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昨日の日曜はせっかくのいいお天気だったけど、家にこもって家事や片付けをのんびりやった。ちらかしやさんの私は、デスク周りが超~ちらかってて、ものがごたごたしている。いろいろ捨てたり整理したりしなきゃ、とずーっと思っててもなかなかできない。私にとって、ものを片付けるのは、ものを片付ける"時期"があってそれまではついほったらかしにしてしまう。自分の心が何かを探り当てるまでは、どうにも整理のしようがない。それが、昨日は少し進んで、デスク周りを少々片付けた。最近やっと流れてきたようだ。いろいろ片付けたくなってきた。しかし、友人からのポストカードが出てくれば読むし、お気に入りの画集は眺めるしでほんとに時間がかかってしまう。過去への執着心がひと一倍強いと自覚している。日記にしているノートが出てきた。まだブログを始めていないときのノートだ。それもつい読みふけってしまう。そして過去にさかのぼり当時の自分自身と呼応する・・2003年9月20日(土)人はすべて亡くしたときに初めて、偽らざる欲望と生きるための力をはいずり回って泥をつかむように、つかもうとするのではないか。それは不幸なことだろうか?そうとは一概に言えないのではないか。2003年11月18日(火)ものを捨てること、またやり直しだ。ものを捨て、入れ替えていかないと、新しいものは入ってこない。新しく歩もうとしてるのに。それは心の問題、覚悟の問題だ。惜しむ気持ち、懐かしむ気持ち、忘れ去りたくない気持ち、つまり執着が邪魔しているのだ。何が必要で何がいらないか。まだしがみつき、捨てる努力をしていないようだ。2003年11月30日(日)何が正しくて、どうすればよかったのか。いつまでもいつまでも頭をもたげてくる疑問、迷い。もうとっくに過ぎたことでも。2003年12月4日(木)私のすべては私と共に滅びる。何も残りはしない。2003年12月15日(月)すごく遠くまで来た。そしてもっと遠くまで行く。それはひとりで、かもしれない。Kちゃんと話してそう思った。そしてKちゃんが望んでいるところとは違っていく可能性がある。そのずれを今日少し感じた。それでも見守る強さ、大きさがKちゃんにはあるとも思えるが、でもついてはこないかもしれない。それでもしかたない。私は遠くへ行くだろう。突き進むだろう。誰もいない北の海辺まで行くだろう。銀河の果てまで行くだろう。むき出しにむき出しに。Kちゃんもびっくりするくらい。しかし本来の自分を出してびっくりされるのは心地いいものだ。嘘つきと言われてこんなに嬉しかったことはない。面白いと思ったことはない。偽悪的な自分を発見した。誤解したKちゃんのほうが傷ついたことだろう。残酷。残酷ってどういうことだろう。真実は時に残酷だと言うけれど。2003年12月16日(火)私の座っていた場所から私を追い立てること、私にまつわる執着にも似た人間関係を一旦無に帰すこと。そこから新たな私を、人間関係を打ち立てること。一連の出来事は、そのことを一途に実行することだったのだ。慰めも労わりもいらない。自分の弱さと強さを知っていて、自分を支えている。2003年12月17日(水)パリから戻ってきた頃の気持ちの状態を思い出している。そしてまたPierettaを解散したあとの頃の。それらの状態に似ている。喪失と獲得と。不思議な状態。久しく忘れていた鋭敏な感覚。ひとり水の中にいるとき、耳に水圧を感じ、周りの音は遠く聞こえるけれど、はっきりと遮断されている、あの感覚と似ている。2003年12月18日(木)駅のエスカレーターに佇んでいるとき、少し遠くに一瞬Gの後ろ姿を見た気がした。見上げた先にいたのは、少し服装の雰囲気の似た誰かだったのだろう。そのとき無性に私は、Gの幻影の後ろ姿、少し前、少し上を行く姿に、強くなりたいとはっきり念じた。夜の蛍光灯の無機質な、暗く白光りする駅構内で、しかし一瞬空気が洗われ落ち、小さな強い光が私に宿った。光る石を握り締める感じ。こうしてまだまだ遠くへ行く。2003年12月27日(土)捨てなきゃ動けない。自由になれない。重たいものは捨てて捨てて捨てて、身軽になって初めて走れる。しなやかに走れる。旧世界。旧世界に属するものたちとの別れ。旧世界。なんと心懐かしい、そしてちょっと哀しい響きを持つ言葉なのだろう。2004年1月1日(木)砂漠に立つ神殿。古く美しい神殿。それを支えるエンタシスの円柱が1つずつ倒れ、最後の1本がくず折れた。がらがらと崩壊した。その中に優しく守られていたのに。ほっと息をつけたのに。そこで豊かに育まれてきたのに。自らこわしたのだ。そしてその残骸の下敷きになり、傷つきうめき血を流した。しかしまだ生きている。生きていける。それを知っているからこわしたのだ。私はまだ血を流し続けているけれど、残骸を踏みしめながらこれからどこへでも行ける。どこへ行くのかはわからない。しかし旧世界を去ることは確かだ。2004年1月2日(金)何故だろう、私はもう以前ほど砂漠や荒野を夢見ない。それは既に私がそこにさまよい出てしまったからかもしれない。安らかな堅固な神殿の中に守られているからこそ、それら不毛の地へ心が魅きつけられていたのではないか。もうすでにそこにいる。そして次の行くべきところを探している。2001年秋、自分に対しテロを起こした。突然の崩壊。自分自身を揺り動かし、安全の地から追い落とした。私は今荒野にいる。荒野にいる。崩れた神殿の残骸がある。そこにはもう涙は注がない。荒れ乾いたままにしておく。そこには神官の高潔さ、哲学者の智の言葉、巫女の歌声などが幻のようにつきまとってはいるが、思念に過ぎない。私は兵士だ。私はジプシーだ。旅人だ。2004年1月16日(金)自由と孤独。広いところ。ひんやりしたところ。淋しくて淋しくて泣きたくなるところ。嬉しくて嬉しくて泣きたくなるところ。自分が世界へ流れ出し、そして全てが自分に戻ってくるところ。何か透明な硬質な気配が、ゆっくり旋回し上空のかなたに限りなく散り広がっていくところ。それをじっと見上げ、高みを憧れ続けるところ。私がいて、ぼーっと座って、地の声を深く深く聴き続けるところ。2004年5月31日(月)羅針盤。回り回り指すべき方向を見つけあぐねている。旅している。流れている。立ち止まり、また歩いていく。
2006.01.30
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一村雨さんのブログで、国宝の長谷川等伯の「松林図屏風」が今なら見られると知り、会期ぎりぎりでようやく上野の国立博物館へ行ってきた。国立博物館はじっくり見るのは初めて。広いしたくさんあるし、2Fの「日本美術の流れ」を見るだけで手一杯だった。こういうときは、一番見たいものまでまっさきに突き進み、あとはざっと見て、もう一度見たいものだけ戻ってじっくり見る。目指す「松林図屏風」は、一段照明を落とした国宝室にあった。淡い。しんとした空気。それを全体で感じ取ったときにまず私を貫いたのはもっと仏教を知らなければ、という唐突な思いだった。そしてこれを見に来ているたくさんの人を含め、無神論・無宗教者である私も含め、日本人の多くはやはり基本的に仏教徒なのだ、日本はもはや後戻りできないほどに仏教の国だと今更のように実感した。何故突然「松林図屏風」を見てそう思ったのか定かではないが、その墨絵の空白に、仏教の色即是空の思想が、日本でなじんだ日本的な仏教や禅宗の思想が、空間や時間のとらえ方、山水のとらえ方、美意識などが集約されているように感じられたからだろう。そして多くの日本人はやはりそれらを直感できる感覚を共通して持っていると感じたからだろう。2双の大きな屏風に松が4群配置されている。空白のほうが広いくらいで、それは松林に立ち込める霧のようだ。左の屏風のかなたにはかすかに山の稜線が描かれている。朝だろうか、霧の中に松の木々がぼうっと立ち上り、墨の濃淡のみでその立ち姿、奥行き、空気感を描き出している。しかし不思議なのは、4群のそれぞれ主となる4本の松の木のすぐ脇に生えている松が必ず淡く描かれていることだ。奥まった松が淡く描かれているのは、霧のためか遠景のためかすんでいるというのがわかるが、主となる木のすぐ隣り合っている木が霧にかすんでいるのは不思議。主となる木を引き立てるためかもしれないが、4群の、どの4本にもペアとなるように淡く描かれているので、あたかもそれが分身のようにも見えるし、あるいは霧にうつった影のようにも見える。不可思議な世界に迷い込んで、目の錯覚を誘われているようにも見え、さらには霧の中の人影と、その脇にあらわれた霊魂のようにも見え、一瞬ぞっとする。昨年100km歩いたとき、真夜中の山道で意識が朦朧としていたのか、木や草が人影に見えたことを思い出したりして。その二重性は、実は奥の松の木にも言える。枝ぶりのよく似ている松が背後でもやはりペアになっているのがいくつか見られる。これは意図したものではないだろうか?(それとも、海沿いだとよく同じ方向に枝が向いていたりするけれど 山の松林でも、やはり斜面や日照の関係で同じ形になりやすいのだろうか?)そんなことを考え、その幽玄な雰囲気の中に確実にとらわれていく自分を感じた。これは写実ではない、どこにもない風景だ、と何かで読んだが、まさに写実ではなく、目に見える世界とはまったく違う、異世界だと思った。国宝に指定されるくらいだから、安土桃山時代からこれまで、どれだけの多くの日本人が、この屏風の異世界をさまよい、これを日本の美意識、日本の精神として尊んできたことだろう。かすかな山の稜線と、墨で描かれた松、筆を入れないことで表現されている、立ち込めた霧─すなわち空(くう)─、たったそれだけのものが、これだけ日本人をひきつけ、何か虚実の境に紛れ込んだような淡い時空に引き込み、恐らく日本人の魂を吸い上げてここまで生き延びてきているこの屏風は、どこかそら恐ろしい存在のような気もする・・・※国宝、長谷川等伯「松林図屏風」の展示は2006年1月29日で終了しています。
2006.01.28
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1月19日付けで友人たちのライブ@西荻 その2アップしました。メモってはあるものの、最近はなかなかブログの更新ができない!う~っ。書きたいこといっぱいあるのに。でも、がんばって更新しますので、またお立ち寄りくださいね~。
2006.01.25
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「そうぼく」の広春先生の受賞された「第57回・全国カレンダー展」、会社の昼休みを利用して、行ってきました!銀座のメルサ7階にある東京銀座画廊美術館まで。先週来たときは、間違えてニューメルサのほうへ行ってしまって、クレージュのおねえさんに調べてもらったらカレンダー展は二丁目のメルサで開催と判明!銀座って慣れてないから、恥ずかしかったな~(^^;)でもおかげで、待ってる間クレージュのコート、いいないいな♪と見ることができました。黒もよかったけど、白のがすてき!かわい~。でもショート丈だから、おしりの寒いのは耐えられなさそ~・・結局、その日は、日にちも違ってしまってて、場所を確認し、銀座をぶらぶら歩いただけで終わってしまいましたが、今度は日にちも確認し、昼休み突入とともに、いざGO!日本印刷産業連合会主催のこのカレンダー展は、受賞作品だけでなく、国内のさまざまな企業カレンダーが思ったよりたくさん出品されてました。受賞作品のコーナーに先生の作品のカレンダーもありましたありました!モナリザと隣り合ってました。レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画のカレンダーとともにデザインの特別賞を受賞されたようです。複製とは言え、ダ・ヴィンチと隣り合ってしまうなんて・・・(@_@;)企業用で非売品だから手に入らないと言われてたけどここへ来ればもしかしたら入手できるかも・・ともくろんでいたところ、やっぱり、会場ではチャリティとして買うことができたので、来てよかった!とほくほく。一部買い求めました。それにしても、さすがにいろ~んなカレンダーがありました。さまざまに工夫され、デザインも印刷技術も紙質もすばらしいものがたくさん。「これが企業カレンダー?」と思うようなアーティスティックな作品も多く、また、写真やデザインに強いメッセージ性を持たせたものもありました。毎月ちぎるのがもったいなくなりそうです。日本の企業もこういうところにお金をかけられるようになったんですね。すばらしい風景写真の作品、動物の愛らしい写真作品、著名な絵画を扱ったもの、ファッション写真、CG作品などなど。穴があいていて次のページのカラーが見えるものや、小さくてシンプルな、文字だけでも美しいもの、ほんものの掛け時計と組み合わさっているものまでありました。日本画や浮世絵など和ものも案外多かったのが嬉しかったです。また、私が「?」と注目したのは、トヨタのカレンダー。トヨタなのに、居心地よさそうな、アーティスティックな住宅のそれぞれの室内の写真。なんでかなあ?と思ってよ~く見ると、バスルームのタオルに、寝室の本の背表紙に、旗に窓に、というように1ページの中のどこか1ヶ所に小さくトヨタの車がさりげな~く模様となってたり映ったりしている、というしかけ。「やられた~」と思ってしまいます。先生のそうぼく作品も、手に入れたけどもったいなくてちぎれない~。でも飾りたいし、困ってしまいます。表紙が「翼」、中には3ヶ月ごとにそれぞれ1文字ずつ、「飛」「翔」「躍」「動」の文字がしぶきを上げてほとばしるように書かれています。かっこいいです!でも、やはり印刷はのっぺりしてしまいますね。かすれの美しさや墨の黒のつややかさ、強弱や濃淡の味わいはかなり削がれてしまってます。う~ん、残念。機会があったら、一度これの原作を見てみたいな。それにしても、展示作品が多いので、スペースの関係上、仕方がないですけどめくるときの細工のされてる作品はともかく、ぶらさがっているカレンダー作品を1枚ずつめくらなければ中身が見られないのが、ちょっと残念でした。時間もなくて、1つ1つはとても見られなかったし、手荷物を持っていたら、片手でめくるため、全面はめくりにくくなかなか丁寧には見ることができないんですよね。でも思ったより面白かったので、時間があったら、もっとゆっくり見たかったですけど・・・帰りは飛ぶように歩いて会社に戻りました。「第57回・全国カレンダー展」2006年1月24日(火)~26日(木) 10:00~18:00 東京銀座画廊美術館(銀座メルサ7階)
2006.01.24
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今日は遅ればせながら、バレエの稽古始め・・・なんと1ヶ月ぶりのジム!12月後半から、残業やインフルエンザやイベント、また疲れなどから、なかなか行くことができなかった。疲れているからと言って、身体を動かさないほうがほんとは身体にはよくない。最近では肩や首のこりがひどく、身体全体もこわばってときどき軽い腰痛の予感もあったりして、ヤバいな、と感じていた。今年明けてからの仕事の大波がおさまり、イベントも終わり、やっと行ってみると、いつの間にかタイムテーブルに変更がありちょっとあわてモード。が、バレエレッスンの前に、ストレッチのクラスが増えていてそれに参加できたので、久しぶりな私にはちょうどよかったかも。ほんとに身体は正直にかたくなってしまってる(^^;)ストレッチもレッスンも、ウォームアップまでも行かないくらい。情けない・・・でもバーレッスンでは、デリエール(脚を後ろへ動かす動き)のとき脚だけでなく、背中から筋肉が動いているのを感じて、昨年使え始めた筋肉は、まだ動きを忘れてなかったんだな、と嬉しくなった。しかし、Tシャツから出ている二の腕は、ふくふくまるまるしてきていて、早急にシメなきゃいかん!と反省。あとは、昨年先生に指摘&アドバイスされていた、足の裏の筋肉を使うことを、シャッセ(足の裏で床を擦る動き)やサンジュマン(ジャンプの一種)のとき、ちょっと意識してやってみた。久々のバレエはやっぱり楽しく、しかも今日のレッスン用CDは私の好きな耳慣れたクラシック曲が多く入ってるCDだったのでよけいここちよかった。バレエは体力・筋力をとっても使うけど、音楽と呼吸、が脳や身体に安らぎと調整を与えていると思う。中でも大好きな「亡き王女のためのパヴァーヌ」が流れたときは、前から思ってはいたけど、この曲で一度は踊ってみたいなあとあらためて新鮮な気持ちがわいた。もっとダンスをやりたい、音で身体を洗い流したい。リズムをラインを打ち出したい。レッスン時間はあっという間に終わってしまい、ちょっと物足りないけれど、身体ものび、ここちいい疲れが身体に懐かしい感じ。そして新たな意欲を持って、ジムをあとにした。
2006.01.20
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友人たちのライブを見に、またまた西荻に行ってきた。前回のライブでのNちゃんの琵琶の代わりに今回はカンツォーネの男性ボーカリストが参加し、また違った感じなんだろうな、と思いつつ。演劇学校の同期だったYの朗読からいつも始まるのだが、今回は意表をついて、男性ボーカリストにより、しかもカンツォーネではなく、さだまさしの「童話作家」という曲から始まった。そしてYの朗読は工藤直子・作「ねこ はしる」。チビねこと魚とのかわいらしい童話らしく、イントロの歌も納得。Yはねこや魚、みつばち、などのキャラクターを演じ分けてときどきピアノを交えながら、話がほんわか進んでいく・・と、思ってたら、また意表をついてこの作品、ねこと魚の友情物語なだけではなく、途中からかなり重い話になっていった。ちょっと・・お、重過ぎる・・・と正直ヘビーな気持ちになってしまい、「でも結末はきっとこうなるだろうな」と明るい方へ予想していたら、またその甘い予想を裏切られ、童話とは思えないような、"突き抜けた"終わり方だった。胸がぎゅっとしめつけられるラストだった。最後、ライトに照らされYの顔に光る筋が見えていたのでYが泣きながら演じているのがわかったが、声や間などにはまったく動揺も泣きも入らず、コントロールしきっていたのでさすが役者だ!とあらためて感嘆の思いを抱いた。こうした、甘くない"突き抜けた"話、Yは好きなんだなあ、私も好き。Yとはもう10数年のつきあいで、これまでもたくさんたくさん話をしてきたけれどまだまだ話したいことはわいてくるなあ、と思った。朗読が終わって下がってくると、Yは精魂つきたのか、いきなりぐったりしていたが、そこへまた男性ボーカリストが、やはりさだ氏の「道化師のソネット」を歌って、あたたかい雰囲気で第1部をしめくくった。第2部は、友人A子と男性ボーカリストにより、シャンソンやカンツォーネ、ダンスやとぼけたMCを交え、にぎやかなライブだった。この2人は同時に勝手にしゃべっていてもなぜか不思議とかけあいみたいになってとぼけた雰囲気で面白かった。ほんとはオトナの雰囲気のデュエット曲「パローレ」もまったくお笑いの小芝居になっていて、店内爆笑だった。でも、それも基本の歌がうまくなくては生きてこないので、A子もずいぶんうまくなったなあ、と感じた。今回は、やはり演劇学校の同期生で今は舞台でも、声優としても活躍しているKAYAちゃんが途中からかけつけた。あいかわらずきれいでおしゃれで、しかもぱーーっとしている。思いがけず会えて、嬉しかった!昨年は舞台のダンスシーンでてこずったらしく「やっぱりダンスも何事も続けなくちゃいけないと思った」とダンスを続けている私に対しても言ってくれたのでささいなことだけど、嬉しかったな♪KAYAちゃんは最近劇団でいい役をもらっているのに、昨年「見に行くよ!」と言ってた舞台を見にいけなかった・・今年はぜひ見に行かなくちゃ、と思った。舞台を続けている同期は少しずつ減ってきている。せっかくがんばっている仲間がいるんだから、作品を見に行くことで応援したり、また自分も刺激をたっぷりもらって、創ったり自分を磨いたりしたいな。パワーをもらえたいい夜だった。
2006.01.19
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遅ればせながら、1月8日付け「杉本博司~時間の終わり」展1月9日付けルオーとの静かな語らい~汐留ミュージアム「ルオーと音楽」展アップしました!今年の美術館めぐりスタートです!今年もすてきな作品にたくさん出会えそうで、わくわくしてます。
2006.01.15
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昨夜は「そうぼく」の教室の新年会でした。ちいさな和風家庭料理の飲み屋さんを借り切ってこぢんまりとやりました。雨も降り風もびゅーびゅー吹き、寒い寒い日で、正直行くのがおっくうになったけど、行ったらとっても盛り上がり、元気をもらえました。昨年やるはずだった作品展を、この教室ではやらなかったので、広春先生に「作品展はどうするの!」とけしかけられてしまいました。教室で稽古してるだけでは、井の中の蛙になってしまうから客観的な目にさらされ、プラスでもマイナスでも人の評価を受けないと上達しない、とおっしゃられました。確かにそう。ダンスでも芝居でもそうだもんな・・それに、目標があるとそれに向かって集中して稽古するからやはり上達の度合いが違ってくるだろう。どこでやるかの話題になると、あるアイデアが持ち上がり、それが実現したらすごく面白いということで一気に場が盛り上がりました。まとめ役の方もすっかり乗り気で、うまく交渉が進めば今年中は無理でも、来年初頭くらいにできるかな?昨年は教室全体もの~んびりしてたけど、今年は作品展に向けて、夏ころに禅寺で合宿しようという計画まで出てきてびっくり。2ヶ所ほどすでにお寺がピックアップされました。なんかすごいことになってるな・・・私が一番下っ端で、みなさん40代50代なのにすごく活力にあふれ、新年早々パワーをいただきました。また、広春先生も2006年企業カレンダーのコンクールでさっそく賞を取られたそうで、カレンダーを見せていただいたら力強い作品で、心臓きゅーん!となりました。これは素晴らしい!欲しい!しかし残念ながら企業カレンダーなので、非売品!がっかりです。でも銀座のメルサで今週末、そのコンクールの受賞作品展があるそうなので行ってみようかな・・3月には先生の作品展もあるので、それも楽しみです。前向きで、幸先のいい雰囲気の新年会でした。そうぼくに可能性はすごく感じているものの、墨と筆で自分の表現をどうしていくかはまだ見つからないのでそれを追究できる1年になるかもしれません。
2006.01.15
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すいません、こんなことやってたので↓今日アップします!と言っていた美術館めぐりの感想はまたのびのびになってしまいました・・・あ~、肩こった。
2006.01.11
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あけましておめでとうございます。・・・って、おそすぎっっ!ブログもずーっと更新せず、何やってたんでしょう?心配してくださった方もいらっしゃるみたいで、すみませんでした。実は、奇跡が起きました。(大げさかな?(^^ゞ)テレビの力を思い知る体験をいたしました。そのおかげで新年早々、仕事が超ハードになってしまい、毎日夜中近くに帰る日々・・・この3連休も、土曜は休み返上、祝日も短縮だけど出勤したし商売繁盛はいいことですが、忙しすぎてストレスたまって先週から胃の痛い毎日でした。(>_
2006.01.10
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松下電工汐留ミュージアムにて「ルオーと音楽」展を見た。ルオーは、父親がピアノもつくる家具職人、妻はピアノ教師、と常に音楽が生活にあり、彼自身も大声で歌いながら絵を制作していたという。しかしむしろ詩や文学や文学者とのつながりのほうをより強く感じたのは、私が音楽的な人ではないからかなあ?彼自身詩や本を書いており、ボードレールの詩集「悪の華」、「ユビュ爺の再生」など詩集や物語への挿絵が多く展示されていた。しかし、言葉に添えられた絵であっても、言葉を超えて、心を打つ作品、感覚に訴える作品、という点では言語的というよりは確かに音楽的だ。非常に静かな音楽。そういえば、ブリジストン美術館で見た「郊外のキリスト」なども無言の鎮魂歌、という印象を受けた。昨日の杉本氏のちょっと理知的な作品とはその点が対照的で、ルオーの前では、考えることがいらない。最初の展示室は、サーカスシリーズなどの油彩画と、カラーの版画。道化師(ピエロ)の目を閉じた静かな顔、かわいい。晩年の「マドレーヌ」(多分サーカス団の女性の顔)の原色使いは、時代は違うけれどフォービスムを彷彿とさせる。2つ目の展示室は、銅版画「ユビュ爺の再生」挿絵。物語の内容はわからないけれど、白と黒とで非常に面白い世界を見せてくれる。残酷で、黒人たちに圧制を加える白人たちは、ユビュ爺も含め、みな肥え太り、嘲笑的でもあるけれど、何ともユーモラスな姿で描かれ、なんとなく憎めない。中でも「政治屋」は、欲深そうな、意地悪く細めた目にめがね、ピンと跳ね上がったカイゼル髭、丸く白く大きな額などが醜悪でありながらも、ほほえましい。それに対し黒人は、弾力あるラインで、長いしなやかな肉付きの手足、穏やかな顔やユーモアと活力あふれる顔などで描かれ、のびのび躍動感がある。黒の美しいこと!白と黒の可能性をとても感じさせてくれる。次は聖書の風景シリーズ。小品ではあるが、静かな小さな光を放つ、真珠のような作品郡が見られる。すでに聖書を離れ、自然と街と人とを描いているかのよう。月明かりのもと、どこかにある街角、どこかにある一本道、どこかにある野辺の道、そこにたたずみ、あるいは歩むキリストと弟子、マリアなど。その人物たちは姿かたちは判然とはせず、風景と同じでそれは「誰か」であっていいのかもしれない。「回想録」の、親交のあった人物たちの肖像画と自画像もとてもよかった。これまで見たルオーとはまったく違うタッチで、こんな絵も描くんだと新鮮に感じた。詩人の「アンドレ・シュアレス」の肖像画はルオーが「彼は盲目の人のように見える」と言っている言葉どおり、目が落ち窪み、暗い目元をしている。尊大な、孤高の雰囲気。自画像は、また驚いた。彼の描く道化師(クラウン)によく似ている。道化師を写実的に描くとこうなりそう。彼が好んで描いたモチーフである道化師は、実は彼自身の投影だったのかと思い至る体験だった。小説家「ユイスマンス」は、まるで鷹のような風貌の横顔で描かれている。とがった鷲鼻、鋭い目、その横顔は意志や頭脳が今にも肉体をやぶって飛翔しそうな感じだ。「悪の華」の詩人「ボードレール」は、元となった写真とともに展示されている。目の下のくま、引き結んだうすい唇と口元の影など少し陰鬱な雰囲気はあるものの、何かこちらを見抜かれているような、視線を感じる肖像画だ。「悪の華」のモノクロ版画シリーズも、白と黒の可能性を感じさせてくれる。ボリュームのとらえ方が独特だなあと思う。人間の中にひそむ悪の部分、負の部分を描きながらも、ルオーの作品は、哀しいような愛情のまなざしを感じることができ、モノクロなのに穏やかなセピアの色に見えるのは、不思議だ。展示室の壁の色がベージュだから、同質化しているのかもしれない。参考作品として、ルオーと並んで「三大"悪の華"」と呼ばれる、ルドン、ロダンの作品も展示されていた。ルドンの銅版画作品は、ルオーのあたたかみある雰囲気とは対照的に神経質な感じで、ずいぶん本の雰囲気も違ったことだろう。ルドンはパステルのカラーの絵のほうが好きだなあ。また、ロダンの挿絵は、1枚しか見れなかったけれど写実的でずいぶん力強く、ルドンの非健康的な病的な神経質さと対照的。いったいどれが一番しっくり感じるんだろう?ボードレールは読んだことないが、読んでみたくなる。祝日の午後行ったにも関わらず、まだマイナーな小さな美術館のせいか、何しろ静かで、人も少ない。しかもたいていひとりで見に来ている人ばかりなので、みな無言でルオーと向かい合っていて、理想的な鑑賞条件だ。松下の真新しいビルの4Fにあり、ミュージアムの入り口前には何に使うのかよくわからない広々ぜいたくな空間もあり、トイレもナショナルマークのばっちり入った素晴らしいウォームレットで、ほかほかと快適♪特に女子トイレは、手洗いのところはガラス張りで自然光のたっぷり入るつくり。あんな明るいトイレは生まれて初めて入ったかもしれない。1Fはナショナルのショールームになってるので、すてきなキッチンや照明器具なども見られるし、1F入り口のところにルオー展のチラシのラックがあって、そこには割引券がついているから、500円の入場料も、実質400円。版画や小品が多い印象ですけど、ゆったり見られるのでルオー好きな方はいかがですか?
2006.01.09
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六本木ヒルズ森美術館にて「杉本博司~時間の終わり」展を見た。評判がいいのは聞いていたし、11月にダ・ヴィンチ展を見に行ったときにポスターでも知っていたけど私が決定的に見たいと思ったのは、12月かな?NHK教育テレビの「日曜美術館」で紹介されたときだ。日曜朝はたいてい番組を見ながらうとうと寝てしまうのだが、その日も、本編はほとんど寝てしまい、見ていなかった。最後のアートシーンのところでふと目が覚め、画面をぼんやり見るとN.Y.のクライスラービルの写真が、寝ぼけなまこの私の目に入ってきた。焦点を大きく外した、ぼやけたモノクロの写真。初めて見る作品なのに、不思議と懐かしさを感じ、しばし感傷に近いような感覚の波にたゆたっていた。これに会いに行きたい、行かなければという衝動に駆られた。その後、これがあの「杉本博司~時間の終わり」展の作品だと知った。12月は多忙&インフルエンザなどで結局いけず、会期終了ぎりぎりになってしまった。しかし思ったほどは混んでいなくて、じっくり見ることができ、よかった。いくつかシリーズごとに展示されていたが、私の目指すクライスラービルは、最後の明るい白いシンプルな展示室にあった。20世紀前半の著名な建築物を撮った「建築」シリーズ。わざと焦点を外したぼやけたモノクロ写真に撮ることにより老朽化による細かいひびや汚れはうまく隠され、建築家の意志や思想をも感じさせるような力強いフォルムだけが残される。杉本氏はそれを「耐久テスト」と表現していた。その中で多くの建築物が溶け去って行った、と。なかなか面白い試みだと思った。そしてクライスラービルの作品、なぜこの作品にこんなに魅かれるのだろう。思ったよりもずっと大きな作品だ。遠くから見ても、近く寄り添ってもこの作品は素晴らしい。遠くから見ると杉本氏の狙い通り、ぼけているにも関わらず、建物の強さと一種のきらびやかさを感じるし近寄ると形はますます判然としなくなり、光とやわらかい翳りに還元されてしまう。それでも美しく感じるのはすでに抽象の域に達しているからだろう。光を感じつつ、やわらかい影に包まれてしまうような、心地よさを感じる。自分が溶け込む。そんな写真作品には初めて出会った。杉本氏の作品は、見る作品というより空間ごと感じる作品だと思った。古代から変わらぬ風景を求め、世界中の海の水平線だけを撮った、「海景」シリーズもそう。知らないのに知っている。この水平線の向こうへ行ってしまいたい、懐かしい空間。先ほどの「建築」シリーズで、やはりN.Y.のワールドトレードセンターの写真も不思議な懐かしさ。でも世界の終末を予見するような黒々としたビル群の表情が不穏だ。滅びの帝国のようなもやめいたビル群のシルエット。写真は化石のようだと杉本氏はビデオの中で話していたが、まさにそんな感じ。過去のものだけど、息づいている。終わっているけど、続いている。彼の作品は空間ごと感じる作品、と言ったが、同時に常に考えることを要求される作品でもある。彼はとても思索家だ。思考し、探求している。常に自問自答から作品が生まれるらしい。その自問自答、そして思索から作品づくりをする過程は言語的ではあるけれど、最終的にはビジュアルとして形をなす。しかし、その根本にはしばしば哲学的な姿勢やものの見方が感じられる。「ポートレート」シリーズは、ちらしで見たときはモデルが16世紀ヨーロッパの扮装をしている写真かと思ったのだが、それらは、当時の王侯貴族の優れた肖像画を忠実に再現した蝋人形のモノクロ写真だった。そしてキャプションには、「これらの人物が生きているように見えるとしたらあなたは"生きていること"の意味をもう一度問い質さなければならない」という杉本氏の言葉があり、かなりどきっとさせられる。毎日通勤電車で見るたくさんの生気のない顔、顔、顔・・・もしかしたら、当然生きている現代の私たちより、この蝋人形のほうが濃く時代を生きているかもしれない。「これは役者さんだよ」と言われ、生きている人間として認識し、その存在を疑問もなく受け入れてもおかしくない。そうしたとき無邪気に信じてしまう生命や存在の有無というのは、どういう価値があるのだろう。絵画と違って写真には、それを信じさせてしまう力がある。逆に写真になっていれば、たとえ"虚"でも"真実"に見えてしまう。それは作り物がまるで本物の世界のように見える「ジオラマ」シリーズでもそうだ。こうした杉本氏の問いかけ、それ自体が作品のような気にさせられる。事実や美しいものを撮る写真家はいくらでもいるけれど、問いかけそのものが意味をもつアーティストという点で、特異な存在なのかもしれない。また、京都の三十三間堂の1000体の仏像を何メートルにもわたって撮った「Sea of Budda」。60年代以降にはやった抽象的概念を目に見える形にあらわす、コンセプチュアル・アートやミニマム・アートが日本にはすでに12世紀にあった、という杉本氏の視点がまた興味深い。朝日の自然光だけで撮影したモノクロ写真なので、黒い背景に、仏像の顔や後輪などが白く整然と浮き出している。それを見ていると、白黒反転した、経文そのもののようにも見えてきて頭がくらくらしてくる。平安貴族たちの浄土への切々たる願いが、経文の唱和となって静かに色濃くせまってくるようだ。ところで、サブタイトルの「時間の終わり」は何を意味しているのだろう?私の中では答えは出ていないが、アールデコ時代の建築物、古代と変わらぬ海の景色、まるで生きているような剥製や蝋人形、平安期の仏像の海・・・それらを通じ、彼が常に「時間」を思考しているということは大いに感じた。出口付近に杉本氏ご本人がいらっしゃった。最初、ビデオを見ずにひと通り作品を見たあとのことだったのでどんな風貌の方なのか、年齢も知らなかったけれど、すぐご本人だとわかった。ラフな服装で、小柄ながらやわらかいオーラを放っていた。まあ、ミュージアムショップを見るでもなく、館内スタッフの制服を着てるわけでもない人物が出口付近でにこにこして立ってればたいていアーティスト本人であろうけれど・・・話しかけたくもなったけれど、恐れ多いし、もっとじっくり作品を見てからでないと失礼だし・・と思ってじっくり見たあと出口に行くと、もうお姿はなかった。でも作品を見て、あのオーラを見ただけでじゅうぶん満足。日本人にこんな人がいるんだな~ととても刺激になった。また、私も墨と筆で抽象作品を創りたい衝動に駆られた。抽象への憧れがここ数年高まっていたけれど、実際にはそうしたものが創れるという実感がなかった。私に出来るだろうか?どれほどのことが出来るだろうか?
2006.01.08
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