者の聖マルコであった。

像にはマルコの象徴の獅子がいる。
pict-フッゲライ 27.jpg
聖マルクス(St. Markus)教会は1582年に奉献されている。

それまでフッゲライには教会は無く、住人は近くの聖ヤコブ教会まで行って祈っていた。
ところがルターの宗教改革の影響で聖ヤコブ教会はプロテスタントに改宗。
フッガー家は1580年頃から急きょこの教会を建設したと思われる。

教会は1944年2月の空爆により完全に焼失。現在の建物は1950年にバロック式で再建される。

pict-フッゲライ 28.jpg
中の調度品は元の教会からの救済されたものや聖アンナ教会から来た物もあるようです。
(聖アンナ教会はフッガー家の教会だった。)
pict-フッゲライ 29.jpg

pict-フツゲライ 30.jpg

フッゲライ終わり
フッゲライback number
リンク ​ アウグスブルク 5 フッゲライ 1 中世の社会福祉施設

アウグスブルグは続く
リンク ​ アウグスブルク 7 (シェッツラー宮殿 ・Schaezlerpalais)







お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2022年06月14日 13時54分28秒
コメント(0) | コメントを書く
[建造物・教会・墓地・墓石・遺物] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: