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今朝は昨日の新聞で見たばかりのレシピでスープ。『とうもろこしとトマトの卵スープ』料理家ウー・ウエンさんのレシピである。(彼女のレシピ、大好き)この一品のコツは「最後にぐらぐらとスープを煮たて」「とき卵を落としたら絶対にかき混ぜたりしないこと」「スープが濁ってしまいます」「卵はスープの対流で自然に広がるのです」ということであるが、これは要するに卵汁全般についての心得であるとも言える。そのクラゲのように拡がる様子はまさしく人生の刹那のよろこび。(大げさです)★昨日は音楽師匠のコンサートに行く。師匠のチームの演奏は本当に至福。(メンバーの多くがプロやセミプロの方たちです)至福の幕間にわたしたち素人チームはまったく音楽的でない会話を声の無駄使いのように繰り返し、終演のロビーで師匠に「どの曲が一番よかったですか」と訊かれて 「え」 言葉がない。どれだどれだどの曲だよかったのはどれだどれだった?脳内の残響へ潜んでいけば更に言葉を失う。そうだ演奏側としてはメニューのどれがいちばん観客に届いたのか知りたかっただろう。プロであるならば猶更。しかし哀しいかな私はその問いに言葉を失い曖昧な顔で停止しているのみ。誰かが言っている「全部よかったです」と。他の誰かが言う「自分たちの歌ったことのある曲が印象的でした」と。「二部の最初の歌が綺麗でした」と。そのようなあまり具体的でないような言葉も私は私の中にまるで見つけることができなかった。美しくステージ衣装を纏った師匠とそこでお別れしてからずっと「どれが一番よかっただろう」「鳥肌のたったのはどの曲だったろう」「次回は絶対にそう訊かれたら少なくともまともに応じられるように聴こう」と考えていた。馬鹿だなあ私は。★歌われた曲の中で日本語のもの、その歌詞をひとつ覚書として記しおく。 『燃えるもの・・・・蜘蛛』 (引用者編集あり) 枝と幹のあいだ そよ風に自分の重さをかしこくゆだね おまえが張った蜘蛛の巣に けさは朝露がまぶしくひかる だがおまえがその糸でもとめていたものは おまえのなかにだけあったまぶしさだ はきだしてはきだして はきだしてはきだして おまえはおまえの内部をさぐる だれが垂らしたつり糸か はてしないこがれのように たぐってもたぐっても終わらないこんなふしぎなつり糸を たしかに深くおまえの底へ ひそかに垂らしたものがいる その糸のさいごのさいごのはしに 炎のようにもえるもの それをおまえは星とよび ねがいねがいつづけて ただ一途にたぐる たぐる
2013年06月16日
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たぶん五年前に職場で大事に育てられ大輪を咲かせた空色朝顔、ヘブンリーブルー。(もちろん大事に育てたのはわたくしではありません)その種を摘み、自分の家の土に播いたのも五年前の夏の終わり。咲き終え膨らんだ麻色の種袋から黒い種子をつまんでいるとそれを職場で丹精していた当人から 「この種類は」「咲いた種を取っても今年のようには咲かないよ」「一代だけの花なんだ」「この花をまた見たいならこの種じゃなくて」「新しいの買ってきて植えないと」と言われたがヘブンリーブルー、「いいんです。大きく咲かなくても」そう答えて掌の種を持ち帰った。その人の言うとおりか言うとおりでないのか判別できないほど、次の夏、その種は私の家で伸びて大きな花を咲かせた。きっと径をはかれば一代目よりは少し小さかったのかもしれないけれど私にはじゅうぶんだった。美しかった。そしてその翌年、種を落としっぱなしにしてまた花が咲いた。そしてまた翌年、そしてまた・・・。少しずつ丹精人の言葉が目に見えてきた。今年。ヘブンリーブルーはまだこんなである。夏は、もう来ている。
2013年06月12日
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ベランダのサボテンが咲きました。信州の家から引っ越すときにもらってきたサボテンです。それから幾度か咲きました。毎年は咲きません。ほとんど咲きません。どんなサイクルで咲くのかわかりません。どんな条件でどんなタイミングでどんな刺激でどんな太陽でどんな闇で咲くのかわかりません。前回いつ咲いたのか忘れました。いつのまにか蕾んで、いつのまにか咲いていました。夜。はっとするほどそれは白く。朝になっても白く咲いていました。いえ、うつくしい薄紅紫でした。座りこむようにして見ています。きれいだなあ。き・れ・い・だ・な・あ独りごとが夏の風に散っていきます。
2013年06月04日
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あいたくて だれかに あいたくて なにかに あいたくて 生まれてきた── そんな気がするのだけれど それが だれなのか なになのか あえるのは いつなのか── おつかいの とちゅうで 迷ってしまった子どもみたい とほうに くれている それでも 手のなかに みえないことづけを にぎりしめているような気がするから それを手わたさなくちゃ だから あいたくて (工藤直子)
2013年06月04日
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夕焼け。★時の力その弐(おおげさ)。朝牛蒡を切ってうすい酢水に浸しておき、夕方きんぴらにする。写真などが証拠になるが、ほんとうにしみじみ自分の牛蒡の切り方は粗雑であるなあ。田舎でもわたしがきんぴらを作ると必ず父に「今日のきんぴらは誰が作ったんだ」と言われたものである。「誰が」ってきんぴらなんか作るのは必ずわたしか母なのである。どちらかしかいないのだ。ハ~。見ればわかるだろうよと。なぜなら母のきんぴらは「丁寧に細すぎるほどの切揃」「油多」「醤油多」「濃厚」な逸品でありわたしのは真逆で「粗雑で太すぎるほどのまったく揃っていないダダ切」「油少」「醤油少」「薄味で甘め」なのであるのだからまるで別物料理なのである。どう考えてもひとめで誰がつくったかなんてわかるのに、必ず「だれが作ったンだ」「はーい。わたし(とほほ)」などと片手を上げて答えながらもはやこれは、このようなやり取りはあるべき(かどうかはわからないが)コミュニケーションの一つの技なのだと思うことにしていた。それはまるで定期的にお互いとその場の安定を確認するかのごときもの。判子印で押したようなルーチンを重ねる(重ねられる)ことの意味は実は案外あなどれぬことなのではないのか。と。★夕飯のおかずは鶏肉と野菜の砂糖醤油煮。ほっとする味である。
2013年05月31日
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梅雨の晴れ間。本当に梅雨なのか。朝起きるととても晴れていて梅雨の晴れ間だと言う。昨日の洗濯物がまるで乾いていないのをいそいで外に出してついでにこんな日はこれがいいねと思い、パンを作る。パン生地発酵ちゅう。なぜこんな日がいいかと言えば、朝こねた生地をそのまま一日温かい外に放置しておくとそれだけでとても良い按配に勝手に発酵が進んでくれるからである。使っているのが天然酵母なのでそのくらいのゆっくりした進み具合がちょうどよいのである。ありがたいのはときのちから。時の力。帰宅して生地をとりこみ、成型して焼けば出来上が~り~型はクグロフ型。このかたちは大好きだ。世界一可愛い型なのではないかと思うくらい。いや他の焼型も大好きだけれど。←やっぱりフェチですかああ、季節が進んでいる。もう今年も半分近くが後方へ。明日からもう六月か。ときがはやい。その刻を数えることなく次々と手放してゆけるのはある意味非常に幸福なのだと思うけれど。パンはエスプレッソコーヒーとピュアカカオときび砂糖をたっぷり仕込んだブラジリアン・パン。うまいよ。
2013年05月31日
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入梅だそうである。とても時期がはやい気がするけれどもとそう話したらそうですが一昨年も早かったですよと確信を持っておっしゃる人がいたのでよくおぼえていらっしゃいますねと鶏が訊くと日記つけているンですもう40年。とのことである。おお。堆積しているものを失わない智恵に言葉がない。わたしはすべてだだ漏らしその時間を失う愚か者だ。けれどそれはもはや面白いこととして受け止めていくほかはない。じぶんひとりで生きているわけではない。ひとりひとりが他者の智恵の上に。★人参のクリ-ムチーズケーキ。カロチン摂ってがんばろう~。
2013年05月30日
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今は子どもの登校にあわせて朝五時半に起床しているので子どもを送り出した後、時間がある。ゆっくり一服。ゾンビ(←寝起きが悪いので大体がそう)から人間へ。一日が始まる。つい先日入手した村木雄児さんの茶碗は「抹茶椀」と銘打たれて作られていないし専門店で売られてもいないので(そのため値段も格安)そのぶん自由が許されている伸びやかな器であるなあと思う。使い始めて本当にそう思う。毎朝そのことに気づかされる感じがしてうれしく思う。それは水に濡らすと地肌の土の朱が釉薬に透けて赤みを帯び、ほんとうに色っぽい。茶碗に色っぽいとか言うとフェチかよって感じだが。しかしなぜそこに点てた茶がやけに油っぽくてぎとぎとしていて古い沼みたいなのかと申せば抹茶と青汁粉末をブレンドしているからである。オーマイガーお茶をやっていると体調によっては茶(とくに濃茶)が胃にきついことがある。そんなとき体にたぶん良いと思わせてくれる青汁の粉末。それを知りためしにその個装されている一包を破ればその粉はほとんと見た目抹茶ではないか。おおうおうおうこりゃいいねブレンドしちゃおうぜって思考である。ランク付けをするつもりは毛頭ないけれどもどことなく抹茶(辻利の新茶である)には申し訳なく、青汁には「とりたててやったぜ感」を感じてしまうちいさいわたくし・・・・。(微妙に前者の量を徐々に減らし)(そのうち朝茶は後者だけになる可能性高し)そして折角の茶碗はどこかどぶどぶした緑沼をいきなり抱えることになる。そしてやはり味は微妙なのだがハイブリッドなのだから仕方なかろう。さて、今日も頑張る。
2013年05月29日
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朝食のゆでたまご。小学生の時の遠足のお弁当のおかずにいつも茹卵が入っていて、それがチューリップみたいな綺麗な花型に切ってあるのだったが疲れた空腹にばくばくと頬張るとその卵はわりと喉や胸にむんっと一瞬詰まって苦しく、ああ、こんなふうに茹でて花型に切るという手間を卵にかけるのだったら「おかあさん・・・・卵焼きにしてくれたらいいのに」と思ったものだった。しかしそれを口にしたことはなかった。そして茹卵がすこしだけ苦手だった。遠足と筋肉マンを思い出しながら食す。★蓑虫、みつけた。前足で縁につかまり移動中。筋肉番長?みたいよ。か~わ~い~い~。どこへ向かっているのでしょう。そろそろ、夏ですよ。
2013年05月28日
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メリスマ、大好きだ。宗教音楽のなかのとても大切な部分。一つの母音の中で音程の変化、高低のあるフレーズ。たとえばメリスマという言葉ひとつの中に持続するうねり。たとえばメリイイイイイイイイイイイイイイイイスウウウウウウウウウマアアアアなるべくなら延々と続いてほしいくらいだ。メリスマ。そこに恍惚が立ちあらわれる。キリエ、キリエエレイソンまだ小さいときに京都のなんとかと言う緑の深い深い寺で多勢の坊様たちが一斉に読経をしているところに出くわした。静寂だった寺の中庭に地を這うようなユニゾンの、おどろおどろしいような音声で空気を押しやりわたしの肌に鳥肌をたてたあれは、メリスマ。どうして歌が生まれたのかどうして人はそんなものが神仏に届くと思えたのか理屈なのか理屈じゃないのかわからないような場所でたしかにそれをどこかが感じる、メリスマ。大好きだ。あんまり歌っていると失神してしまうかもしれない。ヨーロッパの貴族の女のように。いやただ空気を吐きすぎて尽きただけ。え?ええ、ええ、スキャットももちろん、大好きですわ。そしていずれにしても「スキ」と「ウマイ」は遠く別物なんですけれどもね。
2013年05月27日
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茶道で許状(お許し)をいただいた。こちらは稽古とその習得を師匠に判断され段階を経て得てゆく相伝のお免状である。前回のそのときはうれしくてうれしくて精進を誓いながら自身へ茶碗を贈った。それは作家横山拓也の黒茶碗であった。そして今回は村木雄児。うつくしい粉引である。とてもとてもうつくしいうつくしい粉引である。お師匠のお持ちのような由緒正しき千家の茶碗はもとめようがないが(大高価デアル)(目ガトビダス)現代をなまなまと生きて作っていらっしゃる陶芸作家の、ある意味で最先端の作品を心を入れながら手にし使うことができるのはたいへんな幸甚であると思う。もちろん目が飛び出すほどの値段ではないがお茶人でない方にもし語れば「茶碗一個にそれかい!」なお値段ではある。精進しよう。出会ったからには次を見てみたい。知りたい。知りたいのだ。先へ行く。今回も作家さんの展示会に出かけてそれをもとめた。ひとめでそれに惚れてもとめ包んでいただくとき店を出るときの二度、作家さん(村木さん)に「ぜひ毎日使ってください」と声をかけていただく。「はい」と、わたしは答える。
2013年05月27日
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丹沢の酵母だというホシノのパン種を用いてワッフルを焼く。生地を作りながら「丹沢」のことを考えるがたぶんわりと近くに住んでいながら自分の中にその種がない。この時期は山の緑が綺麗だろうかとか森の木々からまだ山蛭が落ちてくるんだろうかとかそれは想像でしかない。想像というのは力弱いけれども、どこか束縛されない自由な楽しみであるし未来への小さな賭けでもある。想像の中でわたしはトレッキングシューズを履き長そでの服を着てそこに入る。丹沢の山の道の森の川の空の湿度の緑の土の蛭の生きものの中にいる。
2013年05月26日
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上野でちょっこりアートに触れてから谷中散歩。谷中の墓地をグル周り、念願のショコラティエ・イナムラショウゾウでお茶。『涙のしずく』という面白い形のチョコムースケーキを注文するもなにしろ墓地を回り通ってきたばかりだからその接地でいただくその形は「うわ、ねぇこれって絶対、『涙』じゃなくて『ヒトダマ』のかたちよね?」などとわたしに言わしめ、カフェの皆様からALL白い目で見られるに十分な風情であった。ヒトダマはとてもおいしくて幸せ。魂も舞い上がる。そのあと日暮里を徘徊し繊維街で生地や皮革などを物色、ネパールカレー屋でマトンカレー&ナン&ビールで上機嫌。帰りの電車で爆睡、硝子に後頭部打ち。そしてこれは断じて夢ではないのだが自分の耳に「竹輪のイヤリング」を買ったのも、虹を食べたのも今日である。大丈夫か?なんだか濃厚で行儀の悪い、メチャクチャでとても楽しい一日であった。明日も晴れるかしら。
2013年05月25日
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朝食はなんだかアジアな感じ。というか鯵な感じ。紅茶卵を添えて。紅茶卵。初めて作ってみました。買ってきた卵がまずかったからです(おい)。茹でればいいかなと。更にはおもしろくなったらもっといいかなと。昔学祭で「恐竜の卵」みたいなそれが一つ縦にポンと乗っかった面白ウマいカレー屋さんがあり罅色のふしぎなそれは強烈で、とても楽しく、その印象の昔フィルムを脳内にシャウシャウチチチとまわし映しながらうきうき作ってみたのですが・・・いやはや。これは失敗です。だいたい紅茶がまったくしみていませんよ。罅もうまく入ってないさ・・・レシピとか研究しないで適当に作るから駄目ですね。紅茶だけじゃダメなのかな。結構濃くアッサムを煮出したのですけれど。(少し塩入れました)半日以上は漬けておいたのですけれど・・・。ああ、たしかに染物ってすべからくなにか色止めや触媒入れますよね。なんだろ。でも、味はまあまあ、茹で卵の味でした。(あたりまえ)改良の余地あり。要研究。あるいは師匠のご降臨を待つ!(笑)自戒を待て!いや、次回を待て!さて今日はまた楽しい出来事が?頑張って出かけるといたしましょう。クリックスノップバア!(なにそれ)
2013年05月25日
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今日も暑い。足下の影をみればその濃さはもう夏だなと思う。ここ数日は頭の中でShakatakの『invitations』が繰り返し再生されている。なぜだろうそれほど好きではなかったのに。というかぜんぜん好きじゃなかった。だいたい当時所謂「フュージョン」等と呼ばれていた分野は苦手だった。これもナニコレ軟弱な曲だよナと思っていたはずだ。なぜだなぜ繰り返す。(さてしかしこの曲に出会ったのはいったいいつの話でしょう)(それは青春と同じくらい遠い季節)(心理的には80年くらい昔のような気がします)(ってそんなに生きてはいないのですが)(教えてよシャカタク。今でもまだ演奏しているの?) たぶん忘れてしまったが今何かが自分の内側でリンクしようとしているのだ なにかのシチュエーションできっとこの曲が掛かっていた? それを忘れぬよう、あるいは再生を望んで? 今になってこのメロディが浮かぶ・・・の・・・・だろうか? まったく人の記憶や記録というのはいったいどうなっているんだだが悪くない。悪くないねぇ。いつか、演奏したいな。(マジすか)そのときはきっとあなたも誘うよ。INVITATION★明日明後日が松本での「クラフトフェア」開催の日だと知ったがそのイベントにいつかは行きたいとずっと思っていたのだがやはり今年も行けぬのであった。願っていればいつかかなうと思っていた。だが願っているだけではちっともかないやしないしかなうわけないね。(サイトウキネンだって行こう行こうと思いながらやはりちっとも行けてないし)(そのうちに世界と松本とわたしはきっと小澤征爾さんを失う)しかし願わないよりはましだ。来年は、行こう。忘れぬようにここに記録しておこう。(記録したことをきっと忘れるにしても)晴れますように!★今年の夏は少しゆっくり故郷に帰りたいな。もうそこを離れてからの季節の方が長くなった。懐かしいその場所。
2013年05月24日
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やっと長いと言ってよいマイブームを得た。どれを選んでも長続きしなかったのがこれは良い。やはりなぜ継続できなかったのかと言えばそれが「まずかった」からでありなぜ継続できているかと言えばそれが「おいしい」からである。酢ドリンク。今毎朝一杯飲んでいるのは『はちみつ純玄米黒酢ドリンク』(キサイチ)という一品でこれは酢のくせに500ミリリットル瓶で800円くらいするのだけれども5倍くらいに希釈するものであるし、なにしろとにかく「おいしい!」それに尽きる。体にいいのかは実のところよくはわからない。でもこれは、朝のコップの中でとても美しいと思うしきっと体の中に入っても美しいんだと思う。(意味不明ダヨ)一日をここから始めるのは単純に幸福だ。家に来る友人に出すと大概気にいってくれて「わたしもほしい」と、なる。声楽の先生にもお茶の師匠にも贈って喜ばれている。普通に流通しているものではなく生協の宅配で届けてもらうものなので昨今は友人たちの分まで注文している。黒酢係みたいである。結婚もそうだがなぜ自ら挑戦したはずのものが継続しないのかといえばそれはそれが「まずい」からである。おいしけりゃ続くのである。もはや結婚と酢が同列である。★さて80歳の三浦雄一郎さんが23日、史上最高齢でエベレスト登頂に成功したそうである。すげぇな。いろいろな意味で、それはほんとうにいろいろな意味で。いや上手にそれを自身の示唆として捉えきることができないくらいに。そしてそれは絶対に上手に現代の姥捨山的な比喩にすることはできないことだね。人は行動するときにいつでもその意味を捉えきれるものだろうか。そうとは思えない。意味など後からいつだって付加できる。いや付加などできなくてよいのだろう。★そういえば過日のレッスンで「あなたはノボルことばかりが好きで」「クダリはまったく気が緩んでる」と言われたのであったっけ。音階の話である。「クダリをおろそかにしないで」「ノボリっぱなしなんてのは、ないの」「のぼったら絶対に下るのだから」「大事にきちんと終わらないとね」「丁寧に、大切に」「まるで空気に溶け込むみたいに」はい。頷きながらそれは人の終焉のようであると思った。
2013年05月24日
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暑かった。今日は時間があったので丁寧に朝からシャンプーをして丁寧にブローをしていったら(わたくしにおきましてはブローをすることは非常にまれなことである。とっほほ)おまけに(とにかく暑かったので)シフォン素材のさらさらとしたワンピースを着て行き申せば「まあ。今日どうしたの?」「ひとがちがう?」「ほんと。まるで女みたいよ」「『あまちゃん』に出てる人に似てるわっ」などと言われる。じぇじぇ! まさかキョンキョンですかっと訊いたら「違うわよ」 と即レス。★書店に立ち寄り、以前から読みたかった文庫をやっとゲット。これはもうある種の古典なのかなぁ? 楽しみに読むこととする。『高い城の男』 (フィリップ・K・ディック)ところできみは、電気羊の夢をみるかい?★さて昨今よく聴いているのはE.クラプトン。冬に合うかと思うが初夏もいい。久しぶりにじっくり聴くとやっぱりクラプトン、歌うまいな~。シミジミいやもうなんというか、ええ、クラプトン。決してものすごくうまいというのではないのだがなんというか、うん、断じてものすごくうまいのだ。(←アタマ大丈夫?)このあたりのニュアンス、・・・・わかるひとはわかりますよね?(わからねぇよ)歌というのは技術だけでどうにかなるものではないということだ。もちろんそれは表現するために不可欠な技ではあるけれども。説明できないことを天然で為してしまうその血に勝つことはたぶんできない。説明できないところに歌の魂は宿るのだから。★ということでおのれもウタノレッスン。師匠が調子よく煽ってくださるおかげでどんどん声が出てきた。うれしい。夏には合唱祭。秋は軽井沢。冬は仲間たちと第九&教会コンサート。(来てね~♪)今は新しい曲をバンバン歌える時期。うれしくてしかたない。ねえ、なぜ世界には音楽なんか、あるの? こんな麻薬のようなもの。
2013年05月23日
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以前友人とした約束をちっとも果たせていないのだがそれは「ひと月に一本は映画館で映画を観る」というものであったのだが今月久方ぶりに果たした当該フィルムは『アイアンマン3』である。上映中でほかにピピピとくるものがなかったし深刻な気分になりたくなくて「1」も「2」も『アベンジャーズ』も見ていないというのにいきなり3である。どうなのその無計画な選択。我ながらとてもすてきね。・・・・・。・・・・・・。 ! ! わーい。おもしろかった!映画は娯楽であるのだから楽しめればもう最高。ロバートダウニーがとにかくすてきー。キャー突っ込みどころがあまりにも満載であるがそこがまた真面目に露骨すぎてすてきー。バイオとか今となってはなぜか近未来的なレトロ感が漂うのがおもしろい。『T2』や『オールドボーイ』を思い出したりもした。あのころの未来に僕らは立っているのかなあ(スガシカオ)などという気分になりもした。(「月に映画一本」の約束をした友人は今頃元気でいるだろうか)(友人関係というのはふっと切れてしまうと)(ほんとうに切れてしまうね)(しかし約束は)(律義に果たされはしていないものの)(ちゃんと)(ここに)(残った。)なにはともあれ、『アイアンマン3』、おすすめ!ドキドキしながら「んな馬鹿な~」とくすくす笑えるのが大人の太っ腹ってものよ?ひとつほしかったねー。いや暑苦しいか当節着ぐるみは。重いし。笑★わたしは自分が話ベタなので必然的に他者の話を聞くのが好きになった。どんなひとにも「ものがたり」がある。そのひとにしかない物語がある。本当に年齢を重ねるほど人というのはエピソードの塊であるなあと思う。どんなひとでも子ども時代があり少なくとも義務教育を受けた経験があったりし誕生日があり他者がありトラウマがあり時の層があり記録の場所がある。ひとはその3Dのなかから一粒一粒の記憶を掬いあげることができる。しまいこむことができる。磨くことができる。捨てることができる。常にともに在ることもできるし、気づかずにもいられる。人間そのものがひとりひとりひとつひとつ、甚大で大切なエピソードの宝箱のようだ。話をしてもらえるというのは他者の記録を少し分けていただけるというようなこと。話を伺いながらその絵巻を手前勝手に脳に描く。生きていない時を描き、生きていない場所を描く。絶対にわかるはずのない他者の地図へ潜入する。その勝手に畏れ多いこちらがわだけの悦び。沈んでいるアコヤ貝をひきはがしそこに真珠がないかとさがしまわる泳げないあまちゃん。どこだどこだそこはどこだ。ひらいてよもっと。閉じてしまってよもっと。そのような会話を持てる相手に出会えるのは幸福だ。知らない場所がじわじわと開拓されていく。あなたがミューズなら、きっとわたしもそうなんだろう。
2013年05月21日
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何年か前、かなり前、子どもが「母の日だから」とくれた薔薇の鉢を土に移したその木がまた今年もたくさんの花を見せてくれている。可憐で綺麗で、とてもとてもうれしくなる。子どものことはわたしなりに愛して愛して育てたと思う。クールなわたしが泣いたり笑ったりしながら精いっぱい愛してきた。愛されて育った子どもはきっと、絶対に、大丈夫なのだと思っている。親馬鹿も親であるからこそ、だ。フレーフレー。フレーフレー。幹を張りすっくりと自分の花を咲かせよ。★ひさしぶりに天然酵母で焼いたパン。発酵が足りないのと豆乳で練ったために思ったよりすっと「ねっとり」とした仕上がりになった。弾力のありすぎるスコーンのごとし。パンなのにねっとり。しっかり焼きこんだのにもちもっちり。ベーグルみたいでへんなの。★華の稽古。写真に撮っておくと客観的に見られていいね。今日は「梅花うつぎ」の枝をイカシテ活けようと思ったのだがどうだろうか。枝葉を捨てるのが惜しくて常にわたしの水盤世界は「もっさり」している。作品にはどうしたって作り手の要素が入り込む。いや入り込むからこそ人は何かを作り続けることができるんだろう。次へ、次へ。いつかはすべてがなくなるだろう。そのときまで、次へ、次へ、次へ。カメラを鞄からもっさり出している間に手前の薔薇が倒れてきてなんだよそれ。ヲヲヲことほどさように生きているものは止まらぬ、動く。停め束ねきることなどできぬ。それがもはや折り切り取られたものであってさへ。まこと世の中のことはすべからく、動く。(・・・・っていうかただ腕前がヘボなだけだろ)初夏だなあ。
2013年05月21日
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東京ビッグサイトで開催中DESIGN FESTAに行ってきました。快晴でゆりかもめもたのしい。(←子どものように先頭に乗る)さまざまなものつくりマインドに触れて楽しいしうれしいし。「アート」と言われるとそれは私には遠いさざ波のような感じがするけれど、しかしこの世のものはすべからく「デザイン」されているのだと思えばそうであるならその機能性と美しさはどう調合されるものなのかとその心地よさと主張が急に足元に押し寄せてくるような気がしてその砂浜でその水をこの掌で掬ってみたくなる。ザザ、ザザ、ザザザザザザーブースを適当にやいやい廻り、それぞれの若い作り手さんから信じられないくらいかわいい猫ちゃんの草木染め手拭いなどを買う。(猫が月の満ち欠けのポーズで閉じたり開いたりしているのである。とても素敵)信じられないくらいかわいいアンティークの布で拵えられた亀などを買い(知らない他のお客様たちと「あたしはこの子にする~」「あたしはこの子~」)信じられないくらいかわいい蜘蛛アクセ(うひひ)なども買い、とてもうれしい乙女の一日であった。祭りから去るときはきっとさみしくなる。丸くなって眠れ孤独な猫のように。フェスタは明日まで。
2013年05月18日
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ROCK師匠がライヴに来てねと言うので喜んで行ったらJAZZで吃驚。ROCK師匠はJAZZ師匠でもあったと言うことだ。いやいや音楽を勝手に蚊手語らイズしてはいけない。(ってなにこの変換)父親が好きだったのでわたしもJAZZは好き。大好き。自分の中にスイングの素因と血は残念ながら薄いと思うが激しくHAPPYであった。メンバー構成はピアノ。ドラム。ベース。サックス。コンポーザーの手に落ちて ・・・・BACH ・・・・SMAP ・・・・ミュージカンルナンバーすらどれもおそろしいようなJAZZに変換されている。最高。オリジナルナンバーも絶妙なアレンジ。そして疾走しながら我を忘れぬ即興。絡みあう音。渡しあうメロディ、汗、熱、リズム!定番もただの定番にあらず。殊に『チェニジアの夜』 素晴しすぎ!わたしもきっといつか! え、まさか? 演奏したいの? YES!アンコールが終わって師匠に「ROCKの師と思ってましたがJAZZ。凄いじゃないですか~(プロに向かってこの不遜)」と申すと「もともとはJAZZなんですよ。どうでした?」と師匠。「死ぬほどすばらしかったです~(どうしてもっと気の利いたことが言えない)」と言うと「いやいやいやいや、綱渡りでしたよ~。またぜひ見に来てください」 と師匠。ええ是非とも。しかし師匠、ミュージシャンでいらっしゃるのに「見に」。え、あそうか わはははは あははははいやはやわたしは目をギロランランとさせて師匠の音捌きばかりを見てしまっていたろうか。あるいはミュージシャンの御顔ばかり・・・?キャー キャー弾むように、帰路。ああ、音楽を知らなかったらわたしの見る世の中はどのくらいの色と奥行を失ったろう。足下の翳さえ、輝いて見えるじゃないか。
2013年05月13日
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今日は晴れ!待ち遠しいことがあって早起きしてしまった。だいたい楽しいことの前には眠れない系統の子ども体質である。きっと歳をとれば眠りの浅さも相まってなおさらな子ども体質のままであるだろう。昨今では眠れてしまうと逆に「あれ、楽しみにしてるのに、意外とそれほど楽しみじゃなかったのかな」と思えるくらいなのである。このまま生きていく。★朝食は定番のパンケーキにした。(朝から生地発酵。うまいぜ)おんなこどもの食べるような代物であるがおんなこどもだから良いのである。平日はがっつりとご飯で和食であるため、パンケーキやパンだと「あー今日はお休みだな~」という気分になって幸福。晴れの朝ならなお最高。しかしなぜかパンケーキだろうがクロワッサンだろうが添えるのは「味噌汁」。味噌汁JAPAN!味噌汁は心の友なのである。一日のはじまりに友のヘルシー且つ力強い発酵豆力は不可欠。今日の具は新じゃがとキャベツである。(昨日のプディングと同じなのである)★ではでは張り切って出かけよう。チャオ!(弾みすぎだろ)
2013年05月12日
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雨。作家さんの茶器展覧会の案内をいただいていたお店に今日は行こうと決めていたのだが雨の様子に心萎え、きっと行けば「おおおおぅ」「うよよよぅ」「こここここれは」「ようようよう」「一期一会じゃわ」「じゃわ~」などとにわかへうげものぶって散財してしまうことがわかっているので雨と涙を飲み込んで外出を中止にした。だいたい今は物品からなんとか離れようとしているのである。新しい買い物をしてどうする。この歳になれば拘りや執着心から少しずつ解き放たれたい。モノよりもおのれの自由を頼まねばならぬ。そしてその幸福を噛みしめねばならぬ。弱いからね私は。モノに紛れてへなちょこの自分を胡麻化しているのはもうなんだか少し情けないんだもの。(と、微妙な綺麗事を語っているけれどほんとうはただの貧乏。汗)★薬丸岳『友罪』読了。一気に読んだがいやあもう何とも残念だと記しておく。あくまで私には、だが。「友」にはごく僅かに。しかし「罪」の部分にはまったく微塵も斬り込めなかった。これなら吉田修一の『さよなら渓谷』のほうがまだマシだったなあ。そっちもハズレではあったけれど。いや毒舌じゃないですよ、という毒舌。★子どもがそれを飲みながら「これは今度はやめてほしいかな」と言うので「え。なぜ。体質が変わったのか」と訊くと「体質じゃなくて、この牛乳」「・・・って?」「これ、この牛乳。カメムシの味がする」おまえカメムシ食べたことあるンか―い? というおきまりの突っ込みを入れておいてよく聞くと「飲みこんだ後に鼻腔に残る匂いがカメムシ」ということであった。確かめてみてよと言うが私は今や冷たいミルクで腹を壊す体質になってしまってそんなことはできない。カメムシねぇ・・・。確かに何年か前帰省した信州の家でその季節に網戸にみっしりとカメムシがついてそのざわめきはある種のホラーのようであったがそれが部屋や布団にも多数侵入してたいへんな騒ぎ&臭気になったことがあったっけね。カメムシ。みかけはひょうきんで大好きなんだがなあ。生き延びるためのテクが強烈だ。たぶん集団で越冬し集団で移動する性質なんだろう。そのときのてんやわんやが脳裏によみがえる。カメムシ。ふーん。いいにおいじゃん(マジすか)。草みたいな。そうか今のミルクはきっと季節の草の味がするのかもしれないし飼料にカメムシが多少は混じってるのかもしれないしふーん。いきものってすごいよね 食物連鎖よね我慢してのめ君はそこまで大きくなるのにいったい何千本の牛乳を飲んだと思っているんだ我慢してのめというと頑張って飲んでいる。★明日は晴れるといいなぁ。
2013年05月11日
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恐慌状態で引き上げ船に乗っている夢を見てげぼげぼしながら起床した。起きしなから船酔いの気分である。なぜそんな夢を?落ちついて茶を淹れゆっくりと朝刊を読み始めたら今日のレシピに『空豆のパンプディング』が掲載されていた。旬の空豆と、生ハム、バゲットを用いたお洒落なレシピである。ウワッステキそういえば台所に一枚だけ余った食パンがあったなあと思い今朝は早速これをつくることにした。もうそう思ったらすぐに作らずにはいられない。サッサカサーしかしわが家には「空豆」も「生ハム」も無かったので(それレシピの主要部分がないってことよね?)そのかわりに「新じゃが」と「春キャベツ」と「プロセスチーズ」を使うことにした。(ぜんぜん違うものよね?)出来上がりはなかなかである。パンプディングといえば「おやつ」(残り物のパンの使い方)の印象であるけれどもこのように塩味を利かせればちゃんとブランチになるものだなあとうれしい。子どもに出したら「これは?」「・・・キャベツの味がする」「・・・うーん。ベーコンとか入れるといいのかも」 とのことであった。御意。そうねレシピの通りに空豆と生ハムを使ったらどれだけウマかろう。頭の中だけで空豆を剥く。蛙が鳴いている。初夏だなあと思う。
2013年05月11日
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今日は以前の職場に立ち寄った。泣いて別れた職場であったが、そこは変わらず陽光が差し込み明るくにぎやかで私などいなくても同じように、いやそれ以上になんの障りもなく快活に廻っているのだなあとなんだか死人のような気持ちになったりもした。昔の同僚幾人かに会ってきゃあきゃあととても懐かしかったけれども、もう時間は戻らない。今自分のいる場所を大事にしたいなあと思った。そうでなければこの場所にも申し訳ないくらいだと思った。★今だったらきっとメル友なんだろうけれども古い人間なので「文通」がいい。「文通」に心ときめく。いやときめかなくたっていいのだが。学生時代の友人のお母様と文通している。その友人が亡くなったこの季節には私はそのときの気分や感情にあわせて絵葉書を送るのだけれども、お母様の方はいつも普通の官製はがきに綺麗な文字をならべて送ってくださる。文通とは言えないほどのこのやりとりで、私は友人の、お母様は子のその不在をあらためて確かめてしまう。それはもう慰めなのかなんなのかわからない。今年は思い切りポップなどすどす燃えているような向日葵の絵葉書を選んだ。いろんなものよ、もう燃えてしまえ。★夕飯は焼きそばにした。
2013年05月10日
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過日寝ている間に刺されとんでもない岩顔にされた蚊に今朝起きたらまた刺されていてまたしてもそれは目の周辺であり、鏡を見ながら心のなかで「うわあ」と思い、これは真剣にかの雌蚊と対峙して退治しないかぎりもしやこれから先、秋までずっと繰り返されるのであろうか?茫然とするような笑いだしたくなるような気持ちになる。そしてどうして蚊は目の周りばかり狙うのかな、私は目から二酸化炭素を出しているのか?しかし噴霧するタイプの蟲殺し剤は本体を見ずにやみくもにまき散らすことに抵抗があるし(蚊にはまだお目にかかっていない。私は夜は寝ているし、蚊は昼は気配がない。嗚呼すれちがい!)蚊取り線香もできるだけ焚きたくないのであるがその理由は「蜘蛛ちゃんを守るため」である。(蜘蛛・・・ちゃん?)うちには結構大きめの、足の長い蜘蛛が住みついており、その姿を見たころからたぶん彼が闘って喰ろうてくれているのだと信じているのだがゴキブリがとんと姿を見せなくなったのだ。ゴキブリも蜘蛛も私は全然怖くはないのであるがゴキブリは衛生上の観点からもあまり好きではなく、しかし蜘蛛は蜘蛛ちゃんは明らかに・・・・好き・・・・なのである。蜘蛛大好き。ほんとうの女子のころから好き。蜘蛛女子。であるから彼に徒為すような殺虫剤は家の中で使用したくない。と言うわけなのである。しかしそのことでこのように一定の間隙でしょっちゅう朝から目が腫れあがっているのは自身顔面が体のいい餌場になったみたいでどうにも腹立たしいしかといって昼の間一匹の蚊を探して家を探索し歩くのもいや面倒だ。刺され続けて抗体ができるのを待つ?(できるのか? 抗体。いやあと何回刺されれば?涙)どうしたらよいのだ。明日もまたこの顔か? BY岩
2013年05月08日
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冷蔵庫の掃除などをした。残り物を夕飯に仕立てるというような主婦の鑑的なものではなくそのまま掃除。少しずつ少しずつ汚れていく箱は「え」と気づかれるまで汚れてはじめて掃除されるかわいそうな箱だ。ところでこの冷蔵庫は家に来てくれて何年になるんだろう。その歳月をぼんやりと思いながら指先に力を込めて拭き上げる。★ドーナツ屋のドーナツ、オールドファッション。久方ぶりに食したらずいぶん食感が記憶と違うものになっている。まず輪にかけられているグレーズが違う。というかこんなのかけてあったっけ。それはてらてらとしてやけに蜂蜜の味がする。ドーナツ本体もさっくりとやわらかい生地になっているがこれは大昔、その店に私が出会ったころ私ももっとずっと若かったころはもっとずっと「粉!」「小麦粉!」「そして卵水!」という感じの生地組成であったと思う。「歯にあたって塊でほろりと崩れる」というよりは「噛みついて食いちぎる」というような(少し大げさだが)しっかりとした硬さであったように思う。それに齧りついてまずいコーヒーを啜り、どれだけ無駄みたいな長い時間を過ごしたろう。友人にほったらかされたりしてそれに気づかず(携帯なんかないし)ずっとずっとずっと待ってたりしてね。あれこんな時間だねどうしちゃったのかな心配だな、なんてしゅわしゅわしてさオールドファッション懐かしくて泣けるわ。★すこしずつ苦手な整理整頓にも取り組み、苦手ながら遅々とそれを進めていこうとしている。管理できないモノに囲まれることが少し厭になってきた。モノよりは自由な空間が欲しい。身の丈ということも考える。玄関の花も活けかえる。私の流派は『古流』であるけれども最近友人たちと話すと意外にも結構多くの人間が華道(やフラワーアレンジメント)を人生で一度は習っていたことがあると知って驚く。(驚くというか逆に友人たちのほうが「あなたが華道?」「しかも古流?」などと妙に驚くのですけれどどうしてですか)しかしそんなところが「やけに日本人だなあ」と思えていろいろな意味で興味深い。(もとより「切り花を愛でること」にはどこか庭園やガーデニングとは多少異なる無常観があると思う)流派によってその活け方がまるで異なるところもとても面白い。面倒がらずに精進精進。活花のある暮らしってなんだかちょっとハイソ(死語?)な感じがしてすてきね。いいえそんな饐えたような心象だけじゃなくてほんとうに背筋が少し伸びる気がする。少し人間が綺麗になれる気がする。(錯覚)さて書籍を処分しながらもまた次次に読みたい本が出てくる。 ◎ 薬丸岳 『友罪』 (集英社)これは東野圭吾の『手紙』(恥ずかしいですけど超大泣きしました)を超えるか?楽しみに読むといたしましょう。★
2013年05月07日
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引き続き良い天気。子どもの日だという。★小学生のころまで子どもの日といえば金ジョジョ(なにこれすげぇ)もとい近所の神社で町内会が催してくれた子どもの日イベント、鎮守の森全部を使っての隠し籤。それがわくわくするほど大好きであった。大人があらかじめ白い小さい紙を神社のいたるところに隠す。小さな号砲で子どもたちは一斉に森にかけこむ。あったあったと子どもの快哉で見つかる白は灯篭の隙間や松の幹の割れ目、神社の土台の石の蔭、単純な場所少しひねった場所裏をかいたようでかいてない場所、いろいろなところに小さくたたまれ潜んであった。それはだいたい引きずり出され開かれた。そこに書いてある数字と照らし合わせて景品がもらえるという隠し籤。これはほんとうに楽しかった。譬え景品がサランラップや餅網や町内の酒屋名が入ったへんな栓抜きであっても。何かをかき分けひっくりかえし覗きこむ「探す」ということの少し本能的とも思えるようなどきどきを今もあの町の大人は子どもたちに授け続けているんだろうか。★連休。友人が自家製薔薇園の写真を携帯に送ってくれた。みごとな開花である。私はどちらかというとドバッとミツミツしたゴージャスな薔薇よりも一重くらいの野薔薇みたいな軽やかで地味なのが好きなのだがそれを知って彼女私の好きなそういうサーモンピンクの一輪もでっかく撮って送ってくれた。ああ、きれいだ。丹精が見えるようだ。出先で見つけた薔薇を私も撮影して彼女に送ろうかと思ったが薔薇に薔薇じゃあんまりだそれに見つけた薔薇じゃ人のふんどし相撲だろうよと思いなおして「ふるびたおっさん」の写真を送った。★音源を聞いていたら(またドラム話です)ある曲のスネアの音色が部分的に特徴的で、それはまるでスティックを垂直にスネアに落としているような不思議さなのである。どうやって打点を鳴らしているのかROCK師匠に伺うと「良く気が付いたね」「それは」「ゴースト・ノート」ゴーストノート? というものであるらしかった。ゴースト? 幽霊? キャーしかしほんとうは「?」が付く余地が感じられないくらいその音はまったく言われてみれば「ゴースト・ノート」と呼ばれるにふさわしい音だと思えた。打点にまろやかな翳を添えるふしぎな幽霊。まったく奥深いな、音楽は。どのように打つかはまた未来のお楽しみである。この存在感が幽霊みたいに薄いわたくしもぜひとも将来的には幽霊をマスターし効果的な場所に同類相憐れみながら出現させてみたいところだがまだまだ到底そんなレベルじゃないのよ、まず基本基本。基本頑張るぞ~。しかしいったい自分は何のために張り切ってこんなことをしているのであろうか。ド素人が今更ムキになっちゃってさ。ばっかみたい。だけどそうさ、めぐりあってビビビときたら楽しく愛しあうしかなかろう。地獄の果てまで叩き続けろ。(おおげさ)★五月。初夏とも言えるのかもしれない。
2013年05月05日
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良い天気。★二度寝で夢をみた。わたしは梶山芽以子という女になってそこに登場していたがどうしたって梶芽衣子のパクリだろうよと。部屋の窓から広大な坪庭が見えるのであるがどうにもピリリとしない造成でなんだか建築中のテーマパークのようなのであった。そのざらついたような緑と土の置き方と雑な配置はたぶんそれが完成したところでちっともうつくしくもたのしくもない様子なのだろうと思われた。わたしは手に持っていた長モップと一緒に棒立ちながらどんよりと土空の間を眺めていた。いつのまにかわたしのうしろに立っていた人が「これは駄目だと思っているだろう」「しかしだいじょうぶなんだよ。ここにはこれから杜若を植えるのだから」 と言う。は? カキツバタ?夢の中の梶山芽以子は「そうですかそれは白ですか紫ですか。いいえきっと紫のカキツバタですね」などとなぜだわけのわからぬことを言う。★夕飯の為に丁寧にカレーを作った。チキンカレー。クミンの香りが部屋に渦巻く。★ドラムの練習。やればやるほど思うのだが「簡単な音楽」なんてないね。特に向き不向きという崖を乗り越えてゆかねばならないものにとっては。「手を抜ける」ことを「簡単」だと思っている不遜どもを今年はぜひとも退治したい。下手なものほど手を抜きたがる。笑止このところの季節柄 BUMP OF CHICKEN(←大大好き。笑止!)の『メーデー』でBEATの練習をしている。だいたいただ基本の8BEATを刻むだけなのでそんなの簡単だと思うでしょう?ひどく難しい。(たいてい「基本」ほど奥が深い。深すぎて底しれず。ときどき溺れそう)そのうえ超大好きな曲なので歌詞に耳がめり込み刻みが遅れがち。しかし天才というのは水たまりひとつ穴一つからもこうして作品を構築できるんだねと天才にとって世界は創造の種を分子にしてできあがっている未知の秘密壺なんじゃねぇかなどとときどき茫洋として手が止まってしまう。笑止。練習にならんぞ。今年はなんとかBUMPのライブに潜入したいものである。いやいやそのために足腰を鍛えておかねばならぬだろう。うちの子もBUMPファンであるからなんとか一緒に行ってもらいたいがどうにも断られたら独りでも行く。ライブでへんなオババが踊り狂いながら脳天から電波声を発していたらそれがきっとわたくしである。その足下の鞄からはドラムスティックが伸びているかもしれない。
2013年05月04日
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新しい茶筅を買ったので点ててみる。おお。不自然なほど泡がたつ。泡を覗き込んで写真などとる私。泡の中の私。無私とも黄金とも無縁の私である。★都会(この場合私にとってのそれは『東京』である。大きいな。厳密でもない)に出ると刺激物ばかりで疲れる。しかしそこに「出てゆく」ということが今の私にはとても重要な気がしている。出てゆけば「戻る」ことになる。そのことが有難くどこか薄く軽やかだ。戻ってからどうするかが課題。大海に中った蛙がどれほどその塩を舐めることができるかどうか。★昨今の電車の中はどうにも不気味である。満員以上の乗車率的車両でありながらくっつきあう人たち仰山を運んでその箱が無音である。みなそれぞれの小さい機械をいじっている。ときどきその沈黙を破る必要以上の車内アナウンス。駅のへんてこな音楽。この国民はこんなに奇妙な静けさが好きであったのか。その中において昨日友人と隣り合っておしゃべりしていると友人が何の雑誌で見たか知らぬがもはや「意図ミエミエ」の心理テストみたいな馬鹿質問を私に大真面目に仕掛けてくるのでそれがおもしろくてたまらない。笑いながら突っ込みを入れつつ逆手取りをまたひっくり返したようなゲゲゲ回答をしていると「えっそうなの。まさか。それはありえないわ人として」などとまた友人が糞真面目すぎるリアクションをしてくるので面白すぎである。気づくと機械をいじっていた周囲の人たちが笑いをこらえるような顔をしている。ああ、なんだよみんな耳はあるのかよ。と思う。★さて午後から太鼓でも叩きに出かけるが、スタジオは金がかかりいつもの河原は連休なのだから親子連れなどがきっと出かけてきていて私には居場所がないかもしれない。しかしそんなのはどこか自意識過剰でそこに居ようと思えばそこが居場所になるのだ。だって小さいよ人なんて。ひとりひとりにいちいち感情があるなど馬鹿みたい奇跡みたいとときどき思う。太鼓を抱きしめてすこし徘徊しよう。咆哮しよう。
2013年05月03日
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昨夜眠るときから気づいていたのだが見つけられなかったのでそのまま寝た。そして朝起きると特に気分体調平常と変わりのない様子だったが鏡を見て驚く。おのれの顔面がボコボコであった。これはどこで越冬しておったか どこぞから目覚め侵入したのであるか、蚊の仕業。本年度の初刺が例年の初邂逅に比しても大層ひどいものになってしまった。片方の目と頬は異常に腫れ、下唇はむくれあがり、笑えるほどの無残さである。平素から険しい美貌であるその面へのより圧倒的な加虐を明鏡前静納心しながらそしてああ、これほど顔が腫れあがっているというのにまったくうんともすんともいちども目を覚まさなかった自分の豪胆にどこかエッヘンと恐れ入るものである。★本日の音楽はハイドン。聴者であるときはハイドンねー案外爽やかなだけで印象に残らぬ退屈な音楽?(不遜)などと感じていたのだが実際に自分で演奏してみるとうわなにこれ、え、あ、ああ、あ、あ、あああああ?・・・・。ハイドン! 天才! (あたりまえ)ああ。はじめてだ。ハイドンで泣ける。天才の仕事というのはどうしてこうシンプルでありながらひとの心に入り込むのか。いや入り込めた仕事がつながりつながり絶えずに天才を伝えるのだ。天才の仕事は人類の歴史を貫きながら時を串刺すギフト。人類は天才の針にあやとられた凡人の絨毯。敷きつめられながら伸びてゆけ。個人の時間は短い。少し涙ぐみながら淘汰ということを考えた。どうしてひとはこんなに醜いんだ。
2013年05月02日
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いちごでーす。★ホットケーキでーす。★ビールでーす。ああ、なんて平和なんだろう。
2013年04月30日
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連休。良いお天気を横目に家具の配置換え。楽し~(嘘)でも目に青葉。新緑の中の日常は気持ちが良い。昨夜は初鰹。幸福。朝は厚揚げに大根おろし。★掃除の合間にストレッチ。掃除の合間に柏餅。★台所では丹波黒を炊く香り。★ 夕飯はシンプルなパエリアにした。日本酒にしようかワインにしようか。食べてばっかり。な連休。
2013年04月29日
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古いものを片づけていたらでてきた毛糸のかたまり。妊娠中に編んだ「腹の中の子の為のベスト」であった。性別がわからなかったので水色で編んだのである。そしてなぜかボタンの色がばらばら。オシャレだとでも思ったか。洗って洗って縮まりもはや毛糸としてのふんわり感は皆無。フェルト細工の様相である。だが無性に懐かしくなり捨てられずまた洗ってみる。ちゃんと愛して育てたつもりだがどうであろうか。鯉幟の季節である。
2013年04月28日
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ゴールデンウィークとか。お元気でお過ごしですか。お天気も上々。あまり日常と変わらぬ日常ですがかまいません日本語が変でもかまいません。常のように食事をし常のように太鼓でも叩くか!★過日の大同窓会で恩師に会え旧知に会え親友たちに会えとても楽しかったのだがそのときに以前交わした「旅行貯金」の話になり「おい、わたしはもう貯めたぜ」「そっちはどうよ」 と訊かれ(結構もう酒が回ってる状態)「は?何の話だ」「あ・・・」「あっ!」「アレか・・・」「え。もう貯めたのか」「・・・・」・・・・」「すまん」「・・・まだだ」「まだ半分」 と謝るわたし。計画性のなきこと砂のごとし。わたくしのそれは絵に描いた餅。そうだ欧州旅行にみんなで行くため金貯めなきゃいけなかったヨ。「ったく」「なさけない」「そもそも誰が言い出したと思ってンのよ・・・」 的な話の流れの中で新たな展開。「うふふ。じゃあこうしましょ、ワルシャワに集合!」「・・・・は?」「じゃあ?」「じゃあ・・・って?」「ワルシャワ?」「集合?」「・・・・ですか?」提案くださったのは恩師の奥様であった。恩師が近い将来長期滞在されるご予定のその地にみんなで押し掛けましょうよというなんという奥様の豪放なご提案!「のった!」←すぐ乗るわたくし。リーダーを年嵩のAに任命。Aは「は? 君たちの計画はたった今独逸か西班牙か葡萄牙って聞いたとこですが」「俺?」「ワルシャワ?」「俺エーゴできねぇし」「いやいや大丈夫だってポ-ランドだもん」「英語じゃないでしょ」「余計駄目だし」「ポーランドってなに語?」「マジャール語じゃない?」「いやポーランド語でしょ」「いいよ何語でも」「経験値でいけや」{は?」「血でいけや」「は?」「わーい」「よろしくねー」「いや言葉できないとリーダーはさ」「いや言葉じゃないでしょ度胸でしょ」「度胸じゃないでしょまず金でしょ!」「結局そこかっ!」ということで、次回の(いや次回は無理として)小規模な同窓会はワルシャワ決定! ・・・・か?(いずれにしても)(金)(先立つものは)(情熱と仲間と)(金) (貯金!) ガンバルゾー★大好きな仲間たち。未来に楽しみをちりばめろ。
2013年04月27日
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あたりとかはずれとか人生にはないと思うが(ほんとうはちょっとあると思うが)昨日は少しだけ外れたかなと思う一件があった。帰路のスーパーマーケットで「ひとふくろ千円☆」という超特価の袋詰めモノがありそれは透明なカシャカシャとしたビニール袋詰めであったためその内容をおおよそ掴んで購入することができた。値段の割にはかなりよさそうだったので買ったのである。帰宅して開封してみると、だいたい見たままの商品であったがその重なりの一部に一枚だけハイレグが混ざっていたのである。げ。しかもレースふりふり。これはどうなんだいったい。隠しパンチみたいな。こんなん金輪際使えないじゃな~い?どこから足を入れたらいいかわかんないくらいだわ。なにこれ。今でしょ! いや、ダメでしょ!というかスーパーで千円で下半身下着買うのがそもそもダメでしょ。それも10枚よ10枚で千円って。(福袋不買主義。「福」ってなんだよこれが「福」か? 思考なのにこういうのは買っちゃうんだ)残り物を集めに集めた感じが袋小路人生みたいでなんだかわたくし救世主にでもなった感じ。(もちろん人生が袋小路ならわたしもそのぎゅうぎゅうのなかに詰まって在るのだ)この驕りながら笑いだしたくなる哀しさはどうだ。まあいいかこの場合こういう系統は人に見せるものでもないし。(見せないのか)これ、もう履いてみるしかないな。中年出腹をたっぷり覆うものがわたしには断然必要なんだが。ああ。一枚で無理なら重ね履きすればいいねハイレグ。エーッ人生にハズレはない。ハズレと思ったらその心がハズレをつくりだすのである。(ってどんだけポジテイブなんだヨゥ)
2013年04月24日
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車中、ラジオから流れてきた曲に はぁ? ナニコレ70年代のパロディかよと大笑いしキャハハハ、やめてよ~。特徴とらえすぎ~。うける~。ハハハ、あれ、でも、なんだ、え、あ、お、う?・・・それにしちゃ、エラクうまいな。ウオオと思っていたらツェッペリンでした。ギャーごめんなさい神様仏様ボーナム様!わたしたちはしらない。そしてしってる。まわるまわるよじだいはまわる。そしていきていくものたちはもうまわらない。★ドラムの練習。まだまだ三連符に四苦八苦。三音のいちばん終いの音にクラッシュを噛ませる。そんなの至極簡単単純なことだと思うだろ? いやいやいや難しいの。だいたい三連符自体が難しい。そこにバスドラとか違うアクセントで入れようなどしようものなら四肢が空中分解。これじゃ蛸踊りもできないわさ。蛸が怒るわ。しかしsyncopationの力は偉大。曲が踊りだす。映画の『スウィングガールズ』 でもビッグバンド女子たちが試みていたけど「裏拍を感じる」ってすごく難しいことなの。感じるってフォースかよって感じ。頭じゃできないんだなあ。体が反応してそれからああこれが裏なんだと。そして体はなかなか反応しないのさ。反応したと思って「あ」と頭が思うとその場で体は冷めていく感じさ。りくつじゃないのよおんがく Hahaきいてるだけならいいけど hohoがんばろ。ドド下手だけど、泣けるけど、マゾだけど、いいだろ。たのしいんだ!
2013年04月23日
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春だが寒い日曜日。ブランチの為の炊き込みご飯。『チキンと新玉ねぎのチキンライス風・岩塩とバターと黒胡椒的炊き込みご飯』である。(長いし材量全部ならべただけだし)ほっくりと幸せである。★今週は膨大な曲の暗譜。(膨大というのは拙キャパ狭的心理表現できっと)(多くの人には大したことのない曲数)仲間に「どう暗譜する」のか暗譜HOW TOを尋ねたところ「ひたすら唱えながら紙に書く」 (受験生か)「音源と一緒に何も見ないで歌い続ける」 (これはいいね。わたくしもときおり)「ドライブしながら大声で唄う」「楽譜のコピーを常にポケットに。暇があったら読む」 (二宮金次郎か。いいえこれはわたくし)「こどもに楽譜を渡しておいて歌いチェックしてもらう」 (なんてやさしい子!)などそれぞれに苦労があるようである。しかし「なんだか自然におぼえている」というツワモノもいてその「自然に」に思いを馳せるとああ、宇宙はきっと膨張しているんだなあというような漠然とした気持ちになる。(意味はわからん)今回私は曲によってソプラノ、メゾ、アルトを行き来する感じになりそうしてみるとほとんど常にソプラノにいた自分にはそれ以外のパートの役割や和音の嵌め方、旋律の出し方などが新鮮でたまらぬ。そしてこんなに困難。ああ、旅に出ているような気分である。しかしそれもきっと帰る場所があるから。★わたしが今ドラムに夢中になっているのも、旋律先行型の自分にとって「旋律のない状態」がとても刺激的だからなのだろうと思う。そして更にそう思っていたところに「旋律的なリズム」を平気で奏でるガッド師匠のような音を知らされたからなのだろうと思う。ああ、もとより技術がなければ話にならないが、志のない音楽だって厭だ。意味のない音楽なんかやってる暇はない。機械にでもやらせておけや。だからきっと、だが更には、技術がなければその志などもたぶん噴飯なのである。基礎練だ基礎練。せめて志が持てるくらいに。技術を見せつけなければ大人は誰もついては来ない。そしてやっぱり、楽しくなけりゃ音楽は音楽にならないのさ。光よ射したまへ。
2013年04月21日
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★★
2013年04月20日
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今朝はパン。たらこマヨネーズとチーズオンでトースト。味噌汁(万年味噌汁)とヨーグルトつき。飲みものは紅茶。多国籍な感じである(意味不明だし違うし)。朝食と一緒のおやつは(もう朝からお八つ。むちゃくちゃである)学芸大学『マッターホーン』のバウムクーヘン。この薄さに驚くけれどこの薄さが丁度いいのだ。さて今日はうすら寒い。頑張って出かけよう。
2013年04月20日
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いつもの朝販。いつもと同じものを平和に食べその一日の終わりにまた食べものの話をしていられるのはなんて平和なんだろう。いやになるくらい日常というのは食べて出すことの繰り返しだ。幸福とはきっとそういうもの。★今日は寒いので作るのも食べるのも温かいものがいいと思い「牛スネ肉のクリームシチュー」を作ったのだが子どもに「うわ。なにこの色」と言われてしまった。え。地味は嫌いですか。ええ、まあ綺麗ではないですよ確かに。だがなんとなく独逸か露西亜っぽくていい感じの色ではありませんか。とろみを炒め玉葱とじゃが芋で出し、牛乳と豆乳を投入、チーズを加え黒胡椒で仕上げた逸品であるがそれを逸品認定しているのはわたしだけ。いいのいいのこの家の台所の支配王は世界でただひとりわたしだけなんだから。味は、ウマかった。牛肉だけど。(シャレになってない)
2013年04月19日
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熊谷草。(くまがいそう)平家物語にその命名の謂があると云。稽古は濃茶。大棚の運び点前。棚は台目棚。茶入の位置に注意。炉。この時期は湯が冷めぬよう配慮。湯相を整える中じまい。温かい風の吹く不思議な天候であった。明日はどのやうな一日になるだろう。
2013年04月17日
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新緑の季節になってまいりました。杉様ははやめにお終いくだすったようでございますが檜様が台頭・・・。目が痛ぇよでございます。★昔の職場の人にお会いいたしましたらこの春新しくそこへやってきた方が年配のお方で茶道をたしなんでいらっしゃるとのこと。あらすてきですねと申せばそのかたはご自分のそのご趣味のことばかり話して仕事は今いまひとつなご様子。茶道がわかるかたがいないので周囲は聞かされる一方で閉口するばかりなのだそうでございます。正直「お茶出し」も「その方のお仕事」なのですけれどなぜかおざなりで「ちっともうんまくない」「むしろまずい」そうでございます。面白いなと思いました。人生などそんなものです。そこそこ普通にお出しして差しあげても「茶の話」ばかりしているかたの淹れたお茶にはなにか違うものが期待されてしまうのでありましょう。ああわたくしがそこにおりましたならすこしばかりはギャフンと言わせて差しあげられるのに。いいえそのような心ほど茶の道から遠いものはございませんわね。★緑はほうれん草のおひたし。わたくしはポン酢派ですけれどマヨラーの子どもはほらこのように。風情とは別物のなにかが生じているようでございます。★「じゃがりこ」もみどり。新製品にございます。あんまりアボカドのお味は感じられないのが不満ではございますが、うまい。ピンボケですね。★鞄の中の書籍もみどり。幸田露伴の『幻談・観画談』え、なぜ緑かって? 露伴って緑って感じしませんか?(根拠レス)★さて、精進精進。新緑の季節は楽しいことが起きなくてはなりません。たぶん。
2013年04月17日
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村上春樹の新作を読む。ハルキスト(なんて呼ばないでよ頼むからと本人たちは言うだろう)の友人たちから「ネタバレしてやる~けけけ」 とか「あんまりはやく読んでしまうとコスパ悪いよ。楽しもう」 とかさまざまなメールが舞い込み舞いこみ、もはや読まずにはいられぬ。そのことがなんだか笑いだしたくなるような楽しさだ。大嫌いだったのにね、村上春樹。ということで、読了。コスパ悪かったかな。それほど器用ではないから一気に読まねば脳内の映像が途切れて落ちてしまう。そして映像が浮かばぬもの、寧ろ落としたいようなそれなら今のわたしにとってそれは読むに値しない書籍なのだからこの新刊はしまいの頁まで辿りついた、そのことがめでたくうれしく思われる。ネタバレは勘弁しとくれやす~と涙目で叫んできた以上自らがそれをするわけにはいかないのだがいや待て自らだからこそそれをする権利があるよねっ! ←おいということで、笑いややはりやめておく。★やはり少し、書く。以下これから読む人は読まないでくださいね。いやぜんぜんネタバレというほどにならないだろうとは思うのですが。(いや書いてみたらやっぱりネタバレでしたごめんなさい) 本作、思ったよりも、いや思った以上に「村上春樹」であった。そんなのあたりまえじゃんって話であろうかと思うがなんというかこれは『ノルウェイの森』の変奏曲である。それ以下でもそれ以上でもない。であるからそれを好きだった人はこれも好きかもしれない。いやきっと好きだ。であるから私はこの物語に登場してくるひとびとたちに半分以上イライラし、半分以上「ばかみたい」と思っていた。つくるくん(主人公)の歳でこんな幼稚な男がいたら友人にだってなりたくない。だがそうなのだ。だからこそつくるくんは「自分が知らない理由で」「自分の大切な人に無言で切られていく」そういう人間性を物語のなかで生きていくしかないのである。最後の頁を閉じた時、やはりわたしは少し怒っていたけれどもでもそれが村上春樹なのである。だいたい還暦超えたおっさんがなぜ二十歳くらいの友情なんか描くかな。還暦超えたおっさんは物語の大事なエピソードも核心も回収しようともしない。ったく。いささか。いやはや。つくるくんはお金持ちの息子で姉が二人おり、やさしくて聞き上手、謙虚で自虐的でそして今でいうところの「イケメン」である。(が作家はそれを「ハンサム」と言う。何度も)(いやおそろしい。この作品は本当に)(ある意味鳥肌もののサスペンス劇場である)(きっとつくるくんがやっちゃったんじゃない?)たぶん作家は友情なんかちっとも好きじゃないんだろう。信じてもいない。だからこそこのようにすてきに突き放した描写ができる。それでこそプロだと思う。それでもさすがにこれを「巡礼」というのは巡礼に失礼かなあとは思った。初めはそう思っていた。(わたしは「色彩を持たない」ということがシキモウという性質のことなのだと思っていた)(しかしそれは比喩にすらなかったのであった)(鉄道ファンが喜んでいるかもしれないけれど、作家は鉄道だってちっとも好きじゃなさそうだ)◎物語に出てくる人たちはいつもながら多少感情的でそしてぜんぜん論理的ではない。そして本人たちだけがそれを論理的だと思っているような会話。不器用でぼくにはわたしには器用な言い訳なんかができないからというのがいちばんの言い訳。勘弁してくれよと思う。全部引き受けようと思ったけどやっぱりできないから全部捨てるその極端さ。勘弁してくれよ。それを青春の比喩と言うのならきっとそれはそれでよい。物語の核心は別にある。いや別じゃなくてそこに絡んである。(どっちなんだ)登場人物たちには「故郷」というものがあり、そして物語はそこから始まった。そして作家は人をこう分別している。「故郷を出るもの」「故郷から出ないもの」「故郷に戻らないもの」「故郷に戻れないもの」意外と世界はそのような単純でできているのかもしれない。周囲をみれば多くの人たちはそのように分類されるのかもしれない。故郷を出たことがないものたちは実際にもたくさんいる。一生を故郷で終えるのだ。また故郷を出て違う場所で生きている人たちもまたたくさんいる。将来故郷に戻ろうと願うものも。ここで作家は「故郷に戻るもの」を描かなかった。故郷とはなんだろう。そうだ。きっと故郷がないものに巡礼はできない。◎物語に登場する音楽を知らなかったが、後半で名を挙げられたピアニスト、私は好きである。少し危ういものにひきつけられるけれどやはり好きなのはすこやかで剛健であるものだ。いつか失われることにおびえながら、やはり健やかで剛健でありたいと願うものだ。◎ということで、お薦めである。(お薦めなのか)少なくとも読んでいる間その世界に入ることができたし映像が途切れなかった。読み終えて不満が残ったのもそれを楽しめた証左だ。好きなエピソードもあった好きなシーンもあった好きな人物もいた。だから許す。(許す?)お薦めだよ、ほんとだよ。(言うほど嘘くさくきこえるかもしれないけど、ほんとだよ。笑)(実はとっても物凄おそろしいお話)(サイコ)(ある意味やはり「巡礼」)しかしこのような物語を日本人のどれくらいがこの週末に読んだのだろうかと思うと少し気持ち悪くなるね。「ああ。やっぱり昔の友だちに逢いに行こう」とか急にみんなが連絡取り出したり突撃移動が始まったりしたら。だけどまあ日本人の人口は1億2千万人ほどなんだしべつにどうってことないか。
2013年04月14日
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昨夜は久しぶりの「ママ友飲み会」であった。「ママ友」などというとまるで「家」を「おうち」と呼ぶくらいの気恥かしさを覚えるのだが彼女たちとは子どもの小学校でPTAの本部役員をともに闘った(闘った?)同志である。懸案を抱えて学校のPTA会議室に手弁当抱えて籠り、気づけば外は闇。いきなりドアをあけられて大絶叫すると戸締まりに来た先生だったり、運動会の路上駐車を注意して運転手と大喧嘩になり警察沙汰になったりもした。卒業式では自分たちの子どもが卒業するのでもないのに抱き合って大泣きしたっけね。お人よしすぎが断れず引き受けて出来上がった消極的ボランティアチームだったから本当にいろいろあった。が、今は時の霞の中ですべてがなつかしい。何も変えることなどはできなかった。だが繋ぐことはできたのだろうと思っている。出会った時小学生の半ズボン小僧だったわたしたちの子どもは今は高校生である。歳月を感じる。しかしその一方で彼女たちと会うと歳月が吹き飛んでしまう。これからもお人よしでいくのかしら損だと思われることが人を育てるのよね自分の背中はきっと子どもたちになにかを語れてきたのよねそう思ってるわいろいろあるけどねそうね「いろいろ」は簡単に説明なんかできないから「いろいろ」なのわかるでしょいろいろねえ女はいろいろを纏ったり脱ぎ捨てたりよそうよいいのよ纏わなくちゃ脱ぐこともできないでしょときどきすっぽんぽんで温泉にでも入ろうよはいろうはいろういこういこうはいろうはいろういこういこう いこういこう★さて元気と大酒をチャージしたところで村上春樹でも読みましょう。更に快活気分になれますでしょうか、それとも……
2013年04月14日
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昨今マイブームの(って一回しか買ってないじゃん)パン屋さんから惣菜パンと一緒にもとめたのが普通の食パン『パン ド ミ』であるがこれはその店を教えてくれた友人が「食パンとかフッッツーのパンで店の真価がわかるから」「是非買ってみて~」と言うので買ったのである。惣菜パンの感想は昨日書いた( ↓ )ので今日は食パンについてをを書いてみよう。いや~。うああああっ、こ、これが真価? 真価というものなのかっかっかっ!・・・・とはならなかった。実際よくわからなかった。普通だった。ただ耳がやけにぱりぱりしてうまい。まあ私の舌などそんなものである。しかしだいたい真価なんてもの、知りたくはないのさ。食パンの半分はシンプルに味わい噛みしめていただき、残りの半分はガチャガチャと冷蔵庫にありものの具を乗っけて焼いていただく。真価は台無し。庶民の味。ああ、うん。普通に美味しい。元気が出てまいるぞ。★結局買ってしまった村上春樹。学生の時友人に勧められて読みぜんぜんまったくおもしろくなくてむしろ意味もわからない感じでええーこのよさがわかんないの的な扱いを受けた記憶もあったりなどしてそしてその誹りの意味はもっとわからなかったりもしそのままずいぶんな大人になるまで読んだことがなかった村上春樹。このように廻りまわってまた読むことになろうとは。と感慨深い。人生に意味は必要ないけれど感慨は必要かなと思っている。★合唱団。先達と話していたら私の念願の「ルネッサンス」をやりたいという方も幾人かいらして「でもきっと先生は無理だとおっしゃるわ」などと言っているのでそれならばとお茶の時間に先生に茶を呈しながら 「先生、ルネッサンスやりたいです」と目を微塵もそらさずストレートに申し出てみた。先生はお茶を噴きこそしなかったが驚いて「きゅ、急にどうしたんですか?」 とおっしゃる。そこでもう一度「次、ぜひやりたいんですルネッサンス」「みなさん無理かもとおっしゃるんですけれど」「やりたい気持ちがずっとあります」(ずっとというのは嘘でつい最近やりたくなったんだけど)団員、固唾をのんでいる気配。先生「・・・そうですか。ルネサンス・・・」 (皆の顔と天井をご覧になり)「わかりました。じゃ、一曲。ええ。やってみましょう。いい曲探してみます」え。わわ。わーいい。うほおーい。やった!団のチームザルネッサンスはガッツポーズで小躍り状態。キャッホーやっぱりルネッサンスよね~。音楽の源の、その湧き出でるところにあるルネッサンス。なぜ人は音楽を生んだのか。もっといえばなぜ人は神を生んだのか。しかし団員から「さすがあなた、こわいもの知らずね」 よばわりなのはどうか。この私はきっと武士の時代であったら大名行列に直訴してサクッと斬られるタイプだ。いいさ。欲しいものは獲りに行く。★さて今日は掃除して掃除して掃除して掃除してきっと放擲して、そして、ドラムだ。ひゃっほう!またスネア積んで外に逃げ出す。風に吹かれてぶっ叩く。サイコーだってこんなにいい天気なんですもの!
2013年04月13日
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レッスンの帰りに渋谷ヒカリエ。仲間のひとりが「世界一おいしいパン屋さんよ。世界のことは知らないけどね」と教えてくれたパン屋へ寄る。どうしてこれほどのものがここにあるのだろうどうしてここはこんなにへいわなのかゆたかなのかと行けば必ず圧倒され打ちのめされいたたまれなくなる(だから滅多に行かない)食品フロアに行くと群雄割拠なパン的ブースの一角にその世界一があった。『ル パン ドゥ ジョエル ロブション』夕刻なのに切れのない品揃群団の宝石箱に入り込んだような眸の定まらない状態でふわふわと目にとまった幾つかを選び行列に並ぶのが大嫌いだが仕方なく並んで購入。暗算計算ができないのでレジでの支払い金額にたいへん驚きこれでうンまくなかったらどうしてくれようかと思う。「その赤い袋を提げて渋谷駅の外に出るとああここはパリかなって思っちゃうのよ」と仲間が言っていたそのパン屋の赤い袋は帰路の電車の中でずっと香っていた。食べたらおいしいっ!写真はフォッカチャオリーブ。そのほかペッコリーノチーズ。スモークチーズセロリ。キャソナードセサム。どれも脳内が自身へ記憶を探して見つからず霞むほどおいしかった。★ヒカリエの周辺で夕刻の写真を撮った。ヒカリエの中でパンを買った。そのパンは眩暈がするほど美味しかった。自分は圧倒的なおのぼりさんで、都会の人はこんなおいしいものを平気な顔して食べているのだから人間だって違うのは当たり前だと思う。きっと小さいときからこのようなものを食べていたら自分は違う人間になっていたと思う。きっとあのような場所にもし生まれたら自分は違う人間になっていたと思う。だから人はみんな違うんだなあ。と不思議な気持ちになりながら幸福な夢をみた。★村上春樹の新刊が今日発売。朝のニュースで販売の行列特集を観る。子どもに「買うのか?」 と聞くと「買うわけないじゃん。ファンでもないし」 と言う。そのあとニュースが「さてどんな内容なのでしょうか」などと購入して頁を広げている人に尋ねようとしているので「うあー。やめろー。ネタバレは勘弁してくれ」 と耳を避けて台所に入れば「なんだよ。買うのか」と、ばればれの心が読まれてしまった。
2013年04月12日
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友人が仏を観て来たとかでその仏の絵葉書で近況を送ってくれた。円空の彫った仏なのだと。「この葉書のが私の気に入ったのなの~(ハート)」「ヘビの体なんだってサ」「うんこみたいだが・・・・」こ、こら! 尊き仏様にうんことはっ。旅の空で刃物を取り出し彫って残した木の仏。それを彫るときのお坊様の(旅人の)心はどんなであったろう。それは余人が想像できない本人だけの心だろうけれど。しかし、たしかに可愛いけれど、これ実際に貰ったらちょっと困るかも。ほらあなたの大好きなヘビの体だよ。とか言われて手へ握らされたらどうしよう。ちょっと、ゲギャー勘弁してよとか思ってしまいそう。いや投げ放るわけにいかないし仏だし。滋味はきっと後からわかるんだろう。そしてそういうものほどいちど愛着が湧けばそれが無二になるんだ。なるんだなるんだ。なるんだなるんだ。ああ。ほんとうだ、なるんだよなるんだよ眺めていたら好きになってきた。絵葉書を冷蔵庫に貼る。うんこにみえてうんこじゃない。木の年輪。とぐろの身体。どうとでもとれる線の顔。ひとはふしぎだ。なんとなく変に笑いだしたくなるありふれてとぼけた滑稽のなかに人生の意味を見つけ繋いでいきたがれるのが人間のすてきさなのさ。いつか、ああ、いつか覗きこむようにしてその本物を直に拝ませていただきたい。円空仏よ。その置いていかれた旅のその空の下で。私も旅人となって、違う時代に。
2013年04月09日
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ソメイヨシノはだいたいが散り、そうでない紅色の花がまだ咲いている空を見上げた。いつのまにかこの月がもうこれほども過ぎ去っている。妹に電話したら「今年の桜はこっちもはやいよ」と言う。歳月も早いがこれほど何度も何度も何年も何年ものんきに桜を見上げることのできている自分はなんと幸運で幸福なのだろうと思う。小さいときは自分はきっと早く死ぬのだと思っていたけれど、そうだ、わたしのまだ小さいとき祖父が亡くなった。新緑の季節であった。そのときにそびそびと各地から集まった家系の人々、主に見知らぬ老人たちが「こんなに早死にしはるなんて」「信じられへん」「わかすぎるわかすぎる」「嘘嘘」「これほど早く死ぬ人をわたしらは知らない」と大層はげしく嘆き悲しんでいたためにいったい祖父はどれほど早死にしたのだどれほど儚い人生だったのだと思っていたのだが、少し大きくなりその肖像画前でいったい祖父は何歳でなくなったのかと父に訊くと「69歳」とのことであった。
2013年04月09日
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風は強いが晴れている。家の前の川がまだ朝はひどい増濁流であったのが見る間にひいてゆく。爆弾低気圧というおそろしげな名前にすこしびびっていた昨夜。過ぎてみればなぜ爆弾なのだと思う。★ブランチはパスタにした。ご飯の量が足りなかったためである。であるからお献立としては「味噌汁」「ご飯」「おひたし」「スパゲッティ」である。スパゲッティをおかずにするのはいい加減やめてほしい。と自身に言っておく。だが心中で呟きながらどこかなつかしいのは故郷の生家でも「おかずが焼きそば」「おかずがお好み焼き」という食事が良くあったからである。ああ多少の「常識」のようなものに縛られてはいけないね。常識なんて亡霊のようなものだ。くだらない。大人になったらそんなものに拘泥してはいけない。なんと言ったって母などはご飯のおかずが「羊羹」ということすらあったほどなのである。今日のパスタには先日友人からもらったソースをかけてみる。うわ。クリーミーだ。そして辛い。そして、うまい。★さて、天気も良いので今日は外へ。トランクにスネアドラムを放り込んでドライブだぜGOGOGOどこへ行こうか気分に尋ねよ大きな川の河原っぷちなんかで風に吹かれて叩きまくれば人生はなんて最高。←変人太鼓叩いて叩いて叩きながらはやく大人にならないとねと思う←「ブリキの太鼓」かよああしかし現実の自分はもう大人になりすぎてしまってるよ・・・。もはやどんな墓穴に入るのかと考えてもよいくらいの大人に。そして考えても仕方ないことはまんま寝かせておけと割り切れるくらいの大人に。レットイットビー自由って何だろう。音楽以前の雑音よ紛らわしい雑念よ生まれながらすぐに風にちぎれてとんでいけ。
2013年04月07日
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