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今月19日、厚生労働省が「健康に配慮した飲酒に関するガイドライン」というものを発表した。これによると、お酒に含まれる「純アルコ―ル量」ベースで、1日あたり男性40g、女性20gが適量であって、これを超えると生活習慣病のリスクが高まるという。ではそのアルコール量というのがどれほどのものかといえば、「20g」を基準に考えると、ビールならロング缶1本、日本酒なら1合、というところだ。まったく余計なことをしてくれるな、と思う反面、厚生労働省はそういうのが仕事なのだから仕方ないのだろう。ただ酒類行政を司るのは国税庁で、こちらはこちらで酒類の需要喚起に動いていたりするから、同じ国の機関で相反することをやっているのは、見ていて滑稽でもある。個人的には「酒」というものは食文化のひとつでもあるので、なんとか維持していきたいと思っているのだが....。
2024年02月28日
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相変わらずのコロナ禍で、飲食店に対する自粛要請が続いている。私の住んでいるところでは晴れて解除されたが、まだ大都市圏を中心に時短要請が続いている。私の記憶もあいまいで間違っているかもしれないが、飲食店への時短要請が初めて出されたのは、今年の正月明けに出された2回目の「緊急事態宣言」が最初ではなかったかと思う。人流を抑えるという点では、飲食店の時短はまあやむを得ないかな、と思っていた。ところがその後、4月23日に発出された3回目の緊急事態宣言において、まさに耳を疑うような信じられない話が飛び込んできた。「飲食店での酒類提供の終日自粛」これには開いた口がふさがらなかった。前代未聞のとんでもないことになったと思った。まあ私のところは対象外だったので、対象地域への同情の念くらいで済んでいたが、5月7日には、「まん延防止等重点措置」が当地も対象となって発出され、ついにわが身に降りかかってきた。この措置は当初5月31日までだったのが延長され、結果的に6月20日まで続いた。ウチの店は店頭販売に比べて飲食店への卸売りがかなりの割合を占めているが、その分の売り上げがこの40日間、ほぼゼロになるのだ。ノンアルコールドリンクなどの他の商材を提案していけばいいじゃないかと言われそうだが、そもそもお酒を提供できない飲食店は期間中休業するしかなく、売り先自体がほぼ無い状態だ。もちろん店頭で一般のお客さんに売る分が多少増えたところで、到底カバーできる金額ではなく、我々小売店には飲食店に対する協力金のようなものもなく、店の経営は大ピンチである。(一応県からの支援金は出ているが、飲食店への協力金に比べれば雀の涙みたいなものだ)今は「まん延防止等重点措置」も解除になり、得意先の飲食店の営業も平常に戻ったが、人の流れはまだまだ戻らず、経営的には依然として苦しい状態が続いている。ただ今回の様々な措置を通じて私が不満に思うのは、経営が苦しくなった恨み言だけではない。なぜ酒類を「一律」で自粛させたのか、ということに納得がいかないからだ。政府や自治体の言い分としては、「酒に酔うとつい声が大きくなったり、顔を近づけて話したりして、感染リスクが高まる」というようなことらしい。確かに飲食店で発生したクラスターはいくつかあった。それは認めよう。ただクラスターが発生した状況は限られており、それをつぶさに分析し対応策を提示すれば、何も一律に禁止させるには及ばないはず、と思うのだ。酒を飲むシチュエーションというのは様々で、狭い場所で大人数でバカ騒ぎする飲み方もあれば、一人や二人でしんみりと飲む人だっているし、その中間的なケースもある。要は飲み方の問題なのである。クラスターが発生するとしたら、それは感染対策がよほどずさんだったか、もしくは「飲み方」が悪かった、というだけのことではないかと推察される。イベントなどはコロナ初期と今とを比べると、当初すべて中止ということになっていたのが、感染に関する科学的な解析をすることで、上限を決めて開催OKというように変わってきた。コロナのことが分かってくるにつれ、状況はそうやって緩和されつつある。なのにこと酒に関しては、昨年まで全くなかった「一律自粛」という考え方が今年に入ってから出てくるというのは、どう考えてもこの流れに逆行している。クラスター発生を阻止するなら、発生の可能性が高い業種に絞って休業要請を出すとか、その他の店でも来店人数をあらかじめ絞ったりさせるなど、対策はいろいろ考えられる。店側の感染対策を調査して、不十分なところだけ禁止する、という手もあったはずだ。そういった施策を講じることなく「一律に」酒類の提供を禁じるというのは、言い換えれば「酒そのものを悪者にしている」ことに他ならない。それがどうにも我慢ならないのだ。さらに言えば、国の酒に対する姿勢にも一貫性がない。酒に関してはメリットもデメリットも両方あるというのは、いまさら言うまでもないことだ。で、今回の一律自粛措置では明らかにデメリットの部分をクローズアップしている。その結果居酒屋がバタバタつぶれたりして飲酒文化が廃れても構わないと思っているのだろう。しかし今年の5月末に報じられたあるニュースを、私は決して忘れない。東京都がまだ緊急事態宣言下にあり、飲食店での酒類の提供が禁じられている中で、東京オリンピック選手村内での酒類持込を容認するとの見解が出された。(→コチラ)まあ個人的には選手だって人間だし、お酒ぐらい飲んだっていいじゃないか、とは思う。ところがこの容認発言の根拠として「選手村は元々異なった国の選手同士の交流の場なので云々」というフレースが飛び出したのには呆れた。飲食店に対しては酒のデメリットを振りかざして謂れのない規制をしておきながら、オリンピック向けには酒のメリットを声高に訴える。これを二枚舌と言わず何と言おうか。さらにオリンピックに関してはもう一つ、これは結局後になって撤回されたことだが、当初禁止されていた会場内での酒類販売を限定的に認める、という決定も話題になった。どこかの誰かが横車を押そうとしたのかもしれないが、ことオリンピックなら例外的に考えてもいいのでは、といった空気も十分に感じられた。私はもともと今回の東京オリンピックは、誘致時点から賛成ではなかった。しかし決まった以上は仕方ない、穏便に開催してくれ、と思って今まで来た。ただここへきてコロナのまん延が深刻になってきても、「オリンピックだけは特別」といった意識が日を追うごとに大きくなってきているのに、苛立ちを感じてきた。そして私たち酒類業者の商環境がズタズタに壊され、先行きが全く分からなくなるに至って、それでもオリンピックを優先させてやっていこうという国の姿勢に、もはや堪忍袋の緒が切れた。選手たちは何も悪くないのは言うまでもないことだが、オリンピック関連の映像を見たりするとそのたびにはらわたが煮えくり返りそうで精神衛生上よくないので、今回のオリンピックからは距離を置こうと思っている。
2021年07月06日
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日本の瓶ビールや缶ビールには昔から製造日付が記されてきているが、大手の場合なら「年」「月」と「旬」、つまり「上旬・中旬・下旬」を示す文字が記されている。たとえば今日製造のものなら「2021.4中」という具合だ。その「旬」の記載が昨年のある時期から、メーカーの意向で順次省かれるようになってきている(樽生は継続)。これは我々酒販関係者にとっては、この上ない朗報だ。私たちが日々商品管理をする上で、日付の古いものから順に売るというのは鉄則だ。だからたとえ「1旬」であっても、順序を逆にしないよう気を配って陳列しなくてはいけない。また飲食店への納品時も然りで、冷蔵庫に収納するときには「1旬」でも新しいものを前にする。その労力がすべて「3分の1」になるのだ、どれだけ助かるか分かっていただけるだろう。ちなみに今回の一連の改革が消費者の不利益につながる、という論評をどこかで聞いたが、1旬違っただけで味の違いを言い当てられる人が、果たしてどれくらいいるのだろう?
2021年04月13日
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最近の日本酒業界を見ていて、顕著になっていることがひとつある。一部の蔵元や杜氏が、スターのような存在になっているのだ。もともと日本酒マニアにとって、それを造る人は“崇め奉られる”存在になっている。そしてメディアが発達している昨今、取り上げ方によっては必要以上に、派手に取り上げられたりすることも多い。しかも最近は蔵元も杜氏も若い人が増えてきている。女性も少なくない。今風の若者だから、イケメンでオシャレだったりもする。こんなこともその動きに拍車をかけているかもしれない。以前から全国に名の知られた“名杜氏”という人たちはいたが、そういうのとはまるで次元が違うハナシだと思わされる。まあ別にそういうことをきっかけにして、日本酒ファンが拡大するなら結構なことだ。ただその一方で、「スター蔵元」と「そうでない蔵元」との乖離を生みやしないか、そういうことも気になったりする。お酒に対しては常にフラットな気持ちで向き合いたい、これは日頃私が思っていることだ。同じことを日本酒ユーザーに求めるのは、ちょっと行き過ぎかもしれないが、“有名かどうか”というだけで、それを「飲むべきものか否か」という判断に直結させているとしたら、それはどうか控えて頂きたいと思う。無名で地味な作り手が造るお酒の中にも、それらに負けないくらい旨い酒はゴマンとある。
2018年01月14日
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私は現在、とある地酒イベントの運営に関わっている。先日その集客のために、ウチの得意先の企業を何社か廻った。各企業の、人が集まるようなところに、ポスターを貼らせてもらったり、チラシを置かせてもらえるよう、お願いするためだ。これくらいのことならどこも二つ返事で引き受けてくれるだろうと高をくくっていたら、半分ほどの企業からはやんわりと断られてしまった。しかも企業規模が大きいほど、断られる率は高かった。皆さん口を揃えておっしゃるには、「お酒のイベントだから....」つまり酒に酔って何か問題があった時に、会社として責任を負いたくない、ということだ。断られた企業のうちのひとつは運送会社だから、その理屈も分からないではないが、そうでない会社からもそういう反応が返ってきたのは、正直残念だった。いわゆる「コンプライアンス」というヤツなのかもしれないが、何だか社会全体が委縮してしまっているように感じる。酒に酔って何かあっても、個人の問題として片付けるわけにはいかないんだろうか?
2017年10月02日
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紙パックの日本酒が登場してからもうずいぶん経つが、いまだに「紙パック=安物」というイメージが染みついている。つまりそれだけ「瓶」に対する親和性は確固たるものだといえる。ではペットボトルはどうなのか?とある有名地酒専門店がこのほど、4つの酒蔵と共同でペットボトル入りの日本酒を商品化した。ペットボトルは特注品で、日本酒の品質を損なわないように設計されたものらしい。もちろん外見も、清涼飲料とは一線を画した、スタイリッシュなものとなっている。さて、果たしてこれが売れるのかどうか?一番の問題は、ユーザーの心理的バリアが取り除かれるかどうか、だろう。数年前からボージョレ・ヌーヴォーが、一部ペットボトル化しているが、いまだ主流になっているとは言い難い。この例を持ち出せば、ペットボトルの日本酒も前途多難かもしれない。しかし考えてもみて欲しい。かつて、「こんなものが売れるわけないだろう」と思われていたものが、現在では主流になっているものがあまりに多いことを。お茶といえば急須で出すものと考えられていたのが、今では客人にもペットのお茶を出す。清涼飲料全体で見ても、缶コーヒーを除けば、今はむしろ缶など少数派だ。消費者の感覚なんて、いつゴロッと変わっても不思議では無いご時世だ。ペットボトルの日本酒なんて....という違和感だって、いつ無くなっても不思議ではない。話は変わるが、現在日本酒は一升瓶がスタンダードだが、個人的には近い将来、四合瓶がそれに取って替わる気がしてならない。確かに一升瓶の方が、価格的には“割安”ではある。しかしあれこれ飲み比べてみたい人にとってみれば、少量サイズの方が理に適ってるし、夏場に生酒を買う場合だと、冷蔵庫に入らない一升瓶は都合が悪い。つまり、日本酒ユーザーの何割かが四合瓶にシフトしたとしたら、その時はもはや、瓶だのペットだのという次元を越しているかもしれない、と思われる。今、ペットボトルの日本酒が白い眼で見られているとしたら、それは一升瓶主体の市場だからだ。これが四合瓶主体の市場になってくれば、容器もドラスティックに変わる可能性がある、そんな気がするのだ。
2017年09月18日
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先日、何年かぶりに寝込むほどの風邪をひいた。幸い熱の方はわりとすぐに下がったのだが、その後しばらくはノドの腫れと咳が続いた。そんな折、とある蔵元からお酒のサンプルが届いたので、早速試飲してみた。ところがこれがひどい代物だった。これは毎年同じ時期に出される「季節限定酒」で、私も毎年必ず口にしているモノなので言ってみれば"定点観測"的な試飲である。だから毎年の違いがよく判るわけだが、今年のは例年に比べても飛び抜けて酷いと思った。しかしこの蔵のことをよく知る私には、これほど極端に味が落ちるとは信じられなかった。ところがそのサンプルの残りを今日試飲してみたところ、これが印象が全然違っていたのである。まあ、特別良いとは言わないまでも、ほぼ例年と同レベル、という感じだった。これでやっと解った、前回の試飲の時に不味く感じられたのは、直前にひいた風邪のせいだ。体調の悪い時に酒の味が違って感じられるというのは、よく知られた定説である。私もそれを知らなかったわけではないが、実際に今まで風邪をひいてる時に酒を飲むということをあまりしたことが無いので、気が付かなかったのだろう。ここまで顕著な違いがあるとは、正直思ってもみなかった。今回試飲した酒と、それを造った某蔵には、悪いことをした。昔から日本には「卵酒」で風邪を治すという"民間療法"まがいの風説があったり、「風邪なんか酒飲んで寝れば治る!」という精神論が跋扈したりしているものの、やはり風邪をひいたら酒は止めとけ、という意識が支配的だとは思う。私の妻なども、必ずそう言う。もちろんそれは、体を気遣っての発言なわけだが、私はこれをあえて酒の立場で読み替えてみた。風邪ひいてる時に飲む酒は本来の味じゃないから、それは酒に対して失礼だ!少なくとも味の良し悪しを判定するのなら、まずは己の体調を整えるべし!酒を売るプロとしての自戒を込めて.....。
2016年04月28日
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昨今日本酒の人気が上り調子で、販売する立場としてはありがたいことだ。その人気をある意味牽引しているのは、メディア、それも活字媒体だ。専門色の強い雑誌やムックのみならず、一般的な週刊誌にまで特集が組まれることも珍しくない。ただそういう媒体の特集記事の宣伝文句などを見て、げんなりすることもある。多くの媒体でよく使われるフレーズとして、「今飲むべき〇〇」というもの。まあニュアンスとしては、「今、これが人気ですよ!」という程度のものなんだろうが、読み手はそうは取らない。「これを飲んどかないと、話についていけない」「これを飲んどかないと、他の酒は語れない」等々、マニア心理がくすぐられることだろう。ただそれによって、愛好者の関心が一部の銘柄に集中してしまう、という弊害も起きる。日本人って基本的に“権威”に弱いからね。しかし言うまでもなく「酒」というのは嗜好品だ。百人百様の好みがあって然るべきだ。それを全く無視して「これを飲んどかないといけない」などと説くメディアには、酒の何たるかを根本から勉強してもらわないと困る、と思っている。
2015年12月05日
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先日、とある酒蔵の「蔵開き」に出掛けた。「蔵開き」とは、「蔵解放」とか「蔵まつり」などと呼ばれることもあるが、要は一般ユーザー向けのイベントで、普段なかなか入れない蔵の中に入れてもらったり、秘蔵の酒を販売したり、振る舞い酒をしたりするものだ。こういうところでは近所のお酒好きの方々や、日本酒ファンの方々で賑わう光景が見られる。私もよく一人でふらりと出かけては、そこで出くわした見知らぬ方といつの間にか仲良くなって、酒が紡ぐ縁で盛り上がるというのがお決まりのスタイルになっている。さて先日出掛けた蔵開きでも、そういうシチュエーションになった。ほとんどが地元の人だったが、他愛もない話で盛り上がっている中、やや異質な空気があった。私の近くに座っていたある男性が、いかにもマニアックな話を展開しているのだ。やれどこそこの蔵は方向性が見えないとか、どこそこの蔵は地元では評判悪いとか、アンタは評論家ですか.....(-_-;)一応皆さん、「ほー、そーですか」的に適当に相槌打っていたものの、明らかに周りの人たちも困惑しているのが見て取れる。話を聞いていると、日本酒好きが昂じてあちこちの蔵を訪ね歩いているという。飲んだ酒の数も、おそらく私なんかよりもはるかに多そうだ。そう、いわゆる“酒マニア”だ。こういう手合いの“酒マニア”、ウチの店にも時折出没する。彼らに共通する要素としては、「飲んだ酒の数、訪問した蔵の数、とにかく“数”を自慢のネタにする」「飲んだ酒の評価の基準は、“旨い、不味い”とか、“好き、嫌い”ではなく“良い、悪い”」「細かい酒質データとか、原料米や酵母の出自など細かいことにこだわる」「造り手へのリスペクトが感じられない」といったところが挙げられる。いや、別にそういう人がいたっていいのだ。ある意味そういう人たちも、今日の日本酒ブームを支えてくれてるわけだし。ただねえ、そういう話題はマニアばかりが集まる酒の会のような場で話すにふさわしく、一般の方がほとんどを占める蔵開きのような場では、明らかに場違いだ。ここはとにかく理屈抜きで盛り上がって、酒を楽しむ場なのだ。評論家などいらない。
2015年04月15日
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ずいぶん前にこのブログで、「シャンパン」と「スパークリングワイン」の違いについて書いた。あれから10年、やっぱりウチに来られるお客さんの基本的な認識は、あまり変わってない。相変わらず「シャンパンありますか~?」って言って入ってくるものの、話をしているうちに、実は求めているのは本物のシャンパンクラスのものではない、という方々が多い。だから私も、お客さんがそういう認識でいる、という前提で話をすることが多いのだが、それでも時折、本当に両者の違いをきっちりと分かった上で買いに来られる方もいるので、十把ひとからげに素人扱いするわけにはいかない。それでは、シャンパンとスパークリングワインの違いを分かっている人、そうでない人を、どのように見分ければいいのか、それはもう長年の勘に頼るしかあるまい。ただひとつ、ほぼ確実に言えることは、「この認識は年齢に比例する」ということだ。言い換えれば、年配の方ほどスパークリングワイン全般を「シャンパン」と言いたがる。で、私もその認識でいると、たいていその通りだったりする。そんなある日、店に70歳近いくらいの年配の女性がやって来た。そしてお決まりの「シャンパン、ありますか?」私はとっさに、これは違いを分かってない人だな、と判断し、1,000円台のスパークリングワインが並ぶコーナーへ誘導した。ところがその年配女性、「これはシャンパンじゃないわよね~」。.....うわっ、やられた! この人はちゃんと違いを判っておられる!まったく、人は見かけによらないものだな。
2015年01月20日
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地味ながら結構人気の高いのが、BS-TBSで放映されている「吉田類の酒場放浪記」。私も時折見ているが、なかなかに雰囲気の良い番組だ。ちょうど私の友人に、仕事であちこちに出張する機会の多いヤツがいるのだが、無類の酒好きである彼は、宿泊先で自分の嗅覚を最大限に活かして、この番組に出て来るような渋い居酒屋を探しては歩いているらしい。まさに“リアル酒場放浪記”だ。仕事で出張、など望むべくもない私にとっては、うらやましくて仕方がない。さてこの番組に出て来る居酒屋は、どこも足を運びたくなるようなところばかりだが、見ていると押しなべて、酒そのものにはあまりこだわってないようにも見える。いわゆる普通酒、もっと言えば、お品書きに銘柄名を載せずに、「燗酒」とだけ書いている、そんなノリのところ、といえば実感していただけるだろうか?だが私はこのところ、飲む酒は純米酒オンリーで、外飲みの時も純米酒を選んで飲んでいる。ただ断っておくが、私は「アル添酒など日本酒とは認めん!」といったような、バリバリの“純米酒至上原理主義者”のような立場にいるわけではない。よほど造りが粗悪なものを除けば、アル添酒もアリだと思っている。ただ私自身の体質なのだと思うが、アル添酒だとあまり量が飲めないだけのことなのだ。純米酒が飲みたければ、必然的に日本酒の品揃えの良い店に行かなければいけない。しかし「酒場放浪記」的な店の雰囲気は捨てがたい。このふたつが両立している店なら文句はないが、案外と無いものだ。私も地元を見回しても、両立している店はこれと言って思い浮かばない。単なる私のイメージでしかないのだが、「酒場放浪記」に出て来るような店の店主というのは、あまり細かいことに頓着しない、そういう風に見えるのだ。それはそれでいい味が出てるのだから、そういう人に日本酒の薀蓄めいたことも語らせたくない。そうなるともう、時と場合に応じて両者をうまく使い分けてくしかないようだな。
2014年11月28日
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今週の「カンブリア宮殿」のゲストは、今をときめく『獺祭(だっさい)』というお酒を造る「旭酒造」の桜井社長だ。『獺祭』は現在の日本酒業界で、最も注目を集めている銘柄のひとつだ。桜井社長は以前、「ほこ×たて」という番組で利き水に挑戦したことで一躍有名になり、『獺祭』の人気もそれを前後して急激に上昇していった。今も商品の供給が追い付かなくて、慢性的な品薄状態らしい。おそらく今回の「カンブリア宮殿」放映は、その状況に輪を掛けることになって、今度こそ本当に“幻の酒”化することになるだろう。日本酒の蔵元がメジャーなメディアに取り上げられるというのは、日本酒の魅力を多くの人々に認知してもらうという点では喜ばしいことだ。ただ結果的に、“獺祭マニア”を増やすだけで終わってしまう可能性もある。確かに『獺祭』は素晴らしいお酒で、それはもちろん私も認めるが、『獺祭』だけが旨い日本酒なのではない。どうも“○○マニア”的な人というのは、メディアで話題にならないモノは、世間でもてはやされているモノよりも劣る、という意識を潜在的に持っているのではないか(自分が意識していなくても)。もちろん現実はそうではない。『獺祭』が自分の好みに合わない人だっているはずだ。それを判断するのは、あくまでも自分の直感、感性、そして五感だ。「カンブリア宮殿」を見て、単に『獺祭』を手に入れたくなるというのではなく、「あ、日本酒っていいなあ」という気持ちを抱いてくれる人がひとりでも多くいてくれることを望みたい。
2014年01月14日
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ここ数年、目に見えて酒に強くなってきた。と、ここまで書いて、こういう場合は「酒に強い」と「酒が強い」のどちらが正しい言い方なのだろうか、と気になったが、要は意味が分かっていただければ問題ないので、ここはスルーさせていただく。だいたい一般的には、歳をとるにつれて「酒に弱くなってきた」という声をよく聞くので、私の場合その全く逆だということが、我ながら非常に興味深い。とにかく私は、酒屋の店主のクセに、酒に弱い。で、それが昔からコンプレックスでもあった。特に一時お酒関係の会社に身を置いたサラリーマン時代には、それはそれは辛い思いをしたものだった。今ではどうか知らないが、当時は「酒なんてのは訓練すれば強くなる」という、訳のわからない非科学的な理論がまかり通っていた。「アルコール・ハラスメント」などという言葉が生まれる、ずっとず~っと前のことだ。もちろん科学的に見ても、これには何の根拠も無いらしいから、よい子は絶対に真似しないで下さい。思い当るところは、無いではない。ひとつには、水をがぶがぶ飲むようになった。これは今、日本酒造組合が総力を挙げて(?)PRしている「和らぎ水」というのに相当する。とにかく飲み会の途中であろうがなんだろうが、水を挟む。それだけではなく帰宅してからも、できる限り水を飲む。要は水を大量に摂取することで、胃の中のアルコール濃度を薄めるというわけだ。これだけで翌日の目覚めは格段に違う、本当だ。実はこれは今や笑い話でもあるのだが、私は以前、飲んで帰ってくる道すがら、サッパリしたものが飲みたいなと思って、スポーツドリンク系の飲料を買って飲んでいたことがある。ところがほろ酔い気分で帰ってからしばらく経った後、猛烈な吐き気に襲われてきて、その後はトイレで便器を抱えるだけだった(汚い話で申し訳ない)。単純に考えれば何てことはないのだが、胃腸での吸収性の高いスポーツドリンクと一緒に、アルコール分まで一緒に吸収されてしまったわけである。これでは悪酔いしてもまったく不思議ではない。とにかく吸収されるアルコール分を如何に少なくするか、ということがポイントになるわけだ。これさえ分かれば、二日酔いなんてのも解消できる可能性は高まるだろう(もっとも極度に飲み過ぎてしまった場合は責任持てないが)。ただ私の場合、もともとが弱い体質なので、酒に強くなったといってもあまり大差はないかもしれない。一例を挙げると、日本酒の4合瓶を以前は4日間で空けていた(つまり1日1合)のが、最近では3日間で空けられるようになった。また瓶ビールも、以前は「中瓶」で手一杯だったのが、最近では「大瓶」が飲み切れるようになった。ま、所詮この程度の話ではある(笑)。
2013年08月26日
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ちょっと前の話になるが、どうかお許しいただきたい。食通の間でよく読まれている雑誌に、「dancyu」という月刊誌がある。この雑誌ではこのところ、毎年3月号では日本酒の特集をしている。今年もそうだったが、その中にひときわ目を引くコンテンツを見つけた。「脱『辛口の酒ください』のススメ」このタイトルを見たとき、思わず「わが意を得たり!」と、心の中で拍手喝采した。というのも私自身、このテーマについてこのブログの中で何度も書いてきたからだ。少々手前味噌ではありますが、もしお暇な方で、興味のある方がいらっしゃったら、ぜひご覧ください。2008年4月14日 『甘辛一辺倒からの脱却』2010年10月26日『辛口のお酒って、どういうの?』2010年10月28日『いつから「辛口」がいい酒になったのか?』2010年10月31日『「辛口」「甘口」に替わるもの』
2013年04月15日
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先日たまたまカーラジオを聴いていたら、往年のヒット曲『氷雨』が流れてきた。私自身、ずいぶん久し振りに耳にするナンバーだ。“もっと酔うほどに飲んで、あの人を忘れたいから....”ワンコーラスはこのフレーズで終わる。この曲が流行った当時は私も少年だったから、そんなものなのかなあ、くらいにしか思っていなかったが、今になって改めて聴くと、「何だかな~....(^^ゞ」と思ってしまう。確かにこういう酒の飲み方もアリかもしれないが、個人的には「何かを忘れるためのツール」として酒を利用してほしくはない、という思いはある。もっともこの曲に限らず、こと演歌となると、「あの人のことを忘れるために酒を煽る」といったようなシチュエーションは枚挙のいとまがない。それはつまり、日本人がこれまで酒というものをどのように利用してきたか、という歴史でもあるのかもしれない。話は変わるが、ウチの店にしょっちゅう来店される、あるお客さんのこと。まだ30歳前後くらいかと思われるが、顔色は悪く、げっそりと痩せている。いつも缶チューハイを1本レジに持ってきては、「もー、飲まなきゃやってられませんわ~」と、ひとしきりぼやくことぼやくこと。ブラック企業にでもお勤めなんだろうか?あまりにもネガティブなオーラが出まくりなので、本音ではお引き取り願いたいと思っているのだが、もちろんそんなことも言えない。この人もおそらく、「つらい日常を忘れるために」酒を飲んでいるのだろう。本来なら、「楽しむための」酒、「喜びを分かち合うための」酒、「味わうための」酒、であることが一番望ましいと思う。もしもそういうポジティブな心境じゃなかったとしても、せめて「傷ついた心を癒す」酒であってほしい。それが「酒の存在価値」だと思うのだ。もちろん一商品である以上、購入した人がそれをどう利用しようと、文句を言われる筋合いはないだろう。しかし、「酒の力を借りて云々」というネガティブな発想では、酒が可哀そう、酒を造る人が可哀そう、と思ってしまう。大手であれ中小であれ、およそ酒を造ることに携わっている方々としては、いかに楽しく美味しく飲んでもらうか、ということに心を砕いているはずだと思うから。もちろんこの延長線上で考えれば、イッキ飲みなどして急性アルコール中毒で病院に担ぎ込まれる、などというのは、もはや許し難い行為だ。
2013年02月23日
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ボージョレ・ヌーヴォー2011の航空便が、今日ウチの店に到着した。タイミング的にはほぼ例年通りだ。ところがこれを運んできてくれた運送会社のドライバー氏には少々意外だったのか、「これって解禁前に飲んだら、罰せられるんですか?」という疑問を私にぶつけてきた。もちろんそんなことで、どこかから罰せられることなど無い(大っぴらになれば問題にはなるだろうが)。そのように答えると、ドライバー氏曰く、「へぇー、僕だったら絶対すぐに飲んじゃうだろうな~」なるほど、業界外の方はそういう発想なのだな、と思ったが、私にとってはまったく考えてもみないことだった。とにかく解禁日は厳格に守っている。飲食店への配達で、解禁日前日に持ち出すことはあるが、その場合でも日付が替わるまでは絶対に開栓しないよう、うるさいくらいに言い含めている。ひょっとしたら業界外の方には、あまりにも杓子定規すぎると映っているかもしれない。確かに私が前日にちょこっと口にしたところで、自分で言わない限り誰にも分からないだろう。しかしこのワインを産み出すフランスという国、そしてブドウの栽培やワインの生産に関わる人々.......彼らへの敬意があれば、絶対にフライングなどする気にはならない。別にカッコつけるつもりはないが、本当にそうなのだ。
2011年11月15日
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先日の「発泡酒」、「第3のビール」の話で思い出したこと。以前にも書いたかもしれないけど、このネーミングが良くない。「発泡酒」は現行酒税法に以前から存在するカテゴリーだが、元々現在の“ビールもどき”商品を想定しているわけではない。「第3のビール」に至っては、酒税法にすらそのような名称はない(酒税法上では「リキュール類」に区分される)。誰がそんな名前をつけたのか、今となっては知る由もない。さすがにメーカー側は気が引けるのか、「新ジャンル」という呼称を用いているが、こちらの方がよっぽど分かりづらい。そこで私の提案だ。「発泡酒」は「準ビール」、「第3のビール」は「合成ビール」......これでどうだろう?いずれもその特質をズバリ端的に言い表していると思うのだが.....。
2011年09月25日
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もうすぐ「ひやおろし」の季節がやってくる。ひやおろしが日本酒業界の看板商品として認知されるようになって、どれくらい経つだろうか。その間我々は躍起になって、ひやおろしをアピールし続けてきたが、最近ちょっとした違和感を感じるときがあるのだ。いや、「違和感」と言ってしまうとちょっと違う、単に私の勘違いでもあるんだろうから。「ひやおろし」という酒はどういうものか、今一度説明すると、 「冬の間に仕込んで搾った新酒を、夏の間蔵のタンクの中で熟成させ、 秋になって外気温が酒の温度と同じくらいになり、 旨味が乗ってきた頃を見計らって瓶詰めするお酒」といったところが一般的な解釈だと思う。私もこの解釈に沿ってお客さんにその都度説明をしてきたが、どうしても「熟成」とか「旨味が乗った」というキーワードに重点が行ってしまうきらいがあった。実際に今まで私が気に入って品揃えした「ひやおろし」というのが、押しなべて熟成感があり、お燗に向いていたりするものがほとんどなので、どうしてもそうなってしまうのだ。ただここで注意しなければならないのは、「ひやおろし」と同じスペックで仕込んだ“通常商品”の方は、ひやおろしよりもさらに熟成期間を長く設けているので、熟成度合でいえばむしろ「ひやおろし」の方が軽めになる。ちょっと説明が分かりにくくなってしまったが、例えて言えば「新酒」が「AKB48」だとすると、「ひやおろし」は「吉瀬美智子」、「通常商品」は「木村多江」あたりだろうか。要は「ひやおろし」は「通常商品」に比べて若々しいはずなのに、説明上どうしても「熟成している」ことに言及してしまうわけだ。そこにひとつのパラドックスが生まれてしまう。しかし考えてみれば、昔は「しぼりたて新酒」の市販酒なんてなかったわけだから、「ひやおろし」がその年の「新酒第1号」だったわけだ。だから昔の人は「ひやおろし」をことのほか珍重したのだ。言ってみれば、「ボージョレ・ヌーヴォー」みたいなものだな。よし、決まった!今年からのキャッチフレーズは、「日本酒のヌーヴォー」で行こう。
2011年09月05日
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「東北地方のお酒を飲んで、復興に協力しよう!」という気運が、このところ全国的に広がっている。私自身も基本的に賛同して、そういう理念に添った販売方法も考えている。ただそういった掛け声や、お客さんの側の盛り上がりだけでは、万事うまくいかないのが難しいところ。昨日、とあるお酒の卸問屋の営業マンと話をしていた時のこと。この問屋さんは、自分のところの取扱い銘柄の中から、東北の蔵元の商品をピックアップし、「ガンバレ、東北!」とばかりに売り込みを掛けているところだ。で、その営業マンが言うには、一部の蔵元で注文が殺到し、パンク状態になっているとのこと。なるほど東北の蔵元といっても、その大半はごくごく小さいところで、自分の身の丈に合った生産能力しか有していないところがほとんどだろう。しかもそういうところが被災してたりすると、生産能力はさらに落ちる。そんな状態だからしょうがないじゃん、と割り切ってもらえばいいが、せっかく皆さんに応援してもらってるのに、品切れじゃ申し訳ない、などと気にしてもらっては本末転倒だ。今のこの「東北の酒を!」という気運、ある意味「ブーム」と言えなくもない、そんな気もする。もちろん皆さん、純粋な気持ちで東北を応援しようとしておられる、それは痛いほど分かる。ただ、それならば、これから10年間、東北のお酒ばかりを飲めるかどうか?少々意地悪い質問になってしまったかもしれない。しかし東北地方の復興というのは、2~3年くらいで何とかなるものではなく、おそらく10年以上の長いスパンで考えなければいけないことだ。それが成るまで、東北を支えていかなければいけない、そういうことだ。しかしながら世の常として、ブームというものは短期的に収束する。今から2~3年経った時には、誰も東北のお酒なんて言わなくなっているよ、なんてこともあり得る。しかしそれではいけないのだ。長く支えていくためには、たとえ細くとも「続けていく」ことが大事だ。設備投資など端から考えない中小の酒蔵にとって、本当に必要なのは瞬間爆発的なニーズではなく、長期に安定したニーズだと思う。一時のブームのように東北のお酒に群がるのではなく、10年以上の長いスパンで東北のお酒を飲み続けられるよう、今はそれ以外にもあれこれ幅広く楽しんでてもいいんじゃないだろうか?
2011年04月21日
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晩酌で飲む分には問題ないことだが、いわゆる「つまみ」のハナシ。私は夕食後も店に赴かなければいけない都合上、ほぼ毎日「晩酌」ができないでいる。じゃあほとんど酒を飲まないのか、というと実は逆で、ほぼ毎日何かしら飲んでいる。飲む場所は、閉店後の店内だ。もっとも“試飲”も兼ねているので、仕事の延長上ともいえるのだが、まあそんなことはこの際どうでも良い。ここで問題になるのが、何をつまみにして飲むかということ。これが自宅なら、夕飯の残り物とか、冷蔵庫に入っている惣菜類とか、いろいろ選択肢はある。しかし店にはそんなものは無い。まあビールの場合なら、「柿ピー」があれば充分だ。焼酎やウィスキーなどの蒸留酒でも、基本的にピーナッツ系でOK。ワインの場合も、チーズ&クラッカーなどでお茶を濁している。一番問題になるのが、日本酒だ。特に私自身、「日本酒は究極の“食中酒”だ」とブチ上げてる以上、「食事と日本酒の相性」ということに関しても研究していかなければいけない立場なのだが、それが出来ない状況なのだ。もっとも「つまみ」と呼べる商品も無いことはないのだが、ほとんどが“乾き物”の類ばかりで飽きてくる。しかし最近、こういったケースでの強~い味方を発見した。「スモークチーズ」がそれだ。それも専門店で売ってるような本格的なものではなく、そこいら辺のスーパーで売ってるような、ごく普通のものだ。これが日本酒によく合う。元々チーズというものは「発酵食品」だから、同じように発酵によって造られる日本酒との相性は、悪くないはずだ。ただチーズのクセが強すぎたり、日本酒の方が繊細すぎたりすると、どうしてもチーズの風味の方が勝ってしまうのだが、私が日頃好んで飲んでいるのが、熟成系の純米酒だったりするので、そのあたりは心配ない。それに「燻製された」スモークチーズだと、日本酒の中でも熟成の深みを持つものを選べば、自ずとバランスは取りやすいだろう。逆にちょっと軽めの純米酒ならば、カマンベールチーズを合わせる、という選択肢もある。こうなると、チーズと日本酒の相性は無限大に思えてくる。皆さんもどうぞ一度お試しあれ。
2010年12月25日
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お酒の味の表現でよく、「飲み飽きのしない酒」というのがある。しかしこの文句を聞くたびに、私は首を傾げてしまう。いや、言わんとしたいことというか、ニュアンスは何となく分かるのだ。しかし「飽きる」という行為は、あくまでも個々人の“主観的”なものであって、普遍的なレベルで「万人が飽きることが無い」モノなど、この世には存在するワケがないのだ。どんなモノでも、飽きる人は飽きるし、飽きない人は飽きない。もっともこんなことでイチャモンをつけるというのも、大人気ないかもしれないが、元々実態の掴みにくいことゆえ、あまりいい加減な表記はして欲しくないと思うのだ。そしてコレをお読みの皆様にも、あまり根拠のない表現にゆめゆめ惑わされませぬように.....。
2010年11月16日
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(続き)では現在、あえて「甘口」だと名乗っている日本酒はどれくらいあるだろうか?すべての商品を把握しているわけではないが、私の知っている限りでは、「四段仕込」とか「貴醸酒」等のような特殊な造りのものを除けば、ほとんど無いに等しい。不本意ながら「日本酒度」の数値を参考にしても、今市販されている中で日本酒度が「マイナス」を示しているものも、それほど多くはないだろう。ということは、そういう面で見た場合、現在市販されている日本酒は、そのほとんどが「辛口」だということになってしまうし、それでは「甘辛」の尺度自体、何の意味も持たないことになってしまう。だから今、普通に市販されているお酒を前に、「辛口はどれ、甘口はどれ」なんて言っていても、あまり意味がないように思う。そういうことだから、そろそろ「辛口」「甘口」の世界から抜け出してもいいんじゃないだろうか。「辛口」「甘口」という言葉自体は否定しないが、すべてがそれで決まるような安易な状況を、少しでも変えていきたいと思うのだ。もっともお客さんの側には、長い期間にわたって刷り込まれたイメージが根強く残っているから、まずは提供する側、つまりメーカーと我々売り手の方から、発想を変えていったほうがいいだろう。味の表現方法もいろいろあるが、端的にひとことで済ませるのであれば、「軽い」「重い」という尺度を用いるのが無難かと思う。ちょっと語感が悪いかもしれないが、それならば「スッキリ」「コクのある」と置き換えてもいい。お客さんにとっても決して分かりにくい表現ではないと思うし、ある程度数字を見ても現実との乖離は少ないと思う(少なくとも「日本酒度」よりは)。数字というと具体的には「アルコール度数」「酸度」「アミノ酸度」になるが、日本酒をそれなりに扱う酒店店主なら、これらの数値を見たら、ある程度の「軽重」の状態は判断できるはずだ。店頭での説明と数字的なイメージ、そして実際に封を開けて飲んだときの印象、これらがバラバラでは、結果的に日本酒に対してマイナスイメージを植え付けかねない。逆にこれらがピッタリと符合すると、またさらに新しい楽しみが生まれるかもしれない。だからこそこれからは、より味の実態に即した言い回しが求められるだろうし、私に言わせれば、それは「辛口」「甘口」ではなく、「軽い」「重い」なのだ。もちろん他の案も有って然るべきだが、要は現状でいいのかどうか、業界を挙げて考える時ではないだろうか、ということが言いたいのだ。p.s.ところで今になって思い出したのだが、以前も同じようなネタでこのブログに書いたことがあった(→『甘辛一辺倒からの脱却』)。よかったらそちらもご覧ください。
2010年10月31日
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「三増酒」という言葉はご存知だろうか?正確には「三倍増醸酒」といって、戦後の米不足の時代に何とか酒を造ろうとして、仕込んだもろみにアルコールを添加し、それをさらに水で延ばしたもので、本来の3倍の量が造られることから、このような名が付いた。ところが米の流通が正常に戻っても、一度こんなデタラメな造りで旨味を知った製造業者は、その後もこの方法で造り続けたのだ。ところでこの「三増酒」を造る場合、アルコールを大量に添加することで味が偏ってしまうので、味を整えるためにそこに「醸造用糖類」といったものを添加する。「糖類」だから当然甘い、ということで、戦後から一貫して日本酒業界で大量に売られていたものは、いわゆる「甘口」だったと言えるのだ。そうなると「醸造用糖類」を入れていない“まっとうな酒”は、相対的に「辛口」となる。つまりある時期までは、「醸造用糖類を入れていない酒」=「いい酒」は辛口、と相場が決まっていたきらいがある。それがいつの間にか日本人の頭の中に刷り込まれて、「いい酒」=「辛口」といった安直なイメージが横行した、と私はみている。メディアでも「本格辛口」などといったように、辛口を礼賛するようなコピーを連発したので(菊正宗のCMなんかもこれに当る)、余計にそのイメージが膨らんでいって、もはや「甘口の酒が好き」などと言おうものなら、「オマエは酒飲みじゃねえな!」とバカにされかねないような状況になってしまった。そして時は流れて、今やよほどの安物パック酒以外に「三増酒」を見かけることは、かなり少なくなった。それでも「いい酒」=「辛口」というイメージは、相変わらず日本人の頭の中に染み付いたままだ。誤解の無いように断っておくが、もちろん中には自分の舌に絶対の自信を持った上で、あえて辛口を嗜好する方も居られると思うが、それはそれでもちろん何の問題も無い。またそうでなく、ただ単に盲信的に「いい酒」=「辛口」と思っている方が居られたとしても、別にそれを責めるわけでは無い。ひとえに今までの経過(↑参照)が不幸だったというだけのことに過ぎない。でもとりあえず「三増酒」が激減し、造りの良いいわゆる「特定名称酒」(この言い方も嫌いなのだが)が市民権を得てきた今の時代、「甘・辛」をこのままにしてていいのか、もっと他の尺度は無いのか、というところが焦点になってくる、かもしれない、いいや、そうしなければいけないと思う(続く)。
2010年10月28日
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私はお酒の「辛口」というのがよく分からない。というかもっと具体的に言うと、お客さんが「辛口のお酒ください」とか、「やっぱり日本酒は辛口に限るね~」などと言われるときの「辛口」という表現が、一体どういうものを指すのか、どうもよく分からない。同時に、私が通常日本酒を飲むときに、「コレは巷の方にとっては、辛口になるのか甘口になるのか....?」ということも考えたりするが、そういう時も明確にどちらとは言い難い。実際に私がお客さんから辛口のお酒をリクエストされたときに、選んだ銘柄をお客さんが飲んで、「全然辛くなかったよ」と言われたことも2度や3度ではない。一般的に日本酒の甘辛は、「日本酒度」が指標になっていることが多い。これは日本酒に含まれる「エキス分」の濃淡を示すもので、「エキス分」とは具体的には糖分とかアミノ酸などだ。水と同等の状態を「1」とし、それよりもエキス分が多い=甘口であれば「マイナス」、エキス分が少ない=辛口であれば「プラス」、という数値が得られるわけだ。今のところコレが「甘辛判定」の唯一の拠り所となっているようだが、だからといって、日本酒度が「プラス4」の酒が、「プラス2」の酒の2倍の辛さである、などということではない。私たちもお客さんとの会話の中で、この日本酒度の数値を持ち出すこともあるが、決してコレが絶対的な基準だとは思っていない。例えば「アルコール度数」や「酸度」といった数値にしても、それが高ければその分「辛口」に感じやすい要因にはなりうる。またすべて数値通りの味になるかといえば、それもまた何とも言えないハナシで、例えば日本酒度が「プラス10」といった「大辛口」に区分される様な酒を飲んでも、それほど辛さを感じなかったり、逆に日本酒度がマイナスの酒を飲んでも、それほど甘く感じなかった、などという声はよく聞かれる。要するに「甘・辛」という味覚の基準も極めて主観的なもので、客観的に計ることは難しいのだ。そういう前提に立てば、お客さんの言われる「辛口」が私にとって分かりづらい、という私の悩みもあるいは理解していただけるかと思う。ではどうして皆さん、そう「甘・辛」にこだわるのか?その背景にはこれまで日本酒が歩んできた歴史が深く関わっていると思われる(続く)。
2010年10月26日
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今度の日曜日には法事で東京へ行く。日帰りなので、もちろん新幹線利用だ。そしてその日は店の方も全休の予定にしていて、帰っても店に出なくてよいので、心置きなくアルコールを摂取することが出来る。さしあたって帰りの新幹線では、崎陽軒のシュウマイ弁当なんぞをつまみながら、ビールの1本も飲みたいところである。と、ここで問題が発生した。いや、「問題」というほど深刻なものではないのだが、私にとってはちょっと考え込むに値することだ。私は以前の記事にも書いたことがあるが、缶ビールにそのまま口をつけて飲むのは嫌いだ。家で飲むときは、必ずグラスに移して飲む。もうかれこれ何年になるか思い出せないくらい、缶からダイレクトに飲んだことが無い(それだけアウトドアで飲む機会も無いということか)。しかし新幹線の車中という状況下では、グラスを使用するというのはちょっと難しい。かといって、それだけの理由でビールを断念すると言うのもイヤだ。というわけで現時点で考えているのは、思い切って日本酒とかワインなど他の酒類にスイッチするか、あるいは前もって紙コップを購入して持参するか、そのどちらかだ。ただ日本酒やワインにしても、結局はその容器のことでいろいろ思い悩まなくてはいけないだろうから、現時点では「紙コップ案」が優勢である。しかしこれをご覧の方には、「何をコイツはしょうもないことで悩んでいるんだ!?」と呆れられているんだろうな、きっと(笑)。
2010年09月30日
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このところ、ロゼワインにブームの兆しがある。コトの起こりは今年の夏、ロゼワインの氷を浮かべた、「ロゼ・オン・ザ・ロック」という飲み方が提唱されたことだ。もともとロゼワインというのは赤や白に比べて、どちらかと言えばカジュアルな色合いの強いものなので、そういう飲み方をしてもあまり「邪道」呼ばわりされることもないのだろう。そして昨日の「中秋の名月」に合わせる形で突如浮上してきたのが、「満月ロゼ」。なんでも「満月の夜にロゼワインを飲むと、恋の願いが叶う」というジンクスがあるというのだ。そんなジンクス、どこから来たモノかサッパリ分からないが、なにやらこじつけっぽく聞こえなくもない。そう思って調べてみると、どちらも仕掛け元は、あの「イオン」だというではないか。しかも「満月ロゼ」に関しては、テレビCMまで作られているのだ(→コチラ)。これで一気に興ざめしてしまった(笑)。もっともこれらがきっかけになってロゼワインの認知度が高まってくれれば、我々としても商売的にはプラスになるだろうから、望ましいことには違いない。しかしながら私としては、何だかとても面白くない。私も数年前には、当時赤ワインの前に限りなくカゲの薄くなったロゼワインを盛り上げるべく、キャンペーンを打ったことがあった。「ロゼワインを持ってお花見に行こう!」というのと、「一家に一本、辛口ロゼ」というのがそれだ。確かその時にはいくらかのお客さんの間では反響があったが、もちろん吹けば飛ぶような小さな店でのこと、巷にブームを巻き起こすというところまで至るわけもなく、そのうち次第に忘れられていった。もちろん私のところとイオンのような大きな存在を、同列に見るのは無謀極まりないことだが、私があれだけ必至でやった実績が、今回イオンが起こしたムーブメントの前では、米粒ほどの存在感でしかないというところに、限りない脱力感を感じてしまうのだ。もっとも、だからと言って挑戦は止めないけどね。
2010年09月23日
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先日、某大手メーカーの国産ワインをサンプルとして1本頂いた。上代700円程度のものだそうだ。この程度の価格帯だったら、どうせ薄っぺらな味なんだろうな、ということで、あまり期待しないで飲んでみた。一口含んでみて、おやっと思った。それなりのコクがあるのだ。これはひょっとしたら侮れないのかも、と思いつつ飲み進んでいったが、やっぱり期待は落胆に変わる。何て言うか、ジューシーなんだけど深みが無い、そんなところだ。別な言い方をすると、濃厚なブドウジュースにアルコールを添加したような感じ、なのだ。ここで思い出したのが、一連の「第3のビール」的商品の数々。最近は各メーカーとも、「コクがある」ということを機軸に打ち出している。これはおそらく、「ビールもどきだから薄っぺらな味だろう」という消費者の先入観を欺いてやろう、というメーカーの意気込みの表れだと思う。しかしこれもやはり飲んでみると、最初こそは飲み応えを感じるものの、飲み進んでいくとやっぱり「まがい物」でしかない。もっとも所詮嗜好品だから、これらの商品の味を気に入って、おカネを出して買うという人が大勢いること自体は、別に悪いことではない。ただ率直な感想として思うことは、日本人の技術は、うわべの味わいを取り繕うことに関しては、天才的な領域に入ってきたなあ、ということだ。
2010年06月16日
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最近ちょっと変わったお酒の飲み方を試している。どういうことかというと、「原料を見ながら飲む」ということだ。日本酒を飲むときに米粒を見つめながら、ワインを飲むときにブドウの実を眺めながら、といった具合だ。どうも私たち現代人は、様々な食品や飲料が造られる過程を、頭では分かっていても実感として感じられないことが多い。例えば日本酒の原料が米だということは誰だって知っていても、それがどういう過程を経てあの馥郁たる飲み物になるのか、具に見たことのある人は少ないはずだ。だから実感としては、何となくタンクからじょろじょろと出てくるところか、あるいは大手メーカーの瓶詰めラインくらいしかイメージが湧かないかもしれない。でも目の前に米粒があって、これが今飲んでいるこのお酒になるのだ、と考えると、詳しい過程は分からなくても、ああ、この一粒がいろんな旅を経てこの透明な液体になっていくんだな、と感慨に浸ることが出来る。そうすると飲んでいるお酒の味が、ひと味もふた味も変わってくるというものだ。バカバカしい話かもしれないが、よかったらぜひお試しあれ。
2010年03月28日
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以前から何となく、「ビールは比較的酔いが回りやすいのではないか」ということを感じていた。しかしこれといった根拠があったわけではなかったので、多分に気分的なものだと割り切っていた。しかし綿密に計算すると、意外な事実が見えてくるのだ。私は「リカーマン」などと名乗っているわりに、その飲酒許容量は意外と少ない。要するに「酒に弱い」のだ。ビールで500ml缶1本、日本酒なら一合(180ml)、ワインならフルボトルを3回で空けるから250ml、このあたりが限界だ。もちろんそれぞれのお酒はアルコール度数が異なるから、当然ながら同じ土俵で比べるわけにはいかない。そこでまず、アルコールそのものの質量に変換して比較してみることにする。私の限界がビールなら500mlということは、ビールのアルコール度数はおよそ5%だから、その中に含まれるアルコール量は「25ml」という計算になる。つまり私の摂取アルコール量の限界は「25ml」ということになる。ところが同じ要領で計算すると、アルコール度数15%の清酒180mlだと、そこに含まれるアルコール量は「27ml」、アルコール度数12%のワイン250mlだと「30ml」で、いずれもビールのそれよりも多い。これで私の仮説が実証されたわけだ。ただ、どうしてビールが酔い易いのか、その理由については残念ながら解からない。炭酸が含まれているからか、あるいはグイッと飲む一口分の量が相対的に多いからか、もしくは原料や含有物によるのか.......などとあれこれ考えてみるが、いずれも説得力に欠ける。もっとも、どうしても解明しなけりゃいけないことでもないのだが。
2010年03月17日
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『草食系チューハイ』なる新語があるようだ。チューハイの中でも、アルコール度数が低く、甘めの果汁を利かせた優しい味わいのものを、このように呼ぶのだそうだ。もともと私は「草食系男子」という言葉が嫌いなので、この『草食系チューハイ』という言葉についても、半ば斜に構えるように受け取っている。しかしこの言葉の生まれた背景を突き詰めていくと、昨今の飲酒事情が透けて見えてくる。私たちの世代が酒を飲み出す頃といったら、その入口にあったのはたいていがビールかウィスキーのどちらかだったように思う。しかし今この時代、若い人たちが好むのは圧倒的にライトなお酒で、その代表格がこれらのチューハイやカクテルだ。時々未成年飲酒の事件の報道をみると、その時飲んでいるのは決まってチューハイやサワーだったりする。もちろんこれらの商品を好むことが悪いというわけではない。ただ、皆が皆とは言わないまでも、その味わいの中に安住してしまいそうでならないのだ。昔の話題ばかり出して恐縮だが、私たちの頃は飲酒の経験値が上がるにつれて、あるいは可処分所得が上がるにつれて、もっといろんな酒を試してみたい、という欲求が大きくなっていったものだが、今はそうでもないようだ。以前ブログに書いた気もするが、今の若い層は酒にカネを掛けたがらなくなってきているし、酒そのものに執着心を持っている人も減ってきている。だから人生の入口で飲んだチューハイやカクテルの味から抜け出せずにいるのだろう。なったって「ビールなんてあんな苦いの飲みたくない」などと言っている子たちが結構いるそうだから。これは実に勿体無い、というか、リカーマン的には「危機的状況」だ。もっと若い人たちにもいろいろなお酒を試してもらいたいところだが、その下地が出来て無い状況では、かえって逆効果になりかねない。確かに嗜好品だから、人の好みを云々することも出来ないが、日本酒でもワインでも焼酎でもビールでも、どちらかといえばコクのある、重めのものを好む私としては、この現状を思うと寂しくてたまらない。
2010年02月25日
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先日倉庫を整理していたら、売れ残りのベルギービールが出てきた。ラベルを見ると、「賞味期限:2009年1月17日」と書かれている。ほぼ1年前だ。でも別に構わないや、ということで飲んでみた。美味しかった。胃腸がおかしくなるようなことも無かった。そりゃそうだ、同じ「醸造酒」のワインや清酒でも、1年前のものを普通に飲んだりするが、全く問題ないのだから、当然といえば当然だ(さすがに普通の国産ビールは同列には考えられないが)。じゃあ一体、この商品に付けられた「賞味期限」って何なんだ!?
2009年12月19日
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「ペットボトル入り禁止を」と生産地代表者昨日解禁されたボージョレ・ヌーヴォーに関して、このような記事(↑)が載っていた。少しでも軽量化を計り、輸送コストを下げることにより、少しでも販売価格を下げようということで、今年はペットボトル入りのボージョレ・ヌーヴォーを発売するところが出てきたのだ。これによって大手スーパーのPB商品には、1,000円を切るところまで出てきている。デフレもここに極まれり、といった感じだ。これに対してフランス側から抗議の声が上がったということだ。まあ文化が輸出される折に、自国の思惑から大きくかけ離れた扱いをされることは、普通によくあることだから、そこまで頑なにならなくても、という気もするが、それはさておいても、私にもペットボトルのボージョレ・ヌーヴォーは、非常に違和感がある。大手流通業界にとっては、経費を削減し、単価を落とすためには何でもアリというわけだ。しかしデイリーユースの商品ならいざ知らず、こんな「年イチ」商材までデフレの波にさらすとは、いったいどういう戦略なのか。ボージョレ・ヌーヴォーなんて、所詮日本では「お祭」であり、「縁起物」であって、言い換えれば「非日常的」な飲み物という捉え方が大半だと思う。こんなときぐらい、チマチマした節約志向を忘れるような消費行動を促してもバチは当たらないのではないだろうか、と思うのだが。
2009年11月20日
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宮崎・霧島酒造の限定販売の芋焼酎『赤霧島』が今日入荷した。年2回の発売で、入荷数が少ないこともあり、毎回瞬く間に売切れてしまう人気商品だ。ただ今回はいつもとちょっと様子が違う。明らかにいつもよりも反応が早いのだ。いつもなら入荷早々はお客さんからの反応はなく、ある程度のタイムラグがあってからお客さんからの問い合わせがあるものだが、今回は入荷日である今日の午後から、続々とお客さんがやって来る。そしてみんな口を揃えて言うには、「『赤霧島』今日入ってるって聞いたんだけど.....」。いったい誰に聞いたというのだ、確かにメーカーHPには出荷日が記載してあるが、それは今回に始まったことでも無い。しかもメーカー出荷日は昨日だから、本来なら昨日からそういう問い合わせがあってもおかしくないはずだが、昨日は全く聞かれなかった。これはおそらく、誰かがどこかで手に入れたという情報が瞬く間に、焼酎ファンや飲食店主たちの間を伝わったのだとしか考えられない。それだけみんなこの商品のことに関して、必要以上にアンテナを張り巡らせているという証拠だろう。しかし毎度のことながら、この『赤霧島』騒動にはホントに辟易してしまう。モノが無いから人気も上がる、といえばそれまでだが、『魔王』とか『森伊蔵』と違って普通にコンビニでも売られるような商品なのだ、それほど大騒ぎするほどでも無いだろうに。またこれを手に入れようと躍起になっている人のうちどれほどの方が、真にこの焼酎がそれだけ血眼になって捜し歩くほど価値のあるものだと認識しているのだろうか?私に言わせれば、確かに「不味い」ということは無いにせよ、いわゆる“紅芋系”の焼酎でこれ位のクォリティのものは、そこいら辺にゴロゴロしている。あえて「これでなければ!」というほどのシロモノではない。まあ焼酎に限らず他のジャンルでも、こういった例は枚挙に暇がないから、それこそ「日本人特有の習性」ということで片付けてしまわないといけないのかもしれない。それでも酒販免許を持っているがゆえに、この騒動に振り回され付き合わされる我々としては、たまったものではない。品物が少ないから、どうしても「1グループに付き1本」という限定販売をせざるを得ないが、中には「二人で来たから2本くれ」という方もみえる。事情を話して1本で我慢して頂こうとするのだが、時にはゴネられたり、悪態をつかれたりすることもある。特段お客さんに感謝されようと思っているわけでもないが、モノを売って恨まれるなどというのも哀しいことだ。どのお客様に売ればいいのか、という問題もある。どっちみち欲しい人全員には行き渡らないのだから、どうせなら当店への貢献度の高い方から売っていきたいところだが、そういう方から順番に来店されるわけでも無いから、それ以外のお客様にどう配分すれば良いか、そのあたりも結構気を遣うのだ。売れば売ったでそれなりの利益はもたらされるが、何かと気を揉むことも多いので、私にとってはあまり関わりたく無い商品だ、この『赤霧島』というのは。
2009年10月28日
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またまたこんな記事が出ていた。「お酒飲むほど乳がん高リスク 50歳前後の閉経後女性」お酒と健康の因果関係を探る研究は常にどこかで行なわれていて、その研究結果がこうしてたびたび取り上げられる。良い結果ならもちろん大歓迎だが、こういった悪い結果が大々的に報じられるのは、大変心外だ。一応専門の方々が行なった実験だから、それに関して素人があれこれ口を出すのは慎むべきだとは思うが、いざマスコミの記事になったとき、内容をあまり端折ってしまうと、ただのネガティブキャンペーンに成り下がってしまう。例えば今回の場合だと、「どんなお酒を」、「何時ごろ」、「どういった状況で」、「何と一緒に」飲んだのか、記事を見る限りでは、そのあたりの様子がまったく分からない。これらの要素は、何らかの形で研究結果を左右しないとも限らないものだと思うのだが。もっとも「大酒を飲むのが良くない」ということ自体は、特に反対しない。何事もホドホドが良いのは明白だから。しかしね、「1週間に日本酒換算で7合以上飲んでいると、発症率は全く飲まない人の1・74倍だった」とあるが、1週間に7合という量は、一般的に“大酒”とは言わないと思うよ。
2009年10月06日
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先日の山本謙治さんの本のことから続くハナシだが、彼が「日本の『食』は安すぎる」と言い切るその根拠は何か。それは彼が、あらゆる食物の生産現場に足を運んで、それを肌で感じていることだと思う。良いモノを作るところでは、当然ながらそれなりの手間ひまを掛けている。だから例えば、豆腐が一丁100円以下の安い値段で売られていることにも、「そんな値段で出来るはずがない」と敏感に反応するのだろう。これが生産現場を知らない人だと、常にスーパーのチラシに載っている値段しか頭に残らないから、たとえ100円であってもかえって高いと思ったりする。この感覚の差は大きい。そして私がこの“感覚差”を同じように感じているのが、日本酒業界なのだ。少なくとも私の知る限りにおいて、日本酒というのは世界中に数多あるアルコール飲料の中でも、その造り方の複雑さにおいては右に出るものが無いと言っていいほどの、優れたモノだと思っている。ただそのことを知る日本人は、案外少ないのではないだろうか。自国にこれだけ優れたモノがあることが知られていないのは、悲しいことだ。まあそれはともかくとして、その日本酒が造られる現場というのも、当然ながら非常に張り詰めた緊張感がある。何せ微生物相手の仕事だけに、人間の都合をそれに合わせていかなければいけない。しかもひとつ間違うと、すべてがパー、というリスクも背負っている。こういう現場を目の当たりにすると、1.8Lパックで1,000円を切るような価格で日本酒が流通していることが、俄かに信じられなくなってくる。日本酒なんてまともに造れば、そんな安価で出来るはず無いのだ。しかし現実には、まともに造られている日本酒の多くは、一般消費者からは「高い」と見做されている。もし皆さんに「その気」と時間がおありなら、ぜひ一度酒蔵(もちろん大手のオートメーションとかでない所)を訪ねて行っていただければ、と思う。もっとも酒造りの真っ只中の時期には、どこも忙しくて見学者に構ってもいられなかったりするので、実際に造りの現場を目の当たりにする機会はあまり無いかもしれない。その場合は疑似体験として、尾瀬あきら氏のコミック『夏子の酒』や『蔵人』をお読みいただいても、その大変さはよくお分かりいただけると思う。日本酒が如何に複雑な工程を経て造られ、その造りにおいて極度の繊細さが求められるものであるということを、ひとりでも多くの方に理解して頂ければ、リカーマンとしてもこの上なく嬉しいのだ。
2009年09月28日
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昨日は当ブログにちょくちょく来て頂いているかめともさんをお誘いして、某団体が主催するとある「酒の会」に出席してきた。どういった趣向かというと、まだ残暑の残る今の時期に行なうには、ひょっとしたら検討外れという見方をする人もいるかもしれない「燗酒」、それもオール「純米酒」の「燗酒」の会だ。確かに昨日は当地でも気温が30℃を越える暑い日であったが、燗酒を飲んでいてもまったく違和感はなかった。もちろん会場の空調がいい具合に効いていることもあるが、それだけでもなかろう。私も最近家で飲むときは、燗をして飲むことが多い。銘柄によって熱燗・ヌル燗様々だが、とりあえずお燗する。それはひとつには、胃にスッと入っていくような感じがあるからだ。つまり言い換えれば、「カラダに優しい」ということだ。そしてそれは翌朝の「酔い覚め」にも大きく関係する。ちなみに私は最近、二日酔いというものをまったく経験したことがない。もうひとつには、特に辛口の酒に言えることだが、舌に当たる刺激を和らげてくれるということがある。舌に刺激が残ると、一緒に食べる料理を味わうときの障害になりかねないが、それが緩和されれば、むしろ料理とのマッチングもグッと幅広くなるように思うのだ。例えば脂っこい肉料理や揚げ物、または中華などに、燗で合わせられる銘柄は結構あるが、では同じ銘柄を冷やで合わせられるかというと、それはそうとは限らないのだ。考えてもみれば、いくら真夏の暑い日だからといって、食卓に味噌汁が供されるとき、それが冷たく冷えた状態で出て来る家というのは、まず皆無だろう。それなら真夏に燗酒を飲んだところで、違和感など有るはずはないのだ(ちょっと乱暴な理屈だが)。とりあえずは「燗酒 = 寒い時期」という巷にはびこる固定観念を、何とか打破したいと以前から思っていた。しかし今回の「酒の会」に出席して、私と思いを同じくするであろう人たちが大勢いることを肌で感じて、非常に心強く感じた。日本酒の未来は明るい!
2009年09月07日
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昨日のブログで『アサヒジンジャードラフト』のことについて書いていて、ふっと思い出したのだが、皆さんは「発泡酒」と聞いて、いったい何を想像されるだろうか?『麒麟・淡麗』、『アサヒ・スタイルフリー』......などといった商品群のことだろうか?1990年代半ば、サントリーがこのジャンルの草分けとなる『ホップス』を世に出して以来、「発泡酒」といえば、「麦芽使用量が規定量以下のビール」の商品を指す言葉になってしまっている。しかしこの言葉は元々「酒税法」上での、あるカテゴリーを指す言葉であって、特定の商品群を指す言葉ではないのだ。話がいきなり飛んでしまって恐縮だが、酒税法上のカテゴリーとしての「発泡酒」は、うんと昔から存在している。ちょっと難しい話になってしまうが、正式な「発泡酒」の定義は簡単に言うと、「麦芽又は麦を原料の一部とした酒類で発泡性を有するもの」で、かつ「ビールの基準に満たないもの」、となっている。確かに『サントリー・ホップス』や、それに追随した各社の商品が出てくるまでは、このカテゴリーに該当する商品があまりなかった。私たち酒販業者が定期的に税務署に提出する「販売数量報告書」の中の、「発泡酒」の欄も、いつもだいたい空白だったからね。しかし該当商品がまったく無かったかといえばそうではない。1980年代後半以降、チューハイのブームをキッカケに低アルコール商品(女性をターゲットにしたような)がワンサカと登場しては消えていったが、そのなかにサントリーが発売した、その名も「ビアカクテル」というシリーズのものがあった。またビールなどが今のように廉売されていなかった頃、格安の輸入ビールが一時流通業界を賑わせたことがあったが、あのほとんどは日本の規定に照らし合わせると「発泡酒」扱いだった。何だか難しい話を引っ張り出してしまい、かえって解りづらくなってしまったかもしれないが、結局何が言いたいのかというと、本来多種多様なキャラクターのお酒を広く指す「発泡酒」という呼び名が、単なる“ビールもどき”商品の総称として、ごく一般的に認知されるようになってしまったことが、ただ気に入らないだけのことなのだ(笑)。
2009年08月24日
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画像にあるのは、アサヒビールから昨年10月に新発売された発泡酒、『アサヒジンジャードラフト』だ。日頃から発泡酒や「第3のビール」などについて、あまり好意的なことを書いていない私だが、この『アサヒジンジャードラフト』はなぜか気に入っていた。もっともジンジャーの風味はビールに対して、相性は悪くないと思う。ビールにジンジャエールを加えて作る『シャンディ・ガフ』というカクテルもあるくらいだからね。ただこの商品、他所のことは知らないが、少なくともウチの店ではサッパリ売れなくて、早々に定番から外してしまった。どうも昨今のビール及び“ビールもどき”商品群の中では、こういう「亜流的」商品というのは、あまり受け容れられないような雰囲気がある。「ビールに何かを混ぜる」ということに対して、抵抗感があるのかもしれない。あるいはこういう商品に手を出すのは、ビール好きの間では“軟派扱い”をされているのかもしれない。もちろん外国では、特に欧州においては、そういう飲み方は特に珍しくも何とも無い。先に書いたように、ビールをベースにした「ビアカクテル」もいろいろあるくらいだ。こういった類の商品が、もっとバラエティ豊かに存在して、普通に売れていたら面白いのにな、と思う。
2009年08月23日
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先日、某所で日本酒の試飲会を開催した。実はその場に出すべく、以前からとっておいた「サプライズ」商品があった。それは、京都・伏見の小さな酒蔵が造る「純米大吟醸」だ。まあそこそこ地酒に詳しい方なら、誰でも知っているようなモノなので、いまさら「サプライズ」でもないのだが、これがよくよく見ると........詰口日付の表示が「91.7」、そう、つまりこの酒は、今から18年前にビン詰めされたものなのだ。人間に例えると「高校3年生」ということになる。どうしてこのようなものがあるのか?実はこの商品、まだ私がこの店に入る前に、ウチの店で売れ残ったものを、倉庫の冷蔵庫の奥の奥にしまいこんでしまったまま、放ったらかしになっていたのだ。それを私が数年前に見つけたのだが、ひょっとしたら面白いことになっているかも、という期待感もあって、すぐに開けることをせず、それにふさわしい機会が巡ってくるのを密かに待っていたのだ。そしてその絶好の機会はやって来た。試飲会の最後にこの酒を出し、その謂われについて参加された方々に説明した。この時まで私は中身をチェックすることが出来ないから、ハッキリ言って多少の不安はあった。しかし開栓して、ビンの口から立ち上った芳香を鼻に捉えた瞬間、私の期待感が間違ってなかったことを確信した。会場の皆さんに振舞った。あちらこちらから「美味しい!」という声が耳に届いた。場が盛り上がったのは言うまでも無い。私自身はそのあとクルマに乗る必要があったので、その場ではあえて口にせず、帰ってから早速飲んでみた。この酒の元の味はよく知らないが、18年という歳月の割りには、基本的な味わいというのはさほど変わっていないのではないかと思えた。色ももう少し黄ばんだ、というか褐色がかったような色合いを想像したものの、色付きはそれほどでもなく、意外なほどにキレイな色艶を保っている。そして何よりも、熟成によって角が取れて味に丸みが認められるのが、非常に印象深い。やはり、キチンと造られたしっかりした酒を、理想的な環境で保管しさえすれば、劣化するどころか、逆に良い状態で熟成していくものだ、ということが実証できたようで、非常に嬉しく思った。ちなみにこれが保管されていた冷蔵庫は、常時5℃に保たれており、箱に入れられていたので光もまったく入っていない。昨今、日本酒も「賞味期限」が云々されるようになってきたが、そういうのとはまったく違った次元のハナシだ。酒は日付の新しい方が良い、ということを盲目的に信じている方がおられたら、ぜひとも味わっていただきたかった。
2009年06月15日
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以前、某所で開催された「日本酒を愉しむ会」に参加したときのこと。この会は主に一般消費者の方が対象となっているが、私も含め、ちらほらと酒販業の人間の姿も見られた。その中のひとりで、私も見知ったある方(仮にAさんとする)の振る舞いが、少々気になった。この会には何軒かの蔵元の方が来てみえて、それらのお酒をいろいろと飲み比べてもらおうという趣旨だ。テーブルの上には利き猪口がひとりひとつずつ置かれ、それを持って各蔵元のブースへ行き、お酒を注いでもらってくることになっている。しかしAさんは係りの人にお願いして、自分のテーブルに銘柄の数だけの利き猪口を用意させ、なおかつ、口をすすぐための水まで頼んでいた。要するに、“仕事としての利き酒”のための体裁を、自分のテーブルの上だけに整えたわけだ。せっかくいろんな銘柄のお酒を味わう機会だから、キチンと利き酒しないと勿体無い、と思ったのだろう。勉強熱心といえば、勉強熱心だ。しかしこれはある意味、「空気を読んでいない」行為だと私には映った。ここはあくまでも、「日本酒を愉しむ会」なのだ。業者の「利き酒会」ではない。私も日々、自らの研鑽のために利き酒をするが、そうやってお酒を飲むことと、愉しみでお酒を飲むこととは、まったく別物と割り切っている。しかしながらAさんは、周りの大多数が日本酒を“愉しんで”いるところで、一生懸命“お勉強”しているようなものだ。確かに誰に迷惑をかけているわけでもないから、非難されるようなことでもないのだが、少なくとも私には「場違い」なように見えた。私は“愉しむ”場では、勉強抜きにして愉しみたい、と思う。そしてその方が、より「消費者目線」で商品を見ることが出来るような気がする。
2009年05月08日
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またまた「酒」の絡んだ事件だ。こういう話を耳にするたびに、とてもイヤな気分になってしまう。当事者が今をときめく人気者だったこととか、酔った上での行為が極めて常軌を逸したものだったとか、そういった要素ゆえに過剰な報道がされているが、そんな報道に接する人達の中には、「やっぱりね」と言って酒を悪者にする人もいるだろう。それがたまらなくイヤなのだ。「酒は飲んでも飲まれるな」酒を悪者にしてもらいたくないリカーマンは、切に願っている。それともやっぱり「飲酒講習会」が必要かな?
2009年04月24日
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先日来ここに書いている「飲酒講習」のことに関連して、ふっとひらめいたことがあった。酒を「免許制」にするのだ。何を言っているんだ、お酒の販売はとっくの昔から免許制じゃないか、と言われるかもしれない。いや、私が言いたいのは、「お酒の販売」ではなく、「飲酒」の免許だ。もちろん、試験などは必要ない。ただ、講習会を受講しないと、免許は取得できない。講習会の時期だが、私が提案しているように、飲酒年齢が高校卒業直後に引き下げられるのなら、講習会は毎年3月中に開かれ、該当者は揃って受講する。もし現状のままであれば年間通じて随時行なわれ、各々二十歳の誕生日の1ヶ月前くらいに受講する。ちょうど運転免許の更新に行くようなタイミングだと思えばいい。その講習会では、酒についての様々な知識を叩き込まれる。たとえば、 ・身体に優しい酒の飲み方を伝授する、 ・急性アルコール中毒の事例を紹介する、 ・アルコールハラスメントのケーススタディ、 ・アルコール依存症の体験談を紹介する、 ・酒酔い運転事故の再現映像を見せる、 ・妊娠&授乳期の女性の飲酒影響について説く、 ・アルコールが原因で身を滅ぼした人の体験談(ex.中川昭一氏)などなど..........。そして受講した人に対して、その場で免許証が交付される。この免許証がなければ、酒を買うことも、飲食店で酒を飲むことも出来ない。逆に言うと、我々酒販業者は免許の提示を求めることで、今まで未成年と思しき者に対して行なっていた「年齢確認」をしなくても済む。また、飲酒運転をしでかしたり、酒に酔って犯罪行為に及んだ者は、もれなく免許取り消しになり、再び取得することは出来ない。免許証を未成年に貸与して酒を買わしめた場合も同罪とする。ふと思いつきで書き出したことが、ここまでつらつらと書いてくると、なんだかブラックジョークのネタみたいになってきた(笑)。まあ所詮は戯言だから、適当に聞き流していただければいいのだが............。あくまでもこんなことにならないように祈りたいものだね。
2009年02月18日
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現行法では、20歳未満の飲酒は禁じられている。お酒を提供する側や、一緒に居る大人がこれを見逃したりすると、もちろん法律違反である。そしてそれを遵守するために、お酒を提供する側は年齢確認などを日々行なっている。ただ実際のところ、それがどこまで厳密になされているかどうか、ちょっと疑わしく思えるフシもある。例えば、大学生のコンパだ。ストレートに大学に入学したという前提で言えば、2年生のコンパには19歳と20歳が混在していることになる。本来ならそのコンパが行なわれる居酒屋のスタッフは、参加者一人一人から身分証明書の提示を受けて、成人・未成年の確認を済ませた上で、さらに未成年が酒に手を付けないように、常に目を光らせておく義務があるはずだ。しかし、今私が書いたようなことを忠実に実践しているお店など、果たしてあるのだろうか?どう考えても、無理がある。また話は変わるが、プロ野球で優勝したときに行われる「ビールかけ」。ここに、高卒ルーキーが出席しているととかく問題にされるが、それも何だかナンセンスなハナシだ。今までは、大学生ならOK、という解釈が一般的だったと思う。同じように、高校を出て働いている人たちもOKだったはずだ。それが杓子定規な法律のおかげで、出来もしない年齢確認を遵守することを求められ、その結果今までの慣習(良いか悪いかは別にして)とそぐわない面が出てくるなど、いびつな現実が顕わになっている。それならばいっそのこと、法律を現実にそぐわせたほうが、どれだけスッキリすることか。例えば、「翌年3月31日までに19歳に達する者は、本年4月1日に解禁」ということにしたらどうか?つまり別の言い方をすれば、「高校を卒業(もしくはそれに準ずる)したその年の4月1日からOK」ということだ。これなら大学のコンパでも、会社の飲み会でも、まったく問題はない。ただ中には、「飲酒年齢をあえて下げるとはいかがなものか」という反論もあるかもしれない。確かに若年層に対するアルコールの弊害ということは、以前から言われていることではある。しかし現実の問題として、18・19歳と20歳とで身体機能が飛躍的に変化しているとは、とても言い難い。だから飲酒年齢を1年ちょっと下げたからと言って、それが社会的に大きな悪影響を及ぼすとは思えない。それよりもこうすることによって、昨日の記事に書いた高校における「飲酒講習」を、現実的な感覚の下に行えるというメリットの方が大きいと思う。「“成人”が二十歳のままでいいのか?」という議論も時折耳にするが、そのこと自体はさて置くとして、パッと見で判断が付きにくい「二十歳」という境界線を、あらゆる法律の拠り所とする考え方は、ちょっと限界があるんじゃないか、という気がするのだ。我々も日々年齢確認を行なっているが、その経験上から言っても、高校生と大学生は何となく見分けは付いても、19歳と20歳の見分けはほとんど付かないものだ。ぜひとも弾力的な法改正を、検討していただきたいと思う。
2009年02月16日
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中3の長男と話をしていたとき、今中学の保健の時間に、イッキ飲みの危険性について教えているということを聞かされた。え~、いくらなんでも中学生にはまだ早いんじゃないの、という気がしないでもないが、今まではどこもそんなことを教えなかったから、イッキ飲みなども普通に行なわれて、結果的に不幸な事故も多数起こった。とにかく教育現場でそういったことを教えること自体、昔に比べたら1歩も2歩も前進だと思う。たださらに言えば、飲酒にまつわる「害」を説くだけではなく、「正しいお酒の飲み方」なんてのも、高校あたりで教えるようになるといいんじゃないかな、と思う。もっとも、「何で教育の場で酒の飲み方など........」と訝られる方も居られるだろう。しかし今学校以外で、こんな肝心なことを教えられるところがないのが現状だ。本来なら子供が飲酒年齢に達した時点で、親が教えてやるのが理想だが、現代の親子関係の中でそれを期待するのも難しいかもしれないし、ましてや「酒を飲まない」親も多い。大学や職場に委ねるというのも限度があるだろう。高校卒業間際に、女子高生に対して「お化粧講習会」を開く学校も多いようだが、私に言わせれば、その代わりに「飲酒講習会」を開くべきだ。ただ「高校卒業時の年齢から飲酒年齢に達するまで、間が空きすぎる」という意見もあるだろう。確かに「酒を飲む」という行為は、高校卒業時から数えて早い子で1年ちょっと、遅い子だと2年近く後の話になるわけだから、実感として湧きにくいかもしれない。しかしこのことに関連して、私なりに思うこともある。(長くなりそうなので、以下は後日........)
2009年02月15日
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昨年あたりから、『ボージョレ・ヌーヴォー』もそろそろ頭打ちかな、という感はあった。なにせウチの店では、解禁日の当日はまだしも、翌日以降はほとんど買い求める人がいなくなっていたし、勢い込んで店頭に並べたスーパーやコンビニでも、大量の不良在庫が出ていたようだから。だから今年の輸入量が大幅減というニュースを聞いて、さもありなんと思った。そしてここへ来てまた気になるニュースが入ってきた。大手スーパーで解禁日を前に急遽値下げをするところが出ているようで、しかもその価格が1,000円台前半というではないか。円高差益還元、というのがその根拠らしいが、ちょっとありえない価格だ。ひょっとしたら、見込み仕入れした分が早々に捌けそうにないという空気を感じての「投げ売り」ではないか、とも思える。ただこうやって価格競争に突入するとなると、もはやブームとしては終焉を迎えたということに他ならないだろう。実際ウチの店でも、昨年は解禁日だけはそこそこ売れたものの、今年は解禁日当日(つまり、今日)でさえ、販売量はかなり寂しい。まあ負け惜しみで言う訳ではないが、『ボージョレ・ヌーヴォー』自体、そんなに全身全霊をかけて懸命に売り込むというような商材ではなく、そこそこのニーズがあるならせっかくだからウチで買ってもらおう、という程度のものだ。実際今まで見てきても、『ボージョレ・ヌーヴォー』をキッカケにワインの世界にのめり込んで、他のワインをいろいろお買い上げいただけるようになった方というのは、意外と少ないしね。『ボージョレ・ヌーヴォー』の購入者の多くは、1年間でこの時くらいしかワインを飲まない、という方だったりする。本当に「お祭」みたいなものだ。だから飽きが来れば、それで終わりになるかもしれない。そしてそれがちょうど今この時期かもしれない。ただこのブームにはサイクルがある。今のブームは2003年の「当たり年」からだ。その前は1990年代後半の、「ポリフェノール」に端を発する「赤ワインブーム」のとき。そしてさらに遡ってバブル絶頂期の1980年代後半、この時がおそらく最初ではなかったか。『ボージョレ・ヌーヴォー』もこうしてみていくと、もうそろそろここでブームも一段落して、また次なるブームの到来(歴史は繰り返す)までは、多少静かな状況になるだろう。まあ我々のように、毎年コレに携わる宿命の者にとっては、逆にその方が気がラクでもある。本当にコレが好きな者だけが、納得して購入して飲んでもらえばそれでいいのだ。
2008年11月20日
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森見登美彦氏の『有頂天家族』という本を読んだ。現代の京都を舞台に、天狗とタヌキと人間が入り乱れて繰り広げる、バカバカしい中にもタヌキの家族愛についホロリとさせられる作品だ。特に中盤からラストにかけての疾走感あふれる展開は、なかなかスリリングで面白かった。まあ今日は、ストーリーのことはさておいて.........。この物語の主人公(タヌキである)の兄弟全員が薫陶を受けた先生(天狗である)の名前が、『赤玉先生』という。もっともれっきとした名前は別にあるのだが、あることがキッカケで神通力が薄れて隠居して以来、『赤玉ポートワイン』ばかり飲んでいることから、このような呼び方をされるようになった、と説明されている。だが、ここにひとつ、モンダイがある。現代の京都を舞台にしているにもかかわらず、現在『赤玉ポートワイン』なる商品は存在しないのだ。えっ!?.....と思われる方もいらっしゃるかもしれない、しかし本当に無いのだ。もっとも厳密に言うと、かつてそう呼ばれていた商品が、今では『赤玉スイートワイン』という名前でサントリーから販売されているのだ。断っておくが、これをネタに作者を批判するつもりはさらさら無い、というか、ウチの店にも「赤玉ポートワインください」と言って買いに来られる方が、いまだに多いのだ。それだけ『赤玉ポートワイン』という名前は、日本人のアタマの中に深く浸透しているということが言えるだろう。ではどうして、『赤玉ポートワイン』が『赤玉スイートワイン』という名前になったのか?もともと「ポートワイン」というのは、ポルトガルで造られる甘口ワインのことで、おそらくサントリーがそれにあやかって名付けたものだろう(100年も前のことだ)。しかしながらことワインに関しては、様々な国内法や貿易規定に縛られている欧州のこと、当然ながらポルトガルから遥か離れた極東の地で、本場の「ポートワイン」とは似ても似つかぬものを、あえて「ポートワイン」と銘打って売っているのを見過ごすはずはない。そういうわけでポルトガル本国からの抗議を受けて、止む無く商品名を『赤玉スイートワイン』に変更したのが、1973年のこと。以来35年もの間ずっと『赤玉スイートワイン』として売られているにもかかわらず、いまだに『赤玉ポートワイン』と呼ぶ人がこれほどまでに多いというのは、よっぽど最初の『赤玉ポートワイン』のイメージが強かったんだろう。35年もの間、ずっと“旧称”で呼ばれ続ける商品なんていうのも、それが良いのか悪いのかは別にして、他にはまず見当たりそうにないな。
2008年11月17日
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先日書いた、長野の『川中島 幻舞』の蔵元さんのハナシの続きになるが、ひとつ印象に残ったことがある。それは、蔵の中での作業の中でも、特に昔から重労働であった部分の多くを、機械化しているということだ。日本酒ファンにとって、伝統的なことを良しとする風潮の根強く残る「酒蔵」という場においての、「機械化」という言葉はそれ自体、ともすれば嫌悪感の対象にもなりかねない。特に酒造りの伝統性を「ノスタルジー」とダブらせて考える人にとっては、ガッカリさせられることかもしれない。しかし酒造りの現場に目を転じると、何事もキレイ事では済まされない現実があるのも事実だ。どこの蔵元でも人材不足は深刻だ。杜氏さんはどこでも高齢化していく一方、あとを継いでいく人はなかなか出てこない。蔵人さんたちも同じだ。冬季のみの季節労働という雇用形態も、現代社会の中ではまったく馴染まない。ただ、ここへきて酒造りを志す若い人たちが出始めてきているのは喜ばしいことだが、如何せんまだまだ絶対数は少ない。そんな中で如何に人材を確保するか、如何に少人数でお酒を造っていくか、というのは、これからの日本酒の蔵元の大命題だろう。どれだけノスタルジックな飲み手でも、造る蔵元が無くなってしまっては元も子もないのだ。ただ何でもかんでもやみくもに機械化を図ると、結果的に大手企業と同じになってしまう。機械化することによって大量生産を図るとなると、必然的に杜氏の目の行き届かないところも出てくるだろう。やはり杜氏の経験と勘が判断に活かされるべきところは、従来どおりのやり方を踏襲し、反対に酒質に影響を及ぼさない部分はどんどん機械化していく、という使い分けはなされるべきだと思う。結局最終的に目指すべきは、“良質の日本酒を末永く後世に伝えていく”ことだから、その本質がブレない限りにおいては、機械化云々というのはほんの枝葉の部分でしかない、と思うのだ。
2008年11月05日
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「とっておきのワインを開けるんだけど、よかったら来ない?」レストランを営む私の旧友からそんな連絡が入ったのが、昨日のお昼過ぎ。彼はコレクターというほどの懲りようではないが、オールド・ヴィンテージを何本か所有していて、それをごくごく内輪の親しい友人を集めて、飲んじゃおうということらしい。ただウチの店は現在、配達要員の従業員がまだケガから復帰しておらず、なかなかおいそれと出られない状況には変わりない。それでもせっかくの機会だから何とかしたい。とりあえず、「仕事が片付いたら、すぐ行く」という返事をしておいた。さて仕事が終わって夜の9時過ぎ、急いで彼の店に駆けつけると、そこに待ってたのは『シャトー・ラトゥール 1976年』だ。『シャトー・ラトゥール』とは、ワインをかじったことのある方ならまず知らない人は居ないと思うが、フランス・ボルドー地方の「メドック」という銘醸地にキラ星の如く点在する、数多の有名シャトーの最高峰に位置する、通称『5大シャトー』の一角を占める銘柄だ。そしてそんなグレートなワインの、なんと32年前のヴィンテージで、彼の所有している中では最も古いものだそうだ。ただ私が着いたときには、もうグラス2杯分くらいしか残っていなかったが、心優しい友人が私のためにとっておいてくれた(感謝)。早速グラスに注いでもらったら、私の口から開口一番、「あれ、意外とキレイだね」という言葉が漏れた。普通30年以上前のヴィンテージの赤ワインなら相当熟成が進んでいて、色合いも鮮やかなルビー色からくすんだレンガ色に変わってきてるものだが、艶こそないものの、まだそれほど枯れた色合いにはなっていない。香りもまだ幾分シャンとして立っている。口に含むとやっぱり外観から想像したとおり、かなりの熟成感が有るわりにそれほど痩せている風でもなく、しっかりとした果実味を湛えている。よっぽど保存状態が良かったとみえ、上手い具合に歳を重ねてきているのがよく分かる。例えて言うなら、吉永小百合さんといった感じだろうか?ちなみにあとでヴィンテージチャートをチェックしたら、この年のこの地区は100点中84点が付けられており、まずまず良い方だったと言えるだろう。そんなこんなで極上のひとときを堪能した(ただ慌てて行ったのでカメラを忘れてしまい、残念ながら画像は無し)。参考までに同じ商品を今買うといくら位か、楽天市場でチェックしてみた。さすがに高いものから安いものまで何万円という開きがあるが、よほど例外的なものを除いた十数点の商品の平均を計算してみたところ、「50,550円」と出た。 【只今ポイント最大10倍開催中!】(~9月24日9:59迄)シャトー・ラトゥール[1976](赤ワイン)
2008年09月23日
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6月に研修で金沢へ行った折に、自分への土産として購入したものだが、いろいろあって開けるのが今頃になってしまった。。知る人ぞ知る『能登杜氏四天王』のひとり、元『菊姫』の名杜氏で、今は『常きげん』の鹿野酒造で杜氏を務めておられる、農口尚彦さんが醸した、まさに“芸術品”と呼べるお酒だ。一応「純米大吟醸」なのだが、世間一般に出回っている「標準的な」純米大吟醸とはちょっと違う。3年間の熟成期間を経て、熱燗にも耐えうる“骨太な”お酒に仕上がっているのだ。まあ私個人的には、熱燗よりもヌル燗の方が好きなので、そちらで飲んでみたのだが、さすがに3年寝かしてあるだけに、とにかく「角が取れて丸い」のだ。口に含むと、まるで蓮の葉の上を水玉が転がっていくような“コロコロ感”がある。そしてまたこの味わいの豊満なこと!ちょっとやそっとではへたれそうにない存在感が、口の中いっぱいに広がる。迫力だけではなく、まるで上品な和菓子のような奥ゆかしさも感じる。まさに至福のひと時だ。ところでこの『KISS of FIRE』というネーミング、蔵元による訳は「熱いくちづけ」となっているが、一体どんなくちづけを想定しているんだろう。私なりに想像してみると、例えば「伊東美咲」のようなエレガントなキスでもなければ、「堀北真希」のような初々しいキスとも違う。ここはやっぱり「小池栄子」のような、情熱的で濃厚なキスのイメージだろうか(知ってるのかよ!?)。ただ、お値段もそれなりにする。私が購入したところでは720ml1本で3,990円だから、そう滅多に飲めるものではないのが残念だ。 「ルイ・ヴィトン」が注目した日本酒常きげん 純米酒 Kiss of Fire 750ml
2008年08月31日
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先日の日曜日には日帰りで金沢へ、若手酒販店主の研修会に出かけた。先日の私のブログのテーマに合わせたわけでもないだろうが(笑)、今回は特に日本酒について、随分クローズアップされていた。中でもひときわ面白かったのが、北海道で地酒専門店を営まれている、酒本久也さんという方の講演だ。なんでも「一度飲んだ酒の味は忘れない」ということで、その真偽のほどは定かではないが、その確かなきき酒能力は、『夏子の酒』のモデルにもなったというから、大変なものだ。酒本さんは現在国内で消費される全酒類の中で、“国酒”たる日本酒の占める割合がたった7.6%でしかない現状を憂いておられ(ちなみにドイツ国内でのビール割合は約8割、フランス国内でのワイン割合は約5割)、これをせめて10%まで持っていきたいというお考えだ。そのためのいろいろな方策が考えられる中で、やはり最もKEYになるのは、『純米酒』と『お燗』だという。今まで日本酒業界は、フルーティーで香りのよい「吟醸酒」や「生酒」を普及させることに躍起になってきた。それはそれで一定の成果はあったかもしれないが、問題はその「持続性」なのだ。例えば酒本さんのお店では、吟醸酒のフルーティーさに魅せられたお客さんが、次第に白ワインに移行していくケースが、少なからず見受けられたという。それはすなわち、「フルーティーさ」というファクターでは、日本酒はワインにかなわないということを示している。そして以前もてはやされた「スッキリ」とか「さっぱり」という謳い文句にしても、同じことが言える。それらが日本酒固有の商品特性ではないから、それで気に入っても、後に続かないのである。ではどうすれば日本酒のファンの土台を大きくすることができるかと言えば、それはすなわち、「他の酒類には無い“米の旨味”を追求する」しかないのだ。そしてそれを実現する手段として、『純米酒』と『お燗』という切り口が最も有効である、ということだ。概ね私が日頃感じていることが裏打ちされたようで、非常に心強く感じた。その後場所を移して、石川県産酒の試飲会が催された。さすがに銘酒ぞろいの石川県だけあって、どの銘柄もレベルの高さを感じさせられた。帰りの電車の時間が迫っていたために、あまりゆっくりと試飲できなかったのが、少々心残りではあったが。先日のブログの中で私は、「酒販店主の一人一人が、“日本酒はまだまだ売れる”という意識に変わっていけば、消費者全体の意識も変わっていくのではないか」ということを書いた。まさに今回の話を、すべての酒販店主に聞いてもらいたいと思った。
2008年07月01日
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