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毎日晩酌をする。もっぱら焼酎をお茶で割って飲んでいる。ビッグサイズのクソ安価な焼酎を、娘たちをホステス代わりに、かっかっかっと煽って、さっさと寝てしまう。 酒の味とか価値みたいなもんは、年相応に分かったふりをしているだけで、お恥ずかしい話、正直よく分かっちゃいない。美酒との空間を楽しむ、ちゅうより、一刻も早く酔いどれに向かっているっちゅうパターンの酒飲み。 僕という人間は、元来アッパラパーでチャランポランな愚物であるが、こと仕事中はそれなりに頭を回転させていたり、プレッシャーに押し潰されそうだったり、長時間気を張っていたりする。 仕事を終え、酒をぐいっと煽ると、一日中張り詰めていた気持ちが、ホロリとほころぶ。ほころぶような気がする。妻はそんな僕を見るにつけ「アル中野郎」の一言で掃いて捨てるように片付けるが、まあ、そんな言われ方されたらぐうの音も出ないのであるが、でも僕は絶対にアル中ではないし、てかアル中なんてワードそう簡単に口にするものではないし、でも最終的にアル中ならアル中でいいじゃないか、何か問題でも? なんつって開き直って、グラス片手に瞳孔を開き切り、意識を火星近辺にぶっ飛ばし、知らぬ間に口からヨダレが一本とぅーっとテーブルに滴っていたりする様を、家族に薄気味悪がられる始末なのである。 昔は毎晩ビールを飲んでいた。管理職になってからそれをやめた。ビールが美味しく感じられなくなったのだ。ビールを美味しいと感じる時って、その日常のそれぞれ局面での大なり小なりはあれど、その日その時その瞬間が自分の人生のにおいて何かしらフワッと上向きの状況だと思うのです。祝いの酒。勝利の酒。労いの酒。集いの酒。左記の状況から、僕はビールを連想する。 全身全霊全力で遊びまわっていた二十代や、深く悩んだり考えたりする必要にさほど迫られなかった三十代前半ぐらいまでは、毎日ビールがすこぶる美味しかった。それから、社会でそれなりにお金を稼げるようになるのと並行して、悲しみの酒、疲労の酒、恨みの酒、妬みの酒、苦悩の酒、そんな重苦しい酒が世の中にあることを、とことん思い知らされた。そういった場でのビールは極めて不味い。そういう時は、日本酒や焼酎やウイスキーがすすむ。 もうここ十年近く、家にビールを買い置きしていない。本当に飲みたい時、今日はきっとビールの日だと確信した時、飲みたいだけのビールをわざわざ店に買いに行くことにしている。 心身共に毎日ビールが美味しい人生を送れている人は、つくづく幸せだと思う。自分もかくありたい。いつかはそんな日常を手に入れたいな。でも。今はちょっと難しいかな。今の僕は焼酎かっ食らって爆睡するのが関の山です。そんでもって、このビールとの間の微妙な距離感が、僕はけっこー嫌いじゃなかったりするのです。 昔は、サッポロ黒ラベルが大好きだった。 今は麒麟の一番搾りがお気に入り。 にほんブログ村↑ポチッと一枚!
2021.09.14
妻と結婚する前、二人でなけなしの金を出し合って京都へ旅行したことがある。 向こうの親には「友達と旅行に行く」とか何とか妻が上手いこと騙くらかして、若い男女が、一泊二日の京都めぐりへと洒落込んだわけである。妻はまだ十代だった。若気の至りだ。責任もって結婚したので何卒勘弁して欲しい。 これはその時に撮影した「おかめさん」。初日に行った千本釈迦堂の境内で、異様な存在感を放っていた。実は、このおかめ像を拝みに行くのが、僕の京都旅行の一つの目的でもあった。 誰かの小説か、歴史の図鑑か、何で読んだのかはすっかり忘れてしまったのだけれど、このおかめさんには、悲しい伝説があります。 この千本釈迦堂の本堂を建てるにあたって棟梁に任命されたのが、おかめの夫である長井飛騨守高次という名大工。なんと、その高次、建設中に間違えて大切な柱の一本を短く切り落としてしまった。 信徒たちから寄進された替えの利かない貴重な柱。高次は苦悩します。 その時、頭を抱える夫を見かねたおかめが「いっそ、すべての柱を短く切って揃えましょう。設計の高さは、柱の上に斗組(ますぐみ)を乗っけて調整すれば何とかなります」と助言しました。 おかめの機転によって、高次は困難を乗り越えます。しかしおかめは、上棟式の前日に自らの命を絶ってしまいます。妻の入れ知恵あっての成功となれば夫の恥になると、自害したのです。 この伝説を読んだ当時の僕は、夫婦愛だとか、内助の功だとかいう、甘っちょろい感想を持てなかった。感じたのは「愛する男を想う女の狂気」である。そして京都に行く機会があれば、ぜひ「狂気の妻、おかめさん」の像を拝みたいと思ったのである。んで、実際に対峙したおかめ像、柔らかく微笑んではいいらっしゃいますが。なるほど、目、全然笑ってねえ。そんな不思議な魅力のあるお方でありました。 さて、話変わって、こちらは、妻の実家のおかめさん。 オカメインコの、エルちゃん。 妻が10歳の時から実家で飼っているらしい。 御年、な、なんと、31歳。 オカメインコの平均寿命は、15年~25年(えらいアバウトやな)。 ギネスの登録記録は32歳。あら、いやだ、来年ギネスとトントンっすわ。 ちなみに、非公式であるが、確認されている最高齢は38歳らしい。 何をもって、公式、非公式としとるのかよく分からんが、 いやはや、まったくもってすごいぞ、エルちゃん。 人生、いろいろ。 インコも、いろいろ。 おかめだって、いろいろ咲き乱れるのです。 にほんブログ村↑ポチッと一枚!
2021.09.12
長女が作った切り紙。相も変わらず手先だけは器用なコである。さて、コロナワクチンの件。僕は9月8日に二回目の接種に行ってきます。二回目は結構な確率で高熱などの副作用が出るっつーから、今から戦々恐々としているのだけれども。てか、いくつになっても注射って怖いよね。やっぱ、僕らの世代って、幼少期のトラウマってあるよね。底冷えする寒さの薄暗い体育館に一列に並ばされてさ。鉄砲みたいな機器で片っ端からパンパン打たれちゃってね。その名も「鉄砲注射」。まんま。こえーよ。もうちょいネーミング捻れっての。言うに事欠いて「鉄砲」はねーよ。殺す気かコノヤロー。そうそう「はんこ注射」ってのもあった。今でも二の腕に跡が残ってる。一生涯消えない心と体の傷。もうさ、副作用とか、後遺症とかのレベルじゃねーよ。カウボーイが焼きごてで、牛にジュッとするみてーなもんだよ。ったく、あんなんされたら、誰だって注射嫌いになっちゃうよ。ちなみに、妻はコロナワクチン二回目を既に接種済み。翌日、漏れなく、高熱にうなされとった。次の日も、その次の日も、なかなか熱が下がらなかった。そのあげく、副作用で胸まわりのリンパ線が腫れたみたいで、「乳が痛い! 乳が痛いんだってば! ほら見て! 巨乳になった!」と、僕、長女、次女、犬などに、ポロンポロンお乳を放り出し、期間限定巨乳を披露していました。ワクチン、打つのは、個人の自由。ワクチン、打たないも、個人の自由。おっぱい、見せるのも、個人の自由。しからば、怖いし、高熱、嫌だし、インディアン口調で、僕、二回目、打たない、ってのも個人の自由じゃなかろうかい?まあ、現実問題そんなわけにはいかねーから。まあ、打ちますけどね、打つしかねーから。インディアン、嘘つかない。僕、注射怖い。にほんブログ村↑ポチッと一枚!
2021.09.05
僕は、高校を卒業してから、長らく定職には就かなかった。どのアルバイトも長続きしなかった。何しろ当時の僕は、ネジくれた自意識と斜に構えた感性が大いに邪魔をして、人にこき使われて労働するということを、極めて惨めで馬鹿々々しい敗者の行為であると信じて疑わなかったのだから。 この頃、僕の両親はすでに離婚していて、姉も妹も自立して家を出ていた。低所得者や社会的弱者が優先的に入居できる住宅に、僕は母と二人で暮らしていた。母は父と離婚するまではずっと専業主婦だったが、離婚後は食べて行く為に必然的に働きに出た。この時期、母は近所のスーパーの総菜屋でパートをしていた。母は仕事でどれだけ辛いことがあっても、子供の前では決して涙を見せない、といったタイプの女性で全然なくて、仕事で嫌なことがあれば、家に帰ってから僕に散々愚痴を言ったし、辛いことがあれば僕の前でボロボロ涙を流した。店長が厳しい。周りのパート仲間に馴染めない。悩みの種はそんなところだった。そんなに辛いならさっさと辞めてしまえばいい。べつに強制労働させられている訳じゃなかろう。と僕は万年フリーターで家賃や生活費の援助など一円もしていない自分を豪快に棚に上げて、堂々と母に助言した。 その日も肉体労働のアルバイトを、何となくダルいので無断で休んで、家でゴロゴロしていた。昼時だし腹が減ったし、せっかくなので母が働いているスーパーに行ってみた。母が働いている職場を見たくなったのだ。僕はショーケースにコロッケやカラアゲや焼き鳥串などが並んだ総菜屋の店頭で働く母を発見した。何やらカウンターの隅で店長らしき男性に厳しく指導されているようだ。母は校長室の壺をうっかり割ってしまい、教師に懇々と叱られている生徒のように下を向いて立ち尽くしていた。母に見つからないように店頭に近づき二人の会話を聞く。「何度も言ってるけど、声が小さいんだよ。そんな小声じゃあお客様に届かないよ。言いたかないけど、覇気がないの。ほら。もっと元気出して。ほら、頑張って」「……すみません」 その後、母はショーケースの前に立ち、これまで子供の僕が母から聞いたことのない大声で、「コロッケ揚げたてでーす! 揚げ出し豆腐特売でーす!」 と店の前を行き来するお客に叫び続けていた。店内のパートのオバちゃんたちが、和気あいあいと会話している中、母だけが孤立しているようにも見えた。僕の母は、いつもそうだが、どの風景にも上手く馴染めない厄介な存在感があった。 母のこんな姿を見たくはなかった。悲しかった。切なかった。かと思えばだんだん腹の底から怒りが込み上げてきた。あの、すみません、僕、この者の息子ですけど。この人ねえ、もともと人前でこんな客商売を出来る人ではないのです。本当は家で静かに本でも読んでいたい人なのです。せめて厨房でコロッケにパン粉をまぶす係りとか、裏方に回してやってもらえませんか。て言うか「適材適所」って言葉知ってます? よっぽどそう店長に文句を言ってやりたかった。 夕方になった。 その日に限って、いつもより早く母が帰って来た。 「今日、お店に来てくれたんだね」 ちっ。ばれていたか。てか、母は自分のあんな惨めな姿を息子に目撃されて恥ずかしくはないのだろうか。いつもなら母は閉店まで残業をして、売れ残った商品が廃棄扱いになるところを見計らい、たくさんの総菜を持ち帰ってくるのだが、この日は何やら様子が違った。何だかご機嫌だった。「パートのみんながね、今日ぐらい早く帰りなさいって残業を変わってくれたの。それから、店長がね、これ、息子さんに食べさせてあげてって、プレゼントしてくれたの」 母は、揚げ物袋に入ったわらじカツを一枚取り出した。わらじカツとは、その名の通りわらじのように馬鹿でかいトンカツのことだ。「一応ケーキも買ってきたからね」 なるほど、そう言われて気が付いた、その日は僕の誕生日だった。「みんな優しかった。うれしかった。また明日から頑張らなくちゃね」 そんなことを自らに言い聞かせるようにぶつぶつ呟きながら、母は晩飯の支度をウキウキと始めた。「ほら、触って! まだ温かい!」 母がわらじカツの入った袋を僕に触らせる。本当だ、まだ温かい、揚げて間もないのだ。ホカホカしている。これまで廃棄後の冷たいわらじカツしか食べたことがなかったので、僕も素直にテンションが上がった。「本当だ! 温かい!」「ね、温かいでしょう!」 この温度が、大人たちの世界なのだ。 僕はそう思った。 袋を破った。 わらじカツにコーミソースをぶっかけて、十九歳になった。にほんブログ村↑ポチッと一枚!
2021.08.15
一緒に暮らしていても、まるで他人のようなカゾクはいるし、遠く離れていてもカゾクのような他人もいる。 産みのオヤの存在が絶対ではないように、育てのオヤの存在だって絶対ではない。 僕は、あらゆる形式から解放された「魂のカゾク」に、これからも会いたいな。 まだ見ぬ僕のソウルファミリーが、この世界のどこかで息をしていると思うと、 何だかこの陳腐な毎日が、何割増しか楽しく感じられる。 本当は関係ないのだ。チの繋がりだとか、イデンだとか、セイベツ、ネンレイ、ジンシュだとか。 そんでもって、ニンゲンだとか、イヌだとか、シュゾクだとか。 実際問題、関係ないのだ。そんなしょぼくれたことは。 妻も、長女も、次女も、モモも、ウリも、僕のカゾク。 誰がなんと言おうと、カゾクなのだから仕方がない。 たまたま、僕がニンゲンのカタチであっても、 たまたま、君がイヌのカタチであっても、 たまたま、君のカタチが変わったとしても、 関係ない。僕たちカゾクにとって、そんなことは大した問題じゃない。 な~んつって。てか。ちゅか。 これぐらいの綺麗ゴトを恥ずかし気もなく堂々と公言出来る人でなければ、 向いていないので、ペットを飼うのは止めた方がよろしいかと。 ちなみに僕は、こんな当たり前のことを、二匹の娘から教わりました。 イヌたちが教えてくれました。 にほんブログ村↑ポチッと一枚!
2021.08.13
実はぽっくん、この数日間で、PCR検査を二度受けました。先日僕が担当する工事現場で接触のあった人が、コロナに感染したのです。濃厚接触に該当しない条件下での接触でしたが、まあ念のためです。土曜日の夜に緊急情報を得て、それから大至急妻にPCR検査の出来る病院を予約してもらい、翌朝9時には検査を終えました。陰性でした。ちなみに以下は、一度目の検査の朝の、僕と妻のラインのやり取り。「朝ごはん持って来ようか?」と妻が訊ねているのは、僕が書斎に隔離されているからです。部屋の扉の前に置かれた食事を書斎に籠って食すのです。 朝一番で検査を受けて陰性の結果を妻に報告、これで一安心。と思いきや、週明けに出勤したら、また別の担当現場でコロナが発生したとの情報を得る。 これまた濃厚接触者には該当しなかったが、感染者が直近で同じ会議室で会議をした人であったので、これまた念のためです。もともと昨日今日と会社の出勤日であったが、仕事にならんし、周りへの配慮も兼ねて、いっそのこと休んだ。んで、本日朝っぱらから二度目のPCR検査を受けてきた。「朝ごはん食べる?」と妻が訊ねているのは、僕が書斎に隔離されているからです。部屋の扉の前に置かれた食事を書斎に籠って食すのです。 一度目と同じく9時過ぎには陰性の結果を得た。結果を妻に報告するのを何となく怠っていたら、催促のラインが来た。その後はとても四十代の熟練夫婦のやり取りとは思えん低俗な会話となってしまった。 いやはや、随分近いところをうろつきはじめたなあ、コロナ。 何だかもう僕の周辺は(特に真夏の建設業界は)何が起きてもいちいち驚いていられない状況です。 万が一に備えて、このお盆はどこにも行かず、静かにしています。 家族は、ひとまず実家に帰しました。 何や知らん、腹立たしいやら、悲しいやら、虚しいやら、 そんな世にも複雑な深呼吸を吸ってたり吐いたりしています。にほんブログ村↑ポチッと一枚!
2021.08.11
今朝、朝八時に家を出て、名古屋市守山区に最近オープンしたコストコに家族みんなで行ってきた。 なんかよー、長女がよー、先日妻と二人でコストコ行った時に、大きなクマの縫いぐるみに一目惚れしちゃったらしくてね。 しつこくねだられた妻は、苦し紛れに「そんに欲しけりゃパパに頼め!」つってその場をやり過ごしたらしいんだ。 つーわけで、本日半ば無理矢理引きずりだされる羽目、八割方強引に買わされる羽目に相成り申した。……で、でっけー。いやいやいや、でけーよ。馬鹿みたいにでけー。 何だかもう後悔しかない買い物をしてしまいました。とほほ。 まったくもって舐めてんのかコノヤローってサイズのこの縫いぐるみ、 親の僕の目には、無駄な繊維のカタマリにしか見えませんが、 子供たちには全く違う見え方をしているのでありましょう。嬉しそうで何より。 兎にも角にも、とんだコストコデビューと相成り申した。にほんブログ村↑ポチッと一枚!
2021.08.09
昨日。早朝5時45分。スマホのアラームが鳴る二分前にいつものように目が覚める。朝を告げる寸前のアラームを解除して、2階の寝室から1階のリビングへ降りる。リビングでは5時に起きて僕と夏休み真っ只中のゴールデンシスターズの弁当をせっせと作る妻がいる。「ぶえええ! 最悪ううう!」 卵焼きを巻きながら妻がテレビに向かって叫んでいる。ごめんなさい。今日もっとも運勢が悪いのは水瓶座のあなた。なるほどね。「めざましテレビ」の今日の占いのコーナーで、妻の星座である水瓶座が、栄光の最下位なのだ。「もおおお! 今日に限ってえええ!」 実は昨日、妻は一回目のコロナワクチンを打った。妻はかねがねワクチン大賛成論者で、未知なる異物を体に注入されることを本能的に恐れる僕を連日叱り飛ばし、僕の意思など関係ナッティング、問答無用で僕のワクチン接種日を予約したりする人です。そんな妻でも、当日となると、やっぱり副作用とかいろいろ不安みたい。「んもおおお! 昼からP子とコストコ行こうと思ってたのにいい!」何と、一回目のワクチンを打った後に、あわよくば長女を連れて最近名古屋に出来たばかりのコストコを初訪問しようと目論んでいやがる。「ででで、でも大丈夫よ! 今日のラッキーアイテムが、きっとアタシを救ってくれるわ!」 寝ぼけまなこの僕に、妻が金切声で矢継ぎ早に喚き散らかす。次の瞬間、最下位の水瓶座の皆さんに向け、今日のラッキーアイテムがテレビ画面いっぱいに表示された。水瓶座 今日のラッキーアイテムまぐろの山かけ妻「…………何が?」僕「…………何ゆえに?」 昨日、コロナワクチン接種会場で両手にマグロの山かけの入った容器を持ち、 器から溢れんばかりのトロロ芋をタップンタップンさせながらワクチンを接種している女性を見かけた方。 それ、僕の妻です。 僕は8月18日に一回目のワクチンを打ちます。 にほんブログ村↑ポチッと一枚!
2021.08.07
眠っている妻はかわいい。起きている時、どれだけガミガミ言われようとも、どれだけからかわれようとも、どれだけコケにされよとも、この寝顔ひとつで全て許せてしまう。眠っている妻は本当にかわいい。何がかわいいって、しゃべらないのがかわいい。こいつは口を開けばうるさいことばかり言いやがるので、かなわんよったくニャロメ。眠っている妻はかわいい。夜中にふと目が覚めると、妻は家事や子育てでくたびれ果てて爆睡している。爆睡している妻はすんげーかわいい。何がかわいいって、攻撃してこないところが最高にかわいい。月明りの下で頬杖をついて、いつまでもいつまでも近距離で寝顔を見ていられる。こいつは変わらないなあ。出会った頃のまんまだ。相変わらず若くて、相変わらず沢山食べ、相変わらずころころとよく笑う。妻の寝顔を見ていたら、ふと撫でてみたくなり、その色艶のよい髪にそっと手を伸ばす。でも今夜も寸前でやっぱり手がすくむ。突然ガブッと噛みつかれそうで怖いのだ。白昼のような真夜中の、青白い月光に晒されながら、すくめたこの手の戻しどころを、考えあぐねいている。にほんブログ村↑ポチッと一枚!
2021.08.05
そうかそうか、このブログも気が付けば、丸四年を過ぎていたわけだ。まったく「継続は力なり」ってやつで、こんな駄ブログですが、なんぞかんぞ続けてきて良かったと、この頃はしみじみ思っています。丸四年続けることで得た力は、微力ながらも僕の心身の節々に分散されて、じんわりと僕を支えてくれているのが、じんわりと感じられるのだからアラ不思議。しかしまあ、たかが四年されど四年ってやつで、過去の記事を読むと、やはり現在よりも考えが若いなあオイと痛感するのです。今の自分とは全く考えが違うこともあります。内容のやぼったさに赤面します。それでも、過去の自分を否定する人は、いつか今の自分も否定するものだ、これはこれで紛れもなくこの日この時の全力の僕なのだ、愛してやろうじゃないか、と判断して、自分の中でよほどの理由がない限り、削除するのはやめています。 兎にも角兎にも、ブログと共に四つ歳を取ったわけなんだけれども。いつからだろう、四十五を過ぎたぐらいからかなあ、歳を取るということは、素敵なことだと思えるようになりました。ジジイになることは、そんなに悪いことじゃない。ヘイ! カモン! 老い! イカすぜベイベー! ってな感じ。 生きていることの醍醐味とは、歳を取ることではないでしょうか。またひとつ歳を取ることが出来たということは、とても贅沢なことです。死んだらもう歳は取れません。その瞬間から老いることが出来なくなるのです。本当にもったいない話です。考えただけで、すごく損をした気持ちになります。 本の栞・遠足の栞の、栞の語源は「枝折」と書きます。木の枝を折ることで山道などを歩く際に目印としたことから転じて、本をどこまで読んだかという目印や、初心者のための手引書などのことを栞と呼ぶようになったという。これから僕がどっぷりと歳を取って、いつか半身をひねって後ろを振り返った時に、この家曜日というブログが、我が人生の栞っつーか、目印っつーか、道しるべのような役割をしてくれたらいいなあ、なんつってそこはかとなく思う。そいでもって、であるならば柔軟にカタチを変えながらでもボチボチと書き続けよう、べきだな、なんて思うのである。継続は力なりである。 にほんブログ村 ↑ポチッと一枚!
2021.08.01
「夏休み」という言葉を聞くと、僕は今でも、はッとなる。入国するパスポートをとうの昔に剥奪された中年男子であることは重々承知で、身の程をわきまえず、ついついワクワクしてしまうのだ。波打ち際で漂流した外国のペットボトルを見つけた時のような。最新のゲームソフトをゲーム機に差し込んだ時のような。広げた宝の地図から海賊たちの血液の匂いを嗅いだ時のような。「夏休み」という言葉には、そんな摩訶不思議な力がある。 ラジオ体操。入道雲。雷鳴。分団プール。ガリガリ君。蚊取り線香。デビルマン。キューティーハニー。ふしぎなメルモ。妖怪人間ベム。あなたの知らない世界。宿題。ロケット花火。海水浴。キャンプ。盆踊り。金髪。セブンスター。不良娘。初体験。夏休みという言葉を聞けば、ちょうど三流お笑い芸人が、めくり芸のスケッチブックをパラパラとめくるぐらいの速度で、僕の記憶の断片が蘇る。 尾てい骨がうずくような、いつまでも続く、このワクワク感は何だろう。ひょっとして僕の夏休みは、本当はまだ終わっていないのだろうか。事実上、高校三年の夏休みが、僕にとっての最後の夏休みになるわけだけど。あの日、確かに9月1日という最低最悪の朝を迎えた筈なのだけれど。でもそれはあくまでも物理的な時刻としての9月1日であって。きっと僕の胸の内側にぶら下がった懐中時計は、8月31日のまま止まっているのだ。そう、僕は永遠の夏休みの住人なのだ。きっとそうだ。そうなのさ。……なーんて、青臭いこと全力で言ってみる。 遊んでいる子供を正視出来ない時がある。真夏の日照りの照り返しのように、眩し過ぎて思わず顔を背けてしまう。 子供は遊んでいる時が一番美しい。まったく、バカバカしくて、こうごうしい。 さあ、夏休みの住人たちよ、遊べ、遊べ。 ここだけの話、勉強なんて、大人になってから嫌というほどすればいいのです。 いまはただ、全力で遊びまわってください。 にほんブログ村 ↑ポチッと一枚!
2021.07.30
例えば、あなたがある集団の親睦会の幹事を任されたとする。例えば、学校の保護者の親睦会の幹事とかね。始まる前から、飛び切り美味しい店を探せ!とか、フランス料理のコースがいい!とか、口だけで自らは何も協力しない者たちが、あなたに一方的に要望ばかりを浴びせる。コロナ禍とか、いろいろな規制やトラブルの中で、それでも日取りを決め、店を手配し、料理の内容にこだわって、あなたはあなたなりの最善を尽くして何とか親睦会を開催することが出来た。ところが当日招かれた者達は、店に入るなり「何この安っぽい店」「ショボいんですけど」などと、幹事であるあなたや、店の人に聞こえる大声で、当たり前のように不平不満を漏らす。挙句の果てに前菜を食べ終えただけで「不味い! がっかり! 来るんじゃなかった! 金返せ!」と喚き散らす。……いやいやいや。……おいおいおい。それ、今言うことか? すみません。ごめんなさい。何だかもう、至らぬ幹事で申し訳ありません。私は私なりに最善を尽くして催したつもりですが、どうやらあなた方の舌には合わなかったみたいです。でもね、不平不満は、せめてコースを最後まで召し上がってからでよいのでは? 悪口は、せめて今も厨房で料理を作ってくれているお店の人に聞こえないぐらいの音量でよいのでは? てゆーかさあ、あんたら、デリカシーないんか? と、あなたが幹事なら思いませんか。 僕が当事者なら、きっとそう思います。 ほんと、あんたら、デリカシーって言葉知ってる? 僕が出演者やスタッフなら、伏し目がちにきっとそう呟く。 先日の東京オリンピック開会式のことである。 それにしても、おでれーた。まったく心ないコメントがSNSをに賑わしている。ここ日本だよね。てか自国のオリンだよね。出演者もスタッフも選手団も、世界の最果ての地の名も知らぬ国の人達じゃない。他の星からやってきた宇宙人じゃない。同じ島国の僕たちの同胞だ。労いの言葉とかねっすか。僕はね、思った時に、思ったことを、思ったまま、言いたい放題言える人が苦手です。嫌いです。あれ、今の僕がまさにそうか? いやいや、なんつーの、いつ何時も人を思いやる気持ちは大切ですって話です。それはネットでも一緒です。むしろ匿名で人物像の見えないコミュニケーションだからこそ入念な配慮は必要かと思います。そもそも我々日本人は、そういった配慮に長けている筈なのだが……。 言いたい放題の罵詈雑言の後で「出演者やスタッフや選手に罪はない。悪いのは組織委員会」なんて辛うじてフォローされても、傷つくものは傷つくっつーの。開会式そのものが酷評されたのだから、それに係わった自分が酷評されていると普通に思うっつーの。国民の皆さんに申し訳ない気持ちでいっぱいになるっつーの。百歩譲ったとしても、それ今言う?と思う。酷評ならオリンピックが終わってからとことんしてくれ、と思う。開会式にはアスリート達だって参加しているんだ。始まる前のドタバタも、始まってからの酷評も、すでに耳にしているだろう。どうか競技に影響しないでほしい。 僕の妻は、はじめからアラ探し目的の者や、半信半疑でチンチン掻きながら何となく観ている者と違い、「さあ、かかってこいオリンピック!ぜってー楽しんでやる!」という胸が張り裂けんばかりの想いで開催を待ち望んでいました。したがってあの開会式は、いやぁ~楽しめた楽しめた! もう百点満点中二百三十点! って感じの大興奮で、はじめの三十分だけ観て仕事疲れでグーグー爆睡してしまった僕に意気揚々と報告してきましたよ。やっぱ催しを観る時は自らが参加してやるぐらいの気合がなきゃ駄目だね。他人事のように観ていちゃあ、そりゃ楽しめないよ。楽しめないのは誰のせいでもないよ。楽しめないのは自分のせいだよ。ほんと観る側のスタンスが全てだね。根本はそこ。 オリンピック反対のスタンスの人は、これからオリンピックを観なければいいと思うのです。一番の制裁は無感心、これに尽きます。自分の人生の貴重な時間を、つまらない、くだらない、腹立たしいだけの放送に費やす必要は絶対にありません。今すぐ観るのをやめましょう。観ていないのだから、文句の言いようもありません。アスリートたちものびのびと競技が出来るというものです。 兎にも角にも、開会式に係った出演者の皆さん、スタッフの皆さん、先ずはお疲れ様でした。 そんでもって、がんばれニッポン! にほんブログ村↑ポチッと一枚!
2021.07.28
無事開幕したってことで、せっかくなので未来の自分へ向けて、東京オリンピックの思い出なんぞをいくつか綴っておこうかな。「昔々あるところに、いじめっ子のミュージシャンがいました」から始まる、まるで夜寝る前に子供に枕元で読み聞かせをするお伽噺のような騒動がありました。まあ、その内容が鬼畜の道をひた走っていて、実に胸糞悪い所業であるので、どだい絵本化なのどは無理でしょうが。それでも「こうしてそのいじめっ子ミュージシャンは、せっかくの東京オリンピックの音楽担当を辞任してしまいましたとさ。おしまい」で終わるこの一連の騒動は、迷える子供たちに(いい歳こいた大人の子供含む)、いじめをすると必ず天罰が下る。人をいじめた者は未来永劫その天罰に戦々恐々として生きるのだ。という実に分かりやすい教訓を伝える最適の教材になったことは間違いない。 鬼畜いじめの模様が載ったあの雑誌を、僕はリアルタイムで読んだ。当時、毎月購入し愛読していたロック雑誌だった。あの号は、たしかそれまでいち編集者であった某氏が、創刊者である初代編集長からバトンタッチされ、編集長になった最初の記念すべき号だったと記憶している。その巻頭インタビューが、あのいじめっ子ミュージシャンだった。90年代という、今振り返るとコンプライアンスの「コ」の字もないユルユルの時代であったが、そんな当時でもかなり衝撃的な内容ではあった。ミュージシャンもインタビュアーも、べろべろに酒を飲みながら会話しているのかな。もしくは何かでラリってるのかな。それがそのインタビューを読んだ僕の率直な感想だった。とてもマトモな精神状態の者たちの会話ではなかった。時代はまさに世紀末で、新世紀を待ち望む雰囲気よりは、どちらかと言えば末世の雰囲気が漂っていた。メディアが発信する情報も、どこかしらヤケクソで挑発的なものが多かった。そしてそれらの大半は決して覚悟ある刹那主義ではなく、ただの悪ふざけに過ぎない代物だった。かの雑誌のかのインタビューは、その筆頭であろう。 この騒動で、やはり気になるのは、現在鳴りを潜めている「かつてのいじめっ子」「現在進行形のいじめっ子」たちのことだ。本当にこういう時、いじめっ子はどこに消えるのだろう。今も昔も社会に歴然といじめはあって、いじめとは多数の者が少数に行う行為である。あのミュージシャンだって、一人で犯行に及んだ訳ではあるまい。共犯者がいたのだろう。それを容認していたクラスメイトや親や教師がいたのだろう。いじめに適した環境があったのだろう。何だかもう、この世界にいじめっ子という生き物は、あのミュージシャンただ一人あるかのような集中的な責め立て方を連日世間はしているが、どうにも数が合わないんだよな。辻褄が合わないんだよな。カースト制度の頂点に君臨する君たちであろう。今こそあのミュージシャンを庇護して、大々的にいじめ肯定論を世間に提唱するチャンスだと思う。何をコソコソしている。コソコソしなければならない、ひた隠しにしなければならない、無かったことにしなければならない、君たちがしたことは、所詮はそんなくだらないことなのか。 でもまあ、今回の騒動でいろいろ分かった。一度でも、少しでも、人をいじめたことのある者、または、ひょとしてあれはいじめだったのかもしれないと思われる行為をしたことのある者は、僕もあなたも含め、いつか必ずそれ相応の天罰が下る。絶対に下る。まだそれらしき天罰が下っていない者は、これからの人生、いつ下されるとも分からぬ天からの制裁に、毎日恐れ慄きながら生活をするといい。 いじめは生物に組み込まれた本能である。ふーん、でも天罰は下る。 人が集団で生きている以上、いじめを根絶することは難しい。あっそう、でも天罰は下る。 いじめられる側にも問題があるのではないか。だから? でも天罰は下る。 学校が、親が、少年法が、いじめの実態を隠蔽してくれる。そいつは良かった、でも天罰は下る。 鬼畜以下の振る舞いをした過去の過ちなど、すっかり忘れて別の人生を平然と送っている。ところがどっこい、天罰は下る。 天罰は絶対に下る。 下る。 下るのだ。 お天道様は見ています。 あなたの罪です。 その罰は、あたなが受けましょう。にほんブログ村↑ポチッと一枚!
2021.07.25
蝉たちが、雨音のようにやかましい。朝っぱらから家の近くの公園では、蝉しぐれがはらはら降っている。この夏改修工事を担当している小学校へ着くと、ゲリラ豪雨のように降っている。僕は耳が痛い。僕は耳を塞いでいる。 地鳴りのような周波数に意識が朦朧としてくると、僕は少年期に親友だったカッちゃんのことを思い出す。今も昔も歴然と友人というものが極めて少ない僕にとって、カッちゃんだけは恥ずかしげもなく「フレンドシップ」という文言を活用することができる人物だ。カッちゃんは、僕が子供の頃に住んでいたオンボロ長屋の近所にある、更にボロボロの何だかもう朽ち果てる寸前みたいな長屋に住んでいる僕の同級生だった。カッちゃんはとても友達思いなヤツだった。ていうか何故かいつも僕みたいなクズのことを第一に考えてくれるとても変わった優しいヤツだった。小中学生時代の僕の、セピア色をした記憶のフイルムには、いつもカッちゃんが躍動している。髪の毛みたいな線がウネウネする古ぼけた八ミリビデオの映像の中で、僕とカッちゃんはいつも笑っている。 夏休みになると、毎朝カッちゃんが「きゅ~ちゃん!」と独特の節回しで家の玄関の前で僕の名を叫ぶのだ。家の中の僕は、外の蝉しぐれの中からカッちゃんの声を探し当てると、嬉しくなって「は~あ~い~!」とこれまた独特の節回しで返事をする。それから僕たちは近くの神社に行って、油蝉を大量に捕獲して遊んだ。小学生のくせに煙草をプカプカふかした六年生たちが12変速式自転車に跨って神社に乗り込み、僕たちの遊び場を占領してしまった時は、僕たちはそこから少し離れた用水路に移動して、川に投げ捨てられたコーラやスプライトの瓶を拾って駄菓子屋に持って行くのだ。当時は、飲んだ瓶や拾った瓶を酒屋や駄菓子屋に持って行くと、10円で買い取ってもらえた。それでも川底のヘドロまみれの瓶や、バキバキに割れた小さな瓶の破片などを見境なく持って行くと、いつも温厚な駄菓子屋のお婆さんに「ゴミばっか持ってくるな、このクソガキ!」と叱られた。夕暮れ時にションボリと、カッちゃんと二人で拾った瓶を拾った川に捨てに行ったものだ。 「きゅ~ちゃん!」夏休みが終わっても、カッちゃんは毎朝登校する前に僕の家に寄って僕を呼んだ。僕はいつも同じ時間に自分を呼びに来るカッちゃんに迷惑をかけられないので、遅れないように身支度をした。僕たちは小学校、中学校といつも一緒に登下校をした。中学生になった時、僕が気まぐれに水泳部に入ると言ったら、カッちゃんも一緒になって水泳部に入部した。僕が気まぐれに地元の二流高校に進路を定めたら、僕より頭のいいはずのカッちゃんは「Qちゃんが行くなら」と言って、なんと僕と同じ高校を受験した。君は何ていいヤツなのだろう。出来ることなら僕は君と生涯何らかの形で関係を維持したい。いや、きっとそうなる。だって僕たちは親友なのだから。なんて直接言葉にこそしなかったが、僕たちは、なかなかの友情で結ばれていた。 高校生になって、僕の中の何かが変わった。僕はカッちゃんより、クラスの女子たちに夢中になり、カッちゃんより、もっと刺激的な友人に惹かれるようになった。高校生になってもカッちゃんは相変わらず毎朝僕を呼びに来た。僕はそれがたまらなく恥ずかしく、段々うざったい習慣と感じるようになっていた。カッちゃんは、ずっと小学生の頃のままのカッちゃんだった。それが僕には無性に苛立たしかった。「きゅ~ちゃん!」「ごめ~ん、朝ごはん食べてる」「きゅ~ちゃん!」「ごめ~ん、寝坊した」「きゅ~ちゃん!」「ごめ~ん、今日学校行きたくない」僕たちは徐々に一緒に登校することが少なくなった。僕は毎朝心の耳を塞いでいた。いつしかカッちゃんの呼ぶ声に返事をしなくなっていた。かつて蝉しぐれの中から瞬時に探し出すことの出来たカッちゃんの声は、僕にはもう聞き取れない周波数になっていた。それでもしばらくカッちゃんは毎朝僕を呼び続けた。そして、とうとうある朝、あのカッちゃんが僕を呼ばない朝がやって来た。自分で蒔いた種でありながら、その時はショックだった。良かったじゃないか。お望み通り、親友を失ったんだ。そう何度も何度も自嘲した。自嘲するより他なかった。 それから僕たちは、ただの知り合いになった。僕は僕で新たな友達と遊んだし、カッちゃんが新しい交友関係を築くのに時間はかからなかった、そもそもカッちゃんはとても人気者だった。僕たちは顔を合わせれば普通に会話をしたし、お互いの友達が友達であれば一緒に遊ぶこともあった。でもそこにはかつての絆のようなものはなかった。重ねて述べるが、僕たちは、ただの知り合いになり果てたのだ。 この歳になって、時折どういう訳か、この猛暑の蝉しぐれの中で、カッちゃんのあの声に苛まれることがある。きゅ~ちゃん。きゅ~ちゃん。きゅ~ちゃん。今でもカッちゃんはあの頃の、あの声で僕を呼び続けている。僕の返事を待っているのだ。は~あ~い~。今更ながら僕は精一杯の声なき声を、喉を枯らして張り上げている。ごめん。ごめんね、カッちゃん。違うんだ。そんなんじゃないんだ。あの時のあれは、決してそんなつもりじゃなかったんだ。本当にごめん。許してくれ。聞こえるか。聞こえるか、カッちゃん。蝉たちが、雨音のようにやかましい。僕は耳を塞いでいる。蝉の雨音に紛れて、顔を覆って泣きたくなる。 にほんブログ村 ↑ポチッと一枚!
2021.07.22
今日は僕の誕生日なので、長女が文庫本を二冊プレゼントしてくれました。かねてよりリクエストしていた本だったので、とても嬉しい。 十代の時に夢中で読んだ古典小説が、この歳になってふと恋しくなっったのです。てか、夏休みになると古典の名作が、子供が手にしやすい形で本屋に並ぶのがいいよね。 次女も、僕のリクエスト通りの本をプレゼントしてくれましたよ。二人とも自分のお小遣の中からプレゼントしてくれたってのが、父はありがてえです。 こちらも名作中の名作。ゆっくりと味わうように読みたいと思うとります。 つい最近、太宰の『ヴィヨンの妻』を何気に買って読み直したのね。ほしたら、やっぱすんげー面白くて、やっぱ太宰パねえなっつって、 んで、また古典を色々読み返してみようかなんて。 あとはついでに、直近で読んだ本、または現在読んでいる最中の本を紹介しておきまする。感想文は書きまっしぇーーん。内緒です。さあ、活字をば両目眼でよーく咀嚼して心の血や肉や骨にする、そんな真夏の読書の始まりです。鼓膜をつんざくように、アブラゼミが鳴き狂うています。炎天下の騒音の中に、摩訶不思議な静寂を感じる四十七歳の夏です。にほんブログ村↑ポチッと一枚!
2021.07.20
夏のボーナスが出でました。ボーナスが出ると、月の小遣い二万五千円とは別に、通常二万円のお小遣いが妻から僕へ支給される。ここ十年程変わらぬ金額で支給していただいております。言い換えれば、ここ十年程家計が破綻することなく、逆にすぶこぶるバブリーになっているわけでもなく、勤め先の安定した経営が維持されている証拠であろう。うん、きっとそうだ。そういうことにしておきたい。人は生きている限り水を飲み排泄をする。我が給排水設備業に不景気なし。うん、ほんとそうだ。マジそういうことにしておきたい。兎にも角にもこのご時世にまったく有難い話だ。 毎月お小遣いをもらっても、僕には特別欲しいものや、特別大金を必要とする趣味もないので、毎月コンビニで無駄に飲み食いしたり、部下に昼飯をおごったり、家族に大量のアイスを献上したり、月末にお金が余ったら家族に晩飯をおごったりして、我ながら見事な無駄遣いをして使い切ってしまう。自分の小遣いを貯金したことは生涯一度もない。昨日は娘二人と本屋に行って、長女に昆虫図鑑、次女にお勉強のドリル、僕は小説を二冊買って、合計で5千円ほど支払った。妻には常々「あんた、金欲とか物欲とかないの?」と呆れられる。あと小学一年生の次女に買ってやったお勉強ドリルが、よく見たら2歳児向けのもので、妻にすこぶる呆れられてしまった。とほほ。 僕は毎月給料が出ると、明細の額面をさっと確認して、あとの処理の一切を妻に任せてしまう。妻の家庭の経営方針に文句を言ったことはない。保険や貯金の管理も全て妻の判断に任せている。僕はただ働いて妻に給料をパスする機械だ。ちなみに、その昔妻の実家の義父が個人的な銀行通帳を持っていて、その金額を何故か義母に教えたがらず、義母も別段知りたがらないという事実を知った時、僕はやや強めのカルチャーショックを受けた。そんな他人行儀な夫婦がこの世に存在することに驚いたのだ。ところが、よくよく社会経験を積んでいくと、そんな夫婦はざらにいて、生活費、生活習慣、貯金、仕事、家事の分担などを、まるでシェアハウスで友人と同居するような独立した関係で分担し、理想的な共同生活を続けている夫婦がいるということを、今更ながら知ったのである。 そんなスタイリッシュな夫婦の関係に、一瞬たりとも憧れたことがないと言えば嘘になるのであるが、まあ、僕と妻には土台無理な話であろう。何しろ僕たちは、お互いがお互いに依存しきっている。僕と妻、二人の偏った能力をかき集めてやっと、かろうじて一匹の社会人が成立しているという事実を、お互いが嫌というほど知っている。仕事や家事の役割分担も、五分五分という訳にはいかない。極めて不平等だ。お互い得意不得意が激しいのだ(特に僕に問題がある。てゆーか全て僕に問題がある)。まったくもって情けない話である。 僕たちのような夫婦にとって、昇給は二人にとって一つの喜びで。災害は二人にとって一つの恐怖で。ペットの死は二人にとって一つの悲しみで。子供の成長は二人にとって一つの楽しみなのだ。僕たちはひとつ屋根の下、二人で一つの生活をしている。テーブルの上の小さなグラスに至るまで、個々の所有物らしきものはない。今のところ二人の眼前に広がる世界は一つだ。僕たちもこれから夫婦を続けていく中で、世界がパックリと二つに割れる、いつかそんな瞬間が訪れるのであろうか。いや、もちろん離婚とかそんな極端な話では無くてね。あくまで人生観の話ね。うーん分からない。どうなのだろう。ちょっとあり得ないかなあ。 正直いって、ひとつ屋根の下、二人で二つの生活をする夫婦の方が、そりゃあ人生は充実していると思う。二人でいる時間も、本質的には一人の時間だ。二人の旅で見る景色も、本質的には独り占めだ。愛する者とたまたま夫婦という形態をシェアしてるだけで、本質的に自分の人生は自分のものだ。どんな喜びも楽しみも二等分の僕たちのような夫婦に比べて、きっと各段に人生は楽しいであろう。まあ、その代わりに、僕たちは苦しみも悲しみも確実に二等分なのであるが。詰まるところ夫婦のカタチは、夫婦それぞれ。自分らに合ったカタチを見誤らないことが重要かなと。いつも一緒にいるというオシドリの雄雌も、一緒にいるよりすべがないから命がけで一緒にいるのではないでしょうか。オシドリ夫婦とは、そんなどうしようもない男女の一形態であると、僕なんかは思うのです。七月二十日で四十七歳になるっす。にほんブログ村↑ポチッと一枚!そんなQ輔に騙されたU子のルーム↑
2021.07.18
今週は日曜日に出勤するので、今日はその振替休日。貴重な平日の休みを利用して平針(運転免許試験場)で免許の更新をしてきました。ゴールドっすわ。更新手続きは思っていたよりスムーズに進み、午前中には帰宅することが出来た。今、リビングのテーブルでこの日記を書いている。 毎朝庭のアサガオがきれいだ。春先に次女が学校から貰ってきた種を花壇にバラバラっと撒いたら、狭い花壇を我が物顔で陣取っているトマトやゴーヤの隙間を掻い潜るように蔓を伸ばし、見事に咲いでみせたでかんがや。授業での観察を終え次女が小学校から持ち帰った鉢の方も、毎朝美しい紫色を開花させている。 まるでシマリスの鼻くそのように小さいあの種の、どこにこんなきれいな花が隠れていたのだろう。シマリスの鼻くそなど見たことないくせに、美しい花を愛でながら、僕はしみじみ思うのである。 そもそも種とは、命ある生物体なのであろうか。それとも種の段階ではただの無機質な物質なのであろうか。ねえ、種って生きているの? 死んでいるの? 僕がばら撒いたのは命のカタマリか? それとも命以前のカタマリか? 古い地層から発見された一万年前の植物の種が芽吹いたって本当? まるでダンゴムシのフンのようにちっぽけなあの種の中に、どんな精巧なトリックが仕込まれているのだろう。ダンゴムシのフンなど見たこともないくせに、そんなとりとめのない種明かしを、ただ何と無しに試みる、僕というカタマリがここにいるのである。 そして、アサガオの種を撒いてやったのではなく、まるでアサガオに種を撒かされたあの日のように、こうして活字を入力している、あるいはさせられているのである。 遠くで雨雲がうねうねと蠢いています。 それでは、これから妻と二人で、岐阜タンメンを食べに行ってきます。 にほんブログ村 ↑ポチッと一枚!
2021.07.14
これ、うちの長女。十歳です。はっきし言って二か月ほどブログを豪快にさぼっていたので、はっきし言って書きたいことは豪快に忘れるほどあるのです。さて、忘れそうなことから、忘れないうちに、あ、さて。 うちは「二分の一成人式」などという聞き慣れない行事は、きっとやらないだろうと、ぼかあ僕的に勝手に思い込んでいたのですが、妻のU子のやつ、いつの間にやら写真だけは撮ったみたいですよ。この度も、子供たちの成長の節目節目でお世話になっている地元の写真館で撮影してもらいました。 ちなみに、これ、三歳ん時。七五三。ちっちゃ。かわいっ。ほんでもって、七歳の七五三。チビとおててつないで笑っとる。ちょっと、あら、やだ、あんた、ここんとこ、あっちゅーまに、十歳じゃない。…………。せ、成長の加速がパねえ!この三年の出来高鬼すげえ!やっぱあれだな、プロの写真は違うな。うん、やっぱ撮ってもらうべきだぜ、まったくコノヤロー。何だかもう鼻っ柱がつんと痛いぜ、まったくバカヤロー。にほんブログ村↑ポチッと一枚!嬉し恥ずかし妻の部屋↓
2021.07.12
いい加減に自分の顔を好きになってやろうかな。最近鏡の前でそんな風に考えるようになった。四十六年間休むことなく自分の顔として働いてくれている、君の健気な顔じゃないか。労ってやれよ。歩み寄ってあげなよ。幼い頃からずっと邪険に扱われてきた自分の顔の身になってみろ。ぼかあ、顔が不憫でなりませんよ。そんな風にまじまじと自分の顔と向かい合えるようになったのである。 自分の顔が好きで好きでたまらない、そんな人はいるのだろうか。そんな生粋のナルシストに僕は今まで出会ったことはない。僕はずっと自分の顔が嫌いだった。色白で、下膨れ、張り出した前頭葉、オランウータンみたいに鼻より前に出た唇、髪の毛一本の質にいたるまで、漏れなくコンプレックスであった。 二十代の僕は 四六時中オドオドしたり、目玉をギョロギョロさせてまわりを警戒していた。鏡の向こうにいる、白い、むくれた、不健康そうな、挙動不審の、病名はよく分かんないのだけれどな何かしらの患者っぽさを醸し出している、そんな自分の顔が大嫌いだった。 三十代の僕は、四六時中イライラしていて、目玉をギラギラさせてまわりに攻撃的だった。鏡の向こうにいる、白い、むくれた、不健康そうな、挙動不審の、禿げかけの、罪名は分かんないのだけれど何かしらの罪人っぽさを醸し出している、そんな自分の顔が大嫌いだった。 そして四十代も半ばを過ぎた現在の僕は、昔と何も変わることなく四六時中オドオドしたり、イライラしている訳でありますが。ただし鏡の向こうにいる、白い、むくれた、不健康そうな、挙動不審の、見事に禿げ散らかった、そんな自分の顔の中に、かろうじて「責任」の輪郭を見つけられるようになったのである。このバカタレ、責任ある顔つきになってきやがった。なんて時々鏡の向こうを褒めてやるのである。四十代の面構え。うむ、よく見たら思っていたより悪くない。褒めてやると、顔のやつも、何だか喜んでいますよ。 これから先、五十代の顔、六十代の顔、七十代の顔へと、自分の顔がどの様に変化していくのか、今はまだ皆目見当も付かないけれど。ただなんつーか、自分よりお年を召した方たちが、長き人生において多くのことを「片付けた顔」っつーか、「まとめた顔」っつーか。そういうイカしたジジイたちの面構えには、今から密かに憧れてちゃってる僕なのであります。うしししし。にほんブログ村↑ポチッと一枚!密かに更新してます。妻のルーム。
2021.07.10
ピンクの骨。ピンクの骨。ピンクの骨。ピンクの骨。成功させよう、ピンクの骨!にほんブログ村↑ポチッと一枚!お暇なら来てよねん。U子さんのルーム。
2021.07.08
僕が生臭さ高校生の頃は、今の若者のように携帯電話を持っている生徒はナッティングで、新しいもの好きの友達が、かろうじて自慢げにポケットベルを持っているといった時代でした。 何しろ当時携帯電話を持っている人たちといえば、芸能人、超多忙なビジネスマン、そしてヤクザ者ぐらいだったのだから仕方がない。情報化社会の黎明期のさらに前の話だ。ウホウホ前夜だ。 当時のテレビのドッキリ企画で、横断歩道で信号待ちをしている黄色い帽子を被った小学生の女の子が、まだ発売したばかりのでっかい携帯電話をもって、「あ、パパぁ~、あたし~、いま渋谷~、早く迎えに来て~」なんてませた口調でお話をしていて、それを目撃した通りすがりの大人たちが、「いやいや、あれはヤバいでしょう」「おいおい、世も末だな」なんてリアクションをしていた。迫りくる新時代を風刺した面白いドッキリだった。いち視聴者として僕も大爆笑していた記憶がある。早いもので、あれから数十年が経ちました。いやはや今は末世なのであろうか。 そんなメールもラインもない時代の、僕らの授業中の通信手段といえば、ただの紙切れであった。小さな紙キレにメッセージを書いて前後左右最寄りのクラスメイトに教師の目を盗んでこっそり手渡しする。受け取った生徒は責任もって次の生徒へ、さらに次の生徒へ、とこっそり手渡しを続け、紙キレはやがてたどり着くべき生徒の元へ辿り着く。いわゆる「授業中に手紙が回ってくる」というやつだ。 僕のところにもたまに紙切れは回ってきた。一番多かったメッセージは「おーい、生きてるかー」と書かれたのもだった。僕があまりに授業をつまらなそうに受けてるのを見かねた友人たちが、メッセージを回してくるのだ。時に男子の汚らしい文字で、時に女子の丸っこい文字で、僕の生命の安否を気遣う温かいメッセージが回ってきた。 そういえば、成人してからコンパなどでツンとすましたいけ好かない女の子がいると、僕はわさとベロンベロンに酔っぱらって、会を台無しにしてしまうようなことをよくしたのだけれど、そんな道端でゲロまみれの僕にさえ「おーい、生きてるかー」の紙切れは回ってきた。ライブハウスで怖いパンクのお兄さんたちに、たびたびボコボコにされた時も、必ず「おーい、生きてるかー」の紙切れは回ってきた。 まったく、戦地や被災地の瓦礫に向かい叫ばれる懸命な「おーい、生きてるかー」もあれば、僕のような人間のクズを哀れむような「おーい、生きてるかー」もあるわけです。今日まで僕という人間は、不思議とそんな風に常に誰かに身を案じられながら生きてきた気もするし、もしかしたらあれは僕が自分で紙切れに文字を書いて「これを教室一周回したら僕のところに戻してね」なんてことを自分のためにしていたような気もする。まあ、今となってはよく憶えていないし、今となっては誰があの紙切れを書いたなんてことはどうだっていいことだ。今日も僕はこうして生きてる。それでいいじゃないか。細かいことは何卒勘弁してほしい。細かいことは、本当にもう、どうだっていいのだ。 そんなこんなで、ご安心ください。 僕は生きています。 にほんブログ村 ↑ポチッと一枚!
2021.07.06
ここのところ、子を持つ親として「いじめとは何か」を考えている訳だけれども。ここいらで、自分の学生時代を振り返ってみようかな。疑問、誤解、反感を覚悟で正直に申しますが、自分の小中高の学生時代を振り返ると、自分の周りには、いわゆる「いじめ」や「スクールカースト」的な構造は無かったと記憶している。正確には、あったのかもしれない。ただ僕が気付いていなかったのかな。重ねて、疑問、誤解、反感を覚悟で正直に申しますが、僕は、幼少の頃から自己承認欲求というのが極めて薄い人間だった。ハッキリ言って、他人の評価など知ったことかと思って生きていた。たとえ物質的に群れの中にこの身を置いたとしても、心はまったく別の場所を漂っていた。心理学者アブラハム・マズローの「欲求5段階説」によれば、人間の欲求には5段階あり、低次の欲求が満たされると、高次の欲求が現れてくるという。①生理的欲求=基本的・本能的な欲求。食欲、性欲、排泄欲、睡眠欲など。↓②安全欲求=安心・安全な暮らしへの欲求。↓③社会的欲求=友人や家庭、会社から受け入れられたい欲求。集団への帰属を求める欲求。↓④自己承認欲求=他者から尊敬されたい、認められたいという欲求。↓⑤自己実現欲求=自分の世界観・人生観に基づいて、あるべき自分になりたいという欲求。多くの人が、④の欲求を満たしては枯渇し満たしては枯渇する「自己承認欲求の餓鬼」と化し、SNSという無限地獄で、広く浅い「いいね」を求め彷徨っていることが、昨今問題視されている。しかし、このマズローの説によれば、自己承認欲求とは、少なくとも食べるものに困らず、屋根のある家に住み、当然のように家族がいて、学校があって、会社があって、仕事がある、という①~③の欲求は満たされた上での、高次の欲求ということになる。難民、被災者、戦禍の民は、当然自己承認欲求以前の欲求に枯渇しているわけだから、自己承認欲求とは随分と贅沢な欲求である。良くも悪くも、置かれた環境が平和であることが大前提だ。さて、僕のように自己承認欲求に飢えることのない人、あなたの周りにも稀にいるでしょう?そういった人達は、何故日頃から欲求に淡泊でいられるのでしょうか?その答えは実にシンプルです。既に自己承認欲求が満たされきっているからです。人によって食材はそれぞれだけど、常に何かでお腹いっぱいなので、眼前のケーキに惹かれない。自己承認欲求が無い人などいない。ただし常に満たされている人は稀にいる。ここがポイント。かつての僕にとって、僕の自己承認欲求を満たしてくれる存在、それは母でした。今は妻のU子さん。経験上、僕は自己承認欲求は、量より質だと思っている。この世界にたった一人、自分のことを無条件に受け入れてくれる人がいる。この事実は、何万件の「いいね」に勝る安心感、安定感、自己肯定感を人に与えてくれるものなのだ。ちなみに、先の心理学者のマズローは、更に高次の⑤自己実現欲求の成功者に共通している特徴として、「限られた人たちと深い人間関係を結んでいる」ことを挙げている。多くの成功者たちの人間関係は、実は狭い。そして深いのだ。僕の母は決して過保護ではなく、逆にややネグレストの傾向のある人だったし、僕が母と殺人事件のニュースを観ながら「もし僕が人を殺したらどうする?」と質問したら、「うちの子を死刑にして下さいと、裁判官に全力で訴える」と平気で言うような人だった。それでも僕の心は、常に母で満たされていた。この人は、勉強が出来たら認めてあげるとか、スポーツで一番になったら認めてあげるとか、私の言う通りにしたら認めてあげるとか、条件付きで僕を認めようとしない。この人だけは、無条件で僕という存在を認めてくれる。そんな染み入るような安心感があった。母のことだから、もし僕が人を殺したら、本当に絶対に僕を死刑にしたと思う。上手く言えんけど、それでも、最後は僕という存在を人知れず受け入れてくれるというか……。そんな環境にいた僕が、他人の評価、周囲の目、同調圧力、いじめ、スクールカースト、いちいち気になろう筈がない。オヤとか、コとか、カゾクとか、何を定義としているのか、考えれば考えるほど分らなくなるけど、ただまあ、僕も我が子にとって、かつての母や今の妻のような存在でありたいと思う。もし自分の子供がいじめにあったら?先ずはその子の置かれた今現在を、無条件で受け入れる。全てはそこからだ。以上っす。にほんブログ村↑ポチッと一枚!
2021.05.01
いじめは無くならないと、したり顔で言う人がいますが、僕は、そんなことないと思います。いじめは無くすことが出来ます。少年法を取っ払い、徹底的に法を強化すればね。頭の良い子であろうが、運動の出来る子であろうが、容姿が美しかろうが、親が金持ちであろうが、親が大臣であろうが、逆に家庭に同情すべき問題があろうが、いじめっ子はいじめっ子。加害者は加害者。即逮捕。刑務所行き。犯罪者は犯罪者。前科者は一生涯前科者。これからの人生の重き足枷とする。これまでモラルやマナーで訴えかけても、まるで減少しなかった交通違反が、近年道路交通法を強化することで、明らかに減少しているでしょう?それと同じです。いじめも、モラルやマナーでは、歯止めが利きそうにない。だからこそルールだ。法律だ。徹底的に法律で縛る。違反した者は犯罪者。罰金を払う。人間免許証から減点される。そうすれば、いじめっ子もその親も、観衆や傍観者やその親たちも、いよいよ真剣に考え始めるでしょう。……まあ、現実的な話ではねえなと、重々分かっちゃいますけど。なにしろ少年法は他の法律とは違い、未成年が法律を破る行為をした時、罪を反省させ、教育を受けさせ、その子を取り巻く環境を調整し、その子にやり直すチャンスを与えることを主軸においた法律ですから。簡単に言うと「罪を何とかして無かったことにしてあげる」法律ですからね。さて、今回はいじめっ子について、自分なりに考察します。いじめっ子は二つに分けられます。先ずは「境界知能」のいじめっ子。いじめっ子の一部には「反省以前の子供」が混在している可能性があるそうです。認知能力が弱く「ケーキを等分に切る」ことすら出来ない子供。「知的障害者」と「健常者」とのボーダーラインの子供達。悲しいかなそれは、いじめられっ子の一部にも存在するらしく、俗に、いじめっ子といじめられっ子の人格は表裏一体である、なんて指摘されることもあります。ですから、本来いじめが発生した場合は、被害者のカウンセリングと同時に加害者のカウンセリングも入念に行うべきなのですね。少なくとも僕は、もし自分の子供が加害者であったら「境界知能」か否かの検査をします。次に、「健常者」のいじめっ子。こういったいわゆる「確信犯」的な子供たちでさえ、少年法は手厚く保護してくれます。まだ脳が未成熟な十代の子供たちは、一見して自分たちの意思を強く持っているようで、実は置かれた環境の影響をもろに受けるので、学校に行くのが当たり前の環境では、ふつーに学校に行きますし、マスクをするのが当たり前の環境では、ふつーにマスクをしますし、人を殺さないのが当たり前の環境では、ふつーに人を殺しませんし、戦争をするのが当たり前の環境となれば、ふつーに銃を持つでしょうし、いじめは無くならないと大人が容認してくれる環境なのだから、そりゃあ、ふつーにいじめもするのでしょう。環境って大きいですね。逆に言えば、いじめは人殺しと同等の一生をかけて償うべき大罪である、という環境に子供を置けば、子供たちはその環境に影響されてくれるのではないでしょうか?百歩譲っていじめは無くならないというのが本当であれば、僕はやはり「かつてのいじめっ子たち」の意見が聞きたい。大々的な「いじめ肯定論」を心の底からぜひ読みたい。自分の人生の成功は、人をいじめ抜いたから!人を人と思わぬ振舞いが出来たから!人を死に追いやっても、まるで罪悪感を感じなかったから!人生を勝ち抜くとはそういうことだ!いじめは楽しい!いじめは気持ちいい!いじめ最高!いじめ万歳!と声高らかに謳って欲しい。その発言が僕の既成概念を唸らせる立派な内容であれば、僕はフェアに内に取り入れ、考えを改めたい。んが、そんな理論には、いまだお会い出来ない。たまーにテレビで、爆笑問題の太田さんが、モソモゾッといじめ肯定論を展開しているが、実に言いにくそうだ。まあ、あれは世間の風潮に対してあえて言っているっぽいけど。世間の頭の良い人達がせっかく「いじめは無くならない」とおっしゃっているのだから、いじめっ子OBたちは、ぜひ声を上げて欲しい。被害者のカミングアウトはよく見聞きするが、加害者のそれは皆無だ。統計上辻褄が合わない。人を人とも思わぬ心を持つあなた方じゃないか。今になって、こそこそしなくてもいいのに。ほんとうに、いじめっ子はどこに消えるのだろう?ここで、一つの仮説を立てみよう。はじめっから、いじめっ子なんて存在しないという考えだ。「自分は人をいじめている」という自覚すらない子供たち。自分を俯瞰するということが、まるで出来ない子供たち。そういう子供が大人になり、社会に溶け込んで、自分とよく似た子供を産む。その子供がまた自覚なきままいじめを行い、大人になり社会に溶け込む。だから「私はいじめをしました!」という大人の声は聞かぬが、大人達は「いじめが無くなるはずがない」ということだけは感覚的に知っている。胸に手を当てて思い返してみると、僕だって、あなただって、その一員なのかもしれない。友達と遊んだこと、部活でがんばったこと、恋愛したこと、そんな楽しかった記憶や、友達に裏切られたこと、部活で負けたこと、失恋したこと、そんな悲しかった記憶は、僕たちは、言われんでも、頼まれんでも、しっかり憶えているものであるが、人をいじめたこと、それをはやし立てたこと、それを見て見ぬふりをしたこと、などという、自分にとって都合の悪い記憶は、無意識に無かったことにする。すっかり忘れて、社会に溶け込み、結婚して、子供を産んで、幸せに暮らしている。今日も人を人と思わぬ振舞いや書き込みをした人間が、月9ドラマでメソメソ泣いていたりする。金八先生の再放送で号泣したりする。路傍の子犬の死体を見て手を合わせたりする。我が子の成長にホッコリしたりする。花を愛で、風を感じ、詩を詠み、流れ星に祈ったりする。僕たちは、人を人と思わぬ振舞いをしたことなど、一度も無い。全ては無かったこと。何も無かった。何も無かったのだ。いじめっ子はどこへ消えるのか?これからもきっと、加害者無き被害者が、たくさん自殺する。法律とは、いったい何の為にあるのだろう。にほんブログ村↑ポチッと一枚!
2021.04.29
【相談】 Q輔さん、こんにちは。子供がいじめにあったらどうしますか?(名古屋市、46歳 ペンネーム・Q輔)【お返事】なんか、小学校のいじめが急増しているんだってね。うちの娘たちも、上は五年生、下は一年生。これまであまり真剣にいじめについて考えたことは無かったのだけれど、ぼちぼち親としての自分の考えを、しっかりと立ち上げておくべきかなと。というわけで、誠に勝手ながら、しばらくこのブログを借りて考察したいと思うとります。きっと重い内容になるし、間違ったことを書くもしれません。ヤバいと思う人は、すんません、読まんとってくんさい。さて。少し前、ふと思い立ち、僕と娘たちとの、いじめに関するファーストコンタクトとして、とある名言を、大きな声で読み聞かせました。それは僕が中学生の頃からずっと大好きな甲本ヒロトさんが学校に居場所がない子に言ってあげられることはありますか?という質問に対してのコメントです。あまりにも素晴らしいコメントで、けっこー有名です。今日なんて日は、それを記して終わります。学校に居場所がない子に言ってあげられることはありますか?【甲本ヒロト】居場所あるよ。席あるじゃん。そこに黙って座ってりゃいいんだよ。友達なんていなくて当たり前なんだから。友達じゃねぇよ、クラスメイトなんて。たまたま同じ年に生まれた近所の奴が同じ部屋に集められただけじゃん。趣味も違うのに友達になれるわけないじゃん。山手線に乗ってて、『はい、この車両全員仲よく友達ね』って言われても、『いや、偶然今一緒に乗ってるだけなんですけど』って。友達じゃねぇよ。ただ、友達じゃないけどさ、喧嘩せず自分が降りる駅まで平和に乗ってられなきゃダメじゃない?その訓練じゃないか、学校は。友達でもない仲よしでもない好きでもない連中と、喧嘩しないで平穏に暮らす練習をするのが学校じゃないか。だからいいよ、友達なんかいなくても。この名言を切り口に、いじめについて、子を持つ親としての、僕の答えを探って行こうかな。 Q輔さん、ご相談、ありがとうございます。にほんブログ村↑ポチッと一枚!
2021.04.24
ドラえもんの原作者が亡くなっても、ドラえもんは生きている。サザエさんの原作者が亡くなっても、サザエさんは生きている。ちびまる子ちゃんの原作者が亡くなっても、まる子ちゃんは生きてる。クレヨンしんちゃんの原作者が亡くなっても、しんちゃんは生きている。そして。志村けんの原作者が亡くなっても、志村けんは生きてる。僕たちにとって、志村けんって、もはやそういったある種のアニメキャラ的存在なのかもしれない。テレビでも、いまだ当たり前のように志村の活躍を見る。故人の生前の記録をいつまでも放送し続けることは、さもすれば不謹慎であると指摘されても何ら不思議ではないのに、まるでそんなことを周囲に感じさせない。本当にあの人は、故人なのだろうか? 今も生きている気がして仕方がない。というか、僕たちにとって、生きているとか、死んでいるとか、もう関係ない存在なのかもしれない、志村って。文字通り、変なおじさん。である。にほんブログ村↑ポチッと一枚!
2021.04.18
【相談】 Q輔さん、こんにちは。少し前に「上司の一貫性に欠ける発言に悩んでいます」という相談をさせていただいた、Q輔です。さて、私は今、先だっての私の相談に対するあなたの返事に大変憤慨しています。あなたのお考えを要約すると、上司の発言が、過去と現在で一聴して辻褄が合わないことなど当たり前。部下たるもの、皆まで説明されずとも、その奥にある一貫性を汲み取るべきである。とのこと。少なくとも私はそう受け取りました。いやいや、おかしくないですか?何で下のもんが汲み取ってやらにゃならんの?上司は赤ちゃんか!上司なら、正しい言葉で、正しい指示を、こちらが迷わんように、かつ傷付かんように伝えんかい!私はこれまで、上司の自分本位の支離滅裂な発言に振り回され、身も心もズタボロです。やはり人の上に立つ者は、常に細心の注意を払って発言するべきだと思うのです。これは上司部下の関係に限らず、先輩後輩、親子、夫婦、先生と生徒、政治家と市民、何だってそう。常に責任ある発言を心掛ける。これ、あらゆる人間関係の基本でしょう?とにかく先日のあなたの発言だけは許せません。撤回して下さい。撤回しやがれコノヤロー。(名古屋市、46歳 ペンネーム・Q輔)【お返事】えらい言われようでござる。なるほど、Q輔さんのおっしゃることも一理ある。てか、二理も三理も万里もある。大正解。でも。しかし。である。そう、モノゴトには「でもしかし」があるから面白いよね。という訳で、以下は、あなたの意見に対する僕の「でもしかし」です。僕は「会話」とはスポーティーなものだと思ってる。ていうか、個人的には、ほぼスポーツだと言って過言ではない。野球、サッカー、バスケ、陸上、柔道、水泳、それらと同じ「会話」という競技。会話は文化的資質より、どちらかというと運動神経がものをいうゲーム。ちなみに昨今、メール、ライン、ツイッターなどの「電子での会話」も新しい競技として確立しつつあるな。とにかく「会話」はスポーツなのだから、他の多くのスポーツと同じく、瞬発力、知力、体力、時の運、血の滲むような日々の努力、もって生まれた才能を駆使して、ただ本番に結果を残すことが全て。もちろんスポーツなのだから、向き不向きがあって当然。努力だけでは如何ともしがたい現実もある。例えば、一流のアスリート。例えば、引退しちゃったけど、イチローとかね。彼は、自分の才能に胡坐をかくことなく、日々努力を怠らず、己の野球哲学を信じ、自分の体の細部にまで注意を払って、試合に挑んでいたと思うのですね。そんな野球のプロフェッショナル、超一流のイチローにかかれば、相手が投げたボールの速度、回転、位置を、瞬時に、的確に判断し、バットの芯にジャストミートさせ、日々鍛錬した肉体をフル稼働させ、全ての玉はホームラン!・・・かというと、そうでもない。たまに、空振りする。プロのくせに。高い給料もらってるくせに。超一流とか言われてるくせに。たまに、三振する。なぜなら、野球には相手がいるからだ。相手のピッチャーは、こちらが打ちやすい玉を投げてはくれない。困らせる玉ばかり投げて来る。イチローにしてみれば、もっとホームランを打ちやすい玉を投げてくんないと、僕ちゃん嫌だ!とか。今日は何だか調子が悪いのでバッターボックスには立たないもーん!とか。今の玉、家に持ち帰って検討するね。三日後また投げてね。必ずホームランにしちゃうから!とか。言いたいであろうが、言えるわけねーじゃん。プロの世界なのだから。では、会話というスポーツの場合はどうでしょう。例えば、あなたの上司。彼が、自分の才能に胡坐をかくことなく、日々努力を怠らず、己の仕事哲学を信じ、自分の体の細部にまで注意を払って、仕事に挑んでいるとう前提で。ははは。そんな上司にかかれば、部下が投げかけた質問の意味、真意、背景を、瞬時に、的確に判断し、質問の芯にジャストミートさせ、日々鍛錬した頭脳をフル稼働させ、全ての発言は当意即妙!・・・かというと、そうでもない。たまに、失言する。上司のくせに。高い給料もらってるくせに。社長とか部長とか言われてるくせに。たまに、人を迷わせる。なぜなら、会話には相手がいるからだ。会話の相手は、こちらが答えやすい質問ばかりをしてくれない。困らせる質問ばかりしてくる。上司にしてみれば、もっと答えやすい質問してくんなきゃ、僕ちゃん嫌だ!とか。今日は何だか調子が悪いので、ヘンなコト言いたくないので、発言しませーん!とか。今の質問、家に持ち帰って検討するね。三日後また問いかけてね。必ず的確に指示するから!とか。言いたいであろうが、言えるわけねーじゃん。仕事なのだから。仕事ってバスケの試合みたいに瞬発力が必要でしょう?細部に至る判断ともなれば、分刻み、秒刻みで行っていかなければならない。仕事中はみんなゼイゼイ言っている。ハアハア言っている。それはあなたの上司もきっとそうです。プロがどれだけ努力しても空振りはする。パスをミスる。これまでのタイムを大きく下回る時もある。もちろん、でもだからと言って、上司が自分の置かれた状況や感情に任せて何を言ってもよいと言っているのではありません。野球の下手な選手が、レギュラーになれないように。決してプロにはなれないように。会話の下手な上司は統計的にみても出世しにくいようですね。特に昨今は。まあ、当然か。ただ問題はね。「競技としての会話」がどうも苦手であるということと。その人の「業務実績」は別であるということです。別で考えないといけない。表面的な言葉で傷付いたとか、迷ったとか、ハラスメントだとか、まあごもっともなのだけれど。そこでシャットアウトしてしまうと、その人から本来得られるべき情報は途絶えてしまう。僕はその情報がとても勿体ないと思うので、喉から手が出る程欲しいので、表面的な言葉のキツさはさておき、その先を、その奥を、何とかして掴むように心掛けている。口は悪くても、精度の高い仕事をする職人はいるし。口下手でも、センスの光る図面を書く設計士はいる。失言だらけでも、力のある政治家もいる。「競技としての会話」にだけ重点に置くのであれば、橋下徹氏とか、ひろゆき氏とか、ホリエモンとかが総理大臣になったらいいと思う。何を聞かれても当意即妙。会話という競技の選手としてのスキルが半端ない。こと会話だけのことでいえばね。でもそれと、実務は別ですからね。会話が業務の全てならばいいんだけどね、所詮は会話は業務の一部でしかないのよ。オリンピックの森前代表が、あの失言で、すったもんだで。まあ、当然の報いか知らんけど。あれは、イチローがある打席で派手に空振りしたということで、イチローのこれまでの功績も全て無効、全てチャラでよいという考えなのかな。イチローの空振りと、イチローのこれまでの功績が別であるように。森さんのあの失言と、森さんのこれまでの功績は別だと思うが・・・。タレントの出川の十年前の失言がほじくり返されて、好感度が落ちたとか、落ちないとか。あの女性は、この生涯を振り返って失言をしたことがないのかな?誰も傷つけず、迷わせず、いつ何時も辻褄の合った発言で、名言格言を連呼してきたと言い切れるのかな?僕たちだってそうだよ。自分は部下だから、後輩だから、子供だから、生徒だから、市民だから、会話のバッターボックスには立たず、観客席からヤジを飛ばしていればいい?たった一言の失言で、その人の人間性が測れるなんて、いやあ、しっかし、みんな人を見る目が長けているのだなあ。どこもかしこも人を見るプロフェッショナルばかり。おもんぱかる。という、思わずハグしてチューしたくなるカワイイ言葉があります。「ぱか」のあたりが実に愛くるしいよね。思慮する。考えを巡らせる。だってさ。あなたの上司が、あなたをおもんぱかるのは、そりゃ当然ですが。ちなみに、あなたは、あなたの上司をおもんぱかっていますか?言わずもがなのことですが、おもんぱかりは、お互い様だと、僕は思いますよ。Q輔さん、ご相談、ありがとうございます。にほんブログ村↑ポチッと一枚!
2021.04.17
裸眼という言葉を知らなかったのです。裸の目。眼鏡もコンタクトもしていない目。ずっと裸の目の当事者だったので、何気に知識がなかったのでしょう。実は先月から眼鏡なるものをかける生活になりました。もうね、テレビ観てても、演者の顔がぼやけて誰が誰だか分かんないのよね。道路標識も、結構近くまで来ないと判断できねえ始末なのね。眼科で診てもらったらさあ。裸眼でも生活できるレベルですが、眼鏡をかけることをお勧めするレベルでもあります。とのこと。んじゃあ、ってんで、眼鏡フルライフ。かけたりかけなかったりは、逆に目を悪くするなんて話も聞いて、四六時中かけっぱなしフルライフ。僕の眼鏡は妻が選びました。貴方は丸眼鏡以外かけてはなりません。だって私の好みなのだから。とのことで、いつもの様にいつもの如く、僕に選択権はありぁあせん。鏡の向こうに江戸川乱歩。ふと、人生の手慰みに、小説でも書いてみようかなんて、思ったりして、すぐに忘れて。にほんブログ村↑ポチッと一枚!
2021.04.14
僕のとある知人女性に、お孫さんが生まれた。その女性は僕より三歳年上で、今年五十歳になる。はやっ!その報告を聴いた時、感覚だけで一瞬そう面食らったが、よくよく考えたら、いたって自然な計算が成り立つ。その女性が二十代前半で出産し、その子が二十代前半で出産すればそうなる。知人のご両親は、まだ七十代前半という若さで、ひ孫の顔を拝めるという。嬉しいだろうなあ。知人は、若くして離婚をして、女手ひとつで娘二人を育て上げ、いろいろと大変だったと思うが、はやくに子育てを済ませているので、現在は悠々自適な毎日を送り、孫まで授かるに至っている。兎にも角にも、おめでとうございます。さて、僕はといえば、長女を授かったのは、三十五を過ぎてから。次女にいたっては、四十の時。仮に次女が大学に進学したとすると、卒業する時、僕は六十を過ぎている。孫?・・・なっげえ。いやはや、健康って財産だなあ。僕の健康、イコール現金だ。あははは。僕等ぐらいの歳になると、ぼちぼち同世代各個人の健康状態に大きな差が出始めるっすね。心身の何かしらの不調で、働きたくても働けないという人の噂を耳にすることしばしばっす。もうこうなってくると、最終的には健康こそが、持って生まれた才能ってやつではないかとすら思える。もちろん才能は努力ありきですが。ちなみに、僕がもっと早くに子供を授かりたかったかというと、うんにゃ、そうでもない。まあ、すべては結果論で、今だから言えるし、幸いにして子を授かったから言えることではあるのだが。僕は、ある程度人生経験を重ねた上で子を授かることが出来たことは、本当に有難かったと思っている。妻はどう思っているか分かんねーから、あんま勝手なこと言えねーんだけども。んーでも仮に、妻と結婚する前や、結婚して間もない時期の、あの精神状態の極めて未熟な頃の自分に子供があったとして、僕が人並みの子育てや労働をし、妻の望む給料を家庭にパス出来たかというと、うーーーーむ、我ながら、いささか怪しい。あはははは。あと、同じく今だから言えるが、正直「毒親の連鎖」っちゅうのも、個人的にはすんげー気にした。自分に潜む、いらない血、壊れた血、ダメな血が、怖かった。自分の子を自分は愛せないのではないか?という不安があった。今では笑い話だが。分かる人には分かると思う。僕たちは、なかなか子供を授からなかったが、その十年に及ぶ妻との二人きりの生活のなかで、この心は、かろうじて成人した。夫婦二人であったので、家庭を顧みず、馬鹿みたいに働くことも可能で、子供が生まれた時には、金銭にさほど苦労は無かった。あの日々のおかげ。あの日々よ、ありがとう。この世のあらゆる問いは、必然的に解に向かう。すべてのコトガラは、あるべくしてそこに立っている。そういうことです。にほんブログ村↑ポチッと一枚!
2021.04.11
和気あいあいと笑顔で仕事をしているからといって 彼らがふざけて仕事をしているかというと それはまた別の次元の話 眉間にしわを寄せ血眼になって怒鳴り合っているからといって 彼らが真面目に仕事をしているかというと それはまた別の次元の話 端正な住宅街の高級マンションに住んでいるからといって その家族が幸せに暮らしているかというと それはまた別の次元の話 物質的に満たされない生活をしているからといって その家族の心までが貧しいかというと それはまた別の次元の話 つまり 僕が妻を愛しているからといって 僕が道行く若い女の子に目移りしないかというと それはまた別の次元の話 そして ただし あの妻がこの僕に対して上から目線なことと 僕が妻に日々仕立て上げられているということとは 悲しいかな同じ次元の話みたい うおっなっじっ四っ次元 んどどどどどどどどどっどーらえもん にほんブログ村 ↑ポチッと一枚!
2021.04.08
桜の頃も、終わりの頃。迫りくる太陽の季節を前に、日に日に高ぶるアチキの想い。聞いてくださる?アチキ、キャンプに行きたい!なんかね、ちょっとそこのコンビニで肉まん買ってくるぐらいの感覚で、ぶらりとキャンプにお行きなさるアクチブなご家族のブログとか見てるとさ、まじ大自然サイコーって思うわけえ。水は冷たい火は熱い。夜は暗いし虫は痒い。夏は暑いが木陰は涼しい。そんな当たり前のことを、ぜひ子供たちに体験さねばと、パパっち焦るわけ。イオンとか、ららぽーととか行くとさ、アウトドア用品店をウロウロしながら妻といつも悩むのよね。テントから何から、初心者がグッツを一式揃えたら、いったいいかほど掛かるんかしらんとか。大金掛けて購入したものの、すぐ飽きちゃって、ドブ捨てだったらどうしようだとか。逆にアウトドアに泥沼の如くハマっちゃって、仕事どころじゃなくなっちゃって、その挙句、事実上の野宿生活に陥ったらどうしようだとか。うおおおおお、キャンプに行きてえ!おら行きてえだよ!だって行てえんだ!・・・でも怖い。なんかね、何度イメトレしても、脳内ですでに大惨事。木漏れ日の下、家族で和気あいあいとテントを張る。まあ、毎度毎度ここまではいいんだけどね。ここから僕の想像の中ではいつも、どこからともなく飛んできた一匹の蛾が、害虫恐怖症の妻の顔面に止まる。閉所恐怖症の次女が、テントの中で常軌を逸する。暗所恐怖症の長女が、夜中に情緒不安定になる。そこからともなく聞こえるオオカミの遠吠えが、徐々に遠吠えじゃなくなる。風音や虫の音や草木の擦れる音から、いるはずのない異形の世界の住人の言葉を汲み取る。「ここに何しに来たやがった、呪ってやる、末代まで祟ってやる」「おい、旨そうな人間だぜ、喰っちまおうぜ」嫌ああああ!来るんじゃなかった!来るんじゃなかった!キャンプなんつぇえええ!もうね、行く前から、後悔しかない。イメトレなんだから、こっち都合でハッピーエンドでいいのにね。とっほほほおおお。ああ、キャンプ。ねえ誰かアチキを連れてって。憧れの。大自然の。にほんブログ村↑ポチッと一枚!
2021.04.07
こいつだけは、大きくならないんじゃないか。ずっとおチビちゃんでのままでいてくれるんじゃないか。もともとそういうたぐいの生き物なんじゃないのか。ね、そうでしょ?そういうことにしとけばいいじゃん神様。なんちゅう父の淡き桜色の期待は、本日儚く散り申した。ああ、何たることだ、次女が一年生になってしまった。ちっ。この世界一かわいい裏切り者め。とは言うものの、この面子を見る限り、まだまだ長げえな、この「子供大人化計画」。ちょ、ちょ、ちょ、ちょいとそこ行く神さんよ。どーか私に仕事をお与え下さい。何でもやります。贅沢は言いません。どうかこの私に、健康な体と心、そして惜しみなき試練をお与え下さい。さて。明日もがんばって働くとするか。にほんブログ村↑ポチッと一枚!
2021.04.06
【相談】 Q輔さん、こんにちは。上司の一貫性に欠ける発言に悩んでいます。例えば、つい最近まで「コピー用紙なんて何百枚使ってもよいから、紙で記録をしっかり残せ!」と言っていたのに、この頃は「紙が勿体ないと思わんか!何故データで記録を残さんのだ!」と平然と言ったりします。何故ああも以前と真逆のことを、平気で部下に指示出来るのでしょうか。ついて行けません。悩んでいます。教えて下さい。(名古屋市、46歳 ペンネーム・Q輔)【お返事】Q輔さん、ご質問ありがとうございます。それは恐らく僕の会社の上司の話ですね。分かるうう。僕も上司の支離滅裂な指示・指導に振り回され、行き詰まること多々ありい。んでもね、表面的には真逆の発言のようであっても、必ずその発言には共通項があったりするものです。例えば先の二つの発言は「その時代にあった最善の方法で記録を残せ」という意味では一貫性がある訳です。先ずはそれを汲み取りましょう。汲み取る努力をしろよ、アホ。お前が、相手の発言の根っこの部分を、ぐにっと掴むことが出来ていれば、その発言の枝葉の色合いごときに、翻弄されることはないと思うぞ、アホ。この人は、自分ではないのだから、自分と考えが違うのは当たり前だし。この人の考えをいくら自分に押し付けられても、自分としては、へーそっかあ、そうなんだあ、って感じだし。考えの異なる者の集団からは、何も作り得ない、何も生み出せないかというと、意外とそうでもなくて、思わぬ化学反応で、思わぬ成果が導き出されたりするし。そもそも仕事で成果を出すことと、倫理観や理路や仕事の流儀を混同してはいけないし。この人は、あの日ああだった、でも今日はこうなんだ。ちなみに、今日の午前にはああだった、でも今はこうなんだ。へえ、そうなんだ。そっか、そっか、そうなんだ。その人の根っこの部分が変わっていない限り、その枝葉や、言の葉や、言葉尻や、ニュアンスに、必要以上に翻弄される必要はない。へー、なんかいつものようにいつもの如く、わーわー言っとらっせるわ、この人。おー怖。うっせーな、馬鹿。そんでいいのではないのでしょうか。自分の倫理観で相手を測れば、必ずあなたも相手の倫理観で測られますよ。その発言に一貫性があるという一点だけで、あなたに人望が集まり、あなたが仕事で大成し、あなたの生活が豊かになるのであれば、あなたは、周囲への発言の、辻褄合わせばかりを気にして仕事をしていればよいのだから、ずーっと、そうしたらいーですよ。でもよお、そんな甘ったるい職場は、どこにもねーですよ。あるかっつーの。それは、あなたが一番分かっている筈でしょう?少なくともあなたの上司は、とっくにそれを悟っているのではないでしょうか?考えろタコ。クズ。カス。以上です。Q輔さん、質問ありがとうございました。にほんブログ村↑ポチッと一枚!
2021.04.05
「私はあなたのように強くないのです」「あなたは部長になられてから変わった」「あなたの指導法で転職を考えました」以上のことを、三人の社員に、二日間のうちで順番に言われました。うちの会社自体がいろいろと変革の真っ只中で、社員たちに迷いや疲労が出てきているのは感じていたが、それは僕だって同じな訳で、いやあ、さすがにヘコみましたよ。人は、何をもって強い、又は弱いというのか、それはその局面ごとに細かく異なるので、一概に僕が強い、君が弱い、とは言い切れるものではないと思うが、それでも、いかなる局面にあっても、僕は元弱者の代表として、弱き者のために強くありたい、と思う。弱音ひとつ吐いてたまるか、と思う。僕は、人は変わるべきだし、変わり続けるべきだと思う。その志だけは、ずっと変わっていないつもりだ。自分に一番合った指導法を知っているのは、自分だ。こんな指導をしてもらえば私はもっと伸びるのに、というビジョンがすでにあなたにあるのなら、あとは、それを自分自身に実施するだけだと思う。だから僕は、極力こちらからは教えないし、答えも出さない。ただ資料のある場所、取説のある場所だけを教えます。もちろん、あなたが失敗しても、事務的な指摘はするが、注意はしません。叱りません。もちろん、分からないところは、ぜひ聞いて下さい。質問には丁寧に答えます。これからの時代に重要になるにのは、検索力、構成力、実行力、継続力、コミュニケーション能力、折れた心を速やかに修復する復元力であると僕は考えます。おっしゃる通り。すべては、みなさんのご指摘の通り。分かっちゃいるけど、ヘコんだ、凹んだ、丸二日。僕が丸二日も悩むってのは、普通の人が丸三年悩むぐらいの時間に換算されるのではないかしら。んで、さすがに妻がキレた。一体全体何なのあんた、情けない。いい?あたしがあんたに唯一惚れている部分は、いかなる状況にあっても飄々と立ち回れるところよ。おぎやはぎの小木みたいなところよ。心があるのかないのかよく分んないところよ。あたしはあんたのようには生きられない、だから憧れてるのよ。しょぼくれてんじゃないわよ。お願いだからシャキッとしなさいよ。ピエール瀧を見習いなさい。あんな失敗しちゃったけど、復帰してんじゃん。何事もなかったかのように、飄々と生きてんじゃん。あんたは、ピエール瀧で行きなさい。ぼーんつーびーピエール瀧。心配しなさんな。あたしがあんたの石野卓球だから。・・・なー言っとお、さっぱあ分っかあへん。というわけで、明日からはピエール瀧の心意気。にほんブログ村↑ポチッと一枚!
2021.04.04
先の三月で、約一年に及ぶ公共工事を、やっとこさ終えたっす。ちかれたー。この工事は、工事を管理する工事監督が、過度のストレスにより、ノイローゼというか、鬱というか、心の調子を崩して工事の途中で退職し、受注した会社が、その後処理に大いにすったもんだすること多々あり、という曰く付きの類の工事であった。役所が入札を公示したところで、参加者がなっちんぐで、何度も流れているところを、うちの社長が棚から落札してきたという、最悪のぼた餅なのであった。工事の内容としては、実に陳腐な給排水の改修工事であったが、地域住民というか、入居者というか、低所得者というか、怖い人というか、老人というか、クソガキ共というか、外国人というか、宇宙人というか、百世帯を超えるそういった人達のプライベート的な、空間的な、ルーム的な、にお邪魔して給排水工事を行うことが、実に陳腐ではない、工事監督たちの心を木っ端みじんに破壊するポイントであった。その、地域住民というか、入居者というか、低所得者というか、怖い人というか、老人というか、クソガキ共というか、外国人というか、宇宙人というか、への、工事の説明、連絡、調整、クレーム処理に、みんな心をズタズタにやられてしまうのだ。さらに昨年からは、追い撃ちをかけるかのようにコロナ禍でざんがしょ?そんなこんなで、着工時は、最悪の場合オイラもこの工事にて、身も心も玉のように美しく砕け散るのであります!なんつって覚悟したのであるが、蓋を開けてみれば、な~んてこたあない、よくよく思い返せば、そもそもこのオイラ自身が、地域住民というか、入居者というか、低所得者というか、怖い人というか、老人というか、クソガキ共というか、外国人というか、宇宙人というか、の、コミュニティからウジのように湧いて出た人間であったので、「おーおー、里の者たち、達者であったか、今帰った!我がホームタウン!まじ落ちつくうううう!」ってな台詞を腹の底から叫びたい衝動を禁じ得ず。なんだかもうキツネにつままれているかのように、工事は順調に、快調に、快便モリモリに進み申した。てゆーか、昔からどういう訳か僕は、年上の女性に可愛がられるというか、不思議とよくして頂けるので、不用意に現場内を巡回などしていると、ちょいとそこ行く監督さん、このお菓子食べてって!あんら、監督さん、お家上がってお茶飲んでって!缶コーヒー待っていって!みかん持っていって!年末の旅行でお土産買っといたから貰って!チューして!サインして!などなど。素敵なマダムや、ばあば様に声かけまくられ放題、モテモテ放題なのでありました。もう、最終的に現場事務所は、頂き物だらけで、少々困ったぐらいでありんした。あは、あはは。まあ、たまたま、この現場は、頭の良い、計算の早い、暗記力や記憶力の高い、そんな数値化出来る能力に秀でた生真面目な人には不向きで、僕のように、コミュニケーション能力などの、非認知能力オンリーの人間からしてみりゃあ、おちゃのこさいさい、屁のカッパの現場だったちゅうこった。ぶぶ、ぶはははああ。僕の父は昔、名古屋市笹島のドヤ街に、日雇い労働者のホームレスを拾いに行く際、「番頭さん、食べってって!飲んでって!」とホームレスたちから振舞われる、食べ物だか何だか分からない、腐っているかどうだか分からない得体のしれない物を、その場に座わって、彼らと共に、わいわい話をしながら飲み喰いしたという。現場事務所に山になった食べきれない頂き物を物を見るにつけ、あの馬鹿な父が、ほんの一瞬偉大に思え、今だのうのうと生きているあの父に、今死んでたらきっと感謝出来るのにい、もう!と歯がゆさを感じる、春の始まりでわろし。にほんブログ村↑ポチッと一枚!
2021.04.03
「ちょ、あんた、ブログやめたんか?」いつもの時間に、いつもの椅子に座り、いつもの柿ピーを共に、いつもの低級酒を、鼻から呑むと見せかけて、いつものように口からの呑むという、ほんの少しだけいつもと違うモーションで晩酌していたら、僕の愛すべき恐るべき妻が問うてきた。「・・・やめとらんよ」「んだったら、何で書かかんの?」「・・・べつに、ただ何となくっす」「なんだそりゃ!そんな生半可な気持ちならやめちまえ!」「・・・やめんよ」「んじゃあ書きゃあよ!何故ってあんたの大切なこのあたしが退屈しとるがや!」「・・・知らんがや」「知れ!」「・・・知らん」「死ね!」「・・・生きる」「やめちまえ!」たかだかほんの数週間休憩しただけなんだけれどもなあ・・・。まあ、休憩してみて分ったこともあったぁ~です。やっぱさ、それなりに暮しのプレッシャーになっとったのは間違いない。休憩した時にさ、ふっと心が軽くなったの分ったもん。だからつって、それがダメだと申している訳ではなくてね。はは~ん。こやつ。なるほどね。そんな風に思っただけです。「ハッキリって、あんたの仕事の話とか、生い立ちの話なんかは、あたし、どーだっていいの。あんたは、このあたしを讃えるような日記を書いてりゃいいのよ。書けばきっといいことあるわよ。それをあたしが読む。あたしが喜ぶ。あたしハッピー。とどのつまり、あんたハッピー!」片鱗も意味を理解しかねる発言ではあるが、妻がそう言うのであるから、ぼちぼち書きまする。まあ、彼女の言う通りやっときゃ、まあ、間違いないだろう。たぶん。て言うか、休んでよかったあああ、いろいろど~でもよくなったしいい。て言うか、妻のことなんか、絶対しばらく書いてやるかって感じなんすけどね、実は。だは。だはははは。あ、そうそう、そう言えば今日、真昼の白い月を見ました。と言う訳で、明日も書きます。んは。んははは。にほんブログ村↑ポチッと一枚!
2021.04.02
ぼかあ、毎晩お気に入りのブログをたぁーーっと閲覧する習慣があんだけどさ。ここんとこ何んか味気ねえなあ、妙に寂しいなあ、なーんつって思ってたらば、あらやだ、「家曜日」というブログの更新が滞ってるじゃないの。何故に何故に滞っていたのかってーと、あんらやんだ、それは僕が書いていないからじゃないの。ぶは、ぶはははは。うーん、やっぱあれだね。鍋のアクも、無きゃ無いで美味くならねえっつーからね。必要アクってやつでね。僕みたいなブログも、無きゃ無いで自分が寂しい。ははは。いやもう、単純に仕事がハードでねえ。笑っちゃうぐらい全く書く気が起きませんでしたよ。自分のキャパを越える事柄に迫られた時は、シンプルにそれと同量の事柄を手離してバランスをとるしかねっす。先ずは生活! そう叫ぶ、自分の本能に、野性に、ぼかあ、従うずら。つーこって、しばらく更新頻度は落ちるかもですが、ちょいちょい書くっす。心配してくださった方もいらして、なんかもうすみまっせ~ん。思いっきりハグして、濃厚ベロチューぶちかましたいほどの感謝。だは。だははは。にほんブログ村↑ポチッと一枚!
2021.02.27
バレンタインデー。妻がチョコレートを作ってくれました。・・・うわあ。お惣菜?マグロの角煮?女子力ひきーなオイ。大変美味しゅうございました。さて。あなたのご両親は、終活をしていますか?また、あなたは終活をしていますか?このブログでも何度も触れていますが、僕の母は交通事故で、ある日突然死にました。あなたの両親が、ある日突然亡くなったら、あなたは先ず何をどうしますか?また、あなたがある日突然死んでしまったら、あなたの家族は先ず何をどうすると思いますか?今回は、母が突然亡くなって、当時の僕がオロオロと困り果てた体験談を書きます。俺っちのブログなので、言うまでも無く以下はあくまで俺っちの私見っすけどね。すんませんが、よろしければ、ご参考までに。事故当日未明、警察での遺体の本人確認は、僕が一人で行いました。父は健在ですが、早くに母と離婚しており、戸籍上は他人だからです。その日、警察の遺体安置所で母の本人確認をするや否や、速やかにその場から遺体を引き取るよう、警察に指示されました。ええ、引き取っれって言われても、今から家に連れて帰る訳にもいかねーし、どーせいっつーの?オイラ、ちょっくら、今日は一人で家に帰って、明日の朝あらてめて出直したいっす。つったら、警察官がキッとした表情で「今すぐ。速やかに。」つって譲んねーの。なんかね。決まりみたい。待ったナシ。・・・あの、すんません、こういった場合、遺族のみなさん、どーされてます?オイラ、恥を忍んで警察に訊いたっつーの。そしたら「みなさん、故人が互助会に入ってる葬儀屋に連絡しています。すぐに遺体の引き取りに来てくれます。」とのこと。さて、ここで【困ったその①】母が、互助会に入っているのか?いないのか?入っているならどの葬儀屋なのか? お恥ずかしながら、さっぱり知んねー。もう埒が明かねーから、警察にタウンページ借りて、「ここから一番近い」というざっくりとした判断基準だけで、とある葬儀屋に連絡。いやあ、おでれーた。速い速い。待ってましたとばかりに、一時間後には引き取りの車が来た。後で調べた結果、母は互助会などには入っていませんでした。葬儀会場に着いたら、さっそく通夜式・告別式の打ち合わせに入る。主にセレモニーの内容・費用に関する細々とした決定を、矢継ぎ早に迫られる。ここで【困ったその②】葬儀をどれほどの規模にするべきか?どんな葬儀を母は望むのか?どんな葬儀であれば、母がお世話になった人たちに納得してもらえるのか?生前に、それとなーくでも訊いときゃよかった。僕は、個人的には家族葬で送り出したかった。んが、母の事故を知った知人のアドバイスなどに半ば押し切られる形で、結局は一般的な葬儀を執り行った。もし、母が家族葬を強く望んでいたなら、僕は故人の意思に背いたことになる。さらに【困ったその③】どの宗派で送り出すか、その場で決定しなければならない。あなたは、ご自分の家系の宗派を即答出来ますか?また、故人がその宗派での葬儀を望んでいると言い切れますか?戸籍上僕の親権は母にあったが、母も僕も父の苗字を名乗ったままなので、この場合、父の家系の宗派で送り出すのが正しいのかな?または、母方の親戚が大勢来るわけだから、母の実家が代々信仰している宗派で送り出すべきなのか?はたまた、母は生前とある新興宗教に入信していたので、やはりその宗派で送り出すべきか?ただし、僕はその宗派の教義に個人的にどうしても首を傾げるところがあったので、正直それは避けたかった。だから、母の実家の宗派で送り出したいと、葬儀屋の担当者に僕の希望を伝えた。しかし、その担当者に、一般的な傾向や後の様々なトラブルなどを交えて熱心に説得され、結局、母が生前信仰していた宗派で執り行うことが無難であるという結論に至った。長女が封筒に書いた絵。 日に日に画力がスゴイ説。さて。なんぞかんぞで滞りなく葬儀を終えると、翌日からは遺品整理や住居撤収の準備を進めていく。そん時【困ったその④】当たり前の話だが、母も突然交通事故なんかで死ぬとは思ってないので、貯金、借金、年金、保険関係、新聞、牛乳、その他諸々のお金の出入りについて、第三者が一目すれば分るように整理されたメモは、どこにもなく、探偵が事件の手掛かりを探し、謎を解いていくかのように、すべて自力で解読していかねばならなかった。正直この作業が一番難攻し、時間がかかった。とどめの【困ったその⑤】お墓がない。生前の母に、自分の墓を買うお金なんてなかったし、僕も買ってないし。母の実家を頼るにせよ、母の実家は尾張名古屋からは遥か遠い、房総半島最南端、千葉県館山市。仕方がないので、別れた夫である僕の父にお骨をあずけ、懺悔の意も込めて父が死ぬまで手元供養させることにした。父が死んだら、僕が責任持って二人を同じ墓に納めるつもり。裏側もこの通り。何か模写してんのかと思ったら、オリジナルらしい。ちなみに、こんなドタバタな状況の中でも、今思うと、なかなかのファインプレーだったと思う事柄を二つ報告しておきます。【ファインプレーその①】母の銀行口座の凍結を避けた。原則として故人の銀行口座は、たとえ親族といえど、第三者が勝手に引き出し出来ないように凍結されてしまいます。誰かの勝手な引き出しによる遺産トラブルを避ける為というのが理由です。凍結解除の手続きには早くても二週間。長いと半年ほどかかる場合があるらしい。もちろん葬儀屋や市役所から、銀行に故人の個人情報が送られるわけではありません。何故凍結されるかと言うと、親族が窓口に相談に行くからです。「母が急死しました。息子です。至急お金を引き出したいのですが、口座の暗証番号が分かりません。」「大変申し訳ありません。今聞いてしまった以上、この口座は凍結されます。」ってな流れみたいっす。うちはね、たまたま姉が母の銀行口座の暗証番号を知っていたのです。何かと現金が入り用だったので、たしゅかったー。あなたは、ご両親の銀行口座の暗証番号を知っていますか?【ファインプレーその②】専用の銀行通帳を作った。お茶代に至るまで領収証を残し、専用のスクラップブックに貼り付けた。一連の処理にかかる諸費用は、いったん全て僕が立て替えることにしたので、先ず銀行で新しい口座を作りました。少額ですが、母が残していたお金も、全てそこに移し、病院への支払い、役所への届け、葬儀、遺品整理、住居撤収までの様々な諸費用の出入りを、全てその通帳内で管理しました。こうすれば万が一親族間でトラブルがあった時に、お金の流れを皆で堂々と確認することが出来ます。家庭内の他の現金の動きがある通帳は、他人に見せにくいでしょう?それとあわせて、通帳を通過しない現金での支払いの諸費用はお茶代に至るまで領収証を残しました。親族間に妙にシビアな空気が漂う時期だからこそ、えーわえーわで、おごったりおごられたりしないように。大切な人を亡くした悲しみとは全く別ごと。お金の管理は事務的に。以上っす。うちはね、僕の父はもう他人なので論外としても。母の時の経験から、妻のご両親には、妻を通じて、それとなく終活のすすめをしているんですけどね。何だか、反応はよろしくないみたい。私たちに死ねってこと?的に、途端に不機嫌になるらしい。まあ、ゆっくり、焦らず、タイミングを見ながら、上手に確認していくしかなのいかなあ。あ、もちろん自分たちの終活も、忘れずにっすね。親も自分も妻も、介護や闘病などで、それなりの準備期間を経ての最期もあれば、交通事故のように、ある日突然やって来る死もあるわけで、だからと言って「死ぬときゃ死ぬんだ!後のことなど知ったことか!」なんつって開き直らずに。まあ、やるべきことを、ぼちぼちすすめていきたいと思っとります。にほんブログ村↑ポチッと一枚!ほちぼちやってまーす。妻のルーム↓
2021.02.14
「トランジスタ」つっても、今の子は何のこっちゃ分らんのかな。懐かしいなあ、ラジオ。今、ラジオ界はどうなっているのだろう。ナイナイの岡村とか、がんばってるみたいだけど。忘れもしない。初めてオールナイトニッポンを聴いたのは、中学生の時。木曜日のビートたけしのオールナイトニッポンを聴こうと、深夜一時までがんばって起きたのに、いざ放送が始まると、何故か大竹まことがしゃべっていた。ははは。よく考えたら、その時期ビートたけしは、フライデー襲撃事件の後で謹慎中だったのだ。「ピンチヒッター大竹まことのオールナイトニッポン!」なんて叫んでた。時代だねえ。当時僕が熱心に聴いていたANNパーソナリティーのラインナップは、憶えている限り以下の通り。【月曜日】中島みゆき デーモン小暮 大槻ケンヂ(第二部) 辻仁成 【火曜日】とんねるず【水曜日】小泉今日子【木曜日】ビートたけし【金曜日】サンプラザ中野 鴻上尚史【土曜日】ABブラザーズ 圭修 松任谷由実(第二部) 田中義剛うおおお、懐かしい。上柳昌彦の「ぽっぷん王国」とかも、好きだったなあ。あと、南野陽子の「なんのこれしき」とか、よく聴いた。当時の中学生男子で聴いてねえ奴、いなかったんじゃねーかなあ、ナンノちゃん。当時は、チェッカーズの「涙のリクエスト」みたいな世界が、現実にあったぜ。リスナーがDJにハガキで悩みを相談し、最後にリクエスト曲をかけてもらうなんてのが本当にあったのさ。月曜二部のエコーズの辻仁成(現作家)なんか、生放送にこだわって、がんばってたなあ。ラジオを掛け布団で覆って、親に聴こえないようにしながら、朝五時まで寝床で聴いたもんだ。今じゃあ、すっかり聴かなくなっちまったぜい、ラジオ。壊れかけのレディオ&壊れかけの中年。なんかさ。当時は、まるで自覚してなかったんだけど。僕って、ラジオっ子だったんだなあ。にほんブログ村↑ポチッと一枚!
2021.02.09
組織のトップの汚職やハラスメントを、 世間に告発する社員みたいな人かなあ。 明智光秀のことである。 昨日、大河ドラマ「麒麟がくる」が、本能寺の変を描き、終わった。 一日たった今も、何とも言えない不思議なロス感に包まれている。 最終回のそのクオリティや、本能寺の変についての歴史的見地などは、さておきたい。 圧巻の最終回だった。それでいいじゃないか。 ただ、ふと、思ったのである。 明智光秀が、現代にいたら、どんな人だったのかなあ、つってね。 自分はクビになってもいい。 「内部告発者」というレッテルを貼られてもいい。 それでも、世の為、人の為、自分が自分であり続ける為に、不正を正したい。 まさに決死の覚悟だね。 告発することで不正を正し、組織が平らかになっても、 その功績とは裏腹に、決して告発者が称賛されることがないのが、世の常だ。 組織の者たちは、内心よくぞやってくれたと思いつつ、 やはりどこかで「裏切り者」という感情を否めないであろうし。 次の転職先を探すにせよ「内部告発者」「組織に大打撃を与えた者」を、 両手を広げて受け入れてくれる組織があるかというと、なかなか難しであろう。 光秀に賛同すると思われた細川氏・筒井氏などが、静観したのもよく分る。 成功したクーデターを「変」、鎮圧されたクーデーターを「乱」と呼ぶらしいが、 成功したわりに「変」の首謀者には、ダーティーなイメージが付きまとう。 万民が、時代が、「主殺し」の光秀の天下を望まず、 「敵討ち」をした秀吉の天下を望んだのだ。 物語終盤に見せた信長と光秀の泥沼の関係についても、 組織に属していれば、あの手の話は、ちょいちょい見聞きする。 堅い信頼で結ばれていた上司と部下が、ちょっとしたボタンの掛け違いをきっかけに、 お互い懸命に修復を試みようとすればするほど、何故かからまり、ほつれ、引き裂かれ、 いつしか絶望的に手の施しようが無くなっている。 進むべき方向が、一見して同じであっても、 仮にその角度が1度、たった1度違えば、 互いに歩み続けることで、気がつけば、 到着点に驚くほど大きな開きが出来ているものだ。 それにしても、秀吉はラッキーだな。 信長が古い時代の制度を破壊しつくした後、 ただ建設することだけを考えればよかったのだから。 さらにいえば、家康はもっとラッキーで、 秀吉が建設した新時代の制度を、 ただ模倣し、実直に維持することだけを考えればよかった。 それもこれも、すべては光秀という時代の橋渡し役がいてこそ。 ほんと光秀って不可解な人だ。 少なくとも僕の中には、触れるコードがまるでない。 どちらかというと僕は、本能寺の変の当日、 中国地方でニンマリ笑っていた秀吉に、 ビビッと電流が走るタイプみたいです。 にほんブログ村 ↑ポチッと一枚!
2021.02.08
生肉、生肉、な~ま肉(早口言葉風に)。 これ、うちの2か月分の肉です。 もも肉、むね肉、手羽もと、手羽先、ささみ、豚こま。 妻が、楽天で買ってましゅる。 楽天さん、いつもありがとう。 ヘビーユーザー、U子さんのルーム↓ さて今日は、逆ゆる妻の、お肉の仕分け作業をレポート。 玄関先で除菌スプレーを噴霧したら、さっそく仕分け。 家族四人、一食分程度に分けて、ラップにくるみます。 手羽先もこの通り。 ビニール袋に仕分けします。 仕分けされた、大量の生肉は、 昨年の夏に購入した家庭用冷凍庫で冷凍します。 購入日、品目を明記します。 妻曰く、スーパーなどで精肉をその都度購入するより、トータル的に安いそうです。 以上、ご参考までに。 主婦には「先精算・先仕分け」のタイプと、「後精算・後仕分け」のタイプがいると聞きます。 僕の妻は歴然と、このように「先精算・先仕分け」の人。 給料が入ったら「家計簿」に入念にその月の予算を書き込み、項目ごとに細かく仕分けしてしまう。 結婚以来続けている家計簿は、全て手書き。 中二女子ばりの、丸っこ~い字で細かく書かれている。ははは。 その後は、この精肉のように、まとめ買い出来るものをさっさと購入し、仕分けする。 あとは、仕分けされた予算や食材を、なーんも考えず、ただ消費していくだけ。 だから、夜中まであれこれ家計のことをしているのは、いつも月初。 月末にレシートの山に埋もれて、頭を抱えているというようなことは無い。 てか、レシートも領収書も、必要ないので、すぐに捨てちゃってるみたいです。 妻の仕分けっぷりは、傍から見ていて、なかなか面白いです。 銀行通帳とか、各目的ごとに細分化されていて、10冊ぐらいあるし。 生活費の一部を即現金化して、ジッパーバックに目的ごとに細かく分けていたりとかね。 そんなこんなも、今後は妻の許可をとりつつ、ちょいちょい紹介していければと。 にほんブログ村 ↑ポチッと一枚!
2021.02.07
「ゆるい」とはどういう意味だろう。本来は、「大ざっぱ」「生ぬるい」「しまりがない」「だらしない」的な、どちらかというとネガティブな意味合いが色濃いように思われる。ただし、ライフスタイルブログなどで頻繁に見かける「ゆるい」においては、本来のそれと、若干使われ方が異なり、「真面目過ぎない」「神経質過ぎない」「潔癖過ぎない」「執着し過ぎない」総じて「やり過ぎない」という、随分とポジティブな意味合いで使われている場合が多いようです。んじゃあ、ひるがえって、僕の妻はどうかってえと、真面目で、神経質で、潔癖症で、モノゴトに執着する。一見して、世間の「ゆるい主婦」とは、異なるタイプ?かと思えば、必ずしもそうではなくて、肝心なところが、驚くほど抜けていたり、手を抜くべきポイントで、上手に手を抜いていたりするので、いわゆる「意識高い系」と呼ばれるタイプでは、決してないのよね。うーん、妻みたいなタイプを何と呼べはいいのだろう?・・・ゆるくない人。「逆ゆるい」? ははは。さぁ~て、今日の家曜日は?そんな僕の「逆ゆる妻」U子さんが管理する、我が家の保険事情を公開します。そもそも、僕の実家は超貧乏。妻の実家も決して裕福ではなかった。だから、僕も妻も、高校時代に車校の学費を自分たちで払ってからというもの、冠婚葬祭、結婚資金、マイホーム資金にいたるまで、親にびた一文援助して頂いたことはない。ハッキリ言って親に資産・遺産はゼロ。頼れる親族・知人もいない。だから「自分たちの生活・命は自分達で守るしかない」と骨の髄から思っている。性根が貧乏ったれな二人なので、今あるこの生活が当たり前だとは、とても思えない。ゆえに保険関係は、どちらかと言うと入念にかけている方だと思います。年末調整の保険料控除のハガキとか会社に提出すると、うちだけスゴイ枚数だもん。社長「・・・うわあ。」とか言っているもん。あはは。僕は、保険関係は、完全に妻に任せている。僕は、任せた以上は、一切口出ししませんよ。妻は、保険会社を一社だけに絞らず、数ある保険会社の、充実した内容だけを、それぞれピックアップして契約しているようです。以下、細かくは書けませんが、我が家の保険事情をざっくりと。【僕】生命保険 終身をA社、定期(70歳まで)をB社で契約。医療保険 医療保険と、先進医療保障付き医療保険をB社で契約。がん保険 がん保険をC社、先進医療保障付きがん保険をD社で契約。【妻】生命保険 定期(98歳まで)をB社で契約。医療保険 医療保険と、先進医療保障付き医療保険をB社で契約。がん保険 がん保険をC社、先進医療保障付きがん保険をD社で契約。【長女】医療保険 医療保険をC社で契約。がん保険 がん保険をC社で契約。学資保険 学資保険をE社で契約。【次女】医療保険 医療保険をC社で契約。がん保険 がん保険をC社で契約。学資保険 学資保険をE社で契約。【車】任意保険 任意保険をF社で契約。【家】火災・地震保険 火災・地震保険をG社で契約。【犬】ペット保険 ペット保険をH社・I社の二社で契約だいたいこんな感じっす。まあ、お守りっすね。てか、言うまでも無く、上には上がいるのでしょうけれどね。もちろん、稼ぎ頭の僕には、しっかりとした金額がかけられています。なんかもう、いつ死んでもいいって感じで。ははは。なんかもう、塩っ辛ーい味付けとか、脂っこーい料理とか続くと、・・・妻め、そういうことか? そういうことなのか?なんてドキドキしている今日この頃です。にほんブログ村↑ポチッと一枚!逆ゆるい妻のルームへ、ようこそ↓
2021.02.06
昭和50年代。ビックマックといえば、マクドナルドの数あるメニューの最高峰であった。最強であった。少なくとも、鼻垂れ小僧の僕にとってはそうだった。昼時に親から金をせびり倒して、友達とマックへ行き、なけなしの金で、普通のハンバーガー(ピクルス抜き)のサンキューセットを頬張り、その後、悪ノリして「スマイル¥0」を、店員のお姉さんにしつこく注文して、他の客に聞こえない程度の小声で「散れ、ウジ虫」と凄まれたりしながら、いつか喰ってやる!大人になって、自分の金で、嫌と言うほど喰ってやる!待ってろ!ビックマック!と心に誓ったものだ。大人になった今日。自分の金で、いくらでも好きなハンバーガーが食べられるようになった今日。僕は、マクドナルドでビックマックしか食べない。令和になっても、ビックマック最強説の件。自他ともに、呆れるほど執拗にビックマックにこだわっている。そもそも期間限定とか新作とか、試験的な商品に興味がない方だしい。ビックマックは、シンプルに、ボリューミー&美味なので。極めてシンプルに、浮気知らずの大ファンだっつー話なんすけどね。あと、うまく言えんけど、 何つーの? 人生の達成感っつーの?家庭を持ち、昇格し、マイホームを建て、いい車に乗り、いい服を着ても尚。何や知らん、おぼろげな。人生の、おぼろげなそれが。ビックマックを頬張った時に、口いっぱいに広がる気がするっつーか。よし! 自分! がんばった! っつーか。見たか! 昔の自分! っつーか。あはははははは。過去の自分への、復讐的な?だとすれば、我ながら気の毒なほど、いびつな復讐心だなあ。とほほ。あと、同じような達成感を感じる時と言えば、足をのばせる風呂に浸かって、追い炊きボタンをポチっと押した時。よし! 自分! がんばった! 見たか! 昔の自分! だはははははは。にほんブログ村↑ポチッと一枚!貧乏臭い夫でゴメンね。かわいそうな妻のルーム。
2021.02.04
恵方巻。毎年、名東区の意識高い系デパートで、妻が買ってきます。ガン喰い。オラ喰い。大変美味しゅうございました。にほんブログ村↑ポチッと一枚!ぼちぼちやってます。妻のルーム。
2021.02.03
長女が僕の肖像画を描きました。家族一同、大爆笑。・・・え?た、たんこぶ?いやいや、これは僕のオデコにある、ちょっとしたシコリ。ほ~んと、ちょっとした、目立たない目立たないシコリなんですううう。デフォルメ過ぎ過ぎP子ちゃん。決して、ブロック塀に強打したわけじゃござーせん。いつ、鬼舞辻無惨に血を注入されたか分かりませんが、この様子だと、コブからニョキっとツノが生えて、僕、明日あたり、鬼になると思います。・・・あらやだ、明日は節分。とほほ。にほんブログ村↑ポチッと一枚!鬼滅グッツも紹介してます。妻のルーム!
2021.02.01
僕は、基本的に公衆トイレの大の方で、並んで順番を待つということが出来ません。公園・病院・デパート・娯楽施設・サービスエリア・コンビニのトイレに、先に人が入っている場合、くるりとUターンしてトイレを出ます。さっさと諦めて、別のひと気のないトイレを探します。並んで待つということは、個室から出て来る彼とすれ違わねばならず、個室に入れば、さっきの彼の残り香を嗅がねばならず、便座に残った彼の温もりを感じねばならず、最悪の場合、便器にこびり付いた彼の思い出を、何気ない週末を、否が応でも目撃せねばならず、ついさっきまで、ここに脂汗をかいて座っていた彼の姿が、彼の残像が、いつまでも僕を悩ませるからである。だから僕は、外出中に便意をもよおすと、いつも前のめりになりながら、清潔で、使用後15分以上は経っていて、便座がひんやりしている、そんなトイレを探し、徘徊する。ちなみに、僕は潔癖症ではねっす。ただ、一度気になりだすと、とことん気になる性格みたいです。イオンなどで、家族でショッピングをしている時に、便意をもよおすと、僕は妻に「・・・僕、行ってくる」と告げてから、トイレに行く。妻は、僕の全てを知っているから、「がんばって!自分を信じて!」と声援を送り、僕を見送る。「・・・ダメだった」トイレが混んでいたり、汚かったりで、僕がこうべを垂れ、即引き返してくると、妻は「そーか、そーか、しゃーない、しゃーない、次がんばろ、二階のトイレ行ってみよっかね」完全に足らん子を諭すように、やさしく慰めてくれる。「どーしたの? パパ、何があったの?」 移動中、子供達が僕を心配する。「・・・相手にしちゃダメ」 妻の言葉を背に、二階のトレイに行ってみる。「・・・ムリだった」「・・・そーか、そーか、しゃーない、しゃーない、そこいらの土手で盛ってらっしゃい」さっきと同じトーンで、ただし目が全然笑っていない妻が、やさしく慰めてくれる。そんなだから、普段から外出中に便意をもよおさないよう、努力はしているのであるが、それでも、お腹の調子がタワー・オブ・テラーの日はある訳で、先日も、前の日に食べた台湾ラーメンが、地上38mから落下するような勢いで僕の腹部を襲うので、致し方なく、最寄りのコンビニに飛び込み、使用中の個室の前に並んだのである。洗浄音の後、中から出て来たのは、スーツ姿の若いビジネスマン。入れ替わりで僕が個室に入ると、案の定、便器には彼の熱いメッセージがこびりついてやがる。こういった場合、煙草や空き缶のポイ捨ての撃退法に倣って、まだ店内にいる彼に向かって、「すいませーーん!落とし物でーーす!」と言ったほうがいいのか。それとも、第三者に承認を得るため、店内の誰かをとっ捕まえて、「これ!僕のじゃなあああああい!」と半狂乱で叫んでから扉を閉めるのがよいのか。恐らく、どちらも通報されてしまうであろう。黙って扉を閉めるしかないのだ。とほほ。問題は、僕が用を終えてトイレから出た時、入れ替わりで次に入る人に、便器にこびりついたメッセージを、僕のメッセージだと勘違いされてしまうことだ。それだけは絶対に避けねばならない。濡れ衣だ。僕は、熱いシャウトはするが、便器に残るメッセージ性は無い。ひとまず立小便スタイルで、落ち着いて的を定め、彼のメッセージを尿で高圧洗浄してみる。多少取れた。んが、完全に落ちきる前に、悲しいかな、水源が枯渇してしまう。備え付けの便所ブラシや、洗浄ガンがあればよいのだが。うーん、何もねー。しゃーねー。トイレットペーパーで拭き取るしかない。悔しい。泣けてくる。いっそ自分がシャウトし終わってから掃除しようかとも思ったが、それでは、彼のメッセージと僕のメッセージが交じり合い、いったい何を伝えたいのか分からなくなってしまふ。ソニンと後藤真希の弟の「おーととっと夏だぜ」みないな、ぐちゃんぐちゃんな作品になってしまふ。そんなのは嫌だ!僕が僕であるために!僕は僕だけの世界観を、この便器に描きたい!・・・と言う訳で、僕は昼下がりのコンビニのトイレで、若いビジネスマンのメッセージを拭いた。店から出ると、さっきの若いビジネスマンが、携帯電話で話している。「はい、例の案件、今月中には何とか契約に持ち込めそうです。難攻しましたが、前向きに頑張った甲斐がありました。」・・・若者よ。前向きに頑張るのはよいことであるが、トイレで用を足した時ぐらい、おのれを振り返ってみても、人生、損はないと思うぞ。にほんブログ村↑ポチッと一枚!時に憐れむように僕を見る、妻のルーム。
2021.01.31
鬼はァそーと!このご時世、されるべくして発売された節分の豆っすな。あ、さて、全集中。妻が、用事や習い事などで車を使いたい日、僕は自転車で通勤している。僕は、GIANTのマウンテンバイクに乗っています。基本的に車道は走らず、自転車の通行出来る歩道を走る。だって、車、怖いんだもの。自転車に乗っていて一番困るのが、歩道の真ん中を人が歩いている時です。だって、通れないんだもの。最近の自転車は車輪の音も静かだし、耳にイヤホン突っ込んで音楽聞いてる歩行者も多いから、なかなか後方の自転車の気配に気が付いてくんねー。てか、おま、なー抜かしとん。ベルを鳴らせばよかろう。ベルを。って話なんすけどね。いやいや、みなさん、自転車のベルって鳴らせます?僕、はばかられるわあ。 最近の自転車のベル、極力鳴らしたくない。もうね、かん高く響き渡る、あのチーーン!チーーン!っていう警笛音がね。僕には、どけー!どけコラー! としか聞こえないのよね。チーーン!(どけコラー!) チーーン!(ジャマだオラー!)チーーン!(ドタマかち割って!)チーーン!(ストローで!)チーーン!(血ちゅーちゅー吸うたろかー!)やめてよ、もう。何でああ威圧的に戦闘的に鳴るかねえ、あーた。天下の歩行者様が、ほんの一瞬でもご不快になられたら、どーすんのよ、あーた。その点、昭和のベルは謙虚だったよ~。ジリンジリン。(きゃはっ、すいまっせ~ん)ジリンジリン。(うはっ、しがない軽車両が通りま~す)これ鳴らしてる意味あんの?って感じで、実にいい味出してた。そんなこんなで僕は、道の真ん中に人がいて自転車が通れない時は、① とにかく、先ず一度自転車から降りる。② 次に、歩行者が僕に気付くまで、後で無言で自転車を引いて歩く。③ あとは、歩行者の横を自転車を引いて静かに通り抜けるタイミングを、ただひたすら伺う。まあ、大抵の人は、すぐに後ろの僕に気付いて、道を譲ってくれるんすけどね。もうね、耳にイヤホン突っ込んで音楽聞いてる人なんか、笑っちゃうほど気付いてくんねーから。あんなもん、内側がスクリーンのメガネかけて、映画見ながら歩いてるみたいなもんだから。聞こえてねーって、見えてねーのと同じぐらい危険だと思うけどな。んで、歩道が少し広くなったタイミングで自転車を引きながら横を通り過ぎるとさ、ぎゃ!つって、すんげーでっけえ声でびっくりされんのね。イヤホンの音量で発するからね。不自然に声がでかい。そりゃんぎゃ!つって、こっちも負けじとびっくりするっつーの。そして、去り際に、・・・こわ。 なんつって後ろから聞こえてくる。ぎゃ!んぎゃ!・・・こわ。ぶわ!ぬわ!・・・キモ。はが!はべべ!・・・死ね。出社も、帰路も、とんだ珍道中さ。でさ。最近の自転車のベルは、鳴らしにくい。という上記のようなエピソードを会社で話したら、けっこう賛同する社員がいてさ。ほ~らやっぱり、人類みな、変なところで小心者なんだと調子こいてたら、そん時、ある社員が、ボソッとこう言ったのよ。あのね部長、ベルは、近くで鳴らしちゃダメなんですよ。歩行者を確認した15m~20mほど遠くで鳴らすとよいです。ずいぶん罪悪感は薄れるし、相手にも不快感を与えません。・・・な、な、なるほど。・・・ぐうの音も出ねえ。不意に放たれた完膚なきまでの正論に、その時の僕は、素直な返事をするとが、何故だか無性にはばかられ、ふーん、あっそ。などと、実にそっけない、実に味気ない、実に邪険なリアクションをしてしまったのよね。僕の心に、鬼がいる。鬼はァそーと!にほんブログ村↑ポチッと一枚!お暇なら来てよね。妻のルーーーム!
2021.01.28
割り込まれの多い人生を送って来ました。思えば隙だらけの人生でした。コンビニのレジなんか、頻繁に割り込まれまくりの刑。原因は分かっている。いつも僕はレジに並ぶ時、意識を土星近辺まで飛ばし、極端にボーーっとしているか、うまい棒・よっちゃんイカなどの駄菓子に目移りし、挙動不審でキョロキョロしているかのどちらかなので、周囲からは、恐らく並んでレジを待っている人に、まるで見えていないのではないかと思われる。もう少し「私、並んでます!」オーラを醸し出さねばと反省しつつ、ついついサボってしまう。誰のせいでもありゃしねえ。みんなオイラが悪いのさ。ちんぽこちんぽこりんちんぽこちんぽこりん。割り込んでくるのは、ほぼお年寄り。ありゃ悪気はねーな。年齢と共に周囲への注意力が低下しているだけだ。最近のコンビニは、並ぶ位置を床にテープで印し、ソーシャルディスタンスを確保しているのだが、コンビニの出入り口から見て、そのフォーク並びのフォークの根本になる先頭の位置が、商品棚で死角になりがちなのが、そもそもの問題ではないかと思う。入店してすぐ近くのレジに直行する公共料金を支払いに来たお年寄りなんかは、まずこちらに気が付いていない。とは言え、たとえジジババに割り込まれても、大抵の店員さんは気を利かせて、後ろで待っている僕に向かい、大きな声で「次のお客様どーぞ!」と、目の前の相手の不正をあからさまに諭して下さったりする。さて、ここからが、コンビニのレジで割り込まれた時の、僕の対処法。僕は漏れなく「お先にどうぞ」と言って、順番を譲て差し上げる。まあ、これを会社などで話すと、大概思いっきり引かれ、愕然とされるのだが。何も解決しません。自分の為になりません。相手の為にもなりません。ひいては世の為人の為になりません。なんつって、周囲に厳重注意されるのだが。てか、正直言って、僕は割り込まれても、全然苦じゃない。まるで腹も立たない。ただ「ああそうなんだ」と思うだけです。物理的にも、一刻一秒を争うほど急いではいない。いつも時間にゆとりをもって行動している。それでも、やはりがんばって腹を立て、がんばって注意するべきなのか、いつも悩むところだ。先日も、昼下がりに、あるコンビニで手指消毒をした後、カレーパンと温かい紅茶を持ってレジで並んでいると、やはり男性のお年寄りが入店して、僕に気づかずすぐレジに並んだ。見事なまでの割り込みっぷりだ。問題は、この日は僕の後ろにも四~五人並んでいたことだ。ああ、どーしよう。正直言ってぼかあ全然苦じゃないぞ。全然腹も立たないぞ。でも、先頭の僕がこの爺さんを注意しないと、後続の人達にご迷惑をかけてしまうパターンじゃないの、これ。どーしよう僕。どーしてくれよう僕。「あの、自分が行きますんで・・・たはは」結局僕は、後ろに並んでいたおば様にそう声を掛け、自ら列の最後尾に移動した。割り込み爺さんも、僕の後ろの人達も、誰も損していない。これでいいじゃないか。ところが、僕の後ろにいたおば様は、僕が移動した刹那、「すみません!並んでますけど!」と、その爺さんにまくし立てていた。僕が譲ったんだから、もういいじゃないか。やめてくれ。と、思った。んが。おば様的には、そういう問題じゃないのであろう。まあ、色々な人がいるし、おそらくそのおば様の行動こそが世間的には正しいのだろうけど。ふと、太宰治の小説の、主人公・葉蔵と堀木という人物との、やりとりを思い出した。「これ以上は、世間が、ゆるさないからな」「世間というのは、君じゃないか」という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。(それは世間が、ゆるさない)(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)(世間じゃない。あなたでしょう?)(いまに世間から葬られる)(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)なんだかこの空間にいることが、とても苦痛に感じられ、僕は一度手にした商品を、申し訳ないと思いながら棚に戻し、消毒をして店を出た。食べるのが面倒くさくなり、その日の昼飯は抜きにした。ああ、早く家に帰って、妻が焼いたパンを食べたい。一刻も早く妻のパンが食べたい。あとはただ、呆けたように、そんなことを考えていました。人間失格。にほんブログ村↑ポチッと一枚!パン焼きグッツも紹介してます。妻のルーム↓
2021.01.23
「鍋」。長女が描いた。まったく子供がのびのび描いた絵はいいもんだ。特に上の方、鍋が画用紙からはみ出してるところがいい。描き直さないところがいい。はみ出したまま描き切るところが、僕は好き。ずいぶん前、とある芸術系の学校で改修工事をしたことがある。んもお、大変だったよ。何が大変って、とにかく教授も学生も、ほら、アーティストだから。みなさん、掴みどころがない方々ばかりでね。例えば、草刈り機でブインブイン除草してるとさ。「すみません。今、降りてるところだから、一時間だけ静かにして下さい。」っつーんだよ。学生がタバコ咥えて、彫刻刀持ってウーンなんつって唸っちゃって。「降りてる」って何だよ。恐山のイタコじゃねーっつーんだよ。ったく、こっちゃあ、何週間も前から工事告知してんだけどね。ははは。そこは、ほら、アーティストだから。感性の人だから。従うしかない。ぶはは。あと、給水管を埋設するので、敷地内の道路を三日間だけ車両通行止めにした時も、教授が、夜中に急に何や知らんでっかいオブジェを持ち出したくなったから、車通してくれっつーんだよ。施設側が「言い出したら聞かない人なので、何とかお願いします」っつーんだよ。たまんねーよ。もちろん事前に施設に許可取って、入念な告知をしてんだけどね。だはは。つくづくアーティストってのは、僕のような工事屋の頭では図りかねる人種だと思ったよ。僕の経験上、学校の工事で一番難儀だったのがその芸術学校の改修工事。次に難儀だったのが、工期が受験シーズンと重なった進学高校の改修工事。ちなみに、逆に一番工事がやりやすかったのは、工業高校。先生も生徒も、涙が出るほど協力的だった。学校側にお願いするモノの移動とか雑用とか、アンタら職人かよ!って感じでテキパキと動いてくれた。自分自身でおありなさい。僕の大好きな詩人・中原中也が、かつての恋人・泰子に送った言葉。自分自身でおありなさい。弱気のために喋ったり動いたりすることを断じておやめなさい。断じてやめようと願なさい。そしてそれをほんの一時間でもつづけて御覧なさい。すればそのうちきっと何か自分のアプリオリというか何かが働きだして、歌うことが出来ます。女優志望の元カノ泰子が、自己の表現に悩んでいる時に、中也が書いた長い手紙の一文である。もちろん、中也はこの言葉を有言実行した詩人だった。自らの心を、自らえぐり取るような繊細な詩を多く発表し、波乱の人生の末、最期は心も体もおかしくなって、三十歳という若さで死んだ。十歳になるうちの長女の将来の夢は「芸術家」。保育園の頃からの変わらぬ夢だ。どーぞどーぞ、なれるもんならなってちょうだい芸術家、ってな感じよ、僕としては。少なくとも親の経済的な理由で挫折だけはさせたくないので、がんばるしかない、父としては。てかさ、詩人であれ、画家であれ、音楽家であれ、その作品に世間の需要がなければ、当然芸術活動だけでは生活していけないのだけれど。だからと言って、みんなが「いいね」と評価するような、世間に媚びた作品だけを作り、いつしか他人の評価そのものが活動の目的と成り果て、そしてその思惑が作品から世間へ露骨にダダ洩れしてしまうことで、結果として、逆に評価を下げてしまうなんてこともあるにはある訳で。重ねて言うが、アーティストってなあ、まったく不可解な人種だなあ。自分自身であることで、世間の評価を得るのだ。自分自身であり続けることが、仕事みたいなもんだ。芸術を生業とし続けられる人ってのは、はるか昔に、そんな感性をどこかに置き忘れてきた僕にとっては、いやはや、やはりどこか図りかねる人達なのだよ。兎にも角にも、長女よ、君の夢が夢ならば。どうか自分自身でおありなさい。一生涯絵筆を片手に、自分自身であり続けることが、さて、君には出来るかな?ちなみに、先ほどの手紙を、中原中也は「芸術の動機」と題した。な~るほど、これから書くことに迷った時は、僕は僕なりに「芸術」を「発信」にちょいと置き換えて、自分自身でおありなさい。これを「発信の動機」とするのもアリかも。ベキかも。にほんブログ村↑ポチッと一枚!
2021.01.20
だからね。モモちゃん。パパは思うんだ。僕たち、家族は、たとえ、死に別れてしまっても、また、必ず生まれ変わって、きっと、必ず、また巡り会えるんだよ。これまでだって、きっとそうだったんだよ。モモちゃんに出会った時の、あの「不思議な懐かしさ」は、きっとそういうことなんだよ。僕たちは、これまでも、これからも、何度も何度も、生まれ変わって、巡り会って、永遠に、家族を、繰り返すんだよ。三年前のちょうど今頃、こんな日記を書いた。モモがいなくなって、もう三年かあ。はええ。モモと妻と僕、三匹で過ごした16年という月日は。そのどの瞬間も、誰に恥じることなく。そのどの思い出も、誰にも汚されたくない。僕にとっては、そんな栄光の日々なのです。それは、途中でズカズカと割り込んで来た、娘っち達も同様で。モモと妻と僕、三匹が頑なに守り抜いたその「理想のかたまり」は。そう簡単にオメエらごときにゃあ分けてやらないぞぃ。みたいな、ちょっと意地悪な感情さえ沸いたりする。娘っち達には、この二代目と、そして妻と、そんな関係を築いて行って欲しい。子供たちの番でいい。僕は正直、少し離れて見ていたい。思い出すよ。君の、あのいつも困ったような顔、鳴き声、臭い、温もり。今でも、ありありと思い出す。目、鼻、口、舌、毛、爪、肉球、手、足、シッポ。生々しく、よみがえる。うっかり忘れていた方向で。おーい、なんて君を呼べば。まだ認めない方向で。仕事帰りの玄関先で君の名を呼べば。今日だってあの扉の向こうから。君がかけてきてくれる。そんな気がしてならないよ。君は今、どこにいるの?はやく近くに来て下さい。ダメだこりゃ。会いたい。抱きしめたい。にほんブログ村↑ポチッと一枚!
2021.01.15
これ、妻の手作りパンです。ユニホームをかするぐらいの暴投なら、まあケガもないし良しとすっかってな感じで、もともと味覚のストライクゾーンが鬼広い僕なんかが言うのも何ですが、妻のパン、とても美味しいです。なんか昔の「もちっ子」みなたいなパン焼き機と、あとはオーブンを駆使して作ってますよ。時々食パンとかも作ってくれます。これがまた美味しい。どうっすか画像? 美味しそうに撮れてますか?僕ね、料理の写真を撮るのが苦手っつーか、何つーか。アップする時、いつも迷います。とほほ。SNS上で拝見する料理の画像を、あくまで個人的な見る側のスタンスでいうと、やっぱり「映える画像」と「美味しそうな画像・食欲をそそる画像」ってのは、まったく別ものかなと感じます。映える画像だからといって、美味しそうとは限らない。食欲をそそるイコール、いわゆる映える画像かというと、必ずしもそうではない。僕的には「美味しそうな画像・食欲をそそる画像」の方を、がんばって撮りたいんすけどね。うーん、なかなか難しいっすね。ちょいと前まで、楽天ブログのトップページには、「大酒飲みブログ」が二つあって。まあ、今は更新が途絶えていたり、別の場所で拝見したりで、本当に寂しい限りなのですけど。そのお二人のブロガーが撮る「店の外観の画像」とか、どれもこれもすんげーシブくてね。風情があってね。なんかアートなのね。もうそれだけで飲酒欲そそるっっちゅーか。写真集出たら俺ぜってー買うっちゅーか。もちろん、酒や料理の画像も、こんれがまたそそるのよ。シュっとした画像もあんだけどさ。飲みかけのグラスとか、食べかけの缶詰とか、がんがんアップしててね。ははは。広げたティッシュの上にばらばらっと置かれたスルメとか、すんげー美味そうなのね。たはは。あれぞ「美味しそうな画像・食欲をそそる画像」だと思いますね。ぶはは。ああいう「男のブログ」が少なくなるってのは、やっぱりね、重ねて寂しいっすね。とある休日の朝食。「美味しそうな画像・食欲をそそる画像」。・・・深いねえ。まんだまんだ修行がたらんねえ。にほんブログ村↑ポチッと一枚!料理上手は、食べ上手。食べるのも大好きな妻のルーム↓
2021.01.13
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