カテゴリ未分類 0
全377件 (377件中 201-250件目)
両国にぎわい祭といえば、国技館も会場になります。遠藤関の顔ハメもありました。国技館通りのメイン会場では、やっぱりちゃんこ料理ですね。余りお客さんも並んでいないようですが、やっぱりこれがないと祭りにはなにませんね。こちらは地元の安田学園によるダンスパフォーマンス。かっては男子校だった安田学園、いつのまにか女子も入学していたんですね。【つづく】人気ブログランキング両国にぎわい祭(その2) 国技館の顔ハメ
2018年05月06日
コメント(30)
ゴールデン・ウィークの間、東京の実家に遊びに行ってきて、4月28・29日の両日行われた「両国にぎわい祭」を見物してきました。「祭」ということで、神仏に関連するイベントですから、まず、この江島杉山神社(→→→こちらです)に立ち寄ってみました。こちらは江戸東京博物館で披露されていた「かっぽれ踊り」です。昔はもっとキレイだったに違いないお姉さんが踊っていました。昔から、「かっぽれ」というのはよく聞きますが、実際どんなものかを見た人は少ないかも。MoMo太郎もここで初めて見物させてもらいました。片足で踊るのが、かっぽれの特徴ですかね。お姉さんだけかと思ったら、おじさん達も出てきて踊ります。でもちょっとこれは漫才風の掛け合いも入っていました。幕末、江戸で願人坊主たちが白の着付、浅黄の投頭巾、赤緒の草履で、二階傘を立て拍子木をたたいて踊った大道芸が「かっぽれ」の始まりだといわれています。ちなみに、願人坊主というのは乞食坊主のことで、市中を歩き回って軽口,謎,阿呆陀羅経などを唱えて米銭を乞い,また人に代って代参,代待,祈願の修行,水垢離 (みずごり) などをして生計を立てていた人のことだそうです。 どうして「かっぽれ」と呼ばれるかというと、「鳥羽節」の囃子詞「わたしゃお前にかっ惚(ぽ)れた」によるものとも言われているそうです。そんな大道芸が、明治初期に三味線伴奏により「かっぽれ踊り」と称して浅草に常設小屋を設けて興行されるようになって寄席芸となったとか、また幇間によって酒席などのお座敷芸にもなったそうです。【つづく】人気ブログランキング両国にぎわい祭(その1) かっぽれ踊り
2018年05月05日
コメント(41)
浅草芸妓によるお座敷おどりというイベントが、浅草にある浅草文化観光センターで9月23日から11月25日までの毎週土曜日に開催されています。ありがいことに、入場料は無料というので、東京に帰省した折に折角の機会なので、MoMo太郎も見物に出かけました。こちらはおどりが始まる前の余興で、会場の観客の方と芸妓のお姉さんが一緒にゲームをするところです。ちょっとわかりにくいかもしれませんが、外国からの観光客の方も見物に訪れていました。紐でくくった杯をお箸を使って巻き上げるというゲームです。芸妓さんは手馴れていますね。こちらは地方(じかた)という、唄、語りや三味線や鳴物の演奏をうけもつ芸妓さんです。こちらは立方(たちかた)と呼ばれる舞踏を主にする芸妓さんです。踊ってくれたのはこのお三方の芸妓さん。こちらは、落語家ではなくて幇間(ほうかん)又は太鼓持ちという、場を盛り上げる係りの人です。昭和10年には全国で470名ゅ(東京には300名)、吉原に40名、浅草には17名いたとの記録があるそうですが、現在は浅草花柳界の6名のみという、イリオモテヤマネコかジュゴンなみの絶滅危惧種のような存在です。こちらは、若い娘のフリをしている姿です。こちらは、一人で二役をしている様子です。この建物が浅草文化観光センターです。人気ブログランキング浅草芸妓のお座敷おどり
2017年10月29日
コメント(26)
久留米に旅立つ前に、東京都中央区日本橋蠣殻町、箱崎の近くにある「水天宮」へお参りしてきました。水天宮は、江戸鎮座200年記念事業として社殿の建て替えを行い、平成28年4月から、新社殿で参拝できるようになりました。石柱も新しいですね。ところで、水天宮といえば、安産・子授けの神として人々から厚い信仰を集めています。こちらは入り口にある狛犬。前足で子供が遊びに使う鞠を踏んでいるのは、安産、子授けに関連しているのでしょうか。さらにこちらの狛犬には背中に子供の狛犬を載せていました。東日本大震災を経験した水天宮では、地震があっても人々の避難場所としても活用されることを願い、内地一面には、最新技術の免震構造を取り入れると共に待合室の環境改善も行っているそうです。水天宮というと、安産、子授の神の印象が強いですが、名前のに「水」とうるとおり、古来より水の神として農業・漁業・船舶業者の信仰が篤かったそうです。また「水難除け」の神様としても知られています。「情け有馬の水天宮」と江戸ッ子の地口(駄洒落)にありますが、これは、水天宮の本店というか総本宮が久留米にあり、水天宮を信仰していた久留米藩有馬家が江戸上屋敷に分霊した水天宮を奉っていたところ、人々の信仰が篤く、塀越しにお賽銭を投げる人が後を絶たなかったことから、有馬藩主は毎月5日に限り、お屋敷の門を開き、人々のお参りを許しことに由来しています。ということで、久留米に行けば、「水天宮」の総本社にお参りすることが、MoMo太郎の願いでありました。人気ブログランキングへ情け有馬の水天宮
2017年05月13日
コメント(16)
門前仲町の方にある「深川モダン館通り」。この建物が「モダン館」なんだそうです。「深川東京モダン館」という看板も出ています。詳しくは、→→→ こちらへこの深川東京モダン館は、昭和7年(1932)に建築された東京市深川食堂を改修したものだそうです。この公営食堂は、安く食事を提供する場として存続しましたが、第二次大戦後は、東京都立内職補導所、江東区の福祉作業所などに活用されてきたそうです。そして、平成21年(2009)10月10日に江東区の観光と文化の拠点として開館したそうです。ちなみに、深川東京モダン館には喫茶店が設置されていました。【了】人気ブログランキングへ水辺の散歩道(その7)
2017年03月14日
コメント(18)
平賀源内電気実験の地の石碑から近い所に、生コンクリート工場があります。その前にはこのような銅像やら石碑が並んでいます。こちらが「本邦セメント工業発祥の地」の碑です。とここに日本で初めてのセメント工場があったそうです。明治8年、工部省が本格的なセメント製造に成功しました。すぐそばの隅田川、仙台堀などの泥土を原料の一部として使い、試行錯誤の上、外国品と遜色のない、国産のセメントを作りあげたそうです。ちなみに、製造所で日本初の国産セメントの製造に成功した5月19日はセメントの日となっているそうです。そして、こちらのコンクリートブロックは、明治27年(1894年)に製造、横浜港防波堤の基礎として海中に沈設され、昭和6年(1931年)、改築に際し引き上げられたものだそうです。37年間海中にあっても損傷は認められず、優れたコンクリートであったことを証明しています。こちらにあったセメント工場は、明治16年(1883)、浅野セメント(後の日本セメント、現在の太平洋セメント)の創業者である浅野総一郎が払い下げを受け、その後民間のセメント工場として発展を遂げたましたが、現在では、生コン工場となっています。 この銅像の紳士が、浅野総一郎だそうです。浅野 総一郎、1848年4月13日(嘉永元年3月10日) - 1930年(昭和5年)11月9日)は日本の実業家で、一代で浅野財閥を築いた人物だそうです。この銅像の顔、なかなかの男前に仕上がっていますね。浅野総一郎氏は、越中藪田(現富山県氷見市)の生まれで、1871年に上京、今の御茶の水の近くに湧く冷たい水に砂糖を混ぜ、その水売りを手始めに、次に商店で品物を包む竹の皮を扱う竹の皮商から薪炭商へ転じ、コークスの売り込みに成功し、そのコークスを深川のセメント工場に納めていたことから、好条件で払い下げを受けたそうです。今風に考えると、豊中市の国有地を安く払い下げてもらった森友学園の籠池泰典理事長みたいな・・・かな?【つづく】人気ブログランキングへ水辺の散歩道(その6)
2017年03月13日
コメント(20)
これは隅田川に架かる清州橋です。橋の着工は、大正14年3月。竣工が 昭和3年3月。つまり、関東大震災の震災復興事業として、永代橋と共に計画された橋です。橋の名前は、建設当時の両岸である深川区清住町と日本橋区中洲町から採られたそうです。また、この優美なデザインの吊り橋でもあり、2000年(平成12年)に永代橋と共に土木学会の「第一回土木学会選奨土木遺産」に選定されています。さらに2007年(平成19年)6月18日に、都道府県の道路橋として初めて勝鬨橋・永代橋と共に国の重要文化財(建造物)に指定されているという、東京を代表する橋といってもいいでしょう。こちらは、その清洲橋に近い、読売江東ビルにある「平賀源内電気実験の地」の碑です。 平賀源内は、わが国最初の電気学者にして安永5年(1777)エレキテルを完成し、この付近深川清住町(現在の清澄1丁目)の私宅において電気実験を行なったそうです。この平賀源内という人物、享保13年(1728)高松藩の足軽身分の家に生れ、物産館の開設、毛織物の試作、源内焼の製陶、石綿布の創作利用、水準器寒暖計の創作等かずかずの発明工夫をなした人物だそうです。また、土用の丑の日にウナギを食べる風習は、源内が発祥との説もあるそうです。また、平賀源内のお墓は、白髭橋近くの台東区橋場二丁目 旧総泉寺墓地 にあるそうです。写真はその近くに立つ、平賀源内の墓を示す標柱です。【つづく】人気ブログランキングへ水辺の散歩道(その5)
2017年03月12日
コメント(16)
江東区深川近辺、このように倉庫が多いです。もともと、運河を利用した水運で荷物を運んでいた時に倉庫があった名残なのでしょうか。こちらは、清澄公園、こちらの東隣にあるのが、清澄庭園です。ちなみに公園の方は無料で利用できますが、庭園の方は入場料150円が必要となります。【つづく】人気ブログランキングへ水辺の散歩道(その4)
2017年03月11日
コメント(20)
この橋の名前は、「緑橋(みどりはし)」と言うそうです。「みどりばし」と濁ってはいけないのですね。確かに、塗装が緑色っぽいし、きっちりとリベットで固定されていますね。こちらは、橋を支える支承です。ピン支承と呼ばれるタイプです。ピン支承とは、ピンによって1方向の回転機構を有する固定支承であり、大きな反力に対応可能となるなどの特徴があるそうですまた、横にっいているものは地震などで揺れた時、落橋を防止する装置でしょうか。【つづく】人気ブログランキングへ水辺の散歩道(その3)
2017年03月07日
コメント(24)
江東区の運河、仙台掘川から大島川西支川に沿って歩きました。そこで、こんなモニュメントを見かけました。これは、この松永橋が架けかえられる前に使われていた、鋼材を利用したモニュメントだそうです。そうすると松永橋って、むかしはこんな感じの端だったんですかね。【つづく】人気ブログランキングへ水辺の散歩道(その2)
2017年03月06日
コメント(20)
江東区って運河があって、意外と水辺の散歩が楽しめます。仙台堀川の岸辺に咲いていた白梅です。もうすぐしたら、この岸辺も桜が満開になりますよ。青空をバックに梅の花を撮影したくなりますね。清川橋の向こうにあるのは、改修中の東京都清澄排水場です。【つづく】人気ブログランキングへ水辺の散歩道(その1)
2017年03月05日
コメント(22)
江東区三好にある出世不動尊です。深川江戸資料館通りから近いので、入り口にある赤い文字に惹かれてお参りされる方も多いようです。この不動像は近江三井寺の始祖智証大師護持の像で、大師が唐に行くときに守護した霊験あらたかな像だったそうです。その後、この像は期妙法師が護持していたそうです。隅田川河口を埋め立てて霊巌島(今の中央区茅場町あたり)を築いた霊巌上人が京都知恩院に滞在していたとき、不動明王が期妙法師に霊巌上人が今年関東に大寺を建立する、霊巌上人に「我を誘い行くべし」と三夜続けて告げ、法師は上人にこれを告げ、明王を渡し、上人は出世不動明王と名付け、関東にたずさえて行き、霊巌島に霊巌寺を建立したそうです。明暦の大火(1657)の後、万治元年(1658)に霊巌寺がこの地に移転したときに一緒にこの白河の地に移転してきたそうです。今、この不動尊は長専院に併合されています。人気ブログランキングへ深川の出世不動尊
2017年02月17日
コメント(14)
荒川と隅田川を結ぶ小名木川です。この小名木川にかかる高橋を渡ると江東区の清澄白河になります。こちらは白河一丁目にある深川江戸資料館です。江東区役所白河出張所も併設されています。こちらが入り口です。ちなみに入場料は400円。区民でも割引はないようです。人気ブログランキングへ深川江戸資料館
2017年02月16日
コメント(14)
墨田区亀沢にある野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ)です。相撲の始祖とされる野見宿禰を祀る神社です。野見宿禰とは、日本書紀に登場する人物で、出雲の国にいたのですが、垂仁天皇の命により召し出され、大和国の地に住んでいた、剛力を誇る当麻蹴速(たいまのけはや)と角力(相撲)勝負をして、勝ち当麻蹴速の持っていた大和国当麻の地を与えられたと伝えられています。1884年この神社の東側に部屋があった初代高砂浦五郎により元津軽家の屋敷跡に創建された神社で、今は日本相撲協会により管理されている神社です。年3回、東京で行われる本場所の取組編成会議終了後に、大相撲関係者による例祭が執り行われるほか、新しく横綱が誕生した際には、神前で土俵入りを披露する場所です。また、1952年 11月に協会により建立された歴代横綱之碑があります。右側の小さい石碑には、初代明石志賀之助から46代朝潮太郎までの名前が刻銘され。左側の大きな石碑には、47代柏戸剛以降の名前が刻銘されています。そろそろ、日本人力士の横綱の名前を刻銘して欲しいですね。人気ブログランキングへ野見宿禰神社
2017年01月09日
コメント(21)
江戸東京博物館には、このような団地の模型も展示されています。なにか妙に生活感のある展示内容で、これを製作した人は団地生活の経験があるんでしょうかね。こちらは戦前の東京の町を走っていた「円タク」です。円タクとは、大正末期から昭和初期にかけて、一円均一で市内特定地域を走ったタクシーのことです。こちらは、昭和30年代の町をよく走っていたダットサンのトラック。こちらは、日本に「マイカー」という言葉を定着させた、富士重工のスバル360です。【了】人気ブログランキングへ初春の江戸東京博物館(その5)
2017年01月08日
コメント(23)
予約日記機能があるので、時間がある時に書いた記事が自動的にアップされていくのですが、新年会などでみなさんのところへご訪問ができず心苦しく思っていますm(__)mさて、江戸東京博物館には、第二次世界大戦中の展示物もありました。これは、空襲で焼けただれた鉄骨と、風船爆弾です。風船爆弾、当時の呼称は「気球爆弾」といっていたそうですが、約9300発の放球のうち、アメリカ本土に到達したのは1000発前後と推定され、アメリカの記録では285発とされているそうです。これに爆弾ではなく、細菌兵器でも載せているともっと効果が期待できたでしょうね。こちらは、学童疎開していたところの看板です。こんなものよく取っていたなと思いました。いずれにしても、この展示物をみて、戦争の悲惨さみたいなものをもう一度噛みしめてもらいたいですね。【つづく】人気ブログランキングへ初春の江戸東京博物館(その4)
2017年01月07日
コメント(26)
江戸東京博物館ですから、江戸時代の娯楽についても展示されています。これは神田明神の山車です。見事なものですね。こちらは、助六の一場面を人形で再現したものです。そして、助六といえば、市川團十郎、市川海老蔵ですね。この人形のモデルも團十郎だそうです。【つづく】人気ブログランキングへ初春の江戸東京博物館(その3)
2017年01月06日
コメント(10)
江戸東京博物館にあった「凌雲閣」の模型です。凌雲閣とは、明治期から大正末期まで東京・浅草にあった12階建ての塔で、東京初の高層建築といえるものでしたが、関東大震災で半壊し、解体されたそうです。 凌雲閣に登る人たちも結構忠実に再現されています。こちらは、現在の凌雲閣ともいえるスカイツリーでしょうか。さて、浅草といえば映画。こちらは浅草にあった映画館「電気館」の模型もありました。【つづく】人気ブログランキングへ初春の江戸東京博物館(その2)
2017年01月05日
コメント(13)
毎年、1月2日と3日は、墨田区にある江戸東京博物館は無料で公開されるようです。ということで、江戸東京博物館に行ってきました。入り口には立派な門松、お正月感ありますね。なんといっても、ここでビックリするのは、この日本橋ですね。結構、大きな展示物が多くて、こちらは明治時代に東京にあった新聞社の社屋を再現(実物大)したものです。【つづく】人気ブログランキングへ初春の江戸東京博物館(その1)
2017年01月04日
コメント(20)
1010、つまり、千と十、で銭湯です。都内には約650軒が営業しているそうですが、その組合が東神田にあります。「生活衛生関係営業の運営の適正化及び振興に関する法律」(昭和32年法律第164号)の規定に基づき、設置されている組合です。詳しくはこちら→→→東京銭湯その隣のビルは、公衆浴場業者向けの信用組合がありました。組合員は公衆浴場事業者だけみたいですね。農協と違って一般の人は預金できないのでしょうね。人気ブログランキングへ1010組合
2016年12月18日
コメント(16)
元禄市では、イベントとして、地元の墨田区太鼓連盟による太鼓演奏をやっていました。みなさん、普段の練習の成果を発揮されて、力強い見事な演奏をされていました。所属町会の町名が書かれた法被を着ています。そして、足元は、地下足袋、雪駄・・、中には裸足の人も。【了】人気ブログランキングへ元禄市(その2)
2016年12月13日
コメント(18)
毎年、赤穂浪士の吉良邸討ち入りの日が近づくと、両国の吉良邸跡地の回りでは「元禄市」という催しが開かれます。今年は12月10日と11日に開かれました。下の写真は吉良邸跡の本所松坂町公園です。吉良邸の前で記念撮影している人も多いです。吉良邸といっても、2550坪の広さだったそうですから、このあたり一帯が吉良邸だったのですが、地元の有志がこのあたりの一角を購入し公園として寄付したことが始まりののようです。吉良邸跡地にある吉良上野介の像です。芝居などでは、いかにも憎々しい敵役ですが、実際は、領地では新田開発などで名君といわれ、高家の職務である朝廷との外交官としては卓越したものがあったようです。元禄市という名前の通り、衣料品や日用雑貨、食品などをはじめ、観光コーナー、ちゃんこ屋台、野菜の直売などの露店がでて賑やかです。バナナが一房15本が500円で売られていたので、買ってしまいました。【つづく】人気ブログランキングへ元禄市(その1)
2016年12月12日
コメント(28)
すみだ北斎美術館の開館を記念して、両国駅前の広場では「江戸の北斎」というイベントをやっていました。仮設の小屋の中に入ると、北斎の絵を背景に記念写真が撮れるようになっていました。これは、有名な富嶽三十六景 凱風快晴、いわゆる「赤富士」と呼ばれている作品です。こちらは、「百物語 お岩さん」という作品、提灯に浮かび上がる恨めしげなお岩の形相のインパクトがすごいですね。こちらは「鏡面美人図」。作品では鏡のところに、この後姿の女性の顔が写っているのですが、鏡のところから、撮影される人の顔を出してもらうという趣向です。国技館です。この日は丁度、全日本相撲選手権が開催されていました。社会人、大学生、高校生を対象に当該年度のアマチュア相撲の横綱を決める大会です。この大会で、、アマチュア横綱を取得した場合には、大相撲において幕下15枚目格の幕下付出の資格を取得することができるそうです。例えば、今人気の遠藤もここのアマチュア横綱のタイトル保持者です。【了】人気ブログランキングへすみだ北斎美術館(その2)
2016年12月11日
コメント(14)
11月22日に開館した両国にある「すみだ北斎美術館」です。なかなかモダンな建物で、ここに葛飾北斎の浮世絵が展示されているとは、ちょっと意外な感じがします。この北斎美術館が出来たのを契機に、両国の駅前では、-両国-江戸NORENという飲食店街がオープンしました。 中には、江戸の食文化を伝える、握り寿司をはじめ、天ぷら、ちゃんこ鍋、もんじゃ焼き等、色んなお店が入っています。下の写真は店内にある、来場者が記念撮影をする場所です。江戸時代にはこんな屋台の寿司屋さんがいたんでしょうかね。また店内には、両国らしく土俵がありました。【つづく】人気ブログランキングへすみだ北斎美術館(その1)
2016年12月10日
コメント(12)
総武本線の馬喰町(ばくろちょう)の付近、散歩がてらに行ってみました。ここは横山町問屋街という立派な看板がありました。この「問屋みち」と呼んでいる「新道通り」、日本橋馬喰町と日本橋横山町の境界になるそうですが、新道通りは、日本最大の現金問屋街といわれています。現金問屋となったのは、昭和の大不況時には、掛け売り代金を期日に支払えない小売店の増加を受けて、「現金安売り問屋」を看板に掲げる問屋が多くなったことに由来するそうです。日曜日の朝に行ったので、問屋さんはほとんど閉まっていましたが、個人向けの小売りはしないようです。でも、12月4日の日曜日は朝の9時から夕方の4時まで、「大江戸問屋まつり」ということで一般客も買えるそうです。問屋さんといえば、この道一筋の「目利き」。そんなお店の人が選んだ品物を買うのもいいかもしれませんね。よくわかりませんが、昔の建設省から表彰されていました。馬喰町、ちょっと不気味な名前ですが、むかしここに馬刺や桜鍋(馬肉のすき焼き)を売っていたからではありません。江戸時代はここに馬市が立ち、博労 (ばくろう;馬の善し悪しを鑑定し、売買・仲介をする人、今風には家畜商です)が集まったことから、当初は博労町、のちに馬喰町となったそうです。人気ブログランキングへ問屋街
2016年11月24日
コメント(16)
2016年の酉の市は11月11日と23日、年によっては三の酉までの3回、酉の市があることもあるそうですが、今年は二の酉までです。ちなみに「三の酉の年は火事が多い」という俗信もあるそうです。11月13日、浅草の鷲(おおとり)神社に行ってみました。浅草の鷲神社の酉の市は江戸時代から続くもので、現在は新宿の花園神社など、都内で10数カ所の酉の市が開催されていますが、浅草の鷲神社と足立区花畑の大鷲神社が酉の市の発祥の地ということなるそうです。こちらは国際通りに面した正面の入り口。朱塗りの大鳥居もあります。脇には提灯も飾られて賑やかですね。そして、大熊手も飾られています。酉の市とは、開運・商売繁昌のお守りであるこの熊手御守(「かっこめ」と呼ばれています)を買いに行くわけです。熊手御守は酉の市の日にしか授与されないので、酉の市でない日には、酉の市の日に熊手御守を販売している店も、仮設の店舗だけで空っぽですね。こちらは、神社の北側にある脇の参道で、酉の市の日は、ここから入って、神社の社殿の前を通って、反対側の南側の参道が出口となっています。この叉木の先が拝殿です。日曜日ということもあるのか、参拝の方もちらほらおられました。拝殿のお賽銭箱の上にある「なでおかめ」です。多くの参拝者の方に撫でられて、お顔が黒ずんでいますね。ちなみに、なでおかめのどこを撫でるといいかというと、おでこをなでれば賢くなり目をなでれば先見の明が効き鼻をなでれば金運がつく向かって右の頬をなでれば恋愛成就 左の頬をなでれば健康に口をなでれば災いを防ぎ顎(あご)から時計回りになでれば物事が丸く収まると云うそうです。それから、酉の市の時はみなさん熊手だけを買うようですが、境内では、サトイモの一種の「八頭」と山椒の入った餅菓子の「切山椒」を売っている店も出ています。「八頭」は人の頭に立つように出世できるといわれ、さらに一つの芋からたくさんの芽が出ることから「子宝に恵まれる」という縁起物。「山椒」の木は捨てるところがなく全てが利用できる(有益である)という縁起物。ですから、これらもお土産として買って帰られることをお勧めします。人気ブログランキングへ酉の市じゃない日に鷲神社に参拝する
2016年11月14日
コメント(13)
門前仲町といえば、富岡八幡さま以外にも「深川不動尊」というお寺があります。そもそも、このあたりを門前仲町と呼ぶのも、深川不動尊のあった富岡八幡宮の別当・永代寺に因んで「永代寺の門前町」と呼ばれたことに由来するそうです。で、この深川不動尊は正式には「成田山 東京別院 深川不動堂」という名称で、千葉県成田市にある成田山新勝寺の東京別院になるそうです。門前の参道は通称「人情深川ご利益通り」と呼ばれています。こちらが、平成23年4月までの本堂です。この本堂の西側に開創310年記念事業として建立された新しい本堂があります。さて、成田山といえば、交通安全の祈祷が有名ですが、こちら東京別院の深川不動尊にも交通安全の祈祷所があります。祈祷料は6千円からのようでした。「仏心で握るハンドル、事故はなし」、ドライバーのみなさん安全運転でお願いします。【了】人気ブログランキングへ富岡八幡宮例祭(その3) 深川不動尊
2016年08月20日
コメント(29)
毎年8月15日を中心に行われる「富岡八幡宮例祭」に行ってきました。まずは門前仲町にある富岡八幡宮へ参拝しました。富岡八幡宮例祭は、深川八幡祭、深川祭とも呼ばれているそうで、赤坂の日枝神社の山王祭、神田明神の神田祭とともに「江戸三大祭」の一つに数えられています。鳥居の前では、太鼓が打ち鳴らされて、この日、行われる「子供神輿(みこし)連合渡御」を盛り上げています。御本殿の前には参拝する人の行列が出来ておりました。祭礼の日のせいか「錦の御旗」が飾られていました。お祭りの日に限らずいつでも見学できるのが、富岡八幡宮の御神輿です。こちらは、平成3年に製作された日本最大の神輿と言われている一の宮神輿。高さ4.4メートル重さ4.5トン随所に純金・宝石が散りばめられています。そして、一の宮神輿は非常に大きすぎて担ぐ事が出来ないということで、平成9年に製作されたのが、この富岡八幡宮の二の宮神輿です。それでも、高さ3.3メートル、重さ約2トンの神輿です。で、通常使われるのは、こちらの二の宮神輿なのですが、今年は使われません。というのは、富岡八幡宮の例祭、赤川八幡祭は、〇3年に一度行われる「本祭り」〇平成9年から始まった「ご本社祭り」〇平成13年の夏から始まった本祭りの前年のイベントとしての「陰祭」の3つに別れていて、今年は「陰祭」の年で、メインは氏子各町内から出てくる約30基の子供が担ぐ子供神輿による連合渡御となります。来年の「本祭り」は、氏子各町内から出てくる50余りの神輿が深川の氏子町内を一回りします。ちなみに、二の宮神輿が担がれるのは、ご本社祭りの時だそうです。【つづく】人気ブログランキングへ富岡八幡宮例祭(その1) まずは参拝
2016年08月18日
コメント(17)
5月13日から15日は浅草三社祭です。余り人混みは好きではないのですが、たまには行ってみようと思って、ちらっと浅草寺の近くへ行ってみました。みなさん楽しそうに御神輿を担いで町内を練り歩いてました。こちらはお囃子を演奏している人たちです。足元にはビールなんか置いてあって、暑かったからですかね。威勢よく御神輿を担ぐのが、いいですね。寄付も沢山集まっているようです。さすが浅草の三社様ですね。こちらは、同じ日に開催されていた浅草橋の「紅白マロニエまつり」です。ちょっと、寂しいのは仕方ないかなでも、こちらはこちらで岩手県の室根町のような田舎から名産品の「奥州いわいどりの唐揚げ」の出店なんかあって岩手県在住歴2年のMoMo太郎としては、面白かったですよ。人気ブログランキングへ浅草三社祭
2016年05月15日
コメント(20)
毎年、ゴールデンウィークに開催される「両国にぎわい祭り」。今年は4月30日(土)と5月1日(日)の2日間にわたって両国の国技館通りをメイン会場に、江戸東京博物館、国技館、回向院などで開催されました。国技館通りの会場は大変な人出でした。こちらは、戦隊ヒーローの皆さんが盛り上げに。この人は「北脇貴士」さん、大相撲をテーマにした自作曲を披露している方で、毎年、来ているみたいですね。こちらは、国技館の相撲教習所の土俵で開催されていた、「力士に挑戦」。チビッ子が力士に勝負を挑んでいます。ちなみに、女性は諸般の事情からまわしをつけての挑戦はご遠慮いただいてましたが、記念撮影はしてもらえました。人気ブログランキングへ両国にぎわい祭り
2016年05月03日
コメント(17)
山手線の駅の中でも、乗降客は少ない方と思われる「鶯谷(うぐいすだに)」駅です。「江戸時代に寛永寺の住職として、代々京都から皇族が駐在していた。その一人である公弁が、元禄年間に『江戸の鶯はなまっている』といって当時の文化人・尾形乾山に京都から鶯を運ばせて、この地域に鶯を放し、鶯の名所になったこと」が鶯谷の地名の由来だそうです。そんな、雅な理由にもかかわらず、駅前には、居酒屋があるようです。そして、なんといっても、駅前からもはっきりと見える、特殊な用途に使われるホテル街。それが鶯谷の特徴ですね。山手線なんかに乗っていて、普段は乗降客が少ないこの駅で、男女のカップルが乗り降りすると、ついつい妄想が膨らむMoMo太郎です。人気ブログランキングへ鶯谷(ウグイスダニ)
2016年04月20日
コメント(20)
浅草六区から浅草寺を抜けて帰ろうと思って夜道を歩いていると、目についたライトアップされた浅草寺。正面の宝蔵門のあたりからも撮影してみました。週末の夜ということで、結構お詣りされる人も多いようです。五重塔もライトアップされていました。本堂は扉が閉まっているようですが。それでもお詣りされる人が多いのは、やっぱり浅草だからでしょうか?人気ブログランキングへ夜の浅草寺
2016年02月01日
コメント(16)
浅草の浅草寺にあって余り目立っていないけど、ちょっと興味深いものを紹介していきます。雷門に通じる並木通りの北陸銀行のある交差点を東の方に入って、中の路地を雷門通りに抜ける路地の脇に目立たない石碑ですが、「専堂坊屋敷跡之碑」 というのがあります。そもそも、浅草寺は、飛鳥時代、推古天皇36年(628)3月18日の早朝、檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)の兄弟が江戸浦(隅田川)で漁をしている時に、網にからまった観音さまのご尊像を、村長さんだった土師中知(はじのなかとも)に持って行き、土師中知はこれを聖観世音菩薩さまであることを知り深く帰依し、出家までして自宅を改めて寺としたところから始まるそうです。その土師中知の旧居宅地(通称専堂坊屋敷)が存在したところがここということを示す石碑で、2013年1月に建立されたそうです。さて、この3人、土師真中知、檜前浜成・武成を主祭神としているのが浅草神社なのですが、その浅草神社内にあるのが、この「友情はいつも宝物」という石碑です。みていただくとわかりますが、「週刊少年ジャンプ」で連載をしている「こちら葛飾区亀有公園前派出所」に因む石碑で平成17年(2005)8月6日建立とのことです。主人公の両津勘吉がこの浅草出身ということや、その「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の作品に、今は逃亡犯となった友達に対して、今は一応警察官となった両津勘吉が、子供の頃に遊んだこの浅草神社で、説得して逃亡犯を自首させるというストリーの「浅草物語」というのがあったそうです。その作品に因み、人を思いやる気持ちの大切さ、そして子供たちが夢や遊び心を忘れず健全に成長してくれるよう願いを込めて建立された石碑だそうです。さて、浅草マイナーのシリーズですが、とりあえずここでいったん〆させてもらってもらいます。そして、また、浅草界隈でマイナーで面白いものを見つけたら報告することとさせてもらいます。ここで紹介させてもらったマイナーなものを見るのも浅草にくる魅力かとも思います。初詣などで浅草寺にお詣りにこられた際は、是非、マイナーなものも見ていただければ幸いです。【了】人気ブログランキングへ浅草マイナー(その15) 友情はいつも宝物
2015年12月27日
コメント(10)
浅草の浅草寺にあって余り目立っていないけど、ちょっと興味深いものを紹介していきます。浅草にやってくるのに便利なのは東京メトロ銀座線ですね。これは吾妻橋近くにある「赤門」と呼ばれる出入口です。この赤門は、昭和2年に、東京、いや東洋初の地下鉄として、今の銀座線が、銀座浅草間で営業を開始した時からもので、寺社風のデザインが建築家の遊び心なんでしょうか。そんな遊び心が、側面にある鉄製の飾り格子の「地下鉄出入口」にも生きていますね。また、最近の浅草では観光客向けの人力車が沢山走っていますが、その元締めのひとつがこの時代屋だそうです。雷門の前あたりで客引きもありますが、このお店から乗り出してもいいようです。料金は時間により色々ありますが、車を曳いてくれる車夫さんがそれぞれのスポットも解説してくれたりしますので、観光客向けにはいいかもしれませんね。MoMo太郎的には、この人力車の車夫さんへ「吉原まで、幾らだい?」「へい、2千と5百円で参ります」「そうかい、じゃあ、これで行ってくれ」といって3千円渡して、車夫さんがおつりを渡そうとするのを止めて、「釣りは祝儀ってことでとっときな」とか、いって吉原に乗り付けてみるのが夢です。【つづく】人気ブログランキングへ浅草マイナー(その14) 浅草にある赤門
2015年12月26日
コメント(16)
浅草の浅草寺にあって余り目立っていないけど、ちょっと興味深いものを紹介していきます。今回は、浅草寺のものではないですが、西参道の近くにある「浅草観音温泉」です。一応、頭に「天然」と書いているので、天然の温泉ですが、源泉の温度が低めのために加温しているそうです。建物はツタに覆われていて、昭和レトロ感が漂っていますね。入浴料は700円で、朝の6痔30分からの営業です。MoMo太郎は一度も入ったことはないのですが、東京の温泉は、普通、黒湯なんですが、ここはろ過しているそうで、黄色みかがった透明のお湯だそうです。話のタネに一度は入ってみたいものです。【つづく】人気ブログランキングへ浅草マイナー(その13) 浅草観音温泉
2015年12月25日
コメント(12)
浅草の浅草寺にあって余り目立っていないけど、ちょっと興味深いものを紹介していきます。浅草寺に行くと目立つのがこの「五重塔」五重塔とは、お釈迦さまのご遺骨を奉安する仏塔なのですが、この五重塔を見るポイントというのが、本堂に向かって左手に示されています。ここに立って撮影したのが、この写真です。塔の足元が入らないのがちょっと残念な撮影ポイントでした。ところで、浅草寺の五重塔は、天慶5年(942)平公雅(たいらのきんまさ)が本堂と共に建立したのが始まりでして、それから、幾度となく地震による倒壊や火災での炎上に遭ったそうで、その都度再建されてきました。徳川3代将軍家光により本堂・仁王門などと共に建立された五重塔は、国宝の指定を受けていたそうですが、太平洋戦争の戦火により、昭和20年(1945)3月10日、他の伽藍とともに惜しくも焼失してしまい、現在の五重塔は昭和48年(1973)11月1日に完成した鉄骨、鉄筋コンクリート造りの建物です。そんなわけで、現在、境内の西側に建立されている五重塔は、かってはその反対側に位置していたそうで、むかし、五重塔があった位置には「旧五重塔跡」と記された石碑が跡地に建っていました。この旧五重塔跡から撮影したのが下の写真です。宝蔵門とかぶってしまって、これもちょっと残念な撮影ポイント。そこで、ちょっと、北にずれて撮影したのが下の写真です。これなら、五重塔の全体が撮影できて、最近流行りの自撮り棒をつかって、五重塔とのツーショットにもいいかもしれませんね。【つづく】人気ブログランキングへ浅草マイナー(その12) 五重塔の撮影ポイント
2015年12月23日
コメント(18)
浅草の浅草寺にあって余り目立っていないけど、ちょっと興味深いものを紹介していきます。仲見世通りを通り過ぎ、宝蔵門を入った右手にある「久米平内堂」です。久米平内(くめのへいない)というのは江戸時代前期の人で、剣の道にすぐれ、多くの人を殺したので、その罪を償うために日ごろ修めていた「仁王座禅」の自分の姿を石に刻ませ、人通りの多い仁王門(今の宝蔵門)の近くに埋めて「踏みつけ」させたそうです。そして、それが転じて「文付け」となり、のちには恋の仲立ち役の神さまとなって崇拝されたということで、現在でも縁結び、恋愛成就の願いをこめる女性の姿を見かけるそうです。縁結びといえば、やっぱり、庶民としてはお金との縁を結びたいものです。そんな円との縁結びの願いも聞き届けてくれるのが浅草寺です。この「銭塚弁財天」は福徳財運の弁財天さま。名前からして、金運上昇の期待できそうでが、このお堂は、本堂の西側、ちょっと隠れるように建っているので、見つけにくいかもしれませんが、まあ、金運というのも見つけにくいものす。また、宝くじに当たるとか、バルブで持っている株式や土地が上がる、というようなことで一時的にお金を得ても、後が続かないといけませんね。だから、人間コツコツ働いて・・・、と考えている人が信仰するのに最適な仏様も浅草寺では用意してあります。それが、浅草寺境内奥の北西、花やしきに近いところにある「銭塚地蔵堂」です。沢山の赤いのぼりがあるので目立ちます。堂内の四角い石塔の上に石の六地蔵尊が祀られて、石塔の下には「寛永通宝」が埋めてあるので、「銭塚」と呼ばれるのだとか。この赤いのぼりの上は「奉納融通」と染め抜いてあるのですが、この銭塚地蔵尊のご利益は、商売繁盛と金銭融通だそうです。参拝したらお金持ちになれるわけではなく、その人に必要なだけのお金が融通されるので、商売がうまく行くということでしょうね。【つづく】人気ブログランキングへ浅草マイナー(その11) 縁結び
2015年12月21日
コメント(20)
浅草の浅草寺にあって余り目立っていないけど、ちょっと興味深いものを紹介していきます。今回は浅草寺を離れて、その東側にある花川戸公園のあたりです。この近くある「東京都立産業貿易センター台東館」がはとバス以外の観光バスの駐車場になっているようで。休みの日は大型の観光バスが公園の前の道路をひっきりなしに通過しています。また、かっては花川戸一帯は履物問屋街としても知られていたそうで、公園の中に履物問屋街発祥碑がありました。こちらは、姥ヶ池の説明が書かれた説明板です。姥ヶ池(うばがいけ)は、昔、隅田川に通じていた大池で、明治24年に埋立てられたそうです。この姥ヶ池ですが、浅草寺の子院・妙音院所蔵の石枕にまつわる恐ろしい伝説が残されているのです。この周辺が浅芽ヶ原(あさじがはら)と呼ばれていた昔々、老女と若い娘が住んでおりました。娘が旅人に宿を貸すと言って家に連れ込み、深夜になると老女は旅人を殺し金品を剥ぎ取ってしまう、といった残忍な手口で殺された人は999人。1000人目にこの家に泊まったのは浅草観音が変装した若者でした。老女はいつものように深夜にこの若者を殺し・・・と思いきや倒れているのは娘の姿。嘆き悲しみ悪行を悔やんだ老婆はこのとき仏眼を開き、自らを竜の姿に変え池の中に消えていった。というのがこの池に伝わる伝説です。これは花川戸公園の中に残された姥ヶ池の跡なのでしょうか?池の中に突き出たところの灯籠の間にははこんな石碑があり、「福寿稲荷大明神」と刻まれていました。この池のすぐ脇にあるのがこれ、「助六歌碑」です。ここには「助六ゆかりの雲の紫を弥陀の利剣で鬼は外なり 団州」と刻まれています。団州とは九世市川団十郎の雅号のことで、団十郎が自作の歌を揮毫したものだそうです。つまり、この花川戸公園のあたりで、稲荷寿司と海苔巻の入った助六寿司が、考案されたということで、歌舞伎役者の九世市川団十郎も感銘してこの歌を詠んだ・・・・という話ではありません。歌舞伎十八番「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」は、『花川戸の助六という侠客は、毎夜吉原でけんかを売って相手の刀を抜かしている。助六は実は曽我五郎で、源家の重宝「友切丸」を探すための行状だった。吉原の遊郭三浦屋の揚巻は、全盛の花魁で、助六といい仲である。髭の意休は子分を引き連れ吉原に通い、権力と金をかさにきて威張り、揚巻に言い寄ってくるが相手にされない。意休は助六を罵倒し、図に乗って自分の刀で香炉台を切った。助六はこの刀こそ「友切丸」と見届け、意休を討ち果たして刀を奪う。捕手に追われた助六は、天水桶の中に身を隠し、揚巻の助力で吉原から逃れた。』というストーリーですから、まあ、ここが物語発祥地ということですね。ちなみに、この芝居に出てくる花魁の名前が「揚巻」、つまり油揚げと海苔巻ということで、稲荷寿司と海苔巻が詰め合わせになった寿司折を助六と呼ぶそうです。【つづく】人気ブログランキングへ浅草マイナー(その10)姥が池
2015年12月20日
コメント(12)
浅草の浅草寺にあって余り目立っていないけど、ちょっと興味深いものを紹介していきます。今日、12月19日は納めの観音ご縁日、いわゆる羽子板市の最終日で結構な人出がありました。12月18日の「納めの観音ご縁日」は特に参拝者も多く、江戸時代にはこの日を中心に新年の用品などを売る市が立つようになったのが、現在まで羽子板市として続いています。羽子板中心になったのは、江戸後期、正月に女子の誕生した家へ羽子板を贈る習慣があったことから羽子板屋が境内に立つようになったとか。で、こんなに沢山の人が集まると、必ずいるのが迷子。でも浅草寺なら安心です。この「迷子しるべ石」がありますから。この石標は本堂の手前、向かって左側に立っています。正面に「南無大慈悲観世音菩薩まよひこのしるべ」と記されていて、江戸時代に迷子の情報を交換するために使われていました。用いられていました。右側面のこちら側には「しらする方」と刻まれていて、預かっている迷子や訪ね人の情報を書いた紙をここに貼り付けておきます。左側面には「たずぬる方」と刻まれていて、探している迷子や尋ね人の人相や特徴などを書いた紙をここに貼り付けておきます。江戸の人々は、この張り紙を見て迷子や尋ね人を探していたのですね。しかし、今日は「迷子しるべ石」の前に羽子板のお店が立っていて、この「迷子しるべ石」に紙を貼っていても誰も気が付かなかったでしょう。この石標の隣にあったのが、「鳩ポッポの歌碑」です。明治33年(1900)、東くめ(1877~1969)作詞、滝廉太郎(1879~1903)作曲の童謡「鳩ポッポ」の歌碑です。また、今日は浅草六区通りから浅草寺に続く「奥山おまいりみち」で、恒例の「弘前ねぷた浅草まつり」が開催されました。わざわざ、青森県弘前市から、こんな大きな「ねぷた」の山車を運んできてこられたんですね。明日は、浅草一帯、西参道あたりも回ってもらえるようです。【つづく】人気ブログランキングへ浅草マイナー(その9)迷子しるべ石
2015年12月19日
コメント(8)
浅草の浅草寺にあって余り目立っていないけど、ちょっと興味深いものを紹介していきます。本堂の西北、新奥山と呼ばれるあたりに「社会福祉の母」と呼ばれる瓜生岩子(うりゅういわこ。1829~97)の銅像があります。瓜生岩子は福島県会津に生まれ、その半生を社会福祉事業にささげた方です。児童教育や女性・貧民救済などの社会福祉事業の推進に努め、晩年の明治29年(1896)には、藍綬褒章を女性としては初めて受賞しているそうです。詳しくはこちら→→→ 瓜生岩子についてこの像は実業家の渋沢栄一の助力で明治34年(1901)に完成したそうです。ちなみに、「押切川~岩子のように~」という演歌もあります。 さらにこの新奥山には色々な石碑があります。こちらは「喜劇人の碑」笹川良一が中心となって喜劇界が協力して建立した喜劇俳優追悼碑だそうです。こちらは映画弁士塚です。弁士とは無声映画の説明をする人たちのことで、昭和になりトーキー映画の時代になると姿を消しました。ここには当時活躍していた名弁士という人たちの名前が刻まれています。【つづく】人気ブログランキングへ浅草マイナー(その8)瓜生岩子像
2015年12月18日
コメント(18)
浅草の浅草寺にあって余り目立っていないけど、ちょっと興味深いものを紹介していきます。本堂の西北にある石橋(しゃっきょう)です。この石橋は、現存する都内最古のものと言われています。元和4年(1618)浅草寺に東照宮が造営された際に、参詣のための神橋として造られたものだそうです。寄進者は、紀伊国和歌山藩主浅野長晟(広島浅野家藩祖)だそうです。そして、この石橋は昭和23年(1948)、文部省より重要美術品に認定されています。池には錦鯉が優雅に泳いでいます。反対側からみると紅葉がきれいでした。こちらは、六角堂、室町時代(16世紀頃)の建立とされているそうです。木造単層六角型造で、本尊は、日数を決めて祈るとその願いが叶うとされる日限(ひぎり)地蔵尊だそうです。そして、都内最古の木造建造物ということで東京都指定文化財になっています。もとは、ここより東側にある今の影向堂のあたりにあったそうですが、平成6年(1994)に境内整備のためにここに移されました。今でも影向堂の南基壇上に元位置が明示してあるそうです。【つづく】人気ブログランキングへ浅草マイナー(その7)古いものです
2015年12月17日
コメント(14)
浅草の浅草寺にあって余り目立っていないけど、ちょっと興味深いものを紹介していきます。本堂裏にひっそりと置かれている石碑を紹介します。これは、釘供養塔です。釘は釘でもパチンコ台の釘ではなく、大工さんが使う釘の供養をするのだと思います。消防殉職者表彰碑です。猛火の中に身を挺して殉職した人たちを、後世に伝え永久に弔慰すべきという趣旨で、当時の消防関係者や有志の賛助によって、明治45年に建立されたものです。毎年5月25日にこの前で江戸消防慰霊祭が行われています。この像は明治時代の歌舞伎役者、九代目市川団十郎(1838~1903)が演じる歌舞伎十八番の一つ「暫(しばらく)」の鎌倉権五郎の銅像です。決めポーズですね。現在の像は、十二代目市川団十郎(1946~2013)襲名を機に復元されたものだそうです。今の海老蔵が団十郎を襲名したら十三代目ってことですね。【つづく】人気ブログランキングへ
2015年12月15日
コメント(20)
浅草の浅草寺にあって余り目立っていないけど、ちょっと興味深いものを紹介していきます。浅草寺の裏手の広場にはいつもは、東京では唯一の定期観光バスの「はとバス」専用の駐車場があります。はとバスと浅草寺の五重塔です。はとバスが集まるのは観光客や参拝者が多く訪れてくれていいのですが、ハトが集まるのは最近迷惑みたいで、浅草寺ではハトへエサを与えないで下さい。やはり海外からも多くの観光客が訪れる場所だけに、英語と中国語でも書かれていますね。でも、MoMo太郎が子供の頃は、浅草寺の境内にはハトの豆を売っていたおばあさんがいたんですけどね。【つづく】人気ブログランキングへ浅草マイナー(その5) はとバスの溜まり場
2015年12月14日
コメント(12)
浅草の浅草寺にあって余り目立っていないけど、ちょっと興味深いものを紹介していきます。こちらは、仲見世から宝蔵門の向かって右手にある「濡れ仏」と呼ばれている二尊仏です。観音菩薩(写真右)と勢至菩薩(写真左)です。 江戸時代前期の貞享4年(1687)、現在の群馬県館林の高瀬善兵衛(たかせぜんべえ)が願主となって建立したものです。善兵衛は江戸日本橋の米問屋に奉公し、のちにその主家への報恩と菩提を弔う為に造立したそうです。こちらは「濡れ仏」の向かい側に建つ「母子地蔵尊」です。これは、第二次世界大戦末期混乱の中、中国東北部(旧満州)から日本へ帰ることが出来なかった母子の霊を慰め、また、いまだ再会かなわない親と子の心のよりどころとして建立されたお地蔵様だそうで「まんしゅう母子地蔵」とも呼ばれています。犠牲となられた母子の霊を慰め、二度と戦争という過ちを繰り返さない事を祈念しつつ、1997年4月12日に「明日のジョー」のちばてつや氏がデザインされた地蔵尊が建立されたそうです。これは母子地蔵の近くにあった手押しポンプで、名古屋地方では「ガチャポン」と呼ばれているそうです。地震などの災害時に生活用水・雑用水の確保に役立つことから、最近は設置されているようです。こちらは、本堂の裏、浅草寺病院との間に広がる広大な公園のようなところにある一葉観音です。唐銅製の仏像で埼玉県の秩父三十四観音札所の第三十二番法性寺の観音像を模して造られました。蓮の一枚の花びらの上に乗り、櫂を持ち、笠をかぶった観音像で、新吉原の「ひで」という女の12歳の息子久次郎が、水難事故によって亡くなったことを偲び、息子の菩提のため、また今後このようなことのないようにとの「ひで」の願いによって寛政9年(1797)に造立されたそうです。【つづく】人気ブログランキングへ浅草寺マイナー(その4)子を思う親の心 親を思う子の心
2015年12月13日
コメント(24)
浅草の浅草寺にあって余り目立っていないけど、ちょっと興味深いものを紹介していきます。本堂の東南、仲見世から宝蔵門のに向かって進んでいくと右手にあるのが、弁天山と呼ばれる小高い丘があります。その上に建つお堂が「弁天堂」です。ご本尊は白髪のため、「老女弁財天」と呼ばれているそうです。ちなみに、「江の島」(神奈川県藤沢市)、「布施」(千葉県柏市)とともに関東三弁天の一つに数えられています。弁天堂に向って右手前の鐘楼があります。これは、江戸時代に時刻を知らせるために設置された「時の鐘」の一つで、松尾芭蕉(1644~94)の句「花の雲 鐘は上野か 浅草か」で有名な鐘と言われています。が、芭蕉のこの句は貞享4年(1687年)に詠まれたもので、この鐘は、芭蕉の句が詠まれた5年後の元禄5年(1692年)に第5代将軍徳川綱吉の命により下総国関宿藩主牧野成貞が寄進されたもので、元禄5年の銘があります。つまり、芭蕉が聞いたのはこの鐘の音ではなかったということですね。江戸の町には、こういう「時の鐘」があっちこっちにあったそうで、錦糸町と両国を結ぶ馬車通りが大横川を横切る辺りにも「時の鐘」があったようで、今では鐘つき堂の形をした記念碑があります。【つづく】人気ブログランキングへ浅草マイナー(その3)弁天堂と時の鐘
2015年12月11日
コメント(12)
浅草の浅草寺にあって余り目立っていないけど、ちょっと興味深いものを紹介していきます。こちらは、浅草神社(あさくさじんじゃ)。観音さまを祀っているのは浅草寺(せんそうじ)です。浅草神社は、浅草寺の草創に関わった土師真中知(はじのあたいなかとも)、檜前浜成(ひのくまはまなり)・武成(たけなり)の3名が主祭神となっているそうです。この3名の霊をもって「三社権現」とよばれていて、毎年5月17日の三社まつりはこの神社のお祭りです。最近、若い人がこちらの浅草寺の本堂にお参りするとき、拍手(かしわで)を打って音を出している人がいますが、お寺(仏教)では手を合わすだけなのに。どうしても柏手を打ちたいのであれば、こちらの浅草神社でやりましょう。ちなみに、この本堂の屋根はチタンでできているそうです。【つづく】人気ブログランキングへ浅草寺マイナー(その2)浅草神社
2015年12月08日
コメント(28)
浅草の浅草寺にあって余り目立っていないけど、ちょっと興味深いものを紹介していきます。まず、本堂の東側にある「二天門」です。本瓦葺、切妻造り、木造朱塗り八脚門の重要文化財です。もともとは元和4年(1618)浅草寺境内に造営された「東照宮」の「随身門(ずいじんもん)」でしたが。、東照宮は 寛永19年(1642)に焼失し、この門が残ったそうです。この扁額は最後の太政大臣、三条実美(さんじょうさねとみ 1837~91)筆だそうです。ちなみに、二天とは、増長天と持国天の二つの仏神をいうそうです。この二つの仏神に加えて、広目天、多聞天をまとめて四天王と呼ぶそうです。浅草寺というと雷門が有名ですが、この二天門もなかなか魅力ありますね。【つづく】人気ブログランキングへ浅草寺マイナー(その1) 二天門
2015年12月07日
コメント(16)
浅草かっぱ橋道具街の入り口にあたる。南端、浅草通りにある菊屋橋交差点から見えるコックさん。「ジャンボコック」という名前があるみたいですが、ランドマークってこういうものを言うのでしょうね。人気ブログランキングへ浅草かっぱ橋のランドマーク
2015年12月04日
コメント(8)
上野の山に寛永寺をつくった天海僧正は、天台宗の最高権威だった比叡山延暦寺をモデルにしています。例えば寺名を年号からとり寛永寺、住職には皇室から法親王を迎える、西の叡山に対し東叡山としたことなど……。そして、京都の清水観音堂がモデルとなっているのが、この清水観音堂です。寛永八年(1631)天海大僧正により建立されたこの堂宇は国指定重要文化財になっています。不忍弁天堂からこの清水観音堂舞台をみてみると、見慣れぬ変わった姿の松があります。これは「月の松」といわれるそうです。江戸時代の浮世絵師歌川広重の「名所江戸百景」において「上野清水堂不忍ノ池」そして「上野山内月のまつ」として描かれていた独特の枝ぶりの松があったそうですが、明治初期の台風で消失したままとなっていたそうです。そして、2012年に150年ぶりに復活したそうです。この松を通して弁天堂と不忍池を歌川広重も見ていたのでしょうね。【了】人気ブログランキングへ上野周辺(その6)月の松
2015年10月22日
コメント(24)
不忍弁天堂の回りには、ちょっと変わったユニーク石碑があります。これはふぐ供養碑です。めがねの碑だそうです。包丁塚、おそらく調理師の団体が建立したのでしょう。鳥塚、これは卵屋さんと鶏肉屋さんの団体でしょう。【つづく】人気ブログランキングへ上野周辺(その5)ユニーク石碑
2015年10月20日
コメント(14)
全377件 (377件中 201-250件目)