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差別度チェック 1. ( ) 他人の不幸は非常におもしろい。 2. ( ) 学校の授業参観は母親が参加するが、PTA会長は男性でなけ ればいけない。 3. ( ) 韓国や東南アジアへ平気な顔をして団体旅行をすることができる。 4. ( ) 自分の地域外の人のことを「よそ者」と呼び、無意識に敵意を抱 いてしまう。 5. ( ) 地元組織の長を選ぶときは、その人の「家柄」も参考にする。 6. ( ) 職場で、管理職にある人に対して「さん」づけで呼ぶのは失礼だ と思う。 7. ( ) 自分の子供を留学させるのなら米国か英国がよいと思っている。 8. ( ) 職場では女性は制服を着るべきである。 9. ( ) アフリカや東南アジア、南米の人々のことを「くろんぼ」「どじん」と 呼ぶ。10. ( ) 人の噂話を真に受ける。11. ( ) 井戸端会議が大好きだ。12. ( ) けんかの強い奴にはペコペコする。13. ( ) 自民党議員のことを「先生」と呼び、共産党議員のことは「あなな もん」と呼ぶ。14. ( ) クソをしようと、屁をへろうと、天皇陛下は神様です。 15. ( ) SEXは男性がリードするものに決まっている。16. ( ) 「女々しい・・・」「女だてらに・・・」「女の腐ったような・・・」という 言い方をよく使う。17. ( ) 寄り合いでは殆ど発言せず、多数派の意見に黙って従う。18. ( ) 健全な肉体に、健全な精神がやどると思っている。19. ( ) アンデルセンの「みにくいあひるの子」は、とても良い物語だ。20. ( ) 昔話の「かちかち山」については、やっぱりウサギの味方である。21. ( ) AIDSらしいと言われている人には近寄らない。○の数 差別度15以上 NIPPONの恥、トーフに頭ぶつけて死んじまえ。7~14 事なかれ主義の偽善者たち、時代は変わりつつあるのです。3~6 もう少し、もう少しだけ、オツムに捻りを入れて下さい。2以下 It is time to act.
2002年10月31日
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昨日までで「ルーヂャ創刊号」は全部終わりました。今日はちょっと付け足しです。HPに掲載するために久しぶりに「創刊号」を読んだのですが、一番に感じたことは、「はや10年が経ってしまったのか・・・」という思いでした。「10年一昔」という言葉を実感しているtetywestです。「ルーヂャ」は、「世紀末農民倶楽部」というミカン作りの後継者グループが、「農業は3Kと嫌われ、そのうえ収入不足・後継者不足・嫁不足の三重苦に喘いでいる。自分たちの地域をもっと住み良いものにするためには、自らが行動を起こさなければならない」という理想に燃えて創り始めたミニコミ誌でした。「10年前と比べて地域は変わったのだろうか?」という質問の答えは、もちろん「YES」です。ただし、良い方に変わったこともあれば、悪い方に変わったこともあります。田舎の悪しき因習は、この10年でかなり改善されたように思われるのですが、それと反比例して農家の兼業化、農家とサラリーマン世帯との混在化が一層進んできました。それと共に、農業に夢を持つ若者が次第に少なくなってきたように感じます。農村は地域全体が大きな老人ホームになっています。まあ、お年寄りたちはそこで生き生きと働きながら生活しているので本当の老人ホームよりはずっといいですけどね。tetywestも確実に年齢が10歳増えましたし、やがてはそんな老人の仲間入りをしなくてはなりません。以前にも書いたように、「ルーヂャ」の編集長はtetywestではありません。しかしtetywestもその編集にはかなり深くかかわっていました。「ルーヂャ」の編集にはパソコンが使われました。当時は5インチのフロッピーディスク1枚に収まる「一太郎Ver.3」というソフトを使っていたのですが、自由に日本語変換ができ、しかも段組編集までできることに驚嘆したものでした。今考えれば、何と原始的なソフトだったのでしょう。この10年間のITの進歩は、本当に目を見張るものがあります。編集後記に「本誌は世界中のどこへでもお送りします!」と書かれてあるように、「ルーヂャ」は当初から片田舎の情報が世界に向けて発信されることを目指していました。しかし、当時はインターネットの普及がこれほど急速に進むとは夢想だにできなかったのです。創刊号から何年か経ったとき、編集長と「世紀末農民倶楽部のホームページを創って、ルーヂャをインターネットで世界に向けて発信したいな」と話したことがありましたが、新しい世紀を迎える前に世紀末農民倶楽部は解散してしまったのです。「ルーヂャ創刊号」をHPに掲載し終えて、ようやく編集長との夢が実現したという感慨ひとしおのtetywestです。明日からは、引き続いて1992年秋に発行された「ルーヂャ第2号」を掲載する予定です。
2002年10月30日
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【編集後記】◆梅は咲いたかホトトギス、あら松っあんデベソの宙返り。別れと出逢いの季節に若者の声がはずむ。若者の声を横目に、変わり栄えのしない春をミドルは迎える。春よ来いもう一度来いである。(K生)◆ソフトバレーの試合で予想外に広江チームに負け(失礼、実力通りでした)一杯やっとるのに、編集部のT君がハヨ編集後記を書けというが、そんなもん急に書ける訳がない。文句だけでマスを埋める。ゴメンナサイ。(Y・Y)◆今日も終わった一日が、山を見ずれば袋の花。仕事に追われる毎日で、雨が降ればまたもや一服、たまには湯にでも入りたい・・・今日この頃である。(T・Y)◆編集、執筆はめんどうくさいので、その分、文句だけ5人前くらい言よります。まかしといてください。(ゴー・フォーワード)◆右に同じ。製本と配本、はりきってやります。(スプリング・フール)◆世紀末である。20世紀の最大の出来事は2つの世界大戦と社会主義国家。その主人公はヒトラーとスターリンだった。2人ともマス・メディアを掌握し、国民に真実を知らせなかった。いま日本では本当に国民に真実が伝えられているのだろうか?(Y・T)◆○○議会権力の構図、○○委員会もめごと始末記、潜入ルポJA○○、等ノンフィクション。又、地域に建設される○○センター等の明るい話題なども連載したいものである。(YYガヤガヤ)◆土壇場が来ないと何もできないこの性格。配本が済んだら暫く寝込む予定です。誰ぞ枇杷の袋かけ手伝ってくれんかいなあ。(チコ)----------------------------「ルーヂャ」は年2回、春と秋に発行します。農民倶楽部の定例会は毎月21日の夜7時30分頃から農協曽保出張所で行っています。本誌は世界中のどこへでもお送りします!北半球、南半球、赤道直下、地球のどこからの申し込みも大歓迎。安全確実な送付方法を明記のうえ、必要な送料を添えて申し込みください。お便りお待ちしております。ご意見、ご感想、その他何でもけっこうですので(爆弾や火炎ビンはいかんです)、どしどしお送りください。なお、エッセイやリポートなどを投稿される場合は1500~1700字程度を基本とします。送り先はルーヂャ編集部(香川県三豊郡仁尾町○○ ○○○○)まで。1992年3月25日発行通巻第1号 92 春企画・編集/世紀末農民倶楽部定価 /1部※※※円
2002年10月29日
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【表紙のことば】笑っちまった虫眼鏡 チコ・マグダレナたんぼをしよる人も年が寄ってきて、みかんに涌いたハダニを見つけるんにも、視力の落ちた目ん玉を力いっぱい開けて、毎日あずりもって(苦労しながら)仕事しよるみたいだ。何せハダニが涌いたって気が付かんのやきんしょうがない。余裕のよっちゃんで2、3年経つと、じわじわ樹にいっきょい(勢い)が無しんなってきて、葉が真っ黄色んなって、そん時ようや(やっと)気が付く・・・そなな話を聞いたような聞かんような。どっちにしても五十歩百歩やろう・・・。そこで、必殺虫眼鏡。そう言わ、虫眼鏡をバテレンさんのクロスみたいに首に吊るして仕事しよるおっさんをたまに畑で見かける。右手にセンテ鋸、左手にセンテばさみ、首には虫眼鏡、そいなんもなかなかトレンディでかっこええわ。胸んとこでぶらぶらした虫眼鏡が時々お日さんを反射して、なんか知らん、しょうもない首飾りよりずっとけっこい(きれいだ)、仕事した後の汗とおんなじくらいけっこに光っとる。何でこなにけっこいんかと思うて、お四国山のお地蔵さんとこから沖の夕焼けを透かして虫眼鏡の中を覗いてみたら、どしたんか知らんけど、フランスの百姓の夫婦みたいなんが田んぼでなんぞ拝んみょるようなとこが映っとる。「アンジェラス」いうて、夕べの祈りの鐘(晩鐘)ちゅう意味げな(らしい)。ここら辺では6時のサイレンが鳴ったきんいうて、誰っちゃ拝まへんきんど、フランスの百姓は日に日に仕事が終わるたびにあななめんどくさいことするんかいなあ。いったい何拝んみょんかと思うたら、泥や水やお日さんや木や草の自然の全部のことを拝んみょるげなわ。一番大事なこっちゃけど、ちょいちょいわっせてしまうきんな(忘れてしまうから)、たまには虫眼鏡でも覗いてわっせんようにせないかんのかもわからんわ。
2002年10月28日
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販売-もう1つのアプローチ 「コープこうべ」を視察して tetywest 「神戸には世界一の組織がが2つあります。1つは『コープこうべ』、もう1つは『山口組』です。」私たちを案内してくれた生鮮食品部農産担当のH田さんはこのように生協の概要を説明し始めた。年間売上 3,570億円。組合員数 100万人。店舗数 146。従業員数 1万1千人。とにかくばかでかい組織だ。兵庫県の全世帯の62%が「コープこうべ」に加入している。JR住吉駅のターミナルビルにSEER(シーア)という6階建ての百貨店を持っている。品数も豊富で宝石から紳士服、電気製品までまるで三越なみだ。説明は5階でしてくれたのに、わざわざ6階まで案内された。何だろうとついて行くとカルチャーセンターでレオタード姿の奥さんがたが、エアロビクスをやっていた。なるほど。なるほど。青果物の仕入れについて説明を受ける。売上の1位は「みかん」で15%、2位は「いちご」、3位「富士」。産直率が82%に上っている。いかにも生協という数字だ。産直率がこれほど高い理由は、生協が 1.安全性 2.安定集荷 3.安定価格 4.市場出荷規格でない消費者サイド規格をセールスポイントにしているからだそうだ。ただし、100万人もの組合員を持つ生協が純粋に農家と直接取引で集荷するには数量に限界があるのは当然で、現在産直の半分以上は経済連、青果連を通した「準産直」である。これからもこの準産直はますます増えると言う。たとえば「みかん」は愛媛西宇和青果、「いちご」は香川県青果連との産直を行っている。青果の売れ筋商品を分析してみると、80年代 「安さ」「安全」89~90年 「安さ」「安全」「味」今 「安全」「味」と変化し、本物指向が強まったと分析している。今後のターゲットは「有機栽培」になるだろうということだ。現在山口県平生町の農家との純粋産直で、防除は夏マシン1回、魚肥とアルギットを肥料にした低農薬有機栽培を行っており、無選別、無階級で売っている。これは特別な価格を形成している。 ここでマル曽のみかんを振り返って見ると、さすがに年明けは全国で一流のランクに位置づけされ、農家手取りも良くなっているのはありがたいことだと思う。しかし2級品の扱いは、外観のみの選別に終わっている。この中には1級品よりうまいミカンも相当混ざっていると思われる。これを生協の「味」というキーワードに標準を合わせて売れば、もっと値打のある価格で売れるのではないだろうか?もちろんすぐに今年から成功するとは限らないだろう。市場流通の成功も今までのノウハウの積み重ねがあってこそもたらされたものであることは議論の余地のないところである。しかし市場流通の価値観と違ったチャンネルが存在するのにそれにチャレンジしない手はないと思う。そんなことを考えた「コープこうべ」の視察研修でした。皆さんのご意見をお待ちしています。
2002年10月27日
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【アメリカ合州国研修報告】(第3回)暑いので午前中に来るように言われていたが、途中のパッキングハウス(共選場)で農園マネージャーと待ち合わせたので、ロイヤル・シトラス・ファームへ着いたのは結局昼過ぎだった。(この農場は、サンキスト組合に所属し、カリフォルニア州中部リバーサイド地区にあった。)地形は緩傾斜の丘陵地で、乾燥しているため車や人が動くと砂ぼこりがし、木までほこりを被る。グレープフルーツの最終収穫時期であった。フロリダと異なり生食比率の高い産地である。以下、簡単ではあるが農園マネージャー・ウェイン氏との応答メモを列記する。1.収穫作業メキシコ人を年間通して雇用している。収穫物はグレープフルーツ、オレンジ、レモンである。彼らの賃金は、約400kg入る木のボックス1杯で6ドルの能率給。平均、1日に4~5箱の収穫。カリフォルニア州の最低賃金が4ドル25セントなので、差額は固定給をプラスしている。樹に立てかけたハシゴに上がり、収穫袋にちぎりこむスピードたるや驚くべき速さである。ボックスが一杯になると、フォークリフトでトラックまで運ぶ。園内には2列おきにフォークリフト、スピードスプレーヤーが走行できる通路がついている。2.管理作業かん水代は、1エーカー(4反)・1フィート(30cm)で、280ドル。年間1エーカー当り3フィートのかん水をする。ちなみに農園の広さは550エーカーである。肥料代は、年間1エーカー当り50ドル。防除は、年に1回ダニ、カイガラムシ、スリップスを対象にやる。せん定、摘果は、やらない。但し、2~3年に1度機械せん定をやる。以上の説明で、将来的には白系のグレープフルーツ、オレンジより、赤系(ルビーレッド)のグレープフルーツに主眼を置くとの事だった。とにかく、スケールがでっかい。安い労働力と耕作面積によるコストダウン等云い尽くされた図式が思い出される。リバーサイド地区は、米国でも比較的気象条件が良いところで、ウインドマシーンが設置されているにもかかわらず、枯木が至る所に見られる。その他の産地の寒気による被害が想像できる。何年かに1度、冷害の状況をTV等で見せられ、グレープフルーツの不作を聞くのが納得できる。メキシコ人は、とにかく頑丈である。日本人には、絶対真似のできない収穫風景である。視察の満足感を覚えながら、農園を後にする。途中、SALE(売土地)の立て看板が目につく。もちろん、岩石がゴロゴロする砂漠地である。広大な砂漠は州の所有ではなく、ほとんどが個人の所有との事。西部劇の時代のなごりか?ファーストフードの店で「タコス」とやらを、遅すぎる昼食代わりに食べ、バスは一路南・・・・サンディエゴをめざし、ひた走るのであった。※文中太字の部分は、読者の気持ちを考慮し編集部が付け加えたものです。どうか音読してください。--------------------------------アメリカ合州国研修報告は、1990年9月にみかん作りの若者(?)数名が米国を訪れた際の記録です。本誌には短期連載を予定しています。なお、詳しい土産話を聞きたい方、写真などを見たい方は、毎月21日に行っている定例会を覗いてみて下さい。
2002年10月26日
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【アメリカ合州国研修報告】(第2回)9月6日、モーニングコールで5時半に起こされる。(受話器を取ったが、話す内容は判らない、ホテルの従業員は、支配人らしき人物を始め全員が東南アジア系であった。)朝食はバイキングであった。フルーツは、赤肉のメロン、青いマッカの様なもの、スイカ、パイン、ブドウ、イチゴと豊富である。メロンは甘く美味しかった。ブドウは固く、皮と果肉が剥がれず食べるのに苦労した。オレンジジュースは、果汁100%でやはり美味しかった。7時過ぎに、バスは一行13名を乗せてホテルを出発、研修地リバーサイドへ向かう。(我々11名と大月氏、それに昨晩遅くホテルに着いたミセス中川である。彼女は日園連から紹介された柑橘専門の通訳である。日本で高校の地理の教師をしたのち、アメリカに渡り日系2世のファーマーと結婚したとのことだ。)1時間も走ると周りは完全に砂漠である。1時間半近く走っただろうか、突然3度目のアクシデントに襲われた。バスがオーバーヒートしたのだ。エアーホースが抜けたのだった。ハイウェイの非常電話により、大月氏、代車・メカニックの手配をするが都合がつかず。近くの工場らしきところまで、メキシコ人の運転手と2人、金網を乗り越えて修理道具を借りに行く。朽ちたホースの先を切取り、ラジエターにつなぐ。運転手のOKのサイン・・・・全員拍手。約1時間半のロスタイム。全員気を取り直し、バスはようやく走り出す。10分も走っただろうか?大きな音と共に蒸気が吹き出す。エアーホースが破裂、修理は不可能となる。もうこうなったら覚悟を決め代わりのバスを待つだけだった。大月氏、テクテクとハイウェイの路肩を歩き出す。30分も経っただろうか、大月氏が荷物を手にして戻ってきた。袋には500ccのコーラが入っていた。(大月氏は、岡山出身でロスで10年近く旅行代理店の通訳をしているとの事。数日間の付き合いではあるが、クソ真面目な性格に感じた。気も強い様に見えなかったので、アメリカで一人で生活しているのが不思議で心配になった。)「ほっといてくれ!」と本人・・・照りつける砂漠のまん中で、砂塵を舞い上げ突っ走る大型トラックの風圧にあおられ、ハイウェイの路肩に座り込む。ボンネットを開けたバスの前で写真を撮る人、ミセス中川と柑橘の話に夢中になる人・・・・様々に時間を費やす。待つこと1時間半余り、ようやくバスが来た。全員、何事もなかった様にバスに乗り込む。一言も愚痴が出ない。日本の旅行では、考えられない団体行動だ。又、昼飯抜きだ。
2002年10月25日
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【アメリカ合州国研修報告】(第1回)カリフォルニア柑橘とその周辺を見て 中野スジ吉13時55分発、NW26便は未だ離陸せず。正確に云うと我々の搭乗すべき26便は、ロスアンゼルスから大阪国際空港にまだ到着しておらず、一行11名は搭乗出来ずにいる。1990年9月5日、空はどんよりとしており、むし暑い空港のロビーであった。NW航空の気休めのランチ(1500円のチケット)をターミナル内のレストランで食べ、遅れること3時間、やっとの事で胸ふくらむカリフォルニアへ旅立つことができた。1万2000メートルの空は快晴であった。あたりまえじゃ!その日のAM11時(現地時間)見知らぬ地、ロス空港に着いた。片言の英語で無事税関を通過し、胸を撫でおろした。・・・・・が、10名であった。1名足りない。K君が、アメリカの土を踏んではいたが、税関のフェンスの向こう側にいたのだ。通関でもめて別室へ案内されていた。ビザかパスポートに手違いがあったらしい。ロスでの通訳、大月氏を探し出し事情を話す。大月氏も税関の中には入って行けないので、出口の係官と折衝する。ハラハラしながら待つこと3時間、やっとの事で11名全員が到着ロビーに揃う。結局昼食もキャンセルし、市内観光もパスである。先行き不安を感じながらバスに乗り込み、最初の見学地であるファーマーズマーケットへ向かった。ここは1929年、大恐慌に襲われた際に18人の農民が、産直の農産物市場を開いたのがきっかけとなり、現在は約160の店舗で、野菜、果物、肉、魚などオールラウンドの食料品を売るマーケットである。又、ハンバーガー、ピザなどのファーストフードの店が並び、1日中食べ歩きもできる。ここで、初めてドルを使って買物をした。ソフトクリーム1ドル50セントであった。種類も多く、(当然和製英語では通用しない)注文するのに汗をかいたが、甘すぎて私には合わず、捨てようと思ったが結局全部食べてしまった。ホテルへのバスの中で大月氏よりロス市内の治安の悪さ、ロスの街娼婦は8割がエイズの保菌者である等の説明を受け(我々11名には全く関係なかったが)「嘘こくな!」、ロスの初夜をスコッチ(機内で買った免税品)片手に、ネオンサインを遠目に見ながら、三流ホテルの中でなぜか意気消沈して全員が過ごす。
2002年10月24日
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【飛び入りエッセイ】1992の惨 やらねばいため子供に関する理解に苦しむような事件事故、病気(精神的)が最近多いように感じます。被害者であったり時には加害者であったりして原因は単純ではなく神のみぞ知る世界ですが、マスコミ、社会の事件に関するコメントに疑問を感じて一筆啓上致します。子供は本当に純真なのか?私達が子供を見るときの多数派の感想は「かわいい」であろう。片言の言葉しか話せぬうちは確かにそのとおりである。幼き命を愛おしき形に創り、父性愛と母性愛が自然の摂理(DNA)に仕組まれている以上かわいいと感じるのが普通なのです。それはよいのですが問題は子供は純真であるという嘘です。思ったことをそのまま実行しそして主張する、エゴそのものを幼稚であるが故に純真であると勘違いしているだけなのではないでしょうか。つまり自分の欲求を満たそうとする行為を大人がやるとハレンチ厚顔無恥とののしり、子供がやると純真無垢と許し、のみならず賞賛しているのです。ものは言い様、無知と純真、エゴと素直は同意語なのです。知らずに犯せば罪は許せるのか?子供がやったことを「知らなかったのだから仕方がないではないか」と勘弁する光景をよく見ると思います。なぜ知りつつやれば悪くて知らなければ許せるのでしょう。その昔、釈尊が同じ場面に遭遇し弟子にこう教えたそうです。「善悪は人間の最低のそして最高のきまりです。良いことか悪いことかは考えれば訳るはずです。知らずにやったというの人はその最低の決まりさえ訳らず、また今迄考えもしなかったのです。それなら知りながらやったという人のほうがまだ望みがあるではありませんか」と。年端のいかぬ幼児ならともかく小学高学年以上なら考えれば判るはず、訳からずんば保護者の責任でしょう。子供は本当に一方的被害者なのか?子供に関する事件事故、精神的病気等の問題が起こると多数の有識者と称する人達がマスコミに登場し、したり顔に学校、親、社会を糾弾する、いつも被害者は子供なのです。しかし子供の多くは、自分の非を認めず権利ばかり主張する戦後民主主義のETなのだとプロ教師は語ります。社会、地域、家族、道徳が様変わりした今日、子供は以前の子供ではなく、しかも子供を不完全な生き物として管理、指導していた社会はもうありはしない。開放されてなお経済的に恵まれた辛抱のできない子供がどのような方向を目指すのか、今の子供を取り巻く事件、事故、精神的病気はその答えではないでしょうか。そういう意味では子供も被害者なのではあるが一方的被害者としたのでは問題はちっとも解決しません。その付けは大きく大人社会に帰ってきます、必ず。天に唾するものは。アンケートで多くの子供の夢が一流大学、一流会社であるのをみて胸が苦しくなり、めまいを感じるのは私だけでしょうか。この単一性、このバリエーションの無さ。なぜ私だけは違うといえないのか、何の呪縛か大人の責任か。何故自分の生きている意味をもっと考え、心を真摯に見詰め、ゆったりとした気持ちで生き方を選ばないのか。無限の可能性があるなどと耳障りの良いリップサービスをいう気はなく、そうではなく無限の道があるといいたいのです。親に、社会に、マスコミに騙されてはいけません。成人になれば少年、少女Aではすまない。天に唾すれば自分にかかるのです・・・・誰でもなく自分に。
2002年10月23日
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突然ですが、お知らせがあります。11月3日みかん祭り・11月4日りんご祭りを明治神宮外苑軟式野球場(東京)で開催します。11/3・4の両日、明治神宮外苑軟式野球場において開催される 文化放送ラジオフェスティバルにおいて、みかん祭り、りんご祭りを開催します。 11月3日は全国のみかん主要生産7県が、11月4日は全国のりんご主要生産6県が参加し、試食を中心に販売も実施します。また、みかん・りんごを購入された方には、はずれ無しのWチャンスもあります。全国のみかん・りんごの味を食べ比べて、日本の秋の味覚を堪能して下さい。また、関西地区では11月23日、みかん祭りを大坂城公園太陽の広場で開催します。もちろん香川県も参加します。よろしくね。-------------------------------【連載エッセイ】誰が為に金は成る 平 民永「農業」と名の付く会議に出席すると必ず、来賓の挨拶とゆーのが最初の方にある。「えー、本日は○○の会にお招き頂きましてまことに有難うございます。」ここまではお決まりの挨拶。次に出て来る言葉は「さて、昨今の農業を取り巻く情勢はまことに厳しいものがありまして、・・」である。来賓が三人いると三人ともこのパターン。他に言いよーがないんやろか?農業をしている人と話をすると「国民の食料をつくっとんや」と言う。「ほんだきん農業に補助金をもっと出さないかん。」建設業をしている人が「国民の家を建てとんや」「ほんだきん大工に補助金をもっと出さないかん」と言うのを聞いたことはない。最近、嫌われる職業は3Kだという。「汚い」「危険」「きつい」の頭文字で3Kになって、もちろん農業はトップクラスの3K。3Kといえば昔政府の財政赤字の象徴として使われた時代があった。あれは確か「コメ」「国鉄」「健康保険」農業のイメージはいつの時代も暗い。ところがどっこい3Kどころか5Kの職業があるそうだ。「化粧の乗りが悪い」「婚期が遅れる」の2Kのオマケのついた職業それは・・看護婦さん。 愛染かつら いま何処。そういえばフィリピンでは重要な輸出品目に「看護婦」があって、主にアメリカ向け仕様で養成しているらしい。そのうち日本向け仕様も作りだすだろう。バングラディッシュのGNPは日本の百分の一。単純に言うと、日本で一年働けばあっちで百年暮らせる。外国人労働者来るなと言う方がムリだワニの腹筋。「ゲーセン」「セクハラ」「オフコン」・・最近の日本語は意味不明なのがやたら多い。またそれを知らないと「遅れてるー」とか言われるので余計に腹が立つ。昔古文で習った「推敲」などという言葉が懐かしい。などと言っていては二十一世紀は生きて行けないだろう。そのうち農家同志で「ハズパンをイスラキする予定やったのにコートリに変わったきんタクヒスやったんぞ」というような会話が聞かれるかも知れない。意味?現在そこまでは知るスベもない。農業というものが自然からみれば極めて不自然な植物の集合体であることは、森へ行って同じ種類の植物が整然と自生していないことでも一目瞭然である。農薬、化学肥料で作られる農産物は自然の産物からは遠くかけ離れた人工産物でありそれ故に農業の事を「アグリ・カルチャー」という。西洋文明と東洋文明の決定的な違いはエコロジーの考え方ではないかと思う。西洋文明における自然は征服すべき対象として人間と対峠している。東洋文明では人間は自然と調和しながら共存するものである。農業のやり方にもこの文明の違いはかなり鮮明に現れている。そもそも西洋では農業による富の蓄積から階級制度を発展させ文明を進歩させてきた。しかしその反面四大文明のうち西洋に属するナイル川沿いのエジプト、チグリス・ユーフラテス川沿いのメソポタミアが砂漠と化したのも農業のやり方の結果である。現在でもアメリカ合衆国の農地は年間何万トンもの表土流亡の危機にさらされている。一方日本の稲作は二千年来同じ土地で米を作れる栽培体系を確立した。これは世界でもきわめて希な農業と自然とのかかわり方である。しかし今、この日本の農地が米の自由化によって変わろうとしている。歴史は言う。いかに都市文明が繁栄しようとも、農業が変わるとき、それは文明の滅亡への果てしない行進の始まりであった。
2002年10月22日
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世紀末農民度チェック(戦後苦労編) (対象年齢 40才以上) 1. ( ) 作物と話ができるという特技を持っている。 2. ( ) 半日も休むと身体がうずく。 3. ( ) カラオケを歌うときはいつもド演歌である。 4. ( ) 旅行は必ず団体旅行である。 5. ( ) 水戸黄門を尊敬している。 6. ( ) 息子には農業をさせたくない、あるいは娘を農家へ嫁がせたくな いと思っている。 7. ( ) 顔と手とあそこ以外は真っ白である。 8. ( ) 酒が人間関係をつくる最大の手段だと考えている。 9. ( ) 自分の苦労話を他人に聞かせるのが好きだ。10. ( ) カラオケで漁業の歌は多いが農業の歌が圧倒的に少ない、という 事実に疑問を感じたことがない。11. ( ) 冠婚葬祭においては力いっぱい見栄を張り、特に葬式に関しては 異常に詳しく、他人が変わったことをすると待ってましたとばかり に非難する。12. ( ) 農協の営農指導を忠実に守っている。13. ( ) スプリンクラー防除のことを「クーラー防除」、PTAを「ピーチー エー」、男女のことを「おとこし、おなごし」と呼ぶ。14. ( ) 寄り合いでは後ろの方に座り、一言も発言しない。 15. ( ) 政治家を「先生」、役所を「お上」と呼んでしまう。16. ( ) 改まったことがあると必ず散髪に行く。17. ( ) カラオケと酒を究めれば町会議員になれると思っている。18. ( ) 一生一度の海外旅行は、韓国、東南アジアへの買春ツアーだった。19. ( ) ヒロヒト天皇と美空ひばりが死んだときは泣いたが、大岡昇平が 死んだことは知らなかった。20. ( ) 何処でも立ちションができる。○の数 世紀末農民(戦後苦労)度16以上 何処へ行っても必ずいる、地区の大御所。クソじじい農民。11~15 口うるさい姑タイプ。嫁や養子をいじめないで下さい。6~10 戦後農業の基盤を築き、最も評価されるべき農民。脱帽。5以下 モグリ農民。ほんまに百姓しよったんかいな。
2002年10月21日
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世紀末農民度チェック(アヴァンギャルド編) (対象年齢 18才以上) 1. ( ) 他人からへんこつと言われたことがある。 2. ( ) 責任はとらないタイプである。 3. ( ) 朝8時より早く畑へ行ったためしがない。 4. ( ) 自称、仁尾町(自分の住んでいるところ)の宮沢賢治である。 5. ( ) 自己紹介のとき鼻を高くして「私は百姓だ」と言うことができる。 6. ( ) カラオケと酒の他に趣味を持っている。 7. ( ) 「ヘンタイ」という言葉に親近感を覚える。 8. ( ) 2シートの軽自動車(ビート、カプチーノ、ミニキャブなど)を セカンドカーとして乗りまわしている。 9. ( ) 日曜、建国記念日、緑の日、天皇誕生日には、何がなんでも仕事 をする。10. ( ) 調子に乗ると、ついつい大きなことを言ってしまう。11. ( ) 農作業ファッションに気をつかっている。12. ( ) なんだかんだ言っても、やはり仕事は嫌いだ。13. ( ) 家族の生年月日を西暦で言うことができる。14. ( ) 年が明けないうちからしらじらしく年賀状を書くことはできない。 15. ( ) ローマ字でサインする時は、日本語の表記法、つまり「氏・名」の 順序で書く。16. ( ) 畑はいつも雑草で覆われている。17. ( ) 顔と手は真っ白だが、あそこだけは他人の5倍くらい黒い。18. ( ) 1日仕事を休むと芋蔓式に2、3日遊んでしまい、挙句の果てに 遊び疲れて寝込んでしまう。19. ( ) 家族、仕事仲間、飲み屋のママ以外の女性と1時間以上話をもた せることができる。20. ( ) 作物にはいつも鞭とローソクで愛情を表現している。○の数 世紀末農民(アヴァンギャルド)度16以上 ドヘンタイ農民。そこにいるだけで石が飛んできます。11~15 ヤンキー農民。もっとまじめに仕事をしなさい。6~10 旅の恥は掻き捨て、消防団タイプ。お世話になります。5以下 南無大師遍照金剛、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経、アーメン。
2002年10月20日
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なぜルーヂャなのか仁尾という地名の由来には様々な説がありますが、その一つに丹生(ニブ)説というのがあります。これは仁尾が古代の朱砂(辰砂)の産地であったとする説で、全国でも仁尾や仁保と呼ばれているところは朱砂の産地であったところが多いようです。朱砂は美しい赤色を帯びた土のことで、残念なことに現在の仁尾では見ることはできませんが、稲積山付近ではこれに似た赤色の石を見つけることができます。また清水地区の急斜面一帯は赤色の水はけのよい土で覆われています。このような土のことを「そほ」あるいは「そほに」といいます。古くは「赭」と書き、赤い色、赤い土というような意味で、顔料や水銀の原料として用いられたようです。万葉集より和歌を二首 {高市連黒人の旅の歌}旅にして物恋しきに山下の 朱(あけ)の曽保船 沖へ漕ぐ見ゆ (270) {東歌}真金吹く丹生の真曽保の色に出て 言はなくのみそ 吾が恋ふらくは (3560)上田敏の訳詩集「海潮音」から和ぎたる海を白帆あげて、朱の曽保船走るごと (ジャン・モレアス 賦)ルーヂャとはエスペラント語で「赤い」を意味します。異なる言語を話す人々の共通の第二言語としてつくられたエスペラント語は、いまや英語やスペイン語の陰に隠れて、コミュニケーションの手段としての価値はそう明るくありません。しかし世界中で侵略と虐殺を行い、言葉とキリスト教を広めた者達の言語よりは、平和的な思想に基づいてつくられた言語の方が本誌のタイトルにはふさわしいと考えました。「曽保」という意味をエスペラント語に訳すと「ルーヂャ」になります。覚えといて下さいネ。
2002年10月19日
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刊行のことば昔、お金は人間の道具であったが、今は人間がお金の道具になっている。近頃の新聞にお金のからむ事件のなんと多いことか。企業と政治家の癒着が毎日のように報道されている。テレビでみる時代劇とさほど変わらない。昔のお金には心があった。金の貸借も現代のように便利ではなかったにせよ、それによって人間関係がつくられていた。全てではないにしても、貸す側には善意があり、借りる側には感謝があった。ついこの間の食えない時代には米の貸借も多かったが、それにも「困ったときにはお互い様」といういたわりや思いやりの心がついていたはずである。今の社会はどうだろうか。人々にお金ができ、裕福になるほど心のつながりもなくなり、自己中心的になるのかもしれない。私達の住んでいる地域はどうだろうか。じっと目を凝らして、耳をすまして、眼耳鼻舌身、全ての五感を鋭くさせて、六感をはたらかせて、よ~っくみると、諸々の富への執着や権力、名誉利欲に執着する人々がいないでもない。地方政治、それによってうごめいている人々、その周囲に寄生している人間模様、人権を無視し差別する奴ら、これでよろしいのかしら。(多少うわずった声で音読してください)一つ人の生き血をすすり、二つふらちな悪行ざんまい、三つ醜い浮世の鬼を、退治してくれよう桃太郎・・・と言いたいところである。(オジン臭いテレビの話でスンマセン)桃さんの方が殺人鬼かもしれないが(そうとうの数を殺している)、しかし鬼が出れば、殺すことはないにしても退治したほうがいいに決まっている。それから、ふーてんの寅さん。寅さんは男前ではない。もちろん学歴を持ったエリートでもない。エリートと呼ばれる人達からみれば、現代社会の落ちこぼれだろう。しかし寅さんは人の立場を大切にして、人の身になって考えることのできる天才でR。桃さんと寅さん、この二人の共通するところは、他人への思いやりとやさしさである。人々は映画やテレビの中でこのやさしさを求めている。しかし私達が私達の方法で本当のやさしさを求めていこうとすると、多少の非情も必要になってくるかもしれない。本誌は何を書いてもかまわないことになっている。おまはんが発行責任者になりなさい、トラブルが起きたときは、おまはんがしまいしなさい、というのが仲間達の共通の意見であった。(ヤバイことは全部俺に回ってくる)たとえトラブルがあろうとも、右翼が日本刀を持って殴り込んで来ても、左翼ゲリラが爆弾を投げ込んで来ても、やられたらやり返せ、いやいやこれは失言、たとえ何があろうとも、文章の奥底に地域に対するやさしさと世界平和を求める前向きな姿勢があれば良いと思っているのでR。老若男女をとわず、思ったことや感じたこと、様々な意見をいろんな人が持ち寄って、お互いに少しでも発展できれば幸いに思います。 (YYガヤガヤ)
2002年10月18日
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【世紀末農民宣言】さあ、さあ、皆さんお立会い。これからお目にかけまするは、大胆不敵な野郎ども(豊かな国の排泄物)、サバイバル農民たちの大道歌。時代は平成、世紀末。コンクリートに犯された瀬戸内海の一角で、なにやらうごめく、こだまする。時こそ今はあぐりかるちゃあーだぜい!無意味、無思想、無定型、もう一つおまけに無責任。されど今朝みた夢は色つきで、ムーミン谷の夢でした。ムーミン谷は七宝山。七宝山の真上から、ガラガラゴロゴロ崩れ落ち、ドタンバタンと転がって、落ちるとこまで落ちてゆけ。それで花でも咲かせましょう。咲かせた花を持ちよって、皆でお花見やりましょう。とても楽しい話です。とても愉快なお話だ。皆でお花見やりましょう。時代が変わりつつある。やがて七宝山の麓には無数の天才たちが出現し、お互いに尊敬し合いながら、おのおのの創造性をたかめてゆくだろう。彼らは農業株式会社の社長でもなく、もうけ主義成金百姓でもない。あるいは労働忍耐農業でもなく、役所型いいわけ主義農業でもない。彼らの行為は労働という次元から抜け出し、土と太陽を舞台とした総合芸術となるのである。彼らはまた、生活上の利害関係による鎖のような団結心でつながれているのではなく、それぞれの役割を持ちながら、常にゆるやかな円を描くような信頼関係によってつながっている。七宝山の麓では、すべてが昇華され、自然に流れているのである。けれども七宝山ばかりを眺めているのでもなく、国際的視野、地球規模での思考を絶えず繰り返し、あらゆるものの存在と循環の崇高さを認識するのである。(規範めいたことをだらだら書いてもおもしろくないので、中間部を割愛させて頂き、いっきにフィナーレへと移ります)一日の仕事を終えた彼らにとって瀬戸内海の風景が最良の救いとなる。夕日に照らされた果実が、彼らの傍らで黄金色に輝く時、彼らは次の段階へと発展する。自らのパッションを表現することのできる彼らにとって、もはや自己陶酔なぞ問題ではない。危機の農業に生きようとしたアブない人間たちが、やがて、危機の農業をのり越えた世紀末農民として評価されるのである。
2002年10月17日
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長編連載を終了して脱力感に襲われているtetywestです。・・・・しかし、本当の原因は14日(体育の日)の秋祭りでお神輿を担いだことによる、腕・肩・腰・足の筋肉疲労だという噂も(笑)tetywestの地域のお祭りは神輿行列がメインイベント。神殿に安置されている御神体を神輿に乗せて神事場まで練り歩きます。お供は「ちょうさ」と呼ばれる太鼓台。昔は獅子舞も奉納されていたのですが、後継者不足で8年ほど前になくなってしまいました。さて、その神輿を担ぐ人は「神輿守(みこしもり)」と呼ばれます。白束帯に黒烏帽子の衣装に白足袋、藁草履といういでたちで、神社の本殿から神事場までを往復するのです。・・・しかし、これはtetywestにとって10年に1度の割合で巡って来る大仕事なのです。なぜかと言うと、お神輿の重量は推定350~450kg(恐れ多くて誰も神輿を秤の上に載せたことがないため、本当の重さは不明)。これを12人で担ぐわけですから、1人当たり30kg~38kg。しかも、神事場までのルートは石段と坂道だけで、距離は1km。標高差は100メートル。ミカンを天秤棒で担いで運搬していた昔ならいざ知らず、最近はたとえ農家でも運搬手段に肩を使うことはありません。それに、神輿の重さがいつも皆に均一にかかっている訳ではなく、地形の変化などで2倍以上の重さに耐えなくてはならないこともしばしば。以前神輿守は8人でした。ところが、あまりの厳しさに神輿守に当たった人からの不満続出。ついに神輿をトラックに積んで神事場まで運ぶという事態が起こったのです。これには神社の総代さん方も弱り果てて、神輿の大改修の時に担き棒を増やして12人で担げるようにしたのでした。tetywestは8人の時に2回神輿を担いだことがありましたが、次の日はほとんど仕事など出来ないくらい疲れてました。今年は12人体制になって初めての神輿守が巡ってきたのでした。今回は仕事が出来なくなるほどの筋肉痛ではなかったですが、寄る年波のせいか当日よりも次の日の方がきついです(笑)というわけで「全国柑橘研究大会」の連載が終わったにもかかわらず、まったく次の企画を考えていないtetywest。中断したままになっている「仁尾町ミカン百年史」の資料に向かい合う気力もありません。こんなときは、以前使って味を染めている方法を使うのが一番手っ取り早いと考え、ごそごそと取り出したのは「ルーヂャ」創刊号でした。以前に日記に掲載した「世紀末農民的中国紀行」は「ルーヂャ6号」でした。そのルーツとなる「創刊号」は1992年3月25日に発行されています。ピンク色の表紙には「あぐりかるちゅらるで あーてぃすてぃっくな人々へ」「特集・世紀末農民参上」 明日からしばらくは「ルーヂャ創刊号」にお付き合いください。
2002年10月16日
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「文学のこみち」の散策を終えてtetywestは十分満足だったのだが、まだ時間はたっぷりあった。それ以外の予定は全く立ててなかったので、案内標識で見つけた「尾道市立美術館」へ行くことにした。何が展示されているかは知らないのだが、文学の後は美術鑑賞も悪くない。ところが美術館は改装工事中で休館だった。来年の1月にならないと開かないとは残念!もと来た道を引き返すのも面倒なのでそのまま先に歩いていくと、今度は「尾道城」という案内標識を見つけた。しかし、進むにつれて次第に人影が少なくなってきた。なんとなく寂れたような雰囲気で、どうも観光コースから外れたようだ。しばらく歩くと「尾道城」の屋根が見えた。しかし、屋根瓦はずり落ちたまま放置されているし、アルミサッシの窓にはカーテンも無く、中はカラッポで、入り口は閉鎖されていた。「尾道城」は観光用に造られた鉄筋コンクリート製の城だった。それに遠くから見るよりも実物はずっと小さい。これで月でも出れば、まさに「昔の光、今何処」というところだ。ただ、蔦の絡まる石垣を下から見上げたときは、青い空に白壁がくっきりと映えて威風堂々としていた。やっぱり城というものは同じ高さの目線で見るものではなく、見上げるものだと思った。そこは千光寺山の西端だった。もう他に見るものもないので、歩いて下りるしかない。10分も歩くと、山陽本線と国道2号線を跨ぐ歩道橋に出た。歩道橋を降りると商店街だった。バスに乗ろうと尾道駅へ歩きかけたとき、突然林芙美子像に出会った。傘と鞄を傍らに置いて波打ち際に佇んでいる。そのまま「放浪記」から抜け出したようなシチュエーションだ。西に傾いた太陽が憂いを含んだブロンズの顔を照らしている。おまけに国道2号線と山陽本線が借景になっていて、タイミング良く上りの貨物列車が通り過ぎていく。こんな偶然の重なった林芙美子との出会いに感動してしばらくその場を動くことができなかったtetywestだった。歩き疲れていたというのが正直なところなのだが・・・ 尾道駅からバスに乗って新尾道駅へ向かう頃には太陽は山の陰に沈んでいた。今度は間違わないように後ろから乗ったし、290円もちゃんと用意していた。尾道は徒歩で散策するのが一番お似合いの町だと思う。町の端から端まで歩いても1時間もかからないだろう。どこにいても海が見えるために、迷子になる心配がない。もし路地で道が分かれていたとしても、下っている方を選べば必ず商店街へ行き着くことが出来る。商店街と国道2号線と山陽本線は海に沿って平行に並んでいるので、これまた迷いようがない。それに千光寺山からは、まるで地図を見るように実際の地形が見渡せるのだから、どんなにひどい方向音痴の人でも安心して歩ける町だ。狭い路地では地元の人々の生活に触れながら文学の香りを嗅ぎ、そして素晴らしい瀬戸内海の風景を眺めることが出来る尾道。狭いスペースに見所が一杯詰まったおもちゃ箱のような尾道。新幹線を使えばたった2時間で行ける尾道。今回見逃した「映画資料館」や「文学記念堂」や「蓮華坂」・・・今度はゆっくりと散策してみたいものだ。tetywestは「もう一度絶対来るぞ」と心に決めて5時53分発の新幹線「こだま」に乗り込んだ。※これで「全国柑橘研究大会」は全部終わりです。いや~毎度のことですが引っ張りました。最後までお付き合いくださったみなさん、どうもありがとうございました。(・・・と言いたいために39話にしたのでは決してありません・・・笑)
2002年10月15日
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「文学のこみち」には、その他に柳原白蓮の 「ちゝ母の声かときこゆ瀬戸海に み寺の鐘のなりひびくとき」金田一京助 「かげともの をのみちの やどの こよなきにたびのつかれを わすれて いこへり」正岡子規 「のどかさや小山つづきに塔二つ」などの句碑がある。その中でtetywestが一番気に入ったのは、 「日のかげは青海原を照らしつゝ 光る孔雀の尾の道の沖」だった。tetywestがロープウェイから降りたとき感じた尾道と海との関わりを、軽妙な和歌で見事に表していた。作者は誰だかお判りだろうか?有名な弥次郎兵衛、喜多八を主人公とした「東海道中膝栗毛」の作者、十辺舎一九。山陽道漫遊中の作なのだそうだ。「文学のこみち」を下ってくると、そのまま千光寺の境内に入る。大きな岩に囲まれた寺は、全体が清水の舞台のように山からせり出している。境内はとても狭くて、鐘楼と本堂は大きな岩で遮られた別々の場所に建てられていた。この鐘楼が「文学のこみち」でも何度も見かけた有名な「千光寺の鐘」なのだ。しかし鐘楼は鎖で囲ってあって、勝手に鐘を鳴らすことは出来ない。ここからの眺めはまさに絶景だった。千光寺の鐘が有名になったのは、その音色ではなくて、そのロケーションが大きな要因だったのだろう。 千光寺を抜けても「文学のこみち」はまだ続いていた。最後にあったのは、自然石の岩肌に彫られた頼山陽の漢詩だった。「磐石坐す可く松據る可し 松翠缺くる處海光露わる 六年重ねて来たる千光寺 山紫水明指顧に在り萬瓦半ば暗くして帆影斜めなり 相傳う残杯未だ傾け去らず 首を回らして苦に諸少年に嘱す 記取せよ先生曽て酔いし處と」もちろん岩に彫られた漢詩に「ひらがな」は送ってない。これは「広島県竹原市の人、『日本外史』『日本政記』などを著わし、明治維新の大業成就に寄与したところのは大なるものがあった。尾道には文雅の友も多く、度々来遊したが、この詩は、文政十二年、千光寺山に登ったときの作である。」という説明文に書かれていたものを丸写ししたものだ。 ※千光寺山頂の展望台より生中継のライブカメラがあるHPを発見しました。「(社)尾道観光協会」です。
2002年10月14日
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尾道はどこにいても海が見える。海は尾道の南側にあるので、海の向こうには太陽があり、尾道の人はいつも陽光に輝く海面を見て生活している。北側は険しい山だ。その山は尾道の町の東側でも西側でも海の傍まで迫っているために、開けているのは海だけという事になる。その海にしても「尾道水道」と呼ばれているように、大きな川くらいの幅しかない。その向こうは向(むかい)島なのだ。町全体がまるで盆地のように山に囲まれた地形だと言えるかもしれない。ただ盆地と違っているのは、目の前にあるのは世界と繋がった「海」だという事なのだ。尾道の人々にとって、海は「希望」であり、「発展」であり、「繁栄」の象徴だったのだろう。土地の狭い尾道では農業は出来ない。当然、漁業と商業が発達する。穏やかな瀬戸内海の中でも、島に囲まれた尾道は特に天然の良港となる自然条件を持っている。ロープウェイでガイドさんが説明してくれたように、北前船の寄港地として古くから発展したのも尤もだと思う。ロープウェイの終点にある展望台から尾道の町を見下ろしながらtetywestはそんな風に考えた。時計は3時を回っていたが依然として暑かった。ここにはayudesさんが食べたという「みかんソフト」の幟がはためいていたのだが、自動販売機でコーラを買って「文学のこみち」の散策に出発する。tetywestは「文学のこみち」も京都の「哲学の道」のように、林芙美子や志賀直哉がこよなく愛した風景の良い散歩道だろうと思っていた。ところが、尾道の町を見下ろしながら岩や松の間を縫って歩く散歩道には違いないのだが、道端には尾道ゆかりの文学者の文章を刻んだ岩がそこかしこに配置されている。と言うより、もともとあった岩に現場で刻み込んだとしか思えない大きな岩もあった。たとえば、「文学のこみち」を半分くらい降りて来て、岩のトンネルのような所を通り抜けて振り返った大きな岩には、「六時になると上の千光寺で刻の鐘をつく。ごーんとなると直ぐゴーンと反響が一つ、又一つ、又一つそれが遠くから帰ってくる。其頃から昼間は向島の山と山との間に一寸頭を見せている百貫島の燈台が光り出す。それはピカリと光って又消える。造船所の銅を溶かしたような火が水に映り出す。」という志賀直哉の「暗夜航路」が刻まれていた。その傍らにある説明文には、「宮城県の人、大正元年の秋から同二年の中頃まで、千光寺山の中腹に居を構えていた。同十年から大作「暗夜行路」を発表、昭和十二年に至って完成した。その寓居は現存している。この碑は、志賀さんの懇望によって小林和作画伯が、特に筆をとられたものである。 」と書かれてある。そこから、もう少し下って、松の木々の間から遠くに尾道大橋が見える場所に、林芙美子の文章も発見した。「海が見えた。 海が見える。五年振りに見る尾道の海はなつかしい、汽車が尾道の海にさしかかると、煤けた小さい町の屋根が提灯のように、拡がって来る。赤い千光寺の塔が見える。山は爽やかな若葉だ。緑色の海、向こうにドックの赤い船が、帆柱を空に突きさしている。 私は涙があふれていた。」 そして、説明文には、「下関の人、大正五年尾道に移り住んで尾道第二尋常小学校(現土堂小学校)尾道高等女学校(現東高等学校)を卒業後、上京して難苦をしのいで精進し、昭和四年に出世作「放浪記」を出し、新進作家として大成した。この碑の筆者小林正雄氏は小学校当時の恩師である。 」さすがに、尾道を代表する文学者の碑は最高の場所に置かれている。ここで説明文を読んだり周りの景色を眺めている間に、若い女性の2人組と、若い女性1人が通ったのだが、やはりこの碑を写真に収めていた。素晴らしい風景の中で文学的な気分に浸れるこの趣向は、「ただ者ではないぞ!尾道」と言わざるを得ない。
2002年10月13日
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ロープウェイ乗り場は二階だった。エレベーターのドアが開くと、ゴンドラの戸口にガイドさんが立っていて手招きをしていた。tetywestが乗り込むとすぐに出発した。おそらく切符売り場と連絡を取り合っていたのだろう。乗っているのは3組ほどの若いカップルで、単独行動のtetywestだけが少し場違いな気がした。しかし上がるにつれて眼下に広がっていく尾道の町並みに見惚れて、そんなことはすぐに忘れてしまった。尾道は狭い町だ。千光寺山の急斜面が海に向かって滑り込んだような地形をしている。海までのわずかな平地には家並みが密集していて、そこに山陽本線の鉄道と国道2号線が走っている。これまた狭い海を隔てて正面は向(むかい)島だ。向(むかい)島には造船所のドックが見えている。尾道とは左手に見える「尾道大橋」と高速道路の「新尾道大橋」で繋がっている。ゴンドラの中ではガイドさんが尾道について説明してくれる。後から調べるとロープウェイは3分で頂上へ着くのだそうだが、tetywestはこの3分間にかなり尾道についての情報を仕入れることが出来た。北前船の港として栄えた豪商がこぞって寺を建てた事、林芙美子や志賀直哉が住んでいた事、大きな岩の上に金の珠が光っていたために名づけられたという千光寺の謂れ、そして文学のこみち。tetywestが尾道へ来たのは今度が初めてだった。尾道については、林芙美子と大林宣彦監督の出身地だというくらいのことしか知らない。「放浪記 」の、「海が見えた。海が見える。五年振りに見る尾道の海はなつかしい」はあまりに有名だ。しかしtetywestは、大林監督の映画「青春デンデケデケデケ」にちょっと特別な思い入れがある。「青春デンデケデケデケ」は1992年に公開された映画だが、同名の小説の著者・芦原すなおはtetywestの高校の先輩なのだ。観音寺を舞台にした高校生の青春音楽物語で、直木賞を受賞している。この小説を読み終えたときtetywestは、「坊ちゃん」に匹敵するんじゃないかと思うほど感動した。とにかく元気が出た。それに登場人物に敵役が一人もいないというのも爽快だった。映画化されることが決まったときの地元の盛り上がり様はすごかった。何しろ全部現地ロケだったのだから。tetywestの知り合いも何人もエキストラで出演している。 映画が封切られた時(田舎では珍しく封切館だった)、tetywestももちろん観に行った。映画は1960年代後半の雰囲気を見事に醸し出していた。ストーリーは原作に忠実で、「あまりにそのまま過ぎるんじゃない?」と思ったほどだった。文化祭での最後の演奏曲「ジョニー・ビー・グッド」は、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の中でマイケル・J・フォックスがこの曲を演奏したシーンとも重なって強烈に印象に残っている。この後、大林宣彦監督と芦原すなおさんが対談する番組をTVで見かけた。その中で大林監督が話していた、「私にとって海は未知らぬ土地への扉だった」「原作者と監督が偶然にも同じ海を反対側から眺めて育った」という言葉にひどく興味をそそられた。尾道と海とは絶対切り離せないものなのだろう。せっかく尾道へ来たのだから実際にそれがどういうものなのかを体験してみたかった。
2002年10月12日
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和太鼓の演奏が終わると、予定時間より30分早く駅へ送ってくれる事になった。この暑さでは、皆も園内を散策するより日陰で寝そべっていたかったのだろう。普段はクーラーの苦手なtetywestでも冷房の効いたバスに乗るとホッとした。これから新尾道駅まで50分ほどの距離だそうだ。バスは海岸沿いの国道を走り始めたのだが、tetywestはいつの間にか眠っていて気がつくと新尾道駅の直前だった。産地視察を案内してくれた係りの人にお礼を言って駅に入ると、ちょうど2時53分発の新幹線「こだま」に間に合う時間だった。下りもほぼ同じ時刻だったので、バスで一緒だった八女の女性陣ともお別れの挨拶をした。その列車に乗れば2時間で家に着くのだが、5時というのはいかにも中途半端な時間だし、tetywestはせっかく尾道まで来たのだから「文学のこみち」を歩きたかった。誰か同行者がいないかと誘ったのだが、皆その列車で帰るらしい。仕方がないので単独行動を開始する。もう一度駅の前のバス停へ戻って千光寺へ行くバス乗り場を探していると、ちょうどバスがやってきた。運転手さんに、「千光寺へ行きたいんですけど、このバスでいいですか?」と訊いたら、「ロープウェイで行くのか?」と訊き返された。そういえば千光寺は山の中腹にあるのだからバスが行く訳がない。「そうです」と答えると、「それでは、このバスでいい」と教えてくれた。さっそく乗り込もうとしたら、「後ろから乗ってくれ」と言われた。降り易いように運転席の隣に座ったら、「整理券とった?まあいいか・・・」と言われたので、急いで入り口まで引き返して整理券を取って来た。長らくバスに乗ったことがないので完全に乗り方を忘れている。他に誰もお客がいなかったのが救いだった。tetywest1人だけを乗せて、数分後にバスは発車した。駅を出るとしばらくは2車線の幹線道路を走るのだが、山陽自動車道の高架をくぐったあたりから道幅が急に狭くなる。バスは古い家並みが両側に並んだ通りを走って行く。300メートルくらい走る度に停留所に停まる。お年寄りが2人、1人と乗車してくる。道が狭いので停留所の標識も道路に立っているのではなく、店の軒にぶら下がっている。20分ほど走ると運転手さんが、「次だよ」と親切に教えてくれた。「ロープウェイの乗り場は何処ですか?」「降りて、道を渡ったところにある狭い路地を少し行けばいい」バスが停留所に停まった。道幅が狭いので、バスが止まれば後続の車も止まらなければならない。乗客のマナーとしては、なるべく早く降りるべきだろう。ところが、ここまで200円だった料金がここからは290円に上がっていた。料金箱にはお釣りのないようにと書かれてあるので、小銭入れから10円玉や50円玉を探して焦って料金箱に入れているうちに300円分入ってしまった。まあ、10円は親切に教えてくれた運転手さんへのチップだと思えば安いものだ。「どうも、ありがとうございました」と、お金のかからない笑顔もしっかり奮発してバスを降りた。ロープウェイ乗り場はすぐに見つかった。切符売り場に「お薦めは片道だけの乗車で、帰りは文学のこみちを散策しながら」と書いてあるので、その通り片道切符を買う。確か280円だったかな・・・
2002年10月11日
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「泉の広場」にはテントが張られて、地元の農家グループが特産品を販売していた。干しタコ試食コーナー、ワイン試飲コーナーがあって大勢の人が集まっている。tetywestもワインを試飲させてもらった。「まずは、一番のお薦め『レモンワイン』からね」と、盃ほどのプラスチック容器にワインを注いでくれる。レモンの香りと酸味が口の中に広がって、素直な美味しさだった。「次は、『八朔ワイン』ですよ」さっきのワインよりは甘さが控えられていて、八朔特有の苦味が口の中に広がる。「女性は圧倒的にレモンワインですね。男性の方は、こっち(八朔ワイン)がいいと言う方も結構いらっしゃいます」tetywestも、どちらかと言うとこの苦味が気に入ったのだが、もともと酒が飲める体質でもないし、これ以上重いものを持ち運びたくなかったので買わなかった。値段は1本千円だった。3つ目は「ネーブルワイン」だった。ネーブルオレンジはtetywestの一番お気に入りの柑橘なので期待は大きかったのだが、甘すぎた。3種類のワインは、瀬戸田産の「レモン」、因島産の「八朔」、そしてお隣の愛媛県・大三島産のネーブルを原料にして同じ酒造メーカーが造ったものだった。それぞれの島とその特産ワインを結びつけるのはなかなかオシャレだし、とても上手い販売戦略だと思う。売れ行きがいいのは圧倒的に「レモンワイン」だった。最初にそれを試飲させるとは、瀬戸田町の農家グループもこれまたとても販売戦略上手だ。「泉の広場」の真ん中には噴水があって、ミカンやレモンの形をしたオブジェが置かれている。広場は濃淡のオレンジ色のレンガが敷き詰められていて、遠くから見るとミカンの花の模様になっている。昼下がりの夏の陽射しが照り付けて、じっとしていても汗ばんでくる。広場にはところどころに大きなパラソルがあり、日陰をつくっている。その下に置かれたベンチでしばらく休憩した。 その後、世界の柑橘を展示した「シトラスパビリオン」を見たり、園内を巡る「シトラス号」に乗って時間を潰していたのだが、tetywestは早朝からの視察で眠くなってきた。時計を見ると1時半。出発までにはまだ1時間もあるし、どこか昼寝が出来るところはなだろうかと探していたら、広場の方に人だかりが出来ていた。ここでも和太鼓の演奏が始まるようだ。黒い半被を着た若い男女10数人が広場のパラソルの前に太鼓を据え付けていた。 「島衆」というそのグループは生口(いくち)島の若い衆による和太鼓集団で、結成以来7年だそうだ。2曲30分の演奏だったが、炎天下の演奏は体力が勝負だろう。tetywestはとても真似できそうにない。※↓HPもありました。「島衆」
2002年10月10日
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「昨日の全国大会は如何でしたか?」赤いエプロンをした女性の店員さんにいきなりこういう質問をされるとは全く予想していなかったので、どう答えようかと迷ったのだが、「今年は、新しい取り組みとしてミカンの消費拡大がテーマでしたね。講演も朝食にフルーツを食べようという『朝フル』の話でしたし、今朝のホテルの朝食はフルーツバイキングでした。生産者がまず果物の良さを知って、自分達で果物を食べようというのは今までにはなかったです」と答えた。「ああ、昨夜主人もそんな事言ってました。『朝フルが良いんじゃ』って」「え~、それじゃミカン作ってらっしゃるんですか?」「そうですよ。今朝も摘果してきましたよ」tetywestと同じミカン農家の奥さんだとわかると急に親しみが湧いてくる。「それじゃこのお店は、みんな農家の奥さんがやってるんですか?」「そう、みんなミカン作っています。この辺は公園が出来る前はずっとミカン畑だったんですよ」「そうでしょうね。南向きの美味しいミカンが出来る地形ですもの。ところで、どうですか?お客さんは大勢来ます?」「3年前はいっぱいでしたけど、最近は少なくなりました。ホントはこの公園にミカン畑を残しておいて欲しかったなあって皆で言ってるんですけどね。そしたらお客さんが実際に農家の作業も見れるから。よくいらっしゃるんですよ、『シトラス・パークなのに全然ミカンが食べれないじゃないか』とおっしゃるお客さん・・・」なるほどそうか。tetywestはこの奥さんのように考えたことはなかっただけに新鮮な感動だった。6月~9月に食べれるミカンはハウスミカンしか無いのは農家とすれば全く当たり前の事だが、一般の人はそうは考えないのだろう。一年中枝もたわわにミカンが成っているというイメージがあるのかもしれない。「シトラス・パーク」なのだから世界の柑橘を1ヶ所に展示する事も必要だろう。しかし、あまりにも洗練されたイメージをアピールしすぎると、実際の農業からは離れてしまうことがあるのだと思った。農作業を体験できるコースや、そこまで時間がなくてもミカンが実際に栽培されている様子を説明してくれるコースがあれば消費者の理解はより深まるだろう。tetywestはここでも同じ質問をしてみた。「ところで、この地区の後継者問題はどうですか?」「若い後継者はほとんどいませんねえ。うちも息子が大学生ですけど、ミカンの値段がこんなに安いんじゃ『農家を継いで』って言えませんものね」「ホントにその通りですね、うちも同じですよ。じゃお母さんは仕送りで大変でしょう?」「ええ、ですからここに来てアルバイトしてるんです(笑)」やはり、ミカン産業の一番の問題は後継者がいない事だと再認識しながら、tetywestはお礼を言ってインフォメーションセンターを出た。後でパンフレットを見ると、その土産物屋さんは「JAせとだの店」だった。
2002年10月09日
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これで産地視察は終了した。バスに乗って生口(いくち)島の反対側にある「シトラスパーク」へ向かう。「シトラスパーク」は「しまなみ海道」の全線開通に合わせて1998年春にオープンした「ミカン」をテーマにした公園だ。「全国カンキツ研究大会」の最後は、ここで昼食を食べてゆっくりとおくつろぎ下さいという主催者の配慮だった。普通は入園料が800円必要なのだが今回は無料だ。バスから降りるとキャラクターの「シトラス君」と「レモンちゃん」が出迎えてくれた。昼頃になると気温はどんどん上昇して、後から調べると広島の最高気温は36度に達していた日だった。皆もキャラクターの可愛い仕草に見惚れるより、「暑いのに、大変だねえ」と、中に入っている人のことを心配していた。 ※この写真は、昼食後に「泉の広場」で撮影したものです。レストランは貸切だったのだが全員入ることが出来なかった。最後尾だったtetywest達はベランダに案内された。ベランダは日陰になっていて、海からの風が心地好い。瀬戸内海の島々を眺めながら食べる幕の内弁当もまた格別だった。弁当には「レモン・ジェラート無料引換券」が付いていて、昼食後はレストランの階下にあるショップで「レモン・ジェラート」を1個もらえる。野外の大きなパラソルの下に置かれた椅子に座って、レモン果汁がたっぷり入った甘酸っぱいジェラートを食べる。しかし、いい歳をしたオッサンがあっちでもこっちでもジェラートを食べている様はちょっと可笑しい。向こうもそう思いながらこっちを見ているのだろうと考えると尚更可笑しくなる。「シトラスパーク瀬戸田」はとても広かった。瀬戸内海に面した南向きの緩やかな斜面には、「シトラスパビリオン」、「 香りの館」、「食の館」、「芳香の森ハーブガーデン」、「ちびっ子広場」、「泉の広場」、「イベント広場」、「ピクニック広場」などの施設があり、世界各地の「カンキツ」の樹が植えられている。公園内の移動には無料で巡回するバス「シトラス号」も走っている。ここの出発は2時半の予定なので、時間はたっぷりとある。「食の館」の前にある「インフォメーションセンター」へ入ってみた。下にお土産物屋さんが見えたので、階段を降りる。普通は階段を下りれば地下1階なのだが、シトラスパークは全体が斜面なので階下にも窓があり、キラキラと光る海が見える。tetywestが気になったのは、篭いっぱいに盛られたグリーン・レモンだった。「1キロ500円」というポップがあり、傍に5kg秤が置いてある。土産物屋さんで、こんなレモンの売り方をしているのは初めてだったので、近くに寄って眺めていると店員さんから声をかけられた。
2002年10月08日
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ミカンはもともと豊作と不作を繰り返す性質がある。これは、今年果実が成った枝には来年は果実が着かず、芽が伸びる。反対に今年芽が出た枝は来年花が咲き、果実を成らすためだ。しかし全国的な傾向として最近、隔年結果の幅が次第に大きくなっている。例えば去年は農水省の公式発表では125万トンの生産量だったのだが、市場関係者は140万トンはあっただろうと言っている。その前の年は100万トンだった。今年も110万トンだろうと予想されている。年によって4割も生産量が増減するのは、ミカンの樹本来の性質だけが原因ではない。最近のミカン価格の低迷や高齢化によって農家の管理が次第に不十分になっているのが大きな原因だと考えられている。「隔年相互結実・刈り込み剪定園」は、豊作の年は「刈り込み剪定」をして、果実を1個も成らさず、不作の年にめいっぱい成らそうという栽培技術だ。そのほうがミカンの価格は高いので、農家の収入も増えるというわけだ。しかし、1年で2年分の量が収穫できるわけではない。tetywestはハッキリ言ってこんなのは技術でもなんでもないと思っている。こんなのが最新技術としてまかり通るようではミカン産業の将来も暗い。プロの農家なら、毎年同じように成らすのが技術だろう。「簡易スプリンクラー防除園」は、園内にプラスチック製のスプリンクラーを設置して、トラックに積んだ農薬を動力噴霧器でパイプに送り込み、スプリンクラーを使って防除をしようというものだ。これは15aくらいの面積のミカン園に個人が設置したものだった。tetywestの産地では180haのミカン園に共同スプリンクラー防除施設を導入している。これを20の「輪番」と呼ばれるグループに分けて、グループごとに防除班を組んで共同防除をしている。tetywestも「15輪番」の防除班長をしているので、このシステムは何の説明がなくても理解できた。「園内道設置」は、これからのミカン栽培の省力化に絶対欠かせないものだろう。tetywestの地元でも、「ハイヒールを履いてミカン園に行こう」「靴のエッジを立てて急な園内を歩くか、園内道をつけて平らな園内を歩くか」というキャッチフレーズで園内道整備を呼びかけてきた。ちょうど国や県の補助事業のおかげで平成8年から12年の間に町内で35kmの園内道が新たに出来た。園内道の幅は1m~2mなのでスピードスプレヤーは導入出来ないのだが、小型運搬車は1列ごとにミカン園の中を走る事ができる。園内道が出来たおかげで収穫したミカンの運搬や防除・施肥・剪定などの管理がずいぶん楽になった。ミカン産地はどこも同じようなことをやって生き残ろうと努力をしている。時間はもうすぐお昼だった。この日はどんどん気温が上がっていてtetywestは喉が渇いていた。ここでも婦人部の皆さんが笑顔で冷たいジュースを配ってくれた。その心遣いの気持ちの込められたミカンジュースはとても美味しかった。
2002年10月07日
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このまま10年経つと、日本のミカン生産量は50~80万トンに減少する。この減少に比例してミカンの消費が減れば問題はないのだが、昨日も全国大会のテーマになったように、これから国民には「果物を食べよう」と奨めていこうとしているのだ。仮に現在の消費量のままで推移したとしても、20~50万トンのミカンが足りなくなる。そこで登場するのは間違いなく「中国」だろう。現在中国は1,200万トンのミカンの生産量だが、若い樹が多いので10年後には2,000万トンを越える事は確実だ。この中で一番美味しくてきれいなミカン5%だけを日本のために輸出したとしたら、今の国内消費量と同じ100万トンになってしまう。おまけに中国の人件費は日本の10分の1なのだ。輸入商社がミカン1kg当たり100円も支払うとは考えられない。幸か不幸か、現在は植物検疫上の理由から中国のミカンは日本に輸入されていない。しかし、国民が食べるミカンが不足した時、農水省が「ガマンしなさい」と言える訳がないのは子供でも知っている。tetywestは中国産ミカンの輸入は5年以内に起こるだろうと睨んでいる。こんな事を考えながら高根(こうね)島の産地視察を終えた。バスに戻るといつの間にか方向転換していて、最後尾だった5号車は先頭に停車していた。全員が乗り込んでも先導車はなかなか出発しない。5分ほど待ってようやく出発した。しばらく走ると、なかなか出発しなかった理由がわかった。道路の幅が広くなったところで5台のバスが停まって我々のバスを待っていた。島内の道路は狭いので、離合できる場所は限られている。先導車は、もう1つの班の先導車と連絡を取り合っていたのだ。生口(いくち)島に戻って、島の中央へ向かってしばらく走ったところに2つ目の視察地があった。道路の右手の小高い山の中腹にミカン園が見える。こちらはコンクリートの園内道も整備されている。バスから降りると、さっきと同じように歓迎の挨拶があった。今度は「JAせとだ」の組合長だった。園内道を通って、ミカン園を視察する。ここは10haほどの面積のミカン園を15人で栽培している。共同で園内道を造って、軽トラックが走れるようになっている。しかし、道路の傾斜はかなり急で坂道に停車しておいたらタイヤがズルズル滑ってしまいそうだった。 「隔年相互結実・刈り込み剪定園」「簡易スプリンクラー防除園」「園内道設置園」が、ここでの視察内容だった。
2002年10月06日
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ミカンの果実はどの園も小さかった。どれくらいの雨が降ったのかと赤いTシャツを着たおじさんに質問したところ、8月は8ミリしか降っていないそうだ。山の中腹にあるミカン園では盛んにスプリンクラーで潅水をしているのが見える。「あの潅水の水源はどこから来てますか?」「ボーリングして、地下水を汲み上げています。あの水はここのもうちょっと下からポンプアップしているんです」生口(いくち)島には41万トンの農業用水を確保するダムがあるが、高根(こうね)島にはない。島の人にとって水は昔から大切なものだったに違いない。夏に旱魃の被害を受けていた瀬戸内沿岸部では、先人達がミカンを栽培することで短所を長所に変えた。夏の旱魃に遭うことで逆に甘いミカンが出来るのだ。ミカンの樹はよっぽどの旱魃が来ない限りそう簡単に枯れてしまうものではない。しかし、高根(こうね)島のミカン産地は園内道も少なく、基盤整備は遅れている。「この地区には若い後継者はいますか?」「いや~、近頃では専業農家の所でも、若いもんは勤めに出てミカンを作らんのが増えたなあ」やっぱりそうなのだ。現場の最前線ではどこの産地も本当に若い後継者がいない。10年後にはミカン農家数は半分になるのは確実なのだ。どうも農水省は、全国に6万ヘクタールあるミカン園を半分の農家で管理すれば、規模が2倍になって農家の暮らしも良くなると考えているようだが、実際はそんな机上の論理通りにはいかないのだ。夫婦2人で管理できるミカン園は、今の基盤のままだとせいぜい2~3haが限度だ。専業農家は現在でももう能力一杯の面積を管理していて、これ以上栽培面積を増やすことは出来ない。もっと面積を増やすと言うことは、もっと働かなければならないということなのだ。世間では週休2日の時代に、一年中金儲けのために休みもなく働く農業など誰も魅力を感じないだろう。しかし、これからWTOの農業交渉も進んで一層国際化する時代に、ミカンが1kg当たり200円以上の生産者手取りを確保できるとはとても思えない。せいぜい100円がいいところだろう。そうなると、夫婦2人で5haの面積を管理し、100トン~150トンのミカンを生産して粗収入で1000万円を確保する以外、専業でミカン農家はやっていけないのだ。今のままの労働力で2倍の面積を管理する方法は無くはない。それには機械化が出来る基盤の整備が伴わなくてはならない。もともと山の傾斜が緩やかな九州や静岡では、将来を見越してスピードスプレヤーが園内を走れるように基盤整備が進んでいる。しかし、瀬戸内沿岸のミカン産地はどこも急傾斜で、石垣を築いてミカン園を開墾してある。こんなところにスピードスプレヤーの導入はほとんど不可能に近い。もし、そういう基盤整備をするのなら10ha当たり3億円の事業費が必要になる。半分を国が見てくれる補助事業を使っても、農家の負担は莫大なものになる。今のミカン農家にはそんな余力は残っていない。友人のS君が面白い事を言っていたのを思い出した。「国鉄は自分で敷いたレールに自分の汽車を走らせて赤字になった。しかし、航空会社や運輸会社は、国が造ってくれた空港や高速道路を使って儲けている。農家も国が造ってくれた基盤を使って農業をやらなくては、赤字から抜け出すことは出来ないだろう」
2002年10月05日
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もう少し登って行くと、防風ネットに囲まれたレモン畑があった。「エコレモンの栽培園」という看板が立っている。広島県は全国一のレモンの産地で25ha、1,100トンの生産量があるそうだ。そして、その8割は瀬戸田で栽培されている。tetywestの産地でも瀬戸内海沿岸でしか生産出来ないという気候条件を生かして国産レモンを栽培しているが、生産量は瀬戸田の25分の1しかない。看板には、「消費者に安全で安心していただけるレモンを供給するために環境ホルモンの疑いのある農薬や、劇物・毒物の農薬を使わず、天然物である農薬を中心とした防除暦を組み、減農薬栽培に取り組んでいる」と書かれてあり、防除暦が示されていた。tetywestはこの防除暦にはかなり興味があったのでじっくりと検討して、看板の傍にいた赤いTシャツを着た園主と思しき人に質問をした。「この防除暦では『かいよう病』は3月と5月の2回だけですけど、それで完全に予防出来ますか?」「出来ます。・・・と言うか、この防除暦で『かいよう病』が出た園地のレモンは、徹底的に防除しますけど、それは『エコレモン』では出荷しません」との答えだった。同じミカン生産者に対してはタテマエ通りの答えではなかなか納得してくれないと思ったのだろう。tetywestはこの2回だけの防除ではいくら瀬戸内海沿岸でも完全に『かいよう病』を予防することは出来ないのは経験で知っている。それに、もう少し歩いて行った先でも、つい最近『かいよう病』の防除をしたレモン園があった。広島県の方針に文句をいう訳ではないのだが、この防除暦はあまりに消費者の農薬に対する反応を気にしすぎているのではないだろうか?生産者として一番情けないのは、自分が一生懸命作ったレモンが『かいよう病』でめちゃくちゃな外観になって売り物にならなくなる事なのだ。今の消費者は「農薬は出来るだけ使わないで欲しい」そして「きれいなレモンが欲しい」という矛盾した要求を生産者に突きつけている。それに対して生産者は、無理を承知で農薬の散布回数を減らして、結局売り物にならないレモンを作っている。tetywestはレモンの防除について、防腐剤を一切使用しないのは当然のことだと思う。しかし最大の病気である『かいよう病』の防除については、いくら雨の少ない瀬戸内海沿岸でも、湿気の多い5月、6月、8月(または9月上旬)の3回は最低必要だと思っている。レモンの収穫時期は一番早くて10月中旬なのだ。それまでには農薬の効果はとっくになくなっていて、残留毒性も基準値をクリアしているはずだ。これからは、そういう生産者側の言い分も消費者に納得してもらう努力が必要なのではないだろうか。高い所得を狙うために高いリスクを犯すのは経営の本筋からは外れていると思うのだが・・・そんな事を考えながら先に進むと、ミカン園に敷かれた黒いシートの上を歩いていた。このシートは「アグリ・シート」という商品名で、遮光性が高く、耐久性があり、シートの上を歩いても破れたりはしない。ミカンの畝間の防草に効果があるというキャッチフレーズだった。販売代理店の人が実物のサンプルの付いたパンフレットを配っていた。tetywestはこの商品については全く関心がなかったが、ただ1つなるほどと思った事がある。それは、シートを固定するために5寸釘を使っていることだった。それも、シートに直接釘が当たってシートを傷つけないように、また抜く時に簡単なように古い絨毯を10cm四方くらいの大きさに切ったものをパッキンにしてある。この方法はタイベックシートを固定する時に使えそうだ。これだとコストはほとんどかからないだろうし、敷設する時や収納する時も簡単だ。案の定、その先に行ったミカン園ではこの方法でタイベックシートを固定してあった。
2002年10月04日
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パーキングエリアを出発したバスは因島を抜け、ハープをイメージした全長790mの斜張橋、生口橋を渡って瀬戸田町に入る。瀬戸田町は大きな生口(いくち)島と小さな高根(こうね)島からなっている。橋を渡ると高速道路が終わっているので、島を周回する県道81号線で最初の視察地である高根(こうね)島へ向かう。 瀬戸田港に近づくと、道端に「第48回全国かんきつ研究大会」の幟がはためいて、交差点では真っ赤なTシャツを着た地元の人がバスの道案内をしてくれている。地元の人の役目はそれだけではない。高根(こうね)島の交通を完全にストップしているようで、対向車が全く来ない。このあたりから道幅はかなり狭くなっているので、大型バスは他の車とすれ違うことは出来ないのだ。10台のバスは2つのグループに別れて、tetywestたちのグループは最初に高根(こうね)島へと向かう。生口(いくち)島と高根(こうね)島は200メートルほどの海峡を挟んでいる。海峡には海面からかなり高いところにアーチ型の黄色い橋が架かっている。この高根大橋の手前で5台のバスが停車した。大型バスの重量が重いので一台ずつ橋を渡る。名前は「高根大橋」と立派なのだが、相当古い橋のようだ。 高根(こうね)島に入ると、バスは時計回りに海沿いを走って行く。海の向こうには生口(いくち)島と愛媛県の大三島とを繋ぐ斜張橋の多田羅大橋が霞んでいる。その手前に「ひょっこりひょうたん島」のモデルになったという島がぽっかり浮かんでいた。対向車に遭うこともなく島を半周ほどしたところで、バスは道幅いっぱいの道路の真ん中で停車した。ここで全員がバスから降りて産地視察を行う。黄色いTシャツを着てバスの番号の旗を持った案内の人についていくと、道路から少し坂を上がったところに広場があった。おそらく全国大会のために、ミカンの木を抜いて整地をしたものだろう。ブルドーザーで押した土の色が新しかった。瀬戸田町長の歓迎の挨拶を聴いた後、1号車の人たちから順番にミカン園を見学する。視察コースには赤いTシャツを着た地元の人がたくさん並んで、みんなを歓迎してくれる。テントが張られて、婦人部の人たちが冷たいミカンジュースを配ってくれる。その心配りに感謝しながら道を登って行くと、レモンの樹の周りに炭が撒かれてあり、「炭による土壌改良」の看板が立っていた。選果の時に出来たミカンの腐敗果は、そのまま捨てると産業廃棄物になり、水質汚染の原因にもなる。そこで「JAせとだ」では平成12年に光センサー選果機を導入した時に炭化装置も導入した。この装置を使って腐ったミカンの果実を原料にした炭を作り、畑に還元しているのだ。炭は冷蔵庫の消臭剤にも使われているように、細かな空洞が無数にあいている。これが水を濾過したり 微生物の恰好の住処となって、土壌を改良するのだ。tetywestの産地でも平成12年に光センサー選果機を導入しているので、同じように炭化装置も導入している。
2002年10月03日
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6時50分に指定された5号車のバスに乗り込んだ。産地視察はAコースとBコースに分かれて行われる。同部屋ではA藤さんだけがAコースだった。Aコースは20分遅れの時間差で、ホテルの桟橋から船に乗って音戸の瀬戸を通り、大崎下島の視察をする事になっている。さすが島の多い広島県ならではの全国大会だ。tetywestの乗った5号車は、香川県と福岡県が一緒だった。福岡県は八女の女性部会が10人ほど参加していた。tetywestは前の週に八女にある10haの共同基盤整備を視察に行ったところだと話すと、そこにミカン園を持っている奥さんも来ていた。「上のほうまで登らっしゃったとですか?」「いや~、下の入り口のところでJAの担当の方に説明をしてもらっただけです。それとキウイの畑を見せていただきました」「うちは、ず~っと上のほうなんですよ」「そうなんですか。素晴らしいミカン園を見せていただいてありがとうございました。あんなにきれいに基盤整備が出来ていると、仕事が楽でしょうね。ああいうところでミカンを作れるのじゃないと、これから後継者は出来ないと思いますね。」「香川県のどこから来られたとですか?」「観音寺です。テレビの『銭形平次』のテーマソングが始まる一番最初に砂で造られた『寛永通宝』がチラッと映るの知ってます?あの『寛永通宝』があるところです」「へ~、知らなかった。今度、注意して観てみよう」等と話しているうちにバスはホテルを出発した。Bコースはバス10台を連ねて山陽自動車道を東に走って行く。車内ではバスガイドさんがこれから行く瀬戸田の観光案内VTRを上映してくれた。瀬戸田には「西日光」と呼ばれる「耕三寺」、「平山郁夫美術館」、「シトラスパーク」等が有名だが、島の風景に溶け込んだオブジェをさりげなく配置した「島ごと美術館」や、NHKの「ひょっころひょうたん島」のモデルになった瓢箪の形をした無人島などもあるのだそうだ。1時間ほど走った小谷サービスエリアでトイレ休憩になった。tetywestはトイレだけ済ませてバスに戻ってきたのだが、ここで面白い事が起こった。全国大会に参加している人が大挙してパン売り場に殺到したのだそうだ。昨日から消費拡大はまず自ら実践する事だとか何だとか聞かされていても、「朝フル」だけでは我慢できなかったようだ。バスはいったん福山西インターまで走って高速を降り、引き返して尾道から「しまなみ海道」に入った。「しまなみ海道」は本州の尾道と四国の今治を7つの橋で繋いだルートだ。しかし、全部が高速道路で繋がっているのではなく、生口島と愛媛県の大島ではまだ道路建設中だ。道路公団の民営化問題などが起こったために完成はかなり遅れる事になるだろう。尾道大橋からチラッと尾道市街を眺め、向島を通過して因島大橋を渡ったところの大浜パーキングエリアで2回目のトイレ休憩だった。向島や因島はtetywestの住んでいるところから海を隔ててちょうど正面になる。晴れた日には因島大橋が見えるのだ。こちら側からtetywestの住んでいるところが見えないかと期待したが、ちょうど朝日が昇ってくる方向だったし、少し曇っていたので見えなかった。パーキングエリアなのでトイレの数が少なく、かなり長い間ここで停車した。ホテルからここまで2時間が経過していた。香川県で住んでいると、2時間あれば四国内の全部の県庁所在地まで行ってしまう。改めて広島県は広いのだと再認識した。
2002年10月02日
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翌朝になった。昨日知らされていたように朝食はフルーツバイキングなのだ。いったいどんな果物が出るのだろうと昨夜も色々な予想が出ていた。6時に朝食会場の「瀬戸の間」へ行ってみるとまだそれほど混んでなかった。お膳の上に皿が置かれ、皿にはフルーツが乗せられている。そんなお膳がずら~っと並んでいる様子は壮観だった。皿の上には、バナナ、ハウスミカン、ナシ、ブドウ(2種類)、イチジク、リンゴが盛り合わせてあった。飲み物はオレンジジュース、コーヒー、牛乳のうち好きなのを選べる。tetywestはせっかくだからフルーツで統一しようとオレンジジュースを持って来た。 皿の上には「朝こそフルーツ人」と書かれた「本日の朝食メニュー」が添えられている。開いてみると、「水分補給とエネルギー補給。そしてビタミンやカルシウムなどカラダとお肌と健康に必要な総合ビタミンが一度に補給できるんですお腹に優しくて優しい甘さがココロまで包み込んでくれる、しあわせさぁ、今日から朝食にフルーツをいただきます。 だから、朝のフルーツ」と書かれてあった。メニューは国産優先で選択するだろうから、ミカン、リンゴ、ナシ、ブドウ、イチジク、バナナまでは予想通りの品揃えだった。しかし、ブドウがピオーネとベリーAの2種類までは予想し切れなかった。tetywestの予想ではもう一品はメロンだったのだが・・・さっそく食べ始める。ナシ、ブドウ、イチジクは予想通り甘かった。リンゴはまだまだ出回り始めたところなので、イマイチの味。一番美味しくなかったのはハウスミカンだった。ハウスミカンは2~3年前から省エネルギー栽培の「グリーン・ハウス」ミカンが増えてきている。これは外観が緑色なのでそう呼ばれるのだが、中身はハウスミカンと同じように酸を感じなくするのが普通だ。しかし、tetywestが食べたミカンはしっかり酸っぱかった。どこの県のミカンかと訊いたところ、「広島県」だそうだ。柑橘生産者のプロばかりが集まる大会に出されるミカンとしてはちょっとどうかという気もする。しかし、考えようによっては、他の果物は酸味のないものばかりだった。ミカンの酸っぱさが爽やかに感じられるように、わざわざこのようなミカンを選んだのかも知れない。これだけ果物が揃っているとかなりリッチな気分になるものだ。フルーツバイキングなので、一番前のテーブルにはフルーツが山のように盛り上げられている。皿に盛り合わせてあるフルーツで足りなければ、いくらでも取って来てかまわない。tetywestはピオーネとナシをお代わりした。後から来た人達も、皿に盛られたフルーツだけではもの足りないのか、お代わりをする人が多かった。お代わりの一番人気はバナナだった。そして、朝のコーヒーにはやっぱり幸せを感じてしまう。
2002年10月01日
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