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2008.04.28
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カテゴリ: Movie
<きのうから続く>
1944年5月――ジャン・マレーが演出・舞台美術(装置)を手がけた『アンドロマック』の幕が開くと、対独協力派によって買占められた30ばかりの席から、口笛や怒号、汚い紙つぶて、催涙弾までが投げつけられた。マトモな観客は鼻と口にハンカチを当てて舞台を見るハメに。この席買占めによるいやがらせは数日間続いた。

マレー版『アンドロマック』の素晴らしさについて、コクトーは『占領下日記』に次のように書いている。

朗々と吟詠する台詞まわしの排除、きわめて簡素な偉大さの発見で、この上演は歴史的事件となった。ジャノはオレストを演じているが、私見ではムネ・シュリーやド・マックス以上。あの美貌、気高さ、激情、人間味、どれも比類がない。装置は遠近法を利用したもので、夜空は、奥の青白いアレートに接している。上は、切れ切れの雲の浮かぶ空を背景に高いアーケード。一種グレヴァン博物館の雰囲気だが、人工的遠近法で細部が人体のサイズに思いがけない効果を与えている。トロイの馬の尻尾の形をした髪形に白い衣装、布を腕にらせん状に巻いたアンドロマックの登場は1つの奇跡だ。

舞台を見た友人からマレーへの手紙。

「昨晩の美しさ。私は我を忘れてしまいました。涙と狂気と愛の深遠のせめぎあう境界、舞台の夜の闇の中で、あなたは王者のように人々を意のままに支配していましたね。この舞台を私は生涯忘れないでしょう」。

ところが、対独協力派の息のかかった新聞・雑誌は、この舞台に対していっせいに泥を投げつけた。

「ホモ的芝居。その証拠に男性はほとんど裸。女性は首まですっぽり衣装で身体を隠している」

実際には、男性は裸ではなく、ギリシア風の袖なし上着や寛衣をまとい、マレーは20メートルにも及ぶ布をひきずっていた。女性はむしろ、襞は多いものの、身体の線を強調するようなぴったりとした衣装をつけていた。だが、本当のことなど、批判する側にはどうでもいいのだ。

もちろん、天皇アラン・ロブローも「これはフランスの恥」と痛烈な批判をあびせた。今日、私たち日本人はアラン・ロブローなる批評家(作家でもあり詩人でもあったらしい)がいたことすら知らない。むしろジャン・コクトーがずっとフランスの文壇に君臨していたかのような錯覚すら抱いている。だが、ある時期ロブローの権勢はフランスの知識人誰も口をはさめないほどであり、コクトーのほうがはるかに小さな「異端」の存在だったのだ。ロブローの文章はほとんど日本には紹介されていないが、皮肉にも、コクトーが『占領下日記』に収録したマレーに対する酷評は今に残っている。

では、ロブロー陛下、どうぞ (特にエグい箇所は赤文字にしておきましたんで)

「(『アンドロマック』においては) 変質者の造物主 が、ジャン・マレー氏、アラン・キュニイ氏に才能も能力も皆無で無知な小粒の俳優であるとの評価を永劫に確立させようと望んだかのようである。あのオレストの コリドンの刻印(注:男色者のこと) は明らか。伝えているものは、耐え難い退屈のみ。ラシーヌを退屈なものにしてしまうとは沙汰の限りではないか。ラシーヌが、これら 宦官 たちに、自力で困難を打開するよう巧妙に手を打ったことは明らかだ。ラシーヌの不在は随所に見られる。そもそもどこかラシーヌなのだ。ジャン・マレーの酔ったほえ声にもラシーヌはない。この テロリスト(注:フランス文化を破壊するという意味にかけている) がギリシア風の寛衣をまとっていることだけが、どうやらラシーヌの詩句を朗唱している様子を伝えるのみだ。口の中でもぐもぐやるのですべてがいかがわしい代物になってしまう。これが コクトーが咥えて放さない『特別の男』 なのだ。ジャン・マレーはここから決して立ち直れることはあるまい」。

アラン・ロブローはよっぽどマレー君に殺されたいらしい……(苦笑)。直接に間接に、徹底的かつ執拗にマレーとコクトーの関係をこきおろし、ヘンタイ扱いしている。 咥えて放さない男 ってのが、言いえて妙、いやいや、お下劣さの極致と言えよう。

おちょくり批評もある (けっこう笑える!)

「視覚的には舞台はこぎれい。太鼓腹の男優も巨乳の女優も出ず、たしかに容姿は見ていて心地よい。ジャン・マレーの太腿は人々の視線を惹きつけている。彼は咽頭科で数年の治療を受け、さらにかなりの空白(バカンス)をおけば、おそらく称賛に値するオレストになりおおせるだろう。ただし、優れた演出にめぐり会う必要はあるが。これに反し、アラン・キュニイに治癒の見込みは皆無だ。どんな咽頭科医師もサジを投げるだろう。このすさまじいかすれ声、さらにあのせわしない息遣いでは、まるで喘息のアザラシか、寿命のきた機関車の息遣いに巻き込まれたかのごとくで、しばしば台詞がそっくり消えてしまっているありさまだ。だが、彼の容姿は素晴らしい。
告白するが、第5幕はあいにくと見届ける気になれなかった。ジャン・マレーが床の上を転げ回ることは、親切にも前もって教えられていたからだ。ジャン・ラシーヌの悲劇について音楽がジャンゴ・ラインハルト (注:20世紀のジャズ・ミュージシャンでギタリスト。ジプシーの伝統音楽とスウィング・ジャズを融合させたジプシー・スウィングの創始者) とあっては、なおさらのこと早々に退散する気になっていた」(アンドレ・カストロ)

マレーの美貌を絶賛した批評家も。

「頭のてっぺんからつま先までミケランジェロ的な、極端なまでの美貌」(ロジェ・ランヌ)

もちろん、演出の意図をストレートに汲み取って、好意的な記事を書こうとした批評家もいた。

「装置は瞠目すべき偉大さ。馴染みにくいラシーヌの作に、これほどまでの悲劇的美をたたえた枠組みは誰しも想像できない。すでにジャン・マレー氏は、昂揚感の陰に秘められた激情や荒々しさを表現しているが、また、危険な惑わしの妖精の姿を見事なまでにあらわにさせたと言える。
マレー氏は、この上なく優雅で、生硬で、激情的で、父親殺しを常に念頭におき、他を苦しめながら、自らも深く苦悩しているオレストをきわめて正統的に造形した。偉大な悲劇俳優のみが到達しえる凄絶な悲劇美にマレー氏も到達した」(ジャック・ド・プレサック)。

ところが、この記事、新聞が掲載を拒否した。怒ったプレサックは辞表を提出した (えらいぞ! さすがパリの批評家!) 。それについて、新聞は「ド・ブレサック氏は一身上の都合により、演劇欄の執筆陣から離れた」と発表した。

こうしたパリの批評家を文章を読むと、日本にはいかに批評文化が根づいていないかがよくわかる。日本の新聞・雑誌にのる舞台批評はすべて、Mizumizuに言わせれば「記述(ディスクリプション)」であって、「批評(クリティーク)」ではない。

ロブローは同性愛者に対する偏見丸出しだし、カストロは若く美しい役者は大好きのよう(しかも男性の太腿にはウルサイ?)だが、台詞まわしは朗々と声が響きわたるような伝統的な手法でないと受け入れられないらしい。プレサックはマレーの演劇世界が非常に気に入ったということだろう。どの評論も主観には違いないが、それぞれ独自のモノの見方を、独特の修辞で読ませていく手法には相当の工夫と洗練がある。日本の批評は、主観に傾きすぎるのを恐れるあまりか、はたまた書き手がギョーカイでの人間関係に気を使うのか、舞台の内容の説明や演出意図、宣伝の片棒担ぎのような見所紹介に留まっている。ただまあ、今も昔もパリの評論家はちょい特別であることは確か。けっこう変わり身もはやい。「批評家は絶対ならず。モノの見方は千差万別」ということを知らしめるには最高。だがもとより批評とは、そういうものではないのだろうか?

ことなかれ主義の「記述(ディスクリプション)」ばかりを読まされ、「批評(クリティーク)」に慣れていない日本人は、何であれいわれのない非難に対しても免疫がなく、非常に弱い。ちょっと批判されるとまるで自分に非があるかのように反省し(あるいは反省したフリをし)、すぐに妥協して相手の機嫌を取ろうとしてしまう。


さらに、新聞各紙がマレーにコメントを求めたことから、騒ぎはますます広がることになる。

<続く>





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最終更新日  2008.04.29 12:12:10


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