まいかのあーだこーだ
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赤塚不二夫が死んだと知って、「ウワッ」と声を出しそうになった。なんというか、「やっぱり間に合わなかった・・」みたいな感じです。もっとも、いつまで生きてたって間に合うわけでもないんだけど、まだ、もう少しなら、先延ばしできると思ってた。いつか赤塚不二夫の世界の本質を理解したかったのに、その前に、本人に先に死なれてしまった。日本の社会に、あるいは世界に、赤塚不二夫の表現の核心を理解してる人はいるんだろうか?今の日本の文化は、ちゃんと赤塚作品を吸収して、呑み込めているんだろうか?生前の三島由紀夫は、熱心に赤塚マンガを読んでいたらしいけど、三島なら、なにかをつかめていたのかな。タモリなら、ちゃんと赤塚世界の核心を知ってるかな。◇もちろん赤塚不二夫の世界は、「昭和」であり「ナンセンス」であり「ギャグ」なんだけど、ただそれで括って終わりにするわけにもいかないと思う。たんに「昭和」の文化人として傑出していただけじゃないし、たんに「ナンセンス」において傑出していただけでもない。ただたんに「ギャグ」として傑出していただけでもない。もっと違う。なんだろう。とにかく理解を超えたものがある。表現が込み入ってるわけでもないし、複雑なわけでもない。解きほぐすのが困難な作品世界、というわけでもない。むしろ、いたってシンプル。いたって単純、明快。子供のように、産まれたまんま、なのかもしれない。だから、その本質は、きっとむき出しになってるはず。にもかかわらず、それがなんなのか全然わからない。ちんぷんかんぷん。通常のあたまじゃ、無理。◇赤塚マンガの世界は、そもそも「ナンセンス」なんだから、そもそも「意味」なんて無いんだから、理解ができないのも、当たり前のことかもしれない。理解しようとすることじたいが、間違いなのかもしれない。たしかに赤塚マンガには、まともな物語もないし、たいした意味もない。もし、かりに赤塚マンガを理解することがあるとすれば、それは「物語を読む」とか、「解釈する」とかじゃなく、たぶん、マンガの「構造」を理解する、ということになるんじゃないか。そういう予感は、少しあります。◇たとえば、赤塚マンガの話法。前のコマと次のコマの接続のしかたが、普通じゃない。「それで」とか、「ところで」とか、そういう常識的な接続の仕方じゃなくて、何といえばいいか、・・ひとコマひとコマが、そのつど、飛んでます。すべてのコマが、何ともいえず飛躍的に連結されて、そのまま、展開が、どんどんどんどん加速していく。それを追いながら、頭がグルグルした状態のまんま、必死で読んでいくんだけど、最終的に、物語があるのかというと、結局なんにもない。それが、赤塚マンガ。あれは一体なんなんだろう。あのコマからコマへの独特の飛び方。どんどん話が飛躍してるのに、登場人物たちは、みんな穏やかに笑ってる。なにか独特な接続の法則性があるのかもしれないけど、ぜんぜんわかりません。◇たとえば、バカボン家の人物構成。パパがいて、ママがいて、バカボンがいて、はじめちゃんがいる。たんに父と、母と、息子2人、というような家族類型ではなく、社会とか、あるいは人間存在とかの、なにか根源的な構造を、それぞれが体現してるように感じる。悪意と暴力性に満ちたパパ。良心を備えながらも、パパの資質を引き継いでいるバカボン。それに対して、知性と秩序を担う、ママとはじめちゃん。パパとバカボンに象徴される暴力性というのは、人間存在の隠された一面、あるいは、その本源的な力を体現してる、と思うんだけど、ママとはじめちゃんは、それを理性で統制しているのでもないし、抑圧しているのでもない。居間でふたり穏やかに微笑みながら、パパとバカボンの幼稚な暴力性を、ただたんに「野放し」にしているだけなんだけど、それだけで、何もしなくても、調和が保たれている。けっして懲悪的な世界観ってわけじゃないし、かといって、その逆の破壊的な世界観ってわけでもない。きっと、ママとはじめちゃんも、あれは「理性」というようなものじゃなく、何か、別のベクトルの力を体現してるんだろうと思う。いずれにしても、あの一家の調和は一体なんなんだろう。アナーキーだけど、なぜか調和してる。◇昨日、本人は死にましたけど、わたしはもちろんのこと、日本社会も、そして日本文化も、赤塚の世界に到達するのは、まだまだずっと先じゃないでしょうか。そんな気がします。
2008.08.03