(東山区第2日第2回から続く)
さらに円山公園の奥へと進みます。
料亭 左阿弥
もとは元和元年、 織田信長
の甥である 織田頼長
により、安養寺の末寺として建てられました。頼長の父は、茶人の 織田有楽斎
。頼長も又、雲生寺道八と号し、この地で茶事を極めたと云います。
江戸時代、安養寺のある東山あたりは、遊興の地として大変なにぎわい、中でも左阿彌は、安養寺「 円山の六坊
」の一つと数えられ、文人墨客が集いました。
左阿彌が料亭を始めたのは嘉永二年。
明治維新以降、御前会議にも使われ、 有栖川総督宮
や 山県有朋参与
が止宿し、 頼山陽
や 土田麦僊画伯
もよく訪れました。 川端康成
や 志賀直哉
の文豪らも訪れ、 『暗夜行路』・『古都』
にも左阿彌が書かれています。
左阿弥ホームページ
http://www.saami.jp/history/index.html
安養寺
中興が 慈円
であったことから山号は慈円山。桓武天皇の勅命により天台宗のお寺として最澄が開創しました。 法然
がこの寺に庵を置き 吉水草庵
と呼ばれ、30年間念仏三昧の日々を送ったとされています。親鸞もこちらに念仏修行にやってきましたが、念仏弾圧により寺は荒廃してしまいます。
至徳年間(1384~1387) 国阿
が安養寺に入寺してからは時宗に改め再興されました。
境内には子院六阿弥坊が建立しますが、さきほどの左阿弥が料亭として残るのみになっています。
本坊も、現在では本堂・書院・弁天堂が残るのみです。江戸時代には山号の慈円山を略し、徳川家康は円山と呼んでいたそうです。円山公園はもと境内の地だったことから、円山公園と呼ぶようになったとも伝わっています。
安養寺ホームページ
http://yosimizu-anyo-ji.com/index.html
弁天堂
山門の手前にあります。
吉水さんと京都では呼んでいますが、霊泉が湧いていた事に由来します。弁天財と共に宇賀神将尊を祀っていて学術向上にご利益があるとされています。宇賀神将尊は、宝珠を抱いた白蛇に変化したことで、祇園では芸妓の技術向上のもご利益があるとされたくさんの芸妓が訪れます。
慈鎮(慈円)和尚多宝塔(重要文化財)
お堂の裏にあります。
お滝場
法然も使ったといわれる閼伽水の井戸もありますが、見逃しました。
歓喜天堂(聖天堂)道標
お宿「吉水」の看板の横に立っています。
山門
真葛原吉水庵室の石柱
本堂
ご朱印
ご朱印をいただくときに、将軍塚への行き方をお寺の方に聞きました。
本堂の北側の道を上っていけばよいとのことで行ってみました。
山側からの安養寺の眺め
かなり上らないといけないかと思いましたが、ほどなく目的の道標に到達しました。
安養寺がすでに高いところにあるからでしょうね。
蛍が窟・知恩院【道標】
建立者:中井慈眼(推定)
[西]左 蛍か窟 参町
知恩院 四町
お地蔵さんが乗った石垣のそばにあります。
これを上っていくと、この日、将軍塚から下りたところにあった「知恩院」や「円山公園」を示す道標のところに行きつくはずです。
「蛍が窟」は調べましたが、分かりませんでした。
他にも石垣に乗ったお地蔵さんがありました。
山道を下り、安養寺に戻ります。、
歓喜天堂(聖天堂)
安養寺の守護神、歓喜天を祀ります。生駒聖天より勧請されたもの。かつては雨宝堂でした。安養寺の最上部にあります。
本堂のほうに戻らず、南の道を下りていきます。
将軍塚道【道標】
[西]将軍塚道
お宿 吉水
ホームページ
http://yoshimizu.com/kyoto/
円山公園に戻ります。
石垣で作られた公衆トイレ
「ねねの道」道標
長楽館の南を通り、阪急四条河原町まで歩き、阪急+バスで帰宅しました。
(東山区第2日終わりです)
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