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研修報告(10)3.現地視察(その2)その後、我々の農家が見たいという急な要望にこたえて、近くの村落へ立ち寄っていただいた。若い奥さんが、室内に案内しれくれてお茶をご馳走になった。そのうち近所の人達が何事かといっぱい集まってきた。日本人は珍しいようだ。農家の家はこの村では二階建てが一般的である。レンガ造りで、一階に台所、食堂等があり、2階が寝室になっているようだ。トイレは外の別棟にある。食堂には有線ラジオから音楽が流れている。農村への有線ラジオ、有線テレビの普及は日本よりずっと進んでいる。壁の色は白で、床はコンクリートだがこざっぱりと清潔な家だ。庭もきれいに整理されている。私としては中国の農家はもう少しごちゃごちゃしたものというイメージを持っていただけに、意外だった。一階は収穫時期には果実の倉庫になるという。日本でも20年前までは座敷の畳をはずして、みかんを貯蔵していたのだから、部屋をそういう風に利用するのは納得できる。ご主人は鎮の人民代表なので、今は会議に出て留守だった。近所のよちよち歩きの赤ちゃんがやってきて、しばらく話題はそちらへ移動した。帰り際にポンカンを袋にいっぱいもらった。大きさは100㌘程度と、少し小さかった。劉氏の説明では、3月まで貯蔵するポンカンは100㌘前後の小さいもので、大きなものはそれほど貯蔵性がよくないとのことだった。大きなものは12月から出荷するそうだ。外観には多少の訪花昆虫の傷があったが、後で食べてみると、日本のポンカンより水分が多く、大変おいしかった。これが日本へ輸入されるようになると、1月以降の日本の温州みかん、中晩柑はかなりの打撃を受けることになるだろうと思った。一個一個ポリ袋に入れてある。この包装は西安や北京の果実売場のいろいろなところで見かけたが、生産者の段階でポリ袋に入れて貯蔵しているということがわかった。
2002年01月31日
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研修報告(9)3.現地視察(その1)午後1時から劉氏と姚・衢(じょう)州市農業局副局長、呉・柑橘研究所所長、江・主任の案内で、農業局のマツダのワゴン車で現地視察に出かける。最初に航阜鎮へ行き、副鎮長の方氏が同行する。鎮を視察する場合、その鎮の責任者がお世話をするのが中国のシステムだそうだ。航阜鎮は古い産地で、衢州市では最高の柑橘生産量を誇る鎮である。小さな港があったために、このような名前がついたのだそうだ。昔はここから上海や南京に向かって柑橘が出荷されていたそうだ。方氏の話では航阜鎮は43村からなり、人口は49,800人で柑橘の生産量は6~7万㌧。そのうち97%がポンカンである。温州みかんと胡柚が少しある。農産物収入の90%以上は柑橘からのもので、後は米と野菜である。農家のなかには、生産と販売をやっている農家もある。主な販売先は上海や北京だそうだ。最初に案内された所には展望台があって、その上に登るとなだらかな丘陵と平野が広がり、見渡す限りみかん畑である。はるか向こうに衢州市の街並みが見える。そのこちら側には2階建てのきれいな家がたくさん並んで建っている。それらはアパートなのかと訪ねたら、農家の家だそうだ。この地域の農家は西安の農家よりずっと収入が良いようだ。方氏が、「ここからの眺めは、この鎮の平野部の代表的な眺めです」と説明してくれた。平野部の生産上の一番の問題は、地下水位が高いために、「過水(過湿状態)」であるという。我々の登った展望台には「航阜鎮一品紅橙柑示範園区」と書かれており、その下には、一品紅橙柑産品基地2万畝、其中中心方2000畝、示範園500畝。主眼目標、畝産2500公斤(反当1800㎏)、大小年幅度(隔年結果)15%以内、特級・一級果率75%以上。とあった。目標が反当1.8㌧では、実際の反当たり生産量は日本より少ないようだ。また、どの程度を1級果実とみなすのかわからないが、おそらく日本ほど厳しくはないだろうから、品質に対する意識もかなり日本とは差があると思った。日本では加工品を25%も作ったのでは、採算に合わない。ここの改良目標は、明きょ排水路を作ること、不良系統の伐採、「三蔬(粗)一改」を実行することである。「三蔬(粗)一改」とは、今年から衢州市農業局が農家に推進する技術目標のスローガンだ。中国ではよく、このように数字を使ったスローガンが使われる。その内容は 木を粗にする 枝を粗にする 実を粗にする 有機肥料に改めるである。その後訪問した農家は、施肥作業中だったが、今年から化学肥料を使わず、有機配合肥料を使っているそうだ。しかし、日本の有機配合肥料に比べて有機配合比率は低いようだった。また、その園は密植状態になっていたので、方氏はその農家に一本おきの間伐をするように指導していた。千鳥状に間伐をするという。次に訪れたポンカン園は、この付近で一番の優良園だそうだが、木と木の間は十分に間隔があり、枝は裾まで充分に葉をつけている。一段目の枝と二段目の枝の間も間隔があり、園内は草生栽培で柔らかな草で覆われている。この園だと反当3㌧は毎年生産するという。おそらく品質も良いだろうと思われる。十分に「三粗一改」が行われている園である。ただし、難点は樹高が極端に高いことで、おそらく4㍍はある。アメリカの柑橘が3㍍でトッピングしている事を考えれば、おそらく中国の柑橘の樹高は世界中で一番高いだろう。収穫作業は脚立を使うそうだが、平坦地はまだしも、傾斜地では作業能率が悪いだろうと思う。
2002年01月30日
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研修報告(8)衢(じょう)州市(浙江省)の柑橘栽培1.概要衢州市の地形は86%が山地・丘陵地であり、なだらかな地形とよく肥えた赤土は柑橘栽培に重要な資源である。また「衢州は四省に通ずる」と言われるように交通の要所であり、商品経済の発展も進んでいる。農家の収入の60%は柑橘栽培によるものである。栽培の歴史は1400年以上であり、改革解放以後急速に発展した。1979年には栽培面積4.69万畝(2,800㌶)、生産量は5千300トンだったが、1995年には栽培面積50万畝(30,000㌶)、生産量は50万トンを越えるまでに増加した。この面積は浙江省の23.5%を占め、生産量では29.5%を占める。特に衢(じょう)県ポンカン、常山胡柚は有名で、面積と生産量は全国一位である。衢県は「ポンカンの里」と命名され、常山胡柚は国家的な「緑色食品」となっている。2.品種衢(じょう)州市で栽培されている主な品種は下記の3種類である。ポンカン衢州ポンカンの主産地は衢県である。栽培面積の53%を占める。一果重は130㌘。糖度は10~12度、高いものは15度になる。酸度は0.9~1.3%。熟期は11月下旬。温州みかん1966年から1968年に全市的な規模で増植された。栽培面積の33.4%を占める(うち極早生が半分)。一果重は130㌘。糖度は9.8~12度。酸度は0.5~0.8%。熟期は9月下旬~11月下旬。胡柚常山県が主産地である。栽培面積の10.5%を占める。一果重は200~400㌘。糖度は11度以上。16種類のミネラルを含み、常山胡柚は1991年に「緑色食品(日本だと有機認証食品か)」に指定された。熟期は11月上中旬。
2002年01月29日
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部屋に荷物を置くとすぐにホテルの2階の個室で昼食。旅行前に劉さんから受け取った手紙には簡単な昼食と書いてあったが、なかなか豪華な食事だった。これも1時間かけてゆっくりと食べて、その後産地視察に出かける。農業局長、劉さん、江技術主任と一緒。まず航埠鎮の方副鎮長のところへ行き彼の案内で産地視察をした。平野部の産地、農家、山間部の産地と見て回りその広さに圧倒された。衢(じょう)州ケーブル・テレビのクルーがずっと一緒だった。5時までみっちり研修した。農家の家はきれいで有線ラジオが流れていた。収穫時期には家の1階は倉庫になるのだそうだ。5時半からホテルの広間で歓迎会。スピーチ原稿を大急ぎで作って挨拶をした。会場には赤地に白抜きの「歓迎日本香川県○○町中国果業視察交流団」の文字が部屋いっぱいに掲げられている。かなり恥ずかしい。記念に東方魔鏡をプレゼントされた。全員で30人くらいの宴席だったが、私の席は副市長さんと外事通訳の毛さんの間の席だった。完全にVIPの待遇だ。(市長さんは全人代に参加のため不在)私は西安の二の舞を避けるために、ここでは酒を飲まなかった。H君もほとんど飲めないので、乾杯はN君に集中した。日中交流の熱烈歓迎を一人で受け持ったN君、ご苦労様でした。私は専ら副市長さんや農業局長さんとの会話で日中の交流に勤しんだ。しかし、よっぽど緊張していたのだろう、料理がどんなものだったのかよく覚えていないのだが超豪華な料理だったのは間違いない。最後に食べたイチゴとメロンは美味しかった。衢(じょう)州市では農業が主な産業で、中でも柑橘は主要作物になっている。生産量もたった1つの市で50万トン(日本全体ミカンの生産量の3分の1以上)という大産地なのだ。市政府は今その柑橘生産技術改革に取り組んでいる。「三粗一改」というスローガンを作って、密植園の間伐、剪定、摘果の徹底、有機質肥料の施肥を奨めているのだが、私達は政府の農業政策の後ろ盾として実にタイムリーな訪問だったのだと後で劉さんが教えてくれた。東方魔鏡は衢(じょう)州市の特産品で、何もない金メッキの鏡の表面に光を当てると観音像が浮かび上がるという不思議な鏡。大臣が外国を訪問する時の土産に使われるそうだ。劉さんも実際にどうやって使うのかは知らなかった。部屋の明かりを消してH君のカメラの電池を使って鏡に光を当ててみると、壁に反射した光の中に見事な観音像が浮かび上がった。これはすごい!我が家の家宝だ!!
2002年01月28日
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99年03月11日(木)天候:雪(北京)曇り(衢州)5:00起床。6時にチェックアウト。靴の箱みたいに大きな弁当をもらって6時半にミニバンでホテルを出発。早朝なので7時10分前にもう空港へ到着してしまった。まず国際線出発ロビーでS君とK君を見送って国内線へ。2人は一足先に大連経由で日本へ帰る。ガイドの陳さんに見送られて場内へ入ったが、時間がたっぷりあるので待合室のベンチで食事をする。パンが3種類にリンゴにバナナにクラッカー、雪碧(スプライト)。昨日の朝食とは大きな違い。わびしい。することもないので1時間半前に搭乗手続き。頭上にある掲示板に漢字とアルファベットで窓口が表示されるのでわかりやすい。チケットをもらって20番ゲートで待っていると雪が降り始めた。喫煙室があったので助かった。9時に1階へ降りる。H君が場内アナウンスで「チジョー」と「ナンバー2」を聞いたと言うのを頼りに、隣にある2番ゲートへ行って見るともう乗客はバスに乗り込んでいた。バスで滑走路のはるかかなたの東方航空の飛行機まで運ばれる。乗客は全部でたった11人だった。この飛行機を逃したら次の便は一週間後なので、中国語を勉強中のH君はアナウンスの聞き取りにかなり神経を使っていたそうだ。この乗客の人数では絶対プロペラ機に違いないと覚悟していたのだが、ジェット機だったので少し安心した。どこに座ってもかまわない。当然3人とも窓際に座ったが、飛行中に見えるのは雲ばかりで黄河も揚子江も見えなかった。順調に飛んで衢州の空港へは定刻の12時より少し前に到着した。衢州(じょうしゅう)市は浙江省の西部に位置する。空から見るとこじんまりとした街という印象だったのに、後で聞いたら人口は228万人だそうだ。空港も市の中心地に近い。赤土の土壌にミカンがいっぱい植わっている。この風景を見るとなぜか懐かしい感じがする。それに空気に水分が多い。同じ空港にはミグ戦闘機がカバーもかけずに停まっていた。飛行機を降りて歩いて空港ビルへ向かっているときにTVカメラを担いだ人達がやって来た。どうも取材の対象は私達らしい。スーツを着ていて良かった。中国語でインタビューされたが何を言っているのかさっぱりわからない。空港ビルの外では劉さんが手を振っているのが見えた。やれやれ、これで一安心。農業局のマツダのバンに乗せてもらって、衢州駅の近くの「東方大酒店」へチェックイン。
2002年01月27日
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研修報告(7)北京市内の自由市場北京市の三環路と四環路の中間にある熊猫環島(パンダロータリー)総合市場を訪れ、管理責任者の陳さんから概要の説明を受ける。この自由市場は有限公司で、個人の資本で作られたものである。面積は5㌶で、第1期として1万平方㍍の店舗をつくり、今年の1月1日にオープンした。この敷地は、1990年に行われたアジア大会の選手村の跡地である。店舗数は2000区画あり、現在1300店舗が入っている。契約期間は最短6ヶ月で、1区画の使用料は毎月600元~800元である。このような規模の自由市場は北京市内に30ヶ所ほどあり、半分は国営、半分は公司である。これから第2期、3期と拡張計画があり、第3期計画終了後には売り場面積4万平方㍍、四環路以内では最大の自由市場になる。加工食品、建材等の売場も設け、総合市場にする予定である。地理的にも三環路と四環路の真ん中にあり、近くに団地があるために、経営的にも安定しているとのことだった。現在扱っている品目は、A区=日用雑貨・電気製品、B区=衣服、C区=生鮮果実・野菜、D区=畜産・海産物である。生鮮食料品の流通形態としては、スイカなどの一部の果実は汽車で運ばれるが、ほとんどはトラックで北京に運ばれている。それらの果実や野菜は、まず北京市内に2ヶ所ある卸問屋街へ集まってくる(その内の1ヶ所は大小路)。卸問屋は約30%のマージンをかけて、小売商に売る。小売商は約20%の利益を加えて価格を設定する。ここの自由市場の小売商も、そのようにして品物を仕入れている。ここにはスーパーマーケットにある品物は全部あるが、スーパーより安いので、人が集まってくるのだそうだ。逆に日本にこのような自由市場があるかと質問された。日本では個人経営の小売商はスーパーの価格が安いために競争に負けて少なくなったこと。したがって、相対売りという形はなくなり、消費者が陳列してある品物を勝手に篭に入れて買い物をすること。近年ではスーパーが差別化商品を扱って、価格が高くなったこと。青空市や産直市等が台頭し始めて、消費者は安くて、新鮮なものを捜し始めている事などを説明した。ある意味では、北京のこのような売り方に日本も戻っているのかも知れないと、不思議な錯覚にとらわれた。しかし、よく考えると人件費の高い日本でこのような商売の形態が成り立つはずはない。説明の後、市場の中を自由に見学した。果物売場区では、バナナ、ポンカン、文旦、スイカ、梨、ブドウ、アメリカ産オレンジ、グレープフルーツ、リンゴ、キウイ、龍眼、イチゴ、メロン、パイナップルと、品揃えは日本とまったく変わらないほど豊富だ。また、それぞれの売場がディスプレーに工夫を凝らしていて色彩も鮮やかで楽しい。パイナップルは、きれいに螺旋状に皮をむいでポリ袋に入れて飾ってある。ポンカンやオレンジは赤や透明のポリ袋で一個一個包んである。スイカなどは包丁で切って、秤で計って買っている。文旦を一個(800㌘)6元で買った。外観は傷が多くてきれいとは言えなかったし、後で食べてみると酸味が少しきつかった。価格は相対なので、そこら中で店の人と買う人が価格交渉をしていて、賑やかと言うのを通り越してうるさい。また、別の区ではケージに入って生きた鶏を売っているし、生きた鯉もいる。また、肉の売場では店の人が豚足をていねいに磨いている。垂れ幕に中近東のアラビア文字で書かれたものが下がっていたが、そういうお客も来るのだろうか?時間がなかったので、衣服売場や日用雑貨の区へ行けなかったのが残念だった。
2002年01月26日
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研修報告(6)昌平県(北京近郊)の果樹栽培この地方は北京市から北へ50㎞ほど離れた農業地帯で、東、北、西を山に囲まれ南に開けた地形である。栽培されているのはリンゴで、見渡す限り山裾までリンゴ畑が広がっている。中国ではリンゴの生産量はみかんに比べてかなり多く、全国で約1,800万㌧である。近年はわい化台木が用いられて、樹高は約2㍍に押さえられ、杯状形にきれいに剪定されている。ちょうど視察した園は剪定が終わったばかりだったが、剪定した枝はまとめて一ヶ所に置いてあった。薪に使うのだろう。北京ではまだ、日本の真冬並みの寒さなので、草は生えてはいなかったが、堆肥を園内の各所に盛り上げてあったので、清耕裸地栽培をしているようだ。この地方の一戸当たり耕作面積は1~2畝と小さく、アメリカのように広々と見えるリンゴ畑も1人は1筋か2筋を栽培しているにすぎない。隣の筋は違う人の畑で、境はない。したがって、ここでも西安と同じように若い後継者は北京に出て働いている農家がほとんどだそうだ。一方果樹のハウス栽培は最近急成長している。1998年のハウス栽培は北京市全体で129㌶で、ほとんどは無加温の西安と同じ様な型のハウスであるが、一部(10%程度)は加温ハウスである。ただし、結果(実が成っている)面積は37㌶とまだ少ない。栽培されている品種は、モモが64㌧、ブドウが97.4㌧、オウトウが10㌧である。価格はモモ、ブドウは㎏当たり40元、オウトウは80元である。総生産額は1千万元である。今後とも北京という大市場を近くに持っているという地理的な条件を生かして、ハウス栽培は増加すると思われる。
2002年01月25日
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昼食は日本人専用レストランで「幕の内弁当」。豪華な朝食の記憶が残っている私達にこれは一体・・・何が悲しゅうて、中国へ来て「幕の内弁当」を食べにゃならんのだろう。日本に帰ったら絶対旅行社に文句を言おう。我々は二階の個室での食事だったが、広間の方は新潟の高校生が修学旅行に来ていた。のぞいてみると同じメニューだった。さっさと食事を済ませ、一階の土産物をのぞいても買いたいものは何もない。駐車場に出てみると最新型のポルシェの観光バスがズラリと並んでいる。私達のボロいミニバンがいっそうみすぼらしく見える。と、その時「そうか、中国でいちばん有名な日本人は田中首相。角栄さんの出身地は新潟。だから修学旅行のバスも最新型なのか。」一挙に疑問が解決してめでたし、めでたし。この後私は体調が悪くなり万里の長城では最悪の状態だったので、右側の女坂を最初の砦の半分くらいまで登って早々に休憩所へ帰り、後は寝ていた。※2年半後に再訪しました。興味のある方は北京旅行記(8)を読んでね。(こちらからどうぞ)帰りにもう一ヶ所土産物屋に寄ったが、私はバスを降りずにひたすら横になっていた。北京はかなり寒い。バスが動き出して暖房が効いてきた時はホッとした。夕食前に北京で一番広い自由市場へ見学に行く。果物から日用雑貨までなんでも揃っているショッピングセンターだった。管理人が別室へ案内してくれてゆっくりと話を聞くことが出来たのは今日の最高の収穫だった。夕食は広東風の海鮮料理店へ。私達は口々に「え~、違うだろう」とガイドに文句を言ったが取り合ってくれなかった。実は旅行の行程が決まった時、日本の旅行社に「北京で広東料理は食べたくない。北京料理が食べたい」と注文をつけてあったのだ。それに、ガイドから今日のスケジュールを聞いたときも、S君が「追加料金を払うから、海鮮料理ではなく北京でしか食べられない料理を食べたい」と希望を伝えてあったのに「そんな話は聞いていない」とまったく無視された格好なのだ。腹が減っているので今更他へも行けず、仕方なくその店で食べたのだがそれほどおいしくなかった。夕食後、今度はK君が体調不良になった。K君は先にタクシーでホテルへ帰り、他のメンバーは梨園劇場へ京劇を鑑賞に行った。京劇は夜7:30からの開演でVIP席だったので大変良く見えた。これには大満足。ただし、京劇と言うよりは雑技団のようなアクションが多い出し物だった。舞台の上隅に英語の解説が出るので、まずまず内容は理解できた。8:50に終了となったが、劇場の出入口もしっかり土産物屋が並んでいた。帰りのミニバンには陳さんの娘も一緒に乗ってきた。塾からの帰りなのだそうだ。※京劇については北京旅行記(13)にも書いてあります。(興味のある方はこちらからどうぞ)ホテルでは、S君が居残り組3人の土産を日本へ運んでくれるというのでそれを荷造りしたり、日本からの土産を3人のバッグに分配して詰め込んだ。寝たのは12時だった。
2002年01月24日
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しばらく待っていると白衣を着たおじさんが登場した。このおじさん、勝手に自己紹介を開始する。日本語はとても上手だ。「私は北京大学で漢方薬の研究をすること××年(年数は忘れた)」「私の書いた本を積み上げると私の身長よりも高い」「私は長年の研究の結果、漢方薬の真髄を極めた」「日本の有名人の病気を何人も治した」「田中角栄首相の顔面神経痛を治したのも実は私」「私は何歳に見えますか?実際は60歳、でもずっと若く見えるでしょう」なんだか言ってることが大げさすぎる。ここで何かを売りつけたれたら日本の総理大臣並みの値段を取られそう・・・と、少し身構えてしまった。このおじさんは、患者の脈を診ただけで病気をぴたりと当てるのだそうだ。「さあ、特別に無料で見てあげましょう」と私達を見回す。旅行中に露店の土産物売りとか、客引きのお兄さんに人気があるキャラクターは何故かたいてい決まっている。指名されたのは案の定N君だった。両手首をつかまれて、なにやら小声で話をしている。私達にははっきりとは聞こえないのだが、○○の自覚症状があるでしょう?とか聞きながら、それは肝臓が悪いからとか、何とか説明しているようだ。5分くらい経って、N君の診断は終わった。「他に見てもらいたい人はいませんか?」の問いに、今度はS君が自分から立ち上がった。これも、5分くらいで終了した。白衣のおじさんは「他にはもういませんか?」と声をかけたが、だれも答えようとしなかった。一番後ろの席で退屈そうに座っていたK君には「あなたは旅行社の人ですね」と見当違いの人相占いまでして去っていった。その後、漢方薬がたくさん並べられている土産物コーナーへ案内されたが、私はまったく興味がなかったので、さっさとバスに戻った。バスが動き出してから、脈を診てもらったときどんな状況だったのかをS君が解説してくれた。「あなたは肝臓と、心臓と、××と△△が悪い。私の薦める薬を飲まないと死ぬでしょう」と脅されたのだそうだ。S君はその場では「もう、この年になったらいつ死んでもかまん」と答えて何も買わなかったものの、内心は不安で仕方なかったそうで、「ちょっとでも早よ、こんな所から離れたいわ」とぼやいていた。黙って隣に座ってるN君に私が「何か買うたんか?」と聞くと、漢方薬を3つ買ったそうだ。脈を診てもらったとき、薬のリストにボールペンで○をつけてあるのを渡してくれた。そのパンフレットによると、「強腸健腎丸(参茸壮腸丸)」「保肝養胃丸(解毒益肝丸)」「気血双補丸」〆て2万5千円也。総理大臣価格にしては安いものだが、この商売はかなり悪どい!!旅行社もグルになってこういうことをしていては中国のイメージが悪くなるばかりだ。
2002年01月23日
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99年03月10日(水)天候:晴れ7:18起床。一応他の部屋にTELしたがどことも早めに朝食に行ったようだ。私とN君は7:30に朝食。ここもバイキング形式だ。さすが超一流ホテルは朝のメニューも超一流。「昨日の夕食は何だったの?」と言うくらい中国の珍しい食べ物が並んでいて、どれにしようかと迷ってしまう。しかもパンもコーヒーも美味しい。私達は次から次へとお代わりをして時間ぎりぎりまでレストランで粘り、朝からお腹いっぱい状態だった。8時半出発で明の13陵に向かう。中国では三方が山で南に開けた地形は大変縁起がいいとされ、この地方一帯に明の皇帝の地下宮殿が13個あるのだ。11代目の定陵だけが開いているのでそれを見学する。かなり大がかりな部屋で、密閉した後ろうそくを燃やして酸素を抜き真空状態で保存するそうだ。当時の権力の大きさがわかる気がする。※詳しいことは北京旅行記(9)をみてね。(こちらからどうぞ)明の13陵を見学した後、道路のそばにあるリンゴ畑に停車。研修のレポート用にリンゴの木を写真に撮る。次に連れて行かれたのは漢方薬の研究所。と言っても看板には「小人国旅遊(ホントはさんずい)世界」と書かれてあるので、どうも土産物屋のようだ。正面入り口ではなく横にある別の入り口から建物の中へ入る。通路の両側にはいっぱい部屋があって、なにやら薬の研究をしている雰囲気。私達は20人くらい入れる教室のようなところに連れて行かれた。正面には黒板があり、ヒトの骨格模型が置いてあり、壁には人体解剖図なども掛かっている。いったい何が始まるのだろう・・・
2002年01月22日
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その後紫禁城の堀の近くのレストランで食事をした。若い女性のテーブルマネージャーは日本語がうまい。しかし食事が一段落した頃、西安と全く同じ錫製の酒かん器を持って現れたのには笑ってしまった。K君がテーブルマネージャーの言うセリフを全部先取りしてしまった。「『この八角形の外観は当店が独自に開発したオリジナル商品』なんでしょ?」「それから『中は二重構造になっていて、外側に湯を入れるとお酒がいつまでも冷えない』んですよね。」「それで中の入れ物を手で押して『柔らかい錫製なので、もし凹んでも、元通りです』とやるんですよね。」つい6時間ほど前のことなのだから忘れるはずがない。最後に「でも、錫は重金属だから体に悪いです。」と付け加えた。この展開はテーブルマネージャーも予想していなかったらしくて苦笑していた。これでその場の雰囲気が和み、その後はテーブルマネージャーといろいろな雑談になった。「日本語が上手ですけど、日本に行ったことはありますか。」「いいえ、北京の大学で日本語を勉強しました。」「それだけ日本語が上手だったら、日本へ来れば仕事がいっぱいありますよ。」彼女、嬉しそう。「でも、家族がたくさんいるので私は北京を離れることは出来ません。」とのことだった。部屋の壁には水墨画や書がいっぱい掛かっている。「この掛け軸をここからここまでは貴方、こっちは私」みたいに全部買ってくれた日本人の団体さんもいたそうだ。やっぱりそういうのが日本人だと思われているようだ。K君が「私達は日本の貧しい農民ですから、何も買えません。」と言っても本気にしていないような笑いだった。そんなわけで、ここでも1時間以上かけて食事をした。このときだけはガイドのほうがしびれを切らして迎えに来たが、それ以後北京では私達がガイドを待つパターンが続いた。夕食後、中国大飯店(シャングリラ・チャイナワールド)へチェックイン。最高級ホテルだそうだ。私とN君は525号。部屋は広いし家具も格調高い。エレベーターで出会った日本人と思しき客の部屋はどれも5階か6階だった。ホテルは20階以上あるので、泊まっている人の中で日本人は最低の格付けなんだろう。全国人民代表大会中だったために空いているホテルがなくて、こんな超豪華ホテルへ泊まれたのだろうと思う。ラッキー!ラウンジではピアノ生演奏ではなくて、10人ほどの室内管弦楽団が「四季」を演奏していた。売店もすごい値段のものばかり置いてある。売り子のお嬢さんは日本語がペラペラ。熱心に勧めてくれるのだが「Just watching」。ホテル内の本屋で、英語と漢字で書かれた「唐詩300選」という香港版の本を土産に買った。228元はいい値段なのだ。その後9時半から1時間寝て疲れをとり、シャワーを浴びて洗濯もして11:40~12:30まで日記を書いていた。
2002年01月21日
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さすがに中国の首都・北京!空港の到着ロビーを出たところは人でごった返していた。手に手に団体の名前を書いたカードを持って旅行社の人が立っている。しかし、私達を迎える旅行社のガイドが見つからない。あちこち探し回って旅行社のツアーデスクにも行ってみたが、違う旅行社の人だった。20分が経過したところで、これは旅行社へ電話かと「旅のしおり」を探している時、「遅れてすみません」とガイドがやってきた。やれやれ・・・ガイドは女性で陳さんという。愛媛県へ15年前に来たことがあるそうだ。空港でリコンファームを済ませてミニバンに乗り込む。ガイドは北京市内へ着くまで実によくしゃべった。西安のガイドは苟さんより日本語が下手だったが、陳さんは日本語のレベルが格段に上だ。まずは紫禁城へ行き、午門の前で記念撮影だけ。時間が遅いので入場はできなかった。その後天安門を通って天安門広場前へ。ここも観光客でごった返している。写真を撮ったりしているうちに天安門は通行止めになった。毎日、日の出と日没の時刻に国旗掲揚式と納旗式が行われるのだそうだ。仕方がないので日没の時刻まで待って、その儀式を見学することにした。ガイドの話では、近衛兵は若くてハンサムで身長が180センチ以上でないと採用されないのだそうだ。※2年半後の北京旅行記に詳しく書いたので、今回は簡単に書きました。(故宮(1)はこちらからどうぞ)(故宮(2)はこちらからどうぞ)(天安門はこちらからどうぞ)近衛兵の列が道路を横切るときは天安門広場の前の10車線の道路は通行止めになる。国家権力を具体的な形として見たような思いだった。広場は改装工事中で入れなかったのが残念。広場の西側(向かって右)の建物では、全国人民代表大会が行われている。屋根には赤旗がいっぱい立っている。東側(向かって左)は歴史博物館。正面はるか向こうに毛沢東記念館が見える。天安門には毛沢東の絵がかかっている。新しく描き替えたのか、きれいだった。日没後はかなり寒くなったので、天安門が通れるようになると私達はまずトイレに行った。有料トイレはもうお馴染み、5人でまとめて1元支払った。きっと北京は寒いだろうと、西安で買った革のチョッキを着ていて正解だった。
2002年01月20日
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昼食後は西安空港へ向かう。西安は見渡す限りの平野で、隋や唐の時代は豊かな土地だったのだろう。今は雨が少なく民家の屋根に埃が積もっている。家は土壁とレンガ造りが半々くらい。土壁が壊れているのをそこかしこで見かける。冬なので村を囲む林の木々には葉っぱが一枚も無く、全体がセピア色をした集落からはなんとなく貧しさが漂ってくる。農家ではアルバイト(出稼ぎ)に出ている人が多いそうだ。1時間かかって西安空港に到着し、50元の空港使用税を払って、搭乗手続きをする。手荷物を預けたところ、係員が恐そうな顔をして「ちょっとこちらへ」と呼びに来た。S君の荷物の中に爆弾が入っていると言うのだ。私も焦って一緒についていくと、X線CRTにくっきりと映し出されていたのは「スペシャルリザーブ」のボトルだった。きれいに4つ並んでいて、なるほど爆弾と見えなくもない。北京では全国人民代表大会が開かれているので、セキュリティ・チェックも厳しいのだろう。ガイドに通訳を頼んで説明したら、何とかわかってくれたようでバッグを開けなくて済んだ。ガイドと別れて待合室で搭乗を待っている間に中国の旅行地図を10元で買った。地図にはけん(さんずいに径の右)陽もちゃんと載っている。待合い室は禁煙なので、K君とS君はタバコが吸える喫茶店に行きコーヒーを注文した。しかし予想通り、またしてもインスタントコーヒーだったそうだ。しばらくすると飛行機への案内があった。北京行きの飛行機は満席だった。定刻の14:40に出発して定刻の16:10に到着した。飛行機は中国西北航空だったが搭乗土産に乾電池で使うマッサージ機をくれた。北京は西安より寒いらしく、空から見ると民家の北側の軒下には雪が残っていた。
2002年01月19日
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兵馬俑の後は華清池へ。長恨歌で有名な場所なのだが、ここは中国では珍しく温泉があり風景もきれいなところだ。今でも暖かい湯がわき出ている。しかし、入ってすぐの九龍湖という池の中に上半身裸の楊貴妃の像があるのは興ざめだった。シーツのような布で前を押さえて片足から風呂に入ろうとしているポーズの大理石の像なのだが、まるでヘアスタイルだけ中国風のミロのビーナスなのだ。観光用に最近作られたものに違いない。S君曰く「楊貴妃はこいな乳しとったんか・・・」ぐるっと4つの石造りの浴槽を見て回る。楊貴妃の風呂は意外と小さく、カイドウの花をモチーフにしたデザインはかなりオシャレ。周りに腰掛けられるように2段になっている。ガイドの話では、そこに座ったときにちょうど肩まで湯に浸かる高さなのだそうだ。私達は浴槽を上から眺めているわけだが、周りの床の石に柱を立てた跡がへこんで残っている。玄宗皇帝の風呂はさすがに大きくてりっぱ。その残り湯が召使達の風呂に流れていく仕組みになっている。華清池は西安には珍しく、切り立った山の麓にある。庭園には楊貴妃が演劇を鑑賞したと思われる大きな建物や、春の花の時期にはきっとここで宴会をしたのだろうと思われる亭子(あずまや)がある。人工の池は回りに龍の頭を配し、たぶんそこから水が流れ込むのだろう。池の傍に植えられている柳の新芽のベール越しに見える庭園はなんとも幻想的で、唐の時代にタイムスリップしたような気になる。私は庭の方をもっとゆっくりと見たかったのだが、ガイドに促されて駆け足で通り過ぎてしまった。すぐ近くのレストランで11時40分から1時間かけて昼食。私達が到着したときは誰も客がいなかった。そんな状況でウエイトレスさん20人くらいがかたまって私達の食事風景を眺めているのは異様な光景だった。日本人専用レストランらしく、12時を過ぎると日本語を話す客がいっぱい入ってきて、ほとんど満員になった。食事が終わる頃、この店のマスターが錫製の酒かん器を売りに来た。「この八角形の外観は当店が独自に開発したオリジナル商品でございます」「中は二重構造になっていて、外側に湯を入れるとお酒がいつまでも冷えません」「柔らかい錫製ですので、もし凹んでも、このように手で元通りです」と流暢な日本語で説明する。しかし、誰も買わない。食堂を出ると隣の部屋には土産物がいっぱい置いてある。結構高いぞ。みんな何も買わない。レストランの駐車場の端では現地の物売りが露店で土産を売っている。レストランとの約束なのか、ある線からは出てこない。私達がそちらを向くと、「100円!100円!」とか「200円」とか一斉に叫び出す。他を向くと呼び声が止まる。またそっちを向くと一斉に叫び出す。なんだか遊んでいるような気になる。売っているのは毛筆セットや民芸品だった。私達がレストランの門の外に出ると、そこはフリーゾーンなのだろう、寄ってきて1000円札に両替してくれと言う。出発の時間になって私達が外で待っているのに、ガイドと運転手はなかなか出てこなかった。
2002年01月18日
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99年03月09日(火)天候:晴れ5:30起床。昨夜ゆっくり寝たので爽快に目覚めた。風呂に入り髪も洗って日記をつけ、7時にホテルのバイキング朝食。1時間かけてゆっくりと中国料理とアメリカン料理を味わった。本格的なコーヒーが3杯も飲めた。8時に旅行社のガイドがミニバンで迎えに来たが、苟さんが同行することは旅行社が頑として認めなかった。仕方なくホテルの前での急な別れになった。「苟さんありがとう。」「おかげで素晴らしい研修と思い出ができました。」「奥さんによろしく。」「早く子供をつくりなさいよ。」「絶対もう一度来るからね。」旅行社にしてみれば現地の人が一緒ではいろいろやりにくいのだろう。ミニバンが走り出してしばらくするとS君が使い捨てカメラをホテルに忘れたと騒ぎ出した。しかし薄情な私達は誰も取りに戻ろうとは言わない。バスはいったん旅行社に航空券を取りに寄って、その後兵馬俑へ向かう。兵馬俑は1号から3号館まであり、体育館のようにかまぼこ型のドームで覆われている。内部の写真撮影は禁止だし、紫外線を避けるためか全体に暗い。しかし、その規模の大きさにはやはり圧倒される。現在も発掘調査が続いているのだそうだ。焼き物の兵隊は位が高いほど実際より大きく作ってあり、大将クラスになると身長が2メートルを超えている。「やはり自分の軍隊は強く見せたいという願望なのでしょう」とガイドが説明する。3号館では埴輪が出土した瞬間のカラー写真もあった。赤や黄色の色が鮮やかに写っている。しかし空気に触れたために、1時間後にはそれらの色は瞬く間に褪せてしまったそうだ。3号館を出て博物館へ。ここには貴重な出土品が展示してある。始皇帝が国を巡回する時に乗った4頭立ての馬車が見事だった。本物の二分の一くらいの大きさなのだが細かいところまで再現してある。博物館から出た広場にそのレプリカが置いてあり、馬車を背景にして、あるいは乗って写真を撮る事ができる。しかし、自分のカメラのシャッターを押してもらうためだけに10元支払わなければならない。すごくボロい商売があるものだと呆れてしまう。私達は誰も撮らなかったが、中国の人は結構たくさん並んでいた。トイレ休憩を兼ねて土産物店へ案内される。土産物店では1974年に井戸を掘っていて兵馬俑を発見した楊おじいさんが、アメリカのTV局の取材を受けていた。兵馬俑から出た兵隊の焼き物のレプリカが大きいのから小さいのまでいっぱい並んでいる。等身大の兵隊は梱包・輸送費を含めて30万円だそうだ。ここではN君がヒスイの腕輪を一個買っただけで、他の人は何も買おうとしない。私も今朝の苟さんの件で気分を悪くしているため、ガイドの勧める店では絶対買うものかと思っている。さっさと土産物屋から出て出口で待っていると、ガイドがN君の土産のキャッシュバックを直接受け取っていたらしく、慌てて店から出て来た。ガイドの方もやりにくいだろう。駐車場まで帰ると、ガイドは「私の友人です。安くします。」と店で緞通を売っている女性を紹介する。これでまた完全に逆効果。みんなシラけてしまった。その時S君は私達と離れて、道端の露天商が売っている熊の毛皮に目をつけていた。茶色の毛皮もあったが、白と黒のまるでパンダ模様の毛皮もぶら下がっている。S君はそのパンダもどきを買うのだと言い張っていたが、みんなは「もし本物なら通関で絶対没収される。」とか「なめしが悪いので、虫に食われて毛が抜けてしまう。」とか口々に反対した。ガイドも最初は「やめたほうがいい」と冷ややかな態度だった。しかし、あまりにS君がわからない中国語に悪戦苦闘しながらしつこく値段交渉を続けているのを見て、露天商となにやら話しをしたと思うと態度を一転させ「いくらならいいですか?」と積極的に売り込み始めた。その頃にはS君の方がもう毛皮を買う気をなくしていた。でも心優しいS君は、結局ガイドの友人から緞通を買った。値切って2万5千円(日本円でお支払い)だった。
2002年01月17日
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「西安で一番ポピュラーなラーメンが食べたい」と言うS君の提案で、夕食はラーメンに決定。苟さんが連れて行ってくれたのは、ホテルへ帰る途中のラーメン専門店だった。カウンターとテーブルがあるこざっぱりとした店の造りはマクドナルドの雰囲気だった。お奨めメニューは「肉ラーメン」。しかし、スープにこだわるH君は他のラーメンを注文した(名前は忘れてしまった)。「肉ラーメン」は温かいぶっかけうどんにミンチがのっている形式のラーメンだった。中国風スパゲティ・ミートソースと言った方がわかりやすいかもしれない。西安と香川県は弘法大師のご縁で姉妹県なのだが、それ以外の共通項を発見したのは意外だったし、また嬉しくもあった。それにとても美味しかった。H君の食べたラーメンはスープに酢を使っていて酸っぱかったそうだ。8時にホテルへ帰り、ピアノ生演奏のビートルズやカーペンターズを聴きながらラウンジでゆっくりと淹れたコーヒーを飲んだ。中国で最初の本格コーヒーは格別の味だった。それにシチュエーションが申し分ない。西安では最高級のホテルなのだ。ホテルにあるテナントショップを見て歩く。チャイナドレス、陶磁器、石の彫刻、絨毯など、しっかり目の保養をした。緞通はきれいだがビックリするくらい高い。印鑑を395元で買って名前を彫ってもらった。K君、H君も買った。10時40分頃出来上がった印鑑を部屋まで持ってきてくれた。きれいに彫れている。713号室は昨日のホテルとは格段に違う。広々としているし、ちょうど端の部屋なので三角形でオシャレなのだ。これも8年前に建てられたホテルなのだが、部屋から国際電話をかけることが出来る。昨日のホテルでは、フロントの横の電話室には電話が2台しかなかった。そこに座っている管理人に電話番号を告げてつないで貰い、通話が終わってから現金を払う形式だったのだ。さすが5つ星!11時頃に風呂にも入らずにすぐに寝た。
2002年01月16日
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4:30から市内のデパートへショッピングに行った。西安は人口400万人の大都市なので通りも賑やかだ。マクドナルド(麦当労)やケンタッキー(督徳基だったかな?)の看板も発見。大きなデパートもいくつもある。苟さんの話では、西安で買うなら革製品。安くて品質がいいのだそうだ。土産物屋以外で買い物をするのは初めての経験なのでワクワクする。衣料品コーナーで定価500元の革のチョッキを値切って280元で買う。一流デパートで値切れるなんて想像もできなかった。これも苟さんがいるからできる事なのだ。N君、H君も同じものを買った。もう一つのデパートでは家内と私のバッグを買った。※私の買ったショルダーバッグは革製B5サイズで380元、去年の夏まで普段に使っていた。ポケットがやたらとたくさんあるのが中国風だったが、作りもしっかりしていてまだまだ十分使える。ただモバイルギアとデジカメを一緒に入れるには少し小さかったので、北京旅行の前に布製のバッグに替えた。N君は革のロングコートを1000元に値切って買った。同じ値段でH君は革のジャケットを買った。みんなそれ以外にもバッグなど結構たくさんの買い物をした。中国のデパートには店員さんがやたらと多い。衣料品コーナーだけでも20人くらいの女性店員さんがいる。衣料品の種類によって自分の担当が決まっているようで、同じ革製品の衣類でも陳列してある列によって応対する人が違っていた。人件費が安いからこんなに多くの人を雇用できるのだろうと思った。トイレを探して非常階段の方へ出てみると、階段が物置状態になっていて、人が1人やっと通れるくらいしかスペースがなかった。「もし火災があったら、ヤバイなあ」と思いながら用を足した。でもトイレは水洗だった。帰り際にN君が「友人に頼まれた漢方の強壮剤を買う」と言うので薬局へ立ち寄った。店の前には「バイアグラ有ります(当然全部漢字だったのだが、忘れてしまった)」の立て看板。苟さんの話では「中国製バイアグラ」だそうだ。K君、N君、S君が面白がって買っていた。180元で16粒入り。ホテルで開けてみると風邪薬のようなカプセルに入っている。英語で書かれた説明書を念入りに読むと、各種漢方薬にファイザー社のバイアグラが4mg入っているとのこと。一回に4~8粒飲めという。※帰国後の使用報告によると、このバイアグラは全く効き目がなかったそうだ。歩道の通りにある果物屋にはミニトマト、キンカン、龍眼、ポンカン、イチゴ、柚柑などが並んでいる。冬の西安とは思えないくらい、いろいろな果物があった。
2002年01月15日
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2時半頃「民楽大酒店」を出て、西安に向かう。けん(さんずいに径の右)陽県は西安の北にあり、けん(さんずいに径の右)河をはさんで西安空港とは反対側の位置になる。「けん(さんずいに径の右)陽」とは「けん(さんずいに径の右)河の北」という意味。その川は結構大きいのだが、今は乾季にあたるので、水が流れているところはほんの少し。河原ばかりが目立っている。河原では砂利を採取していた。高速道路を走っているとき、何の注意を促す標識もなく、黄色いチョッキを着て竹箒で道路を掃いている清掃のおばさんがいたのにはビックリした。けん(さんずいに径の右)陽県から1時間足らずで西安に到着した。かなり遠くから西安の城壁が見えてはいたのだが、鉄道の高架の下をくぐって目前にそびえ立つ城壁を見たときは感激した。近くで見るとものすごく巨大な石の壁なのだ。高さは雄に20メートルはあるだろう。それに正面だけわざわざせり出している。私達は北から西安の城壁を見たわけだが、昔同じように北から攻めてきた兵士達もこの城壁を見たら「これはダメだ」とあきらめただろうと思った。道路は城壁に突き当たると真っ直ぐは進めない。右折して前方にせり出した城壁の右側にある狭いトンネルをくぐって城内に入る。西安は完全な城壁と堀が残っている街なのだ。次の日の朝、堀のゴミ浚いをしているのを見かけたのだが、急な堀の斜面にたくさんの人が並んでバケツリレーをしていた。城内は道路が十文字に交差して京都と同じつくり(と言うより京都が西安のコピー)。しかし、一辺が16キロもあるので、城内の面積は京都の約10倍もある計算になる。城内に入るとスモッグのせいか空が白っぽい。メインストリートを南へ下り、鐘楼のところで左折して東大路を走り、阿房宮凱悦飯店(ハイアット・シーアン)へ到着した。ロビーで待っていると昨日の若い方のガイドが遅れてやってきた。チェックインを済ませ、農業局の人たちに御礼を言って別れた。苟さんは「こんな高いホテルは泊まれません」とびびっていたが、ボーイさんが「泊まる人数が増えても部屋代は変わらない」と言ってくれたので、S君と一緒の706号室に泊まることになった。K君、H君は705号、私とN君は713号室。旅行社のガイドが部屋に来てカラオケをしつこく勧める。1人1万円だそうだ。寧波に比べても倍の値段だし、最初から行く気がないので断ると、それじゃ5人で4万円にサービスすると言う。なめとるのか!お前は・・・それに、日本人は誰でもカラオケに行くと思われていることも気分が悪い。
2002年01月14日
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ハウスの視察が終わった時、ちょうど小学生の昼食下校に出会った。数人ずつひとかたまりになって、三々五々村の方向へ歩いていく。中国の小中学校では昼食は家で食べるのが一般的だ。男子も女子もズボンにジャンバー姿(綿入れかも知れない)が多い。ジャンバーの袖は日本のように絞ってなくて、みんな反対側の袖の中に手を入れて前で腕を組んで歩いている。いかにも中国らしい光景だが、なるほどこれは防寒には便利だ。それにしても子供の数が半端じゃない。100人くらいはいそうだ。「一人っ子政策」で一家に1人のはずだから、この地方の集落は200~300軒くらいが単位なのかもしれない。私達はこの後、農業科院及び蔬菜技術協会を訪問したので、けん(さんずいに径の右)陽県へ帰ったのは1時過ぎだった。街に入ると道端でミカンを売っている女性をたくさん見かける。自転車の荷台に振り分けに竹の籠をつけて、それにいっぱいミカンが入っている。荷台のところにはお供えのようにミカンをきれいに並べて盛ってある。もっと本格的なものになると、歩道にテーブルを並べて、その上にきれいにディスプレイされたミカンや、リンゴ、バナナなどを売っている店もある。真昼間だというのに道端にたむろして何もしていない人たちがいっぱいいる。中国へ来るたびに思うのだが、時間の流れ方が日本よりずっとゆっくりしている。昼食は農業局の主催で歓迎の宴会となった。メインストリートにある「民楽大酒店」の入り口にはまだ「春節」の看板がかかっていた。左右には赤地に金文字の垂れ幕「新歳送来吉祥意」「嘉賓雅会民楽楼」。二階に上がって細くて長い廊下を通り、一番奥のこじんまりとした部屋に案内される。早速料理が運ばれてきた。最初は羊の血のゼリーや、犬の肉。犬の肉はトウガラシやニンニクの香辛料が効いていて、味はよくわからない。課長さんの歓迎の挨拶があり、透明なグラスに透明な新疆ウイグルのお酒が注がれて最初の「乾杯」をした。私は酒が飲めない体質なのだが、グラスがとても小さかったし、せっかくの歓迎会を最初から断るのも気がひけたので、この一杯は飲み干した。喉の奥がカーと熱くなった。アルコール度は52%だと言う。その数分後、私は意識不明になり隣のK君のほうへ倒れかかったそうだ。苟さんと店の人に抱えられながら別の部屋へ運ばれ、ベッドに寝かされた。1時間ほど布団をかぶって寝ていたら、ようやく起き上がれるようになった。部屋に戻ると宴会は終盤にさしかかっており、お互いに中国式の乾杯(かんぺい)の応酬をやていた。中国では自分のグラスには自分で酒を注ぐ。それを持って立ち上がり、一気に飲み干す。全部飲んだと言う証拠に杯を反対にひっくり返す。すると、また次の人から「乾杯」の要請がある。したがって招かれた方は必然的にかなりの量を飲むことになってしまう。私は最初に倒れて正解だったかも知れない。しかしあとで聞くところによると、メインディッシュは北京ダックだったそうだ。中国へ来たらぜひ食べたかったのに、とても残念!!※この2年半後、ようやく北京にて悲願を達成。(笑)(興味のある方はこちらからどうぞ)
2002年01月13日
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中国農業研修旅行日記はまだまだ続くのですが、堅苦しい研修報告が終わったところでミカンでも食べながらちょっと一息。今年最初の「よもやま話」です。お正月が過ぎたころから、スーパーや果物店にはミカン以外の柑橘が登場し始めますね。これらの新顔さんたちはそれぞれに個性があって好き嫌いも別れるようですが、自分にピッタリはまったのを見つけるとたまらなく嬉しいものです。ミカンがメジャーリーグなら、これらの新顔さんたちはマイナーリーグに当たるんでしょうか。伊予柑(いよかん)その名のとおり愛媛県が代表産地です。大きさはミカンより2階級大きいです。(伊予柑のLはミカンの3Lの大きさ)赤橙色の果皮で、中身はジューシー。伊予柑独特の香りもあります。食べ頃は2月からでしょう。ネーブル「柑橘の王様」と呼ばれるネーブルは、味・香りともに上品。tetywestの一番お気に入りの果実です。大きさはミカンより1階級大きいです(ネーブルのLはミカンの2Lの大きさ)。これも食べ頃は2月からが美味しくなります。八朔(はっさく)独特の苦味が、はまるとたまらない黄色い果実。中身はちょっとジューシーではありませんが、そこがまた魅力だったりして。食べごろは3月から4月の花見の頃かな。大きさはミカンより3階級大きいです(八朔のLはミカンの4Lの大きさ)甘夏(あまなつ)酸味が強いので、少し温かくなった5月の連休ころに食べるととてもジューシーで爽やか。これも黄色い果実です。大きさはミカンより4階級大きいです(甘夏のLはミカンの5Lの大きさ)デコポン最近話題の赤橙色の果実です。果実のヘタのところが凸型に出てて、お母さんがポンカンの品種なので、この名前がついたんです。甘さ抜群。中の袋も柔らかいのでミカン感覚で食べれます。大きさはミカンより1階級大きいです(ネーブルと同じ)食べ頃は3月からでしょう。春見(はるみ)これも最近話題のデコポンの姉妹品種です。デコポンとはお母さんが別のポンカンから生まれました。凸はありませんし、デコポンより少し黄色いですが味はほとんど同じです。酸が減るのが早いので2月から食べ頃になります。清美(きよみ)4月になってミカン感覚で食べられるめちゃジューシーで甘さ抜群の果実です。デコポンや春見のお父さんでもあります。香りもいいですね。ただ、難点はジューシーすぎて食べる時きれいな服が汚れる危険あり。これもネーブルと同じ大きさです。上に書いた「食べ頃」は、酸の減り方を考えたtetywestの個人的な判断なので人によって違うと思います。ハウス栽培で早く酸を減らしているものもありますから、一応の目安くらいにお考えください。そのほかにもっとマイナーな果実では、ポンカン文旦(ぶんたん)南香(なんこう)アンコールマーコット日向夏(ひゅうがなつ)スイートスプリングセミノール等もあります。これらの品種に共通した特長としては、糖度も高いですが酸がミカンより高いんです。ですからお店には結構早い時期から並んでいますが、食べる時期を間違えると「美味しい」どころか「酸っぱく」感じてしまいます。そんな時は「シマッタ!」と思わずに自分で貯蔵して美味しくなってから食べてね。※貯蔵方法は「よもやま話(17)」を参照してください。)ここからも行けます
2002年01月12日
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研修報告(5)けん(さんずいに径の右)陽県のハウス野菜農家苟氏の案内で、けん(さんずいに径の右)陽県の郊外にあるハウス農家を訪問した。この集落はみんながハウス栽培を行っていて、同じ様なハウスがずらっと並んでいる。1棟が1農家のハウスだそうだ。最初に訪問したハウスは、キウリ栽培の農家だった。若い夫婦でちょうどキウリの収穫作業中だった。ハウスの構造は日本のパイプハウスとはかなり違っている。外から見ると、北面は土壁で高さが2.5㍍、幅はおそらく50㎝以上はあるしっかりした壁だ。その上は藁で屋根を覆い、少し南向きに上がった所に尾根がありそこからはビニールを張っている。緩やかに南へ傾斜して、太陽の光を充分取り入れられるような構造になっている。南面の端の高さは80㎝くらいである。ハウスの幅は7.5㍍、長さは75メートルが基本。ちょうど面積は外側で1畝(0.67㌃)になる。入り口に作業場兼物置が併設されていて、農家によっては入り口に鍵がかかるようになっている。狭い通路を通って、保温用のビニールのカーテンを開いてハウスの中にはいると、外から見るよりずっと天井が高い。おそらく30㎝は地面を掘り下げているのだろう。内部で見ると75メートルむこうの端ははるか彼方という感じがする。内部の支柱はコンクリート。屋根の桁は竹で作ってある。暖房設備はない。地面の保温力と、北側の厚い土壁の保温力、十分に施した堆肥の発酵熱等によって、内部の温度は最低8度に保たれている。今年は暖かかったので最低気温は10度だったそうだ。暑くなれば換気のために尾根の部分のビニールを土壁に上がって開ける。内部の温度は28度以上にしないように管理しているそうだ。入ったときの温度は16度だった。また、夜間は屋根のビニールの上を菰で覆って保温するのだそうで、外に出て見ると、屋根の上に菰の巻いたのがずらっと並んでいた。メンバーの中のハウスみかんの栽培者が、この辺は強い風があまり吹かないのかと質問したら、その通りだという答えだった。この程度のビニールの押さえ方では日本の春一番のような強風には耐えられないと思ったのだそうだ。また、地面を掘り下げて栽培するとなると、日本では湿気で病気が多発する心配があるが、黄土高原の気候では、冬場に雨がないので、過湿になる心配は要らないわけだ。潅水は土壁の側に溝を掘って、そこに水を流し、自然の勾配で南へ水が流れるようにしてあった。温度管理作業は全て手作業に頼るわけだが、自然条件を最大限に利用している省エネ型ハウスだと感心させられた。キウリは半年の栽培で1畝当たり1.5万元の粗収入になるのだそうだ。日本のように真っ直ぐなキウリはほとんどなく、どれも曲がっていたり、先が細かったり、不揃いの形だったが、どうぞ食べてくださいと頂いたキウリは、日本の品種と違ってイボイボがかなりあり、みずみずしくて甘くておいしかった。同じ集落の1㎞くらい離れた場所には、トマトのハウスが並んでいる。これも形も構造もキウリのハウスと変わらない。ここで訪問したハウスの農家も若い男性で、トマトを4段取るそうだ。1本1段で0.5㎏、1棟の中に4000本のトマトを植え、全部で8トンの収穫量になる。粗収益は1.5万元で、そのうち経費は5千元だそうだ。キウリのハウスと違っていたのは、湿度を低く保つために株間にビニールマルチを敷いてあり、潅水はそのマルチの下側だけに出来るように溝を作ってあった。ここでもトマトを頂いたが、おいしかった。無加温でこれだけの品質が出来れば、高く売れるのは当然だろう。「そんなにお金を儲けて何に使うのですか」という質問には、「まず、家を新しくしたい。それから、電気製品を買いたい。」という答えが返ってきた。どちらの農家も明るくて、自信を持って栽培しているという笑顔が印象的だった。
2002年01月11日
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研修報告(4)陜西省咸陽市けん(さんずいに径の右)雲農業科院及び咸陽市蔬菜技術協会ここも、院長は焦志学氏である。工程師2名、経済師2名、農芸師2名、園芸師2名、技術員30人で面積は60㌶。それ以外に農園の作業をする人達が敷地内の長屋風の家に家族と一緒に住んでいる。この敷地は国有地を払い下げてもらったそうだ。シメジの栽培、1000平方㍍の切り花の温室栽培、緑化木の育成、フランスから輸入した葡萄の苗木の育成をやっていた。挿し木の穂木1本1元だったそうだ。挿し木をしてある圃場は乾燥してひび割れている。挿し木の穂木の活着率も70%よりは少ないようだった。これを農家に配布して栽培指導もするのだそうだ。今年、敷地内に1.6億元でワイン工場を作る予定である。現在この地域のブドウ栽培は100㌶であるが、将来は1000㌶にしたいとのことだった。かつてはウイルスフリーのリンゴ苗木を育成していたが、近年の生産過剰によるリンゴ価格の低迷で現在では緑化木と切り花の栽培がメインになっているそうだ。中国の北西部では自然の緑が少ないので会社の周りに緑化木を植えるのが最近の流行だそうで、需要は多い。我々が訪れたときも、作業員が切り花用のリンゴのフジの木を植え替えているところだった。その隣では、檜のような木を掘り上げていた。日本では植え替えにはパワーショベルを使うところだが、全部スコップでの作業だった。苗木の運搬にはジーゼルエンジンがむき出しのトラクター改造型中国式貨物自動車が使われていた。緑化木の圃場が足りないので、近隣の農家の土地を1畝年間150元で借地している。
2002年01月10日
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研修報告(3)けん(さんずいに径の右)陽県の自由市場(雲陽蔬菜市場)市場の面積は9㌶、交易施設(屋根付)は9600平方㍍である。事務所20、旅行会社、停車場、食堂、商店を併設している。我々はこの市場の管理事務所で、説明を受けた。ここでは農家は売上の4%の手数料を支払うことによって、自分の作った野菜を販売できる。大量に扱われる品目はキウリ、トマト、唐辛子、芹菜、蓮花白、白菜、夢卜、大荵など100品種以上で、日量500㌧、交易人数1日1万人。陜西省の野菜の自由市場の中では一番規模が大きい。市場の管理人は50人いる。管理事務所にはインターネットに接続したコンピュータが2台あり、全国各地の自由市場の野菜、果実の卸価格がわかるようになっている。野菜の価格は市場によってかなりの差があった。まだまだ、中国の端から端まで野菜が運べるほど流通が整備されていないのだろう。また、自由市場の販売管理もこのコンピュータを使っている。現在オペレーターは一人だそうだ。インターネットでの市況の情報は今のところ無料だが、そのうち有料になるだろうとのことだった。ちなみにOSは「窓(ウィンドウズ)95」だった。インターネットは「英特網絡」と書く。この自由市場の毎年の純利益が320万元だそうだ。ここで取れた野菜は、新疆、青海、甘粛、寧夏、内蒙、山西、広東など全国17省市へ出荷されている。入り口に近い場所は個人にも売ってくれるように荷口が小さく、ショウガ、玉葱、レンコン、韮、ジャガイモ、キャベツと種類も多いが、奥の方はひとつの品種を大量に扱っている。遠方の省のナンバーをつけたトラックが買い付けに来ていた。野菜の他に肉類なども売っていた。
2002年01月09日
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研修報告(2)けん(さんずいに径の右)陽県の農業協同組合組織苟氏の案内で、雲陽(ユイヤン)鎮にあるけん(さんずいに径の右)雲実業開発総公司を訪問し、理事長の焦志学氏と会談する。この公司は焦氏が1882年に製紙工場を作ったところから始まる。1992年、山東省の野菜ハウス視察にヒントを得て自分でビニールハウスを17個造り野菜を栽培。その成功に自信を得て、1993年には1,500個のハウスを建てて、農家にそれを推進した。その年の農家の野菜ハウスの収入は総計1,000万元になり、以後1994年6,000個のハウスで4,300万元、1995年16,000個のハウスで1億元と飛躍的に発展した。現在は(1998年)ハウス野菜20万個(大型ハウス8万個、小型ハウス12万個)で、露地野菜8千㌶で粗収入は2.5億元になっている。農家は毎年、10元の組合費を納めることによって栽培の技術指導を受けることが出来る。1994年、けん(さんずいに径の右)雲実業開発総公司を設立し、同時に野菜自由市場を開設している。それ以外に1,400立方㍍の冷蔵庫5庫(500㌧の野菜貯蔵可能)、野菜の真空乾燥脱水装置、保冷車22台を持ち、インターネットで全国の野菜の市況を入手しながら、出荷調整、運送業務を行っている。この公司は、他にリンゴのウイルスフリー苗木の育苗、切り花、緑化木の栽培、肥料の販売、ガソリンスタンドの経営等も行っている。成立過程が焦志学氏個人の発想と経営手腕に依るところが大きいという点で日本のJAとは異なっているが、業務の内容は日本のJAとよく似ている。中国でこのような協同組合ができていることには大変驚かされた。また、ここで説明を受けている間に出されたポンカンは四川省のものだったが、糖度も高くおいしかった。一個一個赤いポリ袋に包まれていた。もう一人のメンバーの食べたポンカンは、少し糖度不足で酸も抜けて、ぼけた味だったそうだ。品質管理はまだまだ日本の方が勝っていると感じた。
2002年01月08日
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研修報告(1)けん(さんずいに径の右)陽県(陜西省・西安近郊)の農業事情いわゆる黄土高原と呼ばれる地帯で、樹木はほとんどない。集落の周りにある樹木は植林したものだそうだ。毎年3月中旬に植樹運動があり、公務員は全員植樹の義務があるのだそうだが、うまく育つ木は少ないそうだ。雨量は冬期に少なく、11月から3月まではほとんど降雨がない。主な栽培作目は小麦であるが、現在10㎝くらいに生長していて黄土高原全体に緑の絨毯を敷き詰めたような光景が広がっている。潅水は遠い山の地下水を水路を使って運んで行っている。けん(さんずいに径の右)陽県の特徴として、西安の近郊という地理的な条件を活用してハウス野菜(トマト、キウリ、ピーマン、唐辛子)栽培が盛んである。果樹ではブドウ、リンゴが栽培されている。農家の平均耕作面積は一人当たり1.5畝(10㌃)、農家は平均3~4人の労働力があるので一戸当たり30㌃~40㌃と小規模である。したがって、若い農家の男性はほとんど都市へ出稼ぎに行っているそうだ。苟俊江氏はけん(さんずいに径の右)陽県農業局に勤務しており、現在農業協同組合組織の指導・育成を担当している。けん(さんずいに径の右)陽県には、野菜部門、果樹部門、畜産部門の3つの農業協同組合組織があり、それぞれ農家への技術指導、普及活動、自由市場の開設、価格情報の提供、他地域の自由市場への農産物の輸送等の業務を行っている。
2002年01月07日
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99年03月08日(月)天候:晴れ7時起床、窓の外を見てビックリした。ホテルの裏は草原が広がっていた。鶏の鳴き声が聞こえる。ど田舎なのだ。廊下をはさんで向かいのS君の部屋へ行き、窓の外を覗いてみる。こちら側には西安空港が見える。空港の前には広いロータリーがあり、近代的な建物や、派手な看板がある。道路も広くて舗装されている。西安空港は8年前に新しく出来たのだそうだ。表と裏の落差の激しいのに驚かされた。まるで映画のセットのようだ。8時におかゆ、小麦のパン、豚肉、キャベツ、豆腐などで朝食。味もそれほど辛くなく日本人でも充分おいしい。前回の旅行で何も食べれなかったK君も今回は食べれるそうだ。9時に農業局のサンタナが2台ホテルに迎えに来た。今朝は5人ともスーツで決めている。一台目に私と農業局の課長、主任、苟さん夫婦が乗って、けん(さんずいに径の右)陽県へ。私は助手席に乗せてくれた。しかし、中国の車の運転は怖い。道路は舗装してあるが、自転車や歩行者が多い。クラクションをしょっちゅう鳴らしながら、かなりのスピードで突っ走る。苟さんの奥さんを家の近くで下ろして、車はどんどん田舎へ向かって走っていく。雲陽鎮の農協組織を見学するのだそうだ。見学コースは全部苟さんにお任せしてあるので、どこへ行くのか着くまでわからない。けん(さんずいに径の右)陽県から20分ほど走ると、車は道路に面した敷地の中へ入った。大きな屋根だけの建物があり、野菜を売っている。いわゆる自由市場だった。入り口付近は売っている人と買いに来ている人でごった返していた。「雲陽鎮蔬菜市場管理○公室」(○は略字なので読めない・・・事務所の意味だとは理解できる)の応接室で組合長の説明を受ける。通訳は苟さん。資料もちゃんと揃えてくれてあったのには感激した。ここで、日本から持って来たお土産のウイスキーとタバコを渡す。組合長も「どうぞ」とタバコを勧めてくれた。金色の箱には「猴(猿の意)王」と書いてある。高そう・・・一服吸ってビックリ、すごくキツイ。ニコチン含量1.2mg。「吸烟有害健康」と書いてある。どこの国のタバコも同じだと思った。真っ赤なポリ袋に一個一個包装されたポンカンも勧められた。産地は四川省だそうだ。説明を聞いたあと、市場の中を見学する。先ず、その広さにビックリ。それに、日本のように中卸、セリ人などはいなくて、農家が直接販売している。流通システムが違うと言えばそれまでだが、人件費の高い日本ではこのシステムは効率が悪く、今は高知の日曜市くらいでしか見られない。そのあとハウス野菜の農家(トマトとキウリ)、農協の農場を見学した。農場では広い敷地でブドウの苗木作りや、緑化木の栽培、シメジの栽培等をしていた。今年からブドウを増やしてワイン加工場を建設する予定だそうだ。
2002年01月06日
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ホテルに着くと苟(コウ)さん夫婦と農業局の課長さん、主任さん、運転手が出迎えてくれた。ホテルでのチェックインや、明日のホテル、明後日の観光の段取りで、こちらの計画と日本からの現地旅行社への連絡に行き違いがあり、いろいろもめて部屋に入るまでに一時間かかった。旅行社の人が両替用にそれぞれ一万円分の中国元を用意してくれていたが、両替の証拠となる領収書を発行しなかったのも気分が悪かった。荷物を部屋に置いて、すぐに食堂で食事になった。驚いたことに食堂には生け簀があって伊勢エビや魚が泳いでいる。もちろん海の魚なのだが、西安に海はないだろう。苟さんに聞いたところ、人工的に海水状態を作っているとのことだった。食事のメニューは苟さんにお任せ。チャーハン、豆腐、キャベツの酢と唐辛子のあえ物、レタスとキウリのあま漬け、ピーナツなどが出た。特にチャーハンが美味しかった。ビールは冷えてなかったが、西安では夏は冷えたビール、冬は冷やしてないのを飲むそうだ。S君が「日本では冬でも冷たいビールを飲む」と説明すると課長さん曰く「それは体に悪いです」。今年は雨が少なく、今は6°~15°の気温。この地域にしては暖かいそうだ。苟さん夫婦は一緒に泊まることになった。苟さんは新婚6ヶ月。奥さんの名前は王萌(ワンマン)さん。小学校の先生で25歳(苟さんは28歳)、勤めている小学校は新しく買った家の近くだそうだ。課長さん達が帰ってからO君やA君、家内からの土産を渡した。ホテルの部屋は私とN君は405号、K君とH君は403号、S君が406号室だった。1時過ぎまでK君達の部屋で苟さん夫婦と一緒に話をした。苟さんは日本にいたときよりずっと日本語が上手になっている。中国へ帰ってからも日本語の勉強を続けているのだそうだ。話は尽きなかったのだが、明日のこともあるのでそれぞれの部屋に戻り、1時30分頃風呂に入る。明日着るスーツの準備もして、日記を書いている。いよいよ中国へ来た。明日は農業局の人と苟さんは半日視察につきあってくれる。その後西安の市内で買い物をすることになった。苟さんは明日も我々と同じホテルに泊まることになっている。旅行会社と少々トラブルがあったがおおむね順調に一日目は終わった。もう2時なので寝ることにする。
2002年01月05日
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飛行機を出ると「シーアン、シーアン」と呼ぶ係員から乗り継ぎカードを受け取る。一階に下りて入国審査を済ませると、また「シーアン、シーアン」とカードを掲げた係員のところに集合する。何と西安まで行くのは我々5人だけだった。案内されて二階の14番ゲートへ行き、また案内されて一階の乗り換え用の南一門でしばらく待たされた。その間に関西からの団体ツアーも到着して入国審査を受けていた。6:05南一門からバスに乗って同じ飛行機へ。5人だけなら西安までは貸し切り状態かと期待していたのだが、どっこいそうではなかった。上海からは同じ飛行機が国内線に変わり、中国人が飛行機の後ろの方に50人以上乗っていた。我々は前の方の空いている席に勝手に座ってもいいそうだ。私は窓際の6A。西安までは1260キロ、2時間の飛行だとアナウンスがある。飛び立つ頃は外はだいぶ暗くなってきていた。この時間は飛行場がかなり混雑しているようで離陸するまでにしばらく待たされた。6:30にようやく離陸。7時に機内食がでて、ラーメンかご飯かときかれたので、ご飯にした。魚のフライのあんかけ、ゆで卵をハムで巻いたものとウリのピクルス。パンとロールケーキ、トマトにブロッコリーとなかなか豪華版のディナーだった。ナイフ、フォーク、スプーンに塩、胡椒、砂糖、クリープのセットが一つにパックされていたので、今度こそ本格的コーヒーが飲めるかと期待して注文した私がバカでした。やはり甘いインスタントコーヒー。じゃ、あのクリープや砂糖は何だったんだろう?中国にはこの甘いコーヒーをもっと甘くして飲む人がいるのだろうか?窓の外は暗い。時々明かりの集まったところが見えるのだが、それも離陸してしばらくの間だけ。雲の上を飛んでいるのか、せっかく窓際へ座ったのに外の景色は見えなかった。それに西安へ着陸する前に反対側の窓からは城壁に囲まれた雄大な西安の街の明かりが見えたそうだが、こちら側は点在する村の明かりと真っ直ぐに延びた高速道路の街路灯くらいしか見えなかった。残念!8:30西安空港到着。国際線と国内線の乗客ををどうやって別けるのかと思っていたら、先に国際線の我々5人だけ降ろされた。バスで運ばれて空港税関まで。税関ではパスポートの提示だけでOK。N君が漫画の週刊誌を持っていて呼び止められた以外は順調に通り抜けた。到着ロビーでは旅行社の人が2人迎えに来ていた。早速、旅行社の用意した送迎バスに乗ってホテルへ。ところが、バスは空港の前のロータリーを半周したらもうホテルへ到着してしまった。まあ、歩けば200メートルはあっただろうから、これでもかまわないとは思うのだが・・・ホテルの名前は「空港大酒店」
2002年01月04日
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99年03月07日(日)天候:雨ちょうど雨降りなので朝はゆっくりとした。お昼12時に出張所の前から出発する。メンバーはK君、S君、N君、H君と私の5名。空港までは貸切のタクシーという豪華版旅行なのだ。大勢の家族の見送りに照れながら瀬戸大橋経由で広島空港へ向かう。N君は早速居眠りを開始。どこでも眠れる性格はうらやましい。2時に広島空港到着。出発ロビーは閑散としていた。しばらく待っていると旅行者の人がツアーデスクにやってきた。航空券を受け取る。少し時間に余裕があったので、売店をうろつき、搭乗手続きを済ませる。航空会社は中国西北航空公司。私は10Aの座席だった。3:25に出国審査。中国へのお土産のウイスキー、スペシャルリザーブを10個とタバコ10カートンを買ったら、すぐに飛行機への搭乗が始まった。定刻は4:10なのに3:55には動き始め、4時には空の上。全部で25人くらいしか乗っていない。上海までは1170キロで1時間55分の飛行時間で到着するという。4:30に飲み物サービス。コーヒーを頼んだらインスタントだった。砂糖とクリープまで入っている。甘すぎて気持ちが悪い。飲み物のほかに果蔬片(ポテトチップ)、お手拭きのサービスもあった。機内のTVは西安の案内をやっていた。中国西北航空公司の拠点は西安なのだろう。5:25中国に入ったというアナウンスがあったので時計を1時間遅らせた。これ以後は中国時間になる。アンケート用紙を配られたので、コーヒーのことを書いた。やっぱり機内では淹れたコーヒーを飲みたい。4:40(ここから中国時間)頃から高度が下がり始め着陸態勢に入った。いつの間にか海の色も黄色味がかかっているようだ。4:50船がかなり大きく見えるところまで下がってきた。5時5分に上海虹橋空港へ到着。またやってきました中国!
2002年01月03日
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皆さん、あけましておめでとうございますお正月といえばお雑煮ですが、今日は讃岐のお雑煮の話題です。tetywestの地方のお雑煮は「丸い餡餅入りの味噌汁」なんです。もう少し詳しく説明すると、12月30日に家でついたつぶ餡入りお餅を白味噌仕立ての味噌汁に入れるのです。味噌汁の具は、金時にんじん、ダイコンですね。気分によってネギやゴボウが入ったリ、鶏肉が入ったりします。そして、何故か青海苔をふりかけます。※(29日は「苦餅をつかぬ」、31日は「晦日餅をつかぬ」という謂れがあります)お餅は箸で引っ張ったとき、やっぱり最低10センチは伸びないと美味しくありません。その点、石臼と杵でついたお餅は十分及第点に到達してくれます。そして、お餅を食べているときに、中の餡が味噌汁の中に溶けるのですが、この甘い味噌汁がまさに讃岐のお正月の味なのです。「なんで、そんな気持ちの悪そうなお雑煮を食べるの?」という質問は当然予想されるところです。そこでtetywest、一応もっともらしい答えも考えてみました。江戸時代、香川県の特産といえば「讃岐三白(さぬきさんぱく)」でした。塩・綿・砂糖を藩の特産にして外貨を稼いでいたのです。そして、江戸時代は「甘いもの=ご馳走」という図式だったようです。その名残でしょうか、讃岐の人は「ハレ」の時、とにかく甘いものを食べます。今では我が家で普通に食べる味噌汁は赤味噌、白味噌、あわせ味噌とバラエティに富んでいるのですが、冠婚葬祭には必ず白味噌仕立てにします。tetywestの地域では葬式の時、講中の男性達が作る味噌汁も「白味噌+豆腐+青海苔」なんです。白味噌仕立てが一番甘いですよね。そして、「お正月」といえば、冠婚葬祭の中でも上位ランクですから、お餅も当然甘い「餡入り」で、ま~るくおさまる「丸餅」しかないわけです。家庭によってはニンジンやダイコンの切り方まで「ま~るく」切ることを家訓にしているところもあるようです。気になる味の方ですが、はっきり言って「仏さんに砂糖をなすりつけた」くらい甘いです。tetywest、若い頃はこんな甘い雑煮はとても食べられませんでしたが、ようやく最近になって食べれるようになりました。他の地方では味わえない郷土の味だということを悟ったからかもしれません。余談ですが、tetywestの地方では大晦日に「年越しソバ」じゃなく「年越しうどん」を食べる家庭が多いんです。さすが讃岐うどんの本場でしょ?というわけで、本年もよろしく。
2002年01月01日
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