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旅行もそうだが、映画もできるだけ自分の住んでいる場所から遠く離れた国や地域を優先したいと思っている。地理的な距離はほぼイコールで文化的な距離であり、それだけ情報も入らないからだ。日本から最も遠いのはブラック・アフリカや南米だが、自主上映などで取り上げられることはあっても商業映画館で上映されることは少ない。東京以外ではさらに少ない。というわけで、道内初公開のコロンビア映画を見ることにした。スペイン人指揮者がボゴタのオーケストラの音楽監督になり、恋人と共に赴任する。しかしこの恋人が失踪し、自殺したと思いこんだ彼は新しい恋人を作る。これだけならよくあるメロドラマだが、失踪のいきさつというのが一ひねりしてあって、要するに「女の浅知恵」の結果の自業自得だったりする。殺人事件も起こらず、超常現象も起こらない。にも関わらず、どうなるかとドキドキさせる趣向が盛り沢山で、ラスト近くでは観客をドキドキさせた現象に関しての説明のような映像もあって親切だ。ラストもひねりがきいている。まさか、と思われる展開であっけなく終わるのだが、その後いったいどうなったかは観客の想像にゆだねられる。どうなったかを話し合う楽しみを残してくれる映画であり、これはやはり恋人同士で見にいく映画だろう。女の浅知恵と軽薄さと狡さとこわさがかなりえげくつなく描かれた、ある意味では女性差別映画かもしれないが、ラテンアメリカだけでなく、ステータスのある男に執着する女全般に共通するものをつきだしている点が新鮮な映画だった。それにしても指揮者役の俳優の指揮姿というのはなぜかいつも不自然だ。指揮者というのは半拍速く指揮するのに、映画での指揮者はいつも半拍遅れる。クラシック音楽の素養のあるスタッフがひとりもいないのがバレバレだ。主演のマルティナ・ガルシアは、コロンビア人にしてはバタくささがなく、東洋的な雰囲気もあって親近感を感じさせる。
January 30, 2013
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現代美術家のドキュメンタリーだというので、敬遠しようと思っていた。しかしどうもタイトルが気になってしかたがない。自分を撮った映画にこういうタイトルを許容する人物はきっとおもしろいヤツにちがいない。そう思って観ることにしたら、その独特なキャラクターというかパーソナリティに(作品それ自体よりも)感銘を受けた。会田誠は1965年生まれのコンセプチュアル・アーティストとでもいうべき美術家。「天才でごめんなさい」というタイトルの個展が3月末まで東京の森美術館で開かれている。その会田誠と家族(妻と子ども)に密着し、海外と国内各地での生活や創作現場をありのままに写しとっている。創作中のつぶやきやため息、試行錯誤の過程も隠すことなくとらえた異色のドキュメンタリーと言っていいかもしれない。何年もかけて一つの作品を仕上げていく、どこを改良すればよくなるかは直観的にわかっているが、時間の制約がそれをゆるさず、未完成のまま出展されていく、そんな過程が細かくとらえられているので、この映画を見ると美術作品を見るときの視点が広がるような気がする。大胆さと完璧主義の共存。大芸術家にはそういった資質を感じることが多いが、会田誠からも同じものを感じる。個展にも足を運んでみることにした。
January 29, 2013
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北海道で生まれ育ったので、日本文化にはなじみがない。瓦屋根とか雨戸のようなものでさえ珍しい。日本の伝統的な風習(祭りなど)をよくテレビで見るが、アマゾンの奥地に住む人たちを見ているような違和感がある。母は着物を着なかった、というよりそもそも持っていなかった。そのせいか和服の女性には反感を感じることすらある。「日本の美」とされるものに美や価値を見いだすことはほとんどない。日本文化のほとんどは中国など外国の劣化コピーにすぎないとしか思えない。革命とは権力の交代のことではない。人々の日常生活と文化そのものを変えることである。日本文化のほとんどは天皇制や儒教道徳に由来する封建遺制、農本主義ナショナリズム、平たく言えば「ムラ社会」に根拠をもつ。したがって、日本文化を破壊することは進歩的な社会を作るうえでの決定的に重要な環をなす。「里山」のようなものに日本の原風景を見いだし擁護し「愛郷心」をわめきたてるような(たとえば革マル派の故黒田寛一)感性は国粋右翼と同一のものである。しかしそんな「日本文化」の中にも独創的で保存すべきものがないわけではない。「竹皮細工」はたぶんその一つだろうと思う。北海道には竹がない。だから竹皮にもなじみがない。おにぎりや押し鮨の包装に使われているものに接するくらいで、ほかに用途などないと思っていた。しかしこのドキュメンタリー映画では、九州の山奥で竹の皮を採集する農家から、それを加工してみごとな工芸品に仕上げていくいまは少なくなった職人たち、その伝統の技を保存しようとする人たちといった竹の皮をめぐる壮大な物語がとらえられている。高級雪駄、日光下駄、羽ぼうきといったものが細やかな工夫と根気のいる手作業で作られていくさまなどは、学術映画的な部分もあるが、退屈さはなく、むしろ驚かされることばかりで「知る」ことの楽しさを満喫できる一本だった。ただ、竹は日本だけのものではないし、竹文化は東南アジア全体に広く存在する。そうした「東南アジアの竹文化の一部」としての視点の提示があったらとは思う。観光地の土産物屋で竹細工のものなどを見るとき、それを作った人の技や労力をうっすらとではあれ想像できるようになると思う。それがどんなに大切なことかは、こういう映画を見るとわかる。
January 28, 2013
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映画はすべて作り事の世界だ。俳優は演技しているだけだし、物語そのものも虚構だ。制作者と出演者がよってたかって観客をだますのが映画だと言っていい。マネッティ兄弟が監督した2011年のイタリア映画「宇宙人王さんとの遭遇」は、正義感の強い人間の善意に基づく行動のために人類が滅びるという話。ところが、最後のオチの直前まで、観客が正義の味方の行動に共感し、感動さえしてしまうように作られている。それがひっくり返される。最後の一言「おまえ、バカだな」は、正義感あふれる人物の行動に拍手を送っていた人間、つまりこの映画を観ていた観客のほぼ全員に向けられている。してやられた、何重もの意味で「だまされた!」と思って席をたつことになるが、痛快なオチではあった。地獄への道は善意で敷きつめられている、という言葉は割と知られているが、この言葉のほんとうの意味というか深さを知る人はほとんどいない。冷静な社会分析や警戒心を欠いた善意は、自分だけでなく世界全体をさえ危機に陥れることがあるが、そういう善意の危うさというより軽薄さを見事につきだした映画になっている。日本やアジアの映画では悪人は悪人面をしているが、ハリウッド映画ではいちばん善人に見える人間が実は悪人であることがほとんどだ。いささかステレオタイプなので先が読めてしまう。しかしこの映画にはしてやられた。だまされる快感を満喫できる、低予算SF映画。
January 27, 2013
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札幌で1年に上映される映画は外国映画と日本映画がそれぞれ300本くらいらしい。蠍座の田中支配人は外国映画に関してはその3分の1くらい観ているという。その田中支配人が2012年に観た外国映画の中でのベスト10として挙げている映画の一つが2012年のイギリス・オーストラリア合作の「オレンジと太陽」。19世紀から1970年代まで行われていたイギリスの国家的犯罪を暴いた夫婦の活躍を描いたもの。その国家的犯罪とは、親と暮らせない事情の子どもを教会などと連携してオーストラリアに移住させた「強制移民」というべきもの。13万人以上の子どもが労働力として送られたという。移住先の「孤児院」では搾取と虐待がひどく、しかもその蛮行には教会や慈善団体までは深く関わっていたというのだから驚くし呆れる。夫妻の精力的な行動によって全貌が明らかになり、2010年にイギリス政府が公式に謝罪したことは世界的なニュースになったらしい。国家悪・社会悪を暴きながらも、全体のタッチは温かく、押しつけがましさが皆無のなかなか優れた映画になっている。ジム・ローチ監督はケン・ローチの息子だというが、社会派の血は遺伝するのかもしれない。エミリー・ワトソン演じる社会福祉士の女性が、ふとしたことからこの問題の存在に気づき、行動を起こしていく。さまざま軋轢や個人的葛藤も生む。とりわけ優れていると思ったのは脚本で、この女性の「強い正義感に裏打ちされているが寛容な知性」を強く感じさせるものになっている。たとえば、教会関係者の集まりで批判されるシーンでは、彼女は「あなたたちに謝罪と反省の機会を与えてあげたいと思っているのです」と傲然と言い放つ。その場の人間はぐうの音も出ない。糾弾や弾劾ではなく、加害者の魂の救済が視野に入っているからこそ出る言葉だ。これこそ、われわれが学ぶべき西洋的な知性の最良のあり方なのではないだろうか。ともあれ、「民主主義国」の手本であるようなイギリスでさえ、国家は国民のためになど存在していなかったという「歴史的事実」は肝に銘じておくべきだろう。
January 21, 2013
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林光がいなくなって1年がたつ。こんにゃく座での日本語オペラ、本人は「ソング」と呼ぶことを好んでいた歌の数々は、神経過敏症のクラシック音楽ファンではなく、生きるための歌や音楽を求める人々のところへと広がっている。音楽ホールの薄暗がりではなく、地域のコミュニティで鑑賞され、青空の下でよりより世界を求める人たちが歌いついでいる。YOUTUBEでしか聴けない林光の幻の歌がある。佐藤信作詞の「すたこら階段」である。すたこら階段1968年2月に「自由劇場」が上演した「ヴェト・ロック」の劇中歌で、ヴェトナム反戦のブロードウェイ・ミュージカルの日本語版初演にあたり、新しい歌を入れようということで作られた歌だという。合唱用の編曲がNHKで放送される話が持ち上がったが、歌詞の「コカコーラ」を変えろといわれ破談になったというエピソードもある。ここにアップされているのは2010年7月24日、こんにゃく座スタジオでの上演。最後の2行「コカ・コーラよりはましなやつを せめてゲップじゃ終わらないやつを」の部分がビートルズの「マジカル・ミステリー・ツァー」のパロディであることに気づく人は多いだろう。何度か聴くうちに、もしかしたらこの曲のほとんど全部が当時の流行歌のパロディなのではないかと思うようになった。というのは、林さんがこの歌を作曲した1967年から68年はちょうど音楽に関心を持ち始めたころで、ラジオで聴いた欧米のロックやポップスが記憶の鍋の底にこびりついている。同窓会でのクラスメートとの再会のように、すべてのフレーズがどこかで聴いたことがあるような懐かしさを感じるのである。冒頭の「すたこら階段登るんさ 休まず一気に登るんさ」の2行は、ウォーカー・ブラザーズの67年の大ヒット曲「ダンス天国」のパロディに間違いないと思う。ちょっと聴いただけではわからないかもしれないが、最初の3音を省いてみるとわかる。そっくりだ。「ちょいと気になるミニドレス 粋に構えたビートひげ」も聞き覚えがあるが、顔は思い出しても名前を思い出せない同窓生のようでもどかしい。「地下鉄降りてまっしぐら 押し合いへし合い大賑わい」の部分はアニメ「狼少年ケン」の主題歌からの引用ではないかとにらんでいる。「そこで一本コカ・コーラ てんで安いよたったの三十五円だ」のフレーズは、このころの歌謡曲やCMに詳しい人なら出典がわかるのではないかと期待している。しかし引用だとはっきりわかるのは「マジカル・ミステリー・ツァー」だけで、ほかはまるで一筆書きのように即興で一気に作られた曲のように感じる。才気煥発という言葉はこの曲のためにあるような言葉だ。この演奏は、とりわけピアノ伴奏がすばらしい。ピアノ伴奏といえば、ここでは林さんのピアノ伴奏を見聞できる。うたやや上品に取り澄ました合唱に対して、林さんは中間部で激しい演奏を繰り広げている。歌をどこでおぼえた、石を投げながらおぼえた、闘いを知っておぼえた・・・こういう歌詞の歌を、品格を失わないように、しかも激しさや強さを損なわずに歌うのはきわめて難しい。この合唱は悪くはないが、言葉にリアリティを感じさせない。機動隊に向かって投石した経験のない人に、こういう音楽は不可能なのだ。林さんの伴奏は、そういうジレンマにややいらだっているようにも聞こえるが、これほど音楽的に豊かな、というか「音楽のある」ピアノ伴奏のできる人は、世界じゅうを見渡しても数えるほどしかいない。このアンコールソングはアマチュア合唱団のコンサートでよく聴く。しかしいったいぜんたい歌詞を意味をわかって歌っているのだろうかと思う演奏がほとんどだ。ヘルメットにゲバ棒で歌うくらいの演出がなぜできないのかといつも思う。林さんは類まれなユーモアの資質の持ち主だった。ユーモアといえば武満徹を思い出すが、武満徹とはまったく異なっていた。どこが違っていたかうまく言えないが、人間の愚かしさを笑いとばすようなエピソードを必ずと言っていいくらい語った。ベートーヴェンやモーツァルトについて語った講演会に行ったことがあるが、ベートーヴェンやモーツァルトがいかに愛すべき資質を持った人間だったかに目を啓かれる思いがした。それ以来、クラシック音楽に対する見方が根本から変わったほどだ。そのユーモアはしかし真摯な社会批判から生まれている。その批判の視座がどれだけ鋭く深く、あえていえば「過激な」ものかは、ユーモラスな音楽が愉快な「夢へ」に端的に表れている(2曲目、2分ちょうどからの歌)。黒い鉄の箱(国立歌劇場)がさびて崩れ落ち、廃墟からオペラがよみがえるというヴィジョンは美しい。注文の多い歌劇場それにしても「すたこら階段」のピアノ・パートは痛快だ。もし生まれ変わることがあるなら、この曲だけを演奏するピアニストになりたいと思っている。
January 5, 2013
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何度でも言うが、新しい年を迎えて、まずするべきことは年を越せなかった人たちのことを思い起こし、記すことだ。1月、前年の10月から意識不明だった作曲家の林光が死んだ。81歳だったが、あと何年か生きてくれたら、人類の至宝といえるようなすばらしい作品をいくつものこしてくれただろう。それを思うと、悲しいというよりも惜しい。いわゆる前衛音楽とは少し違う場所にいた人だが、その存在と立ち位置自体が、しょせん高度消費文化の徒花の一種でしかないクラシック音楽の一亜種としての前衛音楽に対するアンチテーゼになっていた。一方、「クラシック」の枠内でもショスタコーヴィチのような、暗喩に満ち密度の濃い「純音楽作品」を書いていた。弦楽四重奏のための「シャコンヌ」などは、バッハのかの同名の作品に比肩しうる密度を持った唯一の作品と言っていいくらいだ。社会的な視野をもった活動を主とし、音楽市場での活動を従とする音楽家のあり方を示した先駆者として、いずれ作品だけでなくその生き方が高く評価される日が来るだろう。6月には医師の原田正純が急性骨髄性白血病で死んだ。77歳だった。原田さんと会ったのはユージン・スミスの水俣写真展の宣伝のためにいろいろなイベントを打った中にシンポジウムがあり、パネラーとして来てもらったときだったと思う。1978年、原田さんは熊本大医学部助教授で40代の壮年だった。最近もNHKのドキュメンタリー番組で紹介されたが、土本典昭監督の水俣シリーズの映画にしばしば登場する。自ら現場におもむき患者と対話を重ねる白衣を着た青年医師としての姿が印象的だった。酒席での原田さんとの数時間は、30年以上たったいまも鮮やかだ。そのころ、原田さんのやっていたことの意味は半分もわかっていなかった。発生当時、水俣病を風土病とみなした東大医学部などから批判され、水俣病の隠蔽と収束を画策する保守系の市民や行政ばかりでなく反公害運動に分裂と党派利害を持ち込む日本共産党などから警戒され、嫌がられたのが原田さんだった。そういうことは知っていたが、医学会での孤立や排除といったことまであったとは当時は知らなかったし、そんなことは原田さんはいっさい話さなかった。水俣病の原因究明に取り組んで「胎児性水俣病」を証明した原田さんの業績は、それ自体がノーベル賞級だと思うが、何より印象に残ったのは、人を温かくつつみこむ笑顔、わかりやすい言葉と穏やかな語り口、そうした中からにじみ出てくる鋼のように強いが柳の枝のようにしなやかな「正義感」だった。正義を振りかざし大言壮語する国士的人物、スタンドプレイは好むが日常活動をおろそかにする活動家への警戒心は、たった一度だけの酒席での原田さんとの出会いで養われたものだ。NHKのドキュメンタリーでも、病身に鞭打ちながら不知火海沿岸の住民に大規模検診を呼びかけたり、患者と向き合い続ける原田さんの姿がとらえられていた。その姿にほとんど神を見る思いの人は少なくないだろう。だが原田さんは硬いだけの人ではなかった。大学の予算で水着写真集を購入させたことなどを茶目っ気たっぷりに語った。官僚的で硬直した大学機構をおちょくって遊ぶのも好きなようだった。しかしそんな原田さんに、真剣に怒られたことがある。当時の原田さんは、指名手配犯として追われ地下に潜行していた京大助手の滝田修こと竹本信弘と瓜二つの風貌だった。竹本夫人さえ間違えたというくらい似ていたのだが、ローザ・ルクセンブルクの研究者でパルチザン五人組運動を唱えていた竹本信弘の話から、大正行動隊の谷川雁の話になったのである。しかしそこにいたぼくを含めた学生全員が、谷川雁の名前は知っていても何かを語れるほどには知識がなかった。そうしたら、それまで柔和だった原田さんの顔色が一変し、「谷川雁を知らない君たちは不勉強にもほどがある」と怒ったのだ。谷川雁は詩人で「大衆に向かっては断乎たる知識人であり、知識人に対しては鋭い大衆であれ」という「工作者宣言」で知られる。当時の認識は時代遅れのナロードニキでしかないというものだったが、そうか原田さんにとっての先達は谷川雁だったのかと思い、流行の思想を追う自分たちの軽薄さを思い知らされたものだった。ぼくらのような学生にも真摯に怒る、そういう知識人というのはそれ以前も以後も、一度も出会ったことがない。公害患者を政治的に利用しようとする動きはかつてもあるし、いまもある。しかし、患者の立場に立ちきった原田さんのような人がいたおかげで、そうした動きが主流になることはなかった。その活動は人々の良心をゆさぶり、会社側や行政の人間はおろか、自民党のような政党の中にさえ支持者を増やし時代と状況を動かしていった。もし原田さんがいなかったら、水俣病は闇から闇へと葬られていたかもしれない。そうすれば、日本中で同じようなことが起きていただろうし、逆に水俣の経験に不十分にしか学ばなかったからこそ、原発ができてしまったともいえる。9月には詩人の江原光太が死んだ。89歳だった。小熊秀雄賞を複数回受賞というのはほかに例がないのではと思うが、マスコミふうに言うなら、反権力と反骨の「民衆詩人」だった。江原さんと初めて会ったのは1978年3月26日、あの三里塚空港管制塔占拠闘争のあった日のことだ。現地集会に合わせて札幌でもデモがあったが、その参加者のひとりだった。片足をひきずって歩く、何だかヒッピーみたいなおじいさんがいるなと思っていたら、デモのあとの交流会でそれが江原さんだと知った。ちょうどいまのぼくの年齢と同じだが、白髪と風格のある白い髭が印象的なその風貌はまさに好々爺という感じだった。江原さんの生涯について詳しくは知らない。戦後日本共産党員となり、若い頃は新聞記者で、北海道新聞労働組合の委員長をつとめたこともあるときいた。中核派北海道委員長(当時)だったN氏と三越のエレベーターガールを取り合って負けたとか、そのN氏とブント創設者のひとり戸沼礼二氏と三人で広告代理店を始めてうまくいったがドロドロした商売がいやでやめたとか、札幌べ平連にずっと参加していたとか、それくらいの話しかきいたことがないが、登場人物のスケールの大きさと淡々とした語り口の落差が印象的だった。知り合ったころは個人で出版社をやっていた。自分の詩集とか、およそ売れそうにない自費出版物を細々と作っていた。面白かったのは江原さんの作る本が、実に人間くさいというか、それぞれが個性的な手作りだったことだ。もちろんタイプ印刷やオフセット印刷のものも多かったが、ガリ版のような手書きをそのまま本にしたり、版画で作った本もあった。太い糸で綴じられた厚紙だけで作られた本もあり、本はその内容によってふさわしいかたちがあるということを知った。戦前の本にはそういうものが多く、ほるぷ出版から復刻されているのを手に入れたこともあるが、江原さんの作った本はそれ自体が作品で、芸術であるような何かだった。江原さんはよく昼間からお酒を飲んでいた。あのころ、そういう日本人はほとんどいなかった。しかし酒量はさほど多くなく、酔いつぶれたり乱れたりするのを見たことがない。酔って少し気分がいいと、突然、詩の朗読をはじめることがたまにあったくらいだ。誰でも分け隔てなく受け入れる大らかな性格、反骨だがユーモアのある詩人としての資質から、多くの人に愛されていたように思う。地方新聞などからよく原稿を依頼され、原稿料が入ったといっては酒場に通っていた。そして、市営住宅住まいの貧しい白髪の、しかもカリエスで体の不自由な老人なのに、女性にすごくもてた。詩と侠気ある資質に惹かれるのだろう、江原さんからアプローチしなくても、娘のような世代の女性が向こうから勝手におしかけてくるのだった。昼間から酒を飲み、原稿料で生活し、貧乏でも女性にもてる。そういう江原さんに接するうち、ああいう人生が最高だという刷り込みが無意識にできたかもしれない。江原さんの詩集は何冊かずつもっていたが、ほとんどは人にあげてしまった。手元に残っているのは「続貧民詩集」と題された<ゲジゲジの歌>という詩集だけだ。大島龍や砂澤ビッキの版画が散りばめられた手書きの詩集だ。化粧裁ちをしていないので、ペラペラとページをめくることができない。そんなぎこちなさもまた味になっているし、金釘流の江原さんの字が人間くさく、これだけは手放すことができない。この詩集の「詩の村2」「死んでも同志」「裏切り」「三里塚点描」などは傑作だと思う。自叙伝的なエッセイふうの詩も多く収められていて、江原さんの詩集の中では特異な一冊だろう。詩集のタイトルにもなっている<ゲジゲジの歌>を引用して追悼にかえる。当時の仲間と企画した反原発集会(1979年10月27日)のために作ってくれ、その集会で発表された詩。ちょうど中越紛争が起こり大平内閣末期という時代背景がわからなくても、宮澤賢治の「アメニモマケズ」をパロディにしたこの詩に脈打つ「民衆魂」のようなものは感じ取れるはずだ。「五尺ノカラダハ寝袋カツイデ ホイサッサ」の一節はいかにも江原さんらしいと感じる。この軽妙さこそ、観念の自家中毒のあげく仲間を殺し、無辜の民衆を殺戮した共産主義を救出するほとんど唯一の契機ではないだろうか。<ゲジゲジ…>ノ歌飴ニモ マケズカネニモ マケズ核ニモ石油パニックニモ マケヌ丈夫ナカラダヲモチ欲ハナクトモ決シテ妥協セズイツモ怒リニ モエテイル一日三合ノ玄米ト無農薬野菜ト少シノ魚ヲタベ一日五時間ダケ ハタライテヨブンナ カネヲカセガズソシテ ヨケイナモノヲツクラズ ツカワズ小サナ町ノ場末ノ共同住宅ニ表札ヲブラサゲ五尺ノカラダハ寝袋カツイデ ホイサッサ東ニ電気ノナイ村アレバ行ッテ風力発電所ヲツクロウトイイ西ニキーセン観光アレバ行ッテ大臣ヤ助平ドモノ キンタマヲツブシテヤリ南ニ仲間同士ノ戦争アレバ行ッテ兵士タチニ ソレゾレノ故郷ニカエロウトイイ北ニ領土ヲカエセトイウ声アレバソノホントウノ住民ヲタシカメテ話シアイ小サナ島バカリデナク大キナ島ノ山ヤ森ヤ川ソコニスム熊ヤ鹿ヤフクロウヤ鮭タチヲ自然ノママニ解放シテヤルヒデリノトキハ太陽エネルギーヲアツメサムサノフユモ ハダカデクラス<ゲジゲジ ゲリラ 過激派>トヨバレヨッシャ・アーウー政府カラ ニクマレ原発ゴロヤ電力資本カラ クニサレソレデモ世界ノ貧民カラ アイサレルソウイウモノニワタシハナリタイ
January 1, 2013
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