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小名木川の西側は隅田川と合流しますが、その河口付近に架かっているのが深川万年橋です。建造された年代は明らかではありませんが、1680年には「元番所のはし」として登場しているので、少なくとも江戸時代の前期には架けられていたようです。また万年橋の北側には船番所が置かれ、小名木川を通行する船の取り締まりを行っていました。この番所は寛永年間(1661年~1673年)に中川口に移されたため、万年橋は「元番所のはし」と呼ばれるようになっています。江戸時代の万年橋は、船の通行を妨げないように高く架けられていました。虹のようなアーチ型の橋だったようで、葛飾北斎の「富嶽三十六景」や歌川広重の「名所江戸百景」にも登場しています。葛飾北斎「富嶽三十六景 深川萬年橋下」歌川広重「名所江戸百景 深川萬年橋」(スッポンでしょうか)現在の万年橋から隅田川の河口に目を向けると、清洲橋を眺めることができます。清洲橋はドイツのケルン市に架かる吊橋をモデルにしており、ここからの眺めは「ケルンの眺め」と呼ばれ、一番美しい眺めと言われています。関連の記事中川船番所→こちら小名木川五本松→こちら
2010/05/23
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人工河川として開削された小名木川ですが、水運業者が下総との物流に利用したのはもちろん、江戸町民も船を浮かべて遊ぶほどの風情あふれる場所だったようです。特に小名木川の河畔に生える松は「五本松」と呼ばれ、小名木川沿いの地名にもなっていました。歌川広重「名所江戸百景 小奈木川五本松」名所江戸図会「小名木川 五本松」五本松のうち一本は、丹波国の大名である九鬼氏の屋敷から道を越えて張り出していました。松尾芭蕉もここに船を浮かべて遊んでいたようで、名所江戸図会の中には芭蕉の句が書かれています。「川上と この川下や 月のとも」五本松は明治になって枯れてしまいましたが、小名木橋のたもとには五本松が復元されています。そしてこちらが現在の小名木川です。コンクリートで護岸はされていますが、埋立されずに残っているのが何よりです。関連の記事中川船番所→こちら
2010/05/22
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江東区内を東西に流れる小名木川は、旧中川と隅田川を結ぶ一直線の人口河川です。1590年の小田原攻めの後、関東に入封した徳川家康が小名木四郎兵衛に命じて開削させたと言われています。江戸時代には行徳(千葉県市川市)の塩や近郊の野菜など、江戸と下総方面を結ぶ水運の幹線として機能し、東側の河口である中川との合流点には、船番所が置かれていました。歌川広重「名所江戸百景 中川口」小名木川の東側の河口、旧中川との合流点です。現在の中川船番所跡船番所の建物は小名木川沿いにあり、川岸には番小屋が置かれていました。夜間の入船・出船や女性の通行・鉄砲などの武器の取締の他に、小名木川を通行する船の積荷の取調を行っていました。浦賀番所と並んで江戸の東側の窓口として機能していましたが、明治に入った1869年に全国の関所が廃止されたことに伴って、中川番所も廃止となっています。
2010/05/21
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上野は徳川色の強い場所で、寛永寺や上野東照宮など、徳川家とゆかりの深い場所が点在しています。中でも徳川将軍の霊廟のある寛永寺は、現在の上野恩賜公園一帯に伽藍が建ち並ぶほどの広さを誇っていました。上野恩賜公園のすぐ横にある不忍池も、寛永寺の境内の一部のような感じがします。寛永寺の清水観音堂1631年に建立され、京都の清水寺と同じ懸造になっています。清水堂の舞台からは、不忍池が一望できたようです。歌川広重「名所江戸百景 上野清水堂不忍ノ池」1625年に天海が寛永寺を建立した時、不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島になぞらえた弁天島を造りました。弁天島に浮かぶ弁天堂また清水堂と弁天堂の間の池のほとりには、丸い輪の形をした枝を持つ松があり、「月の松」と呼ばれていました。歌川広重「名所江戸百景 上野山内月の松」「月の松」はすでになく、不忍池の風景も、時代ともに変わっているようです。関連の記事寛永寺(2009年7月)→こちら上野東照宮(2009年7月)→こちら
2010/05/19
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1657年に発生した明暦の大火の後、防災都市へ向けて江戸の都市改造が行われました。大名や武士の屋敷は江戸城の外へと移転し、隅田川には架かる橋も増えて、市街地も隅田川の東側へと移っていきました。延焼を防ぐために道路の拡張も進められ、上野や両国には「広小路」と呼ばれる道路が設置されました。現在の銀座線にも「上野広小路」の名前が残っていますが、当時は「下谷広小路」と呼ばれていました。歌川広重「名所江戸百景 下谷広小路」描かれているお店は松坂屋で、こちらが現在の下谷広小路です。やはり当時は「上野」が武士の町で、下谷が町人の町だったのでしょうか。関連の記事本妙寺(2009年7月)→こちら
2010/05/18
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千葉県浦安市は完全に埋め立てで造られたものだと思っていたのですが、そうでもなかったようです。すでに鎌倉時代から人が住んでいたようで、江戸時代には幕府の直轄領として堀江・猫実・当代島などの村が置かれていました。猫実村の庚申塔江戸時代の1715年に、猫実村の庚申講の信者によって建てられたものです。庚申塔の正面には金剛菩薩が刻まれ、その下には「見ざる」「言わざる」「聞かざる」の三猿が刻まれています。現在の浦安市内には江戸川の支流である境川が東西に流れ、江戸時代には境川の北側が猫実村、南側が堀江村として集落が発展していました。歌川広重「名所江戸百景 堀江ねこざね」ここを江戸と呼ぶかどうかはさておき、いかにも広重的な構図です。江戸時代の境川は、川幅が1.7mほどの小川だったのですが、海面埋立事業によって川幅も現在の5mまで拡張されました。現在の境川昭和の初めまでの境川は、川底が透けて見えるほどの清流で、飲料や炊事・洗濯にも使われていたそうです。また東京湾への玄関口として、川面には漁船が数多く係留され、魚介類を荷揚げする光景があちらこちらで見られていました。1971(昭和46)年に漁業権が完全に放棄されたようで、現在の境川も見るに絶えない汚染された川になっていました。
2010/05/17
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旧江戸川の河口から約3kmほど上流に行った所には、妙見島と呼ばれる天然の島があります。川幅の狭い旧江戸川の中で、なぜここに島が出来たのか、とても不思議な感じがします。江戸川区側から見たところコンクリート囲まれて高く護岸されていますが、人口の島ではありません。今では想像できませんが、江戸時代には風光明媚な島だったようです。歌川広重「名所江戸百景 とね川ばらばら松」題名には利根川とありますが、江戸川の妙見島の風景です。浦安市側からみた妙見島ばらばら松の風情も今は昔です。
2010/05/16
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柳島から続く浅草通り沿いには「梅屋敷」があり、江戸時代には梅の名所として知られていました。元は伊勢屋彦右衛門の別荘で「清香庵」と名付けられていましたが、庭に梅が多く植えられていたことから「梅屋敷」と呼ばれるようになったそうです。中でも「臥竜梅」と名付けられた一株の梅が有名で、龍が大地に横たわっているように見えたことから、徳川光圀が「臥竜梅」と命名したと言われています。歌川広重「名所江戸百景 亀戸梅屋敷」八代将軍の徳川吉宗も鷹狩の帰りに梅屋敷を訪れるなど、梅の季節になると江戸の行楽地として賑わっていたそうです。さらには広重に浮世絵を通して、臥竜梅に魅せられた人が海外にもいました。ゴッホ「花咲く梅の木」広重やゴッホを魅了した梅屋敷でしたが、1910年の大雨による隅田川の洪水で、梅屋敷の梅は全て枯れてしまい、梅屋敷も廃園となってしまいました。現在は浅草通り沿いに梅屋敷の碑が建ち、一株の梅がひっそりと植えられています。
2010/05/15
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東京スカイツリーを間近に見上げる墨田区業平から江東区亀戸にかけての一帯は、江戸時代には柳の木が多かったことから柳島と呼ばれていました。柳島の北側を流れる「北十間川」柳島には南北に流れる「横十間川」があり、北十間川とT字型に合流しています。その北十間川と横十間川が合流する場所には、「柳島の妙見さま」として信仰された法性寺があります。歌川広重「名所江戸百景 柳しま」北十間川と横十間川が合流し、川端に本性寺が描かれています。こちらが現在の法性寺木々に隠れていますが、同じ場所に建っています。法性寺は墨田区の中で最も古い寺院で、1492年に建立されました。現在は鉄筋コンクリートの建物に変わっていますが、「柳島の妙見さま」は葛飾北斎も深く信仰していたそうです。さらには近松門左衛門とも縁が深く、境内には北斎の顕彰碑と共に、近松門左衛門の碑が建っていました。
2010/05/14
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赤坂宿から藤川宿へ向かう途中の東海道沿いには、山中八幡宮という神社があります。1563年から起こった三河の一向一揆の時、徳川家康が逃げ隠れた場所です。桶狭間の戦い後にようやく今川氏から独立した徳川家康にとって、三河の一向一揆は、三方ヶ原の戦いと本能寺の変の後の伊賀越えと並ぶ三大危機の1つと言われています。藤川宿に入る手前には、宿場町の入口である「東棒鼻」の跡が復元されていました。宿場町の入口は「見付」とか「木戸」と呼ぶのが通常ですが、「棒鼻」と呼ぶのは初めてみました。東棒鼻跡当時は大名行列が宿場町入って来ると、本陣から名乗り出て棒鼻で出迎えたそうです。歌川広重「東海道五十三次 藤川」宿場町に入ると、昔ながらの格子戸の民家も残っていました。商家「銭屋」脇本陣も昔ながらの建物ですが、資料館として復元されていました。脇本陣(資料館)本陣だけは「現代風」でした。藤川宿本陣京都側の出入口である西棒鼻は過ぎると、岡崎宿へと続く松並木が残っていました。西棒鼻跡松並木の旧東海道関連の記事東海道~赤坂宿→こちら
2010/05/13
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御油宿と赤坂宿の間は距離にして1.7kmしかなく、東海道の宿場町でも最も短い間隔です。赤坂宿入口にある関川神社には、その短かさを詠んだ松尾芭蕉の句碑が建っています「夏の月 御油より出でて 赤坂や」夏の夜の短さと御油と赤坂の間の短さを詠んだものです。また「御油や赤坂、吉田がなけりゃ、なんのよしみで江戸通い」とか、「 御油や赤坂、吉田がなけりや、親の勘当受けやせぬ」などと謡われたように、吉田宿・御油宿・赤坂宿は歓楽街としても栄えた宿場町でした。歌川広重「東海道五十三次 赤阪」相当な賑わいだったようです。御油宿と同様に市街地から離れているため、現在の赤坂宿も閑散とした感じがありました。本陣付近の旧東海道本陣跡ところどころに格子戸の旧家が建ち並び、昔の街道筋の風情を残していました。中でもすごいのは、旅籠屋の「大橋屋」です。1716年建築の建物建物が現存しているだけでなく、1649年の創業以来現在も営業を続けています。(東海道の宿場町の中で、現在も営業をしているのは大橋屋だけです)関連の記事東海道~御油宿→こちら
2010/05/12
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江戸から数えて35番目の宿場町が、愛知県豊川市にある御油宿です。東海道見付宿(静岡・磐田)から分岐する「姫街道(本坂街道)」との合流点でもあり、最も多い時で本陣が4軒もあったそうです。見付宿にある姫街道の分岐点(御油宿の分岐点は見落としてしまいました)現在の御油宿は市街地から離れているため、ひっそりとした感じですが、所々に旧街道の名残がありました。格子戸の旧家が並ぶ旧東海道問屋場跡秋葉山信仰は遠江から三河に入っても健在なようで、秋葉灯篭も残っていました。御油宿に限らず、当時の宿場町では「留め女」と呼ばれる旅籠屋の女性が、旅人を引き入れようとして、盛んに声を掛けていました。歌川広重「東海道五十三次 御油」それでも特に御油宿や吉田宿は東海道では有名な繁華街として賑わったようで、広重の絵にも留め女の様子が描かれています。そしてこちらが現在の御油宿です。ひっそりとして閑静なたたずまいになっていました。そして御油宿と言えば、「御油の松並木」でも有名かと思います。国の天然記念物に指定され、現存する数少ない松並木です。関連の記事東海道~吉田宿→こちら
2010/05/11
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江戸から数えて34番目の宿場町が、愛知県豊橋市の中心部にある吉田宿です。江戸時代までは吉田の地名で呼ばれており、豊橋と呼ばれるようになったのは明治に入ってからのことです。江戸時代の吉田宿は、「吉田通れば二階から招く しかも鹿の子の振袖が」と謡われたほどの繁華街でした。吉田宿には「曲尺手(かねんて)」の地名が残り、当時は街道が曲がりくねっていたと思われますが、現在となってはアスファルトの道が碁盤の目のように整然と並んでいました。曲尺手町付近の旧街道現在となってはすっかり面影がなくなっていました。吉田宿には本陣が2軒あったのですが、そのうちの「清須屋」は現在うなぎの「丸よ」として営業されています。前日も浜松でうなぎを食べたのですが、やはりうなぎと聞くと入ってしまいました。遠江から三河に入ったこともあり、今回はひつまぶしです。(考えてみれば、これまでの東海道の記事で食べ物が登場したのはこれが初めてです)丸よのうなぎは皮を上にして乗せるそうで、これは全国でもここだけだそうです。さらには意外なルーツが丸よにあり、美人のことを「ベッピン」と言いますが、その語源となったのがこのお店です。明治時代のことですが、看板に鰻とも何とも書かず、ただ「頗(すこぶる)別品」とだけ書いていたところ、珍しい名前にみんな立ち寄って行きました。「すこぶる別品」は美味しいものを指す言葉となり、さらには美人のことを「ベッピン」と呼ぶようになって、現在に至っています。発展した都市の宿命ではありますが、旧東海道の面影は全くと言っていいほど残っていませんでした。仕方なく旧街道めぐりは早々に切り上げて、メインの吉田城へと向かって行きました。(吉田城の記事→こちら)吉田宿は吉田城の城下町としても栄えた町で、歌川広重も吉田城の櫓を描いています。歌川広重「東海道五十三次 吉田」豊川と豊橋も描かれていますが、右の御三階櫓は吉田城の鉄(くろがね)櫓だと思われます。吉田城の鉄櫓その吉田城跡である豊橋公園のすぐ南側を通っていると、ビザンチン様式の建物が目に入ってきました。1913年に建築された豊橋ハリストス正教会です。正式名称は「聖使徒福音記者マトフェイ聖堂」で、国の重要文化財にも指定されています。(他に重要文化財に指定されているハリストス教会としては、函館とニコライ堂があります)内部には山下りんのイコン画が描かれているそうですが、中に入ることは出来ませんでした。吉田宿から御油宿の間には豊川が流れており、旧東海道に架かる橋が「豊橋(とよばし)」で、豊橋の地名の由来にもなっています。矢作橋(愛知・岡崎)・瀬田の唐橋(滋賀・大津)と並ぶ、東海道三大橋の1つです。関連の記事吉田城→こちら
2010/05/10
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旧東海道の吉田宿は吉田城の城下町としても栄えた宿場町で、吉田城の大手門は東海道に面した場所にありました。吉田城大手門跡静岡県湖西市の本興寺の山門は、吉田城の大手門を移築したものだと言われていますが、ここにあったのかどうかは不明です。本興寺の山門吉田城は豊川の流れを後背に持ち、本丸から三の丸まで半輪郭式の縄張りで、各曲輪の周囲には空堀が巡らされていたようです。三の丸の周囲には土塁が残っていましたが、堀跡は道路に変わっていました。三の丸より内側は「豊橋公園」となっており、三の丸の虎口が公園の入口となっています。虎口の右手には太鼓櫓があったようです。三の丸と二の丸は完全に公園の敷地となっており、わずかに土塁の跡が残っている程度でした。三の丸二の丸の到着櫓跡二の丸の土塁二の丸御殿跡完全に公園に変わってしまったのかと思っていたら、本丸方向の木々の間に石垣が見えていました。本丸に近づいてみると、周囲には石垣と空堀の跡が残っていました。本丸虎口見た本丸の曲輪。本丸の四隅にはそれぞれ隅櫓が建っていたようですが、現在は北西の「鉄(くろがね)櫓」が復元されていました。鉄櫓本丸の復元模型三の丸や二の丸は土塁で囲まれた戦国時代の城郭でしたが、本丸は総石垣で囲まれた近世城郭になっていました。おそらく本丸は池田輝政の時代に造られたものだと思います。隅櫓跡搦め手の虎口跡本丸の背後に回ってみると、豊川が湾曲するように流れており、本丸石垣の下にも腰曲輪の跡がありました。豊川腰曲輪跡櫓が建っていたようですが、背後にも厳重に備えていた感じがします。吉田城は戦国時代初期の1505年に牧野古白によって築城されました。東三河の交通の要衝にあったため、戦国時代の中期になると、今川氏・徳川氏・武田氏の間で激しい争奪戦が展開されました。1546年には、当時の城主であった戸田宣成が今川氏を離反したため、今川義元が太原雪斎を率いて吉田城を攻略しました。以後吉田城は今川氏の支配下にあったのですが、1560年に今川義元が桶狭間の戦いで討死すると、1565年に徳川家康が吉田城を攻め落とし、以後は徳川氏の支配となりました。(この時に吉田城の城代となったのは、徳川四天王の1人である酒井忠次です)1571年には、駿河・遠江に侵攻してきた武田信玄によって攻撃されますが、酒井忠次の籠城戦によって吉田城は守られました。徳川家康が関東に移封となった後、1590年に池田輝政が吉田城に入城しました。池田輝政は城郭の拡張と城下町の整備を行ったのですが、関ヶ原の戦い後の1601年に姫路城へ移封となったため、城郭の拡張・整備は未完成のまま、明治維新を迎えています。
2010/05/09
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思えば三島宿から白須賀宿まで、長い長い静岡県の東海道でした。(東海道五十三次のうち、最多の22宿が静岡県にあります)とは言え、そもそも江戸時代には静岡県という概念はないので、あくまでも伊豆・駿河・遠江の3国だったのでしょうが…白須賀宿を過ぎるといよいよ遠江を出て、三河国は二川宿に入ってきました。(現在の地理においても、静岡県からようやく愛知県です)現代住宅と旧家が混在する二川宿の旧東海道二川宿に入ると、街道沿いのあちらこちらに昔ながらの家屋が並んでいました。脇本陣こちらも脇本陣ですそして何より驚きだったのは、本陣が現存していることでした。二川宿に限らず、本陣は地元の有力者が代々経営するものですが、二川宿の場合は火災によって二度も本陣が消失し、その度に本陣の経営が変わって行きました。最後に残った馬場本陣昭和60年に馬場氏から豊橋市に本陣の敷地・建物が寄付され、その後の改修・復元によって、今では本陣の内部を見ることができます。これまで東海道の宿場町をずっと見て来ましたが、本陣の中まで入って見るのは初めてです。(そもそも本陣が残っていること自体が珍しいことですが…)さらにありがたいことに、本陣の隣に旅籠屋まで復元されていました。旅籠屋「清明屋」の内部ちょうど旅籠屋に着いた旅人が足を洗っているところで、リアル感がありすぎです。旧東海道ではマイナーな宿場だったかも知れませんが、ちょっと江戸時代にタイムスリップしたような気分でした。歌川広重「東海道五十三次 二川猿ヶ馬場」これだけ当時の面影が残っている二川宿ですが、結局この構図がどこなのかわかりませんでした。それにしてもさすがは街道名物、当時は柏餅屋があったようです。関連の記事東海道~白須賀宿→こちら
2010/05/08
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新居宿を過ぎると、旧東海道は遠州灘の海岸近くを西へと延びて行き、旧街道らしい長い直線道路沿いには、旧家も残っていたりしました。元々はこの辺りは「元白須賀」と呼ばれ、白須賀宿の中心部のあった場所です。1707年の地震による大津波で、白須賀宿は壊滅的な被害を受けました。その津波が襲う前夜、岡山藩主の池田綱政が白須賀宿本陣に宿泊していたのですが、夢枕に観音様が立って「この地に大危難あり、早々に立ち去れ」とのお告げがあったそうです。池田綱政の一行は急ぎ本陣を離れたため、難を逃れたと言います。元白須賀から高台に通じる途中にある蔵法寺には潮見観音が祀られていますが、池田綱政は観音様のご加護に感謝して、分身を邸内に祀って厚く信仰したそうです。蔵法寺の潮見観音津波で大打撃を受けた白須賀宿の宿場町は、潮見坂の高台の上に移って行きました。(同じく津波で宿場町が移動したものに、興津宿があります)京都から江戸に向かって東海道を上って行くと、潮見坂で初めて太平洋が見えたそうで、歌川広重も潮見坂からの太平洋を描いています。歌川広重「東海道五十三次 白須賀」こちらが現在の潮見坂です水平線がうっすらと見えていました。潮見坂を登ったところには「潮見坂公園」があり、「おんやど白須賀」という旧家が建っていました。後になって建てられたものだと思いますが、中は無料の案内所になっていました。潮見坂公園は、織田信長が武田勝頼を滅ぼして尾張に帰る途中、徳川家康が茶亭を建ててもてなした場所でもあります。ここからは眼下に太平洋を望むことができました。潮見坂公園から見た太平洋旧東海道は再び西へと延びて、後から移った宿場町へと入って行きますが、宿場町の入口には「曲尺手(かねんて)」の跡が残っていました。「枡形」の呼び名の方が一般的だと思うのですが、遠江・三河では曲尺手の地名をよく見かけました。曲尺手や枡形は宿場町に直線進入できないための防御設備でもありますが、大名同士がすれ違わないようにするための役割も持っていました。当時は大名同士がすれ違うと、格式の低い大名は駕籠から降りて挨拶をしなければなりませんでした。しかしながら主君を駕籠から降ろすことは、先頭を行く供頭にとっては失態に当たります。そこで曲尺手まで先行して確認し、格の高い大名が来たならば、休憩を装って近くの寺に避難していたそうです。曲尺手を過ぎて宿場町に入ると、昔ながらの旧家が建ち並んで、旧街道の風情を残していました。本陣付近宿場町を過ぎると、遠江と三河の国境を流れる境川を渡り、遠州を離れて三州は二川宿へと入って行きました。関連の記事東海道~新居宿→こちら
2010/05/07
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新居宿の旧東海道から3~4km離れた場所に本興寺というお寺があり、国宝の本堂と小堀遠州の庭園があると言うことなので、寄り道をして行ってみることにしました。本興寺山門元は吉田城(豊橋)の大手門で、1674年に移築されたものです。後で吉田城を訪れたのですが、吉田城の大手門が残っていたとは驚きです。山門から本堂へ続く途中には中門があり、方丈・大書院・奥書院が並んでいました。中門1711年に建立されたもので、北原白秋が本興寺を訪れた時、夕早き 庫裡のはひりは ひたむろと 築地めぐらして 朱き中門と詠んでいます。大書院の中に入ることができるのですが、「文晁の間」という部屋があって、谷文晁の障壁画などが一面に飾られていました。そして大書院に面しているのがこちらの庭園です。庭園の向こうに見える奥書院も吉田城から移築されたものです。庭園は「遠州流庭園」となっており、何だかムニャムニャとした言い方ですが、小堀遠州の作庭と言われています。備中松山城・駿府城・名古屋城天守の作事や江戸城二の丸庭園の造園など、名城の作事には必ず小堀遠州が登場してきます。大書院を出て本堂の方へ向かうと、萱葺の建物が並んでいました。客殿1637年に建立され、1773年に再建されたものです。そして本堂「国宝本堂」の碑が建っているのですが、実は重文でした。それでも1522年に修復されて以来、現存する本堂は何とも言えない重みがあります。北原白秋の詠んだ歌碑がありました。水の音 たぞにひとつぞ 聞こえける そのほかはなにも 申すことなし関連の記事東海道~新居宿→こちら
2010/05/06
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舞阪宿から今切の渡しで浜名湖を渡ると、江戸幕府によって設けられた今切関所(新居関所)を通らなければなりませんでした。江戸時代には箱根関所と今切関所で、「入り鉄砲に出女」を取り締まっていました。(実際には今切が「入り鉄砲」で箱根が「出女」と、役割分担が決められていました)東海道の他にも関所はいくつか設けられましたが、数ある関所の中でも建物が現存しているのは今切関所だけです。浜名湖の地形が変わったため、現在の今切関所は浜名湖の湖岸から1kmほど陸に入ったところにあります。江戸時代の今切関所は浜名湖に面していて、関所には船着場が設けられていました。関所の横には、船着場の跡が残っていました。船着場跡また今切関所から少し南に行った場所には「船囲い場」があり、常に120艘ほどの船が係留されていたそうです。船囲い場跡(道路のところが岸壁です)大名の通行などで渡し船が必要になった時は、「寄せ船」制度によって近隣から船が集められました。今切関所を過ぎると、すぐに新居宿の中心地へと入って行きました。弥次さんと喜多さんも食べた街道名物の柏餅を食べながら、宿場町を歩いてみました。旅籠屋「紀伊国屋」(紀州藩御用達の旅籠屋だったそうです)飯田本陣疋田本陣跡本陣付近で旧東海道は左に大きく曲がり、南へと延びていきます。遠州灘の海岸近くで再び西に向かい、海岸に沿うようにして白須賀宿へと向かって行くのですが、白須賀宿に入る前に少し寄り道をしました。関連の記事東海道~舞阪宿→こちら
2010/05/05
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浜松宿で一泊し、翌朝再び東海道を西へと向かって行きました。浜松の西には浜名湖が広がっており、現在の東海道新幹線・東海道本線・国道1号線は浜名湖の南端を橋で渡っていきます。(東名高速だけは浜名湖の北側を迂回しています)旧東海道も浜名湖の南端を通っていたのですが、当時は「今切の渡し」と呼ばれる渡し船で浜名湖を渡っていました。その浜名湖の渡しの江戸側(東側)の宿場町が舞阪宿で、浜松宿から遠州灘沿いに続く旧街道には、今も松並木が残っています。宿場町の中心は浜名湖畔に近い場所にあり、本陣前の旧街道からは浜名湖を望むことができました。徳右衛門本陣と伝左衛門本陣前の旧街道。浜名湖はすぐ目の前に広がっています。本陣の向かい側には脇本陣「茗荷屋」が復元されていました。内部には当時の書院が残っており、中に入って見ることもできるのですが、まだ開いていませんでした。元々浜名湖の南端は陸続きになっていて、浜名湖も完全に海から遮断されていました。1499年の大地震で陸が切れ、太平洋とつながったので「今切」と呼ばれるようになっています。江戸時代にはすでに陸続きではなくなっていたため、「今切の渡し」を使って浜名湖を横断していました。歌川広重「東海道五十三次 舞坂今切真景」(描かれている山は舘山寺でしょうか)舞阪宿から対岸の新居宿までの約1里を渡し船で渡っていたのですが、現在も渡船場の跡が残っています。北雁木跡。雁木(がんげ)は城郭ではおなじみですが、階段状になった石垣のことです。舞阪宿には渡船場が三ヵ所あり、主に荷物の積み下ろしをする「渡荷場」、一般の旅人が利用する「本雁木」、そして大名や幕府役人が利用する「北雁木」がありました。舞阪と新居の間にはうなぎの養殖場や温泉のある弁天島が浮かんでいますが、現在は埋め立ても進んでほとんど陸続きのような感じです。東海道新幹線・東海道本線・国道1号線が寄り添うように集まっており、弁天島公園のすぐ後ろを東海道新幹線が通過して行きました。弁天島の公園から眺めると、東海道新幹線の車窓ではおなじみの光景が広がっていました。鳥居と浜名大橋(実は2日前に出張で名古屋に行ったので、ここを通過したばかりです)関連の記事東海道~浜松宿→こちら
2010/05/04
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見付宿から天竜川を渡ると、浜松宿へと入って行きました。浜松宿は浜松城の城下町として栄え、本陣が6軒、旅籠屋が94軒もあった静岡県(駿河・遠江)最大の宿場町でした。現在の浜松市も人口・面積ともに県庁所在地である静岡市を上回って、静岡県最大の都市になっています。しかしながらこのように発展した都市の宿場町にはありがちなことですが、旧街道の面影は皆無と言っていいほどです。浜松城大手門の旧街道(連尺交差点)浜松城の大手門からが宿場町の中心部なのですが、見る影もありませんでした。高札場跡本陣のあった場所も、今や普通の道路沿いの光景に変わっていました。佐藤本陣跡梅屋本陣跡国学者賀茂真淵の生家が近くにあり、現在は賀茂神社が祀られています。毎年5/3~5/5に浜松まつりが行われ、この日(5/2)は前夜祭のような感じでした。市内のあちらこちらには山車が出ていました。力連の山車都市開発の影響もあるのですが、浜松に限らず戦災によって史跡が失われてしまったのは、何とも残念です。歌川広重「東海道五十三次 浜松」有名な「浜松冬枯れの図」ですが、当時はこんなのどかな光景だったとは、想像もできません。御三階櫓が描かれていますが、浜松城でしょうか。東海道の旅人と同じく、この日は浜松で一泊することにしました。関連の記事東海道~見付宿→こちら浜松城→こちら
2010/05/03
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前回の袋井宿で止まっていた東海道五十三次めぐりを再開、江戸から数えて28番目の宿場町である見付宿に来ました。東海道五十三次も半分を過ぎ、ここから先はいよいよ後半に突入です。街道宿場町の出入口を「見付」と呼びますが、見付宿の名前はこの見付から来たのではなく、京都から東海道を上ってくると、最初に富士山が見えたことに由来しています。江戸方の出入口である「江戸方見付」の東木戸跡東木戸脇には阿多古山があり、その斜面を下るような感じですが、富士山は見えませんでした。阿多古山には一里塚があり、愛宕神社が祀られていました。阿多古山一里塚愛宕神社神社の裏手には土塁や空堀の跡のようなものが見受けられたのですが、もしかして城跡なのでしょうか。その愛宕神社の境内から振り返ると、見付宿の宿場町を眼下に見ることができました。旧東海道は愛宕神社から西へと延びているのですが、旧街道に下りてみると、当時の面影はほとんど残っていませんでした。問屋場跡(静岡銀行の支店になっています)本陣跡本陣前の旧東海道それでも街道沿いを見ていると、ところどころに旧街道の面影が残っていました。秋葉山信仰が盛んな静岡県西部の旧東海道では、この秋葉灯篭をよく見かけます。脇本陣跡(といっても薬医門だけですが…)旧街道から少し足を延ばすと、さすがに東海道には歴史の跡が残っていました。脇本陣の少し江戸よりには宣光寺というお寺があり、徳川家康が寄進した梵鐘があります。幕府を開く前の1587年に寄進したもので、「源家康」の文字が刻まれています。また日本人で初めて空を飛んだとされる、「鳥人」浮田幸吉も見付宿に住んでいたようです。浮田幸吉が空を飛んだのは、江戸時代のことです。さらに本陣跡の奥に行くと、現存する日本最古の木造小学校である「旧見付学校」がありました。1875(明治8)年に完成し、大正11年まで小学校として使われていました。校舎の土台にある石垣は、横須賀城の玉石垣を流用したものです。宿場町の中心部を過ぎると、旧東海道は左に大きく曲がって、南へと延びる形になります。そのまま真っすぐ西へ向かうと「姫街道」となり、曲がり角が姫街道のスタート地点です。「これより姫街道 三州御油まで」姫街道は、その名の通り女性が多く利用した街道です。理由は浜名湖の「今切の渡し」を嫌ったとも、新居宿の新居関を嫌ったからだとも言われています。いずれにしても浜名湖の北部本坂峠を迂回するルートで、「本坂道」や「本坂街道」が正式名称です。姫街道次に姫街道と合流するのは、遠江国(静岡)ではなく、三河国(愛知県)です。姫街道の分岐点で南に折れた旧東海道は、遠江国分寺の前を過ぎると再び西に向かい、天竜川へと続いて行きます。天竜川の川幅は約1kmあり、あの大井川と同じくらいの川幅をもっています。大井川は川越人足によって渡っていましたが、天竜川の方は船で渡っていました。歌川広重「東海道五十三次 見附」天竜川の渡船の運営は、池田村が独占しており、当時は大番船6艘、小番舟22艘、高瀬舟が10艘もありました。「大井川ではあれだけ大騒ぎだったのに、天竜川ではあっさり船で渡るのか…」といった感じですが、天竜川は水深があるため、川越人足で越えるのは難しかったようです。現在の天竜川さすがに「暴れ天龍」の流れとあって、大井川に比べると水深も流量も多い感じがします。やはり天竜川に橋を架けるのも難しかったようで、池田橋が架けられたのは明治に入った1875年のことです。当時の池田橋の跡には、その碑が建っていました。天竜川を越えると、いよいよ浜松宿へと入っていきます。関連の記事遠江国分寺→こちら三方ヶ原の戦い~一言坂(2008年4月)→こちら(姫街道沿いにあります)東海道~袋井宿(2010年1月)→こちら
2010/05/02
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遠江(静岡県西部)は元々「遠淡海(とほつあわうみ)」と呼ばれ、浜名湖のことを指すと言われています。京都から遠い淡水湖という意味で「遠淡海」となり、遠江になったようです。(ちなみに京都から近い淡海は琵琶湖で、滋賀県が近江となっています)東海道見付宿の旧街道付近には、「国府台」の地名が残り、遠江国の国府があったと思われます。東海道の旧街道沿いには、国分寺の跡が残っていました。国分寺跡今となっては草の生い茂る広場となっていますが、金堂・講堂・七重塔の跡が残り、かつての国分寺の大伽藍が偲ばれます。金堂跡仏像を安置した場所です。講堂跡天平の甍が輝く建物群が並んでいたことでしょう。遠江国分寺は、他の国分寺と同じく741年の「国分寺建立の詔」によって造られました。旧東海道を挟んだ向かい側には、遠江国司として赴任してきた桜井王によって建てられた「府八幡宮」があります。国内がよく治まるようにとの願いを込めて建てられました。それにしても官道としての東海道が整備されたのが飛鳥時代から奈良時代にかけてですが、国分寺と東海道はどちらが先だったのでしょうか。関連の記事東海道~見付宿→こちら
2010/05/01
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