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お城の真東に位置する外堀としては東北に残っている外堀跡です。 古地図には新七町とあるところから撮っています、 堀は幅十二間(約21.6m)水深四尺(約1.2m)高さ水深より四間(約7.2m) とありますということはここは堀の底だったということになります。内堀よりは小さいですが かなりのものだったようです。 そこから北に目を移すと鳴ヶ坂という坂が、城下内外の生活排水か゛いつも流れ落ちていた 音により鳴ヶ坂という名前が残っています。ここは排水溝口ということか 明かり採りの家、鳴ヶ坂から数十メートル南にあります。 昔はこの辺りは侍屋敷が並んでいたはず、その名残でしょうか。 いがうえのかたりべの会案内申請はこちらから http://igaueno-guide.org/volunteer/
2014年11月29日
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伊賀市玄蕃町にある武家屋敷、と言うより多分、武家長屋です。 子供の頃はこの前の神社や細道は恰好の遊び場所でよく遊んでいました。この武家屋敷も 同級生が住んでいましたが武家屋敷跡と気づいたのはだいぶ大人になってからでした。 藤堂玄蕃の下屋敷があったので玄蕃町と名付けられました 玄蕃は伊賀では家老(七千石)の次の役職侍大将(五千石)でした。松尾芭蕉はもう一人の 侍大将藤堂新七郎家に十八歳から料理人として仕えこの前の道を使い毎日300mほど通い ました。その前から嫡子良忠の近習として仕えていたという説がありますが資料がはっき りしないので定説にはなっていません。 いがうえのかたりべの会案内申請はこちらから http://igaueno-guide.org/volunteer/
2014年11月22日
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伊賀市の服部川堤防にある「くれは水辺公園」です。 先日の俳句王国がゆくで服部川が別名「くれは川」というのを聞いて数十年前読んだ芥川賞作家金達寿氏の 「日本の中の朝鮮文化」のなかで書かれていたことを思い出した。 服部は、呉機織(くれはたおり)が 土着した土地とされ呉織「くれはとり」は「呉服」とも書かれ「くれ」 は高句麗「くれ」の国を意味し、「はとり」は 「はたおり(機織)」の変化した語。「服部」を「はっとり」 と読むのも、「はたおり」に由来するとしています。 金達寿氏はすべてを朝鮮半島由来にする傾向がある人ですがこれは信憑性があると思います。 呉服も 起源が中国の呉という説と高句麗のくれからという説があります。 どちらにしても大陸から渡ってきた人達がもたらした物、技術、が由来に間違いないでしょう。 忍者装束の色もクレ色と言いますが夕暮れ時の空によく似た色になることから「暮れ色」と呼ばれたという説 が有力ですが忍者の頭領だった服部氏のクレとも関係が有るのかもしれません。 いがうえのかたりべの会案内申請はこちらから http://igaueno-guide.org/volunteer/
2014年11月15日
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行ってきました。NHK俳句王国がゆく、Eテレでの放送で予定は12月21日午後3:00~4:00です。 U字工事の司会で興味深かいものでした、収録は約二時間半、放送は59分どれだけカットするの 入場券のハガキに俳句を投稿するようになっていたので書いてみましたが、見事にかすりもせず落選でした 会場の「ふるさと会館いが」の目の前が霊山でした、この山は壬申の乱の際には大海人皇子が平治の乱の 際には源頼朝が拝んだといわれる山です。とくに頼朝は「伊賀町史」(旧伊賀町編集)によると幼少時に 平頼盛の従者平宗清に捕らわれ伊豆に流される直前伊勢参宮の途中、霊山山頂からのご来光を拝し、 そこを「拝野」と呼ぶようになったとか。 それらを踏まえ霊山寺境内には県指定天然記念物のお葉付きいちょうの木があるので もみじ越し 聖なる山の 里俯瞰(さとふかん) としたのですが余りにも狙いすぎたので意味不明になってしまいました。 ちなみにこの源頼朝を捕らえた平宗清は平家一門が滅んだのち、平治の乱のあと幼少(12歳)の頼朝助命嘆願を おこなったことや手厚く保護していたことなどにより伊賀の柘植を与えられ柘植姓を名乗った。 そして長男を日置、次男を福地、三男を北村としたとある。その福地家の分家筋が松尾芭蕉の先祖とのことで 福地城跡を芭蕉公園にしています。 この福地家系図には「松尾芭蕉」阿部喜三男氏著によると芭蕉の父松尾与左衛門は慶長年間(1596年~1615年)に 上野に移住したとあるらしい藤堂高虎が上野城主になったのが慶長十三年(1608年)なのでそれを機会に移住した のでしょう。 そうすると芭蕉は1644年生まれなので、柘植生誕地説には無理があることになります。 いがうえのかたりべの会案内申請はこちらから http://igaueno-guide.org/volunteer/
2014年11月09日
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「まゆはきを俤にして紅粉の花」(まゆはきをおもかげにしてべにのはな) 芭蕉が奥の細道のなかで詠んだ句の碑です。 いがうえのかたり部の会事務局の在るだんじり会館前にあります。一番最初に教わりました。 伊賀は江戸時代までは紅花日本有数の産地でした、直射日光に弱い紅花は霧の多い盆地の伊賀が 適していたようです。山形で伊賀を思い出し読んだ句でしょうか。 ドナルド・キーンの英訳(They make me recall A lady's powder puff These saffron blossoms) が添えられていますドナルド・キーン氏といえば昔は唯一と言っていい外国人の 日本文学研究家で川端康成氏や三島由紀夫氏と交友があり大江健三郎氏とも交流が ありましたが後に疎遠になり原因が話題になりましたがキーン氏は 今でも原因が分からないといっていますので大江氏の方にこだわりかあったのでしょう。 まゆはきをパウダーパフ、紅花をサフラン、という苦心の訳ですおそらく眉刷毛という おしろいをつけた後、眉を払うものが存在しないのでアイブロウブラシという言葉も無い のでしょう、そうなるとサフランの花でパウダーパフを連想するのも難しいように思うのですが いがうえのかたりべの会案内申請はこちらから http://igaueno-guide.org/volunteer/
2014年11月06日
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