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映画村を出て広隆寺に向かう。広隆寺は京福電鉄の太秦駅のすぐ前にあり、有名な弥勒菩薩像がある寺だ。立派な仁王門をくぐると、落ち葉一つないのではと思われるくらい手入れの行き届いた広い境内が広がっている。石畳に沿ってどんどん奥へ進んでいくと、正面に本堂の上宮王院太子殿がある。1730年(享保15年)に建造されたもので、本尊は聖徳太子像だそうだ。 聖徳太子といえば奈良の斑鳩(いかるが)の里の法隆寺くらいしか思い出せないtetywestなので、なぜ太秦に聖徳太子を本尊とする寺があるのかは当然知らなかった。弥勒菩薩を見るために霊宝殿への入場券を買った時にもらったパンフレットを読んで初めて広隆寺の沿革がわかった。もともと太秦は朝鮮から帰化した秦氏が住んでいたために名付けられた地名なのだ。「太」は聖徳太子のこと。聖徳太子が仏教を起こして文化の向上を図ろうとした時、その一番の協力者はこの地方で養蚕機織を営んでいた秦氏だったのだ。パンフレットには「広隆寺こそは聖徳太子の理想の実現に尽力した秦氏の功績を伝える最も重要な遺跡であり、信仰と芸術の美しい調和と民族の貴い融和協調とを如実に語る日本文化の一大宝庫である」と記されている。霊宝殿はお寺の一番奥まったところにあった。広隆寺は、ここへ入るときだけ入場料が必要で、それ以外の境内は自由に散策できる。もし近くにあるのだったら毎日でも来たくなるくらい静かで落ち着いた境内だ。霊宝殿に入ると、仏像がたくさん並んでいる。お目当ての弥勒菩薩半跏思惟像は正面の一番奥、一段高いところに安置されていた。弥勒菩薩の前にはフェンスがあり、その手前に茣蓙が敷かれてあって、そこに座って見るようになっている。ちょっと遠すぎるし、照明も暗いので細部まで見ることが出来ないのが残念だった。昭和35年、この像を拝観に来た京大生が、つい美しい姿に魅せられほおずりしようとして右手の薬指を折ってしまった。恐ろしくなりその指を持ち帰り捨てたが、その後発見され修復されたというエピソードもあるくらいだ。この京大生がいなければもっと近くで見れたかも知れないのだが・・・しかし、遠くから見ても弥勒菩薩は十分に美しい。隣に全く同じポーズの百済伝来の弥勒菩薩が安置されている。やはり仏教が日本へ伝わったのは朝鮮からなのだということを実感できる。しかし、その二つの弥勒菩薩を比較すると、どうしても日本の方が美しいのだ。時間はたっぷりあるのでtetywestなりにその理由を考えてみた。やはり一番の理由は顔つきだろう。同じパーツから出来上がっているのに、全体から受ける印象は日本の方がずっと優しく気品に満ちている。それがどうしてなのかまではtetywestの分析力では無理だと諦めた。もう一つは日本の方が胴体がずっと細いことだ。最近は若い女性の間でダイエットが流行っていて、ずいぶんスリムなボディにもお目にかかるtetywestだが、日本の弥勒菩薩はそれよりずっとスリムなのだ。ほとんど現実離れをしている細さだ。普通の人間ならこれだけ絞ればアバラ骨が浮き出るところだが、弥勒菩薩は細いにもかかわらずあくまでも丸くふくよかなのだ。このアンバランスが気品を醸し出しているのだろう。霊宝殿には、吉祥天や薬師如来や観音様などの仏像もたくさん安置されている。いずれも平安時代の作品なのだが、tetywestは全体に共通する特徴を見つけてしまった。どの仏像も直立不動の姿勢ではないのだ。腰のあたりが妙に艶かしい。暇があれば仏像の作られた時代とポーズとの関係を調べてみれば面白いかもしれない。広隆寺で弥勒菩薩と対面して高尚な気分に浸ったところで、tetywestの「京都への旅」は終えようと思う。この日、帰る途中の新幹線の中で「ワールドカップで韓国PK戦の末ベスト4へ進出」というニュースが流れていた。1400年前の日韓交流のシンボル広隆寺を訪れた直後だっただけに、このニュースはtetywestにとって忘れられないものとなった。※これで「京都への旅」は全部終了です。長い間読んでくださった皆さん、本当にありがとうございました。
2002年07月31日
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映画村には一つだけ無料のアトラクション施設がある。「シュミレーションシアター・夢快走」だ。パンフレットには「映像に合わせてシートが傾き、振動する体感シアターならではのスリルと迫力の映像をお楽しみください。(約10分)」と書かれてある。ユニバーサルスタジオのバック・トゥ・ザ・フューチャー・ライドみたいなものだろうと入場する事にした。まだ前のグループが上映中との事でしばらく待っていたのだが、そのうちにたくさんの人が並んで一回では全員が入りきれないくらいだった。館内に入ると横に5列並んだシートが5~6段、スクリーンから遠ざかるに従って高くなるように並んでいる。このマシーンの製造元は自動車のショックアブソーバー・メーカーの「kay○ba」だった。場内係のおばさんのアナウンスに従ってシートベルトを締めると、すぐに映像が始った。新婚の雰囲気たっぷりの部屋が映し出され、エプロンをした若奥さんが食卓に朝食を並べている。「あなた、会社へ行く時間よ」「今日は大切な会議があるんだ」「気をつけてね」「じゃ、行って来るよ」ドアを開くと、外は一面の銀世界。観客は主人公になった雰囲気で、スキーを履いてどんどん山を滑っていく。右に左にカーブしながら、ブッシュをよけ、ジャンプして・・・湖に到着する。今度はモーターボートに乗る。岩陰を右に左に避けながら全速力で突っ走る。そしてその次はオートバイ。曲がりくねった山道を、対向車をかわしながらこれまたひたすら走って行く。一体どこへ出勤するのだろうと訝っているうちに、ようやく街の中へ入る。ここでも車線変更お構い無しの超無謀運転で、ようやくとあるビルの入り口へ。エレベーターに乗って会議室に着くと・・・部屋の中で「やあ。遅かったじゃないか」と待っていたのは七福神のメンバーだった。主人公は大黒様というオチ。tetywest、はっきり言ってこれほどお粗末なシュミレーションシアターに入ったのは今回が初めてだった。まあ無料だから文句は言えないのだが、映像に何の工夫も無く、ただ乗り物に乗って走るだけ。それも常識外れの乱暴な運転なので、乗り物にはかなり自信のあるtetywestでも少し気分が悪くなった。酔い易い家内はすっかり参っていた。映画を作るプロ集団が、いくら無料だからとはいえこんな程度の低い映像を平気で観客に見せているのはいかにも情けない。時代劇というテーマを掲げている映画村なら、主人公を忍者にして凧に乗って空を飛ぶとか、ロープに掴って城の堀を飛び越えるとかのコンセプトでも映像を創ることはできるだろう。CGや特撮のノウハウだっていっぱい持っているはずなのだから・・・ただし、パンフレットによれば映画村には動く映画館がもう一ヶ所ある。そちらは500円の入場料を払わなければ入れない。tetywestは行かなかったのだが、そちらではもっとすごい映像を見る事が出来るのかもしれない。最後に少し拍子抜けした映画村だったが、人が多くないのがtetywestには何よりありがたかった。ほとんどのショーは特等席で見れたし、それぞれの仕事に携わっている人達のプロ意識や真剣さも垣間見る事が出来た。tetywestは時代劇もあながちバカにしたもんじゃないと思えてきた。やっぱり日本人はチャンバラが好きなのだ。今は「老人御用達」の感が否めない時代劇業界ではあるが、新しい発想で若い世代の心を捉える時代劇をぜひとも創って欲しいものだ。
2002年07月30日
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「中村座」のもう一つの出し物は「がまの油売り」だった。これはストリート・パフォーマンスの原点と言えるかもしれない。「フーテンの寅さん」でお馴染みの、「四角四面は豆腐屋の娘、色が白いが水臭い。四谷赤坂麹町、ちゃらちゃら流れるお茶の水、粋な姉ちゃん立ちションベン、さ~て皆さんお立会い」の口上で客を集める。tetywest、「がまの油売り」の出演者を見た瞬間ビックリした。顔といい、その小太りの体型といい、しゃべる口調まで、「山口への旅」に仕事が忙しくて欠席した静岡のF浪君そっくりだったのだ。「まさかね・・・」と思いつつも傍らの出演者紹介の看板を確かめるtetywest。そこでさらにビックリした。「ええっ!F沢巧だって?」・・・あまり詳しく書くとF浪君の名前が割れる恐れもあるのでこれ以上は書けないのだが、苗字は1字違いだし、名前に至っては半字違い(?)だった。こうなると、もう偶然のなせる技とは思えなくなってしまう。 家内に看板を見るように促すと、同様に驚いていた。「ひょっとして、ホントの弟さんじゃないの?」しかしtetywest、F浪君の弟が映画村に勤めているとは聞いた事が無い。F浪君の弟の口上は続く。「ガマといっても、普通のガマじゃない。筑波山中奥深くに住む『シロクのガマ』だ。な~ぜ『シロクのガマ』かと言えば、このガマの前足は指が4本、後ろ足には指が6本あるという、それは珍し~いガマ。このガマを捕まえて、鏡で囲った檻の中に閉じ込める。己が醜い姿を見つめたこのガマ、全身からたら~り、たらりと・・・・」しかし、話はいつの間にか「暴れん坊将軍」になっている。「『うぬが悪事の数々、先刻お見通し・・・』と見得を切るのが8時47分(※正確な時間はtetywest忘れました。何しろその番組は見ていないので・・・)」で、どっと会場が笑いに包まれる。「『ええい。上様の名を騙るふとどき者。皆の者かまわぬ、切り捨てい!』となって、ここからバッタ、バッタと切って切って切りまくる。その時間は毎回決まったように4分。」この辺りで会場、すっかりリラックスムード。さすが関西人、自分の世界に観客を引き込むテクニックはもう誰でもヨシモトだ。その後は「切られ役は、切られる瞬間に絶対自分の顔をカメラに向ける。たとえ後ろから切られた場合でも『うぎゃ-』と言いながら顔だけ振り向いてから倒れる」話になって、映画で使う刀は軽い竹製だという裏話に続き、「しかし、これは本物の日本刀」と腰に差した日本刀を抜いて見せる。tetywestは「抜けば珠散る氷の刃。一枚が二枚、二枚が四枚・・・」だろうと予想していたら、それを省略して「では、実際に刀の切れ味をお見せしよう。そこのお嬢ちゃん、前へ出ていらっしゃい」とサクラに声をかける。出てきたのは小学校6年生で、両親と一緒に映画村に来た女の子だった。「何年生?どこから来たの?そお・・・それじゃ、手出してごらん」普通ならここで素直に手を出すのだろうが、この女の子は首を横に振る。ちょっと困ったF浪君の弟、「誰と来たの?お父さんやお母さんと一緒・・・」そのとき、女の子のお母さんが2人のツーショットにカメラを構える。F浪君の弟しっかりピースサインでカメラに納まる。「そう、リラックスしてね・・・じゃ、手出してくれる?」女の子、またイヤイヤのゼスチャー。たまりかねたF浪弟、女の子の耳元になにやら「ボソボソ・・・」と内緒話。「な。恐くないから・・・手出してくれる?・・・」どうなる事だろうと、観客も成り行きに興味津々。女の子は観客の皆さんの期待通り拒否し通してくれた。このハプニングに会場はまたどっと盛り上がる。困り果てたF浪弟、「こうなっては仕方がない。それでは、もう少し年上に・・・。お嬢ちゃん、どうもありがとうね」と、今度は二十歳くらいの女性を指名する。「どこから来たの?そお・・・じゃ手出して」今度はすんなりと手が出た。手首に刀の先を当て一気に鍔元まで扱くと、手首には一筋の赤い血(のようなもの)が・・・・「この血にガマの油を擦り込めば、あ~ら不思議。傷はたちまち跡形も無く消えていくような、次第に薄まっていくような・・・」観客、爆笑。「有名デパートで、紅白粉をつけた姉ちゃんが桐の箱に入って『さあどうぞ』と売れば1万2000円は下らないという値打ちの品、今日は特別出血大サービス。・・・30円でどうだ!」tetywestが「買った!」とチャチャ入れしようかと決断するより一瞬早く「誰も買う人はいるわけない。本日はどうもありがとうございました。」さすがプロ。その絶妙の呼吸には「マイッタ」というしかないtetywestだった。
2002年07月29日
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金曜日からプライベートの用件で大阪へ行ってました。今、午後5時なんですが、無事帰宅です。今日、な、なんと本物のエナエナさんにお会いしました。想像どおりステキな方でしたよ~。それに、イカットもロンボク陶器もしっかりサービスして頂いて、おまけに民芸品のお土産まで頂いてしまいました。今回の旅行の疲れが一気に吹っ飛ぶ素晴らしい思い出が出来ました。帰宅してみると、こんどはayudesさんから、そしてポコアポコさんからキリ番前後賞とキリ番プレゼントが届いているじゃありませんか!!「楽天広場」ってなんて素晴らしいんだと感激で胸がいっぱいのtetywestです。エナエナさん、ayudesさん、ポコアポコさん、ありがとうね♪明日からは平常モードに復活の予定です。(と書いたからには・・・今夜じゅうに日記を書かなくては・・・汗)
2002年07月28日
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大阪から帰って、自分のHPをチェックしたら、25日に掲載した日記に重ねて「京都への旅(29)」をアップしてしまっていました。金曜日の朝、バタバタとした中でのうっかりミスです(涙)でも、バックアップは取ってあったので、別の日付のところにアップします。ですからこの日記は本当は7月25日に掲載されたものです。6月23日の日記に書いた「週刊朝日」に我が母校のtetywestの学年は、4年おきに学年全体(11クラス)の同窓会を開催しています。今回は8月14日に開催されるのですが、今夜(25日)その準備会が行われます。今のところ100人は参加してくれるようです。tetywestは同窓会報の編集を担当していて、同窓会当日に発行することになっています。今回は第5号で、「同窓生の近況報告」特集です。tetywestには何事も締め切りが来ないと実行出来ない悪い癖があって、昨夜は同窓生の皆さんから返って来たハガキのメッセージをパソコンにインプットする作業を夜中までやってました。何とか昨日までのハガキの分は終了したのですが、日記を書く気力は残っていませんでした。今夜(25日)も帰ってくるのは遅くなりそうですが、その時まだ気力が残っていたら「京都への旅」の続きを書きますからね。
2002年07月27日
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ロケのショーを見終わったところでちょうど「忍者ショー」の開演時間だった。この辺りのタイムスケジュールは観客に親切だ。すぐ前にある芝居小屋「中村座」に向かう。入り口には「激突!忍者ショー・・・宍戸大全アクションチーム」という看板が掲げられている。これも無料で1日4回くらいやっているようだ。芝居小屋の中は香川県の琴平にある「金丸座」とよく似た造りだった。金丸座は、毎年2回金毘羅歌舞伎が上演されている江戸時代の芝居小屋だ。「中村座」はさすがに桟敷席ではなかったが、観客は茣蓙の張られた縁台に腰掛けて観るようになっている。ショーが始まるまでに観客席はほぼ満員になっていた。ストーリーは甲賀のくノ一「あかね」が、単身根来衆の本拠地に潜入し、家康に反抗する血判状を奪うというすこぶる単純なものだったが、さすがアクションチームのショーだけあって、トランポリンやマットを使った動きのある演出だった。宙返り、側転、バク転などがバンバン出てくるし、殺されて2階からマットの上に落ち込んでくる。観客席の後ろから突然現れたり、真ん中の通路を全速力で走って、トランポリンを使って舞台に舞い上がる。まるで体操の床運動の忍者バージョンだった。劇の途中で、根来の頭領が人質を取って「あかね」を捕まえようとする場面がある。しかし、人質に取られたのは通路側に座っていた女性のお客さんだった。かなり美しい30代半ばの女性だったのだが、根来の頭領の「ふふふ・・・あかね、観念せねばこの若い、いやモトイ・・・昔若かった娘の命はないぞ」のセリフに観客は爆笑だった。やっぱりここでも立ち回りが一番の見せ場で、根来の頭領とあかねの一騎打ちは見応えがあった。最後は頭領がやられるのだが、頭領の槍が真っ二つに折れ、真っ赤な光が舞台から観客席に浴びせられる中で、真っ黒な影になって倒れるシーンは劇的効果満点の印象深いものだった。デジカメで撮影したのだが、全体のトーンが暗くてHPに掲載できそうなのは、最後の顔見世のシーンだけだった。 「中村座」ではもう一つ別のショーがあるのだが、それまで時間潰しに江戸の町並みを散策する。内装の改造をやっている家がある。やっている事は大工さんの仕事そのものだった。床下と天井裏だけという家もあった。本来あるはずの真ん中の部屋は他のセットで撮影できるので省略されている。こんな発想は映画村でなければお目にかかれないだろう。遠くから日本橋の上に島田髷に黒い着物の女性が3人佇んでいるのが見える。映画村では、衣装とメイキャップをしてくれて誰でも時代劇の登場人物になることが出来る。和服姿はあでやかで、なかなか色っぽい。お互いの距離が縮まり、はっきりと顔が見えるようになった・・・・その先はとてもtetywestは書く事が出来ない。「夜目・遠目・傘の内」などとは絶対に・・・・・
2002年07月25日
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いつの間にか昼になっていた。映画村の中には日本橋の近くにうどんとソバの店があり、明治通りにラーメンと軽食の店があるのだが、そういうメニューを食べたい雰囲気ではなかった。結局入り口付近にあるレストラン「CHANBARA」で食べたのだが、はっきり言ってたいしたことはなかった。スペースだけは広いのだが、まさに修学旅行の団体さん専用レストランという雰囲気。テーブルも椅子も大衆食堂並のスチール製だったが、こういう場所で雰囲気を要求するのは無理だろう。いったい何を食べたのかすら思い出せない。そそくさと食事を済ませて、明治通りを歩いていると、建物の向こうに人が集まっている。何事かとそっちを覗きに行った。そこは屋敷町のコーナーで、白壁の塀に立派な門構えの家が建っている。その前はちょっとした広場で、明治通りとは幅2m程の堀で隔てられていた。観客は堀の手前に集まっている。堀の向こうの広場ではロケーションのショーをやっていた。ここでも監督が説明しながらショーが進められている。「赤穂浪士の○○は、隙あらば吉良を打たんと吉良邸を窺っている。許嫁の△△は危険だからと止める。しかし、その時吉良邸の警備をしている一団に発見されてしまう」という設定らしい。それぞれの役者にセリフ、演技指導をしてリハーサルを始める。○○は言い逃れようとするが、しっかり見破られて抜刀した一団に囲まれ、許嫁の△△も取り押さえられようとした、まさに危機一髪の場面に赤穂浪士の××が助けに入るというわけだ。ここから、監督は殺陣師を呼んで、立ち回りを彼に任せる。「ずっと、押して」「はい、そこで抜刀」「□□君は、△△の方へ行く」「合わせる」「払う」「足を切る」・・・・出演者は8~9人もいるのだが、1人1人の動き、集団の動きや配置、殺陣、を指示する。言われた方もゆっくりではあるがその指示通りに動いている。tetywestは殺陣師の指示を見るのは初めてだったが、かなり細かい動きまで計算されている。特に切られる瞬間の「決まり手(?)」を考えるには、相当苦労するだろうと思う。役者の方も飲み込みがすこぶる早い。もちろんこれはショーのために何度も練習した賜だろうが、tetywestは一度言われたくらいでは絶対に覚えられないと思った。チャンバラ映画の魅力は何といっても殺陣だろう。いかにカッコよく、独創的に殺すかで殺陣師の価値は決まるのだろう。そういえば、あのSF大作「STAR WARS」でも、一番の見せ場はジェダイの騎士とダースベーダ-のチャンバラだったのだ。体と体、技と技のぶつかり合いはアメリカ映画の西部劇や戦争映画にはない魅力なのだ。カンフー映画が流行ったのも、そういうチャンバラとの共通性があったからだろう。最近では「ロード・オブ・ザ・リング」にしても「グラディエーター」にしても格闘シーンはチャンバラなのだ。日本の殺陣師も今では海外で活躍しているのかも知れない。一回通してのリハーサルが行われ、監督の「本番!」の掛け声で、実際のストーリーが展開していく。かなり広い場所を使っての撮影(と言う設定)なので、全視野の範囲で物語が同時進行しているという状況になる。しかし、観客はあらかじめ2回も筋書きを見せられているので、本番では自分が興味を持ったところだけ注目できる。立ち回りのスピードは、ビックリするくらい速い。一瞬でも気を抜けば怪我をするのは間違いないだろう。許嫁が追いかけられて取り押さえられるシーンでは、膝をつくために着物に土が付着している。後で洗濯に出すのが大変だろうと余計な心配をしてしまう。 tetywestが一番気になったのは、切られた時のアクションだった。あまり目立ってもいけないし、かといってヘナヘナと切られたのでは面白くない。その判断は役者に任されているようだ。プロともなれば死に方にも工夫が必要になる。しかし、切られるのは本当に一瞬で、そこまで確認出来ないうちにバタバタと切られてしまった。切られた後は地面に倒れないで、ゆっくりと歩いて塀の傍に引き下がっていた。やっぱり洗濯代が気になるのだろう。このショーは映画村のパンフレットには掲載されていなかったので、1日に1回だけだったのかもしれない。ふと振り返ると、すぐ後ろに水戸黄門と助さん角さんと娘が立っていた。一瞬「オッ!」と思ったのだが、佐野浅夫でも石坂浩ニでもなく、若い替え玉だった。
2002年07月24日
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気がつくと、いつの間にか芝居小屋「中村座」の前に戻っていた。映画村は意外と狭いことが判明した。芝居小屋では「忍者ショー」をやっているのだが、ちょうど時間が中途半端だったので、もう一度日本橋の方に歩いていく。通りには和服姿で鬘を被った江戸の町娘や、武士が歩いていて、頼めば気軽にお客さんのカメラに一緒に収まってくれる。日本橋まで戻って、今度は橋を渡らずに反対方向へ歩いていった。江戸の土産物屋さんがあって、カキ氷も売られていたが、その向こうは広場だった。広場の向こうには白壁と石垣のお城がそびえている。大手門は団体の入場口と出口になっている。ふと、何かが動く気配を感じて空を見上げると、城の櫓からロープを伝って忍者がこちらの建物に忍び込もうとしている。しかしこの忍者、なんだか動きがぎこちない。それにロープにぶら下がるのではなくロープに乗って進むのは常識外れだ。と思ったら、これはロボットだった。こちら側の建物に到着すると、今度はそのまま後退りしている。その恰好がなんともマヌケなのでカメラに撮ってしまったのだが、出来上がった写真ではどっちへ進んでいるかがわからない。 案内のおばさんが、忍者が忍び込もうとしていた建物で、おもしろ学習館「寺子屋」というのをやっていると教えてくれたので、そこに入った。もちろん入場料は要らない。中ではもう講義が始っていて、50人くらい入れる部屋には10人くらいの聴講生(?)がバラバラと座っていた。先生は浪人風の格好をしている。一段高い台の上に正座して講義をしてくれる。「映画村は田村三兄弟のお父さんである坂東妻三郎が、太秦にロケーション用のセットを造ったことに始った」とか、「帷子ノ辻は昔映画の衣装である「帷子」を作っていた所だから、それが地名になった」とかいう、映画村の歴史だった。「帷子ノ辻」はtetywestが今朝読み間違えた地名なので、特に印象に残った。その次に、日本刀を抜いて、「これが、映画に使う日本刀です。本当には切れないように刃はついていない。しかし、かなり重い。・・・どう?持ってみたい?」と前に座っている聴講生に問い掛ける。聴講生が「うん」と言うと、抜身のまま刀を渡して、講義が続く。「江戸時代、庶民は銭、武士は銀貨、大名は金貨を使っていたんです。銭は『銭形平次』が投げるやつ。だから金貨は普通の人は一生見ることはなかったんです。」・・・ふんふん、ナルホド。「でもね、映画は何でもオーバー。たとえばネズミ小僧が千両箱を抱えて屋根の上を走るシーンは皆さんお馴染みでしょう。しかし、ホンモノはどれくらいの大きさだか知ってますか?」また前方で「ううん。」「これが、本物の千両箱」と言いながら重そうに抱えて取り出したのは、縦・横・高さが30cm・20cm・10cmくらいの箱だった。ホントに小さい。これじゃ、実物を抱えて走っても、何なのか観客にはわからないだろう。しばらくすると、隣から日本刀がまわってきた。tetywestは日本刀の重さは知っているが、確かに重い。先生は、昭和30年代になって劇場映画が衰退し、TV時代劇が作られるようになる。しかし、その時は役者はもはや使い捨ての時代になっていた・・・などの講義を続けていたのだが、tetywestは千両箱の中身は本物なのだろうかということが気になって仕方がなかった。後で聞いたら、家内も同じことを考えていたそうだ。講義が終わって、「写真を撮りたい方はご自由にどうぞ」と言うので、家内と先生のツーショットをお願いした。実は千両箱の中身を確かめる口実だったのだが、わざわざ家内に提灯を持たせて、寄り添うポーズを取ってくれた。しかし、肝心の金貨は和紙に包まれていて確認するとが出来なかった。残念!
2002年07月23日
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時は夜、遠くから犬の遠吠えが聞こえる。槍を持った武士が庭を見回っている。そこに「あれ~、助けて~っ」という男性の悲鳴。(会場:笑)驚く武士。「え~っ、男かよ~」と言いつつ下手へ去る。上手からまるでターザンのようにロープにぶら下がって、ド派手に泥棒登場。(会場:「お~」というどよめき)カッコよく庭に立つ。倉の錠前を外そうとするが、開かない。そのうち下手から「怪我はないか?気をつけて帰るのだぞ」という武士の声。泥棒屋敷に消える。武士、首をかしげながら下手から再登場。倉の前で大きく伸びをする。その時、2階の障子が開き泥棒が弓を構えて武士を狙う。放たれた矢はすごいスピードで倉の柱に突き刺さる(会場:「お~」というどよめき)すぐに、小柄を投げ返す武士。絶妙のタイミングで泥棒の足に血のついた小柄が刺さっている(ように見える)宙返りをして庭に落ちる(というより着地する)泥棒。(会場:またもや「お~」というどよめき)殺陣のスピードも速い。実際の撮影では細切れのカットを繋ぎ合わせるのだろうが、これはショーなので連続で見せなければいけない。よっぽど練習しないとこううまくは動けないだろう。(会場:固唾を飲んで見つめる)いつの間にか、武士が井戸の上に追い詰められている。(会場:「なんかオカシイ」という雰囲気)と思う間もなく、泥棒の匕首で武士、ズバッと切られる。(会場:「ええっ」という雰囲気)武士、井戸の中に落ちる。井戸の傍で耳を澄ます泥棒。効果音が「ひゅ~~~~~~~~~・・・・」ずいぶん間があって「ボチャ~ン」。(会場:笑)そこで監督が登場して一言。「『本番』オッケー!」。(会場:爆笑)一番の「ウソ」はストーリー展開だったというオチ。20分くらいのショーだったが、面白かった。ここでは1時間ごとに同じ出し物をやっている。スタジオを出て、大道具や木材を収納してある倉庫の間を通り、次に出たところは旅籠が並んでいる宿場町だった。黒澤明監督の「用心棒」のシーンを思い出す。tetywestは日本映画はそれほど興味はないのだが、「用心棒」はよかった。後に、クリント・イーストウッド主演でリメイクされ「荒野の用心棒」になったし、ブルース・ウィリスの「ラスト・カウボーイ」にもなった。tetywestは「用心棒」を映画館で観たのではない。高校の文化祭で自主上映されたのを図書室で観たのだ。そういえば、当時は自主上映映画ブームだった。大学の学園祭では「ソルジャーブルー」を観たなあ。キャンディス・バーゲンは知的で美人だった。そんな追憶に浸りながら歩いていくとプールがあった。小さな桟橋もある。そのむこうには港町らしい家並みが造られている。その時突然、プールの中から恐竜が現れた。機械仕掛けで定期的に出てくるようだ。入場者(特に子供たち)へのサービスなのだろうが、まったく場違いな出演者に苦笑を禁じ得なかった。
2002年07月22日
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「セットの中では、どんな時間も天候も作り出すことが出来ます。たとえば夕方のシーンは、は~い」と監督が後ろを振り返ると、照明が暗くなり背景の町並がオレンジ色の夕焼けに浮かび上がる。「カァ~、カァ~」とカラスの鳴き声も・・・「次は夜です。は~い」・・・照明がもっと暗くなり、背景には三日月と星。町並みには明かりが灯って、「ゴ~ン」とお寺の鐘が鳴る。「雨だって、降らせることが出来ますよ。は~い」・・・井戸の後ろにある池に天井からシャワーの雨が降り注ぐ。「ピカッ・・・ゴロゴロゴロ」・・・今度は雷のサービス付き。「風を吹かせるには、この扇風機を使います」・・・泥棒役が大型扇風機を運んできて武士役の前に置く。「でも、これでは風が吹いているのがわかりません。そこで」・・・泥棒役がザルから木の葉を扇風機の前に飛ばす。会場のあちこちにあるモニターで見ると、アップになった武士役の顔の辺りに木の葉が舞い飛び、いかにも風の中に立っている雰囲気。「もっと強い風の時も、ちょっとした工夫で大丈夫」・・・泥棒、武士に向かって木の葉を力一杯投げつける。顔に当たって怒る武士。ここで、会場からは笑いが起こる。「さて、それでは今から実際に撮影現場を再現しながら『うそ』がどんなところで使われているかを見ていただきましょう。役者さんは、私の言う通りにやってください。じゃ、説明しますよ。」「まず、武士役のあなた・・・倉の前で警備をしている。そこに遠くから女性の『助けて~っ』という悲鳴が聞こえる。塀の外を通って下手に助けに行く」・・・武士、その通り演技をして下手に去る。「そこで、泥棒が登場する」・・・泥棒バク転をしながら派手に登場。「ちょっと!今回の主役は武士なんだから、アナタはそんなに目立たない。こそこそっと登場する。そして倉の錠前を外そうとするが開かない。そのうち、武士が女性を助けて帰ってくる気配がする。アナタは屋敷の2階へ隠れる」・・・泥棒、最初からやり直す。「武士、倉の前に戻り大きくあくびをする。その時2階から泥棒が弓で武士を狙う。その矢は倉の柱に刺さる。しかし皆さん、実際はそう簡単に柱に命中はしません。ですからこのようにあらかじめピアノ線が張ってあるんです。」・・・観客からも十分見えるかなり太めのピアノ線が、2階から倉の入り口に張られている。「今度は、武士が刀の脇に挿してある小柄を泥棒に向かって投げる。泥棒の足に刺さる。でも、実際には投げた振りをして手の中に小柄を隠す。泥棒もあらかじめ別の小柄を持っていて、それを自分の足に刺すんです」・・・役者2人、ウンウンとうなずく。「泥棒は2階から落ちる。格闘になる。武士、上段から切りかかる。泥棒避ける。泥棒匕首を出す。武士、横に払う。泥棒井戸に飛び乗ってかわす。武士ズバッと泥棒を切る。泥棒、井戸の中に落ちる」・・・・ここは殺陣なので、監督の言われた通り動く2人。リハーサルなので泥棒は井戸には落ちない。「さあ、では『本番』行って見よう!」の監督の掛け声で、撮影が始まった。(あくまでも、そういう設定)
2002年07月21日
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7月18日の農業新聞の特集に「青果6品目で農家の手取り追跡-小売価格比14~56%とばらつき」という記事がありました。--------------------------------青果物の小売価格に占める農家手取りはどのくらいになるのだろう。農水省がまとめている青果物価格追跡リポートから、価格形成の実態や農家、流通業の利益配分を見る。2001年度の調査では、卸売価格の下落に伴い小売価格も下落した。小売価格に対する農家手取り割合は、最小14%、最大56%となり、品目や東京・大阪といった出荷先によって違いが出た。中間流通業者や小売業者は、単価下落による利益減を抑えようと、取り分を増やす傾向も浮かび上がった。農水省の調査概要東京都中央卸売市場と大阪市中央卸売市場から青果物を仕入れているスーパーなど小売店約100店が販売した商品の価格形成を。流通段階ごとに調べている。調査時期は毎年11月。方法は、関係者への聞き取りや帳簿確認。「5段階流通」は農家→JAなど集出荷団体→卸売業者→仲卸業者→小売店という5段階を経て小売されたものをいう。「4段階流通」は、仲卸を通さずに仕入れるため、農家→JAなど集出荷団体→卸売業者→小売店という商品の流れ。小売価格は、安売りなどの価格は含まない。調査の結果は東京都の場合(2001年度)品目 農家 JA・卸売会社 仲卸 小売ダイコン(5段階) 24 16 15 55 1,401円ダイコン(4段階) 33 21 - 46 1,114円キャベツ(5段階) 22 21 10 56 1,054円キャベツ(4段階) 24 28 - 48 893円ハクサイ(5段階) 14 14 24 48 1,260円トマト(5段階) 50 17 8 25 5,625円温州ミカン(5段階)36 20 8 36 3,543円温州ミカン(4段階)43 20 37 3,532円リンゴ(5段階) 40 18 9 33 5,503円--------------------------------野菜では、なんと半分は小売店の取り分なんです。それに比べればミカンはまだマシのように見えるでしょう。しかし、これは価格が比較的高かった11月の調査ですから、12月・1月はもっとひどい状況だったのです。さて、ここからが本題の「何をやってる?農水省」なんです。このデータだと去年の11月にミカン農家の手取りはキロ当たり128円あったことになりますが、現場の実績は絶対そんなに高かったことはありませんでした。データによれば、温州ミカンの卸売価格は農家とJA・卸売会社の取り分まで含んでいますから全体の56%です。つまり1,984円となります。東京都は毎日市場の卸売価格のデータを集計して発表していますが、それによると一番値段の高かった11月上旬で171円。中旬は141円。下旬になると128円になっています。11月の全平均では144円です。平均値の144円で農水省と同じ計算をやってみると、JA等の取り分は変化がなく、卸売会社の取り分が38円減りますから(果物の場合、市場手数料は卸売価格の7%)その部分が670円です。仲卸と小売の分配比率はわかりませんが、仮に仲卸が10%を取ったとすると、以下のようになります。品目 農家 JA・卸売会社 仲卸 小売温州ミカン(5段階)21 19 10 50 3,543円これだと、農家手取りはキロ当たり77円。去年の11月の実数にほぼ近い値が得られます(12月・1月は50円だったんです・・・涙)。小売店の取り分は野菜と同じく50%になりました。他の品目のことはtetywestにはわかりませんが、温州ミカンがそうである以上、ほかの品目も故意に農家手取り部分を大きくしている可能性は十分に考えられるでしょう。農水省のデータとtetywestの計算したデータを比べてみれば、農水省はなぜ誰でも入手できる市場発表の卸売価格データを使わずに、「聞き取り調査及び帳簿確認」を用いて数値を出してきたのだろうという疑問が起こります。おそらく、100店という少ない調査点数のために、仲卸、小売の言うがままをそのままデータにしたのでしょう。帳簿確認などはかなり怪しいものです。そう簡単に見せてくれるものではないでしょうから。しかし、それなら他のデータを使って、集めた数値が適切かどうか検証する作業くらいはやってもいいんじゃないでしょうか?給料たくさんもらってるんだし・・・tetywestは6月30日の日記で、「日本の食料品は高いのか?」流通の高コスト是正へ-農水省2日に研究会初会合を書きましたが、このデータを「食品流通の効率化等に関する研究会」での基礎資料とする事はまず間違いありません。しかし、どんなに偉い先生方が集まって協議なさるのかは知りませんが、そこでは実態とかけ離れたデータを基礎にして議論が進められるということなのです。従ってそこから導き出される結論は、全く実態を反映していないものになってしまうのは火を見るよりも明らかでしょう。こんなことをしていて農水省は日本の農業を守れるのでしょうか?やっぱり、農家は自分のことだけを自分で守るしか方法はないのかなぁ・・・(涙)
2002年07月20日
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建物を出ると、まず目に飛び込んできたのは路面電車だった。前後に広いステップのあるチンチン電車だ。周りには明治時代の建物が建っていて、食堂やカフェになっている。交番もあって昔の制服を来た警官が立っている。現代から一挙に江戸時代へ行くのではなくて、一度中間点の明治時代へのタイムスリップ。ここはそんな一角だった。さらに進むと「中村座」という芝居小屋がある。そこから左側には江戸の街並が続いている。道幅は結構広い。火消しのめ組の家や倉のある大店が並んでいる。その一本隣の路地には銭形平次の家があった。銭形平次のTV番組の一番最初に毎回登場する「寛永通宝」は、隣の観音寺市の琴弾(ことひき)海岸の砂絵なのだ。こういう縁があると、やっぱり入ってみたくなるものだ。おや、思ったより狭い。神棚と火鉢のある間と、その横には竈のある台所の間。たった2間しかなかった。余計なお節介はわかっているのだが、これでは平次夫婦はどこで寝るのだろうと思ってしまう。まあ、もしそういうシーンがあった時には別のセットで撮影するのだろう。愛染横丁という狭い長屋を抜けるとまた大きな通りに出た。右手に日本橋が見える。真ん中が高くなった太鼓橋は袂に柳の木も植わっていて、いかにも江戸情緒たっぷりだ。しかしその橋を渡って、真ん中を過ぎると後ろは階段になっていて、オープンセットの裏側が丸見えだった。この表と裏の落差も映画村ならではの面白さだ。表通りの店の障子も、見せたくないところは開かないようになっていた。橋を降りた所に馬小屋があって、ポニーが繋がれていた。おそらく希望すれば乗せてくれるのだろうが、順番を待ってまで乗りたくもなかったので、もっと奥の方に歩いていった。入り口から一番奥まったところにお化け屋敷があった。東映の映画演出・技術を総結集したと謳うお化け屋敷だが、二人ともわざわざお金を払ってまで恐い思いをしたくなかったので無視した。その手前にロケーションスタジオがあり、「映画のヒミツ うそ・ほんとう」というショーをやっている。無料なのでそこに入ることにした。建物の中は、ガラスで仕切られた向こう側に江戸時代の二階建ての家が造られている。真ん中は庭になっていて、井戸がある。右手は土蔵で、手前の壁はなく、中が見えるようになっている。しばらく待っていると出演者が登場してきた。現代の服装をした監督、カメラマン、音や照明を担当するスタッフの3人と、槍を持った武士と頬かむりをした黒装束の盗人の2人の出演者だった。監督の解説でショーが進行していく。「映画には、皆さんもご存知のように、いかにもホントのように見せかけたウソがいっぱい使われています。それでは、今日はご一緒に映画に使われている『ウソ・ほんとう』を実際に見ていただきながら説明していきたいと思います」いつの間にか、会場はほぼ満員状態だった。いったい、どんなことが始まるのだろう?
2002年07月19日
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昨夜9時半頃、月下美人が咲きました。1本の株に6個の花をつけています。もう1鉢には3個。玄関に鉢を移動してしばし見惚れていました。tetywestたちだけで見るのはもったいないので、HPにアップします。月下美人はメキシコ、グアテマラなどのジャングルが原産地なのだそうです。したがって寒さに弱いのですが、tetywestの住んでいるところは比較的暖かいので、冬でも軒下越冬で大丈夫なんです。月下美人の素晴らしさは、その大輪の美しい花でしょう。シルクのようなきめの細かい花弁、その奥には無数の細い糸状のオシベが黄色い花粉を上向きにつけて並んでいます。真ん中から花弁の外まで伸びた真っ白なメシベは先端が放射状に広がって、自然の造形の美しさに感嘆の声をあげずにはいられません。そして花が開いたとき部屋中に表現のしようのない上品な甘い香りが漂います。HPではこの香りをお届け出来ないのが残念です。 そして、月下美人の花は夜から深夜にかけて、たった一晩だけ開くのです。まさしく「花の命は短くて」の詩そのままの花だからこそ、咲いているときは精一杯私たちを楽しませてくれるのでしょう。何年か前、アメリカからホームステイしていた奥さんの誕生日に、ちょうど月下美人が咲いたことがありました。わざわざ我が家に奥さん方を招待して月下美人を見せたことがあります。みんな、その美しさに感激していたのを思い出します。そのときtetywestは、月下美人を「The Beautiful Woman Under The Moon (like you)」と訳したのですが、結構受けました。今年はいつもより2週間も早く咲きました。やっぱり地球は温暖化してるんでしょうか?ともあれ、深夜に繰り広げられる素晴らしい自然のサイレント・ショーに時間の経つのも忘れて見入っているtetywestでした。
2002年07月18日
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レトロ商店街の横は「忍者展」をやっていた。黒装束、手裏剣、水上を歩くかんじき、仕込み杖など、忍者が使う道具が展示されている。マルチスクリーンでは「仮面の忍者・赤影」が映し出されている。tetywestは子供の頃、毎週この番組を楽しみにして観ていたのだ。♪赤い仮面は 謎の人 どんな顔だか 知らないがキラリと光る 涼しい目 仮面の忍者だ 赤影だ手裏剣しゅっしゅっ しゅっしゅっしゅっ 赤影は行く♪何でこんな古い歌をメロディまでちゃんと覚えているのか不思議なのだが、子供の頃の記憶力というのは恐ろしい。しかし、昔TVで観たのと何か雰囲気が違う。そうか・・・tetywestは当時モノクロで観ていたのだ。日本のTV受像機は「皇太子殿下ご成婚」の昭和34年に白黒TVが、そして昭和39年の「東京オリンピック」を契機にカラーTVが普及した。「仮面の忍者・赤影」は昭和42年~43年の放送だというから、カラーで観た人も多いのだろうが、tetywestの家はまだ白黒TVだったのだ。スクリーンの反対側には、番組で使われた戦車や大砲などの大道具も展示されていたが、さすがにそれらがどこで登場したのかまでは覚えていなかった。当時、TVは「忍者ブーム」だった。たぶん火付け役は宣弘社プロダクションの「隠密剣士」だと記憶している。フィルムを逆回転させて屋根の上に飛び上がるシーンや、物陰に潜んだところへ手裏剣が飛んできて、柱に突き刺さるシーンが今でも目に浮かんでくる。「風魔小太郎」といういかにも悪役顔のキャラクターは強烈だった。tetywestも近所の悪ガキどもと忍者の真似をして、よく屋根から飛び降りたものだった。それから、五寸釘をグラインダーで尖らせて、二本を十文字に縛り付けて手裏剣を作り、板塀に突き立てて遊んでいた。缶詰の蓋などは恰好の手裏剣の素材だった。今考えると恐ろしい遊びをしていたものだ。その後、アニメもので「風のフジ丸」も始った。余談になるが、「隠密剣士」の後、宣弘社から独立した円谷プロは「ウルトラQ」、そして「ウルトラマン」を世に送り出している。当時の少年雑誌にも忍者特集がたくさん企画されていた。あるとき忍者の秘密が書かれていた。「葦はどんどん生長するので、毎日それを飛び越えていればそのうちに屋根の高さまで飛べるようになる」とか、「麻の葉をお茶に混ぜれば眠り薬になる」とかいう類のものだったが、子供心にも葦の生長にジャンプ力が追いつけなくなる時は来ると解るし、tetywestの地域には残念ながら麻がなかったので、眠り薬も試すことが出来なかったのを覚えている。そんな懐かしい思い出に浸っているtetywestだったが、家内は忍者モノにはあまり興味がなかったようだ。いつまで待たせるのだという顔で暇そうに辺りをブラブラしていた。
2002年07月17日
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三日目の朝、tetywestたちは北野白梅町から京福電鉄に乗って太秦へ向かっている。「7月から京福電鉄は全線200円になります」という大きな垂れ幕が下がっているのだが、まだ6月なので太秦までは230円の乗車料金だった。途中「帷子ノ辻」で乗換えがある。この駅名、実はtetywestは読めなかった。「えぼしのつじ」がtetywestが予想した一番それらしい読み方だったのだが、見事にハズレだった。「かたびらのつじ」と読むのだ。そこから一駅で太秦だった。これも知っているから「うずまさ」だと解るが、普通は読める地名ではない。京福電鉄は太秦の交差点の所だけは路面電車になっている。駅には改札口もなくて、切符は降りるときに運転手さんのすぐ後ろにある料金箱に入れるようになっていた。そういえばこの路線を走っている電車は全部1両編成だった。太秦の駅から案内標識に従って歩いていくと5分ほどで目的地に到着した。そこはそう、日本のハリウッド、和製ユニバーサルスタジオ、いやかなり違うな。映画村だった。実は、映画村に行くのは昨夜決まったのだ。「明日はどこに行こうか」と家内と相談した。当初の大雑把な計画では、市内は初日に回ったし、2日目は西の方の保津川、嵐山へ行った。そうすると、3日目は北の方の大原か比叡山かな・・・と思っていた。しかし、二人とも京都観光でこれほど歩き回るとは思っていなかったので、結構疲れている。この上郊外へ出かけては、疲れは一層募るばかりだろうと言うことになった。そうなるとやっぱり市内観光になるのだが、これも初日の経験からバスでの移動などに結構歩かなくてはならない。特にtetywestは枇杷の収穫時期に左足の親指を骨折していて、歩く時の蹴りが思うように出来なかったので、なるべく坂道や階段などは歩きたくなかった。そこで、ふと思いついたのが「映画村」だった。これなら一度入ってしまえば、ゆっくりと見て回ることができるんじゃないだろうか・・・それに、子供達は小学校の修学旅行で映画村へ行ったことがあるのに、親であるtetywest達が知らないというのも面白くない。USJに比べれば規模も小さいが、一応アミューズメントパークなのだから退屈するようなこともないだろう。NHKの朝の連ドラでも取り上げられたところだし・・・etc、etc。映画村は正式には「東映太秦映画村」という。入場料(村だから入村料か)は2200円だった。建物の中に入るとすぐ、懐かしそうな昭和30年代の商店街横丁が再現されている。うどん屋、散髪屋、駄菓子屋、オモチャ屋、カメラ屋、電気屋などが並んでいて、壁には子供の頃に見覚えのある「キンチョー」とか「オロナミンC」などの古いブリキの看板が打ち付けられている。電気屋さんの店先にはハンドルを回しながらロール2個の間を通して脱水する洗濯機や、ボリューム感溢れる1ドア冷蔵庫、真空管ラジオ、ガチャガチャ回すチャンネルの付いた、ブラウン管の角が丸い白黒テレビなどが並んでいて、それぞれに値札がついていた。tetywestにしてみれば、全部使ったことのある電気製品なのだが、もうそれがアンティークになっている。しかし、本当にこんなガラクタを買う人がいるのだろうか?さすがに映画村だけあって、店の前や中には昔のチャンバラ映画のポスターがいっぱい貼ってあった。
2002年07月16日
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思わぬ寄り道をしてしまったが、tetywestが亀山公園へ来たのは、角倉了以に会うためではなく他に目的があったのだ。了以の銅像からさらに20m程下った所でようやくそれを見つけた。 それは、周恩来の詩碑だ。周恩来(1898~1976)は大正6年(1917年)9月に来日し、1年7ヵ月にわたり早稲田や京都大学などで授業を聴講している。縦1m、横2m程の石に刻まれた詩碑には、次のような文章が書かれている。雨中嵐山雨中二次遊嵐山両岸蒼松夾着幾株桜到尽処突見一山高流出泉水緑如許浣石照人瀟瀟雨霧濛濛一線陽光穿曇出忽見(女交)妍人間的万象真理愈求愈模糊模糊中偶尓亮着一点光明真愈覚(女交)妍tetywestがこの詩碑の存在を知っていたのは、中国の友人が教えてくれたからだ。周恩来は歴代の中国の政治家の中で一番人気のある人物なのだそうだ。3年前、中国の友人が京都へ行くと言うのでその目的を訊いたところ、周恩来の詩碑を見るためだと言う。そのときtetywestは、「わざわざ、詩碑を見るためだけに京都へ行くほど周恩来に対する熱い想いがあるのか」と感心するやら呆れるやらで、友人の気持ちは理解できなかった。今度京都へ来た機会に、実際にその詩碑を自分の目で見てみることによって、友人の気持ちが少しは理解できるかも知れないと思っていた。詩の前半は嵐山の風景描写だ。松に桜、亀山、保津川が描かれている。雨の中、霧も立ち込めている風景に中に、雲間から突然差し込んだ一筋の太陽。この辺から周恩来の来日の感想が始まる。これからの中国をどうしようかと思案の中、なかなか答えの見つからなかった自分ではあったが、日本に来て美しい光明を見出した。tetywestの拙い意訳ではまた中国の友人からチェックが入りそうだが、戦前に日本に学んだ中国人は多い。蒋介石、魯迅、孫文も一時期日本に亡命していたことがある。彼等が帰国後偉大な指導者になってそれぞれの分野で中国の近代化に貢献したことは、日本人の一人としてtetywestは素直に嬉しい。周恩来の詩碑を見たいと京都に出かけた友人も、この詩碑を読んで「自分もこうありたい」と密かに心に誓ったのかもしれない。帰国後の彼の活躍を垣間見るにつけ、きっとそうに違いないと思うtetywestだった。詩碑を見て、もう少し下ると保津川の川岸に出た。なんとそこは川下りの下船場だった。これなら、食事の前に行っておけば良かったのだが、それでは角倉了以の銅像は見れなかっただろうから、まあ良しとしよう。もう一度ゆっくりと渡月橋を眺めながら歩いていく。この橋は近くで見るよりも遠くから見たほうが絶対に美しい。特に木を格子状に組み合わせた形の橋桁がいかにも京都っぽい。tetywestの京都のイメージはこの橋をバックに佇む舞妓さん。そして山の中にはなぜか清水寺の舞台が見える。もう少し遠景に大文字。自分でも情けないのだが、これでは外国人向けの「KYOTO」の絵柄そのままだ。渡月橋の橋の袂で「油とり紙」をお土産に買って、嵐山に別れを告げた。
2002年07月15日
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亀山公園も人影はまばらだった。広場で家族連れがピクニックの弁当を広げている。公園の歩道を下っていく途中で孫を連れたお爺さんが先に駆け上がる男の子を追いかけて、ふうふう言いながら上って来るのとすれ違う。しばらく下っていくと案内板に「角倉了以(すみのくらりょうい)の銅像」と書かれてあったのだが、その時は角倉了以が誰だったかは思い出せなかった。しかし何となく気になったので、家内を残して1人でそちらへ向かった。2mほどの台座の上に、衣を着た坊主が立っている。おかしなことに手にはツルハシを携えている。顔は何となく長嶋一茂に似ているなあと思いながら、台座に書かれた文章を読んでようやく保津川を開削した人だと解った。川下りの船頭さんがちゃんと説明してくれていたのだが、「角倉了以」とはtetywestの頭の中で結びついていなかったのだ。角倉了以(1554年~1614年)は京の豪商で、海外貿易家として活躍するかたわら、河川開削・土木事業家としても活躍した。了以53才の時・慶長11年(1606)年から半年余りかけて大堰川(保津川下流)の開削を行った。この開削によって丹波から米および材木などの物資搬送は、険しい山道を通ることなく都へ運ばれることになる。このことが嵯峨を急速に栄えさせ、了以も大堰川の河岸に邸宅を移しここに住むことになる。また、保津川開削だけでなく高瀬川運河も造り、京都への交通のインフラ整備に大きな貢献をしている。実際に銅像を見ると、にわかに角倉了以に対する興味が湧いてくる。銅像の了以の顔はいかにも意志が強そうだった。保津川を開削することといい、高瀬川運河を造ることといい、今で言えば国家予算を使う「公共事業」に匹敵する大事業のはずだ。それを個人の財産でやったということは、よっぽどのお金持ちだったのだろう。しかし、お金を持っていても誰もがこのような事業をするとは限らないはずだ。帰ったらその辺りをぜひ調べてみたいと思うtetywestだった。※インターネットを使って「角倉了以」を調べてみました。ちょうど、tetywestが知りたかったことが書かれてあるHPを見つけることが出来ました。興味のある方はどうぞ。http://www.kyotokanko.co.jp/suminokura/index.htmltetywestが興味を覚えたのは、角倉了以の出身が近江だったことだ。実は香川県にも近江の富豪が開発した町がある。それは香川県の西の端にある大野原町だ。江戸時代の初期(1643年)、平田与一左衛門正重が井関池の改修工事に着手し、不毛の扇状地を豊かな穀倉地帯に変えたという歴史があるのだが、この平田一族も近江からやって来た商人だったのだ。井関池の工事は難工事だったようで、何度も堤防が決壊して人柱を立てたという話も語り継がれている。しかし、その工事や新田開発にかかった費用は全て平田一族が負担しているのだ。この角倉了以との不思議な共通性は当時の近江商人の哲学や世界観に由来しているのかも知れない。
2002年07月14日
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嵐山の船着場は渡月橋の少し上流にあった。川沿いを歩いていくと和服を着たお嬢さんがパンフレットを配っていた。一枚もらうと、食事のご案内だった。時間はもう午後1時を回っている。しかし、パンフレットの食事の値段の高いのにはビックリした。湯豆腐セットが何と2500円なのだ。渡月橋までには広い豪華な庭のある落ち着いた食事の店が並んでいる。入り口には写真入りのメニューが置かれてあったが、どれも高かった。もっとお手ごろ価格はないものかと歩いているうちに橋の袂まで来てしまった。ちょうど角に食堂があって、値段も安かったのでそこで昼食をとることにした。食べたのは湯豆腐ではなく「本日のランチメニュー」だった。腹ごしらえが終わったところで、嵐山の散策を開始することにした。食堂を出ると、すぐ前は渡月橋だ。ここにも沢山の観光人力車がいた。橋の袂は観光客でごった返していたので、反対方向へ向かった。道路の両側はかなり広い歩道になっていて、土産物屋が並んでいる。アイスクリームを売っている店、漬物を売っている店、八つ橋、陶器、竹製の篭を置いてある店もある。さすが京都の観光スポット嵐山、大勢の人が歩いている。tetywestは田舎者なので、平日にこれだけの人出があるのが珍しかった。修学旅行の自由行動なのだろう、制服を着た5~6人のグループを何組も見かけた。天龍寺と彫られた大きな石の柱の前を通ってもう少し歩いていくと、shilfy1さんお薦めの「野宮(ののみや)神社」への看板があった。どんな所かは全く知らないのだが、話のネタにでも行っておかなければとそちらへ曲がった。路地のように狭い道を歩いていくと100mも進まないうちに鬱蒼とした竹林の中に入る。気温が3度くらい下がったように涼しい。道路と竹林の境は竹の枝を束ねた竹垣が続いている。表通りの賑わいが嘘のように落ち着いた京都らしさが漂う。人通りも急に少なくなっている。まるで「火曜サスペンス劇場・京都殺人事件」のワンシーンの中にいるみたいだった。もちろん、本当にそんな番組があるかどうかはtetywestは知らないのだが・・・。野宮(ののみや)神社は思ったより小さな神社だった。源氏物語にも登場するそうだが、tetywestは読んだことがない。入り口には「えんむすび、進学祈願」とかかれた看板があった。この神社の特徴は「黒木の鳥居」で、皮を剥かないクヌギの木を使うのだそうだが、その下には葦で作った大きな輪が置かれている。参拝の人はこの輪をくぐって境内に入ることになるのだが、こんなものを見たのは初めてだった。しばらくして、そうか「円(縁)結び」の語呂合わせなのかと思い当たって、ちょっと可笑しかった。二人とも、もう直接のご利益を期待する神社ではなかったので、お賽銭は入れたものの参拝はおざなりだった。野宮のすぐ向こうには朝乗ったトロッコ列車の線路が見える。嵯峨野散策にはそちらへ向かうのだろうが、tetywestはもう一ヶ所行ってみたい場所があったので、さらに竹林の中を亀山公園のほうへ歩いていった。それにしても見事な竹林だ。竹は毎年新しく伸びるので、管理しないとすぐに過密状態になる。また、風で折れたり斜めに倒れた古い竹があるのが普通なのだが、ここの竹林には一本も見当たらなかった。これだけきれいに竹林を管理するのは大変だろうと思いながら歩いていると、ちょうど野宮側の竹林の中で、下草を整理している人たちを見かけた。その人達の人件費を払っているのは誰だろうという疑問が湧いてきたのだが、わざわざ確かめるほどのことでもないと思い直してそのまま通り過ぎた。気がつくと周りには誰もいなくて、はるか前方のアベックとtetywestたち二人だけだった。ロマンチックな気分に浸るなら断然お薦めの散歩コースだろう。
2002年07月13日
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1時間40分は長い。急流にさしかかったときは緊張もするのだが、それ以外は「ギーッ、ギーッ」という櫓の音が単調に響くのを聞いているだけだ。景色を見ながらいろいろな考えが浮かんでくる。急流では石を積み上げて、狭いながらも水路を確保してあるところが2~3箇所あった。昔保津川が水運に使われていた頃、急流は船頭さんにとっては憎い存在だったはずだ。少しでも安全に下れるようにいろいろな努力を重ねてきたことだろう。それが今では逆に急流が観光資源としてもてはやされている。時代の流れとは、ともすればそんなものかも知れない。思考が飛躍してしまうのだが、戦後あれだけ「古いものは悪い」と切り捨ててきた和様建築や伝統工芸が見直されている。今の日本の発展も歴史のもっと先で振り返れば、自然環境を破壊したエゴと狂気の時代と評価されるのかも知れない。そしてtetywestのやっている農業も、今のような厳しい状況は決していつまでも続くものではないのだろう。「年年歳歳花相似たり、年年歳歳人同じからず」などと柄にもなく唐詩が浮かんできたりするtetywestだった。川を下る途中には名前のついた岩がある。その岩に近づくたびに船頭さんが「かえる岩」とか「屏風岩」とか「ライオン岩」だと教えてくれる。岩の上には看板まで載っている。「ライオン岩」などはご丁寧に見る角度まで教えてくれる。しかし、tetywestにとっては「だから、何なの?」くらいにしか感動しない。たとえば、「このように特徴のある岩を覚えていて、その先にある危険な急流のコース取りの目印にした」くらいの説明は欲しいところだ。ただ自然の岩が何に見えようが見るものの勝手だと思うし、「ライオン岩」に至っては観光用に後から考えた名前に違いない。 下流になると、岩の上で鮎を釣っている人を見かける。また、野生の鵜が岩の上で魚を狙っている。しかし、保津川の鮎はどこから溯上して来るのだろう。tetywestの記憶では、保津川はやがて桂川となり、最後は淀川となって大阪湾に注いでいるはずだ。あの汚れた大阪湾を鮎が上る姿はとても想像出来ない。おそらく地元の漁業組合が毎年放流しているのだろう。などと考えているうちに船はトロッコ列車の鉄橋の下をくぐる。この鉄橋の基礎は石を積み上げた構造だった。今は何でもコンクリートで造ってしまう時代なので、このような石造りの構造物は風格が感じられる。修理は大変だと思うが、いつまでも残しておいてほしいものだ。やがて前方に一隻の船が見え始めたと思ったら、こちらへ向かってくる。どうも水上屋台のようだが、どこへ行くのだろうと訝っていたら、tetywestのすぐ横にピッタリとくっついてきた。イカを焼く強烈なニオイが漂う。飲み物やおにぎり、みたらし団子などを売っている。この船は船外機を装備していて、終点まで川下りの船を引っ張っていくためのものだった。後ろからついて来ていた船はいつの間にかtetywestたちの船の艫にロープで繋がれている。しばらくtetywestの横で商売をした後、牽引船は今度は後ろの船に横付けして商売をしていた。一挙に世知辛い現実世界に引き戻されたようで、スリルと歴史と風景を満喫した保津川下りの幕切れには、一番ふさわしくないシチュエーションだ。tetywestは一刻も早く船を降りたくなってしまった。
2002年07月12日
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確かに、保津川下りはスリルがある。急流の上に川幅がとても狭いので、少し舵を間違えると岩にぶつかる危険がある。tetywestたちの乗った船も一度は川底の岩にぶつかって、ドンという音と軽いショックがあった。しかし、急流と言えるのは7~8ヶ所で、それ以外は櫓を漕がなけらば進まないのだ。300年間実際に水運に使われていたのだから当然のことなのだが、なるべく危険な個所は少なくする努力が積み重ねられたことだろう。スリルを味わおうと思うのならジュラシックパークライドの方が断然お薦めだ。しかし、急流では船の方向を維持するために相当の技術を要求されるのも確かだろう。急流の途中にある大きな岩には、表面が凹んでいるところがある。そこでは、必ずそのポイントに竿をあてがわなければ船の方向を維持出来ないのだ。船頭さんは今までに幾万回もの竿が同じ所に当たって岩が凹んだと説明していたが、tetywestはそのまま鵜呑みにできなかった。きっと、昔の船頭さんが、経験からこのポイントだと決めた場所をわざわざ石ノミで凹ませたのではないだろうか。船頭さんは途中で何回も役割を交替する。櫓を漕ぐときは体中から汗が吹き出ている。割のいいアルバイトかと思ったら結構重労働なのだ。流れの緩やかなところではゆっくりと周りの風景を楽しむのも保津川下りの楽しみだ。先ほど見逃したすっぽんも、今度は岩の上で甲羅干しをしているのを発見した。見上げれば山の緑がすがすがしい季節だ。しかし、年中緑を見慣れているtetywestにとっては、岩の間に生えた山つつじが咲き残った真っ赤な花をつけているほうが綺麗だと感じる。紅葉の頃の景色が一番感動するのかも知れない。夏目漱石が書いたように、確かに保津川は曲がりくねっている。「曲り渕」では眼前に大きな岩肌が切り立っていて、船は今までとはほとんど逆に進む方向を変える。右岸の上を亀岡駅へ向かうトロッコ列車が走り過ぎて行く。時々前方のはるか高いところに鉄橋が見えてくる。山陰本線の鉄橋だ。船頭さんが「鉄道の線路は真っ直ぐに走っていて川が曲がりくねっているのだ」と説明してくれるのだが、川の流れの中に身を置いているとそれを実感するのは無理だ。同じように川を横切っている鉄橋が何度も現れては頭上を通り過ぎていくという認識しか持てない。頭の中では山陰本線の線路はぐにゃぐにゃに曲がっているような錯覚に陥ってしまう。川岸には、昔京都まで下った船を綱で引っ張って登った小道の跡が残っている。「今ではトラックに積み込んで引き返すようになったので、楽になった」と船頭さんが説明してくれる。その小道はところどころ潅木に覆われてもう使えそうもないが、確かに下ったものは上らなくてはならない。保津川では300年以上その営みが繰り返されていたのだ。しかし、綱で擦られて跡形が残っている岩だと説明してくれたのにはちょっと参った。一瞬で通り過ぎてしまったのでよく見てはいないのだが、いくら何でもあの柔らかい綱で凹むほどヤワな岩には見えなかった。先ほどの竿の跡といい、今度の綱の跡といい、ちょっと作為的すぎるような気もする。そこまでしなくても十分歴史や先人の苦労は感じ取れるのに・・・と思うのはtetywestがひねくれているからだろうか。
2002年07月11日
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トロッコ亀岡駅を過ぎたあたりから、保津川の流れが急になっている。それまで穏やかだった水面が500メートルくらい先まで白く波立ってみえる。傾斜は5%くらいの勾配だろうか。肉眼でもかなり高低差がはっきりとわかる。ここは「金岐の瀬」といわれる保津川下りでも一番距離の長い急流だそうだ。乗客の運命は先頭で竹竿をあやつる70歳の船頭さんの竿捌きにかかっているわけだ。あとの二人の船頭さんはもう櫓を漕いでいない。船が流れの中に入った。どんどん速度を増して下っていく。船頭さんは船の舳先にしっかりと両足を広げて踏ん張り、竹竿を岸の岩に、そして川の中に突き出ている岩にとあてがいながら船の方向を維持させている。川底の見えないところにも岩が隠れていて、通れるコースの幅はそんなに広くはないだろう。こんな場所では長年の経験が一番頼りになるに違いない。後ろから続いている船は30代の若い船頭さんが竿を握っていたが、コース取りは全く同じだった。こうやって先輩の経験を継承していくのだろう。船べりには緑色のシートが置いてあって、急流では水しぶきを避けるためにそれを肩のあたりまで持ち上げるようになっている。tetywestは前から5列目の左端に座っていたので、前後の人によって自然に持ち上がってきたシートを片手で支えていた。船内ではやはり歓声が起こったが、船は予想したほどスピードを上げることなく無事「金岐の瀬」を乗り切った。「水しぶきは美男・美女にだけかかる」のだそうだが、tetywestには一滴もかからなかった。次の急流は保津川下りで一番の落差があるという「小鮎の滝」だった。ここでは、文字通り船が落ちる。船内の歓声も一段と大きかった。しかしそれも一瞬で通過してしまい、また櫓を漕ぐ「ギーッ、ギーッ」という音を谷間に響かせながらゆっくりと進んでいく。夏目漱石の小説「虞美人草」のなかに、保津川下りの様子が描かれた部分がある。「船頭は至極冷淡である。松を抱く巌の、落ちんとして、落ちざるを、苦にせぬ様に、櫂を動かし来り、棹を操り去る。通る瀬は様々に廻る。廻る毎に新たな山は当面に踊り出す。石山、松山、雑木山と数うる遑を許さざる疾き流れは、舟を駆って又奔湍に躍り込む。大きな丸い岩である。苔を畳む煩わしさを避けて、柴の裸身に、撃ち付けて散る水沫、春寒く腰から浴びて、緑り真中に、舟こそ来れと待つ。船は矢も盾も物かは。一図にこの大岩を目懸けて突きかかる。渦捲いて去る水の、岩に裂かれたる向うは見えず。削られて坂と落つる川底の深さは幾段か、乗る人のこなたより不可思議の波の行末である。岩に突き当って砕けるか、捲き込まれて、見えぬ彼方にどっと落ちて行くか、――舟は只まともに進む。」この小説は、明治40年(1907年)年に朝日新聞に連載されたのだから、100年前からすでに保津川下りは京都観光の一つとして有名だったことがわかる。しかし、この文体の華麗なること。何度読み返しても溜息だけは出るのだが、tetywestにはこんな素晴らしい文章は決して浮かんでこない。
2002年07月10日
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出発から25分ほどでトロッコ亀岡駅に到着した。終点では、なぜこんなに?と驚くくらい大勢の乗客が待っていた。tetywestたちが乗ったトロッコ列車は第2便だったのだから、このお客さんたちは第1便で来た人たちか、そうでなければわざわざJRでこちら側まで来て、帰りをトロッコ列車で帰ろうという人たちなのだろうか。しかし、普通は亀岡まで来るのは保津川下りが目的だろうから、tetywestにはこんなに帰り便の乗客が多い理由はわからなかった。まあ、理由が何であれ乗客が多いのは嵯峨野観光鉄道にとっては嬉しいことに違いない。ここから保津川下りの乗船場までバスに乗って移動する。バスはいったん国道9号線に出て、JR亀岡駅前を通り乗船場へ向かう。バスの車内放送で、亀岡は明智光秀の領地だったことを知らされた。光秀が築城した亀山城があるのだそうだ。京都のすぐ隣とは思えないほど、山に囲まれたのどかな田園風景が広がっていた。15分ほどで乗船場に到着した。切符売り場で、予約のとき名前を書き込んだカードを渡す。もし遭難した時の用心なのだろう。そのとき改めてテーマパークのアトラクションとは違うのだと意識した。乗船場では船頭さんたちが20人くらい木陰で休んでいた。若い船頭さんも結構多い。船頭さんはたぶん農家の副業なのだろうと思う。1人3900円の料金で22人乗れば9万円弱。3分の1が船頭さんの取り分としても2時間で1万円なら、割のいいアルバイトになる。保津川下りは地元の雇用対策に大いに貢献しているのだろう。船は22人の乗客を乗せると、すぐに出発した。先頭で竹竿を持っているのは70歳くらいの船頭さん。前で櫓を漕ぐのは60歳くらい、船の後ろで櫓を漕いでいるのは30歳くらいの若い船頭さんだった。船は櫓が軋む「ギーッ、ギーッ」という音と共に緩やかな流れの保津川へと滑り出した。川の水は昨日の雨のためか、少し濁っている。しばらくは櫓を使わないと進まないくらい緩やかな流れだった。前で櫓を漕いでいる船頭さんが解説してくれる。「保津川下りは亀岡から京都の嵐山まで16キロの渓谷を下るスリルに富んだ豪快な船下りです。今日はおよそ1時間40分ほどかかります」「この保津川下りは今から400年ほど前に角倉了以(すみのくらりょうい)が米、木材、薪炭等、丹波地方の産物を京へ送るため産業水路として開いたもので、以後明治時代まで300年間ずっと実際に使われていました。」「今日では『世界の名勝・保津川下り』として、内外から多くの観光客が訪れています。春は桜、夏は岩つつじ、新禄、秋の紅葉、冬は雪景色と四季それぞれの趣きをもった美しい景観は保津川ならではのものです。今日はゆっくりとお楽しみください」「途中の急流では、川幅が狭く危険なところがたくさんあります。決して船べりから外へ手を出さないように注意してください。」右手の河原では鷺がじっと魚を待っている。船が近づいても全然知らん顔をしている。船頭さんが「あの石の上ですっぽんが甲羅干しをしている」と指差した方を見たのだが、どこにいるかわからなかった。後ろを振り返るともう1艘の船が続いていた。そちらもほぼ満員のようだ。トロッコ亀岡駅が見え始めた頃、ようやく最初の急流にさしかかった。と言ってもこれは落差1メートルほどのコンクリート製の堰を乗り越えるだけだったのだが、船内からは思わず歓声が上がった。そこからはまたしばらく櫓を漕がないと進まない。
2002年07月09日
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赤と黒に塗られたジーゼル機関車だ。客車は5両連結で、5号車は機関車のすぐ後ろだった。機関車は引っ張るのではなく客車を押して進むので、進行方向に向かって一番後ろの車両ということになる。5号車だけは鉄のフェンスで囲まれたオープンカーで、天井もガラス張りになっていて周りの風景を見るのに都合のいいように設計された特別車両だった。この季節になると風を感じながら列車に乗るのもなかなかいいものだろう。向かいの座席は最初に駅で見かけた夫婦だった。ほぼ満席になった列車は、定刻どおり発車した。少し走るとトンネルの手前の嵐山の駅で8人ほどの乗客を乗せて、またすぐに走りだした。私たちのすぐ前にはマイクを持った車掌さんが立っていて、車窓の景色にあわせて説明をしてくれる。この車掌さんがなかなかの役者さんだった。5号車はオープンカーなので列車が動き出したときに帽子を飛ばされないようにとか、床も金網になっているので、ペンなどを落とさないようにという注意もアナウンスするのだが、「飛ばされた帽子とは、さよ~なら~。落としたペンとも、さよ~なら~。」とか、トンネルを抜けて保津川が見え、列車が一時停止したときは、「ここが最初のトロッコ列車の特別サービス。しっかりと風景をご覧下さ~い。右側の席に座っていらっしゃるお客様、じっとしてても、左へ移動しても料金はおな~じ。遠慮するのはもったいな~い」とか、鉄橋を渡って、今度は右側の車窓から川が見え出すと、「左側の席のお客様が良かったのはここまで~。さあ、右側のお客様これから終点まではあなたたちが良くなる番~」とか、実に楽しくさせてくれる。ディズニーランドのジャングル・クルーズは水先案内人のアナウンスで楽しくさせるアトラクションだったが、ちょうどそんな雰囲気だ。この車掌さんのアナウンスを聞いているだけで、JRで行けば亀山駅まで200円そこそこのところを600円支払う値打ちは十分にある。そのうちに、ポラロイドカメラを持った女性が回ってきた。買う買わないは自由の記念写真を撮影するという、観光地ではお決まりの商売だ。これも車掌さんのアナウンスで説明があった。「(何とかかんとか)・・・・・えびす顔~」というフレーズだけなぜか記憶に残っている。トロッコ列車というので、tetywestは鉱石を運ぶとか、ダム建設のための特別な路線だと思っていたのだが、車掌さんの説明では嵯峨野のトロッコ列車は、旧山陰本線の路線をそのまま使ったものだった。だから車両の幅もJRと同じでゆったりとしている。眼下に保津川の渓谷を見下ろしながらしばらく走ると、列車は保津峡駅で停車した。駅のホームには一升徳利を提げた狸の焼物が大きいのを真ん中にしてだんだん小さい順に一列に並んで出迎えてくれる。その隣では銀のベルが自動で音楽を奏でている。駅のすぐ後ろは川で、吊り橋が架かっている。しかし、誰も乗車してこないし、誰も降りる人はいなかった。 車窓の景色を眺めながら、車掌さんのアナウンスを楽しんでいるうちに、先ほど撮影した写真を売りに来た。1000円だった。家内が「どうする?」と訊くので、「お好きなように」と答えたのだが、「最近ツーショットの写真がないから買うわ」と、気前良く買っていた。撮影のときtetywestはにっこり微笑んで左手でピースをしたのだが、写った写真ではそのちょっと前の瞬間だったようでピースサインはしていなかった。tetywestの持っているデジカメでもツーショットを撮って欲しいと頼んだところ、快くOKしてくれた。2つを比べると背景に保津川が写っているだけデジカメで撮った写真の方がいい写真だった。※でもその写真はHPでは公開しませんよ。念のため。
2002年07月08日
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翌日は朝からいい天気だった。昨夜のうちに、もし晴れたら嵐山付近へ行こうと決めていたので予定通り行動を開始する。二条駅からJRに乗って嵯峨嵐山駅についたのは9時半だった。駅舎は木造で「いかにも田舎の駅です」という雰囲気が漂っている。しかし、本当に田舎の駅なら当然無人駅になっているハズなのだが、ここには駅員さんがいた。駅舎のすぐ隣に、こちらは新しい建物でトロッコ列車の駅がある。入っていくと、私たちともう一組の夫婦だけだった。時刻表を調べると最初のトロッコ列車はちょうど出発したところだった。ツアーデスクがあって、トロッコ列車、保津川下りのチケットをまとめて予約できるようになっている。そこで10時30分発の切符と保津川下りのチケットを予約した。ほぼ1時間の待ち時間が出来たので、駅の前の通りを散策する。メインストリートは200mくらいの長さで緩やかな下り坂になっている。「京都観光のメッカ嵯峨嵐山の駅前通り」なのだから、もう少し観光客相手の土産物屋が並んでいるのかと思っていたのだが、普通の田舎の町の駅通りだった。100mくらい歩いたところに「こだわりコーヒーの店」という看板があったので、そこに入った。店内は細長いカウンターがありテーブル席が4つある、コーヒー専門店だった。カウンターには地元のお馴染みさんたちが陣取って、朝の世間話を楽しんでいた。カウンターの中にいるマスターは70歳くらいにはなろうかと思えるお爺さんだった。お馴染みさんたちもマスターの年齢に相応の年配の人が多かった。注文を取りに来たウェイターはちょうど孫くらいの年齢だった。私たちは一番奥のテーブル席に座って、コーヒーを注文した。考えてみると夫婦で朝から喫茶店に入ってコーヒーを飲むということ自体、久しぶりのような気がする。私たち以外は6~7人のお馴染みさんの客ばかりで、阪神タイガーズが4連敗したとか、最近は体調が悪くて病院に行かなければならないとか言うたわいもない世間話で盛り上がっている。そんな会話をバックグラウンドミュージックのように聞きながら、ゆっくりと淹れたてのコーヒーを飲むというのも、なかなかいい気分なのだ。家内は、昔からリタイヤしたら趣味で喫茶店をやりたいという漠然とした夢がある。最近では喫茶店でゆっくり時間を過ごせる環境がどんどんなくなっていて、tetywestの地域でもどんどん喫茶店がなくなっている。実際に経営するのは大変なのだろうが、tetywestもこんな風に朝から集まれる、近所の人たちのコミュニティの場所としての喫茶店があってもいいような気がしている。店の雰囲気も飾り立てているわけではなく、決してお金をかけたインテリアではないのだが、ほのぼのとした暖かさが感じられる。きっとマスターの人柄に惹かれて集まってくるのだろう。コーヒーは確かに美味しかった。記念に入り口にあったマッチをもらった。店の名前は「珈琲専門店ヒロセ」という。トロッコ列車の駅へ引き返すと、もうかなりの人が集まっていた。駅前の広場には本物のSLや、トロッコ列車が展示されていた。駅の裏はガラス温室のミニ植物園になっていて、その中にも屋台形式のお土産物屋さんがあった。バッグや藍染めの暖簾、ハンカチなどを売っている店が多かった。10分前に場内放送があり、トロッコ列車のホームへと向かった。トロッコ列車は指定席で、私たちは5号車4のC、Dだった。しばらくするとトロッコ列車がホームに入って来た。
2002年07月07日
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三十三間堂を出ると、目の前に京都国立博物館があった。雨はまだ降り続いていたので今度はそこに入ることにした。京都国立博物館は赤いレンガ造りの風格のある建物だった。しかし、その建物では展示はもう行われておらず、もう少し奥に建てられた新館が使われていた。ここに何が展示されているのかは例によってまったく知らなかったのだが、特別展は「八坂神社の名宝」だというポスターが市内のあちこちに貼られていたので、ちょっと興味をそそられたのだ。入館料は常設展の420円だけで、特別展は無料で見れるそうなので得をした気分になった。新館の前には噴水があり、その傍には実にさりげなくロダンの「考える人」が置かれている。この彫刻は日本人にはあまりに有名で色々なところで見たような気がするのだが、一体ホンモノは何個あるのだろうと要らぬ詮索をしてしまうtetywestだった。ここ国立博物館に置かれているのは、まさかコピーではないだろう。館内に入り、順路に従って進んでいくと縄文土器、石器のコーナーだった。「さすが国立博物館、これは見に来た人に日本史の復習をやりなさいという仕組みなのか・・・」と思わず身構えてしまった。縄文文化の次は弥生文化のコーナー。吉野ヶ里遺跡で見たような大きな土器の棺桶も展示されていた。そして古墳時代の埴輪へと続いている。この辺は適当に見ていたtetywestなのだが、もう少し進んだところで足が止まってしまった。何とそこには唐三彩の陶器のラクダが展示されていたのだ。地震などで倒れないように、細い糸で固定してあった。tetywestは1997年に香川県で行われた陜西省展で初めて見たときその写実的な造形に感動した思い出がある。日本の陶器の歴史を説明するのにはやはり中国のこの時代の陶器の展示が必要だったのだろうが、まさか京都で再びラクダに出会えるとはまったく予想していなかっただけに嬉しかった。そこから先は主に日本の陶器の歴史が一目でわかるような展示だった。有田焼、伊万里焼、九谷焼、鍋島焼、そして清水焼とそれぞれの特徴がわかるよう工夫された展示だ。おそらく値段がつかないほどの値打ち物ばかりなのだろうが、tetywestにはまさしく「猫に小判」状態だった。ようやくそのコーナーを抜けると、今度は「観音菩薩と地蔵菩薩展」のコーナーがあった。この二つの菩薩は日本人に最も馴染みが深く、愛されている仏像の双璧なのだそうだ。しかし、この分野もtetywestはあまり興味がない。ただそのコーナーの一角に展示されていた閻魔大王はかなりリアルだった。この頃からtetywestも家内もかなり疲れてきた。まだようやく1階を見終わったところで、展示はまだ2階にも続いている。「八坂神社の名宝」の特別展は2階にあった。しかし階段を上がるとまず目に留まったのはソファーだった。情けないことに二人ともソファーを見ると黙ってそこに座り込んでしまった。tetywest 「ふ~、何だか仕事するよりよっぽど疲れるなぁ」家内 「いっぺんにシャガールから雷神・風神から清水焼まで色々なものを詰め込んで、頭の中がごちゃごちゃだわ」tetywest 「今日はかなり歩いたよな?」家内 「どうする?もう帰る?」tetywest 「せっかく来たんだから、ここだけは見て帰ろうよ」と言うようなわけで、「八坂神社の名宝」展を見て回ったのだが、体力が落ちてくると記憶力も落ちてくるものらしい。丸山応挙の襖絵や、戦国時代の大名の花押など、その場その場では「ほ~」とか「すごいね」とかお互いに感想を言い合ったはずなのだがほとんど覚えていない。あまり欲張ってあれもこれもと観光するのは考えものである。
2002年07月06日
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三十三間堂には、運慶の長男の湛慶の作った3メートルはありそうな本尊を含めて1001体の千手観音が収められている。全部顔が違うのだそうだが、とても確認する気にはならない。しかし、規則的に並んだ様子を見ていると、たとえそれが観音様でも何となく軍隊を連想してしまう。tetywestは西安の兵馬踊を思い出してしまった。こちらの方が無機的な表情をしている分だけ、もし動き出しでもしたら兵馬踊より恐いような気がする。千手観音の大集団の一番前には、柱と柱の間に一体ずつ色々なポーズの仏像が置かれている。最初の柱の一段高いところには、歴史の教科書では必ず出てくる「雷神」が髪の毛を逆立てて雲に乗っている。背中に雷の太鼓を背負っているやつだ。実物とは初対面なのだが、なんだか懐かしい気持ちになってしまった。しかし、実際に見るとその躍動感は素晴らしいものだった。廊下の向こうまで、主にこの先頭の仏像を眺めながら手摺に一番近いところを歩いていく。後ろの観音様に比べるといかにも人間くさい。写実的だし、動きがある。観音様は半眼なのに対して目を見開いた仏像も多いのだが、その目玉は光っている。それぞれ強烈な個性を発揮していて、まるで観音様の部隊を統率する小隊長みたいだった。全部で28体あるのだそうだが、それすらとても全部は思い出せない。廊下の最後には「雷神」と対になる「風神」があった。それを見た時、まず「風邪に改源」を思い出すのはtetywestだけだろうか。途中まで歩いて、ふと気付いたことがある。tetywestは三十三間堂は本堂の長さが33間(昔の1間は約2mだから66m)あるからそう呼ばれているのだろうと思っていた。ところが、本堂の端までは100mは超えているように見える。よく見ると柱と柱の間隔は1間よりずっと広い。4mはありそうだ。説明文を読むと「正面の柱間が33あるところからそう呼ばれるようになったのだそうだ。本堂の長さは120メートルもあるので、tetywestの発想では「六十六間堂」になってしまう。しかし、それがわかると今度は「通し矢」の認識も改めなくてはいけない。通し矢とは本堂の軒の下を通す競技だから、放物線を描いて矢を遠くに飛ばす訳にはいかない。ほぼ真っ直ぐ120mの距離を飛ばさなくてはならないのだ。tetywestも地元の神社の百手(ももて)祭で弓を引いたことはあるのだが、真っ直ぐに飛ぶのはせいぜい30mくらいのものだ。観音様の後ろの通路には実際に通し矢に使われた弓が展示されていたが、とてもtetywestの力では引けそうもないくらい太くて強そうな弓だった。奉納された絵馬には「通し矢8000本」などという途方もない数字が書かれていた。全国から選りすぐりのつわもの達の競技だったのだろうが、それにしても人間業とは思えない。通路には地震に強い三十三間堂の建築構造という展示もあった。お堂の柱は地形石の上に載っているために地震のゆれが直接伝わらない。また、柱と桁や母屋(もや)を接続する部分でも振動を吸収できるようになっている。さらに、壁の中は柱に板を差し込んで重ね上げた構造になっているので、そこでも揺れを吸収する。いわゆる和様建築の耐震構造は平安時代に出来上がっていたというわけだ。この三十三間堂は鎌倉時代に火災から復興して700年以上地震に耐えているのだから説得力がある。ちなみにtetywestの家も和様建築なのだが、まだ三十三間堂の10分の1しか説得力がない。
2002年07月05日
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実のところ、tetywestは三十三間堂に特別な思い入れがあったわけではない。学生時代に同級生の姉さんが弓道をやっていて、三十三間堂での催しに参加したことがあったので成人の日に通し矢が行われるというのは昔から知っていた。どうして行くことになったかというと、清水寺のバス停から近かったことと、建物が結構長そうなので雨に濡れなくていいかなと思ったからだった。「三十三間堂」というバス停でバスを降りるとすぐ前の土色の壁に大きな「国宝・三十三間堂」と書かれた看板がかかっていた。これなら、誰も迷わないだろう。入館料は600円だった。結構高いなぁと思いながら、寺に入ると靴を脱ぐようになっている。傘はビニール袋に入れて持ち歩かなくてはいけなかった。廊下を通って本堂へと歩いていく。本堂に入るとすぐに右手に長い廊下が伸びている。ゆうに100mはありそうだった。順路に従ってそこを通り過ぎ、突き当たって右に曲がった瞬間、思わず「なんじゃこりゃ」と声が出てしまった。家内の他には付近に誰もいないのがわかっていたからなのだが・・・本堂のこちら側も同じように長い廊下が伸びている。しかし、廊下の内側はステージ状に奥に行くほど高くなる階段になっていて、そこにずらっと仏像が並んで立っているのだ。どの仏像も金色に塗られていて、同じポーズで合掌をしている。いやいや、正確には千手観音なので、手は30本くらいあるのだ。それぞれの手には槍を持ったりさまざまな仏具を持っていて頭の後ろには後光までさしている。今でこそ金箔が剥げているし、金の色もくすんでいるが、完成当時はキラキラと輝いていただろうから、これを見たら誰でもすぐ極楽へ行けるような気持ちになったことだろう。これだけの仏像を一ヶ所に集める権力者は誰だったのだろうという興味が湧いてきた。入場券と一緒にくれた説明文を読むと、後白川上皇に平清盛が寄進したのだそうだ。なるほど、この二人のコンビならと納得したtetywestだった。※インターネットで調べてみると面白い話が見つかりました。三十三間堂は後白河法皇の頭痛平癒のために建てられた。第77代天皇。名は雅仁。久寿二年即位。保元三年譲位し、仏教に深く帰依するかたわら、天皇五代にわたる34年の間、院政を行ない、術策を用いて朝廷の威信保持に努めました。 後白河法皇は持病の頭痛に悩まされていました。 法皇がお堂に籠もって祈っていると、一人の僧が現れ、「法皇の前世は熊野修験で、その前世のドクロが紀州の岩田川の川底に残っていて、それが法皇の頭痛の原因だ」と告げました。 調べさせると、そのとおりドクロを発見しました。 1164年、頭痛平癒のために平清盛に命じて自分の離宮に三十三間堂(正式には蓮華王院)を造らせ、本尊として十一面観音をつくってドクロを封じ込めさせたのです。 ご本尊の霊力により、正月の初水を七日間ご祈祷し、霊木とされる柳の枝で、この法水を参拝者に灌いでお加持する法要を「柳のお加持」といい、後白河上皇の頭痛平癒にあやかる霊験あらたかな行事です。 http://homepage2.nifty.com/uoh/kyouyou/nihonshi.htm#後白河法皇tetywestはこの手の逸話が大好きです。吉川英治の「新・平家物語」も読みたくなったぞ。宮本武蔵もまだ読んでないのに・・・
2002年07月04日
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清水寺を出ると、さっき登って来た参道だと思ってしばらく歩いていたのだが、何か様子がおかしい。確か修学旅行生で混雑していたし、あったはずのバスの駐車場も見当たらない。思わず「あれ~、何か変だぞ~」と声に出てしまった。すると白人の男性と一緒に前を歩いていた日本人のお嬢さんが振り返って、「一本違う道ですけれど、心配ありません。同じ所へ降りますよ」と親切に教えてくれたので、そのまま行くことにした。そこは「ちゃわん坂」というらしい。いろいろな店にそう書いてある。他にはほとんど誰も歩いていない。どこにでも売っているような観光土産をいっぱい並べた店ではなくて、陶器や、八つ橋、染物など、それぞれ専門に扱っている落ち着いた感じの店が多い。藍染めの店もあって、オシャレな暖簾を飾ってあった。家内はあっちこっちの店を覗いていたが、tetywestはその間は外で待っていた。しばらく坂を下ると、人力車の車夫の格好をしたお兄ちゃんに呼び止められた。今からどこへ行くのかと訊かれたので、思いつきで三十三間堂へ行くと答えた。すると、その前に人力車に乗って、この付近を散策しませんかと誘う。tetywestはまったくその気がないので、かなりそっけなく断ったのだが、向こうもかなりしつこい。とっておきの石畳の路地があるとか、人力車には二人で乗れるとか、30分くらいしかかからないからとか、一緒に付いて歩きながら色々と話しかけてくる。tetywestが相手にしないのがわかると今度は家内に話し掛けている。当然家内も断ったのだが、東大路へ出るまでに3人の人力車に声をかけられた。3人目などは「ここが最後のチャンスですよ」と言っていたが、本当にそれが決め台詞だと思っているのだろうか。一言勧誘するのは許せるが、こちらが明らかに乗る気がない態度を見せた場合はアッサリと引き下がるのがマナーというものだろう。せっかくの京都のイメージが観光人力車のために悪くなるのは何とも残念だ。坂を下りるまでにわかったことが一つだけある。京都といえば陶芸の世界では清水焼なのだ。そしてここは清水寺の参道、その名も「ちゃわん坂」。そういえば陶芸ギャラリーのような店も、陶器の卸屋さんのような店もある。値札をつけてショーウィンドーに飾られている皿などは、興味がある人にとってはたまらない品物なのだろうが、tetywestは「ゼロが1個多いんじゃないの?」くらいの感想しか思いつかなかった。バス停まで下りて来る間に、次の目的地は口から出まかせの三十三間堂に決まった。二人とも行くのは初めてだった。
2002年07月03日
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鐘楼、随求堂、経堂、三重塔を見ながら登って行くと舞台の手前に轟門が見えるところまでやってきた。ここに入場券売り場があって、清水の舞台へ入るために400円(だったと思うのだが・・・)を支払うようになっている。回廊を進むと舞台の手前に米俵の上に立っている大きな大黒様の彫刻があった。商売繁盛の神様だと書いてある。しかし、ここまで来れば、やっぱり一刻も早く舞台へ行きたくなってしまう。大黒様がどんな顔だったのか十分チェックする前に気持ちは舞台へと飛んでいて、不覚にもはっきり思い出せない。清水の舞台はさすがに記憶に残っていたままだった。しかし、床板は定期的に張り替えるのだろう。まだ木肌の茶色が残っているくらい新しかった。今度気づいたのだが、清水の舞台は前方へ少し傾斜している。手摺があるから、一番前まで行って下を覗き込んでも恐くはないが、確かに高い。ちょうど修学旅行の生徒達と一緒になったので舞台の上は大混雑だった。舞台から見ると、左手はすぐ間近に迫った山。正面は山。右手も木々に囲まれた山がなだらかに下っていて、その向こうにようやく京都の市街地が広がっている。実際は東大路のバス停から10分ほどしか歩いていないのにずいぶん深山のような雰囲気なのだ。これが「京都マジック」なのかも知れない。本堂には本尊の千手観音、その両脇に地蔵菩薩と毘沙門天の仏像が置かれている。しかし、清水寺では舞台の上に登るという感激が大きくて、仏像の顔をしっかりと見る観光客は少ないだろう。これはtetywestが見ていない言い訳なのだが・・・舞台から左手には谷を挟んで奥の院があり、そこにも見晴らせる場所がある。舞台に上がった時からそれが気になっていて、tetywestは家内を舞台に残してそちらへ回って行った。家内が写っている清水の舞台を写真に撮りたかったからなのだが、実際に奥の院の前まで来て見ると望遠レンズを装着したカメラでない限り遠すぎてとても無理だとわかった。しかし、そこからのアングルは抜群で、清水の舞台の足場になっている太い柱も見える。デジカメで精一杯ズームをかけて撮った写真が↓の写真だ。家内も写っているのだが、小さすぎて判別は難しいだろう。 奥の院から音羽の滝へは普通は舞台の傍にある石段を降りるのだが、なだらかな散歩道があったので、そちらへ向かった。山には桜の若木をたくさん植林してあった。歩道の周りは大きなモミジの木で覆われている。そして、その木陰には色とりどりのアジサイが満開だった。アジサイは何と雨によく似合う花なのだろう。音羽の滝は、まだ修学旅行の生徒で大混雑だった。めいめいが柄の長い杓を持ってキャーキャーと騒ぎながらお堂の屋根の上から延びた石の水路から落ちる水を汲んで飲んでいる。確か、美人、賢くなる、長寿の水だったと思うのだが、これを「滝」と名付けるのもどうかと思う。どちらかというとソーメンでも流れてくるのがお似合いのシチュエーションだった。もう少し歩いて舞台の真下に来た時、家内に「昔はここから舞台の足場が見えてなかった?」と訊かれたので、舞台の方を見上げてみた。確かにあいまいな記憶ながら昔は足場が見えたような気がしたのだが、実際は茂った木々に隠れて見ることは出来なかった。「昔より、木が大きくなったからだろう。よく見るとこの木も歩道の邪魔になる枝を切った跡がある」と言うと、「それにしても、見える風景が変わるほど二人とも歳をとったということか。あ~あ」と家内。「もうこの場所から足場を見れないのなら、我々は貴重な経験の持ち主でもあるわけだ」と応えたのだが、慰めになったかどうかは甚だ疑問が残る。
2002年07月02日
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平安神宮から歩いて東大路まで出て、さあこれからどこへ行こうかと家内と相談する。一番近いのは清水寺だった。清水寺は二人とも独身時代に別々に行ったことがあった。何しろ古い話なのでtetywestは清水の舞台だけは記憶にあるのだが、それ以外はまったく覚えていない。家内も同じだと言うので、それでは清水寺へ行こうと言うことになった。バス停で市バスに乗り込む。京都の市バスは1日乗り放題のチケットがあり、500円で何回でもバスに乗れる。1回の運賃が220円なので、3回乗れば元が取れる。今日は当然二人ともこのチケットを買っている。停留所ごとにどの系統が止まるかが書いてあって、その先どこに向かうかもわかりやすい。それに主な停留所ではバスが今どの辺を走っているかまで教えてくれる。これなら、初めて京都に来た観光客でも気軽な移動手段として使えるので大変便利だ。最近の中・高生の修学旅行は4~5人のグループになって自由行動をするようで、京都の観光マップを持った制服のグループがバスに乗っているのを、この日だけでなくしょっちゅう見かけた。「清水道」で下車すると、案内板があった。清水寺までは500メートルほどの登り坂だった。ちょうど昼食の時間だったので、バス停のすぐ近くの坂道にあった小さなお店に入ることにした。そこはどちらかというと喫茶店っぽい店で、客が20人くらいで一杯になるくらいの大きさだった。残念ながら店の名前は思い出せない。手作りケーキが売り物のようだったが、ランチメニューもあった。若い夫婦だけでやっていて、細長い店の一番奥が厨房になっている。夫の方が料理の担当だった。家内はエビ入りカレー、tetywestはプレーンオムライスのランチメニューを注文した。まずスープとサラダが出て、次にオムライスが来た。外観はオムライスで、ケチャップの代わりにビーフを煮込んだソースがかかっている。食べてみると中身にもケチャップは使っていなくて、ご飯と卵だけだった。わかりやすく言うと卵かけ御飯をオムレツで包んだようなもので、ふわっとした食感が意外だった。後から隣に座った、お客さんの京都案内をしているサラリーマン風の4人組の話が聞こえてきたのだが、このプレーンオムライスはこの店のオリジナルのようで、地元の人が盛んにおいしいと薦めていた。食後のコーヒーを含めてお値段は1000円だった。美味しかったけど、卵かけ御飯が1000円じゃ田舎者のtetywestにとってはちょっと高いかなと感じた。家内のカレーも美味しかったそうだが、これも980円。京都の観光地の近くは食べものの値段が高いのかもしれない。清水寺へは参道より一本北の道を登っていたようで、人通りも少なく普通の民家が続いていた。しかし、お寺に近づくにつれてお土産物屋さんが多くなり、人出も多くて傘と傘がぶつかるほどの混雑だった。バスの駐車場からは旗を持ったガイドさんに案内された修学旅行の小学生が団体で降りてきて清水寺の方へ歩いていた。その後に続いて行くと、水色のシートを張って周りに足場を組んだ建物があった。仁王門の修理中なのだそうだ。仁王門の横に石段があり、それを登って清水の舞台へと向かうのだが、二人とも全然覚えていなかった。
2002年07月01日
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