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「片隅で点し続けた灯~小林寿一師の生涯から」イザヤ書42章1~7 太平洋戦争開戦の翌年1942年6月26日の早朝、ホーリネス系の教会、牧師への全国一斉検挙があり。その後の拘束を含め59名の牧師が捕まる。罪名は「国体に反する教説」(再臨への信仰)と「天皇への不敬」(天皇も人間であり罪人か)。 過去、日本政府は、隣国朝鮮半島の人びとに大きな苦しみを与えて来た。傲慢にも日本の国に併合し、日本語、日本の名前を強制、神社参拝の強制。それを断ったキリスト教徒や牧師を投獄し、拷問し、死に至らしめた。 隣の国の人びとをそのように扱った政府は、また本国のキリスト教にも迫害の手を伸ばした。 私の前任の地、三島西キリスト教会の当時の牧師・小林寿一師も、6月26日の早朝、捕えられ、腰縄をつけられ、編み笠をかぶらせられ三島警察署の留置所まで歩かされた。 静岡刑務所に送られ、1943年8月20日の仮釈放までとどめ置かれた。戦争に負けて終わると「免訴」。牧師が帰ってくると、教会の土地・建物は売却され、住むところも無かった。 捕らえれたホーリネス教会の牧師たちの中に、小出朋治師のように獄中死なさったかたもあり。しかしその苦難により信仰を無くした牧師は無かったという。信徒たちもまた、敵国宗教の信者と言われながらも、堪え忍び、弾圧を免れた周りの教会の礼拝に出席しながら、牧師が帰ってくるのを待ちわびていた。 三島の教会の信徒の中に、製紙会社の社長夫人がおられ、住まいを失った牧師とその家族のために、会社の住み込みの守衛の職を世話した。そこで守衛を続けながら約10年の間は、信徒の家を回りながら、家庭集会を続け、教会復興に備えていた。時が満ちて退職した牧師は、その退職金で教会を建てるために30坪の土地を買う。 牧師と僅かな人数の信徒、応援者とで復興した小さな教会、マッチ箱のような教会とか、牛小屋に似ているとか言われていた。 苦難を共にした牧師夫人が天に帰られると、牧師は若い夫人伝道師を補助者としてホーリネスの群に求め、そこに遣わされたのが寺田紀和子。2年後結婚して山口紀和子と改姓。二人はまだ20代。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。」イザヤ書42章1節 反キリスト教の時代の大嵐の中にも信仰を守り通す力は、神様の僕とされていること。神様に支えられていること。神に選ばれていること。小さな者であっても神様に喜び迎えられている確信。神様が選ばれ、神様が支えられて私たちを礼拝者とされているなら、神様の証でもある。「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、 裁きを導き出して、確かなものとする。」同、2~3節 小林牧師は説教の時は堂々とお話なさるが、講壇から降りると口数が少なく、謙虚であり、目立たない人。 戦時中捕らえられた時、牧師に関する悪い評判を集めに、特高警察が、近所を訪ね回ったという。しかし「牧師を悪く言う人は一人もいなかった」と刑事が小林先生に話したという。 三島の地での42年間の現役牧師としての生涯を全うなさった師のその歩みは、真の牧者キリスト様に従う小さな牧者の姿であったと証言できる。 小林先生が天にお帰りになる前の日にたまたま入院先の病院をお訪ねした。まだ若かった伝道者夫婦に言われた言葉。「しっかりやりなさい」「戦いはこれからだ」「家族を大切に」 私たち夫婦も又、先輩の牧師のお言葉を心に、その同じ場所で38年の小さな牧者の道を辿ることができた。
2014年06月30日
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ボクの友人は癌にかかったが、治療をせず天寿を全うした。彼はクリスチャンの両親を持ったが、さまざまな理由でキリスト者となることを拒み続けた。「キリスト教は大嫌いだ」口癖のように言った。しかし年に二度、復活祭とクリスマスには奥さんを連れてはるばるやってきた。名古屋近郊に住んでいた。イースター祝会のページェントで、ボクは彼をキリスト役に指名した。彼はイヤと言わなかった。癌にかかったことがわかったとき、彼はボクがお勤めしていた教会の近くに越してこようとした。アパートを契約し、引っ越すばかりになってからボクの妻が重い糖尿病で治療の身であることが彼に知られた。彼は引越をやめて、名古屋近郊にとどまる。それから名古屋近郊の教会に通い始めた。彼の葬儀は、その教会で執り行われた。癌にかかって治療をせず。それは一つの生き方なのだろう。ボクもそういう一種の「自然的死」を願う者の一人だ。石ころからでも、アブラハムの子を起こす神。だから後のことは心配がない。神に許されるならば早々に御国に旅立つことも好ましいこと。
2014年06月28日
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「わたしを信じる者は死んでも生きる。」(聖書)死ぬとは何かと改めて考える。わが子は確かに死んだのだ。ほほえみながら棺に横たわっていたのだ。花に埋められていたのだ。周りでは友人たちが泣いていたのだ。ボクたちは棺に寄り添って火葬場に行ったのだ。その体は焼かれてみんなで骨を拾ったのだ。そして葬儀を執り行ったのだ。心落ち着いてくると、死んだ実感は消え日ごとに彼は生きているとの感が深まりゆく。話さえできそうにも近く感じる。「ねぇ慈夫、あのねぇ・・・・」彼は本当に死んだ。しかし彼は生きている。
2014年06月27日
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息子が亡くなって、数えてみたら明日で四十九日となる。よく「四十九日」という言葉を聞くのでネットで意味を調べてみる。 亡くなってから49日間を「中陰」と呼びます。 この間七日ごとに閻魔大王による裁きが行なわれ、極楽浄土に行けるかどうかの判定が下されるのが四十九日目です。四十九日めは別名「満中陰」と呼ばれ、この日が忌明けとされます 。遺族は、この間、七日ごとの裁きの日に合わせて法要を行ない故人が成仏できるように祈ります。どなたかの仏式葬儀で、僧侶の読経をじっと聞いていたら、確かに上記の内容を唱えていた。でも関係ないなぁ。イエス・キリストがボクたちのために死なれたことによって信じる人に与えられる「神の義」その「信仰による義」とは終わりの日の最後の裁きに対する判決文を今手にする。つまり、キリスト様の十字架のいさおしにより、無罪の判決が下され、その判決文を今聞いているということ。似ているようで違う、仏教とキリスト教
2014年06月25日
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時に妻の感情が乱れることがあるがそれは長年の糖尿病による神経障害によると理解している。そんなに長くつきあってきた(正確にはわからぬ)病であるが糖尿病特有の合併症がほかに起きていないことは奇跡的なことと思う。妻の感情の乱れは長くは続かず。ただちに反省、そしてその前にも勝る注意深さ、優しさに立ち戻る。不意の嵐も直ちに去ってすがすがしい光が差し込んでくるのだ。
2014年06月24日
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「受容する」とは、不平不満を心に抱かないこと。「神に委ねる」とは、結果を神に決めていただくこと。「信仰生活」とは、神に心を傾けて生きること。
2014年06月23日
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卒業以来初めての参加。ということは約45年ぶりです。今まで、日曜日と言うことで行けなかったし、遠方のために参加が難しかったのです。今回は「元文芸部」が懇親会に集まると言うことで部活の皆さんに会いたくて参加を決めました。初めはわかりませんでしたが顔を合わせているうちに昔の面影が戻ってきました。ああ懐かし。その波瀾万丈の時代。精神的に最も危険だった時代にお世話になった友、先生がたのお顔は見えなかったけれど、走馬燈のように心のスクリーンに現れてきます。「歳を取ったねぇ」「昔と変わってないよ」えっ?きっとどっちも本当でしょう。だってみんなも昔のママだよ。ちょっとしわが増えただけ。
2014年06月22日
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午前中は妻と中原防災公園に行きました。このあたりで、犬を連れて入れるのは、知るところここだけです。ただ通路から外れてはいけないと書いてあります。広々した公園に下ろされた老犬はうれしそう。うんちを取る袋と、小水を流すペットボトルは必携です。昨日から高血糖値が下がらない妻は気にする素振りも見せず、楽しそうに歩きます。春の花は終わっていますがその代わり緑が濃くなりました。
2014年06月17日
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父は今から20年前、病床で洗礼を受けて後1ヶ月して安らかに亡くなりました。ボクが父の長男として、長い間怠っていたこと父の記念会を催すこと。心にとげのように刺さっていたそのことを昨日催しました。兄弟に声をかけたところ、快くほかの親族に声をかけたところ、みな快く集まりました。「長い間、待っていたよ」そう言われて。ごめんなさい、20年も待たせてしまって。長生きして良かった。あなた方も長生きして待っていて下ったのですね。「お父さん、お父さん」と呼べば20年の空白も瞬く間に消え去り父がここに、ボクのそばにいるような思い。
2014年06月16日
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バッハのカンタータの中でフーガが出てくると心が躍りだすのはどうしてだろう。「交わり」だ。「交わり」こそキリスト教の本質である。教会、信仰三位一体すべて「交わり」ではないか?
2014年06月14日
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モーツアルト、ベートーベン、ブラームスなどフーガを書くときには自分の芸術や人生の総決算のように扱う。しかしバッハではそうではない。バッハにとっては、毎日の食事のようである。(昨日の続き)
2014年06月14日
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バッハの教会カンタータは奥が深くて、極めることができない。約200曲~クラシック音楽愛好者の万人が好きというわけではないが一部の人には、熱く語られている。ボクは今、カンタータの解説や感想を求めて、ネットで検索している。わかることは、好きで好きでたまらない人が多いこと。「クリスチャンではありませんが」と断り書きしている人。どうしてそんなこと書くのかな?クリスチャンではないのに、キリスト教の知識は、クリスチャン以上である。それは・・・・とりもなおさず、バッハの教会カンタータを紐解くためである。涙ぐましい。バッハのカンタータが愛される理由はおそらくその多様性にある。また聴いていて最近気づいたことだがバッハのカンタータは「舞曲」がベースになっているか?だから基本的にメロディーが明るくて覚えやすい。つまりメロディーに関して言えば、宗教臭が全くないのだ。歌詞はまた別だが。バッハのカンタータと言えば「フーガ」(幾つかの旋律が追いかけっこをしたり、離れたりくっついたりする)が多くある。もちろん「ソロ・カンタータ」と呼ばれるものもある。フーガと言えば、モーツアルトの「ジュピター交響曲」の終楽章が思い浮かぶ。それはゴシック建築のような堂々とした印象を持っている。でもバッハのフーガはもっと自由で明るく色彩が豊かだ。踊り出したくなるようなフーガなのである。
2014年06月13日
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暇さえあればバッハのカンタータをあれこれ聴いている昨今。電車の中で聴くために、BWV71「神はわが王」をオーディオプレーヤーの隙間に入れて、聴いたが、心に響いてこない。その曲が終わると、元々入れておいたベートーベンの第1交響曲が流れてきた。バッハのそのカンタータより美しかった。すべての旋律が自然に流れ、瑞々しく、心地よい。
2014年06月12日
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長男は死んだが、その娘・わが孫が生きている。やがて彼女は長じて結婚し子を産み育てるかも知れない。死んだわが子はもういないがその命が繋がれる。繋がれる命の中にわが子は生きるのだ。
2014年06月11日
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子供の頃から喘息の発作と一緒に生きてきた。中学校の頃、発作が止まったので「直った!」と思ったら、大学生で再開。結婚後、数年して、自然に終わった。北伊豆という土地が体に良かったか?小学校の頃、喘息の発作でずいぶん学校を休んだ。にがい経験もある。ただボクには、「喘息の発作で命を落とすことはない」という不思議な確信があった。今考えると、神がかりとしか思えない。一時、吸入薬を使っていたが、体に合わないことがわかりやめた。どんなに激しい発作に襲われても1時間我慢すれば楽になることがわかった。夜中、家の中の柱やふすまに寄りかかって、発作が通り過ぎていくのを待っていた。その後、背中のあるところを指圧すると、息が楽になることも発見。「もうちょっと左」とか妻に押していただいた。簡単には死なないや。もう少しがんばろう。
2014年06月10日
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昨日は「聖霊降臨祭」の家庭集会礼拝をいつもの5人で守りました。この地で3年前にスタートした5人が一人も欠けないでこの日まで来たことそれはかけがえのない喜びです。死んだ長男は、この地への引越を引き受けてくれました。住まいがある静岡市からレンタカーを借りてきて三島→千葉まで荷物を運びました。礼拝に出ていた母は、あの日以来長男には会っていないと、こぼすのです。一度くらいは仕事の休みを取って礼拝に来てほしかったわと言います。それを聞きながら、ボクは思いました。そうだ今日、彼は来ているのではないか!ボクは彼が霊の姿でここに来ていて一緒に礼拝にいる彼の息づかいを感じました。「わたしを信じる者はいつまでも死なない」とキリスト様は言われたからこのように毎週のように彼の息づかいを感じることができる可能性はある。神は死んだ者の神ではなく生きている者の神だから。
2014年06月09日
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聖霊降臨祭(移動祝日)ユダヤ教の「ペンテコステ祭」の日に聖霊がイエスの弟子たちの上に注がれました。弟子たちはそこから聖霊に満たされてキリストの復活の証人として出ていきました。キリスト教会が具体的にスタートする日とされています。この日を「ホワイトサンデー」と呼ぶこともあり。洗礼を受けてクリスチャンになる最良の日とされています。白い洗礼着を着て洗礼式に臨むことからホワイトサンデーと呼ぶのだそうです。さて、千葉県鎌ヶ谷市に来て4年目となりますがまだ一人も洗礼を受ける人が現れません。今日の聖霊降臨日は洗礼を受ける人が現れるように伝道のために祈る祝日としたいです。今日は「聖霊降臨日」イエス様の教会のお誕生日おめでとう。おめでとう!
2014年06月08日
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家庭それは荷を下ろしてゆったりできるところ。しかし、わがままが先行すると家庭は苦痛を与える場所となる。家庭は崩壊する。人は罪びとである。生まれながらの罪びと。使命感こそ必要だろう。家庭を建てあげるために自分がここにいるという使命感である。その使命感を生み出すのは家族への愛の目覚めあるいは信仰にほかならぬ。その使命感にしがみついて生きる自分の姿をさらけ出すことが、家庭教育と思う。わがままと使命感行きつ戻りつそれでもついに使命感に勝たせるそういう葛藤をさらけ出して共に存在し続けるそれこそが家庭教育なのだと思う。
2014年06月03日
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わが子は天国に行った。物心がつく前からボクたち夫婦は彼に天国のことを話して聞かせ天国の歌を一緒に歌った。どんなに幸せなところかをまるで見てきたように語り聞かせたものだった。 神様の御国には 心配が何もなく 喜びがあふれてる さぁいこうイエス様は天国や神の国について幾度も幾度も語っておられる牧師が語る天国はイエス様の受け売りだけれどイエス様は天国から来られた方だからイエス様がお語りになる天国は真実そのものに間違いない。キミの去り方は鮮やかでこちらの部屋からあちらの部屋に移るような感じで じゃぁね、バイバイそんなふうに天国に急いで昇っていった。後ろも振り返らず。 神様の御国でも キミたちと会えるかな イエス様を信じれば 皆ゆける地上では少しの悲しみとたくさんの喜び天国では喜びだけが満ちている
2014年06月02日
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苺ジャムを作りました。3パック買い、ひとビン分です。果肉を潰さないように気をつけましたがほぼつぶれてペースト状になりました。苺が柔らかかったようです。割引になったパックを買ったからか。もう苺の旬は終わったようです。へたを取り除いた苺の水気を切って鍋に入れ砂糖をまぶして強火で煮るだけです。砂糖が溶けて水気が出ます。だんだん苺の香りが台所に漂う。終わりの方になると水気が無くなり、焦げ付いてしまうので焦げないうちに早めに上げるようにしています。そうするとちょっと緩いですが焦げるよりましです。仕上げにレモン汁を入れます。最後まで強火で貫くと苺の真っ赤な色が残ります。昔、信徒さんがそれはそれはおいしい苺ジャムを作って下さいました。こんなおいしい苺ジャムが世の中にあったのかと思いました。だからボクも苺ジャムを作るようになったのです。
2014年06月01日
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