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〇当地、乙訓の筍の季に父がこの家に、野風呂先師や十七星さんらを御招きして小句会を催した時の印象が強かったことから俳句と接し、社会人になった翌年に休職するほどの病を得たのをきっかけに、数十年、俳句から遠ざかっていましたが、父の死の翌年ごろから再び句作を始めました。ここに並べあるのは、20年前、松尾大社での吟行句会等のものです。 手触りの「陰翳礼讃」春障子 バス時刻改変ありて山笑ふ 利休忌や石見半紙の句集繰る〇利休忌や国宝茶室ただ昏き 菅公の御霊呼び寄せ薄紅梅 逃げ水や善玉悪玉おもて裏 わかさぎの銀鱗美しき数珠上ぐる 沈丁や媚薬はなべて甘きもの 少女らに妖精見ゆらし草霞〇浅床のみそそぎ川の水温む〇へばりつく二村を分かつ雪解川〇春燈や井上流の指づかひ◎女神(ニョシン)像面あげ召さる桜ごち 出番待つ駕輿丁(カヨチョウ)船や桜東風 御供樽の百ほど積まれ風光る 初花や花肆(カシ)の気(ケ)もなし酒祖の宮 花肆(カシ)=遊女などいる色里・花街
2026.05.02
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〇耶馬台国の女王・卑弥呼でも判るように、古来から巫女は尊敬されて来ましたが、時代の流れの中には幾多の例外もあるようです。東大寺の大仏建立の折、はるばる宇佐八幡から杜女が祝意と神の協力を伝えに来ました。 *孝謙天皇、聖武上皇、光明皇太后は大喜びで出迎え、宇佐八幡を昇格させましたが、その数年後、八幡宮の神主が呪詛を行った罪で、杜女は日向の国へ流刑されました。どうやら杜女=禰宜尼たちは政治的な魂胆を胸底に秘めつつ奈良に赴いたと推測されるのです。 *平安期になると怪しげな巫女が横行し、博打とも関わりを持つようになったとする文献があまた散見されています。(参考:永井路子著『歴史をさわがせた女たち』)
2026.05.01
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〇世の中には綺麗に着飾った女性が居られ、またそれなりに化粧を施して居られるゆえ、街を歩いて居ても、電車に乗っても気分が華やぎます。化粧の側面を覗いて見れば、 シュニ先ずは魏志倭人伝の太古、「朱丹をもって、その身体に塗る」とあるように、古墳の埴輪には男女ともに顔面に朱が塗りこめていました。時代は下って、紫式部がお仕えした太皇太后彰子が田植えの様子をご覧になった折の早乙女と言えば、「若くきたなげなき女ども5、60人ばかりに、裳袴というもの白く着せて、白き笠ども着せて、歯ぐろめ黒らかに、紅赤こう化粧させて続けたり」とあって、これらを命じた道長の時代には化粧は日常茶飯事のことだったようだし、平安時代の女性たちの化粧は、眉と歯がポイントだったように思われます。毛抜きでげじげじ眉の手入れを怠らず、平安末期から鎌倉時代には、額の生え際と目の間に、大きく眉を描くようになっていたようです。ここ20年ほど前にも、太い眉がファッションとして流行りましたし、今では半弧の細い眉と舞台用のつけ睫毛ばかりが電車内に大勢居られますね。
2026.04.30
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〇山と渓谷社の『鳥のことわざ うそほんと』(国松俊英著)のページをパラパラ捲ってみると、80もの諺のあることに驚いてしまいます。「雀百まで踊り忘れず」、「鳩に豆鉄砲」、「梅に鶯」、「目白押し」、「烏合の衆」、「烏の行水」、「鳶に油揚げ」 「掃き溜めに鶴」、「鶴の一声」、「おしどり夫婦」、「千鳥足」、「一富士、二鷹、三なすび」、「雉も鳴かずば撃たれまい」、「閑古鳥が鳴く」など。ところで「鶴は千年、亀は万年」という言い伝えから鶴は千年も生きるのかなと誰しも思いますよね。 内田清之助の『鳥』では、セグロカモメ:36年、ダイシャクシギ:31年、イヌワシ:25年、ガン:25年、カラス:14年、ハト:10年、スズメ:8年。そして鶴は30年~60年も生きるのだから、あながち諺は間違っているとは言えません。地球の環境は年々悪化を辿っていますが、私たち人間は身近に目にすることのできる鳥たちとも仲良く暮らして行きたいものですね。
2026.04.29
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〇明治5年と言えば、東京大阪間電信開通、僧侶の妻帯・肉食・蓄髪許可、修験宗を天台・真言の2宗に帰属、新橋・横浜間鉄道開業、太陰暦から太陽暦に変更、神武天皇即位の年を以って紀元元年(因みに、この年は紀元2532年)とした年ですが、マリア・ルーズ号が奴隷を大勢積んで日本に立ち寄りました。これが国際問題となり、寄港地の日本が意見を求められ、「人道にもとる」と公言したところ、「日本には廓という奴隷組織がある」と指摘され、止む無く発したのが”開放令”、つまり「娼妓・芸妓は一切解放せよ」というお墨付きで、娼妓・芸妓側との貸借関係もパーにせよとのお達しで、島原の”角屋”が養鶏場に、”輪違屋”が糸屋に変ろうかという正に危うき土壇場に。年季奉公ではなく本人たちの自発的な申し出による養女、親戚などの形なら元のままの鑑札を認めるという<骨抜き>の法令で元の鞘に納まりました。 *これは芸妓を解放しても、困窮している田舎の暮らしが立ち行かないので、返って心中・自殺者を増やすことこそ人道に反するという植村参事の意見が罷り通ったという次第。 *更に芸妓たちが後年手に職が持てるよう教育を施す趣旨から、養蚕・製茶・染色・裁縫・算術などの教練場、つまり明治7年には「祇園女紅場」ができました。 *<参考文献:「更訂国史研究年表」黒板勝美編(岩波書店)、「鴨川」毎日新聞社編>
2026.04.28
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〇父の転勤で2年間居た佐賀市から大阪市住吉小学校に移り、4年生から苦手なローマ字を習いました。簡略字は別として、中国で使われる漢字は5万字以上、その1割を日本で通常使うなら5千字。小学校では2千字余りを教える程度ですが、2千字にもそれぞれ音があり、訓読みがあり、音の中にも漢音や呉音があるばかりでなく、日本風な使い方や読み方が夥しいので、大変難しく、その欠点を補う為に考えられたのが仮名ですが、漢字と組み合わせて読むとまるでクイズのようになります。 そこで新たに考えられたのがローマ字で、明治初頭か重用され、更に「ローマ字日本語運動」も繰り広げられました。世界共通の表現法ですから、日本語もローマ字表記で世界に知られることになりました。しかし、今ではローマ字は余り使われていませんね。
2026.04.27
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〇テレビ等で活躍しておられる天海祐希さんの凛々しい姿、光源氏の表紙の配役一覧。平成元年五月三十日、午後六時開演とのこと。私の知らない生徒ばかり。もう一つの情報は、同年6月下旬販売と銘打って、75周年記念、「宝塚歌劇舞台写真集」のカラフルな広告。定価千二百円、申込窓口は宝塚歌劇団出版課。このパンフレットの裏側には、宝塚歌劇<月組公演>デザインカード LagareCARDその他いろいろの広告が掲載されています。
2026.04.26
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〇丁度20年前は、親元であるこの家の屋根だけ残こし、改築寸前の時期でした。 ショルダー・バッグに大切な書類等を詰め込み、手提げ袋にもいろんなものを押し込み、自転車で西向日の自宅に戻りました。前日の句会の記録ノートまで西向日に移動させたので、ここ生家では句会の模様を書き込みできません。で、自宅では息子にも手伝って貰い、家内の大きな整理ダンスを床の間へ移動させ、除けた場所に生家からの荷物(衣装ケース5本、段ボール箱30個程度)を受け入れできるように模様替えしました。居間ですから、そこそこ余裕を作っておかないと、居間=倉庫では3~4カ月間、人間的な生活ができませんから・・・。それにしても、家内はの3倍以上働いてくれるので、感謝、感謝の連日でした。また工事中、ご迷惑をかけるので、並びの左右4軒、向かい側の4軒、裏手の3軒、11軒のお宅にご挨拶。
2026.04.25
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〇生協で購入した木製のベッドはダブルとシングルの中間ほどの幅があるので落ちませんが、若き日、9カ月ほど入院していた北野病院では、女の人でもベッドから落下した話がありました。であるのに、雀や小鳥たちは枝に止まってこっくり寝入っても落ちません。仮に落ちたとしても羽があるから安心です。その不思議さを話題の達人倶楽部編の『天下無双の大人の雑学』にて解明すると、鳥がもつ足指の腱の構造が独特だから。つまり鳥の腱は足の上部の筋肉とつながっていて、それを引っ張ると指が自動的に曲がる仕組みになっているから、枝に止まって寝るとき、鳥は足を曲げてうずくまるのですが、その姿勢なら自然に腱は引っ張られ、足指はしっかりと枝をつかんで離さないようにできているようです。
2026.04.24
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〇一度facebookの記事として出したようには思いますが、広島県三次工業高等学校の河本正治さんの手になる童謡唱歌集6冊。黄色地に若葉模様をこらし「一寸法師」と題した第1巻。緑地の「茶つみ」、うす青色の「浜千鳥」、紺地の「我は海の子」、赤地の「花かげ」等6冊。ほかに思い出の歌シリーズうす茶の「ああ草枕」、黄緑の「汽笛一声」。どれも大正・昭和ロマンの図柄に歌詞を綴った愛すべき本です。
2026.04.23
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〇天正十年五月廿四日 於愛宕山威徳院 ときは今あめが下しる五月哉 光秀 水上まさる庭の夏山 行祐 花落つる池の流れをせきとめて 紹巴 風に霞を吹き送るくれ 宥源 春も猶鐘のひびきや冴えぬらん 昌叱 かたしく袖は有明の霜 心前という具合に、あの歴史的な連歌会は続いていましたが、あめが→天が下なるという風に解釈されたのは、秀吉の時代に下ってからのことでした。ここに登場する紹巴は古今伝授を受けた歌人、茶人でした。或る学者は山上憶良が古今伝授を始めた歌人としていて、足利末期、戦国期になって来ると、三条西実隆、その子公条・実枝に至ると継嗣が幼かったので「返し伝授」を約束させた上で、細川藤孝(幽斎)に伝授しました。 その藤孝も丹後田辺城において敵軍(石田)に囲まれ劣勢になりましたが、弟子八条宮智仁親王の働きで、後陽成天皇の勅命によって古今伝授が保たれました。 (参考図書・筒井紘一著『茶の湯百人一首』)
2026.04.21
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〇発祥は南フランスのリヴィェラ或いはトルコなど諸説がありますが、要はどこかの酔狂な女性がオレンジジュースにウオッカを足したのが掲題のカクテル。わが国で流行って来たのは、朝鮮戦争時代。戦線で国連の将兵たちが痛飲していた影響を受けた由。カクテルの名称などに触れますと、純心を表すホワイトレディ、華麗という意味のコスモポリタン棘ある意味のマティーニお気に入りのバレンシァ振り向いて下さいのアプリコットフィズ恋する胸の痛みのカカオフィズ心の渇きを癒してを意味するモヒート無言の愛を示すマルガリータ―等々、ちょっと大人ムードですね。
2026.04.20
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〇暇な時間のつぶし方と言えば、いろいろあるのでしょうけれど、これら回文を貴方ご自身が、あれこれ考え、創作されることも、そのひとつですね。医者暮しはよくなる。泣くよ、わしらくやしい。色、白い。<こんな長い会話風の作品もあります>「言って!知りたいなア」「よそうよ・・・」「そう!私も、つい関係した度、男の子とおびただしい喧嘩、いつもしたわ・・・嘘よ、 嘘よ!ア!泣いたりして?」 「・・・つい・・・」<以上、驚きですね。短い作品もありますよ。>意外や意外。いたちの痴態。今、ここは日本だ。田圃には古古米。伊勢の母親離婚、こりゃオババの所為?いい!若い先生可愛い。遺体が眠る、胸が痛い。<こんなんもありますえ>愛しい娘(コ)、汝(ナ)は清き花、恋い慕い。 馬ジンクスにすくんじまう。魚座を追うカナダ天体観測にニクソンが居たんで、田中、右往左往。嘘つき松野氏、国会でイーカッコ。氏の妻、きつそう。 うどん噛む。無感動。 EKI E IKE (駅え行け) 「え、恋仲?」と問うも、もう届かない。起きて!ひろみ。見ろ!秀樹を。 遅いな”こだま”は。まだ来ないぞ。 踊って歓喜!夜の駅に消え、乗るよ銀河鉄道。随分ありますね。本日はここまで。
2026.04.19
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〇日本の童謡には、日本人の原風景が詠われており、現代人が失いつつあるものが幻のように見え隠れします。佐野靖著の『心に響く童謡・唱歌』は、これらを9つのジャンルに分け、紹介しています。第1節では子供の生活感覚や素朴な心情を表したものとして 春よ来い、背くらべ、アメフリ、しゃぼん玉、夕焼小焼、あの町この町、サッちゃん、お正月、うれしいひなまつり「雨降り」は現在もわが家に残る手巻き蓄音器を巻かずに速度を緩めたり、早くしたりして遊んだ思い出があって、ランダムに乱れる雰囲気を音痴さんのように真似て歌うのが得意です。第2節のファンタジー部類では 七つの子、月の沙漠、赤い靴、青い眼の人形、ペチカ、オウマ、かなりや 「月の沙漠」は、予備校時代の思い出があってて通学時に見初めた女の子を爾来密かに慕っていました。アラビアの衣裳を纏い、顔を隠した眼の大きな彼女の夢を未だに鮮明に覚えていて、ロマンティックなこの歌が大好き。「かなりや」は混声合唱で歌った曲。いずれの想い出も素敵です。
2026.04.18
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〇未だ果たせていない夢は、宝塚歌劇の脚本と主題歌等を作ること。テーマは決まっています。それは姉たちの少女文庫にあったジョルジュ・サンドの「愛の妖精」。歌とダンスと芝居をミックスさせたショーものは観客に息も出来ないほどの強烈なパワーを投げかけることが出来ます。ミ会場いっぱいに響き渡る生演奏、赤、紫、青、黄色、緑の照明の冴え、きらびやかな衣装をまとった出演者たちの全身から繰り出すダンス・・・。 裕福な農園の双子兄弟に、罵声をあげたり悪戯を繰り返す少女ファデットは、村人から「こおろぎ」だの「鬼火娘」だのと毛嫌いされていました。それが村祭りの中で、村一番の上手なダンスを披露。その夜しくしくしのび泣く少女ファデットとランドリーの夢の時間・・・。少女の神髄に触れたランドリーが勇気をもって彼女との愛を育て、双子の兄やファデットの弟と未来を見据えて頑張る物語。
2026.04.17
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〇鈴木棠三著『日本のなぞなぞ』は万葉から江戸時代までのなぞかけが掲載されています。 *これは中国の故事や古歌を知っていないと解けないようなものが多くて困りものですが、少し引用させて貰います。 *宸翰本のなぞなぞでは1)上は上にあり下は下にあり さて何という字なンでしょう? *上という字では横一の上にあって、下という字の場合には下にある → 卜 *2)嵐は山を去って軒のへんにあり *??嵐の山を去る ふむ 風という字になりますね。軒の偏とは車 → 風車 *3)竹生島(嶋)には山鳥もなし *竹生嶋の山鳥を省き、残った竹生を一つの字にすれば → 笙(楽器) *4)道風(トウフウ)が陸奥(ミチノク)紙に山という字を置く *小野道風はとうふうともみちかぜとも。道風の道を除けて、紙=上に山を置く → 嵐 *5)泉に水無うして竜帰る *泉から水を取って、竜(りう)の逆さ読みしたら? → 白瓜 *6)廿人(ニジュウニン)木に登る *草冠=廾+人 その下に木を → 茶これらはまるで とんち教室ですね♪
2026.04.16
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〇某年某日、日記を綴っていると、家内が大月さんが写っていると洋間から呼びかけました。人気番組「よ~いドン」の放映中で、なるほど、画面には元同僚の先輩、大月透さんが歌手円広志さんのインタビュウーを受られていました。 私が千本支店の頃一緒に働いて居られたのですが突然、健康上の都合から早期退職されました。実情は、奥様に相談もせず、命よりも大事な剪画に没頭したいが為のご退職だったことを、テレビ画面を通して初めて知りました。年賀状は勿論、剪画を頂戴していました。大月さんとお弟子さんの作品展には何度となく足を運びました。また古巣の銀行のロビーにも再々出品なさっています。日本剪画協会の副会長を務められ蛸ともあり、聞き手の円さんも樹木などの絵画がお好きなようで、話が盛り上がっていました。そして「よ~いドン」の人間国宝認定証を受賞されていました。
2026.04.15
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〇某日「チコちゃんに叱られる」で採り上げられた「さようなら」。さらばに直すと解り易い、さ(そのように)あらばの詰まったかたちがさらば。 対馬ではザットヤー・オイザトナー、壱岐ではオイザト、五島ではダッチョ、甑島ではダーチーというそうで、平戸では葬式の夜、或いは数日後に親戚近隣一同が金品を出し合って、仏前にご馳走を供え、遺族を慰める行事のことをイザトウと言うようです。平戸島近くの生月島では婚礼翌日の里帰りをイザトと言い、慰里、慰座祷、或いは湯茶湯などの当て字。寝聡(いざと)くあれ、ぐっすり眠ってしまってはダメよの意味合いらしいです。これら全て思い遣りの心遣いなのです。(参考図書・『日常語語源辞典』鈴木棠三著)
2026.04.14
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〇信長公の妹お市の方ほか、戦国時代の女性は政略結婚の道具として扱われ、悲劇のヒーローだったと従来思い込んでいましたが、永井路子さんと杉本苑子さんとの対談集では、お二人とも異なった見解を持って居られて、目から鱗が落ちたような気分です。女性はその家系(一族)を代表する外交官の役割を担当していた訳で、頭脳明晰な機微に敏い者でなければ務まらなかった、言わばエリートだったと言うことのようです。それが証拠に、その域に達しない姫は家臣などに与えるのが一般的なことだったようです。但し辞世は「さらぬだに打ちぬる程も夏の夜の夢路をさそふ郭公かな」何と冷静な心境を保ちながら亡くなられたとは、ご立派な方だったとしか言えませんね。 私事ながら私の「IMAGINATION Ⅱ」という曲の歌詞は、若干、修正する必要がありそうです。2番 戦国時代に 生まれてたら お市の方のように 幸薄き女 妹は哀れ 兄は鬼 平和の為の 生け贄 さくら花影 昨日の夢と 一に覚悟の 女を演じたかもね
2026.04.13
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〇今から21年前、母も鬼籍の人になりましたので、古びた桐箪笥を整理していました。そこから夥しい数の古手紙・ハガキが出て来ました。 昭和17年”東京市”牛込区の消印にて、早稲田大学在学中の叔父から本籍地である京都市高辻通の住所あてに、 同じく祖母からの葉書(昭和18年6月)、同じ住所へ叔父からの葉書(朝鮮の軍駐屯地から)、神戸市灘区の住所あてに母の二番目の弟からの葉書(昭和18年)、 昭和21年祖父から京大病院入院中の父あてに・・・葉書の切手代は、2銭、3銭、5銭と変化していました。それでも戦後は物価が急上昇していたのでしょう、昭和25年には2円に上っていました。 葉書の中身は、二番目の姉の命名のことや、私の弟が亡くなったことへの悔みの文言、勿論記憶にないことばかりでした。また母の父が大阪市の第三助役に抜擢された内容の大阪市政ニュース(昭和10年6月)のコピーや、この祖父の葬式の刷り物が残されていました。当時の助役の方々が葬儀委員をして下さり中馬市長や大島市長、佐藤義詮知事など、錚錚たる方々が焼香して下さる段取りが印刷されていました。このように、捨てきれないものが出てきますので、整理には慎重を期さざるを得ないのです。
2026.04.12
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『江戸の道楽』の筆者・棚橋正博氏は序の部分で江戸の歴史を簡潔に書かれ、三代将軍家光公が没した辺りから水利・交通、町づくり整い始め、江戸市民の生活にゆとりが出始めたと略記しています。各章の中から解りやすい小題を列挙すると、 大江戸キク事情、大名庭園、観梅と花見 釣り指南、釣りと女、隠居の道楽 伊能忠敬の五十からの出発、狂歌の時代 品川の凪に女の釣り小舟中には釣りとの名目で深川遊里へ行く旦那も・・・。
2026.04.11
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〇これは上前淳一郎さんの『読むクスリ37巻』から拝借しています。 ジェトロに勤めておられた豊田氏がチェコ外国投資庁に赴任早々の歓迎会の席で、 「あなたは、ビールを何メートル飲めますか?」と聞かれて仰天、量を長さで聞かれるなんて・・・。 これはきっと聞き間違え、ビールを何本?と聞かれていると思い、3本指を示されたそうな。 すると今度は相手がびっくり。「すごい!おぅい、ミスター・トヨダはビール3m飲むそうだよ」 あちらでは大ジョッキを3口で飲み干すのが流儀だそうで、その豪快なこと甚だしい。 またあちらでは、大ジョッキは底の直径が約10センチ。そこで空ジョッキが10個並ぶと1メートル飲んだという按配。今や中国、アメリカ、ブラジル、メキシコ、ロシア、ドイツ・・・。日本は11位?
2026.04.10
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〇現りそな(旧大和)銀行の千本支店(現在は元協和銀行)に配属されていた頃、輪番制だったと思われますが、支店の一泊旅行の幹事だったので、担当している観光会社に候補地を頼みました。奈良方面、新薬師寺、そして掲題の吉田寺など。実施前は、平均年齢それほどでもないのに、何故ぽっくり寺なんていう年寄りめいた観光コースなのと不評でしたが、いざ、吉田寺に入ると本堂には小座布団が碁盤の目の様に敷かれ、極小の木魚と叩き棒がそれぞれきちんと置かれていました。初めは誰もが巫山戯(ふざけ)ながら叩いていましたが、その内、一つの音になって来たのが不思議。その折を見て、住職が来られ、真打の落語家に勝るとも劣らない名調子でいろいろ語られた。要は、年寄りになれば、みんなから愛される「可愛いお年寄り」を目指して下さい。そうすれば、迷惑もかけずに「ぽっくり死ね」ますよという話でした。
2026.04.09
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〇もうかれこれ半世紀以上、庭の王女に君臨している老櫻。二度にわたる降雨にも耐え、辛うじてかなりの花びらをつけ、緑の新芽とコラボする色合いを見せています。 先日触れましたように4つ年上の姉が急逝しました。今年90歳になる義兄には、正しく晴天の霹靂と言える大事件。一昨日電話しましたが、何とか寂しさを凌いでいるようで、一安心。式典では姉に因んだグッズが展示されていましたが、絵入りの日記帳を暫くお借りすることができました。住吉中学2年4組の折、夏休みの宿題代わりに記した7月21日~8月末日の記録と挿絵。この絵が懐かしい昭和の時代に戻して呉れるようで、取り敢えずコピーしました。
2026.04.08
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〇学生時代、男声合唱クラブとして当時米国の統制下にあった沖縄へ演奏旅行した折、事前に覚えた言葉は、「わんね~ うんじゅ いっぺい しちゅん」(わたしはあなたをすごく愛しています)。これなんざぁ~もう日本語の域をはみ出しているように思いました。 杉本つとむ著『方言風土記』(雄山閣)を北から順に読んでいくと通常なら怒ってしまうような言葉が、実は褒め言葉だったりしていて興味が尽きません。父の転勤で佐賀県に2年居ましたが、関西に戻るとき中学1年の姉が親友と佐賀弁を使った劇をドーナツ版に録音しました。 あんたどこさ行きよばんた。玉屋さエレベーター見にいきよばんた。あらほんにや・・・・く~えすかぁ(=凄く怖いなど)。お陰で今でも佐賀弁は忘れんばってん。この姉は先日深夜、急逝しました。大阪へ戻った住吉中学2年4組当時の夏休みの宿題「日記」ひと月分、軽いタッチの絵が描かれて居て、才能のあった人だと思い返しました。
2026.04.07
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〇初めてタコを喰ったのは、海で遭難し海岸へ漂流した人で、空腹のあまりグロテスクなタコを掴んで口に入れたのです。それを見て驚いたのは土地の人々で、「一体あれは何や?」「あれは土地の人間とは違う、他国の人や」「たこくの人」「たこ喰う人」、段々それが訛って「タコ」になっていったそうな。その内、親しみのある存在として扱われ、「タコには足が8本あると言うけど、あれは嘘で、正確には足は6本、手が2本なんや」「本当かぁ?」「本当やとも、6本の足で泳いだり、歩いたりし、2本の手で魚や獲物を掴んで食べよんねん」「ほんなら、どれが手?どれが足?どう見分けんねん」「何でもあれへん。タコの油断を見すまして、あの頭をポンと一つ殴んねん。タコはびっくりして”あっ痛っ!”言うて慌てて両手で頭を押さえよる。それが2本の手や、すぐ分る。」嘘か本当か、面白い話でっしゃろ?(参考図書:秋田実編「ユーモア辞典」)
2026.04.06
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〇「日本の老舗」第339号にある鈴木康久氏の「京都の滝めぐり」を参考に綴ってみます。京都の滝は?と聞かれて、つい、清水寺の「音羽の滝」と答えてしまいそうですが、鈴木産大教授は先ず3枚の古い絵葉書から京の滝を紹介しておられます。鴨川源流、弘法大師再興の志明院の「飛龍の滝」(大正7~昭和8年)、更に古い明治40~昭和6年に発行された月ヶ瀬梅ケ谷の「不動之滝」それに 宮津市滝馬「金引の滝」(大正7~昭和8年)は子供も伸び伸びと楽しそう。他に大原来迎院奥の「音無滝」、清滝の「空也の滝」を補足され、100年前の江戸期なら「都名水視競相撲」番付から西岩倉三段の滝、笠置千手ケ滝、若王寺那智ノ滝、山科牛尾ノ滝、鷲峯山頭光ノ滝、同都卒ノ滝、貴船龍王ケ滝、洛北音無ノ滝、嵯峨戸難瀬ノ滝、鷹峯菩提ノ滝、月ノ輪高野ノ滝、同晩ノ滝など。最後に、南丹市美山町の「洞の滝」を挙げられ、もっと他にある筈と滝探訪を奨められています。
2026.04.05
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〇井沢元彦著『逆説の日本史』別巻3の「ニッポン三大紀行」の観光・旧跡編には日本三大古湯として有馬・道後・白浜の各温泉を挙げておられます。 有馬温泉と言えば、私の場合、小林一三→宝塚歌劇という具合に思考が進みます。勿論太閤秀吉の愛した温泉、鉄分豊富な赤錆いろの湯や炭酸煎餅、毛筆の名産地でも知られていますね。 次に道後温泉と言えば、漱石の坊ちゃん→正岡子規→俳句のメッカと進み、テレビでお馴染みの夏井いつき氏の活躍される場でもありますね。 最期に白浜温泉と言えば、夏休み→家族旅行→白浜海岸及び会社の保養所。外回りだった頃はお盆直前の週から、盆に当たる週を選んで外交担当者全員が休暇を取りました。一児の母となっている長女は浅い岩礁辺りでナマコを数匹獲っていました。自分の顔が海面に写っている先を通して、小魚や小海老などの生き物を狙っていました。
2026.04.04
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〇小学館の「西洋絵画の巨匠」シリーズの第2巻「モネ」には大山崎ふるさとガイドのメンバーとしては当然知っておかなければならないモネの情報が満載されています。 大山崎町には選挙の都度持ち出される「天下分け目の天王山を初め、千利久に因む国宝の待庵、重要文化財の多い宝積寺、秘仏の山崎聖天など。このほか、風光明媚で人気のあるアサヒビール大山崎山荘美術館は加賀正太郎の手に成る瀟洒な英国調の建物と河井寛次郎を筆頭に民芸作家たちの陶器類、 そして安藤忠男が建てた「地中の宝石箱」と言う名の美術館には、このモネを中心に印象派作家の作品が展示されています。僅か580円の本ながら印象派というネーミングになったモネの作品「印象 日の出」を初め、愛妻カミーユをモデルにした作品や一連の睡蓮の画も多々あります。 陽だまりの中、裏地が緑の洋傘を持ったロングドレスのカミーユ像、あまり見たことのない少年時代の鉛筆戯画や浮世絵に心酔した彼の作品などが挙げられています。
2026.04.03
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〇京生まれの青もん(野菜)は、聖護院だいこん、中堂寺だいこん(くきだいこん)、九条ねぎ、壬生菜、すぐき菜、伏見とうがらし、聖護院きゅうり、山科なす、加茂なす、そして堀川ごぼう。 秀吉公の死後、聚楽第も次第にさびれて、お堀へは近所の人が、芥(ごもく)をほかすようになりました。ところが或る日、気がつくと、そこに、ごんぼ(牛蒡)が生えて居たんやそうな。太うて、真ん中がほんがら(空洞)のごんぼ。地名を冠して堀川ごぼう、またの名を聚楽ごぼうともいうそうな。 堀川ごぼうは、炊いて食べます。ごんぼの合いもんは、かしわ(鶏肉)。真ん中の空洞へ、かしわを詰め込んで、長いまま煮ふくめます。輪切りにすれば見栄えもええ。 (注・ここまでは大村しげさんの文章をアレンジ) 牛蒡は縄文時代から平安期にかけて日本に伝わったようで、食用になったのは江戸時代から明治にかけての頃。きんぴらや掻き揚げや煮物が主流。ポリフェノールを多く含んでいるので健康食材としても重宝されています。 根っ子部分を野菜として食べるのは日本と朝鮮半島だけのようです。牛蒡を煮炊きした茶色の液は防臭剤として効き目があります。母が亡くなる数年前、野良猫のフンの匂い消しにこの液を使いました。
2026.04.02
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〇一冊のカタログがあって、「ベルエポックの巴里展」と題して19世紀末のフランスにおけるポスター作品を集めたもので、1982年京都は高島屋の6階ホールにて、読売新聞大阪発刊30周年を記念した催し物で、カタログ製作者は株式会社アート・ライフでした。父が残した京都新聞の切り抜きでは、<パリに集まっていた芸術家たちが、産業や興業界の要請に呼応してC・M分野に独自の美を築いたものだ。・・・いかにも爛熟した甘美の情緒と装飾性を備え、ベル・エポック(最も良き時代)の雰囲気を今に伝える。ミューシャ、グラッセ、ティリらアール・ヌーボーの画家、ポスターの父とされるシェレ、ロートレック、ドニー、ボナールらナビ派の画家、ウイレットらモンマルトルに生きた画家らの作品約90点である。> 日本にも竹久夢二を初めポスターなどに秀逸な作品を残した作家が多く居て、某年、テレビの「お宝鑑定団」では、大正ロマン漂う麦酒のポスターやその他の作品が一点當り数万円の値がついていました。
2026.04.01
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〇昭和24年か5年ごろ、妹の誕生前後だったと思われますが、桂小学校の4年生ぐらいだった長姉が「すずらん姫」の主役になりました。物資の乏しい中、母が幾夜か夜なべしてバレエの衣装を拵えました。薄手のギャザーの白地に緑色の縁取りを施した幾つかの「鈴蘭」紋様。母の子への愛が伝わる作品で、今もその柄を鮮明に覚えています。当時の主婦にとってお裁縫は必須科目。子供の洋服やブラウスなどは自分で作る時代でした。 現在は昭和に直せばすでに百余年。庭の片隅で咲いている「スノードロップ」の花を見て居て、大昔の思い出が蘇ったのでした。この衣装を着た長姉は、去る26,7日の深夜、突然!浴槽にて逝去しました。宝塚歌劇を愛し、歌・演技力に秀でていた姉よ、安らかに永眠なさいませ♪(付記)姉の葬儀では、目の不自由な(聞き覚え)姉が所属していた合唱団・コン・アモーレの皆様が、さくらさくら等の数曲を姉の遺影に向かってご披露していただきました。棺に花を入れるお別れの時間、小さく演奏されたピアノ伴奏、「すみれの花」や宝塚の幾つかの主題歌に、私のファルセットを添えましたら、合唱団の皆様から、ひとこえ、三声、耳元に囁いてくださいました。
2026.03.31
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〇昭和24年か5年ごろ、妹の誕生前後だったと思われますが、桂小学校の4年生ぐらいだった長姉が「すずらん姫」の主役になりました。物資の乏しい中、母が幾夜か夜なべしてバレエの衣装を拵えました。薄手のギャザーの白地に緑色の縁取りを施した幾つかの「鈴蘭」紋様。母の子への愛が伝わる作品で、今もその柄を鮮明に覚えています。当時の主婦にとってお裁縫は必須科目。子供の洋服やブラウスなどは自分で作る時代でした。 現在は昭和に直せばすでに百余年。庭の片隅で咲いている「スノードロップ」の花を見て居て、大昔の思い出が蘇ったのでした。この衣装を着た長姉は、去る26,7日の深夜、突然!浴槽にて逝去しました。宝塚歌劇を愛し、歌・演技力に秀でていた姉よ、安らかに永眠なさいませ♪(付記)姉の葬儀では、目の不自由な(聞き覚え)姉が所属していた合唱団・コン・アモーレの皆様が、さくらさくら等の数曲を姉の遺影に向かってご披露していただきました。棺に花を入れるお別れの時間、小さく演奏されたピアノ伴奏、「すみれの花」や宝塚の幾つかの主題歌に、私のファルセットを添えましたら、合唱団の皆様から、ひとこえ、三声、耳元に囁いてくださいました。
2026.03.31
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〇この世に生を受けてから自分自身が得たものの中での宝ものと言えば、もちろん家族と健康でしょう。次は青春時代の想い出。それがグリークラブという男声合唱の世界。百人近いメンバーが心を一つにして生み出したハーモニィと休符の余韻。手垢でぼろぼろになり、赤鉛筆やカラーペンで書き込まれた楽譜。年数回発行した機関紙。演奏会のチケット、チラシやプログラム。カメラに収めた古い景色。学生時代に愛用した参考書や辞書。大学時代の学生証、学園祭に出した短編小説入賞の新聞。幼い子供たちが微笑んでいる八ミリ映画。小首をかしげたあどけない顔・・・こう言う写真等も宝物に違いありません。企業戦士で働いていた当時の職場写真以外には中年期の宝物がぐんと減ってしまいます。最近は至近な想い出がどんどん記憶の彼方へと薄れていくばかりですから、夫婦単位の想い出作りや、趣味の俳句作品や、ボランティア・ガイドの想い出などを・・・。やはり意識をもって行動しないと、想い出という宝ものを具体的に残すことが難しそうです。
2026.03.30
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〇16年前の4月には七尾方面に家内と旅していました。旅館に荷物を預け、華の香号というミニ遊覧バスにて七尾市の観光スポットを巡りました。能登では嫁入りの時に一度だけ使う豪華な暖簾・花のれんを披露、それを潜って嫁入りの第一歩となる慣習が今も続いているようです。加賀百万石の祖、前田利家の手による両親の墓所が長齢寺に残っています。ご住職さんは不在で奥様の適切なガイドを頂戴しました。夫人は大阪は石切のご出身で、彼女も18年前、花のれんを潜られたそうな。最初は何度も帰阪して居られたものの、平成14年の大河ドラマ「利家とまつ」の放映から急遽、大人気スポットとなり観光客の波が押し寄せるようになったので帰阪は無理だとか。寒い日でしたが、奥様心づかいの熱い茶一服が何よりものご馳走でした。また七尾市の一本杉通商店街の皆さんは労を惜しむことなく、丁寧に応対して下さいました。
2026.03.29
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〇子供の頃、濃い目に書きたいような気がして鉛筆を舐めて書いた記憶がありますが、その一方で鉛を含んでいるんだから身体に毒という恐怖観念が無きにしも非ずでした。しかし親や兄弟から聞いたその知識は誤まりで、英語のleat pencilやドイツ語のbleist(鉛)+stift(ピン、釘)の訳意に因ります。 鉛筆の芯は黒鉛(炭)と粘土を混ぜ合わせ、糊で固めたもので人体には無害。一方、色鉛筆は顔料や染料、タルク等と蝋等と混ぜ合わせたものだから普通の鉛筆よりも柔らかくて折れ易い。そこで折れにくいように、厚みが均一になるよう丸い形に工夫されています。 桂枝雀さんの落語「貧乏神」では、怠け者の大工にくっついた貧乏神が、一向に働こうとしない彼に業を煮やし楊枝づくりの内職を始めたところ、上下両方とも削ってしまい、即刻首になっったと言って笑いを誘います。しかし両面を尖らせば一本分多くなる訳で一理あります。我が家には二十四色の色鉛筆や、水に浸せば水彩絵の具のように描けるものもありますが、画才がないので、宝の持ち腐れになっています。草萌えの土手や疎水べりの柳、それに桜などの風景を描けば春の謳歌になるのですが・・・。
2026.03.28
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〇某月某日、地元のスナックに飲みに行ったとき、後から来店されたお客さんが、点数附きのカラオケが大好きな男(ヒト)で、ママの話に拠れば、これまで何度か全国1位をとっている御仁なのだそうだ。歌というものは聴衆の耳に、心に届いてこそと思っている私には、機械が判断するカラオケの点数方式、順位方式は根っから好みませんが、お遊びとして全国1位に命を賭けておられるこの御仁に、つい同調しました。彼は1曲目が5位、私の1曲目の美川憲一「大阪の夜」は4位。ママの実姉(御歳73、4?)も来られていて、これは40位。但しその曲を歌っている人数も多いのでした。さて2曲目は高得点の出そうな平坦な曲を選んでみました。フランク永井の「こいさんのラブコール」。歌っている画面には、曲想やボリュームやリズム、音程などの項目ごとに、棒グラフが上ったり下がったり、高得点の場合はカラフルなグラフの柱が頂点に行きっ放し。それで、わたしの結果はどうだったのでしょう?各項目ごとの分析による五角形が割と大きな面積を保って居て、その日、全国で1500人ほどのチャレンジの中で第1位という表示が出ました。これまで、付き合いの上での点数争い、順位カラオケは2回ほど経験しるものの、そのいずれもが不発でしたが、この日ばかりは晴の第1位と言うことで、恥ずかしくも、少し嬉しくもありました。
2026.03.27
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〇新幹線のスピード性について述べるなら、ビジネスの一環として有用な速さという便利さは否めませんが、旅の手段として乗物を思うとき、昔ながらののんびりした列車への愛着は次なる旅への誘い水になっていますね。そして旅と言えば、駅弁。子供の頃、列車の窓越しに買った茶器は素焼きの容器で小さな茶呑み碗がついていました。給食のパンの容れ物に似たものを首から吊り提げ、自慢の弁当を売り込むおっちゃんの目の優しかったこと。 父から教えられた作法に、<折り弁当は先ず蓋にくっついた米粒から1粒づつ箸でつまんで賞味し、漸くおかずに箸を進めるべし>があって、私は勿論なのですが、その作法は長女に及び、自然態で溶け込んでいることが血筋なんだなと感心する次第です。いつぞや岡山の女性合唱団とジョイントした折、何度と無く中間地点で合同練習をしましたが、懸賞好き・スタンプラリー好きの家内の依頼で、岡山、姫路、神戸、新大阪などの駅弁を買ったことがありました。父の代から残る駅弁の陶器の容器にも郷愁が漂っているのです。
2026.03.26
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〇カラスはもともと人とつかず離れずのに生きてきた頭の良い動物で、ライオン等の猛獣のお零れを狙うハイエナ的生存法を選択しています。本来密林のカラスと呼ばれるハシブトカラスでさえ、近頃は山奥よりも人里や町中を根城にしているようです。似たような生き方をする動物には雀、ドブネズミや土鳩も居ますが、何と言っても、ずる賢いカラスは大きな大脳を持ち、エサへのこだわりもなく、何処にでも巣作りができること、そして旺盛な繁殖力を供えています。 杉田昭栄著の『カラス』を参考にすれば、落穂拾いをするカラスは、ほかにヒコバエ(稲を刈った後に出る稲)は美食として好み、畜舎の周りもご馳走でいっぱいとあって、牛の背に止まるカラスは牛の毛を抜き、巣の一部に利用しているようです。日本には5種類のカラス(ハシボソ、ハシブト、ミヤマ、ワタリ、コクマル)がいて、カラス科には、カケス属、オナガ属、カササギ属、ホシガラス属が仲間として存在するとか。犬より脳が立派なカラスは自分たちに不利益を負わせた人そのものは勿論、その人の所有する乗用車も覚えていて糞落とし等の仕返しをするとも言われています。
2026.03.25
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〇毎日のように編集に追われていますが、いくら記事を集めて本に仕立てても、翌月号に訂正事項としてあげるのは最も辛いことで、それ故、校正作業は軽視できません。 毎日新聞校閲グループ編の『校閲記者の目』はあらゆるミスを見逃さないプロの技術をまとめていて、興味を覚えたのは、校閲グループの前に貼り付けてある訓。 校正可畏。 焉知硃筆之不如墨也。 四回五回而無訂焉。 斯亦不足恃也已校正はおそろしいものである。赤字が原稿に及ばないといったい誰がいえようか。4回5回(の再校)にして誤りを正すことが無いのであれば、依頼するに値しない。同社前身東京日日新聞初代社長の福地源一郎の言葉で、論語の一節「後生(後進の者)は恐るべき存在だ。今の我我ほどになれないなどと誰が言えるだろう・・・」を校正に直した訓。 俳句数千句の校正5名、本文欄1~3名の私達の肝に命じる訓でもあります。
2026.03.24
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〇朝日新聞の日曜版に、各紋様の紹介コーナーがあって、その隣のページに、「木々の百花撰」というシリーズも併載されていて、文・高橋治、写真・富成忠夫、題字・坂野雄一というお顔ぶれ。高橋さんの文章との相性が良いので、今後ときどき、転載します。 うらうらと山茱萸の咲く枯木中 中村嵐石冬の去りきらぬ山を黄に彩るから、牧野富太郎が、春黄金花と名づけたという。 源平時代悲恋の民謡ひえつき節の”庭のさんしゅゆ”は薬味のさんしょうで、現在も九州で誤用されると一書にある。 <戦前わが家(高橋氏)にこの歌を持ちこんだのが佐賀出身の豪傑東大生、私(高橋氏)の家庭教師だった。 歌い、かつ九州の春を語ったが、聞いてほしいお目当ては私の姉らしかった。(中略) 山茱萸に明るき言葉こぼし合ふ 鍵和田秞子 山茱萸の黄や町古く人親し 大野林火実が美しいことを知って読むと次句意味深い。 山茱萸の黄にかがやきて身籠れる 芳沢かつ子>此処までが高橋さんの文章(一部割愛)です。 今から十年前、大山崎ふるさとガイドの会有志で、奈良は百毫寺などの閻魔堂を訪ねがてら、奈良の閑静な住宅街を歩き回ったことがありました。 その折見た山茱萸の綺麗さ。数年前、大阪は住吉公園で見かけたのも山茱萸だったような・・。秋に成る実は棗の形をしたオレンジ色。 山茱萸の貴公子然としてをりぬ 星子
2026.03.23
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〇鷹匠同心といえば譜代席ながら禄はわずか30俵二人扶持、片山勇八は雑司ケ谷の組屋敷に住んでいました。 *<27日、みえ(妻)が留守に候とて、東隣寺田より茶を煮てくれ、西隣久保田より茶と芋の煮つけ呉れ候。28日、今日も西隣より飯くれ候。東隣は菜と蕗の煮たのをくれ候>とあり、里帰りでもした妻不在の同士を両隣からまめまめしくご飯や煮物、茶などを振舞って貰っています。現代の付合い、助け合いに比べたら、慎ましくも幸せな人情が感じられます。同様に彼の歳末餅つきも26日の日記に、隣組協同で行った様子が書かれていて、<今日も餅搗を例の通り田家にて一所に致し候。辰(午前8時)より始めて正未(午後2時)に終る。>ついでに新生児宮参りの赤飯やあんころ餅を作って方々へ配った様子なども。 また箪笥町の植木屋・平兵衛が来て、家の前で屋台店を開業、その看板を書いて欲しいと障子2枚、横障子1枚持参で頼んだようで、<するめ、つけやき、さとう入りきん時ささげ也、ゆで玉子、丸あげ、さつま芋のつけあげ也>と2枚したため、横障子へは芋と玉子を車に積み、5、6人にて引き候所を席画の図面にしたため、遣し候。やきいも1袋みやげにくれ候」とあります。 また旧暦の2月12日。勇八は同僚家の娘たちと共に摘み草にも行っていて、<・・その後娘達にそそのかされ摘草に出候。>おつげ、おとき、おてい、おとめらの名前があって、なんばん飯にうどの汁、なとりの平などにて振舞を受けています。(参考図書:稲垣史生著)「時代考証事典」)
2026.03.22
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〇1冊目は101曲の主題歌集で昭和44年発行。1ページには静間潮太郎氏の男役・左右の女役のシンプルな絵。幸せを売る妖精、虹のオルゴール工場の2曲、東京の空の下、夜霧のモンマルトル、波間に何か漂う、花の中の子供たち、すてきなあの娘、筏流し。 2冊目は昭和47年発行。那智わたる・八汐路まりらしき男女の絵。我が愛は山の彼方に、今もお前が、君ありてこそ、朱いけしの花、さよなら皆様。3冊目は昭和52年版。p1には安奈淳・榛名由梨・汀夏子・鳳蘭4人の写真。愛あればこそ、タヒチの歌、この恋は雲の涯まで、すみれの花咲く頃、幸福を売る人、落葉散る丘の小径。昭和59年発行の4冊目の巻頭には、高汐巴、大地真央、麻実れい、峰さを里の写真。他の号と重複する曲を除けば、知らない曲ばかり。それもその筈、この時代は一度も観劇していませんでした。すみれの花とタヒチの曲は加茂さくらさんがよく歌って下さった。カラオケにある曲でわが十八番は「この恋は雲の涯まで」「愛あればこそ」。好きな曲は「今もお前が」です。
2026.03.21
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〇わたしらの大先輩、小まめ姐さんや米一姐さんが活躍しておいやした時代は、祇園には700人もの舞妓・芸妓はんがおいやしたさかい、お座敷へ呼んで貰うんにも、えらい競争やったそうで、10名程しか居やはらへん今の舞妓はんは、或る意味では、お座敷もようかかって楽なんと違うやろか?ああ、紹介が遅れまして堪忍どすえぇ~、わたし祇園の芸妓やらしてもうてます、星奴と申します、よろしゅうご贔屓にしとうくれやす。 あんなぁへぇ~、わたしら祇園で生きてゆくもんにとって一番大切な心がけは、お母さんから耳に胼胝ができるほど、聞かされたことどすけど、挨拶や思てます。或る有名な東京のお客さん、その人は東京でいろんな花街で遊んで来とおいやすお人どすけど、やっぱり祇園は違うなぁと言うてくれはるんどすえ。しんそこ、心が癒される場所や言うて目細めはるんどす。そやさかい、わたしら道で逢うた人には、分け隔てなくお辞儀したり、挨拶してますのや。祇園界隈に足を踏み入れた途端、何や気ぃが落ち着くて言うて貰えるん、嬉しおすえぇ~。祇園で生まれた長女は、一家の面倒を一人で引き受ける格好になりますんで、そらぁ辛おすけど、そこを明るく楽しくお座敷勤めるのが芸妓のプライドどす。 数人で来ておくれやしたら、花代そんなに高こうおへんさかい、是非来とうくれやす。一緒に遊びまひょ!
2026.03.20
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〇京都新聞社編『東山三十六峰ー京都案内記』(河出書房)は約60年も前に発刊され、既に絶版となっている為、詳しくは述べられませんが、詩人、随筆家の串田孫一氏の文章を参考にしますと、第1峰 比叡山第2峰 御蔭山(別称・高野山など)第3峰 赤山第4峰 修学院山(離宮の山)第5峰 葉山第6峰 一乗寺山第7峰 茶山(情延山)第8峰 瓜生山(城山など)第9峰 北白川山(勝軍山)第10峰 月待山第8峰 瓜生山(城山など)第9峰 北白川山(勝軍山)第10峰 月待山第11峰 如意が岳第12峰 吉田山第13峰 紫雲山第14峰 善気山第15峰 椿ケ峰(不動山・宮山)第16峰 若王子山 法然院あたり第17峰 南禅寺山第18峰 大日山 蹴上辺り第19峰 神明山第20峰 粟田山 青蓮院があります第21峰 華頂山 知恩院があります第22峰 円山 祇園・八坂神社の東第23峰 長楽寺山(将軍塚)第24峰 双林山第25峰 東大谷山(東漸寺山)第26峰 高台寺山 寧々さん縁りの地第27峰 霊山(霊鷲山)第28峰 鳥辺山 昔の墓所第29峰 清水山(音羽山)第30峰 清閑寺山第31峰 阿弥陀ケ峰 太閤秀吉眠る山第32峰 今熊野山第33峰 泉山(月輪山・泉涌山)第34峰 恵日山第35峰 光明峰第36峰 稲荷山以上ですが、「京鹿子娘道成寺」の長唄にも山づくしとして第九段の鞨鼓の踊りの歌詞に出てきます。
2026.03.19
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〇宝物とは行かなくとも大切に残しておきたいものが多々あります。父の親友だった新関一杜(淑郎)氏の書簡集もその一つ。 それは「みちのくだより」と称し120号まで及び、彼が東北に単身赴任して居られた数年間の、亡父との往復書簡で、季節折々の植物などがデフォルメされた逸品なのです。図柄は、笹巻き、山菜の王しほで、さくらんぼ、早咲きのリンドウ、杜若、蔵王スケッチ、蕎麦の花、ねこじゃらし、囲炉裏端、なすび等等。 父は菓子道楽、うまいもん道楽していましたが、一杜氏もしかりで、手紙の中にはうまいもんの紹介や感想も書かれています。 俳句を介して同じ勤めの同僚が、恰も恋人に文遣るごとき頻度で、その友情の深さには余人の入る隙すら無いほどです。 亡くなる前の、病床にある父が彼に送った最後の手紙は、「ちょっと旅してきます。どうか、このまま放念下さい」という内容の葉書であったことを葬儀の席で披露して戴き、どっと涙が溢れたことを思い出しました。 奥様のY子さまも気品があって、物静かで俳句を嗜まれ、絵筆もお達者でした。某年、十数年、寡婦だった奥様の逝去による年賀辞退の葉書をご長女から貰いました。
2026.03.18
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〇私の誕生日は去る11日ですが、ひと昔前、懸賞マニア?の家内のお陰で、誕生祝いは、琵琶湖ミシガン号の乗船ペアーご招待。 甲板で餌をやる人に寄ってくるユリカモメの群れを三階の甲板から見下ろしていました。緑色の湖面と白カモメとのコントラストを眩しく感じました。 やや霞がかった天候でしたが、日本一広い湖上には幾艘ものヨットが思い思いの場所で春の光を反射しながら斜交いに進んでいました。続いて京阪坂本線に乗って坂本駅まで。 坂本近辺は、穴太衆という石組みの名匠たちの里があります。至るところで豊かな水音を聴きながら散策したついでに旧竹林院のお庭を見せて貰いました。名刹の誉れ高いお庭からは、山盛り茶碗のような八王子山が樹間に見えました。澱みのない池には緋メダカや川蟹がいました。 *穴太衆の見事な石組みをいくつも見ながら2駅歩き再び電車にて浜大津まで戻り、琵琶湖ホテルのレストランにて暮れ行く琵琶湖を見ながら和食を戴き、わが誕生日は夫婦二人で過していました。
2026.03.17
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〇勝木俊雄著『日本の桜』(学研)に拠れば、花による検索では散形状花序→大島桜、山桜、霞桜、高嶺桜、豆桜など、散房状花序→大山桜、寒緋桜、江戸彼岸、総状花序→深山桜など。葉の形状による検索もあって、微妙な違いがあります。 瀬戸内寂聴さんは、佐野藤右衛門さんとは互いに嵯峨野に住んでいながら、滅多に逢う事がないものの、偶に会うと、昨日会ってまた会ったような自然さで「よう」「よう」という調子となり、忽ち話が核心に入っていくから不思議と評されていました。 桜と言えば藤右衛門、その藤右衛門さんは派手な染井吉野が大嫌いで、一番いいのは山桜との由。山桜の品の好さと、素朴な美しさは、桜の女王とまで宣う。これを目にして、最近、電車や街騒で見かける若い女性は、化粧法や美という認識の在り方が欧米風。某日のフェイスブックでの拙作「輝く貴女に」に添えた数枚の乙女の写真と今とを比べたら一目瞭然。私の初恋の人は、電車のなかでも目立たないところが却って目立った女性でした。
2026.03.16
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〇毎日のようにバーや小料理屋に飲みに行く或る酒豪に言わせれば、その引き際は粋人たる者にとって極めて大切なことなんだそうです。 あまりも素っ気ないのは以降、軽んじられるし、「では・・・」や「つけといて」では他の客の手前、メンツが下がります。下手な引き際だと、店から「何やポッピンのケツかいな」と揶揄されさそう。 ぽっぴんはフラスコの首を長く伸ばした形の薄ガラス製のおもちゃで、大阪ではポッペンとも言っています。江戸時代は正月に、これを吹いて楽しんで居たようで、喜多川歌麿の浮世絵「ビードロを吹く女」、切手で見たことがあるでしょう? 管には長短があって、1メートルに近いものもあるようです。管の先端から息を吹き込んだり、吸ったりすると、円錐形の底部分の薄いガラスが「ぽっぴん、ポッピン」と鳴ります。「ぽっぴんの尻」とは、薄い底の構造から、懐が薄いという洒落。また、軽薄な人や尻軽な人にも「ぽっぴんの尻」とも言ったそうな。
2026.03.15
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〇篠崎晃一監修、佐々木正考著『アレ何?大事典』という本から2つほど抜き出しました。< >部分は殆ど本の文章のまま。* *部分が私の文です。<傘を閉じたときに留めるベルトの名は?> <傘を閉じる時に、ギュッとまとめて締めるのが役目。フックで引っかけるものだったり、ボタンでパチリと留めるものだったり、バリエーションも様々だ。単にベルトと呼んでしまいそうだが、通称ネームベルトという。>*そう、本来はあの部分に持ち主自身が名前を書き入れる(縫込みやマジックペン書き)ためのものでした。* <鼻と口の間に溝があるじゃない?>*<鼻と口の間にある溝は人中(じんちゅう・にんちゅうとも)。*<「鼻の下を伸ばす」といえばココを伸ばすことになる。この人中を人相学的に見ると、稼ぐ行為を表す鼻と財布を象徴する口をつなぐパイプ役。つまり金運にはすごく重要なパーツで、深く長い方が吉>*なんだとか。*
2026.03.14
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