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さいとうたかをの漫画「サバイバル」全10巻は愛読書のひとつだ。長い人生、いつ何が起きるかわからない。だからあらゆる事態を想定し、しかも不測の事態にさえ適応できるようにしておかなければならない。だからホームレス体験記などにはなるべく目を通すようにしている。最近読んだ中では「ゼロから始める都市型狩猟採集生活」が興味深かった。自己中な人間は無一文で放り出されたとき生きていくことはできないとか、炊き出しに頼ると自立心が失われると考えるホームレスがほとんどといった観察や報告は貴重だ。アフリカや中近東、中南米といった地域の映画はなるべく観に行くようにしている。観逃したら二度と観られない可能性があるし、日本くんだりまではるばる運ばれて字幕がつけられて公開上映される映画は、すでにセレクトされているのでハズレが少ないからだ。アルゼンチン映画「ルイーサ」も当たりだった。日本ではなじみのない、しかしアルゼンチンでは国民的女優だというレオノール・マンソ、この映画が遺作となったらしいジャン・ピエールらの演技がすばらしい。こういう役のできる俳優は日本にはいないしハリウッドにもいないかもしれない。ブエノスアイレスで愛猫と暮らす人嫌いのルイーサ。夫と娘を失った過去をひきずりながらも、仕事を掛け持ちして規則正しい生活を送っている。ある朝猫が死に、同じ日に仕事を2つともクビになる。手元に残ったのは20ペソ(約5ドル)。途方にくれながらも、初めて降りた地下鉄の駅でヒントを得て、猫の火葬費用を稼ぐためにあるビジネスを始めるというお話。強いて分類するならコメディといえるかもしれないこの映画は、しかし多くのことを考えさせてくれる。最初は頑なだったルイーサも、同じ乞食稼業の片足のない老人と知り合って徐々に心を開いていくのだが、この老人の言うこと、老人との会話が実に哲学的でメモをとりたいくらい深い人生の知恵を感じさせる。彼は、乞食稼業を闘いだという。見たくないものを見たくない人間に見せて、罪悪感に負けて小金を差し出す、自分に金を恵んでくれる人間を「負け犬」と言ったりするのだからその思索力の強さはただごとではない。これは最上級の演劇作品でしか接することのできない類の台詞だ。この映画で最も感動的なのは猫の火葬シーンである。この場面のマンソの演技はすごい。ほんとうに愛するものを失ったとき、人間はこういう風に泣くものだ。しかし、100年を超える映画の歴史上、こういう泣き方で悲しみを表現した俳優はいなかった。このシーンだけで、この映画はアカデミー賞受賞映画100本分の価値があると思う。暗い、やるせない話なのに、明るい気持ちにさせられる。「オフビートなコメディ」という評を読んだが、なるほど的確だ。オフビートな人生の方がおもしろく、いろいろな出会いがある。日本で金持ちをやっているより、アルゼンチンで乞食をやった方がおもしろそうだ。
January 30, 2011
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日本の若手ピアニスト河村尚子の札幌デビューとイギリスの中堅指揮者エイドリアン・リーパーの日本デビューは大成功だった。今月の定期も二日目の方が格段によかった。一日目は座席の選択をミスしたこともあり、ソリスト・指揮者の真価がわかりにくかった。キタラホールは、コンチェルトは1階席、フルオーケストラは2階CBブロック23列がベストのようだ。一日目にはやらなかったアンコールを二日目にはやった。鳴りやまない拍手に促されて河村尚子が弾いたのはシューマン(リスト編曲)の「献呈」。ブラームスのピアノ協奏曲第1番という大曲のあとのアンコールとしてこれ以上ふさわしい曲はないと思うが、曲も演奏も美しく、久しぶりに「この時間が永遠に続いてほしい」という感興を味わった。協奏曲ではなくぜひソロ演奏を聴いてみたいと思ったので、このアンコール一曲だけでも千金の価値があった。一日目の演奏が悪かったわけではない。しかし二日目は指揮者とオーケストラの間の意思の疎通というか信頼感のようなものが増し、札響はとくに管楽器がのびのびと演奏しているように見えた。そしてのびのびと演奏しているときの札響というのはほんとうにいい「音」がする。だが両日を通じて何と言ってもすばらしかったのはソリストの河村尚子である。この重厚な大曲が若い女性ピアニストの手に負えるのだろうかと疑心暗鬼で出かけたが、技巧と音楽の間に乖離のない誠実で清潔な音楽作りでここ一発の迫力にも不満はない。コンクール出身演奏家にありがちな自己顕示がなく、欧米の音楽家にありがちな妙なアクセントやルバートもなくどこまでも自然。このピアニストは早くからヨーロッパに出た人らしいが、内向的に集中する日本人音楽家のもつ長所と外へ語りかける表現のバランスが非常にすばらしいと感じた。この「ピアノ協奏曲第1番」はブラームスの20代はじめの作品である。ブラームスというと晩年のヒゲをはやした肖像画が有名だが、若いころのブラームスはたいへんなイケメンで、酒場のピアノ弾きなどをしていた。この曲はいかつい印象があるが、そんな酒場の荒々しさや若いブラームスのロマンティックな心情があちこちに感じられる。河村尚子は、とくに第二楽章のカデンツァなどで、そうしたブラームスの音楽の純粋な美しさをよく引き出していたのは、作曲当時のブラームスと世代的に共感するものを感じるのかもしれない。プログラムなどに使われている写真は「奇跡の一枚」のようで、実物は普通の容姿容貌の女性。気取りのないマナーなどから観察するに、こういう人が「大成」するものである。数十年後には現在の内田光子が占めているようなプレゼンスを世界の音楽界で占めていることと思う。エイドリアン・リーパーの名は初期ナクソスレーベルの常連指揮者として知られるようになった。その演奏は可もなく不可もなくといったところで、クセのない音楽を作る人という印象があった。実際、マイナー・レーベルにときどき見かける名前だけの幽霊指揮者ではないかと思っていた人も多い。しかしリーパーは幽霊ではなく、たしかな技術と音楽を持つ一流の音楽家だった。その手腕は、たとえばブラームスでは低弦の人数を減らしてオーケストラの響きの一体感を作り出したり、強奏部分でピアノがオーケストラに埋もれないように音量のバランスの配慮をするといった職人技に強く感じることができる。演出や余計な表情つけをせず、ブラームスのスコアそのものに語らせる姿勢は好ましい。だがその同じやり方で後半のプロコフィエフ「交響曲第5番」をやられたら退屈してしまいそうだ。そう思って臨んだ後半は、最初の数小節で、それがまったくの杞憂であったことを教えてくれた。たしかにナクソスCDで聴くように強い個性はない。第二楽章などもう少しグロい階虐性を強調してもいいかもしれない。乗ってきたら感興にまかせて踏み外す部分があってもいい。しかし、英国紳士のたしなみというわけでもないだろうが、歌謡性豊かなこの曲を実に上品に歌わせていく。息の長いフレージングが特徴であり長所。フィナーレを聴きながら、この人がラフマニノフの交響曲第2番を指揮したら爽やかさとスケール感の共存したすばらしい演奏になるのではないかと思ったりした。決して吠えないブラス、出過ぎない木管、迫力があっても威圧的にならない打楽器。指揮者の指示もあっただろうが、すべてにバランスのよい秀演で、ラストの切迫した部分の表現を除いて、過去2回の札響定期でのこの曲の演奏をはるかに上回っていた。
January 29, 2011
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2010年には2本の日本映画が話題になった。「告白」と「悪人」である。漢字二文字のタイトルであること、どちらも日本映画特有の感傷性がない、暗い話でカタルシスもない、にも関わらず興行収入は30億とも40億とも言われる大ヒットとなったことなど共通点が多い。調べてみると同一のプロデューサーによる作品であり、テレビ局が出資をしていないといった共通点もあるようだ。 しかしこの二作を並べて評するのは「悪人」に失礼だ。「告白」が駄作、それも超のつく駄作であるのに対し、「悪人」は、「超」はつかないかもしれないが傑作であり、もしかしたら映画史を画することになるかもしれない作品だと思うからだ。李相日(イ・サンイル)監督はまだ30代なかばの若さだが、映画文法の基本に則った場面展開はいわゆる「若手」のひとりよがりな傲慢さとは無縁な安定感があり、それでいてベタな展開にならず観衆を深い思索に誘うシーンが散りばめられている。救いのない話でありながら希望を与えてくれるのはそうした細部のせいだが、そうした細部の輝きが、この作品が単なる不幸な恋人たちの逃避行ドラマに終わらない傑作となった理由であり、日本映画はもしかしたらこの一作によって、世界の多くの映画を後方に追いやり最前線に躍り出たかもしれないと思わせる。もちろん、モントリオール国際映画祭で主演女優賞をとった深津絵里をはじめ、端役に至るまですべての出演者の演技は見事の一語につきる。これはこの監督の現場掌握力の確かさを物語っているし、地方都市の閉そく感やイマドキの若い女性のイヤな面も戯画的な強調なく自然に描かれているのにも、社会や人間にたいする観察力の鋭さや確かさを感じる。安易な映像がまったくなく、ひとつひとつのシーンの完成度も高い。出演者たちの演技の見事さや、ナゾを残して終わるストーリーについてしか論評しない人が多いが、まず注目すべきは李相日監督の全体的な力量、才能、手腕の高さである。そのことに気がつかないのは、「指が月を指すとき、バカは指を見る」ということわざにあるバカの一種にすぎない。 幼いころ母に捨てられ祖父母(祖母役は樹木希林)の面倒を見ながら車だけを趣味に暮らす長崎の土木作業員(妻夫木聡)は、出会い系サイトで知り合った福岡の保険外交員の女(満島ひかり)を殺してしまう。殺された女の父(柄本明)は、娘を山奥に置き去りにした裕福な遊び人の大学生(岡田将生)を追う。佐賀の紳士服量販店で働く女(深津絵里)は妹と二人で暮らし、職場とアパートの往復だけの退屈な日常を送っているが、やはり出会い系サイトで知り合ったこの「殺人犯」の純情さに惹かれ愛するようになる。自首を止めさせ逃避行を共にしていく。 感動的なのは、殺人犯と知りながら愛する女の、その愛の純粋さと、殺されてもしかたのないような自分勝手な女ながら殺された娘を思う親の気持ちが伝わるからであり、この映画がヒットしたのはそうした大衆受けのする要素が全作を貫いているからだろう。 しかし重要なのは、主人公の寡黙さにある。警察に捕まる直前、男は女を殺そうとする(本気で殺そうとしているように見える)のだが、主人公がそれまでにもほとんど何も心の内を語らないことによって、その行為の意味がナゾとして残る、まさにその部分にある。ほとんどの観客は、この男の行為に何らかの「意味」や「理由」を見つけ納得しようとするだろう。 ありがちなのは、女を逃亡の共犯にしないために、被害者に見せかけるという男の愛情から出た行為であるという解釈であり、次にありがちなのは、離ればなれになるくらいなら殺して自分のモノにしてしまいたいという異常愛による行為だという解釈だろう。 しかしこの映画は恋愛映画ではないし、ふとしたことから殺人者になってしまう事情への洞察を求める社会派映画でもない。ナゾときのミステリーでもない。残されるナゾは、誰が悪人であり、そもそも悪人とは何かという問いである。純情な魂を持つ男は、もしかするとほんとうの悪人だったかもしれないと暗示させるラストは、物事に「答え」や「意味」や「理由」を見つけなければ安心できない観客の「小市民性」をこそ狙撃しているといえる。 もしかすると映画史を画する作品になるかもしれないと書いたのは、まさにこの一点による。反差別思想などの特定のイデオロギーによらない、映画による小市民性への狙撃。監督自身が意図したかどうかは別として、結果としてそういう作品になっているし、そうした作家性と商業性のバランスをとることができたのは奇跡的ともいえる。 この映画を観ていて、熊井啓監督の「地の群れ」を思い出した。あの映画もたしか長崎とその周辺を舞台にしていたが、被爆者と部落民と朝鮮人が重層的に差別しあう救いのない現実を描いていた。「悪人」が「地の群れ」とちがって救いがあり希望があるのは、たとえばマスコミに追いかけられる祖母を「負けるなよ」と励ますバスの運転手や、殺された娘の父親を笑う傲慢な大学生に怒りを爆発させる友人といった「端役」の存在があるからだ。李相日監督の、こうしたディテールへのこだわり、個々の人間を凝視する姿勢は、いまの映画に最も欠けているもののひとつだ。
January 22, 2011
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この映画は傑作だ。いくつか留保点はあるにしても、ドキュメンタリー映画の新しい地平をひらくものであり、類似の作品を全く見いだせないほどユニークかつ斬新な作品である。「アヒルの子」は1984年生まれの小野さやか監督が映画学校の卒業作品として制作した2005年のセルフ・ドキュメンタリー。トラウマを抱えた小野監督自身が家族にそのトラウマをぶつけていく過程と、トラウマの原因となった5歳の1年間を過ごしたヤマギシ会の関係者を訪ね歩く中で自分の過去を「発見」していく過程を「記録」した90分。見始めてすぐ、独特のタッチが原一男監督の作品と共通するのを感じた。予備知識なしに見たので、原監督の作品かと思ったほどだ。制作総指揮に原一男の名前があるので、この映画に彼が果たした役割はかなり大きかったと思われる。傑作なのに留保点があると書いたのは、原一男とその方法論の影響が大きいと思うからだ。原一男の作品では、たとえば「ゆきゆきて、神軍」でもわかるように、ドキュメンタリーの対象者がカメラの存在を意識することで演技をするようになっていく。言ってみればドキュメンタリーとは自発的なやらせでありそれを肯定する立場をとっている。自分と家族の「恥部」までをとことんさらけだそうとする「作家魂」の前に、そうした問題はとるに足らないと思えるのもたしかだが、ドキュメンタリーのこうした方法に全面的には賛同できない。しかし「傑作」だと思ったのは、どこまでが自発的な無意識の演技かわからないにせよ、それでも、その人自身の本質的な人間性が浮かび上がってきている、この作品はそれを見事にとらえていると感じたからにほかならない。たとえば小野さやかの両親である。悪意のない、子ども思いのごく普通の両親であり、むしろすばらしい親に分類されるだろうこの人たちは、しかし他人への想像力を著しく欠いていることがわかる。特に、自分自身の心の深いところから出たのではない言葉しか語ることのできない母親やヤマギシ会教育係女性の持つ「おとなの醜さ、愚かさ」は「ヤマギシ会」同期生(小野さやかと同期だから当時20歳前後か)たちの率直さ賢明さと好対照。こうした自己欺瞞に対する静かな告発になっているというふうにこの映画を観る人はごく少数だろうが、それが最も強い印象となって残った。トラウマのない人というのも世の中にはいるにちがいない。しかしほとんどの人は何らかのトラウマを抱えている。ひとりの少女の、トラウマととことん向き合うど根性、そしてその難詰にきちんと向き合おうとする人の姿、そうしたものの全体がトラウマに対する癒しになる効果もある。強迫性の精神障害を持つ人たちには特効薬のような作用を持つかもしれない。
January 20, 2011
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年末年始はできるだけ映画館で映画を観るようにしている。映画館で観る映画を選択するとき、まず考えるのは映画館で観なければ価値がわからないと思われる映画であり、ソフト化されていない作品であり、レンタルでじゅうぶんと思われる映画を除外することだ。そもそもハリウッド映画は2回観るように作られている。2回観ても楽しめるというか、2回目であちこちの仕掛けがわかるように、わざとテンポが速く作られている。逆に言えば、2回観ればじゅうぶんというか、それ以上の発見はない。「戦艦ポチョムキン」や「七人の侍」なら10回観ても発見があるだろうが、万人向けのエンタテイメントとして底の浅い映画として作られている。そういう映画はレンタルでじゅうぶんだ。そうすると映画館で観るべき映画は、どうしても「重たく」「暗く」「長い」ものが多くなる。この映画は「映画館で観なければ価値がわからない」どころか、60インチ程度の「小型液晶画面」ではワケがわからない映画であり、最後まで画面に集中できる人はまず皆無だろう。「エンター・ザ・ボイド」は「虚無への入り口」とでも訳すのだろう。意味深なタイトルはボイドという店の名前にひっかけていることが映画を観るとわかるのだが、輪廻転生をも意味している。東京を舞台にしたこの映画、いったいどうやって撮影したのだろうと想像もできない映像が続く。麻薬密売人の男があっけなく死に、その魂が愛する妹の姿を求めて東京の街をさまよい、ときにワープするというだけのお話だが、その麻薬のトリップ感覚やチベット密教的な幻想性を出そうとしたと思われる映像が果てしなく続いていくのだ。それは美しいとかグロテスクとかいう以前の、意識下の意識、美意識以前の皮膚感覚や胎内感覚を感じさせるような、五感の視覚への統一もしくは収れんといったような不思議な感覚を呼び覚ます。2時間30分を軽く超える上映時間が、さしたるストーリーの展開もなくあまり長く感じられないというのは稀有な体験。この映画の監督ギャスパー・ノエはフランス人だそうだ。なるほどこうした退廃というか虚無へのこだわりはフランス人的といえる。しかしそれにしてもエロティックなシーンはもう少しピントの合った鮮明な画像で観たかった(笑)
January 3, 2011
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「ALWAYS3丁目の夕日」の炭坑町バージョンだろう、それ以上でもそれ以下でもなければそれでいい。そう思って観てみたが、それ以下、それもかなり下まわった。監督の平山秀幸は1950年生まれだから、昭和30年代のことはリアルに知っているはずだ。しかし、昭和30年代の人たちのメンタリティはこの映画に描かれているようなものではなかったと思う。神は細部に宿るというが、その細部がかなり食い違っている。日本人はあんなに早口でしゃべらなかったし、感情表現はしなかった。子どもはおとなしかった。パッチをするとき、あんなにはしゃいで大げさにやったりしなかった。生活に必死だったので、他人のうわさ話などへの関心も薄かった。男女関係にナイーブなのはその通りだったと思うが、それ以外はまるで今の時代とあまり変わらないメンタリティで生きていたような錯覚を与えてしまう。在日朝鮮人<問題>や御用組合のスト破りといった社会的な問題が描かれていて奥行きが生まれ、その点では救いがあるが、朝鮮人炭坑夫がスト破りに加担するなどという状況は想像しにくい(そういうことがほんとうにあったのだろうか?)。そういった細部が不正確に感じられ、争議のシーンなどステレオタイプな表現でわざとらしいので、ストーリーに感情移入する前に白けてしまうのだ。一方、炭住や商店街、室内風景や工場といった部分の視覚的な部分の作り込みはすばらしい。こちらの細部には神が宿っている。離婚して子どもを抱えた女が炭坑町の故郷に帰ってくる。その子どもをいじめから守ってくれたのがタイトルにある「信さん」で、その信さんと女との淡い恋の物語。原作は辻内智貴の同名小説。この女役が小雪とくると、誰もが「3丁目の夕日」のレベルを期待するにちがいないが、その期待は裏切られてしまった。だいたいこの時代の小学生が20歳も年上の女性に恋心を抱くなどということは決してなかった。わたしはかなり早熟な方で、小学校6年のときの親友の母親はすごい美女だったが、彼女が独身だったとしても恋心は抱かなかった。こうした原作の設定そのものに無理があったのだ。ひとり、優れた若手俳優を見つけた。成長してからの子ども役を演じている池松壮亮である。1990年生まれとのことだが、イマドキの若者にしては目に力があり、役作りもうまい。こうした俳優をどれだけ育てられるか、いい作品に出せるかが日本映画の将来を占う試金石になる。孤児のような不幸な生い立ちと育ちながら、義侠心に富み、妹のために粉骨砕身して働く信さん役を演じている石田卓也は、ミスキャストではないが、リアリティを欠く。彼が演じると、どこか今の若者風に見えてしまい、同情を誘わないのである。たとえばアラン・ドロンは、あれだけのイケメンでありながら、黙っていてもどこかプロレタリア(労働者階級)的な育ちの悪さを感じさせるところがあったが、石田卓也にはそれがない。豊かな時代に生まれ育った人間には、貧しい時代の人間を演じることができないのだろうか?そんなことはないはずだ。篠田正浩監督の「瀬戸内ムーンライトセレナーデ」で、船室でいろいろな日本人が集まって話をするシーンがあるが、あのシーンには、ほんとうにこういう人たちがいたと思わせるリアリティがあった。戦後日本の初心が見事に描かれていたが、しょせん、篠田正浩のような大監督と平山秀幸では器に差がありすぎるということだろう。
January 2, 2011
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映画は詩でなく、詩は映画ではない。しかし、詩的な映像というのはあるし、詩のような映画もある。その伝でいけば、「海炭市叙景」は詩になり損ねた映画といえるかもしれない。5回も芥川賞の候補になりながら1990年に自殺した函館出身の小説家、佐藤泰史の短編小説の映画化。5つの短編小説がオムニバス形式で映画化されている。それぞれの登場人物は重なりそうで重ならず、交じり合いそうで交わらず、事件らしいことは起きず、ただ淡々と、疲弊した地方都市ならありそうな日常が過ぎていく。韓国映画「八月のクリスマス」の、水だったかお茶だったかを入れるシーンの詩的な美しさが印象に残ったことがある。しかし、この映画では、そういったようなシーンにも「詩」を感じることはない。この映画では、何らかの失意を抱えながら生きている人々の日常が散文的に描かれるだけで、そこに詩はない。これはまだ30代なかばの熊切和嘉監督に詩的感性が欠落しているからではないだろうか? 造船ドックの整理・回顧シーンに端的な、やらせのドキュメンタリーのような不自然で作為を感じさせるいくつかのシーンはまあ大目に見るとしよう。しかし、この詩的感性の欠落は疲弊した地方都市の日常そのものより貧しい。俳優の演技力にも差がありすぎる。小林薫や南果歩といったベテランとそれ以外との落差が大きすぎて、いちばん記憶に残ったのが南果歩の化粧シーンだったりする。この作品は、地元の人たちが資金を含めて制作に協力し、函館市民もエキストラに多く出演している「市民参加型」の映画として、エンタテイメントに堕さない格調高い映画として、美談調で語られ高く評価されていくにちがいない。しかし、この映画は駄作だと思う。原作に原因があるのか、監督の責任なのかはわからない。しかし、30代なかばのジョゼッペ・トルナトーレが「ニュー・シネマ・パラダイス」を作った事実や、チェーホフの何と言うこともない短編から「黒い瞳」を生み出したニキータ・ミハルコフの「創造」を思い起こすとき、稚拙な映画と言わなければならない。日本映画にはときどき、言葉が聞き取りにくい部分がある。ドキュメンタリーならしかたがないが、劇映画では決してあってはならないことだと思う。この映画にも何カ所かあったが、そのあたりの無感覚には表現者としての傲慢さを感じる。映画は夢を見せるだけがすべてではない。現実を淡々と描く映画があっていい。しかし、そこには何らかの発見がなければならないし、詩がなければならない。その二つを欠くこの映画は、結局、ローカルなご当地映画としての意味しかない作品になってしまった。
January 1, 2011
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