全10件 (10件中 1-10件目)
1
中仙道六十九次の53番目の宿場町は、岐阜市の加納宿です。旧街道らしい一直線の道が延びており、道幅にも旧中仙道の面影が残っていました。加納宿本陣付近の旧中仙道しかしながら沿道の風景はすっかり変わってしまい、住宅地の中に建つ碑だけが旧街道の跡を示していました。西問屋跡脇本陣跡こちらの脇本陣跡にはタワーマンションが建つようです。すっかり住宅地になってしまった加納宿ですが、それでも旧街道らしく、沿道には神社や寺院が建ち並んでいました。その1つが加納城の守護神として建てられた加納天満宮です。加納天満宮の表参道以前は9台の山車があったのですが、空襲のために1台を除いて焼失してしまいました。社殿も空襲で焼失したため、現在の拝殿は戦後になって再建されたものです。加納宿は岐阜市の南側にあって加納城の城下町でもありましたが、元々の岐阜の中心部は岐阜城(稲葉山城)の城下町として栄えました。岐阜の名付け親であり、繁栄を築き上げたのはこの方です。岐阜駅前の織田信長像
2010/03/31
コメント(2)
下総の国府が置かれた江戸川東岸には「国府台」の高台があり、歌川広重の「江戸名所百景」にも描かれています。歌川広重「江戸名所百景」~鴻の台とね川風景(題名は利根川ですが、現在の江戸川です)こちらが現在の国府台付近の江戸川戦国時代には国府台城が築かれていたのですが、現在の国府台城跡は「里見公園」となって、桜の名所として知られています。今年も里見公園にお花見に行ったのですが・・・見込み違いとか見当外れとはこのことを言うのでしょうが、まだ桜が咲いていませんでした。満開になると一面の桜で染まる国府台城の空堀もこんな感じです。同様に気の早い人もいるもので、すでに花見の宴会が始まっていました。関連の記事国府台城(2008年11月)→こちら弘法寺(伏姫桜)→こちら下総国分寺→こちら
2010/03/27
コメント(0)
江戸川東岸の市川市には、国府台と呼ばれる高台があり、その名の通り下総の国府が置かれていました。国府台の遠景戦国時代には国府台城が築かれ、北条氏と里見氏を始めとする房総連合軍の間で、二度の合戦「国府台合戦」が繰り広げられた場所でもあります。下総の国府の跡は残っておらず、現在の和洋女子大から千葉商科大学のあたりに国府があったと推定されています。その国府があったと思われる場所から、さらに東に続く高台上には下総国分寺が置かれ、こちらは現在も寺院として残っていました。南大門(仁王門)門は最近になって復元されたものでしょうが、仁王像は古いものでした。仁王門をくぐった境内に入ってみると、中世以降に造られた普通のお寺と言った感じでした。本堂奈良時代に建立された当時は、金堂や七重塔のある伽藍配置だったようです。金堂跡には本堂が建ち、七重塔の跡は墓地になっていました。下総の国府と共に当時はここが中心地だったのでしょうが、今となっては繁栄を想像するしかありません。関連の記事国府台城→こちら上総国分寺→こちら
2010/03/24
コメント(2)
手児奈霊堂のすぐ近く、市川の国府台の高台に弘法寺があります。手児奈の霊を供養するために行基菩薩が建立した求法寺が始まりとされ、平安時代になって弘法大師が「真間山弘法寺」として伽藍を建立したとされる名刹です。弘法寺山門国府台の地名が示すように、この辺りは下総国の国府が置かれた場所で、弘法寺も国府と深い関わりがあったと言われています。弘法寺は後に天台宗に改宗したのですが、鎌倉時代の1275年に日蓮の弟子との問答に敗れ、今度は日蓮宗に改宗したそうです。(それでも弘法寺を名乗ったのがすごいところです)戦国時代には名門千葉氏の庇護を受け、徳川家康が関東に入封すると寺領を与えられていました。紅葉の名所として知られ、市川や真間の門前町は大いに賑わったそうですが、明治になって建造物は火災で焼失しています。毎年この時期になると弘法寺を訪れるのですが、目当ては境内にある「伏姫桜」と名付けられた枝垂れ桜です。伏姫桜まだまだ三分咲きといったところでしょうか。「伏姫」の名前は、南総里見八犬伝に登場する里見義実の娘で、八犬士の生みの親である伏姫に由来していると思われます。(伏姫は安房から出たことがないはずなので、同じ千葉県でも下総で「伏姫」の名前を聞くと、違和感がありますが…)さらには滝沢馬琴が南総里見八犬伝を完成させたのは江戸時代末期なので、伏姫桜の名前が付けられたのも江戸時代以降だと思われますが、その時すでに里見氏は滅亡していました。それでも国府台の地は戦国時代の里見氏にとっては因縁深い場所で、北条氏と激戦を展開した国府台合戦の舞台でもあります。南総里見八犬伝と同じく、伏姫桜も里見氏の栄光を偲んで名付けられたのかも知れません。関連の記事手児奈霊堂→こちら国府台城(2008年11月)→こちら
2010/03/23
コメント(2)
市川の真間にある手児奈霊堂は、「手児奈」という女性の奥津城処(墓所)と伝えられる地に建てられ、1501に弘法寺の日与上人によって世に広められました。手児奈霊堂手児奈霊堂の境内に小さな碑が建っていたのですが、何が書いてあるのかよくわかりませんでした。手児奈の奥津城処なのでしょうか・・・手児奈については様々な伝承があり、・美人だったために多くの男性から求婚され、自分のために人々が争うのを見かねて、真間の入江に身を沈めた。・ある国の国造の息子に嫁いだものの、親同士の不和から海に流され、漂着したところが故郷の真間の海辺であった。・継母に仕え、真間の井戸の水を汲んでは孝養を尽くした。など、美談と言えば美談ですが・・・いずれにしても手児奈の伝承は、万葉集を始めとして多くの作品に登場してきました。奈良時代に山部赤人が下総の国府を訪れた時、手児奈の伝承を聞いて、「われも見つ 人にも告げむ 葛飾の 真間の手児奈が 奥津城処」と詠った歌が、万葉集に収められています。また、歌川広重の「江戸名所図会」の中にも、手児奈霊堂と霊堂前の「継橋」が描かれています。江戸名所図会「真間の紅葉 手古那の社 つぎ橋」現在は手児奈霊堂の参道前に、継橋が復元されていました。継橋関連の記事弘法寺→こちら
2010/03/22
コメント(2)
東西線の葛西駅横の高架下にあるのが、地下鉄博物館です。東京メトロと同じ改札機を通って入場します。鉄道博物館の地下鉄版と言った感じで、歴史のコーナーには過去の車両が展示してありました。日本最初の地下鉄1927年に上野~浅草間(現在の銀座線)を走った電車です。当時の車内やホームも復元されていました。今の銀座線の車内が狭いのもわかるような気がします。上野駅のホーム開業時のポスター「東洋唯一の地下鉄道」というフレーズが時代を感じます。日本初(東洋初9の地下鉄は、「地下鉄の父」と呼ばれる早川徳次によって設立された東京地下鉄道によって開業されました。早川徳次像「あの早川徳次なのか…」と思ったのですが、シャープペンシルの発明者でシャープ創業者の早川徳次とは別人で、読み方も「はやかわとくつぐ」でした。開業から7年後の1934年には浅草から新橋まで伸び、上野~浅草間の営業になりました。東京高速鉄道も渋谷~新橋を開通させていたのですが、東京地下鉄道と東京高速鉄道はライバル関係にあり、直通運転はなかなか実現しませんでした。(ちなみに東京高速鉄道の総帥は、東急の創業者五島慶太です)結局東京地下鉄道と東京高速鉄道を統合する形で「帝都高速度交通営団」が設立され、現在の銀座線と同じ上野~渋谷の直通運転ができるようになりました。その複雑な経緯を持つ銀座線の電車の横には、丸の内線の電車が並んでいました。帝都高速度交通営団(営団地下鉄)になって初めて開通したのが、丸の内線でした。池袋~御茶ノ水間が最初に開業したのですが、戦後の1954年(昭和29年)のことです。他にも開業時のポスターがいくつか展示してありました。日比谷線全通。東京オリンピックの1964年でした。東西線「国鉄(中央線)」が時代を感じます。千代田線半蔵門線他にも興味深いポスターが並んでいたのですが、最後が一番新しい新都心線のポスターが展示してありました。すでに営団から東京メトロに変わっています。普段は足としてしか使わない地下鉄ですが、少し見方が変わったような気がしました。
2010/03/19
コメント(2)
江戸幕府が直轄地から集めた年貢米や買い上げた米を、収納・保管していたのが「御蔵」と呼ばれる倉庫です。大阪・京都二条・江戸浅草の御蔵は「三御蔵」と呼ばれ、特に浅草御蔵は旗本・御家人の給米を保管するため、勘定奉行の支配下に置かれていました。浅草御蔵は、1620年に浅草鳥越神社の丘を切り崩して、隅田川の西岸を埋め立てて造営されました。隅田川の近く、蔵前橋を渡ったところには、浅草御蔵跡の碑が建っています。浅草御蔵跡浅草御蔵の前面は「御蔵前」と呼ばれ、米問屋や札差の店が並んでいました。その地名は「蔵前」として現在も残っています。蔵前橋(蔵前橋通り)から見た隅田川
2010/03/15
コメント(2)
「浅草に天文台があったのか…」と思ったのですが、江戸時代には天文・暦術・測量・地誌編纂・洋書翻訳を行う場所として、浅草に天文台が置かれていました。「司天台」や「浅草天文台」と呼ばれ、1782年に牛込藁店(現在の新宿区)から移転・新築されました。正式には「頒暦所御用屋敷」と呼ばれ、その名の通り本来は暦を作る役所である「天文方」の施設です。現在の浅草天文台跡。(全く面影がありません)当時の記録によると、高さ10mほどの築山の上に5.5m四方の天文台が置かれていたそうです。葛飾北斎の「富嶽百景」でも、「鳥越の不二」の中に浅草天文台が描かれています。浅草天文台では、天文方の高橋至時が寛政の改暦にあたっての天体観測を行った場所です。また高橋至時の弟子である伊能忠敬は、全国測量の前に深川の自宅と浅草天文台の距離を測って緯度の測定を行っていました。また1821年には、外国語の翻訳局である「蕃書和解御用」が設置され、洋学所や開成学校などを経て、東京大学へと受け継がれています。
2010/03/14
コメント(0)
振り返ると東海道を行ったり来たりの一週間でした。週の前半は名古屋で、一旦東京に戻って週の後半は大阪に行っていました。思えば大阪は1年ぶりくらいで、エスカレーターも思わず左側に立ってしまったりと・・・梅田で待ち合わせにしたのですが、梅田の待ち合わせ場所と言えば阪急梅田駅のビッグマン今年は阪急電鉄開業100周年だそうで、ビッグマンの前には写真パネルが展示してありました。阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道が開業したのは1910年3月10日、当時は梅田⇔宝塚(現在の宝塚線)と石橋⇔箕面(現在の箕面線)の2区間でした。その宝塚線の昔の駅舎が写真で展示してありました。阪急の駅舎100年宝塚線の石橋駅大学が石橋にあったので、石橋駅は通学で乗り降りしていました。現在(20年前)とは全然違った雰囲気です。さらには歴代の電車も写真で並んでいました。やはり阪急電車と言えば、こちらでしょうかブルーリボン賞の6300系(カラー写真でもいいと思うのですが)
2010/03/12
コメント(2)
銀座の晴海通りのランドマークとなっていた歌舞伎座ですが、老朽化のために2010年4月で休館し、新築工事に入るそうです。現在の建物は1925(大正14)年に竣工、太平洋戦争の空襲で焼失し、1950(昭和25)年に修築されたものです。新しい歌舞伎座は2013年春に完成予定で、地上38階建の高層ビルとして生まれ変わるようです。
2010/03/05
コメント(0)
全10件 (10件中 1-10件目)
1