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すみだ福祉保健センターの近くにある都立本所高校です。このあたり向島なんですが、向島高校ではなく本所高校なんですね。森鴎外住居跡の案内板が建っていました。墨田区向島って、文学者が多く住んでいた町なんですね。案内板に記された説明文です。森鴎外住居跡 所在地 向島三丁目三十七番三十八番 文久二年(一八六二)に現在の島根県津和野町に生まれた森鴎外(本名林太郎)は、明治五年(一八七二)十歳の時に父静男に随い上京しました。初めに向島小梅村の旧津和野藩主亀井家下屋敷、翌月からは屋敷近くの小梅村八七番の借家で暮らすようになり、翌年上京した家族とともに三年後には小梅村二三七番にあった三百坪の隠居所を購入して移り住みました。茅葺きの家の門から玄関までの間には大きな芭蕉があり、鴎外が毛筆で写生したという庭は笠松や梅、楓などが植えられた情緒的で凝った作りでした。この向島の家のことを森家では「曳舟通りの家」と呼び、千住に転居する明治十二年まで暮らしました。 父の意思で学業に専念する道をつけられた鴎外は、上京二ヶ月後には西周宅に下宿して進文学社でドイツ語を学ぶ日々を過ごし、東京医学校予科(現東京大学医学部)に入学しました。明治九年以後は寄宿舎生活となりましたが、曳舟通りの家には毎週帰り、時おり向島の依田学海(よだがっかい)邸を訪れて漢学の指導を受けていました。鴎外の代表作『渋江抽斎(しぶえちゅうさい)』には「わたくしは幼い頃向島小梅村に住んでいた」と記し、弘福寺や常泉寺などがある周辺の様子や人々についても詳しく書き残しています。また、明治十年代に原稿用紙に用いたという「牽舟居士(ひきふねこじ)」の号は近くを流れていた曳舟川(現在の曳舟通り)にちなむものでした。鴎外にとって、向島小梅村周辺での生活は身近いものでしたが、思い出深い地として記憶にとどめられていたようです。 平成二十六年二月 墨田区教育委員会【つづく】人気ブログランキング東京スカイツリー周辺のマイナースポット(その14) 森鴎外住居跡
2022年07月18日
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鳩の街から東京スカイツリーの方へ向かって戻ってきました。こちらの建物は、すみだ福祉保健センター(→→→こちら)です。こちらの建物にあった「堀辰雄住居跡」の案内板です。堀辰雄って、墨田区の生んだ文学者だったんですね。案内板に記された説明文です。堀辰雄は明治 37年 ( 1904 )、麹町平河町 ( 現在の千代田区平河町 ) に生まれました。2歳とき、母に連れられ向島小梅町 ( 現在の向島 3丁目 ) に住む叔母の家に移りました。明治 41年には母が彫金師・上條松吉と結婚し、向島中ノ郷町 32番地 ( 現在のすみだ福祉保健センター所在地 ) で暮らしはじめます。新居は「曳舟通りに近い、或 ( あ ) る狭い路地の奥の、新しい家」でした。そこは辰雄にとって「とりとめのない幸福を今の私にまでまざまざと感じせる」大切な場所であり、辰雄のための小さなブランコが吊るされていた無花果 ( 無花果 ) の木や日あたりのいい縁側などがあったと『幼年時代』に記しています。明治 43年の大水で新小梅町 2ノ4 ( 現在の向島 1丁目 16番 ) に移るまで、この地で過ごしました。牛島尋常小学校を経て、府立第三中学校 ( 現在の都立両国高校 ) を卒業した辰雄は、後に室生犀星の紹介により、同校の先輩である芥川龍之介を知り文学的影響を受けます。関東大震災では九死に一生を得ますが、母を亡くしました。大正 13年 ( 1924 ) 4月に父・松吉が隅田公園の新小梅町 8番地 ( 現在の向島 1丁目 7番 ) に住居を新築し、辰雄は結婚して軽井沢へ赴く昭和 13年 ( 1938 ) まで父と共にそこで暮らしました。辰雄は、「墓畔の家」や『幼年時代』などの作品に、当時の墨堤や近隣の寺社の様子を記しています。昭和初期の文学の傑作として高い評価を受けた『聖家族』をはじめ、『風立ちぬ』『美しい村』など愛や生死をテーマとする代表作を残しました。また、すみだ福祉保健センターの敷地の中には初代墨田区長「勝田菊蔵」氏の胸像がありました。【つづく】人気ブログランキング東京スカイツリー周辺のマイナースポット(その13) 堀辰雄旧居跡
2022年07月17日
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鳩の街通り商店街の近く、墨田区立言問小学校のそばにあるこの集合住宅の入口になにやら銘板が見えます。不審者に間違われないかドキドキしながら、銘板を見てみると、「向嶋有馬温泉之図」とありました。下の「向嶋有馬温泉縁起」という文章を読んでみると、あの有名な兵庫県有馬温泉の湯花を持ってきて温泉を経営していたという、今でいうところのスーパー銭湯があったようです。碑文には以下のようなことが記されています。 向嶋有馬温泉縁起向島は江戸時代より多くの別荘が営まれ、春には花の名所として賑わっていました。明治十七年、兵庫県有馬温泉の湯花をこの付近に遷し、向島有馬温泉が開業しました。この由来を語り継ぐものとしてつぎのような文献が残っています。客間 茅葺二階建て一棟何の風情も無けれど、遠く墨堤の桜を望み、小田の蛙に耳を澄し、秋は稲葉の風に戦ぐも、熊変わりてをかし。栽籠繁茂く技を交し、瓦葺の三階造小丘を抱きて立てるをもて背面より登れば直ちに二階達すべく、正面より登れば初階より通るを得べし。其さま恰も浅草奥山鳳凰閣の如く、南に二階家の離れて建てられたるは旅館なり。梅林鬱として、藤樹蔭を成し松籟微かに眠を催して、三伏涼を納るゝに適す。泉水 池あり水青く、中島に茶室あり、渚に捨小船、それすら風雅なるに、蓮の浮葉鯉の跳ねて、客あり、釣竿を望む時は、随意に貸与して、釣る所の、魚を調理す。鮮鱗溌剌膳に上るも快。混堂 池畔に在り、湯槽は好心地よく洗われて、男室女室に区画たる。料理 普通一式の料理。花中又弁当を調進す。美人なし 別嬪は他よりお連れ下されとは情けなくも、前歯のぽっくり欠損た婆様が愛敬。梅干 梅林数十株。毎歳梅干と為す。有馬産の梅干は名代なり。春は、籬根の残雪未だ全く消えやらぬ間に、南枝蕾を破って暗香浮動、梅見にと杖を曳く雅客、つゞいて向島桜狩の崩れ客、庭の藤の花池の面にゆかりの色を映せば、五月ともなりて実梅の影夏座敷に落ちて、水無月文月三伏ともなれば、夏を余所なる納涼がてらの客、美姫を携え酒肴満盞、緑陰華宵に遊ぶもよからむ。 『新撰東京名所図会』第十四編より一部引用上の絵は山本松谷、山下重民の文により明治三十一年発行の『風俗画報』に掲載されました。江戸の画影と明治の息吹を伝える雑誌に「有馬温泉」は「行楽の場」として描かれています。その後この地に「有馬温泉」の名に因んだ銭湯が誕生し地域の人たちの「憩いと語らいの場」としてともに生きてきました。 向島の歴史と文化を伝えたくこの碑文を設けます。 二〇〇四年十二月 【つづく】人気ブログランキング東京スカイツリー周辺のマイナースポット(その12) 向嶋有馬温泉
2022年07月16日
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開業して10年を迎えた東京スカイツリー。その周辺にある、ちょっと目立たない、マイナーな場所を巡っていますが、今日紹介するのは、スカイツリーからはかなり離れた水戸街道沿いにあるこちら。鳩の街通り商店街(→→→こちら)です。昭和3年(1928)に設立された寺島商栄会から続く、90年以上の歴史を持つ古い商店街だそうです。東京大空襲をまぬがれたために、通りの道幅は戦前のまま。昭和初期からのレトロな商店と新しいショップがある個性的な商店街だそうです。また、戦火を免れたということで、この近くにあり東京大空襲で焼け出された「玉の井」(→→→こちら)という私娼街(公の営業許可を与えられていない売春婦がいた町)の業者の何軒が、この寺島商栄会のある地域に移転してきて、営業しはじめたそうです。終戦直後は、米軍兵士の慰安施設として出発したが、兵士が性病に感染することが多いため、昭和21年(1946)に米兵の立ち入りが禁止され、その後、日本人相手の赤線地帯(つまり、半ば公認で売春が行われている地帯)として発展したそうです。もちろん、昭和33年(1958)4月1日に売春防止法が完全施行されてからは、永井荷風や吉行淳之介の小説で描れるようなお店はありません。【つづく】人気ブログランキング東京スカイツリー周辺のマイナースポット(その11) 鳩の街通り商店街
2022年07月15日
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東京スカイツリーの立っている敷地、以前は生コンクリート工場だったことを覚えているでしょうか。そんなわけで、スカイツリータウン南面 荷捌場B出入口の近くの壁際にひっそりとこんな石碑が建立されています。「生コンクリート工場発祥の地」(→→→こちら)だそうです。この記念碑は、1949 年に東京都墨田区の東武鉄道・業平橋駅構内に日本初の生コンクリート工場設立を記念し、工場の操業50 周年にあたる1999 年11 月に建立したものを東京スカイツリーの完成にあたり、移設再設置したものだそうです。強度150N(1平方メートルあたりおおよそ15,000トンの重さに耐える)の超高強度コンクリートそうです。「生コンクリート工場発祥の地」の碑文には以下のように記されていました。 戦後、わが国のセメントが統制下にあった時代、昭和24年11月この地に日本で初めての生コンクリート製造会社が操業されました。 それまでの施工方法に比べ、簡便で工事費が安価であることから、生コンクリートは道路・軌道工事を中心に急速に広まり、わが国の高度成長期を支えてきました。ここに生コンクリートの発祥の地を記念するとともに、今後も社会基盤を支えていくことを願い、記念碑を建立いたします。住友大阪セメント株式会社東京エスオーシー株式会社平成24年5月 この碑は東京エスオーシー株式会社が50周年記念として平成11年11月に業平橋工場にて強度150N/m㎡のコンクリートで作成・設置していたものを、東京スカイツリー建設にあたり、再設置したものである。【つづく】人気ブログランキング東京スカイツリー周辺のマイナースポット(その10) 生コンクリート工場発祥の地
2022年07月14日
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東京スカイツリーの近くにある曳舟川通りです。とうきょうスカイツリー駅北交差点から、曳舟川通りを見たところです。ここはかっては川だったそうですが、埋め立てられて水戸街道と並行する幹線道路として使われています。とうきょうスカイツリー駅北交差点には舟をかたどった石碑があります。「曳舟川の由来」という碑文がありました。曳舟川の由来 曳舟川は、徳川幕府が本所開拓に伴う上水として、万治二年(一六五九年)に開削したものです。当時は、本所上水、亀有上水などと呼ばれ、瓦曾根(現越谷市)の溜井から分水して、亀有から四ツ木をへて本所と深川の各地に配水されたようです。 その後、享保七年(一七二二年)に上水としては利用されなくなりましたが、川筋の脇を四ツ木街道が通り水戸街道に接続しているため、次第に重要な交通路として利用されるようになりました。 この川が「曳舟川」と呼ばれるようになったのは、「サッパコ」と呼ばれる田舟のような舟に旅人を乗せ、岸から引かせたことによるものです。 また、曳舟川には古くから多くの橋が架けられており、薬師橋、鶴土手橋、地蔵橋、庚申橋などの名前が文献に見られますが、この付近(小梅児童遊園)にも八反目橋が架けられていました。この辺りの小梅という地名は、元は梅香原と呼ばれる梅の木の多い地域だったことによるもので、八反目の名も八反梅(八〇アールの梅林)から来ているとの説もあります。 昭和二十九年六月東京都告示によって川としての役割は廃止され、昭和三十年代を中心に埋め立てられて、道路として整備されました。 平成五年三月 墨田区」こんな感じで舟を曳いていたんでしょうね。【つづく】人気ブログランキング東京スカイツリー周辺のマイナースポット(その9) 曳舟川通り
2022年07月13日
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こちらも東京ミズマチに近い、源森橋北詰にある日本初の女医、荻野吟子(おぎのぎんこ)の医院のあったところです。荻野吟子(→→→こちら)は、最初に結婚した旦那さんから性病をうつされて離婚したのですが、その時、この恥ずかしい病気を男性医師のもとにさらさなければならなかった屈辱から、医師の資格をとって、同様の立場に追い込まれた女性患者を助けようと決意し、明治18年(1885)、医師免許試験に女医第一号として合格した方です。つまり、日本初の国家資格を持った女性医師ということです。ということで墨田区教育委員会の案内標識がありました。案内標識の説明文です。荻野医院跡 ──日本女医第一号 荻野吟子開業の地──所在地 墨田区向島1丁目8番荻野吟子は、嘉永4年(1851)3月3日に武蔵国幡羅郡俵瀬村(現在の熊谷市俵瀬)の名主荻野綾三郎の五女に産まれました。幼い頃より向学心が強く、近所の寺子屋で手習いを受けた後は寺門静軒の弟子松本万年に師事して学問を身につけました。医師を志したのは一回目の結婚後のことで、自身の病気療養中に女医の必要性を痛感したのがきっかけでした。吟子は以前夫の家に仮寓していた女性画家奥原晴湖に相談して決意を固め、東京女子師範学校(後のお茶の水女子大学)卒業後の明治12年(1879)、私立医学校「好寿院」に入学しました。そして、女性であることを理由に二度にわたって試験願書を却下されながらも決して諦めず、同38年3月、ついに医術開業試験に合格したのです。時に吟子35歳。早くもその都市の5月には現在の文京区湯島に産婦人科医院を開業して評判を高めました。しかし、開業後間もなくキリスト教に入信した吟子の後半生は必ずしも安穏としたものではなかったようです。北海道での理想郷建設を目指す14歳年下の志方之善と再婚した吟子は、明治27年に自らも北海道に渡り、以後しばらくは瀬棚や札幌で開業しながら厳寒地での貧しい生活に耐えねばならなかったのです。その吟子が閑静な地を求めて開業したのは志方と死別して間もない明治41年12月、58歳の時でした。晩年は不遇でしたが、吟子は日本で初めて医籍に登録された女性として、吉岡弥生など医師を目指した後続の女性たちを大いに励ます存在であり続けました。大正2年(1913)6月23日、62歳で亡くなりました。平成24年3月墨田区教育委員会【つづく】人気ブログランキング東京スカイツリー周辺のマイナースポット(その8) 日本女医第一号 荻野吟子 開業の地
2022年07月12日
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北十間川沿いにある東京ミズマチ(→→→こちら)は、「浅草」と「東京スカイツリータウン」を結ぶ商業施設として有名ですが、その近くにあるこのビルは。文庫屋「大関」(→→→こちら)という革工芸品を作る工房です。文庫屋「大関」の商品は、浅草店、銀座店、東京ソラマチ店とネット通販で買えるそうです。ここはあくまで工房で製品を作るところのようです。文庫屋「大関」の大関は創業者の姓ですが、大関といえばお相撲さん。ミズマチの近くにも相撲部屋があります。元大関琴欧洲が鳴戸親方となって興した鳴戸部屋(→→→こちら)です。【つづく】人気ブログランキング東京スカイツリー周辺のマイナースポット(その7) 文庫屋大関と鳴戸部屋
2022年07月11日
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妙縁寺の近くにあるお寺です。「赤門寺」と呼ばれている牛嶋山福厳寺(ふくごんじ)(→→→こちら)です。曹洞宗つまり禅宗のお寺です。駒込吉祥寺の末寺になるそうで、この赤門は、三代将軍家光が、父秀忠の追福のため寄進したものがはじまりでしたが、関東大震災で焼失し、紀尾井町にあった旧紀州家中屋敷の門をもらい受け、これを朱塗りにして寺門としていたそうです。しかし、これもまた戦災で焼失し、現在の赤門はコンクリート製で復興したものだそうてす。このお寺が有名なのは、赤穂浪士大石内蔵助の縁者である、大石三平のお墓があるそうです。大石三平は、四国松山の松平家江戸家老で、横網に住み、福厳寺の住職を禅の師として親しくしていたころから、三平は赤穂義士の吉良家討ち入りのため、参禅・聞法の集会と称して、当寺で義士に密談を行わせたり、このあたりの地理に詳しいことから義士討ち入りの手引きをするなど、大石内蔵助の吉良邸討ち入りというテロ行為を援助していたそうです。また、「夜嵐おきぬ」のモデルとなった原田きぬ(→→→こちら)のお墓もあるそうです。原田きぬは幕末から明治初期に実在した女性で、三浦半島城ヶ島の漁師の娘だったのが、色々あって、歌舞伎役者と恋仲になって、邪魔になった旦那である小林金平を殺鼠剤で毒殺したという、いわゆる毒婦と呼ばれる方です。そんなテロリストの支援者や毒殺犯を供養するのも仏門の大切な役割なんですね。【つづく】人気ブログランキング東京スカイツリー周辺のマイナースポット(その6) 赤門寺
2022年07月10日
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都営浅草線本所吾妻橋駅の近くにある日蓮正宗のお寺「正栄山 妙縁寺」(→→→こちら)です。このお寺の境内にあるのが、「夜隺井銘(やかくいめい)」です。境内には、江戸時代に「本所の名水」と謳われた井戸「夜寉井」があったそうです。人口が多く、水源が乏しかった江戸の人々に貴重な水を供給していました。関東大震災で水が出なくなってしまいましたが、人々に愛された井戸の名前を今に伝える碑となっています。でも、なんて書いてあるのか全くわかりませんが、墨田区の有形文化財に指定されていて説明板がありました。石碑に刻まれているのは、江戸時代の儒学者井上蘭台(1705~61)の漢詩だそうです。「夜寉井銘」の篆額の下に、その内容は、子を失った鶴が子の声を求めて夜の泉に降り立つ故事を引用しながら、今もその水が清らかに深い味わいで、心をいたわるものだと「夜寉井」を称えているそうです。【つづく】人気ブログランキング東京スカイツリー周辺のマイナースポット(その5) 夜崔位銘の碑
2022年07月08日
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開業して10年を迎えた東京スカイツリー。その周辺にある、ちょっと目立たないマイナーな場所を紹介します。といっても、今回紹介するのはちょっと有名かも。テレビ東京の「アド街ック天国」などの番組でも紹介されているかもしれない、このお城のような建物。東京スカイツリーから歩いて5分ほどの墨田区業平1丁目にあります。昭和8年(1933)創業の和菓子屋「お城森八」(→→→こちら)です。ここまで来て和菓子を買おうとは思わないのですが、なかなか美味しいとの評判です。ちなみに、この立派なお城は、お城が好きだった先代の意向で、2年間かけて建築されたものだそうです。【つづく】人気ブログランキング東京スカイツリー周辺のマイナースポット(その4) お城森八
2022年07月07日
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にばこと塩の博物館から少し歩いた墨田区業平にあるこの建物は、本所税務署です。その税務署がある場所には、江戸時代に寛永通宝の鋳造所がありました。説明板の内容。銭は、中央に四角い小さな孔(あな)をあけた円形の 金属貨幣で、国内では七世紀後半の富本銭(ふほんせん)の鋳造に始まると考えられています。八世紀初頭から 十世紀半ばにかけては和同開珎(わどうかいちん)をはじめとするいわゆる皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせんちゅうぞう)が鋳造されました。公鋳銭の発行は、平安時代の末から長らく途絶しましたが、寛永十三年(一六三六)六月、江戶幕府は芝網縄手と浅草橋場、近江坂本に銭座を設け、寛永通宝(かんえいつうほう)を発行するようになりました。そして以後、幕末に いたるまで各種の銅銭が流通したのです。江戶時代後期の有名な地誌、『新編武蔵風土記稿』(しんべんむさしふどきこう)によれば、当地にあった銭座はとくに「新銭座」の名で呼ばれ、その敷地は百二十間四方(約四万七千m)に及んだそうです。稼働期間は不明ですが、『古今泉貨鑑』(ここんせんかかがみ)によれば、元文元年(一七三六)十月二十日に裏面に「小」の一字を入れ た寛永通宝が鋳造されたよう です (右図)。運営は、幕府の御用商人が 請け負いました。幕府の財政経済資料をまとめた『吹塵録』(勝海舟編) には、野州屋・南部屋という二つの屋号が確認できます。なお、墨田区内では、当地のほか押上や本所馬場、本所横川にも銭座があったとされ、とくに本所馬場では天保通宝(天保銭)を鋳造していたと伝わっています。平成二十五年五月墨田区教育委員会 まだまだ、紹介したいようなマイナーな名所があるのですが、今回はとりあえずここまでで。【了】人気ブログランキング東京スカイツリー周辺のマイナースポット(その3) 小梅銭座跡の税務署
2022年06月22日
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開業10周年を迎えた東京スカイツリー周辺のマイナースポットを巡っています。平川橋落橋記念碑の近くにある日本たばこ産業の生産技術センターです。その向かい側にあるこの建物この看板が立っていました。「たばこと塩の博物館」(→→→こちら)です。 どうして「たばこ」と「塩」が一緒の博物館かというと、今の日本たばこ産業という会社の前身が、昭和24年(1949)に、たばこ・塩・樟脳の専売業務を行ってきた大蔵省専売局が独立してできた日本専売公社という特殊法人だったからです。樟脳については、昭和37年(1962) 樟脳専売法廃止により樟脳が専売品から除かれ、昭和60年(1985)には、日本専売公社が解散し、「日本たばこ産業株式会社」にたばこの独占製造権と塩の専売権を継承されました。ちなみに塩の専売については、平成9年(1997)に塩専売制度廃止に伴い、塩事業は「財団法人塩事業センター」に引き継がれ、現在は「公益財団法人塩事業センター」として、国民生活に不可欠な代替性のない塩に関する調査研究や、塩の安定供給、塩の備蓄などを行っています。そして、このたばこと塩の博物館は、日本専売公社だった時代、昭和53年(1978)に日本専売公社のタバコ製造販売70周年を記念する事業として渋谷公園通りに「たばこと塩の博物館」が開設され、平成27年(2015)にここ墨田区横河に移転してきたものです。ちなみに入場料は大人100円、小・中・高校生50円となっていますが、JAF(日本自動車連盟)の会員だと無料になります。入口にあったシンボルモニュメント、原型は19世紀のはじめスゥエーデンのたばこ屋が看板として使用していたもので、博物館が渋谷にあった時からのものだそうです。こちらは展示されていた岩塩。結構茶色っぽくて、これが塩なのという感じですね。【つづく】人気ブログランキング東京スカイツリー周辺のマイナースポット(その2) たばこと塩の博物館
2022年06月21日
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開業して10年を迎えた東京スカイツリー。その周辺にある、ちょっと目立たない、ちょっとマイナーな場所を紹介します。スカイツリーの近くにある大横川親水公園には、鉄骨とコンクリートの土台だけがあります。コンクリートの土台に「平川橋」という銘板が付いていました。横から見ると、コンクリートの土台部分に、説明板がありました。説明板には以下のように記されています。平川橋落橋記念碑 ここにあった橋は、長さ 28.17m、幅13.37mの鋼橋 (鋼単純ワーレントラス橋 )で、関東大震災 の復興事業 により昭和4年に架けられました。 太平洋戦争 時には、金属供出 のため高欄が撤去されましたが、戦後 の昭和27年には、復旧されました。。 その後も定期的に補修を続けてきましたが、老朽化が進行したため架橋後 82年が経過した平成23年にその役目を終えて撤去し、新たに道路として整備しました。 永い間、親しまれた本橋の面影を慕い、橋名板 とトラス の一部を遺しでその歩みを記します。平成24年3月昔あった平川橋の様子を今に伝えているのですね。【つづく】人気ブログランキング東京スカイツリー周辺のマイナースポット(その1) 平川橋落橋記念碑
2022年06月20日
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4月28日にグランドオープンをした東京都江東区亀戸の商業施設「KAMEIDO CLOCK(カメイドクロック)」に行ってきました。このカメイドクロック、6~7年前までは「サンストリート亀戸」という商業施設があったところで、更にその前までは、セイコーの工場があったところでした。それで、「クロック」という名前を残したんでしょうね。ゴールデンウィークの最中ということで、沢山の人が訪れていました。そして、中にあるこの広場には本物の芝生が植えられていました。そういえば錦糸町にも、同オリナスという同じような商業施設があって、これもセイコーの工場の跡地に建てられたものです。MoMo太郎はどちらに行くか迷いそうですね。人気ブログランキングカメイドクロックへ行ってきた
2022年05月04日
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東京都の江東運転免許試験場です。運転免許試験場といいながら、学科試験のみで技能試験は受けられません(試験コースがないので)、また原付の学科試験もやっていません。技能試験を受けて免許証を取りたい方(例えば、指定教習所に通うお金がない方、免許取消処分を受けて改めて免許を取る方など)は府中試験場又は鮫洲試験場へ行かないといけません。その対面にあるのがこの記念碑です。球場が完成した昭和11年(1936)には、この球場でプロ野球初の年度優勝決定戦は巨人と大阪タイガース(現阪神)の間でが行われました。以来、「伝統の一戦」が今日まで続いています。また、巨人の沢村栄治投手がノーヒット・ノーランを記録したのもこの球場です。しかし、球場は戦時中の昭和18年(1943)ごろ解体されたそうです。この洲崎球場、長い間その場所がわかっていませんでした。理由は埋め立て地であったこのあたり変化が激しかったからだそうです。しかし、この場所を江東区などが様々に検証し、「この周辺にあった」という位置の特定がなされました。そして、平成17年(2005)にこの記念碑が建立されたそうです。人気ブログランキング「伝統の一戦(巨人・阪神)誕生の地」洲崎球場跡
2022年02月25日
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JOY2005さんのブログで紹介されていた玉姫稲荷神社の「靴のめぐみ祭り市」(→→→こちら)に行って来ました。台東区のコミュティバス「北めぐりん」コースの清川一丁目停留所で降りて、露店が並んだ賑やかな通りを歩いて行くと、玉姫稲荷神社の鳥居に「靴まつり市」と書かれた看板が付けられていました。靴が安く買えるとあって、多くの人が買い物にやって来ていました。神社なので、まずお参りしてから靴を買うことにしました。確かに、革靴一足6000円とか、或いはもっと安いのもあって、確かに安いと思いました。いい靴はいいところに連れて行ってくれる。MoMo太郎も一足購入させていただきました。さて、こういうイベントができるのも浅草に靴屋さんが多いからですね。靴屋さんが多い理由を聞くところによると、江戸時代、幕府から皮革加工の免許を許された弾左衛門(→→→こちら)という人が今の台東区の今戸に住んでいて、その人が明治になって靴製造を始めたからだということです。玉姫稲荷神社のある台東区のこのあたり、歴史的になかなか興味深いところです。例えばこの古い木造の建物。天麩羅の「伊勢屋」と桜鍋の「中江」といういずれも吉原大門の近くにある名店だそうです。きっと桜鍋で馬肉を食べて精をつけて吉原に繰り出したり、吉原で働く人が天丼の出前なんかとっていたんでしょうね。ちなみに、「中江」の建物は登録有形文化財になっていました。そんな歴史ある街角に立つ、「あしたのジョー」。設定ではこのあたりの山谷のドヤ街にやってきて、ここで丹下段平と出会いボクサーになっていったことになっています。あしたのジョー、矢吹丈の住んでいた町。なかなか魅力的ですね。人気ブログランキング玉姫稲荷神社の「靴のめぐみ祭り市」
2021年11月30日
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東京都台東区、アメヤ横丁(アメ横)にある「摩利支天徳大寺」(→→→こちら)。アメ横で買い物したりする時によく前を通るのですが、今までお参りしたこともなかったので、思い切って参拝してみました。ちなみに、このお寺の下にある「二木の菓子」にはよく行くのですが。お参りしたのは8月31日、丁度、摩利支天の縁日にあたる「亥の日」でした。なかなか賑やかな雰囲気のお寺です。参道の入口にあった略縁起、このお寺の歴史のダイジェスト版ですね。当山は凡そ六百年前この地に創立せられ摩利支尊天を祭祀し奉る。当山安置の尊天は力(気力、体力、財力)の守護神として諸天善神中最も霊験顕著なり。依って、古来より諸衆の崇敬絶えず、現前の清衆歩を進め詣でられんことを。昭和34年己亥年正月吉日とありました。こちらの説明板には、もう少し詳しく記された縁起が書かれていました。境内には銅像が建立されています。こちらは「妻戀地蔵」という縁結びのお地蔵様だそうです。こちらの正式名称は「日蓮宗妙宣山徳大寺」ですから、日蓮上人の銅像もありました。摩利支天像を奉安しているので、摩利支天大徳寺と呼んでいるのですね。摩利支天のマリシは「威光・陽炎」の意味だそうで、参詣祈願の人々に「気力・体力・財力」を与え、「厄を除き、福を招き、運を開く」という神様です。、諸天善神中もっとも霊験顕著な守護神であると伝えられております。そして猪(亥)は摩利支天の眷属(けんぞく=従者)であることから、猪(亥)の石像もあります。そんなわけで、12日ごとににやってくる亥の日(いのひ)が摩利支天の縁日で、この日に参詣すれば神仏と縁を結べるということで、特別な御利益があるそうです。本堂正面に掲げられる扁額「威光殿」。威光の化身たる大摩利支尊天の拝殿の意味で、吉田茂・元総理大臣の揮毫によるものだそうてす。そうそう、総理といえば、自民党新総裁に選出された岸田文雄氏、選ばれた経緯はさておき、頑張って停滞気味の我が国経済を蘇られせて、率いる派閥、岸田派の前身の宏池会(→→→こちら)の創設者で第60代内閣総理大臣の池田勇人のような歴史に名を残すような総理になって欲しいですね。【了】人気ブログランキング上野周辺(その4) 摩利支天徳大寺
2021年09月30日
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上野駅入谷口の目の前にあるこの岩倉高校(→→→こちら)全国でも数少ない鉄道関係の教育を行う日本最古の鉄道学校。また、過去に野球部が甲子園へ数回出場したことがあります。第56回選抜高等学校野球大会(1984年)では優勝したこともありました。上野駅浅草口の方に行くと、赤い外観の建物がありました。裏に回ってみると、サウナ&カプセルホテル北欧(→→→こちら)です。サウナは今ブームらしいですね。タナカカツキ原作の漫画『マンガ サ道~マンガで読むサウナ道』(講談社)(→→→こちら)がテレビ東京てテレビドラマ化(→→→こちら)されて、それによく登場するサウナだそうです。しかし、なんか熱い蒸し風呂に入って、そのあと水風呂に入るという、あんな拷問のような行為で気持ちが良くなるそうですが、MoMo太郎はまだ経験していません。【つづく】人気ブログランキング上野駅周辺(その3) サウナ北欧
2021年09月29日
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上野駅から御徒町駅のJRの高架の東側にある上野駅前通り商店街で見つけた石碑です。三つの石碑が並んでいました。「芭蕉 花の雲鐘は上野か浅草か」 昭和60(1985)年3月14日建立の石碑です。松尾芭蕉の「花の雲鐘は上野か浅草か」という俳句の意味は、「春満開の桜の花の向こうから聞こえてくるのは上野の寛永寺の鐘の音か浅草の浅草寺の鐘の音か」ということなんでしょうけど。芭蕉の生きた江戸時代は騒音はなかったとしても、寛永寺時鐘堂と浅草寺弁天にある時の鐘は2~3kmは離れているので、両方の鐘の音が聞き取れて桜の花が沢山咲いている所ってどこなんでしょうかね。また、日本全国を旅してきた俳人の割には、上野と浅草の方角もわからない方向音痴だったのでしょうか。なんとなく嘘っぽい内容の俳句だなと思ってしまいました。かねの鳴るまち 上野駅前商店街 かねの鳴るまち 昭和五十九年四月建立 台東区長 内山栄一と記されていました。かねは鳴るもので成るものではなかったのですね。こちらは「東北・上越新幹線上野駅開業記念 昭和60年3月14日」という石碑。アメ横にも「東北・上越新幹線上野駅誘致住民運動発祥の地」の石碑もあったってことは、新幹線の上野駅ができたってことは、この街の人達にとって相当嬉しい出来事だったんですね。【つづく】人気ブログランキング上野駅周辺(その2) 東北・上越新幹線上野開業記念碑
2021年09月28日
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アメ横通りと上中通りに別れるY字路にあるアメ横センタービルの前にあったモニュメントです。この頭でっかちの人形と銘板がモニュメントになっています。頭でっかちな人形のような 不思議な造型物からテレパシーらしいものが送られて、新幹線開業にまつわる話を思い起こさせてくれました。昭和45年(1970)の「新幹線鉄道整備法」により、 東北新幹線・上越新幹線・成田新幹線の3線が計画されました。そして、 東北・上越新幹線の建設ルートは 東京駅始発で 「北の玄関口だった上野駅は通らない」と発表されたのです。それに対して、地元の上野駅誘致運動が発足し、昭和51年(1976)に総決起大会が開催されたのを皮切りに, 台東区とアメ横商店街などの地元商店会などによる署名運動や陳情活動が展開され, 30万人近い署名が集まるなどの盛り上がりを見せていました。その結果, 昭和52年(1977)に新幹線上野駅設置が正式決定されました。東北新幹線は, 昭和57年(1982)6月に大宮~盛岡間が開業, 昭和60年(1985)3月には上野駅まで延伸され、ようやく平成3年(1991)6月に東京~盛岡の全路線が開業しました。盛岡以北への延伸は、さらに時間がかかり、平成14年(2002)12月に盛岡駅 - 八戸駅間が、平成22年(2010)年12月には八戸駅 - 新青森駅が開業して全線が開通しました。さらに、平成28年(2016年)3月には北海道旅客鉄道(JR北海道)北海道新幹線 新青森駅 - 新函館北斗駅間が開業して、新幹線に乗って北海道まで行ける時代になりました(MoMo太郎が、北海道に行くとしたら飛行機を使うと思いますが)。また、上越新幹線は, 新宿駅が起点になる計画だったのですが、東北新幹線と同じ路線による東京始発に変更され, 昭和57年(1982)11月に 大宮~新潟間が開業。その後は東北新幹線と同様に延伸され、平成3年(1991)までに東京~新潟の全路線が開業しています。ところで、成田新幹線は、その後建設計画が中止になりましたが、東京駅 - 越中島貨物駅間の用地を京葉線に転用し、JR東日本成田線(空港支線) 成田 - 成田空港間と京成本線 駒井野信号場 - 成田空港間の両路線が成田新幹線用に完成していた成田空港駅への乗り入れを開始し、また、平成22年(2010)には北総鉄道北総線を延伸され京成成田空港線(成田スカイアクセス) として開業することで成田新幹線(らしいもの)は姿を変えて実現されたようです。銘板の内容です。東北・上越新幹線 上野駅誘致住民運動発祥の地 讃東北・上越新幹線上野駅設置という国家的 大事業は、台東区民が昭和四十六年二月新幹 線誘致運動を開始して以来、台東区民の総力 を挙げたねばり強い行動の積重ねにより実現 しました。時に、昭和四十六年十月「東京駅を起点と し,上野には駅を造らず,上野公園地下を通 過」という国鉄の新幹線計画発表は、地元台東区に大きな失望を与えました。この挫折の 時期をのりこえ、昭和五十二年十二月台東区案による新幹線上野駅設置決定に持ちこむま での上野駅誘致実現期成同盟・同住民運動本部を始めとする関係地元団体の積極的な活動 に対しまして、心から敬意を表します。ここに、新幹線上野駅開業による台東区の発展を祈念し、長年誘致運動に尽力された方々のご労苦を讃えるため、「上野駅誘致住民 運動発祥の地」と刻み顕彰します。平成三年三月吉日東京都台東区長内山栄一【つづく】人気ブログランキング上野駅周辺(その1) 東北・上越新幹線上野駅誘致住民運動発祥の地
2021年09月27日
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江東区の清澄通り沿いにある深川ふれあいセンターです。ここは江戸時代の作家、曲亭馬琴(→→→こちら)誕生の地でもあったそうです。江戸時代後期の小説家。明和4年(1767)6月9日、旗本松平信成の用人を勤める下級武士の五男として、この地にあった松平家の邸内で生まれ、嘉永元年(1848)11月6日、82歳で病没しました。本名は滝沢興那、また著作堂主人などと号しました。安永4年(1775)、9歳で父親と死別し、その後は、松平家の孫の遊び相手として一家を支えていましたが、安永9年(1780)、14歳の時に松平家を出ました。門前仲町に住み、文筆で身を立てようと、寛政2年(1790)山東京伝のもとに入門しました。翌寛政3年(1791)正月に処女作として、京伝門人大栄山人の名で黄表紙「尽用而二分狂言」を発表しました。以後、儒教思想にもとづく教訓、因果応報による勧善懲悪を内容とした読本を続々と著し、読本作家の第一人者と称されました。天保5年(1834)ころより眼を患い、晩年は失明しながらも、口述・代筆で著作を続けました。読本・黄表紙から随筆にいたるまで、約470種にものぼる著作を残しています。 平成9年(1997)3月 江東区教育委員会人気ブログランキング曲亭馬琴誕生の地
2021年09月15日
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深川、門前仲町の葛西橋通りに目立たないようにある石碑です。江戸時代の商人、天文学者・地理学者・測量家である伊能 忠敬(いのう ただたか)(1745-1818)の住居がここにあったそうです。地元などでは親しみと尊敬の念をこめて「いのうちゅうけい」とも呼ばれているそうですが、その地元とは門前仲町のことではなく、千葉県香取市の佐原です。伊能忠敬といえば、寛政12年(1800)55歳の時から、17年をかけて日本全国を測量して「大日本沿海輿地全図」を完成させ、国土の正確な姿を明らかにした。異色の能力、つまり異能な人ですね。そして石碑の各面には、忠敬の歴史が簡潔に刻まれていました。作成した「大日本沿海輿地全図」は非常に正確な地図で、明治17年(1884)には陸軍参謀本部測量部(国土地理院の前身の1つ)によって作成された「輯製(しゅうせい)20万分1図」の基本図としても利用されているそうです。このような正確な地図を作った秘訣は、やはり伊能忠敬の几帳面な性格が一因かもしれません。忠敬は最初、歩測で距離を測ったそうで、一歩が正確に69cmとなるように鍛錬してたことや、何人もが同時に歩いて平均値を採るなどの方法を用いていたかもしれません。距離がわかり、次の目的地までの角度がわかると地図を描けますが、人間がやることですから誤差もでてくるでしょう。その修正のために、たとえばある地点から見えた高い山を目印にして、その地点からこの距離と角度で進むと目印の高い山はこの方向に見えるはずとして、実測値との差を用いて補正したのでしょう。このやり方は現在の測量でも使われています。また、それが山ではなく北極星との角度を測定して測量結果の修正に利用していたとも思われます。しかし、50歳を過ぎたお爺さんの伊能忠敬が、日本地図を作るという大プロジェクトに挑んだのでしょうか。それは、地球の子午線の弧長、つまり地球一周の長さを求めたかったからだと言われています。当時は、18世紀後半に、フランス科学アカデミーによってダンケルク-バルセロナ間の子午線弧長の測量が行われました。また、ドイツの天文学者・数学者ベッセル(Bessel)は、1841年、ベッセルは当時世界中で測量された結果をもとに、地球の形がやや扁平な楕円体であることを導き出しました。この楕円体は日本でも2002年まで、測量の基本となる楕円体として利用していました。つまり伊能忠敬は、世界の先端科学に関する研究を手掛けていたわけです。また、伊能忠敬は三次元では楕円体である地球を二次元の平面に変換する手法、地図投影法、つまりちょっとは聞いたことのあるランベルト正積円筒図法、メルカトル図法という方法を知っていたわけですね。しかもこの投影法、テイラー展開等の数学の知識を要求されるのですから、本当に異能な人だと思います。人気ブログランキングへ伊能忠敬住居跡の石碑
2021年09月14日
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2021年6月22日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して鶯谷から下谷周辺を歩いた報告です。鶯谷という雅な名前の割にはなんかラブホテル街というイメージが付いている駅ですね。こちらが鶯谷南口です。南口にある凌雲橋(新坂跨線橋)から見るJRの線路、常磐線、東北線(宇都宮線)、高崎線、山手線、京浜東北線が並行して走っている区間で、この上からみていると色々な車両が眺められて飽きないかもしれませんね。昔からよくお世話になった常磐線の普通列車です。この写真、どこにピン合わせているんでしょうかね。常磐線の特急列車「ひたち」でしょうか。「ときわ」という愛称の特急も走っています。鶯谷駅から新坂を登って上野にある国立東京博物館に向かいました。国立東京博物館の正面入口です。こちらの門は博物館に移設されて保管されている文化財です。説明書きの看板、ところどころ文字が剥げているのがちょっと残念です。(下谷のコースです)【つづく】人気ブログランキング下谷巡り(その1) 鶯谷駅から東京国立博物館
2021年08月16日
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都内の銀座を渡り歩く、渡り鳥の銀座旋風児(マイトガイ)です。 東京には、戸越銀座商店街、十条銀座商店街そして砂町銀座商店街が三大銀座商店街に数えられるそうです。今回は訪れたのは、江東区の砂町銀座商店街。明治通りに面した「砂町銀座商店街西口」から歩いてみました。 略して「砂銀(サギン)」というところでしょうか。本当は「スナギン」と呼ぶのかな。 アーチを潜って商店街の中を歩いてみました。 砂町銀座商店街は、明治通りと丸八通りを結ぶように東西に延びている全長は約670mの商店街で、店舗数は約140店あるそうです。 パン屋さんにある割烹着を着た女性の看板。 この女性の方、ひょっして、銀座旋風児の二階堂卓也の助手として活躍していた村越明子役の浅丘ルリ子さんか花村京子役の松原智恵子さんをモデルにされた? いや、そんなことはないですね。 商店街をさらに歩いていくと、 貸店舗で入居者募集中の場所もあるようです。銀座といえども、商店の経営は難しいのでしょうね。 商店街のほぼ真ん中あたりにある砂町銀座商店街振興組合(→→→こちら)の事務所です。 その事務所に祀られていたのが、商売繁盛の神様「高平稲荷神社」です。 元禄年間(1688-1704)に耕地開発にあたって町の鬼門除けとして現在地に創建されたそうです。 商店街の近くにあった北砂公園。 そこに隣接する「砂町文化センター」と「砂町図書館」。 砂町文化センターの前に設置されていた小松崎軍次先生胸像です。 小松崎軍次さんは、文化センター建設時の江東区長だった人だそうです。そういえば、この人、「東京ゴミ戦争」(→→→こちら)の時、杉並区から江東区の夢の島へ搬入されるゴミを止めた区長さんでしたね。 江東区ではお馴染みの商店街には欠かせない「赤札堂」(→→→こちら)もありました。 意外とお惣菜屋さんが沢山あるなという印象でした。 そして、銀座、原宿や渋谷なんかでは絶対、売っていないオシャレな洋服も買える店もありました。 ようやく、商店街の東の端にたどり着けました。 こちらは丸八通りに面した「砂町銀座商店街東口」です。 昭和の時代で育った世代には懐かしい。また平成・令和にも親しめる砂町銀座商店街でした。 都内はもとより全国にもまだまだ「銀座」を名乗る商店街があるので、日本全国は無理かもしれませんが、また機会があったら銀座旋風児(ぎんざマイトガイ)として、都内の銀座を歩いてみたいと思います。 【とりあえず、了】 人気ブログランキング 銀座旋風児(その3) 砂町銀座
2021年07月29日
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都内の銀座を渡り歩く、渡り鳥の銀座旋風児(マイトガイ)です。訪れたのは、こちらの台東区にある銀座。こちらの銀座はもう観光地でもありますね。日暮里駅からはこの夕やけだんだん(→→→こちら)という坂道を降りて行きます。ちなみにこの夕やけだんだの下から台東区になっているようで、この撮影している地点は荒川区でした。人通りも多く、買い物に来る近所の人も多いんでしょう。また観光客向けのお土産物さんもア頑張っています。振り返って夕やけだんだんの方を撮影。こちらが、谷中銀座の千駄木側口。ちなみに撮影しているポイントは文京区です。荒川区、台東区、そして文京区の3つの区が交わる地点に位置する谷中銀座、なかなか繁盛していました。【つづく】人気ブログランキング銀座旋風児(その2) 谷中銀座
2021年07月28日
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暑いですね。そこで一句「夏休み 鼓膜も暑い 蝉の声」さて、日本一の繁華街といえば、銀座ですが。むかし、銀座には旋風児と書いて「マイトガイ」と呼ぶお兄さんがいました(→→→こちら)。この頃の銀座では撃鉄がなく、空の薬莢も飛び出さない拳銃が流行っていたようですね。そんな銀座旋風児、自称江東区の小林旭のMoMo太郎が、銀座と名前の付く商店街を訪れてきたのでご紹介します。まず、MoMo太郎がよく行く銀座といえば江東区にあるここですが、本家の銀座に比べるとちょっと寂しいですね。【つづく】人気ブログランキング銀座旋風児(その1) 住吉銀座
2021年07月27日
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墨田区菊川にあるNTTのビルの一角に、「墨田工業高等学校発祥の地」の碑があります。碑文には以下のとおり記されていました。明治二十三年二月十八日開校 東京府による工業教育ここに始まる 東京都立墨田工業高等学校 第十七代校長 稲見辰夫 謹書開設当初は、「東京府職工学校」という名称だったのですが、明治の頃は、このあたり墨田区ではなく、本所区だったのに「都立本所工業高等学校」とはせず、「都立墨田工業高等学校」ですね。ちなみに「都立本所工業高等学校」(→→→こちら)は葛飾区にありますが、人気ブログランキング墨田工業高校発祥の地
2021年07月25日
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別にどうということはないのですが、ブログにいただいくコメントに違和感を感じることがあります。というのは、MoMo太郎の書いたブログの内容に触れず、個人的な経験や意見のみをコメント欄に記入されている方がいることです。そういう方って、MoMo太郎のブログの内容には興味がないのかな思ったりします。まあ、MoMo太郎も他所様のブログに、その内容には関連しない、おざなりなコメントしかしていない時も多々あるので、それはそれで反省して、やっぱり、ちゃんと他所様の投稿は読ませていただき、そのブログの内容に関係したコメントをしていきたいと思います。さて、今日は近所に最近できたお店のことです。なかなか人気のあるパン屋さんのようで、朝イチから行列ができていたりするそうです。ちなみに食パン一斤432円(税込み)だそうです。いつかはこういう食パンを食べられる身分になりたいです。人気ブログランキング食パンの人気店
2021年07月19日
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今回の駅間歩きの起点となった曳舟駅ですが、「曳舟」という地名の由来を説明した「曳舟川由来碑」という石碑が、東武鉄道のとうきょうスカイツリー駅近くの交差点にありました。舟の形を模した石碑で、「曳舟川の由来」という碑文が記されています。 曳舟川は、徳川幕府が本所開拓に伴う上水として、万治2年(1659年)に開削したものです。当時は、本所上水、亀有上水などと呼ばれ、瓦會根(現越谷市)の溜井から分水して、亀有から四ツ木をへて本所と深川の各地に配水されたようです。 その後、享保7年(1722年)に上水としては利用されなくなりましたが、川筋の脇を四ツ木街道が通り水戸街道に接続しているため、次第に重要な交通路として利用されるようになりました。 この川が「曳舟川」と呼ばれるようになったのは、「サッパコ」と呼ばれる田舟のような舟に旅人を乗せ、岸から引かせたことによるものです。 また、曳舟川には古くから多くの橋が架けられており、薬師橋、鶴土手橋、地蔵橋、庚申橋などの名前が文献に見られますが、この付近(小梅児童遊園)にも八反目橋が架けられていました。この辺りの小梅という地名は、元は梅香原と呼ばれる梅の木の多い地域だったことによるもので、八反目の名も八反梅(80アールの梅林)から来ているとの説もあります。 昭和29年6月東京都告示によって川としての役割は廃止され、昭和30年代を中心に埋め立てられて、道路として整備されました。 平成五年三月墨田区こんな感じで、舟に旅人を乗せ、岸から引いていたのでしょうね。埋め立てられた川は、現在は「曳舟川通り」となっています。埋め立てられてできた曳舟川通り、水戸街道に並行した幹線道路となっています。人気ブログランキングへ「曳舟」の地名の由来
2021年06月09日
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十間橋通りには都バスが走っていました。錦糸町と青戸車庫を結ぶバス路線でした。こちらは警視庁向島警察署です。飛沫感染防止のアクリル板なんかも取り扱っているんでしょうか。大きな通りに出ました。このお店、ウエスタン調の店構えで、墨田区や葛飾区に多いような、でも千葉や埼玉にもお店があるそうです。この通りは明治通りです。横断歩道でないところを横断している歩行者。困ったちゃんです。幹線道路の明治通りも踏切になっています。多分、道路も鉄道も高架にはならないんでしょうね。踏切を渡りると、小村井駅に到着です。【つづく】人気ブログランキングへ駅間歩き東武亀戸線(曳舟~小村井)(その6) 向島警察署と明治通り
2021年06月08日
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南千住って、荒川区民以外からは足立区の一部だと思われることも多いそうです。千住は元々、足立区側の地名だったのですが、やがて、千住大橋を架け五街道を整備し、日光道中、奥州道中の最初の宿場町として千住宿が整備されると、千住宿が拡大して、千住大橋を越えて、今の南千住付近も千住宿の一部になったそうです。そんなことが、この説明板からわかりました。国道4号線と南千住駅を結ぶこの道は「山谷通り」なのですが、「コツ通り」として定着しているようです。バス停も「コツ通り」です。商店街の名前も「コツ通り商店街」。このあたり、南千住となる以前は、素戔嗚神社の「瑞光石」があった塚から「小塚原(こつかっぱら)」という地名だったそうです。そして「コツ」の名の由来は、「小塚原を略した」とか「小塚原刑場にあった火葬場に因んで骨(こつ)と付けられた」などの説があるそうです。JR南千住駅に着きました。南千住駅はJR東日本の常磐線・東京メトロの日比谷線・首都圏新都市鉄道のつくばエクスプレスの乗換駅ですが、常磐線はいわゆる快速列車しか止まらず、各駅停車は千代田線経由となるため北千住駅で乗り換えないといけません。そして、帰りは、都バス42系統で帰りました。(今回歩いたコースです)【了】人気ブログランキングへ南千住を歩く(その7) 「コツ通り」は「骨通り」ではなかったかも
2021年03月18日
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素戔嗚神社の近くに「荒川ふるさと文化館」(→→→こちら)という施設があります。 その前にあるのが、この橋本左内の墓旧套堂です。 橋本左内(1834-1859)は江戸時代末期(幕末)の志士、思想家で越前国福井藩藩士だった人ですが、安政の大獄(→→→こちら)で幕府に捕らえられ伝馬町牢屋敷で斬首されましたが、同じく安政の大獄で捕らえられ刑死した長州の吉田松陰などとともに南千住の回向院に葬られていたそうです。 この套堂は昭和8年(1933)に橋本左内の墓を保護するために南千住の回向院に造られたもので、平成18年(2006)、套堂のみ区に寄贈され、平成21年(2009)、ここに復元されたものです。鉄筋コンクリート造りの仏教建築として先駆けとなった建築物として貴重なものだそうです。 套堂の中には橋本左内の坐像がありました。 橋本左内、14代将軍を巡る将軍継嗣問題では、福井藩主の松平春嶽(慶永)とともに春嶽を助け一橋慶喜擁立運動を展開したことから、今年のNHKの大河ドラマ「青天を衝け」でも登場しそうですね。ちなみに「西郷どん」では、歌って踊れるタレントの多いジャニーズ事務所の中では、歌って踊る姿を見たことはない風間俊介くんが橋本左内役で出演していました。 套堂の横には、福井県と荒川区の関わりを記した看板がありました。 これによると、荒川区南千住の回向院には、福井藩士橋本左内の墓、小浜藩士梅田雲浜の墓があり、また、小浜藩医杉田玄白らの「ターヘルアナトミア」の翻訳と「解体新書」の刊行を記念してつくられた観臓記念碑があるということでした。 こちらは、俳人・金子兜太氏が平成27年に新春区長対談で詠んだ「荒川千住芭蕉主従に花の春」の俳句を刻んだ句碑です。MoMo太郎はどちらかと言うと、金子兜太氏の父親で「伊昔紅(いせきこう)」の俳号で知られる金子元春氏の「元日や餅で押し出す去年糞」という句が好きです。 (今回歩いたコースです) 【つづく】 人気ブログランキングへ 南千住を歩く(その6) 幕末の志士、橋本左内の墓旧套(さや)堂
2021年03月17日
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南千住の素戔嗚神社で見ておくべきもの。それが境内の中にあるこの小塚原富士(こつかはらふじ)と呼ばれる小さな塚です。ここには浅間神社が祀られている富士塚ですが、もともとはこの神社創建のキッカケとなった奇石があります。それが、この瑞光石(ずいこうせき)です。言い伝えによりますと、この神社の開祖となる黒珍(こくちん:修験道の開祖役小角の高弟)の住居の東方小高い塚上に奇石があり、黒珍はそれを霊場と崇め日夜斎戒礼拝していたそうです。すると、平安時代延暦14年(795)4月8日の夜、小塚の中の奇岩が突如光を放ち二柱の神様が翁に姿を変えて現れ、「吾れは素盞雄大神・飛鳥大神なり。吾れを祀らば疫病を祓い福を増し、永く此の郷土を栄えしめん。」と御神託を授け、黒珍は一祠を建て丁重にお祀りし、素戔嗚神社を創建したそうです。その瑞光石にはこのように祀られています。これが瑞光石です。また、江戸時代には千住大橋架橋の際、この瑞光石の根が大川(現:隅田川)まで延びていたために橋脚が打ち込めなかったという伝承が紹介されているそうです。さて、この石の表面に小穴があいていますが、これは「房州石」と呼ばれる、千葉県鋸山の海岸で採取される凝灰質砂岩の表面に、貝が住み込むために穴を開けたもので、東京や埼玉周辺の古墳の石室材として多く使用されているものだそうですから、詳しくはわかりませんが、この塚は古墳だったのかもしれませんね。※素盞雄大神とは天照大神の弟。飛鳥大神とは大国主命の息子の事代主神(一言主神)だそうです。(今回歩いたコースです)【つづく】人気ブログランキングへ南千住を歩く(その5) 瑞光石
2021年03月16日
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国道4号線(日光街道)に面している素戔嗚(スサノオ)神社(→→→こちら)です。荒川区内で最も広い地域(町屋地区・南千住地区・三河島地区)の61カ町に氏子を持つ神社だそうです。社殿も立派ですが、手前にあるイチョウの大木も立派ですね。「子育ての銀杏」というそうで、昔は、母乳の出ない婦人がその樹皮を煎じて飲み、周囲に米の研ぎ汁を撒いて幼児の無事成長を祈願していたそうです。現在では、初宮詣(お宮参り)の時に絵馬が奉納されているのだとか。素盞雄大神の別名を「牛頭天王(こずてんのう)」ということから、「お天王さま」とも呼ばれているそうです。江戸の昔は、日光街道は南鳥居前をとおり、こちらが正面のようです。こちらの南向きの社殿には、飛鳥大神(事代主神)が奉られていて、風雅を好む江戸の文人たちには「飛鳥さま」の名が好まれ、文政12年(1829)編纂の『江戸名所図会』では当社を「飛鳥社小塚原天王宮(あすかのやしろ こつかはらてんのうぐう)」と紹介されているのだとか。でも扁額には「素戔嗚神社」と記されていました。(今回歩いたコースです)【つづく】人気ブログランキングへ南千住を歩く(その4) 素戔嗚神社
2021年03月15日
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胡録神社の参拝の後、隅田川沿いを千住大橋の方へ歩いてゆきます。こちらは東京メトロ日比谷線の千住検車区(→→→こちら)です。車両の点検と清掃をするところですね。こちらは隅田川を渡る東京メトロ日比谷線の鉄橋です。この鉄橋の下を抜けて、南千住七丁目に出ます。交差点にあった小さな祠、地蔵堂かと思いましたが、調べてみると山王清兵衛祠(→→→こちら)という由緒のある祠でした。いずれかの藩士清兵衛が虫歯の痛みに耐えかねてこの地で切腹し、遺言によってその霊を祀ったという祠で、俗に山王清兵衛とよばれ、歯痛に悩む者が祈願して効き目があれば、錨をくわえた女性の絵馬を奉納する慣わしがあったそうです。千住の歯神として有名だったそうです。国道4号線、東京では日光街道と呼ばれる道路に出ました。写真の奥が千住大橋となります。(今回歩いたコースです)【つづく】人気ブログランキングへ南千住を歩く(その3) 千住検車区から千住大橋
2021年03月14日
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子供の頃、祖父に「場末とはどんなところ」と尋ねると、祖父は「南千住みたいなところ」だと教えてくれた。その南千住を歩いています。さて、初穂料がもったいないと思いご朱印は集めていないMoMo太郎ですが、参拝だけはしております。こちらが拝殿です。古びた雰囲気が歴史を感じさせる狛犬ですね。拝殿は、昭和2年(1927)に造営されたものが改修されつつ現存しており、平成15年(2003)には旧汐入地区の再開発に伴い、やや南へ社殿も移されたそうです。扁額も造営当時のままなんでしょうね。神殿は嘉永五年九月十九日改築造営されたものだそうで、やはり旧汐入地区の再開発に伴い移設されたものです。このように地元の歴史ある神社が再開発にもかかわらず保存されているというのは氏子の皆さんの厚い信仰心を感じますね。汐入地区の再開発前後の地図です。左側の地図が昭和53年(1978)発行のもので、右側が現在です。この地図は今昔マップon the web(→→→こちら)で作成しました。境内には記念碑がいくつか建立されています。背面を見てみると、拝殿の改築を記念していました。逆光で見辛いですが、天皇陛下の在位50年を記念した石碑です。こちらは最近の旧汐入地区の再開発に伴い、胡録神社が移設されたことを記念するものでした。訪れた時は丁度、梅が満開でした。紅梅白梅のそろい踏みでした。(今回歩いたコースです)【つづく】人気ブログランキングへ南千住を歩く(その2) 信仰の厚い胡録神社
2021年03月13日
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子供の頃、祖父に「場末とはどんなところ」と尋ねると、祖父は「南千住みたいなところ」だと教えてくれた。南千住が場末という場所かどうかはよくわかりませんが、南千住をちょっと散策してみました。最初に訪れたのは、南千住八丁目、かって「汐入」と呼ばれた地区にあるこの神社です。胡録(ころく)神社です。元は第六天と呼ばれた神社でしたが、1869(明治2)年神仏分離令の際、社号を胡録神社と改称したそうです。由来は、武士が矢を支える武具の「胡簶」又は「胡籙」。或いは当地汐入で盛んに生産されていた胡粉の胡の字と第六天の六に因んだ。の2つの説があるそうです。胡粉について説明したものがありました。胡粉とは、日本画や日本人形、木工品等の絵付けに用いられた白色の顔料です。錫を焼いて作る鉛白(塩基性炭酸鉛)と貝殻から作られる、炭酸カルシウムの二つあるそうですが、現在では貝殻から作られるものだそうです。作り方が説明板にありました。この石臼が貝殻を砕くのに使われたそうです。(今回歩いたコースです).【つづく】人気ブログランキングへ南千住を歩く(その1) 胡録神社の石臼
2021年03月12日
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白鬚橋から東に向かって明治通りを歩いてゆくと、「平賀源内顕彰碑」というのがありました。平賀源内(→→→こちら)といえば、江戸時代中期から後期にかけて活躍した発明家で、エレキテル(摩擦起電機)の復元製作や、火浣布(石綿の耐火布)の発明や、「土用の丑の日」わ発案したともいわれる人ですが、最後は誤って殺傷事件を起こし、小伝馬町の牢内で病死したと伝わっている人ですが、そのお墓が台東区橋場のここにあるそうです。意外と立派な築地塀にかこまれていました。字が擦れて読めないですが、台東区教育委員会が設置した説明板です。ちなみにこのお墓は国指定史跡になっているそうで、ちゃんとしたものなんでしょうね。中に入ってみました。「史跡平賀源内先生墓入口」と刻まれた立派な石碑が建立されています。これがお墓です。真ん中の笠付の石塔が、平賀源内の墓で、後ろの石塔は従者の福助と言う人のお墓だそうです。そのお墓の横にあるのが、大きな板碑。平賀鳩溪先生墓域修築之碑です。伯爵 松平頼壽篆額とあるので、この題字は、松平頼壽伯爵の手によるものですね。篆額(テンガク)は石碑などの上部に篆文で書いた題字のことです。また松平 賴壽(よりなが)伯爵とは、源内の出身地である旧高松藩藩主の家柄につながる方だそうです。平賀源内の墓は、かってこの地にあった総泉寺(曹洞宗)にあったそうですが、区画整理により総泉寺は昭和三年(1928)板橋区小豆沢へ移転したのですが、香川県の有志の方の尽力で当地に保存されることが記されていました。スペースがなくて変な角度で撮影していますが、この板碑の裏には、杉田玄白の書いた墓碑銘が刻まれていました。平賀源内の葬儀を執り行ったのは杉田玄白でした。彼は江戸時代の蘭学医で国内初の人体解剖をおこない「解体新書」という医学書の刊行した人物で平賀源内とは交流があったのでしょうね。さて、こちらは橋場不動尊(→→→こちら)と呼ばれる天台宗砂尾山橋場寺不動院です。天平宝字4(760)年、奈良東大寺建立に尽力のあった高僧良弁僧正の第一の高弟寂昇(じゃくしょう)上人によって開創され、江戸時代には、周辺の三条公、有馬候、池田備前候などをはじめとする武家の尊信をも集め、明治末年の大火、関東大震災、そして昭和20年3月の東京大空襲の際にも、不動院を中心とした橋場の一角だけは災禍をまぬがれたことから、霊験あらたかな橋場不動尊として現在でも広く庶民に尊信されているそうです。ご朱印を集めている人が多く参拝しているようでした。こういうご朱印を集めている方が多いですが、スタンプ押してなにか文字を書いてもらうだけで初穂料(300円くらい)が必要なので、もったいなくてMoMo太郎にはできません。ちなみに不動尊とは、不動産屋さんの守り神ではなく、「動かない守護者」を意味し、インド神話のシヴァ神の別名となっています。シヴァは暴風雨の威力を神格化したもので、破壊的な災害を起こす半面、雨によって植物を育てる神です。不動明王はその教えを受け継ぎ、仏法の障害となるものに対しては怒りを持って屈服させますが、仏道に入った修行者には常に守護をして見守る仏さまということです。(このあたりの地図です)【了】人気ブログランキングへ「川の手通り」を歩いてみました(その10) 平賀源内のお墓
2021年03月08日
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川の手通りと明治通りの交わる白鬚橋西詰交差点にある石碑です。 かつての白鬚橋西詰一帯は風光明媚な土地で、著名人の屋敷が軒を連ねていたそうで、そのひとつには三条実美の別邸の対鴎荘がありました。三条実美は、幕末には尊王攘夷・討幕派の中心的な人物であり、明治維新後は元勲の一人として右大臣、太政大臣、内大臣、貴族院議員などを歴任した。内閣発足以後の内閣総理大臣も兼任してた人物です。 これは、その別邸があったことを記す石碑です。 その別邸に明治天皇も訪れたことから、その歴史を記す「明治天皇行幸對鴎荘遺蹟」という石碑です。 石浜神社のある荒川区には、かってこの地にあった石浜城と呼ばれるお城があったそうです。 その跡地と思われるここに石浜城址公園がありました。 石浜は浅草の北側にある古利根川(現在の隅田川)右岸地域の呼称であり、 石浜城の築城年次は不明だそうですが、室町時代の中ごろ、武蔵千葉氏の居城となり、戦乱の世に百年あまり続いた城だったそうです。 小田原の北条氏滅亡の後、廃城となったようです。 石浜城の位置には諸説あり、関東大震災以前に台東区橋場にあった総泉寺が武蔵千葉氏の菩提寺で、石浜城もその側にあったとされているそうですが、荒川区南千住の石浜神社付近にあったとする説と、台東区浅草の本龍院(待乳山聖天)付近にあったとする説に分かれているそうです。 (このあたりの地図です) 【つづく】 人気ブログランキングへ 「川の手通り」を歩いてみました(その9) 対鴎荘の石碑と石浜城址
2021年03月07日
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隅田川に架かる白鬚橋が見えてきました。(ヒゲの字に注意です! あごひげを意味する「鬚」を使うそうです)川の手通りの終点、白鬚橋西詰交差点に到着しました。ここから先は台東区橋場となりますが、この先の道は「川の手通り」と呼ばれないようです。ここから先は、言問橋西詰に向かって一方通行です。また橋場という土地柄のせいか、それとも建物が建て込んでいるせいか、この先は道路も整備されていないようです。白鬚橋の親柱です。この装飾があるのは大正から昭和初期の時代に建設された橋の特徴なのでしょうか。(このあたりの地図です)【つづく】人気ブログランキングへ「川の手通り」を歩いてみました(その8) 白鬚橋西詰交差点
2021年03月06日
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折角、来た石浜神社です。お参りさせてもらいました。石の鳥居がに2基建立されていました。また、ここは浅草名所七福神(→→→こちら)のひとつ「寿老人」が奉られています。こちらが拝殿です。この石が積み上げられたものは、富士遥拝所で、江戸時代に普及した富士信仰の一端を示すものですね。招来稲荷神社と白狐神と豊受大御神に関する神社も奉られているのですね。寿老人はこの中に奉られていました。また、石碑も多く建立されています。江戸時代の高名な儒学者亀田鵬斎の詩を刻んだ石碑だそうです。(このあたりの地図です)【つづく】人気ブログランキングへ「川の手通り」を歩いてみました(その7) 石浜神社
2021年03月05日
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川の手通りに沿って歩いていくと、スカイツリーもよく見えますね。道路沿いの小さな公園(?)というか空き地。ここは、真先銭座跡です。江戸時代、隅田川沿いの橋場周辺には銭座が置かれていたそうで、この真先銭座は、江戸時代末期の文久2年(1862)、橋場町にあった酒井雅楽頭(うたのかみ)の屋敷地跡に、天保通宝鋳造のため設置されたものです。当時の絵図などから、現在の石浜神社から旧隅田川貨物駅引込線あたりまで広がっていたと推定されています。平成2年3月の試掘調査では天保通宝銭等が出土したそうです。そして、先に進むと、石浜神社(→→→こちら)がありました。向こう側に見えるガスタンク。ガスホルダーというのが正式な名称のようですが、需要の少ない時間にガスを貯蔵し、需要の多い時間にガスを送り出すための施設だそうです。(このあたりの地図です)【つづく】人気ブログランキング「川の手通り」を歩いてみました(その6) 真先銭座跡
2021年03月04日
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隅田川には入り江のようになった場所がありました。ここは、瑞光橋公園として整備されています(→→→こちら)。この入り江は、かってこの近くにある隅田川貨物駅の構内には水路があり、川からの出入りができるようになっていた痕跡だそうです。この入り江に架かる橋が、橋の親柱が波のようにデザインされた、瑞光橋です。「瑞光」という名前は南千住の素戔嗚神社にある「瑞光石」(→→→こちら)に因むのでしょうね。この橋の歴史についても解説されていました。(このあたりの地図です)【つづく】人気ブログランキング「川の手通り」を歩いてみました(その5) 瑞光橋
2021年03月03日
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胡録トンネルを出て、 水神大橋を過ぎると、また、トンネルが見えてきました。 瑞光(ずいこう)トンネルという名称でした。 瑞光という縁起のいい名前は、南千住にある瑞光小学校(→→→こちら)にも使われていますが、もともとは、ここから西の方へ行った、国道4号線沿いにある素戔嗚神社(→→→こちら)の境内の、 神社創建の起源となったこの小塚の中にある。 この祠の中の この穴が掘られた跡の残る「神影面瑞光荊石(しんえいめんずいこうけいせき)という霊石で、通称「瑞光石(ずいこうせき)」と呼ばれている石に因むものです。 文政12年(1829)編纂の「江戸近郊道しるべ」には、千住大橋架橋の際、この石の根が荒川(現隅田川)まで延びていたため、橋脚が打ち込めなかったという伝承を紹介されています。 しかし、この表面にある小穴はがあいていますが、これは「房州石」と呼ばれる、千葉県鋸山の海岸で採取される凝灰質砂岩の表面に、貝が住み込むために穴を開けたもので、おそらくここが古墳で、その石室材として運ばれてきたものではないかとも言われています。 瑞光トンネルを抜けると、東京都立産業技術高等専門学校(→→→こちら)荒川キャンパスが見えてきます。こちらの荒川キャンパスは東京都立航空工業高等専門学校の流れを受けて、航空実習館「汐風」という施設があります。 (このあたりの地図です) 【つづく】 人気ブログランキング 「川の手通り」を歩いてみました(その4) 瑞光トンネル
2021年03月02日
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隅田川沿いに川の手通りを進んでいくと、川筋に沿って道路が湾曲しています。そして、堤防の下を抜けるトンネルになっていました。トンネルの上の堤防からは、隅田川の向こう岸に都営白髭東アパートと首都高速向島線が見えます。さらにその下流側には隅田川を渡る水神大橋が見えます。こちらは堤外地側の汐入公園、晴天の下、多くの人が春めいた一日を過ごしていました。このトンネルは「胡録(ころく)トンネル」という名称ですが、この名称は、汐入地区の氏神様、胡録神社(→→→こちら)に因んだ名称でしょうね。胡録という名前は、かつては神仏習合によって大六天を祀る神社であったのが、明治時代の神仏分離政策により、当時の汐入で生産が盛んだった胡粉の「胡」と大六天の「六」を「録」にした「胡録神社」に改称されたそうです。ちなみに、「胡粉(ごふん)」とは貝殻から作られる白色の顔料で、日本人形などに使われているものです。(このあたりの地図です)【つづく】人気ブログランキング「川の手通り」を歩いてみました(その3) 胡録トンネル
2021年03月01日
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そして、隅田川を渡ります。渡ったのはこの橋です。「千住汐入大橋」という橋です。もともとはこのあたりにに昭和42年まで残っていた「汐入の渡し」に因む名称です。また、汐入はこのあたり、荒川区南千住8丁目付近の旧町名でもあります。橋を渡り切ったところで丁字路となっています。この丁字路を左折すると、川の手通りになります。こちらからは荒川区になります。大きな公園が見えてきました。都立汐入公園です。南千住八丁目の南千住八丁目の白鬚西地区市街地再開発事業で整備され、平成18年(2006)4月に開園した広さ12.9ヘクタールの都立公園です。再開発事業が行われる前、昭和の時代のこの地区の様子を知る人から見ると大きく変わったでしょうね。(このあたりを歩いています)【つづく】人気ブログランキングへ「川の手通り」を歩いてみました(その2) 千住汐入大橋
2021年02月28日
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台東区の言問橋西詰と足立区の綾瀬警察署前を結ぶ東京都道314号言問大谷田線の荒川区と足立区の区間は「川の手通り」という通称で呼ばれています。今回は、千住曙町交差点から白鬚橋西交差点までの区間を歩いてみました。緩い坂道になっています。坂道を登りきると、隅田川が見えます。こちらは隅田川の上流側、南千住にある高層アパートが見えています。このあたりは足立区立の千住大川端公園だそうです。(歩いているあたりの地図)【つづく】人気ブログランキングへ「川の手通り」を歩いてみました(その1) 千住大川端公園
2021年02月27日
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2020年11月8日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して蒲田から羽田を歩いた報告の番外編です。折角天空橋駅までやって来たので、近くにある大鳥居(→→→こちら)まで行ってみました。鳥居にある「平和」の文字。この鳥居の歴史に関係ありそうですね。氏神として、鈴木弥五右衛門という名前がありますが、天明年間(1781年から1789年)に、このあたりを干拓により新田開発を行った羽田猟師町の名主の名前です。この大鳥居の歴史が記されています。元々は、今の羽田空港のあるあたりにあった穴守稲荷神社に奉納された鳥居でしたが、1945年の終戦後に羽田空港を建設するためGHQによって強制移転させられることになり、この大鳥居を壊す工事が始まりました。しかし、工事に従事していた作業員が二度も鳥居のてっぺんから足をすべらせて落ち、米兵も機械に挟まれて亡くなるなど、工事関係者が相次いで不慮の事故が起きたので鳥居の撤去工事が中止され、その後は、放置された状態でした。昭和五十九年に着手された東京国際空港沖合展開事業により、滑走路や旅客ターミナルビル等の空港施設が沖合地区に移設され、大鳥居も新B滑走路の整備の障害とならことから、撤去を余儀なくされることとなりました。しかしながら、元住民だった多くの方々から大鳥居を残してほしいとの声が日増しに強まり、平成十一年二月、国と空港関係企業の協力の下で、この地に移設されたものです。そんな戦争にも関係する歴史から平和の大鳥居と呼ばれているのでしょうね。むかし、ここに人が住んでいたことを紹介する仮の掲示板もありました。大鳥居のある場所から見える多摩川の河口です。なんかやっぱり平和っていいですね。人気ブログランキングへ蒲田から羽田へ(番外編) 大鳥居
2021年01月13日
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2020年11月8日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して蒲田から羽田を歩いた報告です。東京都下水道局の羽田ポンプ所(→→→こちら)です。下水道管には傾斜がついていて自然に下流側へ流れますが、深くなっていくと下水道管の設置が難しくなるので、このポンプ所で下水を地表近くまでくみ上げ、再び自然流下させているそうです。そして、下水を浄化する水再生センターに送られます。また、大雨の時など、下水道管に流れ込んだ雨水をに川や海に放流する役目もあるそうです。穴守橋という橋を渡ります。親柱の装飾にデルタ翼(三角翼)の飛行機が付いているのは、妙に懐かしい感じがしました。欄干には飛行機の歴史を紹介するパネルが展示されていました。「日本の航空機の父」二宮忠八(→→→こちら)の玉虫型飛行器ですこちらはあのゼロ戦ですね。正式には「零式艦上戦闘機」というのですね。つまり空母に載せる飛行機だったんですね。穴守橋の架かる「海老取川」です。水上バイクで川を疾走するグルーブがいました。そして、東京モノレールも見えますね。そして、飛行機。羽田空港の傍まで来たのです。やったー!ここがゴールの東京モノレール天空橋駅です。【了】人気ブログランキングへ蒲田から羽田へ(その10) 飛行機が見える橋
2021年01月11日
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