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相変わらずの亀更新が続いている間に、ブログのレイアウトが変わっておりましたね。横長に。ちょっと調子を崩しましたがわりと早く持ち直し、いつも通り生きておりますです。「読書メモ」にメモしておきたい本がたまっております。どうして私たちは「明るく社交的で勤勉がよい」なんて思うようになったんだろう。それは人間の本性に根差したことなのか、それとも、現代社会のあり方が、単に私たちを規制しているだけなのか。コミュニケーションの進化の研究は、私たちがそもそもどんな動物なのかを知り、結局は何が幸せなのかを教えてくれるのかもしれない。(本文より)生物心理学、動物行動学、言語起源論などの研究者である岡ノ野一夫教授が、高校生に向けて「コミュニケーション」について語った講義をまとめたのがこの本。帯に書かれているこの本文からの抜粋が、本の内容をそのままに表していると思われます。非常に面白い本で、今もちょっとした暇に少しずつ読み返したりしています。動物のコミュニケーション方法やその行動から、やがて人の心を紐解く講義へと映っていくその講義に参加できた学生さんたちは、とっても幸運だったと思います。心から羨ましいくらい。コミュニケーションの起源を紐解くことで、言葉の起源、そして心の仕組みを解き明かしていく内容は、自分自身の今後のコミュニケーションや心を考えていく上でも、非常に参考になるものでした。といいますか、何よりわくわくして面白かったですね。こころを謎を解くということは、どうしてこんなに好奇心を刺激するんでしょう。自分を、ひとをわかりたいという動機の強さは、個人的な印象ではありますが、結構いろいろな行動への原動力となっている気がします。
2013年09月22日
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夏の暑さにバテておりましたら、いつの間にか3週間も更新があいていたのですね。だいぶ涼しくなって参りまして夏バテからも回復し、無事に生きておりますです、はい。やっぱり私、ほんとに暑いのダメですね。その場から1歩も動きたくなくなってしまいます。ただひたすらにクーラーの下にころがっていたい……そんなこんなで久しぶりの更新は、暗い映画についてでございます。実際にあったスノータウンマーダーという残虐な殺人事件をテーマにした映画です。主人公はおとなしく、やさしそうな少年。あるときこの少年は、隣人から兄弟ともども性的虐待を受けてしまいます。そんなある日、町にやってきたのが、ジョンという男性。明るく気さくで、いい兄貴分、という感じの男性です。主人公は徐々に、ジョンを信奉するようになるのですが、実はジョンは、身近にいる性的異常者を根絶しようと、次々に残酷な殺人を繰り返している犯罪者だった……というストーリーです。非常に、くるしい映画です。何が正しいのかわからぬままに、見終わりました。子どもに性的虐待をするような人間を許しておけない。そして法律が、社会が、そのような人間を放置するのなら、自分が裁く。その考えを、私には否定できないな、と思ってしまったからです。明らかにやりすぎですし、加害者だけでなく、単にマイノリティであるという、そんな社会的弱者さえ対象にしているので、そこはまったくもって賛同はできません。ですが、これもまた、いためつけられたこころのとりうるひとつの選択なんだと、そう思いながら見ておりました。主人公がやさしすぎるのもまた、こころにくるんですよね。信奉するジョンに殺人に巻き込まれ、殺されるか、協力してひとを殺す人間になるのかの二者択一の選択を迫られる。そのこころの揺れ動きが、淡々とではありますが非常に丁寧に描かれていて、とても苦しくなりました。実際の事件では、犯人は性的異常者を対象にしたと主張しているようですが、被害者の大半が抵抗もできない社会的弱者であった、とされています。『この世にひとり、信じたおとなは凶悪犯だった』自分と同じ傷を負い、自分を救い上げてくれたひとに、正義を貫けと言われたら……見終わったあともこころに爪痕を残すような、そんな映画でした。
2013年09月01日
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涼しかった当地方も、先週から猛暑に突入いたしました。私は暑さに弱いので、暑さが2日ほど続いた時点でバテバテです。もう1歩も歩きたくなくなるこの季節、思考回路もにぶくなりがちでやる気がでませんが、それでも読む気が薄れない中野京子氏の本。すっかりはまっております。題名の通り、前回紹介した『怖い絵」の第2弾。中野氏が様々な時代の絵画を取り上げては、その時代背景、人々の考え方の傾向、絵の中に隠されたモノの意味、などなど、多方面からその絵について紐解いていく1冊です。今回もメジャーな作品から、名前を知らなかった作品まで、たっぷり20作品、絵画の世界にひたらせていただきました。ピカソの『泣く女』、ミレー『晩鐘』、ヴェロッキオ『キリストの洗礼』が、特に面白かったですかね(どれも面白いんですが)。その他にも、ルーベンス、レンブラント、ベラスケスといった巨匠から、エッシャーやビアズリーまで取り上げる絵画は多岐にわたっております。ほんとうにもう、中野さんの頭の中にはどれだけの知識が詰まっているのか、そしてその知識を引っ張り出しては絵画にリンクさせ、人間の心の最奥部を紐解いていくためにどんな思考をしているのか、そしてどうやったらこれだけ冷静な筆致の中に、絵画への情熱を潜ませることができるのか。興味がつきないです。ほんと、絵画の見方ががらりと変わります。美術教育の中に、絵を描いたりとかそういう実技だけじゃなくて、こういった観賞を何故入れないのかと、疑問に思うほど。触れる機会がないからこそ、絵画鑑賞がなにやら高尚なものとか、自分とは縁遠いものという誤解を生んでしまう側面もあるんじゃないでしょうかね。中野氏の本、これからもどんどん読み進めていく予定です。
2013年08月11日
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あっという間に7月も終わりになりました。東北は涼しい日々が続いていまして、今年はかなり過ごしやすいです。暑さはすごく苦手なので、助かってます。8月以降が、暑さが長引くようなんですが。フランスの至宝まさかの来日! ということで5月号は、先日7月15日まで東京で開催されていた「貴婦人と一角獣展」とのタイアップ特集。「貴婦人と一角獣」、6連作のタピスリーなんですが、その美しさから「タピスリーのモナリザ」と讃えられるほどとのこと。見にいきたかった……しかし実は、レオナルド・ダ・ヴィンチ展を見に東京に行ったので、こちらは我慢。美術館、すんごい人でびっくりいたしました。人があまりいない美術館に行くことが多いので、人が並んでいるだけで驚きです。しかし、体調が悪いなりにも、ひとり東京に行くことができる日が来るなんて、数年前は考えもしませんでした。ゆっくりゆっくり、適応しているのでしょうね。離人の世界に。……と、話がそれました。こういう大きなタピスリーを見ておりますと、模様を描き出す一織り一織りが、いかに途方もない大仕事であったか、ということを考えて、めまいがするような気さえします。現在存在する工房で作りますと、約1.5m×2.6mのタピスリーでさえ、10年ぐらいかかるそうですから、各辺3m以上の6連作、「貴婦人と一角獣」はどのくらいの時間、そして人手を要したことか。いくら一握りの階級の高い貴族が、大勢の労働者から搾取した時代、人海戦術にものをいわせて作り出したものだとしても、やはりその工程のひとつひとつに思いを馳せると、感慨深いものがあります。こういうものを作り出せる人間の手の機能というのは、ほんとうにうっとりするほどうつくしくできあがっていますね。おそらく、日本にこの作品が来ることはまた何十年とない、あるいはもう二度とないのかもしれません。そういうチャンスに立ち会える体力と時間とお金が欲しい……などと思うのは贅沢すぎますね。今年はもう1回東京へ、何か展覧会を見に行こうと思っておりますので、それで満足することにいたします。今年の展覧会、関東は本当に豊作ですね。
2013年07月28日
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先日、宮城県立美術館で開催中のゴッホの展覧会に行ってまいりました。CMでゴッホが東北に来るとわかって以来、すごく楽しみにしていました。ゴッホは私の好きな画家さんトップ3に入るので、東北に来るならば行かないわけにはいかない、と気合をいれつつつつ。「空白のパリ時代を追う」というテーマでの展覧会です。ゴッホの研究は残された手紙を資料として進められてきているのですが、パリにいた間は、頻繁に手紙をやりとりしていた弟のテオと一緒にいたので、資料となる手紙があまりなく、結果、パリにゴッホがどんな考えをしていたのか、どんな風に絵画と向き合っていたのかは、他の時代ほど明らかにはなっていませんでした。今回はその空白のパリ時代に描かれた絵画を通して、その空白を埋めるよう思考していくという、なんともすばらしい展覧会です。結果、ほんと、大満足でした。何せ、出展作品は他の画家が描いたゴッホの肖像画1点を除いては、なんと100%ゴッホ作品!!なかなかないことだと思います。ゴッホといえばこの肖像画、という自画像も出品されていまして、何度も何度も入り口に戻っては見返していきました。おしむらくは、東北の展覧会ではあまりないほど混んでいたこと……いつもはわりと周りを気にせずじっくり見ることが出来るんですが、さすがに今回はこみこみしてまして、プラス、色々な雑談が耳に入り、ちょっとイライラしてしまったり。一緒に来てる誰かとじゃなくて、絵とコミュニケートしようよ!と思いもしますが、絵画の楽しみ方は勿論ひとそれぞれ。それよりも、東北での展覧会がこんなに活況を呈していることを、喜んだ方がいいのでしょうね。フェルメール以来かと思いますから。
2013年07月14日
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暑い七夕になりましたね。私は暑いとすぐにへばりますので、今年は身体的に厳しい夏になりそうです。そんなこんなで、更に更に刊行ペースに遅れている『芸術新潮』。ようやく4月号を読了するというていたらく……色々飛ばしてもうシャガールを読みたい、という気持ちがないわけでもないですが、まあ、コツコツ読みます。4月号は画家フランシス・ベーコン。名前は知っていて、さっと図録を見たこともあるのですが、完全なる食わず嫌いでした。そして読了した今も苦手な部類に入ることは違いありません。しかし、ある程度知ろうとして苦手なのと、食わず嫌いで苦手なのだと、前者の方がましではあると思いますので、まず、読めてよかったのかなと。こう、なんといいましょうか、グロテスクな肉の塊のような絵が、人間の本質をこれでもかというぐらい暴きだしているような気がして、つまり、その肉塊こそがひとの「たましい」の本質であるような気がして、平静ではいられないというか、落ち着かないというか、目を逸らしたくなるというか、ありきたりですけど、そんな気分になります。それはそれで、絵画として成功しているのだとは思います。好きなひとは本当に好きでしょうからね(何でもそうでしょうけれど)。情動として何も喚起しない芸術作品は、やはり魅力的、とは言えないと思いますから。と、いうわけで、いろいろ「きついな」と思いながらも何とか読了した今特集。暑さにへたばりながらも、集中力を欠きながらも、コツコツ積読本を消化する毎日です。
2013年07月07日
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ずーっと気になっていたはずなのに、いつの間にか忘れていた本を、本屋さんで見つけてやっと購入しました。忘れていたなら気になってないんじゃ、という矛盾については、いつものごとく自己スルーしておくことにします。ただ、気になっていたとは言っても、タイトルと表紙の絵がラ・トゥールだということだけで気になっていまして、中身に関してはあんまり知らなかったのですね。しかししかし、こんなに面白い本だとは思いませんでした。放置していた自分がうらめしいぐらいです。『歴史の裏に通じているからこそ、こういう秘話を掘り起こせる』『読み終わった途端、われ知らずつい口に出た。絵ってすごいなあ』『「名画の見方」を借りた、知的でスリリングな文学体験』帯に書かれている書評の抜粋ですが、まったくもって、誇張じゃありませんでした。この本を読むと、絵の見方ががらっと変わりますし、絵画の謎を解き明かしていく中野京子氏の文章は、まさしく上質なミステリーのそれだと思えます。この本では中世から近代にいたる様々な様式の20の絵画について、その絵の描かれた時代背景、画家について、絵画の様式や寓意などなど、様々な見地から絵画にこめられた意味を解き明かされていきます。とりあげられる作品は、ドガの踊り子、ティントレットの受胎告知、ブリューゲルの絞首台の上のかささぎ、といったメジャーなものから、ダヴィッドのマリー・アントワネットの肖像やジョルジョーネの老婆の肖像など、有名画家のマイナーな絵まで多岐にわたっています。この、絵について語る中野京子さんの文章がほんとうにすばらしいのです。知識にほれ込んでしまいます。絵画の鑑賞体験というものを、視覚的な「すごい」「きれい」で終わらせない、その絵画が表している人間の本質や社会・時代の本質に、怜悧な言葉のメスでぐっと切り込んでいく。画家の無意識まで切り込んでいるんじゃないかと思わせるぐらいの、どこまでもその絵画の秘密を暴いていこうとするその姿勢や情熱に、ぞくぞくしてしまうぐらいでしたね。1日1作品、と決めて大事に読み進み、読了すると同時に続きを買ってきてしまいました。また1日1作品ずつ、じっくり読み進めていくつもりです。
2013年06月30日
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梅雨入りを前にして、こちらも大分暑くなってきました。とはいっても、25度に達さない程度ですから、南の土地に比べたら暑いうちにも入らないかもしれませんね。<概要>数学は、ヒトの脳が作り出した文化的な産物であるはずなのに、これまで実に美しく自然現象を説明し、実に精密に物事の動きを予測してきた。また、流行り廃りのある科学理論一般に比べ、数学の成果は紀元前の昔から一貫しており、科学上ある難題が生まれる100年以上も前にそれを解く「ツール」が、そのつもりもない数学者によって用意されていた、といった例も少なくない。あたかも万能の存在であるかのように、なぜ数学はこんなに一貫していて、こんなに現実の役に立つのか。数学者たちが冗談交じりに言うように、創造主=神に数学の知識があったなのだろうか。『黄金比はすべてを美しくするか?』などで、その説明のわかりやすさととっつきやすさに定評のある著者、最新の数学解説。最新の数学解説、という風な紹介になっていますが、数学の知識が中学高校レベルでほぼ止まっている私でも十分に楽しめました。特に数学の専門的知識が必要とされるものでもなく、非常に面白かったです。数学、というより数学史や科学史を通して、テーマについて語られている印象です。帯に「だって数学って、非力な人間の産物にしては全能すぎるじゃないか」「数学はなぜ、ありえないほど役に立つのか」とあるとおり、数学が何故現実世界の法則を―科学だけでなく社会学や神経生理学にいたるまで―説明できてしまうのかについて、ひとつの問いをたてて考察を進めています。その問いが、「数学は発見か、発明か」。この世界は数学で記述される自然法則に貫かれて成立していて、数学者はその法則を自然の中から発見しているのか。それとも、数学は人間の思考の中でのみ成立し発展していく人間が発明した学問であり、それが自然法則に当てはまるのは単なる偶然なのか。ピタゴラスやプラトンに始まり、アルキメデスやガリレオ、ニュートン、そして近現代の数学者がその問いについてどういう立場をとってきたのかを紹介しながら、数学というものが普遍の真理としてこの世界にあるものなのか、それとも「言語」のような人間の発明なのか、考察が進みます。結論はおいておきまして、その時代時代の数学に対する考え方ひとつとっても面白いですし、数学者たちが数学と世界との関係をどうとらえていたのか、ということに関しても興味深く読みました。しかし、本当に不思議ですよね。人間の作り出した言語のひとつである「数学」が、どうしてかくも自然法則を説明し、かつ予言することまでできてしまうのか。今まで考えたこともなかったですが、とても興味深い問いです。読むのに時間はかかりましたが面白かったので、前作『黄金比はすべてを美しくするか?』も買いました。読み終わるのはいつになることやら。
2013年06月16日
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いい加減、『めがね』や『かもめ食堂』クラスの作品を期待するのはやめよう、そもそも監督さんが違うんだし、と思いながらも、ついつい借りてしまうシリーズです。『かもめ食堂』『めがね』と、それに続く『マザーウォーター』『プール』と、ひとと場所のつながりをシンプルに見つめてきたこのシリーズ(amazon情報)。『かもめ食堂』と『めがね』までは荻上直子監督で、その後は違う方が監督しており、作品の雰囲気はなんとなーく似ていても、おもしろみはかなり開きがある作品になっていることは、結構な数のレビューで言われていますし、私自身もそう思います。『めがね』『かもめ食堂』、そしてシリーズではありませんが、『トイレット』といった荻上作品は、DVDが欲しいなと思うぐらい。残念ながら『マザーウォーター』、『プール』は途中で寝てしまう、という……歴然とした差があります。ですので、たぶん個人的な好みとは違うだろうな、と思いつつ借りてしまうんですよ。役者さんが同じなのもあって、もしかしたら、面白いかもしれない、と。そして結果は、まあ、眠る寸前でした、という。三人の脚本家による作品で、場面は大まかに3つに別れています。ストーリーというストーリーはなく、ほんとにただ、たまーに変わる風景と、登場人物の会話メインに物語は進んでいきます。しかし、残念ながらこの登場人物の会話の雰囲気も、魅力的とはいえませんでした。あれだけの役者さんを集めておいて、ここまで個性のないキャラクタ設定をするのも、ある意味ではなかなか難しいのかも……と思ってしまうぐらい。こう、なんとなく、言葉にとてもメッセージをこめているようでいて、残念ながらそれが裏目に出ているといいますか、しらじらしくなってしまうんですよね。ひとはそこまで整然とした会話をすることもないし、とリアリティに欠けるような雰囲気。と、総じて批判的な雰囲気になってしまいましたが、80分という短さでも、個人的にはきつかったです……唯一、予告編集で紹介されていた『レンタネコ』という荻上監督の作品が気になったかな、という感想で終わってしまった今回。もの足りないな、と思いつつ、でも続編があったら、借りてしまうんだろうな。
2013年06月02日
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またまたものすごく更新があいてしまいましたね。しばらく更新してないな、とは思っていましたが、ここまであいてしまったのは久しぶり……まあ、それはそれとして、久々にDVDを見ました。久しぶりに映画を見ようとレンタルショップを練り歩いて、なんとなく気になった一本を手に取りました。漫画が原作、ということですが、私は未読です。見終わってから他の方のレビューも読んだのですが、原作とは別物のようですね。原作を好きな方は、登場人物の性格設定や展開がマイナス評価がとても多かったので。親から愛されずに見放された主人公と、同級生の女の子の物語です。貸しボート屋で母親と共に主人公は、根暗で内気な設定なのでしょうが、「普通最高!」なんてクラスで叫んでしまう時点で、大分普通からはかけ離れています。ヒロインの女の子は、そんな主人公の語録を壁に貼るほどに主人公に心酔しています。主人公の父親は絵に描いたようなダメ人間で、暴言暴力当たり前、母親は母親で、新しい恋人と共に家を出てしまい、主人公はひとり残される。絶望に絶望を重ねていくように、主人公を打ちのめす物語は続いていきます。そんな主人公と、主人公をどうにか救おうとするヒロインの、お話です。否定的なレビューも多いんですが、私は出来に対してそこまで酷い印象は受けなかったです。それもひとえに、主人公とヒロイン、特に二階堂ふみさんの演技があったからかな。園子温氏が監督ということで、ある程度その極端さとか救いのなさは覚悟していましたが、そこの過剰さのようにところにしらけずに見れたのは、役者さんのおかげかと。『ヒミズ』の最初は詩の朗読から始まりまして、その朗読とか、「普通最高!」とか叫んじゃう主人公、その主人公に絡んでいくヒロインの雰囲気、主人公の住む貸しボート屋にホームレスとして住み着いているおじさんたちなど、(そしてなぜかこのおじさんたちは主人公を「すみださん」と敬愛しています)最初はなんだかわざとらしく物語にも人物にもリアリティもあまり感じないんですが、物語の最後に行くにしたがって、彼女に引きずられるように。ぐいぐい心が引っ張られていくんですね。彼女の必死さが、すごくすごく伝わってくるんです。それがいとしくさえなってくる。ストーリーうんぬんより、その牽引力がすごかったように感じました。本当の主役は、自身も家庭の絶望的な状況に悩みながら、主人公をどうにかすくいあげたいと不器用で稚拙にあがくヒロインだったんじゃないか、と思えるほどに、二階堂ふみさんの存在感が圧倒的でした。もし彼女がいなかったら、私も「見なくてもよかったな」という感想だったかもしれません。ラストシーンでは、私自身も、「がんばれ!」とそう声を大きくしたくなるような。そういえば、意外と救いのあるラストでしたね。そんなこんなで久々のDVD。この調子で、色々見たいです。
2013年05月29日
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5月に入りましたが、やっと読了したのは芸術新潮3月号。刊行ペースに追いつける気配はまったくありませんが、せめてこれ以上は遅れないよう、コツコツ読んでいきたいと思います。3月号の特集はブリューゲル。ブリューゲル(父)の全新作を総ざらい、というサブタイトルの元、日本のブリューゲル研究の第一人者がブリューゲルについて講義していく、という形式をとった特集でした。非常に面白かったですね。今まで、ブリューゲルといえば、なにやら色々密集している絵を描く画家、ぐらいのイメージしかありませんでした(ほんとひどいイメージ(苦笑))。そのほかには、雑学的な知識として、農村、広場の絵、寓意画、ぐらいの情報があったぐらい。特に好みというわけでもなく、興味を惹かれるというわけでもなく、版画を見たこともあるのですが、そんなに強い印象も残っておらず。しかし、研究者が情熱を持って語るブリューゲルはとっても面白かったです。加えて、グリザイユ(グレーの濃淡で描かれた淡単彩だそうです)をはじめてみまして、図録から伝わってくる静謐な信仰の美しさにぐっと心をもっていかれてしまいました。画家の生きた時代背景や、その時代の社会通念、絵画に描かれたものの意味など、その知識があるだけで、絵画は抜群に面白くなるなあ、と再確認した次第です。絵画が語りかけてくることの量が、圧倒的に違うといいましょうか。芸術新潮を定期購読していると、こういうふうに、今まで自分が知らなかった世界に連れて行ってくれるので、とてもうれしいです。
2013年05月08日
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久しぶりに漫画本を読みました。『ほぼ日』で作者のよしながふみさんと糸井重里さんの対談を読んでから、ずっと気になっていた1冊でして、まだ1巻のみですがようやく購入して来ました。付き合い始めてから結構経っている、熟年夫婦のようなゲイのカップルのお話です。潔癖で完璧主義だけどちょっと女性的なところがあるイケメンの男性と、ゆるりとした雰囲気でひとがよさそうなんだけれど、でんと構えて大らかな男性との、ふたりの日々の物語。40前後のふたりなのですが、若い頃のような激しい恋愛感情はもうないんだけれど、まったく消えて家族愛になってしまったわけでもなくて、それなりに嫉妬もしたり、けんかしたりしながらも、ゆったりと流れていく日々の雰囲気がすごく大好きな1冊でした。毎回、完璧主義な方の男性が、丁寧に丁寧に料理を作るんですが、それがまた、ふたりの暮らしにある信頼感を描き出していていいんですよね。しっかりと手間をかけて作られると料理と、それをおいしいおいしいってにこにこ食べてくれるパートナーと、そこには等身大の『しあわせ』があると感じました。料理を全然しない私が、ちょっとしてみたいな、って思うぐらいだから相当かと。勿論、すべてが順調じゃなくて、世間の目とか、差別とか、無理解とか、そういうのもところどころに入ってはくるんですけれど、重くなったり暗くなったりすることなく、ちゃんと日常と地続きで続いていくしあわせが描かれていて、気持ちがほっこりする物語です。これは、集めないとな、と思っております。続きが楽しみです。
2013年04月29日
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更新頻度、全然上げることができるはできておりませんが、とりあえず元気にしております。今日は春の雪が降りましたね。当方桜はようやくつぼみを持ったのかな、というぐらいの状況ですが、東日本の内陸の地域では雪と桜の幻想的な光景が見られたのかな、と羨ましいです。まあ、とっても寒いですけどね。春が訪れるとスケートのシーズンも終わってしまうのは、寂しい限りです。国別対抗戦も終了し、しばらくテレビでスケートを見る機会はないなあ、と思っていのたですが、朗報が。何年かぶりに、県内でアイスショーが開催されることになったのです。うれしくてうれしくてですね、チケット発売日に買いにいってしまいました。今年はソチ五輪がありますから、もしかしたらあまりゲスト選手はこれないのかもしれないですが、ひとりでも多くの選手の演技を見ることができればいいなあと期待しています。毎日のように、ゲストが誰か決まっていないかなあと、アイスショーのサイトをチェックしているほど。誰が来てくれるにしても、楽しみでなりません。
2013年04月21日
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新しい年度を迎えて、地元も大分春らしくなってきました。春先は風がとても強くなるので、強風が吹いてくるのが第1の春の知らせ、という印象です。そんな中、ようやくまた読み終えた1冊ですね。タイトルが面白そうだったので、電車の中の時間つぶしにと思って買った1冊を、数ヶ月ごしでようやく読み終えました。<概要>感情の萌芽にあたる仕組みは、地球上に哺乳類が現れたころにはすでに、人類の祖先に備わっていたことでしょう。感情は生きのびるのに必要な機能として、生物進化の歴史を通して、徐々に積みあがってきたのです。捕食者から逃げる「恐怖」は比較的早い段階で、人類の祖先の動物の身につきました。そして、個体の上下関係を形成する「怒り」や「おびえ」は、群れを形成するようになった段階で身につきました。人間として進化した段階では、協力集団が築かれ、それを維持する役割を担う「罪悪感」や「義理」などの、複雑な感情が進化しました。本書ではさまざまな具体例をもとに、感情の働きを理解します。そして、感情が私たちに備わった生物進化の歴史を考えます。この本では「楽しい」や「悲しい」、「怒り」といった感情ばかりでなく、「罪悪感」や「自己呈示欲」、「希望」などの色々な感情について、その感情が人類進化のどの過程から備わっていたのかを示しながら、感情がどのように我々に宿り、どんな役割を果たしているのかということを紐解いています。「ジャングル由来の心」「草原由来の心」「文明固有の心」と、人類が誕生してからたどってきた社会のどこでその感情が芽生え、どういう風に人間に作用して発展していったのか、ということですね。非常に興味深く読みました。人が感じることというものは、人が言語を使うようになって以来、そんなに変わってはいないのではないか。うれしい、たのしい、かなしい、さみしい、いとしい、きらい……おなじようなことで人は悩んだり苦しんだり幸福を感じたりしているよなと、古典を読んだり絵を見たりしていると思ったものです。この本の中では、文明の進歩に感情の進化がついていっていない、という指摘がありまして、なるほどそうだよな、と腑に落ちた次第。人間を取り巻く環境はめまぐるしく変化していきますが、それに対処する感情は「ジャングル由来」であったり「草原由来」であったり、おいついていってないんですね。そういうものとして考えないと、なかなか苦しくなったり、色々とか悲しいことが起こったりしそうだなあ、と改めて思いましたね。
2013年04月10日
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そうしてまた1週間以上更新があいてしまった今日この頃。どうしてかくもいそがしいのか、などと書いてしまうと、仕事のことをぐちぐち言ってしまいそうなので、ひとまず置いておくとして。2月号の特集は評論家の小林秀雄氏でした。今年が生誕111年、没後30年にあたるそうです。小林秀雄氏の本は、高校時代に課題図書で、「小難しいなあ」と主ながら読んだ記憶がうっすらとあるくらい。それが何の本だったのかも覚えていないくらいで、名前はよくみかけますが、あまりなじみのない人物でした。しかし、「小難しいなあ」と思った頃から10年以上が経った今、改めてその文章を読んでみるとですね、これがまたとってもいいのです。今回の芸術新潮の特集では、氏が愛した絵画や骨董と、氏の評論を併せて紹介するような構成のページが多かったんですけどね。(後は、小林秀雄氏を知る人が寄稿したコラムがほとんど)紹介された一部の文章を読んでいるだけで、全集が欲しくなったくらい。芸術新潮さえ刊行ペースに読了ペースが遅れている上に、積読本がたまる一方、ブログ更新も滞りがちな私には、夢のまた夢ですが……でも、時間は作るものでもありますからね~あんまり言い訳をするわけにもいかないですよね。次はブリューゲル。これまた楽しみです。
2013年03月31日
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今年も世界フィギュアが終わってしまいました。国別対抗戦は残ってはいるものの、今シーズンも終わるのだなあ、としみじみ。今回の世界フィギュアは、日本勢はあまり満足のいく演技ができたとはいえないようで、笑顔の少ない大会になってしまったので、ちょっとさみしいなあ、と思っています。それでも、ソチ五輪の出場3枠は確定しましたから、きっちりお仕事を果たしてこれたのだなあ、と思ったり。これで枠の数も減っていたら、更に選手たちの表情も曇っていたでしょうからね。しかし、今回の目玉は、なんといってもキム・ヨナ選手の復活でしたね。私は基本的に日本の選手、特に浅田選手が大好きで、スケートに真摯な努力で向き合っていく姿勢や、逆境に立たされてもあきらめずに試合の場に向かっていく姿に何度も励まされてきました。そんな中、バンクーバーあたりのキム・ヨナ選手の点数は、しろうとの私が言えたことではないんですが、え?、みたいな点数だったりしましたから、正直、復活すると聞いたときはちょっと勝手に落胆したりしていました。スケートの試合には、政治的な問題やスケート連盟の以降など、様々な要因が絡んでくるとはいうものの、いくらなんでも男子並の点数はないだろ、と。しかし今回は、その点数にキム選手の演技が追いついていたという……何でブランクあったのにそんなにうまくなってるんだ!? と言葉を失いました。このままキム・ヨナ選手の独走が続いたら悲しいな、とは思いつつ、確かにうまいもんなあ、と今回ばかりは認めざるをえなかったり。まあ、日本人選手絶賛応援中であることにはまったく変わりありませんけどね。来シーズン、どうなるんだろうなあ。
2013年03月20日
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この週末に、なんとかたまっている本を1冊読了。池谷裕二さんの、脳の本ですね。今年度はこの方の本を読むことが多かったような。「楽しく、ごきげんに生きる」ために、脳科学の視点からみて「よりよく生きるとは何か」を考える――――まえがきにも書いてありますが、こういった目標のもと、一般向けの脳に関する本を数多く書いていらっしゃる池谷さんの本は、毎回とても興味深く読んでいます。今回も、「楽しく、ごきげんに生きる」ために、脳の働きにはこんな性質があるんだよ、知っておくとちょっと視点が変わるかもね、というところをいくつも紹介してくれています。例えば、帯に書いてあるものを紹介しますと、○恋に必須の「シュードネグレクト効果」○「オーラ」「ムード」「カリスマ」……見えざる力に弱い理由○「他人の不幸」はなぜ蜜の味?○「損する」でも「宝くじ」を買う理由○就寝前が「記憶」のゴールデンアワーなどなど。タイトルだけで興味深い。ただ、個人的には、今までの本に比べると、ちょっともの足りないかな、という印象も受けました。以前読んだ『単純な脳、複雑な私』(でしたでしょうか)の密度がとても濃かったのと、重複している内容がいくらかあったのと、文字が大きかったのが原因ですかね……それでも、一般向けの最新の脳科学の知見の紹介としては、一番読みやすくて面白い本なのではないかな、と思います。この調子で、積読本をどんどん減らしていくべくがんばります。
2013年03月12日
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せめて月刊誌は刊行ペースに追いつこうと、読むスピードをあげているつもりなのですが、なかなか追いつかないものですね。目標的には、春頃には追いつきたいな、と。1月号の特集は、白隠でした。達磨図で有名な禅宗系のお坊さんですね。白隠は親鸞ほどとまではいかないものの、民衆の中に入っていって、民衆に近いところで教えを説いたお坊さん、というイメージが個人的にありまして、楽しみにしていました。力強い禅画と書と、しみじみ見ていましたが、書の方をちゃんと見たのは(図録ではありますが)初めてだったので、その存在感に圧倒されましたね。達磨の絵もそうですけれど、書も実物を見たら、その前から動けなくなりそうな迫力を持っています。一度、本物を見に行きたいですね。なかなか東北地方では展覧会を開催しそうもないので、あまり地元から出る機会をもてない私にとっては、夢のまた夢でありますが。次の2月号の特集は小林秀雄。読むのに時間がかかりそうではありますが、着実に読み進めていきましょう。
2013年03月03日
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先月から読み続け、やっと1冊読了であります。ずーっと前、ほぼ日で紹介されたときからずっと気になっていた本。タイトルがもう、ひきつけますもんね。日清戦争から太平洋戦争にいたるまでの日本のエリートたち、つまり、高等な教育を終え「頭がいい」はずの日本の知識人たちが、何故「戦争」という手段を選んだのか、というところを、様々な歴史的資料にあたりながら、丁寧に丁寧に紐解いていく1冊です。今の政治を見ていて、何でいわゆる「頭のいい」大学を出たエリートと呼ばれる人たちが、(このあたりの方々を「頭がいい」とみなすことに私は懐疑的ですが)あんな見苦しくどうしようもない権力闘争にあけくれているのかと、首を傾げたくなる人は、結構いるんじゃないかと思われます。しかし、勝手な印象として、昭和の時代の方が「日本のために」というところに、熱く燃えて政治家になる人たちが多いような気がしていまして、(というか、そもそもその志から違うような気がして)そんな人たちが何故、日清戦争や日露戦争のみならず、あまりにも勝ち目のない太平洋戦争などの戦いを選択したのか、というところはずっと疑問でした。私の感想などよりも、帯の文句の方がずっと的確なので(当たり前ですが)、いくつかあげておきますね。ちなみに第9回小林秀雄賞受賞作品でもあります。<橋本治>結論を一方的に提示するのではなく、結論へ続く扉の方向を明示する。それはつまり、読者に対して評論を開かれたものにするということでもある。<堀江敏幸>口当たりのいい参考書の対極にある、十二分に過激な読みである。私はその表面には出てこない過激さに惹かれた。<加藤典洋>この本は、歴史学の醍醐味というものを教えてくれる。(中略)先入観に左右されない、独立した自分の判断を公にする勇気。そういうひとのふさわしい受賞を、心から喜ぶ。もう、絶賛ですね(帯だから当たり前ですが)。しかし、この絶賛された内容にふさわしい、とても興味深い本でした。この本の内容は、歴史に興味のある中高生に特別講義として開かれたものを、加筆して1冊にまとめたものであるらしいのですが、この内容を中高生のときに聞けるのと聞けないのとでは、その後の進路選択や歴史学というものの捕らえ方に大きな差が出てしまいますね。歴史が単なる暗記強化ではなくて、過去の人たちが歩んできた歴史という迷宮を、過去の人々が残した様々な資料を武器に丁寧に解き明かしていく、歴史学の面白さというものが、私にも響きましたから。とても面白い1冊でした。
2013年02月24日
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せっかく前回更新頻度少し改善できた、と思ったのに、またまたまたまた間があいてしまいましたね……この忙しさはいつ終わるのかしら、と思ったところで、来年度いっぱいは解決されなさそうです。残念。先週は四大陸選手権がありましたね。男子は少し残念な結果になってしまいましたが、女子はすごいですね!なんと10年ぶりの表彰台独占!しかしなんといっても、浅田選手の復活が嬉しかったですねえ。ついにトリプルアクセル成功し、トリプルトリプルの連続ジャンプも成功。個人的には、ジャンプ以外でも浅田選手の演技はすごく好きなので、(浅田選手の演技のときだけ、いつも時間が圧倒的に短く感じます)そんなにジャンプにこだわらなくても十分に素敵なのになあ、とか勝手に思ってしまうんですが、やっぱり競技ですから、そういうわけにもいきませんもんね。あの年齢で、つらいこともくるしいことも、いっぱいいっぱい背負わなければならなかったことを考えると、本当に頭が下がります。いつも元気をもらっているので、世界選手権も満足のいく演技ができるよう、応援するばかりです。来月を楽しみに待ちます。
2013年02月16日
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やっと12月分の芸術新潮を読了しました。12月号は能の特集といいますか、能の入門編みたいな感じでしたね。私の中での能のイメージといえば、「面が怖い……」という非常に単純なもの。あとは、歌舞伎よりもさらにとっつきにくそうだなあ、というイメージでした。能の楽しみ方といいますか、解説としてこの特集を読むのは面白かったのですが、やはりとっつきにくそうなイメージは変わりませんでしたねえ。しかし、能の所作にはとっても興味がわきました。たぶん、見に行ったとしても、意味がわからないまま、ぽかーんと観て帰ってくるには違いないでしょうが、一度じっくり観てみたいなあ、とは思います。知らないままに、あれこれ考えられないですしね。問題は、私が住んでいるところはあまりにいなか過ぎて、能を観る機会はまずない、ということですね。だからといって都会に行けば、美術館とかを優先してしまうでしょうし……機会は自分で作らなければどうにもならないのでしょうけども、なかなか。次号は白隠。禅についてはとても興味があるので、楽しみです。
2013年02月03日
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それぞれの痛みを抱えて行く日々が いつか誰かをあたためつつむよネタが……ない! ということでブログを更新できていませんでしたが、そうだった、別に読書メモ映画メモじゃなくても、短歌みたいなものでも前は更新していたなあ、と思い出し、やっと更新できました。来月からは、もう少し更新頻度あげられればいいなあ、と思います。今月はほんとひどいですから……基本的に、経験というものはその人固有のものですから、なかなか理解するというのは難しい、といいますか、完全に理解するなんて不可能だ、とさえ言ってしまってもいいかもしれません。よく、あなたの見ている「赤色」が、私にとっても同じ「赤色」だとは限らない、なんていうものがありますが、人が見たり聞いたり感じたりすることは、その人の主観というフィルターを通してみた世界であって、同じものを見ても、同じことを感じるわけではない、というのはよく言われることですね。誰かにとっての寂しい夕暮れは、誰かにとっての美しい夕暮れかもしれない。誰かにとっての美しい星空は、誰かにとっての孤独な夜かもしれない。そんななかでも、やはり人は人を求めるものですから、その超えられない「ひとりひとりは別の存在である」という壁をどうにかしたくて、躍起になったりするものです。そうしてその壁をどうにかできるとしたら、それは「想像力」なんじゃないかなあ、と思います。自分の痛みをもとにして、誰かの痛みを想像する。自分の悲しみをもとにして、誰かの悲しみに思いを馳せる。そういう営みの中で、人と人はつながっていけるのかなあ、と。だから、私が離人症という病気の中で、経験してきたことが、誰かの痛みを考えることができる想像力を育てていたとしたら、少しはこの毎日も報われるのかな、と思ったりします。
2013年01月29日
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吉本隆明さんの本は難しいものが多いので、積読スペースに重ねては、いつもちょっとずつ読み進めています。ちなみに、吉本さんの本だけで、積読スペースに4冊……読み終わってから買いなさい、といつも自分に言い聞かせているはずが、遠出をしたときに大きな本屋さんでみつけると、ついつい手を伸ばしてしまうんですよね。言語の根幹は沈黙である、コミュニケーションとして外に向かって表出されるものは、言語の枝葉の部分にすぎない、という芸術言語論。これがすとんと腑に落ちるようになったのは、ようやく最近なんだと思います。前はちょっとわかった気になっていたぐらいで(もしかしたら今もかもしれませんが)。でも、今回の1冊は、『芸術言語論への覚書』という題名ではあるものの、芸術言語論が発表される以前の未発表原稿をまとめたものであるようです。批評文が多いんですが、その批評文の中にあって、『人生についての断想』という、吉本さんの考えについて書いた随筆のようなものがありまして、それが非常に面白かったですね。実生活で人の役に立つ「知」とは何か「俺は人を愛せない人間じゃないか」と思った知識を養うと愛はどう変貌するか意識のバランスがとれていると魅力的に感じる受身で生きることができたら上等などなど、タイトルを見ているだけで、このタイトルで吉本さんがどんな考えをしているんだろう、とわくわくしましたし、実際とても興味深かったです。他の著作に比べても読みやすい1冊だと思います。とりあえず積読本1冊読了。それなのに、本屋さんに行って気になる本を2冊注文してきてしまいました……ほんと、読みたい本が増えるばかりです。
2013年01月16日
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あけましておめでとうございます。去年は後半亀更新になってしまった当ブログですが、足を運んでいただきありがとうございました。今年も年度が終わるまでは亀更新のままかもしれませんが、続けていきたいと思いますので、ふと思い出したときに立ち寄っていただければ幸いです。今年の目標は例年通り、できるだけ機嫌をよくして笑っていよう、ということです。離人症のせいでも、離人症とは関係のないいつもの生活の中でも、苦しいときもきついときもあるかとは思いますが、できるだけ、機嫌よく、空元気でも明るくいたいなあと思います。そんな私ですが、今年もよろしくお願いいたします。お正月はごろごろ寝正月だった私ですが、読書が進んだかといえば、それほどでもない、というなかなかだらけた生活を送っておりました。読みかけの本を読み進めていたはずが、色々読み終わる、というわけでもなく。何をしていたのかさっぱり不明なのですが、気づけばお正月休み、終わっておりました……ほんと、何してたんだろ、自分。調子があんまりぱっとしないのもあるのか、読むスピードも極端に遅いですし。そのうち何とか読み終わったうちの1冊が、芸術新潮であります。芸術新潮、刊行ペースにまたまた置いていかれ始めていますね。11月号は縄文時代の特集でした。縄文時代はとっても長くて、1万年以上も自然と共存しながら人間が生きていく社会が続いたわけですが、その時代がどんな時代だったのか、様々な視点から見ていったり、色々な方がコラムを寄せたりしています。サスティナブルな社会、というものを考えたときに、ヒントがたくさん詰まっていそうな時代ですもんね。勿論、そこには生存するということ、生活するということの厳しさも存在していて、理想論だけで語ることはできないのでしょうけれど。しかし、なんといっても、私にとって縄文といえば、縄文土偶。遮光器土偶とか、合掌土偶とか、もう、見ているとなんといいますか、永遠性というか、人の普遍性を感じます。いつの時代も人間は喜んだり悲しんだり嘆いたり祈ったりして、その想いの形が土偶という形にこりかたまって、厳然と存在しているのだ、というような。そういう普遍性というか、人の想いの強さというものを、じんわりじんわり感じるんですよね。次号は能の特集だそうです。これまた今まで殆ど興味のなかった分野。ゆっくり読み進めていきたいと思います。
2013年01月06日
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久しぶりに読書メモがかけます。やっと今月1冊読了しました。脳科学者の池谷裕二さんが、母校で脳についての講義をしたときの内容をまとめた1冊ですね。池谷さんの一般向けの脳の書物はすごく好きでして、全部読みたいなあ、と思っているのですが、まったく追いついてないですね。私は仕事柄、脳についての専門書も一般書も読みますが、一般向けの書籍としては、池谷さんの本がピカイチだと思います。第1章 脳は私のことをホントに理解しているのか第2章 脳は空から心を眺めている第3章 脳はゆらいで自由をつくりあげる第4章 脳はノイズから生命を生み出すこう、章題をあげるだけで、なんだかわくわくしませんか?池谷さんは脳とか人とか、モノを見る目がとてもフラットで、しかも敬意を忘れないような文章を書く人だな、といつも思いますが、そんな視点から描き出される脳の姿、そしてそこから生まれる心のありようというのは、とっても興味深いものがあります。しかも、この内容を高校生にする、という、すばらしさです。お若い方々に対しても尊重を忘れないフラットなまなざしは、本当にすてきです。こういう話を高校生のときに聞くことは、その場にいることのできた子どもの将来にガツンと衝撃を与えるでしょうね。こういうおとなもいるんだ、と尊敬できると思います。ちゃんと尊敬できるおとなも、いるんだ、と。おとなになって、いろいろわかっていくということは、こんなに楽しそうなことなんだって、希望を持ってもらえる、というか。教師だけじゃなくて、こういう風に対等な視点で、問うことや解き明かすということがどんなに面白いか、ということを、主観的にせつせつ聞かせてくれるような授業があるとないとでは、大違いだと思いますね。今年も残すところ、あと1日となりました。なんだかあっという間に今年も終わりましたけれど、とにかく忙しかったなあ。後半亀更新となってしまった当ブログですが、来年はもう少しちゃんと更新したいです。それではみなさま、今年1年間、ごくろうさまでした。よいお年を!
2012年12月30日
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またまた更新があいてしまいましたが、生きております。関東とか、あっちこっち色々行っておりました。この忙しさは何だー! と思ったところで解決されることでもないのですが、とりあえず叫んでおきます、本が読みたい! 映画が見たい! ゆっくり寝たい!……ふぅ。少し取り乱しましたが、すっきりしました(こら)。まあ、でも、これだけあれこれ忙しくても、それほど調子が悪くならない、ということは、それなりに進歩ですね。数年前は関東とか遠くへ行くなんて、まったく考えられませんでしたから。今年も残すところあと半月になりましたね。ありがちですが、本当に年々1年経つのがあっという間に感じるようになっています。気がつけば、今年ももう終わりかあ、と。その前に私は30代に突入することになりますが。離人症歴もはや10年。こんな感じで30代に突入することになるとは思いませんでしたが、予定通りにも希望通りにもいかないのが、たいていの場合、生きるということですものね。むしろ、人生の中で降りかかる理不尽な出来事や困難さと、いかに向き合い折り合っていくのか、その中でどういう風に希望を見出して行くのか、ということの方が、大きな要素を占めている気がします。なんとなくですね、「幸福になる」ということにそれほど強くとらわれなくてもいいのかな、と思うようになった1年ではありました。もちろん、幸福を感じられるにこしたことはないですし、誰にだって幸福になる権利がある、ということばは、ほんとうだとも思います。ただ、過度な幸福の追求といいますか、なんというんでしょう、あまりにも「幸福になる」ということが人生における「勝ち」で、「幸福でない」ということが人生の「負け」だから、「幸福でない自分」はダメなんだ、という理屈がですね、違うんじゃないかな、と。何がなんでもとにかく幸福にならなきゃ、ということじゃなくて、まだうまくいえないですが、幸福というある種持続した状態じゃなくても、つらい毎日の中でも苦しい毎日の中でも、ふとした瞬間に湧き出る「よろこび」とか「たのしみ」とかいうものを大事に感じて、苦しい道行を照らすようにぽんぽんと灯るその光を、頼りに歩いていけるのもまた、ひとつの大事なあり方なんじゃないのかなあ、と思うようになりました。また、変わっていく考え方なのだと思います。今の私は、こう思う、という感じで。と、いうわけで、しばらく亀更新が続くと思われますが、ひとまず無事に生きておりますので、これからもよろしくお願いします。
2012年12月16日
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最近油断するとすぐに更新があいてしまいますね……ネタがない!離人症と脳科学についてのお話もまだ途中なのですが、あの内容を書くときはかなりまとまった時間がないと難しいんですよね。文章をわかりやすくまとめる力が欲しいです……仕事が忙しいと読書とかDVDを見たりとかもできなくなるので、寂しいばかり。読書も読んでる間に仕事のことを考えてしまって、なんとなく集中できなかったりして。そんなときの私にぴったりなのが海外ドラマ。1話45分、という時間が、くつろいでぼんやり見るのにちょうどいいんですよね。ただ今見始めたのが『メンタリスト』。人の表情や仕草、言葉から心の動きを読み解いてしまう、という例のアレです。テレビでも時々メンタリストさんが出ていますし、本も出ていますよね。ストーリーとしては、過去に連続殺人犯に妻と子どもを殺された主人公が、コンサルタントとして捜査機関に協力することで情報を得ながら、犯人への復讐を果たそうとする、という大枠があります。基本的に1話完結型のミステリみたいな感じで、主人公が事件関係者の心を読み解き、時にはわなをかけて操りながら、犯人逮捕に導いたり、事件の真相を解き明かしていく中で、時々主人公が殺人犯に家族を殺された過去がはさまれていく、という感じの流れです。この主人公のサイモン・ベーカーがですね、また、いいんですよ。いつもとってもうさんくさい笑顔を浮かべて、人の心を自分の思惑の方へ導いていく。捜査官ではなくコンサルタントだし、そもそも自分は殺人犯への復讐のために捜査機関に身をおいているのだからと、組織のルールもまるっと無視で事件の真相に近づくためには危険もかえりみない。あんまり強気に心を解き明かしていくから、お近づきにはなりたくありませんが、ドラマの登場人物としてはとっても魅力的だと思います。実際には、人の心の動きが見えすぎるのも、あんまりよくないなあ、と思いますけどね。見えなくてよいところは、見えないままの方が円滑に行きますし、心が見えてある程度人を思う方向へコントロールできたとしても、そうして得られるものが、自分や他人をうれしくさせるものだとも思えないですし。今週はついにフィギュアスケートはグランプリファイナルですね。日本勢、たくさん出場するのでとても楽しみです。
2012年12月05日
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寒くなりましたね。こちらでは雪がぱらつく日も出てきました。もう、来週終わりには12月ですもんね。完全に冬に移行しました。そんななか、フィギュアスケートのグランプリシリーズ。今年、ちゃんと見れたのは今週のNHK杯ぐらいだったんですけれど、女子も男子もおめでとうございます! でしたね。なんと男子はファイナル6人枠中4人が日本人というすごさ。特に羽生選手の活躍は目をみはるものがあります。羽生選手は、ジュニアからあがったころからアイスショーで見ていたので、ひとりで勝手に「伸びると思った!」とうんうんうなずいてみたりして。もう、パトリック・チャン選手に勝てるのは羽生選手だ、と思っております。そして昨日の鈴木明子選手のフリー、もう感動でした。もともと「表現力」というものをすごく評価されている選手でしたが、それにしたって、ものすごかった、本当に音楽そのものだった、と鳥肌が立ちました。会場中がスタンディングオベーションになったのも、当然当然。浅田選手はちょっと力を出し切れない形だったので、ファイナルでは全ての選手が納得のいく演技で終われるといいんですが。場所がソチですしね。今、ちょっと今の職場で働き続けるかどうか迷っています。そこそこ忙しいうえ、来年度はもっと忙しくなるのがわかっていることもありますが、何より、ちょっとこの場所で医療に携わるのが限界に達している、ということもあります。私は患者でもありますから、自分ならこの場所を選択しないな、という気持ちが、段々押さえ切れなくなっている、というのもあります。私は常々、医療がもう少し人に優しい場であれば、という風に考えてきました。それと職場の方針があまりにかけ離れすぎてきたので、つらくなってきたんですよね。それでも、私の職場は地域でましな方だと思うんですよ。というか、地元では一番大きいし、一番ましだと確信はしています。でもそれは、医師以外のスタッフの努力だと思っています。医師はハコを大きくすることと自分のことしか考えず、患者の方を向いていません。中には真摯な医師もいますが、そういう医師は組織の中心にはいきません。結果、スタッフも育たず質が保障されないままに入れ物だけ大きくして、「何がやりたいの?」という、なんだかよくわからない方針のもと、下のものがあくせくあくせくするだけになって疲弊してしまう。だから職場の離職率は結構高めだと思います。まあ、よくある現場の構図ではあるかもしれませんね。そんなこんなで、ずっと迷っていたのが、今、おさえきれなくなってきた感じなんですね。まあ、求人状況の関係もありますから、今すぐどうこう、というわけではないんですが。ただ、人間関係とかそういうのは悪くないので、本当に迷ってしまうんですよね。自分がいなくなったらかなり困るだろう、というのもわかっているので。ただ、理念なき(あるのかもしれないけれどまったく伝わらない)組織のもと、医師のプライドを傷つけないように振り回されながら働くのは、限界かなあ、と。うーん……すいません、愚痴でした。しかし、そう考えると、私の今の主治医は本当に、いい先生です。ちゃんと考えてくれているのがわかりますから。そのクリニックを選べたことは、私にとって幸運なことでした。
2012年11月25日
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ついに初雪が降りました。昨日はあたたかったのですが、今日は一転して冷え込みましたからね。それでも、例年よりは大分遅いらしいです。そうして私、家にこもりっきりだった上に、ながーく昼寝をしていたので、見逃してしまいましたけれど……そろそろコタツだけじゃ足りなくて、ストーブも稼動させなければダメそうですね。芸術新潮10月号、やっと読み終わりました。そんなに読みにくいわけではなかったのですが、何分、読む時間が……篠山紀信さんが自分が撮った写真とともに、特集タイトルである「写真力」の秘訣的な短い文章を載せているので、いつもよりは文字数が少なかったとは思うんですけれど。これでいつもどおりだったら、またまた刊行ペースに置いていかれるところでした。しかし、これだけ写真を撮るということが身近になった今でも、私は写真、特に人物写真には殆ど興味がなくて、これだけまとまって人物写真を見るのは初めてだったかもしれません。写メだけで考えても、私は1ヵ月に1枚も撮らない月もあるんですよね。といいますか、今確認したところ、1年に2、3枚しか撮っていないようです。友人に見せるための、なにやらおもしろ物体が映りこんでおりました……そんな私ですので、「写真力」のなんたるかなど、とんとわからぬ、というところで読み進めていきましたが、確かに、足を止めてしまう、視線を動けなくなくしてしまう、そんな写真はあるんですよね。たとえばそれが凄惨な光景だったり、ひどい光景だったりすると、もちろん止まってしまうこともあるんですが、そうじゃなくて、何気ない風景とか人の顔とかなのに、なんとなく見入ってしまう、そんな写真があります。それが何の力なのかな、と考えたときに、それは被写体への愛情とか、リスペクトだったんだな、というのは、今回分かりました。いい写真を撮ってやろう! という意志よりも、それいいね! っていう愛情なり尊重の方が「写真力」を強くするんだろうな、少なくとも自分はそっちの写真の方が好きだな、というのが、写真どしろうとの私の感想でありました。次号は縄文特集。土偶とか見るの大好きですから、とても楽しみです。
2012年11月18日
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うぅ、また更新がかなーりあいてしまいました。今年度から仕事の体制がかわり、年末の忙しさが去年と比較にならなくって……と、誰にともなく言い訳を。そんなこんなで疲れは多少ありますが、無事に生きております。本はコタツのわきにたまっていきますし、離人症と脳科学の話もまだまだ途中ですし、早く来年になっちゃえばいいのに!だから、今年のGPシリーズも去年ほどは見れていなくてですね、録画したものを本当に気になっている選手だけチェック、という状態です。シリーズ開幕前に放映されたアイスショーの録画もまだ見れていませんし、寂しいばかり。気になっている選手は去年と同じです。女子では浅田選手と鈴木選手、男子は高橋選手と羽生選手。ついでに今年は、町田選手がぐいん、とのびましたね。ファイナルが楽しみです。できるだけ好きな選手がいけるといいなあ、と。もう、次の冬季五輪も近づいていますし、今年のファイナルはソチですしね。今年は全ての選手がスケートに集中して万全の体制で臨めるといいんですが。仕事の山場はあと1ヵ月半。その後もう少し、更新頻度改善するかと思われます。
2012年11月11日
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気がついたら、予定外に更新があいてしまいました。12月いっぱいまでは、仕事のいそがしさも落ち着かなさそうです。年が明ければ、大分落ち着くと思うんですけれども。それまでは、週に1回程度の更新頻度が続くと思われます。ちょっと前に見た映画です。9.11がテーマになっているとのことで、話題になった映画でもありますね。少し物語展開に無理があるところもあったんですが、それはもう関係ないなって思うぐらいよい映画でした。9.11で父親を失った少年の物語です。少年は知的にはまったく問題ないのですが、対人交流に障害がある、という問題を抱えていました。そんな少年が数少ない、そしてもっと近しい理解者である父親を、9.11という出来事によって突然、しかも理不尽に奪われてしまう。死体さえ見つからなかった父親の死は当然ながら受け入れがたいもので、深い悲しみから抜け出すことができないままに少年は毎日を送ることになります。そんなある日、少年は父親の部屋で鍵を見つけます。鍵と共に残されたのは、「ブラック」という名前のみ。少年はその鍵に合う鍵穴を見つけるために、ニューヨークに住む「ブラック」という名を持つ全ての人に聞いてみよう、と決意するのですが……そんな感じのストーリーです。9.11で父親を失った少年、という設定から、9.11という「事件」について何かしらを語る映画なのだと思っていたんですが、この映画はそうじゃなくて、「理不尽に大事な人を奪われる」という、深い悲しみに直面しなければならなかった子どもの物語だな、と思いました。9.11というテロという事件と向き合った、という面もあるのかもしれませんが、それ以上に、「理不尽な喪失」という悲しみに向き合わざるをえなかった、子どもの悲しみと再生の物語だな、という風に思ったんですね。それだけでも、十分に心に重く響く物語だったんですが、それだけで終わらなかったのが、更にこの映画をすばらしいものにしていると思います。最初は全ての「ブラック」さんに子どもがひとりで会いに行くなんて無理だよとか、そんなにうまくはいかないんじゃないかな、というちょっとこじつけに見えた部分が、最後には全て一本のラインでつながっていくんですね。大事な人を失うということは、決して何かで埋めることのできるようなことではないんだけれど、それでもやっぱり人は自分で思っている以上に人の優しさや、人を想う気持ちに守られていて、そうである限り、この世界にあるのは絶望ばかりではないと、そう思いもしました。泣かされましたね~。本当に、とてもよかったです。
2012年10月31日
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ますます寒くなってきましたね。秋は足早に去っていってしまい、冬の足音がもう背後に迫っている感じです。木々の葉っぱはようやく色づき始めた感じですが、その速度に勝る気温低下。今年はあんまり雪が降らないといいなあ、と願いつつ。年末が近づいてきて、仕事が忙しくなり、なかなか本を読んだりする暇がないのがとても寂しいですね。12月が終われば、一段落つくんですけれどね。それまでが長いです。そんなこんなで、芸術新潮、読了ペースがまたまた刊行ペースに遅れ始めてしまいました。一時期かなりペースアップしたんですけれど、また逆もどり。今号はトルコのイスタンブールの特集でした。私のトルコについての知識は、お菓子がやたらめったら甘い、ということだけ。いつでしたか、トルコ土産にトルコの代表的(らしい)お菓子をもらったのですが、これがほんとに、もう甘くて甘くてどうにもならず、トルコのお菓子ってこんななのか? と思ってぐぐったくらいですからね。そのときいろんなトルコのお菓子の作り方も見たんですが、作り方を見ているだけでもう、歯が痛くなるぐらいあまい、あまい。(私、虫歯に甘いものがしみるのです)その他は何にも知らず、イスタンブールがトルコにあることさえ、今回初めて知った始末(>こらこら)。ですので、とても新鮮でしたね。ああ、こういうところなんだ、と。歴史から文化から何から目新しくてですね、特に「書」の部分に関しては興味深かったです。やっぱり私、文字とか記号の「かたち」が好きみたいですね。特に曲線部分。日本の書道家の「書」みたいに抽象過ぎると、わけがわからないので、なんとも思わないのですが、かちりとした漢字や記号も、ひらがなのようにやさしげな文字も、判読できる範囲に書かれていればじっと見てます。よく、「書」は何が書かれているかではなくて、書いた人の筆の運びの軌跡を追うとか、息遣いを感じるのだ、みたいなことを言いますが、私はもっともっと単純に、「かたち」が大好きみたいですね。まあ、私は書道家でも評論家でもありませんから、好きなものを好きなように見るのが楽しいのであります、はい。ほかには、奈良美智さんの特集もありましたね。結構よみごたえがありました。今、青森県立美術館で企画展をしていますので、見に行く予定でいたのですが、想像以上に仕事が忙しくて無理そうです……残念。
2012年10月21日
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ついに寒さに耐え切れずにコタツを出してきました。おかげで今日は、ぬくぬくとしながら、殆ど居眠りしてすごしてしまいましたね。やはり、コタツのパワーは強力です。やる気を奪うぬくさです。もともとやる気があったのかと問われれば、首をかしげざるをえないのですけれど。久々に洋画を見ました。ちょうど公開時期が東日本大震災と重なり、津波のシーンがあるために公開延期となった、クリント・イーストウッドの『ヒア・アフター』。あのときは、私自身、被災地の人間ではありますけれど、そこまで自粛しなければならないなんて極端だなあ、と思ったものでしたが、実際に冒頭の津波のシーンを見るとですね、「あ、やっぱり無理だったんだ」と思いました。私自身は海沿いには住んでいなかったので津波の直接的な被害はありませんでしたし、この目で見たわけでもないのですが、それでも、作り物だとわかっていても、人が飲み込まれていくリアルな津波の映像は、なんとも見るのがつらいな、と思ってしまいましたから、あの震災の只中の時期で公開を見送ったのは、極端なことではなかったのかもしれないと感じました。肝心の中身はといいますと、死後の世界とか、そういうスピリチュアルな部分が軸になって進む物語でした。個人的には、クリント・イーストウッドの作品には、もっともっと硬派でずんとくるイメージを持っていましたので、こんな作品だったのか、とちょっとびっくりしました。死者と会話ができる元霊能力者と、津波に飲み込まれ死にかけたことで、死後の世界について考えるようになったジャーナリストと、自分の大事な片割れである双子の兄を失った少年と、三人の視点が交錯しながら物語は進んでいきます。私はあまりこういったことは信じないので、なんとなーくぼんやり見て、ぼんやり見終わりました。そんなにぴんとこなかったみたいです。信じていないなりにわりきって、そういう世界があるのだと仮定して、共感はできないなりに、フィクションとして物語に入り込めることもあるんですけれど、今回はそういうこともなく、さらーっと見終わりました。うーむ……そういうこともありますね。
2012年10月14日
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一気に寒くなりましたね。最低気温は10度を下回っております。もう、コタツが欲しい季節ですね。さて、離人症と脳科学。前回から脳の具体的な機能の説明に入っていました。脳の細胞は場所によってその役割が決まっていて、この場所の細胞は「体の感覚」担当、この場所の細胞は「視覚」担当、というように機能的にわけることができます。それを表したのが『ブロードマンの脳地図』と呼ばれるもので、ここではその『エリア○』という番地を使って説明していきます。我々が末梢の感覚受容器(感覚を受け取る細胞)から受け取った情報は、絶えず脳に運ばれて、リアルタイムで脳に送られ処理されて、我々は時々刻々と変化する自分の体の状態や外界の情報を得て状況に適応していきます。感覚受容器が受け取った段階では、「刺激、受け取りました」という単なる細胞の反応に過ぎなかった情報は、脳の特定の場所に運ばれて解釈されることになります。前回までは、我々が自己身体の状況と外部環境についてを認識するためには、触覚や筋肉・関節の感覚といった体の感覚(体性感覚、といいます)と、眼球の網膜から来る視覚の情報とが矛盾なく統合されていることが必要で、体性感覚情報は頭のてっぺんあたり、「エリア1・2・3」に運ばれて、視覚の情報は頭の後ろの後頭葉に運ばれて処理される、ということを説明しました。今日は、この統合がどこで行われるのか、ということを説明していきます。エリア1・2・3、つまり一次感覚野という呼ばれるところで処理された感覚情報は、お隣のエリア5、二次感覚野というところで、更に高次の情報処理を司る部位に送られます。このエリア5で何が起こるかというと、ここでは体の両側からの情報が統合されるんですね。よく、脳卒中では右脳が傷つくと左に麻痺が出て、左脳が傷つくと右に麻痺が出て、というように、一般的に脳は体の反対側を支配しています。ですので、右半身の感覚情報はまず左の脳に運ばれて処理され、左半身の感覚情報はまず右の脳に運ばれて処理されるんですね。そうやって半分ずつ処理されていた情報が、エリア5でひとつになることで、身体の感覚を統合して全体として把握できるようになります。両側の感覚がわかる、ということでもっとも重要なのは、体の真ん中がどこにあるか、ということが認識できる、ということです。この真ん中の軸を参照して、私たちは外部空間の中に、まっすぐな姿勢を保って身体を位置づけたり、自分の体が外部環境に対してどういう格好でいるのか、あるいは四肢が胴体に対してどこにあるのか、ということがわかるわけです。自分の体をしっかり外部環境に位置づけて動かすためには、非常に大事な機能というわけですね。そうやってエリア5に運ばれて統合された統一的な全身の情報は、更にお隣のエリア7、頭頂連合野と呼ばれる場所に運ばれます。ちなみに、この7野の反対隣が、視覚野である後頭葉なのです。『ブロードマンの脳地図』でぐぐっていただけると、一目瞭然かと思われます。つまり、ここでようやく、体性感覚情報と視覚情報が出会うわけですね。このエリア7で体性感覚情報と視覚情報が矛盾なく統合されてはじめて、私たちは自分の身体と外部環境との関係について、正しく認識できるわけです。つまり、たとえば手を握る場合であれば、脳から手を握る指令が筋肉に届くと同時に、指を曲げる筋肉が働くわけです。そうすると、指を曲げる筋肉から「働きました」という情報が一次感覚野に届く。それと同時に、視覚には自分の手がこぶしの形に握られる映像が、後頭葉に届くんですね。この一次感覚野に運ばれた情報が二次感覚野を経由して、エリア7へ行き、同時に後頭葉に運ばれた情報もエリア7へ運ばれ、つまりそれは、エリア7に指を曲げる筋肉が働いたと同時に、手が握られた視覚情報が届くということですから、その行動の結果の情報に矛盾がないな、ということで、自分の体は自分のもので、確かに自分が動かしているんだ、ということが把握できるわけです。この身体状況と外部環境を認識する脳の高次機能、というものは、確かにこの体が自分のもので、自分で動かしているのだ、という認識のために、必須の機能であるわけです。じゃあ、この機能が障害されてしまったらということで、それはまた次回へと続きます。ちなみに、ですね。エリア7に運ばれた体性感覚と視覚の情報は、その下にあるエリア39・40、下頭頂小葉という部分に運ばれます。ここはですね、聴覚や記憶や言語機能の一部を司る側頭葉と隣あうところで、体性感覚と視覚に加え、それらの情報と統合されます。したがって、ここに運ばれることで、自分が置かれた状況に意味が与えられることになります。そうしてその情報が前頭葉の方に運ばれて、新たな行動を起こし、その結果がまた脳の感覚処理領域に運ばれて処理されて……ということで、知覚と活動は循環していくことになります。余談でした。
2012年10月08日
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明日から十月ですね。今年度も半分が過ぎましたが、今年度中に片付けたい仕事はまだまだ山積……何なら、今月中に終わらせたかった仕事まで、繰り越しております。やっぱり、暑さがいかん、と思うのですよ。暑いと、やる気を消失してしまうので。でも、もう過ごしやすくなったを通り過ぎて、肌寒いになってしまいましたね。ちょうどいい季節が訪れぬまま、冬が足早に近づいてきているようです。でも、冬の方が好きですから、それはよいです。何より、10月はフィギュアスケート開幕の季節!フィギュアスケート大好きな私にとっては、至福の季節です。勿論、見るほう専門で、すべりに行ったりはしないのですけれど。日本は選手層が厚いので、自国の選手ががんばっているのも見ごたえがありますが、何よりフィギュアスケートにおける四肢の形態と動きが大好きなのですよね。勿論、その四肢の動きを保障するのは体幹の強さですから、基礎的なトレーニングは欠かせないのでしょうが、フィギュアの選手は基本的に細いので、スタイル的には見ててうっとり。四肢に発達した筋肉などいらんのです! (>こら)しなやかでなめらかに動けばそれでよし。などと書くと、もう立派なフェチというか、変態というか、どうしようもない感じですが、まあ、好きなものは好き、ということで、はい。去年も震災の影響もあったシーズンだったので、十分に力を発揮できなかったり、震災の状況が色濃く残る中でスポーツに打ち込むということに矛盾や無力を感じたり、こう、日本の選手にとっては、とても大変なシーズンだったと思います。それでも、魂のこもった演技には、本当に感動させてもらいました。時には、涙さえ出るほどに。でも、今年は笑顔で始まって、笑顔で終わることのできるシーズンになればいいなと思います。スケートはスポーツでもありますから、全ての選手が満足いく結果を残せるわけじゃないけれど、笑顔が多いシーズンになればいいな、とは毎回思います。まだまだ震災の被害は勿論残っているのですけれど、人の笑顔や努力の姿は、人を勇気付けるものだと思いますから。そこから元気をもらうスケート好きは、とても多いと思うのです。テレビの前に張り付く日々が、始まりますね。
2012年09月30日
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やっと涼しくなってきました。というか、肌寒いです。あっという間にコタツが必要になりそうですね。暑さも寒さも彼岸まで、とまさにその通りになりました。さて、離人症と脳科学。今日は脳の機能と構造のお話が中心になります。一度「ブロードマンの脳地図」という画像を見ると、わかりやすいかもしれません。というのも、大脳皮質(表面にある神経細胞の集まり)は、例えば後頭葉なら視覚、側頭葉なら聴覚や記憶・言語などというように、場所によって果たす役割が違うんですね。その役割の違いによって、大脳皮質を区分けして、番号を振っていたのが、「ブロードマンの脳地図」と呼ばれるものです。大脳の機能を説明するときには、第1・2・3エリアが、感覚を受け取る、第4エリアが運動の実行を司る、というようにですね、エリアごとに機能を説明することが多いですし、このブログでもエリアで説明していきたいと思いますので、一度ぐぐっていただけると助かります。すぐ出てきますんで。では、本題に入っていきましょう。私たちが、「これは確かに自分の体であって、外界とは皮膚で隔てられていて、自分の意思で動かしているんだ」というように自己と外界を認知するには、体の感覚の情報と視覚の情報が矛盾なく統合されることが必要だ、ということを、前回までは説明してきました(前の記事にまとめてあります)。じゃあ、その体の感覚の情報と視覚の情報がどのように脳の中で処理されて、統合されていくのか、ということを今回は説明していきます。我々の体には、様々な感覚を受け取る細胞があって、その細胞がしっかり働いてくれるからこそ、我々は自分の体の情報や、外部環境の情報を収集することができるわけです。自分の体の情報は、触覚や筋肉の感覚、関節の感覚などから得ることができます。自分の体にはこういうものが触れていて、筋肉はこの分の強さで働いて、手足はこんな風に曲がっている、という情報が、絶えず脳に送られているわけです。たとえば、今の私なら、股関節、膝関節が90度曲がっていて、足の裏とお尻に体重がかかっていて(つまり、床やら椅子やらに触れている)、腕は少し前方に出されて、肘は90度ぐらいに曲がって、指先が頻繁に動いている。大雑把に言うと、そんな情報が絶えず脳に送られているから、私はパソコンの前の椅子に座って、キーボードをたたいている自分を理解しています。外部環境の情報は、その大部分を視覚から、そしてその他聴覚や嗅覚などから得ることができますね。つまり、自分の体の情報や外部環境の情報は、リアルタイムで常に脳に送られているからこそ、我々は自己の状態を把握し、外部環境に適応することができるわけです。この感覚を受け取る細胞を、受容器、と言います。触覚の受容器は身体のいたるところにありますね。視覚の受容器は眼球にありますし、聴覚の受容器は耳にあります。ただ、ですね。この感覚というのは、単なる電気刺激に過ぎない、ということに注意しなければなりません。触覚ならば、皮膚を何かが押しましたよ、というシグナル。筋肉の感覚ならば、筋肉が引き伸ばされましたよ、収縮しましたよ、というシグナル。視覚ならば、網膜の細胞が光刺激を受け取りましたよ、というシグナル。聴覚ならば、鼓膜が振動しましたよ、というシグナル。つまり、末梢の受容器が何らかの刺激を受け取った段階では、それは単に、細胞が反応したか否か、という情報に過ぎないわけです。その情報がどんな種類のもので、どんな性質を持っていて、自分にとってどんな意味を持つのか、というところは、そのシグナルが神経のネットワークを旅して、脳の所定の場所に届けられなければならないんですね。体の感覚ならば、ブロードマンの第1、2、3エリアへ。ちょうど耳の上から反対側への耳へと伸びるヘアバンドのような領域で、それが体のどの部位からのもので、どんな種類で、どんな風な性質で、などといったことが処理されていくわけです。視覚ならば、後頭葉のエリアへ。ちょうど後頭部のあたりに運ばれて、その光の刺激が、どのような情報で(映像で)あるのか、ということが知覚されるわけです。そうやって身体から受け取った刺激、つまり、自分の体がどういう状態で、どういう環境におかれていて、そしてそれは自分にとってどういう意味を持つのか、ということは、脳の特定の領域で処理されなければならないわけです。上述したように、体の感覚の情報は一次感覚野と呼ばれる第1・2・3野へ、視覚情報は後頭葉へ、ちょっと離れた別々の部位に運ばれて処理されているのですが、その情報は今度はどこで統合されるのか。次回に続きます。
2012年09月23日
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暑い……暑すぎます、何ですか、今年は。本州最北端のこの地のいいところは、夏の暑さが早く薄れるということだったのに。九州方面より暑いって……テレビの天気ニュースを見ていて、「なんだそれ!」とつっこんでしまいました。やる気が暑さと共にとけだしますね、こんなだと。さてさて、離人症と脳科学。前回から少し日付があいてしまいましたので、今回はちょっと復習をば。長年、離人症という疾患の特性を考えてきたわけですが、離人感について考えているとですね、どうやら体の感覚の情報と視覚の情報の統合がうまくいっていないために、自分の身体や外界の見え方に対する違和感が生じるのではないかと考えるようになりました。そのひとつの裏付けとして、離人症ではその症状が強いほど、体の感覚の情報と視覚情報を統合する役割を持つと考えられている、右の頭頂葉(頭のてっぺんあたり)の活動が高くなっている、というデータがあります。じゃあ、その体の感覚の情報と視覚情報が何故重要なのかというとですね、それが私たちが自分の体を自分のものであると認識して、そうして皮膚の向こう側にあるものは全て自分ではないんだ、という認識の基盤となるからです。それでは、我々の自己と外界の認識はどのように発達していくのか、それをラカンの「鏡像段階」という理論から説明させてもらいました。赤ん坊は、生まれたばかりの頃は、その未熟な神経系と身体構造のために、自分と外界が渾然一体となったような状態で存在しています。そこから自分で手足を動かしたり、泣いたり笑ったりしながら、自分の体と外界の関係を学んでいくことになるのですが、大体生後6ヵ月頃から18ヵ月頃、赤ん坊は鏡に映った自分の姿を見ることで、「これがまさに自分の姿なのだ」と自己の輪郭として、鏡像を脳内に取り込みます。この段階により、ヒトの脳内には自分自身の姿と、それ以外の外界が区別されて描き出されていくことになるわけですね。何故鏡を見ることに寄って自分の身体イメージを獲得することができるのか。それが体の感覚と視覚の情報が統合されるからでした。つまり、私たちが自分の身体を自分のものとして認識できる理由は、自分の身体が自分の思ったとおりに動くからです。つまり、自分の目の前に手を持ってきて、握ったり開いたりする。握ったときには、指を曲げる筋肉から指が曲がりましたよ、という情報が脳に届くと同時に、視覚からは、目の前の手が「ぐー」になった映像が届くわけです。開いたときには、指を伸ばす筋肉から指が伸びましたよ、という情報が脳に届くと同時に、視覚からは、目の前の手が「ぱー」になった映像が届くわけです。目の前のりんごに触れようと思って手を伸ばしたら、指先に何かが触れた感覚が生じるのと同時に、視覚からはりんごに触れた手、という映像が送られているわけです。こうやって、自分の体を動かすのにあわせて、それに応じた視覚情報が届いて(あるいは逆もあるでしょう)情報を統合してくれるから、我々はこれが間違いなく自分の身体であり、自分で動かしてるんだ、となるわけですね。指を伸ばしたつもりが、チョキになっていたり、りんごに触れた映像が視覚から届いているのに、指先から触覚が伝わらなかったりすれば、自分で動かしていたのと違う、おかしい、だとか、りんごは本当はここにはないのか? なんてことになってしまうわけです。赤ん坊もそれと同じですね。自分が笑えば鏡に映った誰かも笑う。自分が手を上げれば鏡に映った誰かも手を上げる。つまり、鏡の中の誰かは、紛れも無い自分なんだ、ということです。というわけで、体の感覚の情報と視覚情報が統合されるから、自分は皮膚でくるまれた一個の独立した存在であるのだ、という認識が生まれるわけです。ですので、体の感覚の情報と視覚情報の統合は、自分が確かに自分であるということを認識するためには欠かせない機能であるわけです。じゃあ、どこでこの統合が行われるのかというと、上述した頭頂葉、ということになります。その活動が高いと、機能が高くていいんじゃないかと思われるかもしれませんが、そうではなくて、大事なのはバランスなんです。つまり、先ほど右の頭頂葉の活動が高い、ということを書いたのですが、何故「右」なのか、ということです。それは左右の脳の役割の違い――側性といいます――に原因があるですが、脳は右と左がバランスよく働いてくれないと、うまくその機能を発揮できないんですね。その辺も含めてですね、次回こそ、脳の機能について説明していきますね。
2012年09月18日
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“大好きだ”と言ってやったら、クソみたいな私の夫を殺してくれた。レズのバカ女。冒頭から、こんなモノローグで始まるこの作品は、漫画本です。もうですね、私、いたく感動しまして、未だにかなり引きずっています。私、今年で三十になるわけですが、この三十年間、触れてきた様々な物語の中で、これ以上の作品はなかったんじゃないかと思っているぐらいです。それだけ、心に響いて、刻み込まれて、身動きとれなくなってしまうぐらいの物語でした。ストーリーはですね、モノローグそのままです。夫から酷い暴力を日々受けている女性が、同級生で自分に片思いをしていた友人に、夫を殺させます。ただ、ここで語られる物語は、「愛しているから何でもできる」なんてきれいな物語ではありません。モノローグが示すとおり、DVを受けた女性は同級生を利用しただけだし、同級生も、相手が本当は自分のことなんて思っていないとわかっています。わかっていたのに、同級生は言われたとおりに片思いの相手の夫を殺し、そのうえ証拠を隠滅したりもせずに、「犯人が分かったほうが疑われないでしょ」と自首しようとさえする。けれど、DVを受けた女性は、なぜか利用したに過ぎないその人の手を取って、共に逃げることを選ぶ。その二人の逃避行の物語です。でも、この逃避行の物語を紡いでいくのは、愛情とはとても思えない言葉や行動ばかり。DVを受けた女性にとって、その同級生は利用しただけだし、幼い頃のトラウマや同級生だった頃の出来事も重なって、恨みとか憎しみすら抱いている。同級生の方からしたって、急に電話をよこして、人殺しをさせられて、もちろんそれを選び取ったのは自分なのだけれど、全てを失ったには違いないく、後悔したり、もう嫌いだと思ったり、うらんだりもする。そんなふたりのやり取りは、お互いがお互いの心をめった刺しにするような、そんな、相手の一番触れられたくない傷をえぐっていくような、そんなことばの暴力で。でも、だからこそ、私は、この物語には「ほんとう」しかないのだと思いました。もちろん、主人公たちはウソもつきます。虚勢もはります。でも、それもひっくるめて、ここには人間の心の「ほんとう」しかないんだと思ったんです。もう、お互いが相手を憎らしかったり、我慢できなかったり、恨んだり、「なんだよこいつ!」「なんでこんなやつ!」って思って、実際もう、立ち上がれないぐらいに傷つけあったりするんです。でも、そんな剥き出しの魂のやりとりの根底に確かに流れているのは、人間という存在のベースにある「さみしさ」に苦しんで、「どうせ救えないし、救われない」とあきらめそうになりながらも、それでもやっぱり「ひと」を求めてしまう、そんな切実な愛情で結びついたふたりの絆だったのだと思います。ほんとうに、このふたりはどん詰まりです。どうしょうもなく行き止まりなふたりです。でもやっぱり、二人を結び付けていたのは獣が咆哮するような、愛情を求める叫びでした。最後の巻の帯に、「泥の中をかきわけていたらダイヤを見つけた気持ち」的なコメントがあったのですけども、別に、ダイヤじゃなくてもよかったんだと思いますね。もうほんとうに、すくいようのないぐらいどろどろでぐっちゃぐちゃなんですけれども、その中をかきわけてかきわけて進んでいった先にあるものが、例えば本物じゃなくてイミテーションだったとしても、いいんだと思います。きらきら、光ってさえいれば、本物じゃなくても見失わないから。なんだかまだまだ感情が落ち着かず、いっきにばーっと書いてしまいました。もう少し落ち着いたら、もう一回読んで、ちゃんと書きたいです。ちなみにですね、タイトルの『群青』、本当は、羊の上に君が乗って、「ぐん」なのです。変換で出なかったうえ、手書き入力もできず、ひとまず『群青』としました。最後に、片思いされていた方の女性がですね、30年間、ずーっと言えなかった思いを、ようやく口にすることができるんですね。主人公ふたりは、29歳なんですけれども。もう、そこで、号泣もいいところでした。この女性は、30年生きて初めて、心のうちをことばにして伝えることができたけれど、私にはきっと無理だろうから、余計に泣けたのかもしれません。私はきっと、あと30年経ったって、こころのなかのほんとうのことなど言えないだろうなあ……
2012年09月14日
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いくらか暑さがやわらいできたかとは思いますが、やっぱりまだまだ残暑がきついですね。日中はぐったりしてしまいます。そんなあっつい夏を涼しくする、そんな特集の芸術新潮8月号でありました。幽霊画特集。普段、全く好んで見ることはないですし、そもそも日本画の人物の表現が苦手なのですから、幽霊画なんてもっとおどろおどろしくて苦手に決まっています。やっぱり、グロテスクさが先に立っちゃいましたね。こう、実物は見たくないなあ、と。幽霊画ですから、ある意味、それで表現としては成功してるんでしょうかね……そう、怖いというより気持ち悪い。なんかこう、日本画の人の姿は受け付けられない私です。しかし、幽霊画の企画展をやっている美術館では、面白い企画を併せてやっているのを知って、思わずググってしまいましたよね。その名も、「YKI48総選挙」。「YKI」とは何かというと、非常に単純でして、「YOKAI」、つまり妖怪です。展覧会作品から48作品を選出し、その作品にキャッチコピーをつけてですね、投票して1位を決める(入場チケットに投票権がついているそうです)という企画です。そのキャッチコピーもまた、「恋人候補」なんて幽霊画はまだしも、「寒さに強い」とか、「虐待しない」とか、「総長」だとか、いちいち面白いんですね。思わず、ホームページで全作品閲覧してしまいました。こういう参加型の企画も面白いですよね。不思議なもので、キャッチコピーがついた瞬間、おどろおどろしさとか、気持ち悪さとか、そういった負の気持ちが、「笑い」という正の方向に変わるんですよね。そういうユーモアって、とてもよいと思います。やっぱり、何はともあれ笑ってる、笑える、っていうのは、大抵の面で強みになりますから。ちなみに私が幽霊を信じているかといいますと、自分は信じていないけれど、別に信じててもいいんじゃないかな、という感じです。基本的に人は死んだらそこまでで、それ以降は無だと思っているのですが、ただ、それは自分自身のことだけで、残された人の中に残るものは確実にあります。それがお墓という形をとろうが、幽霊という形をとろうが、思い出という形をとろうが、空の星という形をとろうが、それが生きている人の助けになるのなら、それは全部肯定されうるものだと、そう思うんです。ある人が亡くなってしまったことで、残された人の世界にぽっかりとあいてしまった、その人の輪郭を持ったスペースを、何で埋めていくのか、そういう問題なのかな、とも思いますから。
2012年09月09日
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気がつけば更新せぬままに2週間が経過するところでした……ちょっと忙しくしておりましたが、ちゃんと生きております、はい。やっと夏の暑さが和らいできましたね。朝、仕事に行こうと家の扉を開いて、「うっわぁ……」とその暑さにドアを閉めたくなることはなくなってきました。いよいよ読書の秋です。やっぱり、あっついというのは人の気力を奪いますよね。なーんかだらだらしてしまいますから。そんな読書の秋の前に読んだ1冊です。<あらすじ>鎌倉の片隅でひっそりと営業している古本屋「ビブリア古書堂」。そこの店主は古本屋のイメージに合わない若くきれいな女性だ。残念なのは、初対面の人間とは口もきけない人見知り。接客業を営む者として心配になる女性だった。だが、古書の知識は並大抵ではない。人に対してと真逆に、本には人一倍の情熱を燃やす彼女のもとには、いわくつきの古書が持ち込まれることも。彼女は古書にまつわる謎と秘密を、まるで見てきたかのように解き明かしていく。これは"古書と秘密"の物語。とってもざっくり説明しますと、ある出来事をきっかけに、古書堂でバイトすることになった青年と、古書堂の店主である女性のもとに訪れる本が引き起こす事件あれこれ、です。ひっじょうにわかりやすい、いわゆる萌え要素を多分に含んだ1冊であったと思われます。いや、いくら本好きでも、本のことになると豹変しすぎだろう、とか、(そもそも、本のことじゃないんじゃ……、と思うところでも、 物語の核心であれば性格が変わったりもします)というか、主人公の青年が本を読めない理由が最後までよくわからないよ、だって短編は読めてるじゃない、とかですね、色々と「あらまあ」な部分はあるんですけれども、それでも、面白かったです、この作品。久々に小説を読んだのですが、わかりよくてよかったですね。キャラクタの設定が「ん?」と思いはするものの(それでも嫌いじゃないです)、物語の軸がしっかり一本通っていて、本に対する愛情がひしひし伝わってきました。それは、本という伝達媒体そのものに対する愛情ですね。ページをめくるという行為、表紙のたたずまい、背表紙が整然と並ぶ本棚、ほどよい厚みであったり、たわむほどに薄っぺらであったりする紙の重なり。そういったものに愛着があるので、非常に読んでいて、そのあたりは好きでした。別に、ここまでキャラクタを極端に作らなくても、十分に面白かったのではないかな、と思います。本が大好きで(これは異常に好きでもいいと思われます)、ちょっと(こちらはあくまで人並みに)人見知りな美人さんと、今まで本に興味がなかったけれど、なんか面白そうだし、そもそも美人さんに惚れちゃったし、という青年という月並みな設定でも、私は十分に楽しめました。というか、そっちの方が好きだったかと思います。ライトノベル的な感じのキャラクタ、なんでしょうね。私、ライトノベルも好きですけれど(殆ど読みませんが)、なんだか、これはもうちょっと硬派に作ってもよかったような。でも、ですね。面白いことには変わりありません。本という存在への愛情を、絶えずまとっている限り、このシリーズは読み続けたいなあ、と思っています。近々、2巻を買ってくる予定です。
2012年09月07日
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どうにも残暑が厳しいですね。暑いのが非常に苦手な私はぐったりしております。寒さはあんまり感じないんですけれどね。暑いのはどうも我慢できません。エコの流れに逆らって、クーラーフル稼働になってます……それよりも酷い暑がりなのは、母親ですね。当方、本州最北端ですので、残暑が厳しいとはいうものの、朝と夜はそれほどでもなく、結構日中と気温差があります。ですので、過ごしやすいはずの夜間なのに、暑い暑いとクーラーはつけっぱなし。さすがにクーラーが効きすぎて、羽毛布団かぶって寝てます、私。まあ、眠れないのも気の毒なので、何も言いませんけれど……まあ、それでもあと1週間程度ですかね。暑さも寒さも我慢、我慢。と、いうわけでようやく読み終えた1冊の読書メモ。確か、5月ぐらいに買った本だったような……だからといってつまらなかったわけでは決してなく、「1万3000年にわたる人類史の謎」という副題がつけられたこの本の内容は、むしろとても興味深かったのですが、厚いのですよ、わりと。そのわりにひとつの区切りが短いので、1日1区切りでとか思っていましたら、こんなに時間がかかってしまいました。体調不良もありましたけれども。<概要>アメリカ大陸の先住民はなぜ、旧大陸の住民に征服されたのか。なぜ、その逆は起こらなかったのか。現在の世界に広がる富とパワーの「地域格差」を生み出したものとは。1万3000年にわたる人類史のダイナミズムに隠された壮大な謎を、進化生物学、生物地理学、文化人類学、言語学など、広範な最新知見を縦横に駆使して解き明かす。ピュリッツァー賞、国際コスモス賞、朝日新聞「ゼロ年代の50冊」第1位を受賞した名著、待望の文庫化。概要にあるようにですね、この本はある疑問から開始しています。今、この世界にあるパワーバランス、つまり、西欧諸国のような進んでいる国があって、アフリカに代表される発展途上国がある、あるいは、暮らしに必要である以上に物質的に豊かな国がある一方で、その日食べるのにも困るような、貧しい国がある、そうした世界に広がる格差は、何によりもたらされているものなのか。その格差は、先に発展を手にした西欧諸国が、ほかの国々を侵略し植民地化していく流れの中で生じたものなのだとして、じゃあ、何故、西欧の諸地域はほかの地域に比べて時代的に早く発展することができたのか。それは、差別の歴史の中で、そして今でもかたくなに残っている、ある人種、つまり白人が優れていて、ほかの種族は劣っているために、白人が西欧の諸地域がいち早く発展を遂げたということなのか。白人種が優れているために、アフリカ大陸や東南アジア諸国を植民地かしたり、南北アメリカ大陸の先住民を打ち負かすことにつながったということなのか。簡単にいえば、以下のようになるかと思います。現在の世界の情勢は、白人が優れているから白人がメインとなる世界が先進国となり、黄色人種や黒人が劣っているからそれらの人種が暮らす国が遅れる形になったのか?そんな疑問がまずは語られます。作者の立場は、「否」です。つまり、人種の優劣によって、進んでいる国と、遅れている国とができたわけではない。じゃあ、何が社会の進歩の度合いをわけたのか。答えがつまり、この本のタイトルであるわけですが、それをですね、食料生産の観点とか(植物学や動物学)、地誌的なもの、製鉄などの技術や、病原菌への免疫学、言語学、等等ですね、多様な学問の視点からアプローチして、ときあかしていくという、非常にわくわくさせられる内容になっております。もう、「なるほど」だらけですね。いちいち腑に落ちるのです。ああ、だからこの地域は発展できて、この地域は難しかったのか、と。今はまだ上巻を読み終えたばかりで、まだ同じぐらいに厚い下巻が残っております。どのくらい時間がかかるかはわかりませんが、下巻もわくわくしながらよめそうです。
2012年08月26日
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暑い日が続いていますね。気温はたいしたことがなくとも、なんだか湿気て不快指数高めです。オリンピックは終わってしまいましたが、今度は甲子園ですね。当県出身の高校はまだ残っておりますので、盛り上がっています。プロ野球は見ませんが、甲子園は大好きでして。毎年、暇があれば見ています。さて、離人症と脳科学。前回までのお話をさらりと復習します。このテーマの最初に、離人症の症状を考えていると、どうやら体の感覚と視覚の情報の統合がうまくいっていないために、自分の身体や外界に対する違和感が生じるのでは、という疑問が生じたと書きました。実際に、離人症では体の感覚と視覚の情報を照合・統合する頭頂葉の右側の活動が、異常に高くなっているというデータも紹介しましたね。ただ、この問題を考えるときに、じゃあ、我々はそもそも自分の体や外界の状況をどういう風に把握しているの?ということを理解しなければ、なかなか難しいところがあります。ですから、赤ん坊までさかのぼって発達の視点から見てみると、どうやら赤ん坊は、身体的にも神経学的にも未熟な状態で生まれてくるために、自己と外界の区別がなく、世界と自己とが渾然一体になったような状態にある、ということを説明しました。つまり、自分は皮膚でくるまれた一個の存在ではなく、世界は自分であり、自分は世界であるという、非常に充足した状態にある、ということです。そこから赤ん坊がいかに自己身体のイメージを構築し、皮膚で隔てられた外界のイメージをどのように脳内に描き出して、自分と外界との相互関係を築き上げていくのか。前置きが長くなってしまいましたが、それが今日の内容になります。この世界に生み落とされた赤ん坊は、非常に劇的な変化を経験することになります。それまで狭い子宮という環境の中で、羊水の中にぷかりと手足を折り曲げて浮かび、自分で栄養を取る必要も呼吸をする必要もなかった赤ん坊は、急に重力に支配された地球という壁のない環境に落とされて、はい呼吸呼吸とばちばちたたかれたりして、もう、ある種のトラウマになるほどの変化です。身体構造的にも神経学的にも未発達な赤ん坊は、もう、なすすべがないわけですね。その中でも、他者の庇護下に置かれながら、赤ん坊は自分の手足をばたばたと一見無目的に動かしてみたり、手の指をくわえたり足の指をくわえてみたり、笑いかけられて笑い返してみたり(ミラーニューロンの役割と言われています)、泣きじゃくってみたり、そういう行動を環境に対してとっていくわけですね。その、外界への働きかけの中で、赤ん坊は気がつくわけです。今、動かしたり、口の中にいれたのは、自分の体の一部であると。自分が泣いたり、笑ったり、そうしたアクションをすれば、それに応じた反応、――――それは母親のぬくもりであったり、哺乳であったり、 オムツの汚れなどの不快な刺激からの解放であったりするかもしれません――――そうした反応がかえってくるのだと。そうしてぼんやりと、自分の身体や自分を取り巻く存在について認識する赤ん坊ですが、大体生後6ヵ月から18ヵ月のあたりにですね、大きな経験をします。この頃、赤ん坊は自己の像を他者の中に求めるようになる、つまり、母親や、父親や、あるいはその他の自分に近しい他人の中に、自分の姿の輪郭を探して、その姿を想像的に脳内に先取りして、自己のイメージを築き上げるわけです。実際に、ある種の生物では、生物学的に成熟した個体の姿を見ることで、自身もその成熟した構造に向けての発達を遂げる、つまり、「自分、あんな姿になればいいんだな」と大人の姿を見ることで、自分もそのように成長していく動物もいます。ただ、ヒトにおいてその重要な役割を他者の像は、「鏡像」になります。つまり、鏡に映った自分の姿、ということですね。鏡の前に座り込み、自分が手を上げると、鏡の中の誰かも手を上げる。自分が笑うと、鏡の中の誰かも笑う。自分が近づくと、鏡の中の誰かも近づいてくる。自分が遠ざかると、鏡の中の誰かも後ずさっていく。その経験を通して、赤ん坊はこれぞまさに自分の姿だと、自分の身体の輪郭、自分はこういう姿なんだと、その自己身体イメージを獲得するわけです。これは、ちょっと古いんですが、ジャック・ラカンの「鏡像段階論」といわれるものです。そうして赤ん坊は、鏡の前でいろいろ動いて試して遊びながら、自分の身体や自分の身体と外部環境とのかかわりについて学び、自己を確立し、外界から隔たれた一個の存在であるということを理解するんですね。つまり、ここで行われているのが、体の感覚の情報と視覚の情報との照らし合わせ、ですよね。こういう風に筋肉を動かして、関節を動かした(体の感覚情報)。そうすると、鏡の中の自分の手はこう動いた(つまり視覚情報)。こうやってりんごに腕を伸ばして触れたら、指先に触覚情報を感じると同時に(体の感覚の情報)、自分の指先がりんごに触れるのが見えた(視覚情報)。こうして、体の感覚の情報に対して、視覚情報が矛盾なく従うことで、我々の統一的な身体のイメージは確立されていくわけです。ここが機能不全になっちゃったりしたら、うまく体の状態や外部状況を把握できないことになってしまいます。じゃあ、この体の感覚の情報と視覚の情報の照合は脳のどの部分で行われているのか、次回もう少しくわしく見ていくことにしましょう。
2012年08月19日
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いやあ、女子バレーボール、すばらしかったですね。家でテレビの前で騒ぎながら見ていました。相手が韓国だなんて、またいやな対戦だなあと思いながらも見ていましたが、(向こうの選手がやたらと意地になったみたいに拾いまくるのでじれったい……)なんのその、強かったですね、日本女子バレー。結果、オリンピックで銅メダル!選手や監督が言うように、まさにチーム力でしたね~途中途中、相手のエース選手、ひとりで戦っているんじゃないかなあと思いましたから。カメラの写し方なのかもしれないけれど、随分孤独に戦っているなあ、と。日本との対比で余計そう思えたんですかね。外国の選手みたいにスパイクを高いところからびしっと叩き落す、なんてすかっとするシーンはあんまりないんですけれど、体格では完全に劣る日本の選手が、つないでつないで点を取る、そんなある意味では泥臭いような戦い方が、すごくよかったです。いやあ、今回のオリンピック、なんだか日本の選手にすごく楽しませてもらったような。嬉しかったり悔しかったり、いっぱい心を動かしてもらえました。自分のことじゃないんですけれど、日本の選手が笑っているのは嬉しいですねえ。と、いうわけで、芸術新潮7月号。腸の調子がいくらか落ち着いてきましたので、読書も再開しております。今回の特集はいわさきちひろさんの特集でした。思い返してみれば、絵本が好きだと言っているにもかかわらず、いわさきちひろんさんの絵本は1冊も持っていなかったです。でも、だからといって彼女の絵になじみがないかと言われればそんなことはなく、本屋で見かけたり、友だちの家にかかっていたりと、結構目にしてはいるんですね。ただ、まとまって作品を見るのは初めてでした。記事の中でも言及されていますが、かわいくて優しい以上に、どこかこう、哀しさをまとう絵ですよね。それはこう、何かの喪失とか、傷ついたとか、何かことばで言い表すことができる、そういう具体的な形の悲しさじゃなくて、彼女の絵のように、もっと淡くて輪郭が曖昧な悲しさ、というんですかね。人として生きるということのものがなしさとか、「あはれ」ということを(もののあはれ、という古典の意味での)、輪郭線のかわりに身にまとったような、そんなしっとりとした絵です。画面から見つめてくる幼い子どもの視線が、どうしてせかいはこんなふうなのかな? と、どうしてみんながわらっていることはできないのかな? と、そう問いかけているようで、どきっとします。だからこそただの「かわいい絵本の絵」で終わらない作品性を、いわさきちひろさんの絵は持ち、人を惹きつけるんでしょうね。
2012年08月12日
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腸の調子はいくらか良くなってきました。一時は一日20回ぐらい下痢をしていて、もう、げっそりでしたけれども。これも家族が腸によい食事を工夫してくれた結果ですね。お薬も飲んでいますが、それよりも食生活の改善の方が大きいと思います。感謝、感謝。と、いうわけで、離人症と脳科学シリーズ、続けていきますね。前回は離人症の症状を脳科学から考えてみようということで、体の感覚の情報と視覚からの情報がうまく統合されないことに、原因があるのではないかというところを書きました。そして、体の感覚と視覚からの情報の照合を行う部位である頭頂葉の上の部分が、実際に離人症の患者では過剰に活動する傾向があるのだと、そういう科学的な裏づけも紹介しました。(過剰な活動が右側のみなのも理由があるのですが、それはひとまずおいておきます)では、そもそも、です。私たちは、どのようにして目に見える手が自分のものだと理解できるのでしょうか。どのようにして今動かしているのが自分の体だと把握できるのでしょうか。どうしてここからここまでが自分の体なのだと、外界との境界を認識できるのでしょうか。残念ながら、ヒトは生まれながらに自己と外界の明確な判別をできるわけではありません。つまり、自分の身体や外の世界を区別する能力は生まれつきのものではなく、成長の過程の中で、自己と外界とを構築していかなければならないんですね。実際に、生まれたばかりの赤ん坊は、自己と外界の区別がありません。この辺りのことは、人間の孤独さについて書いた以前の記事に、簡単に紹介したことがあったと思います。これは、発達しすぎた脳を持った人間が背負ったリスクでもあるのでしょうが、ヒトの赤ん坊というのは、神経学的にも身体的にも未熟な状態で生まれてくるんですね。なぜかというと、脳の発達を待っていると、頭が大きくなりすぎて産道を抜けられなくなるからです。では、「神経学的に未熟」な状態が、どういう状態を指すかというと、身体を通して入ってくる感覚や運動を通して得られる外界の情報が、いまだ統合されていないし、意味づけもされていない、ということになります。体の感覚は触覚や痛覚ばかりではなく、関節の曲がり具合や伸び具合、どのように関節が動いているのかという情報、筋肉がどのような力で働いているのかという情報を伝える、深部感覚というものがあります。これらの感覚が統合されて初めて、私たちは自分の身体がどのような状態で、どのように動いているのかを把握できます。それに視覚情報が付与されることで、外界との区別や意味づけが更に進行していくことになるわけです。その統合がいまだ未成熟である、ということがつまり、自分の体がどこからどこまでで、自分の体がどのような状態に置かれているの分からず、そうであるがゆえに、自己と外界は渾然一体となって存在する、という赤ん坊の状態につながります。世界は自分であり、自分は世界である。そういうことが成り立っている、ということですね。赤ん坊は外界、特に母親と渾然一体となって存在するということになりますから、非常に充足した世界を生きていることになるでしょう。では、そんな赤ん坊が自己を把握し、外界を認識・構築していくのは、どのようなヒトの機能と構造によるものなのでしょうか?それはまた次回にお話していきます。
2012年08月05日
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最近、腸の調子がかんばしくなく、おなかぴーぴーであります。したがって、ぐったりしておりまして、ブログのネタがない、ということで、しばらく前から考えていた離人症と脳の関係について、ちょっとずつですが記していきたい、と思います。私自身、医療従事者として、ある程度脳の勉強はしているつもりではあります。しかしながら、ドクターではないので、やはり素人考えの域を出ないとは思いますが、ドクターよりは真剣に考えているはず!(だって自分のことですし)、ということで、ここまでわかったところを書いていきますね。私は自分の身体に違和感を感じる症状もありまして、「離人症」という病気の性質を考えたときに、自分で見ている視覚的な情報と、自分が感じている身体感覚、つまりボディ・イメージの間に、何らかの統合不全が生じているのでは?という思いを強くしていきました。ボディ・イメージを作るのは脳の中でも頭頂葉、頭のてっぺんのちょっと後ろ側、という場所です。ここで、体の感覚の情報……触覚とか、関節の感覚(自分の手足がどのくらい曲がっているか、など)と、後頭葉から来る視覚の情報が照合されて、私たちは自分の体はここからここまでで、今こういう状態になっているんだ、ということを把握できるわけです。つまり、です。離人症は自分の体の感覚が自分のものではないような感じがしたり、自分の手足の見え方が変だったり、時には自分を見下ろしているような感覚がしたりと、そんな症状が出てくるわけですから、自分で感じているものの情報と、自分が見ている世界の情報を、うまく一致させることができないのではないか、という風に私は考えるようになっていったわけです。つまり、頭頂葉の脳の活動状態が普通の人に比べ、過活動になっている、あるいは低活動になっている、なんていう状態が起こっているのではないか、と。そんな風に考えながら脳の勉強をしていったりしていてですね、つい最近、こんな文章を見つけました。「離人症の重症度は、右の頭頂葉の活動の強さと相関する」ビンゴ! と心の中で叫びつつ、ついつい太字にしてしまいました。ほら、やっぱり脳の問題じゃないの、ということで、すっきりしたのです。つまり、離人症の症状は、右の頭頂葉の活動があまりにも活発になると、それだけ強くなる、ということですね。それ以来(見つけたのはほんと2週間前、ぐらいですが)、腸の調子も悪いせいか、離人症の症状が強くなってくるとですね、「あー、今、右の頭頂葉働きすぎているんだなあ」くらいに思えてですね、不思議とすっきりするといいますか、なんか落ち着くのですよ。原因がわからない、というのが一番いやですからねえ……まあ、何故そういう過剰な活動が起こるのかはわからないのですけれども。そんなこんなでですね、ここは離人症のサイトにもかかわらず、いつも私の日常に終始した内容でお届けしておりましたが、今回はいくらかでも離人症の方々の参考になる情報を提供できそうな気がします。あくまでも「気がするだけ」ですので、苦情はちょっとご容赦を……ただ、体の感覚情報と視覚情報の統合、と突然書かれたところでですね、何のことなの? ということになるかもしれませんので、このボディ・イメージについていくつか説明させていただいたうえで、離人症についての話に進んでいきたいと思います。すでにご存知の方は、さらさらりと流していただければ……つまり、ボディ・イメージがいかに脳の中に形成されていくのか、どのように私たちは自分の身体が自分のものである、ということを認識していくのか、ということを説明してから、その障害としての離人症について説明できれば、と。ひとまず私の腸子が回復するまでは、そんな感じでお届けします。
2012年07月29日
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久々に見た洋画です。アカデミー賞を取ったりしてますので、一時話題になったりもしましたね。史実に基づいた映画で、吃音症の英国王を主人公にした物語です。昔のトラウマにより、吃音症となってしまった主人公は、本来ならば王となっていた長男が、王位を放棄したために、英国王として即位しなければならなくなります。しかし、王といえば、国の代表として、大事な局面で国民に語り掛けるスピーチをしなければならなくなる。それまでも主人公は、吃音症を治すために様々な医師にかかってきましたが、どれも効を奏さず、人前で話さなければならない場面では失敗を繰り返してきました。そこで主人公の妻が最後の砦と訪れた場所が、最新の言語療法を行っているとは銘打つものの、その新しさ故に周囲からは理解されていなかったオーストラリアのセラピスト。物語は主人公とセラピスト、二人の出会いから、吃音症の治療や、王として即位しなければならなくなった主人公の苦悩などを軸に進みます。非常に地味なんですけれども、すごくいい映画でした。英国王というある種、尊い人間として一般人からは離れたところにいる公人を、あえて一人の苦悩する等身大の人間として描いていたのが、印象的でした。アカデミー賞というと、こう、ドラマチックでスペクタクルな内容や、派手な演出等々思い浮かべてしまうのですが、この映画はいい意味で地味で大げさな演出なく、ひとりの人間が過去やコンプレックスを乗り越えて成長していく過程を見せてくれました。ですから、何がよかった、どんなシーンがよかったと問われても、とにかくよかった、としか説明できないのですが、本当、とにかくよかった。アカデミー賞の中でも、こんな映画あるんだなあ、と思いながら見ていましたね。俳優陣の誰も名前を知らないんですが、演技がすばらしいのは勿論として。なんだか今の時代は、うまくしゃべれるということが、頭がいいであるとか、成功していくであるとか、そんな風にとらえられることが多いですよね。それは、うまくしゃべれない人は、うまくしゃべれる人にどうしたって言い負かされてしまうわけで、仕方の無いことなのかもしれないけれど、でもだからといって、うまくしゃべれない人の考えというか、頭の中身とか経験の知というものが劣っているとか、そういうわけでは決してないんですよね。人は黙ってひとりでいる時間も、心の内側で何かしら言語的な思考をしているわけで、その表面的には孤独であり無言であるところの時間が、その人の深さを作っていくのだとしたら、表面的にぺらぺらしゃべられる言葉よりも、うまくしゃべれない人の無言の語りの時間の方が、ずっと興味があります。この、英国王のスピーチでもそうですよね。主人公はうまくしゃべることはできないんだけれど、結局はすばらしい王様になります。勿論、セラピストとの二人三脚で吃音症を克服したということもすばらしいんですが、それまでのうまくしゃべれない時間の中で、主人公が心の内側で考え、語ろうとしてきたことの蓄積があるから、彼はすばらしい王様になれたのだと思います。うまくしゃべれることは、確かにひとつの才能なのですが、語られない言葉の方にも、耳を傾けられる人間でありたいですね。
2012年07月21日
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6月号で芸術新潮も750号ということで、すごいな、と単純に思いました。月刊誌ですから、750÷12で、えーと、……62ぐらいですか?創刊してから62年。還暦越えてますね。私の年の約2倍、いろんな人やらモノやら特集してきたんですね。個人的には、昔は「古いものである」とか「長く続いている」とか「長生き」とか、だからって単純に偉いわけじゃないし、価値があるわけじゃないし、と思っていましたが、別に偉いとか価値とかそういうのはおいといて、続いているものは面白いな、と思うようになりました。変化していくものですね。しみじみ。と、いうわけで、芸術新潮第750号は、古事記の特集でした。古事記、大学生のときに読んでおこうと思って、はりきって一度に上・中・下、原文付きのものを買ったのですが、見事に上巻もけっこう初期のあたりで挫折。たぶん、スサノオがアマテラスとけんかした、ぐらいのあたりまでしか呼んでおりません。その後も何年かに一回、チャレンジするのですが、全然ダメなのです。くじけてしまうんですよね、必ず。神話、好きなはずなんです。ギリシャ神話とか、星座にまつわるものとか、ほんと、知りたいと思うんですけれど、思うだけでですね、なんだか全然ページが進みません。古事記だって、日本に生まれたからには、その最初の創世記を読んでおきたいのですが、思うだけで、今回も終わる気配です。全然、本気じゃないんでしょうね。まだですね、たぶん、古事記には呼ばれてないんです。せめてもの慰めに、そういうことにしておきます。でも、実際、巡り会わせというものはあるような気がしますね。そのときに、その本に、あるいはそのテーマに引き寄せられてしまうのは、偶然で終わらせるには惜しく、かといって必然と呼ぶほど大げさなことでもないのだけれど、何かしら「呼ばれる」とか「招かれる」とか、そんなものがある気がします。本来的にはヒトとヒト、ヒトとモノ、ヒトと場所、その間には普段は目に見えないほそこーい線がはりめぐらされてつながって、何かをきっかけに、その線が見えるというか、線同士が引っ張られてしまったりとか、そんな風なことも、起こりうるよな、と。話を戻して古事記ですが、思うにですね、日本神話は特にだと思うんですが、こういう昔の話は、文字じゃなくて「語り」であった方が、ずっと受け入れやすく、しっくりくるんじゃないでしょうか。朗読テープでも、子どもの枕元で話される昔語りでも何でもいいんですが、こういう話は声で「語り継がれる」という形式がしっくり来る気がします。まあ、口承だと不確かで、誰かが恣意的に自分に都合よく内容を変えてしまう可能性もあるから、それまで口承であった古事記が文字に起こされた、という歴史はあるのですが、その原本とは別にですね、やっぱり「語り」も残して欲しいな、と。朗読テープなら、私もいける気がするのですよ。iPodで、寝る前にうとうと聞く。そういうのが、ぴったりな気がしますね。ま、私、iPodもってないんですけどね……ウォークマン使ってます。
2012年07月14日
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久々になんとなく映画が見たくなって、DVDを借りてきました。2本借りてきたんですが、そのうちの1本ですね。ひとつは真面目っぽいのを借りたので、もうひとつはコメディでと思い、好きな俳優さんである堺雅人さんが出ているものを選びました。まあ、話的にはしょうもない詐欺師の話なんですけどね。詐欺の話を聞いているとつきものの、「何でそんなあやしい話を信じられるんだ!?」と思うこと以上の、ありえないくらいにあやしさ満点の結婚詐欺師と、そんな結婚詐欺師にだまされる女性たちの物語でした。おもっきり日本人顔で(鼻だけは高い)「アメリカの軍のパイロット」だと言い張り、つつけばすぐに穴があきそうな、危ういウソで女性たちをだましていく、そんなクヒオ大佐を演じる堺雅人さん、よかったですねえ。いわゆる悪賢い、「だましてだまして、むしりとって逃走!」みたいな、そんな悪い人じゃないというか、なんだか、憎めないんですよ。憎めないというか、なんとももう、「おばか」で「情けない」んですね。誰も信じないよ、というしょうもないウソの連続の果て、銀座のおねえさんにはあっさりウソがばれて、自分がカモにされてみたり、あるいはだましている女性の悪い弟に、あっさり見抜かれて脅されてみたり。おおよそ、知的で冷静で冷酷な詐欺師、という像からはほど遠くてですね、とにかく、「ばかだねえ」と呆れてしまうような、そんな詐欺師です。そう考えると、一番最初からだまされている(結局ふたりしかだませてないんですが)、小さなお弁当屋さんの店長の女性を演じる、松雪泰子さんの演技も、すばらしかったんでしょうね。こんなどうしょうもない結婚詐欺師であるクヒオ大佐に、一生懸命ついていこうとしては貢いでしまう純粋な女性を、しかも、「なんでこんな男に」というバカっぽさもあまり感じさせることなく、見事に演じきっていたと思われます。しかし、あれですね、詐欺師にはこういうタイプもいるのかもしれないなあ、とも思ってしまいました。そういう面でも演技がすばらしかったんでしょう。こう、つらい現実から目を背けるために、自分でもウソを本当だと信じて、そのウソを貫き通したならば、それはやがて真実になるんじゃないかという、そんなことしか慰めにならない、切迫した悲しみに満ちた心。ウソをついて、ついて、現実を塗り固めて、自分でも本当はそうなんだって信じて、そうすることでやっと生きていかれる。まあ、それは実際ウソだし、詐欺なんだけれども、その人の中ではまぎれもない真実になりかわっているから、どうしようもないのかもしれない、とも思いましたね。いい、悪いでいうならば、当然犯罪で悪いことなんだけれども、それだけでははかれない悲しみというものが現実にはあって。だからそういう場合、人はわざとだまされてしまうのかもしれません。ウソだって、冷静な部分ではわかってるんだけども、その人の作り上げた虚飾だらけの現実に、一緒に寄り添いたくなってしまって、無意識的に、ウソの部分に知らないふりをして、自分もその世界を信じているだっていうウソを、貫き通そうとする。まさに、松雪泰子さん演じる女性が、そんな感じで、だからクヒオ大佐に思ったのとは違って、「ばかだなあ」という感じはあまり受けなかったのかもしれません。面白い映画でした。特に、俳優さんの演技がすばらしかったです。
2012年07月08日
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相対性理論、量子論、宇宙などの難しいに違いない科学分野の最新の知見から、タイムトラベルは可能か、透明マントは作れるか、などの誰もが一度は考えたことがありそうな疑問まで、ふざけたおしながら解説していく、という1冊でした。いやあ、面白かったですねえ。帯には序文からの以下の抜粋が載せられています。「考えてみてください。 宇宙のこと、時間のこと、生命の進化のこと、 そういうものには誰もが少しは興味を持っているはずなんです。 だって自分が生きているこの世界のことなんですから。 でもそれをちゃんと勉強することに抵抗があるのはなぜかというと、 それは教科書や専門書がまったくバカバカしくないせいです」まさにその通りではないでしょうか。「どうせ理解できないから」との食わず嫌いが多いのが、理系の一般知識とか雑学なんだと思われます。たいていの人間は笑うことが好きなわけで、それならばふざけながら科学を語っていこうというこの試み、とてもいいと思いました。実際、バカバカしいたとえ話を満載して、科学のあれやこれやを紐解いていこう、という本書の目的は、しっかりと果たされていると思われます。私はこういうふざけかた、大好きでして。著者の煩悩やら、某ネコ型ロボットやら、マツコ・デラックスやら、徹子の部屋やら、ゴキへの憎しみやら、くすっとくるような笑いを誘いつつ、あ、こういうことだったんだ、となんとなーくなんとか論の概要が理解できる。そういった内容になっておりまして、私が今まで読んだ科学の入門書の中では、まず間違いなく一番ですね。とにかく、読み進められますから。著者はインドへの旅行記やら、南米へのオーパーツ探しやら、私が殆ど興味がないところでの本を出していたりもするのですが、文章が面白かったので、ほかの著作も読みたくなってしまいましたから。久しぶりにすいすいすいーっと読み進めていった一冊でもありました。こういう入門書、もっと増えると面白いんですけれどね。
2012年07月01日
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気がついたら、離人症になってから今月で9年ほど経っていました。私、今年で三十代への仲間入りを見事に果たすことになりますので、人生の約三分の一を離人症とお付き合いしていることになります。まさか、こんなに長い付き合いになるとは、発症した頃は思いもしませんでした。絶対治る、だとかは、わりと最初から思っていなくて、もしかしたらずっと付き合っていかないといけないかもしれないと、そう思っている割合が、治癒に対する期待よりも多かったように思います。でも、実際にこう、長く年月が経ってきますと、何やら感慨深いような気もしますね。いや、よくまあここまで普通に生きてきたもんだ、と。まあ、あんまり普通じゃないときもありますし、そもそも離人症を患っている時点で普通じゃないだろ、ということもありますし、正直しんどいこともありますが、とりあえず、日常生活を送れれば普通と、そういう低めのハードルを自分で設定しているわけです。今も、ずっとこのままなのかなあ、と思う気持ちと、このままでもとりあえず生きてけるんだから、それでよしとしたら? という気持ちと、せめぎあいながら日々過ごしています。離人症であることが、もう日常となった今、この状態が私にとっての普通といえば普通なんでしょうしね。かえって、もしも今の見え方とか感じ方とか、「治った」としたらどうなるんだろ? と不安なぐらいです。良いほうへの変化にさえも臆病になるなんて、慣れとは怖いものですね。このブログも5年以上続けているわけで、離人と付き合いながら、とりあえず生きていけるよ、ということをこの場所で小さな声ながらも発信しながら来たわけですが、じゃあ、私が離人と一緒に生きてきた年月の間に、離人症という疾患を取り巻く状況が変わったかというと、何も変わっていない気がします。苦しくて病院に行ったとしても、合併することが多いという理由で統合失調症やうつ病、神経症などと診断され、その診断名に基づく薬を処方されたところで、たいした効果を発揮しない。統合失調症やうつ病に発展していく症状がその後も見られなかったとしても、診断がくつがえることは稀であり、そのまま惰性的に薬は処方され続けます。そうこうしているうちに、いつの間にか1分間診療の定期受診となり、毎回診察の様子を録音していれば、全く同じ会話が繰り返されているのでは、と思えるぐらいです。「どうですか?」「変わりませんね」「食欲はありますか?」「食べてます」「眠れていますか?」「眠れてます」「見え方は変わりませんか?」「変わりませんね」「そうですか……じゃあ、また同じお薬を出しておきますね」「ありがとうございました」ちなみに、私の場合はこの数年、いつもこんな感じです。統合失調症だってうつ病だって、脳の機能と照らし合わされながら病態が解明されていくのに、果たして離人症単独発症の研究は進んでいるのでしょうか……個人的には、もう、脳の血流とか、脳波とか、ちょっと撮ってみて欲しいですね。空間認識とか、身体イメージとか、そういったものを司る脳の部位が、ちょっと違う風になってるかもしれないし、とも思うわけです。こう、せめて希望になるような知らせがあればなあ、と思うんですけれども、なかなか聞こえてはきませんね。あくまで、疾患というよりも症状の一つとして、たいして重要視されていないんでしょう。そうなれば、この現実とどういう風に折り合っていくか、どうすれば生きやすくなるのか、ということを考えていくしかなくなります。私の付き合い方は、とにかく「考えない」ことでした。症状が強くこようが、「きたきた、またか」ぐらいで、自分の症状についても不安についてもとにかく考えずに無視してやり過ごす。そうしていくうちに、少し楽な時期が来て、一息ついて、という浮き沈みの中でうまく自分をコントロールしていく、というやり方が、自分なりの対処方法でした。ただ、考えないことにもコツがいりますからねえ。わかっていても、考えちゃうから困ることも多いですし。なかなか前途多難ですが、ここまで来れたから、これからも行けるでしょう。そのぐらい、楽観的に考えないと、ちょっとやってられませんよね。次の一年の間に、少しでも明るいニュースがあることを願って。
2012年06月28日
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