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嵐の活動休止よりも驚いたことは、NHKの報道番組が、これをトップニュースとして伝えたことです。馬鹿か。NHKは、バカなのか。現在のNHKの報道は、いったいどうなっているのでしょう?報道というものを、ニュースバリューというものを、いったい何だと考えているのでしょう?◇べつに、嵐というグループに価値がないと言いたいのじゃありません。しかし、こんなことがトップニュースになるのなら、報道は、たんなる芸能プロダクションの宣伝媒体になってしまう。それどころか、政治の不都合な事実を「報道しない」ための隠れ蓑になりかねません。こんなことで、社会の真相を客観的に伝えられるはずがありません。◇すでにNHKは、安室奈美恵やいきものがかりの件なども大きく取り上げましたが、いきものがかりの場合には、活動が再開されているわけで、たとえグループ側の意図がどんなものだったにせよ、結果的には、NHKの報道が引退商法に利用されたも同然です。それ以上に問題なのは、こうしたエンタメニュースを取り上げるというNHKのルーティンが、政治の不都合な事実を「報道しない」ための口実になっていく、あるいは、恣意的にニュースバリューを下げるためのテクニックになっていく、ということです。事実、NHKは、そのような目論見をもって、こうした報道姿勢をすでに習慣化しようとしているのでしょう。現在のNHKの報道は、ほんとうに末期症状にあります。
2019.01.28
おそまきながら「いだてん」の第3話を視聴。お見事な脚本。「子供のときに嘉納治五郎に抱き上げられた」と信じて疑わない田舎の家族たちの期待を背負いつつ、なかなか都会の生活に馴染めずに悶々とする日々。夏休みに再会した幼馴染みのスヤへの恋心と別れ。そして、すべてを呑み込みながら一家を支えてくれる兄への思い。そうしたものが葛藤しつつ、交錯する中で、ついに走ることに実用以外の「意味」を見出す劇的な瞬間までを、生き生きとした人間ドラマとして描いていました。おおらかな笑いとともに、人々への温かいまなざしが向けられ、「不如帰」のモデルにされてしまった三島家の滑稽や、孝蔵(志ん生)が落語に魅入られていく過程にも相俟って、時代がオリンピックに呑み込まれていく熱狂が表現されていた。西村武五郎の演出も素晴らしかったです。できれば、浅草十二階からの、胸のすくような眺望が見たかったですけどね。◇それにしても、「天狗」のことを、ほんとに「TNG」と略していたとは。「天狗倶楽部」の頭文字なら、ふつうは「TC」と書くだろうに…。「AKB」的な発想のルーツは、こんなところにあったのね。(^^;
2019.01.25
「3年A組 皆さん人質」第3話。今回は、鈴木勇馬の演出。演出のせいなのか、脚本のせいなのか分からないけれど、前の2回にくらべると、内容的にだいぶ弱いと思う。心に訴えてくるような衝撃が、ほとんどない。海斗(鈴木仁)の悔恨は、さくら(永野芽郁)や香帆(川栄李奈)の悔恨にくらべると、かなり説得力が弱い。(一話ごとに弱まっている気もする)一般に「男の妬みは女の妬みよりタチが悪い」というけれど、男の子が、あんなに素直に自分の罪を悔いるものでしょうか?演技というより、脚本や演出が甘いのではないか。もうひとつ気になるのは、物語の重心が、たんなる「謎とき」に堕してきていること。「じつは生徒がグルだった」とか「刑事もグルだった」とか、その種のトリックの設定は、究極的には「夢オチ」までふくめて、どうとでも出来るわけで。そんなことが、このドラマに期待されているわけではない。それとも、結局は、たんなる「謎解きサスペンス」で終わっちゃうのかな?第1話で提示した現代的でシリアスな問題を、もっと抉ってほしいです。
2019.01.21
遊川和彦と志田未来。「女王の教室」から14年。神田和美から神田和実へ。やっぱりこれって彼女の当たり役だと思う。魔女のような主人公におののいて振り回されながらも、苦難を乗り越えて救われていく役どころは、14年前とほとんど同じ。逆にいえば、14年のあいだ、彼女にそれ以上の当たり役がなかったことが不思議ですらある。本来なら、「ハルとナツ」などで子役時代の名演を引き出したNHKこそが、彼女を積極的に使うべきだったのだし、できれば20代前半のうちに、朝ドラのヒロインに起用すべきだった。でも、なぜか長いあいだ、NHKは彼女を起用しなかった。もしかしたら、彼女の側がNHKを拒んだのかしら?宮崎あおいと同じく、志田未来は、NHKでこそ輝ける女優だったはずなのに。どうして民放の駄作にばかり出演しつづけたのだろう?ほんとうに悔やまれる。去年の「ウツボカズラの夢」はまあまあよかったけど、深夜枠だったしね…。そうこうしてるうちに、彼女ももう25才。もったいないなあ。今回は、遊川のドラマの古巣で盤石な役どころだけれど、あくまで主役は杉咲花だから、彼女は脇役に留まるのでしょうか?はやく「女王の教室」を超えるような、志田未来の決定的な傑作が見たいです。
2019.01.20
大関時代から稀勢の里を応援していた身としては、もともと彼の横綱昇進は 不安 以外の何ものでもありませんでした。稀勢の里が、長い大関時代を経て、ようやく初優勝を果たした17年の初場所は、じつは鶴竜と日馬富士が休場し、白鳳も自滅し、つまりは モンゴル勢が総崩れ したなかで、たんに「棚ぼた」的に得られた優勝にすぎなかった。常識的に考えれば、その時点での稀勢の里は、横綱になれる器ではありませんでした。にもかかわらず、安易に「日本人の横綱」を待望した日本の世論と、それに忖度した無力な横綱審議委員会は、まるで急ぐように彼を横綱に昇進させてしまった。鬼の居ぬ間の洗濯…ならぬ、モンゴル勢の居ぬ間の横綱昇進。逆にいえば、稀勢の里の場合、そのときのチャンスを逃したら、もう二度と優勝できない、という不安があったからこそ、世間と横審は、あわてて彼を横綱にしたのです。それが不幸の始まりでした。相撲をよく知るファンならば、彼が「優勝できない横綱」になるだろうと危惧したはずです。当時、そういう不安を口にしたファンはけっこういました。その意味でいえば、次の春場所で彼が逆転優勝したのは、たしかに偉かったのですが、その代わりに、大きな怪我を負ってしまった。もともと怪我の少なかった力士が、よりによって横綱になった途端、致命的なほどの大怪我に見舞われるという皮肉。この怪我こそが、彼にのしかかった負担の大きさを物語っています。彼の最大の不幸は、「唯一の日本人横綱」に対する安易な世間の期待のなかで、大怪我を負ってもなお、相撲を続けなければならず、しかも 勝たなければならず、なおかつ 引退もできないという三重苦にこそありました。不可能で逃げ場のない過重な負担を世間に背負わされたうえに、不名誉な敗北を積み重ねることだけを余儀なくされた。相撲という狭い世界のなかで、「日本人がモンゴル人をやっつける様子を見たい」という、世間のじつに浅はかでバカげた欲望のために、稀勢の里の相撲人生は、潰されてしまいました。衆愚的な欲望には誰も歯止めをかけられず、結果的に自国の文化と人材を自滅させるという悪循環から、この国は逃れられないのでしょうか?かつてのオリンピックのように、自国のアスリートに過重な期待をかけるという古い体質が、相撲という閉鎖的な世界にだけ残存して雪崩れ込んだ結果ですが、醜悪というほかに言いようがありません。
2019.01.16
来年の東京オリンピックは、もとをただせば、俗情にうったえた石原慎太郎の国粋主義にはじまっていますが、このたびの贈賄疑惑報道に際して、いちはやく竹田恒和を擁護したのが、保守論壇の櫻井よしこや息子の竹田恒泰であったことからも、これが、いわば≪ネトウヨオリンピック≫としての側面をもっている、という事実をうかがい知ることができます。フランスで取りざたされた贈賄問題は、おそらくはルノーと日産の問題にかこつけた国家間の駆け引きであり、カルロス・ゴーンを拘束しつづける日本側の手法にも関係するのでしょうが、結局は、オリンピックのような自国主義的な側面で、かえって日本が足をすくわれる結果になっています。≪ネトウヨオリンピック≫は、このままでは、日本が致命的なほどに自信を喪失するイベントになりかねません。先ごろ明るみになった弁護士懲戒請求事件のような出来事も、安易な愛国主義者の俗情にうったえて失敗したという点で、かつて石原慎太郎が主導した東京都尖閣諸島寄附金の図式に、よく似たものでした。◇自国第一主義を掲げる衆愚的な行動が、かえって国家の安泰を損ねてしまうのは、世の常です。安易な愛国主義がエスカレートすると、国際的なルールを無視し、科学的な事実を歪めてまでして、自国だけを美化しようとする不逞のヤカラも増えてしまいます。国際的な侮蔑と顰蹙を買い、多くの敵を作ってしまう。口先だけの「愛国」を声高に叫ぶ人間こそが、じつは本当の意味での「国賊」になりうるという歴史的な事実から、目を背けるべきではありません。北朝鮮や中国や韓国やアメリカがそうであるように、日本もまた安易な愛国主義者たちの巣窟になりはじめている。日本は、すでにそのような失敗を繰り返してきたのですが、いままた同じ過ちを繰り返そうとしています。◇国内で「自国第一主義」が極まると、海外の情報や常識との乖離が大きくなり、ついには鎖国的な状態にすることで、海外からの情報をシャットダウンせざるを得なくなります。ちなみに、現在のNHKが、すでにそうなりつつあります。明らかに報道内容が「自国(政権)第一主義」に偏っている。もはやNHKは、「何を報道しているか」ではなく、「何を報道していないか」に注意しなければならないメディアになっています。これもまた亡国のはじまりというべき時代の予兆です。
2019.01.13
信憑性があやしい首相の「サンゴ移植発言」について、その放送当事者であるNHKは、「番組内での政治家の発言について答える立場にない」としました。しかし、これはたんなる「一政治家の発言」ではなく、NHKでの首相の公式の発言です。◇ちなみにNHKは、「公平公正」と「不偏不党」の理念について以下のように説明しています。政治上の諸問題は公正に取り扱うこと、また、意見が対立している公共の問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにし、公平に取り扱うこととくに、意見が対立する問題を取り扱う場合には、原則として個々のニュースや番組の中で双方の意見を伝え、仮に双方の意見を紹介できないときでも、異なる意見があることを伝え、同一のシリーズ内で紹介するなど、放送全体で公平性を確保するはたして、この理念はどうなっているでしょうか?◇現在のNHKは、「他社の批判的な報道についてもコメントする立場にない」と述べています。しかし、たとえ他社の報道があろうがなかろうが、一国の首相の発言に対して「意見が対立する状況」が、すでに生まれています。にもかかわらず、なぜか現在のNHKには、自局での「首相発言」の正確性すら、検証する意思がないようです。ようやくNHKの本性が現れてきたな、という気がしています。
2019.01.12
ディーン&美月の第2弾。太田大と野田悠介のプロデュース。デュマの次はユゴー。ちなみにフランスのテレビでも、ジェラール・ドパルデューの主演で、「モンテ・クリスト伯」と「レ・ミゼラブル」が制作されたのですね。今回は、おもに、バルジャン(馬場純)とジャベール(斉藤)の物語に絞ってあり、とりわけ自らの憎悪に苦悩するジャベールの姿はよく描かれていました。まあ、ジャベールもエポニーヌも死にませんでしたけど。もし1クールのドラマだったらファンティーヌの美しさとか、エポニーヌの恋心とか、マリユスの正義感とかを、さらに掘り下げられたのでしょうけどね。てっきり、岸井ゆきののコゼットと、高杉真宙のマリユスを想像してたんだよね(^^;3時間ドラマとしては十分な内容だったし、12年の大味なイギリス映画よりは、よっぽど見応えがありました。
2019.01.08
オリンピックに向かう時代の混沌を、まさに混沌のままに描いていくクドカンの群像劇。いきなり競技スポーツへの批判が繰り返される。「スポーツより体育が大事だ」という主張はまったく正しいけれど、戦地で暴れるような血の気の多いヤカラーを、競技スポーツへ向かわせる社会的な効用だってあるのかもしれない。当然ながら、明治から昭和へ至るこの物語の中心に位置するのは「戦争」です。◇このドラマが描くのは、たんなるオリンピックの歴史ではないのでしょう。むしろクドカンが重視しているのは文化史(とりわけ芸能史)であるように思う。江戸歌舞伎と浅草演芸に始まり、映画やテレビ、アングラや小劇場を経て、ビートたけしと小泉今日子が事務所を離脱するまでの、近代日本の文化と芸能の歴史。森昌行と周防郁雄は息してますか?近代の国民社会を率いたのは、なによりも文化芸能です。文化と芸能を創り出した無数の人々の営みがなければ、さしものオリンピックも、たんなる政治経済と筋肉競争に堕することになる。オリンピックへいたる時代の狂騒をつうじて、クドカンが近代日本の文化史をどう描き上げるのか。たんに時代設定だけではなく、テーマそのものが、従来の大河のフォーマットとはまるで違っています。そんな新しい構想を打ち立てられるのは、やはりクドカンしかいないのでしょう。
2019.01.08
壮絶な美しさ。武藤将吾も、小室直子も、まったくノーマークだった。でも、「女王」とか「野ブタ」とか、日テレの学園ドラマのテイストは十分に感じられる。くわえて「バトロワ」とか「漂流教室」とか、はては「はいすくーる落書」あたりまで想起させる部分もありますね。とはいえ、この物語は、たんに教室の中だけで完結する内容でもなさそうです。この教室での出来事は、おそらくメディアやネットをつうじて、全世界を巻き込みながら進展するのだろうし、この教師が問いただそうとするのも、たんに生徒だけの問題じゃない気がする。そのあたりに、どんな深みと広がりをもたせていくのかにも期待したい。
2019.01.07
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