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作品の完成予定日を過ぎて1週間。いまだしというていたらくだが、描いて考えこんでしまったところを3日がかりで手を入れた。難所をどうやら切り抜けた感じだ。技法的に一か八か、失敗したら、あるいは気に食わなければ、先行描写が完全にダメになってしまうところだった。そうなれば最初から描き直し。----そうならずに済んだ。そして頭の中で試行錯誤しながらも想い描いたイメージに近づけることができた。意表を衝く描写になったのではないか。----難所はもう一カ所ある。明日からはそこに手をつけることにする。 もう11月だ。民生委員としての私は、9日以降ほぼ1,2日おきに会議やら何やら8日間連続のスケジュール。それに加えて高齢者と他の訪問と合せて29件を市から依頼されている。作品制作モードに切り替えて精神集中するのが大変,大変。
Oct 31, 2017
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台風に対する心構えをしていたが、22号は雨は降らせたものの21号同様に我が町を素通りした。風を置いていったのか、朝から一日中、山の木々を揺すり、我家の戸袋にもぐりこんでは中の雨戸を揺すっている。小庭は落葉だらけだ。朝に掃き、夕にもさきほど掃いてきた。台風の置き土産でもあろうけれど、凩一番だそうだ。 凩(こがらし:国字)、----「木枯らし」と新聞では書いている。落葉を掃きながら「なるほど木枯らしだわい」と独りごちた。そして、「木枯らし途絶えて 冴ゆる空より 地上に降りしく 奇(くす)しき光よ ものみな憩える 静寂(しじま)のなかに 煌めき揺れつつ 星座はめぐる」と口ずさんだ。唱歌『冬の星座』。作詞は堀内敬三、作曲はウィリアム・ヘイス。曲が先にあっての作詞ながら、見事。 ついでに2番の歌詞も。 「ほのぼの明かりて 流るる銀河 オリオン舞いたち スバルはさざめく 無窮を指差す 北斗の針に 煌めき揺れつつ 星座はめぐる」 国語辞典の『広辞苑』や『言海』が新版を出した。新しく採用した言葉をみると、スタンダードを喪うとはこういうことかと慨嘆する。『俗語辞典』もしくは『流行語辞典』『やくざ語辞典』を作って、そちらに蓄積していくべきと思う軽薄な編集方針。あきれてしまう。 私の手元には国語辞典・漢和辞典、英語や、フランス語や、ドイツ語、スペイン語や中国語などもあわせると30冊以上の辞典がある。そして、国語に関しては新版はほとんど役に立たない。古書店で昔の版を探しては購入する。 『広辞苑』と『言海』の編集者に言っておこう。私は新版は買いません。レッキトした日本語が削除されているからです。昔の版をわざわざ探して購入しなければならないのです。「言葉は生きている」などと、利いた風なことは、この際言ってくださいますな。「婚活」など、言い表したいことを漢字の意味が表わしてはいないじゃないか! 「結婚に向けての活動」と言いたいのだろう? そう、言えよ!と言うぐらいの見識を、辞典の編集者はもつべきではないですかね。
Oct 30, 2017
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また台風22号が接近しているようだ。昼間の小雨が、夕方から本降りになった。先日の21号では、我が日野市にはほとんど被害はなかったが、多摩川は濁流と化した。 多摩川の氾濫といえば、日野市の土方歳三の生家の近くの石田という地は、江戸時代は石田島という多摩川の中程に存在した中洲の島だったが、多摩川の大氾濫で完全に水没。島民は河岸に移住して現在の石田になった。村社も再建されて、現在も存在する。おやっ、と思うような田舎風な環境のなかの森閑としたたたずまい。私が好きな場所だ。近くに、玉川兄弟が掘削した当時のままの玉川上水の遺構が、薮に隠れてわずかながら在る。その前後は変わってしまっている。人が訪れることは、たぶん滅多になかろう。そばを通っても、それが玉川兄弟の苦難の末の今に残る玉川上水だとは気付かないかもしれない。 さて、きょうも終日仕事場に籠って制作。明日には完成するかと進めて来たが、まだ10日は見た方がよさそうだ。次の作品の構想はできている。今は急ぐまい、急ぐまい。
Oct 28, 2017
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午後1時30分より4時30分まで民生委員月例会議。11月・12月の私のスケジュールが、ドドーッと。 ドイツ・オーストリア旅行から帰った方からお土産のチョコレートを頂戴した。ザルツブルクのミラベル社のメダル型モーツァルト・チョコレート。中にヌガーが入って、私にはほどよい甘さ。おいしかった!
Oct 27, 2017
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きょうは合唱練習日。きょうを含めて2回の練習で本番。文京シビックホール。私たち合唱団は大型バス1台を借り切って行く。 その丁度10日後にも、日野市内に新しくできたホールで30分のステージ。30分は長い。何曲歌うのかも流れ次第、しかも曲目はその場で決めるというのだから、楽譜持参とはいえ、さあ、大変。----でも、私はそういう即興的な出たとこ一発勝負が嫌いではない。やってやろうじゃないか、という気持。 次いで今日渡されたスケジュールによると、来年3月に杉並公会堂でのコンサート。こちらも曲目は未定。杉並公会堂----懐かしいなー。学生時代、住んでいた処だからなー。公会堂は50年ぶりだ。 さあ、作品制作も忙しいし、期限は切られていないけれど民生委員として市から依頼されている高齢者訪問が25件ある。みなさん、元気でいてくださいよ!
Oct 26, 2017
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舞踏家・和栗由紀夫氏が亡くなられたという(22日)。享年65。 私は新聞の死亡記事で知ったのだが、懐かしいお名前だった。和栗氏は故土方巽を師として70年代始め頃から舞踏家としての活動をしていた。私が、土方氏を始めとして多くのいわば前衛舞踏家・舞踊家のパフォーマンスを見ていたのが、丁度70年代から80年代半ば過ぎ頃であった。当時、まるで「舞踏の季節」とでもいうように、舞踏家たちは競い合うようにパフォーマンスを繰り広げていた。「舞踊」ではなく「舞踏」と書いたのは、土方巽が創始した「暗黒舞踏」に起因する言葉だからだ。 和栗由紀夫氏は私より幾分若かったし、田中泯氏は私と同年齢、彼らの目覚ましい活躍を、イラストレーター(画家)として出発したばかりの私は、身体と情念そして時・空間構成に関心をもちながら、注目せざるを得なかったのだ。 和栗氏は一時、江戸小紋の染色職人に転身したようだったが、意外ではあったけれども、「雀百まで踊り忘れず」の喩えではないが舞踏家の肉体は踊りを捨てることはできまい、と私は思っていた。私の関心は舞踏に対して昔のような熱狂はなくなっていたけれど、和栗由紀夫氏は、案の定、舞踏家として戻り、ご自身の結社を創始された。 「舞踏の季節」を懐かしく回想しながら、和栗由紀夫氏のご冥福を祈ります。
Oct 25, 2017
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今日もほぼ終日制作していた。明日あたりの完成を予定していたが、どうやら今週いっぱいはかかりそうだ。最初の構想は変わらないが、完成が近づくに連れて、画面をもっと複雑にしてやろうと思うようになってきた。それが功を奏するかどうかは何とも言えない。しかし気持がそのように動く。動くから、やる。 閑話休題 キャンヴァスに向かって筆を運んでいたら、60年前,あるいはそれ以上昔の会津若松市の私が住んでいたあたりや、長野県川上村の我家周辺の様子が、自分でも驚くほど鮮明に影像がよみがえってきた。 他家の外観の窓ガラスや、我家の裏手のバスの車庫の隅のドラム缶やタールの臭いも。山二さんの裏の洗い場や刈り取られた麦の穂の束も。高見沢さんの馬小屋の様子も。村はずれの墓地に咲いていた春先の福寿草も。その前の通りの叢のなかのアザミに舞うウスバシロチョウの姿も----まるでタイム・スリップしてその場にいるかのように。 私はときどき自分の視覚の特徴を不思議に思うことがある。どうもパノラミックに見ているようだ。意識は対象に焦点を合せているけれども、同時に無意識に写真撮影するように四方八方を等価値に見て記憶に焼き付けてしまうらしい。自分のことなのに「しまうらしい」とはヘンな言い方だが、その視覚的な記憶の影像のなかで時に私自身も写りこんでいるのだ。ということは、どういうことだろう、情景のなかに存在している自分を見ているもう一人の私が視覚的な記憶を形成しているということだろうか? 私の視覚的記憶力について、故湯浅泰雄先生を驚かしたことがあった。先生と昵懇になる前のこと、上智大学のちょっとした会合でお見かけした御老人(失礼!)が、じつは湯浅博士だったのだが、言葉を交わしたわけでもなかった。数年後に親しく謦咳(けいがい)に接するようになってから、桜美林大学の先生の会合のおりに、私は上智大学でお見かけしたときの先生の服装---スーツの色やネクタイの色や模様---を思い出してお話ししたのだ。 「私自身があのときどんなものを着ていたか忘れてしまったが、いま言われたネクタイは、たしかに私のものです。東南アジアの学会があったとき、向こうで買ったものです」 先生は驚かれ、また、私の視覚的記憶に少しばかり興味をもたれたようだった。 ----あれから何年になるだろう。22年か。 あのとき同席されていた先生の教えを受けていた大学院生---一人は中国からの留学生と言っていたはず---、彼らの服装を、いま、ふと思い出した!
Oct 24, 2017
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嵐去り散り敷く庭の濡れ落葉
Oct 23, 2017
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衆議院議員選挙投票日。選挙管理委員会の街頭放送が投票を呼びかけている。私も昼前、次第に強くなる篠つく雨のなか山を下りて投票してきた。 降りつづく雨は、もう10日になろうか。加えて非常に大きな台風21号である。コイン・ランドリーの前を通ると満員だ。いつもは、これで商売になるのかしらと、他人事ながら、街路から見えるガラス張りの店内をちらと見ていたものだ。なるほど子供がいる家庭は雨の日は大変なんだ。子供連れのお母さんたちが、大きな洗濯物入れを抱えて、車で乗り付けていた。 そうかと思えば顔見知りの高齢男性が、傘をさしてランニングしていた。「がんばっていますねー!」と声をかけると、「1周してきました!」と町内をくるりと指で差し、走り去った。この方は、雪が降ろうが、霙が降ろうが、坂道の町内を走っている。独り住まいなので、健康には気をつかい、「とにかく足腰と心臓を鍛えなければ」と考えていられる。民生委員としての私は「がんばれ、がんばれ」と内心で声援をおくりながら、遠く近く見ているのである。 雨音はいよいよ激しく、風が出て来たのであろう、屋内にいてもザーーッ、ザーーッと風の吹き様で音が変わるのがわかる。
Oct 22, 2017
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午前中、子供のための福祉施設見学。いまメモを見ると,私は12の質問をしていた。その内容をここに書くわけにいかないが、とにかく考えさせられ、胸がいっぱいになった。子供たちが何と生きづらい社会であろう。がんばってくれ、がんばってくれ。爺ちゃんの願いだ。
Oct 20, 2017
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きょうは案内状を頂戴していた近所の中学校の合唱祭を参観した。市民会館大ホールで開催される毎年恒例の学年別クラス対抗コンクール形式の合唱祭である。 昨日の好天を中休みとして、再び本格的な降りとなった雨のなか、朝、2番発のバスででかけた。330人の生徒たちも先生方もこの雨で準備していた段取りが狂い、タイムスケジュールどおりに進行するのは大変だったであろう。音楽担当の先生が、「怒濤のような忙しさ」と述懐していたが、さもあろう。 私がこの合唱祭を興味深く、そして楽しんでいるのは、学年が進むにつれて音楽の完成度が目に見えて、----いや、「耳にはっきり」と表われてくるからだ。それを教育の成果というべきか、生徒たちの音楽を介してのさまざまな物事に対する理解の深浅、もしくは精神的肉体的発達にともなう表現力の拡大とみるべきか。いずれも当てはまるであろうが、たとえば1年生は声そのものがまだ安定していない。2年生になると声に響きがでてくる。3年生になると、声の安定は無論だが詞の解釈と音楽を造形しようという意志、すなわち芸術的な表現の萌芽がはっきりでてくる。実際、3年生と下級生との音楽性には格段の差があるのである。 -----その発達段階が、私には大変興味深い。これで「指揮」とは何かを知ると、また全然別の高さに行くだろう。 しかし、指揮って、難しいんです。おとなのアマチュア合唱団でも、音楽的表現のための、----音楽的造形のための指揮をする人は、まあ、私の見て来たかぎりだが、数は少ない。音楽大学に「指揮科」が存在するくらいだから、中学生に望むのは無理なんですが。 でも、私は中学生たちに感心してしまった。すばらしい! 中学生たちのことではなく、私が頭をかしげてしまったことが一つある。それは彼らが歌った数々の合唱曲そのもののこと。とくにその作詞者たちの言葉の貧しさ。イメージの貧困。課題曲・自由曲、あわせて12曲が歌われたけれども、どれもこれも詞の内容が似たり寄ったり。もっと強く言うと、「紋切り型」だ。作詞者として恥ずかしくないか? 私は最近、明治・大正時代の童謡・唱歌・歌曲の詞を調べている。驚きますよ、その日本語の豊かさ、イメージの豊かさ、情景描写の確かさに! 島崎藤村にしろ、林古渓にしろ、杉谷代水、北原白秋、本居長世、加藤省吾、サトウハチロー、----それに、名さへ知られてない詩人でさへ。 この日本語の歌詞の豊かさは、どこへ行ってしまったのだろう。私は中学生たちの真摯な合唱への取組みとその歌声を聴きながら、現代作詞家のメッセージ・ソングなどと称されているらしい貧しい言葉に呆然としていたのだった。
Oct 19, 2017
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長雨が止んでしばらくぶりの秋晴れとなった。顔なじみの商店の方が、「明日からまた1週間は雨の予報です。今日は中休みといったところですね」と言った。その中休み、自転車で遠出の買い物。画材店に行き次作のための材料をそろえ、コンピューター・プリンティングのためのエキップメントを買い、本屋に寄って4冊購入。帰りに家の近所で猫たちの缶詰やドライフードを買う。かなりの荷物を自転車の前後に積んだ。 じつは昨年の暮も押し詰まったころに電動自転車を買った。我家は山の上にあり、往きは良い良い帰りはこわいで、かなりの急坂をのぼってくる。私はそれを脚力のための運動と思っていたのだが、弟が「そろそろ年なんだから」と心配し、まあ、電動自転車に変えたのである。これがなかなかたいしたもので、車に乗っているとひっくり返りそうな感じがする急坂を、私の足で難なくのぼってしまうのだ。弟の勧めを半ば気休めくらいに考えていたのだが、いやいや脱帽しました。 ----ただねー、私の唯一のエクササイズはいくぶん減算して考えなければならない。 ちょうど50歳になったとき、意を決して、1週間に1度、日曜日に往復35kmのサイクリングをはじめた。東京の人はお分かりだろうが、多摩川沿いに整備されているサイクリングロードを登戸と日野市の万願寺渡船場跡(江戸時代の渡し場)の間を往復すると35kmになる。万願寺渡し跡から一旦サイクリングロードを離れ、再び戻って昭島市の鯨公園まで行くと往復50kmになる。 その1週間に1度のサイクリングを10年間欠かさずにつづけ、下肢の筋肉が発達し、思惑どおりになったと喜んでいた。老境に入る準備をしていたわけである。 ここに来て、つまり72歳をかなり過ぎて、電動自転車の威力に脱帽しているようじゃ、私の先行きも危ないかもしれない。以前の自転車は見向きもされずに雨に濡れている-----
Oct 18, 2017
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ニューヨークから「ほーッ!」というニュースが入ってきた。レオナルド・ダ・ヴィンチの絵が売りに出されるのだそうだ。 2011年、アメリカの個人蔵である『サルヴァトール・ムンディ(救世主);Salvator Mundi』が、レオナルドの作と認証され、当時、私もブログに書いた。65X45cmほどの小品で、救世主が右手で祝福印を、左手に世界を象徴する水晶球を持っている。 古くは英国王チャールズ1世が所蔵し、18世紀には競売にかけられイギリスの蒐集家の所蔵となり、さらに20世紀初頭の所蔵者はわずか45ポンドで売却。下って2005年にはアメリカの画商の手に渡り、さらに2013年にはスイスの画商を経由して約1億3000万ドル(130億円)でロシアの蒐集家の所蔵となったと聞いている。 レオナルドの作品としては主題がきわめて特異であると、私は思っている。レオナルドは幼児イエスは描いているが、成人としての、救世主としての、正統的なアットリビュートが描かれた絵は、この『サルヴァトール・ムンディ』がもし真筆ならば、唯一無二のはずだ。 専門家の鑑定に対して私の考えを述べるのは気が引けるが、左手に持つ世界の象徴としての球体は、他の画家の同じ主題と比較するとき、きわめて異例であることを指摘できる。他の画家は、球体とはいえ地球であることが明瞭であったり、世界支配の象徴としての王冠がかぶせられている。しかし、当該作品は透明な球体である。それはまるで魔術の水晶球のようである。この事実は、レオナルドの「思想」を考察するときに意味をもってくるのではあるまいか。 さて、それはそれとして、残すところ1ヶ月、すなわち11月15日、ニューヨークのクリスティーズは, "The Post-War and Contemporary Art Evening Sale" と銘打った競売に、このレオナルド作品を出すというのだ。下見展示会がニューヨークを始め、サンフランシスコ、香港、ロンドンの特別会場で現在巡回進行中である。もちろん顧客は厳選されているであろう。競売は、予想では、$1,000 million〜1,500 million(10億〜15億円)から開始されるのではないかと言われている。
Oct 17, 2017
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朝のうちに主治医のクリニックに行き、インフルエンザの予防注射をしてもらう。 雨が降っていたので約1.5kmの道のりを歩いて行った。ほとんど開院直後に診てもらえたのだが、医師が私の胸に聴診器をあてて「鼓動が少し早いですね」と言い、「注射が怖いですか?」と含み笑いをした。まさか、ねー。で、私は、歩いて来たとは言わずに、「しばらくぶりでお会いしたからでしょう」と笑った。看護婦さんも笑った。 午後から制作。 お隣の夫人が丹波黒枝豆をくださった。生の枝付と、茹で上げたばかりのものと。夫人は京都のご出身。ご実家から届いたばかりを「お裾分け」と持って来て下さったのだ。3時のおやつはその茹でたばかりの枝豆。さすがに丹波の黒枝豆。そんじょそこらのものとは格段に違う、みごとなもの。おいしかった。枝付のものが楽しみだ。
Oct 16, 2017
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寒い雨の日曜日だった。 シャンソンに『暗い日曜日』という名曲がある。シャンソンとは言え、ハンガリーの曲。フランスではダミアが歌った。『Sombre dimanche (ソンブル・ディマーンシュ)』。 私も若い頃にくちずさんだものだ。「♫ 腕にバラを抱いて 吹きすさぶ凩のなか---」 今は、猫を膝に抱いている。仕事場にやってきて遠慮なく跳びのった。「仕事ができないんだけどなー」などと私は言って、しかし邪険に追い払いもしない。 「♫ 猫を胸に抱いて 降りしきる雨のなか 踏み迷うイメージの森 暗い暗い愛のまぼろし あした私の躯を置いて 猫はどこかへ去って行く ソンブル・ディマーンシュ------」 即興の歌をくちずさむ。
Oct 15, 2017
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雨が一日中降りつづいていた。午前中に灯油の販売車が住宅街を巡回していた。いささか早いのではないかと思いながら、そのアナウンスを聴くともなく聞いていた。まだ秋口だというのに、最初の巡回販売である。 それに釣られたわけではないが、主治医のクリニックにインフルエンザの予防注射をしてもらう予約をした。自分のためでもあるが、たくさんの高齢者に会うので、私がインフルエンザに罹患していてはお話にならない。毎年恒例で、今頃の時季に、予防注射をしておくのである。 さて、「以下同文」で、ハハハ、終日制作。たんたんと、たんたんと、作品を作り上げて行く----
Oct 13, 2017
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蒸し暑い日だった。夜に入り雨が降ったが、それもすでに止んだ。 制作が佳境に入ると、外部からの特別のアプローチがないかぎりこの日記はまったく代りばえのない記事になってしまう。終日仕事場にとじこもっているので、昨日と同じ、以下同文、というわけだ。
Oct 12, 2017
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終日,制作。かなりのところまで進んだ。完成予定日までちょうど2週間。その前後に他のスケジュールが数件入っているので、ただいま21時になるとことだが、これからもう少し執筆しておこう。
Oct 11, 2017
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朝から制作に取りかかり、ただいま午後5時20分を過ぎて今日の仕事を終りにした。
Oct 10, 2017
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昼食の前にきょうは柿酢を醸造するために大瓶に仕込んだ。この大瓶は私が子供の頃からの、つまりは亡母さへ使わなくなって数十年経っていたもので、母が亡くなる2,3年前に私が柿酢をつくってみたいと引っぱり出したのだった。 この瓶に柿を隙間無く積み重ねていっぱいにし、うまく醸造できると、およそ3リットルから4リットルの酢となる。まろやかで柔らかい酢は、酢飯に使ったり、酢の物や、サラダ用のドレッシングソース、あるいは健康飲料として薄めて飲む。 ホワイトリカーに漬込んでおけばよい柿酒造りとちがって、実のところ柿酢造りは酢ができあがるまでの過程で手間がかかる。カビたり雑菌が入らないように注意して瓶の底から2,3日おきに掻き混ぜたり、醗酵をうながすために1ヶ月間くらいは柔らかくなった柿を潰したりする。その後は寝かせて醗酵を待つが、醗酵が完了したなら濾過しなければならない。ネル(布)の袋をつり下げてポタリポタリと滴り落ちるのを別容器に受ける。澄んだ美しい黄金色の酢ができる。 手間を惜しんでは失敗する。途中で腐敗してしまうのである。半年以上かけてようやく自分んが口に入れるものができる。ものを作るとはこういうことだと得心する。「買えばいい」というようなことではない。そこがおもしろい。 ----私は創作家として人生を歩んで来た。それ以外のことは何もしなかった。そして、少年時代から自分が食べる料理をしてきた。しかし、料理をしても、その素材を作りはしなかった。そうしたい気持はあった。私が農業家を尊敬する謂われはそういうことにも起因している。農耕生活をしながら芸術活動をしている人はいるけれども、私は自分の作品制作のための日常の営み方を考えるとき、農耕生活とは相容れないことを知っている。それは私のイメージ湧出方法に関する問題だった。 梅酒をつくったり、ビワ酒、カリン酒、洋梨酒、そして柿酒をつくり、柿酢をつくったりすることで、きわめてわずかながら食べ物の素材を自分でつくる。そのことに、物を創作することと生きることとを直結する哲学の端諸をみつけたいのである。
Oct 9, 2017
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昼食後、2時間ほどかかって柿の収穫と柿酒を仕込んだ。弟が居たので彼に支えてもらいながら丈高い脚立にのぼり、今まで手がとどかなかった上枝(ほつえ)の実を穫った。穫っても穫ってもとりきれず、また、危険でもあるし、まだ鈴生りの高枝は放っておくことにした。 柿酒に仕込み【注】、隣家にもさしあげ、それでもまだ30kg以上がキッチンに山盛りになっている。すでに9月の初旬から食べ始めている。種々のサラダに入れたり、同じく白和えにしたり、肉との炒め物にしたり、料理にも使ってきた。さて、今後30kgを越す柿をどのように消化しようか。 【注】ここで述べている柿酒は、酒造法で禁じられている柿から酒を醸造することではない。ホワイトリカーに漬けて果実酒にするということである。 作品制作はいまのところ順調。昨夜、就寝しようと支度して、もう一度出来具合をながめていたら、また仕事をしたくなった。それで寝支度を解いて、私が開発した技法のための「仕掛け」を最後までほどこした。今日はその乾燥を待つ間の柿の収穫だった。明日から後半の過程に入る。
Oct 8, 2017
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昨夜午前0時頃、ベッドに入ってすぐだったが、身体がかすかな揺れを感じた。ほんの数秒間だったが、しばらくじっとして原因を探った。が、身辺に異常はなさそうだった。今朝、新聞報道で、それが福島県沖のM5.9、震度5弱の巨大地震の余震であると知った。 私が感じたかすかな揺れは、寝ていたからこそ背中にさざ波のように伝わった。立って活動していたときなら、おそらく気付かなかったであろう。 震度5を観測した楢葉町および川内村は、東京電力福島第一原子力発電所の20km圏内にある。2011年の原発事故に因って全村避難した川内村は、昨年6月に全域の避難指示を解除した。昨日の地震を「たまたま」と考えると、まさにたまたま、ノーベル平和賞が「核兵器廃絶国際キャンペーン」に授与されると発表されたニュースと重なった。日本政府はこの受賞に対して祝意を表明しない決定をした。核兵器所持が世界の安定に不可欠だと考えるからだ。そればかりではなく、現政権とその支持者たちが強引に押し進める憲法改悪は、まさに核開発に躍起になっている隣国の情勢を利用しているからで、じつは隣国の不埒なふるまいを煽っているふしがある。どうやら、「国難」は、外部にあるというより内部に、---政権そのものにあるようだ。 こうした核兵器に対する政権の意向は、原発にもほとんど同様に反映されている。「核兵器廃絶国際キャンペーン」がノーベル平和賞を受賞することになって、日本の被爆者たちが原発について、こう言っている。「原子力は制御できぬ」と。 そうなのだ。原子力関係者を気取る人たちの「想定」なる実体を知れば、彼らの頭の程度もその想像力の鈍感さも「想定」できるのである。しかも、人間が制御できない「地震」という現象と原発立地は密接しているのだから、被爆者が「原子力は制御できぬ」と言うのは、まったく反論の予知がない正しい見解なのだ。
Oct 7, 2017
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ノーベル平和賞は「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN : International Campaign to Abolish Nuclear Weapons)」に!
Oct 6, 2017
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午後、雨になりそうだと予報があったので、その前にと、市から依頼された訪問をすませた。すぐには降らなかったものの、夕方までには降り出した。なんだか急に気温が下がった。さすがに半袖シャツではいられなくて長袖を着込んだ。 弟が俳句同人誌のパーティーで、栽培家から頂戴したと、棗(なつめ)を私にくれた。干し棗は食べるが、生のものは初めてだ。さっと水洗いして口に入れると、コリッとした食感で素朴な嫌みの無いリンゴのような味がした。「あっ、これは好きだな」 干し棗や砂糖漬は、おいしいけれど甘さが強い。私には生のあっさりした味が好ましかった。 棗の栽培家はもちろんいられるに決まっているが、実際に弟の身近にいられると知ると、小さな丸い実を掌につくづくとながめたのである。
Oct 6, 2017
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カズオ・イシグロ氏のノーベル文学賞受賞を祝します。おめでとうございます。 カズオ・イシグロ氏は日系イギリス人。ロンドン在住。 長編小説『An Artist of the Floating World (浮世の画家)』『The Remains of the Day (日の名残り)』『The Unconsoled (充たされざる者)』『When We Were Orpans (わたしたちが孤児だったころ)』『Never Let Me Go (私を離さないで)』『The Buried Giant (忘れられた巨人)』など。
Oct 5, 2017
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降りそうで降らず、風ばかり強い。 終日、作品制作。進捗状況は良好で、この調子で行けば25日頃には1点完成するかもしれない。そしてすぐにも次作の執筆に入る構想はできている。年末までにさらに1点描ければ嬉しい。その作品の構想もできている。----つくずく1年が過ぎるのが早い。
Oct 4, 2017
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予定通り昨日起筆した新作は、引続き執筆しながら、さらに新しい構想も練っている。どんどん描かなければ引渡し期日はすぐに来てしまう。展覧会は来年4月だなどと安心していられない。
Oct 2, 2017
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午前中に韓国に向けてプロモーターに託す作品を出荷。すでに私の気持は来年のニューヨークのための作品に入っているが、やはり出荷後は少しばかり気が抜ける。新作構想のせわしない感じと、ぼんやりした感じとが入り交じって、心身のカオス状態。調子がおかしい。いつものことである。
Oct 1, 2017
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