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伊賀市久米町にある山渓地蔵尊 寛永年間に飢饉があったとき農民は年貢米の供出に苦しみ、免租の嘆願 したが取り上げられなかった、その状態を下友生の粕屋純次郎(忠兵衛と の記載もあり)より聞いた禅師が上訴状書き純次郎に託しました、同じ友 生村の江戸藩邸勤めの甚三が安藤老中の駕籠に直訴しました。 事が露見して、藤堂藩公は激怒し、純次郎捕らえられ死罪、敬叟禅師は 投獄され、久米川原で打ち首になった。 寛政四年(1792)十二月二十一日、敬叟和尚四十二歳。 上野小唄の最後の十一番の歌詞 逢いとなったら 白紙送れ敬叟禅師もあの久米川原書けば文字があだとなる 「上野小唄」を作詞した野口雨情の孫の不二子さんを招いた講演会を聞 きにいってこの歌詞を初めて知り興味を持ちました。 久米町のどこのことかと思い検索すると近く(よく盆踊りなどの催し物する場所)にありました。 民草に 露の命は消える共 恵む心はよろず世のすえ と辞世の句を詠んだ。 地蔵尊の裏に 敬叟禅師の墓碑がありました。 敬叟禅師は青山地区の出身で山渓寺の住職でした。 この事件の記載は「伊賀史亅「上野史」「青山町史」に見あたりません。 藩にとっては残したくない事柄だったのでしょうか。 今は地蔵尊や盆踊りをする場所になっていはす。 敬叟禅師の墓碑はこの後にあります。
2017年08月13日
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現在は廃寺となっている伊賀四十九院。 仏教布教の土台になったのが伊賀四十九院でした。弥勒菩薩を本尊とし平安朝の中頃から山伏達が 兵法、武術、忍術を教える学塾になりました。そして生み出した第一号の山伏兵法習得者は火鬼、 風鬼、土鬼、隠形鬼を使ったと言われる藤原千方です。 弥勒寺は四十九院の一つでしたが天正伊賀の乱で兵火を経て明治40年(1907)に廃寺となりました。 しかし今も乳授けの祈願者が多いそうです。 本堂の弥勒菩薩へ「子宝、安産、育児、授乳」を願って、「乳房型絵馬」をご奉納 するようです。 現在は弥勒堂がひっそりとあります。 『伊水温故』によると田守とも称し木津川支流久米川下流の地にあり、 行基 (聖武天皇による奈良の大仏(東大寺)造立の実質上の責任者) が 聖武天皇の勅で諸国に四十九院を創建しその一院が当地に建てられ 四十九院村と呼ばれるとあります。 この階段を登ります。 『行基年譜』に基づく寺院群には、その数が厳密に49寺だったかは、 「検討を要する」という。大和、摂津、和泉、河内、山背(山城)に 分布、 とあります。 そうするとこの寺院が四十九番目だったのかどうかははっきりしないことになります。 年号ははっきりしませんが大仏建立の後、大僧正になった天正17年(745) から亡くなった天平二十一年(749年)の間に命令されたと思われます。 2021年11月8日の記事 行基の供養堂の遺構が平城京跡西側の菅原(すがはら)遺跡(奈良市)から出土した。東大寺大仏の造立に尽くした高僧、行基の供養堂行基やその弟子らが建立した「四十九院」の一つ「長岡院」の候補地の北側。
2017年08月08日
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