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先日のブログで、大河ドラマに触発されて『源氏物語』を読んでみようという気になったということを書いた。そしてそこで書いたように、角田光代さんの訳による作品を購入した。もっとも購入したといっても文庫で全8巻ある中の第1巻のみだが。なるほど、これは確かに読みやすい。とはいえ他の訳者の作品を読んでないのであまりいい加減なことは言えないが、難しい言い回しもないし、何より話し言葉が現代の感覚に非常に近いので、親近感がわくのだ。大河ドラマ『光る君へ』を欠かさず観ているだけに、ここで描かれている風景や風俗も(イコールではないにせよ)何となくリアリティを持って頭に浮かんでくるようだ。そんなこんなで第1巻を読み終えたが、第2巻は購入していない。というか、ここで一旦終わりにしようと思っている。長きにわたって読み継がれてきた作品だけあって、確かにそれなりの面白さはある。ただこれを最後まで読み通す時間を他の用途との秤にかけた場合、私にとってはここで止めるのがベター、という結論が出たまでだ。日頃まとまった読書時間が取れない私にとって、読書はスキマ時間の積み重ねである。そのため第1巻も読み通すのに1か月弱かかった。で、このペースであと7巻読み通そうと思うと年内いっぱいかかる計算になる。そう考えた時、他に読みたい本もゴマンとあるし、さすがにそこまで付き合いきれない、と思った。第2巻以降、展開がどうなるのか分からないから何とも言えないが、少なくとも第1巻で描かれる光源氏にはほとんど共感する余地がなかった、ということもある。様々趣深い場面は多々あったものの、少なくとも主人公として“恵まれ過ぎた境遇”にいるというのがどうしても引っかかったのだ。もっとも決して見限ったわけではない。私の心と時間に余裕ができた時にはいつでも、第2巻から再開する用意はできている。ただ今は『源氏物語』のサワリに触れただけで良しとしよう、そういうことにしておく。
2024年06月05日
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今年のNHK大河ドラマ『光る君へ』に触発されたわけでもないが、以前から機会があれば読んでみたいと思っていた『源氏物語』を、あらためて読んでみようという気になった。さしあたっていろいろ調べてみると、これまでに様々な方が訳を手掛けているようだが、直近では角田光代さんの翻訳が非常に好評のようだ。というわけで全巻大人買い....と思ったら文庫本としてはまだ全巻揃っていないらしい。とりあえず出てる分だけ揃えて、あとは出次第揃えていくか....
2024年05月01日
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何かのサイトか誰かのブログでチラッと紹介されていたような気がしていた。それでブックオフに行った際、何の気なしに手にとって、他の本と一緒に購入したものだ。そして読み始めてしばらくしてから、この作品及び作者の広瀬正氏のことを改めて調べてみて、驚いた。つい最近の作品かと思っていたら、刊行は何と1970年、今から40年も前で、しかも作者の広瀬氏は、この2年後に鬼籍に入っておられる。しかしそんなことはつゆほども思わせない、素晴らしい作品だった。ふつう何十年も前の小説を読むと、時代設定の違いそのものにより作品の古さを感じるのはともかく、文体の違いが何となく時代を感じさせるということもままある。しかしこの作品はそれが全く無い。みずみずしい文章だ。もっとも「タイムトラベルもの」だから、時代設定云々ということはあまり関係ないが、この文章は今この時代に読んでも、充分に通用するように思った。プロットもしっかりしてるし、登場人物のキャラも一人一人がみんな、生き生きとしている。おそらくはこのあと何年経っても、全く色褪せない輝きを放ち続ける、そんな作品だと思った。それにしても、自分が小学校に入りたての頃に書かれたものを、今の時代のものと勘違いしてしまうなんて.....。【2冊同時購入ポイント3倍】マイナス・ゼロ改訂新版
2010年07月29日
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劇団ひとりの書いた、『陰日向に咲く』という小説を読んだ。テレビの中で見る彼しか知らない私にとっては、なんだか別人が書いたような気がしてならなかったが、それだけ、本職の小説家でも無い人が書いたにしては、なかなかに秀逸な内容だったということだ。ところでこれを私は文庫本で読んだのだが、通常小説が文庫化されると、巻末に解説が付く。で、もちろんこの本にも解説が付いているわけだが、その著者を見ると「川島壮八」とある。全然聞いたことの無い人だなあ、と思って読んでみると、なんと川島壮八氏は劇団ひとりの実の父君なのだ。どうも、劇団ひとり本人が依頼したということらしい。普通、文学作品の解説というと、物語の構成や心理・情景などの描写など「技術的」な部分に関する論評が中心になるが、文学に関しては門外漢の父君に、そのようなものを望むのはおよそ無理なことだ。そのためご本人も割り切っているが、父親の目から見た筆者=劇団ひとりの生い立ちを綴ることで、解説に替えている。しかしそれが見事に功を奏している。若き日の劇団ひとりは芸能界入りを目指すに当って、アルバイトに明け暮れながら下積み生活を送っていたが、その時に多くの人間を観察することができた。この物語は、市井の名も無い人々の生き様がテーマになっているが、登場人物の心理描写がリアルに感じられるのは、彼のそういった下積み時代の経験が糧になっているのだろう。つまりこの物語の解説は、作者自身の生い立ちを振り返ることで充分に成り立つというわけだ。そういう意味ではナイスな人選だったのかもしれない。文庫本の巻末の解説をここまで興味深く読んだことは、おそらく初めてではないだろうか。陰日向に咲く価格:520円(税込、送料別)
2010年06月19日
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私はブルースやソウルといったいわゆる黒人音楽が好きだが、そういうジャンルのCDなどを専門に販売している、『ブルース・インターアクションズ』というレコード会社がある。インディーズというわけではないが、かといってメジャーでもなく、一般の方から見ればおよそマニアックなCDばかりを扱う、半ばアンダーグラウンドな存在のレコード会社だ。先日この会社が出版したある本を、たまたま書店で見かけた。ただそれを見つけたのが芸能・音楽のコーナーでなく、ビジネス書のコーナーだったので、思わず我が目を疑った。なんであの会社の本がこんなところにあるの!?そしてその驚きの勢いと、タイトルへの興味から、速攻でレジに持って行った。『新宿駅最後の小さなお店ベルク ~個人店が生き残るには?~』というのが、その本だ。新宿駅ビル地下に店を構える喫茶店(正確には「ビア&カフェ」らしい)店主が書いた本で、たぶんこのレコード会社の方がこの店の常連だったことから、出版の話が持ち上がったと思われるが、おそらく当らずとも遠からじ、ではないだろうか。それはともかく、立地や業態に差こそあれ、「個人店」という部分ではウチの店も同じなので、興味深く読んでいった。その中で特に私の腑に落ちたのが、「現場では経営をしない」というくだりだ。この本の中には「現場主義」とか「現場感覚」という言葉がよく出てくるが、これは要するに「目の前のお客を気持ちよく受け入れる」ためには如何にするべきか、ということで、その対応如何によってお客の持つイメージも180°変わったりするし、その分店側には常に臨機応変さが求められる。それは例えば「利益率」とか「回転率」といったような、机上の論理で動く「経営」とは、ある意味対極にあるものなのだ。しかし私のように、経営者と現場の店員が同一の場合、現場でも経営感覚が顔をのぞかせることがある。目の前にお客さんの顔を捉えながら、頭の中でソロバンをはじいている自分がいたりする。これは考えてみれば非常にマズイことで、うっかりすると店側の都合をお客さんの都合に優先させてしまうことがあり得る。その辺りもっと気を付けるようにしなければ、と改めて確認させてくれた。「現場感覚は長期熟成する」というのも良い言葉だ。永く続けてこそ出て来る、その店独特の味というものがあるが、それはフランチャイズ展開している大手チェーン店などには絶対に真似できないもので、個人店が今後武器としていくべきものだと思う。『ベルク』にはもちろん行ったことはないが、今度東京に出る機会があれば、ぜひ寄ってみたい。 新宿駅最後の小さなお店ベルク
2010年01月26日
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この本との出逢いは、全くの偶然だった。元々はこの本の著者である喜多川泰氏の、別の著書を買いたくて、書店であちこち探していたところ、結局それが見つからなくて、その代わりにこれが目に入った。帯の謳い文句を見ると、「長船堂書店に閉店の危機迫る」とある。これを見ていて、何となく身につまされるような気持ちになった。書店と酒店、業種こそ違えど、商売の環境という点では非常に近いものがあるからだ。そういうわけで、それこそ何かに「憑かれる」ように、この本をレジに持っていった。これがまた素晴らしい本で、一気に読んでしまった。小説というよりは「寓話」といった方がいいかも知れない。どことなく、ちょっと前にベストセラーになった『Good Luck』に似たテイストがある。ちょっとネタバレになってしまうが、この本の中で著者が、「人生を豊かに変える3つの習慣」として取り上げていることがある。それは、 「人知れずいいことをする」 「他人の成功を心から祝福する」 「どんな人に対しても愛をもって接する」この3つだ。とある零細書店を舞台にしたストーリーの中で、それが語られていくのだが、このメインのテーマ以外にも、商売をする上で非常に重要な要素が散りばめられている。そのいずれもが、普段私たちが心掛けようとしても、なかなか実行できないでいること、あるいは売り手の目線から見て気付きもしなかったことなのだ。それらのひとつひとつには実に深い含蓄があり、私は目からウロコを落としまくってしまった(笑)。商売の何たるかを、今一度見つめ直すキッカケになる本だと思う。商売に携わる方には、ぜひともお勧めしたい一冊だ。 「福」に憑かれた男
2009年12月02日
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私は昨年のある日のブログで、食品偽装などの不祥事の責任の一端は、安さばかりを追及する消費者の無言のプレッシャーと、いたずらに安さを煽り立てる流通業者にもある、ということを書いた。その当時、マスコミの論調を見ても私と同じ意見はあまりみられなかったが、最近読んだ本に、かなり私の考え方に近い本があった。 日本の「食」は安すぎる『やまけんの出張食い倒れ日記』という人気ブログでもおなじみの、山本謙治さんが書かれた本だ。内容はひとことで言えば、日本で作られている食品のほとんどがいかにいい加減に作られているか、といういわば「告発本」だ。とは言っても、単なる暴露・告発の類だけで終わっているわけではない。何故にそのような作り方がされるようになってしまったか、その原因は突き詰めればどこにあるのか、まともな作り方が為されるためにはどうしたら良いのか、というところまで突っ込んで書かれている。そしてその結論として挙げられているのは、「あまりに消費者寄りになってしまっている食品業界」の現状だ。消費者に媚び過ぎるがために、生産現場にしわ寄せがきてしまっている、とも言えるだろう。このあたり、私が以前に当ブログで書いた内容と似通った部分もあり、我が意を得たり、と思った。ただ著者の言いたいのはその先だ。これからの消費生活の中で一番大切なこと、それは良いモノを「買い支える」ことだ、という。生産者がどんなに良いモノを作っても高ければ売れないとなると、生産者は良いモノを作り続けていけなくなる。そうならないためにも消費者は、その商品を買うという行動を通して、生産者を支えていかなければいけないのだ。今までに食品業界の暴露本などは数多く出されているが、大方が「こういうものは買ってはいけない」と声高に叫ぶだけで、このように次の一歩までも具体的に提案している本には、あまりお目にかかったことがない。私にとってはまったく新しい視点だった。
2009年09月21日
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ずっと以前から本屋で、この本が平積みになっていたのが気になってはいたが、今回初めて手にとって読んだ。 奇跡のリンゴおそらく以前の私だったら、こういった類の話はともすれば、斜に構えながら読むことが多かっただろう。この人は特別なんだ、とか、たまたま偶然なんだろう、というように、自分に重ね合わせることをしようとしない言い訳を、心の中で懸命に探しているような、そんな読み方だったように思う。しかし以前のブログに書いた「この本」で、「“一所懸命”と“本気”は違う」ということを学んだ私は、今ではこの人のスゴさがスッと理解できる。「“本気”でやったからこそ、どんな手間も厭わず、苦しいことにも堪えてやってこれたんだ」と素直に思えるのだ。この木村秋則さんこそ、まさに「本気」の人だ。
2009年05月27日
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先日読んだこの本、 Hope!おばちゃんとぼく読んだあと、ずいぶんと考えさせられた。仕事で失敗をやらかして、当てもなく傷心の旅に出た「僕」、新幹線でたまたま乗り合わせた、世話好きそうな「おばちゃん」。「おばちゃん」は「僕」の話を聞いてくれた上で、「僕」にいろいろと話して聞かせるのだが、その中でこんなことを言っている。「『一所懸命』と『本気』は違うんやで。」このひと言が、私の心にもズシンと響いた。「一所懸命」と「本気」。今まであまり深く考えたことはなかったが、言われてみれば確かに、似てるようでちょっと違う。いや、かなり違うかもしれない。私は今まで「一所懸命」に仕事をやってきたかと問われれば、胸を張って「YES」と答えられるだろう。しかし同じように、「本気」で仕事をやってきたかと問われたら、果たしてどれだけ本気だったのか、ちょっと自信が無い。で、「一所懸命」と「本気」の違いって、一体なんだろう?この本の中では、「『一所懸命』は周りが見えなくなってしまう」ということが書かれているが、要は自分を客観視できるかどうか、ということではないかと解釈した。そしてその違いについて、さらに自分なりにいろいろ考えてみた。 「一所懸命」よりも「本気」の方が、目的意識がハッキリしている。 「一所懸命」よりも「本気」の方が、覚悟が出来ている。 「一所懸命」は後で言い訳ができるが、「本気」はできない。 「一所懸命」は結果を伴う必要がないが、「本気」は結果がすべて。 「一所懸命」は自己満足で完結するが、「本気」は自己満足に終わってはいけない。 「一所懸命」は片手間でもできるが、「本気」はそれだけに集中する必要がある。要するに「一所懸命」という前提の上に、様々な必要条件が乗っかったのが「本気」だということだろうか。いや、あるいはまったくの別物なのかもしれない。考えれば考えるほど答えに辿り着くのが困難になりそうに思えるが、それでもひとつだけ私の中で出てきた結論は、「仕事は本来、『本気』で取り組むものであって、ただ『一所懸命』やるだけの仕事は、所詮『仕事ごっこ』に過ぎない」ということ。今までの自分のやってきたことが、ただの「仕事ごっこ」だとしたらあまりにも悲しいが、思い通りの結果が出ていなければ、それを受け容れなければいけないだろう。そういうわけで、ちょっと落ち込んでしまった。でもそれに気付かせてくれたこの本には、とても感謝している。
2009年03月08日
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黒人霊歌の『聖者が町にやってきた』のパロディかとも思えるようなタイトルだが、その舞台はアメリカ南部とはまったくかけ離れた、長野県のはずれの片田舎の小さな町、「小布施町」だ。交換留学生として日本にやって来た「セーラ・マリ・カミングス」という女の子は当初、長野オリンピックのボランティア志望ということで、長野市にやってきた。ところがひょんなキッカケから日本の伝統文化に興味を持ち、それにかかわる仕事がしたいということで、小布施町にある『小布施堂』に入る。『小布施堂』は本来は和菓子店だが、その他にも『桝一市村酒造場』という酒蔵や、何軒かの飲食店を持つグループ企業を形成し、小布施観光事業・伝統的町並み保存の中核をなす存在だ。そんなところへやたらハイテンションのアメリカ娘が身を投じたのだ。これはもう町にしてみれば、「黒船襲来」か「カルロス・ゴーン」に匹敵するような出来事だ。ところがこれが、見事な化学反応を見せる。詳しくはあえて書かないが、彼女の「日本文化を大切にする心」というのは、ともすれば当の日本人が忘れてしまっているようなもので、そのことを異国の人に指摘されるというのもまた皮肉な話かもしれない。確かに最初のうちは周りとの軋轢など、何かと一筋縄ではいかないこともあったようだ。しかし彼女は決してめげない。読んでいるこちらが呆れるくらいにアグレッシブだ。自分が正しいと信じずれば、それをまっしぐらに突き進む.......そんな彼女のスタイルは、読んでいる私にも心地良く伝わってくる。読後感がとても爽やかだ。外国人である彼女に教わるべきことはたくさんありそうだ。特に熟慮するわりになかなか行動が伴わない私には、彼女ほどの無鉄砲さが付け足されて、ちょうど良い具合なのかもしれないと思った。「小布施町」にも行ってみたくなった。 セーラが町にやってきた
2009年02月08日
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その日のまえに7編からなる短編集で、そのいずれにも、身近な人の死が絡む。そこへ向かっていく、あるいはそこから離れていく家族や友人らの心の機微がテーマとなっている。ひととおり読み終えて、何だか自分の死生観がガラッと変わったような気になった。「死」とはただ単に「怖いもの」、「悲しいもの」、「おっかないもの」であり、家族に死なれた遺族たちには「かわいそう」、「お気の毒」といった通り一遍の感情しか持ち合わせていななかった私にとって、内面に悲痛な叫びを閉じ込めながらも、日々淡々と過ごす登場人物たちの姿は、かえって清々しくすら映る。あらかじめ死期が定められてしまうと、一時は悲しみのどん底に沈んでも、その後は悲しみをも通り過ぎてしまうものなのだろうか。表題の話に登場する末期がんの女性は、迫り来る「その日」のために、身辺を整理したり、行きたい所には行っておいたり、自分の死後のことについての雑多な指示を家族宛に書き留めておいたりしている。変な例えだが、勤めていた会社を退社するときに、デスクの引き出しの中を整理したり、引継ぎ資料を整備したりするのに似ている。私もかつてサラリーマンだったから、当然そういう経験はした。あのときの感じと同じようなものかな、と思えば多少は気がラクになるのかもしれない。そう考えると「死」というものは、人間が「この世」という職場を「退職」するというのに等しいといえる(もっとも「円満退社」でなくてはならないが)。実際、私も勤めていた会社を退職するとき、「この同僚の大半とは、もう死ぬまでに再開することは無いかもしれない」などと思ったくらいだから。また別の話の中には、このようなニュアンスの一節もある。つまり人生というのは1本の電車であり、その電車にいろんな人が乗っている。人の生き死にとは、その電車に乗り降りすることで、たまたま自分よりも前に電車を降りてしまう人がいるということだ、と。このような死生観に、私は大いに納得させられた。先日見た映画『おくりびと』で描かれる死生観とも、どこかしら通じるものがあるようにも思った。また少々ネタバレになってしまうが、この本に所収された7つの短編は、読み進むにつれどこかでリンクしてくる。私はこういう仕掛けには弱いのだ。つい涙腺が緩んでしまいそうになる。ただ涙腺が刺激されるのはそのせいだけでもなさそうだ。この小説を書いた重松清氏は私と同い年であり、そしてこれらの短編に出てくる主人公たちも、概ねそれと同年代という設定になっているからだろうか、何となく身につまされるものがあるのだ。
2008年11月30日
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偽善エコロジーある意味、非常に衝撃的な内容の本だ。今まで私たちが当然と思っていたこと、そうするべきだと啓発を受けてきたこと、そういったものが全く逆だったり、あるいはほとんど意味の無いことだったりする、そんな事柄がこれでもかというくらい、徹底的に書かれている。いかに「エコロジー運動」というのが、特定の業者や団体の利権にまみれているか、そんなことにも厳しい論調が向けられている。ただ、だからといってここに書かれていることを鵜呑みにするのも、それはそれで危険なことかもしれない。今私たちに必要なことは、双方の主張をよく吟味した上で、最終的に自分のアタマで考えて判断するという、「主体性」だと思う。そのことに気付かされるということだけでも、この本の価値は充分にあるだろう。そしてもちろん、そのために必要な情報やデータを、国や公的機関、そして民間企業は正しく提示しなければならない。しかし残念ながら今、それは充分なされているとは言えない。
2008年10月03日
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最近凶悪な犯罪が続いていることや、近々裁判員制度が始まるということなどもあってか、このところ「死刑」制度の是非というものがクローズアップされてきている。で、私はといえば、ずっと以前から死刑制度には反対の立場だ。たとえどんな凶悪な犯罪者でも、だ。その理由は極めて単純で、「人が他人の命を摘み取ることを良しとしない」その倫理観、ただその一点だ。仮に10人殺害した犯罪者がいても、彼を死刑にしたところで、失われた10人の命は帰って来ないのだから、それならば少なくとも死刑執行によって、11人目の死者(=加害者)を出さないようにするのが、人命尊重の観点からもベターだろうと考えるのだ。ただ世間的には、死刑制度を支持する考え方の方が、はるかに多いように聞く。もちろん反対論者の私としては、これらの「賛成」論を端から否定するつもりは無いし、まだまだこれからもずっと議論され続けるべき課題だと思っている。ただ私から賛成論者の方に、機会があったらぜひお読みいただきたいと思う本がある。 死刑この著者は、死刑制度の是非の間で自分の立ち位置が分からず、その答えを求めて様々な人に話を聞いている。死刑制度反対派・推進派双方の運動家、死刑執行にかかわる係員、拘置所の看守、殺人事件の被害者遺族など、実に多岐にわたって聞かれた話が収められている。そしてまさに執筆しながらも彼自身、終始ゆれ続けているのがよく分かる。最後にやっと彼なりの結論を導き出すのだが、それについてはあえてここでは書かずにおこう。あらゆる意味で衝撃的な内容だったが、その中でも私が特に強く感じたのは、日本では死刑執行というものが、完全に秘密のベールに覆い隠され続けている、ということだ(死刑囚との接見も含めて)。それには幾らかのメリットもあるのかもしれないが、少なくとも死刑制度の是非を国民的に論議していく上では、決定的に情報不足だ。例えば死刑執行がどのようにして行なわれるのか、ビジュアル的にイメージできる人がどれだけ居るだろうか?死刑囚に執行を告げる人、刑場まで連れて行く人、死刑執行のボタンを押す人、絞首された死刑囚の死体の後始末をする人........死刑執行に当って手を借りる数多の人たちの、想像を絶する辛い気持ちに触れられる人が、どれだけ居るだろうか?死刑制度賛成を唱える方には、あくまで理知的にその必要性を説かれるなら、一向に問題ないとは思うし、そういった主張は私も尊重したいと思う。しかし例えば、死刑囚の命が消える場面をリアルにイメージすること無く、ただただ感情の赴くままに「あんなヤツはさっさと死刑にでもしてしまえ!」などと言ってしまうようなことがあるとすれば、それはちょっといかがなものだろうか、と思うのである。今回は何だか非常に重~いネタになってしまった。次回はもうちょっとお気楽なネタにしようっと。
2008年05月29日
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先日本屋をブラブラしていたら、以前から読んでみたいと思っていた小説が、文庫本として新たに売り出されているのを見つけた。最初は単行本を買おうかと思っていたので、「あ、これはお金が浮いて、ラッキー♪」と、その場ですぐに買い求めた。そしてその小説の最初の数十ページを読んだ頃のある日、また本屋をブラブラしていると、今度はその同じ小説の単行本の方が目に留まった。もう文庫本の方で持っているので、単行本の方に用は無いのだが、なぜかそれを手に取ってパラパラとめくっていた。ところがすでに読んだはずの活字の羅列なのに、こうしてみると全然違った感触なのだ。本が大きいせいか活字に余裕があり、目に入る「入り具合」とでも言うものがまるで違う。当然ながら紙の質感も全然違うし、装丁もこちらはハードカバーで、文庫本の比ではない。もう文庫本で数十ページは読み進んでいるにもかかわらず、「続きはぜひ単行本の方で読みたい」と思った私は、次の瞬間その本を持ってレジに並んでいた(笑)。今自分が持っている物と内容的にはまったく同じ物を、さらにもうひとつダブって買い求めるということは、私としては極めて異例なことだ。しかしなぜか無性に欲しかったのだ。で、今はその単行本の方で続きを読んでいるわけだが、やっぱりこちらの方がはるかに良い。何というか、「存在感」がまったく違うのだ。こういう例えは適切で無いかもしれないが、文庫本と単行本の違いというのは、音楽CDをコピーしてCD-Rに焼き付けた物と、元のCDとの違いと同じくらいのものだろう。もちろん文庫本には文庫本の良さがあるから、一概にどちらが良いということは言えないが、もしかすると本のジャンルやストーリーの雰囲気によって、文庫本の手軽さが合っていたり、ハードカバーの重厚さがしっくりきたりと、違ってくるのかもしれないな。ちなみにそうして今読んでいるのは、こちら↓ ウルトラ・ダラー
2008年03月18日
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タイトルのような言い方、文字にするとちょっと極端にも聞こえるが、実際同じようなことを言ったりするのを耳にしたりするし、もしかすると自分でも知らず知らずのうちに口にしているかもしれない。「~させて頂きます」というのは結構使い勝手のいい言葉には違いない。これを使うと「へりくだる姿勢」というのがお手軽に表現できそうだからだ。実際これを多用するケースとして、例えば「政治家の選挙演説」、「芸能人のインタビュー」、「お客に相対する営業マン」などが浮かんでくる。しかしこの表現、以前から聞いていて何となくヘンな気がしていた。ただご本人のへりくだりたい気持ち自体はよく分かるし、この言い方を否定すると逆に言葉が軽くなりすぎやしないだろうか、という懸念もあった。ということでしばらくは悶々として聞いていたが、この本がその疑問に答えてくれた。 梶原しげる著 すべらない敬語これによると「~させて頂きます」という表現は、本来「自らをへりくだり、恩恵と許可を与えてくれる相手を高めて敬意を表す言葉」だという。だから例えば「今日から○○大臣を努めさせて頂きます」という言い方だと、タテマエ的には大臣に認証した天皇陛下には敬意が払われているものの、言外には有権者にへりくだった気持ちが見え隠れしている。でも彼を大臣にしたのは選挙民ではないのだから、選挙民に向かっての台詞であればおかしいということになる。ただ昨今の使用状況から見て、もはやこれは「謙譲語」の一種だと見るべきではないか、という見方があるもの事実だそうだ。なるほど、実質的に、敬語のひとつとして認知されているとも言えるわけだ。しかしやっぱりこれが何度も繰り返されると、あまりにもしつこさがまとわり付く。実際、著者もこのように結んでいる。「濫用すると、自分の評価を自分で低めます。単なる惰性で使い続けるのは賢明とはいえません。」(『すべらない敬語』より引用)そう、何事も“ホドホド”でなければいけないのだ。
2008年02月19日
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文字通り「不味い」食べ物を列記したエッセイ集だ。「美味い」食べ物について書かれたエッセイなら、いろんな人たちが世に出しているが、こういう酔狂な本は見たことが無い。しかし「美味い」も「不味い」も、あくまでも個人の主観に基づくものであって、一個人の主観によって「不味い」と判定された食べ物について書かれた文章など、他人が読んで果たして楽しいものか........、以前なら私もそう感じていたかもしれない。ただこの本を書いた小泉武夫氏というのは、東京農業大学の教授で、発酵学に非常に精通された「権威」なのだ(だからと言って、決してエラそうぶった文章ではなく、非常にくだけているのだが)。そんな著者の書いた物だ、単なる個人的な嗜好の赴くままに書かれているはずが無い。どんな物にも不味いには不味いなりの理由があって、それを発酵学的に理路整然と説明付けをしているのだ。だから読んでいる我々にも、あるひとつの食べ物について、製造過程や保存状況など、どこでどういう違いが生じると「美味い」と「不味い」に分かれていくのか、そのあたりがよく分かって興味深い。「美味い」モノを食べるためには、どうすれば「不味く」なるのかを知ることが大きな意味を持つ、そう考えると、この本はいわば「食の反面教師」とも言える。またこの小泉氏というのは、おそらく根本的に好き嫌いが無いとみえ、いろんなところに出掛けては、どんな奇抜な物でもまず口にしてみる、そういう人だ。どんなにも不味そうに見えても、「ひょっとしたら美味いかも」と思えばつい手が伸びてしまう、言わば「食の性善説」とでも言えるような方だ。そしてその「味の表現」のボキャブラリーも、凡人である我々よりもはるかに豊富だ(ただこの点に関しては、東海林さだお氏の右に出る者はいないと思うが)。「味」という、「カタチの無い漠然としたもの」を言葉で表現するのは、結構難しいもので、私も仕事柄、それをせねばならない立場にいるから、その大変さはよく分かるのだ。
2008年01月29日
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今年の初めから読み始めていた司馬遼太郎の『坂の上の雲』を、先日ようやく読み終えた。まず今さらながら、地道かつ綿密な資料の調査と、それをカタチにした氏の高い筆力に感服せざるを得なかった。この物語は日露戦争を主な舞台に、陸軍・海軍のそれぞれで活躍した秋山好古・真之兄弟と、真之の友人でもあった正岡子規の3人が主役であるが、全編通して常にこの3人を軸に展開するかといえば、必ずしもそうではない(特に正岡子規は、結構早い段階で他界してしまう)。彼らは登場人物のほんの一部に過ぎず(ただ存在感はそれなりに大きいが)、後はこの時代の陸海軍のトップクラスの人々やロシア側のトップたち、彼らの群像に迫りながら戦況を逐一追っていく。淡々とした中にも、それぞれの人物のキャラクターの対比が織り込まれてあったりして、結構興味深い。氏も文中で触れているが、日本は鎖国から開国に転換してわずか数十年の間に、世界に比肩しうる海軍を作り上げた。そのこと自体は非常に驚くべきことであるが、日露戦争の勝利によって、「根拠の無い自信」を植え付けられてしまう。それは多分に「精神論的な」ものだっただけに、太平洋戦争においてあらぬ方向に作用し、日本を敗戦へと導いてしまうことになる。そう考えると、日露戦争が日本の軍隊にとって、大きなターニングポイントだったといえるだろう。おそらく開国から日露戦争までの数十年というのは、日本の軍隊にとって最も“理論的に”戦況を考えられる時期だったことだろう。そしてこの時期にはまだ「武士道」なるものが、各々の意識の中に根強く残っていた。そのことも考え合わせると、この時期は日本の軍隊にとって、最も幸福だった時代なのかもしれない、と思える。ロシア側の記述についても相当頁を費やしているが、それを読む限り、やはりロシアは「負けるべくして負けた」ということがよく理解できる。日本にとってラッキーだった面も無くはないが、帝政の末期症状を呈して、指揮官は常に皇帝の顔色を窺い、兵士には共通する目的意識も無い状態では、たとえ日本軍に数の上では勝っていても、敗北するのは必然だったのだろう。ただ、月並みな言い方になるが、戦場での情景描写はあまりにもむごたらしい。なんだかんだ言いながらも、結局は「非戦」という考え方に落ち着くのだ。
2007年10月18日
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最近読んだこの2冊の本、 『世界一旨い日本酒』 『純米酒を極める』それぞれに書かれていることには、共通していることが多い。かいつまんで説明すると、・日本酒は本来、「純米酒」が基本である。・それを熟成させて、なおかつ「燗」で飲むのが、最も旨く飲める飲み方である。・「吟醸酒」や「生酒」などを冷やして飲ませる習慣が、日本酒をダメにした。・キチンとしっかり造った日本酒は、それほど早く劣化することは無く、十分熟成に耐え得る。・そうやってキチンとしっかりとした造りをしている蔵が、案外少ない。などなど......。細かい部分では私とはやや考え方の異なる部分もあるが、概ねこれらの意見は、私が今後の日本酒の将来を見据えて感じていたこととほぼ重なる。「キチンとしっかりと造られた酒」を見極める能力は、恥ずかしながら私自身、十分に持ち合わせているとは言えない。しかしそういったものを提案していくことが、結果的に日本酒ファンの裾野を広げていくことに繋がるのは、間違い無いだろう。
2007年04月22日
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長男が以前、こんな本を購入して読んでいた。内容としては単なる、「あの昨年の甲子園決勝戦再試合」のドキュメントというものではなく、このふたりにまつわる周辺の人達の物語をアトランダムに描いたものだ。私も読むとはなしにパラパラと手に取っていたところ、冒頭のある一文に懐かしい名前を見つけた。 「小沢章一」熱心な高校野球ファンでなくとも、ご記憶の方は多いかもしれない。あの荒木大輔が甲子園を沸かせていた頃、彼と共に1年生の時からレギュラーとして都合5回甲子園に出場、3年生時にはキャプテンも努めた、早稲田実業の名二塁手・小沢君だ。早稲田実業卒業後は早稲田大学に進学したものの、結局荒木の待つプロに行くことは無く、卒業後は千葉英和高校という学校の野球部の監督を務めていた。このことは、実はかつて『荒木フリーク』だったという私の妻から聞かされて、私も知っていた。ただその彼の辿って来た道のりが、全く平坦なものではなかったということを、この本を読むまで知らなかった。荒木君も小沢君も高校球界のスターだったが、それぞれのその後の進路が結局明暗を分けることになった。荒木君はプロ野球・ヤクルトスワローズへ、小沢君は早稲田大学に進んだ。荒木君もプロ野球では思うように結果が残せなかったが、それでも「プロ野球選手」というだけでリスペクトの対象になる(罵声を浴びることも多いが)。しかし早稲田大学に進んだ小沢君の場合、高校での輝かしい球歴が、かえってアダになってしまった。監督や先輩などから、執拗なまでのジェラシーがあったようだ。そして1年生途中で退部してしまうことになるのだが、表向きは「肩を壊して」ということになっているものの、実際のところ他に原因があったということは充分に推察される。そして彼が千葉英和高校の野球部監督に就任してからも、同僚たちのジェラシーに悩まされることになる。もともと根が真面目で神経質だったという彼は、それが原因で「パニック障害」を引き起こし、休職する羽目になってしまう。そして休職中にガンを発症し、それが完治すること無く昨年1月、ついに帰らぬ人となってしまった。実はこのことは、私の妻でさえも、この本を読むまでまったく知らなかったという。それだけスポーツマスコミにも取り上げられるような素材ではなかったということなのだろう。小沢夫人は昨年、自分の夫の後輩たちが昨年夏の甲子園を制したことを、素直に喜んだ。ただ、あの斉藤君を見て「大丈夫かな?」と思わずにはいられないという。かつて自分の夫が通ってきたのと同じ道を辿らなければいいのだが、と。
2007年02月12日
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かねてより今年に入ったら、司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』(全8巻)を読もうと決めていたので、昨日本屋で購入してきた。本屋の書棚から、右手の親指と中指を目一杯開いて、この本の1巻から8巻までをまとめて鷲掴みにして、そのままレジへ持っていった。その行為が何とも心地良く、また帰り際に、私が本を取ったあとの書棚の空間が目に入り、それが何となく清々しかった。そういえばこの話、近々NHKでドラマ化されると聞いた。それが始まるまでに読んでしまわないと。
2007年01月22日
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ウチの玄関というのはたいていいつも、家族全員の靴が散らかり放題に散らかっている。私もそういう光景に目が慣らされてしまっているからか、さほど見苦しいとも思ってなかった。ただ数日前から、玄関の靴がきっちりとそろえて置かれているのに気が付いた。私はてっきり妻がそろえてくれてるものだとばかり思い込んでいたのだが、実は靴をそろえていたのは、中1の長男だったのだ。妻にその訳を尋ねるとこういうことだった。私が大分前に読んだこの本。面白かったからと言って、以前妻にも一読を勧めた。で、妻も読んで良かったと思い、長男にその話を聞かせた。すると興味を持った長男が今度は読み始めた。中学生が読むレベルの本でも無いかなとも思ったが、何せコイツは「スポーツ」とか「体育」といった言葉が絡むと、多少難解なものでも読んでしまうのだ(他のジャンルでも読んで欲しいと思うが)。で、この本の中に、「態度教育」について書かれているところがある。スポーツで結果を出すためには、まず生活態度から改善することだ、といった内容だ、端的に言えば。そしてこの本では、著者の教え子たちに、他人の脱いだ靴まで全部そろえさせ、そしてその子らが大会で良い成績を収めた、というエピソードが書かれており、それに長男はまんまと感化させられた、ということだ。素直というか、単純というか......。でも、「良いと思ったことはすぐ実行する」、これは学習であれ仕事であれ、どんな場合にも共通する「鉄則」だよな。
2006年11月26日
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こんな本が最近売れてるようだ。近所の書店でも平積みになっていた。実は私もちょっと前から何となく目にしていたのだが、「あ、最近この手の本って多いよな」という程度で、特に気にも留めなかった。しばらくしてこの本の著者が、私の住んでるこの街の出身だということを耳にした。それを聞いたあと、しげしげと著者の名前を見てみると.......あ、そういえばどこかで見たことのある名前.......「ひょっとしてコイツは私の高校の同級生じゃないか!?」ということに初めて気がついた。念のため著者のことをネットで検索してみると、やっぱりそうだ!精肉店の息子の田中君だ!軟式テニス部にいた田中君だ!時々自転車で一緒に帰った田中君だ!インベーダーゲームが得意だった田中君だ!ギターキッズで、ヴァン・ヘイレンやジェフ・ベックが好きだった田中君だ!確か高校を卒業してから早稲田大学に進学するということは聞いていたが、その後はプッツリと消息は途絶えたままだった。いやー、しかしこんな本まで出す身分になったとはねー(ネットで検索したら、もうすでに何冊か出版しているが)。失礼ながら、高校時代の彼の姿からは、ちょっと想像できないなー。早速この本を買いに行ってこよう!
2006年10月31日
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私が尊敬できる数少ない国会議員のひとりに、佐藤道夫さんという方がおられる。もともとは検察畑の方で、検察官として永く活躍された後に二院クラブ(当時)から参議院議員に立候補、当選を果たしてもう10年以上になる(現在は民主党所属)。私が佐藤さんのことを知ることになったきっかけに、こんな出来事がある。もう何年前のことになるか定かではないが、あれは元スケート選手の橋本聖子議員が妊娠したことが呼び水となって、国会議員の育児休暇(産休だったかな?)を認める法案が国会に提出されたときだったと思う。衆議院であっさりと可決され、参議院でもおそらく党派を超えて全会一致で可決されるものと見られていた。というのもこの時期を前後して、確か『男女雇用機会均等法』が施行されて、ただでさえ男女差別ということに対して、世の中全体がピリピリしていた時代だったからだ。結果的には参議院でもあっさり可決されたのだが、全会一致ではなく、ただひとり反対した議員がいた。それが佐藤さんだった。彼はひとり反対した理由をマスコミに尋ねられ、その時にこのような趣旨の回答をされたのだ。「もしも将来、女性が総理大臣になるようなことにでもなった場合、何か国家の一大事が起こったとき、総理は育児休暇中です、などという理屈が通るでしょうか?こういうことひとつとっても国会議員というのは、一般の職業と比べても極めて特殊な位置づけにあるべきで、世間一般の『男女平等』という理念を安易に持ち込むべきではないでしょう。」私の記憶もあいまいなので、文言が大きく違っている部分は有るかもしれないが、だいたいこういう内容だったと思う。法案の中身から見ても、これに反対するということは、フェミニストたちや女性問題に関する活動家、そして世の中の女性全員を敵に回すようなものじゃないかと思っていたが、彼の主張は実に単純明快で、尚且つ素直に納得できるものだった。しかもそれは、『男女平等』という“錦の御旗”の陰に隠れて誰もが見過ごしてしまうか、よしんば気が付いていても、世間の大きな流れの中であえて反論をするだけの正当性を見出すのが難しく思えるようなことだった。そこを彼はきちっと押さえていたのだ。この談話を聴いて、私は目からウロコが落ちるような気がした。何があっても決してぶれない軸と、確かな目を持った方だと感じた。佐藤さんが以前から週刊誌に連載していたエッセイをまとめたものが、単行本として刊行されている。これを読むと、彼の人となりがよく見えてくるような気がする。 検事調書の余白 検事調書の余白(2)文体は非常にドライで、さすがに法律を司る人らしい冷徹さがまず感じられるが、その行間の一つ一つには溢れんばかりの正義感と、彼のそこはかとない愛情を感じることができる。ただ愛情と言っても、いわゆる「包み込む」様な愛情では決して無く、ある程度突き放しながらも、遠くに居て見守っているような類の愛情である。そしてそこにはさすがに法律家らしく、真実を見極める目が曇らないように、彼なりの「けじめ」を設けているように思える。その「けじめ」のラインが実に絶妙、というか、誰にも納得できるようなものなのだ。それこそが、前段にも書いた「決してぶれない軸」というものなのだろう。そんな「決してぶれない軸」や「誰もが納得できるけじめ」というものを持った国会議員が、今の永田町に何人いることだろうか?
2006年09月16日
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今や大ベストセラーとなった『国家の品格』(藤原正彦著)を、遅ればせながら読んだ。前から気になっていた本ではあったが、あまりに売れ過ぎていることでかえって退いてしまっていたのと、タイトルから何か偏ったイデオロギーのような匂いを感じていたので、なかなかその気にならなかった。がしかし、読んでみるとそれは杞憂だった。少なくとも著者自身が特定のイデオロギーに染まっているような感じは受けなかった。ある新聞に掲載されていた読者の投稿には、「愛国心」を押し付ける現代の教育の後押しをするものだという批判があったが、そういった偏狭なナショナリズムに満ちた内容でもない。著者が言いたかったことは、欧米流の「論理」の波に晒されながら、今失われつつある日本古来の「情緒」と「形」、これを大切にしようということだと思う。でもこれはおそらく多くの国民にとって、のどから出かかっていたことではないだろうか?ただこういうことを口にすると、「グローバリゼーション」とか「国際化」とかが叫ばれている今の日本では、「時代遅れ」とか「国際化に逆行」するといった批判に晒されるに違いない、と思って言えずにいたということじゃないかと思う。ホリエモンの事にも触れているが、彼に代表される「拝金主義」を胡散臭いと思っていた人は多いだろうが、それを正面切って批判するのは自由主義経済に真っ向から異を唱えるようで、なかなか出来ることではなかったんじゃないかな。だからこの本を読んで「よくぞ言ってくれた!」と手をたたいた人は大勢いると思うし、その結果がこの本の大ヒットにつながったんだろう。とにかく書いてあることはいちいちごもっともなことばかりなのだ。特に教育現場では、スグにでも生かせることばかりだ。例えば「卑怯」という概念を小さいうちからアタマに刷り込んでおくだけで、陰湿ないじめなどはかなり減るのではないか。ただあえて注文をつけるとすると、『国家の品格』とはいえ所詮は日本人一人一人の品格の問題に帰結することだから、本のタイトルは『日本人の品格』とした方が、私のような変な誤解を生まずに済むかもしれないと思った。
2006年05月30日
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私の好きな俳優の一人に、児玉清さんがいる。いやひょっとすると「俳優」というよりは、クイズ番組『アタック25』の司会者としての方が、存在感としては大きいかもしれない。また最近ではラジオの人生相談のパーソナリティーとしてもご活躍だ。彼の役柄というと、優しさと厳しさをバランスよく兼ね備え、常に落ち着きをもって大所高所から全体を見守る、というようなものが多いが、おそらく実際の人柄も同じようなものじゃないかと推察される。単に「渋い」とか「かっこいい」いうのとはまた違って、私もあんな風にいい感じに歳を重ねていけたら、と思えるようなダンディーさだ。その児玉さんが書かれた自伝的エッセイ、『負けるのは美しく』を読んだ。俳優人生の入り口からのことがいろいろ記されており、若い頃は結構硬骨漢で周りの人に歯向かったり、というような意外な面も窺いながら、やはりちょっとグッときたのは、最愛の娘さんをがんで亡くしたくだりだ。この事実は以前にある週刊誌に掲載された彼の手記で知ってはいたが、そこで紹介されていて尚且つこの本に書かれていなかったエピソードがある。娘さんが病床にあった時、ドラマの出演オファーがあった。児玉さんは、こんなときに、と思って断ろうとしたのだが、そのドラマの主演がキムタクだと知った娘さんが、パパは絶対にこれには出るべきだ、といって譲らず、結果的に背中を押された格好で出演した。キムタクが検事役を努め、最終的に30%を超える視聴率をマークした『HERO』がそれだった。確かこんな内容だったように思う。娘さんがどういう意図で出演を強く勧めたのかは分からないが、そのときの娘さんの一言によって、私たちはあのドラマ全体を引き締める、包容力あふれる役柄の児玉さんに接することが出来たのである。ただいつも“いいひと”の役が多いので、たまには“ワル”を演じる児玉さんを観てみたい気もする。
2006年04月20日
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最近読む本といえばビジネスものか酒関係・趣味関係のものばかりで、小説などはトンとご無沙汰していたが、先日知人が読み終わったこの本を私に貸してくれた。上下巻あるその分厚さのボリューム感に圧倒されながらも、2ヶ月間かかって読み終えた。巻頭の登場人物一覧に掲載されている登場人物のあまりの多さにちょっと引いてしまったが、それぞれの個性が読み進むうちに自然とアタマに入り込んでくるから不思議だ。それと面白いのは、この作品を通しての主人公というのがが存在しないことだ。各章ごとにそれぞれバラバラに主人公が設定されているのだが、それらが相互にリンクし合って複合的に全体像を構築していく様は、なかなか興味深かった。内容としては、北朝鮮の精鋭部隊が福岡に上陸し、都市を制圧してしまうという設定だが、作者もおそらく相当綿密な取材をしたのだろう、一つ一つの描写に妙にリアリティーを感じる。近未来小説であり、ある意味荒唐無稽といえなくも無いが、そのリアリティーのおかげでいつこんなことが起こっても不思議には思えないというような錯覚に陥ってしまう。現実にはまず起こってほしくない事態ではあるが、ここに描かれているさまざまなシーン――――――――たとえば危機に瀕しても即座な対応の取れない政府、地方より中央を優先し福岡を封鎖したした首相の決断、互いの責任の擦り付け合いに終始する閣僚と官僚たち、目の前に迫った危機を直ちには受け入れられずポカンとしている平和ボケした市民――――――――どれをとってもまぎれもなく、現在の日本の姿なのだと思った。
2006年03月29日
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今、農口尚彦さんの『魂の酒』という本を読んでいる。農口尚彦さんというのは当代随一の名杜氏で、地酒ファンなら誰でも知っている石川県の『菊姫』で、永年杜氏を勤めておられた方だ。今は別の酒蔵で酒造りを続けておられるが、なにぶん現役の杜氏さんの生々しいお話なので、現場で働いている者でないと分からないようなことも多くて非常に興味深い。この本の中で、『菊姫』の当時の社長の商売の信条に触れられている部分がある。社長は杜氏である農口さんに対し、良い原料をふんだんに使って、とにかく良い酒を造るように指示した。みんなが頭を下げて買いにやって来るような良い酒を、だ。良いものを造る代わりに一切の値引きやサービスをしないという、ある意味「殿様商売」でもあったが、それは良いものを作るに当たっては一切の妥協はしない、ということの表れでもあった。。その当時は日本酒の消費量は右肩上がりで、とにかくどんな酒でも「造ったそばから売れていく」という時代だったから、あえてそんな努力はしなくても充分に儲けることができたのに、だ。しかしその後日本酒の消費量が落ち込み、同時に消費者の選別の目も厳しくなってくるに至って、当時の『菊姫』の社長がいかに「先見の明」を持っていたかは、現在の『菊姫』の地位を考えれば推して知るべし、だろう。とにかく良いものを造ることに全力を注げば、必ず他人に認めてもらえる、ということが言いたかったのだと思う。このことでふっと思い出したのが、一見全く異質な話かもしれないが、NHKの『紅白歌合戦』のことだ。『紅白歌合戦』は今年(あ、もう去年だ)は司会にみのもんた氏を起用して背水の陣で臨んだ結果、わずかではあるが視聴率を戻したと報じられている。しかし私に言わせりゃ、多少うわべの数字が良くなったからといっても、根本的には何も好転しちゃいないのだ。今に始まったことではないかもしれないが、このところの紅白は視聴率を気にするあまり、視聴者に過剰に迎合するきらいがあるように思う。その結果が、異常なまでの民放へのすり寄りと、人気本位の歌手人選、そしてなんだかよく分からなかった『スキうた』アンケートだ。こんな小手先の施策を続けていては、来年以降も先は見えている。今こそ紅白は方針を大転換して、とにかく「日本で最高品質の歌番組」を目指すべきだと思う。最近のように1曲ポンとヒットを飛ばせば出られるという安易な選考は改め、出場歌手を、ある程度の期間「人気」と「実力」を持続している歌手だけに厳選して、ハードルをうんと上げるのだ。確かにこうすることで、一時的に視聴率は落ち込むかもしれない。ただ「本当に良いものを作るんだ」という気概が、トップと現場の人たちの共通の認識として存在していれば、外野の騒音に耳を貸すことなく、腰を据えた番組作りが出来るのではないかと思う。要はこの姿勢を貫き通すことで番組自体のレベルを向上させて、歌手としてはどうしても出たい、視聴者としてはどうしても見たい、と思わせるようなステイタスを勝ち取ることが大事なのだ。残念ながら今の紅白にはそんなステイタスが微塵も感じられない。もともとNHKには、良質な音楽コンテンツを作るノウハウも、作ってきた実績もあるはずだし、第一民放と違ってスポンサーからのプレッシャーとも無縁だ。民放には絶対に出来ないような番組作りをやらなければ、NHKとしての存在意義が無いではないか。。
2006年01月09日
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いまやベストセラーになった『リッツ・カールトンが大切にする、サービスを越える瞬間』を読んだ。ひとつひとつのサービスの実例は読んでいて素晴らしいものと感じはしたが、如何せんわれわれの商売とは環境や条件が違いすぎるので、この実例をそのまま当てはめようとすると無理がある。ただだからといって、まったく役に立たないかといえばそういうわけではない。特に非常に共感できるのは、「サービスは科学だ」という考え方だ。リッツ・カールトンの初代社長のシュルツィ氏の言葉を借りれば、 「感動を偶然や個人の能力だけに頼ってはいけない。サービスは科学なのだから」つまり、優れたサービスの出発点はあくまでもスタッフ個々の感性だが、それを組織の仕組みにまでレベルアップして、スタッフ全員が共有することによって、すべてのお客に同じように高いレベルの感動を与えることができるというわけだ。その「サービスの仕組みづくり」が、われわれ辺りのところでは出来ていない。まだまだ個人の裁量だけに頼っているところが大きいから、早々に検討しなきゃ。
2005年10月24日
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『こんな市名はもういらない!』(楠原祐介・著)という本を読んだ。在野で歴史的地名の保存運動に関わっている著者が、近年の市町村合併に伴って目に余る安易な地名の付け方を断罪し、自分なりの対案を提示したりもしている。どういうものがいけないかと言うと、歴史的由来のまったく無い「イメージ先行型」のようなもの(例えば『南アルプス市』)はもちろん、複数の地名を合成したもの(例えば『国立市』)や、方位(東西南北)をそのまま区名などに用いたものもその対象だ。また比較的広い地域の呼び名を、その中の一部を占める自治体が名乗る「僭称(せんしょう)」にも厳しくメスを入れる。『北九州市』などがそれに当たるが、「地名」が本来持っている「地域特定機能」が損なわれるからと言うのが理由だ。そうやって全国の自治体名を総点検していくと、「本当にその土地の実体にふさわしい名称」というのは実は極めて少なくなる。古来からの歴史的地名と現代人の生活感覚との間にはあまりにもギャップが大きく、「そこまでカタイこと言わなくても.....」という気がしないでもないが、今まで日本人が歴史的な地名をいかにおざなりにしてきたか、という著者のメッセージは十分に伝わる。そう考えると地名に限らず、伝統的な風習や儀礼、あるいは方言など、時代と共に損なわれていくものは少なくない。日本人はこと「有形」のものに関しては、その保存に莫大な経費と細心の注意を払うが、「無形」のものにはそこまで掛けていないだろう(一応「無形文化財」というのもあるにはあるが)。「有形」のものは国家が主体となって護るが、「無形」のものは自治体か民間レベルに任せっきり、ということになってないだろうか。
2005年05月24日
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『茶色の朝』(フランク・パヴロフ他著、大月書店)を読んだ。早く言えば「如何にしてファシズムは台頭するか」ということを、例え話風に警戒した物語である。確かに今の日本を見ていると、いろんな所にファシズム化の萌芽らしきものが見られる。ただそれに対して今この時代に生きているわれわれは、戦後誕生した平和憲法もあることだし、今後何が起こっても今の日本が戦前のようなファッショ化に突き進む恐れは無いだろう、と高を括っている人がほとんどだろう。しかしここで、主人公のつぶやくこんな言葉が重くのしかかる。 「まるで、街の流れに逆らわないでいさえすれば 安心が得られて、面倒にまきこまれることもなく、 生活も簡単になるかのようだった。 茶色に守られた安心、それも悪くない。」つまりいざファッショ化の波が押し寄せようとしても、それが危険な波であることに気づかないまま、いつの間にかその波に弄ばれることに慣らされてしまっている、ということだ。そして気がついたときには手遅れになっているのだ。われわれもそうならないとは言い切れない。あるいはもしかしたら、今の日本にもその波は来ているのかもしれない。特に日本人というのは元来「右へならえ」という習性を色濃く持つ国民だから、そういう意味ではファシズムが浸透しやすいという土壌はあるのかもしれない。いやー、コワイ話だ(+_+)
2004年10月02日
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