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■1950年(昭和25年)プロ野球界に大きな出来事がありました。終戦後5年目を迎えた同年、リーグは2つに分裂して開幕しました。現在のように6チームずつではありません。セは巨人、中日、阪神、松竹、国鉄、広島、大洋、西日本の8球団。パは南海、大映、阪急、東急、毎日、西鉄、そして近鉄の7球団。球団数が8と7というのは妙ですが、それ以上に面白かったのは、プロ球界参入1年目の毎日オリオンズがパを制したことです。なぜ、たった1年目の毎日が優勝できたのか?その理由は2つあるといわれています。ひとつは、都市対抗の強豪・別府星野組の選手たちの大量入団。2つ目は、阪神の複数の中心選手の引き抜き。■私が今回書くのは、2つ目、すなわち「阪神からの引き抜き」についてです。大和球士さんは著書『野球百年』(時事通信社)にこう書いています。「この年、雨後のタケノコのように続出した新プロ球団中、毎日は強引な手を打って大きな話題をまいた。阪神すなわち大阪タイガースの主力を根こそぎ奪い去ったのである。タイガースの1番打者呉昌征、3番打者別当薫、5番打者土井垣武、6番打者本堂保次、投手若林忠志、それに大館勲夫を引き抜いてしまった。引き抜かれたタイガースは潰滅に瀕してしまった・・・」■この件について、当時毎日オリオンズの一塁手だった西本幸雄さんは『パ・リーグを生きた男 悲運の闘将』において、毎日の引き抜きは、阪神への報復だったと断言していました。「はじめの構想では、阪神はパ・リーグに入る話になっとったんやね。なのに、読売のリーグ(セ)には大阪の球団がないから、正力さんは、東京と大阪で両方を栄えさせようとして、阪神が読売側に入ることになった。そもそも、毎日新聞が高校野球の選抜大会を主催している関係もあって、阪神とは関係が深かったんや。なのに読売側に入った。それで毎日が報復手段に出たわけや」。毎日からすれば、阪神と一緒にパを盛り上げよう! そう思っていた矢先、阪神が寝返ったように見えたのかもしれません。また読売vs毎日の新聞社戦争も背景に、毎日が強引に引き抜きをやったのだと考えられます。■まぁ、これらのことは、ボクでさえもある程度知っていました。しかし、実はこの引き抜きは、毎日ではなく、阪神の選手が企てたのが真相だったようなのです。そのことを、ボクは初めて知りました。鈴木龍二さんが自著『鈴木龍二回顧録』(ベースボール・マガジン社、写真も)に詳細を書いていました。「黒崎氏(貞次郎、毎日球団代表)によると引き抜いたのではなく、東西対抗を後援するなどして、かねて面識のあった若林が、毎日新聞の浅本という事業部長を訪ねて、別当、呉、大館の3人と自分とを毎日の新球団でとってくれ、と売り込んできた。土井垣は、土井垣自身が、たまたま10年選手で、野球協約からもフリーになる(注1)。この際毎日に入りたいからとってくれ、本堂は二塁手だがサイン盗みの名人だ。自分は捕手として、本堂のサインのおかげで非常に助けられている。だから一緒に入りたいと、これまた売り込んできた。黒崎氏によると、だから引き抜いたのではなく、彼らの希望を容れてやったのだ、というわけである」。プロセスはどうであれ引き抜きに変わりはないのですが、阪神の選手自らが企てていたことを知り、正直、ボクは驚いたのです。■そして、さらにーーー。(注1)当時の日本職業野球連盟規約(昭12年3月改正施行)を確認したところ、第52条と第66条に土井垣が言った内容が書いてありました。要約すると、選手は球団と所属契約を結ぶと、当該球団との契約が他球団に優先する。しかし、同一球団に10年以上在籍した場合は、自由に他球団と契約することができる。従い、土井垣の言ったことに間違いはありません。ところが、です。調べてみると、呉、若林、本堂は在籍10年以上で条件をクリアしていましたが、別当薫は2年目、本堂にいたってはまだ1年目でした。wikipediaによると「本堂はトレードで毎日に移籍した」と書いてあったので形式的には規約に反しなかったと理解できますが、残る別当についてはどうにも説明がつきません。完全に規約違反です。1948年から翌49年にあった「別所引き抜き事件」は有名ですが、「別当引き抜き事件」として、これも後世にその名を残す事件だったのかもしれないなと、ボクはそういう思いを持つに至ったのであります。
2014.01.31
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<1.最後の早慶戦>■1943年(昭和18年)10月16日、「最後の早慶戦」の試合開始前、早稲田大野球部のマネージャー・相田暢一さんは、戸塚球場(のちに安部球場と改名)で慶応義塾大の小泉信三塾長を迎えた。「小泉先生を、飛田(穂洲)さんらがおられるネット裏の席へご案内しようとしたところ、塾長は『私は学生と一緒にいるのが楽しいのです。学生と一緒にいます』と言われて、スタンドの応援団席の真中に席を占められた。私はこのとき、本当に慶応は羨ましいと思った。塾生は幸せだなと痛感した。小泉先生のこういうお気持ちがあるから慶応が全学をあげて早慶戦をやろうという気持ちになれるのだ。それに引替え早稲田は本当に情けなかった・・・」これは、相田さんの述懐である。この小泉塾長の言葉は、映画『最後の早慶戦』でもクライマックスのシーンに使われていた。この試合開催前の早稲田のドタバタぶりは説明するまでもない。業を煮やして大学当局を説得しようと奔走した相田さんにとって、小泉塾長の言葉は大きな感動をもって聞こえたに違いない。2つの大学で、なぜこんなに対応が違うのかと。■この試合を最後に、多くの選手たちが繰り上げ卒業して、戦地に赴いた。 そして、野球への弾圧はますます厳しくなり、野球をすること自体がほとんど出来なくなる。その頃、飛田穂洲が、合宿所に残り野球部を守り続けていた相田さんに伝えた言葉がある。「野球はアメリカから来たスポーツだというが、野球はたんに勝った負けただけのスポーツではない。日本の学生野球は一つの道だ。野球道である。だから早稲田大学の野球部は一人になっても野球を続ける。練習をやるのだ。練習で体を体を鍛えておいてこそ、戦地に赴いてもお国のために充分働けるのだ。・・・野球をやる者は国賊だなどというのは、戦地に赴き戦死した人たちに対して大変な冒涜である。そのためにも早稲田は野球を続ける」。この話は飛田の本心に違いないが、それ以上に、安部磯雄が作った野球部を失くすわけにはいかない、その強い思いが言葉に込められていたのかもしれない。ともかく、これを受けて、相田さんはさっそく道具を少しずつ買い集める。なぜなら野球を続けるのであれば、いつでも使えるようにボール、バット、グラブ、スパイクを揃えねばならない。革製のボールはすでに統制品になり入手困難だったが、美津濃や玉沢など野球部に出入りしていたメーカーに集めてもらい、それを買い入れ、結果、ボール300ダース、バット300本が集まった。いつ使われるかわからない状況下での道具集め、それは気の遠くなるような、まるで手ごたえの感じられない作業だったはずだが、後年、終戦の約3か月後にすぐオール早慶戦が開催できたのは、相田さんの機転と作業が大いに貢献したのである。 <2.中学時代~最後の早慶戦まで> ■小樽中(現・北海道潮陵高)時代は投手として鳴らした。1939年(昭和14年)は地区予選、北海道大会を順調に勝ち進み、甲子園出場を期待されたが、準決勝で惜しくも札幌一中(現・札幌南高)に敗退する。※ちなみに札幌一中はこの甲子園大会(第25回大会)で初戦を熊本工高と戦ったが、スコア0-8で敗れた。この時、熊本工のエースは田中金太郎(のちに大連満倶ー名古屋)、そして後に阪神に進み監督を務めた後藤次男がレフトを守っていた。川上哲治‐吉原正喜のバッテリーで甲子園準Vした2年後のことだ。また、この大会で優勝したのは和歌山の海草中(現・向陽高)。エースは嶋清一(のちに明治大)、ほかに真田重蔵(のちに松竹ー阪神ほか)らがいた。■その後、都市対抗の名門チーム、函館オーシャンに誘われ練習に参加したことがある。ちょうどその時、このチームにいた早稲田OBの町谷長市や久慈次郎らの影響を受け、ぜひ早稲田で野球をやろう! という気持ちが芽生えたようだ。そして一浪後、晴れて早稲田に入学した相田さんは、すぐさま野球部に入部。当時、戸塚球場の練習は一軍選手のみに許された。その他の選手は東伏見のグラウンドでの練習が慣例だったが、相田さんは一年生の時から戸塚のマウンドに」立つ幸運に恵まれた。それは一軍の打撃投手が足りないという理由によるものだったが、相田さんは一球一球を懸命に投げて制球力を磨き、いずれは投手として神宮のマウンドに立つはずだった。ところがーーー、二年生の時に、突然、肩を故障する。「選手を続けたい、でも・・・」そう悩んでいた時、チームマネージャーの林節から「野球部のために尽くすのであれば選手もマネージャーも同じ。むしろマネージャーとして部をまとめていくほうが責任があるし大変な仕事だ」と説得され、マネジャーへの転身を決意する。このマネージャーへの転身が、相田さんに幸運をもたらした。これこそが野球殿堂入りに至るまでの出発点になったのだから。以降、早稲田大の学生監督、そして甲子園の審判員など、戦後のアマチュア野球を支え続けていく。<3.終戦後~>■戦後、相田さんは15年間にわたり審判員を務めた。この時も、飛田の精神、早稲田野球部で学んだ地力主義を基礎にしていた。「判定のストライク、ボール、アウト、セーフのひとつひとつで試合の流れが大きく変わることがある。それだけに審判たるものは、しっかりと練習して、自分の体調を整え、試合に臨むことが大切なのである。そうでなければ、自分の判定に不安が生まれ、自信が持てなくなる。『ボールと言ったが今のはストライクかな?』と自問自答するようではいけない。選手諸君は一年に、いや一生に一度の命がけの試合をしているのだ。そのためにも自らが摂生し体調を整え、自分で納得のいく練習をして、自信のある判定をすることが必要であり、これが審判の務めである」。■元フジテレビアナウンサーだった方のブログには、生前の相田さんから聞いた、審判員時代の一番の思い出について書かれていた。それは1958年(昭和33年)8月16日・17日の準々決勝にあった徳島商‐魚津高の延長18回再試合だったという。相田さんは、後々まで語り継がれるこの試合の主審だった(2試合とも)。ここにも相田さんが登場するのか? ボクはこの事実を初めて知った。(8月16日)徳島 000 000 000 000 000 000 =0魚津 000 000 000 000 000 000 =0(8月17日)徳島 000 102 000 =3魚津 000 000 100 =1この試合、主審の相田さんの視線の先には、2試合を熱投する徳島商・板東英二がいた。
2014.01.27
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前回の続き。大和球士さんの著書『野球百年』の順番に沿って、前回は、阪急・西本幸雄監督の信任投票事件を書きました。ところが大和さん、この信任投票事件を書き終えた後、ずっと以前にあった連判状事件を思い出したとおっしゃるのです。時代の順番が前後して面倒ではありますが、このブログは『野球百年』を後ろから順番に読むことをミッションにしております。したがって、今は1968年(昭和43年)の出来事を書いている途中ではありますが、大和さんと一緒にタイムスリップすることにいたします---。 ■さて、辿り着いたところは1949年(昭和24年)であります。この年は何があったか? 賢明な読者諸氏はすでにおわかりでしょう。まず、巨人が戦後初優勝したのがこの年であります。監督は三原脩でした。それから水原茂がシベリアから帰国したのもこの年です。さらに三原「ポカリ事件」というのもありました。しかし、大和さんが思い出したのは、「連判状事件」であります。これは、三原排斥事件と呼んでもよいかもしれません。優勝した巨人の内部で連判状を作って、三原監督を排斥したと噂される事件です。その真相は未だに藪の中でありますが、この年7月に水原がシベリアから帰国すると、それがきっかけになって、チームには水原派、三原派が出来上がり、チーム内の空気がとても重苦しいものになりました。そして・・・あっ、ここで時間になってしまいました。続きは次回ということで・・・(写真)昭和23年度のタイトル獲得選手。左から最優秀投手の中尾、首位打者・本塁打王の青田、本塁打王の川上。翌年の三原排斥事件において、この3人はとてもビミョーな関係にあった模様。 ~『激動の昭和スポーツ史プロ野球(上)』(ベースボール・マガジン社)
2014.01.25
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前回の続き。■「来シーズンも監督を引き受けることになったが、諸君から信任されているかを知りたくなった。投票用紙を渡すから、私を信頼するものは〇印、そうでないものは×印を書いて提出してくれ」。1966年(昭和41年)10月14日、阪急・西本幸雄監督は全コーチや選手を集め、そう提案した。いや、提案なんて生ぬるいものではない。拒否は絶対許さないといった命令口調だった。この時、西本が阪急に来て、すでに4年が経っていた。しかしこれまでの成績はパッとせず、2位、6位、4位、5位と下位を低迷することが多かった。ネクタイ組とユニフォーム組、監督とコーチ、そして監督と選手の反目が複雑に絡み合っていたことが敗因の理由だと噂もあった。■さて、信任投票の結果は...、信任票 32票不信任票 11票白紙 4票この結果を受け西本は、「不信任票が11票もあっては、監督を続ける自信を失った。今日限り阪急のユニフォームを脱がせてもらう」と言って、自宅に帰ってしまった。■以下、大和球士著『野球百年』(時事通信社)より引用。「これが、プロ野球30年史上初の、-信任投票事件であった。事件の結末までを克明に追えばなかなかスリルに富んだ経過をたどることになるが、簡略化して報告すると、親会社である阪急電鉄社長小林米三のじきじきの出馬となり、『西本君以外の監督は考えていない。一か月かかっても西本君を説得し給え』の号令が背広組に飛ぶに及んで、西本の立場は一挙に有利になり、(5日後の)19日には一転して留任となった」。さらに続けて、「この信任投票事件が飛躍台になり、阪急が翌42年に、チーム結成以来初の優勝をとげることをだれが想像したであろうか。そればかりではなく、阪急は安定チームとなって、-3年連続優勝をとげることになる」。■かくして、翌67年(昭和42年)、阪急は初優勝を飾った。西本は、後になって信任投票をやった理由を「当時、チームにはいろいろ雑音があった。しかし現場組が一つにまとまるのならば、おれはやれる情熱をもっていた。その狙いで投票させた」と述懐していた。ここまで書いて、当時の阪急にはいったいどんな選手がいたかを知りたくなった。サイト『スタメンアーカイブ』で67年の開幕戦オーダーを調べてみた。その結果は・・・、1(4)住友2(5)森本3(7)ウインディ4(8)長池5(9)早瀬6(3)石井晶7(6)山口8(2)岡村9(1)米田この当時、阪急にはスペンサーがいたが、開幕戦には出場していなかった模様・・・。(写真)阪急時代の西本幸雄監督、右は青田昇コーチ。~『激動の昭和スポーツ史 プロ野球 下』(ベースボールマガジン社)~
2014.01.23
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NHKスペシャル『アルツハイマー病をくい止めろ!』を見ての感想を。■現在、世界の認知症患者は4,400万人、2050年には1億2,500万人に達する見込みという。およそ35年後には、日本の人口まるごと認知症になる計算だ。その頃、ボクは生きているのか、死んでいるのか。いやいや、認知症の真っただ中で、家族をはじめ周囲の人たちに散々迷惑をかけているのかもしれない。そう、この認知症の厄介なことは、まさにそこにある。がんや心臓病などの成人病と比べ社会的費用(家族の介護時間も金銭に換算)が圧倒的に高く、今後は家計の問題だけでなく、世界経済にまで影響を及ぼすだろうと予想されるほど。 とりわけ少子高齢化が急速に進む日本が、認知症が引き起こす様々な社会問題に真っ先に直面する。近いうち、団塊世代が次々に発症する時代に突入するため、現在の国内患者数は462万人と言われているが、30年後には1,000万人を突破する勢いだ。■しかし暗い話だけではない、光明も見えてきた。それが、この番組のテーマ。世界中の医師たちが集った「DIAN(ダイアン)研究」により、認知症の7割を占めるアルツハイマー病のメカニズムが、ようやくわかってきたという。下の図をご覧いただきたい。(図はNHKスペシャルより)(1)まず分かったことの一つ目は、アミロイドβ(ベータ)という物質とアルツハイマー病の関係。アミロイドβは発生後、25年間という時間をかけてゆっくりと脳全体に広がって神経細胞を死滅させ、アルツハイマーを発症させる。つまり発症する平均年齢が70歳といわれていることから、45歳前後にはすでにアミロイドβが発生し、自覚症状のないまま脳内に増殖しているというのだ。(2)そして二つ目は、「タウ」というたんぱく質の存在。アミロイドβが発生しておよそ10年後、アミロイドβを追うように神経細胞に発生してたまり続け、神経細胞に止めを刺すのが「タウ」(最も悪い奴はアミロイドβではなく「タウ」なのだ)。そして「タウ」が神経細胞を破壊した結果、記憶の中枢である海馬が委縮し、記憶力の低下が起きる。 ■これまでアルツハイマー病の進行は食い止めることができないと言われてきたが、敵の全貌がわかれば、手だてを考えることも可能だ。いま世界の研究者たちは、それぞれの角度から臨床試験を始めている。ただ一つだけ共通点がある。それは治療ではなく「予防」に着目していること。それは発症後ではなく、発症する前にどうにかしましょう! といった発想だ。従い、研究対象となる人は軽度認知障害(MCI)である。上の図でいうと、主に発症5年目~の「軽い物忘れ」の人たち。現時点での研究の途中経過は、以下のとおり。(1)神経細胞にたまった「タウ」を分解する新薬としてLMTXがあり、早ければ2年後には実用化される可能性がある。(2)また、アミロイドβを撃退する新薬としてはガンテネルマブがある。これまで発症後の患者を対象に試験を行っていたため効果が得られなかったが、DIAN研究の結果、そもそもアミロイドβは発症後には減少することがわかり、現在は対象を「軽度認知障害」者に切り替えて新たな試験を行っている。■一方、「タウ」やアミロイドβを退治するのではなく、これらに攻撃され続ける海馬を鍛えるという研究もおこなわれている。実は、この研究は日本国内でおこなわれていて、世界の注目を集めている。内容はとても簡単、ウオーキングしながら算数の計算をするというものだ。歩く前にトレーナーから「112から5ずつ引いてください」と問題が出る。参加者は歩き始めると同時に「107、102、97・・・」と声に出して歩き続けるのだ。たったこれだけ。やり方を覚えれば、トレーナーがいなくとも自分ひとりでも簡単にできる。なぜ、これが注目されるのか? その理由は、運動で筋肉を刺激すると、血液中の成長ホルモンが増加する。すると脳の海馬ではBDNFという物質がより多く分泌され、そのBDNFは新たな神経細胞を生み出すように働きかける。そしてこの時、運動と同時に計算などで海馬に負荷をかけると、新しくできた神経細胞どうしのつながりが増して活性化し、その結果、海馬の神経細胞が再生されると推定されている。従い、仮に「タウ」の増加により海馬の細胞が死滅しても、この運動が神経細胞を増やすことができれば海馬の委縮を防ぐことができるかも知れない、と言われている。(以上、番組中のナレーションより)「推定」とか「かも知れない」という表現が心許ないように聞こえるが、この番組では「軽度認知障害」の方がこのトレーニングを積んだことにより、海馬の委縮の進行を止めたばかりか、むしろ委縮が改善して記憶力が増したことを紹介していた。■現在、日本では「軽度認知障害」の方が400万人もいるそうだ。65歳以上の人口においては8人中1人の割合になる。もし街で、ぶつぶつと口を動かしながらウオーキングしているご高齢の方を見かけたら、このトレーニングをしていると思って、温かく見守ってあげてください。
2014.01.23
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前回の続き。■1968年、東京六大学・春季リーグ戦は、田淵幸一、山本浩二(当時、浩司)、富田勝の三羽烏を擁した法政大が優勝した。「史上最強軍団」と呼ばれた打線が爆発、チーム打率.346を誇り、連覇を果たした。まず第3週の対早稲田大戦。1回戦は早稲田の小川和邦、安田猛らに21安打、20得点を奪い完勝。続く2回戦も三羽烏を中心に18得点を挙げて勝ち点を挙げた。さらに第6週の対慶応義塾大戦は1回戦をエース・山中正竹で勝利し王手をかけると、2回戦は江本孟紀を投入。「大事な試合を任されて感激した」という江本は、187cmの長身から力のあるストレート、タイミングを外す変化球を駆使して早稲田打線を翻弄。江本は山中に劣らぬ安定した投球で完投し、胴上げ投手になった。 (写真)法政が春季リーグ戦に優勝した直後の一枚。左から富田、山本、田淵。~ 『大学野球熱闘史』(ベースボール・マガジン社) ~■そして秋季リーグ戦。春は法政に大敗した早稲田だったが、秋には雪辱した。主砲・谷沢健一は憎き法政・山中攻略のため、山中と同じ左腕の安田を打撃投手にして、カーブを左中間を狙って打つ練習を繰り返したことが功を奏した。 安田とは、後にヤクルトで活躍する安田猛のこと。早稲田では谷沢と同期だった。リーグ戦の通算成績は4勝2敗と冴えなかったが、大学卒業後に進んだ大昭和製紙時代に花開いた。時速60kmのスローボールを習得してチームを優勝に導き、さらに橋戸賞を受賞した。ヤクルト時代の安田をよく憶えている。相手打者を小ばかにしたようなスローボールは、テレビを見ていて十分笑えた。だが安田の福岡・小倉高時代はまったく逆、剛球唸る速球派の投手だった。もちろん地元では名を馳せた投手で、1965年(昭和40年)の夏の甲子園で優勝した三池工高は、県予選を勝ち上がるため安田対策に腐心したという。※このことは、『炭鉱町に咲いた原貢野球』(澤宮優著、現代書簡」に詳しい。 ■さて、最後に日本大学野球選手権のこと。決勝は法政大(東京六大学)と駒沢大(東都)が戦い、法政が12-3で圧勝した。ボクが興味をもったのはその結果よりも、両校のメンバー表だ。懐かしい名前がずらりと並んでいる。まず法政。3番(5)富田勝、4番(2)田淵幸一、5番(9)山本浩二。一方の駒沢。1番(7)木下達男、3番(9)内田順三、4番(2)大矢明彦、8番(1)野村収。そして、7番(4)に山下智茂という名前が見える。元・星稜高監督の山下さんなんだろうな、きっと・・・。
2014.01.22
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前回の続き。え~、本日もお運びいただき、まことにありがとうございます。火事は江戸の華、乱闘は野球の華なんてぇことを申しまして・・・。本日は、昭和48年(1968年)9月18日にありました巨人対阪神の乱闘劇をお題にした噺などを・・・。※参考:大和球士著『野球百年』(時事通信社)■ 「おい、バッキー、危ないじゃないか。気をつけろよ」「え、なんですか、王さん。ぼく、辻さんのサインどおりにインコースに投げただけよ」「そうか・・・」阪神・バッキーの投げたインコースの球に、巨人・王貞治は思わずのけぞってしまいました。その直前の球も王の身体ぎりぎりに来ていたものですから、バットを持ったまま、つかつかとマウンド上のバッキーに歩み寄り、こんな会話になったのですね。王はバッキーの一言に納得した様子で、本当ならば、この2人の会話で、事態は丸く収まるはずだったのです。ところが・・・、■王が打席に引き上げようとしたその時、三塁側から巨人のコーチやら選手やら多数がバッキーを目掛けて突進をしたのです。最初にバッキーに近づいたのは荒川博コーチでありました。そしてバッキーと荒川がなぐり合ったかと見る間に阪神の選手もマウンド付近にどっと押しかけ、大乱闘劇になったのであります。バッキーは、「王さんがそうか判ったと言って引き上げたのに、巨人のコーチが走ってきて、ぼくのこと蹴とばしたね、ぼく、仕様がないから、こうしてパンチで防いだよ。守るためにね。32番と35番がぼくをなぐった。どうしてあんなにぼくをいじめたんだろう・・・」。バッキーの言うコーチとは、もちろん荒川コーチであります。そして32番、35番とはいったい誰? そうお思いの方に補足説明いたしましょう。32番は滝、35番は千田(せんだ)でございました。そして、荒川コーチの話。「・・・いきなり千田が走ったので、これはいかん、止めようとしたらバッキーがぼくになぐりかかった、だから足でパンチを防ごうとした」。バッキーは”いじめられた”と訴え、荒川は”守りのキック”を用いたと言い、どちらも正当防衛を主張したのであります。喧嘩とはだいたいそういうものでございましょうか。結局、三方一両損、いえいえ、両者同様に成敗されて退場を命じられたのでございます。 ■そして、この乱闘劇には続編がありました。二つ目の噺でございます。荒川コーチにパンチを浴びせて右手を負傷したバッキーに代わり、マウンドに上がっのは権藤正利でした。この権藤がいけなかった・・・。いきなり王の後頭部に死球をぶつけたのです。王は倒れ、両足をくの字に曲げ、頭を両手で抱えて起き上がれない状態になってしまったのです。かくして第2Rのゴングが鳴りました。再び、巨人の選手たちがマウンドに駆け寄り、阪神の選手たちもこれに応じて、再びもみあいになったのです。ところが、この第2ラウンド終了のゴングを鳴らしたのは、意外や意外、ほかならぬ巨人・川上哲治監督だったのです。「権藤がビンボールを投げるはずがない」とおっしゃり、乱闘に飛び出した選手を呼び戻したのです。他球団の、しかも川上に信頼されるほどですから、権藤は素晴らしい人であったに違いありません。■ところが、ところがです。この素晴らしき人格者、権藤にも腹に据えかねたことがありました。これが三つ目、最後の噺でございます。バッキー・荒川退場事件から5年後の昭和48年(1973年)、権藤は、当時の阪神・金田正泰監督の言った一言に無性に腹が立ったのです。それは、権藤の容貌について「サルでもタバコを吸うのか?」と発言したことでした。まぁ、怒るのもやむなしと思うのは私だけでしょうか。そして、権藤は自らの引退を決意した後、11月23日阪神のファン感謝デー終了後に事件が起きました。イベント後に権藤は監督室に金田を訪ね、発言に対しての謝罪を求めたのですが受け入れられなかったため、ついに金田を殴打したのです。その代償は大きいものでした。リーグからは厳重戒告処分、球団から謹慎処分が下されました。しかし、権藤はすでに引退を決意していたため、12月12日に球団から自由契約を通告されてそのまま退団し、実働20年の連盟表彰を自ら放棄したのでございました。■実は、これには裏話がございます。権藤が監督室に赴く際、その子分として同行したのは、なんと江夏豊でありました。事前に「監督にはもう我慢できない」と打ち明けられていた江夏は「後輩として手助けをやります」と返答した経緯があったようです。そして権藤が入室後、江夏は監督室のドアの外に立ち、ほどなくして殴られた金田の悲鳴を聞きました。なぜ江夏は外に立っていたか。それは、人が来てドアをこじ開けようとしても絶対に開けまい、そこで踏ん張っていたのでありました。しばらくして、中を覗いた江夏が「権藤さん、納得した?」と尋ねると権藤は「うん」と答え、二人は一緒にその場を立ち去ったのであります。最後は、各種表彰などクソ喰らえで、監督に立ち向かった「男」権藤正利の武勇伝でございました・・・。(写真)殴るバッキー、足で応酬直前の荒川博コーチ(中央)。24は遠井、57は小鶴コーチ ~『激動の昭和スポーツ史 プロ野球下』(ベースボールマガジン社)より ~
2014.01.20
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■1968年9月17日、阪神の若きエース江夏豊が、巨人を相手に1シーズン奪三振の日本新記録を作った。入団2年目のこのシーズンは、この日までに345個の三振を奪い、西鉄・稲尾和久が61年に作った353個にあと「8」と迫っていた。以下、大和球士著『野球百年』より引用。「この夜は伝統誇る試合だけに5万人の大観衆が大スタンドを埋め尽くした。そして試合は江夏の新記録を期待する異常な雰囲気で開始された。江夏の左腕は冴え渡った。内角へ喰いこむ快速球、外角へ小気味よくきまる小さい鋭いカーブが三振の数を増していった」。1回表・・・高田三振、王三振。 計347個2回表・・・長嶋三振、末次三振。 計349個3回表・・・森三振、高橋(一)三振。 計351個4回表・・・土井三振、王三振。 計353個■そして、大和さんは続ける。「4回表、王から三振を奪い、タイ記録を作った(353個)。スタンドはいやがうえにも興奮し、新記録を待望したが、5、6回は三振を奪えず、7回表、一死後に三たびホームラン打者の王と対した。第4球目の高いボールらしい快速球を王が空振りしたした瞬間、-1シーズン三振奪取新記録が生まれた。354個目であった。一塁側スタンドに太鼓が鳴り、くす玉が割れた」。■しかし大和さんは触れていないが、江夏の新記録達成の裏には単純な計算違いがあった。それは、江夏が奪三振数の計算間違いをしていたことだ。以下、『左腕の誇り~江夏豊自伝』(新潮文庫)より引用。「僕は稲尾さんを破る新記録は王さんからとると公約してました。・・・自分の記録とチームの優勝がかかっていたわけですから、気合を入れてマウンドにのぼりました。そして4回に8つ目の三振を王さんから奪って、これで新記録だと思ってホイホイとベンチに戻ると、ダンプ(辻恭彦捕手)さんから「まだタイ記録」と言われたんです。計算違いですよね。これはしまったなぁ、しかし何としてでも王さんからとりたい・・・」。その結果、次の三振を王から奪うためには、他の8人の打者から三振を奪わずに抑えなければならなくなった。「対策の基本は真ん中の低めにコントロールすることです。それだとバッターが一番手を出しやすくて、しかもゴロになる可能性が高い。そうやって5回、6回、7回ときて、いよいよ王さんです。こちらはもう全力で、外、内、内と投げた。カウント2-1になった。バッターは誰だって奪三振記録に名前を残すのは不名誉な記録ですよね。にもかかわらず、王さんは真剣に勝負してくれた。4球目は外角高めへの直球。ボール2つほど中へ入ってしまったんですが、球に力があったからか、王さんはこれを空振りして三振をとることができた」。■この時、江夏が新記録を達成した瞬間だった。そして、その後も江夏は三振を積み重ね、この年は奪三振数を401に伸ばした。この数字は昨シーズン終了時点でも歴代1位の記録、いまだ誰にも破られていない。ちなみに、上位3人の選手名と奪三振数は以下のとおり。<1シーズン奪三振数>1位 江夏豊 401(1968年)2位 稲尾和久 353(1961年)3位 金田正一 350(1955年)最近の投手で上位にいるのは、先日野球殿堂入りした野茂英雄の287(23位、1990年)、そしてダルビッシュ有の276(29位、2011年)など。計算間違いをしようが何をしようが、やはり江夏は偉大な投手だった・・・。
2014.01.19
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■以下、産経新聞より。「野球殿堂博物館の表彰委員会は17日、競技者表彰のプレーヤー表彰で日米通算201勝の野茂英雄氏(45)、横浜(現DeNA)と米大リーグのマリナーズで日米通算381セーブを挙げた佐々木主浩氏(45)、西武とダイエー(現ソフトバンク)で活躍したソフトバンク監督の秋山幸二氏(51)を選出した。大リーグ経験者の殿堂入りは初めて。特別表彰には、戦後の野球復興に尽力した元早大野球部監督の相田暢一氏(享年90)が選ばれた。殿堂入りは計184人」。 (以上、産経新聞)野茂英雄、佐々木主浩、秋山幸二らとともに、相田暢一さんが特別表彰された‐‐‐。しかしなぁ、どのTV・新聞も、野茂だ、佐々木だと騒いでいるけれど、相田さんの扱いが小さかったなぁ。それが、少し気になる。相田さんのような方に、もっとスポットライトを当ててほしかった。 ■相田さんとはいったいいかなる人だったか。一昨年4月に亡くなった時、ボクは相田さんに関する新聞や書籍を読んだことがあった。そこに書かれていたことを紹介すると・・・、まず、朝日新聞(2012年4月19日付)。1943年10月16日の出陣学徒壮行戦、いわゆる「最後の早慶戦」で、相田さんは早大のマネージャーとして開催に向けて奔走した。自ら出征するにあたり、「残る後輩には心おきなく野球を続けてほしい」と、バット300本、ボール300ダースをかき集めて野球部の寮に保管しておいた。次に、『早慶戦100年 激闘と熱狂の記憶』(富永俊治著、講談社)。保管するきっかけになったのは飛田穂洲のひとことだった。「今は戦争で野球がやりにくい時代だけど、戦争が終わりさえすれば、すぐに野球の時代がやってくる。その時に肝心の用具がなかったら、野球そのものがやれないよなぁ」飛田の命を受けたのは当時マネージャーだった相田暢一だった。慌てて用具を買い集めた。そして相田が出征後は、昭和19年度の主将・吉江一行が管理を引き継ぎ、まさに用具を「死守」した。空襲警報発令のサイレンが鳴るや、まだ合宿所に残る数人の部員たちと手分けをしてバットやボールを敷地内の防空壕に運び込み、警報解除とともに、今度は部員たちの手渡しで用具を倉庫に戻す重労働を繰り返した。晴れた日には湿気を取るための虫干しも行っていた。そして、『1943年晩秋 最後の早慶戦』(教育評論社)。当時、早稲田大野球部のマネージャーだった相田暢一もついに1943年12月10日、横須賀第二海兵団に入団した。その直前、相田はすでに入手困難になっていたボール300ダース、バット300本、ノックバット10数本を準備した。これらの用具は東京大学野球連盟(現・東京六大学野球連盟)の残務整理に伴い、各大学への配分金で購入されたもので、たとえ部員が一人になっても練習を続けるという、飛田穂洲の意を受けた相田の機転によるものだった。 その後、新たに主将になった吉江一行にバットやボールの管理を託された。吉江は福島県立磐城中学の出身で、「最後の早慶戦」には5番ライトで出場した。飛田穂洲は吉江の人となりを、心から愛した。※吉江主将も終戦直前、とうとう戦場に送り込まれる。そして戦場で病を患い、その病気がもとで、戦後間もなく故郷の福島県で亡くなった。最後に、再び朝日新聞の記事より。終戦からわずか3ヶ月後の1945年11月18日、米軍に接収されていた神宮球場で開催されたオール早慶戦。復員した相田さんは、この試合の実現にも尽力した。相田氏の回想。「試合が終わっても、4万5千人の観衆がなかなか帰ろうとしない。薄暗い球場に、たばこの火が、まるでホタルのようにともっていたのが忘れられません」と語っていた。■戦後、職業野球(東西対抗戦)が初めて行われたのが同年11月23日。大学野球は職業野球よりも復活は早かった。相田さんは、吉江さんとともに、戦後の野球復活を支えた人だった。
2014.01.18
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前回の続き。■1969年(昭和44年)に発覚した「黒い霧事件」。特に説明の必要はないと思うけれど、主要事項のみ時系列で触れておくと‐‐‐、10月7日、西鉄ライオンズの永易将之が敗退行為(八百長)をしていたことが判明、永易の退団が決定した。翌10月8日、読売・報知新聞がこの件を報道。報知は「永易(西鉄)公式戦で八百長」「球界初の永久追放」と大きく見出しを打った。(下の写真)11月28日、宮沢俊義を委員長とするコミッショナー委員会が永易に対し、永久出場停止(永久追放)の処分を下す。、1970年(昭和45年)4月1日、永易が「他にも敗退行為(八百長)をした選手がいる」と西鉄の6人の選手名を暴露し、その肉声テープがテレビで放送される。その選手名は、投手の池永正明、与田順欣、益田昭雄、捕手の村上公康、内野手の船田和英、基満男)。5月25日、コミッショナー委員会は西鉄の6人の当該選手について以下の処分を下す。・池永、与田、益田の3人の投手は永久追放処分とした。理由は与田と益田については敗退行為を認めたため。池永は本人が否定したものの、敗退行為の勧誘に際して受け取った100万円の返却を怠ったこと等。・村上と船田は1970年11月30日まで試合を含む完全野球活動禁止処分。基は厳重注意処分。■この件に関し、大和球士さんは著書『野球百年』(時事通信社)で「(69年の)シーズンがようやく終盤にさしかかり、巨人の優勝はあと1勝というあたりで、突然、センセーショナルな野球記事が新聞紙上を賑わせた」と書き、あとは淡々と事実を列記するにとどめていた。そして事件発覚から30余年を経た2005年4月25日、池永は様々な支援を得てついに復権が認められた。今さら「黒い霧事件」について云々するつもりはないが、70年当時のコミッショナー委員会の裁定はあまりに曖昧だった。処分の判断基準はどこにあったのか、疑念を持たざるを得ない。潔白を主張し続けた複数の選手から野球を奪った罪は重い。■さて、雑誌『Number PLUS』(文芸春秋、1999年刊)の記事『海峡。池永正明の半生』を読んでいて、初めて知り驚いたことがある。それは、70年4月1日に永易が池永正明の名を暴露し、5月25日に永久追放処分を受けるまでの間、池永は前年までと同様、マウンドに立ち続けていたのだ。それは‐‐‐、70年(昭和45年)4月11日、平和台球場で西鉄対東映の開幕戦が行われた。永易が池永の名前を暴露してから、ちょうど10日後のことだった。例年なら、開幕カードといえば平和台の一塁側は西鉄ファンで埋め尽くされる。しかし、この日は空席だらけで出足は2千人という有り様だった。開幕のマウンドに立ったのは、池永である。以下に『Number』から引用。「池永は打ち込まれた。東映打線に6点目を奪われ逆転を許すと、スタンドから『あんなこと書かれて悔しかろうが。打ちまくれ、はね返さんか!』と激励の野次が飛んだ。だが、池永の投じたボールはことごとく打ち返される。我慢も限界を越えたとでもいうように、『もっと真面目にやれ、八百長選手!』と野次は口汚いものになった。そして9回、永易に名前を挙げられた与田順次が池永をリリーフすると、みずからも暴投する有り様だった。「なんや、なんや!」「やめちまえ!」。怒った西鉄ファンが座布団やビール瓶をグラウンドに投げ込み、そしてその回に西鉄は6点を奪われ、惨敗を喫した。西鉄ファンの怒りは収まらなかった。「八百長や、選手を出せ!」とダグアウトまで押しかけ、パトカーが出動する騒ぎになった。その後も池永はマウンドに立ち続けた。4月だけで4勝を挙げている。「このまま行けば、30勝は挙げられる」と意気込んでいた矢先、彼は通算103勝という記録を残し、5月になって忽然と姿を消した。そして、二度と彼の雄姿を見ることはなかった」。 ■最後に。なぜ、疑惑をかけられた池永が開幕投手を任せられたのか? その理由が知りたかった。答えは前出の『Number』にあった。池永は「絶対に八百長をやっていない!」と言い続け、そして監督の稲尾和久に「噂を信じますか。僕を信じますか」と迫った。すると稲尾は「お前がそこまで言うのなら、お前を信じよう」と言い、潔白の証のために池永を開幕戦のマウンドに送り出した。それが真相だったらしい。(写真)永易将之の八百長が発覚した直後、10月8日付の報知新聞。『Number PLUS』に掲載されていたが、ひとつ不思議なことがある。それは、なぜ発覚直後に「永久追放」と書けたのか、ということ。永易の処分が決定したのは11月28日なのに。
2014.01.17
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前回の続き。■1969年、東京六大学リーグでは不滅の記録が達成された。法政大の山中正竹投手が、秋季リーグ・対明治大2回戦(10月20日)で通算48勝を挙げた。身長は168cmと小柄、決して球が速いわけではない。絶妙な制球力を武器に打者を凡打に打ち取り、ひとつずつ勝ち星を重ねた。この記録は現在も破られていない。しかし一度だけタイ記録が生まれそうになったことがある。同じ法政大の後輩・江川卓だった。77年秋、江川は47勝を挙げて山中の記録にあと1つに迫った。この頃、報道陣は再三にわたり山中にコメントを求めた。「江川があなたの記録にあと1勝に迫っているが、ご感想は?」 と。山中はそのたび答えた。「江川君のような優秀な投手が抜いてくれるなら本望です」。しかし本音は違った。「江川はプロでも活躍できる選手。私(山中)のような田舎出の小さな人間が記録を持っていたほうが、今後も人へ伝えたり、人を励ますことができる」。 (写真)法政大時代の山中正竹。■結果、山中の願いは叶う。江川は47勝のまま大学野球を終えた。なぜ、江川は記録を破ることができなかったか。話は逸れるが、当時の江川の心境を紹介した記事が『東京六大学野球80年史』(ベースボールマガジン社)にある。以下に引用。「この77年秋、江川にとって最後のシーズンだった。明大1回戦に勝った法大はV4へ王手をかけた。江川は通算勝利を47勝とし、先輩の山中正竹の持つ48勝に王手をかけた。だが江川は『これですべてが終わりました。ほかの投手がたくさんいます。僕の勝ち星はもうこれで結構です』とあっさりこの日で"サヨナラ公演"を決め込んだのだ。48勝の通算記録も先輩を追い越す可能性は十分にあったし、周囲も協力を惜しまなかったはずだ。それを自分から記録への道を閉ざしてしまったのだ。「僕だけが野球をやっているわけじゃない。チームワークの勝利ですよ」と淡々と話しながら静かに神宮を去った」。 (以上、『東京六大学野球80年史』)江川らしいと言えば、江川らしいと思うが・・・。 (写真)法政大時代の江川卓。■大和球士さんは著書『野球百年』(時事通信社)において、法政大時代の江川について書いている。「戦前戦後を通じて、49年春、法大へ入学した作新学院の投手江川卓ほど騒がれた投手は一人もいない。作新時代、甲子園に出場して試合ごとに三振の山を築き、早くから超高校級投手として天下の注目を浴びていた。しかし、2年生に進級してから伸び悩み、50年度リーグ戦では、明大に連続優勝を奪われた。稀代の快速球を投げた江川が、入学一年で早くも技巧に走るピッチングに移行したのはなぜであろうか。何十年に一度しかあらわれない大投手の器、本格的投球を期待してやまぬ」。だいぶ後になって、江川の球が一番速かったのは作新時代・・・という話を聞いたことがあるが、大和さんは当時から、江川の変身ぶりに不満があったようだ。■さて本題に戻る。東京六大学リーグだけでなく、大学球界全体に目を向けると---、この69年、全日本大学野球選手権の決勝を戦ったのは、東海大(首都)と日本大(東都)。東海は上田二朗、日大は佐藤道郎のエース対決だった。試合は両エースが好投し、両チームともに0行進。均衡を破ったのは東海大、9回表の攻撃で4番・谷口剛が特大本塁打を放つと、後続の打者が安打で続き、計3点を奪い優勝を決めた。(決勝、6月15日)東海大 000 000 003 =3日本大 000 000 000 =0(東)〇上田、(日)●佐藤■なお同年秋のドラフトで、上田は阪神、佐藤は南海にそれぞれ1位指名され、入団した。そのほか、主な大学生選手では、早稲田大の谷沢健一は中日、同じく荒川尭は大洋、同じく小坂敏彦が巨人(いずれも1位)。そして早稲田大で小坂とバッテリーを組んだ阿野鉱二も巨人(2位)、駒沢大の大矢明彦と内田順三はヤクルトから指名(7位と8位)を受けて入団した。 ※人・人・人・・・。下の写真は何かおわかりでしょうか? 時代が時代だけに全共闘の集会とか、何かのデモ行進に見えるかもしれませんが、これは69年春季リーグ戦で明治大が優勝を決めた瞬間です。場所は神宮球場。興奮した学生たちがフェンスを乗り越え、グラウンドに飛び降りた。みるみるうちに数千人が一塁側ベンチを取り囲み、明大ナインは一時的に通路に避難したそうな。今ではまったく考えられないほど、スタンドを埋める観客の多さに驚きます。 ≪参考≫・『大学野球 熱闘史』(ベースボールマガジン社、写真も)・『東京六大学野球80年史』(ベースボールマガジン社)
2014.01.16
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前回の続き。■1969年の近鉄バファローズは、三原脩が監督に就任して2年目を迎え、戦力は確実にUPしていた。最下位が定位置だったが前年(68年)は3位に上昇し、この69年はパ・リーグ初優勝を狙えるチームに成長していた。ライバルは当時黄金期にあった阪急ブレーブスである。三原はキャンプ中から阪急に悪口雑言を浴びせた。「何の特徴もないチームに優勝させてはパ・リーグの恥になります。強いのか、弱いのか、一向にわからんような阪急が優勝候補といわれるのがそも片腹痛い」。大和球士さん曰く、「三原はかつて大洋監督だった時、阪神と優勝を争う最中に、国鉄に痛い一敗を喫したら、『この負けですか・・・まぁ死に馬に蹴られたようなものですな』と毒舌を吐き、国鉄ナインを激怒させた三原の久しぶりの放談だった」 (『野球百年』) (写真)近鉄・三原脩監督。■一方の阪急・西本幸雄監督も負けてはいない。2連覇の余裕からか「そういう三原さんも、ウチをうんぬんする前に他チームにやられんようにすることです。そやないと、リーグ戦がおもろうない」と言い、さらに三原を凌ぐ過激な一言を吐いた。「近鉄のような『成り上がりチーム』を今さら相手にしても・・・」かくして『特徴ないチーム』と『成り上がりチーム』の戦いが始まった。この両監督の言動が選手たちの心に火を点けたのか、両チーム相譲らず、シーズン終盤まで熾烈なデットヒートを繰り広げた。そして10月18日、”天王山”、首位近鉄と2厘差で追う阪急の4連戦が始まった。この時、近鉄は2勝すれば優勝決定だったが、阪急の猛烈な抵抗に遭い、結局3連敗を喫して優勝を逃してしまったのだ。(写真)阪急・西本幸雄監督。■大和球士さんは、どうしても近鉄に悔いが残る1敗があったと『野球百年』に書いている。近鉄にその1敗をもたらしたのは、ロッテ・飯島秀雄だという。ご記憶の方も多いはず。オリンピックの短距離走で活躍した世界ランナー。100メートル10秒1の記録をもち、「足」だけでロッテオリオンズに入団した。野球にはズブな素人だったからデがビュー当時は珍走も多かったが、6月15日のロッテvs近鉄戦で、飯島は一世一代の大活躍を見せた。以下、『野球百年』より。「飯島の快脚ぶりを見ようと、ロッテの本陣東京球場へ詰めかけたファンを十分に堪能させる日が訪れた。6月15日のロッテ対近鉄戦がそれであった。近鉄は阪急を追う優勝の対抗馬として人気上昇中であり、ロッテに飯島ありで、このシングル試合は約1万6千人の観衆を呼んだ。スコア0-0のまま迎えた5回裏、ロッテの攻撃。二死、篠原が中前安打、ここで濃人監督が「代走、飯島」を告げた。背番号88の飯島が一塁に向かうと、一塁側スタンドから嵐の拍手。打者は醍醐。カウント1-0後の2球目、飯島は走った。頭から滑り込んだ。二塁ベース外側に左手で鮮やかにタッチした。「セーフ」。またも拍手のうず。そしてカウント1-3の後、飯島は三塁に突進した。早い。やっぱり早い。スタートがそれほどいいとは思われなかったが、スピードが違う。野球選手の快脚とは一ケタ早さが違う。完全に三塁セーフ。あわてた捕手児玉の送球は高くそれて、飯島は歓声うず巻く中に、ホームベースを走り抜けた。テープが飛んだ。回はまだ5回、試合は半ばなのに、祝福のテープがホームベース近くに舞った。1-0、ロッテが勝った。二盗、三盗、決勝点。まさに飯島はこの世の千両役者であった。皮肉な結果が生れた。飯島の日本一の快脚にしてやられた近鉄は、大詰めの対阪急4連戦に2勝を必要としながら3連敗して初の優勝を逃した。もし、プロ球界が素人の飯島の足を封じて近鉄がこの試合に勝っていたら、最後の4連戦に1勝で優勝となり、多分近鉄はチーム結成以来の初優勝を飾っていたことであろう」 (以上、『野球百年』)■近鉄ファンだったボクが読んでも、わざわざ6月の試合を持ち出すのは多少無理があると思うが、ひょっとして大和さんも近鉄ファンだったのかしらん?
2014.01.15
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前回の続き。■1969年(昭和44年)10月26日、日本シリーズが開幕した。このカードは阪急-巨人。阪急の西本幸雄監督は開幕前、「今年は三度目の正直、是が非でも巨人を倒したい」と語っていた。しかし、その意気込みが裏目に出たか、阪急が1勝2敗で迎えた第4戦にとんでもない事件が起きた。日本シリ―ズ史上初の退場事件である。4回裏、巨人の攻撃中だった。無死一・三塁の場面で長嶋茂雄がフルカウントから空振り三振すると、その時、走者の土井と王がダブルスチールを敢行した。この時の模様は、大和球士さんが著した『野球百年』(時事通信社)に詳しい。「捕手岡村-二塁手山口-捕手岡村の転送球は正確に行われ、岡村は左足でホームベースをブロックしながら、土井にタッチした。岡田主審の判定は、-セーフしかし、スタンドからは、土井が岡村の体当たり的タッチでライン外に跳ね飛ばされたように見えた。アウトと信じ込んだらしい岡村は、セーフの判定をした岡田にとびかかり、左手でアゴへ一発。-退場!その瞬間、監督西本が岡村の身体を抱きかかえたところをみると、西本も随分早くダッグアウトをとび出したようであった。怒髪天をつく勢いで抗議する西本、セーフの判定について説明する岡田、退場命令にもかかわらず何度も岡田につっかかる岡村。スタンドは怒号のるつぼと化し、ただただ騒然となるばかりであった。 (以上、『野球百年』)■しかし、もちろん判定が覆ることはなかった。そして岡村浩二が退場したため、捕手は中沢伸二が起用されるも、阪急のリズムは狂い始め、この回だけで6点を失い第4戦を落とす。さらに先回りして言うと、阪急は次の第5戦に一矢報いるも第6戦に敗れ、結局、念願の日本一になることはできなかった。試合後、岡田功主審はこのように語った。「土井の足が、ブロックした岡村の間にはいったのをこの眼で見ました。私は自信をもって判定しました。岡村が私の身体をついたので退場を命じましたが、彼はその後、二発も私のアゴをなぐりました」。(10月30日、第4戦、後楽園球場)阪急 011 101 000 =4巨人 00 0 602 10X =9(版)●宮本幸-大石-戸田(巨) 高橋一-渡辺秀-城之内-金田―○堀内■巷では、退場を言い渡された岡村に同情し、岡田主審を批判する声が高まった。 きっとその夜の酒場では、岡田の判定を酒の肴に「あれはアウトだろ~」と無責任な会話があちこちに溢れていただろう。しかし翌朝、新聞を読んだ人は皆一気に目が覚めたに違いない。各スポーツ新聞が問題のクロスプレイの写真を掲載していた。それは、土井の左足が岡村にタッチされて跳ね飛ばされる前にホームベースに触れていた瞬間を捉えていたのだ。岡田主審の判定が正しかったことが証明されたのである。残念ながら、ボクはこのプレーをリアルタイムで見ていない。後になってアニメ『巨人の星』(だったか?)を見て知った。そのアニメに登場した岡田さんの、なんと格好よかったことか。自宅で新聞を見、「私は正しかった」とか言って、人知れず涙を流していたんだ・・・。 (写真)岡田主審の判定が正しかったことが証明された写真。走者は巨人・土井正三、捕手は阪急・岡村浩二。~『激動の昭和スポーツ史 プロ野球(下)』 (ベースボール・マガジン社)~■実は第4戦のトラブルには続きがあった。8回裏、退場した岡村に代わった中沢に代打が出されため、岡田幸喜が3人目の捕手として守備に就いた。そして、打者末次利光と堀内恒夫の時に計3回、サイン違いと称して投球をわざと捕球しない主審への嫌がらせをやったのだ。このシーンは後になって、何度もテレビで放送された。西本監督の指示だったとは思わないが、ならば岡田の単独行動だったか・・・?巨人・川上監督は、11月3日付読売新聞掲載の手記で岡田のプレーに触れていた。「岡村浩君の行為はわからないではない。しかし、あとで阪急がとった行為を私は責めたい。捕手が故意にボールを後逸して審判に当てつけるあの行為を見て、私は阪急にチャンピオン・フラッグを渡すことはできないと気負った」と述べた。■あ、そうそう。この第4戦にはもうひとつ逸話があった。「8-4と巨人がリードした7回表、この回からマウンドに上がった金田(正一)が、無死、石井に中前安打され、続くウィンディに右越え二塁打されると、一塁側ダッグアウトから川上監督が出てきて、『交代投手堀内』と主審に告げた。この時、マウンドにあった金田は、スコア―ボールド(スコアボード)右側、巨人メムバー(メンバー)、9番打者投手金田のランを遠望しながら、自分の名札に正対して、『・・・金田はこれで投手をやめます』と、心の中で宣言した。一代男金田の寂しい引退宣言であった」。(『野球百年』)
2014.01.14
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前回の続き。 ■荒川尭とは、いったいどんな選手だったか。荒川は早稲田実を卒業後、早稲田大に進学し2年時に東京六大学・春季リーグ戦に1番ショートで神宮デビュー。対立教大1回戦では3打席連続本塁打を放った。1試合3打席連続、3本塁打はいずれも史上初だった。このことから「長嶋二世」とも騒がれた。特にリーグ最多勝利記録をもつ法政大・山中正竹に滅法強く、初本塁打、10号、15号、18号と4本の本塁打を放った。早稲田時代の通算成績は、リーグ通算71試合出場、268打数90安打、打率.336、19本塁打(リーグ記録4位タイ)、43打点。ベストナインに4回選出された。また、義父・荒川博の弟子では「1番・王貞治、2番・榎本喜八、3番・荒川尭」と評された。後にヤクルト監督として荒川を見た三原脩は「打撃の確実性は、豊田泰光に似たタイプ。しかし、センスの良さは豊田と比較にならない」といい、同じくヘッドコーチの中西太は「山崎裕之と比較して、パンチ力、確実性、下半身の強さは圧倒的に荒川が上」と評した。■それほどの逸材である、交渉権を獲得した大洋はいかなる手段を講じても獲りたい選手だった。しかし、一年間の浪人生活を送るため1970年2月に米国に渡った荒川との交渉を再開するも難航し、大洋は荒川を断念せざるを得なくなった。そこで考えついたのが三角トレードだった。大洋が荒川をいったん獲得した上で、荒川が希望する巨人かヤクルトにトレードし、その見返り(金銭もしくは選手)を得る方法だ。かくしてヤクルトと金銭トレードの裏交渉が成立し、実行に移された。前年のドラフト会議指名選手の交渉期限が切れる2日前、70年10月7日に大洋と荒川が正式に契約、その2日後の9日に入団を発表した。そして荒川は(ヤクルト移籍を前提に)大洋の秋季キャンプに参加して練習を続け、12月26日には予定どおりヤクルトへのトレードが発表された。■以上が荒川をめぐる三角トレードのあらまし。だが、当然のことながら「待った!」がかかった。野球協約142条「・・・他の球団に譲渡することを条件として選手契約を締結することはできない」に抵触するものとして、1か月間出場辞退の処分が行われた。まるで後に起きる「江川の空白の一日」と瓜二つの事件である。これについて1か月出場辞退という処分が妥当なのか、また、そもそも選手にとって「職業選択の自由」とは何か? などの議論が交わされたようだが、ボクの興味はそれよりも、前出の『ドラフト1位・・・』の、次の一文にあった。「(三角トレードについて、三原の後日談によると)三原は、ヤクルトの監督就任にあたって、松園オーナーに第一条件として荒川の獲得をお願いした。勝負に勝つことも大切だが、荒川を一流選手に育て上げることも大きな任務だ」。どうも三角トレードには、三原の思惑もあったようだ」。■三原とは、もちろん三原脩のこと。その三原は近鉄バファローズ最後の年となった70年、娘婿・中西太を介してヤクルト・松園オーナーと会い、71年からヤクルトアトムズ監督の就任を内諾していたようだ。※このことは『三原脩と西鉄ライオンズ 魔術師』(立石泰則著、小学館刊)に詳しい。つまり近鉄の監督をしつつ、一方で荒川獲得の裏工作にも何らかの形で関与していたとみることができる。70年という年は、三原が本気で近鉄を初優勝に導こうと意気込んで開幕した年だったはずである。にもかかわらず、他球団の裏工作にも関与していたのであれば、それはまさに「魔術師」としての面目躍如といえるかもしれないが、近鉄ファンとしては「なんだかなぁ・・・」。■余談になるが、前出の『・・・魔術師』には、三原がヤクルト監督時代、荒川尭の起用法をめぐり松園オーナーと対立したことが書かれていた。松園がクレームをつけ、三原との決定的な対立が生まれたシーンである。それは72年のシーズン後半のできごとだった。「松園が大クレームをつけたのは、荒川が3打数3安打の大当たりした試合で、彼の4打席目に代打を送ったことだ。看板選手が大当たりし、観客も大喜びしている試合で、なぜ代打を送ったのかというオーナーの不満である。それに対し、三原の考えは4打席連続ヒットの可能性はきわめて低いから、加点や逆転のチャンスに打席が回れば、代打を送るのは当然と言うものである。三原一流の言い方を真似るなら、3打席連続ヒットでその選手はツキを使い果たしたので代えた、ということになろう」。ボクなどには松園オーナーのクレームのほうが分かり易いが、こういったことも三原が「魔術師」と呼ばれる所以なのだろうか・・・。(写真)ヤクルトアトムズ監督時代の三原脩。
2014.01.12
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前回の続き。 ■1969年、夏の甲子園では三沢・太田幸司が国民的ヒーローになり空前の盛り上がりを見せたものの、プロ野球界は暗い事件に度々見舞われた。10月7日、読売、報知の両紙が「西鉄・永易投手が八百長」と衝撃的なスクープ。当初永易はそれを否定していたものの、コミッショナー委員会は11月28日、同投手の永久追放処分を発表した。いわゆる「黒い霧事件」である。これは、永易だけにとどまらなかった。以降、次々に関与した選手や球団職員の名前が明らかにされ、国会を巻き込んだ大事件に発展した。※「黒い霧事件」については後日、記述します。そして「黒い霧事件」に世間が動揺する中、10月9日にはこれまでプロ野球界を牽引した正力松太郎氏が死去。さらに10月30日(日本シリーズ)第4戦に日本シリーズ史上初の退場事件が発生。また同じころ、金田正一が現役引退を表明した。今になって考えると、この年は、プロ野球界が大きく変わる節目になった1年だったと思える。■そんな時、もうひとつ別の事件が起きた。荒川尭をめぐる三角トレードと荒川殴打事件である。きっかけは、「巨人とヤクルト以外はプロに行かない」と宣言していた早稲田大・荒川尭を大洋が強行指名したこと。詳細は以下のとおり。11月20日に行われたドラフトの指名順位は、1番目が中日、2番目が阪神、3番目が大洋。そして、荒川が希望するヤクルトは9番目、巨人は11番目だった。この時、目玉の選手は荒川のほか、同じ早稲田大の谷沢健一と、三沢高の太田幸司の3人。大洋は当初、荒川を指名する予定はなかったという。なのに、なぜ荒川を強行指名するに至ったのか。その事情は、『ドラフト1位 九人の光と影』(澤宮優著、河出書房新社)に詳しい。「大洋ホエールズ(現横浜ベイスターズ)のオーナー・中部謙吉は、当初は荒川を指名する気持ちはなかった。ドラフト当日、予備抽選で大洋はくじの順番は3番目と決まった。この段階でスカウト陣の予想は1番目の中日は谷沢、2番目の阪神は太田を指名するだろうと読んだ。すると大洋は東海大学のエース上田次朗でゆこうと判断していた」ところが、中日は谷沢を指名するも、阪神は予想に反して上田を指名した。大洋の予想が外れたのである。当時のドラフトは重複指名が出来なかったたため、上田以外の誰かを指名する必要に迫られた。「太田を指名するか。中部は迷ったが、大洋の本拠地川崎球場は工場の町であるから、太田が入団しても女性ファンが来ないと考えた。それで実力派の荒川で行こうと決心した。なぜなら、大洋の森代表、スカウト陣はこぞって『荒川では獲得する自信がない』と訝ったが、中部には勝算があった。球団代表の森茂雄は早稲田OBで、元野球部の監督。荒川の恩師でもある石井藤吉郎監督は、森の教え子だった。この早稲田ラインで押してゆけば、荒川も入団に傾くかもしれない」。■しかし、中部の当ては外れた。荒川は大洋入団を頑なに拒否、一年の浪人生活を覚悟し、一方大洋は12月15日に一時交渉の打ち切りを宣言する。そして間もなく、事件が起きた。巷では、まだ正月気分の残る翌70年1月5日夜のことである。荒川が自宅付近を犬と散歩中、暴漢に襲われた。こん棒のようなもので後頭部を殴られ、後頭部や手のほかに右目付近も負傷した。この右目の負傷が後に、荒川の視力を低下させ、プロ野球選手として大成できない影響を残した。(写真)荒川尭。右は早稲田大時代、左はヤクルトアトムズ時代。~『プロ野球ドラフト史1999年版』(ベースボール・マガジン社)より~
2014.01.12
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前回の続き。44年度のドラフト会議の焦点は、-ビッグ3に絞られた。早大の遊撃手荒川尭、同じく中堅手谷沢健一、もう一人は三沢高校の投手太田幸司であった。谷沢は中日に入団し、太田は近鉄に入り、荒川は大洋から指名された。太田の人気の素晴らしさは、高校生としては空前ともいえよう。夏の全国大会の決勝戦において、四国の古豪松山商業高校と顔を合わせ、延長18回戦、零対零で引き分けるに及んで、投手太田の人気は爆発的となった。日本人の「判官びいき」に太田ほどぴったりはまった選手も稀である。翌日の再決勝戦では2-4で敗れたが、優勝した松山よりも負けた三沢に人気集中し、中でも連投の太田の人気はさらに高まった。 (以上、『野球百年』)荒川尭のことは次回に譲るとして、今回は太田幸司について触れたい。昭和44年(1969年)当時、岩手に住んでいたボクにとって、太田はとてつもなく大きな大・大・大ヒーローだった。■その瞬間、「セーフだっ!」と、テレビの前に陣取った大人たちが口を揃えた。ボクら子供もマネをして「セーフ、セ―フ・・・」と叫んだ。それは、こんな場面だった。スコア0-0で迎えた延長15回裏、三沢の攻撃は一死満塁の好機を迎えていた。一打サヨナラの場面である。打者は9番・立花五雄。松山商のエース・井上明は、スクイズ警戒で2球ウエストし、次の3球目もボールになった。カウント0-3。松山商のピンチが極限にまで膨らんだ。松山商・井上明の話。「バックはとにかく声も出ない。ベンチからの指示もない。スタンドの三沢側半分が女性ファンを中心に沸きに沸いて、反対の松山商側はシーンと静まり返っていたのを覚えています。ただ、僕は0-3になっても押し出しというのは全然考えなかった。捕手の大森から返球を受け取って次に投げるまで、いつもの間合い、呼吸を崩さないようにとそれだけ。だからけん制も挟んでいない」。そして井上は2つストライクを投げ込み、フルカウントから投げた6球目。立花の当たりは、井上の右側を襲うゴロ。とっさに差し出した左手のグラブを打球がはじいた。その瞬間、三遊間に転がったボールを遊撃手・樋野和寿がカバーして本塁へ矢のような送球。間一髪、アウトになった。(写真)延長15回裏、三沢の攻撃は間一髪アウトとなりサヨナラ勝ちを逃す。倒れているのが投手の井上明。左が遊撃手の樋野和寿、捕手は大森光生。走者は三沢・菊池弘義。主審は郷司裕。■タイミングは微妙だった。主審の郷司裕が「セーフ」と言えば、三沢はサヨナラ勝ちが決まったはずだったのに・・・。当時は白黒の画像の粗いテレビだったから、今にして思えばアウトかセーフか分かるはずはなかった。が、それまで甲子園の1勝さえ容易でなかった東北の高校が、1勝はおろか深紅の優勝旗が手の届くところに来ていたから、大人も子供もはしゃいでいた。その高揚した気持ちが皆を「セーフ」と叫ばせたのだ。(8月18日)松山商 000 000 000 000 000 000 =0三沢高 000 000 000 000 000 000 =0(松)井上、(三)太田■翌日の再戦は、三沢が初回に2点本塁打を浴び、6回にも失点して2-4で敗退した。(8月19日)松山商 200 002 000 =4三沢高 100 000 100 =2(松)○井上-中村-井上-中村、(三)●太田太田は2試合、計384球をひとりで投げ抜いた。太田の話。「結局は力の差だったんでしょう。7:3で向こうの力が上だったと思います。いろいろな局面で、松山商のプレーの厳しさ、すごさを体感しました。自分たちとは違うとずっと思いながらプレーしていたような気もします。僕らがよくあそこまで戦えたなと思います」。若い女性を中心に「コーちゃんブーム」を巻き起こした太田。その盛り上がりは、後の荒木大輔や斎藤祐樹(いずれも早実)も比ではなかった。そして、同年秋のドラフトでは、近鉄バファローズに1位で指名され入団する。近鉄ファンのボクにとっては、三沢の甲子園準Vと合わせ二重の喜びとなった。≪参考≫・『高校野球 熱闘の世紀。』(2001年刊、上の写真も)・『高校野球 忘れじのヒーロー』(2005年刊、下の写真も) いずれもベースボールマガジン社(写真)ひとりで384球を投げぬいた太田幸司。
2014.01.10
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前回の続き。 昨年11月、skyAが放送した番組『高校野球名将列伝』を見て。■星稜・山下智茂元監督(現在は名誉監督)は、「マシンガンノック」でつとに有名だが、語りも次々に名言が飛び出す。まるで「マシンガントーク」である。曰く、「花よりも花を咲かせる土になれ」。そして、「人を残すことは上、お金を残すことは下、財産を残すことは中、そして感動を残すことは特上である。人生とは、すなわち思い出づくりなのだから、人に感動を与える人間になりなさい」等々、語りだしたら終わる気配がない。■また、本気で「バカをやれる」人でもある。野球部監督に就任した直後のことだ。この時、野球部員はたった8名しかおらず、ただの弱小チームに過ぎなかった。が、公立高に落ち、俯いて登校する生徒たちを見るや、猛烈な使命感にかられた。星稜を、彼らが胸を張って登校できる学校にするぞ! と。かくて、さっそく学校中に「野球部は甲子園に行くぞ!」と宣言しまくった。それだけでは足りなかったか、上着の胸のところに「甲子園」と書いて、それを見せびらかすように校内を歩きもした。他にもある。練習中は打撃投手を買って出ることが多かった。ユニフォームの胸に「江川」と書き、「俺は江川だぞ! 打ってみろ!」と叫んで、マウンドの3~4m手前から速球を投げ込んだ。そしてある時は、東海大相模を模してユニフォームにペンでタテ縞を描くと、胸に「原(辰徳)」と書き打席に立って投手と相対したこともある。どれもこれも、猛練習でチームを引っ張ってきた山下なりの練習法だった。しかし、その後、1979年(昭和54年)、山下の野球観を大きく変える出来事が起きた。■それは、夏の甲子園3回戦、対箕島との死闘だった。(延長18回)星稜 000 100 000 001 000 100 =3箕島 000 100 000 001 000 101X=4追いつ追われつの好試合は、延長18回の末に星稜が敗れた。が、結果より、試合中、ベンチでいつも笑顔でいる箕島・尾藤公監督の態度に驚かされた。自チームがピンチの時も、尾藤はなぜ笑顔でいられるのか。それが山下には不思議だった。「それまでは俺についてこい、という野球をやっていたが、尾藤さんは違った。自分と器が違うと感じた。そして選手を『待つ、信じる、許す』ことができる監督に変わろうと思った」。すぐさま「勝つ野球」から「育てる野球」に方針を大転換した。選手に対しては説得でなく、納得を心掛けた。また、野球と関係ない企業の経営者や医師らと合い、貪欲に野球以外の知識や考え方を吸収した。そして話を聞くうち、毎日、自分の顔を鏡で見ることの効用を知った。「それからですよ、玄関に大きな鏡を置いてね、毎朝毎晩10分くらいずつ自分の顔をじっと見るようにしたんです。1年ぐらい経つと自分の心が読めるようになり、その後は選手の心、さらに相手チーム監督の心が読めるようになった・・・」。■監督を引退後、『甲子園塾』の顧問として、後進の指導に当たっている。生徒は全国の若い監督たちだ。彼ら生徒に求めるレベルは高い。「俺たちの世代は、後ろ姿で選手を引っ張る監督が多かった。しかし、今の若い監督たちは頭で野球をやっている。知識は豊富だけど心が欠けている。大事なのは心、つまり愛だ」。さらに、こう続けた。「若い監督たちは、選手の限界を伸ばしてやることができない。選手に素質だけで野球をやらせている。だから大学、社会人、プロに行ってから選手が伸び悩む。精神力の強さを伸ばすことが大事なんだ」。(写真)山下智茂・元監督。『甲子園塾』にて。ノックバットをもつと「鬼」になるが、手放すと「仏」に変わる。この写真は、一瞬だけ「仏」になったシーン。~skyAより~
2014.01.09
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前回の続き。 昨年11月、skyAが放送した番組『高校野球名将列伝』を見て。■「和歌山に移ったのか、だったら尾藤を倒せよ!」1980年(昭和55年)、高嶋仁が奈良・智弁学園から智弁和歌山の監督に転任した直後のことだ、池田監督・蔦文也は電話の向こうでそうささやいた。尾藤とは言うまでもなく和歌山の強豪・箕島の監督、尾藤公のことである。通算の甲子園勝利数は「63」、今でこそ監督として断トツの勝利数1位をひた走る高嶋だが(2位は元PL学園・中村順司の「58」)、智弁和歌山に赴任した頃の野球部は、部員が15名ほどの同好会のようなものだった。甲子園出場を目標とする高嶋と、同好会気分の抜けない選手たち。厳しい練習を課すと、選手たちはすぐに音を上げた。「まずは技術よりも(甲子園常連チームを)肌で感じてほしい」その一念で、高嶋が練習試合を申し入れた先が池田だった。蔦はそれを快諾し、そして「尾藤を倒せ!」と高嶋にささやいた。もっとも蔦は、当時の智弁和歌山の非力を知った上で「和歌山を勝ち抜くためには、箕島を倒す気概をもてよ」という意味で言ったのだろうが。いざ池田と試合をすると、予想どおり結果は散々だった。打たれまくって、いつになっても試合が終わらなかった・・・。しかし、収獲もあった。「試合が終わると、選手たちがぽろぽろ涙を流したんですよ。はじめて負ける悔しさを知ったのです。私はね、彼らの涙を見て、こりゃ、ひょっとしたら甲子園が近いかな、と思いました」。強豪・智弁和歌山の原点は、この池田戦の惨敗にあったようだ。 ※甲子園勝利数は2013年8月現在。■高嶋は長崎海星2年の時、選手として初めて甲子園に出場した。その時の感動を鮮明に覚えている。「これが甲子園というところか! と、感動のあまり足がガラガタ震えました。そしてこの時、将来は高校野球の指導者になって選手たちを甲子園に導く」ことを夢に見た。その後、高嶋は日体大を卒業した70年、奈良・智弁学園の指導者に就く(最初の2年間はコーチ、その後72年から80年まで監督)。この10年間が、その後の高嶋の財産だ。指導者としてのイロハを学んだ。74年に起きた選手たちによる練習ボイコット事件も、後になってよい教訓になった。それは、厳しい練習を課す高嶋に対し、選手たちが練習を拒んだことに端を発する。高嶋は監督を辞する決意をするほどに衝撃を受けた。しかし、野球部長の計らいで選手たちと腹を割って話す機会を得、選手たちを前に、高嶋は自身の率直な気持ちを語った。「自分が甲子園に出場して感動した思いを選手たちに話しました。足がガタガタ震えたこと、そして監督をやっているのは、選手たちにも同じ経験をしてほしいからだと。するとね、主将だった選手が『監督、わかりました。一緒に甲子園を目指しましょう』と言ってくれてね・・・。はじめてお互いに分かり合えた気がしました」。■この事件を契機に智弁学園のチーム力は急激に増し、高嶋にとっては、現在も続くサクセスストーリーの原点になった。この話を聞き、ボクは以前読んだ、元・駒沢大監督の太田誠さんの著書『球心いまだ掴めず』(日刊スポーツ新聞社刊)の一文を思い出した。そこにはこんなことが書いてあった。「駒大苫小牧を強豪に導いた香田誉士史監督が駒大を卒業後に赴任した際、いまでこそ強豪と呼ばれるも、当時は野球部というのは名ばかりで、選手はジャージー姿で長髪ばかりだった。選手も父兄も香田監督のいうことに耳を貸さず、反発されることすらあった。そんな時、香田さんは太田さんに「心も言葉もなかなか通じない」と相談したところ、太田さんが教えたのが「放下着」という言葉だった。「ほうげちゃく」と読む。これは禅の言葉で、意味は「捨ててしまいなさい。捨てるという言葉も捨てて、雑念をすべて吐き出し、裸になって心を空っぽにしてこそ、初めて人々に受け入れられる」。指導者とは、(いやそれ以前に)自分の意思を相手に伝え、共感を得、そしてともに行動を起こすためには、自分の鎧をとって裸になることこそ必要・・・ということなんだろう。■skyAの番組中、いつもポーカーフェイスの高嶋が練習中にわずかに見せる笑顔が映った。この一瞬の柔和な笑顔が、選手たちの心を惹きつけるているように思う。高嶋が裸になった瞬間かもしれない。高嶋は、選手たちに常々言っている。「世の中出たら、しっかり生きていけ。後ろ指刺されるなよ。甲子園に出たプライドを持っていろよ」。そして、「いつも厳しい練習をしているのは、社会人になってから困難にあった時に『これくらいの苦労は野球の練習と比べたらなんでもない』と思ってほしいからよ」。そう言って柔和な笑顔を見せた。(写真)2006年夏の準々決勝、帝京を相手に大逆転勝利した瞬間の高嶋仁監督。~skyAより~
2014.01.07
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昨年11月、skyAが放送した番組『高校野球名将列伝』を見ての感想を。■1989年夏の甲子園、帝京高は決勝で仙台育英高を破り、ついに初優勝を果たした。その瞬間、ベンチ前に起立していた前田三夫監督は、必死に喜びを押し殺そうとするも、つい嬉しさのあまり笑みがこぼれた。そして口が小さく動いた。「や、っ、た」と。(下の写真、skyAより)72年、前田が監督に就任時、帝京高野球部は部員がたった4人しかいない弱小チームに過ぎなかった。そんな中で「お前たちを甲子園に連れて行く!」と大見得を切って以来、選手たちをスパルタ方式で鍛え上げた末にやっと勝ち取った全国制覇。その喜びの大きさは、自制したって自然にこぼれる笑顔を見ればよくわかる。■この優勝まで、前田には様々な紆余曲折があった。とりわけ大きかったのは、83年センバツで蔦文也監督率いる池田高に大敗したこと。池田は、前年夏は畠山準で全国制覇し、そして今回はエース・水野雄仁で春夏連覇を狙う西の横綱的な存在だった。ただ打線の破壊力に自信をもつ前田も負けていなかった。こちらも東の横綱だ、池田、何するモノぞ~と、気勢を上げていた。ところが、その気勢は、試合が進むごとに萎んでいった。結果は、スコア0-11の大敗だった。「蔦さんを見て、世の中にこんなすごい監督がいるんだな。これじゃぁ、自分が勝てるわけがない。優勝なんてできっこない。監督のパワー、そして監督としての器が違う」。選手には、池田の練習方法に倣って筋トレや水泳トレーニングを課す一方、前田は自身にも試練を課した。それまで帝京高の事務局員として監督を続けていたが、社会科の教員として教壇に立つ決意をした。ちょっとわかりづらいが、「できれば教壇に立つことはしたくなかった」それまでの気持ちを甘えと捉え、野球以外にもうひとつ別のステージを自らに課したのだろう。■その後、前田の決断が功を奏し、全国初優勝(89年)も経験して、チームは着実に力をつけたように見えた。だが、初優勝から9年後の98年夏に、再び前田を悩ます事件が起きる。その頃、前田は、選手たちがスパルタ方式の練習を嫌がっていると感じ、選手の「自主性」を重んじる指導に転換を試みた。すると、チームはあれよあれよという間に予選を勝ち進み、あっさりと甲子園出場を果たした。ちょうど森本稀哲がいた頃だ。「世の中の風潮にもあった、選手の『自主性』に任せるというのも、たしかに良いものだ」。そう思った矢先、帝京は甲子園の2回戦で浜田高にあっさり敗れてしまう。負けたのは仕方がない。勝負とは、どちらかが勝つ以上、どちらかが負けるのだ。しかし、前田が許せなかったのは、敗戦後の選手たちの態度にあった。「選手たちは皆、笑顔だった。まったく涙がなかった。これを見た瞬間、僕は情けなくなってしまった・・・」。それまで30年近くにわたり監督を務め、多くの勝ちも負けも経験し、そして全国優勝も経験した。しかし、何か選手に伝えるべきこと、言葉が足りていない・・・。突然、そんな不安な思いが前田の頭の中を駆け巡った。書物などに当たるも答えは見つからない。 「野球の原点とは何だろう、選手に伝えるべき言葉とは、何だろうか?」その答えを探しに、前田は1か月間の休養をとって野球発祥の地・米国を訪ねた。そしてある日、偶然見ていたワールドシリーズ、パドレス対ヤンキース戦の、チームが優勢であっても劣勢であってもスタンディングオベーションで選手に拍手を送るパドレスファンの姿を目の当りにし、前田は「これだ!」と思った。さっそく帰国するなり選手たちを集め、選手のひたむきさ、一生懸命さが、結果としてファンの数を増やし、選手とファンとの一体感を醸成するのだと説き、そして、遠回しな言い回しになるが、新スローガンは、「皆に拍手される野球をやろう!」にすると伝えた。■はたして2006年夏の準々決勝で智弁和歌山高戦に敗れたものの、この時、前田の立てたスローガンが現実のものとなった。この試合、劣勢だった帝京(最大6点差)は、9回表に一挙8点を奪い逆転に成功する。ところがその裏、智弁和歌山も粘り、帝京は押し出し四球でサヨナラ負けを喫するのだが、前田が探し求めた答えを、選手たちが具現化した試合になった。ひたむきさ、一生懸命さが試合の流れを流れを手繰り寄せ、そして応援しているファンや観客の心を魅了したのだ。帝京 000 200 028 =12 智弁 030 300 205X =13「負けたけどね、痺れましたねぇ。選手たちが見せた粘りは、さすがだなぁ、と。30数年監督をやってきて、あんな試合をやらしてもらって、選手たちに感謝しています。観客の皆さんが総立ちになって拍手をしてくれたでしょう・・・。やってて良かった。これで、帝京はこういう野球を続けようと決意できた」。そして、いつもの明快な口調、やや甲高い声で、こう締めくくった。「僕はね、選手たちを集めて『こんなに感激したのは初めてだ』と言いましたよ。そしてね、今後野球を続ける者も、野球から離れる者も、皆に拍手される人を目指しなさいと言いました」。
2014.01.05
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前回の続き。■「バカヤロー」。大毎オリオンズの西本幸雄監督は、受話器の向こうから怒鳴り声を聞いた。相手の忌々しい声が続いた。「ミサイルと言われている打線なのに、どうしてスクイズをやるのだ。中沢会長も鶴岡君も、あんなスクイズ、と言っていたぞ」と追い打ちをかけた。この電話の主は、中沢不二雄パ・リーグ会長、南海・鶴岡一人監督と並んで、西本の試合を観戦していたらしい。西本は「そのお2人より、私の方が大毎の状態をよく知っています」と言い返した。すると「バカヤロー」である。「バカヤローだけは取消してください。その言葉は撤回してください」と言うと、電話の主はガチャンと電話を切った。それは、1960年(昭和35年)日本シリーズ第2戦で、大毎がスクイズを失敗して敗れた直後の電話だった。電話の主は、大毎のオーナー・永田雅一である。この一件がキッカケになり、その後、西本は監督就任一年目にしてリーグ優勝したにも関わらず、大毎の監督を辞した。■ボクが永田雅一の名を聞いて思い出すのは、この件である。「金も出すが、口も出す」、そして大言壮語な語り口から「永田ラッパ」とも呼ばれた。永田は、映画会社・大映のオーナーにして、プロ野球・大毎オリオンズのオーナーでもあった。1940年代後半からはプロ野球界に君臨し、「永田ラッパ」を高らかに吹き鳴らし続けた。アンチ巨人にして、オリオンズ、そしてパ・リーグを愛し、チーム発展のためには金に糸目をつけず、私財を投じて東京スタジアムを建設したほどだ。そして70年、ついに永田の夢が叶う。大毎球団の経営難によりロッテをスポンサーに付けたロッテオリオンズがパ・リーグ優勝を決めたのだ。この時、永田はグラウンドに乱入した観客達の手により、「永田オーナー万歳」「パ・リーグ万歳」の喝采と共に優勝監督よりも先に胴上げされ、永田は号泣しながら宙を舞った。大言壮語なラッパが、この時、ついに夢と現実の旋律を合致させたのである。しかし、その喜びもつかの間、翌71年、大映の経営再建に専念するため、球団を正式にロッテへ譲渡し、同時にオーナーを中村長芳に譲ることになった。その記者会見では、永田は無念の号泣をした。そして「必ず巨人を倒して日本一になってくれっ!」と泣き崩れながらコメントし、その言葉を最後に、20年以上にわたり君臨を続けたプロ野球界を去った。 ■ただ上記のロッテ優勝の一件は、大言壮語とは言わない。有言実行のほうが正しい。これも永田らしいと言えば、永田らしいが、大言壮語ぶりを表す事例を知りたかった。すると、それを端的に表すエピソードを『最弱球団 高橋ユニオンズ青春期』(長谷川晶一著、白夜書房)に見つけた。それはロッテ優勝から20年ほど前のできごと。見出しには「永田雅一、一世一代の大風呂敷」とあった。1953年12月にパ・リーグ総裁に就任した永田は、それまで7球団だったパ・リーグをセと同じ8球団にしようと画策する。そして、さっそく当時「日本のビール王」の異名をとった高橋龍太郎に新球団(8球団目)の所有を持ちかけた。暮れも押し迫ったある日、すでに78歳の高齢で隠居状態にあった龍太郎の自宅を訪ね、永田は仰々しく切り出した。「今日は、高橋さんのお力でこの永田を男にしてもらうために参上しました」この頃、40代の後半にあった永田は独特の口調で勢いよくまくしたてた。得意の弁舌で高橋翁を口説きにかかった。「私はパ・リーグの総裁になるにあたって、8球団制を敷くことを提唱しました。私はこの自分の案が、理想的であり、必要なことだと信じています。・・・そこでお話があります。高橋さんは戦前、イーグルスという球団を援助されていたこともあります。そして野球に対して深い理解と立派な見解をお持ちだと承っています。この際、ぜひともプロ野球百年の計のためにご出馬を願いたい。高橋さんが引き受けてくださるのであれば、決してご迷惑をおかけしません。あらゆる援助を惜しまない決議をしています」。永田の言う「あらゆる援助」とは、新球団設立のために既存の7チームから一流選手を供出すること、そして、資金面でも永田を中心として支援することだった。黙って話を聞いていた龍太郎は、加えていたパイプを手に取りながら、ゆっくりと口を開いた。「わかりました。そこまで言うのであれば、お引き受けしましょう」。百年の大計の役に立つのであれば・・・そんな思いが龍太郎の胸中に去来していた。■こうして、高橋ユニオンズが新設されることになった。しかし、永田がこの時言った2つの約束は、その後守られることはなかった。高橋自身は物心ともに球団を支え続けたが、その3年後、球団を手放さざるを得ないほどの苦境に陥ったのである。もちろん、永田は初めからウソをつこうとしたのではないが、大風呂敷を広げて口説いた結果、高橋を騙す格好になったことは否めない。大言壮語「永田ラッパ」と呼ばれる所以であり、そしてそれは「永田ラッパ」の面目躍如でもあった。
2014.01.04
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前回の続き。■1968年(昭和43年)から近鉄の指揮を執った三原脩は、初めて優勝を狙えるチームに導くように見えた。それまで万年最下位だった近鉄が、その年は4位に躍進。そして翌69年は阪急と最後まで優勝争いを展開するまでになった。しかし、三原の3年目、最終年の70年は打撃陣の不振が響き、結局3位に終わった。70年は、前年に発覚した「黒い霧」が球界を覆った。同年3位だった近鉄も例外でなかった。球団広報課長が八百長事件に仕組んだ疑いで永久追放処分になり、主力打者の土井正博も(黒い霧事件とは無関係だが)常習賭博の容疑で大阪府警に取調べを受けるなど、近鉄も不祥事が続いていた。本気で初優勝を賭けて臨んだシーズンは不本意な成績で終わり、シーズン終了とともに、三原は近鉄の監督を辞した。しかし、三原は退団の理由を誰にも語らなかった。東京の自宅に帰り、家族には「もう二度と、東京を離れるつもりはない」とだけ話し、自叙伝『風雲の軌跡』には、「私としては、不本意なやめ方であり、その理由については、いいたくない」とだけ書かれていた。■三原が退団した理由について、作家・立石泰則さんは著書『魔術師 三原脩と西鉄ライオンズ』(小学館文庫)にこう書いている。「契約更改の度に生じた(三原の)退団騒動、トラブル等々。近鉄本社・球団首脳と三原との軋轢は深まりこそすれ、解消へ向かうようなことはなかった。そこには、西鉄および大洋時代と違って監督業だけに専念してきた3年の間に、三原が近鉄を見限る深刻な問題があったはずである。それは同時に、三原が西鉄でも大洋でも経験してきた親会社と球団の関係に象徴される古い体質とも無関係ではなかっただろう」。それは、常にビジネスライクな考え方をする三原と、所詮球団は本社の広告塔に過ぎないと考える経営者層との、埋めようもない溝とでも言おうか。実績に見合った収入を要求する三原に対し、「近鉄の天皇」と呼ばれた佐伯勇球団オーナーは頑として首を縦に振らなかった。お互いの溝は深まるばかりだった。■後に近鉄の監督を経験した関口清治が近鉄の「タニマチ体質」を述懐し、三原が近鉄を見限った理由を推測する。以下も『魔術師‐‐‐』より。「近鉄には月1回、朝飯会というのがあって、傍系会社の社長や重役が集まるんです。佐伯会長のあいさつがありますから。近鉄の監督も大阪におるときは、そこに出ていくんですよ。重役たちは鶴岡さんや川上さんの解説を聞いて、私に『なんで、あのときにあの選手を使わなかったんや』と詰問されることが度々でした。いろいろ事情があるのですが、そんなことは解説者は知りませんわな。だから、全然違うんですよ。ところが、お偉いさんたちは、解説者の話を聞いて、もう目茶苦茶言うとりますわ。近鉄は、本当に周囲がうるさかったですよ」。ある日、関口は佐伯に試合中の作戦について質問されたことがあった。「エンドランやバント、あるいは盗塁をさせるでしょう。あるとき、佐伯会長が『それは監督の独断でやるのか』と聞かれるので、『えぇ、独断です』と答えたんです。すると、『それは駄目だ。コーチとかみんな集めて、相談してやりなさい』と言われるんですよ。それでは試合がどんどん流れていきよるし、間に合わないと説明すると、『独断でやるのも結構だが、それは間違えがあるぞ』といわれる。こんなんばっかりですよ」。■三原の監督在任中も同様だったことは想像に難くない。お金の問題と球団の体質と。ただ、それが退任の本当の理由だったかは分からないが・・・。そしてもうひとつ、当時の三原を悩ませていたことがある。前年1969年(昭和44年)秋に発覚した「黒い霧」が古巣西鉄ライオンズを直撃したことだ。「なぜ、西鉄がこんなことになってしまったのか・・・」三原の嘆きの声である。そして、この時、西鉄の監督が娘婿の中西太だったことが、一層に三原の悩みを深くした。※続きは、いずれ。
2014.01.04
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前回の続き。■タイトルに大和球士著『野球百年』を後ろから読む、と書いたが、実は大和さんが1970年(昭和45年)について触れたのは、ほんの僅かである。「昭和45年度のシーズンは、前年末に発覚した野球トバク事件が初夏まで尾を引いて暗いシーズンであった。縁起でもないから、先を急いで46年のシーズンに直進したい・・・」‐‐‐ たったコレだけ。1970年を書くには、いわゆる「黒い霧」事件に触れぬわけにはいかないが、正月早々縁起でもないので、それは事件が発覚した69年に譲るとして、今日は近鉄・佐々木宏一郎の完全試合について書きたい(なお、この件について大和さんは一切書いていないので、あらかじめご了承いただきたい)。■佐々木が完全試合を達成したのは10月6日、対南海戦(於、大阪球場)だ。翌日の朝日新聞には、「巨人、首位を死守」「パ、今日にも胴上げ、ロッテゆうゆう西鉄降す」の見出しの後に、「佐々木(近鉄)が完全試合」「実った9年の努力」と見出しを打っていた。そして佐々木については、このような記事が書かれていた。「6日大阪球場でおこなわれた南海-近鉄23回戦で、近鉄の佐々木宏一郎投手(27)=岐阜短大付高出=がプロ野球11人目の完全試合を達成した。佐々木投手の投球数は99、アウトの内訳は内野ゴロ10、内野飛球2、内野ライナー2、内野邪飛3、外野飛球6、三振4」。この試合のスコアとメンバーを、以下に記載。<スコア>近鉄 000 000 201 =3南海 000 000 000 =0(近)○佐々木、(南)●三浦-上田本塁打=土井正博11号、2点本塁打(三浦)<近鉄・メンバー>8 木村H8 小川6 安井9 永淵7 土井3 伊勢4 飯田5 相川H 北川5 服部2 辻1 佐々木 ■佐々木は183cmの長身ながら、アンダースローから繰り出す切れのいいシュートとスライダ-が持ち味の投手だった。この年は最高勝率のタイトルも獲得し、通算成績は132勝(152敗)。決して順風満帆の選手生活を送ったわけではない。高校卒業後、テストで大洋に入団(1961年)。しかし、1年後に解雇され、近鉄にテストで入団する。この時、近鉄の監督は、佐々木が大洋に入団した時の監督・三原脩だったことは何かの縁だったろうか。また投手コーチの武智文雄に出会えた運にも恵まれた。近鉄の入団テストに合格した際、佐々木の獲得を推挙したのは武智だったし、さらにプロ入り当初はサイドスロー気味のフォームで投げていた佐々木に、アンダースローへの転向を勧めたのも武智である。後に武智は、「佐々木がアンダースローになってから球威が増した」と評している。近鉄球団史上、近鉄在籍期間に限って100勝以上した投手は3人しかいない。佐々木、鈴木啓示、そして佐々木を育てた武智である。■そして1974年オフ、佐々木は南海・島本講平とのトレードで南海に移籍、81年をもって20年の現役生活を終えた。(89年没、享年45歳)あ、そうそう。佐々木の完全試合を伝える朝日新聞には、こんなことも書いていた。「大阪球場はどうも”パーフェクト”の縁がある。2年前の田中勉(元西鉄)もこの球場で、南海が相手だった」田中勉。「黒い霧」の匂いがぷ~んとしてきた。(写真)佐々木宏一郎。~『近鉄バファローズ大全』洋泉社より~
2014.01.03
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