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昨夜、このブログを書きながらケーブルTVで「スカイA」を見ていた。元阪神の湯舟敏郎氏(大阪・興国高-奈良産業大-本田技研鈴鹿)が司会を務め、阪神の新人選手らを招いてトークをする番組だった。そして、湯舟氏とともにソファに深く腰掛ける、ホスト役の「頭の禿げ上がった」オジサンが、ゲストの選手にモノを申していた。わりとハッキリとした物言いをする人物。いったい誰だ、このオジサンは?しばらく考えていた。すると「ね、キドさん」と、湯舟がそのオジサンに語りかけた。キド・・・木戸・・・木戸克彦??? えっ~? 学生時代、神宮で大学野球をよく見た。その学生の頃の、木戸と法政大野球部のことを思い出した。当時は、ちょうど法政が全盛の頃。たしか打順はこんな感じだった。1番 銚子利夫 (市立銚子高。卒業後、横浜)3番 西田真二 (PL学園高。卒業後、広島)4番 小早川毅彦 (PL学園高。卒業後、広島)5番 木戸克彦 (PL学園高。卒業後、阪神)このオーダーはとてつもなく強力であり、とりわけ木戸はシュアな打撃と、並み居る投手陣をリードする女房役としても活躍。なんとベストナインを5度も獲得していた。 おもな投手陣。田中富生(愛媛・南宇和高。卒業後、日本ハム)川端順 (徳島・鳴門高。卒業後、東芝-広島)池田親興(宮崎・高鍋高。卒業後、日産自動車-阪神)卒業後にプロへ進んだ投手は多いが、当時の実質的なエースは和田護(日大藤沢高)という、童顔で小柄な投手だった。たしか背番号は「17」を着けていた。和田と木戸のバッテリーが当時お決まりで、テレビで木戸の顔を見て、和田のことを思い出してしまった。和田のこと、さっそく調べてみた。和田護。大学時代、通算30勝をマークするなど4回のリーグ優勝に貢献。ベストナインにも2度輝いている。卒業後は日産自動車に進み、都市対抗や日本選手権に幾度も出場していたらしい。31歳の時に現役を引退、翌年の99年から04年まで法政大野球部の助監督。04年からは日本文理大付高・野球部の監督に就任している。和田投手の消息、20数年ぶりに知った。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.01.30
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やはり田淵幸一氏(法政一高-法政大-阪神-西武)、山本浩二氏(広島商高-法政大-広島)の東京六大学時代からの盟友を中心とした組閣となった星野ジャパン。星野ジャパン、田淵、山本、大野氏がコーチに就任(SPORTS NAVI.COM)記者会見では、大野豊氏を交え「ぜひ金メダルを!」と意気込んでみせた。ふ~ん!?ボクの率直な感想はこれ。とにもかくにも野球、五輪の種目としては北京が最後になる。今後、野球というスポーツが世界の頂点を目指すとき、舞台は間違いなくWBC。世界的にも、五輪で「金」を獲ることがどれだけのインパクトを及ぼすのだろう。ホークスの松中信彦は、星野ジャパンに注文をつけた。それは「アマチュアへの門戸開放」。「勝ち負けよりも、アマの選手にもぜひ国際大会の経験をさせてほしい。実際に出場してみないとわからない貴重な体験ができ、今後プロやWBCに進むときの肥やしになる」。記憶が定かでないため、多少ニュアンスは違うかもしれないけどだいたいこのような趣旨のことを話していた。ボクも賛成。五輪をアマチュア選手を中心とした鍛錬の場にすればいい。最後の五輪は「金」より大切なことがある、のだ。------------------------------ホントは松中の言葉に忠実に書きたかった。でも、その発言を紹介した記事が、各サイトからすべて削除されていることに、さっき気づいた。松中サイドの意向なのか、五輪関係者の意向なのかはわからない。ま、これはこれで事件としては面白いが。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.01.29
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ボールを放った瞬間、イヤな音がした。思い出したくないけど、今でもそのイヤな音をはっきり憶えている---。森慎二。希望に満ちて挑んだメジャー。昨年3月20日、デビルレイズのユニフォームに袖を通して臨んだオープン戦。ゲームが始まったばかりの3球目に森慎二、自分の肩にそのイヤな音を聞いた。右肩の脱臼、全治1年の重症だった。懸命にリハビリを続けていることを、以前ボクは聞いたことがある。でも、この1月19日にどうやらデビルレイズから解雇されたらしい。先ほど偶然に見たテレビ番組。再度メジャーに挑むため、リハビリに取り組む森慎二の姿を追っていた。-----------------------------西武時代の森慎二。近鉄ファンだったボクからすれば、当初嫌いな投手だった。00年ごろだろうか、クローザーとしてフォークを武器にガンガンに相手チームから三振を奪取していた。いつの間にか豊田清にクローザーを譲り、セットアッパーに転向後、次第に存在感が薄くなったように見えた。岩国工高-新日鉄光-新日鉄君津-西武(96年ドラフト2位)身長189cm、体重88kg、右投右打。<これまでのプロ通算成績(日本)>431試合、44勝44敗50S、防御率3.39高校時代、甲子園出場経験はない。高校3年の時は地方大会2回戦で敗退した。-----------------------------森慎二の練習相手をつとめていたのは、親友の黒田哲史(兵庫・村野工高-西武)。昨オフ、読売から戦力外通告を受け、無償で古巣の西武のトレードされた。タレント新山千春さんの亭主としても知られている。番組では「敗れたもの同士で、気持ちがわかることもある。ぜひリベンジして欲しい」。そう締めくくっていた。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.01.28
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大学4年生のとき、野球しかできない自分がイヤだと思い、母親に電話で相談した。「普通の社会人になりたい」と。母親は反対こそしなかったが、やんわりこう言った。「お父さんが悲しむよ」。朝日新聞の連載記事に「おやじのせなか(親父の背中)」というコーナーがある。今日はヤクルトスワローズの藤井秀悟が書いている。そもそも少年時代、お兄さんと一緒にリトルリーグに入団したのには理由がある。当時、野球大好きだったお父さんが大病を患い、「お父さんの命はもう長くない」と直感した秀悟少年。お父さんの笑顔が見たくて野球を始めた。そのお父さん、幸いにも今でも元気。以前、藤井は自身のブログに「風邪をひいた」と書いたことがあった。すかさず「気をつけてください」と書き込みが。その時は気づかなかったが、そう書き込んだのは、実はお父さんだったと後から知った。息子想いのお父さん。そして、お父さん想いの藤井。お父さんを楽にしてあげるため、家をプレゼントしたいと思っている。そのためにも一億円プレーヤーを目指す。いい話だなぁ-----------------------------------------------------藤井秀悟。今治西高-早稲田大-ヤクルト(99年、ドラフト2位)。身長175cm、体重86kg、左投左打。<これまでのプロ通算成績>157試合、46勝43敗、防御率3.71高校時代、一度だけ甲子園に出場しベスト4入りを果たしている。藤井は攻守の中心、エースで4番であり、かつ主将もつとめていた。この大会に出場した有名選手。PL学園高には福留孝介(中日)、前田忠節(現・阪神)、そして事件を引き起こした前川勝彦がいた。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.01.28
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ヤマハが結局勝てなかったマイクロソフトカップ、第1回戦。場所は花園。ひと言でいうと、そんなゲームだったように思う。スコアは40-39でサントリーの勝利。決勝に進出し東芝と戦うことになった。「最後の10分とそれまでの時間が、同じチームなのにまるで別な顔を見せていた。そんな課題の残る試合。でも何より勝つことが大事だったので、勝ててよかった」。サントリーの清宮克幸監督、満面の笑顔でそうインタビューに応えた。後半30分ごろまでは完全にサントリーのペース。最近明るくなった栗原徹(慶應義塾大)、相変わらず魅力的な走りを見せる小野澤宏時(中央大)らの両WTBのトライで40-20までスコアが開いた。しかし、残り10分。劣勢のヤマハは怒涛の反撃を見せる。後半29分、32分、34分。続けざまに3トライを奪い、サントリーに1点差まで迫る。サントリーのタックルが甘くなった時間を、うまく味方につけた格好だ。その後もゲームの流れはヤマハにあった。が、もう一歩のところで加点することはできなかった。もっとサントリー陣のスペースで戦うことを意識していたら結果が違ったものになっていたかもしれない。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.01.28
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3月から始まる、春のセンバツ出場校32校が決まった。毎度ながら「勝ち抜いた学校が出場!」という単純な仕組みではないので、わかりにくいことこの上ない。一番のサプライズは、近畿大会1回戦で敗退した県和歌山商高が出場権を得て、ベスト8入りした智弁和歌山高が脱落したこと。和歌山商、本来は「21世紀枠」だった。地域性や戦力を評価し、こういう結果になったようだ。出場高の中で、興味を持てたのは静岡・常葉菊川高(3年ぶり2回目)。それは、元プロ野球選手・佐野心教諭の存在を知ったため。プロ引退後に大学に再入学。教員免許を取得して同校に赴任し、この4月にはアマチュア資格認定を受け、晴れて高校野球の指導者(副部長兼コーチ)になる予定。佐野心(さの・こころ)。浜松商高-専修大-いすゞ自動車-中日。高校では一度、甲子園に出場している。中日への在籍期間は4年。通算出場数27試合、11打数1安打。プロ野球選手引退後に、高校野球の指導者を目指す選手たちが増えてきた。元ホークスの大越基氏(仙台育英高-早稲田大中退)も、現在は山口県で挑戦中だ。プロ引退後の人生にこんな選択肢が定着するのはいいことだ。当たり前のことが、当たり前じゃなかったこれまでのことが不思議だった。もうひとつ。常葉菊川高OBとして、元読売の門奈哲寛が紹介されていた。門奈...? 日大出身の?調べてみた。やはりそうだ。97年ドラフト2位で読売に入団。メジャーに挑戦するとかしないとかを揉めて、結局99年に引退してしまった、あの門奈だ。その後、どうなった?「00年はアメリカに渡り、メジャー入りを目指したが失敗。後に、イタリアリーグで現役を続行。そして05年より社会人野球チームのケイ・スポーツベースボールクラブというチームに選手登録をした」という噂がある。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.01.27
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慶應義塾大野球部の方から連絡をいただき「慶大野球部ブログ」とこの「あま野球日記」の相互リンクをはることにしました。ボク自身、慶應大とは何の関係もないのだけど、この依頼があったことは嬉しいですね。ぜひ、今後は慶應に限らず、他大学野球部との連携も計りたいと思います。何かあったら連絡ください。選手たちの、実直そうなナマの声が綴られた「慶大野球部ブログ」はこちら。今後はトップページに記載して、常時紹介をしていきます。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.01.25
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「みんなが潤う」。元近鉄・オリックス監督の仰木彬氏(福岡・東筑高-西鉄)の選手掌握術のコンセプトは、この言葉に集約されるようだ。日刊ゲンダイでは元近鉄・阿波野秀幸氏のコラムが連載されている。今日付けが連載11回目で、近鉄時代の思い出が綴られている。その中で、仰木彬監督は冒頭の「みんなが潤う」ことを信念としたチーム作りを心がけていたという。「相性」のデータを大切にして、昨日4番だった選手が今日はベンチなどは日常茶飯事。「仰木マジック」と呼ばれるほど、打線がめまぐるしく変わった。そんな起用に不満をもった選手は数多く、仰木さんへの不満は、一時チーム内にくすぶっていることが多かった。でも、選手の年俸は成績(数字)により決定するもので、相性の悪い先発投手に相性の悪い打者をぶつけるよりも、相性の良い打者を出す。途中で投手が変われば、昨日4番を打った打者を代打で出場させる。そのほうが打者は成績を残すことができ、ひいては高い給与がもらえる。この狙いを理解した選手たちは、次第に仰木さんへの不満を消していった。打者に限らず、投手陣にも同様のことが言えた。投手のケースでは、吉井理人との確執が有名。伝説の「10.19」の時、シーズンを通してクローザーだった吉井が、抑え役として阿波野に代えられプライドを傷つけられたことに端を発したといわれている。しかし、その後メジャー帰りの吉井を仰木さんはオリックスに迎え入れ、確執は解消されたという。信念を貫くがために起きる選手との確執。その上で、選手たちに自らの信念を浸透させてチームを強化する術。「名将」と呼ばれる由縁である。そういえば、投手コーチだった権藤博氏(佐賀・鳥栖高-ブリジストン-中日)との確執も有名。監督としてチームの勝利にこだわり、投手を疲弊させる起用をせざるを得ないこともあった仰木さんと、現役時代に自ら酷使された経験があり、投手の消耗を避けたい権藤さん。「10.19」の時も、ベンチでは、二人が目を合わすことはあまりなかった。それ以後、仰木さんが亡くなるまでに、この二人の確執は解消されたのだろうか。ちょいと気がかりではある。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.01.24
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一週間ぶりの再開です。しばらくお休みする予定でしたが、ブログを書けるときは「断続的」に書くことで再開したいと思います。やはり、このブログを書くことが生活のリズムになっています。もうそろそろ丸二年にもなるし。また少しずつやっていきますので、再びよろしくお願いします。----------------------------最近「組織活性化」やら「マネジメント」に関する、いわゆるビジネス書を読んでいる。実に久しぶりのことで、10数年ぶり。そんな時、頭に浮かんだのは元近鉄監督の西本幸雄氏のこと。西本幸雄。和歌山中-立教大-八幡製鉄-別府星野組-毎日-阪急-近鉄。若いヒトには馴染みの薄い名前かも知れないけれど、パ・リーグのお荷物と、その昔呼ばれていた阪急や近鉄をリーグ制覇できるまでに育てた「鉄拳」の監督。TV「プロ野球ニュース」に出演していた白髪オジサンといえばわかりやすいかもしれない。この西本さん。阪急の監督時代に、低迷を続けるチームを立て直すため(いや、嫌気がさし?)選手を集めて、「監督を自分(西本氏)が続けていいと思えば○、ダメだと思えば×を紙に書いて投票しろ」と指示をした。そして「もし×が一票でもあれば、オレは監督を降りる」と付け加えた。有名な「監督信任投票事件」である。そして、その結果は...○が32票、×は11票、そして白紙は4票。結果を尊重し、西本さんは前言のとおり、監督を辞した(その後、結果としてフロントの積極的な慰留により、辞意を撤回することになるが)。西本さん、なんとわかりやすい「マネジメント手法」だろうか。いや、マネジメントなどという米国流のソフトな言葉は似合わない。選手に「魂と魂のぶつかりあい」を求めているかのよう。「×が一票でもあれば辞める」なんてセリフは、あまりに潔い。というか潔すぎる。当時選手だった米田哲也氏。「本当に辞めると思っていなかったし、とにかく厳格な監督さんだから、二日酔いの選手は試合に出してくれなかった」と、後日語っていたようだ。管理野球全盛の昨今、二日酔いで試合に出るほうがどうかしていると思うけど、昭和41年当時は、そんな選手は当たり前にいたようだ。とまれ西本さん、究極の管掌術で偉大な実績を作った。たんにビジネス書の類のマニュアルを読むのではなく、その精神も少しは学びたいものだ。※詳しくは、こちら。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.01.23
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皆様いつもご訪問いただき、ありがとうございます。仕事上のやんごとなき事情により、しばらくブログを更新しないことにしました。球春の頃には、再度復活したいと思いますので、その際はよろしくお願いします。尚、ヘンな書き込みがあると困るのでTBは閉じておきます。取り急ぎ、皆様に御礼とご報告まで。
2007.01.18
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斎藤 早大1年春の開幕投手ある!(スポーツニッポン)「まだ、どこにベストの状態を持っていけばいいのか分からないだろうから話し合った。ベストに持っていくのは4月の第2週。そこから逆算してブルペン、フリー打撃、実戦で投げていく」早稲田大の應武篤良監督は、練習に参加した斎藤佑樹(早稲田実)を指してそう語った。ホントかぁ~?そう思った。いくらなんでも、そりゃないだろうと。たしかに日本ハムに入団する宮本賢(関西高)や、トヨタに入社する大谷智久(報徳学園高)が抜けてしまったが、ほかに投手がいないわけじゃあるまいし。日本テレビでは、この春から東京6大学リーグをテレビ中継する。それにあわせてのリップサービスだと思いたい。まかり間違ってもテレビに合わせた「開幕投手」じゃないはず。斎藤は大切に育てなくっちゃ。彼がいなくとも十分に早稲田は強いよ、きっと。焦る必要はどこにもないでしょ。さて、ライバルの楽天に入団した田中将大(駒大苫小牧高)。同じ日、ブルペンでの投球練習を開始した。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.01.15
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大村 火付け役宣言 100得点へ闘志メラメラ(西日本スポーツ)大村直之、近鉄時代に武藤孝司とセットで売り出しに成功。99年、背番号を「60」から「7」に変更し今日の活躍のキッカケを作った。04年オフ、ホークスにFA移籍。チームの核弾頭として、来季も大村への期待は高い(ようだ)。普通に書けばこのようになる。でも、ボクの個人的印象はちょいと異なる。近鉄時代、とにかくポップフライが多かった。チャンスで登場しても、あっさり内野フライを打ち上げチャンスを潰すことが度々だった。トップバッターなのに、なぜ大振りばかりをするのか理解できなかった。そして、いざ出塁しても走らない。そんな大村がホークスにFA移籍し、近鉄時代と打って変わっての大活躍。たまにテレビで見ると、いいところで打つ好打者に変身していた。その違いを打撃成績から比較しようと思ったが、打率や安打数はあまり変わらない。これは意外だった。しいて言うならば、長打がわずかに減っているくらい。逆に言えば、近鉄時代も今と同じくらいの活躍はしていた、といえるのかもしれない。03年<近鉄時代>試合数136、打数550、得点94、安打165、二塁打34、三塁打7、本塁打16、打点61、盗塁27、打率.30006年<ソフトバンク>試合数136、打数562、得点74、安打165、二塁打19、三塁打3、本塁打6、打点60、盗塁22、打率.294 大村直之。兵庫・育英高。高校時代、92年春と93年夏の2回にわたり甲子園に出場している。とくに93年夏は、3番打者・中堅手としてチームを甲子園優勝に導いている。1回戦は小野仁(元・近鉄)を擁する秋田経法大付高に14-4で大勝。準々決勝では高橋尚成(読売)の修徳高に8-1、決勝では春日部共栄高を3-2で破った。共栄のエースは土肥義弘(現・横浜)だった。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.01.14
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ポスト松坂に名乗り 涌井、母校で自主トレ横浜高校の先輩でもある松坂大輔からは「完投できる投手になれ!」と言われた。涌井の課題は「スタミナ強化」。高校時代から、食事の好き嫌いが激しいと聞いていていた。肉がダメ、魚がダメ、野菜がダメ...。いや、このうちのどれかは好きなのかも知れないが、一番好きなのはスナック菓子だったと思う。そんな偏食の男が、いったいプロで通用すのか? と思っていた。が、それは取り越し苦労。これまでのところ、すこぶる好調である。涌井秀章。千葉・松戸シニア-横浜高。03年センバツと04年夏の計2回、甲子園に出場している。03年のセンバツ。エースは成瀬善久(現・ロッテ)、涌井(2年)は控え投手で背番号「10」をつけた。04年夏はエースとして甲子園に出場したが、準々決勝でこの大会に優勝した駒大苫小牧高に1-6で敗れた。04年秋、埼玉国体に出場した涌井を見た。同大会には東北高のダルビッシュ有(現・日本ハム)も出場していて、比較して見ると圧倒的にダルビッシュが格上に見えた。涌井は線が細く見えて、プロに行ってもどうなることか?と思っていたが、昨年は十分な活躍をした。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.01.13
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3季ぶりの優勝を決め、関東学院大の春口廣監督は言った。「長かった・・・今年はスターのいないチームだった。スターはいらない、雑草に花が咲きました。日本選手権では打倒サントリーで行きましょう!」史上2校目の3連覇を狙う「早稲田」を翻弄し、大勝した「関東学院」---。戦前に予想された勝敗のポイントは「FW戦」の成否だった。総合力に勝る早稲田を相手に、FW戦でも劣勢だと関東の勝ち目はない。だが早稲田のラインアウトは乱れまくった。FW戦は圧倒的に関東が優位を保ち、早稲田ばりにボールを積極的に動かしてトライを重ねた。関東、タックルも効果的に決まり、あらゆる面で早稲田を上回った。「スター軍団」早稲田に対し、関東には例年のようなスター選手はいない。そんな関東が逆に優勝を決めたのだから面白い。表彰式後、選手や部員たちに胴上げをされた春口さん。頭を選手に撫でられていた。さ、次はトップリーグチームとの戦いが待っている。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.01.13
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里崎“提示額漏えい”不信で保留(スポーツニッポン)「里崎は昨季、WBCで世界一の捕手となり、シーズンでも85年の袴田(現コーチ)以来21年ぶりの規定打席に到達」。記事の中にこんな文章があり、里崎智也(鳴門工高-帝京大)が契約を保留したことよりも袴田以来、捕手が固定されていなかったことに驚いた。袴田英利(静岡・自動車工高)といえば法政大時代に江川卓(作新学院高)とバッテリーを組んでいた、あの捕手だ。だいぶ昔の話になる。袴田以降、どんな捕手がいたんだっけ?調べてみた。青柳進、福澤洋一、猪久保吾一、定詰雅彦、清水将海、吉鶴憲治などなど。ボクはロッテファンではないが、ぼんやりと記憶している正捕手の、その時々の名前はこんな感じだ。間違っているかもしれないが。歴代の捕手名を見ていて、「池野昌之」という名前があった。池野昌之。静岡・富士宮北高。94年ドラフト7位。息子が幼稚園児の頃、イースタンのゲームを見に、ロッテ浦和球場によく行った。ゲーム開始前、キャッチボールをする捕手に、「イケノくーん」と声をかけるファンの女の子たちの声援をよく聞いた。そのたび初々しい笑みを浮かべる選手が池野だった。00年に現役引退をしたらしく、現在は背番号「101」をつけてブルペン捕手をしているようだ。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.01.13
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退団?なんでや!ノリ直談判へ(デイリースポーツ)中村紀洋は、「意味がわからない」と言った。 でもノリよ、見ているほうも意味がわからないぞ。 さて、こうした事態にオリックス本社はどうするんだ?ボクは、そちらのほうが心配になってきた 新年早々に前川勝彦という逮捕者を出し、契約を巡って中村紀洋とのスッタモンダ。この年を「大阪オリックス元年」と位置づけ、雑賀忠夫氏を球団新社長に送り込んだばかりだ。 雑賀氏は就任挨拶で「清原以外は知らない」と超辛口な発言もし、威勢のよい船出にも見えた。 ところが、ところがの、大どんでん返し。新社長就任を(逆の意味で)祝うかのように、大問題が次々に噴出。 本来は球団だけの問題のはずが、これだけ「ブラックイメージ」がついてしまうと、親会社だって黙っていられないはず。なんてったって企業イメージって大切だから。 この事態、宮内義彦CEOはどう見ているんだろう? 野球チームを宣伝媒体と見る御仁だけに、増加するブラックイメージにどこまで耐えられるか。そっちのほうが心配になってきた。 「あー、あのときに球団を手放しておいてよかった」と安堵する元近鉄首脳がいたら、それがボクにとっては一番悔しいこと。 そしてもっともっと悔しい...、いや悲しい思いをしているのは、自身の癌がわかってから、会社のため、チームのため、選手のために監督を引き受け、志半ばにして逝った仰木さんなんだろう。「仰木さんのため」と語っていたノリの発言って、いったい何?いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.01.11
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昨日、このブログの中で「高村」と書いて、久しぶりにその高村祐投手を思い出した。近鉄に入団した92年には新人賞に輝き、エースへの道を順調に駆け上がると思われたが、球のスピードはあるものの制球に難があり、一応エース的存在だった時期もあったが、当初期待されたほどの実績は残すことなく、分配ドラフトで04年オフ楽天に移籍した。一年後には楽天から戦力外通告を受け、練習生としてNOMOベースボールクラブに。現役復帰を目指すが、それも叶わず昨年10月、楽天二軍の投手育成コーチに就任した。高村祐。宇都宮南高-法政大-近鉄-楽天。<通算成績>83勝102敗9セーブ、防御率4.31。 高校時代、甲子園に一度出場し準優勝している。それは86年のセンバツ。決勝まで勝ち上がり、池田高に敗れたものの準優勝をしている。本人の後日談によると当初、甲子園で勝つなんてことは思いもしなかったらしい。一勝するごとに力をつけたチームのよう。一回戦で御坊商高、二回戦で高知高、準々決勝で広島工高、準決勝では新湊高に次々に勝利。準々決勝で対戦した広島工高には、背番号10をつけた高津臣吾(現ヤクルト)がいた。控え投手だったが、このゲームは2番・一塁手で出場している。この大会、後にプロで高村のチームメイトになる選手たちがいた。近鉄時代の盛田幸希(函館有斗高)、楽天時代の飯田哲也(拓大紅陵高)。その後、法政大を経て91年のドラフト1位で近鉄に入団。同じ年の4位入団は「お騒がせ中」の中村紀洋(大阪・渋谷高)だった。ボクは高村に対していろいろな思い出がある。でも一番は「グラブ放り投げ事件」。ちょいと短気に過ぎたようだ。そもそも近鉄という球団が存続していたら、高村は幹部候補生としてもっといい思いをしたのではないかと、ボクは思う。球団消滅でワリを喰った選手の一人かもしれない。でも人生、何が幸いするかわからない。駒大苫小牧高の田中将大も入団した。どんどんビッグな選手を育ててほしいものだ。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.01.10
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2001年9月26日、大阪ドーム。近鉄vsオリックス。北川博敏の逆転サヨナラ満塁本塁打でリーグ優勝を決めたゲーム。中村紀洋:オリックス退団決まる 移籍先を探すことに最近、何かとお騒がせな中村紀洋。でも、昔からそんな男ではなかったはずだ。(いや、選手間では早くから浮いていたという話もあるが)彼の輝いていた頃をもう一度見たくて、優勝を決めたそのゲームのビデオを、9回裏だけ再生してみた。スコアは2-5、オリックスが3点リード。オリックスの投手はルーキーの大久保勝信。6番・吉岡雄二が打席に入る。カウント0-1から2球目を叩き、左前にライナーの安打。ベンチ前列中央のどっかと腰を下ろしていた中村が「ヨッシャ!」のポーズ。7番・川口憲史。数少ない「ノリ信奉者」だったといわれる。NHK-BSのカメラは執拗にベンチの中村を追う。カウント1-0から2球目を打ち一塁線を抜ける二塁打。中村、立ち上がりガッツポーズ。そして、このシーズン途中に中日から移籍した益田大介が代打で登場し、四球で出塁。これで無死満塁になる。そして、そして。代打の切り札、北川博敏。場内アナウンスがそれを告げると、スタンドから「ウォーッ」と地鳴りのような歓声が沸き起こる。3点負けているのに、ドーム内には負けている雰囲気は微塵も感じられない。なぜなら、このシーズンを通じてそうであったように、土壇場の逆転劇は、近鉄の十八番になっていた。オリックスベンチでは、腕を組んだ仰木監督がじっとグランドを見つめる。さて北川、このシーズン阪神から近鉄に移籍し才能が開花した。カウント2-1から大久保が放った4球目。変化球だろうか、真ん中低めに入った球をきれいに弾き返し、打球は左中間のスタンドに吸い込まれていった。逆・転・サ・ヨ・ナ・ラ・満・塁・本・塁・打その瞬間、中村がジャンプしつつ、ベンチから勢いよく飛び出しガッツポーズ。選手たちが本塁付近に集まり、北川を祝福。そしてすこしマウンド方向に動き、梨田監督を胴上げ。次に古久保を。胴上げが終わっても選手たちの興奮は冷めやらない。それぞれが肩を叩きあい、そしてある者はバンザイを繰り返す。輪の中心には中村がいる。他にも小林繁コーチがいる、柴田が、大塚が、香田がいる。前田、高村、盛田、パウエルがじゃれあっている。そしてローズがいる、門倉もいる。あっ、今日の日記のタイトルは「ノリ、あの時キミは輝いていた!」のはずだった。でもビデオを見ているうち、そんなことはどうでもよくなった。あの頃の近鉄が、ただ懐かしくなったビデオの最後、髪の毛を金色に染めた2人の選手が抱き合った映像が映った。中村紀洋と前川勝彦だった。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.01.09
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福留「アホか!これで人生終わり」(デイリースポーツ)昨日に引き続き、前川勝彦のこと。今後、処分については明らかになるようだが、最悪球界追放だってありうるという報道もある。前川に苦言を呈した福留孝介(現・中日)は、PL学園高で前川の一年先輩。95年センバツで一緒に甲子園のグラウンドに立っている。福留は3年生、4番打者で遊撃手だった。前川は2年生で控え投手。--------------------------------一回戦は銚子商高との対戦。福留のバックスクリーンに飛び込む3ランなどで7-7の同点に。延長10回表、PLのエース・前田忠節(現・阪神)を6回途中から救援した前川が、銚子商の山本啓樹に2ランを浴びて初戦で姿を消した。最後は福留がマウンドに上がった。銚子 100 202 200 03 =10 PL 004 003 000 00 = 7 PL投手:前田忠節(3年)5回2/3、被安打8、奪三振0、与四死球1、失点5前川勝彦(2年)4回2/3、被安打6、奪三振7、与四死球2、失点5 福留孝介(3年) 2/3、被安打0、奪三振1、与四死球0、失点0---------------------------------近鉄ファンだったボクからすれば、近鉄の指名(95年)を蹴って日本生命→中日に入団した福留よりも素直に入団してくれた前川(96年)のほうがずっと好きだった。でも、こんな事件が起きると前川を擁護する言葉などない。いくつかのブログでも書かれていたけれど、復帰できるかどうかを考えると、どうしても中山裕章氏を思い出してしまう。91年末に引き起こした女児強制わいせつ事件。解雇後に勤務した運送会社の方たちの署名運動などが実って94年に中日に復帰し、マウンドに立った。復帰後の姿をテレビで何度か見たことがある。実況のアナも、マウンドに立つ中山をどういう投手か説明をあえて避けている風で、スタンドにも妙な固まった空気が漂っているように思えた。いったい自分はどこの誰なのかを隠すように、黙々と投球を続ける中山。誰からも無視され、透明人間のような存在になって、中継ぎとしてマウンドに立ち続けていた。そんな彼を見るにつけ、「彼は復帰したことを喜んでいるのだろうか?」とボクは思っていた。前川、復帰の道は用意されるのだろうか。そして復帰できたときにどんな姿をファンにみせるのだろう。いつもご協力をありがとうございます。さて今は何位でしょう?人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.01.08
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高校サッカー決勝、岩手・盛岡商高と岡山・作陽高の戦いは2-1で盛岡商が勝利し「みちのく」の地に優勝旗をもたらした。だいぶ以前に秋田の高校が優勝したことがあるらしいけど、野球より先に「白河の関越え」のようなものだ。テレビを見ていて思い出した。赤と白の縦縞。これが伝統の盛岡商のユニフォーム。先日の高校ラグビー(花園)では、盟友の盛岡工高が相手と戦う前に「ノロウイルス」に撃沈してしまうアクシデントに見舞われた。そのリベンジとして、そして何より斉藤監督への感謝の印として全国優勝の栄冠を得た。いつもご協力をありがとうございます。さて今は何位でしょう?人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.01.08
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巨人・工藤、プロテクト外れる=横浜へ移籍の可能性も-プロ野球 (ヤフースポーツ)で、結果として工藤公康投手と門倉健投手が、それぞれ所属チームを入れ替わる「公算が大」であるそうだ。これ、何が何だかわからない。そもそも、なぜか理由がわからないけれど読売がFAした門倉を獲りに行った。それが契機となって始まったこの話。すでに峠を越えた感のある門倉と、隔年労働者の工藤の入れ替えが「落とし所」なら、最終的にいったい「だれの」「何のための」メリットを賭けた騒動だったのだろう?今季、球団はさておき両選手には「移籍してよかった!」と思える活躍を祈らずにはいられない。---------------------------工藤公康(愛工大名電高-西武-ホークス-読売)81年夏の甲子園にエース、5番打者で出場している。ニ回戦の長崎西高戦では、夏の大会史上20回目のノーヒットノーランを達成した。投球回数9回、投球数102球、奪三振16、被安打0、与四死球1。以降、北陽高、志度商高を立て続けに破り準決勝に進出したが、この大会に優勝した報徳学園高に12安打を浴び、1-3で敗れた。報徳のエースは、「伝説の10.19」の肝心な時に故障し、ネット裏の記者席から声援を送っていた元近鉄の金村義明だった。81年のドラフト6位で西武に入団。1位は伊東勤(熊本工高-所沢高ー西武球団職員)2位は金森栄治(PL学園高-早稲田大-プリンスホテル)一方の門倉健(聖望学園高-東北福祉大-中日-近鉄-横浜)。聖望学園高は埼玉県下の強豪校のひとつ。だが、門倉は甲子園出場経験はない。91年夏季県大会の決勝にコマを進めたが、春日部共栄高に敗れた。門倉とバッテリーを組んだのは現ヤクルトの捕手・小野公誠。春日部の主将は、やはり現・ヤクルトの城石憲之だった。東北福祉大を経て、95年のドラフト2位で中日に入団。6位には元近鉄の益田大介(滝川二高-龍谷大)がいた。 いつもご協力をありがとうございます。さて今は何位でしょう?人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.01.08
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<ひき逃げ逮捕>オリックス前川投手が女性はねる 無免許でなんちゅうことをしでかしたんだ、前川。野球選手としても、「未完の大器」として首脳陣から何度もチャンスを与えられるものの、なぜか内容を伴わないピッチング。いつもチャンスを活かしきれずにいた。マウンドを降りた後、時の首脳陣はいつも「前川が誤算」と口にした。だからいつの頃からか「誤算の前川」と、ボクは呼ぶようになった。最後に前川勝彦投手をナマ観戦したのは、たしか01年日本シリーズ、神宮球場で行なわれた近鉄vsヤクルトの第4戦だった。先発した前川は結局1-2で敗れたものの、稀に見る好投をしていた。その時のことが記憶に残っている。だが、以降阪神→オリックスと渡り歩くものの、やはりパッとせず「誤算の前川」を続けた。さて、今日のこと。「誤算」ではすまない「事件」をしでかした。プロのマウンドに立つことは二度とないのだろうか。いつもご協力をありがとうございます。さて今は何位でしょう?人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.01.07
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高校や大学ラグビーでは見ることはできないド派手なプレーを見た。そのプレーは昨日行なわれた東芝-サントリー戦、事実上のトップリーグ・首位決定戦で飛び出した。前半38分、サントリーのSO菅藤心(長崎南山高-明治大)が東芝陣22mライン付近から、ゴールライン左隅をめがけボールを低く蹴り上げる。そのボールの着地点に飛び込み、ダイビングキャッチ。ボールを抱えたままゴールライン上を滑り抜けるWTB小野澤宏時(静岡聖光学院高-中央大) 。ちょいとアクロバット的なトライ。見ていて爽快だった。6ネイションズやスーパー14でもなかなかお目にかかれないプレーに見えた。しかしスコアは12-10で東芝の勝ち。東芝・薫田監督が自らのチームを比喩する「雑草軍団」が、「早稲田ブランド」のサントリーを、派手さはないものの真面目に戦って地味に破った格好だ。薫田さんはいう。「うちはサントリーと違って雑草軍団ですから(笑)。だからそういった早稲田ブランドというものに対する、負けたくないという気持ちはありますね。それは、うちの選手は間違いなく持ってます。対する東芝の選手の特徴は『真面目』さ」。(『ラグビー魂』白夜書房刊より)決して早稲田だけではないが、大学の有名どころのルーキーがたくさん入ってきたサントリー。昨春だけでも、佐々木隆道(啓光学園高-早稲田大)有賀剛(日川高-関東学院大)前田航平(早稲田実-早稲田大)青木佑輔(国学院久我山高-早稲田大)篠塚公史(埼工大深谷高-法政大)野村直矢(埼工大深谷高-法政大)平浩二(長崎南山高-同志社大)昨シーズンまで大学ラグビー界を賑わせた選手たちを総ナメした感じだ。これを大学野球に例えると、希望枠(ドラ1)でプロに入団した高市俊(青学大)、宮本賢(早稲田大)、大隣憲司(近畿大)、金刃憲人(立命館大)らを総取りしたようなものかもしれない。 雑草軍団も好きだけど、スター軍団もそれはそれで面白い東芝とサントリーの戦い、今季あと2回見ることができる(たぶん)いつもご協力をありがとうございます。さて今は何位でしょう?人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.01.07
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後半ロスタイム、ゴールキーパーのオウンゴールというあっけない幕切れだった。高校サッカー準決勝。岩手・盛岡商高が1-0で千葉・八千代高を破り、岩手県勢としては46年ぶり2度目の決勝進出となった。ふだんサッカーを見ることはないけど、ボクも高校生時代は盛商(モリショウ)と同じ盛岡市内の高校に通っていたため、関心をもってテレビ観戦をした。当時から、岩手県内では盛岡商高と遠野高の実力が県内ではずば抜けており、サッカーに自信をもつ中学生たちはいずれかの高校に進むことが多かった。ボクの同級生は遠野高に進学した。さて、今日の準決勝。0-0で迎えた後半46分、盛岡商、コーナーキックのチャンスを得る。ゴールに向けて蹴り上げたボール。ゴールキーパーが顔の前に両手で拳を作りボールを弾いた。よくあるプレーだ。が、弾いたはずのボールが、どうしたわけかキーパー自身のヒザに落ち、横に弾んだ。そのボールが弾む先がたまたまゴールだった。強い雨に見舞われた国立競技場、たぶんボールが滑ったように思う。八千代にとっては悔いの残るゲームだったろう。明後日、決勝戦が行なわれる。できれば見てみたい!いつもご協力をありがとうございます。さて今は何位でしょう?人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.01.06
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日本ハムが阪神・吉野獲得へ(デイリースポーツ)日本ハムにとっては、岡島秀樹(京都・東山高-読売-日本ハム-来季よりレッドソックス)の代役としての左腕セットアッパー探しが進んでおらず、吉野誠に白羽の矢をたてたようだ。吉野誠。埼玉・大宮東高-日本大。99年、ドラフト2位で阪神に入団した。プロ入り後の活躍ぶりは省略。日本大時代。97年秋、この吉野が大黒柱となって、東都大学野球の二部に降格していた日大を5季ぶりに一部に昇格させた。この時、入れ替わりに「二部落ち」したのは東洋大で19季ぶり。尚、大宮東高-日本大の同じルートを辿った先輩の選手に、「逆転サヨナラ満塁本塁打」男の北川博敏(94年、阪神ドラフト2位-近鉄-オリックス)がいる。大宮東高、試合開始前の7分のシートノックが変わっている。前半5分は他チームと同じだが、残りのほぼ2分は違う。ノックをしないのでボールは飛んでこない。が、選手たち皆、自分のポジションの所に立ち、捕球→送球をイメージしながら黙々と身体を動かす。観客席から見るとチョイト異様に見える。吉野のお父さんは、埼玉県下のリトルリーグの監督さん。吉野自身もそのチームに所属し、全国大会準決勝にまで勝ち進んだことがある。詳しくはこちら。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.01.06
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ヤクルトの多菊球団社長があいさつした。改革第1弾としてスカウト部門再編に着手。これまで編成部門を担当していた松田スカウトを大阪桐蔭の“中田専属”スカウトに指名。小田スカウト部長は「(中田は)何十年に1人の逸材。誰が見ても評価に問題はない」と話した。(スポーツニッポン)昨日から、この「あま野球日記」は何やら「スカウト”新・人国記”」の様相を呈してきた・・・松田スカウトのことは調べても全くわからなかった。だけど小田さんという名前にはピンときた。ひょっとしたら日ハムにいた選手か?調べてみた。 小田義人。静岡高-(65年阪急ドラフト6位・拒否)-早稲田大-大昭和製紙-72年ヤクルト2位入団ボクが記憶しているのは、75年~77年の日ハム在籍時のことのようだ。たぶん75年に.315の打率を残し首位打者争いを演じたときがキッカケだと思う(結局2位)。----------------------------現役時代は4球団を渡り歩いた。ヤクルト-日本ハム-南海-近鉄。日ハムにトレードされるときは、小田+1名と大杉勝男。南海にトレードされるときは、小田+1名と柏原純一。結構、大物との複数トレードだった。83年に現役引退後は、90年まで近鉄のスカウトをしていた。91年からヤクルトの打撃コーチを経てスカウトに。伝説の「10.19」の時(88年)、近鉄のスカウトだったようだ。----------------------------早稲田大時代。68年、東京6大学の秋季リーグでベストナインに(一塁手)。ベスト9、他の主な選手は三塁手・富田勝(法政大)遊撃手・荒川尭(早稲田大)外野手・山本浩二(法政大)、谷沢健一(早稲田大)静岡高時代。65年のセンバツに出場し、ベスト8に進出した。準々決勝で、後にカミソリシュートでプロ野球界に名を馳せた平松政次を擁する岡山東商高に敗れた。高校の後輩に、赤堀元之や高木康成(いずれも近鉄に入団)がおり、赤堀の入団は88年。小田さんが近鉄のスカウト時代と重なる。ひょっとして、赤堀は小田さんの引きで近鉄に縁をもったのだろうか。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.01.05
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虎スカウト“中田プロジェクト”日米10球団で争奪戦ゴング!いよいよ“開戦”だ。阪神の今秋ドラフトで獲得を目指す大阪桐蔭・中田翔投手兼外野手(17)が4日、大東市の同校グラウンドで始動する。阪神は佐野仙好西日本統括スカウト(55)ら3人を視察に派遣。07年大争奪戦のゴングが鳴った。 (サンケイスポーツ) 佐野仙好・・・懐かしい名前だ。この記事には他にも遠い記憶にある選手の名前が出てくる。中田を密着マークする猛虎スカウトとして、黒田正宏編成部長の指示のもとに畑山俊二スカウト、池之上格スカウトらが中田シフトを敷くのだという。 この記事の主人公である中田翔よりも、阪神のスカウト陣の懐かしい名前にボクの目は行ってしまった××××××××××××××××××××××××××××××佐野仙好。外野手をやっていて、ボールを追いかけるうち頭をコンクリートフェンスにぶっつけ、頭蓋骨を骨折した選手だ。その事故がきっかけとなって、フェンスはラバーに変更された。調べてみると、この事故が起きたのは77年4月29日、川崎球場だったらしい。その後、奇跡的に現役復帰した。89年に引退後は阪神のコーチを歴任、98年からは編成部スカウトとなっている。「さの のりよし」と読む。ボクは、今日調べるまで「せんこう」と読むとばかり思っていた。群馬・前橋工高-中央大-(73年)阪神ドラフト1位。同じ年の6位入団は、「ミスタータイガース」掛布雅之(習志野高)。黒田正宏。南海に入団当時は野村克也捕手の控え。野村氏が西武に移籍後の78年、正捕手に。が、82年に片平晋作とともに西武にトレードで移籍。伊東勤の控え捕手として、西部の黄金時代を支えた。85年に現役を引退後はホークスのコーチなどを歴任したが99年、阪神・野村監督(当時)に請われ阪神のバッテリーコーチに就任。01年、編成部長としてフロント入り。姫路南高-法政大-本田技研-(70年)南海ドラフト6位。同年の1位入団は箕島高の島本講平(南海→近鉄)だった。畑山俊二。ボクは近鉄時代の畑山をボンヤリと憶えている。代打が多かったように記憶する。左投左打。近鉄を自由契約後、阪神にテスト入団し97年に現役引退した。以後サラリーマン生活を経て、02年にスカウトとして阪神のフロント入り。箕島高-近畿大-住友金属-(89年)近鉄ドラフト2位。同期入団の選手たちが凄い。1位・野茂英雄(堺工高-新日鉄堺)3位・石井浩郎(秋田高-早稲田大-プリンスホテル)4位・藤立次郎(天理高)6位・入来 智(鹿児島実高-三菱自動車水島) 池之上格。元南海の選手会長。鹿児島・鶴丸高から、72年ドラフト3位で南海に入団。入団当初は投手だったが野手に転向。以後、大洋に移籍し88年末に現役引退。90年からダイエーのスカウト。01年から阪神のスカウトとなる。ドラフト同期に蓑田浩二(大竹高校-三菱重工三原)がいる。が、南海への入団を拒否し、3年後の75年ドラフト2位で阪急に入団した。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.01.04
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東京6大学野球、東都大学野球の4年生の進路。プロ野球へ進む11人以外の【極私的】主要選手(スポーツニッポンより)【早稲田大】大谷智久(報徳学園高)、トヨタ自動車笹沢学 (帝京高) 、西濃運輸前田将希(早稲田実) 、新日本石油ENEOS【明治大】松下享平(報徳学園高)、東邦ガス清代将平(日大三高) 、NTT東日本田沼俊秀(太田市商高)、太田市役所大久保寛之(浦和学院)、日立製作所河野靖史(浦和学院高)、日本生命【慶応義塾大】金森宏徳(国学院久我山)JFE東日本岡崎祥昊(智弁和歌山)、JFE東日本中根慎一郎(中京大中京)三菱重工名古屋【法政大】前原祐彦(東北高) 、七十七銀行金丸勝太郎(横浜隼人)、日産自動車秋本竜平(宇部商高) 、富士重工須藤宗之(武相高) 、新日本石油ENEOS【立教大】本田裕貴(埼玉栄高) 、三井生命【青山学院大】田仲勝治(横浜高) 、JR東日本山川広大(札幌第一高)、JR北海道楠城祐介(小倉高) 、松下電器【國学院大】宮成雄一朗(大分上野丘)鷺宮製作所【東洋大】田爪晃司(浦和学院高)、ホンダ【専修大】長谷川樹(高陽東高) 、デュプロいつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.01.03
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