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義父が亡くなった。約1年半の肺ガンの闘病を経て、66年の人生の幕を閉じた。ほとんど無口で、面倒見のいいイマドキのおじいちゃんとは違ったけれど、一年に数回しか会っていないはずの私たちの息子たちも本当になついていた。病気がわかってからはほぼ毎日長男くんの祈りの中に含まれていた。でも、やっぱり天に召される時期は私たちにはどうすることもできずアボニムは天に召された。夜、危篤の知らせを受けて、とりあえずの物を詰めて韓国へ。当日チケットを取っての帰国だったから高速バスの乗り継ぎなどもちゃんとできず、田舎の病院に着いたときには夜中の12時過ぎ。もう手の施しようがないと言われ、ソウルの病院から故郷の病院へ搬送した当日だった。病床のアボニムは6月の帰省に見た姿とは打って変わり痩せ細り、息も絶え絶えで酸素マスクをされていたのに、私たちを見て「なんでまた来たんだ!そんなに早く死なないぞ!」と拳骨でパパをたたいて怒っていた。3日、長くても一週間もつかどうかと言われての韓国行きだったが、アボニムは精一杯頑張り抜いて、お医者さんから言われた期限の中の最長の一週間という時を私たちに与えてくださった。私たちはシテグから毎日お見舞いに通った。アボニムは苦しいだろうに、子どもたちが手を握ると必死で力を込めていた。亡くなる日の朝、4人でお見舞いに行った時、ベッドの周りに座って携帯で電話ごっこをしていた子どもたちの気を引くために酸素マスクの下から小さな声で、日本語の「もしもし」と何度か言ったアボニム。「ハラボジ、もしもしって言ってるよ!ハラボジ、もしもし~??」と子どもたちと最後の交流をしていた。ずっと泊り込みで看病していたオモニムに、毎食外食よりは…とお弁当を作って届けていたがこの日本人ミョヌリの私が作ったお弁当をオモニムはいつも残さず食べてくださった。心身ともに極度の疲労の中、オモニムの思いやりあってのことだと頭が下がる思いだった。ろうそくの火が消える直前に炎が一段と燃え上がるように、アボニムは一時すごい回復を見せ私が作ったおかずを少し召し上がったりもして驚かされた。それも優しさだったかな。亡くなる時、長男であるパパとオモニムが一緒に看取ることができた。日本に離れて住んでいたパパがちょうどその時居合わせることができてよかった。パパに後悔だけはさせたくないという思いだけで急いで飛んでいって本当によかった。亡くなる前の一週間もここに書ききれないいろんなことがあったけど、亡くなった後の怒涛の3日間連続のお葬式も驚きの連続。こんなに疲れたことも人生で初めてだったかも。だけど、言葉の壁もあったし初めてのことだらけで、クンミョヌリなのに戦力にならない私をいつも指導してくれたヒョンニムには感謝でいっぱい。私にはアボニムとの思い出が当たり前だが5年分しかない。だから、本当の息子や娘のように膨大な思い出を背景に泣くのとは違うがパパとの結婚を認めてくださって私をミョヌリとして迎えてくださったというその事実だけで感謝の思いがこみ上げてきて涙が出てきて仕方なかった。長男くんを連れての初めての帰省の時、孫見たさに待ちきれなくて夕方到着だと言ってあったのに、私たちを迎えに朝早くから町にバスで出てきていろんな所をウロウロして時間を潰していたアボニム。ケイタイで到着の知らせを受けて駅まで走ってきたアボニムは額から汗を流していたっけ。毎回の帰省の最終日、シテグを車で後にする時、私やオモニムが涙を流していてもいつもアボニムは涙を見せまいと車が出る直前に背中を向けて歩き出してしまったがその肩は揺れていた。それが、前回6月の帰省の別れ際、パパが初めて涙ながらにアボニムを抱き締めるとアボニムは声をあげて涙を流していた。アボニムは家族のために今まで本当にすごい苦労をしてきた。これから少しはのんびりしたり、楽しいことをしてほしかった。私たちもアボニムとの時間をもう少し長く過ごしたかった。天国でまたアボニムと再会したら、初めてお会いした時がっしりとした堅い手で私の手を包んでくださったように今度は私からすぐに駆け寄って手を握りたい。心から感謝しています、アボニム。
2010年08月10日