全3件 (3件中 1-3件目)
1
またまた高校野球ネタで恐縮だが...近年の未曽有の酷暑を鑑みて、ここ数年の甲子園大会では様々な施策が行われている。準々決勝以降で日程を空けるべく休養日を設けるとか、延長戦にタイブレークを導入するするとか、5回終了時に10分間のクーリングタイムを設けるとか、午前と夕方の2部制にして気温ピークの時間帯の試合を避けるとか(3日間だけだったが)...どれも一定の効果を上げているとは思うし、否定されるべきものではないと思う。また他にもドーム球場を使用するなどの案も出てきている。ただいずれも小手先の施策であって、本質はそこではないとも言いたい。私は甲子園大会よりもむしろ地方大会の方が好きで、テレビでもよく観戦している。そこでよく目にする光景は、選手が足をつるなど熱中症と思しき症状に見舞われるシーンだ。そしてそのたびに試合は中断する。場合によっては結構長時間になったりするが、これは甲子園大会だけ見ていてはお目にかかれない光景だ。もちろん地方大会においても暑さ対策としては様々な施策がとられているとは思うが、それでもこういった現実があるとすれば、これはもう「この時期に野球大会をやるべきではない」ということなのではないだろうか。甲子園に出場する球児よりも地方大会で散る球児の方がはるかに多い。しかし今は甲子園に出場する49×20=980人だけにスポットを当てた論議だけがなされているような気がしてならない。
2024年08月29日
コメント(0)
今年も夏の甲子園大会が行われている。開会式もテレビで観ていたが、直後の試合に出場する2チームを最後に入場させるなど新しい施策が見られたのが興味深かった。ただそんな中で毎年のように引っかかっていることが相変わらずであった。選手宣誓である。いつのころからか、選手宣誓は「宣誓」ではなく「スピーチ」になってしまったと感じる。別にどうでもいいじゃないか、と言われそうだが、物事の本質を踏み外してしまうことは「教育の場」としては看過できないことではないだろうか。ましてや今年は「大会会長挨拶」「文部科学大臣祝辞」などよりもはるかに長い2分40秒にも及んだと聞く。話を簡潔にまとめさせることも国語教育の重要な要素だろう。誤解のないように言っておきたいが、私は選手宣誓を行った選手個人を貶めるつもりは毛頭ない。むしろあれだけの大観衆の中で一言一句間違いなく話すことのプレッシャーはハンパないだろうし、それを考えたら称賛に価すると思う。要は方向性の問題で、これは誰の責任でもない。選手宣誓といえば、定型フレーズがある。「宣誓!私たち選手一同はスポーツマンシップにのっとり、正々堂々と戦うことを誓います!」昔のことはよく覚えてないが、かつてはずっとこんな感じだったと思う。それがいつのころからか、せっかくやるなら「独自色」を出したい、という流れが出てきた。その流れの中でたとえば英語を織り交ぜたりといった試みもあったと記憶している。そのうち宣誓フレーズに「感謝」といったワードが出始める。「家族や周りの人々」や「野球をやらせてもらえる環境」に感謝する宣誓が増えてきた。この流れを加速させたのが「阪神淡路」や「東日本」といった大震災だろう。野球をやりたくてもやれない球児の話を聞くにつけ、自分の境遇が如何に恵まれているかということを痛感するのだろう。さらに選手宣誓する選手はよりオリジナリティを求めだす。少なくとも昨年のものを上回りたい、くらいのことはみんな考えるだろうし、結果としていろんな要素をあれもこれもと詰め込んで、より長くなっていく。さらにこれは肝心なことだが、選手宣誓については皆が100%素晴らしいと称賛する。ケチをつける人はいない。だからこの流れで間違いないとみんな信じてしまうから、その結果さらに「スピーチ化」はエスカレートする。もっとも私自身は違和感を持つにせよ、聞いている人が皆これでいいと思うなら、私がとやかく言うことはない。ただこの流れはたぶん止まらないから、来年以降もエスカレートするだろう。臨界点を超えたところで、今まで称賛しかしてこなかった高校野球ファンやスポーツマスコミが止めることができるのだろうか?さらに言えば気になるところがもうひとつ。今回の宣誓でも触れられていたが、「自分たちのプレイが見ている人たちを元気づけたり夢を与えられるものでありたい」といった内容に言及することが多い点だ。これは宣誓のみならず、普段の選手へのインタビューでも頻繁に聞かれる。内容的に問題があるわけではないが、なんでそんなところまで選手が背負わなきゃいけないのか。これはマスコミの取り上げ方にも原因があるのかもしれない。選手達はみんな高校生、子どもだ(いま18歳で成人だが、それはそれ)。しかもスポーツは基本的に自己実現のためにやるものだ。世間のあれこれを背負う必要などない。ところがマスコミがいたずらに高校野球を美化するものだから、選手の側に変な義務感が芽生えてしまっているしか思えない。もっとも当の選手たちはもっとあっけらかんとしているのかもしれないが、それはそれで表の顔と裏の顔をとの使い分けが巧みだということだろう。いずれにしても選手達には他の誰かのためではなく「自分自身のため」に精一杯のプレイをしてもらいたいと願う。
2024年08月10日
コメント(0)
毎年この時期になると、広島・長崎原爆投下の日や終戦記念日がある関係で、戦争の是非を問う論争があっちこっちで巻き起こる。いや、「戦争の是非」と言ってしまうとちょっと語弊があるな。誰も好き好んで自分から戦争を仕掛けたりはしないだろうから。言い換えれば「自衛のための軍備は充実させておかなければいけない」とか「平和維持のために他国の軍隊と共同歩調を取らなければいけない」といった思想と、「とにかく戦争はいけない」という思想、このふたつだと言ったらいいか。このふたつの思想はまったく相容れない、いわば「水と油」のような関係かもしれない。というのも前者は地政学的観点から衝突を回避する方法を探っており、後者はとにかく戦闘現場のリアルを頭に描きつつ人道的に戦闘行為を否定しているからだ。言い換えれば前者が「マクロ的見地」で後者が「ミクロ的見地」だといえるだろう。視点が違うから議論をしても全くかみ合うこともないし、妥協点を見出すということもできそうにない。そんな中で、私は基本的に「戦争には反対」の立場をとる。「マクロ的見地」も論理的には理解できないわけではないし、自分がそれを否定するだけの根拠も乏しい。ただ基本的に「マクロ的見地」に立つ人(為政者もこれに当たることが多いかと思う)は「ミクロ的見地」に立つことはそうそうないんじゃないだろうか。言ってみれば総理大臣が戦場に赴くようなものだから。そうである以上、「マクロ的見地」の説得力は相対的に乏しくなる、と感じざるを得ない。時に“脊髄反射”と揶揄されることも多い「ミクロ的見地」だが、それを軽視すると一気にタガが外れてしまうように思えてならない。
2024年08月06日
コメント(0)
全3件 (3件中 1-3件目)
1


![]()