ワルディーの京都案内

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2026/06/06
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テーマ: 鉄道(26734)
カテゴリ: 京都市の鉄道史
京都市の鉄道史
~その3~

6.私設鉄道の勃興
 明治19年から数年間は「企業勃興」の時代と呼ばれる。この時期に多くの私設鉄道が開業した。すでに開業していた日本鉄道(明治16年7月開業)、南海電気鉄道の前身である阪堺鉄道(明治18年12月開業)に加え、明治19年から明治25年に鉄道敷設を出願した会社のうち、28社が開業した。「鉄道熱」の時代を迎えることになった。この時代に開業した会社のうち京都に関係の深い奈良鉄道、関西鉄道、京都鉄道について以下に述べる。

1)奈良鉄道
 奈良鉄道は、明治26年4月に設立された。建設は京都から進められ、明治29年4月に京都/奈良間が全通した。現在の近鉄京都線の京都(七条)/伏見間とJR奈良線の桃山/奈良間を結んだルートであった。また、奈良/桜井間はこの区間を建設していた初瀬(はせ)鉄道を、奈良鉄道が明治30年4月に合弁し、明治32年1月に奈良/桜井間を全通させた。明治37年、後述の関西鉄道への合流を決め、翌明治38年2月に鉄道事業一切が関西鉄道に引き継がれた。
 現・近鉄京都線京都/伏見間は、もとは奈良鉄道であり、後述するように後に官営鉄道となる。それが現・近鉄京都線の一部となった経緯は後述する。



2)関西鉄道
 関西鉄道は明治21年3月設立で、東海道本線の通らなかった、三重県・滋賀県の旧東海道沿いを中心に自社で路線を敷設するとともに、上記のような奈良鉄道の合弁も含め、数社を吸収合弁し、近畿南部に巨大な鉄道網を構築した。現在のJR関西本線、JR奈良線の一部(桃山/奈良間)と近鉄京都線の一部(京都[七条])/伏見間)を結ぶ路線、桜井線、草津線、片町線(現・学研都市線)、和歌山線、紀勢本線の一部(亀山~津)と広大な地域に路線を持っていた。
 「廃線歩き」で有名な大仏鉄道(愛称)も関西鉄道の一部であった。合弁により、木津経由の賀茂/奈良間ができたので、わずか9年の運行後、明治40年8月に廃線となった。その直後、同年10月には、後述するように、鉄道国有法により関西鉄道は国有化された。

3)京都鉄道
 JR山陰本線(現・京都/園部間の愛称は「嵯峨野線」)も私鉄から出発している。
 京阪神と舞鶴を結ぼうとする2つの鉄道会社に対して、明治20年代後半に敷設免許が下付された。京都~綾部~舞鶴~宮津、綾部~福知山を目標とする京都鉄道と、大阪~福知山~舞鶴を目標とする阪鶴鉄道である。この2社が競合する福知山/舞鶴間は、京都鉄道に認可が下り(明治28年11月)、阪鶴鉄道は、神崎/福知山間のみの認可となった(明治29年4月)。京都鉄道が競合部分の免許下付を受けることができたのは、熱心な誘致運動の賜物といわれている。
 しかし、京都鉄道は、断崖絶壁を有する保津狭の難工事もあり、資金難に陥り、明治32年8月に京都/園部間を開通させるのが精一杯となり、明治33年11月に園部以遠の免許取り消しを願い出た。一方で、明治34年10月に舞鶴鎮守府が開庁し、京阪神から舞鶴へ通じる鉄道の建設は国策遂行上必須となり、京都鉄道の免許取り消しを認め、政府は明治35年、福知山/綾部/舞鶴間、園部/綾部間を自らの手で敷設することにし、明治37年11月、福知山/綾部/新舞鶴間の官設鉄道を開通させた。福知山/新舞鶴間は阪鶴鉄道に貸与され運行されたが、明治39年4月施行の鉄道国有法により、明治40年8月、京都鉄道、阪鶴鉄道とも国に買収された。
 先に舞鶴/阪神間が結ばれたため、園部/綾部間敷設は後回しとなり、開通したのは、国有化後の明治43年8月であった。
 京都鉄道の社長は田中源太郎で、京都銀行の前身「亀岡銀行」、「京都電燈」の創業者でもあった。八瀬にある紅葉で有名な現・瑠璃光院の初代オーナーでもあり、その庵は三条実美が命名し「喜鶴亭」と呼ばれた。現在は、岐阜市に本坊を置く「浄土真宗無量寿山光明寺」の支院で、春秋に特別公開されている。
 また、その本宅は亀岡にある七代目小川治兵衛作庭の日本庭園を持つ邸宅で、現在は国の登録有形文化財に指定され、「楽々荘」という名で知られる。何度か所有者が変わり、現在の所有者は株式会社GANKOで、その「がんこ京都亀岡楽々荘」として営業されている。
 また、伊東忠太(築地本願寺、橿原神宮、平安神宮、明治神宮、本願寺伝道院、祇園閣などの設計でも知られる)設計による二条駅舎(兼京都鉄道本社)が明治37年6月に開業した。この木造駅舎は、荘厳な社寺を彷彿とさせる造りや貴賓室も設置された立派な駅舎として全国的に知られていた。田中源太郎によれば、当初はレンガ造りの計画だったが、二条城に近いので景観に配慮して和風建築に改めることにし、日本初の私設鉄道である日本鉄道の宇都宮駅(2代目)駅舎が優美であったため同社に問い合わせを行い模範としたという。明治期の和風駅舎建築として唯一の現存例であり、京都の近代化を象徴する建物でもあることから平成8年4月に、京都市指定有形文化財に指定され、幅を縮小して梅小路蒸気機関車館に移築された。後に梅小路蒸気機関車館が改装・拡張され京都鉄道博物館としてオープンを果たした際には、ミュージアムショップに改装された。
 なお、田中源太郎は、大正11年4月3日、国有化後の後身である山陰本線の園部発京都行き列車に乗車中、保津川橋梁上(現在はトロッコ列車〈嵯峨野観光鉄道・嵯峨野観光線〉の線路上)で起きた脱線事故に巻き込まれ、列車もろとも保津川へ転落して亡くなった。皮肉な後日談である(諸説あり)。享年69歳であった。



7.私設鉄道の大合同と国有化
1)私設鉄道の大合同
 前述のように、明治20年代から30年代にかけて私設鉄道の請願が相次ぎ、各地で乱立の様相を呈していた。井上勝鉄道局長官は、請願を吟味し、免許の可不可を上申していたが、それでも経営難に陥る会社が少なくなかった。乱立の弊害を抑えるため、私設鉄道の合同が図られた。既に第6章の(2)で述べた内容であるが、関西では明治30年2月浪速鉄道が、明治33年6月に大阪鉄道が、明治37年8月に紀和鉄道が、同年12月に南和鉄道が、明治38年2月に奈良鉄道が、それぞれ関西鉄道に合併されるなどし、関西鉄道は大阪、名古屋、京都、奈良、和歌山を結ぶ近畿の一大私設鉄道会社となった。

2)私設鉄道の国有化
 私設鉄道の大合同と並行し、大手私鉄の国有化の議論も明治20年代から盛んとなった。明治24年7月、井上鉄道庁長官は「鉄道の建設は常に日本全国を見渡したネットワークとして考えるべきで、それぞれの鉄道の上げた利益で評価すべきものではなく、鉄道によって得られる間接的な利益で評価すべきであり、鉄道の事業は国家の大計と考え、私設鉄道に任せるのでなく、国家的事業とすべきである。」という趣旨を第1次松方内閣に提出した「鉄道攻略ニ関スル議」で述べている。このような考えに基づき、鉄道国有法が立案されたが、反対の立場をとる関係者も多く、その成立は難航した。しかし、ついに明治39年3月、閣議決定を経て鉄道国有法が公布された。国有化のため買収の対象になったのは、全国で17社、関西では、山陽鉄道、関西鉄道、阪鶴鉄道、京都鉄道、参宮鉄道、西成鉄道の6社が対象となった。関西鉄道、阪鶴鉄道、京都鉄道の国有化については第6章で述べた。対象外となったのは、南海鉄道、高野鉄道、河南鉄道、近江鉄道の4社であった。

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最終更新日  2026/06/06 03:19:11 PM
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