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日本一の映画館が札幌にあることはあんがい知られていない。ポレポレ東中野にも名古屋シネスコーレにも大阪シネ・ヌーヴォXにも行ったことがないが、あえて断言してしまう。札幌市北区北9条西3丁目タカノビルB1にある蠍座(さそりざ)は、いくつかの理由で日本一だ。まず、椅子がすばらしい。フランス製の椅子を使っている映画館はほかにも知っているが、それらとは比較にならないほど座り心地がいい。3本続けて観て腰が痛くならない映画館などちょっと見当たらない。たいてい2時間もすると痛くなってくる。椅子の脚を少し短く切って日本人に合わせているらしい。ミュンヘンのガスタイクホールの1階席は音楽ホールの座席としては世界一の快適さを誇る。しかし背もたれの部分が低いので蠍座の勝ちだ。もう一つの理由は珈琲がおいしいこと。ちょっとした喫茶スペースがあるので、合間などに珈琲カップで飲めるし紙コップで持って入ることもできる。この珈琲は斎藤珈琲という会社(天才的焙煎師だった創業者は2013年に亡くなり弟子があとを継いでいる)の豆を使っている。コンビニやスタバの珈琲と飲み比べるがよい。それらがドブ水に感じられるはずだ。専門の喫茶店でも、この珈琲よりおいしい珈琲を出す店はまずない。鎌倉でふと入った店の珈琲があまりにおいしかったので聞いたら、何と斎藤珈琲の豆だったことがあった。三つ目には値段が安い。数年前に値上げしたが、1本900円、2本1400円、3本2000円で、60歳以上と学生はそれぞれ800円、1200円、1700円になる。5本観るとスタンプで1本無料になるので、1本ずつ観たとしても6本4500円、つまり1本あたり750円で観られる。わたしはだいたい2本ずつ観ているので、12本で7000円、1本583円ということになる。これだけ安いと、同じ作品を繰り返し観ようという気になる。通常の上映期間は2週間だが、マイナーな映画は1週間、特に貴重な映画は3週間上映することがあり、スタンプでもらった券はこういう映画や2回観るときに使っている。音響もいい。オーディオには一家言あるわたしだが、あの音は通常であれば1千万くらいかけなければ出すことができない。たぶん、その10分の1以下で構築していると思うが、そこらのジャズ喫茶は足下にも及ばない。この四点で日本一なのだからもう勝負あったというところだが、支配人の田中次郎が発掘してくる上映作品が実にクールだ。映画館は、かけたい映画をいつでもかけられるわけではない。フィルムレンタル料や配給権の問題などがあり、小さい映画館ほど制約が大きい。そういう事情を知っていると、年間100本以上の映画を発掘してきて10年以上も映画館を運営するというのは神業に思える。作品のラインナップから、田中支配人の好みの映画を上映しているとかんちがいしている人も多いが、「上映する価値のある作品かどうか」に選択眼がおかれている。だからもちろんその価値観のずれを感じることは皆無ではないものの、どの作品もそれなりに理由が納得できる。ハリウッド娯楽大作を映画館でみることは決してないが、もし蠍座で上映されるなら「観る価値のある作品だろう」と考えてみにいくだろう。ひとつだけ価値観の隔たりを感じるのは、現代の日本映画への評価が少し甘いのではないかということだ。これには、やはり現代日本の映画監督に期待したいという映画館主としてのバイアスがかかっているのかもしれない。日本で公開される映画は、商業的な理由と日本人に根深い反教養主義的風土の中で、非常に偏りがある。あるときカンヌ映画祭の大賞作品を系統的に観たいと思ってレンタル店をまわったが、どうしても観られない作品がかなりあった。そういった、外国では賞をとり有名でも、日本で劇場公開されたことのない映画はたくさんある。日本初公開のこうした映画が映画館では蠍座(のみ)で上映されることがある。12月2日から上映される「昔々、アナトリアで」もそんな一本。2011年のカンヌ映画祭審査員グランプリを受賞したトルコのジェイラン監督の作品。と、ここまで書いたところで悲報が伝わった。12月30日をもって閉館という。理由は館主のモチベーションの変化と経済的理由だそうだ。あまりの偶然に言葉もないが、このブログを読んだ読者は、あと1ヶ月、日本一の映画館の最後の輝きに浴する幸運を得られたことになる。
November 29, 2014
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November 21, 2014
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November 20, 2014
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2週間前に都響、4日前に札響を聞き、その響きが耳に残っているうちに珍しい台湾のオーケストラを聞く。台北は260万都市だが、台北圏となると700万人を超える一大都市圏。3つのプロオーケストラがある。そのうち、フィルハーモニア台湾は聞いたことがあるが、台北市立交響楽団ははじめて。もうひとつ、航空会社が運営するエヴァ・グリーン・オーケストラというのもあるらしい。プログラムはオール・チャイコフスキー。指揮はギルバート・ヴァルガ。往年の音楽ファンにはなじみのバイオリニスト、ティボール・ヴァルガの息子という。「エフゲニー・オネーギン」のポロネーズで幕開け。トゥッティの多い曲なので、オーケストラ全体の性能をききとるのちょうどいいし、華やかな幕開けに一瞬で日常を忘れることができる。各パートの凸凹の少ない、バランスのよいオーケストラ。スタープレーヤーもいないが、劣ったパートもない。技術水準だけでいえば日本のオーケストラのいくつかは凌駕する。札響や都響とはかなりキャラクターが異なるがほぼ互角と言っていい。続くチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番では、ソリストのアンナ・ヴィニツカヤが圧巻。30代はじめのロシアの女性ピアニスト。細部まで気を配りつつ神経質にならない、流麗でありながら表面的な美しさに終わらないスケール感ある演奏。3楽章のリズムにはロシア的な民俗性も感じたが、それが乱暴にならず推進力になっていたのがすばらしい。ギルバート・ヴァルガもいい指揮者だ。指揮姿が優美でバトンテクニックも秀逸。音楽のとらえ方もフレーズ感が長く、停滞することがない。メーンの交響曲第6番「悲愴」は、しかし感銘には遠かった。フィルハーモニア台湾もそうだったように思うが、このオーケストラも女性が多い。8割弱が女性で、コントラバスにさえ男性がひとりもいない。そのせいかどうかわからないが、あと一押しの力感がほしいところが妙におとなしい。フィナーレのうねるような音楽も、石炭が燃える熱さというよりはアルコールガソリンの炎のよう。北欧やロシアの音楽には、うちにこもったものを解放し爆発させるような、演歌に近い情念を感じさせるものがあるが、南の国のこのオーケストラには、そういう感性のボキャブラリー自体がないように感じた。特にフィナーレのクライマックスでは、男性の弦楽器奏者は大きなジェスチャーで共感豊かに演奏していたが、ほとんどを占める女性奏者たちはさめているというか、きれいに演奏しているだけに感じられたのだ。台湾のオーケストラが女性ばかりなのは、兵役が関係しているらしい。男性は外国のオーケストラに行ってしまうという事情もあるようだ。日本のオーケストラも特に弦楽器は女性が多いが、そういうオーケストラほど音はきれいでも響きが薄く、ここ一発の盛り上がりには欠けることが多い。ヴァルガも優れた指揮者だが、そうしたオーケストラをも狂気に導くようなカリスマ性はない。不完全燃焼なのではない。完全燃焼なのだが温度が上がりきらない、そんなもどかしさの残った「悲愴」だった。
November 18, 2014
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タイトルからは敬遠しようと思ったが、蠍座で上映されるのでみることにした映画。原題は単に「マラソン」。経営危機に陥った町工場のような小さな自動車修理工場。足に障害がある移民を雇っているのだが、この移民が元マラソン・ランナーで賞金稼ぎをしていた人物。5人のオヤジたちは、スポンサーを探して広告を背に走り、完走したら借金を返してもらうという計画を立てる。日本映画なら紆余曲折のあげく完走してめでたし、というクサイ映画になるところだが、ヘンタイ国家オランダの映画ゆえ、そうはならない。五人のオヤジのだらしない日常がていねいに描かれ、放恣と紙一重のかの国の自由さがわかって楽しい。不思議なのは、五人のオヤジがだんだんかっこよく見えてくること。アメリカ映画は演出で露骨にそういうつくりかたをするが、この映画はそうではない。メークや服装や髪型ではなく、個性的な人間性、その人間の長所がにじみ出るように前面に出てきて「人間を味わった」という気にさせてくれる。ギャンブルや下ネタにしか興味のないオヤジは日本にも多い。というか、仕事第一でそれらにすら興味のない人間も多い。それに比べると、オランダオヤジのなんと愛すべき存在であることか。やはり日本人はオランダ人に比べて遺伝的に劣った民族なのだろう。ラスト近くの、ロッテルダム・マラソンのシーンは圧巻。80万人が参加するらしいが、応援者は沿道でお茶しながら待ったりと、お国柄がわかる。
November 15, 2014
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4日に池袋の東京芸術劇場できいた東京都響の音がまだ耳に残っているところで、札響定期をきいてみることにした。ラドミル・エリシュカの指揮でウェーバーの歌劇「魔弾の射手」序曲、モーツァルトの交響曲第38番「プラハ」、ブラームスの交響曲第2番。コンチェルトなし、ハープと追加打楽器なしといったエコノミーな2管編成でコンサートをやるときの典型ともいえるプログラム。札響が2管編成だったころにはしばしば遭遇したような気がする。モーツァルトとブラームスは曲想も明るく調性が同じでまとまりがいい。都響との比較で言うと、金管は総じて都響の方が上。木管は五分五分か、札響の方が勝る。弦はバイオリンセクションは都響の勝ち、ビオラ以下はほぼ互角。ティンパニは札響の圧勝。このコンサートに対する興味はそうした比較もさることながら、すべての曲が故武満徹が愛した「札響トーン」、評論家の故武田明倫が指摘した「音そのものに対する畏怖の念」をきくのにふさわしい。この「音そのものに対する畏怖の念」こそが世界の他のオーケストラにはないオンリーワンの札響の美質であり、武満作品の演奏などは他の追随を許さないものある。しかし、モーツァルトやブラームスではどうなのか、どうなってしまったを知るのに最適なのだ。結論からいうと、ブラームスの演奏において、そうした美質をわずかに感じとることができた。この曲を30年前に岩城宏之の指揮する札響で聞いたことがあるが、そのときの残存率を80とすると(ピークは1980年ごろだったように思う)、4とか5まで減少している。尾高忠明の16年で失われたそれが元団員の言うように尾高の責任なのか、時代のすう勢なのかはわからない。たぶん両方なのだろうが、この美質がわずかでも残存する限り札響には存在意義がある。演奏はぎっしり中身のつまった昔の鮨折のように充実したものだった。冒頭のウェーバーこそアンサンブルの乱れが散見されたしエンジンがなかなか温まらないのを感じたが、少しプルトを刈り込んだモーツァルト(10型?)はやや質朴な響きがこの曲にふさわしく、ブラームスは浮ついた熱狂ではなくしっかりした足取りで頂上に到達したようなフィナーレのラストは風格があった。フィラデルフィア管弦楽団やボストン交響楽団など、弦楽セクションのすばらしいオーケストラは弦楽奏者出身の指揮者が音楽監督をつとめたところが多い。札響もまた、創立指揮者はバイオリン奏者、第二代常任指揮者はチェロ奏者だった。2015年からのボンマー=エリシュカ体制は短期間で終わると思うが、その次、つまり次の次の音楽監督によってすべてが決まる気がする。この日(一日目)の演奏は12月21日にNHKEテレで放送される予定。
November 14, 2014
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November 10, 2014
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November 6, 2014
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安楽死という重い現代的テーマに母と息子の確執という、もうひとつのテーマを絡ませている。出来心から麻薬の運搬に手を出して服役した男が出所してくる。フランス映画では常連のヴァンサン・ランドン扮するこの中年男は、母親とはソリが合わない。居候している母の家からすぐ出ていきたいのだがよい職は見つからず、いらつくばかり。せっかくできた恋人とも別れてしまう。脳腫瘍の母は、抗癌剤がきかなくなってきたのを知ると、安楽死=尊厳死をのぞみ、その手続きをすすめ、その日が近づいてくる。スイスにはこうした「自殺幇助協会」があり、法的にも認められているらしい。その一連の手続き、安楽死の方法などが、こう言っては不謹慎だが興味深い。オレンジジュースのようなものを飲むだけで眠るように死ねるなら、何も首を吊ったり電車に飛び込んだりビルから飛び降りたりして他人と社会に迷惑をかけることもない。日本では自殺者3万人と騒いでいるが、経済的理由による自殺は3割程度で、健康上の理由によるものがいちばん多い。安楽死を認めるかどうかといった法的な問題は、生きるか死ぬかの選択権が誰にあるのかという人権の問題だということを教えられる。母の病気と安楽死の希望に気がついたら、豹変して残る時間を母に尽くす。日本やアメリカなら、そうした安っぽくも大甘なストーリーにしないと社会は受け入れないだろう。しかしさすがフランス映画(ステファヌ・ブリゼ監督)、親子の関係は最後まで修復せず、冷徹なまでに突き放して描かれていく。犬に食べさせる毒入りの食事を淡々と作る場面がある。犬は助かったように描かれているのが少し理解不能だったが、なるほど「終活」にはこういうことも含まれるのかと教えられる。こういうテーマの映画は若い人はあまりみないだろうと思っていたら、けっこう若い観客がいた。近くにいた若い女性は、ラストのシーン、息子が母に「愛している」と思わず抱きつくシーンで号泣していた。人間の心理に深入りしない描き方だからこそ、こういうシーンが強烈に突き刺さる。親が死ぬとすぐ遺産相続の話を始め、ゆかんしている「おくりびと」の横で携帯ゲームにふけっている人も稀ではないという日本人は、この映画や「愛、アムール」を100回ずつみるべきだ。
November 5, 2014
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好調が伝えられる東京都響。そういえばしばらく定期演奏会を聞いていなかったと思い、東京滞在を1日のばして行くことにした。指揮のマーティン・ブラビンズにも興味があった。名古屋フィルの常任指揮者をつとめる中堅のイギリス人指揮者。今回、都響には全近代イギリス作品の2つのプログラムで客演した。その2回目は、ヴォーン・ウィリアムズの「ノーフォーク狂詩曲第2番」(ホッガー補完版、日本初演)、ディーリアスのヴァイオリン協奏曲(独奏はクロエ・ハンスリップ)、ウォルトンの交響曲第1番。あらゆる音楽の中で、最も「かっこいい」と感じる音楽は、クラシック音楽の中にある。ウォルトンの交響曲第1番は、その中でも最右翼といえる作品。ブルノ・ワルターが指揮したモノラル盤で知って、この作曲家に興味を持ったのは1970年代のこと。そのとき知った代表作「ベルシャザールの饗宴」は、ライブできいてみたいと願いつつ40年以上が過ぎたがまだ実現していない。交響曲第1番は尾高忠明の指揮で札響で聴く機会があった。1990年代末のことだったと記憶している。ブラビンズは優れた指揮者だと思った。曲を完全に手中にしているのが感じられる。ポイントを要領よく引き締め、スケール感はないものの力まず自然に音楽を高揚させ、あるいは鎮火させていく。ただ感じたのは、練習時間がもう少しあれば、あるいは2日公演の二日目であれば、より優れた演奏になったのではないかということだ。というのは、日本のオーケストラはドイツ・オーストリア音楽を中心にやってきたため、イギリス音楽には不慣れなところがあるからだ。管楽器のソロなども、たしかに上手で音もきれいなのだが、イギリス情緒、みたいなものが感じられない。こういうものは、繰り返し演奏することで身につき表現できるようになるものだ。ディーリアスのこの曲は、「ディーリアン」には感涙ものだろうが、何度きいても没入できない。ディーリアスのほかの曲はいいと思う曲も少なくないが、この曲は「協奏曲」である必要を見出せないのだ。情感があふれているのに品のいいソリストの演奏に酔いながらも、音楽そのものにはどうしても同期できない自分がいた。「日本初演」のノーフォーク狂詩曲第2番は、素朴なだけの音楽かと思っていたら、クライマックスもあり中間部はアレグロになる。静かに始まり静かに終わるが、作曲者はこの曲を交響曲の緩徐楽章とスケルツォにあてる予定だったそう。ノーフォーク狂詩曲第1番はその交響曲の第1楽章になる予定だったのだとしたら、第1番と第2番を演奏し、書かれなかったフィナーレを想像するのも一興かもしれない。(11月4日、東京芸術劇場)
November 4, 2014
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November 3, 2014
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November 2, 2014
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November 1, 2014
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