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ダンボール紙のライナーを貼り付けるのはコーンスターチを使っているのだそうだ。融点を下げるために薬品を混ぜて58度で液体化させている。しかし、機械のラインじゅうにこの糊が巡っているのだから夏に作業をするのは相当暑いだろう。工場長の説明では夏場の室内温度は40度を越えるそうだ。どこからともなく「これやったら、山でミカンの摘果をしよるほうがずっと楽やで」という声が漏れていた。この機械は現在1800ミリの幅までの原紙が扱えるが、パーツを交換すれば2000ミリまでは拡幅可能とのことだった。原紙は造られるダンボール紙の大きさによってできるだけロスの少ない幅のものを使うわけだが、それでもどうしてもカットした時に余りが出る。それは再生工場へ売るのだそうだ。印刷・製箱工程では、機械の回転数によって印刷のムラが出来ないようにすることと、バーコードのような細い線までくっきりと印刷できることが、ロスを少なくする最大のポイントなのだそうだ。そのためにはインクをドラムから切り取る工程に最新鋭の技術を導入したり、ダンボール紙を造る工程でできるだけ原紙の表面を凹ませないような技術が導入されているという。印刷機は1つのラインに2系統あり、一方を使っている間に、もう一方に次の印判をセットできるようになっていた。印判はプラスチックフィルムの上に樹脂製の版を貼り付けて作成してある。基本的に3色までの印刷に対応している。印刷機の隅のコーナーにはそれこそ何千という印判が吊り下げられていた。この中には私達のミカン箱に使うものもあるのだろうが、多すぎて探す気にはならなかった。ただ、棚に並んでいるインクの中には私達のミカン箱専用の赤色を見つけることができた。ダンボール箱の大きさによっては、この機械では対応出来ないものもある。そんな製品を造るときには少し離れたところに設置されている別の機械を使う。そこではダンボール紙をセットするのも、出来上がった製品を積み重ねるのも手作業でやっている。大きなダンボール板を手作業で扱うのは相当重労働だろう。この工場の現場で働いているのは40人だそうだが、その仕事ぶりはまるでチャップリンの「モダンタイムズ」を見ているようだ。機械に使われているという表現がまさしくぴったり。マイペースで仕事をするのに慣れきった農家ではきっと半日ももたないだろう。最近では、たとえば缶ビールの外箱などはそのままディスプレーに使われることも多くなって、よりきれいな印刷を要求されるようになっている。ダンボール紙に印刷する方法では線の太さにどうしても限界があるために、先に原紙に印刷をしておいて、それをダンボール紙に加工する方法もとられるようになってきたのだそうだ。今までの「たかがダンボール箱、中身を運搬するための容器じゃないか」という認識ではもはや時代遅れになりつつあるのかと、改めて企業の厳しい競争の現実を垣間見たような気がした。この会社では副業に給食センターを経営しており、配達の終わった配送車が何台も帰ってきていた。こちらの経営も、企業のリストラが進む中で需要は減りつづけているそうで、最近では保育所や小学校、老人ホームなどの新たな需要開拓へと方向転換しているのだそうだ。100年続く会社は全体の3%だと何かの本で読んだことがあるが、確かに時代の変化はめまぐるしい。それに対応していくためには常に新しい発想と経営努力が必要なんだと、わが身を反省した工場見学だった。
2002年03月31日
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ガイドさんの「カンニング岡山観光案内」を聞きながら、裸祭りで有名な西大寺の付近を通ってバスは国道2号線との交差点に差しかかった。次の研修地はもう近いそうだ。交差点には「宍甘」の看板がかかっている。その下の「shishigai」という表記がなかったら誰も読めない地名だ。交差点を右折して500メートルほど走ると、バスは停止した。てっきり右折するものと思っていたら、バックして左手の門の中に入った。工場の入り口がわかりにくかったので通り過ぎたのだ。二つ目の研修会社は「(株)キョードー」。宍甘と同じく、誰もダンボール工場とは想像できない社名だ。建物はこれもかなり古い。福祉会館に案内されて説明を受ける。この会社は昭和36年に東岡山工業団地が出来たときからここで創業している。新幹線と国道2号線に挟まれ、山陽本線と赤穂線の分岐する東岡山駅のすぐ東にあり、交通の便はとてもよいところだ。福祉会館とは、そのとき一緒に入った数社の企業がみんなで使用する目的で建てられた施設だが、今はほとんど利用されていないそうだ。パネルを使って製造部長が機械の配置と機能を説明してくれた。この会社では原紙からダンボール紙を造り、ダンボール紙から印刷・製箱という一貫生産体制をとっている。工場は大きく4つの部分に分かれていて、原料保管区、ダンボール紙製造区、印刷・製箱区、製品保管区となっている。印刷・製箱区は製品の大きさや原料のダンボール紙の厚さによって使用する機械が違うので、8ヶ所に分散している。一番使用頻度の高い4種類の機械はダンボール紙製造区の隣に配置されていた。製造部長の説明によると、建物は古いが機械は最新鋭なのだそうだ。特に印刷・製箱の機械は今年1月に最新鋭機を導入し、3月からは今までの2交替を止めて、通常の8時間勤務体制に移行したそうだ。機械にお金をかけても人件費をできるだけ節約して合理化を進めていかなくては競争に勝てないという。工場長の「利益はそれこそ一枚何銭の世界ですから」という言葉は確かに真実味がある。ここでもISO9002の取得工場であることが強調されていた。製造業が日本国内で生き残るためにはこのような基準をクリアするのが常識となっているのだろう。工場の中はものすごい騒音だった。90ホーンは下らないのだと言う工場長の説明も聞き取りにくい。ここの従業員の必須アイテムは耳栓かもしれない。ダンボール紙製造ラインでは、ロール状に巻かれた原紙が送り込まれると、それを波状に整形し、芯の原紙と貼り合せて、決まったサイズに幅と長さがカットされて板状のダンボール紙が出来上がってくる。このラインの長さが50mはある。ダンボールの断面は普通波状の紙を芯と外側の紙でサンドイッチにした形をしている。波状にも2種類あって、厚みがあるほうをAライナー、厚みが薄い方をBライナーと呼ぶ。構造はライナーが一重のものをシングル。二重になっているものをダブルと呼ぶ。同じ構造でも使用目的によって原紙の種類はそれこそ千差万別。原紙の重量が重いものを使えば、それだけ出来上がった箱も丈夫なものになる。国内で使われているダンボール箱のなかで一番丈夫なのは、実は農薬を入れる箱なのだ。これは、箱に入れたまま使用期限まで保管できるという条件をクリアしなければならないからだそうだ。ミカンの箱も農薬の箱に次ぐくらい丈夫な材料で造られている。
2002年03月30日
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工場見学が終わると再び研修センターへ引き返す。テーブルの上には幕の内弁当が用意されていた。それを食べながら質疑応答になる。問い 「クレイとは粘土のことですか?」答え 「農薬と化学反応を起こさないケイ酸塩鉱物が主な材料です。ベンレート(防腐剤)のようにグラニュー糖をクレイとして使ったものもあります」問い 「農薬の登録は何年くらいかかりますか?」答え 「最近では安全性の審査も厳しいので、開発してから登録するまでに最低10年はかかります」問い 「乳剤や水和剤はこの工場では作ってないんですか」答え 「それらは新潟工場で作っています。ここは粉剤と粒剤だけです」問い 「工場の従業員はどれくらいいますか?」答え 「200人くらいです。ファインケミカルの方は24時間3交替で動いていますから、実際には今は4分の1の人数しか工場内にはいません」問い 「大卒の初任給はいくらですか?」答え 「・・・確か20万円は行ってないと思います。ボーナスは・・・一応あります」いい機会なので、会社に対する要望があればどうぞと言うことだった。「今ある防腐剤は薬害が出て使いにくいので、ぜひ新しい防腐剤を開発していただきたいです」「御社の除草剤は値段が高すぎます。今はグリフォサート系が世界標準になっていて、その価格が1000円を切っているのですから、いくら効果が高いからといって2倍以上コストのかかる除草剤は誰も使いません。価格設定をする時にそのへんも考慮願いたいものです」「抵抗性が出来て効かなくなったダニ剤は、どうせ売れないのなら値段をさげて欲しいです。もし安ければ少々効きが悪くても使おうかという気になるかもしれません(笑)」「今は農家の負担になっている農薬容器の回収費は、本来メーカーが責任を持つべきではないでしょうか」「農薬の残留毒性について、一般的な使用環境で何日で安全な基準になるのかというデータをメーカー側が提示していただきたいです。今の時代に生産者だけでなく、消費者にもわかる形で日本で使用されている農薬の安全性をアピールするのは農薬会社の仕事だと思います」昼食をご馳走になりながら、しかもお土産に会社名の入ったシャーボと腰に提げるジーンズ生地の袋をもらいながら、私達も結構きついことを言うものだ。工場長と販売担当者は熱心にメモを取ってはいたが、はたしてどこまで私達の要望が聞き入れられるのだろう?工場長と販売担当者の最敬礼に見送られながら工場を後にしたのは12時半だった。
2002年03月29日
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最初の研修は「北興化学工業(株)」で、市街地から離れた海の近くの玉野市胸上(むねあげ)にある。「バストアップ」とは、一度聞いたら忘れられない地名だ。バスを降りると研修センターに案内され、ノートパソコンとプロジェクターを使って会社の説明を受ける。会社名の由来は、最初に北海道ルベシベ(漢字はわかりません)で立ち上げたことから来ているそうだ。農薬会社では大手メーカーで、ミカン農家もこの会社の殺菌剤や殺虫剤、防腐剤などを使っている。北海道と新潟と岡山に工場があり、富山と静岡に実験農場、静岡に研究所がある。岡山工場は農薬部門とファインケミカル部門があり、農薬部門では粉剤と粒剤を造っている。ファインケミカル部門では化学原料の中間体や合成香料(安い石鹸やシャンプーの香りはほとんどこれ)を造っているそうだ。工場長の説明ではISO9002とISO14001を取得した工場であることが特に強調されていた。説明が終わると工場を見学する。化学工場らしく建物の間には銀色や赤色のパイプが何本も走っている。赤色のパイプは消化用で、一ヶ所のバルブで工場全体に水が出るようになっているそうだ。化学消防車も車庫の中に待機していた。この工場は昭和28年岡山県の工場誘致条例の第一号として建てられたのだそうで、建物は相当古い。その前はレンガ会社だったのだそうだが、当時の木造の建物がそのまま事務所として使われていた。今になると却ってレトロな感じで趣がある。最初に案内されたのは、一番奥にある港だった。昔は原料や製品を船で運搬していたそうだが、今は使われていない。レジャーボートが係留されている。この港は岡山県が管理しているので、レジャーボートの所有者もこの工場の従業員ではないのだそうだ。海の向こう側は香川県で、正面に産廃問題で有名になった豊島が見えた。産廃の有害物質が雨で流れ出すのを防ぐために白いシートが張られている。その左手は小豆島で、ここから見ると小豆島も大きいものだ。農薬の工場は意外に閑散としていた。製造工程は農薬の原体(成分)とクレイと呼ばれる増量剤を混ぜて、500g、1kg、5kgなどの袋に詰めるだけの単純なものだ。ちょうど水田用の除草剤の製造中だった。機械はどんな大きさの袋にも対応しているし、袋はロボットアームが自動的に箱詰めしていく。出来上がった箱はパレタイザーによってこれも自動的にパレットの上に積み上げられていく。従業員は機械が順調に動いているのをチェックする程度だ。ここでの従業員の必須アイテムはマスクだろう。出来上がったパレットはフォークリフトによって製品保管庫へ運ばれていく。除草剤の製造が終われば、3日かけて機械の洗浄を行い、次の農薬の製造にかかるのだそうだ。そこを出て、次に工場長が自慢そうに説明したのは浄化装置だった。工場の全部の排水は浄化装置に集められ、きれいになった排水が海に流れていくのだと言う。これを聞いたK君が質問する。「排水はええけど底に残ったもんはどうするんやろか」「それは、専門業者に引き取って処理してもらいます」「ほんだら、専門業者は、それをどこに捨てるんやろかなぁ」これには工場長も返答に困っていた。こういう工場の場合、沈殿物に重金属が含まれている可能性は高いだろう。※午後から出かけます。帰ってくるのは29日夜の予定です。BBSの返事は帰ってからになりますけど、よろしくね。
2002年03月27日
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昨日しっかり養生した甲斐あって、tetywestも何とかこのバスに乗っている。しかし、ジャケットの下にはセーター、ズボンの下にはタイツという念の入った重装備だ。バスが高速道路に入ると、部会長挨拶になる。tetywestの出番だ。「おはようございます」から始まって「今回の研修が有意義なものになりますように、また明後日からの農作業のための活力になりますように、二日間よろしくお願いします」で締めくくった。さっそく最後尾に座っていたS君(中国農業研修旅行前半にも登場)から「お~い『わたくし、ここで一曲歌わせていただきます』がないやないか~」と野次が飛んできた。挨拶が終わると、職員がみんなに缶ビールとおつまみのパックを配りはじめる。酒の飲めないtetywestにはポンジュースが用意されていた。最近のバスは酒の燗ができる装置まで付いているので、一升瓶に入った日本酒を全部入れて燗を始める。しかし、研修が終わるまでは暗黙の自主規制でみんな缶ビール一本程度しか酒は飲まない。今回のガイドさんはキャリア3年目の若いお嬢さんだった。tetywestは旅行の責任者なのでガイドさんに一番近い席(最前列右側)に座っている。瀬戸大橋を渡るときに南備讃瀬戸大橋のやけに詳しい数字をすらすらとしゃべるものだと感心してよく見たら、左手の台の上にカンニングペーパーを置いてそれを朗読しているだけだった。瀬戸大橋をわたると鴻池サービスエリアでトイレ休憩のために停車した。ガイドさんが「お茶がまけた(こぼれたという意味)」と言っていたので、「香川県の人?」と訊くと、何と同じ郡内の○本町だという。胸のネームプレートを見ると、○本町に住んでいるtetywestの同級生と同じ苗字だった。「家の仕事は鋳物屋さんなの?」「昔は鍛冶屋をやっていたんですけど、今は違います」「それじゃ、『○○鋳造』って知ってる?同級生なんやけど」「ああ、▽▽さんですか~(笑)。すぐ近所ですよ」▽▽よ、近所の娘さんに笑いと共に思い出されるオマエはいったい何者なんや・・・○本町と聞いて、いつの間にかK君も隣にやってきた。K君は○本町から養子に来ているのだ。ここで同級生から聞いた○本町の鋳物の歴史についてひとしきり話すtetywest。昔▽▽の先祖は近江の国に住んでいたのだが、江戸時代よりずっと前に讃岐の豪族に頼まれて、鋳物の技術と共にこの地方に移住してきた。今で言う企業誘致みたいなものだったのだろう。それから代々▽▽の家系は鋳物屋を営んでいる。確か14代目くらいにはなるはずだ。ガイドのお嬢さんもtetywestの詳しい説明にビックリしていたが、偶然にも昨夜お父さんから「これ見とけや」と家系図を見せられたのだそうだ。それには▽▽の名前も書かれてあり、その一族では本家筋に当たるらしい。遠くさかのぼれば何とか天皇にまでたどり着くのだそうだが、そのへんになると怪しい気もする。三人で内輪の話が盛り上がっているうちにバスは高速道路を下り、国道2号線を走っていた。
2002年03月26日
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果樹部会というのはJAへミカンを出荷している町内の農家の組織である。月1回程度の役員会(出荷の季節には2~3回)、総会、生産者大会、市場への販売促進、品種ごとの品質調査、各季節の栽培講習会(剪定や摘果、家庭選別など)、肥料や農薬の注文、地元のミカン栽培の先駆者をお祭りする感謝祭など、結構忙しい。しかもほとんど無報酬なのだ。「ほとんど」というのは、一応平役員で1万円、部長は3万円、部会長は5万円の年俸がある。役員は全部で15名、各地区から選ばれた代表者で構成されている。その代わりと言っては何だが、果樹部会の予算の中には「役員研修費」という項目がある。実際は研修半分・慰安旅行半分の旅行に使ってもかまわない経費なのだ。今回の旅行は、この「役員研修旅行」というわけだ。「役員研修旅行」は毎年どこかへ出かけるわけだが、実際に具体的な計画を立てるのは年が明けてからになる。まず、三役と事務局担当職員が相談して、候補地を2個所くらいに絞り込む。ただし、いくら予算があるからと言ってそのまま全部使うわけにもいかない。特に今年はミカンの値段がめちゃ安だったので、役員だけが旅行に予算どおりのお金を使うと組合員からの突き上げは必至である。そこで、今年は近場へ行こうということになった。一応「研修旅行」なので、候補地を決める際には行った先に研修するべきものがあることが第一条件になる。今年の場合、愛媛県と広島県が候補に上がった。愛媛県なら南予か越智郡の島嶼部で、広島県なら蒲刈郡あたりの島嶼部で研修するものがある。しかし、そうすると今度はどこに宿泊するかが問題となった。去年の研修旅行は市場研修だったので宿泊は東京のシティ・ホテルだった。tetywestは誰にも遠慮しなくていいホテルの個室は好きなのだが、役員の年齢層は40代~60代と広い。「やっぱり、温泉がええ」という意見も根強いものがある。2年続けてシティ・ホテルと言うわけにもいかず、今年は温泉で宴会という意見に傾いた。となると、広島県には適当な温泉がない。結局愛媛に決まりか?しかし、道後温泉ではあまりに新鮮味がないしなぁ・・・暗礁に乗り上げたところに、事務局から提案があった。「うちが取引しよる農薬会社が岡山にあって、ぜひ工場見学に来てくれ言よんやけど」「そりゃええ。岡山やったら予算もかからんとゆっくりと行ける」「それに、湯原や湯郷に温泉もあるしな」「こんな機会でもなかったら、岡山へ行くことはないやろし」一も二もなく三役はこの案に飛びついた。農薬会社だけでは時間が余りすぎるので、ミカンの箱を造っているダンボール会社へも行こうということに決まった。2月12日の役員会に提出した案は結局これだけだったのだが、役員からの反対もなかった。日程はできるだけ多くの参加が可能な3月11日~12日と決まった。研修先との連絡は事務局に一任する。旅行費は宴会費を別にしても概ね50万円程度だが、予算が執行できるのは35万円。足りない分は参加者の自己負担となる。※tetywestの中国ネタは尽きましたが、この旅行も「中国地方」ということでご容赦ください。・・・・・なんちゅうコジツケやろ(汗)
2002年03月25日
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2002年3月11日。バスは8時に出張所前を出発した。乗っているのはJA香川県○○町支店果樹部会の役員12名。支部と支店と出張所の担当職員3名。選果場の職員2名の合計17名。後部座席がラウンジになったフルサイズの大型バスなので、1人が2席分占領してもまだゆとりがある。それにガイドさん付きという豪華版だ。「農協さん」といえば、そこらじゅうでバカな豪華旅行をしでかし世間のひんしゅくを買っている。たしか星新一の小説に「農協さん月へ行く」なんてのもあったような・・・。※shilfy1さんから掲示板で突っ込まれました(汗)。ホントは筒井康孝の「農協、月へ行く」でした。しかし両方とも間違えているtetywestの記憶力って・・・・この程度です(笑)tetywestは農家なので年に何回かはこういう旅行に参加する機会がある。今回はあえて、その「農協さんの旅」の実態に迫ってみようと思う。(でも、今は「農協」って言わないんですよ。「JA・ジェイエイ」です)実はtetywest、この旅行に参加できるかどうか、行く前からちょっと問題を抱えていた。ちょうど家族が順番に風邪をひいて、家中が咳き込んでいたのだ。tetywestも熱こそなかったものの喉はイガイガするし、手足の関節はだるかった。風邪をひく一歩手前の状態だったのだ。そんな旅行の前日の朝、突然部会長から電話がかかってきた。部会長 「もしもし、実は昨夜○○さんが亡しになってな。ワシも親戚代表でどうしても抜けるわけにはいかんのよ。」tetywest 「それは、また急なことで・・・ご愁傷さまです」部会長 「それで、明日の旅行には行けんようになったきん、まあよろしく頼まい」tetywest 「・・・そういうことなら、しょうがないです。できるだけやらしてもらいます」tetywestは副部会長兼生産部長をやっている。部会長と副部会長が同時に欠席するわけにもいかないだろう。「副部会長は、部会長事故あるときはこれに代わり・・・」と規約に謳われているのだから、今回の旅行の責任者はこの時点でtetywestということになってしまった。電話を切ったあと、すぐに布団にもぐりこんでひたすら体力回復に努めるtetywestだった。
2002年03月24日
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研修報告(17)まとめ その2青果物の流通に関しては、産地としての大量生産体制はできているが、大量消費への対応はまだまだ遅れている。流通の中心は個人の商人であり、特に柑橘においては、共撰場を持っている産地はない。市場流通も日本の卸売り市場のようなセリ形式の価格決定方式ではなく、個人対個人の相対方式である。産地へ商人のトラックが来て、生産者はその商人と価格を交渉して、自分のみかんを売る。そして、商人はそれを都市へ運び、自分で作った段ボール箱、又はネットに入れ直して自由市場で販売する。都市の小売商はそこへ仕入れに来て、相対で価格を決め、それを消費者に販売するという経路が一般的である。日本の卸売市場においてはスーパーへの対応がかなりの割合を占めているのに比べれば、約40年遅れているだろう。品質による価格差も極めて少なく、農業関係の指導者は品質の向上をスローガンに掲げてはいるが、農家はまだまだ品質より量をたくさん取ったほうが、現実にはお金がたくさん儲かっている。このギャップを埋めるのにもかなりの時間が必要だと感じた。中国の農業問題を考えるときに、それは結局農村人口の多さに帰結する。日本でも戦後は農業人口が全体の50%以上だったが、中国は今でも70%以上である。これを先進国並みに減少させることは、容易なことではない。一人当たりの耕作面積が小さいことが、農業所得の向上、農産物の高品質化の最大の障害であるということは、いろいろな所で聞かされた。国によって、発展の方向が若干違うことはあても、基本的には中国は今後農業人口を減らす政策をすすめるだろう。その結果が現れるのは、おそらく農業人口が50%を切った時点ではないかと考える。それまでは、いろいろな脅威があっても根本的に日本の柑橘に打撃を与えるような影響はないだろうと思う。もう一つ特筆しておきたいのは、中国の地方の指導者が大変若いということである。市、県の農業局長は40歳前後、副局長クラスは30歳~35歳である。市長、県長でも50歳以上の人は少ない。彼等は中国の発展を信じていて、その若さと情熱を持って積極的に現場で改革を実行している。このような人材の登用は日本では明治初期に行われており、その時の日本の発展もめざましいものがあった事を考えれば、中国は今後日本で想像するよりもはるかに急速に発展すると感じた。1991年の鄧小平のスローガン「発展才硬道理」は中国のどこでも大きく掲げられていた。これで「中国農業研修旅行日記」は全部終わりです。長い間懲りずに読んでくださった皆さん、本当にありがとうございました。m(__)m
2002年03月23日
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研修報告(16)まとめ その1今回の研修旅行を振り返って、まず第一に苟氏、劉氏のおかげで、普通の視察旅行ではとてもできないほどの内容の濃い研修ができたことを感謝したい。北京や上海の研修と西安、衢州の研修の内容を比較してみれば、現地の事情に精通した案内人がいることは、どんな事にもまして大切なことだと感じた。また、研修旅行メンバーも両氏及び現地でお世話をしてくださった方々の誠意にこたえるべく、視察中はスーツにネクタイと、普段はやったことのない正装で臨み、真剣に説明を聞いて、適切な質問ができたことはよかったと思う。中国は広い国である。今回の旅行では中国国内を5000㎞近く移動したことになるが、気候条件も経済状態も北と南ではかなり違っている。北部では農民が貧しいために協同組合が生まれ、それが発展しようとしている。一方南部では農家は比較的豊かで、個人の才覚が重視され、共同化は進んでいない。今後、中国の南部で共同化が進み、柑橘を輸出品目と位置づけて高品質化を進めるようになれば、日本で柑橘、特に中晩柑を作ることはかなり不利になるだろう。今のところそのような兆しは見えないが、おそらく10年~15年後にはそれが現実になるような気がする。ただし、温州みかんについては、日本の品質は世界最高レベルに達している。気候条件を考えても、浙江省の温州みかんが日本国内で国産の競争相手になることはないと安心した。日本の消費者が納得する品質に仕上げるには雨量が多すぎるし、温度が高すぎる。ただ、極早生に関しては、その条件がプラスに働くので安心してばかりもいられない。また、浙江省より西の四川省や湖南省、湖北省では、気候条件が違うので、どのような柑橘ができるかは不明である。しかし、中国の流通のインフラの整備はかなり遅れていて、沿岸部以外の産地のみかんが日本へ輸出されるのはまだかなり先の話だろう。カナダへ輸出している温州みかんは浙江省、福建省産のみかんとのことだった。
2002年03月22日
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99年03月21日(日)天候:曇り(上海)、雨(日本)7時半頃ゆっくり起床。ホテルでこれも豪華なバイキング朝食を食べて9:30にチェックアウト。保証金1000元のうち宿泊費を差し引いた340元は戻してくれた。ホテルの玄関からボーイがドアを開けてくれたタクシーに乗ってエアポートへ。劉さんが予約確認と空港使用税を買ってくれて、再会を約束して別れた。劉さんもこれから衢州へ帰るのだ。空港は大混雑だったが、3年前に経験しているのでこんなものだろうと別に驚きもなかった。搭乗手続きが10:10からだったので、ゆっくりと余裕があった。この前に来たときよりも上海はずっときれいになっていた。買い物はタバコを2カートンだけ。マイルドセブンの中国バージョンとWESTのF1バージョン。何か良い記念になるものがあればと捜したのだが、なかなかないものだ。それに値段も高い。蘇州で買った同じ絵柄の両面刺繍が1750元だった。残った元は北京で両替した領収書があったので全部日本円に交換出来た。11番ゲートから25分前に搭乗開始。バスで飛行機まで移動。22Dの座席だったが、右側は私だけでゆっくりしていた。今回はスポーツ少年団が団体で乗っていたので70%位は席が埋まっていた。3時(日本時間)に広島空港へ無事到着。日本は雨が降っていた。今回久しぶりに税関で質問を受けた。「一人か?」「よく外国へ行くのか?」「何を買ったか?」「漢方薬や20万円以上の買い物はないか?」という質問だった。荷物のチェックはなかった。タクシーで三原駅まで行き、16:14の新幹線で岡山、その後は「しおかぜ」にも順調に座れた。久しぶりの我が家はまずまず何事もなかったようだ。両面刺繍の土産は大好評だった。重たい思いをして持って帰った甲斐があった。日記をつける前に写真の現像を依頼してきた。午前1時に劉さんにTEL。無事帰宅していた。劉さんも久しぶりの我が家で奥さんと鵬博ちゃんの顔を見てホッとしているのだろう。
2002年03月21日
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中国の列車には1両ごとに車掌が乗っている。駅につくとドアを開けたり、ステップの上の床を持ち上げて、乗降できるようにするのも車掌の役目だし、車両の中のゴミを集める仕事もする。しかし、私達の車両の車掌はちょっと変なヤツだった。乗車して30分くらいすると、自分の車両のトイレに鍵をかけてしまい、誰もトイレに行かせないようにしてしまった。仕方がないので私も隣の車両へトイレに行ったのだが、そっちの車掌に何か言われた。どうせろくなことではないだろうから、無視して用を足した。自分の車両に戻ってしばらくすると、トイレから水が溢れ出した。他の乗客も何事かとざわめき始めたが、車掌は知らん顔をしている。その間にも水はどんどん溢れて、私達の座席の下は水浸しになった。列車が登ったり下ったりするたびに、溢れた水も波になってあっちへ行ったり、こっちへ戻ったりする。乗客はみんな足を持ち上げていないと靴が濡れてしまう。しばらくその状態が続いた頃、車掌はトイレの鍵を解除して水を止め、今度はモップを持ち出して床を拭きはじめた。私達は足を持ち上げたまま、車掌がモップで水を移動するのを待つしかなかった。ようやく床がきれいになった頃、列車は上海駅に到着した。乗車していたのは1時間ほどで19:32に着いたのだが、しっかり驚かされて疲れてしまった。駅ではまず劉さんの明日の衢州への切符を確保してからタクシーで空港近くの「西郊賓館」へ向かう。上海は高速道路が空港のすぐ傍まで延長されていた。3年前にはこんなに空港近くまではなかったのだ。これからもどんどん変わっていくのだろう。西郊賓館と決めたのは私のガイドブックで5つ星だし、最後の夜くらい豪華なホテルでディナーを食べたかったからだが、タクシーを降りてみてビックリした。それこそ最高級ホテルだったので予約無しの客は泊めてくれなかった。これは私の想像なのだが、ひょっとしたら劉さんが中国人だったからかもしれない。惨めな気持ちで雨に濡れながら重い荷物を抱え、道を挟んで向かいに見えた「新苑賓館(ニューガーデンホテル)」へ向かうことにする。ここでも断られたらどうしようかと心配しながらフロントに行き、英語で「今晩、部屋はあるか?」と訊いたところOKだった。やれやれ、ホッとした。宿泊料は600元+サービス料60元で、保証料込み1000元の先払いだった。今までのホテルに比べたら破格の値段だが、ここなら空港まですぐなので明日はゆっくり出来る。ホテルのレストランで豪華に最後のディナーを食べて、明日の荷造りをした。劉さんに渡してあった人民元も使い切れずに戻ってきた。感謝の気持ちを込めて、今まで私が使っていたカメラをプレゼントした(それに杭州で買った青いビニール傘も)。劉さんが大変喜んでくれたので私も嬉しかった。ふと思い出して「今朝掴まされた偽札はどうしたの?」と訊くと、最後に上海で乗ったタクシーに支払う時使ったのだそうだ。今ごろあの運転手はどうやってその偽札を次の客に渡そうかと頭を痛めていることだろうと二人で大笑いした。
2002年03月20日
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しばらく歩くと、散髪屋の看板ばかりが並んでいる通りだった。窓は「理容」の字が書かれていて内部は見えないようになっている。あいにく雨上がりだったので、路上にたむろしているお嬢さんたちはまばらだった。どこの国でも風俗系の店は一箇所に集まっているものらしい。小さな街だと高をくくっていたら、歩き疲れてしまった。地図によると駅までようやく半分位の距離だった。そこで輪タクに乗ることにした。これも一度は経験しておきたい乗り物だったのだ。劉さんが値段を交渉して駅まで7元で交渉成立。自転車の後ろにつけたシートに二人で乗り込んだ。蘇州はまっ平らな地形のようだが、こうして実際に走ってみると細かいアップダウンがかなり多い。登りでは自転車を踏むお兄ちゃんも息が荒くなっていた。劉さんの話では「タクシーで10元ですから、本当は5元でも良いんです」とのことだったが、運転しているお兄ちゃんの息遣いを聞いていると、7元でもかわいそうな気がした。人間を動力にした乗り物に金を払って乗るのはなんとなく道徳に反しているような気になる。今度からはタクシーにしようと思った。駅へは1時間前に着いた。さすが蘇州、構内はものすごい混雑だった。喫茶店があったので、10元払って地下の茶房でゆっくりとくつろぐ。お茶とスイカの種のサービス付だった。劉さんが手荷物預かり所から荷物を持ってきてくれたので土産をスーツケースの中に入れた。スーツケースとショルダーバッグは本当にこれ以上は何も入らないくらいにパンパンに詰まった。こんな荷物を大勢の人の見ているところで詰め替えたら、それこそ泥棒の格好の餌食になるだろうと思う。1人10元の茶房代は安いものだ。出発10分前に駅員が迎えに来た。地下道を通って一般客とは別の出口から一足先にホームへ出れる仕組みになっていた。さすが10元の威力はすごい!!18時17分発上海行きは指定席ではなかった。ホームで待っていると、制服を着た女性の駅員が「ピーッ」と笛を吹いて、ここに2列に並べと指示をしていく。私達は運よく一番前に並べた。しかし、列車が到着してみると、乗降口はちょうど並んだ列と列との中間だった。日本だとこういう場合近い方の入り口に列のまま移動するので、私もそうしようと思った次の瞬間、列の後ろのほうに並んでいた人たちは汽車の乗降口へ向かって一斉に走り出していた。これを見た私と劉さんも、遅れてなるかと走り出す。列車の乗り口はそれこそバーゲンセールのような混雑だった。大きな荷物を持っている私達は高いステップを上がるのも大変だった。しかし、一番前に並んでいたアドバンテージで何とか席も確保できた。やれやれ・・・あの駅員の指示は何だったんだろう?
2002年03月19日
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西園を出て、歩いて留園に行く。入場してまず目についたのは築山に囲まれた池だった。ちょうど日本人観光客の後に続いたので、ガイドさんの説明が聞けた。この池は見る場所によって、春夏秋冬をイメージしているのだそうだ。留園は面積2万平方メートル、建物の配置は緻密に配慮され、中、東、西、北の四つに大別され、建物で隔てて異なった趣の景観を作り出しているそうだ。池を一周して建物の内部に入ると、迷路のように入り組んでいる。「建物の角を曲がると別世界」という風に次々と趣の異なった庭が現れる。いかにも計算された庭の設計だった。ここでも格子窓からの風景はめちゃ魅力的だった。特に気に入った庭は観光コースから外れた西側の庭だった。ここにはいろいろな植物が植えられ、遊歩道があってゆっくりとくつろぐことができた。北のほうの庭には盆栽コーナーがあった。ここには盆栽だけでなく、岩と盆栽を組み合わせたミニ山水がたくさん展示されていた。その岩の配置は険しく切り立った幽谷を思わせ、いかにも中国的だった。留園のシンボルみたいになっている大きな太湖石は東の庭の一番奥にあった。中国の人はこの石をバックにしていっぱい記念撮影をしていたが、どうも私にはピンとこない。園内には土産物屋もある。紫檀か黒檀のテーブルセットや掛け軸がたくさん置いてある土産物屋さんに入ると、お茶を出してくれた。高級そうな紫檀の椅子に座って美しい庭を眺めながら飲む緑茶はまた格別だった。別の土産物コーナーでは絵を売っていた。蘇州の風景が描かれている油絵と水彩画で、それぞれの絵には描いた人の「江蘇美術大学副教授」とかいう肩書き入りの名刺が付いていた。その中にひときわ印象に残る作品があった。朝もやで下半分が白く霞んだ北寺塔を描いたものだった。買おうかどうしようかと迷いに迷って、庭を巡っている間に3度ほどこの絵を見に戻ったのだが、最後には諦めた。油絵ではなく水彩画だったことと、値段が2000元と高かったので値切る交渉もしたのだが、おじさんはまけてくれなかったので予算オーバーだったのだ。まだ列車まで時間がたっぷりあるので、歩いて駅へ向かうことにする。留園を出たところには土産物屋さんが並んでいる。お茶を売っている店も多かった。街路樹で道路と歩道が仕切られていて、落ち着いた雰囲気の街並みだった。歩道に面白い形の公衆電話があった。ステンレスの一本足で、プラスチックの半円の屋根で覆われている。裏側にも全く同じものがあり、2つで1セットになっているのだ。
2002年03月18日
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土産物屋の通りを抜けて「楓橋夜泊」の楓橋へ行く。それは運河に架かっている石で作られたアーチ型の橋だった。寒山寺の前にあった橋よりはずっと大きかった。橋の寒山寺側には「鉄鈴関」という石垣で造った城壁門があり、その下の狭い通路を通らないと街には入れないようになっている。城壁の上には建物もあり、大きな「御寇安民」という額が掲げられていた。この「御寇」とは「倭寇から守る」という意味で、この城壁は明代に作られたものだそうだ。寒山寺と日本とのもう一つの意外な関係を発見した。橋の反対側は普通の民家だった。橋の幅はゆうに5メートルはあるのに、渡りきった向こうの道幅は半分くらいしかない。丸い栗石を敷き詰めた舗装は、あちこちで陥没して水溜りが出来ている。蘇州独特の白壁はシミで黒く変色しているし、剥げ落ちて茶色く地の壁が剥き出しになっているところもあった。歩いてみると想像以上に軒が低かった。橋の上から運河を眺める。波一つない水面には白い壁の民家が映り、それがどこまでも連なっている。運河へ降りていく階段もある。ここで炊事の準備をしたり洗濯をしたりするのだろう。水はどんよりと黒ずんできれいじゃなさそうだし、白壁も黒ずんでいて決して裕福な生活ではなさそうだが、このような風景は日本では見たことがなかっただけに、しばらく見とれていた。ここでは運河が生活の一部になっているのだろう。昼食は西園の近くまでタクシーで移動して水餃子で簡単に済ませる。16個も入っていて8元と安かった。じゅうぶんお腹がいっぱいになった。西園は園内の中心に運河のような池があり、その周りに木や建物を配した広々とした庭だった。池の真中には破風の先端が反り上がった8角形屋根の典型的な中国式東屋がある。池の周りを歩いているうちにふと気がついたのだが、見る場所によって同じ庭でも表情が変わるのだ。また、中国の窓はいろいろな格子で飾られているのだが、その格子で切り取られた風景というのも印象深いものがある。このことに気づいてから、窓があるたびにそこから覗くことが庭観賞の楽しみになってしまった。西園の近くには劉さんが日本語を勉強した蘇州大学があるのだそうだ。劉さんは「ここでの思い出は、一生懸命勉強したことだけです」と話してくれた。
2002年03月17日
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私は蘇州へ来たら、遊覧船に乗って水上から「東洋のベニス」の風情を満喫したいと思っていた。寒山寺のすぐ前は運河になっていて、遊覧船も係留されていた。劉さんが訊いたところ、遊覧は10分で100元とめちゃ高いことを吹っかけたそうだ。1日100元の西湖めぐりを経験した私達は、一も二もなく遊覧船での観光をボツにした。寒山寺を出て右側へ歩いていくとお土産物屋さんが並んでいる。私達は反対側でタクシーを降りたので気づかなかったのだ。確か2軒目の右側に、両面刺繍を飾ってある店があった。私の欲しかったサイズの刺繍もいっぱい置いてある。よく見ようと店内に入った。すると、一枚の両面刺繍がまるで自己主張するみたいに私の目に飛び込んできた。両面刺繍の絵柄は、どちらかと言うと「牡丹の花」や、「松に鶴」といった静物画的で、動きが少なく落ち着いた感じのものが多いのだが、その絵はいかにも元気だった。絵柄は、白と黄色の菊の花に雀が2羽停まって、羽繕いをしているものだった。それに、3つの印鑑のようなものも刺繍で刺してある。製作した工房と、デザインした人の名前らしい。絵の大きさは縦30cm、横25センチ。枠を含めると縦は60cm、横は45センチ以上になる。もう、1000元ならこれを買おうと心に決めてしまっていたのだが、劉さんに値段交渉を頼んだところ「800元」だと言う。私は「やった!」と思いながら、それでも一応値切るのがエチケットだろうと、「500元でどうか?と訊いて」とお願いした。劉さんがどういう手法で交渉したのかは不明なのだが、店の奥さんは「それでいい」と言う。あまりの嬉しさに、もう一個買うことも頭の中をよぎったのだが、悲しいかなスーツケースに入る容量は一個でもどうだろう?と思う大きさだったので諦めた。その頃、いつの間にかその店の娘さんも現れていた。この娘さんにも「2個どうですか?」と上手な日本語で勧められたのだが、事情を説明してお断りした。「それなら、荷物にならないいい物があります」と店の奥に案内された。そこで見せられたのは、米粒くらいの大きさの石に書かれた絵だった。「松に鶴」だけは覚えているのだが、後の絵柄は忘れてしまった。ちゃんとガラスと木の枠のケースに入っていて、ライターくらいの大きさだった。覗くところに拡大鏡もはめ込まれている。なるほどこれなら荷物にならないと3個買った。1個100元のところをまとめて250元。高いか安いかはもう問題じゃなかった。なにしろ、欲しかった絵が半額で手に入った直後だったのだから。さらに予備のお土産として丸型の枠に入った両面刺繍を1個50元で4個買った。これで、お土産はバッチリ完了。それにこれ以上はスーツケースに入らないだろう。大きな両面刺繍は箱に入れて、手で提げれるように梱包してもらった。
2002年03月16日
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昨日「どっちの料理ショー」のVTR撮りがありました。あれ以後、担当の方からは時々電話があって撮影日などを打ち合わせていたのですが、一番の問題は天候だそうです。やっぱりアボカドに雨じゃイメージが悪いんでしょう。一昨日の夜に最終の電話がありました。電話 「お天気大丈夫そうですから、明日行きます」tetywest 「それで、何時ごろ来られます?」電話 「徳島からですから、たぶん8時半か9時頃には」tetywest 「そ、それはまた早いですね(汗)」向こうを6時に出発するんだそうです。取材も大変なんだなぁ・・・それで、準備するものは別に何も無くて普段の作業服でお願いしますということでした。さて、昨日の朝・・・・8時半に電話がかかってきました。もう、近くまで来ているとのこと。わかりやすい場所を指定して、迎えに行きました。なにわナンバーのワゴン車だったのですぐにわかりました。スタッフは4名。いつも電話で話していた方は想像してたよりずっと若かったです。ディレクター、カメラマン、その助手という構成でした。さっそく、アボカドの場所へ案内します。ディレクターから、ここではこういう話が欲しいという大まかな説明を受けて撮影開始。ディレクターが質問する形で、それに答えながらのインタビューです。TAKE3でOKが出ました(笑)次はtetywestが仕事をしているところへスタッフが訪ねてくるシーン。「レモンの収穫風景で行きましょう」と言うことになって、tetywestがその準備に帰っている間にアボカドの樹を撮影したようです。レモン畑で、これも大まかな状況説明のあと撮影開始。ここではTAKE2でOKでした。その後またまた、レモンをアップで撮影していました。tetywest的にはアボカドじゃなくてこっちをPRしてもらいたいんですよ(笑)今度は、産地の風景が欲しいというので、ベストな場所を教えました。その間にtetywestがどこにいるか訊ねる人を探して欲しいとのこと。ちょうど近所のおじさんがデコポンを収穫していたので、頼み込んで出演してもらうことに・・・しばらくレモンの収穫をしているうちに、風景を撮り終えたスタッフが帰ってきました。道端に停めたトラックにデコポンを運ぶおじさん。そこに偶然?通りかかるスタッフの車。「アボカドを作っているtetywestさん、ご存知ですか?」「あぁ、それやったらお宮の下でレモンちぎんりょらい」と彼方を指差すおじさん。なかなか名演技やないか!!!これもTAKE2でOK。撮影は無事終了してスタッフは帰りました。このときすでに11時。なにが「撮影は1時間程度なんですけど」やねん。よく考えると、撮影したのは順番が全部逆。まあ、こんなもんでしょう(笑)気になる放送日ですが4月25日だそうです。カレンダーに○なんか入れないで下さいね(泣)
2002年03月15日
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お土産の目途が立ったので気分良く街を歩いていると、本屋さんがあった。日本でも本屋さんがあるとついフラフラと入ってしまうクセがあるのだが、中国ならなおさらのこと。さっそく店内に入る。店内は結構混んでいて、立ち読みをしている人もいた。美術書は値段が高いし、持って帰るには重過ぎるので横目で流す。と、あるコーナーで漫画中国偉人シリーズを発見した。「孔子」や「孟子」「李白」「杜甫」「白楽天」など、お馴染みの名前が並んでいる。もちろん中国語なのだが、薄っぺらいし第一漫画なので見るだけでもある程度理解できる。これは面白そうだと「孔子」と「孟子」の2冊を買った。旅のガイドブックのコーナーへ行くと、なんと中国のドライブマップが置いてあるではないか!!西安で買った旅遊地図など比べ物にならないくらい詳しい。これは掘り出し物を見つけたと、さっそく購入した。こちらは32元。お金を払うと本の裏表紙の後ろに「蘇州新華書店」のスタンプを押してくれるシステムだった。おかげで、購入した書店の名前も覚えなくて良かった。なんだか、「早起きは三文の得」を地で行くような展開にさらに気分をよくして、タクシーを拾い「氾浪亭」へ行く。この亭も開園前だったので中は見れなかったのだが、周りを堀で囲ってあり、深い緑色の水に映る白い塀はなんとも言えない趣がある。帰りに拾ったタクシーの運転手は女性だった。劉さんに「蘇州の女性の言葉は優しかった?」と訊くと、「そうです」と言う。私には全然わからない。ホテルをチェックアウトして、駅の手荷物預かり所へ荷物を預ける。カメラだけ持ってタクシーを拾い寒山寺へ向かう。唐代の詩人、張継が国家試験に落ち、船で蘇州に着いた夜に作った七言絶句「楓橋夜泊」であまりにも有名なお寺だ。月落烏啼霜満天 江楓漁火対愁眠故蘇城外寒山寺 夜半鐘声到客船月が落ち、カラスが鳴いて霜が満天にある「江橋」と「楓橋」の間の灯火のある漁船の中で、寝つけないで困っている場所は蘇州の郊外の寒山寺夜半に鐘の音が船に届く入ってみると有名なわりにはこじんまりとしたお寺だった。森鴎外の小説で日本でも有名な「寒山・拾得」の像もあったが、これも金ぴかだった。一通り寺の境内を見てまわると、やっぱり鐘楼に登って鐘を撞かなくてはと、そっちへ向かった。入場券には鐘楼に登る副券も付いていたが、ちょうど中国の団体さんの後ろになってしばらく待たされた。有名な寒山寺の鐘は狭い急な階段を上った二階にあった。鐘の下には何故かこれも金ぴかの仏像が置いてある。幸いに私達の後は誰も登ってこなかったので、心ゆくまで鐘を撞いたり、それをお互いに写真に撮りあいした。鐘は有名なわりには小さくて、形も日本の鐘と違って一番すその外周が広くなっている。音色も「ご~ん」と腹に響くような荘厳な低音ではなくて、むしろ「こ~ん」に近い爽やかな中音という感じ。「楓橋夜泊」の作者もこの鐘の音に心を癒されたのかもしれない。寒山寺は日本人の観光客には圧倒的に人気のある寺で、大晦日には鐘を撞く日本人観光客でごった返すそうだが、朝早かったためかほとんど見かけなかった。
2002年03月14日
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99年03月20日(土)天候:曇り一時雨(蘇州)6時起床。7時にホテルを出発して近くの食堂でラーメンの朝食。日本的なラーメンで麺の色も黄色かったし、チャーシューの分厚いのが入っていてとてもおいしかった。さらに値段は2人で5元とめちゃ安だった。歩いて北寺塔へ行く。時間が早すぎて入場できなかった。しばらくその近辺をぶらぶらして、土産物屋さんで蘇州の地図を買った。5元と安かったのだが、しばらくその地図を見ていた劉さんが、「あの土産物屋さんはずるいです」と地図の下の方を指差した。そこには小さな字で「定価:1.00元」と印刷されていた。北寺塔の入場券を買うときに、ちょっとした問題が発生した。劉さんが出した10元札が偽札だと受け取ってもらえないのだ。劉さんはラーメンを食べた時のお釣りにその偽札をもらったのだそうだ。偽札にお目にかかるのは初めてなのでホンモノと比べてみたのだが、私にはよくわからなかった。ただ、少し紙の質がつるつるしてオレンジの部分が赤っぽいような気はした。中国は偽札天国といわれるほど日常茶飯事のことなので、そこに住んでいる人たちも偽札の見分け方は日ごろから訓練しているのだろう。北寺塔のてっぺんに登って見た蘇州の街は素晴らしかった。蘇州の街並みが何となく上品な印象を与えるのはどうしてだろうと不思議だったのだが、上からながめているうちに、ハッと気がついた。どの家も屋根が黒、壁が白なのだ。白と黒のモザイクの中に並木の緑がひときわ鮮やかに映えている。静かに降る古都の雨というシチュエーションも雰囲気をいっそう盛り上げてくれる。北寺塔を降りて、歩いて「人民路」というメインストリートを散策する。地図を買ったので、名所の位置がよくわかる。それに、杭州よりはずっと小さい街なので歩いても何とかなりそうだ。まずは「友諠商店」をめざす。実は蘇州へ来たら絶対買おうと思っていたものがある。それは「両面刺繍」なのだ。薄い絹の布に絹糸で花や鳥や動物を刺繍してあり、木の枠ではさんである。木の枠は回せるようになっていて両面を見ることができるのだが、どちらにも同じ絵が刺繍してあるのだ。もっと高いのになると裏と表で絵柄や色が違うのもある。初めて見たときには、本当に驚いた。実に細かい作業だろうし、どうやって糸の始末をしてあるのかさえもわからない。前にもらったのは直径25cmくらいの丸い木の枠に入った刺繍だったので、今度はもう少し大きいのが欲しかったのだ。私が買ったのはよっぽど古い地図だったのか、友諠商店は少し離れた場所に移転していた。その上、残念なことにまだ開店していなかった。扉に10時開店の札がかかっている。仕方がないので開いている店を探したのだが、デパートには置いてなかった。こうなりゃ観光地の土産物屋で買うしかないなあと思いながら、中国で初めて見た交差点の下にある地下通路を歩いているとき、偶然両面刺繍を売っている店を発見した。2メートルくらいの狭い間口に両面刺繍だけを並べてあり、おばさんが一人で店番をしていた。劉さんに値段交渉してもらったら、想像していたよりバカみたいに安い。直径15cmの丸い形のが50元なのだ。「これは、みんなのお土産に最適!」と絵柄の違ったのを5個まとめ買いした。私の欲しそうな大きな絵は1000元だった。気に入った絵柄がなかったので買わなかったのだが、これが現地標準価格なのだとわかった。他で買えなかった最悪の場合でも、この店に来れば買えるわけだ。
2002年03月13日
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研修報告(15)上海近郊の自由市場果品市場を訪問した。ここは中規模の自由市場で、果物を専門に扱っている。扱う単位は今まで見た自由市場の中で一番大きい。同じデザインの箱が1000個以上並んでいるのを中国では初めて見た。ひとつの店舗では2~3種類の品目を大量に扱っている。現在出ているのは、ポンカン、玉環柚、胡柚、ネーブル等の柑橘類と梨、リンゴがほとんどである。他にメロンやスイカが少しあった。輸入されたブドウ、オレンジ、パパイヤ、マンゴー、スモモ等を専門に扱っている業者もいた。こちらは品質も良く、日本の果専店で見かける果物とまったく変わらない。ポンカンは10㎏~15㎏箱に詰められているのがほとんどだったが、大きな篭に盛られているのもあった。おそらく50㎏~70㎏はあるだろう。箱の大きさの規格はまったく統一されていなくて、店によってまちまちである。箱の写真を写していたら、店のオバサンが何か怒っている。後で通訳に聞いたら、「私の箱を写して、そのデザインを盗むつもりに違いないから、写真を撮ってはいけない」ということらしい。私が日本人で、そのようなつもりはないと伝えてもらってもまったく信用していなかったので、早々に退散した。箱にポンカンを詰めているのは、生産者ではなく卸問屋なのだということが判明した。そのつもりでよく見ると、どの箱も産地は「福建省潭州」となっている。ポンカンでは一番有名な産地なのだそうだが、中味は本当に潭州産なのかどうかは信用できたものではない。玉環柚は1個1㎏くらいある文旦の一種だが、大きなネットに30㎏くらい詰めて置いてあり、ネーブルもポリ個装したものを、もう一度大きなビニール袋に入れて20㎏くらいの単位で売っている。ここは販売の単位が大きいので、価格は安くなっているそうだ。小売商でも、かなり規模の大きな商人専門に売っているそうだ。
2002年03月12日
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研修報告(14)上海近郊の農業上海は人口1,400万人、出稼ぎの人口をあわせればゆうに2,000万人を超える世界最大の都市である。上海の近郊では、この都市の消費者に供給する野菜を栽培するビニールハウスが多い。これは西安型の土壁を使ったハウスではなく、日本型のパイプハウスである。暖房はしていない。栽培されているのは、トマト、キウリ、ピーマン、白菜、チンゲンサイをはじめとして、ありとあらゆる野菜を作っている。それもこの地域は何と種類が決まっているのではなく、農家個々の判断によって品種を決めているようで、隣のハウスと作る種類が違っている。このことからも、農協のような生産・販売組織が形成されていないことがわかる。しかし、政府は都市の消費者に野菜を安定供給する目的で、いわゆる価格共済制度を作っている。政府の決めた品目の野菜の値段が安ければ、一定の価格で政府が野菜を買い取るそうだ。買った野菜は捨てているという。もう少し運搬手段が進歩していれば、それを北へ運搬するとか、加工原料にするとか、有効に使えるのにもったいない話だ。また、緑化木の栽培も盛んで、小さな盆栽用の松やさつき、柘植などをたくさん植えている。現在、盆栽の需要は大きいそうだ。これも高温、多湿の気候条件と、大都市近郊という地理的な条件をうまく利用している。浙江省の上海から遠い地方の風景が一面の菜の花畑だったのに比べれば、高度な土地利用型農業だといえる。農家の家は一般的に三階建てで、外壁はタイルで化粧してある。今まで見た農家の中では一番収入が良い。しかし、やはり農家の収入の半分以上は農外所得なのだそうだ。
2002年03月11日
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午後は近くの果物市場の視察に行く。これも張教授の自転車を貸してもらって劉さんの後輩が案内してくれた。市場へは裏口から入ったのだが、アーケード付きの商店街になっていて、果物だけではなく、包装資材や、日用雑貨、お菓子まで売っている。その奥には屋根で覆われた広い空間があり、カゴに入ったり、ネット詰されたり、ダンボール箱に入れられたポンカンや柚、ネーブル等がたくさん置かれていた。中国で今まで見た中では一番大きな市場だった。売っている荷口の単位も10kg~20kgと大きかった。胡柚は1㎏2.2元、ポンカンは2元と安い。ポンカンで一番有名な産地は福建省潭州市の九湖地方なのだが、積み上げてある箱にはどれも「潭州芦柑」とか「九湖芦柑」と書いてある。しかし中国柑橘の流通に詳しくなった今では、とても額面どおり受け取るわけにはいかない。その後、時間まで陳博士と話をしていた。机の上には英語の辞書が開いたまま置かれてある。どこの国でも英語は必須のようだ。棚には試薬が並んでいる。「メチルアルコール」は「甲醇」、「エチルアルコール」は「乙醇」「塩酸」や「硫酸」は日本と同じだった。記念に壁に貼ってあった漫画をコピーしていただき、それにサインしてもらった。陳博士が自分で描いたもので、鷺に飲み込まれそうになった蛙が鷺の口の中から腕を伸ばし鷺の首を締めているというもので、題は「DON’T EVER GIVE UP!」列車は17:26発の南京行きだった。前もって後輩が指定席の切符を買ってくれていた。その後輩は自転車に荷物を載せて私達を校門まで送ってくれた。タクシーで杭州東駅へ行き、列車に乗る。上海へは18:30に到着。ホームに到着するとスイッチバックですぐに出発したので上海の様子はよくわからなかった。蘇州までの汽車の旅はとても快適だった。ただ、周りの席に座っている人の4人に1人は携帯電話を持っていて、座ったまま大声で話をするのには閉口した。まっ平らな地平線に沈む夕陽を見て、中国は広いと実感した。蘇州へ着いたのは19:30。もうかなり薄暗くなっていた。列車を降りると、駅でまず明日の上海までの切符を買う。劉さんが切符を買いに行っている間、じっと荷物番をしていた。一人では絶対こんな旅行は出来ないだろう。第一、切符の買い方も知らないのだから。タクシーに乗って目星をつけてあった「外貿賓館」へ。私のガイドブックに載っていて、駅の近くというのが選んだ理由なのだ。昨日のホテルより少し高い165元だったが、ずっときれいだしドアも自分でロックするシステムだった。ここではチェックインの時パスポートの提示を求められた。チェックインを済ますと早速外へ出て、近くのレストランでイカとカレー味の筍等を食べた。隣で食事をしていた人が、私が日本人だとわかるとタバコを吸うか?と勧めてくれた。ありがたく一本いただいたのだが、やはりニコチンがきつかった。「中華」という中国では有名な銘柄らしい。部屋に帰って劉さんと中国について1時間くらい話をした。劉さんの夢は将来浙江大学の教授になることだそうだ。ぜひとも実現して欲しいと思ったし、劉さんなら出来るような気がした。今日は何もかも順調にいって、大変良い旅が出来た。昨日とは大違いなのだ。
2002年03月10日
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99年03月19日(金)天候:曇り一時雨(杭州)7時起床。ホテルの周りを散策に出かける。開いているのは食べものの店が多い。劉さんが杭州の代表的な朝ご飯は粽子だと教えてくれたので、牛乳と粽子を買ってホテルで食べる。もち米の中に肉を入れて柿の葉でくるんで蒸してある。一人3個食べるとじゅうぶんお腹一杯になる。8時になったのでホテルの近くの郵便局へ荷物の郵送に行ったのだが、まだ開業していない郵便局だった。中国の郵便局のイメージカラーは濃緑。どこでもよく目につく色だ。仕方がないので旧駅の近くの中央郵便局までタクシーで行き、そこから日本へ荷物を送った。タクシー代は10元で、郵送料は船便で230元だった。日本と違って郵便局にいろいろなサイズの箱を用意してあり、その場で荷物を箱に詰める。持ち運ぶ荷物が15kgほど軽くなったので、気分よくタクシーでホテルへ帰り、9時にチェックアウトした。タクシーを拾って劉さんの母校の浙江大学農学部へ行く。昔は浙江農業大学だったのだが、最近組織改革で総合大学になったのだそうだ。キャンパスは広く、校庭の真中に人造の湖がある。昔は地方財閥の庭園だったそうだ。まず劉さんの恩師の張教授に会った。張教授は「教授の教授」と呼ばれていて、農学部では一番偉い先生だそうだ。さすがにインテリゲンチャ-、部屋にはインスタントコーヒーが置いてあった。本当に久しぶりにコーヒーを飲んだ。次に劉さんの友人の陳博士に会った。遺伝子組み替えでクローンを作っている最先端の実験室も見せてもらった。恒温室には寒天の培地に柑橘のカルスや種心胚実生が並んだシャーレーがいっぱい入っている。陳博士が「これを見てください」と指差したのは、太めの試験管の中で3センチ位に成長したミカンの苗だった。その先端には白い花の蕾が着いている。正直これにはビックリだった。私が「将来これが実用化されれば、超ミニチュアのミカンの木に実が成ることも可能ですね」と言うと、陳博士は「その通りです」と嬉しそうだった。陳博士の奥さんにも紹介された。部屋は陳博士の隣で副教授だそうだ。生け花が専門で日本の生け花について研究している。李方さんという。来期から日本の花道についての講義を持つとのことで、資料作りに忙しそうだった。ここでもランのクローンを培養していた。陳博士は静岡大学の兵藤教授と交流があり、大阪府大の堀内博士はブドウの研究で一年間浙江大学へ留学していたそうだ。浙江大学は植物の遺伝子組み替えの研究ではかなり先端を走っている大学だそうで、光栄なことに今日だけで廊下で挨拶した人も含めると10人いる教授のうち5人に会ったことになる。昼食は大学の教授専門の食堂で個室に席を準備していただき、張教授と陳博士と劉さんの4人で食べた。ここでもウエイトレスが一人つきっきりのサービスだった。海に近いからか、肉料理以外にエビや魚料理が出て大変美味しかった。
2002年03月09日
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またまた元のバスに乗り換えて、今度は龍井茶の店(確か龍井茶研究所とかいう名前だったような)へ。龍井茶は緑茶の中では中国の最高峰のお茶なのだが、そんなのが一般観光客に回ってくるはずはない。みんなに一杯ずつお茶の無料サービスがあり、茶筒一杯100元で販売すると説明がある。バンバンと茶筒をたたいて、「詰め込めるだけ詰め込みます」というのがウリらしい。しかし、飲んだお茶はそれほど美味しいとは思わなかったし、もともとお土産物屋は高いという先入観で買う気にはならなかった。しかし西安方面からのツアーの人はたくさん買っていた。笑えたのは、「茶筒のたたき方が悪いからちゃんと詰まっていない」とクレームをつけていた人がいたことだった。お茶屋さんを出発したのはもう3時半をまわっていた。バスは西湖に別れを告げて銭塘江に面した「宋城」へ向かう。川が見え始めるとすぐに六和塔も見えた。宋城は最近新しくオープンしたアミューズメントパークだった。会場へ入ると広場になっていてその向こうに大きな城楼がある。広場ではアトラクションが行われている。宋代の大道芸人の行列のようだった。肩に鉄棒を担いで、その上に子供が二人立っている。バランスを保つのが大変だろうとよく見ると、鉄の棒を腰からベルトでがっちり固めてあった。しかし、子供二人が乗っているのは間違いないのだから、バイトのお兄ちゃんもさぞ重いことだろう。城楼をくぐって奥に進むと、宋代の街並みが再現されていた。いろいろなお店が並んでいて、実際に土産物を売っている。一番奥にはディズニーランドもどきの人工のコンクリートの山があったが、そこは入らなかった。城楼まで戻ると、正面の二階建ての家の前で結婚式の劇をやっていた。カゴで担がれてお嫁さんが到着し、二階で結婚式を挙げる。下では楽隊が歓喜の音楽を奏でるというような単純な劇だったが、衣装はとてもきれいだった。城楼に登る階段にへばりついて傘をさしながらの観劇だった。門の前では鎧を着て、剣を持ったバイトのお兄ちゃんが入場券もぎり兼ガードマンをやっていた。その赤と金を基調にした鎧が気に入ったので、一緒に写真を撮ってもらった。向かいの駐車場でバスに乗り、宋城を出発したのは5時だった。杭州東駅で、朝そこから乗り込んだ人を降ろし、ホテルへ到着したのは6時だった。もう薄暗くなりかけている。中国の人もかなりハードな観光をやるのだと感心した。黄龍洞、岳飛の墓、三潭印月、霊隠寺、宋城とめぐって、杭州にはかなり詳しくなった様な気がする。夕食はホテルのレストランで「西湖醋魚」のあんかけを食べた。劉さんの話では順昌県の魚の方が汚染が少なくてずっと美味しいのだそうだが、それでもこれは杭州の名物なのだ。白身の魚で少し甘すぎという味だった。昨夜の睡眠不足もあって、劉さんはかなり疲れていたようだ。二人とも9時頃から寝てしまった。
2002年03月08日
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島の反対側から再び遊覧船に乗って、今度は蘇提に降ろされた。ここは西湖の南端なので、歩いて岳王廟まで引き返す。蘇提を造った蘇東坡は、政治だけでなく詩や書画の才能も素晴らしかったので領民たちからたいへん慕われたのだそうだ。農民たちは感謝の意を込めて豚肉を彼に献上した。その肉があまりに多いので、彼はこれを貯蔵出来るように味をつけて煮込み、農民たちに返した。こうして農民たちが「東坡様の作った肉」と名付けたのが中国料理の東坡肉(とんぽーろー)。毛沢東もこの料理が大好物だったらしい。雨はいつの間にか止んでいて霞がかかり、空と湖の境界線はわからない。散歩道の両側には桃の花が咲いている。西湖の風情を味わうには最高のシチュエーションなのだ。しかし、相手が違う。隣にいる劉さんも同じことを考えていたのかもしれない。昼食は、土産物の宝石店の二階だった。ヒスイやサンゴの指輪や腕輪、真珠、金、銀のネックレス等がいっぱいあったのだが、興味がないのでどのくらいの値打ちかもわからない。さっさと食事に二階へ上がったが、中国の人は結構買っていたようだ。食事はツアー料金には含まれていなくて、自前でお金を払うシステムだった。紙の皿にご飯を入れてあり、「鶏にしますか、豚にしますか?」と訊かれる。私も劉さんも「鶏」にした。骨付き鶏の甘煮のようなのをご飯の横に入れてくれる。それをもらって適当なテーブルに座って食べるのだ。中国式カフェテラスといったところだろうか。お値段は15元。たったこれだけのメニューなのだが野菜も入っているので結構いける味だった。お茶はセルフサービス。昼食が終わると、再び観光に戻る。バスは西湖の岸を離れて松林の中を走って行く。ガイドの張さんが、何か説明し始めた。「今から、バスを乗り換えます」とのこと。みんなバスを降り、違うバスに乗り込んだ。次に行く「霊隠寺」には駐車場がないので専用バスしか通行出来ないそうだ。「霊隠寺」は別名「雲林禅寺」とも呼ばれる。中国最大の大仏様が安置されているので有名なお寺だそうだ。確かに伽藍はバカでかい。ビルにすれば6階建てはゆうにありそうだ。しかし、例に漏れず、仏像は金ぴかだった。よく見るとこの大仏様は左手が下を向いて、膝の上に置かれている。日本とは大仏様のポーズも違うのか。お寺を出ると、その一帯は飛来峰と呼ばれ、石窟像がたくさんある。岩肌は黒い硬そうな玄武岩で、岩を彫った仏像があちこちに並んでいる。いちばん有名な布袋さんのようなお釈迦様と、その弟子達を彫った石像は、一段高いところにある。これは素晴らしい石像なので、どうしてもこの石像とツーショットの写真が欲しいと思うのは私だけではないらしい。小道の向かいの岩の上に、ちゃんとお兄ちゃんが陣取っていて、カメラを渡すと10元でシャッターを押してくれる。西安で見た商売と全く同じなのだが、このときは10元を払っても惜しいとは思わなかった。バスを待っている間にちょっと一服とタバコに火をつけた。ちょうど吸い終わった頃にタイミングよくバスが来た。そこで困ったのがタバコの吸殻の始末だった。付近を見渡しても吸殻入れがない。このまま持ってバスに乗ろうかとも思ったのだが、ついポイと投げ捨ててしまった。その瞬間、どこからともなく私服の公安(環境衛生局)が現れた。第52条1款違反で罰金は10元だった。(切られたチケットは、今でも記念にとってある。反省。)
2002年03月07日
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ふ~やっぱり我が家が落ち着く・・・・・東京レポートは昨日の日記に書きました。モモちゃん、留守番ご苦労さん(笑)
2002年03月06日
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5日、朝から池袋は「サンシャイン60」の54階で開催された、気象関係の研修会に出席したtetywest。お上りさん丸出しで、「ほ~、ここがあの有名なサンシャインシティかぁ・・・」と思いながら下からビルディングを見上げていました。なんで「有名な」という形容詞がついたのかというと、あの、女性がナイフで刺された通り魔事件を思い出していたんです。一階にはエレベーターばっかりのコーナーがあって、上がる階によって乗るエレベーターが違うんです。54階まで行くエレベーターは一番奥の6台で、46階までは停まらない(やっぱり、お上りさんだぁ)!で、その研修というのは10時~4時半までの日程で、参加者は30人くらい。講師は全部で5人なんですが、そのうち3人は農業の現場で実際に気象データを利用している人、後の2人は気象予報と農業気象の専門家という構成でした。tetywestはその現場3人のうちの1人として、皆さんの前でお話をしたのです。tetywestの持ち時間は40分。あらかじめ送ってあった資料をプロジェクターで映してもらいながらしゃべってまいりました。しかし、いくら中国で講義をしたことがあるtetywestでも、気象関係は専門じゃないので満足な話は出来るはずはありません。でも主催者の方もなかなかのもの、現場の人間のつたない話の前後を専門家で固め、参加者に「つまらなかったなぁ」と思わせないようにしっかり考えて下さっていました。で、結果はどうだったのでしょう?tetywest的には、東京までの交通費も出していただいた上に、無料で研修会に参加できてめちゃラッキー!なのでした。全くの初対面なのに、また作っている作目は違っているのに、農業に対する思い入れや苦労は同じなんだと現場同士の仲間意識は盛り上がりましたし、気象データを世界共有の情報として国境を越えて配信するシステムは、インターネットよりずっと以前から構築されていたことも知りました。また、東北地方では気象災害に備えて常にイネの生育と気象情報をを監視しているシステムがあり、いざと言う時には農家にその情報を流せる体制が農水省によって構築されていることも初めて知りました。研修が終わった懇親会の席で「コンピュータは気象の膨大な情報をいかに迅速に処理するかという目的のために進化したといってもいいんです」という所長さんの言葉は特に印象深いものでした。まったく専門外のところへ首を突っ込んでみるのも、新しい感動や新しい発想のためには必要なんだとつくづく思うtetywestです。
2002年03月05日
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今から東京へ行きます。帰ってくるのは6日夜遅くの予定。その間、日記はお休みします。では・・・・・
2002年03月04日
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バスは山を下って、西湖のほとり「岳王廟」へ到着した。歴代の英雄の中で中国の人に一番人気のあるのが「岳飛」だそうだ。宋の時代、背中に「尽忠報国」の刺青をして金の侵略と戦い多くの武勲をあげたが、1142年江南地方での会戦中に、投降派の秦桧(チンケイ)一派に謀られ、皇帝により投獄、毒殺された。いわゆる悲劇のヒーローなのだ。しかし21年後、南宋の高祖により冤罪は晴らされて、ここに廟が建てられた。岳飛の墓のこちら側には秦桧(チンケイ)達四人がひざまずいて後ろ手に縛られている像があった。観光客の悪戯から守るために鉄の柵で囲ってあったのだが、何となく牢獄に閉じ込められているイメージだった。この皇帝と岳飛の関係を毛沢東と劉少奇になぞらえる中国の人も多いそうだ。雨が降ってきたのでここでビニール傘を買った。「岳王廟」を出て、真っ直ぐに西湖の岸まで200メートルほど歩くと、遊覧船の発着場がある。今度は、その船に乗り込んで西湖を水上から遊覧するらしい。西湖には「白堤」と「蘇堤」という堤防がある。堤防というよりは湖の中にある散歩道だ。「白堤」は唐代の白楽天が、「蘇堤」は宋代の蘇東坡が官史として仕えた時に造られたのだそうだ。遊覧船は蘇提にかかる石の橋の下をくぐって、西湖の真中へ進んでいく。波一つない水面には堤防の影や並木が対称的に映り、ぼんやりと春雨に霞んだ風景はなんともいえない情緒がある。「これは一緒に来る人を間違えたなぁ」と思ってしまう。しかし、本当は劉さんがいなかったらこんな素晴らしい観光は出来ないのだから、とんでもない考えだ。船は西湖の真ん中にある人工の島に接岸した。この島は漢字の「田」の形をしていて、周囲は木で囲まれた散歩道。真中は「九曲橋」という直角に折れた9つの橋でつながっている。このような橋は宋代の代表的な様式だと案内板に書かれてあった。橋を渡りながら島の反対側へ向かう。橋が曲がりくねっているので、写真撮影に絶好のポジションもいっぱいある。中国の人は写真を撮るのが好きなようで、そこここでポーズを決めてカメラにおさまっている。いつの間にか私と劉さんは集団のほとんど先頭になってしまった。あと少しで向こう岸という橋の途中に東屋があり、真中に「三潭印月」と白い字で書かれた石碑が建っていた。ここは最大の記念撮影スポットのようで、まだ前に到着した船のグループが写真を撮っていた。当然、私達も交互に写真を撮りあった。到着した向こう岸の外側には、石の灯篭が水上に三つ突き出している。蘇東坡は中秋の名月にこの石灯籠に火を燈し、湖面に映った月を見ながら酒を飲み優雅に月餅を食べたのだろう。散歩道を歩いて行くと木立が多く、観光客は少なかった。劉さんに「学生時代にも、よく来たことがあるの?」と訊くと、「何度かあります」との返事だった。さらに「二人だったの?」と訊くと、「二人のときも大勢の時もあります」と照れくさそうだった。
2002年03月03日
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バスで連れて行かれたのは駅から15分くらい走ったところにある一泊一部屋130元の「采荷賓館」というホテルだった。劉さんから「安いホテルでは日本人だとわかると泊まれない場合があるので、フロントでは黙っていてください」と指示があったので、そのとおりにした。フロントには「政府指定安全旅館」という看板がかかっていた。こういうのがかえって怪しいのかもしれない。部屋の鍵はやはり階段を上がったところに立っている小姐(ショージエ)から渡してもらうシステムだった。シャワーを浴びて旅の疲れを流したら、シャンとした気分になった。9時半から中国人専用の観光ツアーに参加する。これも初めての経験なので、中国の人はどういう観光をするのだろうと興味津々だ。ホテルまで送ってくれたのとは違うバスに乗り込み、再び杭州東駅に向かう。ガイドさんは若くて背が高い張さんという女性だった。バスが走り出すと早速ツアー代金1人100元を集めはじめる。受け取った100元札はいちいち指でパチンとはじいて透かして見る。偽札かどうかをチェックしているのだろう。杭州東駅で列車から降りてきた「お上りさん」を乗せると、バスはほぼ満席になった。ガイドの張さんはツアーの注意をハンドスピーカーで説明する。「集合時間は厳守してください。皆さんのご迷惑になります。5分までは待ちますが、それ以上は置き去りにして行きます」だそうだ。杭州観光と言えば中国人でも西湖めぐりが定番だそうだ。しばらく市内を走って西湖が見えたと思うと、バスは山の中へ入って行く。最初の観光は黄龍洞だった。駐車場で出発時間を告げられ、張さんが旗を持って先導する。一番奥まで緩やかな坂を登ると小さな池がある。池の周りには珍しい形をした太湖石が配置されてあり、いろいろな木が植わっている。いわゆる中国庭園なのだが、奥深い山の中という雰囲気が漂う庭だった。正面には二段になった滝があり、その滝は岩から飛び出した黄色い龍の口から流れ落ちている。なるほどそれで黄龍洞というのか。ここからは自由行動。この庭で珍しい竹を見つけた。看板に「方竹」と書かれたその竹は、幹が1センチくらいの正方形だった。思わずその一角に植わっている竹を全部チェックしたが同じ形をしていた。まさか、タケノコの時に四角い筒で囲って育てたのではないだろう。ちゃんと葉が出ていて、先端まで四角だった。中国には想像を絶するようなものがある。参道を下っていくとちょっとした広場があって土産物屋が並んでいる。奥には舞台もあり越劇を上演していた。何人かの中国の人が野外ベンチに座って観賞していた。女性2人の出演だったが、劉さんも何の劇なのかわからなかったそうだ。黄龍洞の入り口まで戻ってくると、朱色の「縁」の字が彫られた大きな岩があった。劉さんがこれをバックにして二人で写真を撮ろうというので、ちょうど居合わせたガイドの張さんにシャッターを押してもらった。
2002年03月02日
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昨日は久しぶりの雨で、かなりゆっくりと休養していたtetywest。昼休みもたっぷりとって、3時過ぎに「さぁ、そろそろ仕事に出かけるか・・・」と立ち上がったところに電話。アボカドの件でした。郵送したアボカドが到着したという連絡でした。電話 「早速食べました。美味しいですネ」tetywest 「???はぁ???」普通は収穫して一週間は追熟期間が必要なんです。果実が固い間は生臭いだけで美味しくも何ともないんですよ。樹の上で半分柔らかくなっていたアボカド(ベーコン)を食べたんだと、その後でわかりましたけど。電話 「それに、国産は追熟しても緑色のままなんですネ。輸入のハス(品種名)は茶色くなるでしょう。」tetywest 「そ、そういわれればそうですね(汗)」長いこと食べていなかったので、輸入のアボカドが茶色くなるのをすっかり忘れていました。電話 「それでもう一度確認なんですけど、現在木には一個もなっていない状態ですね」tetywest 「はい」電話 「実は、和歌山の○上さんの園に少しだけ今もありまして、あっ、○上さんをご存知ですか?」tetywest 「お顔は拝見したことないですけど、お名前だけは存じてます」電話 「まだ、企画段階ではっきりとはわからないんですが、もしtetywestさんの園地へカメラが入って、アボカドの木を撮影したり、そのときインタビューに『もう収穫してしまったよ』というコメントをもらえますか?撮影は1時間もかからないんですけど」なるほど、そう来たか!国産アボカドを探し回って3000里、やっと苦労して見つけた貴重品!!!という設定になるわけね。で、皆さんが知りたがっているだろうtetywestの答えは・・・別に断る理由もないので取材協力はOKしました。でもよく考えるとマヌケなデビューだなぁ・・・・・・
2002年03月01日
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