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〇小学校上級生の頃、隣の諒一君の家では雑種犬を飼っていました。雌犬だったので、やがて子を三匹ぐらい産みました。すると警戒心が強くなって機嫌の悪い時は、歯を剥き出しにして唸り声をあげるので近づけませんでした。・・・その犬たちが死んだり貰われたりした頃、諒一君の家では今度は血統書付きの子犬を買い求めました。それはかなり高額の犬でした。尻尾が無残にちょん切ってありました。獅子にも引けを取らない強い犬になるのだとか?あんまり皆で可愛がったものだから、二タ月もしない内に死んでしまいました。遺体は敷地内に埋められましたが、後日その辺りの植物の生育が抜群に良く、うす気味悪い気がしました。
2024.06.02
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〇大阪に来ると子供の遊びも都会的になって来ました。野球、将棋、プロレスごっこなど。居宅から3分先の電車道には電気店があって、相撲のテレビ中継を流していました。子供たちが何処からともなく集まって来て、歓声が上がります。当時は千代の山や鏡里という横綱でした。亡父は自分も見たかったのでしょう、よそさんよりも随分早目にテレビを買いました。写るのはNHKとOTV(民放の代表)だけでした。テレビは夕方5時半ごろから開始だったのに我が家ではOTVのテストパターンの時からスイッチを入れ、今か今かと待ち構えていました。コマーシャルは殆どがじっとしたままの静止画面で音楽もなく、今なら市バスのコマーシャルのように読み上げるものばかりでした。ミツワ石鹸とヤンボーマーボー(ヤンマーディーゼル)の天気予報のそれだけが画像が動き歌も入っていました。やがて関西では朝日、毎日、読売、関西の各局が生まれ、新聞のテレビ番組欄も紙面を大きく占めるようになったのでした。 大相撲に栃錦、若乃花の良きライバルが競い合うようになると、二人の取り組み時間は大人も子供も日本の全国で手に汗を掻くほどの人気になって行きました。我が家では家族名々贔屓の力士の名前を墨で書き込んだ短冊を梁に貼り付けて雰囲気を楽しんだものでした。学校から帰ると何はともあれ、相撲に興じていました。前頭も当時は二十枚目ぐらい居ました。
2024.06.01
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〇外出する時は肩下げバッグに飲み物と句帖の他に、何かの読み物1冊を忍ばせて出かけています。掲題『京都 なるほど事典』(清水さとし著)は左右の頁つまり2ページに収まる範囲内で、京に関する豆知識を盛り沢山綴って下さっている便利帳で、電車内で読むのにぴったり。第1章「古寺・名刹・神社仏閣を歩く」 その最初の見出しは”どうして東寺があって、西寺がないのか”から始まって、”大原野の十輪寺にある塩釜に秘められた恋とは”まで43話。第2章「京都の歴史を知る街歩き」 ”山城国に平安京が造営されたのはなぜ?”に始まり、”鹿ケ谷の陰謀事件と真夏のかぼちゃ供養”に至る30話は、「京都通」になる裏ワザとも言えましょう。この日記で本当の京都を知るには観光地よりも寧ろ京の町々を歩いて下さいと口酸っぱく申し上げている所以です。第3章「京都の味を食べ尽くす」(25話) 例えば”南禅寺と嵐山に湯豆腐の店が多いのはなぜ?”・・・この項を読めば、時の流れが歴史・景観を変えてしまう恐ろしさに気がつきます。南禅寺にある1635年創業の「奥丹」と、片や1850年代創業の嵯峨豆腐「森嘉」の人気にあやかり昭和30年代に殖えた嵐山地区とは重みが違う筈ですが・・・。このほか「怨霊・魔界・百鬼夜行を歩く」(15話)や「京都通になるための知恵袋」(21話)とまぁ、完全に読破した上で、この本1冊を携えて京の町を歩き廻られたら、あなたは立派な「京都通」になられることでしょう
2024.05.31
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〇わが家と小学校との中間地点に地名となっている塚、古墳がありました。地面との抵抗を少なくする竹の板や、自分たちで拵えた木製のソリを抱えて、その塚の天辺から斜面を滑り居ります。今で言うジェットコースターのような遊びでした。何度も繰り返していた或る時、下まで滑り降りたところ、コラ~!!と大人の大声。すんませ~んと言いながらほうほうの体(てい)で逃げました。・・・後日、小学校近くの中学校に入学した時、その怒鳴った人が先生の一人だったので驚いたのでした。その古墳と中学校は地続きだったのでした。
2024.05.30
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〇実際の書名の煕の字には二水・ンがついていますが、ネットでは見つかりませんでした。田中さんの解釈する煕子像は、光秀と煕子とが幼馴染みながらも、相性よく、許嫁同士だったことから、元々、信濃では帰蝶と煕子とが美人さで群を抜き、ライバル心は無いものの、心の片隅にありましたが、美嚢の蝮・斎藤道三と織田信秀との間で信長の許に帰蝶を嫁がせる経緯となり、急遽、光秀との縁談が決まったその年に、疱瘡に罹り、顔に大きな暗い翳ができてしまいました。光秀の花嫁には妹を両親は差出しましたが、光秀の心は昔と変わらず煕子と生涯を共にする意志が固かったのでした。明智の郷は敵に飲み込まれ、夜分、弥平治は長女を背負い、光秀が身重の煕子を背負って山を越え逃亡。明日の食い物にも困るような貧乏に耐え、足利将軍という切札で出世して行きました。その後、信長の重臣の筆頭にありながらも、信長の心中にある光秀への嫉妬、濃姫(帰蝶)への煕子の嫉妬心が最後まで描かれています。
2024.05.28
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〇私は今でこそ普通の背丈ですが、高校生になるまでは成長が進まず、朝礼の並び順番は前から2、3番でした。一番辛いなあと思ったのは散髪屋に行った時です。小児は小さいので補助の板を渡しますが、実は私の場合もその処置をされました。只でさえ高所恐怖症なのに・・・椅子から落ちないかと踏ん張っていたのでした。 小学校の正門前には時々ひよこや手品を売りに来ていました。細長い鉄製の棒をポケットに入れたかと思うと、10円玉が出て来る。また別の子供のポケットに突っ込んでみると新たな10玉が湧いて来る不思議な手品。この勢いで10玉が増えたらおっさんは金持ちになる筈なのに・・・といぶかしんだりしていました。籠に入れられる小鳥以外は動物を飼うことを許さない父でしたので、ひよこも手品も只見るだけにしていました。
2024.05.27
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〇加太こうじさんの略歴を見れば、<1918年東京浅草に生まれる。太平洋美術学校卒、少年時代より紙芝居の作画に従事し、1960年紙芝居の衰退とともに文筆業に転ず。思想の科学研究会会員>1973から11年間レコード大賞審査委員を務められ方だし、いま巷には紙芝居も復興しつつあるようですが、松永武雄の後を継承、あのヒット作品「黄金バット」などの作・画、興行に従事した方でもあります。彼はその著「歌の昭和史」(新版)の中で演歌に触れていらっしゃいます。<演歌調とポップス調というのは、レコードをつくって売る側が、業界がつくった区別である。明治の演歌は政治運動に役立つ歌の本を売ることから始まった。・・・(略)・・・軍歌、唱歌、民謡、俗謡、端唄、小唄、浅草オペラの歌、日本歌曲その他、演歌師が作詞、作曲した歌もふくめて、演歌師がうたえばすべて演歌といわれていた。・・・(略)>こういう事情があったのなら、やはり今で言う演歌は”艶歌”の方がその雰囲気に近い表現という気がしますね。
2024.05.26
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〇「芸術新潮」1992年10月(通巻514号)の特集は<あっぱれ!科学が花拓かせた江戸の芸術>と銘打って、江戸っ子が買えたハイテク新製品、その小見出しには、本居宣長も愛用した「木製入れ歯。「エキテル」は科学玩具、今も写せます堆朱カメラ、万能宇宙時計、豆絵競争など。続いて<身体を開く→解剖の様を大和絵手法>或いは江戸の科学オタクたち。これ等は余りにも生々しいので画像は出せません。ほかの特集として帰ってきたウィーン幻想派、華麗なるハプスブルグ家のおかしなコレクション、ギリシアの放浪画家セオフィロスが主な見出しとなっています。
2024.05.25
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〇テレビ番組の中の好きなものの一つに「爆報なんでも鑑定団」があります。我が家のお宝?としては高浜虚子から戴いた直筆入りの短冊入れ(金文字で虚子の句も)、日野草城の手紙、京鹿子創始者:鈴鹿野風呂先々師の諸々のものなどがありますが、SPレコード盤の中に、高浜虚子が自らの句や芭蕉・蕪村・子規の代表句を披講しているものが見つかりました。何処かで聞いたような声だと思ったら、畏れ多くも先帝昭和天皇の御声に似ているように感じました。私も時々披講させて戴く機会がありますが、浪々たる声と節回しは流石だなと思いました。コロンビア・レコードが添えている23ページの冊子には こゝに又こゝだ掃かさる落椿 虚子の直筆句があって、単に印刷されたものなのか、或いこのレコード盤を買った後に、ホトトギスに50句ほど選んで戴いている誼で、虚子にサインして貰ったものか判別は尽きませんが・・・。俳句の巨匠・虚子の声入りのレコードは「お宝」と言えるのかも知れません。
2024.05.24
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〇山川静夫さんの『歌舞伎のかくし味』いう本の装丁は、掛け軸箱、脇息、飛脚の挟み箱、渋団扇、番傘、煙草盆、三味線、笛、鼓を適当にあしらった粋なデザイン。内容は先日紹介したように役者の風味や家の芸の滋味、芸談にみる情話、舞踊の妙味などが述べられており、正月の読み物として相応しいように思っています。同書の「余話百味」の”旅支度”の件りでは、「沼津」の呉服屋・十兵衛の旅の拵えの道具を列挙しています。 饅頭笠、煙草入れ、矢立、火縄、手拭、甲掛け、手甲、脚絆、納戸色の合羽、提灯、道中日記、ろうそく入れ、草鞋、パッチリと呼ぶ上締めなど、江戸時代の旅の小道具の集大成と記述してあります。
2024.05.23
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〇月刊誌「ハルメク」2023年6月号の記事の中に掲題のコーナーがあって、第62回のテーマは「庭の小枝で、ようじ作りを楽しむ初夏」。そう言えば、父を亡くした母存命中、時折実家に寄っては、昼食、夕飯も拵えていましたが、庭の片隅にひそと咲く梅花の小枝を箸置き代わりに食卓へ置いたこともありました。本件は、黒文字やあんず、クルミの小枝でようじを作っている写真が添えてありました。
2024.05.22
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〇阪急京都線の河原町終点から地上に上がって来て西へゆくと新京極通。アーケードが始まる辺りに漢方薬局が視界に入ります。特に猿の腰掛なるものは目につきます。東洋医学は中国に於て、紀元前後凡そ2000年もの歴史を有する医術で、本来は農耕作業同様、じっくり時間をかけて、人それぞれにあった健康な体づくりを行い、病気に備える学問・施術。私ども夫婦には永らく子供が授からず、現代医学やお灸による冷え性対策など講じて7年目に長女の誕生をみました。西洋医術と東洋医術双方の良い部分を取り入れながら、向後も健康な体を維持したいものです。
2024.05.21
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〇加齢と共に頭脳の劣化に拍車がかかりますが、少年の眸のように、過去意識の範疇に無かったものに目を向ける、テレビにくぎ付けパソコンや携帯電話に頼るばかりでは、前頭葉に涼風を送り込めません。で、一種の煌めき、直観力を活かせて、テレビの番組表から適宜、選んで予約入力しいぇおきます。関西電力提供の毎土曜日、午前11時から30分「LIFE 夢のカタチ」。18日は畳の普及に奮闘する老舗のベテラン職人と四代目息子」という畳職の希望に満ちたノンフィクション番組。 屋根だけ残し、2006年にリフォームしたわが家には、辛うじて一部屋仏間に畳みが六畳残っています。今風の建築屋に依頼しましたが、仏間は他の部屋より意欲的につくっていました。子供の頃、畳にごろ寝すれば、それは平和で至福のひととき。乳幼児に対しても危険なものがない安心の部屋。丈夫に工夫された白障子も和風でよろしい。 話を戻せば、四代目は祖父母が棲んでいた隣家を畳敷きの寛ぎの間として喫茶をオープン。再び増えだしたインバウンドに「受け」出しました。その勢いで、畳み半畳分を肩から下げる敷物にして、河原で寛ぐ試みや、B5程度の大きさにしたキャンバスとして工夫。畳に焦げ目を入れて、見事な龍の組み合わせ壁掛けを呈示。TARTAMIというアート作品に。彼の創作意欲は無限に。畳業界の生き残り兼将来を牽引できるレベルまで高めつつあります。
2024.05.20
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〇『小倉百人一首』上巻に<人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける> 紀貫之の和歌について、大和の長谷寺の十一観音サンは平安時代の人々から熱い信仰をよせられた。『源氏物語』でも玉鬘の姫はここへ徒歩でお詣りし、知るべの女房とめぐりあい、運が開ける。霊験たちまち、あらたかだったわけである。『枕草子』にも初瀬へまいった記事がある。清少納言は椿市の粗末な宿に泊まったというが、貫之は、お寺の近くの知人の家に泊めてもらったものらしい。参詣のたびに泊まったというから、心安い人の家であろう。これが男性の知人なのか、否、女性だったのかの詮索に話は移りますが、貫之の母は朝廷内の舞踏音楽研究所の150人ほどの妓女の一人だったようで、彼の和歌にある語調の良さ、リズム感はそんな環境で育った所為かも知れないと。
2024.05.19
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〇久し振りに図書館へ出向き、次なる5冊を借り出しました。1)『枕草子』松尾聡・永井和子 高校で習ったきりですが、『源氏物語』の紫式 部との対抗馬として、読みたくなりました。2)『女人 古寺巡礼』杉本苑子 小説家は勉強家で、1つのテーマに対してあら ゆる方面から事前学習をされるようです。石山 寺は無論,瑞龍寺、高桐院など20数か所。3)明智光秀の妻『煕子』中島道子 父すばるをじっと支え続けた良家の娘だった母、 私の家内、そして本書の煕子という女性も。4)天下取りに絡んだ『戦国の女』鳥越一朗 永井路子さんがその著に於て、賢明でないと戦国 時代の姫の責は務まらかったと書かれている様に 武田・北条・今川・上杉・織田・徳川・豊臣に絡 んだ女性にスポットを当てています。5)『戦国おもしろばなし』青木繁男 教科書に載せられていない(裏)話やエピソード 満載の百話。新選組記念館館長、京都史跡研究家 ならではの面白い話。
2024.05.18
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〇わたし達の多くは十進法による数え方をしていますが、いかつい古いソロバンは五つ玉。それが進化して四つ玉に。 *また二進法からスタートした電算機。それを更に発展させた十六進法がプログラムなどで利用されているようです。 *わたし達は紙などに書くことによって文字や漢字を覚えましたが、いざ社会人となって事務に携わりますと、文明の利器なくしては短時間に膨大な事務量を消化することが出来ないように思います。 * 銀行員だった頃、返済の滞る取引先には、催告状や督促状、そして相殺通知などを書き、公証人の確定日付を取って法的対抗要件を充たしていました。 *その書類は当時カーボン式の三枚複写になっていて、取引先、公証人、銀行側の控えとなっていたように記憶していますが、文章の一番最後の行などで失敗すると、最初からやり直し、書き直しでしたので嫌いな仕事でした。 *今や複写機がありますので鉛筆書きの原本をコピーすれば済ませますので現在の融資係の職員は心のプレッシャーから開放されていることと思われます。 * インターネットという便利な世界によって、沖縄から北海道まで日本全国の方々と友達になれること、リアルタイムに心のキャッチボールが交せることにもなりました。 *相手さんが見えないから、より慎重に、より丁寧に伝えることを基本にしていれば、インターネットの負の部分は避けられるものと確信しています。 * 卓上計算機も助かりますね。但し加算作業中の記録の無い加算は正しい答えかどうかの見極めに難点があります。その点エクセル機能を駆使すれば、精度の高いものになりますね。 *文明の機器はそれを巧みに使いこなすことが肝要で、機械類に人間が使われてしまったり、機械なしでは生きて行けないという症状になったり、至便性による頭脳の劣化を招いては本末転倒(英語では馬の前に荷車)になりかねませんね。
2024.05.17
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〇今から10数年前、50年ぶりに佐賀を訪れましたが、実に水の豊かな市街でした。子供の頃、家のすぐ近くの川には蛍が無数に舞っていました。当時は農薬などを散布しなかったから、蛍と人は仲良く共生していました。佐賀に移る前、京都に居た時にも、広い桂川の川敷に蛍が舞っていました。浴衣地の布に丸い輪を二つ嵌めこむだけの虫篭。笹を拾って来て、とっぷり暮れた河川に行くと、夥しい蛍が群れを成したり、別れたりしてまるで戦さの陣形のように変化するのでした。竹の笹で上から地面に降ろすと、笹の葉には何疋かの蛍がいました。それを籠に入れたり、掌に包んだりして、翠色の幻想を楽しむのでした。家に持ち帰ったら霧吹きで水を吹きかけると、蛍の点滅が活発になり、真っ暗な部屋の一部がぼうっと妖しく見えました。京都の「哲学の道」もそうですが、こちらの小泉川にも蛍が生息していて、蛍祭りも毎年開催されています。
2024.05.16
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〇この実家の改築前、凡そ20年前の話です。実家の食器棚から幾種類もの小皿や小鉢を取り出して、お惣菜を盛ろうとして、おや?っと思いました。この皿は随分くすんでいるな。繊維性のスポンジに磨き剤を付けてゴシゴシ擦ってみました。すると真っ赤な蕪の模様が浮き出てきました。皿の表面には小さな窪みが円状に15個ぐらいつけてある上等の小皿。余りにも永い間、使用されずに「積んどけ」状態に放置されていた所為で埃の層がついたのに違いありません。他にも見覚えのある皿が続々と発掘されました。私が小学生の頃に使われていた菓子皿や小鉢が懐かしい顔を覗かせます。50年も往古にライムラグしました。今夜は「天麩羅」を揚げてみる積もり。は~て、どんな皿に盛り付けようかな? ぐい呑み茶碗やお猪口、陶器製の小さな三重箱。そうだ!昼ご飯はいろんな小鉢を使って松花堂弁当など工夫してみよう。主夫って結構面白いなぁ。 注)もう当時の画像残っていません。ネットから現代もの拝借しています。
2024.05.15
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○俳句の校正作業をしていますと、いろんな事を知る機会となっていて、勉強になります。機械化の進む農耕のジャンルは年々、歳時記の中から消えてゆくものがあります。「京鹿子」では歴史的仮名遣い・現代表記いずれも会員さんが選べるようになっていて、最近、歴史的仮名遣いと現代表記の中間、判り易く言えば、促音便(小さなっ)は前者の選択でも本人が小さく表記してあれば、そのまま掲載する事も認めています。ほかに、ちゃんちゃんこ等の拗音についても、現代表記の方が効果的なら本人の意思を尊重しています。この話は後日、古事ことわざ辞典の記事に繋がってゆきます。今日はこの辺で。
2024.05.14
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〇佐賀にはカバヤというお菓子屋があって、確かピンク色の河馬の形をした宣伝カーが街中を練って居ました。キャラメルを買うと券が入っていて、それを集めると児童文庫の景品が貰えるのでした。私は毎日のように小遣いでキャラメルを買っては、「せむしの子馬」「トムソーヤの冒険」などの本に換えて、大切に読みました。グリコのおまけにも可愛い景品が箱にくっつけてありました。子供の希望や夢は、ほんの些細なもので充たされるのでしょうね。近年は童話を書いていませんが、童話は気持ちを真っ白に清めないと書けません。俳句は催眠術のように瞬間的に真っ白になれば良いのですが、童話となると書き納めるのに小一時間はかかりますから、瞬間的な純真さでは間に合わないのでしょう。兎も角、幼年時代は児童文学、童話に親しんだのでした。浪人時代は日本の大家のものを若干読みました。社会人になっては、巷で飲み歩き人間研究をしていましたので、物知りには成れませんでした。この歳になると活字を拾うのが視力の関係で辛くなります。記憶力も衰退しますので、将来的に素敵なものが書けるのか、甚だ心配なのです。
2024.05.12
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〇茶道千家の十職の一つ釜師大西清右衛門宅のある釜座町には、古くは“鬼殿跡”と呼ばれる伝説がありました。唯一の取り柄が笛の名手、他はどう仕様もない大飯喰らいの百貫デブ“三条の中納言”と称されたのは藤原朝成。 名にし負はば逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがなの和歌でお馴染みの貞信公・三条右大臣藤原実方の六男。その面相はまさしく赤鬼そっくり。藤原伊尹と蔵人頭の任官争いで負け、犬猿の仲となりました。その後、ライバル伊尹は摂政まで大出世。大納言に欠員ができた折、止む無く朝成は伊尹にその位を懇願しましたが却下され、恨みに恨みました。伊尹が四十九歳でぽっくり死ぬと、京童は「ありゃ、あの赤鬼はんにとり殺されたんどっせ」と口さがなく噂した由。 *その朝成も二年後には五十八歳で没しました。しかし世間の評は「あんなお人や、死んでも祟りまっせ」といった具合。 伊尹の子孫は勿論、京童たちも朝成の屋敷を「鬼殿」とか「悪所」と呼んで、誰も寄り付かなくなったと、大鏡や古事記、十訓抄にも記載されているという噺。諸説有。
2024.05.11
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〇男女を問わず人間は欲の塊で、成人するにつれ社会的地位や肩書きへの欲求も大きくなっていくように思います。私は先輩や同僚、後輩たちの出世欲をつぶさに見てきました。そんな環境下にあって、出世ということにそれほど興味が無かったのは親譲りなのかも知れません。父は勤務時間中は最大の努力を払うけれど、企業の犠牲者になる積りはいささかも無く、帰宅後の余暇を大切にしていて、星座・数式・古文・俳句・演劇・歌舞伎・宝塚歌劇・舞踊(都をどり他)・落語(漫才)・美術・デザイン・歴史・美食・和菓子・・・・数え上げても際限が無いほどの趣味を継続していました。 勤め人が退職し、傍系の関係会社で再び肩書のある名刺が使える期間は知れているし、やがて肩書きのついた名刺は使えなくなってしまうと、その人物に威光や存在感が無くなってしまうように感じることが多々あります。寧ろ、その御夫人の方が社交的でパワフルに生活していらっしゃることが多いように思います。兎にも角もにも、肩書の取れた老年は、浴衣がけのような身軽さで対処する方が宜しかろうと愚考しています。
2024.05.10
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〇今わたし達が目にする大阪城は徳川家の手になるもので、この城地を最初に目をつけのが蓮如で、高齢になってからお堂を建てましたが、その折、礎石に相応しい大石が沢山出たので、石山御坊と名付けました。次に大坂に目をつけたのは、「大坂はおよそ日本一の境地なり」と言った信長で、奈良・堺・京都に近く、淀川や桂川、宇治川にも通じ、西には大陸と繋がる富貴の湾があることが挙げられます。信長公生存中は手に入らなかった大坂を後継者である秀吉が狙っていましたが、清州会議では、行き掛り上、大坂を含む摂津の東半分は池田恒興のものとなりました。止むを得なく天王山に城郭を築き、柴田勝家に刺激を与え、交戦で勝利するや恒興を大垣に移し、大坂を取り上げ、築城を始めました。天正十一年9月から着工、11月には天守の土台ができ、同じころ、各大名に屋敷を造れと命じました。40日間に7千戸ができたようです。玉造地区には細川、宇喜多、蜂須賀、前田、鍋島、浅野、片桐、備前島地区には石田、天満には黒田、織田、木津には毛利、船場には堀、筒井屋敷が建ち、久太郎町(堀久太郎秀政)や竜造寺町(政家)の名が残っています
2024.05.09
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〇大学の教授陣のご協力のもと、今回上梓しようとする鈴鹿野風呂先師『續俳諧日誌』の戦前・戦中・戦後辺りの日記には父すばるが再々登場しています。実は亡き母も。昭和20年 1月20日には、起床七時半、昨日今日とやゝ寒さゆるぶ。仁に墨をすらせ、椿人氏等の短冊かく。(中略)帰途すばる居に立ち寄り、母堂及びあけりさんと語る。夜、「比枝」雑詠等清記及び選句。>新婚時、母はまるで騙されるが如く、父について行ったところ、句会の席で、いきなり俳句を詠む破目に入ったと聞いています。この日記にある「あけり」は母の雅号。あけり星で、すばる星とあけり星の子、という意味で、後年、私の句が、野風呂先生の選に入った折に、この雅号を拝受しました。母あけりは、何とか常連から外して貰い、時々作句していたようで、小さ目のノートに遺句が綴ってありました。
2024.05.08
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〇堪忍どした。きのうの続きどす。さし物は、ちりかんと呼ばれる鼈甲の簪、鹿の子留、よしちょう、橘、前ざし、両ビラ(家紋入り)。衣装は下から順に、木綿のさらしの腰巻(白)、胸当て、もう一枚腰巻の長めのもの、袴、木綿の肌襦袢に襟は赤、長襦袢は綸子地赤、扇面のいろいろな花の縫い取り、襟は別になっていて縮緬の赤地に金、銀の源氏車、本衣装は綸子黒地に御所解、帯は青金、赤金の松、帯揚げは縮緬赤地家紋入り相良繍(ヌイ)。本衣装の時は帯留はせえへんのどす。持ち物は扇、手拭、紅、櫛、それに鏡台前の鏡掛け、お座布団、籠、櫛入れ、扇袋など、結構多いどっしゃろ。 うち等、祇園の舞妓は芸事に磨きを掛け教養を身につけることに精進してますよって、水揚げと言うてもお客さんと同衾するんとは違います。ステップ・アップのために儀式することどすさかい、髷を割れしのぶから「やっこ」や「おふく」に変えるんどす。祇園祭の間だけは「勝山」という髷にします。また赤地の襟から白地に替えるんどす。もう可愛いということだけで許されないことになりますねん。(参考資料:「芸妓峰子の花いくさ」岩崎峰子著<講談社>)
2024.05.07
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〇みなさんは祇園というところをどないに思てはるんどすやろ。何処ぞの遊郭と同じように思てはるんどすやろな。祇園甲部は藩の取り潰しをはじめ、廃藩置県、四民平等、爵位返上、財閥解体などの憂き目に遭わはった武家や名家の子女の受け皿どしたんどす。祇園甲部で舞妓、芸妓と呼ばれるのんは、祇園甲部の舞の流儀が京舞井上流で、能、人形振り、篠塚流を基礎として、300年もの精進を重ねた近衛家のお抱え流派で、御所にも指南役として上がってました格式の高い技芸集団どすねん。舞と踊りとが根本的には違てるということを覚えておいておくやす。 舞妓の店出しの日は朝の6時から起きて、まずお風呂に入り、髪結いさんに行きますねん。朝食はお赤飯と鯛で、できるだけおトイレに行かんで済むように、水やお茶などは殆ど摂らへんのどす。髪を整え、鬢つけ油で下地を作ります。初めに練り白粉の白を首から2、3度引き、次に頬、鼻筋と引き、桃色の生臙脂または砥の粉で鼻筋、眉毛をかたどり、白を重ねていきます。もう一度、生臙脂で眉を描き、その上に黒の眉墨を重ねます。 長ごうなりますんで、続きは明日にさせていただきます。
2024.05.06
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〇豊中市出身、小学5年の時、プールでのターンに失敗して視神経を痛めたことから中学2年にして全盲に。盲学校を経て追手門学院文学部卒、再び日本ライトハウス情報処理学を修められ、日本アイ・ビー・エムの学生研究員を続けながらITによって全盲の方への技術革新を駆使する事によって、白杖に代る便利なものを拵える事に専念されました。彼女の創意工夫は世界的にも認められ、宇宙飛行士として成功された毛利衛さんの跡継ぎとして、日本科学未来館の館長の傍ら、各分野に於て顕著な確約をされています。視覚的障碍者の歩行を補助する機器は、危険な場所に着く前に静止したり、迂回するソフトが埋め込まれていて、そう遠くない将来、更に精度をあげたものが政府公認のもと、商品として市場に出る事でしょう。
2024.05.05
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○長岡京市のイズミヤ駐車場の隅に古書・古新聞の回収コーナーがあって、機器に対応する自分のカードを差し込み、新聞側と古書を別々に入れると、その日の重量がカードに表示され、500キログラム貯まれば、500円の金券が貰えます。本日は夫婦自転車2台で持ち込んで、17キロでした。その折、紙袋が破けて小さな冊子が2つ残りました。明星2月号の第2付録で、クリスマスソング、歌曲、青年歌30曲。表紙は弘田三枝子さん。もう1冊は東芝音楽テープの歌詞集で、日本全国民謡歌詞集。おこさ節、タント節など60曲ほど。
2024.05.04
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〇 三枝子は彼の手を取って、「ほら、永井さん!これが私の心臓の音、ドキドキ元気に動いているでしょう? ほら、これが貴方の心臓の鼓動よ! ドキドキ言ってるわ! ほら、こんなに正確に!・・・ねエ、ほらっ!私と同じように元気に動いているわ!二人共生きているのよ、貴方は生きているのよ、普通の人と同じように、ほらっ!判るでしょ!・・・・・・」三枝子は感極まって泣きながら、懸命に続けた。彼の左手を彼の左の胸に当て、右手はしっかと自分の左の乳に当てがった。三枝子達は雪の上に座っていたのだが、冷たいとは感じなかった。三枝子の左胸に置いた彼の手に、次第に力がこもって来た。彼女はその上に自分の手を重ねて押えた。 どれほどの時間が過ぎたのであろう。突然、彼は三枝子を抱き竦めた。彼女もこれに応えた。乳を通して、彼の胸の鼓動が聞こえるような気がした。彼女の腕に暖かい滴りが落ちた。永井の涙に違いなかった。涙すら浮かべることのできなかった彼が泣いている。感情が甦ったのだ。「永井さん!」そう叫んで、三枝子は夢中でしがみついた。 エピローグ 彼女は、ふと、我に返った。三枝子はフィアンセ、亘の腕に絡みついていたのだった。彼女の頬を軽く指で突きながら、「君の今の涙は美しい。美しいよ。きっと美しい思い出があるんだろ。幸せな人だよ、君は。」亘はそうささやいた。夕日が沈んで風でも呼んだのか、色づいた銀杏の葉がはらはら落ちて行く。三枝子はまるで死んでいった永井を見送るような気持ちで、それを見ていた。白衣を着ていながら永井を誘い、抱き締めたあの爆発的な感情は、永い間、彼女の胸の奥に蓄積されていた愛の炎というべきものであったろう。彼女の愛は、ついに白衣を貫き迸ったのだ。看護婦としては罪を犯したのかも知れない。しかし、恋人として止むに止まれぬ愛の表現であったのだ。その日の永井は再び意識を回復したのであったが、二人の新しい結びつきは、二人の離別を早めるものでもあった。互いに愛していれば一緒になるのが世の常とは言え、このような事情の下では叶えられない恋でしかなかった。二人は求め合いながら、別れが近づいて来るのを、ひしひし感じていた。・・・・・・ そんな訳で、三枝子は勤め先を変えた。今度は大学の付属病院であった。二年の月日は、彼女の胸の中を洗い流してくれた。そして、彼女は叔母の勧めで見合いをした。包容力のありそうな亘は、三枝子には勿体無いほどの人物であった。一方、亘はすっかり三枝子が気に入ったと見え、積極的に話を進めて来た。今、三枝子の胸の何処かに、小さな、新たな炎が燃え始めているのかも知れない。思い出深い白衣に別れを告げる日も遠くない。二人はベンチから離れると、夕食を摂るのだろう、ネオンの街に肩を並べて消えて行った。 昭和44年9月3日 BY陸治
2024.05.03
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〇三枝子は自分の力の無さを嘆いた。また、果たして自分は永井の恋人で有り得たのかと、疑ってもみたが、最後の勇気を絞って、誰も居ない、想い出の杉の木立に彼を連れ出して来た。雪は止んでいた。月の無い星夜であった。明るくはなかったが、雪の白さに変りは無かった。「ねエ、元気を出して頂戴。もう少しの辛抱だわ。雪割草の出る春まで、もう少しよ。」子供をあやすような言葉しか、三枝子には浮かばなかった。それほどの彼は放心状態なのであった。昔、同じこの杉の下で、彼女を励ましてくれたあの力強さは、どこにも見られなかった。「ねエ、何か云って!黙ってないで!」そう言って永井を抱きながら、三枝子は彼を揺さぶった。「・・・・・もう遅い。何もかも・・・・・僕の前には死神が・・・・・もう僕の頭は破裂してしまう・・・死ぬ・・・・死神が取り憑いた・・・・・」到頭、あらぬことを口走る永井であった。
2024.05.02
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〇それに生まれつき、血圧も低いので手術する訳にもいかなかった。なるほど、心細い話である。冬眠の蛙が土の中で、春の訪れを辛抱強く待つように、永井の場合も静養することだけが、回復への近道であった。ただ、蛙のように無神経に寝入ることが人間にはできない。だから永井の辛い気持ちはよく解る。永井をこのような不安に陥れたのは、彼の境遇にある。彼には両親が無い。ひと廻り歳の離れた兄と、婚期の近い姉が居るだけであった。金には縁の薄い兄や姉からのささやかな仕送りと、自分のアルバイトで得た金で、国立大学を目指して勉強してきたものの、三度も失敗したことは、かなり彼を苦しめた。叱咤するような二人の激励がなかったら、彼はその時、受験を断念していただろう。今度こそ最後の機会と剣が峰に立つ思いで、彼はまた、勉強を始めた。一方、兄姉への遠慮も顕著になっていた。その矢先に、長の病に罹ってしまったのである。病人に気遣いはマイナスと聞くから、彼は努めて明るく過ごしてきたのだが、一年半ばの病院生活は、再び彼の心を曇らせてきたのである。兄や姉からの励ましの手紙は、返って彼の心に焦りを生ませるものであったし、三枝子ですら、彼をひ弱にするのを助長させる存在でしかなかった。
2024.05.01
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永井は三枝子の言葉を待っている。しかし、迂闊なことは言えない。自分の言った言葉から、ややノイローゼ気味の永井が、どんなことを考えるか知れたものでないからである。話題を変えた。変えたと思わせないように・・・「春になると白い雪の中から、雪割草が出て来るっていうけれど、どんな花かしら、知ってる?」「さあ、どんな花か僕は知らないが、薄桃色の花だと聞いたことがある。ここには咲かないのかな。」 「それは分からないけど、春になったら、ここら中歩き回って捜してみるわ。永井さんも探したら?」「そうだね。」やっと、笑ってくれた。三枝子も笑い返して、彼のもとを離れた。この場は巧く収まったが、その雪割草の出る時節まで、永井の笑いは保てなかった。永井は自分の病気が、治らないのではないかと、疑い出したのである。尤も、それなりの理由が無いわけではない。彼はいわゆるアレルギー体質で、パスは勿論、ヒドラもストマイも受け入れないから、穏やかなサルファー剤しか服用できなかったのでである。
2024.04.30
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「雪の所為ではないと思うけど、僕達患者の心次第で、白衣は冷たく見えるものです。山野さん、貴女は本当に優しい。その優しい人が、何故白衣を着なきゃならないのだろ。だからと言って、白衣を脱げなどと言うのではありません。貴女のような温かい人でも、その白衣の為に、冷たい・・・いや違う・・・温かさを表わすことが出来なくなってしまうのではないかと、僕はそれを恐れるのです。雪はなるほど、積もり初めの頃は柔らかくって、軽くって、優しそうに見えるけど、毎日、毎日その白い風景を見たら、見飽きたら、これほど殺風景で冷たいものはないと感じてしまうものです。時々、雪が緑色していたら・・・なんて馬鹿な想像すらするんですよ・・・?」三枝子は永井の言わんとすることが、よく理解できた。白という色ひとつを例にとってみても、このようにいろいろ人の心を揺さぶるのであるから、色彩というものは馬鹿にできないと思った。また、人間ひとり一人を色の組み合わせで表現したら、面白いだろうななどと思った。人間に与えられた五つの感覚ほど、深みのあるものはないと言える。 音の世界、匂いの世界、味覚の世界、皮膚などに感じる世界。自分は未だそれらのほんの一部を知ったに過ぎないのだと三枝子は思った。
2024.04.29
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〇山間部にあるこの療養所に雪が積もって、黒い土を見ることが出来なくなってしまった。いつしか、永井の眸の輝きが消えて行くようであった。「山野さん、雪がすっかり地面を覆い隠してしまったね。僕はこの頃、貴女方看護婦さんが白衣を着ているということが、気になってるんです。普通の病院と違って、此処では貴女達と僕達患者との付き合いが長いから、恐らく、貴女方は白衣を着ていようと居まいと我々に接する態度は同じだとは思うんだけど、どうもその白衣は、患者との境界線になっているように思われて仕方がない。山野さん、貴女は白衣を身に着ける時、どんな気がしますか?」こう聞かれて、三枝子は患者の心理というものが解った気がした。なるほど、自分達看護婦は殆ど無意識に、この白衣を着るのだが、清潔な色に心改まる場合もあれば、つくづく嫌になる時もあるのだ。正しく患者との仕切りであるし、心の隙を隠す衣でもあった。しかし、永井には、「仕事着だけど、私は普段着を着ているような気持ちで居るわ。そして、早く治って下さいって、祈ってるつもり。」と答えて、これは永井だけでなく、皆に対しても同じだと言いたくて、ほかの患者のベッドを見回した。永井の部屋は六人部屋であった。そのうち、二人は風呂に行った様子であり、源さん一味はどうやら、そばの旅館で・・・この療養所の中には、見舞い客や行楽客を一晩泊めるのが建前の旅館が二、三軒あったが、実際には、麻雀の場を提供したり、患者同士の逢引の場所として利用されているのだ・・・麻雀を朝っぱらから打ちに行っているらしい。従って部屋の中には永井の他には二人しか居なかったが、風呂上りの疲れで寝入っているようであった。永井はそれを知って、このようなことを尋ねたのかも知れない。
2024.04.28
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〇それから一年余りの平凡な月日が流れた。二人の間柄は以前と同じで、公明であった。後ろめたいところのない、清いものであった。一体、男女の仲というものは、人前を避けると、すぐ行き着くものなのであろう。しかし、三枝子と永井は、このことを意識していたかどうかは兎も角として、いつも二人っきりになるのを避けて来たから、清いままで過ごせたのであろう。三枝子は永井に対する自分の気持ちを、やはり恋心だと思った。しかし、恋心ならばもっと激しく燃えるものだという考えが、これまで読んだ詩や小説、歌などを通じて、三枝子の頭の中に生きている。では、自分がそれほど激しく燃えないのは何故だろう。毎日顔を合わせているからであり、また、会いたくなれば、いつでも会えるからでもあろうと思った。人目を避けることさえしなければ、自分達はいつまでも信頼し合える恋人で居られるのだ。だが、いつ何時、人目を避けて二人っきりになりたいと思うようになるかも知れない。その時、現在のように、明日という日を恐れず、ゆったりとした日々を送れることができるのかしら・・・。時々、三枝子はそんなことを考えたりしていた。・・・・
2024.04.27
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〇この日を境にして、三枝子は傍目にも感じられるほど、永井に尽した。永井は迷惑がりもしないで、三枝子の好きなままに任せているようであった。永井は大変な読書家であった。彼のベッドの傍の本棚には、分厚い本がずらりと並んでいた。歴史書や哲学が主だった。聞けば、社会科専攻の教師になるつもりで大学を目指していたのだが、元々、ひ弱わな身体に受験勉強が祟って、この病気に負けたのだと言う。三度も滑ったと言って、彼は不自然に笑った。三枝子は、ただ気の毒に思うばかりで、慰める言葉も持ち合わせなかった。読書に疲れると、中庭の花壇の世話や鉢物の世話をしていた。 三枝子が花の苗を買って来てやることもあった。郵送のみに頼っていた書物すら、三枝子の手を借りることもあった。二人の噂は療養所という狭い世界では行き渡っていた。二人ともそんな噂や冷やかしにムキになりはしなかった。広がってしまえば、後は逃げ隠れする必要もない。お互いに尊敬し合えたので、淫らな冷やかしにも「ええ、ひょっとしたら、そうかもね」とか「もう相当なもんよ」とか言って、平気の平左で済ませてしまう。三枝子はこんな面構えで居られるのも、すべて永井のお蔭だと感謝していた。
2024.04.26
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〇厄介な人達だと心の中で溜め息をつきながら、次の部屋を見る。何だか様子がおかしいので、電灯をベッドの方へあててみると、ベッドの上には誰ひとりとして寝ていない。キョロキョロと見回すのを、男達はベッドの下から笑ったりした。若いエネルギーを抑制されている患者達は、時々、卑猥なことを言って、三枝子の顔が赤くなるのを喜んだ。永井という男は、彼らとは別の人種であった。派手なところのないことが、一層、三枝子の目についた。顔色も蒼く、頬骨の出た彼であったが、その清潔な眼の輝きは、結核菌に侵されている病人とは思われないほど、美しかった。 彼の眼を長く見つめることは、三枝子には出来なかった。三枝子よりも三月ほど前にこの療養所に来ていたことや、自分と同い歳であることが、カルテから知れた。 そんな或る日のことであった。三枝子は源さん達から、女の秘密の日をあてられてしまった。その場はなんとか繕ったものの、後から恥ずかしさと悔しさとが、一度にこみ上げて来た。気づいた時には、かなかなの鳴く、杉の木立の下に来て、溢れる涙を細い指で拭っていた。・・・・あんまりだわ!ひどすぎるわ!・・・・何度、そう口に出して言ったか知れない。「山野さん、どうかしたのですか?」と尋ねる声がした。誰だか判らないが、まさか涙でヨレヨレになってしまった顔を、男性に見せる訳にはいかない。杉の木に尚更もたれるようにして、しゃくり上げた。「どんなことを、皆が言ったか知りませんが、それは貴女に対する甘えなんですよ。どれほど貴女の評判が良いか知れません。可愛いて言ってます。貴女への悪戯、それは一つの挨拶なんです。それを軽く受け流して、乗り越えてごらんなさい。きっと楽しい勤務に変ります。まるで、みんな、子供のように従順になってしまいます。」その忠告者が立ち去るのを感じながら、三枝子は、そうっと指の間から、その後姿を追った。見覚えのある、大切な後姿であった。永井はすべてを知っていたのかも知れない。いや、偶然に彼女を見つけたのかも知れない。いずれにせよ、彼は三枝子の日頃の悩みに気づいていたのだ。振り向きもしないで、小さく消えていく彼の後姿を三枝子はいつまでも見送っていた。
2024.04.25
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〇結核療養所というところは、俗世間から無理強いに隔絶されているだけに、ニュースらしいものに乏しかった。そんな中に新しい看護婦が来たということは一大ニュースであった。永い闘病生活に甘んじなければならない彼ら患者にとって、美人に越したことは無いが、それ以上に思いやりのある、明るい、そして融通性のある看護婦が望まれた。第七病棟では最古参といわれるバクチ打ちの名人の源さんは、三枝子に百点満点という途方も無い点をつけた。若い男達は源さんの直感的な評価を信じて疑わなかった。彼らは親しみや甘えを、からかうことによって表現するのだ。皆、自分を知って欲しいのだ。早く名前を覚えて欲しいのだ。検温は朝の十時と午後の二時であった。いつも寝た振りをして、三枝子を困らせた。三枝子は彼らの冗談にすぐ乗ってしまって、初めの内は、おろおろするばかりであった。夜の見回りの時なども、懐中電灯を天井に向け、板張りの廊下を音のしないように歩くのには、少しコツが要る。慣れない三枝子は、気にすればするほど、音を立ててしまう。すると、うるさいという声が暗い病室から聞こえて来る。三枝子にはそれが嫌がらせに聞こえるのだ。
2024.04.24
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<本日から幾日かに分けて、昭和44年ころの作品をご披露させていただきます>〇 (一) 銀杏が黄金の色に輝く公園の青いベンチに、美枝子はフィアンセと座っていた。「どうしたんだい?今日はすっかりおとなしいんだね。何か心配ごとでもあったのかい・・・?」そう聞かれても、真相を明かす訳にも行かなかった。なるべく相手の眼を避けて、「女性って、秋にはセンチになるって言うわ。」「君は戦後の生まれだろう、信じられないよ。まあ、いいや。秋の淋しさに浸りなさい、僕は黙っているよ。」思いやりのある言葉であった。彼の手は彼女の髪をそっと撫でていた。彼の吸う煙草の煙の中で、美枝子は目を瞑った。 実を言えば、今日は、昔勤めていた療養所の友達から、ひょっこりと手紙が来たのだった。それは四日かかって彼女の手許に届いたことが、スタンプから知れた。永い間、便りを出さなかった詫びの言葉や、柿のうまいことや、婦長の代わったことなど、ごくありきたりの内容であったが、最後に永井の死んだことが記してあった。書いた人からすれば、親切心から付け加えたものであろうけれど、美枝子にとって、それはかなりショックな追伸であった。
2024.04.23
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○1575年(天正3年)五月二十日付戦国史新聞には、掲題の文言のほか、「信長三千挺の鉄砲を投入」「戦勝の秘密は三段撃ちと馬防柵」という号外も出され、一面二面に渡って、「織田信長 武田騎馬軍団をせん滅」という大見出し、同じく横書きにて「三千挺の鉄砲に武田軍の死傷者一万を超える」の中見出し、縦書きにて、「内藤・馬場・山県ら 武田の猛将全員戦死」の見出し、序に次いで、「激突!設楽ヶ原 武田騎馬軍団、地上から消滅」の小見出し。また中段には、「武田軍 五百人の長篠城落とせず」や「情報戦を制した織田信長の炯眼」等の小見出しも散見されます。尚序文は、織田信長が三河設楽ヶ原で武田勝頼と戦い、敵方に死傷者一万余の損害を与えて大勝利した。勝頼は内藤、馬場、山県ら歴代の重臣を失っ潰走走。この合戦では三千挺という前代未聞の数の鉄砲が集められ、信長軍に勝利をもたらした。この大勝により、信長の天下布武構想は仕上げの段階に入ったといえる。
2024.04.22
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○京都生まれの私、京都が古い街であることを殊更に自慢するわけではありませんが、五条通から上って行く道々には仏具店は勿論、やれ袱紗屋だの掛軸屋だの弓屋、シャツ屋など、いろんな店が地味な店構えで散在していました。一方驚いたのは、或る1軒でした。一階の屋根にも二階の大屋根にも三枚のプロペラをつけた自家発電装置もさること乍ら、「ひまわり」とローマ字を附した特殊な装置(まるで超大型の真空管のような装置)を発見した時です。おそらくあれは、日本の宇宙衛星「ひまわり号」から直接、気象映像をキャッチする装置なのかなと推測しました。個人の家でそう言う事に興味を持ち、自分で気象予報などして居られるのだと思いました。昔ながらの古い商い屋もあれば、このような未来すら掴もうとする家もあって、京都の散策は観光地よりもむしろ、こういうそぞろ歩きをお薦めしたいのです。 最近、この稀有な装置を探して四条通から松原通間の道を歩きましたが、近代的なビルに替わったようで、見つける事はできませんでした。
2024.04.21
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〇かくれんぼ 豆の畑にみいさんと ふたりかくれてまつてゐた。 とほくで鬼のよぶ声が 風のまにまにするけれど ちらちらとぶは鳥の影。 まてどくらせど鬼はこず。 森のうへから月がでた。〇まゝごと ままごとするのもよいけれど いつでもわたしは子供役 子供が子供になつたとて なんのおかしいことがあろどちらも感性ゆたかな詩情が溢れていますね。
2024.04.20
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○20年ほど前に仲間が詠まれた句。 遠かすみ宙空にある島と舟 一英昔の屏風は金泥が施されていて、霞とも雲ともつかないぼかしが幾つか描かれています。世界をおおう空間を宇、時間の広がりを宙というらしいのですが、遠近感と不変的な景色が詠まれていますね。 花霞比叡がくしとなりにけり 政利京都市内から見て比叡山を彩る花の霞を「比叡がくし」という季語にしようという動きもあるのだそうです。 霞立つ備前備中安芸を行く 薫 遠霞威容を誇る貨物船 美智子 延々とただ延々と花筏 一英 花冷えや太夫の鼻緒紅うして 美智子 燈ともれば曲がりたくなる春の宵 真隆 山独活(ウド)を放つや水の色青む あさ子 昭和錆ぶひしゃげ背負籠よもぎ摘む 政利 山門を閉ぢて無言の遅桜 正 己が影踏めば泣く砂啄木忌 興作 盛衰の寺歴もろとも藪椿 星子 花疲れ靴もハの字に脱ぎすてて 千恵子 腰高の風城門を花の冷 健二これらは18年も前に詠まれた作品。既にお二人は鬼籍のお方です。
2024.04.19
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〇京鹿子例会等、参加者署名簿について先日記事にしました。スマホにてフェイスブックに挙げた記事に誤りがありました。村上春樹氏の尊父が安養寺の住職だったという一文は誤り、それは春樹氏の祖父にあたる人。父の村上千秋氏は安養寺の住職:村上弁識の次男で乙訓郡光明寺傍の西山専門学校(ここで野風呂先師との接触→京鹿子)、京都帝大文学部在学中に日中戦争に関わり、戦争の惨たらしさに心に深い傷をもたれました。のち甲陽学院中学校に赴任した都合で、京都生まれの春樹氏は神戸高校、早稲田大学へと進まれました。千秋氏は昭和12年10月~昭和17年2月まで京鹿子の句会に出席されていました。昭和24年4月17日泉湧寺来迎院での句会には余瓶、蕗葉子、野風呂記念館近くの下大路在住の飛騨桃十・夏子夫人・息子道弘の署名があり、5月15日三船祭には高桑義生、久保まさじ、加田とし女(ゆかり)、小林仙太郎、山田耕子らも。昭和24年7月9日鞍馬寺大宿坊での句会にには谷口八星、荻野五百枝(千枝)、内藤十夜など。
2024.04.18
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〇亡父は夥しい量の「新聞の切り抜き」を残して居、その中にはセピア色どころか、読むにも難儀するほど日焼けしてしまったものもありますが、数十回ものシリーズ記事は、新聞社ならではの切り口で、興味が尽きません。虎は皮を残し、亡父は「切り抜き」を残してくれたのでした。
2024.04.17
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〇半と書いて、なからいと読めばお上品。電子辞書には①なかば、まんなか、なかほど、たけなわ②かたはし、はしきれ、はんぱ。③わける、二分する。④わずか、すこし。ほかに中途半端、ちいさい、なかばする。そして丁半の奇数の半。と説明されています。 ところで日本人は概して態度がはっきりしないで、ぼかします。上品=奥ゆかしい=奥にいかまほし。奥に何かあるので、そこへ行ってみたいという曖昧な表現。「大半の人がそう考えています」これは一体何人を指しているのかと更に調べてみます。すると、中国に於ては、大半=九割、多半=七割、一半=五割、小半=四割という事らしいです。こうして結論を出してみると、日本人は曖昧なんですね。
2024.04.16
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〇書物はこころのビタミン剤、手元に置いて時々、眺めているだけで雅な世界への憧れを充たします。父が買ったのでしょう、昭和59年2月再版、角川文庫の『絵草紙 源氏物語』(490円)。解り易く、読み易い田辺文子さんの文と個性的なかんばせながら、流麗な線に特色のある岡田嘉夫さんの絵の織り成す紫式部の世界。物語の巻同様、桐壷、箒木、空蝉、夕顔、若紫、末摘花・・・・と続きます。旅行の友に、大病院の治療・検査などの折には、携えたい文庫本です。
2024.04.15
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〇青空を覆い隠していた無数の花びらが散り初めると、齢い65の桜大樹さえ気のせいか、スリムになっていくような気持ちになります。さくらは優しさを教えてくれますが、どうも国の政治を預かる人々は謝り方をご存知でないような・・・。「おわび申し上げなければならない」や「夢を与えたことを謝罪しなければならない」これらに共通する部分、もし~~ならば謝ら「なければならない」という言い回しです。謝る気持ちがあるのなら、もっと素直に「~~しまして申し訳ありませんでした。ここに謹んでお詫び申し上げます」で反省の気持ちが言葉として伝わる筈であるのに・・・。 感謝の言葉やお詫びの言葉は、朝夕の挨拶同様、世に暮していく上での必須の言葉ではないでしょうか。彼らは謝りたくないから「おわび申し上げなければならない」と逸らせているように聞こえます。散り際の潔いさくらに寄せる日本人本来のころを、施政者がないがしろにするようでは「やさしい平和日本」を世界に発信できないように思うのです。
2024.04.14
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〇16年も前の記事です。小学新3年生のガイドをしてきました。長岡京市の小学校さん、どうやら早めに進んだらしく、集合時間が10時15分なのに9時半頃には現場に到着しそうな勢いでした。ガイドの会のメンバーが全員揃うまで待って、それでも予定より早めに出発。ひと組5~7人の隊を全部で12組、生徒72人先生ら4人、ガイドは14人。歩きながら自己紹介をしつつ観音寺の緩めの坂と急な階段を登りました。聖天さんのお堂まえでのお話では「腕白で乱暴な人でもうまく諭せば善人になって役に立つ人になるんだよ」と覚えやすいように説明しました。山荘近くへ出て宝積寺では閻魔堂の閻魔さん5体とご対面。16人ほど一まとめにして閻魔さんの表の恐い顔と裏の優しい顔を写真を使いながら説明、「先生も生徒に注意したり怒ったりしはるけど、本当は心の中では泣いてはるのだよ」と説明すると先生は嬉しそうなお顔をしておられました。山頂では全員が集まるまで待って、生徒も先生もガイドも一緒に仲良く昼食。食後15分ほど子供たちは山頂でお遊びなど。それから小倉神社へと行進。途中で山を切り開いたところがあって、生徒たちの学校が眺望できました。記念写真も班毎に撮って貰いました。怪我人もなく無事小倉神社まで辿ることができました。3年生は本当に愛らしい、良い子達でした。最後は一人一人握手して別れました。
2024.04.13
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〇日本歌手協会7代目会長に就かれていたペギー葉山さんは、幼少の頃から歌が大好きで、当初は音大を狙っておられたましたが、ラジオから流れ来るアメリカポピュラー音楽に惹かれ、クラシックからポピュラーを選択、進駐軍のキャンプで歌っておられましたが、学校卒業するやキングレコードから「ドミノ」をリリース。1958年の「南国土佐を後にして」が空前の大ヒット。「サウンドオブミュージック」の中のドレミの歌を日本語に訳詞され、日本全国に流行らせたのも、ペギー葉山さんのお陰。私が深夜ラジオを聴きながら感心したのは、音程の捉え方の正確性と、ソフトボイスの素晴らしさ。会場の遠くまで届く飯沼京子さんのテクニックを思い出しました。
2024.04.12
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