ワルディーの京都案内

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2015/10/04
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テーマ: 京都。(6076)
 修学院離宮編の解答です。

そうだ京都、行こう。光明寺2009年秋
(下記行をクリックしてください)

https://www.youtube.com/watch?v=pyifIeWYbgc

光明寺2009年秋.jpg


 自分で出題し投稿した問題への解答です。正解の場合は、何も記入していません不正解の場合▲→の後に正解を示しています。


●修学院離宮

・後水尾上皇は(聖護院宮)の山荘近くの(長谷殿)や(顕子内親王)の山荘の
 中の(岩倉殿)、また円通寺の地に営まれた(幡枝御所)に女院としばしば御幸
 に訪れていた。
 (長谷殿)に御幸していた上皇は第一皇女(朱宮(▲))→(梅宮(円照寺尼宮))
 が(修学院▲)→(修学院村)に営む草庵を訪れたとき、その草庵にほど近い上皇
 のお茶室(隣雲亭)あたりを適地と定め、山荘の造営を開始した。

・造営は上皇自らプランを練ったことが(近衛予楽院)の(槐記)の書かれている。

・当初は(上の茶屋)と(下の茶屋)のい2ヶ所だった。

・上の茶屋には(▲)→(大堰堤)が築造され、比叡山から流れる(音羽川)の渓流
 を引いた(浴龍池)があり、(窮遂亭▲)→(窮邃亭)(隣雲亭)などが配されている。

・山荘に招かれた(鹿苑寺)の(鳳林承章)は日記(隔蓂記)の中には(隣雲亭▲)→
 (隣月亭)(▲)→(A寿月観)などが登場する。これらは(下の茶屋)のことを記
 したものと思われる。Aは女院が御幸したとこの(御座所)であった。

・中の茶屋は(B林丘寺)内の(C楽只軒)(客殿)などの建物が、明治になって
 Bが移転したとき残ったもの。
 Cは後水尾上皇が第八皇女(▲)→(朱宮光子内親王)の御所として造営したもの。
 客殿は(東福門院)の御所から(御対面所▲)→(奥御対面所)を移築したもの。

・(徳川家康)の援助で大規模な修理がされ、(▲)→(光格上皇)が御幸。

・その後(秀忠▲)→(家斉)が(太政大臣)に任ぜられたお礼として、修学院御幸の
 費用を負担したことからその後も御幸は続いた。

・(後水尾上皇)が(鹿苑寺)の(鳳林承章)に(修学院離宮十境)を選定させた。
 そのうち(菩提樹)(寿月観)(洗詩台)(隣雲亭)(窮遂亭▲)→(窮邃亭)
 (浴龍池)(万松塢)が残る。

・(修学院焼)と呼ばれる(京焼▲)→(御庭焼)の窯があった。
 (後水尾上皇)が焼かせた。(光格上皇▲)→(霊元法皇)によって再興。
 明治になって(清水焼▲)→(五条坂)の(清水六兵衛▲)→(三代清水六兵衛)
 の弟子が焼いたといわれる。

・(中御茶屋)の(客殿)の一ノ間の霞棚は「天下三棚」の一つ。

・その他の場所:上の茶屋 (紅葉谷)(▲)→(千歳橋)(西浜)



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最終更新日  2018/10/20 08:14:50 PM
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