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今日は月1回習っている「走墨」の教室の初のイベント、奥多摩への日帰りバスツアーの日だった。先日テレビで広春先生のことがちらっと紹介されると全国から「習ってみたい」という反響のメールが届いたそうだ。TV東京「ソロモンの王宮」たかの友梨 編 5/15放送番組ではたかの友梨って人も思ってたよりすごかったけど、教えてる先生もすごいな~と思った。そんな先生の、畳大の作品を目の前で書き上げるパフォーマンスが見られるというので、ツアーはそれが楽しみだった。それ以外にも自分たちも新緑の中で作品作りをしたり、ゆず尽くしの懐石料理や、お茶やお花を気軽にたしなんだりという趣向らしい。いつものギャラリー兼ショップの前に20人弱が集合し、マイクロバスで一路、新緑の奥多摩へ。1時間半ほどで着くと、お昼の前に川原を散策したり写真を撮ったりした。奥多摩の緑はすがすがしく、川の流れは思いのほか早く、時折渦巻きながら、りゅうりゅうと走っている。せせらぎの音、風の音、鳥のさえずり、岩の削られた面の色、心をすくような白く美しい小石・・・気持ちのいい川原での時間。先生はそうしている間にもどのように作品にするかを常に想像しているらしく、また足元の草をとって草筆にしてもいい、と提案されたりして、遊んでいた私たちとは、やはりまったく違った自然の捉え方をしている。お昼には川辺の風流な旅館の一室でゆず懐石をいただき、その後先生の畳一畳分の大きさの作品を創作するパフォーマンスを初めて見せていただいた。山川の見える屋外のデッキに敷物を敷き、大きな紙を置く。先ほど川原で拾ってきた白い石を文鎮代わりにして四隅をとめる。そして大きな筆にたっぷりの墨をつけ、一気に作品を書き上げていく。立って中腰になり、全身で書く。呼吸、特に筆を置く瞬間は「!!」と声にならない呼吸を込めながら筆をたたきつけるように置き、力強く、なのに軽やかに筆を走らせ、数分で作品が出来上がる。手直しもできないし、考える暇もない。だから勢いがあり、なのに全体のバランスは美しい。一発勝負の緊張感と、常に想像力・造形力を鍛える鍛錬の上に成り立つ、数分間なのだろう。先生のパフォーマンスの後は、みなそれぞれ好きな文字や、景色を見て感じた文字などを半紙に書いた。私は、先生のいくつか書いた文字の中の「流」という文字があまりにかっこよかったので、それを書くことにした。半紙で練習していると、先生が書初めくらいの長さの紙を配り、ひとりひとりにお手本を書いてくださった。私の場合は、筆に手を添え、一緒に書いてくださった。初めて、立って作品を書いた。自分の力で書いているわけではないけれど先生の筆の走らせ方、力の強弱などが直接手に伝わるのでいつも手を添えていただくと、とても書き方がわかるような気がして感動する。輝かしい、なんとも自由な筆の操りが、自在にラインを生み出していく。しかし一人で書くと、その輝かしい感じはなくて頼りなくでもなんとかさっきの感覚を思い出そうとしながら無心に書くのだけれどなかなか自由に書けない。でも今回は初めて立って書いてみて、すこーしだけ、先生の書く気持ちに近づいた気がして嬉しかった。精進あるのみ。走墨の稽古のあとは、お茶室でお茶とお花を楽しんだ。作法も本を読んだくらいで、実践したことはなかったけれど、くわしい方に教わりながらお抹茶をいただくのは楽しかった。メンバーの中で、私がいちばんの若憎で、正座にはすぐ耐えられなくなってしまい、ちょっとお行儀悪かったな・・お茶もお花も日本の心を伝えるものとして、とても興味があるけど、さすがにもう手を広げられない。こんなちょっとした機会に触れることができるだけでも満足した。帰りのバスでは疲れてごうごう寝ながら帰ってきた。7月には作品の裏打ちを学び、9月には簡単ながら作品展をやる予定だという。そのころ私はどうなってるんだろう?よくわからないけど、なんとか続けてるだろう、オリジナル作品を書けるといいんだけど。教室を飛び出して、いつもより自由な雰囲気の中、より走墨の楽しさ、可能性を感じられた一日だった。
2005.05.29
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実は先週、金曜の夜は「ラ・トゥール展」遅くまで開館してるので、土日に混んでる中で見るよりも、金曜夜のほうがゆったり見れるかも♪と期待して、バレエを休んで仕事帰りに上野の国立西洋美術館へ行ったのに、着いたらもう警備員が門を閉めてるところだった。がーーーーーん!!時間を間違えたーーーーーっ!渋谷BUNKAMURAの「ベルギー象徴派展」も楽しみにしていて、いつでも見に行けるようにチケットを持ち歩いているのだが、それが金曜・土曜は夜9時までで、そっちと間違えた。「ラ・トゥール展」は夜8時までだった!!7時半だったけど、どうしても見たいから入れてくれと頼み込んでる親子連れがいて、なんとかもぐりこませてもらっていた。う~~~~~ん、30分でラ・トゥール見るのか・・・出品数が少ないらしいから、見れないこともないんだろうけど・・・・私も迷ったけど、やっぱりやめて、あきらめて帰った。最近はどうも体調もタイミングもいまいちで、これは無理して動くときじゃないのかも・・・とぼとぼ。で、この間の日曜、横浜での法事が思いがけず早く終わって親戚もさっさと散ってしまい、いつもはつるみたがる母もとっとと田舎へ帰ってしまったので、上野駅で母を見送ってこれは今日こそ「ラ・トゥール展」を見なさいっていう、天のお達しなのだと嬉しく思い、すっごく混んでたけど見てきました。まあ、ゴッホ展ほどじゃないからいいよね。特によかったのは「聖ヨセフの前に現れる天使」と「書物のあるマグダラのマリア」。「聖ヨセフ」のほうはNHKの「日曜美術館」でも取り上げられていたし、チケットにも印刷されていて、ラ・トゥールの代表的な作品だろう。実際見て、彼の最高傑作だと思った。ルーブルの「大工の聖ヨセフ」も有名だし、素晴らしいけれどそれよりもさらにいいような気がした。非常に精密だ。構図も光と影の描写も。衣装のやわらかさ、燭台の金属の確かな描写。ろうそくの光を天使の腕の所作により、あえて隠してるのが、その袖の向こうにドラマティックな光を天使に当てているのが、彼独自の光の見せ方として、どの作品よりも傑出して感じられる。眠りから夢うつつの、あいまいな状態にいるヨセフの表情と、天使の、中性的な幼いふっくらした顔に、むしろ年長けているかのような冷静な賢しげな、気高い表情。その対比が素晴らしい。聖書の中の、ヨセフがお告げを聞くどの場面か、というのがはっきりしないらしいがもうそれは問題にならないくらいに完成された世界だ。夢うつつのあいまいな状態にいる者と、目覚めさせる者。そのモチーフだけで十分訴えてくるものがある。ヨセフはマリアの夫というより、ずっとずっと老齢に見える。老人と子供。現実と夢。闇と光。さまざまな対比。いったいどちらが夢でどちらが現実だろう、と思わされる。眠っている、安楽な世界のほうが現実の生活なのかもしれなくて、そんな生活をしている者を、真実へと目覚めさせるようにも見える。天使を目の前にしてこれは夢か?と男が呆然としているようにも見える。見ようによっては天使は、死の使者なのかもしれない。生を脱却し、その外の世界へといざなう天使。あるいは逆に、老人に力を与えてくれる天使であるかもしれない。天使の出現に対し、老人の、力なく半開きになった口元。こめかみに手をあて、どんな思いが去来しているのだろう。さらには浦島太郎的な感覚も浮かんでくる・・・うつらうつらと眠っているうちに時間が経ってしまった。若さは戻らない。時間は戻らない。長かった、しかしあっという間だった。なんという幸せな、しかしなんといううつろな日々であったろう。果てしない失われた時間への、過去への愛惜、といったような思い。人生は夢のようなものだった、と。翳っている老人の目に、小さな小さな白が一点置かれている。フェルメールの「真珠の耳飾の少女」の口元にある一点とも通じるような。それによってヨセフが眠りの混濁の中にいながらも、しかし目覚めている、認識している、ことがわかる。それに対し、天使の目は、横顔の角度のせいか、黒目がちで、というよりほとんど白目の部分がなく真っ黒でそれが実は不気味でもある。黒真珠の目。幼い天使でありながら、私にとって幾分不吉な感じを覚えるのは、この目のせいだ。ある意味、背景のどの闇よりも、この目が強い静かな闇だ。光もさりながら、闇をこんなに描ききれる画家はそうはいないだろう。ラ・トウゥール「聖ヨセフの前に現れる天使」。いくら見ても見飽きない。また、「書物のあるマグダラのマリア」。これは案外とても現代的に感じられた。「聖ヨセフ」と比べるとのっぺりした印象。この絵の一番のポイントはマリアの目が髪に隠されているところだろう。それによって深みがずいぶん違うのではないだろうか。解説ではまったく官能的ではない、(崇高だと言いたいのだろう)虚飾を捨て去った半裸の姿、と書かれていたが、そうだろうか・・・私にはひどく官能的な絵に感じられた。ラ・トゥールに怒られてしまうかな?現存する他の「マグダラのマリア」は思案にふけり(服を着ていて)どくろに軽く指を触れているだけなのに対し、このマリアは、両手でどくろを包むように触れている。ひじをつき、半裸の身を乗り出し、まるで横たわる男の頭部を抱いているようにも見える。もし目が髪に隠されていなくて、どくろを静かにまっすぐ見つめているのであればまた雰囲気は違ってくると思うが、目の表情は見えず、顔を心もち画面奥へ傾けている。つまりちょっと斜になって、どくろを少し見下ろしている。軽く引き結んだ口元にはちょっと投げやりな、シニカルとも言えるような情感を感じる。光の効果をあらわしたかったのか、背景の闇と、マリアの背中や髪の境界にはまるでオーラのようにブラウンの縁取りがほのかにしてあり、マリアの体温、気配のようなものをかもし出している。マリアとどくろの前方には、非常に大きな書物がページを開かれて置かれており、立ち上がった1枚のページにより、これもまたろうそくの炎の半分は隠されているのだ。(このページの大きさ、透けてみえる炎、これではまるで寝屋の薄幕ではないか!うがった見方ですみません・・)崇高な感じはしない。むしろ俗とか、肉といった感じのほうが強い。うがち過ぎ??ちょっとエロティックな想像のしすぎ??(*^^*;)見られてはいけない目の表情を思い浮かべてしまう。「メメント・モリ」死を想え、という思想の象徴だと言われるどくろだが、他の思索的なマグダラのマリアの図と大きく異なり、想うどころか、体ごと死に身を乗り出していく女の図。どくろに全身で向かっている。死神と寝ようとしている女。それはそれで何か思いつめたもの、彼女なりに熱く抱いているものがあるように感じられて、不思議なこの絵に惹きつけられる。本来のマグダラのマリア像からまったく外れた見方だけど何か濃厚なものを感じてしまう・・・参考作品として小さな銅版画の模写で見たのだが、「鏡の前のマグダラのマリア」もぜひ見てみたいと思った。こちらはまったく思索的な、おそらく崇高な雰囲気のマリアなんだろうな。常設展も見た。モネの「アイリス」が素晴らしい。また、ドーミエの「マグダラのマリア」も初めて興味を持った。小さな作品だけど、ドーミエらしいタッチの、ぽってりどっしりしたマリア。激情に駆られたように草原の中で祈りを捧げているが、叫んでいるようなその表情は、ほとんど男のようだ。今回の常設展の中の特別展は、「マックス・クリンガー版画展」というもので、けっこうよかった。銅版画は、ちょっと神経質っぽくてあまり好きな手法ではないのだが、今回のクリンガーの作品群は、見ごたえがあった。象徴的で、構図も面白かった。休み休み、大いに満喫した!美術館はやっぱりいいなあ。ラ・トゥールの次は「ドレスデン国立美術館展」、またフェルメールが見られるので楽しみだな。
2005.05.26
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昨年「ダンスのライブ一緒にやろうよ!」と声をかけていた友人とやっと今日、会合を持つことができた。彼女はフリーライターで、最近半端じゃない忙しさだったからこの分だとライブの話、お流れになるかとどきどきしてたけど・・私が先日思いついたモチーフも興味深く受け入れてもらえて、なんとか始動しそうだ。やったー!彼女は私の案をけっこう気に入ってくれたらしく、もうすでに衣装のことなどイメージしていた。自分だけで考えてると割と単一になって、そこまではイメージ広がらなかったなあと思う。私の提示した2つの役のうち、2人とも同じ役をやりたがってることがわかって、しかもそれはきれいな役というより、イロもの的な役なので、おかしかった。彼女は舞踏、私はバレエ、ジャズなので全体的には間をとってモダンダンスっぽい作品になると思う。早く振付がやりたいなあ。振付をするのは何年ぶりだろう!わくわくする。また、ミュージシャンや役者さんなどとのコラボも視野にいれてこれから話をつめていくことにした。ほかにもいろいろ話して、とてもいい刺激になった。お互い興味深い映画や本などの情報交換をしたり、仕事の話、体づくりの話、最近あった日常の面白い話などしてあっという間に時間が過ぎてしまった。今年の大きな柱となるものがやっと動き始めた。まだ具体的とまでいってないし、実感も薄いけどひとつひとつ進めていこう。
2005.05.24
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母と一緒におばあちゃんの23回忌に出るために横浜まで出かけた。お寺ではなく、住宅地の中にある小さな礼拝所(っていうのか?)で読経をあげていただいた。親戚や関係者6人が集まるだけの小さくささやかな集まりだ。私はお墓参りなどもほとんどしたことがなく先祖のお墓がどこにあるのかも知らない、無宗教派の不届き者だから仏教のこともよくは知らないけれど、どうやらそこは「法華真宗」らしい。読経のあと、まだ30代か40ちょっとくらいの男性の方が簡単にご本尊について、法華真宗についてお話をされた。その中で「南無妙法蓮華経」は、この言葉自体が本尊であり題目であり、法華真宗の教えそのものをあらわすものであると言っておられた。また、人と世界との関係性、その有り様について、人はこの限られた肉体の中だけにあって世界と個別に切り離されている存在ではなく、いうなれば「点」のような存在で、「位置」は定まっているけれど個別に限られておらず、世界と結びついていて影響を与え合っているのだ、とそんなようなことをおっしゃっていた。その考え方、感覚は先日書いた「世界の感じ方」とも通じる気がしてどういうことなんだろう、と初めて法華経に興味がわいた。何かご質問は?と言われたので、「南無妙法蓮華経」の意味をたずねた。その題目そのものが本尊でそれを唱えることで救われるというし、名は体を表す、ともおっしゃってたのでまことにその通りだと思い、それではなおさらその意味やイメージを知らないと唱えることができないだろうから(自分が唱えるつもりは毛頭ないけど)名前の意味を知りたかった。すると「南無」は「帰依する」という意味だというところまではよかったがそのあと、どうにも遠回りな話になってしまった。「南無妙法蓮華経」を唱えると、一般の人も救われるというのは初期のころの話で、今は末法の世だからそれを唱えても救われないという。なんだか単純に意味が知りたいだけなのになあ・・そこでその言葉はインドの言葉で当て字にしてるから漢字ではわかりにくいのかと思い、そうさらに尋ねるとこれはインドから中国へ伝来するとき、訳されたものだという。そしてまた代表的な訳が7つもあり、どこのだれそれさんが訳して、どれが日本に伝わって・・といろんな話が聞けるのはそれなりに面白いけど、すっきり意味を教えてくれないのである。真剣になると、私はどうも問い詰めるようなきつい言い方になるのか、相手の方もだんだんしどろもどろになり、結局は「あまりいい加減なことを申し上げてもいけないので・・」と意味を説明してもらえなかった。なんてことだ。そして、なんだか場の雰囲気も気まずくなってしまった・・・私が彼をいじめてる図?みたいな。主宰者である親戚のおばさんが「ま、ひとやすみしましょうよ」と声をかけてそれで終わりになった。ほかの方やそのおばさんは「蓮の花が泥の中からきれいに咲くからそのように心がけなさいっていうふうに聞いたことがある」などと教えてくれたので、あ~それならわかりやすい!とちょっと納得した。でもその方はそういう世俗的なわかりやすい説明をあえて避けて厳密に説明しようとしたのかもしれない。わかりやすければいいとも言えないが、でもそれなりにさらっと説明してくれてもよさそうなものだ。走墨を始めてから、書にも目が行くようになったのか、部屋にかけてある立派な書や、ご本尊の両脇にかけてある書についてもなんて書いてあるのか、その意味なども尋ねたくてうずうずしてたがさすがにもう質問はしなかった。「南無妙法蓮華経」についてはしかたがないので帰ってからネットで調べた。鳩摩羅什(くまらじゅう)という人の漢訳したもので、「南無」・・・やはり「帰依」「妙法」・・・正しい奥深い教え「蓮華」・・・白蓮華(ハスの花)「経」・・・経仏の教えをまとめたお経ものすごくおおざっぱに書くとそんな感じらしいです。そしてやはり泥の中からハスの花が泥にそまらずに美しく咲き出でるように、俗世間で汚れにまみれることなく清らかに生きて人々を救う、という姿勢が象徴的に意味されているらしいですね。まったくもって違ってたらゴメンナサイ。友人のKちゃんは私より多少仏教に詳しいので、彼女にも質問メールを出しておいた。信心はもってないけど、意見交換するのは面白そう。こんなに仏教について知りたいと思ったのは初めてのことだ。それは人と世界との有り様のイメージに共感できる部分があるのではないかと予感したからだが、今まで興味なかったものに何かを感じることができるなんて面白いなあ。わかりやすい入門書でも読んでみようかなあ。
2005.05.22
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先日久しぶりに療養中の友人、Kちゃんから電話があり、話した。彼女は手術を受けて長く入院していたが、昨年末退院して、自宅療養中だ。メールしても返事がなかったのでまた体調がひどいのかと心配していたが、少しずつではあるがよくなっているらしい。体を動かすこともしているらしいし、テレビを2時間見れるようになったので、だいぶいい。そして今後自分はどうやっていくかを考えるとき、いつも私のことを思い浮かべると言う。彼女と私は大学で哲学科のクラスメイトで、会ったその日から意気投合した、貴重な友人だ。仲はいいけどあまり似ていない、どちらかというと「鍵と鍵穴」のような関係だと昔から感じていた。文化的・芸術的なこと、言葉や思考、人間関係などについて話すのがお互いとても好きだし、共通点ではあるが、性格や価値観などはずいぶん違うと思う。2人の違い、また共通点、そうした話はいつも興味深い。彼女が私のことを評するときよく出てくるのは「いつも変わろう、変わろうとしてるところがすごい」。しかし、彼女には自分を変える必要を感じないほど満たされた人生だったのだろうと思っていた。私はいつでも自分に不満だらけで、貧乏性なだけではないか、と。最近はやっとそんな卑屈なふうには考えなくなって私にパワーがあるとすれば、自分自身に対するパワーだけなのでそんなナルシストでエゴイストな姿が逆に彼女にパワーを与えているのであれば、彼女自身の志向性を探るのに役に立てればいいなと思う。電話で話していて、2人の本質の違いについてぱっと浮かんだイメージを話した。同じ街を歩いているとしよう。彼女は、街並みの美しさ、ちょっとした鉢植えの花、わき道にいる子猫、晴れ上がった空、きれいな門の風合い、そんな小さな身近なものすべてを味わいながら歩いていく。生活のうるおい、豊かさ、美しさをいつでも感じ、尊び大事に大事に丁寧に生活していく。私は、と言えば同じ街を歩いていてもそこはグレーの街で、もうひとりの私が頭上を飛んでいて同じように進んでいる。空からは地上の美しさがよく見える。よくわかる。そして地上の私は、本当の自分は空にいて、豊かさも美しさもよく知っているから、地上の街はグレーでもかまわないと思っている。現実を生きて地道に歩いてはいるけれど、心が飛んでいれば、それでなんとかやっていける。だから、平気。幸福といってもいい。しかし、心が飛べない時期、空から失墜してしまったとき、地上の自分だけになってしまってグレーに塗りこまれてしまっているときはひどくつらく、不幸な状態だと感じる。大人になったら、日々耐える術もだいぶ身についてきたけれど。彼女からすると、普段の私が日常に対し、あまりにがさつ・無神経なので、日常の美しさ、楽しさ、喜びをもっと知れば幸せなのに・・と思っているかもしれない。そんな、2つに分かれてしまってる自分が幸福なのか不幸なのかはわからない。ただ私の感じ方はそうなのだ。そんなふうにイメージと言葉を明確にして改めて気づく。でもそのイメージはなぜかしらちょっと哀しいイメージで、言葉にしてしまってから胸がつまった。しかし、ときどき両方の私が1つになる瞬間がある。そのとき世界はいきなりどっと色を帯び、網膜がおかしくなったのかと思うほどすべてのものが美しく見え、すべてが自分の居場所で、すべてが自分のものだと感じられ、光の中にたゆたうような至福感を味わう。そのとき街はグレーの街ではなくなり、みずみずしい光と風をはらんだ色彩豊かな街に変貌する。そうしたときは、地上にいながらも自分は飛んでいるのだろう。シャガールの絵の世界のよう。それは年に何回かしかない。200%、いや1000%の幸福感。それはきっと脳の、ある状態によるんだろうな・・・そして、Kちゃんはもしかしたらいつでもそんな至福状態でいられるのかもしれない。そういえば彼女は一種の「快」のトランス状態にしょっちゅう入れると言っていた。彼女の場合は、表だっては理解されなかったが、昔から病気で体に常に変調をきたしていたからそういうトランス状態に入って「快」の脳内物質をあびなければ、日々やって来れなかったのかもしれない。そしてその状態は創作活動には断然必要な、ある創作の沸いてくる状態と一緒のような気がする。舞台の脚本を書く友人も「神様が降りてきたーー!」と言ったりする。芝居をやってる友人も訓練して、それと似た状態に稽古のときほぼ毎回入れるようになったと言っていた。私も芝居をやってたときは、たまにしかそんな状態に入れなかったが、歌のとき、文を書いてるとき、ぱちんとスイッチがはいるときがある。絵を描いてるときはあまりない。だから絵を描くのは私にとってつらい作業なのかもしれない。絵や絵本のイメージを自由に浮かべてるときのほうがよほどその状態に近い。パソコンのゲームのときもたまにある。ものすごい集中してるけど、リラックスした状態で意識してないのに最高記録が出てたりする。人の感覚を感じることはできないのですべてがそっくり同じとは言い切れないが、基本的には同じのような気がする。Kちゃんは、病気が少しずつでも治ると、その特殊な状態も必要なくなり、感じなくなるんだろうか。それとも一度獲得したその能力は、失われることはないのだろうか。病気が治ったときの、彼女が発するであろう能力はそら恐ろしいものがあるような予感がする。それに比べると、年に何回かしかトランス状態に入れてない自分はなんて凡人なんだろう、とちょっと淋しくなる。でも芝居をやってる友人が訓練してその能力をある程度意識的に獲得できたのだから、希望は捨てずに望み続けてみよう。能力の発揮。ああ、なんだか最初の話からだいぶそれてしまった・・・ちなみにこのブログは、空を飛んでるほうの自分の見る世界が強い。地べたにいる私は飛ぶ早さについていくのが大変・・ほどほどにしないと、飛んでるほうの私も失墜してしまうね・・
2005.05.20
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昔通っていたバレエとモダンの先生のモダンダンスの公演を見に行った。たくさんのダンススタジオとの合同なので、知っている先輩たちが出るのは1曲だけだけど・・曲は私の大好きなピアソラ。久しぶりにモダンの世界を堪能した。衣装のカラーリングが他のスタジオと違い、オータム系のかなり渋めな色あいで、先生の今の志向や雰囲気を感じた。上手になってたり、体つきもシャープになってたりして、昔一緒に踊った子や先輩の踊りを見るのは楽しかった。他のスタジオのでは、アランフェスを踊ったところがとってもすてきで、衣装も照明も振付の構成も印象的だった。10人のダンサーのレベルも揃っているし、ある意味、わかりやすくメジャーを意識した踊りだったかもしれない。モダンはその人それぞれの呼吸が大事らしいから、割と振りがばらばらになりがちだったり実験的な感じの振付が多いけれど、そういう振りでは、かなりレベルが高くないと、正直見るに耐えられなくなる・・・難解だったり、あまり美しくなかったり。モダンダンスとはそういうもの、とも言える。けどどうなのだろう・・わかりやすければいいとも言えないし。でも難解で振りがばらばらだったりすると、ぐっとくるものも感じにくい。好みの問題なのかなあ?自分がそこまで踊れるわけではなくても、いやだからこそ、そこまでのレベルに達していない場合、どんな振付を、どんな踊りを出せばいいのか、今日の舞台を見ながら考えさせられた。また、あらためて強烈に感じたのは、ダンスは「生理」だ、ということ。コレオグラファー(振付師)の生理、ダンサーの生理。だからよけい好みが分かれても仕方ないのかもしれないけど・・もう先生のところに通わなくなってだいぶ経つ。楽屋に顔を出すと「またレッスンにいらっしゃいよ~」と言われてしまった。この3年そのことはずっと逡巡を重ねてきた。単に忙しい、お金が回らない、というのもあるけどいろいろと自分自身の心のしがらみもあって行かないでいた。ちょっと考えてみよう・・・
2005.05.18
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デスクトップのパソコン先週買って届いてたのに週末は疲れ果ててセットアップしなかった。今日やっと復活しましたよ~。ふ~最初うまくネットにつながらなくてどきどきしたけどなんとか格闘してつなげることができました。しばらく更新してないのにページに遊びにいらして下さってたみなさん、ありがとうございます。ただいまです。あとは前のデータを取り戻すのを自分でできるか、ショップにお願いするか・・・HDDを入れ替えたり自分でやったことないからどうかな?プロに任せたほうがいいかな・・思案中。ディスプレイはまだ使えるので、ハイスペックのビジネスモデルを単体で買ってみました。興味は前からあったけど初めてのIBM・・もとい、レノボ。「れの坊」とでも呼ぼうかな。次はソフトをばしばし入れなきゃ・・・
2005.05.17
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パソコンがこわれた・・・もう丸4年もたってるのでしょうがないとも言える。買ったパソコンショップで3年前にも一度修理してもらっているが、さすがに今回は修理するより買ってしまったほうがいいかもしれない。ショップに電話して、症状や事情を説明し、HDD内のデータだけ取り出してもらうことにした。カバーを開け、ドライバーを使ってHDDを外した。データ、こわれてないといいんだけど。いつか来るとは思っていたけど、とうとう来ちゃったなぁ・・新しいの、選んで買わなくちゃ。ちょっとだけ空虚な心もち。やはり愛着があるのかな。
2005.05.08
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3日から5日までの連休は、実家に行ってのーんびり。連休中に読む本は今回特に持っていなかったので実家にある古ぼけた文庫本を取り出して読んだ。堀辰雄の「菜穂子・楡の家」、懐かしいなあ。「菜穂子」は高校時代の愛読書だった。生の不安に追い立てられるように、地味で堅実な男との結婚の中に自分を閉じ込め、姑と3人で暮らす、そのうちに喀血して、信州の療養所に入る女性の話だ。そのころは村上春樹などがはやっていたのに、なんてふけた高校生だったのだろう・・・それとも、結婚への憧れなんて皆無だった私にはぴったりだったのかもしれない。「生の不安」というキーワードと、菜穂子の幼なじみの明という青年の、自分自身を追い求めて旅する姿やその明の姿に触れて、菜穂子もささやかな冒険をしてみるラストが当時の私には響くものがあった。それにしても今読むと、堀辰雄という人の当時は少し読みにくいまでに感じた、なんと細やかな心理描写、とても繊細で幾分女性的な部分を持った、そして生真面目人だったのだろうと感じる。より一般に有名な「風立ちぬ」でもそうだが、彼の作品を読むと、軽井沢や追分など、信州の少しさびれた静かな避暑地で時間を過ごしてみたいと思ってしまうのは私だけではないだろう。昔はとっても憧れていたが、しかし今は観光地として賑やか過ぎるんだろうな・・・
2005.05.06
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