ワルディーの京都案内

ワルディーの京都案内

2017/05/13
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テーマ: 京都。(6074)
カテゴリ: 講演会
2017年 5月13日(土)】

 今日は一日家内といっしょでした。午前中は、上賀茂神社境外摂社の大田神社へ国天然記念物のカキツバタ群落を観に行きました( こちら )。 上賀茂神社前の「みそご茶屋」で昼食をいただいて上京区総合庁舎へ。

 平成29年度「京・上京探訪」語り部と歩く1200年連続講座第2回「 聚楽第 。伝承の地を歩き学びそして楽しむというお題で、 西陣・千両ヶ辻歴史研究会リーダー仲治實氏 の講演を聴講しました。

 仲氏は、元生糸問屋専務。西陣・千両ヶ辻郷土史研究家。上京おもてなし大使。生まれ育った家は、聚楽第の北門があった地域に位置しており、出身の生糸問屋(明治30年創業)は現在も営まれています。上京区役所による『上京まち歩きツアーコンテスト』で最優秀賞を受賞しました。号は大文字屋治實。「まいまい京都」のガイドもやっておられます。




 聚楽第があった場所、周辺を 一条戻橋 から 佐々木酒造 までを歩きながら案内をするという設定での講義でした。


(注)この地図では、ゴールは佐々木酒造ではなく、松林寺になっています。


 再認識したこと、新しく知ったことを、その後調べたことも含め列挙します。

・聚楽第は内裏があったところに造られた。朝廷工作だと思われる。

豊臣秀吉 により 千利休 が一条戻橋(地図1)で梟首された。

「公儀のことは私に、内々のことは宗易に」 という豊臣秀長の言葉がある。
  秀吉の弟 秀長 黒田官兵衛 利休 は良識派の三者。

・聚楽第の 千利休屋敷 晴明神社 付近にあった、

・一条戻橋東には、 宮本武蔵 との決闘で名高い 吉岡一門 の道場があったところで、
 その裏庭に松があり 下り松 といわれ、そこで決闘がなされたと伝える。
一乗寺下り松 は,この一条下り松が誤り伝えられたものという説がある。

主計町 は読む、主計頭(かずえのかみ) 加藤清正公 の屋敷があったところ。

甲斐守町 は甲斐守 黒田長政 (黒田孝高(官兵衛・如水)の嫡男)からの命名。

堀川第一橋 (地図2)は堀川の中立売通に架かり、 中立売橋 の別称で知られる。
 聚楽第造営当時はこちらが戻橋と呼ばれていたようで、 旧戻橋 とも呼ぶ。
 江戸時代は二条城と御所を結ぶ重要な木橋だったが、永久に壊れることが
 ないように明治6年、石橋に架け替えられた。
 京都市指定有形文化財に指定されている。
後陽成天皇 正親町上皇 も同行)の聚楽第行幸の行列は中立売橋を渡ったと
 考えられている。
東福門院(徳川和子) 入内のとき、その列はこの中立売橋を渡って御所に向かった。

如水町 小寺町 の名は、 黒田官兵衛(如水 )、旧姓小寺に因む

飛騨殿町 の名は、飛騨守・ 蒲生氏郷 に因む

弾正町 (だんじょうちょう)は、弾正少弼 (しょうひつ)・ 浅井長政 に因む

・京都府教委文化財保護課と京大防災研が行なった、地震波の性質を利用した
 地下の遺構調査(昨2015年10月から実施)で、本丸と内堀の東外側には
 外堀を備えていたらしいということが判明した。
 その折れ曲がった外堀のうち最も東側に突き出した部分が、大宮通の一条
 から下長者町にかけての一帯に当たる。これで、大宮通のうち一条通から
 下長者町通までの間が、聚楽第東側の外堀に取り込まれてしまったことで、
 この間の部分が途切れてしまったので、その東側にある黒門通との中間に
 それに替わる道路を新しく開通させた。その道が現在では、 「旧大宮通」
 と通称されている道。聚楽第が破却されたあと元々の大宮通が復活したことで、
 両方を区別する必要からこの道を旧大宮通、復活した道を元通りに大宮通と
 称したと考えられる。

「梅雨の井」 (地図5)は、かつて聚楽第で豊臣秀吉が茶の湯に使う水を
 汲ませたところと伝わる。
 近代、1877年、束辰巳町の町民は、梅雨の井周辺の土地を、再興された 豊国神社の
 御旅所用地 として寄進した。
 1893年、梅雨にの井付近に八坂神社の分霊を勧請し、 八雲神社 が祀られた。
 秀吉が愛でたというモチノキを神木とした。
 1934年、八雲神社のご神木のモチノキは、室戸台風により枯死した。その後、2代
 目が植えられる。
 現代、1950年、梅雨ノ井内部の石組、積石、井筒が崩壊し、埋もれた。水も出なく
 なった。1990年、一帯の地上げにより、八雲神社、モチノキも取り去られる。
 現在は、井戸跡だけが無残に残されている。

・日暮通下長者には聚楽第 唐門 があった。門があまりにも美しいので、
 見とれていると日が暮れるので 日暮門 とも呼ばれた。日暮通の名はそれに因む。
大徳寺唐門 として移築。
国宝三唐門 の一つ。あと二つは 豊国神社 西本願寺 のそれ。

・中立売通に面する 正親小学校 の名は、中立売通の別名、 正親町通 に因む。
 番組小学校としてできたとき、 聚楽小学校 と名付けたかったようだが、
 堀川通近くの小学校の方に聚楽小学校の名がとられたので、正親小学校とした。

・西陣では「五番町夕霧楼」の 五番町 が知られるが、秀吉が聚楽第の中に
 家来の長屋を建てる折に一番から七番まで振り分けたのが由来。


 何度訪れても、位置関係が頭に入りにくいところですが、今回の講演で少しはましになったかなと思います。




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最終更新日  2019/05/31 08:35:35 AM
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