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ウチの娘は、彼氏が出来ない!!第3話。今回は、地方出身者のお話。入野光(岡田健史)は、熊本の出身。伊藤沙織(福原遥)は、青森の出身。光は、器用すぎる地方出身者。沙織は、不器用すぎる地方出身者。それぞれに劣等感と葛藤があり、都会に生きることの苦しさもある。◇それにくらべて、都会育ちの空と碧は、変わっていく東京の記憶を惜しみながらも、わりと呑気に、屈託なく、名前のとおり、空に憧れながら生きています。娘の名前は空(そら)。母の名前は碧(あおい)。ちなみに、家入レオによる主題歌は「空と青」。母の碧は、かつて「空の匂いをかぐ」という小説を当てて、港区にタワーマンションの一室を買い、その寝室を、青空の絵柄の壁紙で満たし、生まれた娘には「空」と名づけました。…思えば、鈴愛(すずめ)の空は、半分だけが青かった。鈴愛にとっての空は「音」だったのです。碧も、やはり空に憧れていますが、彼女の場合は、空の「匂い」に憧れてきたようです。娘に託したのも、やはり空の「匂い」なんだろうと思う。家入レオの主題歌は「空と青」ですが、それは言い換えると「匂いと色」のことなのかもしれない。◇日テレのドラマであるのを忘れるくらい、まるでNHKのドラマみたいな?あるいはテレ東のドラマみたいな?あるいは50年前のTBSドラマみたいな?不思議な渋みを醸し出しています。坂元裕二のときもそうだったけど、「これが作家性というものか」と思わせるほど、脚本の個性が演出にまで影響していて、いつもの日テレとはだいぶ作風が違ってきてる。まったりと楽しめるドラマではあるけれど、まだまだ掴みどころは見えてきません。鼻毛をつけてきた整体師の正体も、まだよくわからない。
2021.01.29
プレバト俳句。お題は「鏡」。今回も「異議あり!」ってほどのことじゃないけど、個人的な感想です。◇千原ジュニア。自画像に 手鏡も描く 春隣これは現状維持かなぁと思いましたが、結果は、1ランク昇格でした(笑)。「自画像のなかに手鏡まで描いちゃった」という滑稽味を切り取った句なのだとすれば、そのこと自体に季節感はないし、最後の「春隣」という季語は、なんだか取ってつけただけのような感じがする。季語の主役感が薄い。動詞に力点を置いて、「自画像に手鏡も描く」とするのは、散文的でもあるけれど、それ以上に川柳的な印象を強めるし、川柳っぽい印象が強まるぶんだけ、季節感が後退してしまう気がします。やはり、ここは体言止めにして、手鏡も描く自画像 春隣とするほうが、まだマシだなぁと思う。◇◇次、梅沢。あえかなる 鏡の色をして 冬日これもボツかなぁと思いましたが、結果はみごとに掲載決定でした(笑)。読んだ瞬間、鏡に映る冬の日の光景が「あえか」なのかと思ったけど、この場合の「冬日」というのは、冬の太陽のことですね。冬の太陽が、まるで鏡のように「あえか」な色だと。でも、そもそも「鏡の色」って何色なの?…おそらくは、みずから力強く発光する色ではなく、弱々しく反射するだけの色なのでしょうね。そこまで考えるのに、かなり時間を要しました。◇先生は、鏡の色の 冬日かなとするよりは今回の形のほうがいい、と言いましたが、それ以外にも、鏡の色となる 冬日鏡の色に似た 冬日などの形が考えられるし、さらにいえば、鏡の色のごと 冬日でもいいわけですよね。というのも、じつはこれって、痣の醒めゆくごと 朝焼けとソックリだと思うんです。ぶっちゃけ、太陽の比喩だけで勝負してる句ですから。本来は、「冬の太陽は鏡のような色だ」と考えるより前に、「鏡の色とは冬の太陽のようだ」という発想のほうが先にあるのでは?「痣の醒めゆくごと朝焼け」の場合もそうなんだけど、比喩するものと比喩されるものの関係を逆転させてる気がします。
2021.01.29
オンライン学習の技術は、たんに既存の教育システムに導入するだけではなく、むしろシステムそのものの変革に繋がるべきものです。いまや教室で無能な教師の授業を受けるより、たとえ無資格でも有能なユーチューバーの講義を受けるほうがいい。そういう時代です。教育改革とは、なによりも非合理な教育特権を排除することです。教師が生徒を評価するのではなく、生徒が教師を評価するほうがはるかに合理的だし、それこそが、もっとも効果的な教育改革につながるはず。◇今後、国が整備すべきなのは、従来型の学校や教育人材ではなく、誰もがいつでも受けられるようなオンラインの試験システムです。これからの試験とは、人材を選抜するために行われるべきものではなく、誰もが繰り返し何度も受験することで、確実に知識を習得するドリルとして行われるべきものです。そもそも、国内の低レベルな競争で選抜をしたところで、まったくもって国際的な競争力には結びつかないのですから、むしろ万人に繰り返し受験機会を与えることで、全体的な学力の底上げをはかったほうが効果的なのです。能力のある人は、どんどん高いレベルのテストを受ければよいのだし、逆に能力の乏しい人は、習得できるまで何度でも受験する機会をもったほうがいい。能力に応じて、小学生が高校生レベルのテストを受けてもよいのだし、逆に、40過ぎの中高年が、小学生レベルのテストを何度も受け直してよいのです。国民全体の学力の底上げこそが、今後の日本の国際競争力にもっとも直結する方策です。そして、それは、義務教育のみならず、高等教育の分野にまで及ぶべきだし、さらには、様々な職能や生活スキルを学ぶための、生涯学習全般にまで及ぶべきです。
2021.01.28
映画「プラダを着た悪魔」のいちばんの問題は、悪魔の所業をかならずしも否定的には描いていないことです。メリル・ストリープは、女性社員へのパワハラを繰り返し、能力の無い人間を容赦なく切り捨て、最後には、業界の策謀と裏切りに見舞われて、友人や家族を失って孤独な老女になってしまいます。主人公のアン・ハサウェイは、そのような「悪魔の世界」から足を洗い、ジャーナリストへの道を歩み始めるという結末です。しかし、あの映画は、かならずしもメリル・ストリープのことを否定していないし、むしろ、ひとつの「生き方」として肯定しているように見える。そして、そのことが、あの映画に対する誤解をも生んでいます。◇あの映画の「悪魔」の描き方は、たしかに重層的な視点と深みを与えているのですが、結果的に見れば、あの映画を見て勘違いをした観客の多くが、ファッション業界でのパワハラを「当然のこと」と考え、その悪魔のような世界を是認してしまう弊害も生みました。実際、あの映画を20年前に見て勘違いしたあげく、その華やかなシンデレラ的展開に感化されて、ほんとうにファッション業界へ身を投じた人もいたはずです。そこで現実の挫折を味わい、もういちどあの映画を見直したときに、その隠れたメッセージに気づくのかもしれないけど、それじゃあ、もう遅いですよね…。そのことを考えると、あの映画の罪はけっこう重いと思う。◇今回の「ボス恋」では、そのような勘違いの余地は少ないだろうと思っています。第3話では、編集長のパワハラ的な所業に対して、社員たちが抗議する姿勢も示されたし、逆に、菜々緒が演じる悪魔の「人間的な面」も垣間見えました。映画「プラダを着た悪魔」のなかで、メリル・ストリープは最後まで「悪魔の生き方」を貫くのだけれど、今回のドラマでは、むしろ菜々緒が「人間」になっていく過程が描かれるのかもしれません。TBS『オー!マイ・ボス!恋は別冊で』上白石萌音
2021.01.27
ウチの娘は、彼氏が出来ない。第2話。かなり好き。味わい深い。北川悦吏子の円熟味を感じる。◇東京への愛情、都会への愛情。交錯する男女の関係性への愛情。よりどりみどりのイケメン。見えない星空と、プラネタリウムの星空。届かない月と、落っこちそうな月。物語を失って、夢を見れない若者への愛情。恋に不器用な娘たちへの愛情。ジャニス・イアンと、山田太一のTBSドラマへのオマージュ。都会の虚飾のなかで、刹那的な享楽を生き抜く人々への哀れな賛歌。3年A組以来、過呼吸がお約束になった福原遥?(笑)◇北川悦吏子は、美波から確実に何かを引き出しています。今までになかった面が現れてる。日テレの演出にも、ひさしぶりに満足しています。オーソドックスで過不足がない。◇母娘が同じ整体師の男を好きになる話は、つぎの第3話であっさり終わって、娘のオタク同士の恋と、母の幼馴染の恋のほうに、主軸が移りそうな気配です。でも、こういう内容なら、何話まででも、まったりと見続けられそうな感じ。
2021.01.21
天国と地獄〜サイコな2人〜。森下佳子×綾瀬はるか。おなじみTBSのゴールデンコンビ。サスペンスとしては「白夜行」以来、SFとしては「仁」以来って感じでしょうか。毎回ジャンルは違うけど、どこかしらテイストは似てるので安心感がある。それに、さすがは人気作を手がけてきた脚本家らしく、サスペンスであっても、物語の叙述はとっても分かりやすく、難解なところがありません。◇今回は、階段から転げ落ちて男女が入れ替わるという、大林宣彦の追悼を兼ねた「転校生」以来のジャパンSF伝統芸。NHKの「転・コウ・生」(コウの転生?)では、柴咲コウとムロツヨシにもやらしてたけど、いわゆる萌音の声で「入れ替わってるぅ~?!」ってやつ。…かと思ったら、むしろ「仁」のタイムスリップのセルフパロディっぽかったですね。◇作品のテーマは、まだよく分かりませんが、とりあえずは、オッフェンバックじゃなくて、生誕251年目のベートーベンによる天国と地獄・・・って感じでしょうか?「白夜行」や「仁」でもこのあいだの「転コウ生」でも満月が出てたけれど、やはり満月の夜に男女が入れ替わるのですね。日高と望月の入れ替わり。太陽と満月の入れ替わり。奄美大島のシヤカナローの伝説。そこらへんが物語のベースにあるようです。◇ちなみに、感染予防も重要な危機管理だと思うのだけど、警察署内で誰もマスクをしてなかったのは、どういうことなんだろう?それから、女に変身してしまった高橋一生は、いかにも女々しい演技をしていたのですが、もともと綾瀬はるかは男勝りなキャラなので、あんまり似てないのが気になった。NHKで柴咲コウと入れ替わったときは、わりと似てたのにね。
2021.01.19
夏井先生が、去年の優秀10作品のなかに、梅沢の「痣の醒めゆく朝焼け」の句を挙げていたので、しつこいようですが、あらためてこの句について考えてみます。◇ ◇ ◇ ◇ ◇読み終へて 痣の醒めゆくごと 朝焼この句は、文字どおり解釈すれば、◎ 読書体験を終えると、痣の醒めるような朝焼けが見えたという意味になります。しかし、じつのところは、そうではない!ほんとうは、◎ 痣のような読書体験から醒めると、朝焼けが見えたという意味なのです。◇そもそも、朝焼けを見たときに、「まるで痣が醒めるようだねえ」などと考える人はいません。かりにそんな変人がいたとしても、それに共感する人はほとんどいないと思います。しかも、以前も書きましたが、「痣が醒める」という動詞の用法がおかしいのです。正しい日本語としては「痣がひく」と言うべきです。◇この奇妙な表現は、比喩する言葉と比喩される言葉を、いったんバラバラに分解して、組み換えをおこなった結果として生まれたものです。本来、最初にあったのは、「痣のような読書体験」なのだと思います。読んだ本の内容が重くて、まるで心に痣を残すような体験をしたわけですね。そして、その本の世界から「醒める」のです。そのときの気分が、ちょうど朝焼けの風景に重なったのでしょう。これなら、動詞の用法としてもおかしくはないし、比喩表現としても、べつに変ではありません。◇言葉のバラバラ分解と組み換えをおこなった結果、ほんとうは「読後の心象描写」であったはずのものを、あたかも「朝焼けの風景描写」のごとくに装っている。これは一種のカムフラージュです。その結果として、「痣が醒めるような朝焼け」などという、世にも奇妙な用法と比喩が生まれることになったのです。これを、ひとつの詩の技法として評価すべきなのか。それとも、おかしな日本語表現として修正すべきなのか。やっぱり、わたしには判断がつきません。
2021.01.17
プレバト俳句。冬麗戦!お題は「輪ゴム」です。今回も「異議あり!」ってほどのことじゃないけど、個人的な感想です。◇いちばん好きだったのは、フルポン村上。一月や ゴム動力の プロペラ機いつもなら、半径1mの視界を拾うのが得意な村上ですが、今回はめずらしく広々した遠景を詠んでます。ただし、同じ遠景とはいえ、フジモンあたりが詠む可愛くてポップで温かい遠景とは違って、どこか孤独で文学的でシャープな遠景になるのが不思議ですよね。ちなみに、1位になった森口瑤子の句も、風花へ しゅぱんしゅぱんと ゴム鉄ぽうってことで、やはり新春の冷たい青空にむかって、ピューンと飛んでいく清々しさが共通していました。◇もうひとつ印象的だったのは、東国原英夫。無影灯 下腹に冷たい何か以前から、この人の句は、不気味な皮膚感覚にうったえてくると思ってたけど、今回はまさに自身の皮膚感覚そのものを描写しています。本人は「麻酔後にメスが当たったような感覚」と言ってたけど、わたしは、これを読んで「病巣が冷たい」のだと思いました。ちなみに、これは、冬の風景を詠んだ句には見えませんし、やはり無季の句だろうと思います。◇4位に甘んじた梅沢富美男。鏡越し ロット巻く手や 春隣ロット巻く手や 春近き日の鏡(添削後)一見して、「春隣」の風情を詠んだ良い句だなあと思ったけど、こうして比べてみると、やはり先生の添削のほうが優っていますよね。たぶん梅沢は、「春隣」という季語から発想したのでしょうけど、その季語に固執するあまり、鏡越しに「隣」の人を見るというアイディアを、なかなか捨てられなかったのかもしれません。場合によっては、発想の原点になった季語をあえて捨てて、別の季語に替えなければならないのかもしれませんよねぇ。そこが難しいところです。◇ついでに、キスマイ横尾の句。七日の名もなき家事 パズルの樹氷七日 名もなき家事 ジグソーの一片(添削後)最初に原句を読んだとき、「名もなき家事」の意味が分かりませんでした。そもそも、炊事や掃除や洗濯のことを、「名のある家事」だなどと考えたことがないからです。「na」で韻を踏んでるのは分かるけど、まずはそこを直さなきゃいけないだろうと思しました。でも、先生はむしろ、この「名もなき家事」を残したまま、ジグソーパズルの映像のほうを描写し直したのですね。そうすると、あら不思議、誰にも知られることのない些細な片づけ作業という、「名もなき家事」の意味がすんなり入ってきます。これは、先生の添削に感心してしまいました。
2021.01.16
今回の緊急事態宣言では、いわば飲み屋が狙い撃ちにされています。というのも、日本では、酒飲みこそがスーパースプレッダーだからです。◇そもそも飲み会というのは、酒の飲める人間が、酒の飲めない人間に対して優位に立つための、パワハラ的な儀式にすぎません。いまだに「飲みニケーションは大事だ」などと前時代的な価値観を押しつけるオヤジもいますが、それは、逆にいえば、「酒が飲めなければ出世できない」という、きわめて非合理かつ馬鹿げた文化が、日本の企業社会のなかに存在することを意味しています。こうしたバカな企業文化こそが、平成期の日本に「失われた40年」をもたらしたのです。真面目な企業努力よりも、ふざけたコネ営業を優先させた結果なのです。◇友人同士で飲むのならともかく、職場で飲み会をするような悪弊は、百害あって一利なし。経済界全体として排除していくべきです。かりに職場飲み会が絶滅して、一人飲みや少数飲みのほうが主流になれば、居酒屋が感染源になることはなくなるのだし、営業を自粛する必要もなくなるのです。そして居酒屋自身も、一人飲み&少数飲みの時代に向けて、営業形態を抜本的に変えていくべきです。
2021.01.15
北川悦吏子が描く、母と娘の物語。菅野美穂と浜辺美波。恋愛小説家の母のほうは、きっと脚本家自身を投影したキャラになるんだろうけど、問題なのは、娘のほうをどう描くかってこと。そもそも北川悦吏子は、娘世代のオタク少女に共感をもってるんでしょうか?◇2年前の「半分青い」以来の北川悦吏子。ちなみに永野芽郁は、朝ドラ以降もいろんな作品に出てますけど、よくもわるくも「半分青い」のイメージを引きずったままです。たぶん永野芽郁自身は、あの鈴愛のような鼻っ柱の強いキャラクターとは、まったく違う性格の人なんだろうけど、鈴愛の印象があまりにも強烈すぎたので、それがいまも、永野芽郁のパブリックイメージを、支えつづけているような気がします。◇そして、今回は、よりによって浜辺美波!(笑)今回の役を演じることによって、これまでの美波のイメージが、大きく変わってしまうかもしれない。そう思うと、ちょっと不安でもあり、そう言いながら、ちょっと楽しみでもある。もともと北陸出身の彼女が、「港区のタワマン育ちの超都会っ子」を演じてる時点で、すでに従来のイメージは壊れはじめてるかもしれない。というより、じつはドラマがはじまる前から、バラエティなどで番宣してる美波を見てたら、なんだか今までと雰囲気が違ってる気がしたんだよねェ。もしかしたら、はやくも北川悦吏子の血液が、彼女のなかに流れはじめてたからかもしれません。なんにせよ、いまのところ、まったく未知数のドラマです。
2021.01.14
映画「プラダを着た悪魔」は、ファッション業界で成功する物語だと誤解されているけど、実際には、そうじゃありません。アン・ハサウェイの演じる主人公は、最後にはジャーナリストになって、ファッションという名の「悪魔の世界」から去っていくのです。にもかかわらず、なぜか多くの人は、あの映画を、ファッション業界のサクセスストーリーだと勘違いしています(笑)。◇何故そういう誤解が生まれるかというと、あの映画の場合、メリル・ストリープやスタンリー・トゥッチなど、《悪魔側》の人たちのほうが、あまりにもキラキラ輝いていて魅力的だからです。一方、《天使側》にいるのは、主人公が貧乏だったころの友人たちなのですが、彼らは、あまり魅力的でないし、ほとんど印象にすら残らないのですよね(笑)。だから、アン・ハサウェイが《悪魔》の世界で輝く場面ばかりが、観客の心に強く刻みつけられてしまうのです。◇◇今回のドラマ「ボス恋」は、そんなアン・ハサウェイの映画とは違って、肝心の《悪魔》と《天使》の対比がハッキリしています。《悪魔》の側にいるのが菜々緒。《天使》の側にいるのが玉森裕太です。しかも、姉が《悪魔》で、弟が《天使》です。この図式は、とてもわかりやすいっ!!はたして萌音の演じる主人公は、どちらを選ぶのでしょうか?最後に《悪魔》の世界でファッショナブルに変身するのか?それとも《天使》の世界で人間らしい心を守り続けるのか?この対比を際立たせることができれば、このドラマは、アン・ハサウェイの映画なんかよりも、はるかにエキサイティングで、明快なメッセージをもった物語になるはずです。脚本は、演劇畑の田辺茂範ですね。お手並み拝見です!TBS『オー!マイ・ボス!恋は別冊で』上白石萌音
2021.01.13
かつて漫画の世界には、男性作家が、少年を主人公にした少年漫画を描き、女性作家が、少女を主人公にした少女漫画を描く、という自然な住み分けがありました。もちろん例外はあって、手塚治虫や赤塚不二夫は、「リボンの騎士」や「ひみつのアッコちゃん」を描いたし、永井豪や和田慎二は、「キューティーハニー」や「スケバン刑事」を描きました。けれど、こうした男女の住み分けが本格的に壊れたのは、やはり宮崎駿が「ハイジ」を手掛けて以降だと思います。その後の宮崎駿は、一貫して少女を主人公にした作品だけを発表しつづけ、女性作家以上に、魅力的な少女像を作りあげたからです。吾峠呼世晴の「鬼滅の刃」では、ちょうどそれとは逆のことが起こっています。ついに女性作家が、男性作家以上に、魅力的な少年像を作りあげる時代がはじまったのかもしれません。「12鬼月」と「9柱」と「鬼舞辻」の由来。禰豆子(ねずこ)の名前と、背負い木箱や彼岸花の由来。LiSAが育った山奥の一軒家。岐阜県関市は刀剣の産地!「鬼滅の刃」ヒットの理由は?分析と考察「鬼滅の刃」ヒットの理由は?分析と考察…その2「鬼滅の刃」と桃太郎伝承のちがい。
2021.01.08
結核。隔離。あまりにも残酷な結末。15年前に本放送を見たときは、遠い過去の話だと思っていたけれど、コロナ禍のなかで再放送を見ていると、なにか皮肉な偶然を感じずにはいられない。◇通常のドラマなら、最後に伏線が回収されて、これまでの約束がみごとに果たされて、めでたく夢が叶って終わるところですが、このドラマは、そのすべてを裏切ります。朝ドラ史上、稀に見るようなバッドエンド。桜子の人生は、なにひとつ実現しないまま、報われずに終わる。なにも成し遂げることの出来ない人生。…でも、それが不幸だとは思わない。そういう感想を、本放送のとき以上に強く持ちました。◇夢が叶おうが叶うまいが、想いが報われようが報われまいが、約束が果たされようが果たされまいが、生きていること自体に輝きがある。それが、このドラマのメッセージだと思うし、実際、桜子の人生はとても輝いていたと、わたしは思います。桜子だけではありません。目の不自由な亨ちゃんにも生きる歓びがあったし、生まれてきた赤ちゃんの命もキラキラ輝いている。夢が叶ったり、想いが報われたりするのは、せいぜい小説やドラマのなかの架空の話であって、現実の人生は、そうではありません。さまざまな行き違いや矛盾に満ちていて、けっして現実は「まんどろ」というわけにいかない。これは、冬吾=太宰治に対するメッセージでもあるのだけれど、やはり「命を捨てるべきではない」というのが、作者の最終的な考えなのだろうなと、あらためて思います。◇冬吾との関係も、最後まで片付くことはなかった。本来の冬吾は、誰に対してもズバっと本音を言い、魂をぶつけるような絵を描く人でしたが、結婚後の冬吾は、そうではなくなりました。不本意な絵しか描くことができなくなっていたし、死線を彷徨った夢のなかで桜子に救われたときには、「笛子と加寿子と亨の顔が浮かんできた」などと嘘をついて取り繕ったりしていました。いや、嘘ではなかったのかもしれませんが、夢のなかで桜子の魂と通じ合った記憶は、みずから抑圧したのでしょう。冬吾にとっての真実は、唯一、桜子でした。笛子も、うすうすそのことを察知していて、桜子の姿を描いた冬吾の絵を病室に飾ると、桜子にむかって「あんたが羨ましかった」と言いました。そこにも、それぞれの報われない真実がありました。◇ものすごく矛盾に満ちた内容だったけれど、それゆえに強烈な印象を残しました。わたしは、やはり、このドラマが面白かったです。
2021.01.06
NHKの「ライジング若冲 天才かく覚醒せり」を見ました。2017年の「眩~北斎の娘」のときは、朝井まかての原作があったけれど、今回のドラマに原作はなく、源孝志の作・演出ってことです。空から舞い降りてくる「黒い雁」を、赤や緑のハート模様の「白い鳳凰」が受け入れる対幅に重ねて、若冲と大典とのBL風の物語を描き出す、という趣向でした。◇そのボーイズラブの真偽はともかく、売茶翁の営む茶店(オープンカフェ)が、若冲や大典だけでなく、円山応挙や池大雅らも集うような「芸術サロン」だった、という事実はかなり興味深いものだし、今後、国内外で、この上方の芸術サロンの存在に関心が高まって、江戸時代の芸術についての研究が、さらに進んでいくことになるかもしれませんよね。◇ただ、今回のドラマは、ボーイズラブ以外の部分については、さほど踏み込んだ歴史的解釈はしておらず、わりと無難に史実をまとめただけ、という感じもします。彼らの交流が、どんなふうに影響し合い、それぞれの人生や作品に何をもたらしたのか。その部分の突っ込みには、ちょっと甘さを感じました。とくに疑問を感じたのは、「仏」と「神」が混在していたことです。つまり、仏教と道教との関係が曖昧でした。◇大典は、みずからが禅の境地を得るために、若冲に対して「仏を描いてほしい」と懇願します。しかし、若冲が生き物の姿に見出したものは「神気」でした。これは同じものでしょうか?鳥や蛙、魚や虫には表情がないから、喜怒哀楽もない、と人間は勝手に思ってる。しかし生き物である以上、欲も愛もある。それを外界に「気」として放ってる。この発想は、あきらかに道教的です。いわゆる神仙思想、あるいは老荘思想です。そもそも「若冲」の名の由来にもなった"大盈は冲しきが若きも 其の用は窮まらず"というのも、老子の言葉でした。◇このドラマは、禅僧である大典との関係を軸にしながら、最後に「釈迦三尊」を中心に据えた「動植綵絵」を、相国寺に寄進するところまでを描いています。その結果、おもに仏教(禅)とのかかわりが、クローズアップされているようにも見えます。しかし、若冲の絵の本質は、仏教ではなく、むしろ道教のほうに近い気がします。ちなみに「動植綵絵」は、明治の廃仏毀釈のときに皇室へ移り、寺には「釈迦三尊図」だけが残ったようですが、そもそも「釈迦三尊図」というのは、若冲の大作を寺に置くための建前として、「動植綵絵」に添えられただけのものにすぎない、という気がしないでもありません。作品のメインは、じつは「釈迦三尊図」ではなく、あくまで「動植綵絵」のほうではないでしょうか?そして、それは、仏教的な「理知」の世界ではなく、道教的な「生命」の世界だと思うのです。◇売茶翁は、それこそ道教の仙人みたいな恰好をしていましたが、まさに彼の煎茶こそが、老荘思想の精神を如実に示していましたし、それは同時に、茶の湯(=禅)に対する批判でもありました。売茶翁は、若冲の「動植綵絵」を目にしたとき、「あんたの絵の腕はもはや神の領域や」と言いました。しかし、同時に、「こういう絵は仏のためにこそ描かれるべきや」とも言いました。ここでも「神」と「仏」が混在しています。これらは同じことなのでしょうか?それとも、彼らは神仏の融合を目指していたのでしょうか?
2021.01.06
実写版「岸辺露伴は動かない」を見ました。第1話の「マナー違反」のお話は、正直いってつまらなかったのだけど、第2話の「くしゃがら」と、第3話の「DNA」は、かなり面白くて、楽しめました。人間の記憶や無意識を実体化するという発想が、やはり斬新です。これは続編にも期待できる素材だと思うけど、あまり原作にはこだわらず、自由に脚色したほうが、かえって上手くいくのかもしれませんね。◇高橋一生と中村倫也の組み合わせだったので、当初は「凪のお暇」のファン層を狙ったドラマかな?と思ってましたが、実際はもっとマニアックでしたね。大正モダニズムの奇妙な美意識が蘇ってる感じ。そういえば、小池健×山本沙代の「ルパン」と、荒木飛呂彦×小林靖子の「露伴」は、ともに菊地成孔が音楽をつけることになったわけですが、ふたつの作品のあいだには、どこか通底する要素も感じてしまいます。◇それはそうと、飯豊まりえの演技が驚くほど素晴らしい!彼女がいなければ、ちょっと成立しなかったのでは?と思うほど、作品の重要な軸になっていました。彼女のふだんの控え目な印象からは想像できないような、かなり個性的なキャラだったので、とても驚きです。キャスティングも良かったと思います。いっそ泉京香を軸にして、泉鏡花の怪奇文学を取り込んだ話をつくったら、それもまた面白いだろうなと思います。
2021.01.05
もともと契約結婚というのは、夫婦の役割を等価で交換するためのシステムでした。 男女の役割の等価交換。それが、このドラマのテーマです。今回のスペシャルでは、そのフェーズが「子育て」に移りました。コロナ禍という、ちょっと特殊な状況がクローズアップされたけれど、じつはコロナ禍であろうとあるまいと、共働きの夫婦が子供を育てるのは、かなり困難なのだと思う。やっぱり実家に頼るしかない。そうでなければ、お金でベビーシッターやハウスキーパーを雇うしかない。◇結局のところ、男女の役割を等価で交換することはできませんでした。みくりを助けてくれたのは、実家の母親であり、伯母の百合ちゃんであり、あるいは友人のやっさんでした。また、癌を患った百合ちゃんに付き添ってくれたのは、レズビアンの友人でした。要するに、ほとんどの問題を、女性のネットワークだけで乗り切ったのです。◇実家に頼ることもできず、ハウスキーパーやベビーシッターを雇うお金もなければ、たとえ夫婦のあいだで仕事分担の努力をしても、おそかれはやかれ核家族の子育ては破綻してしまうでしょう。それが現代の日本の実情です。本来、子育てというのは、大きな共同体のなかでおこなわれていました。核家族で子育てをするようになったのは近代以降です。しかも、事実上は母親だけで子供を育てている。これは、かなり無理のあるシステムだと言わざるを得ません。何も解決せず、何も決着せず、ただ二人が泣き崩れたまま年を越す場面がありましたが、じつのところ、何も解決していないのは、現代日本の社会システムそのものなのです。◇「親の責任」などという幻想は、もはや実態とは乖離した絵空事の神学論争にすぎません。 そもそも「親の責任」だけで子育てなど出来るはずがないのだから。たとえば母親の鬱や自殺を、世間では「ネグレクト=責任放棄」と呼んで非難します。企業が、社員の育児休暇を「仕事放棄」だといって容認しないのと同じように、社会は、母親のネグレクトを「育児放棄」だといって容認しないのです。沼田さんはこう言いました。働いてるのは人間なんだから、いつ誰が長い休みをとるかなんて分からない突然の事故、家族の病気介護、自分自身の体調が崩れる場合もあるよね?そのとき何が大事かって言ったら誰が休んでも仕事は回る帰ってこられる環境をふだんから作っておくことそれが職場におけるリスク管理それと同じことは、企業の社員についてだけでなく、子育てをする母親についても言えるのです。人間なのだから、出来なくなることもある。母親以外に代理がいないシステムのほうがおかしいのです。子育てにおける社会のリスク管理ができていない。およそ不可能な「自己責任論」ばかりがまかり通っている。母親のネグレクトを、たんに「責任放棄」の一言で片づけるべきではありません。◇これは一種の優生思想なのだと思うけれど、よほど恵まれた人々でなければ、まともな子育てができない仕組みになっています。明らかに少子化対策の理念とは相矛盾している。その一方で、向こう見ずなヤンキーほど多くの子供を産んでしまう、というアベコベな現実もあります。◇ジブリの新作「アーヤと魔女」の主人公は、親に捨てられて、孤児院で育っていました。実際、かならずしも親に育てられるのが幸福だとは限らない。わたしは、とりあえず「共同保育」が妥当な選択だと思うけど、親と子が一緒に入所して、ある年齢まで断続的に子育て合宿できる仕組みがあってもいいし、これも、ある種の優生思想になるのかもしれませんけど、まったくの公営というのではなく、審査に通った親子だけで自治的に運営するような、私営の共同保育所が増えてもいいのかなと思います。
2021.01.04
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