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高校野球の名門・松山商高を18年間も率いた澤田勝彦さんという有名な監督(06年9月辞任)がいる。『メンタル・コーチング』(織田淳太郎著、光文社新書)という書籍を読んで、澤田さんの確固とした信念に基づく指導法を知った。------------------------------------------------それは、「決してスター選手を作らない」こと。言葉を換えれば、「個人を特別扱いしない」こと。例えある選手が活躍して勝利しても、それは個人で勝ったわけではない。個人の力なんて大したことはない。だから決して個人を褒めることはしない。レギュラーだろうと、補欠だろうと、すべて一律の目で見ることに徹すること。その理由について、澤田さん本人が説明している。「私が最も危惧していたことは、選手が自分を特別な存在と勘違いしてしまうことなのです。スターに祭り上げられると慢心が芽生えてしまいます。そうなると、他の選手がその選手に頼ってしまうことがあります。結果、1×9=9にならず2か3で止まります」「部員全員が『オレは下手くそだ。だから我を忘れてガムシャラにやるしかないんだ』という気持ちをもつことで、大きな力が生まれるものだと思っています」-----------------------------------------------------その指導法が効を奏したのだろう。18年間の監督生活において、6回の甲子園出場と全国制覇(1回)を果たしている。96年夏に全国を沸かせた「奇跡のバックホーム」は、この指導法の賜物だったといえる(詳細は後日)。澤田さん、こういう考え方に至ったのには、自身の高校時代の苦い経験がある。松山商高の同級生に西本聖(元・読売)がいた。この西本、高校入学後すぐの春季予選でさっそくマウンドに立ち、四国大会でいきなり優勝する離れ技を演じてしまう。周囲は色めき立った。「これで5季連続で甲子園は間違いないな」と。だが、結論から言うと一度も甲子園の土を踏むことはなかった。西本べったりの監督、西本ひとりにオンブし監督の目を盗みさぼることしか考えなかった選手たち。選手間もギクシャクしハッキリ言って、チームはバラバラだった。-----------------------------------------------------73年、エース・西本を擁した松山商高は栃木に遠征し、江川卓(法政大)のいた作新学院高と練習試合を行った。西本、作新打線をたった2安打に抑えたものの、スコアは0-2で敗れてしまう。投打のアンバランスが象徴的に起きた試合だったと、澤田さんは述壊していた。決して選手を甘やかすわけでなく、かといって昔さながらに鉄拳をふるうわけでなく、冷静に選手に対面し「自我」を取り除く指導法は興味深い。ただ、ひとつ思い出したことがある。江川も後年、高校時代を振り返って言っていたことがある。「自分だけが浮いているような気がして、ほかの選手たちへの気配りを心がけた」。怪物・江川の作新学院も全国制覇することはなかった。スター選手のいる甲子園優勝候補のチームが、現実にはなかなか勝ち進めないのは、やはり前述した理由が影響しているのだろうか。1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2008.01.29
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偶然に見ていたNHKの番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」。マリナーズ・イチロー(愛工大名電高)へのインタビューを試みていて、イチローの人となりが少しだけ垣間見えて興味深かった。例えば・・・-------------------------------------------------仰木監督への思い埋もれていた自分を発掘してくれた仰木監督。チームが試合に敗れたある日のこと。球場からホテルに向かうバスの中、選手たちは皆、一様に暗く沈んでいた。そんなとき、仰木さんがイチローに声をかけてくれた。「イチローよ。なぜ、そんなに沈んでいるんだ。オマエは今日、二塁打を打っただろ。だったら喜べばいいんだ。チームの敗戦にオマエが悩む必要はない。敗戦を悩むのは、オレの仕事だ」その時、イチローは仰木さんを本気でリスペクトするようになった。「すげぇな、このオッサン!」------------------------------------------イチローが目指すもの自分がこの先、何を目指して行くのかはわからない。それは高すぎるから見えないのですか。ちょっとやそっとじゃ満足できないんですよね、とのインタビュアーの問いに、いえ、ボクはたくさん満足をしていますよ。満足を重ねるべき、とさえ思っています。だから、どんな小さなことでも上手くいったら満足しています。だって、いま満足しないと次には進めません。満足した後、次にまた何か課題が出てくるんです。-----------------------------------------イチローが考える引退のとき夢は、50歳で4割を打って引退すること。それだけの成績で辞めたら最高でしょ。それから・・・腹が出てきたら、引退します。そんな身体になってもできるスポーツは限られているんです。そのひとつが野球です。みっともないですね。ボク、そういうのがイヤなんです。-------------------------------------------■「敗戦はオレの仕事だ。自分のことを喜べ!」と、思っていても実際に口にできる監督さんはたぶん多くない。仰木彬監督らしい逸話と思う。■どこまでもストイックに見えるイチロー。意外にも、自分を上手に褒めることができる才も備わっていたようだ。■腹が出た選手はみっともないっていったい、どの選手のこと?1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2008.01.28
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シーズンオフということもあり、プロ野球選手たちの結婚を伝える記事がスポーツ紙を埋めることが多かった。そんな記事を読みながら、プロ野球選手夫人の格言をボクは思い出すことがあった。まっ、他人のことだから余計なお世話に違いはないのだけれど・・・その格言の主は元・TBSアナだった木場(現・与田)弘子さんの発言の中にあった。朝日新聞に掲載された木場さんへのインタビュー記事。もちろん、ご主人は元中日のストッパー・与田剛氏(木更津中央高-亜細亜大)である。木場さんは言っていた。「プロ野球選手の夫人は、とかく栄養や料理が大切と言われます。もちろんそれは大事なことですが、もっと大切なことがあるんですよ。それは、夫のメンタル面のケアなんです」プロ野球選手、言葉を変えれば「明日の保証がない自営業主」であり、「毎日が勝敗の決まる勝負師」でもある。だから、ご主人(選手)は常に大きなストレスにさらされていて、「どれだけ夫のメンタル面を支えてあげることができるか?」これが、夫人にとって大変に重要なのだという。例えば、木場さんのご主人である与田氏のこと。ルーキーだった1年目(90年)、剛速球を武器に「抑えの切り札」として大車輪の活躍を見せた。新人では史上最多の31セーブを挙げ、新人王と最優秀救援投手を獲得した。でもその勲章と引き換えに、消耗させた肩とヒジは選手生命を奪ってしまう。2年目以降は、次第に輝きを失い始める。96年シーズン途中にトレードでロッテに移籍。97年オフ、ロッテを自由契約(解雇1回目)98年オフ、テスト入団した日本ハムを自由契約(解雇2回目)00年オフ、トライアウトで入団した阪神だったが、一軍での登板はなく1年だけで現役を引退した(解雇3回目)新人賞の栄誉と、1度の移籍と、3度の解雇。極端な言い方ではあるけれど、これが与田氏の野球人生だった。1年目から最高の栄誉を得た後に、次々に襲いかかる悲運。与田氏の心情が激しく揺さぶられたことも多かったのではなかろうか、そうボクは勝手に推察している。ついでにいえば、その半生にいつも寄り添っていたのが木場さんだった。だから「メンタルのケアが大切」と語る彼女の言葉に、思わず納得してしまうのだ。1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2008.01.28
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朝、何気なくテレビ「サンデーモーニング」を見ていた。毎度のことながら、この番組ではマスターズリーグのゲームの模様が放映されている。ボクはこのマスターズリーグにはまるで興味はない。でも大阪ロマンズというチームに所属している村上隆行(元近鉄、大牟田高)のレフトスタンドに飛び込む特大本塁打を見て驚いた。スタジオで誰かが言っていた。「現役時代より素晴らしいスイングだ!」ホントにそうだただ、過去にも同じようなスイング・打球があったことを思いだした。1988年、伝説の10・19の時だ。---------------------------------------------入団2年目の85年ごろからショートのポジションを獲得。三塁手の金村義明(報徳学園高)と三遊間を組んで近鉄の看板選手のひとりに成長していた。ただ、守備がどうにもマズくて、この88年は代打に甘んじることが多かった。そんな、村上にとって不満の残る一年だったが、最高においしい場面がこの年の129試合目(10・19の第一試合)にやってきた。場面は、スコア2-3の1点ビハインドで迎えた8回裏。5番・淡口憲治(三田学園高)が凡退後、6番・鈴木貴久(故人、旭川大高)が中前打を放って出塁。7番・吹石徳一(和歌山・南部高)の代打・加藤正樹(PL学園高-早稲田大)が四球を選び、一死一・二塁のチャンスを迎える。--------------------------------------------この絶好機に、8番・山下和彦(柳ヶ浦高)に代わって代打・村上隆行が打席に立つ。ロッテ投手・小川博(前橋工高)が放った高めの球(たぶん!)を、思い切り叩いた打球は痛烈なライナーとなって、左中間フェンス上部に当たる二塁打となった。 二塁走者の鈴木貴久が生還し、スコアは3-3の同点になる。優勝に望みをつないだ村上の起死回生の一発は、敵地・川崎球場をほぼ占領した近鉄ファンの大歓声を呼び起した。---------------------------------------------二塁の塁上で右手を高く突き上げてガッツポーズ。緊張していたせいか多少青ざめた表情で、大きく息を吐いた表情を、ボクは忘れられない。今日テレビで見た村上のスイングは、はるか19年前の思い出させてくれた。1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2008.01.27
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五輪史上、日本最年長選手が今月末に誕生しそうだ。 馬場馬術の団体競技に参加する法華津(ほけつ)寛さん (67歳)がその人。とても珍しい苗字の法華津さん、 今年で馬術歴54年目を迎えるベテランライダーだ。 実は23歳の時、東京五輪(64年)にも同じ競技で 出場経験があり、今回出場を果たすと44年ぶり2度目 となる。 今月31日に開催される東南アジア・オセアニア地区の 審査会(フランス)に、日本代表のエースとして五輪切符 を賭けて出場する。これまでの成績からいって、五輪出場 は当確らしい。 以下、日刊スポーツ(1月25日付)より一部引用。 「幸せなことに、今でも少しずつうまくなっている感じ を持ちながらやっています。だから続けられるんでしょう」 と法華津さんは言う。 同世代の仲間たちが次々と引退する中、黙々と筋力の維持 に努めた。体重も23歳の時と同じ62キロをキープ。 そして最も注意を払うのは故障しないこと。 「落馬しないように気をつけています。この年で落馬すると 選手生命終わりですから。そしてトレーニングをやり過ぎ ないことも大事です。やり過ぎると、体のどこかしらに問題 が出てきますから(笑)」 東京五輪に出場後は、決して平坦な道ではなかった。 84年ロサンゼルス五輪では補欠(シャレではない)、 88年ソウル五輪では、馬が検疫に引っかかって出場を断念 した苦い経験がある。 ------------------------------------------------------転機になったのは5年前、62歳の時。 大会規定が急遽変更され、五輪出場権を得るためには欧州を 拠点に競技会に出場しなければならなくなったのだ。 一念発起した法華津さん。 ならばと、経営していた会社の社長業を辞め、妻と娘を日本 に残して、単身ドイツに渡り拠点を移す。彼の地で腕を磨く中、 現在の愛馬ウイスパー(11歳牝馬)と巡り合う幸運を掴んだ。 昨年7月、フランスで行われた国際大会で優勝し、続く8月の 日本代表選考会を11人馬中トップで通過する実績を残した。 大会規定の変更に伴い、単身ドイツに渡った法華津さん。 サラリーマン社会でいうと、これまで個人が培ったスキルや 技術が通用しなくなったケースとか、定年になって慣れた職場 やポジションを離れることを余儀なくされることと、ひょっと したら似ているのかもしれない。 馬術という競技。ボクは詳しく知らないが、個人の技量は言うに 及ばず、馬との相性とか馬自体の競技能力も大切なポイントの ように思う。 年齢など何するものぞ! と、日頃から摂生に努めた努力と ドイツに渡った行動力が、最適のパートナーに出会う幸運を得る きっかけになったといえる。 1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2008.01.27
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再びパイレーツでメジャーを目指す桑田真澄(PL学園高)の長男、真樹クンが推薦入試で桜美林高に合格が決まったそうだ。(デイリースポーツ)一時は桑田、自分と同じPL学園高への進学を進めたこともあった。でも最終的には、自宅から通える桜美林高を真樹クン自身が決めた。身長179cm、70kg。ボーイズ時代は俊足巧打の打者としてならした。ポジションはショートとセンター。 -----------------------------------------------------真樹クンの名前を聞いて、ボクはテレビで見たあるシーンを思い出す。それは、桑田がメジャーで初登板した翌日。彼の手元に一個のボールが届く。実はそれ、真樹クンがボーイズで初めてホームランを打った記念のボール。一刻も早くそのことを父親に知らせたくて、わざわざ海を越えてピッツバーグまで送られたものだった。桑田、そのボールを大事そうに両手で包みながら、目に涙を浮かべていたっけ---------------------------------------------------もうひとつ。真樹クンの進学する桜美林高と、父・桑田真澄のPL学園高は甲子園決勝で対戦したことがある。(まだ桑田も高校に入学する以前のことだけど・・・)【1976年夏の大会】(8月21日)PL学 000 300 000 00 =3 桜美林 100 000 200 01 =4 東海大相模高の原辰徳(現・読売監督)が、父であり監督の貢氏とともに父子鷹で出場したことが話題になった大会だったが、2回戦で早々に敗退してしまう。決勝に残ったのは、PL学園高と桜美林高だった。試合は延長11回までもつれる好試合。そして最後は桜美林高がサヨナラ勝ちをして優勝を決めた。桜美林高の優勝投手は現在、千葉経大付高監督の松本吉啓氏。今年のドラフト候補、早稲田大・松本啓二朗(千葉経大付高)と、今春同じ早稲田大に進学を決めた歩己(同)の2人を息子にもつ父である。原辰徳親子に負けず劣らず、立派な父子鷹だ。---------------------------------------------------------この時の甲子園大会を調べていて、懐かしい名前に出会った。準決勝で桜美林高に敗れたのは星陵高。この時、星稜高の投手は2年生エース・小松辰雄(中日-現・解説者)。また、同じく準決勝でPL学園高に敗退した海星高(長崎)のエースは、酒井圭一。甘いマスクで愛称は「サッシー」と呼ばれていた。現在はヤクルトの打撃投手を経て、スカウトマンになっている。そうそう・・・、早稲田大・應武篤良監督もこの大会に広島・崇徳高の捕手として出場している。春夏の連覇を目指していたがサッシーのいる海星高に敗退した。1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2008.01.24
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もちろん「青年の主張」という催しがあることは 知っていた。でも「60歳からの主張」(主催: 全国老人福祉施設協議会)というイベントがある ことを、夕刊紙を読むまで知らなかった。 成人の日の1月14日、「もうひとつの成人式」と 銘打って、人生の先輩たちの経験談が披露されたと いう。論文部門(ほかに川柳部門もある)には 371通の応募があり、見事に優秀賞を受賞したのは 島根県在住の男性(61歳)で、テーマは 『「出会い」が変える』 。その内容は、波乱に満ちていてとても興味深い。 以下は、夕刊フジ(1月18日付)から一部を引用。 『「出会い」が変える』(佐々田修次さん) 53歳の時に事業に失敗し、信用も財産もすべて 失ってしまう。以降は、その日暮らしの悪戦苦闘の 日々が続いた。 「家族が気遣い、ひそひそ声での会話」(佐々田さん) にツラさが増した。一ヶ月間の臨時雇いから始めた 老人介護施設での仕事も、自分の子供よりも年下の職員 たちから叱責されることが多く、悔しさと情けなさに 涙を重ねた。 だが、平均90歳超の施設利用者たちに出会い、毎日を 精一杯生きる姿に励まされ、ついに自分にしかできない 役割を見出した。それは「世代間の橋渡し役」。自分の 親世代である彼らの思いも理解でき、若者たちの行動や 流行りも多少わかることが、自分の武器であることに 気づき、仕事が充実感で満たされていった。 この仕事を始めて8年が経過した。佐々田さんは言う。 「『今日は楽しかった。ありがとう』と、お年寄りが 言ってくれる笑顔が、私は好きなんです」 同じ優秀賞に選ばれた埼玉県在住の男性(66歳)の作品 もある。タイトルは『私の川柳事始め』(堀利男さん)。 定年退職になれば、その時に何とかなると高を括っていた ことが災いし、いざ退職(3年前)してみると、何もやる ことがない日々の現実に呆然とする。 そんなある日、「妻の運転手」として出かけた公民館で、 たまたま川柳講座に誘われたことがキッカケとなり、 「その仲間たちとの出会いに夢中」になった。 今では、常にメモ帳と鉛筆を携行して街をさまよい句を ひねる毎日。新聞への投句で入選し、掲載された経験もある。 「活字になった時の喜びは、何ものにも変えがたい・・・」 (堀さん) ----------------------------------------------- 充実したセカンドライフを過ごされているお二人に共通 するのは、そのキッカケが「人との出会い」にあるようだ。 ヤフーセカンドライフに、ボクは以前「ある団塊サラリ ーマンが始める地域活動」というブログを書いた。 そこで登場していただいたYさん(60歳)も、地域に 知り合いがいないことから、仲間作りを始めたことが自治体 と連携する福祉活動にいたる起点になっていた。 そのYさんのことを、別の定年直後の「団塊(元)サラリー マン」の方たちに話したことがある。すると、彼らの関心を 引いたのは、Yさんの活動内容ではなく、定年後に会社を 離れて感じる「寂しさ」への共感だった。 「地域に仲間が居ないのは寂しいもんだよ・・・」 定年後、行動範囲はどうしても地域中心になる。 でも首都圏において、いま住んでいる地域で元々生まれ育った 人は、そう多くはない。自宅と会社の往復の毎日だったから、 地域に仲間がいないのは当然なことかも。 自分にとっての充実したセカンドライフは、身近かにある地域 での「出会い」から始まるのかも知れない。 1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2008.01.22
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日本ハム・中田翔(大阪桐蔭高)が入団後初めてフリー打撃(室内練習場)を披露した。「グォーン!」、「ブォン!!」。腹の底に響くスイング音が室内練習場にとどろく。22スイング中、15本がヒット性の当たり。バットが金属から木製に変わっても、中田らしい鋭い打球が放たれた。日本ハム・水上善雄(桐蔭学園高)二軍監督は言った。「スゴイよ、スゴイ、スゴイ、スゴイ・・・」「打撃投手は怖いよ。ボールがバットにくっついている時間が長いから、瞬間的にボールが目の前に来ている。守っている野手が危ない。気を抜けないよ」 (サンケイスポーツ)--------------------------------------------------中田の打球、早く球場で見てみたい。ただ、この記事でボクが目を奪われたのは水上善雄という名前。 ロッテ在籍時、当時としては珍しい長髪のプロ野球選手でニックネームは「ライオン丸」。いまの選手に例えると同じロッテの西岡剛(大阪桐蔭高)のような、オシャレで格好のいい存在だった。水上、日本ハムの二軍監督であることを初めて知ったが、悔しさとともに、現役時代の忘れられないプレーがある。それは1988年、「伝説の10・19」の第二試合。4-4の同点で迎えた9回表、近鉄の攻撃。二死ながら大石大二郎(現オリックス・ヘッドコーチ)を二塁に置き左打席に入った新井宏昌(現ホークス・打撃コーチ)。いつもの巧みなスイングで、三塁線に強い打球を放つ。完全に長打になるはずの当たりだったが、ロッテの三塁手が横っ跳びで打球をつかみ、素早く一塁に送球して新井を刺した。ふだん喜怒哀楽を表に出さない新井、珍しく一塁塁審に喰ってかかっていたが、そのロッテの三塁手が水上だった。優勝を賭けた戦いに臨む近鉄に、このプレーが引導を渡したと言えるのかもしれない。近鉄・仰木彬監督(故人)は、後日語っていた。「抜けた・・・と思ったら、三塁手が横っとびで捕球しているのが見えました。あれっ、誰だろう・・・。あぁ、水上・・・かぁ。三塁手がこの回から水上に代わっていたことを、まったく知りませんでした・・・」実況していた朝日放送・安部憲幸アナは、このプレーを見て「This is プロ野球!」と叫んでいた。--------------------------------------------------------水上善雄、桐蔭高時代のチームメイトに元・広島の長内孝がいた。1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2008.01.21
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最近、よく行くサイトがある。サイトの名前は「近鉄バファローズの灯」。そしてサブタイトルには、いつも心にバファローズと記されている。管理人さんからのメッセージがいい。「当サイトの描くイメージは元近鉄バファローズファン同士の同窓会、誤解を恐れずに言うならば「お墓参り」でもあります。 湿っぽくなるんじゃなくて、故人との楽しい思い出、熱い思い出を参列者と共に懐かしむ・・・そして、また別々の「選んだ道」へ戻っていく・・・そんなサイトを目指したいと思いました」 「近鉄バファローズの灯」はこちらです。まだご存じでない方は、どうぞ。---------------------------------------------------このサイトに刺激を受けて、ボクも「自分にとっての近鉄バファローズ」をまとめたくなった。今日は、その第一弾として昨年書いたブログのいくつかをピックアップ。これを足がかりにして、今後少しずつ進化させたいな、なんて思っている≪2007年≫■「足のスペシャリスト」と呼ばれた藤瀬史朗と楽天・森谷昭仁(2008.1.18)■桑田真澄とPL学園高の仲間たち、元近鉄・加藤正樹と内匠政博(2007.12.20)■仰木彬氏の三回忌と、「10・19」で走塁に失敗した佐藤純一 (2007.12.15)■元近鉄の藤崎紘範が打撃投手に(2007.11.22)◎ドラフトで近鉄を蹴った男たち。福留孝介、池谷公二郎・・・(2007.11.16)■近鉄バファローズは永遠に、「10.19」から19年 (2007.10.19)■「10.19」、梨田にちょっとキレた? 阿波野秀幸(2007.10.09)■元近鉄・水口栄二が引退だ(2007.9.29)■タフィ・ローズ、敬遠の苦い思い出(2007.8.29)■執行猶予中の前川勝彦「それでも、野球がしたい!」(2007.8.28)■イライラ病のタフィ・ローズはすぐに引退すべし!(2007.7.18)■特に打撃練習での打球が凄かった、吉岡雄二(2007.7.3)■「いてまえ」初心に戻り、ただいまテスト生。中村紀洋とタフィ・ローズ(2007.2.23)◎ボクの近鉄バファローズが消える日(2007.2.20)■名将・仰木彬氏の選手掌握術(2007.1.24)■元・近鉄監督の西本幸雄氏、阪急時代にやった信任投票(2007.1.23)◎ノリ、あの時キミは輝いていた!(2007.1.9)1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2008.01.20
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雑誌『野球小僧』(白夜書房刊)を読んでいて、とても懐かしい名前を見つけた。藤瀬史朗氏(桜宮高-大阪体育大-近鉄)。近鉄バファローズがまだ世の中にあったころ、「足のスペシャリスト」として、実働7年間で通算盗塁数は117。内、代走として盗塁を105個も記録していて、通算代走盗塁数のプロ野球記録保持者である。忘れられないのは1979年の日本シリーズ。「江夏の21球」で話題になった近鉄-広島の第7戦。その9回裏に代走で登場し、すかさず二盗。捕手の悪送球を誘い、近鉄のチャンスを拡大したこと。当時の近鉄、ここぞ! という場面では、必ず代走の藤瀬が塁上にいた。------------------------------------------------「野球小僧」誌上のインタビューに登場していた藤瀬、近鉄時代の愛弟子・森谷昭仁(豊川高-近鉄)のことを話していたのが印象的だった。まだ発売中なので詳しくは書けないが---。「初めて見たとき、森谷の足の速さには驚いた。足のスペシャリストと呼ばれた自分(藤瀬)でも、とても及ばないほどにすごい選手だった。でも、いざ試合では失敗することをイメージするらしく盗塁を躊躇してしまうのが、見ていて歯がゆい」と。「まっ、最近の野球では投手のテクニックが格段に向上しクイックモーションが進化している。だから当時と比べて盗塁をしずらくなるのが分からないではないけれど」------------------------------------------------森谷、たぶん今年こそ勝負の年なのだ。なんて去年も同じことを書いたような気がするが・・・。1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2008.01.18
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先ごろ、日本ハムに入団したルーキー・中田翔(大阪桐蔭高)のお小遣い発言が話題になった。曰く、「オレ、小遣い30万円だけですよ。何にも買えないッスよ」はて、何に散財するのかといえば、お気に入りの米ブランド「クロムハーツ」の“大人買い”なんだそうな。まっ、親兄弟へのプレゼントを購入するための費用に充てるのだから仕方がないとフォローする記事もあったが。同じルーキーたちの金銭感覚はどうだろう?-----------------------------------------------------ヤクルトの入団した「号泣王子」こと佐藤由規(仙台育英高)。寮から最寄りのJR武蔵浦和駅まで行くのに、タクシーでも1500円程度のところを、バス停で十数分待って料金200円のバスを利用して節約。真新しい白のシューズは「(量販店の)ドンキホーテで2500円で買いました」↑これ、夕刊フジの記事。バスを使うことに驚いていたが、実質まだ高校生なのだから、それは当り前の感覚に思う。たとえ、たった1500円でもタクシーを平気で乗り回す高校生がいたら、そのほうがボクは驚く。-------------------------------------------------------年齢は違うが、同じヤクルトに入団した加藤幹典(川和高-慶應義塾大)。小遣いの額はわからないが、ドラフトで入団が決まった直後、加藤が始めたことはアルバイト。派遣会社に登録して引っ越し会社の手伝いをしていたらしい。本人がその理由を語っていた。「金銭感覚を養っておくことが大切だと思って、アルバイトを始めました。そして、体力づくりにもちょうどいいし」でも、球団関係者は嘆いていた。「金銭感覚が大事なのはわかるが、大事な時期にケガでもされたら困ってしまうよ」--------------------------------------------------------レンジャーズ入りを決めた、メジャーでのルーキー・福盛和男(前・楽天、都城高)。日刊ゲンダイ紙上で、妻・英恵さんが明かしている。「主人のお小遣いは月額制で8万円です。今はどんなに給料がよくても半分は税金、そしてプロ野球選手に明日の保証はありません。だから金銭感覚が狂ったら大変です」「それに、私以外の女性に焼き肉とかご馳走してたらムカつきますからね。念のためクレジットカードは渡していますが、明細が出るのを警戒してか使っていないみたいです」 【今日のアマチュア野球情報】■センバツ 入場行進曲は「コブクロ」の「蕾(つぼみ)」この曲が行進曲になるのか? 素朴にそう思ったが、アレンジ次第でどうにでもなるらしい。■古葉氏、東京国際大監督に=大学野球このブログでも既報のとおり。いよいよ古葉竹識監督が舞台を変えて再始動する。■早大佑ちゃんとホンダ長野が対戦早稲田大・斎藤佑樹と日本大出身のホンダ・長野久義が4月5日に神宮で行われる社会人・東京6大学対抗戦で対戦することが明らかになった。長野、今年のドラフト注目選手。日本ハムから指名されたときは散々にモメたなぁ・・・1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2008.01.17
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楽天に高校生ドラフト1巡目で入団した寺田龍平(札幌南高)の父・智学(ちがく)さん。その手はカサカサで、ひどく赤ギレが目立っている。それもそのはず。実は3年前、龍平が中学3年の時に、智学さん夫婦は離婚をしている。その時、自分について来てくれた龍平のために、家事一切を引き受ける腹を決めたのだ。だから、智学さんの朝は早い。朝5時半には起床して台所に立つ。そして朝食を作り、食卓に並べると、息子と男2人だけの朝食が始まる。食後は息つく暇なく、これまた2人分の弁当を詰める作業が始まる。営業職ではあるが毎夜9時半には、これまた2人で夕食を取ることを日課としている。息子の栄養面を第一に考えていて、油分を極力控えて野菜を多めにすることを心がけている。たまにトンカツの時は、衣をはいでキッチンペーパーで油分をふき取ってから皿に盛るほどの気の使いようだ。龍平が通う札幌南高は北海道No.1の進学校。旧帝大に進学するのが普通で、龍平はAO入試での慶應義塾大進学を目指していた。昨秋のドラフトはまさにその準備中の出来事だった。楽天の球団寮(仙台)に入寮する前夜も父子2人で過ごした。いつもと変わらない智学さんの手料理が食卓に並んだ。ご飯と豚汁、そして具にチーズと竹輪の入った手製春巻き。龍平は言う。「苦労をかけた父親に高級外車を買ってあげたい」智学さんが応える。「気持は嬉しいですが、それは一軍で活躍してからの楽しみにとっておきます・・・」 (日刊ゲンダイ)------------------------------------------------------ボクは、ドラフトで楽天が佐藤由規(仙台育英高)を外した時、大いに落胆したものだ。そして外れ1巡目で指名されたのが、この寺田。まったくどんな選手か知らなかったが、最速145kmのストレートと変化の大きいスライダーが武器の投手だと後で知った。寺田龍平、お父さんの秘話もセットにして今後は憶えていようと思う。1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2008.01.16
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先日このブログにも書いたヤクルトと日本ハムの3対3のトレードは、あらぬところに波紋を広げているという。夕刊フジが伝えている。このトレードでポイントになるのは、言うまでもなくヤクルトを放出された藤井秀悟(今治西高-早稲田大)。ヤクルト、この藤井を手放したことで大きな懸念を抱えてしまった。それは、再来年のドラフトで藤井の後輩・斎藤佑樹の獲得を目指しているが、この放出が早稲田大関係者に遺恨を残してしまったのではないか? という不安である。すぐさま、ボタンの掛け違いが起きないように、編成部の安田猛部長(小倉高-早稲田大)が事情説明のため、母校でもある早稲田大を訪ねることになっているそうだ。-------------------------------------------------プロ野球の球団と大学の学閥は、昔から関係が多い。特にヤクルトは早稲田閥が強いことで有名。最近だけでも、早稲田の選手を多く指名している。藤井秀悟(今治西高、99年2巡目)鎌田拓哉(秋田経法大付高、00年2巡目)青木宣親(日向高、03年4巡目)田中浩康(尽誠学園高、04年自由枠)武内晋一(智弁和歌山高、05年希望枠)など。選手だけじゃない、フロントの面々だってそうだ。マンガ『がんばれ!タブチくん!』で一層有名になった安田さんは71年のドラフト6位でヤクルトに入団した歴(れき)とした早稲田OB。スカウト部長の小田義人氏(静岡高、72年2位)や運営兼国際部長の大木勝年氏(成東高、70年16位)も早稲田人脈に連なる人たちだ。ついでに言うと、今季から一軍投手コーチに就任した荒木大輔氏は早稲田実OB。同じく二軍投手コーチになった八木沢荘六氏(作新学院高)も早稲田大OB。ヤクルトという球団、石を投げれば早稲田関係者に当たる!と言えるかもしれない。---------------------------------------------------余計なことだけど、夕刊フジの記事には続きがあった。「それは、高田繁監督(浪商高-明治大)は同じ明大OBの倉島専務が口説いて連れてきた経緯があり、同じ東京六大学だけに早稲田に対して対抗意識もある」「今後、ヤクルトのドラフト方針が「早大より明大」に移行する可能性もゼロではない」と。まっ、早稲田でも明治でも何でもいいのだけど・・・。1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2008.01.15
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広島にドラフト4巡目で入団した松山竜平(鹿屋中央高-九州国際大)。今年の抱負に挙げたひとつは、「岩瀬(仁紀)さんを左打者はなかなか打てていない。だから、ぜひ打ってみたいですね。スライダーを逆らわずに打っていけたらいいと思う」(デイリースポーツ)---------------------------------------------------松山竜平。このブログでも何度か書いたけれど、全日本選手権で早稲田大・斎藤佑樹(早稲田実)から左中間フェンス直撃の長打を放った打撃が、この松山を一挙に「全国区」にした。長打力はもちろんだけど、大きな身体つきに似合わない柔らかなスイングが魅力的。そして、惜しくも早稲田大に敗戦が決まった時の、ヘルメットを叩きつけて号泣する姿は松山の人となりを、十分に知ることができたシーンだった。----------------------------------------------------どうやら、松山を成長させた要因は「2つの反骨心」にあるように見える。ひとつは、九州国際大時代に培った「地方からの反骨心」。「関東ばかりが注目されている。絶対、打ってやろう…そういう気持ちを自分が持っていないといけない」といった発言から、それが垣間見える。そして、もうひとつは「大きな相手への反骨心」。大学時代、九州六大学大学リーグで北九州市立大のエースだった中田賢一(現・中日、八幡高)から、打率4割以上の成績を残し、同級生の福岡大・白仁田寛和(現・阪神)からも本塁打を放っていることからも想像できる。------------------------------------------------------先日このブログに、松山竜平選手の出身地・鹿児島大崎町の方からコメントをいただいたことがある。「松山竜平君は、大崎小ソフトボール少年団の卒業生です。小学校時代には全国大会で優勝するなど、たいへんな強運の持主です。少年団の先輩には、福留孝介選手もいますよ」ぜひ、その持ち合わせた強運と反骨心を武器にして、プロの世界で活躍してほしいものだ。本人の言葉が頼もしい。「プロでも、いい投手と対戦してみたいという気持ちになっています。出てきたら“絶対、打ってやる”という気持ちを持って臨みます」1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2008.01.14
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全国大学ラグビー選手権。早慶戦となった決勝は早稲田が26-6で破り、2年ぶり14回目の優勝を決めた。その決勝戦を観戦した感想として、早大ラグビー部のOB・今泉清氏は、大西鉄之祐氏が掲げた「接近・展開・連続」ができておらず、大学日本一になったとはいえ、「接近・接近・・・(たまに)展開で、連続はなかった」と、日本選手権に向けけての苦言を呈していた。(日刊スポーツ)ボクも同感だった。昨年暮れ、2回戦の対法政戦を秩父宮で観戦した。早稲田大の戦いかたは、相手ゴール手前のラインアウトから、FWがモールでゴリゴリ押し込む戦術で、あまりにワンパターンに見えた。--------------------------------------------------大西鉄之祐氏は、以前こんなことをおっしゃっていた。接近・展開・連続」はリスクが大きすぎると、日本には躊躇する指導者が多い。たしかに国内での戦いならば、FW8人だけで戦うことのほうが勝利する確率が高い。でも海外の(自分より実力が上の)チームと戦うときは、FWが相手に負けないだけのパワーはもちろん必要なのだが、それにも増して「キックをあまり使わず、なるべくパスを回していく展開のオープンプレーこそが勝つための必須条件だ」※『ラグビー 荒ぶる魂』(大西鉄之祐著、岩波新書)より引用。事実、大西氏が率いた全日本は1973年、その戦術を用いてオールブラックス・ジュニアに勝利する偉業を成し遂げた。ちなみに、その試合で大活躍したWTBは現・大阪体育大の坂田好弘監督だった。----------------------------------------------------まっ、大会前からダントツで優勝候補だった早稲田大が優勝し、まだまだこの充実した戦力は今後も続きそうだ。一方の慶應義塾大も今年は創立150年を迎え、春には花園経験者が10数人もラグビー部に入部するという。しばらく、早慶以外の大学に出る幕はなさそうだ・・・1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2008.01.13
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日本ハムとヤクルト、3対3の大型トレードが今日、発表になった。≪日本ハム→ヤクルト≫橋本義隆投手(岡山学芸館高-中央大-ホンダ)押本健彦投手(中央学院高-日産)川島慶三外野手(佐世保実高-九州国際大)≪ヤクルト→日本ハム≫藤井秀悟投手(今治西高-早稲田大)坂元弥太郎投手(浦和学院高)三木肇内野手(上宮高)--------------------------------------------交換する人数は同じでも、日本ハムにとって有利なトレードに見えるのだけど・・・。日刊ゲンダイの記事を中心に、このトレードの経緯を振り返る。そもそもは左腕投手が欲しかった日本ハム、ヤクルトの藤井に熱烈ラブコールを送った。見返りとして日本ハムが用意したのが外野手の川島だった。今季から広くなる神宮球場の外野守備に備えての提案である。ただ、今回のトレードの軸となったヤクルト・高田繁監督(前・日本ハムGM)は、藤井と川島の1対1のトレードには不満顔だった。「藤井を出して川島ひとりか? 藤井クラスを出すのなら、八木智哉を要求してもいいくらいだろ」そして、ならばと他に誰を付けるか協議を進める内に大型トレードに発展したということらしい。------------------------------------------------だが、ヤクルトにとって不利に見えるこのトレード。もうひとつ別の事情が絡んでいるんじゃなかろうかと、ボクは勝手に推測してみたそのカギは、ヤクルトの財政事情にあるように思う。今季以降のヤクルト、大幅な収入減が見込まれるという。すでにユニデンをはじめとした多くのスポンサーとの契約は昨年で終了。株主のフジテレビも、今後ヤクルト球団の経営から手を引く可能性があるという。だからヤクルトは、ケチを徹底した緊縮財政を敷いている。ゆえに選手の年俸だって、多少の戦力ダウンで済むのであれば、それを補うだけのコスト削減効果が期待できるのなら、そのトレードはOKと判断するのかもしれない。------------------------------------------------ちなみに、このトレードに登場する6人の年俸(2008年度)を比較してみた。≪日本ハム→ヤクルト≫橋本義隆投手 1600万円 押本健彦投手 2700万円川島慶三外野手 960万円------------------------------合計 5260万円 ≪ヤクルト→日本ハム≫藤井秀悟投手 7500万円坂元弥太郎投手 1450万円三木肇内野手 1350万円------------------------------合計 10300万円 計算上、ヤクルトはコスト50%の削減をしたことになる。あとは多少損に見えても、橋本らの活躍が大きくなれば、ヤクルトにとって言うことなしなのだ。1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2008.01.11
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「ニックネームは『ハマの田舎(者)』と読んでほしい!」横浜ベイスターズに高校生ドラフト1巡目で入団した田中健二朗(常葉菊川学園高)は、入団記者会見でそう言い放った。田舎者・・・と自ら名乗ったのは、それなりの理由がある。出身地は、愛知・新城市鳳来地区(旧・南設楽郡鳳来町)で、冗談ではなくイノシシやタヌキが本当に出てくるほどの奥深い山の中。自宅は21軒しかない集落から、さらにひと山越えたハズレにある2軒のうちの1軒。最寄りの中学校は15kmも離れていた。赤字で路線バスが廃止となり、険しい山道の通学路を歩くのは不可能であるため寮生活を余儀なくされた。どえりゃぁ~、田舎だ。もともと農家だった実家は、現在廃業している。お父さんはトラック運転手を経て、現在はクレーンのオペレーターとして家計を支えている。「えっ、息子(健二朗)の契約金? 本人は貯金すると言っていたけど、少しは小遣いがほしいね。ワッハッハッ」 (参考:日刊ゲンダイ)----------------------------------------------------元中日の選手だった常葉菊川高・佐野心部長の直伝による『ど真ん中投法』を取り入れたことで投手として成長。昨年のセンバツでは優勝、夏は野村祐輔を擁する広陵高に敗れたものの、ベスト4にチームを牽引した。ボクが田中のことを最も記憶しているのは、センバツでの大阪桐蔭高・中田翔(現・日本ハム)との対決。真っ向勝負とばかりに、田中はグイグイと直球を投げ込み完勝したこと。---------------------------------------------------- さて同じ横浜、高校生ドラフトの3巡目で指名したのは、帝京高の投手だった大田阿斗里。昨夏は多いに悔いが残ったが本格派右腕として、ぜひプロの世界で花を咲かせてほしい。ちなみに大田のニックネームは「ハマのゴーヤ」。これは大田が沖縄出身ということが由来らしい。1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2008.01.09
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複数年契約を希望して契約更改に臨んだホークス・大村直之(兵庫・育英高-近鉄)。だが、その希望は叶わず、球団フロントに単年契約を提示されたことに腹を立てたのか、今シーズン終了後にはメジャーへのFA移籍をほのめかした。今季の大村は自己最高打率・319をマークし、ベストナインも獲得している。そして何より2000本安打まであと331本という、気がつけば大記録達成まで間近かの大選手になっていた。-------------------------------------------------大村直之。近鉄ファンだったボクにとって、常に気になる選手のひとり。でも、それはいい意味でも悪い意味でもという注釈が必要なのだけど・・・。※その理由はこちらをどうぞ。先日、大村のことをこのブログに書いたところ育英高・野球部時代の下級生Aさんと同級生Bさんの2人からコメントをいただく幸運を得た。-----------------------------------------------まず下級生Aさんの証言。「大村さんがいた頃の育英高は全盛期で、グラウンドはとてつもない緊張感が漂う、まさに戦場のようでした。大村さんの一学年上には、後に近鉄に入団する衣川幸夫さん。そして大村さんのふたつ下には、後に阪神に入団する藤本敦士がいましたから」「その中にあって大村さんは独特の威圧感があって、一匹狼的な印象が非常に強かったです。みんなには見せなかったけれど、相当に個人練習をしていたみたいです。甲子園では、監督からのバントのサインをわざとファウルして、次の球をしっかりヒットにしたという伝説を後輩たちに残しました」そして同級生Bさんの証言。「いや、あいつ(大村)はあまり練習していなかった。もともとピッチャーで入部してきたので、ピッチャーへのこだわりは強かったみたい。外野手なのに、よくブルペンで投げていたもの。プロでは肩が強い印象がないけれど、たぶん平気で120メートルは投げますよ、あいつは!」----------------------------------------------------なんだか、こういうコメントをいただくと、ますます選手が身近に感じられるから不思議だ1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2008.01.07
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日本ハムに入団した中田翔(大阪桐蔭高)が始動した。ただ、梨田昌孝・新監督から厳命された「新年には、3年前の体重79kgに戻すこと」は、完全に無視して100kgのままでの練習スタートとなった。本人の弁明が面白い。「体重を落とすとスイングの速さとパワーが落ちて、プロでは通用しないと思うんです。デブで動けたら最強だと思います」日刊スポーツによると、中田がプロで対戦したい投手は、ヤクルトに入団した佐藤由規(仙台育英高)。そして、オリックス・清原和博(PL学園高)を目標にしており、同じ高卒の長距離砲として、ルーキーの年にどんなことを考えていたか、ぜひ聞いてみたいと話していた。中田から指名を受けた佐藤も、中田との勝負を望んでおりすでに定説となっている「中田の苦手な内角に得意の速球を投げて勝負したい」と語っている。---------------------------------------------------そして、目標とされている清原。まだ直接の会話はしていないようなので、どんなことを教えるのかはわからない。ただ、清原が西武に入団した時に打撃コーチを務めていた土井正博氏(大鉄高-近鉄)が、その当時のことを、日刊ゲンダイ誌上で述壊していたことがある。あまりボクの記憶は定かでないが、かすかに憶えていることを書いてみたい。ルーキーの年に4番の大役を任された清原に悩みは尽きなかった。相思相愛だったはずの読売にドラフトで裏切られ、人間(オトナ)不信に陥っていた精神状態。そして、プロの投手が投げる速球にまるでタイミングが合わない打撃技術。「速球が打てない。4番を外してほしい・・・」と土井コーチにこぼす清原に、「とにかくセンター返しを心掛けて打て」と指導をしたらしい。土井さん自身も、過去に同じ体験を持つだけに、清原の心情に共感しつつも、敢えて技術面だけのことを言い続けた。------------------------------------------------------土井正博氏。あえて説明するまでもなく、通算本塁打465本の記録をもつ大打者。マンガ「あぶさん」の主人公・景浦は「土井さんは俺のフォームの師匠だ」と語っているほど。そして、彼自身も清原と同じように、高校を2年で中退して近鉄バファローズに入団し、18歳にして4番という大役を担った。だが、やはり土井さんも並みいる大投手の速球の前に多くの辛酸をなめる経験をしていた。だから清原の悩みは、過去に経験した自分自身のことでもあり、悩みをまともに聞くと、清原を相手に厳しいことが言えなくなりそうで、あえて技術論だけに徹したのだと吐露していた。wikipediaによると、土井さんは清原に関して、後日こんなことも語っていたらしい。自分がコーチを解任された後(89年)に、清原の技術が停滞したことについて、「清原に1軍で勝つための技術だけしか身に付けさせられなかった」この言葉の真意はよくわからないが、師匠としての今の清原への苦言にも聞こえる。------------------------------------------------------------中田クン。清原に話を聞くよりも、土井さんの言葉を繋ぎ合せると、プロの打者として大きく成長できるのだよ、きっと!1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2008.01.06
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サッカーをナマ観戦したのは10数年ぶりのことだ。高校サッカー準々決勝、遠野高(岩手)-高川学園高(山口)。岩手はボクの故郷、しかも昨年は岩手代表の盛岡商高が全国制覇をしている。ラグビーでは盛岡工高がすでに敗退したため、あまり興味のないサッカーではあるけれど、遠野高選手たちを応援するため、勇んでさいたま駒場スタジアムに出かけた。-------------------------------------------------試合開始から防戦一方の遠野。たまにカウンターで敵陣に攻め入るものの、中盤から相手ゴールまでが遠い。高川学園のディフェンスが常に5~6人いるのに、遠野の選手は3人ほどが敵陣にいるだけでは、なかなかパスがつながらない。結局、偶然に頼るように中盤から長いパスを蹴り上げるしか術がない。遠野、何度も何度もピンチを凌いだものの2点を失い、0-2で敗戦。国立競技場には、もう一歩のところで届かなかった高川学園、強豪と聞いていたが、ボクにはその校名はまるで記憶にない。旧校名が多々良学園と聞いて、初めて合点がいった。確かにパスの精度の高さなど、残念ながら遠野より上手だったように思う。----------------------------------------------------遠野高のある遠野市といえば民話『遠野物語』と、そこに登場する河童が有名。先日、日刊ゲンダイにコラムを連載している作家・五木寛之氏が民族学者・柳田國男氏の著書『遠野物語』について書いていたことを思い出した。そもそも遠野地方に語り継がれていた民間伝承を、柳田國男氏が筆録したのが『遠野物語』。だが、柳田氏があまりに優れた文章でもって昇華させた完成度の高い作品であるため、それまで語り継がれきた自由度や雑多性がなくなり、逆に住民たちの手から離れてしまう矛盾を残してしまったと書いていて、ボクにはとても興味深かった。------------------------------------------------------試合終了後、高川学園高・白井三津雄監督の表情を見た。白髪だらけの頭髪と、クチのまわりに伸び放題の白い無精髭。それはまさに『遠野物語』のような民話に登場しそうな人物の容姿で、白井さんが遠野高の監督だったなら、マスコミ向けに格好の話題が提供できたのに・・・なんて思ったりして・・・※写真は、遠野高が敗退して肩を落として帰途につく河童クン。1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2008.01.05
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高校サッカーでは、三鷹高が「都立旋風」を巻き起こしている。都内有数の進学校らしいが、今日は準決勝進出をかけて強豪・藤枝東高と戦うまでに勝ち進んだ。スポニチによると、次第に周囲の三鷹高への反響が大きくなり、3校の強豪私大から「ウチに選手をください」とオファーも届いている。これまでは大学に進学してもサッカーを続けるのは、学年あたり2人程度だったのに、今年の三年生は一気に増える見込みだ。------------------------------------------------また日刊ゲンダイでは、三鷹高に限らず、昨今の都立(公立)校の躍進の理由として、Jリーグ・ユースチームの存在が挙げられると紹介していた。高校を卒業してすぐにJリーグ(プロ)入りを目指す、レベルの高い選手はあえて高校のサッカー部には所属せずに、ユースでサッカーを続ける。そのことで一線級の選手が集まらなくなった私立強豪校の地盤低下を招き、高校サッカー部全体のレベルは、過去と比較して相対的に下がっていると。三鷹高の場合、もともとサッカー熱が高く男子生徒の多くがサッカー部員という特殊性と、近郊に少年サッカーに熱心な調布市あることなどが強くなった理由にあるようだ。したがって、そこそこに勉強ができて、そこそこにサッカーがうまい選手が三鷹高に集まっている。----------------------------------------------------さて今日の準々決勝の三鷹高-藤枝東高。もし三鷹高が勝てば、ますます「都立旋風」が吹き荒れる。でもそのニュース価値は、単に都立高という理由だけだから若干違和感をボクは感じる。それは高校野球でいえば、かつての国立(くにたち)高、城東高や雪谷高もそうであったように。同じ準々決勝、ボクの故郷から出場した遠野高も参戦する。遠野高だって公立高なのだが、都立校ほどのニュース価値はないようだ。さほど話題にはなっていない。いったい都立とどこが違うのだ? それがボクにとって不満なことではある1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2008.01.05
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日本ハムがダルビッシュ有投手の「宿敵」を指名へ。今秋のドラフトでの上位指名候補に、早大・松本啓二朗外野手(3年、千葉経大付高)を検討している。ダルビッシュにとっては、東北高3年時の04年夏の甲子園3回戦でエース同士として投げ合い、延長10回の熱戦の末に敗れた因縁の相手。プロでは同じユニホームを着て、競演する可能性が出てきた。(日刊スポーツ)松本啓二朗、上本博紀(3年、広陵高)とともに、たしか1年生の頃からスタメンで出場している。しかも、ずっと3番打者だったと思う。走攻守どれもが高い野球センスの持ち主。右翼を守っている時の存在感は、東京六大学では慶應義塾大の高橋由伸(現・読売、桐蔭学園高)をボクは思い出す。⇒ 松本啓二朗の「小中高・大学時代」の記事を新しくまとめました。(2009年3月1日) こちらをクリックしてください。 松本啓二朗とダルビッシュ有。上記にもあるとおり、2004年夏の甲子園で対戦し、ダルビッシュを擁する東北高の悲願「白河越え」の夢を打ち砕いたのは、千葉経大付高のエース・松本だった。2004.8.17(3回戦:延長10回)千葉経000 000 001 2 =3 東 北000 000 100 0 =1 (千)松本、井上、松本-加藤、坪井(東)ダルビッシュ、真壁-森【三塁打】松本(千)【二塁打】槙(東)、滝沢(千)ついでに。松本のいた千葉経大付高はその後も勝ち進んだが、準決勝で済美高に敗退した。当時、済美高のエースは福井優也で現在、早稲田大のチームメイト。また、松本啓二朗の高校時代のチームメイト、遊撃手だった井原努は現在、東京新大学リーグに所属する流通経済大に進学している。1年生の頃の華々しさは次第に消えて、試合に欠場することも多くなっていたのが、少し気になってはいるが。1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2008.01.03
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