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スッタニパータ (原始仏典)より最高の目的を達成するために努力し心がひるむことなく行いに怠ることなく堅固な活動をなし体力と知力とをそなえ犀の角のようにただ独り歩め(『ブッダのことば』岩波文庫)今年も残りあとわずかとなりました。大掃除を半分終えて少しほっとしているところです。ここまで来ると今年一年間を振り返るというよりも来年はいったいどんな年になるのだろうか、、、と考えてしまいますね。西洋占星術や数秘術などをしているので来年のテーマや運勢はなんとなくわかっています。実をいうと、そのエネルギーの流れをもう感じ始めています。エネルギーというのは空気のようなものですから新年になって、突然古いエネルギーから新しいエネルギーにいれかわるというようなことはないのです。今は、古いエネルギーのなかに新しいエネルギーが流れこんできていて来年の気分というか来年の心の在り方みたいなものをすでに感じ始めています。冒頭にあげたスッタニパータの言葉のように遠くに向かってはばたいていくというよりは足元を見つめて重い一歩一歩を踏み出していく一年間になりそうです。何か抱えきれないものを抱きしめていくことにもなりそうです。それでも、前へ向かって進んでいることだけは信じていたいものです。 ブログを読んでくださった皆様へ今年一年間、本当にありがとうございました。来年も、私のアンテナにひっかかった情報やら事柄などを私なりの言葉で発信していくつもりです。皆様、良いお年を~~~
2010.12.29
人間の赤ん坊はなぜこれほどまでに無力な存在として生まれるのか。ほかの動物たちを見れば牛や馬は、生まれるとすぐに立ち上がりみずからの足で母親のお乳を吸いにいきます。それと比べれば、なぜヒトの赤ちゃんは保護を必要とするのか。このような疑問や命題にとりくんだ心理学者や研究者は意外に多いのです。そもそも、動物にとって出産という行為は危険がつきまといます。母親にとっても、生まれてくる赤ん坊にとっても大変に危険なことなのです。出産と同時に母体が死に瀕することもあるし子どもが死産で生まれてくることもあります。動物たちの中でも、特にヒトの出産には無理があるようです。その理由は、肥大化した脳にあります。人間の脳は進化を遂げた結果、大脳皮質がほかの動物にくらべて格段に発達しとても大きな頭蓋骨で護られることになります。ヒトの胎児の脳は、妊娠6カ月くらいで88グラムほどであったのが、出生時には370グラムもあります。つまり誕生直前に脳が爆発的に成長し、大きくなりすぎて母親の産道を通過できないかもしれない危険性が高まります。そこで、これ以上、頭蓋骨が大きくなりすぎて母体と胎児に命の危険が迫らないよう大急ぎで、つまり10月10日ほどで出産しなければならないのです。そして、母親は死ぬほどの痛みにたえて子どもを生みますが、生まれてきた新生児は泣くことしかできないまさに無力な存在です。 生理的早産とはこのようにヒトの出産には無理がありすぎる、ということで、私たち人間は「生理的早産」をして生まれてくるという仮説が生まれました。この仮説を提唱した動物学者のポルトマンによれば、ヒトの新生児が類人猿の新生児と同じ発達状態で生まれてこようとしたら、妊娠期間は21か月になる、と指摘しています。 外的妊娠とはまた心理学者のボストックはヒトの生後8~10ヶ月は「外的妊娠の期間」であると述べています。赤ん坊のハイハイが可能になるための神経系の発達の完成に8~10か月かかるから、という理由です。 体外妊娠とは自然人類学者のモンターギュはヒトはネオテニー(幼形成熟)であるから、「体外妊娠の期間」を必要としそれは9~11か月であるといいます。以上を総合するとヒトは体内妊娠のほかに生まれてからも子宮の外での妊娠状態が続きます。だから、生まれた直後の新生児に対するケアは本当に重要なものになります。母と子の密着状態は続けられなければならないのですがこれがあまりに大変で産後うつになったり、夜泣きがひどくて、手をあげてしまったり、自分の時間がほしくて育児放棄をしてしまったりするお母さんも出てきます。前回のブログで児童虐待について書きましたがお母さんたちも悩める存在です。虐待児童だけでなく虐待してしまう母親の保護やケアも必要です。虐待をしてしまう母親の多くは虐待されて育ったことが知られています。母子関係というものは考えさせられる問題が本当に多いですね。町でベビーカーを押して歩く幸せそうな若い母親を見ても私はついつい「みんな心の中で葛藤しているんだろうなあ」と考えてしまいます。生まれるのも、生きるのも含めて「人間をやるのは修行そのもの」だと思います。生まれてきたことに感謝、感謝
2010.12.27
『子供の愛し方がわからない親たち』 講談社 斎藤学著この本はタイトルでわかるとおり児童虐待について書かれた本です。アメリカの事情、日本の実情この問題に関する日本の法律の無力さ現場(つまり児童相談所)の無能さ虐待児童の保護に奔走する関係者たちの焦りと怒りと失望感について書かれています。とくに近親姦である、性的虐待は・・・知れば知るほど苦しくなります。その実態について、具体的ケースをまじえて書かれた個所は、同じ女性であるだけに読むのが本当に辛くなります。ときどき本をバタッと閉じて、放心してしまいますね。被害者となりやすいのは4歳から12歳ぐらいまでの女子で加害者となるのは実父、祖父、継父、兄です。数は少ないですが、男子も犠牲者になります。(父親、母親によって)こうした性的虐待にあった子供たちはその時は誰にも言えずに、ただ耐えてあるいは家出をして、父親から逃げ出し、その後、30代、40代になって精神病の治療の過程でこのトラウマについて告白をし始めます。その告白が重く、暗く、本当に辛いものです、、、日本でも、親権の停止や廃止について取り決める法律の制定に向けて最近、動きが具体化してきました。やがて、アメリカなみに子供たちの人権が取り扱われる日がくるのでしょうか。・・・でも、長い、長い道のりでしょう・・・*13歳 男子の作文父と母は、毎日けんかをしていました。母は夜になると、仕事へいってしまいます。父は妹にはすごくやさしくぼくと弟にはきびしかったです。夜はテレビを見ています。すぐにねちゃうとおねしょをするので12時から2時ぐらいまでおこされました。いねむりをすると、はえたたきのぼうになわとびを何本にも切ったものをぼうにつけむちを作り、ぼくたち二人をたたきました。顔や背中をたたかれました。それでもだめな場合は、外に出され、立たされます。ときどき水もかけられます。とてもつらかった。お母さんはよる帰るのがこわくて、友だちの家へとまったりしてかえってこない時がありました。そんな時は、炊事、せんたくなどをさせられて父はのんきにパチンコへいき遊び呆けていました。弟はとてもうるさかったのでお風呂場にはりがねでつながれていました。ぼくは、父から「こいつにめしなんか食わすんじゃねえぞ」といわれていましたがかくれてくれていました。妹がそれを見ていて、それを父にいってしまいぼくまでおこられたことが何回かありました。父がいきなり「こいつをどこかにすててくるんべー」といいました。車に弟をのせどこかに病院に弟を捨ててきました。ぼくは弟のことを思い家へ帰ってもただ「ボー」としているだけだった。ぼくが生まれた時の父は、何でも買ってくれて何でもしてくれた父があんな父になってしまったのが不思議でした。次の日の朝、父は仕事にでかけました。その後にけいさつの人が来てぼくたちをつれていきました。なんでぼくたちが行くんだろうと思い、行ってきました。そしたら、父が小さい部屋へ入っていくのが見えました。(作文集『続・泣くものか――子どもたちからの人権の訴え』全社協養護施設協議会 亜紀書房)子どもはどんな親であろうと親を求めてやまない親に愛されたいと願う悲しい生き物らしい・・・アメリカにはペアレンティング(親業)を教えるクラスというのがあり問題ある親たちは強制的に、このクラスの受講を義務付けられます。そして、親が果たすべきことを一から学びます。さぼると罰金をとられるから必ず受けないといけないのです。子どもができれば、誰でも自然に親になれるわけではないという現実があります。・・・・・・本当に苦しい現実です。。。
2010.12.25
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動静不二(どうじょうふに)この言葉は、禅の基本精神をあらわしたものです。「行もまた禅、坐もまた禅、語黙動静、体安然」 『証道歌』よりつまり、行住坐臥というあらゆる姿において一貫したものが禅である、と言っています。常に移り変わるまわりの状況に対してはっきりと五感を働かせているということ。それでも決して対象物に執着しないということ。もしそれができれば、喧噪のうちにあっても静寂でいられるし、静寂のうちにあっても活発でいられるのです。「動」とか「静」とかの分け隔てはなくなってしまう。それはまるで、フル回転している独楽(コマ)が完全に静止しているように見えるのと同じことです。動静不二(どうじょうふに)・・・動と静が完全にまじわる一瞬、二つのものが一つになります。 禅の理想の境地ですねえ。勉強していても、なかなか、なかなかです・・・でも、どんな境地であろうとも、いつかどこかにあるのではなく「即今即処」(いまここ)にあるはずなのですが、、、gate gate paragate parasamgate bodhi svahagate gate paragate parasamgate bodhi svahagate gate paragate parasamgate bodhi svahaチャクラー治癒力の目覚め
2010.12.23
パーソナルスペース(個人空間)とは人のまわりには、これ以上他人にちかづいてほしくない見えない境界線のようなものがあります。だから、急に誰かが横に立つとドキッとするし、電車の車内がすいていれば、なるべく人と接しないような場所に座ったりします。見えないけれども、自分のテリトリーとなっているような自分の周囲の空間を心理学者のソマーは「パーソナルスペース」と呼びました。この空間は、相手によって狭くなったり広くなったりします。心を許した相手、たとえば恋人なら抱きしめられたいからこの空間はほとんど相手と密着します。嫌いな相手なら、1ミリでも、自分の場所に近づいてきてほしくないと思うことでしょう。欧米人は個人主義なので心理学を勉強していようとなかろうとこのパーソナルスペースの問題にとても敏感です。だから、すれちがいざまに身体がふれそうになれば必ず「エクスキューズ・ミー」と声をかけますし会った後、握手で終わるのか、それともハグして終わるのか、お互いの距離感をとても心得ているように思います。でも、狭い島国で、しかも過密人口の国に住んでいる日本人は、意外とこのパーソナルスペースの問題には無神経ですね。歩きながら身体がぶつかっても謝りもしないし。ときどき平気で、誰かの個人空間を侵している感じがします。このせいで、対人恐怖症が増えているのでしょうか?このパーソナルスペースが個人によってどう違うのかについて刑務所の囚人に対しておこなった実験があります。実験では、広い部屋の真ん中に立つ囚人に向かって実験スタッフが歩み寄っていくというもので、囚人が、もうそれ以上近寄ってほしくないと思うと手を上げます。こうして、8方向からのデータを集計して、その人が自分の身体の周囲にどの程度のパーソナルスペースをとっているかがわかります。この実験は、興味深い結果を残しました。すぐにほかの囚人と問題をおこす、トラブルメーカーになりやすいすぐに暴力行為に及んでしまう囚人たちは、そうではない、大人しい囚人たちよりも4倍もの広さのパーソナルスペースを確保しようとしていることがわかりました。つまり、パーソナルスペースを大きく確保せずにいられない彼らは、つねに心理的緊張が大きく、防衛反応が衝動的になりやすいのです。ある意味、人を恐れる気持ちがほかの人より強いとも言えるのでしょうね。だから、「やられる前にやれ」となってしまうのでしょうか。同じ実験が、刑務所の外でも実施されました。すると、神経症的傾向の強い人ほどやはり、パーソナルスペースを広くとっていました。つまり、神経症的傾向をもつ人は対人関係に非常に敏感で、他人との接触に強い不安を抱いているからです。「対人恐怖症」になると、ひきこもりやすいのはとてもうなずけることですね。自分のパーソナルスペースを大事にしつつ、相手のパーソナルスペースも尊重するそれが理想でしょうが、なかなか難しい問題ですねえ。まずは自分を知る必要があるし、相手のこともある程度知らないと・・・最適の距離感というものは測りがたいです。人生経験も必要でしょう。そう思うと、毎日が勉強の連続ですねーー
2010.12.20
NEWSWEEK誌とTIME誌のニュースレターを毎週、購読しています。時々、日本で報道されないような面白い記事が出るので、読むのがとても楽しみなんです。今日、配信されたNEWSWEEKの記事の一つが驚きだったので、紹介します。タイトル「どうにも出来ない」サブタイトル「思春期の脳の研究――この時期の脳の経験が、残りの人生にどのような影響を与えるのか」最新の脳神経科学の研究発表に基づいた内容です。それによると、思春期の脳の発達の仕方によりその後のストレスに対する対処の仕方や人との付き合い方のパターンが決定されてしまうようです。昔は、人間の脳というものは高校卒業頃までに、完全に発達し終わると考えられていたようです。ところが、最近の研究によると高校生の脳は、まだ80%しか出来上がっていないようで、その後も成熟を続けて大人になって100%完成するみたいですね。脳には灰白質と白質の領域がありますが、灰白質とは、神経細胞が集まったところで、白質は、神経線維が集まったところです。この灰白質が思春期ころに盛んに成熟に向かうのですがまだまだ未完成なのです。身体と心に大きな影響を与える部分でもありどんな行動を起こしたら、どんな結果が起こりうるかという、行動と結果のつながりなんかを認知するところなんですが高校生は、この部分がまだ未熟なので自分の行動の結果予測ができず、コンドームを使わずにセックスしたり飲酒運転をして事故を起こしたり友だちをいじめたりしてしまう。脳科学研究者によると、「どうしようもないこと」らしいです。身体は大人でも、脳の成熟が追いついていないから。それでも、灰白質はこの時期にほぼ完成をみるのですが白質のほうはまだ未完成で、発達を続けます。その発達の過程は後頭部から前頭葉へと向かいます。つまり、一番最後に完成するのが前頭葉なのです。この部分は、人間生活を送る上でもっとも重要な領域です。つまり、計画をたてたり衝動をコントロールしたり社会常識を学んだりスケジュールに従ったり喧嘩を避けたりできるのはすべて前頭葉の働きがあるからです。しかし、この部分が高校生時代はまだ未完成ということになります。そして、この時期、若者たちは親の保護を離れ、仲間同士の付き合いをもっとも重視するようになります。その結果、仲間がやっているのと同じ行動をとろうとします。人気者がやっていることを真似しようとします。つまり、いいことも、悪いことも、あまり判断せずに、、、そして、この時期に身に付けた判断や行動パターンがその後の人生すべてに影響するらしいです。青年と犯罪の関わりについての長年の研究にも裏付けられています。ちょっとヤンチャなことをしていた、ぐらいは積極性のあらわれなので、その後の問題行動の原因にはならないとか。とにかく、私が驚いたのは高校生時代の経験がその後の人生を左右するという事実です。脳が学んでしまうから、なかなか修正がきかないようです。あ~、高校生の私ってどんなだっただろう・・・あまりに昔すぎて、うまく思い出せません。よく退屈していたのは覚えているけど、、、「人生は生きるに値するのか」「人はなぜ生まれてくるのだろう」なんて、考えていたなあ・・・「高校生同士の恋愛は未熟すぎる」なんて思っていて手をつないで帰るカップルを馬鹿にしていたっけ、、、「男子は子供だ」と嘆いてもいました「大人は嘘をつく」とも考えていました。そんなこんなのすべてが、今の私を創造しているのでしょうか。高校時代をやり直したいとは思わないけどあの頃の私が今の私のなかに脈々と息づいているかと思うとちょっぴり恐ろしい気がします。・・・青春時代って、なんだかんだ言っても少しグレーな感じがするけどなあ・・・
2010.12.18
心理学にはいろいろな性格分析がありますが、老人にしぼったものを見つけましたので紹介したいと思います。若いころの性格が老年期を迎えるころにはどう変化していくのか。誰もが避けられないプロセスなので興味があるところです。その変化の仕方は3種類に分類されます。 円熟型・拡大型・反動型*円熟型とは若いころの性格の特徴が目立たなくなる、いわゆる「角がとれて」丸くなり、調和的な性格に変わっていくことです。高齢になっても積極的に社会参加し充実した人間関係を持ち続けます。趣味にも強い関心をもって取り組みます。*拡大型とは若いころの性格の特徴が、年齢とともにさらに強調されていきます。たとえば、気の短い人は、さらに短気になり、わがままな人は、手がつけられないほど横暴になり、几帳面な人は頑固になり、慎重な人は、どんどん融通のきかない人になっていくことです。*反動型とは高齢になって、若いころとは正反対の性格特徴があらわれてきます。たとえば、若いころ節約家だった人が浪費家になってしまったり、尊敬を集めた教育者が、援助交際に走ってつかまったり、乱暴者だった人が急に大人しくなったりもします。人生観が変わるような出来事を経験したのか、長きにわたるストレスが遂に性格を変えるのか特別な出会いがある場合もあります。このような変化のプロセスを経た上で、老人の性格は以下のような5種類に分類されます。 円熟型日常生活において思慮的、あるいは建設的に対処していくタイプ。内にこもらず、必ず何かの集団に参加している。老後の生活に関してあまり不安を抱かず、一見楽天的に見えるが、何も考えていないわけではない。若い世代との交流も楽しんで、自立して生きていける。 依存型「安楽椅子型」とも呼ばれる。老後はすべて周囲に依存した生活をし、静かに安心して暮らしていたいタイプ。すべてに対して受け身で、周囲からの援助をいつも期待している。しかし人の迷惑になることはしないので、周囲から受け入れられやすい。 自己防衛型仕事依存の生活を送っていたために引退後の仕事のない生活に順応することができない。そのため不満や苦悩を周囲にまきちらし、扱いにくい問題人物となりやすい。本来真面目で、過去の業績にも強い執着があるので、のんびりと暮すことに、強い恐れをもっている。また他人の世話になるのを極端に嫌がるので孤立していく。 外罰型これまでの人生の不満や失意を周囲のせいにして、非難や攻撃をしていく。誇大妄想的なので、つねに不安に支配され、悲観的な老後を送る。趣味も友人もなく、孤独と怒りにみちた生活を送ることになる。 自責型内向的で、劣等感が強いので、自分の人生は失敗だったと思っている。誰のせいにもしないが、自分を責め続け失意の日々を送る。孤独でさびしい生活を送るので、自殺傾向が強い。・・・なかなか考えさせられる、分類です。私はいったいどのように変化しどんな老人になっていくのでしょうか・・・誰もが急に年寄りになるわけではなく今日の延長上に、そういう日々が待っているだけです。だから、今の生き方に、すでに老人像は現れているのでは。今言えることは、「どんな経験も無駄じゃなかったなあ」と思いながら、老後の生活を送るおばあちゃんになっていたいということです。日々に感謝・・・
2010.12.17
「平常心を保つ」とは、よく聞く言葉ですが本当のところ、どんな心持ちなのだろうといつも思っていました。つい最近、禅関係の本を読んでいて平常心の記述に出会い、「へ~~~、そういうことか!」とやたら腑に落ちたので、ここで紹介したいと思います。禅には、座禅のほかに禅問答というのがあります。曹洞宗ではしませんが、禅のもう一つの一派、臨済宗では盛んですね。「公案(こうあん)」と正式には言いますが、簡単に言えば、言葉のやりとりで瞬時に哲学的思索をし、それで悟ろうというわけです。何がなにやら訳のわからない会話のことをたとえて禅問答などということがあります。つまり、西洋的思索とは違うので、凡人には意味がさっぱりつかめないものが多いのは事実です。たとえば、こんな感じ!パチンと両手を打ち鳴らし、僧、問う。「今、鳴ったのは右手か左手か?」「・・・・・・」未熟な私が言うのは何ですが、公案には正しい答があるわけではなく、十人十色の答があっていいのではないかと思います。大事なのは集中力と、自分なりの答を編み出そうと七転八倒して考える過程にあるのではないでしょうか。このように禅問答とはわかるようなわからないようなものが大半ですが、これから紹介する問答は珍しくわかりやすいです。僧、問う。「如何なるか、是れ平常心」師、曰く。「眠らんと要せば即ち眠り、坐せんと要せば即ち坐す」僧、曰く。「学人会せず」師、曰く。「熱の時は即ち涼を取り、寒の時は即ち火に向う」わかりやすいと思うけど、一応解説すると、平常心って何よ、と聞かれた師匠は、眠りたい時に眠り、座禅したい時に座禅することだと答えます。それではわかりません、と言われさらに、師匠は言います。熱い時には涼しくし、寒い時には火にあたれと言ったのです。まあ、これを「自然体で生きろってことね」と簡単に言ってしまうと身も蓋もないわけで。禅の問答なので、好きな時に好きなことをしろと言っているわけではないと思います。やっぱり24時間修行体制の禅なのですから24時間、身体の声を聞き、心の語る言葉に集中しろと言ってる気がします。でも、こういう風に解釈しないほうが本当はいいのだろうと思います。十人十色の受け取り方ができるのが禅問答の良さですからねー 平常心是道これも禅語ですが、「平常心」とはすなわち「道」であると説いています。みなさん、それぞれの道を粛々と歩いていきましょう!私は私の道を行きますからっ。
2010.12.15
心理学における性格の類型論には各種ありますが、有名なものの一つが、ユングによる性格分析です。 外向型と内向型ユングはまず心的エネルギーが自分の外側の世界、つまり外界に向いているか、それとも、自分の内側、内面に向いているかで人を外向型と内向型の2つに分類します。性格を描写するときに、よく外向性とか内向性とか言って、社交的だとか内向きの性格だとか言いますが、ユングによる「外向型・内向型」の分類は少し意味が違うので、注意が必要です!外向型とは・・・自分の関心がおもに外側に向いている人のことです。自分が属している社会・環境に興味があるので、どんな状況にも適応しやすい自分を外側の世界で表現することにためらいがないので、気さくでオープンな態度をとる打ち解けた雰囲気を出す未知の状況に飛び込むのが好き内向型とは・・・関心が自分の内面に向いているので、外側に向かって行動をおこすときに躊躇しやすい人見知りをして、引っ込み思案になる自分から積極的に行動をおこすよりも受け身がち周囲の環境や人々を注意深く観察するのが好き自分の内側に自分だけの世界を創るこの2つの型とは別にユングは4つの心的機能というものを考えています。どんな状況におかれようとも、一定に働く、心的エネルギーの活動形式のようなもの。この4つの機能の説明はなかなかむずかしいのですが、「絵画鑑賞」をするときの心の動きを例えに使ってうまく説明している心理学の本を見つけたので、それを参考に、私なりに書いてみます。 思考・感情・感覚・直観 思考とは物事をつねに概念的にとらえようとするたとえば、ある絵を見たときにそれは油絵なのか、水彩画なのか誰の作品なのか、といった情報を得ようとする 感情とは物事をつねに快か不快か、受け入れるか、受け入れないかで価値判断しようとするたとえば、ある絵を見たときに好きか嫌いか、といった感情がまず最初にやってくる 感覚とは物事に対してつねに五感を働かせて対処しようとする肉体的な感覚を大切にするたとえば、ある絵を見たときに、その絵の構図や配色などを的確に把握できる 直観とは五感よりも第六感を優先するタイプ物事の表面性よりも、その背後にある可能性をつねに知覚しようとするたとえば、ある絵を見たときに、その絵のテーマについて考えたり、作者の人生観に思いが及んだりする人は、どの機能もそなえているのですが、どの機能を一番多く使っているかで、思考型とか感情型とかに分けることができます。上記のような4つの心的機能は思考と感情、、、感覚と直観がそれぞれ対立する機能となっているので思考の機能が発達している場合は感情の機能が未発達となり、感覚機能が発達している場合は直観の機能が未発達となります。そして、未発達の機能、つまり劣等機能を発達させていくことが全人格の成長につながり、それが自己実現である、というのがユングの考え方です。私なりに解釈すると、2方向ではなく、4方向にベクトルが向くことで、最終的に丸いマンダラを描く、これが自己実現の完成形のような気がします。「円」というのは、禅の「十牛図」の10番目にも描かれているように完全無欠な様を描いていますから。ユングがマンダラを好きなのも最終的に禅の境地を目指しているように思えます。ユングの性格分類の説明に戻ると、外向型と内向型そして4つの心的機能を組み合わせることで、人を8つの性格に分類することができます。・外向的思考型・外向的感情型・外向的感覚型・外向的直観型 (私な感じ)・内向的思考型・内向的感情型・内向的感覚型・内向的直観型あなたは、どんな人ですか?自分を知れば知るほど、生きやすくなります。それは、ありのままの自分を受け入れていく作業だからです
2010.12.11
『「家族」はこわい――母性化時代の父親の役割』斎藤学先生の著書のタイトルです。切れ味スルドイ、ネーミングですねえ。これまで紹介してきた本の中では家族関係の中でも、母親に言及されることが多かったのですが、この本では、父親に焦点が当てられています。家族問題の根源は、一役割にあるだけではないので、母親が悪い、父親が悪いと簡単には言えないのですが、斎藤先生によると、家族病理を生みだす機能不全家族においての父親が起こしている問題点は2つあるようです。その一つが「オフクロ幻想」です。つまり、男というものは、いつまでもお母さんのおっぱいが忘れられない生き物のようで、結婚しても、無意識的に、妻に母親の役割を求めています。妻のことを「ママ」とか、「お母さん」などと呼ぶのもその無意識のあらわれだとか。そして、お子さんが二人いたとすると、自分は妻の「三番目の息子」だとか思って甘えているわけです。もちろん、妻もその役割を喜んで引き受けているのですが。つまり、いつまでたっても大人の男になりきれない男たちが一応、父親の枠割を担っているのですが、自分も子供なので、父親らしく振舞おうとしてやたら権威をかざしたりして、「父親っぽく」しようとしてしまう。それに、自分がいまだオフクロの愛情を求めているがゆえに、父親として、子どもたちが求める愛情を与えることができません。斎藤先生いわく母親と父親の役割は明らかに違う、とか。母親の一番の役割は、子どもたちを「ケア」すること。父親の大きな役割の一つは、子供たちに「限界の設定をする」こと。それをせずに、母親と同じような接し方をしようと頑張っている父親が多いといいます。それで、子どもたちに馬鹿にされたりしてしまいます。父親が起こしている、もう一つの大きな問題は家庭における「父親不在」です。つまり、家にいる時間があまりに少ないので、家庭における存在感がない。仕事依存しているので子どもたちのことは妻にまかせきり。日本の家族間では「母子密着状態」が多くみられこのことが多くの問題を生みだすもとなのですが、夫にかまってもらえない妻は自分の存在価値を見出そうとして子供べったりとなってしまいます。それで、親離れ、子離れができない。いつまでも子どもの世界に侵入し続ける、子どもの人格の成長を妨げる母親を生みだしています。斎藤先生は言います。子どもが子離れする時期を迎えた時でも遅くはない。夫は、夫として、妻に向き合う時間を持つべきだと。「ママ」ではない、一人の女性、一人の人間として向き合い、話し合う時間をもつべきであると。そうしたら、夫婦仲も改善されて妻は安心して子離れができ、子どもも親離れしていきます。しかし、こんなことをできる大人の男がいないからこそ家族問題は減っていかないのでしょう、、、でも、斎藤先生によると子どもが拒食症になったり不登校になったり家庭内暴力を起こしたりしたことをきっかけに夫婦が話し合う時間を持ち始め二人の関係が変わっていくケースも多いのだとか。だから、問題を起こしている子どもたちは身体を張って、問題のありかを訴えているのだと斎藤先生は力強く主張します。だから、「悩み」は「恵み」なのだとも、言います。なるほど~~~私自身が父親不在の家庭に育っているので、父親の問題に対してはコメントがしずらいのですが、斎藤先生が「過干渉よりは不干渉のほうがマシ!」と書いていたのでそんなものかもしれないと考えるようにしています。母親と父親の役割を考えるとき、ジェンダーの問題と混同してはいけません。つまり、女性が母親の役割をにない男性が父親の役割をするべき、という問題ではありません。女性が父親をやって、男性が母親的なケアをしてもいいし、女性一人で、母親と父親の役割ができれば、それでもかまわないのです。斎藤先生によると、親の3つの役割は「ケアすること」「限界設定をすること」そして、「子別れ」です。子別れの儀式は、本当に大切ではないかと思います。斎藤先生は15歳が適当な時期と書いていたけど、現実的なのは、子どもが大学を卒業した時ではないでしょうか。せめて、その時期には「子別れの儀式」を盛大にやって、家族一人ひとりが自立した人間になるべきだと思います。子別れだけでなく、人生の各段階で儀式的な作業を大事にやるべき、というのが私の意見です。だから、お葬式も大事なのです。
2010.12.10
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仏教は2500年の歩みをもち、その間、広く深く発展してきましたが、釈尊がなくなってから500年間ほどの間に説かれた教えを、とくに「原始仏教」と呼んでいます。原始仏教の仏典はシンプルでわかりやすいものが多いです。それはブッダが、誰にでもわかるように説いたものを直弟子たちが残したものだからです。時々、ここで紹介しているスッタニパータもその一つですが、今日は、それとは少し趣の違うものを紹介します。偈(げ)とは、仏教用語で短い詩のようなものを指しています。 一夜賢者の偈過去を追わざれ未来を求めざれ。過去はすでに滅し未来は未だ来たらず。しかして現在の法を随所に観じ心を奪わるることなく動ずることなくそを了知して修行せよ。今日まさに作すべきことを熱心に誰か明日の死を知らん。(『根本中と空』より)過去はもう終わったことだし、明日はまだ来ていない。今日すべきことをして一日をむなしく過ごすな。明日死ぬかもしれないんだから!!!と、言っています。簡単なようでいて、なかなか厳しい教えです。近頃、迷うことが多く、こういう言葉に出会うと、心に突き刺さります。ため息をついていても笑って過ごしても一瞬一瞬、死に近づいていることを忘れてはいけませんね。今日のような冬の日射し、あたたかい温もりに包まれていても。道元禅師の言葉より、光陰のひそかにうつり、行道のいのちをうばうことををしむべし。感謝、感謝、感謝・・・チャクラー治癒力の目覚め
2010.12.06
最近よく読んでいる斎藤学先生の本の一冊、『「家族」という名の孤独』このしびれるように凄い本のタイトルに思わず脱帽です最近、家族病理について書くことが多いですが、私はけっして「家族」というシステムを全否定しているわけではありません。人が人を求めるのは自然なことであり、一緒に暮らして、夫婦という、社会を構成する最小のユニットを作るのも、ごく自然な成り行きです。その夫婦から子どもが生まれれば、家族という一つのシステムを立ちあげることになります。英語で子どもをつくることをmake a family と表現します。まさに、子どもをつくること、イコール、家族になることなのですね。ですから、結婚するな、家族をつくるなと言いたい訳ではなく家族が幸福の根源であるならば、心の問題の根源も、家族にあることを主張したいのです。『「家族」という名の孤独』のなかで私が名言だなと感じ入ったのは「家族のなかで人は孤独を知り、他人を求める自己を知る」斎藤先生は、「家族はあったかいもの」という幻想を抱き続けている限り、人は孤独に苦しむことになる、生きづらさを抱えると書いていらっしゃいます。私なりに解釈すると、家族の中では癒せない孤独があることを認めてこそ、成熟した一人の人間として、外へ力強く踏み出していける勇気をもって、外側の世界で、新しい人間関係を築いていけるのではないでしょうか。しかし、そこに家族システムの問題がたちはだかるのです。家族療法の一つボーエン派の考え方の基本は、「分化」と「融合」です。 「分化」と「融合」とは何か・・・まず、個人の中に知性をつかさどる「知性システム」と情動をつかさどる「感情システム」という二つがあります。それらが機能的に「分化」していれば人は、どちらかを選択し、つねに二つを使い分けることができます。しかし、その二つが分化しないで「融合」していると感情システムがつねに優先されます。つまり、分化度が低い人ほど、感情的に反応してしまいます。分化度が低い人は人間関係においても融合しやすいのですが、これが「共依存」という人間関係における依存症を生みます。これが、家族間にも発生して、問題を生みだしています。たとえば、母親が子供を融合して「母子密着状態」となることで子どもの成長や自立を阻む、ことになります。つまり、父親、母親が分化をとげた成熟した人であれば子どもも分化を遂げられるのですが、両親がそうでないと、子どもは「内面的に未分化」の状態のまま外側の世界では、さらに親と融合してしまい、分化できなくなる。たとえば、親が果たせなかったピアニストになる夢をたくされた娘が必死に親の期待に沿おうとがんばったあげく、拒食症になったり、親が期待する「いい子」を演じ続けた果てについにはキレて、家庭内暴力をふるう息子となったり、、、この関係が継承されていき、何世代にもわたる家族病理を生みます。ボーエン派は家族を治療するときおじいさんやおばあさんの関係(たどれるなら、何世代も前まで)にまで踏み込んでいきます。眼の前にある娘や息子の問題は今、生きているその子たちが起こした問題ではなく50年以上も前に、この世に産み落とされたものかもしれないのですから。話がだいぶ長くなってしまいました。斎藤先生の名言をもう一つ紹介しますね。「健康な大人は、少しブルーな気分で、少し寂しいものである」家族をつくる勇気があるなら家族を捨てる勇気も(本当に捨てるのではなく、心の中で線を引くような感じ)ときには必要だと思うのです。そんな結論でした。m(- -)m
2010.12.04
静岡県に「可睡斎」(かすいさい)という大きな禅寺かつ曹洞宗の修行道場があります。東海地方にある3つの大きな禅寺の一つです。寺の名前が変わっていますが、これには逸話があります。徳川家康お気に入りの禅僧がいまして、あるとき家康の眼の前で居眠りを始めました。家康の前で居眠りするとは何事か! と周囲は怒ったのですが、家康はその禅僧が大好きだったので「そのまま眠らせておいてやれ」と家来にいい、その禅僧は居眠りを許されました。その禅僧が寺を開いたときに、そのまま、この逸話を寺の名にしたということです。この「可睡斎」(かすいさい)という寺は、曹洞宗における「三大祈祷寺院」の一つとしても知られています。密教でもない禅宗で祈祷? とは、不思議に思う人もいることでしょう。これも故事逸話のたぐいなのですが、この寺は昔から天狗に守られていると言われているそうで、そこで天狗にちなんだ祈祷が行われているらしいです。実に、興味深いしかし、今日は、その話ではありません。この寺のもう一つの名物、それは東司(とうす)(トイレのこと)です。東司がとても大きくてきれいなので、有名なのです。前にも書きましたが禅においては24時間が修行なのでトイレに入ることも、重要な修行の一つです。世界最高峰の思想書である道元禅師の『正法眼蔵』には「洗面洗浄」の巻があり、朝の顔の洗い方やトイレの入りかたについても詳しく述べられています。昔昔「ファンシーダンス」という本木雅弘が主演した曹洞宗全面協力の映画がありました。そこにも詳しく描かれています。つまり、哲学書に「大便をしたときのお尻の拭き方」の作法まで書かれているわけです。このことを熱く講義してくれた仏教学部の教授は言いました。「お尻の拭き方が大事なのではない」「生きてることが大事なら、お尻を拭くこともおろそかにできない」「食べることと、出すことは重要だ」若い学生諸君はあまり何も感じていないようだったけど、私は、先生のこの言葉に深く感動し、心の中で、拍手を送っていたのです。”食べることと出すこと”身体を生かすための二大作業ですよね。これらを馬鹿にしたら、肉体をもった人間でいる意味がない。身体と心は一つなのですから、身体を大事にできたら、心をいたわることにもなります。「トイレの神様」という歌も流行っていますね。先日、初めてフルで聴きました。「トイレにはきれいな女神さまがいる♪」という歌詞、道元の思想に通じるなあ、と思いました。ですから、修行道場のお坊さんたちは東司(トイレ)をぴかぴかに磨きます。きっと禅寺のトイレには、清らかな仏が住んでいるのだろう。
2010.12.01
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