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金堂内を拝観し、西面の出入口を出て、西側の五重塔を間近に見上げます。冒頭のこの姿は金堂の南側、回廊寄りから撮った全景です。五重塔の初層部分だけには、金堂と同様に裳階が設けてあり、こちらも板葺屋根です。なぜ裳階が付けられているかについては前回その推定理由をご紹介しました。五重塔は塔婆・率(卒)塔婆とも言われます。率塔婆はサンスクリット語のストゥーパを音写した言葉です。元々は古代インドで、土饅頭型に盛り上げた墓のことです。つまり、釈尊の遺骨を慰安するためのお墓ということになりますが、単なる墳墓ではなく記念物の性格を帯びるようになります。マウリヤ王朝期には特に多くの塔が建設されています。そして、次の段階として、この塔を中心にして新しい仏教運動が起こり、大乗仏教に発展していきました。インドのサーンチーに築かれているストゥーパがその一例として有名です。(資料1)そのストゥーパがシルクロードを経て中国に伝わり日本に到るまでの過程で、徐々にその姿が変容して行き、日本では三重塔や五重塔の形になりました。法隆寺のこの五重塔は我国に現存する最古の五重塔として知られています。基壇の上からの高さは約32.5mだと言います。(資料2)五重塔が何時建設されたのかについて、正確な時期は不詳です。金堂より少し遅く、西院伽藍の整地が終わった段階で開始されているようです。『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』には「持統7年(693)に仁王会を行う」という記録があり、この時には金堂がひとまず完成していたとされています。そして、「塔本塑像を和銅4年(711)に造る」という記録があると言います。後で触れますが、これは五重塔の初層に安置されている塑像群のことを意味しています。一方、法起寺の三重塔は慶雲3年(706)に建立されていて、この塔は法隆寺五重塔の1・3・5層と同じ規模とされていて、法隆寺五重塔と同じ図面を共有していると考えられているそうです。このことから、五重塔は693年~706年の期間のどこかの時点で完成したと推定できるようです。(資料3,4) 五重塔の初層には、金堂と同様に東西南北に扉があります。これは東面の出入口です。立入禁止ですが、石段を上り初層の内部を格子戸越しに拝見することができます。初層内部には、心柱を囲む壁のような形で須弥壇が築かれ、そこに土で須弥山が象られ、その四面に特定の情景が設定されて塑像群が配され祀られています。「東面は維摩居士と文殊菩薩が問答、北面は釈尊が入滅、西面は釈尊遺骨(舎利)の分割、南面は弥勒菩薩の説法などの場面が表現されています。」(資料2)この塑像群のリアルな表現は、中国の敦煌莫高窟の流れをくむものといわれているそうです。(資料5)「当初、須弥山のある仏壇は小さく、ほぼ四天柱の内側におさまる規模であったが、その後、須弥山は改造により拡張され、四天柱の外側まではり出している現状となった」(資料3)そうです。今回は講座の時間的な関係から東面の塑像群を垣間見るだけで終わりました。次回は個人的に訪れて四面をゆっくり拝見したいと思っています。また、初層の内部壁面にはかつて金堂と同様に美しく諸菩薩像の壁画が描かれていたそうです。鎌倉時代の記録に残っているとか。昭和18年(1943)、昭和22年(1947)に白漆喰の壁を剥がす調査で壁画が出現、発見されたと言います。元禄9年(1696)の大修理のときに、白壁に塗り込められてしまったとのこと。損傷壁画の存続よりも、塔そのものの存続が優先されたと推定されています。昭和の段階で、「これら6面の壁画は塔の修理のときに切りはずされ、収蔵庫の中に保管されている。この壁画は現在、その保存上、一般に公開されることがないため、塔に壁画があることを知っている人はごく一部の専門家に限られている」(資料5)といいます。 五重塔の屋根の相輪部分を撮ってみました。「五重塔の九輪(くりん)に四本の鎌がある」という法隆寺の七不思議の一つです。「法隆寺献納宝物の中に奈良時代の大鎌が残っていること」から、現在の法隆寺が建てられた当時から鎌が置かれていたらしいと考えられています。当時の人は雷を魔物と考え、刃物で落雷防止ができると考えたのではないかと想像されています。また、近在の人々の間には鎌が九輪を自然に登ったり下ったりするという伝承があり、鎌が上がれば豊作、下がれば凶作という占いをしたという面もあるとか。どうして鎌なのか、も謎と言えます。(資料5)現地で確認できなかったのですが、五重塔だけにはもう一つの雷よけの手段が講じられているそうです。鎌倉時代に雷が塔の三層目に落ちたので、その後西大寺の叡尊に依頼して、雷よけの祈祷札「避雷符」という木札を書いてもらったそうです。「五重塔の各層の四方の通肘木のところに、木札が四枚ずつ打ち付けられている」(資料5)とのことです。五重塔は二重以上の部分に床板はないそうです。(資料4)ストゥーパという機能を考えれば当然なのかもしれません。五重塔の心礎は地下3mにあり、舎利容器を納めていたそうです。また、1943~1954年に五重塔の解体修理が実行されていて、その時、輪切りにされた心柱の材が京大木質科学研究所に保管されていました。その心柱の年代が奈良国立文化財研究所で年輪年代法により分析され、594年に伐採された桧材であるとされています。(資料3)上記しましたこの五重塔の建立時期の推定と心柱の材の時期との隔たりが考察課題になってきます。 さて、五重塔と金堂は東西に配置されています。その中間に北に一直線に石畳の通路が延びています。 東大寺の大仏殿と同じように、建物の手前にはブロンズ製の大きな燈籠が一基据えてあります。その先にあるのが「大講堂」です。仏教の学問を研鑽したり、法要を行う施設として建立されたお堂です。単層・本瓦葺・入母屋造で正面(桁行)九間、奥行(梁間)四間の建物です。当初のお堂は、落雷によって鐘楼とともに延長3年(925)に焼失。正暦元年(990)に再建されたのが現在の大講堂です。(資料1)そこで、法隆寺西院の回廊との関係が出てきます。当初は五重塔と金堂とが、正面四間の中門の左右に繋がる回廊を南面として西回廊・北回廊・東回廊という形でロの字形に囲われていて、その北回廊の外側の西に経蔵、東に鐘楼が設けられていたそうです。そして北回廊の外、北側に延長3年に焼失する前の旧堂(講堂)があり、この時点までは旧堂の両脇に北室(僧坊)が約6mの距離を隔て東西の建物として建てられていたと言います。講堂で仏教を学び、北室に居住するという僧の生活空間が回廊の外側に存在するという形だったようです。そして、正暦元年に大講堂が再建されますが、北室は焼失後に再建されないままになったのです。発掘調査により、現大講堂の下に同規模の前身建物の遺構が確認され、北室跡も調査によりその建物規模が復元されているとのことです。(資料3)3437大講堂の再建後に、法隆寺の発展との関係から、西院伽藍の回廊は大講堂を回廊に組み込む形の凸型の回廊に変化したそうです。 北西隅に回廊と繋がった経蔵があります。その名の通り、経典を納める施設でした。現在は「天文や地理学を日本に伝えたという百済の学僧、観勒僧正と伝える坐像(平安時代)を安置しています」(資料2)とのこと。 南東から眺めた大講堂。このお堂には再建の時に作られた薬師三尊像及び四天王像が本尊として祀られています。(資料2)(今回は講座の時間の関係で未訪) 北東隅に回廊と繋がった鐘楼があります。大講堂再建の時に鐘楼ができたそうです。鐘楼に吊されている梵鐘は白鳳時代のものと言います。(資料2) 東回廊を南側から眺めた景色。法隆寺は矢田丘陵東南麓に位置します。この西院伽藍は尾根を開削し平坦地に造成していると述べました。地山部分は一部で回廊の内側から東に落ち込む箇所があるそうです。発掘調査から、この東回廊は約40cmの整地土の上にさらに約60cmの版築が行われていることが確認されていると言います。(資料3)この探訪では滅多に見られない風景に遭遇しました。たまたま探訪日が1月25日だったことと、西院伽藍を訪れていた時間帯が重なったためでしょう。 翌日の26日が文化財保護のための防火デーであり、25日・この時間帯で防火のための放水リハーサルが短時間ですが実施されたのです。たぶん26日当日はもう少し大がかりに防火・放水訓練が行われたのだろうと思います。 回廊から外に出ます。出口は南面回廊の東端です。これは南面回廊の東側回廊側面と中門を眺めた景色です。 西院の境内に戻ると、南東方向に池が見え、手水舎があります。大きなブロンズ製の水瓶の口が、水鉢への水の注ぎ口になっています。いい風情です。手水舎の南に石碑が立っています。 近づいて見ると句碑です。 法隆寺の茶店に憩ひて 柿くえば鐘が鳴るなり法隆寺 子規茶店はどのあたりにあったのでしょう・・・・。 鏡池 鏡池の南、池垣の先は東西の道路です。その向こう側に実相院が見えます。東側に普門院・観音院と子院が並んでいます。発掘調査の結果若草伽藍が位置していたのは、今の境内図でみますと、実相院・普門院・観音院という子院のあるあたりになるようです。これら子院とその南一帯です。実相院のお堂が見える方向の先に、若草伽藍塔心礎があります。境内図を見ますと、現在そこは観音院の敷地になっているようです。若草伽藍と称される由来について引用しご紹介します。「若草とは旧観音院、普門院、実相院裏の広大な東西約160m、南北約60mの広い空き地を指し、平安時代以来『花園』と称され、仏に供える花や蔬菜を栽培していた場所であったという。若草の文献上の初見は、宝永4年(1707)の『普請方諸払帳』である。良訓が延享3年(1746)に編纂した『古今一陽集』に心礎の見取り図が描かれ、「若草伽藍」という名称が書き添えてある」と高田良信氏が述べられているとか。その心礎は明治34~35年ころ搬出され、北畠治房氏~久原房之助氏~野村徳七氏と所有が移動し、昭和14年に野村氏から法隆寺に返還されたと言います。(資料3)それを契機に昭和14年の調査が行われ、さらに昭和43年・44年の調査、昭和53~60年の調査、平成16年の南大門近くの調査が累積し、若草伽藍の全容が分かってきたと言います。一方で、出土瓦の寺院間比較研究から瓦の編年研究も進展し、傍証が累積しているようです。西に20度ほど振れる方向で、塔と金堂が一直線上にならぶ基壇跡が発掘調査により確認されています。金堂→塔の順番で築造されたことも判明していると言います。それでも現時点では回廊をはじめ他の建物遺構は見つかっていないとか。一方、平成16年の発掘調査から、彩色のある壁画の破片が多数出土し、壁画には下書き線があると言います。(資料3)『日本書紀』天智天皇8年の記述に「12月、大蔵に出火があった。この冬、高安城を造って、畿内の田税をそこに集めた。このとき斑鳩寺に出火があった。」とあります。さらに翌9年には、「夏4月30日、暁に法隆寺に出火があった。一舍も残らず焼けた。大雨が降り雷鳴が轟いた。」と記録されています。(資料6)法隆寺は斑鳩寺、伊河留我寺・鵤寺とも呼ばれたと言います。聖徳太子と関係の深い寺です。若草伽藍の調査から、この金堂・塔跡が『日本書紀』に記された法隆寺(斑鳩寺)であり、火災により全焼したということが判明しました。創建法隆寺は若草伽藍の場所に建立された寺だったのです。(資料3)つまり、西院伽藍は、後に場所を変えて再建された法隆寺だということになります。明治20年頃から始まった法隆寺再建・非再建論争はこの発掘調査結果を踏まえて、これで一応の区切りがついたようなのですが、双方の伽藍の創建については、現在もまだ問題点を抱えていて、完全には見解が定まっていないと言います。(資料3)「『日本書紀』に法隆寺再建の記事がないこと」(資料5)自体が一つの謎になっています。上記の通り、法隆寺焼失の記載があるのにです。また、法隆寺の本尊である釈迦三尊像と薬師如来像の光背銘文から法隆寺創建の時期を確定しようとするとそこに史料等の比較研究から疑義が生まれているという実情だとか。法隆寺はまだまだ多くの謎を秘めたお寺であるわけです。おもしろいですね。 鏡池の傍には、異なるスタイルの常夜灯が奉納されています。 鏡池の前で振り返ると、北側に「聖霊院」があります。これは、東側回廊の外側にある南北に細長い建物「東室」の南端部が改造されたものと言います。鎌倉時代の聖徳太子信仰の高揚に伴い、聖徳太子の尊像(平安末期)を安置するために改造されたそうです。この背後にその細長い建物が続いているのです。「東室」と称される僧坊、僧侶たちの住居でした。[2020.2.4追記]「聖霊院は桁行六間、梁間五間で一重・切妻造・妻入・本瓦葺・正面一間通り庇付・向拝一間・檜皮葺。同院は保安2年(1121)東室大改修の際、南の六間を堂に改めた。現聖徳院は弘安7年(1284)の造立(別当記)」(資料11) 「妻室」と称する建物です。これは東室と同様に僧坊としての建物だと言います。近世に大改造され用途が変わったことで改称されたのだとか。かつては、東室には高僧が住み、大坊とも呼ばれ、こちらは東室小子房と称し、高僧に使える者が住んでいたといいます。(資料7) 妻室から少し東にこの小堂があります。このお堂の東側を左折し、大宝蔵院に向かいます。次の探訪先がここです。[2020.2.4追記この小堂のことがわかりました。「馬屋」です。聖徳太子の愛馬・黒駒と手綱を引く舎人・銚子丸との像を造立しこの小堂に安置してあります。] 大宝蔵院に向かう通路の東側に、妻室と並行して、「綱封蔵」があります。寄棟造で高い脚柱の立ち並ぶ高床氏の建物です。大宝蔵院を拝見した後、東側から撮った景色です。どういう姿の建物かはおわかりいただけるでしょう。正倉院校倉を想像していただくとよいようです。この綱封蔵を開閉するときには必ず寺の要職である三綱職の僧が立ち会わなければならない決まりになっていたそうです。平安時代初期と推定される宝物庫です。(資料8)[2020.2.4追記]「桁行九間、梁間三間の高床・寄棟造・本瓦葺で平安時代のもの。中央三間を吹抜きとし、両端を蔵とした形式であるが、本来は校倉であったとみられる。」(資料11) 大宝蔵院の外観を東側から撮ってみました。この建物は平成10年(1998)に完成した北側の「百済観音堂」を中心とする大宝蔵院の伽藍です。飛鳥時代から近世に至る法隆寺の寺宝が展示されています。三間三戸の中門の西側の口から入り、西宝殿→百済観音堂→東宝殿という順路で様々な宝物類を鑑賞することができます。仏像愛好者、美術工芸品愛好者にとっては必見の館です。まず最初に夢違観音像に対面できます。そして、玉虫厨子、金堂阿弥陀三尊像を本尊とする橘夫人厨子などを間近に鑑賞できます。 拝観時にいただいたリーフレットからの引用ですが、百済観音像とすぐ間近に対面できるのはやはり圧巻です。まず最初にその大きさに驚き惹きつけられました。像高209.4cmという大きさです。光背がありますのでさらに高くて圧倒されます。こんなに大きな仏像とは思ってもいませんでした。すらりとした八頭身の姿です。この観音菩薩像が、3月には、しばらく東京国立博物館に移られるのです。春に大宝蔵院を訪れるおつもりなら要注意!です。 法隆寺iセンターで、東博の特別展のPRチラシを入手しました。二つ折A4サイズの裏面に百済観音像が載っています。3月中旬から5月中旬は、大宝蔵院にはご不在ということになります。古風に申せば、東下りして花のお江戸で出開帳というところでしょうか。 大宝蔵院を出て、順路に従い東側の通路から東西の道路に戻ります。通路の西側には、食堂と細殿が並んでいます。食堂は単層切妻造で緑の連子窓と朱の扉を持つ建物です。右の写真がそれです。僧が儀式的な食事を行った場所だそうです。奈良時代の遺構で最古の食堂として貴重。細殿は左の写真です。食堂の付属建築だとか。見た感じ廊下のような吹き放ちの建物です。こちらは鎌倉時代の建築物のようです。(資料8)通路の東側には、収蔵庫と大宝蔵殿(北倉・中倉・南倉)が並んでいます。金堂の焼損壁画は、調べて見ますとここの収蔵庫に保管されているそうです。(資料9)また、こちらの大宝蔵殿は大宝蔵院が落成するまでは博物館相当施設の機能を持っていたそうです。現在は毎年春秋に「法隆寺秘宝展」という形で特別公開が行われていると言います。(資料10)西大門と東大門を結ぶ道路に戻り、東に歩みます。つづく参照資料1) 『新・仏教辞典 増補』 中村元 監修 誠信書房2) 「法隆寺畧縁起」 拝観時にいただいたリーフレット3) REC講座「聖徳太子と斑鳩」レジュメ資料(2019年11月~2020年1月) 講師:龍谷大学名誉教授 岡崎晋明氏 4) 『法隆寺の謎』 邦光史郎著 祥伝社ノン・ポシェット p465) 『法隆寺の謎と秘話』 高田良信著 小学館ライブラリー6) 『全現代語訳 日本書紀 下』 宇治谷孟訳 講談社学術文庫 p234-235 7) 東室 :「奈良寺社ガイド」8)『奈良県の歴史散歩(上)』 奈良県歴史学会 山川出版社 p1949) 法隆寺の収蔵庫、まるで博物館 金堂壁画を調査 :「朝日新聞社DIGITAL」10) 法隆寺大宝蔵殿 :「Internet Museum」11) 『奈良県の地名 日本歴史地名大系30』 平凡社 p79-80補遺ストゥーパ :「世界史の窓」サーンチーの仏教遺跡 神谷武夫氏法隆寺の七不思議? :「日本の宝物殿」法隆寺に2つの「七不思議」(謎解きクルーズ) :「日本経済新聞」法隆寺の七不思議五重塔の心柱、救世観音……聖徳太子と法隆寺の七不思議 川合敦氏:「PHP Online 衆知」法隆寺若草伽藍跡発掘調査報告 :「全国遺跡報告総覧」特別展「法隆寺金堂壁画と百済観音」 :「東京国立博物館」法隆寺金堂壁画と百済観音 展覧会公式サイト法隆寺の見所 :「奈良観光」 ← 2/4追記 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 奈良・斑鳩の里 法隆寺・中宮寺を巡る -1 法隆寺への道・南大門・境内子院 へ探訪 奈良・斑鳩の里 法隆寺・中宮寺を巡る -2 法隆寺・西院伽藍(1) へ探訪 奈良・斑鳩の里 法隆寺・中宮寺を巡る -4 子院・東大門・東院伽藍ほか探訪 奈良・斑鳩の里 法隆寺・中宮寺を巡る -5 中宮寺・史跡中宮寺跡 へ
2020.02.03
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法隆寺境内図(部分図)から始めます。南大門を入り、真っ直ぐに北に歩みます。西大門と東大門を結ぶ道路を横断し、中門に向かいます。 石段の右側手前に手水舎があります。石段のすぐ傍の石標は「東院大伽藍」への距離を示す道標です。西院伽藍の目の前に立っているのがおもしろい感じです。 石段を上がると、西院伽藍の廻廊との間にかなりの奥行きがあり、常夜灯が立っています。一方北西方向、つまり中門の左斜め前方を眺めると、「日本最初の世界文化遺産 法隆寺」と刻された石碑が建立されています。右下に「平山郁夫書」と刻されています。シルクロードの様々な風景を描いた有名な日本画家・平山郁夫氏の書による記念碑です。「法隆寺地域の仏教建造物」は1993(平成5)年12月に世界遺産に登録されました。法隆寺と法起寺がその具体的な対象となっています。 「中門」に近づきます。西院伽藍の中軸線上に位置し、正面四間(11.9m)、奥行三間(8.46m)の重層入母屋造の楼門です。正面が四間ですので、横に5本の円柱が並んでいます。これら円柱は胴が膨らみをもち、古代ギリシャ神殿の柱になぞらえて、エンタシスの柱と呼ばれています。柱が5本ですので、建物の正面中央に柱が位置することになります。その柱の両側に出入口(門扉)があります。つまり、四間二戸です。(資料1)中門は一戸の門扉だけあるいは三間一戸の形式がほとんどのようです。東大寺や薬師寺の中門は規模が大きくなり五間三戸の形式です。同様に、大門や楼門の多くも三間一戸です。前回ご紹介した南大門がこの形式です。さらに大きな楼門となると、五間三戸のものがあります。京都の南禅寺三門・知恩院三門・東福寺三門などがその例です。これらは正面の中央が出入口となり、柱が邪魔するということがありません。法隆寺西院伽藍の中門が他では見られない特異なものと見做されてきました。石田茂作氏は自選の法隆寺七不思議の筆頭に「中門中央の柱」を取り上げています。(資料2)その結果、この中央の柱の謎について、様々な説が生まれてきています。その一つが、梅原猛氏が『隠された十字架 法隆寺論』で「偶数性の建物は正面のない建物、それはいわば子孫断絶の建物である。それは死霊とじこめの建物である。偶数性の建物は、正面なき建物である。法隆寺に偶数性の原理が支配するのは、ここに太子の霊を閉じこめ、怒れる霊の鎮魂をこの寺において行おうとする意志が、いかに強いかを物語るのである」(資料3)と論じた見解です。中央の柱が太子の霊を封じ込めるためと論じたのです。一時期ベストセラーになったと記憶しています。(資料3)この学外講座では、建築史家の「鈴木嘉吉氏は金堂と塔との釣り合いから、中門の規模が定められた結果だとされている」(資料1)という見解を知りました。また、武澤秀一氏は、門の真ん中に立つ柱について、鎌倉時代の法隆寺僧が「聖人は子孫を継がず」ということを示しているという説を例に出した後、明治時代以降の代表的な見解を7つ列挙し、そのうちの一つに上記の梅原説を取り上げています。7つの見解の2番目に「中門の間口は通常、柱間の数が三だが、塔と金堂との規模のバランスを図って四にした結果とみる説(伊東忠太など)」があり、上掲鈴木氏の見解はこの2番目の見解と同類の考えかと私は受けとめました。7種の見解を論じた上で、武澤氏はインドのサーンチーの塔におけるめぐる通路を取り上げ、仏教世界に広がっためぐる祈りの作法を重視します。門の中央の柱は二つの口を作っていて、中門に接続する列柱回廊はめぐる道であり、プラダクシナー・パタ(直訳すれば右まわりの道)だと述べ、二つの口は囲まれた聖域への入口と出口と論じています。「回廊はめぐる祈りの通路、プラダクシナー・パタであり、中門は回廊を含む聖域への出入口であり、礼拝の場でもあったというのがわたしの考えです」と。その上で、中門の中央の柱は、この西院伽藍の配置を定める「隠れた中軸」となっていて、「聖域の中軸を背骨にたとえれば、法隆寺では背骨が消えて端部のビテイコツが残った。それが中門の真ん中、タテに連なる四本の柱にあたる」と伽藍配置における中央に位置する柱の必然性を論じています。(資料4) 明治以降の7つの見解の要点は参照資料の新書をお読みください。いずれにしても、法隆寺の中門の特異性を解く試みは興味が尽きない論点です。中門の上層も四間×三間だそうです。飛鳥寺・大官大寺の中門も同様に奥行三間であり、「奥行を三間とするのは重層門の安定感を示すためと言われている」(資料1)とか。 前回ご紹介した南大門との木組の違いを見比べてみるのも興味深いと思います。こちらはエンタシスの柱の上に皿付の大斗が据えられ、雲形肘木がのっています。肘木は桁と軒を支える横木です。 中門には紋帳が吊られ、寺紋の「多聞天紋」が使われています。 中門左右の隅間には金剛柵が廻らされ、金剛力士像が配置されています。『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』に和銅4年(711)に金剛力士像が造立されたと記録されているそうです。向かって右側の阿形は塑像金剛力士像です。吽形は同様に塑像だったそうですが、頭部は塑像のままですが、16世紀の修理で塑像であった部分の大半が木造に変わっていると言います。(資料1) 中門前から振り返ってみた景色中門から南大門にかけては、平均1mの段差を付けて造成し、平坦面が造られているそうです。 中門を眺めた後、伽藍内部に入るために西側にある通用門に向かいます。 通用門を入る手前で、回廊と中門の連なりを撮ってみました。回廊は連子窓になっています。 通用門を通り、回廊の拝観受付所付近から眺めた西面の回廊と東にある金堂方向の景色です。回廊は外側の柱間は大半が連子窓で、残りが漆喰壁になっています。内側は吹放しで、境内側は列柱の連なりです。 西院伽藍の創建当時は、経蔵・鐘楼の手前に北面の回廊があり、西に五重塔、東に金堂という配置を囲む形になっていました。その点は大正時代の防災工事に伴う浅野清氏の調査で明らかになっていたそうです。(資料1) これは西院伽藍の拝観受付の折にいただいたリーフレットの表紙です。中門の中央の柱とともに、中門と五重塔・金堂との位置関係がよくわかります。 リーフレットからの引用です。西院伽藍を南東側の上空から撮った全景です。金堂の右側に大講堂が見えます。創建時に「南に延びる尾根を大講堂の北側で大きく削り、大講堂から中門までの約120mをほぼ平坦に造成して」おり、「主要伽藍の回廊に囲まれた内部は、40cm~50cmの攪乱土(整地)がありその下層は地山となっていた」といいます。尾根の東西幅が東西の回廊部分の幅と合致するそうで、部分的に異なる谷地形の状況に合わせて、整地土やさらに版築を行うなどの整地層で平坦に造成しているそうです。(資料1) 中門内側の東側の口から南大門を眺めた景色です。 初層の天井は比較的目の細かい格子天井になっていて、奥行が三間ということがよくわかります。門扉は正面から2番目の柱に設置されています。円柱の上に皿付大斗が据えられ、頭貫の上面には円柱との間に楔がうちこまれています。 中門に繋がる東側の南面の回廊です。外側の柱間が大半は連子窓になっているのが一層よくわかります。回廊の床面は禅宗寺院でみられる瓦敷ではありません。 回廊の柱の礎石と柱の修復 南面東側回廊の一つの列柱に前に立つと、そこはちょうど金堂南面中央の入口の位置に相当します。中門の中央の柱を起点とすると、五間と六間の間の柱です。南面東側の列柱だけでカウントすると三番目の柱です。 西院伽藍内での講座の説明はまず東側に配置されたこの金堂からです。金堂には法隆寺の本尊が安置されています。上掲リーフレットには「ご本尊を安置する聖なる殿堂」「威風堂々としたこの建物」と記されています。二重基壇の上に建てられた入母屋造の重層建築で世界最古の木造建築です。金堂と五重塔の下層部には裳階が付いています。板葺の屋根です。(資料1)法隆寺よりも後代に創建された薬師寺の東塔は薬師寺創建当初から唯一現存する建物です。この東塔は三重塔ですが、瓦葺の屋根が6つあり、下から1,3,5番目が小さい屋根で裳階と称されています。ホームページには、この裳階を「飾りと風よけのための小さな屋根」と説明されています。(資料5)法隆寺においては、この金堂と五重塔にどういう理由で裳階が付いているのか、謎のようです。今は、この裳階が建立当初から付いていたという説が有力になっているそうです。高田良信氏は、「法隆寺では実用的なものに見える。おそらくは内陣にある壁画を風雨から保護するために必要であったかもしれない。また金堂にしても塔にしても、昔は堂内で法要をせず、建物の前で行われることを恒例としていたため、雨天の日などは法要もできないこともあって、雨の場合はこの裳階の中で略式の法要を行ったのかもしれない。」と解釈されています。(資料2) 二重基壇の総高は1.7mほどで、下段の高さは30cmほどだそうです。基壇は凝灰岩の羽目石だけを並べてあり、束石が使われていません。基壇は一部地山を造出し、その上に版築を重ねて構築されているそうです。(資料1) 上層に高欄が見えます。この高欄(勾欄)は屋根に直接据えてあります。高欄には卍崩しの組子が入れられ、腰組に人字形割り束が配されています。撥蟇股(ばちかえるまた)とも呼ぶようです。この撥蟇股の造形は中国で流行し、北魏から隋・唐まで用いられたとされるそうですが、建物は現存しないとか。ただし、この卍崩しと撥蟇股は中国北魏の石窟に見ることができるそうです。(資料1) 金堂では軒の出が4.4mにもなっているそうです。それが建物を立派に見せる効果となり、威風堂々という印象につながるのでしょう。屋根の四隅の軒?の先端には装飾金具が取り付けてあり、端部の保護にもなるのでしょう、また風鐸が吊り下げてあります。 雲肘木と雲斗が水平材(力肘木)を支え、その先端部に斜め材の尾棰が組み合わさり、それらが軒棰を前方に張り出させる形になります。二階部分には、尾棰の先端部には下層の屋根との間に柱が建てられて、その柱には龍が巻き付く形で彫刻されています。単なる飾り柱ではなく、たぶん実用的な機能を持っているのでしょうね。軒の出が深い故の工夫かと、素人考えで推測しています。龍は龍神=水の神といわれますので、火災除け的な意味合いもあるのかと想像してしまいます。 一方、一階の屋根と裳階との間には、小斗の支えにこんな丸彫りのちょっと奇怪な彫刻が施されています。獅子のような猪のような・・・。もう一方は牙と眺めの鼻から象のようなそうでないような・・・。想像上の邪鬼を造形したもののようです。さて、いよいよ金堂内部の拝観です。堂内は残念ながら撮影禁止です。 講座のレジュメから、金堂内部の構造と諸仏・壁画の配置図を引用します。 上掲図の仏像と壁画の配置状況は、この一覧の英字/数字と対応しています。余談ですが・・・。昭和24年(1949)1月26日に、この金堂から出火し、国宝の十二面壁画の大半が焼損しました。昭和15年以来続けられてきた解体修理のために取り外されていた24面の内陣小壁の飛天図を除き、壁画はすべて焼失したのです。(資料1,6)この法隆寺金堂火災が文化財防火デー(1月26日)設定の契機になりました。(資料6)「現在の再建金堂壁画は、昭和43年に日本画の画家14名による協同作業で完成した。この際、模写にあたっては、原寸大の精緻な復元を必要とする事から京都の便利堂の原寸大の写真とコロタイプ印刷が用いられた」(資料1)昨年末から年初にかけて、奈良国立博物館で「法隆寺金堂壁画写真ガラス原板」の企画展が実施されました。拙ブログ記事としてご紹介しています。また、3月13日~5月10日の期間、東京国立博物館では特別展「法隆寺金堂壁画と百済観音」が開催される予定だとか。さて、元に戻ります。 当日は金堂東面の口から入り、南半分の堂内回廊を巡りながら西面の口を出るという一方通行での拝見でした。写真で見ていた諸像の実物を現地で確認する程度の短時間しか堂内に滞留できなかったのが残念です。内陣側をガラス越しに眺めるというような印象だけが残りました。 堂内拝観の出口となっている金堂西面の出入口。北半分のところに柵が設けてありました。金堂の外観は上層と下層の二階建てになっていますが、内面は二階には床が張ってない構造で、一階に折上組入れ天井が設けられているだけだそうです。(資料1) 金堂南面の入口から少し南側に離れた場所に上面が平坦な石が置いてあり、簡易な柵で囲われています。駒札には「礼拝□」とあり、最後の一字は判然としません。たぶん、礼拝石と記されているのでしょう。かつて金堂は仏のための堂宇であり、僧といえども金堂内に入ることは許されませんでした。引用により上記で触れていますが、法要は建物(堂)の前で行われたそうです。堂の前庭で礼拝する、座って本尊を拝むために使われた石だそうです。建物の外で行われる儀式になりますので、「庭儀(ていぎ)」と称するそうです。(資料7)さて、金堂の西面出入口を出たところで、西側の五重塔に移ります。つづく参照資料1) REC講座「聖徳太子と斑鳩」レジュメ資料(2019年11月~2020年1月) 講師:龍谷大学名誉教授 岡崎晋明氏 2) 『法隆寺の謎と秘話』 高田良信著 小学館ライブラリー3) 『隠された十字架 法隆寺論』 梅原猛著 新潮文庫 p3104) 『法隆寺の謎を解く』 武澤秀一著 ちくま新書 p140-167、p197-2015) 東塔 :「薬師寺」6) 文化財防火デーの契機となった法隆寺金堂火災 消防雑学辞典 :「東京消防庁」7) 庭儀 :「コトバンク」補遺國宝 法隆寺壁画 焼く :「NHKアーカイブズ NHK名作選 みのがしなつかし」法隆寺(焼損から再現まで) :「新美術情報2017」法隆寺壁画焼損、あの日刻んで 26日は文化財防火デー :「朝日新聞」法隆寺金堂壁画 :ウィキペディア法隆寺金堂壁画写真ガラス原板 -文化財写真の軌跡- :「奈良国立博物館」特別展「法隆寺金堂壁画と百済観音」 :「東京国立博物館」法隆寺金堂壁画と百済観音 展覧会公式サイト ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 奈良・斑鳩の里 法隆寺・中宮寺を巡る -1 法隆寺への道・南大門・境内子院 へ探訪 奈良・斑鳩の里 法隆寺・中宮寺を巡る -3 法隆寺:西院伽藍(2)・若草伽藍・聖霊院・大宝蔵院ほか へ探訪 奈良・斑鳩の里 法隆寺・中宮寺を巡る -4 子院・東大門・東院伽藍ほか探訪 奈良・斑鳩の里 法隆寺・中宮寺を巡る -5 中宮寺・史跡中宮寺跡 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 奈良国立博物館 <法隆寺金堂壁画写真ガラス原板>と<おん祭と春日信仰の美術>
2020.02.02
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先日、ある講座の最終回、「聖徳太子と斑鳩の寺院と宮殿跡」というテーマでの探訪です。当日は、法隆寺iセンター前に集合し、法隆寺の西院・東院両伽藍~中宮寺~中宮寺跡を巡りました。その事後学習と記録整理を兼ねたご紹介です。JR大和路線の法隆寺駅で下車し、駅構内にある観光案内所で周辺マップをいただきました。法隆寺駅から法隆寺参道までは徒歩15分位とのことなので歩いて行くことにしました。冒頭の景色は法隆寺駅の北口です。駅前広場には電飾ツリーと鹿像などが設置されていました。夕刻以降に点灯されるのでしょう。まずは駅前の道を北に進みます。 道路の突き当たりに道路標識が数多く設置されています。法隆寺はここから1.5km、法隆寺iセンターはその手前で1.2kmです。標識に導かれて、左折し道沿いに進みます。 ほどなく県道5号線との交差点で、ここに大きく北方向への案内板が出ています。一番上の道標には法隆寺1.3kmと記されています。右折して県道5号線沿いの歩道を北上します。 「法隆寺東」交差点に到るまでに、大きな「斑鳩町案内地図」が設置されています。その地図から部分図を切り出し、カラーの丸印を追記してみました。マゼンタ色の丸がJR「法隆寺駅」、現在地と地図に記されているのがこの案内地図の設置場所です。その北側の紫色の丸が「法隆寺東」交差点で、緑色の丸が「法隆寺」のあるところです。法隆寺から東方向の黄色い丸が「中宮寺」で、さらに東側の茶色い丸のあたりが「史跡中宮寺跡」の所在地を示しています。これで今回の探訪地の位置関係がおわかりいただけることでしょう。「法隆寺東」交差点で道路を横断して国道25号線沿いに西に進むことに。 国道沿いに「法隆寺前」のバス停が少し先に見えました。国道の反対側にはかなり広い法隆寺観光自動車駐車場になっています。 国道を横断し法隆寺参道に向かうと、集合場所の手前です。参道入口の傍に大きな「斑鳩めぐり案内図」が設置されています。その斜め背後に見える建物が法隆寺iセンターでした。集合場所を確認してから時間のゆとりがあったので少し周辺探訪から始めました。それでは今回の探訪を始めましょう。 法隆寺iセンター前の歩道から法隆寺の方向を眺めた景色法隆寺南大門前は南北に幅広い参道域があります。これは参道域東側の舗装された道路とかなりの幅のある歩道を南大門の方向に眺めた景色です。 国道側に後戻りして、国道傍から参道を眺めることから始めました。「聖徳宗総本山 法隆寺」という寺号石標と「史跡法隆寺旧境内」と刻された石標が国道傍に東西に立ち、その間を松並木の参道が南大門の方向に一直線に200m余のびています。この参道の西側には、東側と同様の舗装道路があります。 中央の参道を北に少し進むと、東方向に「法隆寺iセンター」の全景が見えます。法隆寺に松がたくさんあるのは、聖徳太子にまつわる一つの伝説によるそうです。”太子が三歳のときに、用明天皇から桃の花と松の若木を示されて、「どちらが好きか」とたずねられたのに対して、「松のほうが好きです」と答えられた。そこで、「なぜ松のほうが好きなのか」と天皇が問われたのに対して、「桃はぱっと一時は美しいけれど、すぐ散ってしまいます。それに対して松は年中青々として変わることがありませんから、私は松の方が好きです」と答えられたという伝説によって、法隆寺の境内には松がたくさん植えられているというのである。”(資料1)とか。鎌倉時代の文応2年(1261)の記録に南大門前の左右に松の木を植えるという記録があり、また、江戸時代の記録では、この松並木を「松の馬場」と呼んでいたと言います。(資料1) 参道を直進し、南大門前にある東西方向の道路手前から南大門方向を眺めて、パノラマ合成した景色です。南大門は法隆寺の正門です。 道路を渡り、南大門に近づきます。両サイドの眺めです。左が西方向、右が東方向です。 そして、前方・北側に「南大門」があります。南大門の正面に立つと、開かれた門扉の先に「法隆寺中門」のほぼ全景が見えます。南大門は三間一戸八脚門で入母屋造です。現在の南大門は室町時代の永享6年(1434)に焼失し同10年に再興されたものだそうです。棟札の銘文により豊臣秀頼が慶長11年(1606)に修理をしていることが分かっています。(資料2)なお、永享7年に焼失という説(資料1)もあります。 南大門の左右には瓦葺築地塀の大垣が巡らされています。この大垣は文応2年頃に作られたそうです。文応2年は年号が変わり弘長元年になるのですが、その9月4日に後嵯峨天皇が法隆寺に行幸されることになり、その行幸に際し境内整備として新たに築地塀が作られたことによるそうです。(資料1) 南大門の少し手前に設置された案内板「史跡法隆寺境内」と「法隆寺境内図」です。境内図の左下に青い丸を追記した箇所が南大門のある位置です。南大門から真っ直ぐ上方向、北にあるのが「東院伽藍」になります。そして、境内図の右辺にあるのが夢殿の所在する「西院伽藍」と現在の「中宮寺」です。南大門を眺めましょう。 向かって右、東側の降棟の鬼瓦(左)と稚児棟の鬼瓦(右) 西側の棟の鬼瓦と降棟先端の鬼瓦 向かって左、西側の稚児棟の鬼瓦(左)と隅棟の鬼瓦(右)。鬼瓦はそれぞれに特徴があり、おもしろい。 南大門の柱を見上げますと、木鼻はシンプルな造形で、組物は二手先のようです。平三ツ斗や連三ツ斗が使われています。 正面を見上げると、漆喰で塗り固められた欄間部分は、蟇股ではなくて大斗の上に雲形と思える肘木がのり二つの小斗が組まれた形式です。二ツ斗が規則的に並び支えています。 控柱の礎石の形状が様々なのもおもしろいところです。 南大門の石段下をふと見ますと、おもしろい石が目に止まります。石段を上がるときは意識していませんでした。魚の形をした踏石です。「鯛石」と称される石で「法隆寺の七不思議」の一つに数えられるものです。”伝えによれば、大和一円が水害にあった場合、水が南大門に押しよせても決して寺内に入らなかったという。そこで南大門の下に魚の形をした石を据え、魚もここまで泳いできたということを示したものという。これはとりもなおさず、法隆寺が最高の立地条件のもとに建っていることを意味するものであり、この地を選ばれた太子の遺徳を讃える、太子信仰上の伝説であることを物語っている。”(資料1) 南大門を潜ると、中門の背後西側に五重塔の上部が見えます。この南大門と中門までかなりの距離があります。「創建当時は現在の場所から50mほど北にあった」(資料1)とされています。中門の前方の下辺りにあったという説があることから、多くのトレンチを入れて調査してもその証拠が検出できていないと言います。一方、防災工事の際に現在の南大門中央の断ち割りが行われ、その時の調査では、「現敷瓦の下に永享6年(1434)の焼失の痕跡があり、その直下に約9cmの漆喰層、その下にも焼土が確認できた」という所見があることから、創建当時も現在の位置と変わらなかったのではないかという意見もあるそうです。(資料2)未だ確定していない法隆寺の謎の一つと言えるのかもしれません。 南大門の内側を西側から眺めた景色。東側の築地塀の向こうは「宝光院」です。 屋根の棟には鯱が据えてあります。 南大門を入ると、西側に「地蔵院」の表門が見えます。 鬼瓦は阿吽、飾り瓦は左右が異なります。左(南)は兎で、右(北)は獅子です。 地蔵院の北隣りの門には「聖徳宗宗務所」の木札が掲げてあります。手前に「西園(さいおん)院」があり、その西側に寺務所があります。この門は現在では檜皮葺になっていますが、邸宅の単層門で「上土門(あげつちもん)」と称し、かつては屋根を土で葺いた門だったと言います。(資料2) 上土門のすぐ北側に、両側面が唐破風の平唐門があります。 この平唐門から西園院の客殿の屋根が見えます。私は初めて見る屋根の形式です。杉皮を竹で押さえた「大和葺(やまとふき)」だそうです。(資料2) ここの一連の築地塀は、版築という工法で作られている築地塀です。中国伝来の技術。「型枠を設けて中に玉石を敷き詰め、その上に石灰と小砂利混じりの粘土を混ぜ合わせて棒で突き固め、さらにその層の上に砂を敷き、また前の作業を繰り返しながら少しずつ壁を高くしていく」(資料3)という工法です。堅固な構造物ができる技術がここに使われているそうです。また、平唐門・唐破風の棟の獅子口に目をやると、そこには獅子像が見えます。この部分に使われるのはめずらしい・・・・そんな気がします。 参道の東側に目を転じますと、宝光院の北側には「輪堂」の屋根、さらに北側に「弥勒院」の護摩堂が見えています。 弥勒院・参道に面した門の屋根の鬼瓦 護摩堂の屋根に目を転じると、ここにも鬼瓦があちこちに。 棟の鬼瓦 降棟の鬼瓦(左)と隅棟・稚児棟の鬼瓦 庇の鬼瓦 それでは、東西方向の道路を横切り、西院伽藍に向かいましょう。つづく参照資料1) 『法隆寺の謎と秘話』 高田良信著 小学館ライブラリー p9-13、p642) REC講座「聖徳太子と斑鳩」レジュメ資料(2019年11月~2020年1月) 講師:龍谷大学名誉教授 岡崎晋明氏 3) 『木造建築用語辞典』 小林一元・高橋昌巳・宮越喜彦・宮坂公啓[編著] 井上書院補遺法隆寺 ホームページ 境内図 法隆寺iセンター ホームページ法隆寺 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 奈良・斑鳩の里 法隆寺・中宮寺を巡る -2 法隆寺・西院伽藍(1) へ探訪 奈良・斑鳩の里 法隆寺・中宮寺を巡る -3 法隆寺:西院伽藍(2)・若草伽藍・聖霊院・大宝蔵院ほか へ探訪 奈良・斑鳩の里 法隆寺・中宮寺を巡る -4 子院・東大門・東院伽藍ほか探訪 奈良・斑鳩の里 法隆寺・中宮寺を巡る -5 中宮寺・史跡中宮寺跡 へ
2020.02.01
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京都の四条大橋東詰で、四条通の南側には南座があります。南座に前進座公演の観劇に出かけた際、開演前に少し川端沿いを散策しました。先日、「七条から三条へ 寺と地蔵尊と町並ウォッチング」という探訪記をご紹介しました。その補足という位置づけにもなります。上掲の探訪記をまとめるにあたって地図を参照していて、改めて鴨川、川端通と琵琶湖疏水の位置関係に気づきました。冷泉通の北側沿いに西に流れてきた琵琶湖疏水は、鴨川のところで南に向きを変えて川端通の西側を南方向に流れます。鴨川と並行する形で流れるのですが、御池通に架かる御池大橋の少し先で、琵琶湖疏水は暗渠化します。御池通の先、三条・四条を経て、鴨川に架かる「団栗橋」に先までは疏水は地下に潜っています。そして、団栗橋の南から、川端通の東側に位置を変えて南に流れる形に変わります。松原通までは琵琶湖疏水が地表面を流れています。そして、疏水沿いの東側に道路が南に並行しているのです。通りに沿って、北から南に宮川筋1丁目~同5丁目が隣り合っています。この通りの一筋東側が、「宮川町通」です。こちらの通りは上記探訪記でご紹介しています。四条大橋から南側の川端を歩く事がなかったので、位置関係などを意識していませんでした。この点を現地確認してみたかったのです。冒頭の景色は南座の建物の西面で、川端通に面しています。南座西側出入口の階段南側に駒札と碑が立っています。「阿国歌舞伎発祥地」記念碑 慶長8年(1603)この辺りの鴨河原で出雲の阿国が初めてかぶきをどりを披露したと言います。歌舞伎発祥350年記念として、昭和28年(1953)11月吉例顔見世興行前に、この記念碑が建立されたそうです。(駒札より)さらに66年の歳月を経て、2020年を迎えていることになりますね。 川端通を挟み、西側には鴨川端に小径が遊歩道として設けてあります。この小径の東側は琵琶湖疏水が暗渠になっていて見えません。まずはこの遊歩道を団栗橋まで南に向かいます。 鴨川の西岸には、北側に「東華菜館」、南側に「ちもと」が見えます。老舗のお店が川端沿いに軒を連ねています。 (資料1)これは『都名所図会』に載る「四条河原夕涼」の模様を西側から眺めた挿絵です。左ページには鴨川の東側と河原の間にだけ橋が架けられています。東側には通りを挟んで、北側に2箇所、南側に1箇所、「芝居」という文字目にとまります。南側は「南座」で、北側に「北座」があった状況を描いています。右ページに目を転じると、一番右に「宮川町」、その斜め左上に「どんくりの辻」と記されています。右ページの右下角に「西石垣」と記されています。その左斜め上に、東側の流れに架けられた橋が描かれています。つまり、当時は四条通には、鴨川の全幅に架かる大橋はなかったことがわかります。四条河原での夕涼のこの風景は、旧暦の6月7日から始まり同18日に終わるという期間限定の一大イベントだったようです。その状況をかなり詳しく説明しています。これは天明6年(1786)に、安永9年刊の再板として出版された『都名所図会』に掲載されていて、安永9年刊の初版には載っていません。(資料1,2)では、四条大橋が架けられたのは何時か? 『花洛名勝図会』に挿絵が載っています。 安政4年(1857)に加茂川(鴨川)御浚が行われ、この時に四条橋が架けられたと記されています。長さ50間巾3間の石柱板橋で、高欄つき石柱が42本とその規模が説明されています。(資料3) 南に歩き始めて、小径の左側に目に止まったのがこの駒札です。 上掲探訪記に「宮川」の名の由来に触れています。この駒札が立てられていることを、今回の散策で初めて知りました。駒札の最後に、「なお、四条大橋から松原橋(旧五条大橋)までの間を、古くから特に『宮川』と呼ぶがこの『宮』とは祇園社(八坂神社)のことを指し、神輿を洗い清めたることに由来するとも伝わる。」と記されています。 四条大橋から小径を200mほど南に歩いた団栗橋のところで、一筋東側の道路の歩道をさらに南に歩みます。そして目に止まったのがこの地蔵尊の小祠です。小祠の前に立ち寄り、格子戸の内部を眺めてみましたがよく見えませんでした。 これは小祠の傍から、地表に現れた琵琶湖疏水を北方向に眺めた景色です。左側が川端通で、右側が疏水端の道路と歩道です。その左つまり東側が宮川町です。 疏水の上に設けられた地蔵尊の小祠を祀る一画で目に止まったのが擬宝珠のついた欄干の柱と石橋に使われていたのかと思われる丸い石柱です。疏水に架けられていた石橋の残欠なのでしょう。擬宝珠の下に「疏水」と刻されています。脇道にそれます。鴨川と琵琶湖疏水の間、かつての鴨川堤上が線路となっていて、京阪電車が地上走行をしていました。上記の場所より更に南に歩めば、松原橋です。その南を地上走行する1975年頃の写真が公開されているのを見つけました。こちらからご覧ください。ページの一番下の囲み記事に掲載されています。(「じつは京阪電車の田邉朔郎にお世話になりました」[京阪電車])もう一つ、「団栗橋」について。江戸中期、宝永6年(1709)の京大絵図にはこの橋が記されているそうです。その名は橋のたもとに大きな団栗の木があったことに由来すると言われています。上掲の挿絵に「どんくりの辻」とあるのは「団栗の辻子(づし、図子)」にあたるようです。辻子は次の通りまで通り抜けられるようにつけられた道をさします。その名称はたぶん団栗橋に近いという位置からつけられたのでしょう。(資料4)京都では、天明8年(1788)正月30日に起きた火災(天明の大火)が歴史上最大の火災と言われています。この団栗辻子の民家からの早朝の出火が原因で、東からの強風の影響で鴨川を越えて西、南北に拡大していき、二昼夜燃え続けたそうです。そこで、「団栗焼け」とも称されるとか。(資料5,6)元に戻ります。 疏水沿いの道路の反対側を見ますと、「宮川町歌舞練場」への入口です。宮川町通側で撮った景色は既にご紹介しています。疏水端の道路から、歌舞練場へのこのアプローチを進み、宮川町通を再び北上して、 上掲の探訪記の最後に掲載したこの地蔵尊のところに至ります。ここで右折して歩道を少し歩めば南座です。半時間程度の散策でしたが、四条に出ても普段歩く事のない所で幾箇所かのタウン・ウォッチングをでき、地図と現場が繋がりました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 都名所図会. 巻之1-6 :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館)2) 『都名所図会』(安永9年版) 竹村俊則校注 角川文庫3) 花洛名勝図会東山之部. 巻1-4 :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館)4) 団栗橋 :「京都通百科事典」5) 天明の大火 都市史 :「フイールド・ミュージアム京都」6) 団栗辻子(どんぐりのづし) :「京都通百科事典」補遺出雲阿国 :ウィキペディア出雲阿国 :「コトバンク」出雲阿国の墓 :「出雲 観光ガイド」古美術をみる眼2 「歌舞伎の祖 出雲の阿国の墓を訪ねる・ 浮世絵の誕生前夜」:「愛知県共済生活協同組合」京阪三条駅が地上にあった頃、鴨川べりの懐かしい風景:「電車好きな元鉄道員のブログ」 四条駅付近の懐かしい風景も掲載されています。北京料理 東華菜館 ホームページ京料理 ちもと ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2020.01.23
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稲荷山南側の谷間のお塚と不動明王像のお堂などを訪ねた後、「奥社奉拝所」の境内域に入る石段を上りますと、この「奧ノ院」あたりは参拝客で混雑していました。千本鳥居の帰路ルートを最小限の区間だけ通り、途中から北方向への参道に回避。比較的静かな境内域を少し散策してから、初詣として本殿に向かい、楼門を抜けて、表参道からJR稻荷駅に出ました。ここでは、伏見稲荷大社の境内点描を楼門付近から始める形で、少しご紹介します。伏見稲荷大社の境内マップはこちらからご覧ください。「伏見稲荷大社細見」という形で、以前に拙ブログ記事でご紹介しています。ここではあくまで点描です。併読いだだけるとうれしいです。 現在のこの朱塗りの楼門は、組物が三手先で、入母屋造、檜皮葺です。楼門自体は天正17年(1589)豊臣秀吉が母の病気平癒を祈願して寄進したと言われています。昭和48年(1973)に解体修理された際、垂木に同年号の墨書が発見されています。(資料1、駒札)駒札によれば、楼門の左右(南・北)の廻廊二棟は江戸時代中頃の建立だとか。 楼門に向かって、右側に上下に2つの石碑が建立されています。 こちらは「御鎮座一千二百五十年奉祝大祭記念の碑」です。昭和36年(1961)3月15日~21日の7日間、奉祝の大祭が行われた記念碑です。この時に本殿の修復、内拝殿の新築、史実大年表の編纂などの記念事業が推進されたと刻されています。そして、平成23年(2011)に御鎮座1300年を迎えています。(資料2)では、始まりは何時なのか? 和銅4年(711)2月初午の日と伝えられていますが、明らかではなさそう。あくまで伝承のようです。しかし最も古い文献として『山城風土記』逸文があります。「風土記に曰はく、伊奈利と称ふは、秦中家忌寸等(はたのなかつへのいみきら)が遠つ祖(おや)、伊侶具(いろぐ)の秦公(はたのきみ)、稲梁(いね)を積みて富み裕(きさは)ひき。乃ち、餅を用(も)ちて的(いくは)と為ししかば、白き鳥と化成(な)りて飛び翔(かけ)りて山の峯に居り、伊禰奈利(いねなり)生(お)ひき。遂に社の名と為しき」(資料3)と記されているそうです。これを踏まえて、「秦の中家(なかつけ:本家)の遠祖秦伊呂具が驕富のあまり、餅を的にして矢を射たところ、餅は一羽の白鳥と化し、山のいただきに飛び去った。その鳥のとどまったところに稲が生えたので、伊奈利(いなり)社と名付け、秦氏が代々禰宜(ねぎ)・祝(ほふり)となって春秋のまつりを行なったのが起こりだとつたえる」(資料1)。伊奈利社を創祀した場所は、稲荷山の「三ケ峰の平らな処」(資料2)だそうです。秦氏の神は三ノ峰の下社に降りた時に始まります。下社が最も崇拝されたようです。つまり、元々の稲荷社は稲荷山の山頂に祀られていました。平安時代に清少納言が『枕草子』に稲荷詣での苦しさを山頂の中社での場面として、第153段「うらやましげなるもの」(別本:うらやましきもの)に記しています。尚、前々回「荷田社」に関連して触れていますが、稲荷山は神の降臨する神南備山でした。伊奈利社が創祀される以前から、神を祀り崇敬されている山だったようです。標高233mの稲荷山山頂の峰々は、考古学的な視点でとらえると、古墳が築かれていたそうです。「二ノ峰は全長70mの前方後円墳、他の三基も約50mの円墳である」(資料4)と言います。 その前に歌碑が建立されています。 あかあかとたたあかあかと照りゐれば伏見稲荷の神と思ひぬ 前川佐美雄 石段を上がると楼門前の左右には、狐の銅像が配置されています。狐は稲荷神の使いとされています。なぜ、狐が神のお使いなのか。これもまた明かなわけでもなさそうです。『日本書紀』の巻十九・欽明天皇の冒頭に、深草の里人・秦大津父のことが記されています。秦大津父が伊勢からの帰路に、二匹の狼を「あなたがたは恐れ多い神である」と言って逃がしてやったというエピソードです。この秦大津父は欽明天皇の大蔵の管理・出納を任されるようになります。秦氏との関係で狼が出てくるのです。(資料3,5)欽明天皇が即位したのは539年です。その頃には、既に秦氏が深草の里に住していたことになります。風土記の編纂が命じられたのは和銅6年(713)ですから、2つの話の間にはかなりの歳月が経ています。梅原猛先生は興味深い見解を述べています。「伏見稲荷の神の眷属もかつては狼、或いは山犬ではなかったか。それがいつのまにか里近くに住む狐に置き換えられたのであろうが、狐もまた、アイヌでは狩猟の獲物の在処を教えてくれる神として尊ばれた」(資料3)と。さらに、弘法大師空海が創始した真言密教との関係です。真言密教ではは荼枳尼天(だきにてん)が崇拝されます。荼枳尼天が日本に移入された段階で、狐と結びつけられ、狐に乗った天女の姿で表されたそうです。稲荷神と荼枳尼天信仰が結びついていくようになります。廃仏毀釈・神仏分離政策が明治の初めにとられる前は、稲荷社の本願所、御本山・愛染寺が稲荷社に向かって左にあったと言います。真言密教のお寺だったそうです。(資料3) 楼門を入ると、「外拝殿」があります。 一段高い境内地への石段の手前に、今年はこんな絵馬形の案内が出ています。楼門前の狐が口に咥えている鍵は、「達成のかぎ」と称されています。右の「福かさね」には、「しるしの杉」が付けられています。また、右側の絵馬には「しるしの杉」について説明が記されています。「杉」は伏見稲荷大社の神木です。「杉」は「椙」とも書き、「木が昌(さか)に生い繁ること」を意味し、「富の木」と称えられているそうです。(絵馬形の案内より)この「しるしの杉」は、『山城風土記』逸文に上記の後半として出てきます。「其の苗裔(すえ)に至り、先の過ちを悔いて、社の木を抜(ねこ)じて、家に殖(う)ゑて祷(の)み祭りき。今、其の木を殖ゑて蘇(い)きば福(さきはい)を得、其の木を殖ゑて枯れば福あらず」と。 向拝大唐破風です。蟇股には白狐が透かし彫りにされています。上部の大瓶束の両側には、鳳凰と草花文が透かし彫りにされ、鮮やかな極彩色です。ここが通常の一般参拝所です。この参拝所の正面は撮影禁止です。内拝殿・本殿がその先にあるからということでしょう。内拝殿の内部は、初詣である故でしょうか、ご祈祷祈願する人々で満ちていました。応仁・文明の乱で、伏見稲荷大社の社殿は焼亡などにより失われたそうです。室町時代の1499(明応8)年に現在の本殿(重文)が再興されます。江戸時代の1694(元禄7)年に、向拝大唐破風が加築されます。そして、上掲の御鎮座一千二百五十年奉祝大祭の記念事業として1961年に内拝殿が新築されたことで、向拝大唐破風が内拝殿の正面に移されたという経緯を経ています。(資料6)稲荷山山上の下社・中社・上社という三社別殿の古制がこの本殿再興の折りに改められて、五社相殿となったと伝えられています。五社というのは、下社の摂社、中社の摂社が加わることによります。その結果、現在の本殿には祭神として、五柱が並び鎮座していると言います。宇迦之御魂大神、佐太彦大神、大宮能売大神、田中大神、四大神です。ホームページを参照しますと、本殿に向かって左から次の順に五柱の祭神が祀られています。 田中大神 佐田彦大神 宇迦之御魂大神 大宮能売大神 四大神 田中社(下社摂社) 中社 下社 上社 四大神(中社摂社)ホームページを読み、この五社の神々を列挙してみると、やはり伏見稲荷大社は秦氏の神として記されていることがわかります。調べていて、いくつかの史資料間の差異に気づきました。江戸時代に出版された『山州名跡志』を見ますと、「稲荷宮」という見出しの項があり、そこに「社」という小見出しで次の記載があります。「上古ニハ三坐ノ神三所ニ別レテ。上ノ社、中社、下社トイヘリ。祭ル所、上ハ土祖神(ツチノヲヤノシン)。中は倉稲魂(ウカノミタマ)。下ハ大山祇女也(ヲホヤマズミノムスメナリ)。件ノ地山上ニシテ乾(イヌイ)自リ亘ツテ卯辰ノ間ニ。三峯雙ヒ立ツ。上社ハ頂上ニアリ。中ノ社ヨリ凡ソ二町下ノ社中ノ社ト隔(ヘタツ)ルコト二町餘ニアリ」(資料7)一方、「『二十二社註式』によれば、下社 大宮女命 中社 倉稲魂命 上社 猿田彦命」(資料3)と記されています。『二十二社註式』は文明元年(1469年)に吉田兼倶が撰したとされる書だそうです。(資料8)少し調べてみますと、佐田彦大神は猿田彦大神の別名という説明があります。(資料9)すると、以下の関係になるようです。つまり、宇迦之御魂大神=倉稲魂=倉稲魂命、佐田彦大神=土祖神=猿田彦命、大宮能売大神=大山祇女=大宮女命、です。この関係性が成り立つとしたら、上社・中社・下社で祀られていた祭神がいずれかの時に中社と下社の間で入れ替わっているということになります。分析的に見ていくと、興味深い不可思議さです。稲荷山山上、間ノ峰に存在する荷田社は伏見稲荷大社の祭神とは切り離し別格になっているものと受け止めました。尚、拙ブログの「伏見稲荷大社細見」で触れていますが、境内地の参道の傍に境内社として小社「荷田社」が祀られていることもご紹介しておきます。稲荷山をめぐる神々は不可思議で興味が尽きない世界です。 中心となる社殿に向かって右側、つまり南には「神楽殿」があります。ここで神楽が舞われるようです。この建物はほぼ能舞台の形式です。 正面の両側の柱と頭貫との角部分に設けられたこの透かし彫りは見応えがあります。参拝客は多いですが、この神楽殿を眺めに立ち寄る人は意外と少ないものです。ちらほらと参拝客が居る位です。神楽が演じられるときはたぶん人だかりとなるのでしょうね。 橋掛かりの手前にこの山形の石が置かれています。近くまで行くと、これが山口誓子の句碑だと言うことがわかります。傍に説明板が設置されています。稲穂舞を詠んだ句です。 早苗挿す舞の仕草の左手右手 山口誓子境内地の静かな場所を少し歩いてみようと立ち寄ったのは、本殿の北方向にある八鳥ケ池の近くです。奥社奉拝所、つまり奥ノ宮から千本鳥居の帰路参道の途中で抜けて北方向の境内通路を下り、橋を渡ると、池の側に出ます。本殿を起点にすれば、向かって右側に進み参道を上って行くと橋のある方向に行けます。 橋の上から眺めた小川。水は池に流れ込みます。 老木の幹の一部があたかも椅子の背の様な形で残る姿が目に止まりました。おもしろい形です。 道沿いに時計回りに進んでいくと、池の東側に「神田」が設けられています。傍に案内板が設置されています。ここに100坪の神田があり、水口播種祭(4月12日)、田植祭(6月10日)、抜穂祭(10月25日)という神事がここで行われるそうです。その時この辺りは観覧する人々で溢れることでしょう。冬場にこの辺りを歩くのは、物好きだけかもしれません。神田からの初穂は新嘗祭(にいなめさい)に供えられ、稲藁は火焚祭で焚き上げられると、末尾に記されています。最後に、次の歌が記されています。 けふは よき日ぞ けふは よき時ぞ 心よけ 神楽歌はむ 神楽歌はむ 稲荷山の山手への道を上って見ると、「熊鷹社」から「三ツ辻」への参道に林立する鳥居の列が見えます。朱塗り鳥居のトンネル参道から逸れた山道を歩く人は見かけませんでした。参詣のメインとなる境内地の雑踏から外れると、静けさの漂う境内地があちらこちらに併存しています。最後は参拝客で混雑する表参道を下り、JR稲荷駅に戻りました。境内点描としてのご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p56-662) 伏見稲荷大社 ホームページ (「伏見稲荷大社とは」の項)3) 『京都発見 一 地霊鎮魂』 梅原猛著 新潮社 p157,p167-1714) 『京都府謎解き散歩』 井本伸廣・山嵜泰正編著 新人物文庫 p136-1375) 『全現代語訳 日本書紀 下』 宇治谷猛訳 講談社学術文庫 6) 『京都府の歴史散歩 中』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p210-2137) 『山州名跡志 自一橋至木幡 十二』(巻十二目録 紀伊郡) 白慧撰8) 二十二社 :ウィキペディア9) サタヒコ :ウィキペディア補遺荼枳尼天 :ウィキペディア荼枳尼天 :「コトバンク」サルタヒコ :ウィキペディア猿田彦大神 :「狗奴国私考」伏見稲荷大社田植祭2020/6/10(日程・・・) :「京都 Kyoto」伏見稲荷大社で「田植祭」 :YouTube【京都】伏見稲荷大社 田植祭 2017 Fushimi Inari Taisha Rice-Planting Festival 2017 :YouTube京都・伏見稲荷大社「荷田社」(稲荷山・荷田社神蹟) :「伏見稲荷・御朱印」稲荷信仰/稲荷神顕現伝承 :「戸原のトップページ」竜頭太/龍頭太 :「ふしみいなりガイド」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都市伏見区 再び稲荷山周辺にて(ぬりこべ地蔵尊・荷田春満墓・羽倉可亭墓)へ探訪 京都市伏見区 伏見稲荷大社 補遺 -1 未訪のお塚2箇所と谷間の不動明王像 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 伏見稲荷大社細見 -1 表参道から楼門・外拝殿へ 10回のシリーズでご紹介しています。探訪 京都・伏見稲荷大社 もう一つの裏道 -1 奧社奉拝所・竹の下通経由で瀧巡り 3回のシリーズでご紹介しています。
2020.01.18
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伏見稲荷大社探訪関連の補足として、項を改めて続けます。JR奈良線稻荷駅の前から伏見稲荷大社の大きな鳥居と表参道が見えています。駅前の道路を南に進むと右手にJR奈良線の踏切、左手に摂取院の宝形造りのお堂(腹帯地蔵)が見ます。冒頭右のお寺です。この地蔵堂の北側(手前)に東に向かう道路(坂道)があります。その道沿いに進むと、民家に突き当たるT字路の分岐になっています。右折すれば、前回ご紹介したぬりこべ地蔵・荷田春満の墓に向かいます。この分岐で、左折して歩むと、冒頭の左の景色が見えます。この分岐点からが、前回探訪のつづきになります。ここ(冒頭の左の景色)が伏見稲荷大社の境内地に南側から入る裏道の一つの入口になります。 道沿いに緩やかな坂道を上って行きますと、千本鳥居が見えてきます(左の景色)。千本鳥居の外側を並行して歩む形になります。しばらく進んで、振り返ると右の景色です。もう少し、緩やかな坂道を進むと、左手に石垣が見えてきて、手前にそちらに上がる石段があります。その数十段の石段を上がると、通称「奧の院」、つまり「奥社奉拝所」の境内地のただ中に入るという印象です。ほとんど人が通らない裏道から、突然に参拝客で混雑する境内域に出くわす形になるのです。観光ガイドブック流にいえば、奉拝所の右側後に「おもかる石」という願い事が叶うかどうかの試し石が置かれている境内域です。伏見稲荷大社の境内マップはこちらからご覧ください。 石段傍をを通り過ぎて裏道を少し東に歩み、この「奥社奉拝所」のある境内域の石垣全景を撮ると、こんな感じです。石垣下の右側に見えるのは稲荷山の山上と同様に稲荷山にある「お塚」の一部です。 上掲の石垣の傍近くから、鳥居の連なりを眺めると、こんな感じです。この箇所は、以前に稲荷山の南側の山腹沿いの「お塚」を探訪した時に、その傍を通り過ぎていただけでした。そこで、今回この箇所に立ち寄ってみました。 鳥居の列の参道を進むと、正面にあったのがこのお塚でした。正面には「福高大神」と刻まれた碑が建立されています。様々な名称の神名碑が並んでいいます。 関心を引いたのは、左側に置かれたこの石像です。常識的に考えると狐像かな・・・と想像できますが、正体不明の像です。帽子を取って確かめるのも、ちょっとはばかれて・・・不詳のままにとどめました。 鳥居の列を戻ってきて、気づいたことがあります。以前はマゼンタ色で追記した道を往復して、南側山腹のお塚の探訪をしています。赤い線を追記した上掲のお塚に近くて見過ごしていた道に気づいたのです。それが紫色の線を追記したところです。 谷間へ下って行く道があり、樹間に屋根らしきものが一部見えたのです。いままでこの下りの坂道に気づきませんでした。そこでこの道を下ってみることにしました。 下ると谷間になっていて、先に石鳥居が散見されます。 降り道は先でT字路となり、横一線に前の斜面にこのように沢山のお塚がここにも祀られています。 谷底の右手方向に建物がみえますので、そちらの方を訪ねてみることにしました。 その建物は不動明王を祀るお堂です。 この扁額が掲げてあります。二文字目が読めません。手許の『角川漢和中辞典』を引いてみましたが、この文字を見つけられませんでした。 石造不動明王像が安置されています。その右手には石造役行者像と思える椅座像も安置されています。 堂内の手前左側に神名を刻した碑が並んでいます。これはお塚に在るような神名碑です。 お堂の側面にもお塚が祀られています。 お堂の前には、「不動明王」と陽刻した扁額を掲げた石鳥居が建立されていて、その先を拝見しました。 そこは水垢離を行う行場になっているようでした。滝水は枯れているのか、止められているのかは不詳です。神の世界と仏の世界が融合する本地垂迹説の世界がここには厳然と存在しているようです。神仏習合の世界、その信仰の一端がここにみられるといえるのでしょう。 伏見稲荷大社境内そのものは、正月の初詣参拝客で大混雑の様相ですが、この裏道の谷間は静寂そのものでした。お塚を眺めつつ、「奥社奉拝所」の境内域に向かうことにしました。つづく補遺伏見稲荷大社 ホームページ本地垂迹説 :「玄松子の記憶」9 本地垂迹説 :「一望千里」本地垂迹 :ウィキペディア神仏習合 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都市伏見区 再び稲荷山周辺にて(ぬりこべ地蔵尊・荷田春満墓・羽倉可亭墓)へ
2020.01.17
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摂取院・腹帯地蔵尊のお堂のところまで戻ります。このあと、このお堂の北側の緩やかな坂道を歩み、久しぶりにまず「ぬりこべ地蔵」を訪れ、その後思いつくままにしばし彷徨してみました。伏見稲荷大社の表参道は正月の参拝客で混雑していますので、ポピュラーな参道はできるだけ敬遠することにしました。坂道を上って行くと、民家に突き当たり、道は左右(北方向と南方向)に別れます。T字路です。 右手に少し進むと、墓地の一角が見えてきます。墓地域の北西角辺りは無縁墓となった墓石が集められ、その傍に数多くの地蔵石仏が集められています。 お地蔵さまのご集合です。 ここでも、欠損した地蔵石仏の頭部が補われています。素朴な補填ですが、信仰心の現れでしょうね。 どれくらい前に作られた石仏なのでしょう。顔貌が風化摩滅して定かでない地蔵石仏が数多く安置されています。 通りをはさみ、西側に「ぬりこべ地蔵」のお堂があります。伏見稲荷大社から南東約200mほどの地点に位置します。お堂傍の建物(詰所)の北隣に、右の墓石が建立されています。「神馬」の第一世と第二世と刻されています。そこで残った疑問は、第三世以降はどうなったのでしょう・・・・。稲荷大社では生きた馬を神馬として養い維持することは、いつかの時点でなくなったのでしょうね。第三世からなのか? あるいは、もっと後 今、伏見稲荷大社に行けば、奧の院への途中の境内地に神馬像を祀った建物があります。 南東側から眺めた地蔵堂とその傍の建物(詰所)です。この地蔵堂を維持管理されるための建物のようです。 地蔵堂前に立つ石標の背面を見ますと、「深草稻荷保勝会」により維持管理されているようです。地蔵堂の軒下には「ぬりこべ地蔵」と墨書された赤い提灯が吊されています。 お地蔵さまの高さは約1.2mだそうです。お顔をよく見ると鼻の先が少し欠けています。このお地蔵さまがここに移るまでに移転を繰り返していることは、以前の拙ブログ記事でご紹介しています。「そとわの墓地」が明治の末頃、陸軍十六師団の兵器庫建設のために現在地に移されたときに、このお地蔵さまもここに移されたそうです。「その際、地元の人々の手助けのもと、故・木村藤太郎氏が地蔵像を背負って移し、以来木村さん方でお守りされている」(資料1)と手許の本に記されています。 これは傍の建物に現在掲示されている「ぬりこべ地蔵尊」の案内です。この一番下に、「世話人 木村家」と付記されていますので、「深草稻荷保勝会」とともに、今も変わらずお世話をされているようです。ぬりこべ地蔵は、「昔から歯痛や病気の痛みにご利益があるとされているお地蔵さんです。」(掲示説明文より) 地蔵堂前の石の円柱の正面には卍が彫り込まれています。なぜか、上面には三重に小さな座布団が置かれ、その上にお餅のような形状の石が置かれています。正面に香炉様の石柱が置かれているのは時折見かけます。しかし、このように丸石が置かれているのを見ることはありません。上掲、説明文の「お参りの仕方」の中に次の記述がありました。「お堂の前にある丸い石を撫でてから、自分の身体の痛いところをさすると痛みが取れるという言い伝えがあります。」ということです。その続きの文は、「近年では、うつの悩み、抜歯やインプラントの痛み封じ、良い歯医者さんに出会えますように・・・と願いは様々です。」とあります。お地蔵さまに対する願い事は時代の変化を含んで変化して行く側面があるようですね。説明文には「ぬりこべ」の由来はよく分かっていないのですがとしつつ、次の説明が記されています。”「痛みを封じ込める」、「病を塗り込める」とか「塗り込めのお堂(土壁のお堂)に祀られていたから」そのように呼ばれているのではないか? と言われています。”「遠方の方は、こちらにハガキを送ってもそのご利益にあずかれることができるとされ、全国から手紙やハガキが届きますし、海外からもお手紙が届くことがあるそうです。」という一文もあります。このお堂の住所は、地図で確認すると「〒612-0882 京都市伏見区深草薮之内町26」です。毎年6月4日(虫歯の日)に、深草稻荷保勝会の方々が中心になって法要が営まれています。 東側のお墓を反時計回りに回り込みますと、六地蔵が祀られています。 かなり古い時代に制作されたお地蔵さまのようです。一部は石の表面が剥落してきています。錫杖を持つお地蔵さまと持たないお地蔵さまが混在し、錫杖もまた一部しか見えませんが、その形状は異なるようです。また頭部が部分剥落しているお地蔵さまには、その内側に新たなお顔が刻まれています。内からお顔が新たに現出した感じ・・・・・優しいお顔が刻まれています。この六地蔵から東にそのまま歩み、この墓域の南東隅に向かいます。 そこに西側から見えるのがこの石碑です。石碑の裏面です。 東側に回り込んで拝見しましょう。この石碑は、「荷田春満(かだのあずままろ)」のお墓です。まずは参拝。手許の辞典は、荷田春満について「(1669-1736)江戸中期の国学者。本姓羽倉。京都伏見稲荷の祠官の子。復古神道を唱え、古道研究の端緒を開く。著書『日本紀神代巻劄記(さつき)』『古事記劄記』『万葉集僻案(へきあん)抄』など」(『日本語大辞典』講談社)また、「(1669-1736)江戸中期の国学者。本姓は羽倉とも。京都伏見稲荷神社の神官。国学四大人の一人。契沖に傾倒し、記紀・万葉・有職故実を研究、復古神道を唱えた。弟子に賀茂真淵・荷田在満などがいる。著『万葉集僻案抄』『万葉集訓釈』『日本書紀訓釈』『創学校啓』、家集『春葉集』など。」(『大辞林』三省堂)と説明しています。上掲の墓石裏面に、「元文元年7月2日没時年68」と刻されています。享年68歳。国学の四大人とは、荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤の4人を言います。伏見稲荷大社境内の拝殿の東側に、「東丸(あずままろ)神社」があります。伏見稲荷大社とは別の独立した神社です。この東丸神社の祭神が荷田春満です。「明治16年(1883)荷田春満(東丸)に正四位を贈位されたのを記念して社殿を造営し、神霊を奉斎したもの」(資料2)と言います。 上掲写真の右手前にこの長方形の碑が建立されています。 「羽倉可亭翁墓」と上部に篆刻されています。これも墓石です。羽倉一族の一人ということになります。その下には、 この碑文が刻されています。撮った写真を拡大してみますと、その陰刻文字がほぼ判読できそうでしたので、少しチャレンジしてみました。碑文の縦一行分を横一行に対応する形で文字に起こしてみました。□は判読できなかった文字です。 「翁諱良信字子文可亭其號也家世為三峰稲荷社司父延年補權御殿預翁生五 月延年卒同宗目代信賢養之信賢男信資終以為其嗣其妻尚子并河氏有才徳 愛撫教育備盡其力翁年十四叙従五位下任駿河守年十七為非蔵人年十八補 權目代時有所感憤奔江戸遂辞其職實文政五年齢二十四也後漫遊四方以篆 刻書畫為業翁為人磊落不羈淡泊勢利性不嗜酒而好宴遊戯笑踏舞同其酔興 終日不倦少従村瀬栲亭而學刻苦累年又學書及篆刻於僧月峰後更學畫於岡 本豊彦翁之在江戸也遊於大窪詩佛之門又就細川林谷以究篆法之妙宮内省 有命前後刻 御璽六顆又畫山水数幅及為諸親王所刻印章悉留其影以為附 名日天満清流殊篆有栖川親王寵遇手賜黄玉茶銚京都畫學校微其履歴書翁 辞以老衰失□弗聴乃賦二絶以代焉年八十八自張宴於祇園中村楼来聚者凡 百餘名山階久邇二親王亦賜和歌以祝之配咲子信資長女也生男信功通称全 □□性孝順好學而稟質□弱多病翁為之別買彌榮境内竹坊而以居為文久三 年信功先父母而没年三十二翁後令以武部良豊系其後翁以寛政十一年三月 十六日生明治廿年八月十二日没於竹坊享年八十有九葬之於稲荷山翁高伯 祖公春満之墓在 明治廿一年七月」この碑文(漢文)を我流ですが読解して、その意味を大凡訳してみました。少しマニアックかも知れませんが、ご関心があればおつきあいください。上記碑文の判読自体も含め、誤読している箇所が多々あるかも知れません。その節にはご寛恕ください。またご教示いただければうれしいです。「翁の諱(いみな)は良信、字(あざな)は子文、可亭はその号である。家系は三ノ峰稲荷社司である。父延年は御殿預の権を補佐していた。翁が生まれ、五月に父延年死去。同宗目代信賢は良信を養育し、最終的に継嗣とした。その妻尚子は並河氏の出で、才徳あり、愛撫教育し、その力を尽くした。翁は14歳で従五位下に叙され駿河守に任じられる。17歳で非蔵人、18歳で権目代補佐となった。時に憤りを感じる所があり、遂にその職を辞して江戸に出奔した。実に文政5年24歳の時である。その後、四方(各地)を漫遊し、翁は篆刻書画を業とした。翁の人柄は磊落不羈で淡泊、積極的な性格で、酒は嗜まないが遊戯、談笑、舞踏の宴席を好んだ。同様に、その酔興は一日中少しも倦むことがない。村瀬栲亭に師事して刻苦して学び年を重ね、また、書と篆刻を僧月峰に学ぶ。その後、更に書を岡本豊彦に学ぶ。翁が江戸に居るとき、大窪詩仏の門人として過ごし、また、細川林谷に就いて篆刻技法の妙理を究めた。宮内省から程なく以下の制作下命があった。御璽六顆、山水画数幅及び諸親王の為に印章を全て制作して名を残した。曰く天満清流殊に篆ずと。有栖川親王が寵遇され黄玉茶銚を賜られた。京都書画校は履歴書を求めた。翁は己の心身状態を考慮し辞退された。88歳の時、自ら祇園の中村楼で米寿の祝宴を催すと100余名の人々が集まった。また山階・久邇両親王からはこの祝として和歌を賜わっている。」この後、判読できない文字があります。羽倉可亭の家族の事が記されています。その要旨は配偶者は咲子で信資の長女であり、息子が生まれたが父母に先立ち32歳で死亡。可亭は弥栄境内の竹坊を購入。可亭は後に武部良豊を継嗣とした。「翁は寛政11年3月16日に誕生し明治20年8月12日竹坊にて死去した。享年89歳。翁を大変すぐれた先祖(荷田/羽倉)春満公の墓がある稲荷山に葬る」という文で、末尾が締めくくられています。この墓碑は、明治21年7月に、可亭の弟・羽倉信慶氏と義子・羽倉良豊氏により建立されたと末尾に刻されています。 荷田春満の墓の附近には、羽倉姓・荷田姓の墓石が林立していますので、この一角は荷田/羽倉一族の墓域になっています。またこの南東側の墓域は、伏見稲荷大社関連の社家の墓が多く祀られていると以前に聞いた記憶があります。先日、梅原猛先生の「荷田氏と伏見稲荷」と題する一文を読んでいて、なるほどと思うところがありました。この一文は、伏見稲荷大社の宮司、禰宜の方々にヒアリングされ、また提供された膨大な文献や諸研究等を読まれた上で、梅原流の分析と見解をまとめられた一文です。稲荷山に上ると、各峰に社があり、それと膨大なお塚が祀られています。社だけに限定しますと、次の関係があります。 三の峰 下社(白菊大神) 間の峰 荷田社 二の峰 中社(青木大神) 一の峰 上社(末広大神)山の峯に荷田社が祀られていて、荷田氏は伏見稲荷大社の神官(祠官)でもあります。そこで、荷田氏が伏見稲荷大社の歴史のなかで、どういう位置づけになっているのかに関心がありました。以下、梅原先生の一文からの要点の引用です。(資料3)*荷田氏はこの地に稲作農業を持って侵入してくる秦氏以前の土着の民である。*荷田氏の祖先として「龍頭太」なる者のことが語られる。 ⇒龍頭太は蛇の化身。蛇は狩猟採取民である縄文の民に厚く崇拝されて来た。*稲荷の神は、『山城国風土記』逸文をよく読むと、もともとは土着の狩猟採取民の神である。そして、狩猟採取民が稲作農業民に屈伏し、稲作農業を受け入れた神の姿となる。それが稲を荷う背の高い白髪の老人の姿で示される。*稲荷社は明治の初めまでは荷田氏と秦氏の対立と協力によって、社運を発展させてきた。*荷田氏の方は神事の他、世襲で竈(へっつい)職、即ち御殿預職(本殿の管理)や目代職(若宮の管理)に就くのに対し、秦氏は本家・分家平等に専ら神事を司り、上社・中社の神官を経て、最後は下社の神主に至るという。神事は秦氏が司り、荷田氏は本殿・若宮の管理、即ち財政を司ったいうのである。*荷田氏は東羽倉家と西羽倉家のニ家がある。荷田氏は備後国から興った羽倉氏に乗っ取られたといわれる。荷田氏は秦氏より古い。 一方、秦氏は鳥居南家、(西)大西家、(東)大西家、祓川家、松本家、中津瀬家、森家、毛利家がある。伏見稲荷大社はその祭神を含め、神社運営の側面でも奥が深い感じがします。そこに弘法大師空海が稲荷山に絡んでくる側面もあり、ますますこの地は興味深い神々の地と言えそうです。また、上掲の「荷田羽倉大人之墓」や「羽倉可亭翁墓」の家名や碑文中の神職名などの関係も少し繋がってきました。最後に脇道に逸れました。この辺りで、T字路の分岐地点まで引き返し、左の方への道に進みましょう。こちらは以前に拙ブログでご紹介していますが、伏見稲荷大社へ裏道からアプローチすることになります。そこでの新たな探訪を補足して、ご紹介します。つづく参照資料1) 『新版 京のお地蔵さん』 竹村俊則著 京都新聞社出版センター p192-1932) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p673) 『京都発見 一 地霊鎮魂』 梅原猛著 新潮社 p162-166補遺ぬりこべ地蔵(京都市伏見区) :「京都風光」荷田春満 :ウィキペディア荷田春満 :「コトバンク」羽倉可亭 :ウィキペディア羽倉可亭 :「東京文化財研究所」東丸神社 :「神社参拝図鑑」東丸神社 :「古今御朱印研究室」神職、神主、宮司、禰宜などの呼び名について :「出雲大社紫野教会」宮司と神主の違い :「キャリアガーデン」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 伏見稲荷大社細見 -5 四ツ辻・三ノ峰・間の峰・二ノ峰・一ノ峰探訪 伏見稲荷大社細見 -9 周辺(東丸神社、荷田春満旧宅・ぬりこべ地蔵尊・摂取院)
2020.01.16
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この景色はJR奈良線「稻荷」駅から本町通を南に徒歩数分に位置する踏切を渡り、西から「摂取院」の全景を撮った景色です。摂取院は本町通の東側にあり通りに面しています。拙ブログ記事「伏見稲荷大社細見」記で周辺の見所の一つとして簡単にご紹介しています。 宝形造りのお堂の正面に角柱の香炉が立ち、その正面に「腹帯地蔵尊」と刻されています。 須弥壇前の祭壇には蓮池の上を鳳凰が飛翔する化粧幕が張られています。よく見ると五具足の中央手前には小さなお地蔵さまの立像も置かれています。 そして壇の中央には半丈六の地蔵菩薩坐像が安置されています。像高約2.5mで平安時代末期の作だそうです。「腹帯地蔵尊」としてよく知られたお地蔵さまです。山号を光明山と称する浄土宗のお寺で、院号と寺号が同じです。 (資料1,2)このお堂は私の知る限り昼間はいつも正面の格子扉が開放されていて、腹帯地蔵さんの全体のお姿を拝見できて、ありがたいお堂です。 地蔵菩薩の両側の脇壇には、童子像が安置されています。少し調べてみますと、「閻魔王ら十王を従えた地蔵菩薩坐像、矜羯羅(こんがら)童子と制吒迦(せいたか)童子を左右に従えた三尊形式の地蔵菩薩坐像などもある」(資料3)及び「室町時代以後、日本では地蔵菩薩の向かって右脇に掌善童子、左脇に掌悪童子を従えた地蔵三尊形式で祀られるところもある」(資料4)という説明に出会いました。さらに入手した仏像画像の姿を参考にして判断しますと、掌善童子・掌悪童子の方かなと思われますが定かではありません。(資料5) お堂の正面左側に南面してお地蔵さまの小祠があります。ここのお地蔵さまはかわいらしい化粧が施されています。僧衣も含め全体が丁寧に彩色されていました。さて、それでは2つの気になることに移りましょう。JR稻荷駅から上掲の踏切を渡り、右折して琵琶湖疏水に向かいます。 数十m先に、琵琶湖疏水に架かる橋があり、その橋名が「ススハキ橋」です。また、この南北に流れる疏水の東岸沿いの町並から西の南北の通りである「師団街道」までが「深草ススハキ町」という名が付いた地域です。師団街道の西側に龍谷大学のキャンパスがあります。龍大にREC講座を受講に行く際、このススハキ橋を渡り、川端沿いに南に歩き、京阪電車「龍谷大前深草」駅の通路を経由してキャンパスに行くルートを利用しています。この橋名、町名にあるカタカナの「ススハキ」という語句がずっと気になっていました。この地名はどこに由来するのだろうと。ネット検索で調べてもみたのですが、よくわかりませんでした。探訪記をまとめる際によく参照する平凡社刊の『京都市の地名 日本歴史地名大系27』を見ても、記載はありません。さらに地図を見ますと、京阪電車の駅の大半は塚草ススハキ町の南隣りの「深草ケナサ町」に位置します。この町も「ケナサ」というカタカナ名称です。龍大の図書館の書架で探していて、その由来を記した本を発見!”「ススハキ町」の「ススハキ」は「ススグ」の意で、祓川筋に身祓行事に因む町名がついたし、「ケナサ町」の「ケナサ」は足利時代砂川を「ケナサ川」といったところからその古名をつけ”と、いわれの説明がありました。(資料6)ネットで地図を見ますと、深草ススハキ町の北隣りは深草鳥居前町で、その北隣りに「深草秡川町」という町名があります。一方、深草ケナサ町には、「龍谷大前深草」駅の西側に「砂川小学校」があります。「砂川」です。この本の説明がなるほどいう感じ。初めて見出した由来説明です。勿論、これもまた一説ということかもしれませんが・・・・。 ススハキ橋を渡り、琵琶湖疏水の右岸、つまり西岸の川端通りを「龍谷大前深草」駅に向かうときに右側にこの年季が入った感じの小屋の屋根があります。すぐその先に見えるのが京阪電車「龍谷大前深草」駅です。駅舎は高架となっていて、線路の上方に改札口と横断通路があります。この小屋のところが何なのか、気にはなりながらいつも素通りしていたのです。 駅舎のある南側から眺めると、こんな景色です。半ば以上幹が空洞化した大木が傍にあります。「区民の木 アカメヤナギ」と記した木札が立っています。幹の空洞化が進んでいても木はその生命力を維持しています。先日、時間のゆとりがあったので、小屋の西側、川端通りより一段低い地面に回ってみました。 なんとこの屋根は覆屋の屋根でした。数多くのお地蔵さまが集められて祀られている場所だったのです。すぐ傍の川は開削されてできた運河です。その東側の本町通/直違橋通は、旧伏見街道です。運河の開削で出土した石仏や旧街道周辺からこちらに移された石仏などがここに集められたのかもしれません。地蔵石仏がここに集まってこられた理由は不詳ですが、西向きに地蔵石仏が並べられています。 中央後部の左に安置された一体には、はっきりと錫杖の頭部が見える地蔵菩薩立像です。順番に眺めて行くと、ここにも如来形の頭部と思える石仏がいくつか混じって安置されています。二尊形式の石仏も一体あります。 一石五輪塔にも前掛け(涎掛け)が付けられています。 向かって右側のお地蔵さまの光背部分には右に「南無延命地蔵菩薩」、左に「開眼供養」と刻まれています。すごく大きな耳たぶが特徴的です。 左側のお地蔵さまは光背部分に文様が彫刻されていて、左手に子供を抱いていらっしゃる感じです。前掛けの上に頭部らしきものが見えます。子安地蔵尊あるいは水子地蔵尊として建立された石仏でしょうか。 最初に横長の大きな覆屋が設けられ、その時点で集まって来られたお地蔵さまが安置されました。だけど、さらにお地蔵さまがこの地に集まって来られた。そこで、覆屋を順に補って行く事に・・・・という風にして今の形になったのかなあと、想像しました。 大きな覆屋と中の覆屋との境目部分に石柱が立っています。角柱の背後の石の上に立方体の石が置かれています。このサイコロ状の石には梵字が刻されているようです。前の角柱も上部が欠損状態ですが「見大菩薩」という文字から推測すると、「妙見大菩薩」という名称が連想されます。普段この川端の通りを利用するする人々は、この屋根を眺めながら歩いていることと思います。この屋根が何のためのものか意識されているでしょうか? 屋根があること自体、気にしていない人もいるかもしれません。私自身、数えきれないほどこの疏水端を歩いてきました。だけど気に留めながらも素通りしてきました。今回は長らく気になっていた2つの事に一歩踏み込んでみた結果のご紹介です。これでちょと私的にはスッキリしました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 摂取院 :「浄土宗寺院紹介Navi」(浄土宗)2) 摂取院 :「京都通百科事典」3) 『写真・図解 日本の仏像』 薬師寺君子著 西東社 p854) 掌善掌悪童子 地蔵菩薩脇侍 立像 :「粟田こだわり仏像専門店」5) 掌善童子・掌悪童子 :「仏像画像集」6) 『深草を語る』 深草を語る会 財団法人深草記念会 平成25年1月 p129補遺矜羯羅童子 :ウィキペディア制多迦童子 :ウィキペディア写真: “脇仏 掌善童子” 五條市 :「トリップアドバイザー」童子立像 :「MIHO MUSEUM」地蔵菩薩二童子像 :「鶴立山大覚寺」腹帯地蔵 :「コトバンク」京都で必見!安産祈願に霊験あらたかな善願寺の巨大な仏像「腹帯地蔵」 :「サライ」京都の安産祈願寺はココ!伏見区日野「恵福寺」の巨大腹帯地蔵 :「LINEトラベル」伏見区あれこれ : ふしみ昔紀行(平成19年3月) 恵福寺 :「伏見区」広見寺・腹帯地蔵(染殿地蔵)(京都市西京区) :「京都風光」京都:光念寺~常盤御前の腹帯地蔵~ :「yoritomo-japan.com」十輪寺 :「京都観光Navi」水子地蔵とは?合掌と子供を抱いている地蔵には違いがある! :「宮城お墓相談室」洛陽四十八所地蔵霊場巡禮利生記 :「仏教大学 Digital Collections 」アカメヤナギ(赤芽柳) :「樹木検索図鑑」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 伏見稲荷大社細見 -1 表参道から楼門・外拝殿へ 10回のシリーズでご紹介しています。探訪 京都・伏見稲荷大社 もう一つの裏道 -1 奧社奉拝所・竹の下通経由で瀧巡り 3回のシリーズでご紹介しています。
2020.01.13
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京都国立博物館を出た後、久々に七条通から三条通まで歩くことにしました。東大路通あるいは大和大路通を北上して三条通にストレートに歩くことは何度もしていますので、違った道を歩いてみようと、思いました。結果的に歩いたのは、本町通~森下町通~宮川町通~川端通ということに。そして、三条大橋を渡り、西木屋町通を少し南下して終わりとしました。北西角に「七条甘春堂」のあるところが本町通です。本町通を南に歩くことで一度眺めた通りですが、今回は七条通から北上しました。最初に西側に見えたのが通りの東側、「養泉寺」(真宗大谷派)の閉じられた山門です。北側に別に通用門がありますので、日常の支障はないのでしょう。 その先にお地蔵さまの小祠があります。 最初の辻が、正面通との交叉です。正面通の東を眺めた景色です。大和大路通に突き当たり、そこにあるのが豊国神社で、大きな石鳥居が遠望できます。その手前に「耳塚」がある「耳塚公園」が正面通の南側にあります。正面通を渡って本町4丁目に入ります。その北辺から北隣りの本町3丁目に跨がり、東側に「本町公園」があります。 公園の北西隅にお地蔵さまの小祠があり、北側にはさらに石仏が並んでいます。ここのお地蔵さまは、お顔に化粧がしてあります。 本町1丁目に入ると、東側に山門があります。その先の奧の方にお寺が見えます。途中までは民家の通路にもなっているようです。本町通を北から南に探訪した時には、この門前の写真を撮るだけでした。今回は立ち寄ってみました。 鬼瓦の表情がちょっとユーモラスでもあります。獅子の飾り瓦は標準的な感じです。 通路の北側に弁天堂があります。 「亀翁大辨財天」が祀られています。石灯籠の竿に「亀翁辨財天」と刻されています。 本町通に面して山門がありますが、現在のお寺の境内はこの門扉の東側のようです。通路の正面に本堂が見えます。後で地図を確認しますと、「浄雲寺」(浄土宗)です。山門の飾り瓦と同種の獅子の飾り瓦が見えます。 向拝の木鼻と蟇股はごくシンプルな造形です。 門扉の右側の通用門扉が開いていましたので、正面付近の境内を拝見しました。すぐ傍で目にとまったのがこの石標です。一面には「厄除観世音大菩薩」、もう一面には「安産地蔵尊 淨□□」と刻されています。下端の文字は判読できませんが、一文字から浄雲寺というこの寺名と推測します。ということになれば、観音菩薩と地蔵尊が当寺に祀られていると言えます。 本堂の南側には、如来形の石仏や地蔵石仏が祀られています。左の石像は頭部の欠損を、何かの事情で頭部だけ残った地蔵石仏の頭部で補った感じです。これもまた信仰心のなせる形なのでしょう。ほのぼの感が涌きますね。やはり頭部がある方がいい。 奥まった位置にかなりの広がりがあるお寺です。 かつてはもっと境内地が広かったということになるのでしょうね。 本町通から五条通に出たところで、東を眺めた景色です。東山三十六峰のうちの鳥辺山あたりを遠望していることになるのでしょう。五条通を横断し北側の通りを進みます。本町通はこの五条通を起点に南に進む通りです。一方、北に進む通りは微妙に位置がずれています。「森下町通」を北上します。鴨川傍の川端通からは4筋目の通りになります。 延命地蔵尊と記された扁額を掛けた小祠があります。 森下町通は少し北に歩めば、「柿町通」に突き当たり終わりです。この柿町通を東に、つまり山が見えている方向に行くと、すぐに六波羅蜜寺の南側近くに至ります。そしてこの通りは、そのままで六波羅裏門通につながり東に延びています。左折して、一本西側の通りを北上することにします。そこは「宮川町通」です。一方、柿町通よりも南側は「新宮川町通」と称されています。 宮川町通を北に進むと、ここにもお地蔵さまの小祠があります。 少し先で、通りを振りかえて南方向を撮った景色です。この辺りは、昼間は人通りが少ない静かな町並です。 さらに松原通を横切って北に歩むと、また小祠があります。松原通を西に進めば、鴨川に架かる松原橋になります。この松原橋が、かつての五条の橋になります。現在の五条通は、豊臣秀吉が京都の都市改造を行ったときに五条通を南に移して付け替えた結果です。つまり、義経と弁慶が出会って戦ったのは、現在の松原橋あたりということになるようです。これも戦った場所は異説があるようですが・・・・。 宮川町通の北を眺めた景色です。 宮川町は「歴史的景観保全修景地区」に指定されています。右の通路は鴨川と並行する疏水沿いの道路と宮川町通を結ぶ東西方向の道路です。宮川町は、四条大橋の東畔、川端通四条から南の五条通に至るまでの南北約1km、宮川町通に沿った花街を言います。格子造りのお茶屋が軒を連ねている町並です。「江戸初期の寬文6年(1666)鴨川の磧地をひらいて町地とし、四条通の南、宮川筋一町目より松原通の五町目に道路を設け、これを宮川筋とよんだ」のが始まりだそうです。「宮川とは、四条より五条にいたるあいだの鴨川いい、毎年7月10日の夜、四条橋上に於いて行なわれる祇園会の『みこし洗い』の式に、橋下の水をくんで祓いを行なったことから、この名が起こった」と言います。尚、この地が遊里になったのは、宝暦元年(1751)と言われています。(資料1)その後、変遷を経て、今は芸妓と舞妓だけの花街であり、現在は京都の五花街の一つです。 東側に目を転じますと、宮川町の歌舞練場が宮川町通より東側にかなり奥まって建っています。昭和25年(1950)10月に、「京おどり」が創始されたそうです。ここ歌舞練場で「京おどり」が行われるようになったのは、昭和45年(19+50)の第20回からだとか。(資料1) 宮川町通の町並です。 通りの西側にまた、お地蔵さまの小祠。ここは延命地蔵尊と記された提灯が格子戸の内側に吊られています。ここのお地蔵さまはお顔に化粧が施してありました。 団栗通に出る地点でであったお地蔵さまの小祠。ここから川端通に転じます。四条通まではあとわずか。川端通と四条通の交差点からは、左折して、川端通の西側歩道を北上することにしました。 四条大橋北東詰めの近くに建立されている「出雲の阿国」の銅像です。「かぶき踊の祖 出雲の阿国 都にきたりて その踊りを披露 都人を酔わせる」平安遷都1200年記念として建立されたことが、基壇正面の銘板に記されています。歴史年表を見ると、出雲の阿国が京都で歌舞伎踊りを演じたのは1603年と記されています。この年(慶長8年)2月、徳川家康が征夷大将軍となり、江戸幕府を開いています。(資料2)尚、『時慶卿記(としよしきょうき)』には、1600年に宮中で「クニ」という人物が「ヤヤコ踊り」を踊ったという記録があると言います。(資料3) 阿国の銅像から少し北に歩んだところに、このモニュメントがあります。初めて気づきました。この歩道のこの箇所を通ることは今までなかったので知りませんでした。傍に設置された建立主旨を説明した銘板によると、京都の花、紅しだれ桜をモチーフに制作されたモニュメントだそうです。そして、三条大橋に到着! 三条大橋西南詰で南にすこし下がると、川端に地蔵尊が祀られています。 そのすぐ南隣りにもう一つ、お地蔵さまの小祠があります。ここの両方のお地蔵さまの顔は化粧がみられません。この後、河原町通の丸善に立ち寄るために、西木屋町通を歩きました。鴨川の西側に造られた高瀬川の東側が木屋町通です。川の西側の西木屋町通は短い区間だけの通りです。しかし、ここにも地蔵尊の小祠が2箇所あります。 北の方がこれで、覆屋の梁に「大黒福授延命地蔵菩薩」と記されています。残念ながら小祠の内部はよく見えません。 もう一つ南にあるのがこちらです。地蔵尊を祀る小祠です。しかし、同様に小祠内部が見えません。 この小祠の南側に「彦根藩邸跡」の石標が立っています。高瀬川沿いには、江戸時代いくつかの藩邸が並んでいました。これはその一つです。これで、町歩きウォッチングを終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p265-2672) 『新選日本史図表』 監修:坂本賞三・福田豊彦 第一学習社 3) [出雲阿国が作った歌舞伎]かぶき踊りの始まりから女人禁制に至るまで:「歴人マガジン」補遺東山三十六峰 :「Toshimi KOBAYASHI」京都宮川町 公式サイト京都宮川町 facebook宮川町と花街 :「よし富美」京おどり前夜祭 YouTube京おどり 総踊り 宮川音頭 YouTube京都花街・宮川町で「ゆかた会」 YouTube祇園小唄 宮川音頭 YouTube近世の京都にあった各藩の屋敷場所が知りたい。:「レファレンス協同データベース」土佐藩邸跡 :「京都観光Navi」幕末の京都。そもそも、なぜ大名は京都に藩邸を置いていたのか? :「金沢歴活」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都国立博物館「京博のお正月」と二寺の山門風景 へ
2020.01.12
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前回ご紹介したこの案内図から始めます。一つ、空色の大きめの丸を国道169号線の左側に追記しました。「奈良ホテル」があるところです。散策最後の探訪先との位置関係がわかりやすくなると思いますので。国道169号線を南進していたとき、瑜伽神社の名称と方向を示す案内板が目にとまり、その名称に関心をいだきました。それは「瑜伽」という漢字が「ヨガ」の音訳として使われる漢字だったからです。何か関係があるのか・・・・そんな興味が湧いたのです。できれば後で立ち寄ろうか・・・・と。もう一つは、この「山ノ上町案内図」自体についてのことです。この案内図は現在の住所表記では、「高畑町」に立っているのです。この地図で位置関係を見て、天神社正面の鳥居前から西方向への石段を下り、瑜伽神社へ向かいました。後でこの地図の写真をよく見ると、この西に歩んだ道路とその南の県道との間に、「北天満町」「中天満町」という表記があります。つまり、山ノ上町・北天満町・中天満町は、高畑町という形に統合される前の町名だったようです。ウィキペディアの「高畑町」の項に、「域内に江戸期以来の御所馬場町、片原町、北天満町、中天満町、下清水町、中清水町、上清水町、下高畑町、上高畑町、破石町、福井町、丹坂町、閼伽井町、菩提町、山之上町、能登川町などの通称町名があり、ほかに東大路町、下久保町、上久保町、本薬師町、本薬師東町、高畑大道町、橋街道町、高畑南町などもある。」とその記述典拠を示して、説明されています。この通称町名の中に、「下清水町、中清水町、上清水町」とあります。県道傍の地蔵堂に「中清水」と刻されていた根拠がこれで明瞭になりました。またこの三町の名称がかつて玄昉が建立した清水寺の寺域が存在した場所に関係しているのでしょう。最終的に「奈良市高畑町」に改称されたのは、1903年(明治36)だそうです。(資料1) 天神社から西へ緩やかな坂道を下ると、朱塗りの鳥居が見えてきます。 「瑜伽神社」の寺号石標が入口東側に立っています。北方向に参道が延び、二の鳥居の先から石段となり、ここも小高い丘の上に社殿が見えます。左側手前の建物が社務所のようです。 入口を入ると、左側に手水鉢が見えます。正面に「瑜伽山」と太い文字が刻されていて、水の注ぎ口のある石柱には「瑜伽玉井」という文字が見えます。この傍に、「瑜伽神社のこと」という題で、案内文が掲示されています。後でご紹介します。神社名の「瑜伽」は「ゆうが」と読むそうです。 石段を上ると、左側に建物があり、右側には小祠があります。右斜め前の石標には「飛鳥神並社」と刻されています。 小祠の左側には「瑜伽山桜楓歌碑」が建立されています。 春は又花にとひこん瑜伽の山 けふのもみぢのかへさ惜しみてここ瑜伽山は、奈良十六景の中で「瑜伽山の桜」「瑜伽山の紅葉」と二景が選ばれる名所だそうです。歌を詠んだのは江戸時代、天保年間に6年間奈良奉行として在勤した藤原良材、「山城大和見聞随筆」三巻を著してもいる旗本の士だと言います。(駒札より) 詳しくはこの駒札をお読みください。正面には更に石段があり、それを上ると、 両側に阿吽形風の狐の像が見えます。 正面に南面する唐破風の拝所が設けられ「瑜伽本宮」と記された扁額が掲げてあります。 唐破風の獅子口の下の破風部分に、菊花の紋が付けられています。祭神は宇迦御魂大神です。別名を豊受大神と称し、伊勢神宮の外宮に祀られる祭神と同じとのこと。祭神との関係から、狐の像が置かれていることが頷けます。 「瑜伽神社略記」の駒札が掲げてあります。 こちらは上記に後ほどと記した入口に掲示の案内文です。当社の沿革の要点を箇条書きにしてみます。*かつては、飛鳥神奈備に飛鳥京の鎮守社として当社が祀られていた。*平城京遷都に伴いこの地に遷宮した。この地は「平城ならの飛鳥山」と称される。*元は元興寺禅定院の鬼門の鎮守社で、飛鳥古京の本宮に対し「今宮」と称していた。*中世、平安時代にこの山麓に興福寺の大乗院が建ち、大乗院の鎮守社となった。*神社名が興福寺の宗論の「瑜伽」に改称された。この沿革から、「平城の飛鳥」と称される理由と「瑜伽」の由来がわかりました。尚、平城遷都に伴い明日香の地よりこの平城の地に遷座した神について。調べていて入手情報の相互関係から理解したことなのですが、一説として、当初はどうも飛鳥坐神社の祭神が当地に今宮として遷座されたとあります。その祭神は「飛鳥の神奈備に祭られていた大己貴命の娘の賀夜奈留美命」とか。この神は現在、上掲の摂社「飛鳥神並社」として祀られていて、「摂社飛鳥神並社 瑜伽大神の和魂を祀る」と説明されています。(資料2)この瑜伽神社の祭神にもその後変遷がうかがえるようです。興福寺は法相宗大本山です。法相宗は唯識宗とも言われるように、唯識説を説く宗派です。瑜伽行唯識学派は単に唯識学派とも言われ、サンスクリット名ではヨーガーチャーラーと称すると言います。瑜伽神社の名称がヨーガの音訳である瑜伽が結びついてきました。興福寺北円堂に安置される像として有名な無著・世親は瑜伽行派の立場を確立宣揚した学僧です。尚、瑜伽行派は、正統バラモン系統のヨーガ学派とは別のものです。(資料3,4)探訪結果を総合すると、天神社と瑜伽神社がともに、元興寺禅定院ならびに大乗院の鎮守社だったことになりますね。 石灯籠の竿に「瑜伽大権現」と刻されています。本地垂迹説の一端がこの表記に見てとれます。神仏習合の時代の姿がここに残っています。 本殿に向かい右側斜め前(東側)の景色です。 万葉歌碑 ふる里の飛鳥はあれど青丹よし 平城ならの明日香を見らくしよしも万葉仮名で刻した大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)の詠んだ歌碑が建立されていて、右側に駒札が立っています。 『万葉集』巻六、992番に撰集されている歌です。天平5年(734)の作。大伴坂上郎女は大伴旅人の妹で、万葉時代の女流歌人の一人です。女性歌人としては入集されている歌が最多と言います。最終的には氏族の巫女的存在として大伴氏を支えた女性としても有名です。『口譯萬葉集』で折口信夫(釈迢空)はこの歌を、「昔住んでゐた飛鳥は、勿論よい所だが、奈良の飛鳥も、なかなか見るのに、愉快な處だ」と訳しています。(資料5) 一言稲荷社 「飛鳥之御井」と刻された石標が立っています。 西側にも境内社が祀られています。左が猿田彦神社(祭神:猿田彦大神)、右が久恵比古社(祭神:久延彦大神)です。猿田彦神とは、天照大神が天孫・瓊瓊杵尊に中つ国へ降り始めよと命じたときに、その先導を名乗り出た国津神です。鼻の長さは七咫(ななあた:上代における長さの単位)で、口尻明るく、目は鏡のようで赤ら顔だったと伝えられる特徴を持つ神様です。一方、久延彦神(くえびこのかみ)は、『古事記』の中で、出雲神話に登場する神です。神名の由来は「神体の朽ち果てた男性」で、知恵の化身。足は行(ある)かねども天下の事をことごとく知れる神とされています。山田の曾富騰(そほど)という者だといわれています。案山子(かかし)を意味します。民俗信仰による案山子は、田を守り収穫をもたらす神と考えられているそうです。(資料6) この境内地から西方向を眺めると、国道169号線が直下に見え、その先に奈良ホテルへの通路が見えます。この国道169号線で分断されるまでは、ここ瑜伽山と奈良ホテルが建つ鬼薗山がつながっていて、中世には瑜伽山城、西方院山城・鬼薗山城があったところでもあるそうです。(資料7) 南東寄りの方向を眺めてパノラマ合成しました。ここからも奈良盆地を眺望できる確かにいい場所です。今では樹木が少し邪魔になりそうですが・・・・。奈良十六景に取り上げられた時季に再訪してみたいものです。ここまで奈良散策が終わりました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 高畑町 :ウィキペディア2) 瑜伽神社 :「神奈備にようこそ」3) 瑜伽行派 :「コトバンク」4) 瑜伽行唯識学派 :ウィキペディア5)『折口信夫全集 第四巻 口譯萬葉集(上)』 中公文庫6) 『日本の神様読み解き事典』 川口謙二[編著] 柏書房7) 瑜伽神社 :「奈良観光.jp」補遺大伴坂上郎女 :「千人万首」飛鳥坐神社 :「旅する明日香ネット」飛鳥坐神社 :「古都飛鳥保存財団」由加神社本宮 由加大権現本社 ホームページ法相宗 :「全日本仏教会」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 奈良国立博物館 <法隆寺金堂壁画写真ガラス原板>と<おん祭と春日信仰の美術> へ探訪 奈良市 奈良公園周辺散策 -1 興福寺境内・荒池・青田家住宅・福智院ほか へ探訪 奈良市 奈良公園周辺散策 -2 県道傍の地蔵堂・天神社 へ
2020.01.09
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西面する福智院の門前、南北の道を北に歩みます。前回大きな交差点と称していたのは、南北に通る国道169号線と東西の通りとの交差点「福智院北」です。東西の通りは西方向が「ならまち大通り」で、東方向が県道80号線です。この大きな交差点の北西側に「旧大乗院庭園」「大乗院庭園文化館」があります。福智院前の通りから県道80号線に出ると、右折して東に行きました。南側歩道脇で出会ったのが、冒頭の少し大きな地蔵堂です。 格子戸の前に、角柱の香炉があり、正面に「卍 地蔵尊」と刻されていて、右肩に「中清水」と刻まれています。現住所は高畑町内となります。この「中清水」から連想したのは、福智院内の案内板に記されている玄昉が清水寺を建立したという説明の寺名「清水」です。調べてみますと、やはり関係がありそうです。一つは、毎日新聞「やまと百寺参り」の記事を掲載引用されているブログ記事を見つけました。(資料1)もう一つは、福智院のホームページがあることを今日知り、そこからもその関係が見えてきます。(資料2) 格子越しに堂内を拝見すると、地蔵尊を線刻した大きな船形状の石仏が一基安置されています。地蔵尊像がおぼろげに見えるくらいです。 石仏画像をグレースケールの変換して色調補正の処理をしてみて、少し線刻像の姿を推測しやすくなるかなという程度です。ご覧いただき貴方の想像力を働かせてみてください。 堂内には石仏の背後に小さな厨子が置かれ、また小ぶりな地蔵石仏なども傍に置かれています。地蔵堂の少し先で道路を左折して、北方向の通りに入ります。しばらく進むと、 石段参道が北西方向に見えます。 石段参道を上がってみると、奈良町が一望できる場所です。奈良町エリアで一番高いところにあたる小高い丘陵地にあります。勿論、ここから生駒山地・矢田丘陵・金剛山地など奈良盆地を囲む山々を遠望できる場所でもあります。そろそろ夕刻に近づいてきました。西方向に下る参道も見えます。 下から眺めた朱塗り鳥居は、「天神社」と記された扁額が掲げてあります。「天神社」と赤地に白抜き文字で天神社と記した幟も立っています。自宅でネットの地図(Mapion)を参照しますと「天神大神社」と表記されています。また、奈良町天神社とも呼ばれているようです。 鳥居をくぐり抜けると右側に「天神社縁起」が掲示されています。この境内地一帯は、奈良時代(8世紀)には、「平城の飛鳥」と呼ばれる聖地だったそうです。最初に祀られた祭神が少彦名命(すくなひこなのみこと)で、手間天神と呼ばれ、医薬や学問の神としてあがめられたとか。平安時代に御霊信仰の広がりの中で、菅原道真の霊が相殿として併せて祀られることになったそうです。道真の霊は天満天神とも呼ばれます。つまり、この天神社の天神には二重の意味合いがあることになります。天満天神が祀られたのは、社伝では白河天皇の時代だとか。 鳥居の斜め左(北西側)にある総霊社 丘陵の斜面が開平されて境内地になっていますので、すぐ前に石段があり上段に「割拝殿」が建てられています。中央の通路の先は更に一段高い境内地で、社殿が見えます。割拝殿の蟇股には星梅鉢紋が陽刻されています。 割拝殿を通り抜けると、石段手前右側に手水舎があります。その背後、石段を上がったところに石造臥牛像が奉納されています。これを見ると菅原道真、北野天満宮を連想します。 石段を上がり参道を歩めば両側に狛犬が配されています。 その先に唐破風の拝殿があります。「天神社」と記された提灯が左右に吊り下げてあり、紫色の幕が張り巡らせてあります。大きな剣梅鉢紋が白抜きになっていますので、雰囲気的には天満天神の方に比重がかかっている印象です。今では、やはり学問の神としての菅原道真の方がよく知られているからかもしれません。 拝殿前から眺めた本殿 本殿の西側には「神楽殿」があります。 神楽殿の前を奥に進みます。境内地北西隅の建物が何かは不詳。その東側に境内社として「浅間社」(祭神:木花咲耶姫命・このはなさくやひめのみこと)があります。 本殿を囲む瑞垣の背後を通り東側に行って見ますと、境内社として「秋葉社」(祭神:火之伽具土神・ひのかぐつちのかみ)があります。 境内を巡っておもしろいと思ったのは、様々なスタイルの石灯籠が献燈されていることです。石灯籠の竿に「凱旋記念燈」と刻されているのは日露戦争を背景にした献燈でしょうか。時代の雰囲気がこの刻銘と奉納に垣間見えるようです。 この境内地の南東隅に「祓戸社」が祀ってあります。 割拝殿の一部は社務所になっています。その前の境内地を東に歩むと、「稲荷社」(祭神:宇賀御魂神・うかのみたまのかみ)があります。 本殿の東側の一段低い境内地で、稲荷社の北側には池があります。そして池の北西側に「柿本社」(祭神:柿本人麻呂)が祀られています。 その東側、一層池に近い位置に「住吉社」(祭神:三柱筒男神・みはしらのつつおのかみ)があります。 池を東側に回り込み、本殿境内地の西方向を眺めた景色です。東西に細長い境内地です。 天神社の東門を出て、東から眺めた天神社の景色です。西日が木漏れ日となっています。築地塀で囲まれていますので、縁起の末尾に記載されている、「元興寺禅定院あるいは興福寺大乗院の鎮守となり」というかつての状況を記す一節がうなずける雰囲気です。 春日大社表参道の途中、あるいは浅茅ケ原を通り抜ける形で、北から南に向かってくると、この朱塗りの鳥居が一番近い入口になります。 この鳥居前の道路を挟み、東側(紫色の丸)に「山ノ上町案内図」が設置されています。上辺が北ですので、方位通りのイラストマップです。位置関係がわかりやすい様に追記しました。案内図の南辺に福智院と黒字で記入しました。もう少し南だと思いますが、位置関係はこれで掴んでいただけるでしょう。緑の丸あたりが、冒頭の地蔵堂付近です。荒池の傍を国道169号線沿いに南下して、福智院北の交差点に出るまでに出ていた「瑜伽神社」の方向を示す看板が気になっていました。そこで、この後、奈良散策の最後の探訪箇所をこの神社にしました。 天神社から西方向への石段を下り、振り返って見上げた景色です。つづく参照資料1) 奈良市の福智院、毎年6月18日に玄昉(げんぼう)忌/毎日新聞「やまと百寺参り」第9回 :「tsudaブログ『どっぷり!なら漬』」2) 福智院について :「南都 福智院」補遺南都 福智院 ホームページ北野天満宮 ホームページ富士山本宮浅間大社 ホームページ秋葉山本宮秋葉神社 ホームページ伏見稲荷大社 ホームページ住吉大社 ホームページ柿本神社(明石市) ホームページ祓戸大神 :ウィキペディア祓戸大神 :「玄松子の記憶」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 奈良国立博物館 <法隆寺金堂壁画写真ガラス原板>と<おん祭と春日信仰の美術> へ探訪 奈良市 奈良公園周辺散策 -1 興福寺境内・荒池・青田家住宅・福智院ほか へ探訪 奈良市 奈良公園周辺散策 -3 瑜伽神社 へ
2020.01.08
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奈良国立博物館に行く前に三条通から興福寺の南東側の石段を上り、興福寺の南円堂前を通り抜けました。 南円堂の軒丸瓦には、「南円堂」の文字が記されています。浪を表象したものと獅子の飾り瓦が使われています。 いつもこの参道を通り抜けるのですが、南円堂の南側に鐘楼があるのを今まであまり意識していませんでした。 南円堂の斜め前のお堂に安置されている不動明王坐像です。日差しの関係で堂内が明るく撮れました。 五重塔の傍を通る度に、塔全景と鬼瓦の写真を撮っています。やはり青空の方がいい。 東金堂と屋根の鬼瓦奈良国立博物館には2つの特別陳列を鑑賞に行きました。この内容は前回ご紹介しています。ここからは、奈良博を出た後の周辺散策のご紹介です。興福寺境内や東大寺、春日大社は初詣客で一杯ですので、人混みの名所は避けて南の方向を少し散策してから帰ることにしました。国道169号線(興福寺境内地の東側)を南に進みます。春日大社表参道の一の鳥居のある交差点あたりまでは初詣客でけっこう混雑しています。そこを通り過ぎて道沿いに進めば、人通りは極端に減ります。 国道169号線の東西両側には「荒池」があります。西側は奈良ホテルの敷地になっていますので、高い鉄柵が道路に沿って設けられていますが、東側は歩道に沿って低い柵があるだけです。 東方向のズームアップ 池の畔には鹿がいました。他にも数頭がゆったりと池傍を移動しています。 池の南西端に近い歩道から撮った荒池の全景をパノラマ合成しました。 歩道沿いの池西辺の柵が終わる辺りに、お地蔵さまが祀られています。南側側面には「南無阿弥陀仏」と刻されています。北側面を見ますと「交通安全」と刻まれていました。この辺りでかつて交通事故でもあったのでしょうか。お地蔵さまはそれほど古いものではなさそうです。この先には大きな交差点があり、横断した先に福智院町のバス停があります。ここで左折して、通りを東に歩みます。この通りを「頭塔」のある所までまず東進してみました。 通りの北側には趣のある町家があります。 奈良市指定文化財に登録されている「青田家住宅」です。江戸時代、嘉永年間(1848~1854)に建造された商家です。「横田屋」という屋号で代々醤油の製造販売を行われてきたと言います。 この通りの南側に、この町家も見かけました。 「頭塔」の入口まで行きましたが鍵が掛けられていました。開いていれば・・・と思ったのですが、残念でした。以前に2回訪れているので、まあいいか・・・と、引き返すことに。通りを戻れば、南側に「福智院」があります。以前に奈良の探訪講座でこの傍を通りすぎるだけとなっていましたので、開門されていれば訪ねて見たかったお寺です。山門が開いていました。 本堂(重文)本堂は閉められていました。格子ガラス窓も布で閉ざされています。通りに掲示の標識に、「地蔵大仏」という表記が出ていますが、その仏像は残念ながら拝見叶わずです。本堂前面の右側に案内板が置かれています。「寺伝では、奈良時代に聖武天皇の勅願により玄昉(げんぼう)が清水寺を建立し、その経蔵を鎌倉時代に本堂として再興し、福智院と称したと伝えられています。 本尊の地蔵菩薩坐像は、像高約2.73mの大作で、威風堂々とし、光背にも千体地蔵を表わしています。像内の墨書などにより、1203年に福智庄(現奈良市下狭川町附近)で造られ、1254年に当地に遷されたと考えられます。1283年の『沙石集(しゃせきしゅう)』にも霊験あらたかな『霊仏』と記されており、鎌倉時代の南都の代表的な地蔵像です。 本堂は、細部に大仏様を用いることや、本尊の墨書などから、1254年の建立と考えられています。高い内部空間をもつのが特徴で、柱を高い位置で継ぐことなどから、大きな本尊を安置するために前身建物を造り替えた可能性もあり、南都仏教の復興期にあたる鎌倉時代の堂のひとつとして貴重です。」(案内文転記) 本堂正面に「地蔵大佛」と記された扁額が掲げてあります。 向拝の頭貫の木鼻には草花文が彫刻されています。あまり見かけない造形です。蟇股には獅子と草花が透かし彫りにされています。 向拝の屋根には、獅子の飾り瓦が見えます。こちらは一般的な獅子像です。 本堂の左斜め前に、手水鉢置かれ、その背後に石造地蔵菩薩立像が建立されています。基壇正面に「御願(おねがい)地蔵尊」と刻されています。 手水鉢の龍像は興味深い姿です。龍口が水の注ぎ口なのでしょう。 また、地蔵菩薩像の基壇右側面に、六地蔵を線刻した石板が置かれています。 山門を入った左方向の築地塀前にお堂があります。「勝軍地蔵尊」と記された扁額が掲げてあります。右側の柱には、このお堂には併せて不動尊と毘沙門天尊が安置されているとの表記があります。堂内を拝見できないのが、これまた残念なところです。 その斜め前にこの「玄昉僧正顕彰之碑」が建立されています。この末尾から福智院の山号が「清冷山」ということがわかりました。福智院がここに存在する淵源に玄昉僧正がいたということを当寺を訪れて初めて知りました。後で調べていて、探訪地の相互関係などが奇しくもいささか明らかになってきました。少し、脇道に入ります。玄昉と諸般の関係についてです。玄昉は奈良時代前期、大和の阿刀氏の出だそうです。天智天皇から岡本宮を賜り、龍蓋寺(岡寺)を建てた法相宗の義淵に師事して、七上足と称される優秀な僧の一人となります。後の6人は、行基・宣教・良敏・行達・隆尊・良辨です。(資料1)玄昉は716年学問僧として入唐し法相宗の智周に師事し、在唐19年に及びます。遣唐使の帰国船にて、日本に帰国します。その時の入唐大使は従四位上の多治比真人広成です。聖武天皇の天平6年11月20日に種子島に帰着。翌年(735)3月10日に、遣唐大使らは「唐国より帰朝し節刀を返上した」と『続日本紀』は記録しています。そして、3月25日、「遣唐使一行が天皇に拝謁した」のです。この一行の中に、吉備真備が入唐留学生として帰国しています。唐国内で玄昉と真備が出会っていたのかどうかは不詳ですが、少なくとも帰国船では交流があったのではないかと想像します。「4月26日 入唐留学生で従八位下の下道朝臣真備が唐礼130巻・・・・・・平射箭(いたつきのや)十隻(・・・)を献上した」と記されています。玄昉は「帰国に際し、『開元録(かいげんろく)』に記載されている5000余巻の経論を請来(しょうらい)したものと思われ、以後、日本の写経の書目が増大した。」(資料2)と言います。737年、「8月26日 玄昉法師を僧正に任じ、良敏法師を大僧都に任じた」(資料3)という風に、玄昉の地位も高まります。玄昉は帰国後、興福寺に法相宗の最新の状況を伝えたことでしょう。上掲の興福寺南円堂には、「木造法相宗六祖坐像」(国宝)が安置されています。その中に、「玄昉像」(像高84.8cm)が含まれています。「興福寺法相宗興隆に貢献のあった学僧」として崇敬されているのです。(資料4)玄昉は「皇太夫人藤原宮子の看病をして功あり、宮中の内道場に仕える。それを契機に政治に参与し、吉備真備とともに藤原氏にかわって権力を振るい」(資料2)という立場になっていきます。それが吉備真備・玄昉らの排除を要求した藤原広嗣の乱の原因となったと歴史は伝えています。乱を起こした藤原広嗣は敗死しますが、玄昉もその後、745年に九州筑紫(福岡県)の観世音寺に左遷されるという結果となります。『続日本紀』は天平18年(746)の編年史中に次の記録を残しています。「六月十八日 僧の玄昉が死んだ。玄昉は俗姓を阿刀氏といい、霊亀二年に入唐して学問に励んだ。唐の天子(玄宗)は玄昉を尊んで、三品に准じて紫の袈裟を着用させた。天平七年、遣唐大使の多治比真人広成に随って帰国した。帰国に際して仏教の経典およびその注釈書五千余巻と各種の仏像をもたらした。日本の朝廷でも同じように紫の袈裟を施し与えて着用させ、尊んで僧正に任じ、内道場(宮廷内で仏を礼拝修行するところ)に自由に出入りさせた。これより後、天皇のはでな寵愛が目立つようになり、次第に僧侶としての行ないに背く行為が多くなった。時の人々はこれを憎むようになった。ここに至って左遷された場所で死んだのである。世間では藤原広嗣の霊によって殺されたのだと伝えている。」(資料3)権力者の側での正史に類いする歴史書にはこういう形で記載されています。法相宗並びに仏教の興隆に大きく寄与した優秀な傑僧だったことは間違いないことでしょう。松本清張が玄昉を登場させる小説『眩人』を発表していることを思いだしました。もう一つ、『平家物語』巻七には、「八 玄昉の事」という一節があります。その後半に「天平十八年六月十八日、筑紫国御笠郡太宰府の観世音寺、供養せられし導師には、玄昉僧正と聞こえし。高座に登り鐘打ち鳴す時、俄に空かき曇り雷おびただしう鳴って、かの僧正の上に落ちかかり、その頭を取って雲の中へぞ入りにける。これは広嗣調伏せられし、その故とぞ聞こえし」という記述があります。その後、翌19年6月18日、枯髑髏(しゃれこうべ)に玄昉という銘を書いて興福寺の庭に落とされたという記述が出て来ます。「その弟子どもこれを取って塚につき、その内に納めて、頭墓と名づけて今にあり。これによつて、広嗣が亡霊を崇められて、肥前国松浦の、今の鏡の宮と号す。」と語り伝えています。この最後は藤原広嗣への御霊信仰に繋がっていくことになりますが、『平家物語』が形成された時代には、そういう伝承が広まっていたのでしょう。(資料5)ここに記された「頭墓」が、上記の「頭塔」だと伝承されてきたという繋がりです。さて、脇道が長くなりました。元に戻ります。本堂の右側境内を拝見しました。 山門を入った右側は、築地塀沿いに細長い庭があり、南の奥に庫裡等が位置するようです。その手前に、築地塀で仕切られた手前に、石造観音立像が建立されていて、その回りに数多くの地蔵石仏が祀ってあります。 また、本堂のすぐ南側にも、大きな水鉢と数多くの地蔵石仏が集めて祀られています。 その背後、東側には「大乗院門跡地蔵堂墓所」と刻まれた石標が北東隅に立ち、長方形に区画された墓域があります。南側の最前列に、五輪塔が八基、誰の墓であるかを示す石標とともに横一列に祀られています。その背後には整然とかつ密集して墓石が祀られています。 墓石をよく見ますと、五輪塔が浮彫りにされています。大乗院に関係した僧たちの墓所なのでしょう。素直に考えると、地蔵堂というのがこの福智院の現在の本堂にあたりそうです。大乗院というのは興福寺の塔頭として創建された門跡寺です。摂政藤原師実の子尋範が入室して以来、藤原摂関家の子弟が門主となった寺であり、一乗院と並び交互に興福寺の別当に任じられた寺です。(資料6)元大乗院の庭園は、この福智院からみると国道169号線を挟み北西側に所在します。序でに、一乗院は、還俗して織田信長の支援で将軍となった足利義昭が、一乗院に入り覚慶と称して住んでいた寺として名を残しています。(資料7)大乗院、一乗院はともに明治維新で廃寺となりました。 墓所に立つ石造地蔵菩薩立像福智院に集うお地蔵さまを見仏しておきましょう。 墓所域のすぐ前に北向きに立つお地蔵さま。 二尊を浮彫にした石仏もあります。 宝篋印塔を浮彫にした板碑 地蔵尊を浮彫にして、その両側に戒名(法名)を刻んだものもあります。これらは墓石として作られたものでしょう。お地蔵さまには、人々の思いが込められているのだと思います。 福智院を出るにあたり、山門の左側に置かれていた案内をご紹介して終わります。「祈りの回廊」という企画の一環なのでしょう。秘宝・秘仏特別開帳が期間限定で行われるそうです。「2019年9月~2020年3月 秋・冬号」として、3/17~3/23がこの企画での福智院のご開帳の最後の期間となるようです。(資料8)福智院を出た後、北側に位置する東西の通りに出て、JR奈良駅に戻る前に、初めての道を散策することにしました。つづく参照資料1) 『新・佛教辞典 増補』 中村元監修 誠信書房2)玄昉 :「コトバンク」3) 『続日本紀 全現代語訳』 宇治谷孟 講談社学術文庫 (上)p132、(中)p534) 木造法相宗六祖坐像 :「興福寺」 5) 『平家物語 上巻』 佐藤謙三校注 角川文庫ソフィア p332-3336) 大乗院 :「コトバンク」7) 足利義昭 :「コトバンク」8) 祈りの回廊 2019年9月~2020年3月 秋・冬号:「なら旅ネット<奈良県観光公式サイト>」補遺玄昉 :ウィキペディア玄昉 :「古寺巡訪」玄昉の墓<福岡県太宰府市>と頭塔<奈良県奈良市> :「源平史蹟の手引き」史跡 頭塔 :「なら旅ネット<奈良県観光公式サイト>」史跡 頭塔 :「奈良県」史跡頭塔発掘調査報告 :「全国遺跡報告総覧」足利義昭 :ウィキペディア名勝旧大乗寺庭園(名勝大乗院庭園文化館) :「NARA Traditional Guide」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。) 観照 奈良国立博物館 <法隆寺金堂壁画写真ガラス原板>と<おん祭と春日信仰の美術> へ探訪 奈良市 奈良公園周辺散策 -2 県道傍の地蔵堂・天神社 へ探訪 奈良市 奈良公園周辺散策 -3 瑜伽神社 へ
2020.01.07
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亀の水不動尊の少し先の分岐点から、山側の一番高いと思える道路をまず選択し、一種大凡の方向判断で進んで行きました。途中で、「京都イエス之御霊教会」の案内板がありました。後で地図を確認しますとそこはまだ北花山山田町です。この町は山に沿って細長くのびた形の区域になっています。その先で北花山大峰町の住所表示と再び北花山山田町の住所表示が行程の記録写真にありました。そして、JR琵琶湖線の線路下の隧道を抜けて進みました。結果的に目にとまったのが、冒頭の築地塀の角を切って設けられた「子安地蔵尊」です。 それだけではありません。そこはお寺の築地塀ですが、ずらりと築地塀沿いにコンクリート製のお地蔵さまが安置されているのです。後で調べてみて、中嶋利彦作ということを知りました。(資料1) 反対側から眺めた景色です。 西側の門を入り境内を拝見しましたが、ご紹介は本来の山門から始めます。 山門にむかって左側に寺号標石があります。「臨済宗妙心寺派 崋山寺」です。右側には、「愚堂国師入定地 崋山寺」と刻された石標が立っています。愚堂国師は愚堂東寔(ぐどうとうしょく,1577~1661)のことで、妙心寺住持を三度勤めた臨済宗の高僧だそうです。「近世初頭における臨済宗復興の先駆的人物であったが,万治元(1658)年に華山寺を建立して退隠し,この地で入滅した。」(資料2)と言います。 崋山寺を開山した僧です。この寺地には慈徳寺の旧跡になるそうです。(資料1,2)余談ですが、後で地図を見ますと、崋山寺の南側に、隣接して「元慶寺」があり、元慶寺の方が良く知られています。『都名所図会』にも「花山」の見出しの中で登場します。(資料3) 山門は薬医門の形式です。境内地からみた門の左側塀ぎわに大木がそびえています。 門前から撮って見ました。上掲の塀にこの「ケヤキ」の説明板が掲示されています。平成16年3月に「京都市指定保存樹ケヤキ」として指定登録されています。山門を入ると正面に庫裡が見えます。庫裡の西側に 本堂と思える建物と宝形造り屋根のお堂が並んでいます。本堂は南面しているようです。 山門東側・塀際の石塔 山門を入り左側にある鐘楼 撞座の上部、縦帯に「南無聖観世音菩薩」と陽刻されています。また、別の縦帯に「聖観音寺」という名称と住職名が陽刻されていますので、聖観音寺からここに移された梵鐘かもしれません。 こちらは山門西側の塀際です。 地蔵菩薩立像は西面して安置されています。 その両側に数多くの小ぶりなお地蔵さまが集まっています。 いずれもコンクリート製のようです。お地蔵さまの表情がいいですねえ・・・・。 それらの西側に、「花山院之墓」と刻された石標が立つ三基の五輪塔が並んでいます。 詳細不詳。この墓の北側、塀のそばにも、 お地蔵さまが並んでいます。お地蔵さまの微笑みに満たされて、寺を出ました。 すると、お寺の東北角の北面下隅龕にも石造地蔵菩薩立像が祀られています。崋山寺は境内が地蔵尽くしのお寺でした。北花山河原町に所在します。 崋山寺前の道路を東に進むと、またお地蔵さまの小祠が目にとまりました。最初の辻の南東側が花山中学校です。ここが華山寺を訪ねる目印になります。右折して、南進すると府道116号線に至ります。そのまま道沿いに南に歩めば、国道1号線に至ります。地図を見ますと、花山中学校の背後(東)には、旧安祥寺川が南下していきます。この川端の道路を利用するのもいいかもしれません。この日の探訪は国道1号線に出たことで終了です。今回のご紹介は、年をまたぎました。ご覧いただきありがとうございます。今年もお立ち寄りいただき、参考になるようでしたら幸いです。今年もよろしくお願いします。参照資料1) 崋山寺(京都市山科区) :「京都風光」2) 愚堂国師入定地 :「フィールド・ミュージアム京都」3) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p302補遺愚堂東寔 :「コトバンク」山科だより「山科区民誇りの木」 渡邉好造氏「花山院之墓」について :「鏡山次郎 ホームページ」 元慶寺 :ウィキペディア元慶寺 :「京都観光Navi」(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 山科を歩く -1 日岡:名号石・題目碑・京津国道車改良工事記念碑・車石関連諸史跡ほか へ探訪 京都 山科を歩く -2 日岡峠の旧東海道(地蔵尊の小祠・光照寺・大乗寺・量救水と亀の水不動尊ほか)へ
2020.01.03
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前回ご紹介した『都名所図会』の載る日岡峠の挿絵から始めます。(資料1)赤丸を付けた牛と牛車が描かれている方が京都側です。赤色の番号1が「姥が懐」と呼ばれていた場所で、番号2が「日の岡」です。そして幕末の慶長年間、日岡に新道が作られたとき、京都側は姥が懐の辺りで日岡峠を通る東海道と新道が合流するということを『城州日岡峠新道図紀』のご紹介で触れました。(資料2)そして、「車石公園」から坂道を少し御陵駅側に戻ると、府道と旧東海道との分岐点があると最後に説明しています。 京都側から来ると、この表示が目印になります。左側に府道があり坂道が下り勾配です。一方右側が旧東海道で、上り勾配の坂道になっています。つまり、この辺りは江戸時代に姥が懐と呼ばれたエリアに相当するようです。現在の地名は「山科区北花山山田町」です。住所表示板がありました。現在の旧東海道は乗用車一台が通れる程度の道路幅になっていて、道路の両側は家が連なっています。今では高台にある住宅地の中の道路という雰囲気です。 旧東海道を歩き始めると、お地蔵さまを祀る小祠が目に止まり始めました。 そして、この家が目にとまりました。右側の倉の前の樹木の根元に表示があります。それには「150 years house」(築150年の家屋)と記されています。外国人の人が結構旧東海道を訪れるのかもしれません。 その家への坂道に近づいてみると、こんな休憩できる雰囲気の場所が見えました。柱には「山科牧畜場牛乳搾取所」という木札が掲げてあります。そこに認可日付と認可番号が記されています。明治時代の認可です。この家の古さの傍証となっています。 この家の前あたり、道路の反対側に「旧東海道」と刻された石標が立っていて、樹間から府道が下方に見えました。かつての新道に相当します。 石仏の頭部を眺めると、お地蔵さまとは思えない形状のものがあります。それもお地蔵さまとして祀られているのかもしれません。 1箇所だけ、「天道大日如来」と記された提灯が吊るされている小祠があります。しかし、その小祠内にお地蔵さまのような石仏も安置されています。洛中を含めて、時折提灯を堂内に吊るし「天道大日如来」を祀る小祠を見かけます。 いつ頃から祀られているのかわかりませんが、次に訪れた光照寺までの北花山山田町の区域に沢山の小祠が目にとまった次第です。 その先にお寺があります。後で調べてみますと「頂後山源空院光照寺」です。 石段の手前にあるこの石標が目に止まりました。当寺ホームページの記述を参考にすると「当寺は法然上人の御霊跡でもあります」と記されていますので、「円光大師□□跡」(判読できない文字あり)と刻されているのはそのことを意味するのでしょう。「行基菩薩が草創された後、光照法師が再興され、浄土宗に改宗された事がきっかけとなり光照寺と名づけられました。」とのこと。当寺は800年以上の歴史があると言います。(資料3)「『東海道分間延絵図』(江戸末期)では、光照寺の北側辺りに「義経千本松」「高札場」『毘沙門堂』が記されているが、現在その跡はない。」(資料4)とのこと。また、「三条海道筋山科郷麁絵(そえ)図」には、後でご紹介する梅香庵とともに、光照寺が図の中に明記されています。(資料5)上掲『都名所図会』の粟田口日岡峠図に光照寺が描かれていないのは単なる省略でしょうね。 石段を上って行くと、「善光寺如来」と上部に刻された三尊石仏があり、 その側にいくつか如来形の石仏も並んでいます。石仏にはすべて前掛け(涎掛け)を付けてあります。これらはすべてお地蔵さまとして信仰されているのでしょうか。区別されているのでしょうか。 その先に、近年建立されたと思える石造阿弥陀如来坐像が見えました。左隣りの無逢塔の塔身に「南無阿弥陀仏」、竿に「暦代蓮華蔵」と刻されています。蓮華蔵とは蓮華蔵世界を意味するものと思います。永代供養のために建立されたようです。 その先に本堂があります。本堂前までの境内を拝見して先に進みました。 少し先に、法華宗の「大乗寺」があります。 大乗寺の寺号標の側に、この駒札が設置してあります。駒札を読みますと、江戸時代にはここにはなかったお寺です。昭和55年(1980)に上京区鳳瑞町からここに移転した後、無住寺となり荒廃していたとか。平成4年(1992)以降から復興が進められていると言います。今では1500本もが群生する「酔芙容の寺」として知られているそうです。(駒札より)寺への上り口の石段が少し急勾配ですが、境内を拝見することに・・・。 山門から境内に入ると、まず次の歌碑が目にとまりました。 この歌碑、私には判読できない箇所があります。ご教示いただければうれしいです。 こちらは読みやすい字体です。傍に「日蓮聖人御和歌」と刻した小さな石標があります。 供養塔 山門の左側の石段から見えているのが、この2つの歌碑です。それぞれに歌碑の寄進主が駒札が設置されています。歌意と鑑賞を詳しく記されています。右: 君がため春の野にいでて若菜つむわが衣手に雪はふりつつ 光孝天皇 小倉百人一首 第15番左: 山里は冬ぞさびしさまさりける人目も草もかれぬと思へば 源宗干朝臣 小倉百人一首 第28番お堂より一段高い境内地を奥に進みます。 突き当たりに「十三重石塔」が見えます。 軸部には四方仏が浮彫りにされています。四方仏として今までに見てきたものとはまた趣の違う浮彫です。この2面だけ確認できました。 十三重石塔の左側にこの像が建立されています。「酔芙容観音菩薩像」と期した木札が前に立っています。 基壇の正面に「酔芙容観音」と陰刻されています。両側の線刻は酔芙容なのでしょう。 左側に、「酔芙容観音」と題した漢詩碑が建立されています。岡澤宣洲作の漢詩です。 花山の地称芙容綻びて 訓在り詩を吟じて意気揚る 観音なる像現れて此の域に望み 尊形へ合掌し温容を仰ぐこれは漢詩の左に記された読み下し文です。碑の下半分には道釈が記されています。酔芙容は9月~10月に花を付け、朝、午後、夕~夜と花の色が変化するそうです。酔芙容が咲く時季に現地で、道釈をお読みください。 大乗寺を出た後、道沿いに進むと、挿絵に番号2を付記した「日の岡」の峠辺りです。現在の地名は山科区日岡ホッパラ町です。道路に沿ってフェンスがあり、ここは私有地ですがその内側の隅に2つの道標が立っています。「右 明見道」の道標は大塚の妙見寺への道案内に立てられたものとされ、低い方の道標には「右かさんいなり道」と記されているそうです。(資料4) この道標の左側に幅の狭い通路があり、それが『都名所図会』に記された「量救水は石刻の亀の口より漲る」という場所に導きます。量救水は「亀の水」とも称されています。「亀の口不動尊」という幟が目印になります。 まさに、石刻の亀の口より一条の水が絶え間なく注がれています。 四角い祠の奥に、石造不動明王坐像が安置されています。「亀の水」は東海道を往来し、難所の一つだった日岡峠を越える人々の渇を癒やすために飲料水として設けられたものと言います。木食正禅上人は日岡峠改修工事の過程で峠に梅香庵を設置し井戸を設けました。最初は湧き上がり方式だけの井戸だったのを、衛生面の観点から亀の口から水を落とし、水鉢に水を溜める方式に改良し、「量救水」と称したそうです。その水鉢は丸型の井筒で、高さ56cm、外径1m、厚さ15cmの大きさのもので、側面に「量救水」と太い文字が刻されているというものです。この丸型大水鉢は現在、東京に所在する椿山荘が所蔵されています。また、この大水鉢の上部には、時計回りで「山科郡日岡峠車道木食正禅建立省方」と彫られ、内側には光明真言の梵字28文字が刻まれているそうです。(資料5)「亀の水の上には水神の小宮を造り、その奥に不動尊を安置しました。水神様がおられれば水を汚すこともあるまい、と思ったからです。」(資料5)水神様を祀り、不動尊を安置された意図がうなずけます。この亀の水の近くに梅香庵があったそうですが、今はありません。『都名所図会』は、「峠の梅香庵は地蔵尊を安置す」と記しています。そこが冒頭の日岡峠の挿絵に番号3を追記した「木食寺」と記されているあたりだそうです。(資料4) 亀の水の辺りで、道がいくつかに分岐していきます。分岐点近くから山科の町を見下ろした景色です。天智天皇山科陵辺りまでの展望が良い景色です。この坂道がたぶん旧東海道であり、山科陵の近くで府道(三条通)に合流する道だと思います。この後、この道を下らずに、山沿いの一番高い位置の道路を歩いてみて、大凡の見当で歩いてみました。つづく参照資料1) 都名所図会. 巻之1-6 :「古典籍データベース」(早稲田大学図書館)2) 図録『企画展 車石 -江戸時代の街道整備-』 大津市歴史博物館 2012年3月3) 光照寺について :「頂後山源空院光照山」4) やましなを歩く東海道1日岡峠 :「山科区」5) 図録『企画展 車石 -江戸時代の街道整備-』 大津市歴史博物館 2012年3月補遺蓮華蔵世界 :「コトバンク」蓮華蔵世界 入澤崇氏 :「J-STAGE」(印度學仏教學研究)華厳経の世界 1.盧遮那仏と蓮華蔵世界 斎藤征雄氏 :「企業OBペンクラブ」フヨウ(芙蓉)&スイフヨウ(酔芙蓉) :「里山コスモスブログ」スイフヨウ(酔芙蓉) :「小さな園芸館」 京都山科:大乗寺の酔芙蓉 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。) 探訪 京都 山科を歩く -1 日岡:名号石・題目碑・京津国道車改良工事記念碑・車石関連諸史跡ほか へ
2020.01.01
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地下鉄東西線「御陵(みささぎ)」駅を起点にして、日岡から旧東海道ほかを12月中旬に歩きました。山科区のホームページでコンパクトな地図を見つけたのがトリガーになりました。しかし、その背景はかなり前に溯ります。一つは、平成24年(2012)に大津市歴史博物館の企画展「車石-江戸時代の街道整備-」を見に出かけたことです。それ以前に車石自体は見聞により知ってはいましたが、江戸時代の街道整備という視点と大津から京都・三条にかけて街道が整備され、車石が使われた時間軸での展開という観点はなかったのです。日岡に車石関連の史跡があることをこの企画展で知り、一度現地を探訪したいと思っていました。また、今年の探訪の一環で、江戸中期の木食正禅上人のことを知り、その名号石が日岡にあるということを再認識しました。「車石」展の図録にも名号石の写真が載っていたのです。それでは、現在の三条通に沿って、緩やかな坂道を京都・三条の方向へ進みましょう。日ノ岡交差点の少し先に日岡バス停があります。さらに歩みを進めますと、 「南無阿弥陀佛」と六字名号が太く刻まれた「名号石」です。これが木食正禅名号石と言われるものです。よく見ると、「弥」という文字の中間で切断していることがわかります。傍に、「木食遺跡①粟田口の大名号碑」という題での案内文が掲示されています。写真に撮りましたが、名号石以上に樹影が重なり読みづらくなっていますので省略します。「木食正禅養阿(もくじきしょうぜんようわ)上人(1687~1763)は、江戸中期の木食上人のひとりである(出身は丹波保津村)。木食とは、草根木皮の生食のみで生きる、難行中の行を云う。 当時の京都には、11ケ所の無常所(6墓53□)があり、いずれも刑場に近いので、僧俗一般に敬遠されがちであった。しかし、上人は敢えて寒夜を選んで念仏回向にまわり、享保2年(1717)7月、永代供養のため、各所に名号碑を建立した。なかでも、粟田口は京都最大の刑場なので、一丈三尺(約4m)の特大にしたと旧記にある。現在、下半部が補修されているが、更に復元すれば『南無阿弥陀佛木食正禅 粟田口寒夜念佛墓廻り回向 享保二丁酉七月十五日』となるべきであろう。 もと九条山周辺にあったが、明治の拝仏思想の折、人為的に切断されて道路の溝蓋などに流用されたのである。その時の痛ましい傷痕は、今も残されたままになっている。」(説明文転記、一字不詳) 側面に回り、背面を見ると一層明瞭です。さらに上半分は縦に3つに切断されています。 この名号石が補修されてこの場所に移して復元されたのは理由があったことがわかります。背面の上半分に「京津国道工事ニ於ケル犠牲者ノ為ニ 昭和八年三月」と刻されています。この3つに切断された上半分が木食正禅建立当初の部分だそうです。(資料1) 下半分には、浄土宗総本山知恩院第83世量與信宏上人の撰書の碑文を刻し、昭和40年立春の日に復元建立されたことがわかります。碑文は漢文で記されています。読み下しを試みてみます。「この名号石は京都市上京区仁和寺道御前通東入ル浄土宗中興開山西隠法師が建立する所なり。法師、粟田口東の刑場に於いて刑死の人々の幽魂を憐れみ、享保二年刑場の側に建立した。昭和八年京津国道改修の際この地に移される。然るに下半部は欠損、上半部もまた三縦断す。老衲(注:老僧)は深くこれを憂えその復元を発願す。有志の協力を得、茲(ここ)に工成を修し、開眼法要により、法師の遺徳を顕す。」 読解をまちがっているところがあるかもしれません。尚、この碑文にある「西隠法師説を、石仏会の佐野精一氏が否定され、木食上人の建立を主張されました。」という説もあります(資料1)。設置されている案内文は、木食上人の建立と説明しています。情報がありませんので単なる想像ですが、名号石の上半分の三縦断されたものが、昭和8年3月に工事犠牲者のために供養塔として建てられたのでしょう。それが契機となり、名号石復元への発願がなされ、昭和40年に現在の形での復元が実現したという経緯になるのではないかと思います。 名号石の場所から地下鉄御陵駅方向を眺めた府道143号線(三条通)。 名号碑から道沿いに先に進むと、この景色が見えます。 「日ノ岡宝塔様縁起」という銘板碑がまずあり、 東方向に向かって、日蓮上人立像が建立されています。 その先に、題目碑があります。 訪れた時には、この基壇を奇妙に感じたのです。太い文字の一部が刻まれて、異なる文字の部分が並べてあります。後日調べてみますと、割られた題目碑を基壇に使い、新たに題目碑が再建されたのです。(資料1)ここにも明治初期の拝仏棄釈運動の影響が垣間見えます。 基壇の上の題目碑は新たに再建されたことになります。上部中央に「南無妙法蓮華経」、右側に「立正安国」、左側に「天晴地明」と刻されています。下部に彫られているのは花押の類いでしょうか。 基壇の背面には、碑文が刻されています。「昭和15年12月 法華倶楽部」と末尾に刻されています。碑文は判読しづらいのですが、上掲の縁起に経緯が記されています。「桓武天皇奈良より京都へ遷都以来明治に亘る千有余年の間、極刑場(粟田口処刑)が現在の九条山附近にありました。 この刑場で処刑されてはかなく消えた罪人の数は約15,000余人にのぼったといわれ1000人に1基ずつの供養塔が15基各仏教諸宗の手で建てられたと伝えられています。 明治の初めこの刑場が廃止されたのち拝仏棄釈の難にあい、供養塔は取り壊され石垣や道路などといろいろな工事に転用されてその断片が処々に残っていました。 昭和14年法華倶楽部小島愛之助翁(法華倶楽部創設者)が処刑者の霊の冥福を祈るために石の玄題塔断片を基石としてここに供養塔を建立し毎年春秋の二季に亡霊供養の法要を行い立正平和と交通安全も併せて祈っています。 日蓮宗京都府宗務所」(縁起文を転記) 更に先に進みますと、分岐点の先端に記念碑が建立されています。この景色は西側から東方向に向いて撮りました。右側が府道143号線です。 京津国道改良工事記念碑です。下部に昭和8年3月竣功と刻されています。 注目すべきことがもう一つ。それは三段基壇の側面に、私が長らく現地で見たかった車石が利用されていることです。改良工事が行われる以前には、この車石がこの道に敷かれていたのです。上記の名号石で登場した木食正禅上人は、東海道の大津-京都間で屈指の難所であった日岡峠の通行に目を向けました。旅人及び荷物を積んだ重い荷車を牽引し通行する牛の苦痛を和らげるために、改修工事を自力で行うことを発願し、享保19年(1734)12月に京都町奉行に願い出たのです。日岡峠を掘り下げ、坂下は堀り取った土砂で嵩上げして、峠道の勾配を緩やかにするという改良工事です。牛車の通る轍の跡には小石を入れるなどの整備をしたと云います。しかし、それは日岡峠を通る旧東海道での改良工事でした。(資料1)文化元年(1804)から翌年にかけて車石の敷設工事が実行された記録は詳細に残っているそうです。(資料1)幕末の慶長年間(1865~1868)に、急峻な日岡峠を通らずに迂回する新道を付けるという街道改修工事が実施されたのです。その改修工事について、大津米屋や京都の車屋などの連名による願書が残されていると言います。その新道が日岡の現在のこの道路に相当するようです。そして、『城州日岡峠新道図紀』(京都府立総合資料館蔵)が上梓されています。(資料1)「山科御廟野」を見開きページの右下にし、左方向に進むと「御陵村出戸」の少し手前に分岐ができ、左の道を先に進めば「一里塚」を経て「日岡上り口」から「日岡峠」を越える東海道です。分岐点で右に「新道」が延びています。両道は時計回りの弧を描き、「姥ケ懐」のところで、新道が東海道と合流し、「経王塔」を経て、絵図の右上に描かれた「御刑場」「粟田口」に至るという景色です。絵図に鍵括弧を付けた名称が記されています。 府道沿いに九条山の方向に坂道を上って行きます。景色の左側に見える山並みのところを旧東海道が通り、日岡峠を経由していたことになります。 府道の擁壁に「旧舗石 車石」が使用されています。縦に溝が左右の石にできています。これが牛車の轍跡というわけです。昭和初年の京津国道改良工事で出土した車石だそうです。 この擁壁に使われた車石から少し先まで歩むと、擁壁に太く刻された文字が見えます。 正面から眺めますと、「経王護国」と推測できる文字が太く刻まれていて、石碑の一部に見えます。これが上掲『城州日岡峠新道図紀』に記されている「経王塔」に相当するのでしょう。この経王塔もまた拝仏棄釈の折りに破壊され、その残闕が出土したものをこのところに使ったということだと思います。右側に刻されている文字列からは、「天下泰平 万民豊楽」と推測できます。たとえば大覚寺では「新年にあたり天下泰平、万民豊楽を祈念し、修正会が行われます。」と説明される行事があります。比叡山延暦寺でも修正会に同じ表現が使われています。(資料2,3)左の「月清明」と読めそうな文字列からは、右側と照応するものとして、個人的には「日月清明(にちがつしょうみょう) 災厲不起(さいれいふき)」ではないかと推測します。(資料4) 間違っているかもしれませんが・・・・。 擁壁のこんなところにも車石が使われています。「はーとふる東山 京都東山老年サナトリウム」という看板が府道脇に立つ近くで、横断歩道を渡ります。ここから折り返したのですが、簡略な地図をもう少しきっちりと読みとり、九条山の少し先まで足を延ばしていれば、「日岡峠人馬道碑」と「修路碑」も見ることができたのです。これをまとめていて気づいた次第。またの機会に・・・・。 反対側の歩道の擁壁から小高くなった上に石碑が見えますので、坂道を上って見ました。供養碑が二基あります。手前は「南無阿弥陀仏」と刻され、その下に「霊」という文字が刻されていますがその下が判読できません。右側中央より下に「知恩院門□」(一字不詳)と刻されています。裏面を見ますと、大正元年(1912)12月建立とあります。正面の石碑には「萬霊供養塔」と刻されています。裏面には「為日岡字夷谷屠獣類及・・・・・」(後半判読できず)という書き出しの一文があり、明治28年12月に発願建立された旨が刻されています。 歩道に戻り、坂道を下って行きますと、少し先にこの「車石公園」があります。かつて日岡峠あるいは新道を牛が米その他を積んで往来したと思われる荷車が再現され、 この「車石碑」が建立されています。 坂道を御陵側に下って行く側から撮った景色です。車が上っているのが九条山・蹴上・粟田口の方向です。 これは安永9年(1780)に出版された『都名所図会』に掲載された「粟田山日岡峠」の図です。つまり、東海道の難所日岡峠が木食正禅上人により改良された時代の峠を描いています。幕末に新道が作られる前の状況です。挿絵に赤字で番号を入れました。5番が安祥寺、6番が天智天皇陵で、4番が山科郷ですので、この図は北東側から西方向を眺めて描いた東海道になります。地図の天地を逆にして西方向を眺めるという位置関係になります。2番が日の岡の峠で、東側の3番に木食寺と記され、1番が姥が懐です。赤丸を付けたところに牛車が描かれています。日岡峠を無事に越して、京都・粟田口方向に向かう牛車を点描しています。(資料5) 日岡峠の部分を拡大してみました。『都名所図会』は「日岡の峠」という見出しで次のように説明しています。「日岡の峠に至る三町許り西に、四面山にしてその中に往還道(注:旧東海道)あり。俗に姥が懐といふ。(千本毘沙門堂は街道の北にあり。峠の梅香庵は地蔵尊を安置す。木食上人住して坂路を造り、牛馬の労を助く。量救水(りやうくすゐ)は石刻の亀の口より漲る。炎暑の節、旅人の渇を止むといふ。碑の銘、接待所にあり)」(資料6)拡大図の牛車の左には「けあげの水」(蹴上の水)と記されています。「むかし源牛若丸、金売吉次に具せられ、陸奥へ赴き給ひし時、平家の侍関原与市といふ者、牛若丸の美少年に戯れ、この水を蹴上げしかば、牛若丸太刀を抜いて与市をはじめ郎等どもを多く伐捨て通り給ひしより、名づけ初めしなり。」(資料4)という由来がある水場です。 『伊勢参宮名所図会』には、日岡嶺(ひのをかとうげ)で日出を眺めつつ休憩する姿が描かれています。(資料8)車道を描いた挿絵もご紹介しておきましょう。 一つは、『花洛名勝図会』に載る挿絵の部分図です。白川橋の側に車石の道があり牛車が通っています。一方、白川を渡ろうとする牛車も描かれています。(資料8) これも『花洛名勝図会』に載る挿絵です。弓屋という店の庭を取り上げているのでしょう。「同弓屋亭池」という見出しが右上に記されています。その弓屋と手前の井筒屋の間の通りに、車道が描かれ、牛車がその車道を連なって進む姿が描かれています。上掲の「車石公園」からほど近いところに府道と分岐して「旧東海道」に入る分岐点があります。この後、京都側から旧東海道を歩いてみました。つづく参照資料1) 図録『企画展 車石 -江戸時代の街道整備-』 大津市歴史博物館 2012年3月2) 寺内行事 修正会 :「大覚寺」3) 今月の法要 :「比叡山延暦寺」4) 天下和順 :「Web版 新纂 浄土宗大辞典」5) 都名所図会. 巻之1-6 :「古典籍データベース」(早稲田大学図書館)6)『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p294-296 7) 伊勢参宮名所図会. 巻之1-5,附録 :「古典籍データベース」(早稲田大学図書館)8) 花洛名勝図会東山之部. 巻1-4 :「古典籍データベース」(早稲田大学図書館)補遺やましなを歩く もくじ :「京都市山科区」車石・車道研究会 ホームページ京津国道改良工事竣工紀念碑 :「フィールド・ミュージアム京都」粟田口名号碑 :「フィールド・ミュージアム京都」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2019.12.31
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いよいよ「三段壁」探訪です。アドベンチャーワールドからバスに乗車し、「三段壁」バス停で下車。さてどの方向に歩めばいいのかと、ちょっと戸惑っていると、バスの運転手さんが方向を教えてくれました。感謝!教えられた方向に進むと、道路の傍に公衆電話ボックスがあります。その手前で右折すると、 「牟婁山(むろさん)文珠堂 西国三十三所霊場」という木札が目にとまりました。木札のすぐ右に見える石仏に近づきますと、傍に「番外 摂津国 花山院菩提寺」の木札があります。そのさらに左には「三界萬霊供養塔」の石柱が建立されています。その傍にはいくつもの石仏が祀られています。 前方に見えるお堂が「文珠堂」です。 文珠堂の右側には「徳風地蔵尊」という木札が立ち、黄色の矢線が台に記されています。木立の間の道を進むと地蔵尊が立てられているのでしょう。時間の関係もありそこまでは行きませんでした。後で調べて見ますと、「三段壁の厳頭を見渡せられるように高く作られた八角形の台座上に立つ地蔵が祭られている。浄土を求めこの断崖から身を投げ命を散らした自殺者や水難者の霊を慰め弔うために、町内の徳風会の会員が中心となり浄財を広く募り、昭和十三(1938)年五月に悲願をこめて「徳風地蔵尊」として建てられたのである。毎月一日・十五日の日には会員が供花等の世話を行っている。」(資料1)とのことです。ご紹介しておきます。右の景色が三段壁への通路側に近いところです。ここに「第一番 青岸渡寺」の石仏と木札があります。つまり、この第一番を起点にして、文珠堂を反時計回りに巡る形で西国三十三所霊場の石仏が祀られていて、最後に「花山院菩提寺」に至るというしくみのようです。この種の簡略版全霊場巡りは各地にあります。幾つかは弊ブログでも既にご紹介しています。今回はここでの西国三十三所霊場は巡らずに、第一番・番外と文珠堂の拝見だけにとどめました。 印象に残ったのは、公衆電話ボックスの傍に設置された「いのちの電話」の掲示です。上記した道路傍の公衆電話ボックスの傍にも、同じ掲示が設置されていました。ある小説を読んでいた折りに、北陸地方の海岸傍の「いのちの電話」のこととその場面が出てくる描写を読んだ記憶があります。しかし、実際にその掲示があるのを見るのは初めてです。冒頭の掲示のある場所は文珠堂から数十mのところです。土産物店の先に太平洋の広がりが見えます。 数名の観光客が途切れたところで、撮った写真をパノラマ合成してみました。吉野熊野国立公園の一部になるということでしょう。「名勝 三段壁」がこの景色の右側になります。「壁」を「へき」ではなく「べき」と読むことをバスの車中でバス停のアナウンスを聞いたときに初めて認識しました。「Sandanbeki Rock Cliff」と記されています。もう一つ、気づいたのは、ここが「恋人の聖地」(2016年4月選定)とされていることです。一番下にその銘板が掲示されています。北陸の東尋坊とはかなり断崖の感じが違った雰囲気です。 ごつごつと角張った断崖がそそり立っています。高さが50m~60mあると言います。三段壁は、「その昔、漁師たちが通りゆく船や魚の群れを見張った場所『見壇』に由来する」(資料2)とのこと。この大岩壁は南北2kmにわたっているといいます。(資料2) 北側に「三段壁洞窟正面玄関」の建屋が見えます。石灯籠の右に「名勝 三段壁洞窟」と刻した石碑が建てられています。断崖上のこの建屋内に、エレベータ乗り口が設けられていて、地中36mを一気に降り、「三段壁洞窟」内に降りることになります。 洞窟内部に降りたところは少し広い空間になっていて、洞窟内歩道に進む手前に、この記念撮影場所があります。三段壁洞窟は、古くは平安時代、源平合戦で知られる熊野水軍が船を隠したという伝説がある場所だそうです。(資料3)この記念撮影の設定は洞窟と隠された船に乗る兵士たちを表しているようです。 近くに「三段壁洞窟由来」説明板が掲示されています。この由来記を読むと、熊野水軍の淵源は、平安京に遷都した桓武天皇の頃に熊野鬼ケ城を本拠とした海賊多賀丸に溯るそうです。もとは海賊(水軍)が船の隠し場所として使用したということのようです。多賀丸は征夷代将軍坂上田村麻呂に征服されたと由来に記されています。 洞窟の歩道に入ると、左右に分岐します。右折して進むと、その先の分岐点にこの洞窟が使われていたイメージが描かれています。その下に、『牟婁風土記』の一節が紹介されていて、一番下に碇が並べてあります。「熊野別当湛増は吉野十津川の兵をも統合、総勢二千熊野水軍と二百隻の船に分乗若一王子の正体を榊の枝に奉じ金剛童子と描き日月が東の山の端を出ずる勢威のもとに源平両軍対峙する屋島の浦に向かってここ田辺湾を出発した。」(記載文転記) 右側にこの「三段壁洞窟案内図」が吊してありました。現在地の表示地点です。まずは案内通り一旦左側の歩道を少し進みます。 そこは田辺湾が見える堂内展望台となっていて、この三段壁洞窟が海に開けた入口にあたります。 田辺湾が太平洋に連なる海を三段壁の入江の彼方に遠望できます。前方に広がる海での通航を覚られずに監視する「見壇」に適していることが実感できるロケーションです。 洞窟側から左前方に「十像岩」と称される巨石が見えます。この岩肌に10の石像が見えると言います。世界でもめずらしい奇岩だとか。 展望台には十像岩についての案内図が掲示してあります。 それでは分岐点で右折する方向に進みます。 そこは「牟婁大辨才天」が祀られている祠になっています。 大黒天、毘沙門天、さらに十六童子を従え、その中央に六臂の牟婁辯才天が鎮座します。 右側手前に、諸像の配置説明図が掲示してあります。向かって左奥に毘沙門天、右奥に大黒天、そしてその前両側に十六童子が居並んでいます。 この辯才天は高さ3m、横幅2mで重さは3tと記されています。日本最大級の青銅像だそうです。(説明パネルには日本一大きいと記されています。)水の神様です。上掲由来説明文の末尾に記されています。創設者新藤源吾氏が、有る夜夢告を受けたことにより大和五條の総本山に請願し、仏師池田正源氏が製作されて、洞窟内のこの地に安置されたと言います。余談ですが、創設者とはたぶん観光事業としての観覧施設整備を実行した人と解釈しました。また、由来説明から推測しますと、総本山とは奈良県五條市に所在する「辨天宗総本山如意寺」のことと推測します。(資料3) 祠から、洞窟歩道を先に進みます。これは振り返った景色です。 歩道の壁面に「瀬戸鉛山鉱山」という説明パネルが掲示してあります。この三段壁地域では、「瀬戸鉛山鉱山(せとかなやまこうざん)」が正親町(おおぎまち)天皇(在位:1560~1586)の時代に開鉱されたと言います。日本への鉄砲伝来以降に、銃弾の材料として鉛の需要が増大したことに関係したそうです。16世紀後半から17世紀前半には採鉱が奨励されたようですが、慶長年間(1596~1615)に衰え中止となったと記されています。 三段壁洞窟は熊野水軍の船隠し場に使われたそうです。これは「熊野水軍番所小屋」を史料によって再現したものと言います。 再現された番所小屋内を通り抜け、小屋の外に出てから撮った景色です。 ”「源平合戦」で源氏に加勢した熊野水軍とは?”という説明パネルも掲示されています。源平合戦では、熊野別当湛増-武蔵坊弁慶の父-が熊野水軍を率いて源氏方に味方して、壇ノ浦の戦いに参戦したそうです。元々平家方であった湛増ですが、弁慶の要請もあり、赤の鶏(平家)・白の鶏(源氏)を見立てにより七番勝負の闘鶏で神意を占い、源氏に味方したそうです。結果は七番とも白鶏の勝利だったことによるとか。熊野水軍2000余名、船艘200で参戦したと言います。 「熊野水軍軍船図」の説明パネルが歩道の側壁に掲示されています。これは室町時代から江戸時代にかけての熊野の大型軍船・安宅船です。「あたけぶね」または「あたぎぶね」と呼ばれたそうです。大きさは500石~2000石積み。艪は50丁~160丁と言います。軍船のふるさとは、西牟婁郡白浜町安宅といわれていたそうです。安宅一族が熊野水軍の一時代をつくりあげたと言います。 洞窟内歩道洞窟内歩道は一周約200mあるそうです。(資料4) 洞窟の奥側です。流れ込んで来た海水が激しく白波を立てます。ダイナミックです。打ち返す波の立てる音が洞窟内に響き渡ります。篝火程度の明るさだと、恐ろしさすら感じる迫力を現出するでしょうね。 分岐する洞窟内歩道洞窟内歩道には、要所要所に鉄製扉が設置されています。 「湯崎半島・三段壁のなりたち」という説明パネルが掲示されています。下段の右半分のところに、三段洞窟へのエレベータでの昇降のイラスト図が記されています。「湯崎半島を縁取るように海岸段丘が発達しています。三段壁付近の海岸段丘はかつての磯が35mをこえる高さまで隆起してできたものです。」(説明文転記) 「湯の華(温泉沈殿物)」の説明パネル 洞窟の天井に、漣痕(れんこん、リップル)と称される痕跡が形成されています。 この説明パネルが歩道の傍に設置されています。「浪の模様(漣痕)がくっきりと現れている天井岩盤は新第三紀中新世(約1600万年前)の初めごろやや淺い海に堆積した地層からできています。 波浪や潮流によって海底の沙や泥が動かされ地層の表面に漣痕(リップル)が作られました。その漣痕が、次第に積み重なった地層の中に保存されたものが約1600万年の時を経て現れたものです。」(説明板転記) 記念撮影場所に戻る手前の洞窟内歩道 地上の建屋に戻り、入口とは反対側に出ると、小規模ですが地泉庭園が設けられています。 太平洋の広がりを眺められます。左端が上掲の「三段壁」の展望箇所あたりです。この辺りも勿論、三段壁の隆起した海岸段丘という地形と言えます。 近くに、これらの案内板が設置されています。あとは三段壁バス停から白浜駅へ移動するだけです。時間のゆとりがありませんので。勿論、一日フリー乗車券ですので、時間のゆとりさえあれば、白浜の中心街を経由する運行バスですので、見るべきところはいろいろあります。例えば、三段壁の北に「千畳敷」という岩場があり、「千畳口」というバス停があります。この次のバス停からは、白浜温泉の中心区域を通ります。バス停の名称がまさにそのものズバリのネーミングです。草原の湯-新湯崎-湯崎-まぶ湯-走り湯-白良浜-白浜バスセンターという順番です。バスから眺めていると、通りからは大きなビルばかりが見えます。白浜温泉もまた、ホテル形式の建物が多いということでしょう。鄙びた温泉旅館という感じの建物は車窓からは見つけられませんでした。適当に降りて、白浜温泉の町並を眺めるのもおもしろいかもしれません。白良浜は海水浴場のあるところです。さらに、白浜桟橋-大浦-古賀浦-寒サ浦ー藤島-とれとれ市場前、とバス停が連なります。桟橋、浦という文字からは港が近くにあるというイメージが浮かびます。「とれとれ市場」は、「西日本最大級の海鮮マーケット」(資料5)というキャッチフレーズが使われていますので、立ち寄れなかったのが残念です。また、次の機会を・・・・考えたいものです。 白浜駅に戻ってきました。 先頭車両 鉄ちゃんではないのですが、待ち時間があったので、先頭車両まで行き写真を撮ってみました。白浜駅始発のくろしおです。新大阪-京橋経由で京阪電車に乗り換えて帰宅です。これで、紀伊田辺・白浜の旅が終わりました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 徳風地蔵尊 :「Kitohan sakuraweb」2) 三段壁 :「南紀白浜観光ガイド」(白浜観光協会)3) 辯天宗総本山如意寺 :「五條市観光協会」4) 「南紀白浜 名勝古跡 三段壁洞窟」 入場時にいただいたリーフレット5) とれとれ市場 ホームページ補遺三段壁洞窟 ホームページ熊野別当 :「コトバンク」熊野水軍 :「み熊野ねっと」熊野水軍 :「コトバンク」熊野水軍出陣の地 :「たんぞう」安宅氏 :「戦国大名探究」白浜温泉めぐり :「南紀白浜観光ガイド」白浜温泉 :「わかやま観光情報」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 紀伊田辺・白浜一泊の旅 -1 紀伊田辺まちなか散策(植芝盛平翁生誕の地・弁慶像・蟻通神社)へ探訪 紀伊田辺・白浜一泊の旅 -2 紀伊田辺まちなか散策(海蔵寺)と海の景色 へ探訪 紀伊田辺・白浜一泊の旅 -3 白浜を巡る(アドベンチャーワールド)へ
2019.12.30
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ホテルのマイクロバスで紀伊田辺駅まで送ってもらい、白浜に向かいました。駅を出てバス乗り場行くと、乗車前に切符を購入してくださいということだったので、「白浜とくとくフリー乗車券」の一日券を購入しました。最初に目指したのが「アドベンチャーワールド」です。8分ほどの乗車で到着です。 まずはパンダの像が出迎えてくれます。右の景色は、入口からエントランスドームに入り、振り返って撮った景色です。 エントランスドームには、池がありケープペンギンが泳いでいます。ドームの左右には各種のお店があります。 エントランスドームを進むと、大きなパークマップが掲示されています。まずは右折して、真っ先に「パンダラブ(PANDA LOVE)」へ向かいました。 その手前に象がいます。さらに、植木の”象”が置かれています。記念撮影におもしろいかも・・・・。 パンダラブ(PANDA LOVE) ジャイアントパンダ(大熊猫)です。名前は桃浜(とうひん)、2014年12月2日このアドベンチャアーワールド生まれという掲示板がありました。一つの独立した建物になっています。ここには、桜浜(おうひん)・桃浜(とうひん)・彩浜(さいひん)が暮らす建物だとか。このパンダラブの他に、ブリーディングセンターがあります。後でご紹介します。パンダラブを出て、道沿いに下って行くと、右方向には「ホースキャンプ」があり、乗馬体験等が楽しめるエリアです。 左折して道沿いに進むと、池があり鳥が群れています。「ふれあい広場」のエリアです。 この辺りは眺めながら通りすぎました。めざすは「サファリワールド」です。「ケニア号乗場」に向かいます。列車タイプの専用車でサファリワールドを周るという方式です。1周約25分というコース。乗場に行くと、これはチケット不要で自由に乗れるものでした。サファリワールドはいくつかの楽しみ方があります。ウォーキングサファリ入口から、草食動物ゾーンだけですが、約50分でゆっくり散歩しながら動物たちを眺めるというコースです。有料で楽しむ方法もあります。歩く代わりに「サイクリングサファリ」で草食動物ゾーンを楽しむやり方。さらに、カート、二階建てバス、サファリキャラバン、ジープによるサファリ探検という、各種車で個人あるいは少人数で楽しむ方法も可能です。それでは、ケニア号に乗り込んで出発! いわばトロッコ列車に乗るような感覚です。入口でもらった「パークガイド」を参照しつつご紹介します。 乗車場を出発すると250mで「エレファントヒル」です。象がのんびりした感じ。110m先には、 キリンやシマウマなどが見え始め 290mほど進み、「キリンテラス」に至ります。そこから150mほどで「マレービレッジ」です。全体的にそれぞれの動物たちのエリアがかなり広く、大自然を模した空間が形成されています。やはり動物園の姿とはかなり違いますので、子供達にとってはかなりエキサイティングな空間になるでしょう。 専用車の左右に鹿や水牛草食動物たちを眺めながら進みます。250mほどの距離はまだ草食動物のゾーンで、「ライノヒル」まで進みます。この後、肉食動物のゾーンとの境界が加わってきます。270mほどで「ライオンテラス」です。 ライオンが寝そべる傍を通ります。 進行路の反対側にはモンキーランドがあります。このあたりは「スカイテラス」と称されているようです。パークマップで位置関係を確かめますと、背景の右側の円弧形の建物は「ビッグオーシャン」で、イルカのライブショーを楽しめるエリアです。その左の樹木の向こう側に「ブリーディングセンター」が位置し、手前の柵のある場所が、ウォーキングサファリ入口から続く通路の一部にあたるようです。サファリワールド全体が展望できる場所になっているのでしょう。 ライオンテラスから「チータービュー」を経て、 トラも目にしつつ、再び草食動物ゾーンを通過します。 最後の180mで一周が終わります。肉食動物ゾーンは入口と出口にそれぞれ二重の門が設営されていて、要所要所にサファリワールドのスタッフの車が監視業務についていました。専用車の通る道路と動物との間には鉄柵が設置されています。そういう意味ではフリーなサファリワールドとは異なります。肉食獣が車の傍まで来ることはありません。それでも、やはり動物園の檻の中の肉食獣を眺めるのとは大きく異なる感覚は味わえます。ケニア号での一巡はあっけなく終わりました。あっという間の半時間でした。 この観覧車の近くにケニア号乗場があります。「ブリーディングセンター」に向かう通路です。 ブリーディングセンターの表示板があり、この説明板も設置されています。 ブリーディングセンターは建物の内部はガラス張りで、複数の区画に仕切られた部屋があり、建物の外側がその区画の延長線としてパンダの屋外運動場所になっています。行ったときは、食事タイムで笹を食べている場面を撮れました。 センター内部は、ガラス張りの区画の前を円弧状の通路沿いに観覧しながら通り抜ける形です。反対側には、パンダの歴史やこのアドベンチャーワールドのジャイアントパンダ一家の系図などがパネル展示してあります。写真を撮りさっと眺めるだけにしましたが、丁寧に読みパンダを眺めていれば、このブリーディングセンターだけでも小一時間は楽しめますね。このセンターには、永明(えいめい)・良浜(らうひん)・結浜(ゆいひん)が暮らしているそうです。 通路を隔てた隣の大型施設が「ビッグオーシャン」です。その2階に上がると、半円形上に階段式観客席とプール及びステージのあるイルカショーの空間になっています。ショータイムまでは待てないので、場所見物だけで先に進みました。この建物の隣りに「マリンウェーブ」があります。 そこにイルカと飼育係のスタッフがいました。イルカのランチタイムだったのかもしれません。マリンワールドから通路沿いに進むと「エンジョイドーム」につながりました。マリンワールドのエリアとしては、もう一つ「イルカふれあいプール」というエリアがあるのですが、通路が違ったので行かずに終わりました。 エンジョイドームへの入口傍にもパークマップが掲示されています。全体的に眺めてみると、この園内の配置をあまり考えずに、おおよそ反時計回りという流れで要所要所を通過してきたようです。 中央には広い空間があり、その周囲にお店が並んでいます。ここを通り抜けて、センタードームを経由して、「海獣館」「ペンギン王国」に進みました。 まずは海獣館です。透明樹脂(たぶん)の壁面にシロクマが迫ってきます。やはり迫力がありますね。小さな児が怖がっていました。少し大きな子どもは楽しんでいる感じでした。 剽軽な立ち姿もご愛敬!海獣館に連接するのが「ペンギン王国」です。 ガラス越しに小ぶりなペンギンが数多く群がっているのが見えます。手前にプール部分があり、回遊しているペンギンもいます。その泳ぐ姿は素早くて写真がうまく撮れませんでした。ペンギン王国を出ると、そこはもうエントランスドームの近くでした。シーズンを少し外れた探訪でしたので、ゆったりと園内を巡りました。シーズンの盛りなら大勢の人々で混雑した景色になっていることでしょう。アドベンチャーワールド前から、バス待ちして一日フリー乗車券で三段壁洞窟に向かいます。今回のメインターゲットはこの2箇所でした。 途中で「白浜空港」の滑走路の傍からターミナルの前を経由していきます。 名所古跡三段壁洞窟に近い「三段壁」バス停で降りました。バス停に近いところにこの「白浜観光案内図」が設置されています。アドベンチャーワールドから三段壁は地図上では遠いようにも見えますが、バスで12分という距離です。位置関係がわかるように、カラードットを追記しました。鉄道線路に赤い丸を付けたところがJR紀勢本線「白浜」駅です。その南西方向に紫色の丸を追記した所が「アドベンチャーワールド」、更に南西方向に向かい、青い丸を付けた所が「白浜空港」です。西方向に転じて、海岸線に茶色の丸と追記したところが「三段壁洞窟」の所在地。長方形で現在地としてあるのがこの案内板のある所です。次回は「三段壁洞窟」のご紹介です。つづく参照資料当日入手した「パークガイド 本日のご案内」(2019/12版)ADVENTURE WPRLD補遺アドベンチャーワールド ホームページ 白浜駅 :ウィキペディア白浜駅周辺の観光スポット・観光名所 :「トリップアドバイザー」南紀白浜空港 ホームページ南紀白浜空港 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 紀伊田辺・白浜一泊の旅 -1 紀伊田辺まちなか散策(植芝盛平翁生誕の地・弁慶像・蟻通神社)へ探訪 紀伊田辺・白浜一泊の旅 -2 紀伊田辺まちなか散策(海蔵寺)と海の景色 へ探訪 紀伊田辺・白浜一泊の旅 -4 白浜を巡る(文珠堂・三段壁・三段壁洞窟・十像岩・白浜駅)へ
2019.12.28
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湊本通りが駅前通りと交叉する地点まで戻って来ました。あとの時間を海蔵寺の探訪に利用することにしました。蟻道神社からV字形に南側の道路を進んで行くことになります。 この地点は、JR紀伊田辺駅から駅前通りを南進して、最初の交差点です。この交差点で道路が「大」の字形に方々に向かっていますので、道標も方向に合わせて色々指し示しています。入手したマップを見ますと、矢線に沿って「アオイ通り」を南進し、次の交差点で左折すれば、その先には世界遺産の「闘雞(とうけい)神社」に至り、一方直進し「田辺大通り」を進めば、「扇ケ浜」に至ります。紀伊田辺駅から扇ケ浜までは徒歩15分位の距離だそうです。事前に情報を集めていなかったので、私には後智恵なのですが・・・・。道標地点からV字形に右折して進む道路は、「海蔵寺通り」という名称です。この通りの次の交差点をそのまま直進すれば、「銀座通り」と名前が代わります。海蔵寺と紀伊田辺駅の間も徒歩5分位です。 お寺の築地塀が少し変わっています。壁面の3分の2位が腰板的な感じに塗られてツートーンカラーになっています。その先に山門があります。 「海蔵寺」は正式には海蔵禅寺と称し、慈航山を山号とする臨済宗妙心寺派のお寺。「熊野曼荼羅三十三ケ所霊場」の二番札所となっています。(資料1)慶長10年(1605)に田辺領主、浅野左衞門が建立したと言います。(資料2) 山門は四脚門です。山門屋根の棟には鯱がのっています。 降り棟の先端の鬼板は鬼が大きく口を開けていておもしろい。飾り瓦は牡丹の花が彫られているのでしょうか。 木鼻はシンプルなものです。 山門前の左側に立つ石灯籠ですが、良く見かける類いの石灯籠とは少し異なった形式です。蓮華寺形石灯籠に近いのですが、その変形型でしょうか。詳しくはわかりません。 山門を入ったところに、この案内板が設置されています。和歌山県指定有形文化財に登録されている「木造菩薩形坐像」が祀られているそうです。「寺伝によると熊野別当湛増が源平合戦・屋島の戦いのおり、本像を軍船に安置して戦勝を期したといわれ、弁慶観音とも称せられる」と末尾に記されています。熊野別当湛増が武蔵坊弁慶の父と伝えられていることは前回ご紹介しました。この弁慶観音が海蔵寺よりも遙かに古いのは、闘雞神社の神宮寺であった覚方寺(現在は廃寺)に祀られていたものが、こちらに移されたことによるそうです。普段は公開されていないとか。 山門を入ったすぐ左側には様々なタイプの石造物がL字形に並んでいます。 海蔵寺の歴代住職関連の墓域かなとふと思いました。説明がありませんので印象です。 現在は鉄筋コンクリート製の建物になっています。 スロープを上がって行った奥のこの建物が本堂なのでしょう。本堂は南面しています。古いお堂をみられるかと思っていたので、少し残念でした。本尊は釈迦如来だそうです。(資料1) 降り棟の鬼板。この鬼板のタイプは初めて見る形なので楽しめました。 東側に「鐘楼」があります。 鐘楼の南隣りには無縁墓を集めて祀ってあり、その背後(東側)が境内墓地になっています。 中央に宝篋印塔があり、その前に石造地蔵菩薩立像が安置されています。 宝珠を持った地蔵菩薩坐像この他にも向かって左側には小ぶりな地蔵菩薩立がもいくつか安置されています。 墓地の入口の所にも地蔵菩薩が祀ってあります。 中央の宝珠を持つ地蔵菩薩坐像の両側に、三体ずつ舟形光背をもつ六地蔵が建立されています。こんなところで、境内探訪を切り上げて、駅前に戻りました。ホテル迎えのマイクロバスを逃すわけには行きませんので。待ち時間のゆとりがありましたので、田辺市観光センターでいろいろとパンフレットやリーフレット資料を入手できました。熊野古道ガイドの資料が沢山提供されています。また、紀伊田辺のまち歩きマップ、市街地図も数種類提供されています。まず、ここに立ち寄ることをお薦めします。約1時間のまち歩きが4コース(知恵の神コース、勝運の神コース、学びの神コース、弘法さんコース)と約70分の弁慶の足跡コースの計5モデルコースを紹介する「たなべぇマップ」が特に探訪には便利です。キャンペーン協力店(クーポン)付きの期間限定「街歩きガイド」という地図もありました。他にも用意されています。紀伊田辺には意外と探訪箇所があることを今回知ったのが収穫でした。次の機会を作れれば行ってみたいところの目安ができました。上記で触れた未訪箇所以外では、世界的な博物学者・南方熊楠が暮らした邸宅と南方熊楠顕彰館、大福院(弁慶生誕の碑)などです。宿泊地は、紀伊田辺駅より東にある文理(もり)湾を回り込む形で県道を南下した先にあるホテルハーヴエスト紀伊田辺です。海岸傍の高台にありました。 ホテルの部屋からは田辺湾を眺める海の景色が広がっています。 南方向に目を向けると、岩場が点在しています。 ズームアップしてみました。この景色は白浜の方向になるのでしょう。 ホテルの宿泊棟の足下にも、岩場が見えます。 北方向に目を転じると、熊野の山並みが見えます。 ハンディなデジカメで撮った田辺湾・扇が浜海岸の方向の夜景 文理湾寄りに取った夜景です。紀伊田辺・白浜一泊の旅の一日目が終わりました。つづく参照資料1) 熊野曼荼羅三十三ケ所霊場 :「ニッポンの霊場」2) 「熊野古道の玄関口・紀伊田辺のまち歩き たなべぇマップ」 田辺観光協会補遺蓮華寺型灯籠 :「兼六園究極ガイド」蓮華寺(京都市左京区) :ウィキペディア南方熊楠 :ウィキペディア南方熊楠顕彰館 ホームページ ⇒ 紀伊田辺市に所在南方熊楠記念館 ホームページ ⇒ 白浜町に所在作家別作品リスト:No.93 南方熊楠 :「青空文庫」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 紀伊田辺・白浜一泊の旅 -1 紀伊田辺まちなか散策(植芝盛平翁生誕の地・弁慶像・蟻通神社)へ探訪 紀伊田辺・白浜一泊の旅 -3 白浜を巡る(アドベンチャーワールド)へ探訪 紀伊田辺・白浜一泊の旅 -4 白浜を巡る(文珠堂・三段壁・三段壁洞窟・十像岩・白浜駅)へ
2019.12.27
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11月下旬に紀伊田辺・白浜に一泊の旅にでかけました。JR紀勢本線紀伊田辺駅に降り立ち、駅舎を出ると駅前でまず目にとまったのがこの碑です。「合気道創始者 植芝盛平翁生誕の地」という碑です。合気道という武道名称は知っていましたが、その創始者については全く知りませんでした。駅舎の隣りに「田辺市観光センター」の建物があります。そこで入手した資料を参照して、帰宅後に大凡以下のことを学びました。植芝盛平翁は、田辺市上の山に生まれ、幼いころから武道に励み、19歳で武術遍歴・修行の旅を重ね、1942(昭和17)年に独自の武術として「合気道」を創始されたと言います。合気道の技は、「相手に触れるやいなや一瞬のうちに相手を制することができる」(資料1)そうです。また、「そもそも合気道は、相手と相和して切磋琢磨をはかり自己の人格完成を目指す武道」(資料1)と言います。高山寺に墓があり、扇ケ浜公園には翁の銅像が建立されているそうです。 東方向に目を転じますと、大きな「弁慶像」が建立されています。 武蔵坊弁慶は田辺で生まれたという伝承があるそうです。熊野別当湛増(たんぞう)が弁慶の父と伝えられているとか。この銅像は1971(昭和46)年に建立され、高さは3m、重さは2t、田辺市のランドマークとなっています。(資料2)宿泊するホテルのマイクロバスがこの弁慶像の傍に出迎えてくれる時刻まで、1時間ほどありましたので、この時間の範囲で、まちなか散策を試みました。 散策の折に見つけたこの「湊住居表示案内図」をまずご紹介します。少し加筆しています。鉄道の線上に赤丸を付けたところが「JR紀伊田辺駅」です。緑色の丸が上掲の生誕地碑と銅像がある場所です。駅前の大通り沿いに南下し、探訪先に決めたのが紫色の丸をつけた「蟻通神社」です。この神社に向かったとき、青い丸を付けた辺りにお寺が見えました。青い色の丸を付けたのは「海蔵寺」です。 上掲案内図は、この「蟻通神社」のすぐ近くに設置されていました。当神社までは紀伊田辺駅から徒歩約5分です。 石鳥居の先に、神門(向唐門)があり、「蟻通宮」と記された扁額が掲げてあります。 木鼻特異なのは正面に向けられた木鼻の造形です。こんな彫刻を初めて見ました。 左右方向の木鼻は一般的に見かける彫刻の部類です。 向唐門を境内側から眺めますと、こちらは簡略化した木鼻になっています。ところが、境内側で正面に向けられた木鼻は簡略化されていても、表側に照応する形で特徴があります。おもしろいと思いました。 境内側は、蟇股とその上の束も興味深い形の造形です。一方、右の兎毛通は普通の感じです。 境内に入ると、手水舎が左側にあり参道が延びていますが、まず菱格子窓の塀とその内側の本殿の屋根が見え、その先に拝殿があります。参道は左方向に回り込んでいます。これもまた、特異な境内配置のような気がします。本殿・拝殿は南面して建てられている訳です。私の感覚では、神社の裏門から境内に入るような印象を受けました。これもまた、おもしろい。 参道を挟み手水舎の前、つまり西側には霊樟(れいしょう)の大木が繁り、霊樟の北側には神馬像が建立されています。唐門をくぐり、境内に入るとこの神馬がまず右方向に見えます。「安政元年の冬大地震のため、火災が起り北新町から火勢が西風に煽られて湊地区に燃え移らんとした時不思議にも此の樟の幹や枝から白水が噴出し同時に風の向きが逆転して災厄を喰い止める事が出来たと言い伝えられ誠に霊験あらたかな御霊のよれる霊樟として当時から郷土の子々孫々に至るまで厚く尊崇されている。」(駒札転記) 手水舎の井戸の上にはこの石板の蓋がしてあり、そこには左下側に法螺貝と蟻が線刻されています。そして「蟻道宮のいわれ」が右上に彫り込まれています。「ほら貝にみつをつけ 蟻に糸をむすび 通した故事により 蟻道宮とも 知恵の神とも 尊敬される」(銘文転記) 霊樟の傍に、この案内板「蟻通しの由来」が設置されています。紀伊田辺に外国の使者が来て、法螺貝に一本の糸を通せという問題を出したとか。解けなければ日本国を属国にすると言ったとか。日本の神々は難題に頭を痛めたところが、若い神が上記のアイデアでこの問題を解決したというのです。外国の使者は、その知恵に感服して逃げ帰ったのです。めでたし、めでたし。その若い神はこのことから蟻通しの神と称されるようになったとか。日本第一知恵の神というわけです。 霊樟の南側 楠木社(右)と天満宮(左)が祀ってあります。石鳥居の両側に臥牛像が奉納されていますので、天満宮はすぐわかります。楠木社はこの霊樟、たぶん地主神を崇めるための社殿なのでしょう。鹿の像も奉納されています。 西側には記念碑が建立されています。 本殿の側面をまず眺めながら、参道を左側に回り込んで行きます。 拝殿の南西側にも注連縄を張り巡らしたクスノキの大樹があり、南東側にも公孫樹の大樹が同様に屹立しています。 南から正面を眺めた拝殿。入母屋造り銅板葺きの建物に唐破風の拝所が付いています。現在の主祭神は、天児屋根命です。「社伝による勧請には、天平神護元(766)年と伝えられている。古い社名は御霊牛頭天王といわれ、湊の地主神として崇敬されたが、文化9(1812)年に社名を蟻通明神社と改称した。一般の氏子は「御霊さん」と呼び、変わらぬ信仰が行われた。明治元年、神仏分離で社名を蟻通神社と改称。」(資料3)素直に考えると、天児屋根命が蟻通しの神ということになるのでしょうね。後で調べた範囲では、そのあたりの詳細な説明を見つけることはできませんでした。 唐破風の兎毛通は、唐門の装飾彫刻と対比しますと、蕪懸魚の様式は類似していますが、異なった草花文様の透かし彫りが施されています。木鼻はシンプルですが、その意匠はまた異なっています。同じ形のモノトーンにしないところがおもしろい。 拝殿の右隣りには赤色に塗られた鳥居が立ち、少し離れて「西宮大神宮」が並んでいます。 狛犬の先は石柵が設けられていて、近づけません。 石柵の向こう側には、小さな池に反り橋がかけられていています。その先に中門があり、右の柱には「弁天宮」、左の柱には「八幡神社、愛宕神社、八坂神社、住吉神社」と併記した木札が掛けてあります。大樹の手前にある小祠が「弁天宮」で、祭神として市杵島姫命が祀られ、左の木札の四神社は、末社相殿ということだとか。この小祠に相殿・配祀神として祀られているものと私は解釈しました。(資料3)それでは、隣の西宮大神宮を拝見しましょう。祭神は西宮大神です。 正面にえびす様の笑い顔の扁額えびす宮総本社は、兵庫県西宮市に所在の「西宮神社」です。西宮大神とはこの神社の祭神を意味すると思います。西宮神社の第一殿(東)に祀られている祭神はえびす大神(蛭児大神)、第二殿(中)には「天照大御神、大国主大神」、第三殿(西)には「須佐之男大神」です。えびす大神(蛭児大神)と大国主大神が勧請されていることが頷けます。(資料4) 柱に掛けられた木札には「祭神 蛭児命 大国主命」と併記されています。ここの木鼻は白く塗られていますが、彫刻としては一般的なものです。 正面の外縁には、えびす様とダイコク様の大小様々な像が置かれています。ダイコク様が多いようです。 回縁の脇障子には、えびす様と関係する鯛が彫刻され彩色されています。 それほど大きくはない境内地ですが、境内の南東隅には、稲荷社が祀られています。こちらも朱色ではなく、赤色が基調となっています。小規模の境内地のわりに、各所に大樹があるのが特徴的です。 境内の西辺を最後に歩いたとき、「蟻通神社の森」という駒札が目に止まりました。境内地の面積は、1171㎡と記されています。かつてはたぶん境内地がもっと広くて、鬱蒼とした神社の森が形成されていたのではないでしょうか。田辺市指定文化財第1号に指定登録されています。 境内を巡って、西側に出たところで石鳥居を眺めた景色です。手前に立つ石灯籠の基礎部分がおもしろい形状にしてあります。この種の形は狛犬が乗る台に使われているのをいくつか見たことがあります。 そして、気づいたのがこの記念碑です。 明治22年8月の大水害の最高水位を示す線が刻まれています。ここを探訪した時は、未だ案内マップを入手していませんでした。道標を頼りに歩いてきました。時間的制約と距離感が掴めないので、一旦分岐点に戻り、途中で目にしたお寺を目指すことにしました。つづく参照資料1) 「『天地人和合の道』を極めた 合気道開祖 植芝盛平翁」 植芝盛平翁顕彰会 当日入手したリーフレット2) 「熊野古道の玄関口・紀伊田辺のまち歩き たなべぇマップ」 田辺観光協会3) 蟻通神社 :「和歌山県神社庁」4) 西宮神社 ホームページ補遺公益財団法人合気会 ホームページ 合気道とは 歴代道主略歴 合気道の紹介 YouTube合気道‐技紹介 Aikido Techniques YouTube武蔵坊弁慶 :ウィキペディア武蔵坊弁慶 :「コトバンク」武蔵坊弁慶にまつわる7つの伝説!義経に忠義を尽くした男を知れる本も紹介 :「honcierge ホンシェルジュ」蟻通神社 :「田辺探訪」(田辺観光協会)息長足日女命 万葉神事語辞典 :「國學院大学デジタル・ミュージアム」コラム28 明治22年(1889)紀伊半島豪雨による土砂災害 :「いさぼうネット」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 紀伊田辺・白浜一泊の旅 -2 紀伊田辺まちなか散策(海蔵寺)と海の景色 へ探訪 紀伊田辺・白浜一泊の旅 -3 白浜を巡る(アドベンチャーワールド)へ探訪 紀伊田辺・白浜一泊の旅 -4 白浜を巡る(文珠堂・三段壁・三段壁洞窟・十像岩・白浜駅)へ
2019.12.26
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11月下旬に大阪の淀屋橋まで夕刻に所用で出かけた折、少し時間的な余裕があったので、思いつきで大阪府立中之島図書館に立ち寄ってみました。この図書館は1904年に建てられ、ギリシャ・ローマの神殿建築様式を取り入れた新古典主義の建築です。正面の石段を上って行くと、建物の2階になり、そこが正面玄関です。入口を入ると中央ホールとなっています。 三角形のペディメントがコリント式の巨大な円柱と梁により支えられています。柱の上部他にアカンサスの文様が使われています。正面玄関の上部に、右から左に「大阪図書館」と陽刻された文字が目にとまります。その上部には、半円形の扇窓が取り付けられています。「ファンライト」と称するそうです。ここは3階部分になります。内部を見学して3階を訪れて、わかったのですが、ここは「記念室」となっています。 正面の玄関を入ると、この「大阪府立中之島図書館の創立」と題する案内パネルが掲示されています。 ここは3階に吹抜ける円型中央ホールです。正面に3階へ上がる幅の広い大階段があり、途中で左右に別れてそれぞれの方向に上る階段になっています。重厚な感じを与えます。階段を上がる正面上部には「建館寄附記」(明治41年)、下部には「増築寄附記」(大正11年)が設置されています。草創期の歴史を見ますと、1894(明治27)年2月に「大阪市参事会の図書館設置議案」が提出されて、1900年に大阪図書館建築費約5万円の予算が提出されるに至ります。同月に、「第15代住友吉左衛門氏から大阪府に対し、建築予算15万円の図書館を建造し、並びに10ヵ年度図書購入基金5万円の寄付の申出」がなされました。3月に「中之島公園内の敷地1,000坪を大阪市より無償かつ永久供用に決定」となり、同年9月に建築が着工されます。設計・監督は野口孫市氏(1869~1915)が担当し、日高胖氏(1875~1953)がそれを援けたと言います。当時野口氏33歳、日高氏25歳だったとか。大正になり左右両翼の建物増築に際しては、野口氏の意匠を忠実に踏襲して、日高氏が設計・監督を行ったと言います。そして、1904年3月に「大阪図書館」が開館されました。1922(大正11)年10月に左右両翼の増築が落成しました。このときも、1917年12月に「住友家から、本館左右両翼増築寄付の申出」がなされています。こういう草創期・発展期の経緯を経て、現在の大阪府立中之島図書館が存在するようです。上掲のパネルには、上から第15代住友吉左衛門友純氏、初代館長今井寛一氏、野口孫市氏、日高胖氏の肖像写真と略歴の説明があります。 上を見上げると、そこは美しいカーブの青銅製円型ドームとなっていて、明かりとりの円形窓にステンドグラスが嵌め込まれています。 中央ホールのギャラリー上部のフリーズ(中間帯)に赤い丸と青い丸を追記しました。その上に見える長方形のプレートの部分です。赤い丸のところには「DARWIN」、青い丸のところには右から左に「菅公」という文字が記されています。この中央ホールを、「八聖殿」になぞらえて、八哲の名が記されているそうです。後の六哲は、孔子、ソクラテス、アリストテレス、シェークスピア、カント、ゲーデだそうです。撰者は哲学者井上哲次郎氏だとか。このことは、上掲の案内パネルに記されています。 両寄附記の左右には、龕の中に彫刻像が置かれています。増築時期頃に設置されたとか。 向かって左側は「野神像」、 右側は「文神像」です。文神像は人間の知性を表現し、野神像は人間の野性を表現しているそうです。両像は、長崎の「平和祈念像」を制作した彫刻家の北村西望氏(1884~1987)の作品です。階段を上がり、3階に行くと、中央ホールは円形の廊下で左右の部屋に繋がり、また、正面玄関側には、上記した記念室があります。扇窓のある正面側の壁面と側面には椅子が並べてあります。横長の長方形の部屋の中央には大きいテーブルが2つ連接されていて両側に椅子がずらりと置かれています。豪華な晩餐会ができる様重厚なムードの部屋でもあります。正面から見て左側は「大阪資料・古典籍室1」で、当館所蔵の古典籍、貴重書、特別コレクション、参考図書、地図などが置かれています。資料・古典籍等を閲覧できる部屋です。逆に、右側は「展示室」となっています。部屋には展示ケースが整然と配置されています。開館当初からの貴重な資料や文書、大阪にまつわる資料など、様々なものが展示されていました。 このジオラマは撮影OKでした。生憎ガラスケースが鏡面反射して見づらいのが残念ですが、ご紹介しておきます。神戸の居留地は有名ですが、かつて大阪にも居留地が形成されていた時期があったそうです。それが「川口波止場と居留地」です。つまり、現在の大阪市西区にあった文明開化発祥のまち「川口居留地」です。今は、市立本田(ほんでん)小学校の角に「川口居留地跡」の石碑が立つと言います。また、当時を偲ぶ建物の一つに、「川口基督教会」が現存しているそうです。 図書館を出ると、中之島公園にはイルミネーションが輝いていました。中之島イルミネーションストリートは、2019/11/4~12/31の期間開催中です。 こちらは御堂筋の恒例となったイルミネーションです。ここは「道修町3」の道標が見える場所です。こちらも12/31まで開催中です。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*上掲の展示パネル*大阪府立中之島図書館 ホームページ 館内フロア案内 中之島図書館の概要 *大阪府立中之島図書館 :「住友グループ広報委員会」*発展を遂げた大阪・海の玄関口 :「三井住友トラスト不動産」補遺ギリシャ建築・ローマ建築のオーダーの種類と違い :「大人になれる本」アカンサス :「唐草図鑑」【維新150年】文明開化発祥のまち「川口居留地」 :「産経新聞」[1895年]大阪(明治28年)⇒元川口居留地の波止場 :「ジャパンアーカイブズ」浪華安治川外国館真写之図 :「おおさかeコレクション」OSAKA光のルネサンス2019 2019/12/14~12/25大阪光の饗宴 御堂筋イルミネーション2019 2019/11/4~12/31 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2019.12.21
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一の丘に歩む途中、2ヵ所に道標が設置されています。 一の丘の傍に、「右大臣贈二位清原真人夏野公墓」と刻された石標が立っていて、 その右側にこの案内板が設置されています。一の丘は古墳時代後期(6世紀後半~7世紀初頭)の円墳(横穴式石室)で、豪族首長墓と考えられているそうです。その場所が、清原夏野の墓に使用されていたのでしょうか。石標の背面を見ますと、裔孫により明治45年1月に建立されています。あるいは、墓とみなされたということでしょうか。「双ヶ丘の周辺は古来、天皇の遊猟地であったが、また貴紳の山荘地でもあった。なかでも右大臣清原夏野の山荘はその東南に地を占めていたから、夏野を一に双ヶ丘大臣(比大臣)とよんだ。山荘はのちに法金剛院となってその名残りをとどめているが、丘の西方に営まれた左大臣源常の山荘は早く廃れ、今は常盤という地名に名をとどめているにすぎない」(資料1)。このことを考えると、夏野の墓がこの双ヶ丘にあっても不思議ではありません。一の丘には階段が設けてあります。 丘上に立つと、南西~西方向の展望が一挙に広がります。 北の方向に目を転じますと、 樹間の彼方に、仁和寺の全景が眺められます。仁和寺を探訪した時、仁王門前から双ヶ丘を眺め、あの双ヶ丘に登れるのだろうか、と思ったことが今回の探訪の一つの動機になっています。 仁和寺の仁王門ハンディなデジカメですが、そのズーム機能を使うと、結構身近な感じの景色が撮れます。 仁和寺の東側の展望をパノラマ合成した景色です。一の丘の高さは前回触れていますが、116m。二の丘と三の丘はそれぞれ高さ102m、78mです。また、それぞれの丘の直径は、一の丘から順番に、300m、250m、200mほどの規模だそうです。一の丘の頂上古墳の情報は上掲の案内板に記されています。一方、二の丘と三の丘の周辺に小規模な古墳群が点在することも既にご紹介してきましたが、こちらは合計19基に及ぶと言います。(資料2) 一の丘から降ると、「きたのひろば」への標識がでていますが、ここから直接下山するルートを選択しました。 前回のご紹介で登り始めた入口から北方向に双ヶ丘沿いに幅広い道が北に続いています。左の写真は逆に、北から南方向を眺めた景色。右の逆L字のH鋼は「いちのおか」への道標です。ここが降ってきた場所になります。 この道から双ヶ丘の区域を出ると、南北の通路があり東側は住宅地域になっています。 通路沿いに南に歩むと、途中にもう一箇所、双ヶ丘に登っていく石段がありました。ここにも、案内板が設置してあります。(省略します) さらに、道沿いにすすむと、紅葉が見られました。これは振り返った景色です。 この道にも、一隅にお地蔵さまの小祠を見かけました。 その先には、かなり広い平地の空間が開け、紅葉が見頃でした。ここにも案内板が設置されています。 住宅地の間の狭い通路を東に下って行きます(右の景色)。出た道路は法金剛院の西側から北上してきた道路になります。府道130号線です。この幅の広い道路に出て右折して南に少し下がると、左の景色のモニュメントのある場所になります。これは「オムロン発祥の地」を示すモニュメントです。このモニュメントは仁和寺を探訪した時のブログ記事でご紹介しています。このモニュメントを目印にしますと、「雙ケ岡」域へのもう一つのアプローチ・ルートがわかりやすいでしょう。少し、横道に逸れます。この双ヶ丘が現状のように整備された背景には、ある事情があったようです。「昭和16年に国の名勝に指定された双ケ岡であるが、昭和39年から数年間は土地所有者の仁和寺が二の丘、三の丘を売却したことに端を発し、諸種の開発計画が持ち上がり、市民こぞっての強い反対運動の結果、昭和53年に京都市が国と府の支援を得て全面的に買収し、以来、8年がかりで環境整備をし、現在は遊歩道、ひろば、展望所などが整備され、歴史と自然環境に恵まれた公園に一新されている。」(資料2)こんな経緯があったことを、今回初めて知りました。元に戻ります。 既ブログ記事と重複しますが、このお寺にはふれておきましょう。注目点は門前右前の石標です。「兼好法師旧跡」と刻されています。南北朝時代に兼好法師が双ヶ丘の一の丘と二の丘との間の西寄りの麓に庵を結び隠棲するに至ったそうです。そして、あの『徒然草』をこの丘の麓で著したと言われています。家集に次の歌が詠まれているそうです。 山里の住まいも、ようよう年経ぬることを 寂しさも習ひにけりな山里に訪ひくる人の厭(いと)はるるまで ならびの岡に無常所(墓所)を設けて、傍らに桜を植えさすとて 契り置く花とならびの岡の辺に哀れ幾世の春をすぐさむ兼好法師は、2つ目の歌から、死後はこのならびの岡に骨を埋めるつもりだったのでしょう。しかし、実際は晩年に伊賀国(三重県)国見山の麓、田井ノ庄に転住し、貞和6年(1350)2月15日に、かの地で没したそうです。享年68歳。このお寺は元禄年間に創建された浄土宗の「長泉寺」(右京区御室岡ノ据町)です。江戸時代に、兼好法師を偲んで、この境内に兼好法師の墓と歌碑がつくられたと言います。兼好法師の像を安置されているそうです。毎年4月に兼好忌が長泉寺で行われているとか。(資料1)尚、没年月日は諸説あり不詳とも。(資料3)歳時記を引くと、「兼好忌」として季語にもなっています。(資料3) 如月の梅の月夜や兼好忌 名和三幹竹 読まず書かず風の二月や兼好忌 星野夢丘人府道130号線を南に下ると、右側に双ヶ丘中学があります。この傍で道が分岐します。何度か通っている道路をやめて、通ったことのない左側の道を通り、JR花園駅をめざしました。すぐ先で再び道が分岐します。左の道を進むことにしました。 浄土宗の「西光庵」(花園宮ノ上町)というお寺の前を通り過ぎることに。門前の左側に「向阿上人終焉地」と刻した石標が建立されています。 鬼瓦がおもしろい。 事後に手許の本で調べてみますと、向阿上人は、鎌倉末期の僧で、はじめは天台僧だったが、法然上人に帰依し、礼阿上人につき是心上人と号したとか。布教の基本を三部七冊の書としてまとめ、浄土教弘通につとめた上人だそうです。晩年、この双ヶ丘の東、池上の地に草庵を結んだのが、当寺の起こりとなります。華開山を山号とする浄土宗知恩院派のお寺です。本堂の東側に、五輪石塔の形で向阿上人の墓が祀られているそうです。(資料1)池上とは、双ヶ丘とその東南にあたる五位山の間をこう称したそうです。仁和寺の寬中僧都が天暦年間(947-957)この地に池上寺を創建したのに因み、池上村と呼ばれたことに由来する地名です。池上寺は廃寺となりました。池上村は明治4年(1874)花園村と合併したと言います。池上にはかつて大池があり、「双の池」と称したそうです。(資料1)『都名所図会』を見ますと、「双(ならび)の池の上にあり。浄土宗にして、向阿上人開基なり」と一行の説明を記しています。(資料4) 花園駅の方向を目指して道なりに進みますと、築地塀があり、その先に石鳥居が見えました。石鳥居は西面しています。 「今宮神社」です。 石鳥居をくぐると、右側に手水舎があり、 左側には西端に末社「松尾神社」、神輿庫(たぶん・・・)が並んでいます。祭神は大山咋命と倉稲魂大神です。 石鳥居の正面には拝殿があります。 その左斜め奥に、連子窓のある塀と中門で囲まれた本殿が見え、その手前に、 この「今宮神社 由緒」の案内板が設置されています。 祭神は素戔嗚尊。平安時代の長和4年(1015)6月、都での疫病流行を機に、託宣により当今宮神社が創祀されたそうです。疫病流行の再来が厄除神として当社への崇敬を高めたように思えます。もとは、祇花園社または花園社と称したそうです。「中世以降は法金剛院および仁和寺の鎮守社として崇敬された」(資料1)ということなので、由緒書きに、仁和寺門跡覚深法親王の本願により、徳川家光の保護を受けて、現在の本殿、拝殿、社務所、末社等が造営されたという関係が理解できます。(資料1,由緒)「現在は花園・安井両町の産土神として崇められ」(資料1)ていると言います。 中門に連接する拝所の屋根を眺めますと、鬼板と丸軒瓦に菊の紋がレリーフされています。由緒に記された経緯と覚深法親王の発願ということから頷けます。 境内地を東に通り抜けると、この鹿島鳥居様の木造鳥居があります。東西両方から境内に入れます。西側の石鳥居が面する道路を南に歩むと、丸太町通の花園交差点に出ます。丸太町通に向かい斜め右がJR花園駅です。そして、この今宮神社の石鳥居前の南北の通りが、かつての平安京右京、西京極大路にあたると言います。今宮神社のある側はかつての京内、この道の西側は京外という境界にあたるのです。(資料1) 神輿庫の東側に立つこの石碑が目に止まりました。文字が記されていますが、判読できません。しかしじっと見つめていると、人物が浮かび上がってくるように思えます。文字を利用した一種の騙し絵にもなっているのでしょうか。興味深い石碑です。最後に付け加えておきます。(この石碑についてご存知でしたらご教示ください。) 少し、思いつき的な形で経巡った探訪も、花園駅でゴールとなりました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛西』 竹村俊則著 駸々堂 p106-1072) 『京都史跡事典 コンパクト版』 石田孝喜著 新人物往来社3) 『合本現代俳句歳時記』 角川春樹編 角川春樹事務所4) 『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p263 補遺清原夏野 :ウィキペディア清原夏野 :「コトバンク」源常 :ウィキペディア源常 :「コトバンク」吉田兼好 :ウィキペディア吉田兼好 :「コトバンク」向阿 :「新纂 浄土宗大辞典」向阿忌のご案内 :「浄土宗大本山清浄華院」向阿上人伝 :「新纂 浄土宗大辞典」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・右京 常盤・花園を歩く -1 源光寺ほか へ探訪 京都・右京 常盤・花園を歩く -2 法金剛院(経堂・礼堂・苑池・仏殿・地蔵堂ほか)へ探訪 京都・右京 常盤・花園を歩く -3 法金剛院(苑池をめぐる)へ探訪 京都・右京 常盤・花園を歩く -4 地蔵院・花園西陵・双ヶ丘 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都・洛西 御室・仁和寺と周辺細見 -1 御室駅から仁和寺二王門へ 最後に、仁王門前から眺めた双ヶ丘の景色を載せています。探訪 京都・洛西 御室・仁和寺と周辺細見 -5 蓮華寺・陶工仁清窯址・兼好法師旧跡(長泉寺)・地蔵院・法金剛院
2019.12.20
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位置関係をわかりやすくするために、この地図から始めます。この地図の出処は後でまたご紹介します。元の地図を方位の向きに合わせて、見やすいように最小限の加筆をしました。法金剛院を出る時に、受付所で、五位山の上にある御陵の前に行く方法があるのか尋ねました。法金剛院の西側の道を北に進み、三叉路があるのでその一番右の道に入り、法金剛院の裏手にあたる右側の家並みを眺めながら進むと、民家の間に御陵への道があるのがわかります。というご返事でした。 法金剛院の西側の道は、以前の探訪でも仁和寺に向かうときに歩いた道です。西側の道を歩き始めますと、「地蔵院」という木札を掲げた門があります。塀の壁面に、「叶地蔵大菩薩」「六道地蔵大菩薩」等の名称並びに「地蔵院」と記した年季入りの看板が掲げてあります。「法金剛院の古図によれば、もと境内の南端、南大門の東にあって、地蔵院と称していた」(資料1)というのが、この地蔵院のようです。この看板に記されたのが、法金剛院の地蔵堂で説明した金目地蔵と六地蔵のことになります。 地蔵院門前のお地蔵さま教えていただいた通りに進むと、御陵を示す案内板が民家の間の通路の先に見えました。 「花園西陵」と明記した案内板 砂利敷きのカーブした緩やかな坂道を上っていきます。 振り返った景色です。 アプローチ出来るのは、この手前の垣根と門扉の前までです。この景色の左端の先には「仁和寺宮墓地」があるそうです。その案内板が立っています。 鳥羽天皇中宮の「藤原璋子花園西陵」、つまり「待賢門院陵」です。「陵は中世以降、所在不明となっていたが、明治4年(1871)茶畑であったこの地から石棺を発掘し、中から法華経を両面に彫刻した瓦を出土したことから確定された。現在の陵は小円墳で、陵上に松樹を植える」(資料1)とのこと。 夕さればわきて眺めん方もなし煙とだにもならぬ別れは 続古今集・巻16・哀傷歌中宮に仕えた待賢門院堀河がこの歌を詠じています。遺体は火葬ではなく土葬にされた事がわかります。ここから東に100mのところ(花園寺ノ内町)に、上西門院陵があるそうです。こちらには行きませんでした。三叉路まで戻ります。 ここに、少し大きめの地蔵堂があります。冒頭の地図に赤丸を付けました。 格子戸越しに眺めると、石造で舟形光背の地蔵菩薩立像が安置されています。写真を観察すると、光背の左右にそれぞれ、「右 あ・・・」「左 うつ□さ」と文字が刻されています。左はたぶん「うつまさ」(太秦)でしょう。つまり、道標を兼ねたお地蔵さまと思われます。元はたぶん路傍に露天の形だったのでしょう。この傍の道を西に入ります。小さな川を越えた先に、 この案内板が設置されています。「国指定名勝 雙ケ岡」と記されています。つまり、「双ヶ丘」です。 左に記されているこの地図が冒頭で利用させてもらったものです。 右側には、この説明文が記されています。 右折して、少し北に進むと、この登り口がありました。登り口の左側にもお地蔵さまが祀ってあります。私は今まで、「双ヶ丘」という名称から2つの丘が並んでいるとかってに思い込んでいたのですが、花園の西方に位置して、3つの円錐形の岡が南北に一直線上に北から南に並んでいるのです。そこから双ヶ丘(岡:ならびがおか)と呼ばれるようになったそうです。北の岡が最も高くて「一ノ丘」と称され、海抜116mです。面積は18万3000㎡と言います。(資料1)では、いよいよ双ヶ丘を登って探訪です。 整備された山道を登って行くと、道標があります。まずは、「さんのおか」に向かいました。 三の丘辺りに案内板が設置されています。 案内板の右半分には地図が表示してあるのですがあまり見えません。「三の丘群集墳」の説明です。ここには、6世紀後半から7世紀初頭の、広範な階層の人々の小規模な古墳が群集しているそうです。 ここから北方向に進みます。 樹木が伐採されて、見晴らしが良くなってきました。 二の丘です。樹木が伐採されたことで、かなり広々としていて、京都市内が見下ろせ、遠くまでの眺望がすばらしい場所です。 南東方向を眺めますと、京都タワーが見えます。 更に、南方向寄りで、デジカメ機能をズームアップして、遠望した景色です。 二の丘から三の丘の方向に進みます。 途中に「とおみのひろば」と呼ばれる展望場所があります。 上掲の案内板を撮りました。この広場から遠望できる主要な場所が景色図として描き込まれています。 ここからの展望風景をパノラマ合成してみました。 北東寄りに見える山は、松ヶ崎のあたりでしょう。「妙」「法」の二文字が送り火として点灯される2つの山があるところです。 東の方向の先には比叡山が見えます。頂上付近に建物が見えています。 一の丘に進みます。つづく参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛西』 竹村俊則著 駸々堂 p106-107補遺名勝 雙ケ岡 :「京都市情報館」双ヶ丘 :「コトバンク」双ケ丘 夜景 :「yakei.jp」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・右京 常盤・花園を歩く -1 源光寺ほか へ探訪 京都・右京 常盤・花園を歩く -2 法金剛院(経堂・礼堂・苑池・仏殿・地蔵堂ほか)へ探訪 京都・右京 常盤・花園を歩く -3 法金剛院(苑池をめぐる)へ探訪 京都・右京 常盤・花園を歩く -5 双ヶ丘(続)・長泉寺・西光庵・今宮神社 へ
2019.12.19
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礼堂の前から苑池の周囲を時計回りに巡って行きましょう。待賢門院が極楽浄土として造園させた「池泉回遊式浄土庭園」と言われています。(資料1) 苔蒸した庭に埋もれた形の石仏が目に止まります。 やや俯く相貌のおぼろさが見つめる者を想像の世界に誘うことでしょう。 左の方に足を向けると、傾斜地に整然と並ぶ石仏群が見えます。 一番高いところに坐す石仏は宝冠を付けていらっしゃる。弥勒菩薩?大日如来?あるいは観音菩薩? 一石五輪塔様の石もお地蔵さまも一緒に並び、赤い前掛けをして、ワンチームです。 文部省と刻された石標があります。 では、「青女(せいじょ)の滝」へと歩みましょう。 苑池の北、五位山の山裾に、巨岩を並べ雄大に石組みをした滝です。 足許に「名勝境界」と刻された石標が目に止まりました。 この滝は、待賢門院が発願し、石立僧林賢(りんけん)と静意(じょうい)が作ったことがはっきりとしていて、その遺構がそのまま残っているという貴重なものと言えます。(資料1)「大治5年(1130)待賢門院が仁和寺の石立僧林賢に命じてつくらしめられたが、滝の高さが思ったより低かったので、三年後の長承2年(1133)徳大寺法印静意をしてさらに高さ5尺程を増し、13尺におよぶ壮大な滝とされた。この滝の水は北の双ヶ池から水を引用したといわれる」(資料2)とか。昭和45年(1970)に復旧されて、840年ぶりに水声を聞くことができるようになったそうです。この時、埋没していた滝の石組を掘り起こし、滝水を引いて鑓水をつくり、池にそそぐように改修され、築造当初とは多少形態を変えているといいます。「青女」とは、「雪や霜を降らす女神」(『日本語大辞典』講談社)のことだとか。転じて、雪や霜の意味にもなるようです。淮南子(えなんじ)天文訓にこの語句がでてくるそうです。(資料4) 紅葉を愛でつつ池の北辺を歩むと、 歌碑が見えます。待賢門院堀河が詠んだ歌です。百人一首80番の歌として有名です。 長からむ心もしらず黒髪のみだれてけさは物をこそ思へ 千載集802 待賢門院堀河は、神祇伯をつとめ歌人としても名高い源顕仲の子で、夫と死別した後、待賢門院に仕えて堀河と呼ばれた人。待賢門院の落飾に従い出家し、仁和寺に住んだそうです。(資料3) 鑓水は苑池へ 紅葉の先に礼堂の甍 池の対岸に礼堂、その背後に仏殿の屋根 苑池の南東側から 石橋を振り返り 南東辺 苑池南の州浜 苑池南の畔から北を眺望すると五位山を背景に紅葉の美景が広がります。 苑池の南西隅 苑池の南辺を回り込み西側の参道に至り、苑池めぐりも終わりです。法金剛院を出る前に、受付所で五位山の御陵側にアクセスできるかを尋ねてみました。御陵の前まで行くことはできるとのこと。教えていただいた道を辿ってみました。つづく参照資料1) 拝観当日にいただいたリーフレット「法金剛院」 律宗五位山法金剛院2) 『昭和京都名所圖會 洛西』 竹村俊則著 駸々堂 p93-1023) 待賢門院堀河 :ウィキペディア4) 青女 :「コトバンク」補遺法金剛院 ホームページ待賢門院堀河 :「千人万首」法金剛院庭園 京の庭を訪ねて :「京都市都市緑化協会」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・右京 常盤・花園を歩く -1 源光寺ほか へ探訪 京都・右京 常盤・花園を歩く -2 法金剛院(経堂・礼堂・苑池・仏殿・地蔵堂ほか)へ探訪 京都・右京 常盤・花園を歩く -4 地蔵院・花園西陵・双ヶ丘 へ探訪 京都・右京 常盤・花園を歩く -5 双ヶ丘(続)・長泉寺・西光庵・今宮神社 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 京都・洛西 法金剛院 -2 庭園を巡る
2019.12.16
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源光寺から旧下立売通を東に歩き、双ヶ岡交差点を経て、丸太町通に面する「法金剛院」に来ました。この寺は1918年3月に訪れています。その時の探訪記をスポット探訪としてご紹介しています。晩秋の法金剛院の景色をお楽しみいただければ幸いです。冒頭の写真は「法金剛院全景」図にご紹介の便宜として黒字で加筆しています。表門(番号1)を入ると、中門(番号2)の手前に設置されています。 赤い丸を付けた位置に、この全景図があります。この景色の斜め左後に、土蔵造り・白い漆喰壁の建物「経蔵」が見えます。全景図に番号3を付けています。 表門を入った西側には鐘楼があります。鐘楼付近の紅葉した落ち葉を北から眺めた景色です。 表門から境内に入り、中門の手前で振りかえって眺めた表門です。通りの向こうに見える高架は、JR嵯峨野線です。かつての法金剛院の境内地はこの高架のさらに南まで広がっていたそうです。(前ブログ記事でご紹介ずみです。) 中門(番号2)を入ると、左側に拝観受付所があります。左の景色は受付所から東の延びる参道の景色。右は中門傍を内側から眺めたところです。 参道の右手に経蔵の背面と傍に置かれた鬼瓦を眺めつつ、参道を進みます。 参道の東側は書院の南側の庭部分になります。 参道は苑池の手前でT字路になり、南北方向に変わります。左の景色は南方向に向かう参道で、こちらに行くと、右に経蔵を見ながら、表門が見渡せる場所に出ます。右の景色です。土蔵造りの経蔵をまずぐるりと眺めておきましょう。 中門を入る前に境内地で眺められる景色です。ここは受付までのエリアですので、自由に眺めることができます。 宝形造りで、正面に切妻屋根の拡張部が付いています。屋根の頂点の露盤の格狭間には獅子がレリーフされ、伏鉢の上には請花と火焔宝珠がのっています。切妻屋根の頂点の鬼板の部分が龍の彫刻像です。かなり凝った造形美を楽しめる経蔵の屋根です。 境内に戻ります。上掲の表門を眺められる地点で、振り返り東側をみれば、苑池の南辺部から池の畔を回遊していく起点になります。まずは、ここで一旦、北方向に参道を引き返します。 参道の分岐点に戻ると、北西側には、書院への玄関(番号4)とその先の礼堂(番号5)、その先に釣殿の屋根が並んで見えます。 唐破風屋根の玄関口です。唐破風の屋根の頂点には獅子口がのり、獅子口には結三輪違の紋が見えます。 欄間部分は束と肘木だけの木組がスッキリとしています。 書院の南側面の庭にはこんな像が置かれています。羅漢像でしょうか。 玄関前の苑池傍に佇み、苑池を眺めて見ましょう。右の写真は池面に映じた彼岸の紅葉と此岸の草木です。 苑池の南東方向、鶴島を眺めた景色 北方向に目を転じ、此岸の北側、つまり苑池の北西辺を眺めた景色です。 礼堂(番号5)の南側面 池側から礼堂を眺めた景色。背後の西側には仏殿(番号6)の屋根が見えています。 礼堂の正面階段から上り、外縁伝いに仏殿に向かいます。法金剛院は律宗のお寺で、奈良の唐招提寺に属しています。この地は、平安時代の天長年間(824-834)に右大臣清原夏野が山荘を営んだところと言います。小野篁らと共に『令義解』を編纂した一人で、天武天皇系譜の人で、当代屈指の儒臣だったそうです。清原夏野の死後、寺となり双丘寺(ならびがおかでら)と称されます。山荘当時に諸帝が行幸され、仁明天皇が内山に登り、その景勝を愛でて、五位の位を授けられたことから、内山が五位山と称されるようになったとい言います。この五位山が当寺の山号となっています。その後、文德天皇がここに伽藍を建て、定額寺に列して天安寺とされたのですが、天延2年(994)に出火により荒廃。平安末期、大治5年(1130)鳥羽天皇の中宮待賢門院が天安寺を復興し、法金剛院とされたと言います。当時は、五位山を背景にし、苑池を中央にして、東には待賢門院の宸殿、南御堂(九体阿弥陀堂)、西御堂(阿弥陀堂)、北斗堂、三重塔、経蔵などが立ち並ぶ広大な寺地だったそうです。(資料1,2)つまり、池の東の女院御所から、西方浄土の阿弥陀仏を拝するようにしつらえたということです。待賢門院は1142年落飾し真如法と号し出家となり、わずか3年後、1145年45歳で崩御され、遺言により法金剛院境内の北端にあった三昧堂の地下石室に埋葬されたそうです。現在、五位山の東北麓に「待賢門院陵」(正式には、鳥羽天皇中宮花園西陵)があります。永暦元年(1160)に、生母待賢門院を慕い、上西門院が法金剛院に入寺し、1172年に池の東南に一宇の阿弥陀堂(東御堂)を建立したと言います。1181年に東御殿の一部が焼亡し、1189年には上西門院が崩御、その後法金剛院は次第に衰微したそうです。鎌倉時代、円覚上人が法金剛院を復興されるに及び、唐招提寺の末寺となったそうです。(資料1) 正面の外縁から北側の外縁を進み、釣殿の傍を西からさらに南側外縁と回り込み、 西側に位置する渡り廊下を経て、仏殿に至ります。 西側の外縁から東を眺めて・・・。一方、西側外縁の南端には「雲版」が吊ってあります。告知のために打ち鳴らす法具です。どんな音が響くのでしょうか。仏殿内は撮影禁止です。本尊は丈六の阿弥陀如来坐像(重文)、院覚作。向かって左端に厨子に安置された十一面観音菩薩坐像(重文)。厨子も重文です、厨子の内側には扉の内側を含め、十二天が描かれています。扉の図像は比較的見やすいですが、内側側面等の図像は薄暗くてあまり見えません。右側には僧形文珠菩薩像(重文)、地蔵菩薩像(重文)などが安置されています。(昨年のブログ記事に、仏像の画像を引用しています。) 礼堂屋根の鬼瓦 仏殿の外縁から眺めた釣殿の景色仏殿の外縁から渡り廊下を進み、地蔵堂に向かいます。こちらも堂内は撮影禁止です。地蔵堂には、寄木造り、彩色で丈六の地蔵菩薩坐像(重文)が安置されています。藤原末期の様式の仏像です。1970(昭和45)年に現在の地に移されたと言います。「法金剛院の古図によれば、もと境内の南端、南大門の東にあって、地蔵院と称していた」(資料1)とか。「金目(かなめ)地蔵」(お地蔵さまの白目の部分に金箔が貼られていたから)と称され、また一に、「要(かなめ)地蔵」(肝心要のときに救ってくださる)ともいい、これをなまって「協(かなえ)地蔵」「叶(かなえ)地蔵」(願いがかなう)とも呼ばれたそうです。(資料1,3)お地蔵さまはガラス格子戸越しに見仏することになります。金目地蔵菩薩像の両側に、等身大と思われる六地蔵菩薩立像、閻魔大王像が併せて安置されています。向かって右側 地獄道:檀陀(だんだ)地蔵、餓鬼道:宝珠地蔵、畜生道:宝印地蔵の3躰向かって左側 天道:日光地蔵、修羅道:持地地蔵、人道:除蓋障(じょがいしょう)地蔵の3躰が祀られています。西行法師のことにふれておきましょう。西行は美貌の待賢門院を深く思慕していたと言われています。待賢門院に関連した歌をいくつか詠んでいます。歌のご紹介です。 なんとなく芹と聞くこそあわれなれ摘みけん人の心知られて ⇒「芹摘む人」とは后など高貴な女性にかなわぬ恋をすることを意味する。 紅葉みて君が袂(たもと)やしぐるらむ昔の秋の色をしたひて 寄紅葉懐旧といふことを法金剛院にて詠みけるに 古を恋ふる涙の色に似て袂に散るは紅葉なりけり (山家集、中、雑歌)1861それでは、礼堂の階に戻り、この苑池の畔を回遊いたしましょう。つづく参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛西』 竹村俊則著 駸々堂 p93-1022) 拝観当日にいただいたリーフレット「法金剛院」 律宗五位山法金剛院3) 法金剛院 丈六金目地蔵菩薩座像と六地蔵 :「京都、奈良の旅」補遺法金剛院 ホームページ藤原璋子 ← 待賢門院 :ウィキペディア待賢門院 :「コトバンク」西行と暲子 :「心の時空」統子内親王 ← 上西門院 :ウィキペディア円覚十萬上人年譜考 :「GOOGLE BOOKS」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・右京 常盤・花園を歩く -1 源光寺ほか へ探訪 京都・右京 常盤・花園を歩く -3 法金剛院(苑池をめぐる)へ探訪 京都・右京 常盤・花園を歩く -4 地蔵院・花園西陵・双ヶ丘 へ探訪 京都・右京 常盤・花園を歩く -5 双ヶ丘(続)・長泉寺・西光庵・今宮神社 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 京都・洛西 法金剛院 -1 山門・中門・玄関・庭園スポット探訪 京都・洛西 法金剛院 -3 礼堂・仏殿・経蔵と鬼瓦
2019.12.15
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JR嵯峨野線「太秦(うずまさ)」駅を起点にして、同「花園」駅を終点とするルートを探訪しました。結果的にということですが、主たる探訪地は源光寺・法金剛院・双ケ丘となりました。 JR太秦駅前の観光案内図から切り出した部分図です。嵯峨野高校の所在地に青丸を追記しました。一つの目印になるでしょう。こちらは、新丸太町通の北側歩道から撮った京福北野線の「常盤」駅です。ここで下車するルートで行く場合は、東側の道路(この景色では左側の道路)を南に徒歩約2分です。 源光寺山門源光寺は臨済宗天龍寺派の尼寺です。花園から嵯峨に至る旧下立売通に沿った常盤の地にあり、道路の北側で南面しています。「創建は嵯峨天皇第三皇子である左大臣源常(みなもとのときわ)の山荘を寺に改めたものとされている」(資料1)そうです。事後に、インターネット検索をしてみて、源光寺の山門の写真をいくつか見つけました。かつてはこの門に、大きな木札が幾つも掲げてあったようです。それと対比しますと、山門の景色はスッキリとしたといえます。 山門を入ると正面に六角形の地蔵堂があります。京都の六地蔵めぐりの結願寺です。「常盤地蔵」と呼ばれています。「常盤谷地蔵」とも。また、上善寺(北区)の姉子地蔵に対して、乙子(おとこ)地蔵とも呼ばれるそうです。(資料2) 御詠歌 常盤なるまつの願いの色見えて梢の月を拝む嬉しさ 様々な探訪の中の一環で六地蔵めぐりの寺々を個別に訪れていて、この源光寺だけが未訪でしたので、11月に訪れてみました。格子戸に堂内を眺めるための格子窓部分がありますが、残念なことに曇ったような状態で常盤地蔵を拝見できませんでした。お堂の正面外観とこじんまりした境内を拝見するにとどまりました。 格子戸の上部には、こんな絵額が掲げてあります。こちらは地獄絵ですね。 地蔵堂の蟇股。素朴な形ですが中央に菊花文がレリーフされています。六角屋根の降棟先端の鬼板も同様にシンプルです。 屋根の頂点にのる露盤の格狭間には、梵字のカ(地蔵)という文字が陽刻されています。台風の影響でしょうか、屋根が痛々しい・・・・。山門を入った右側でまず目に止まるのは、等身大くらいの「福徳観世音菩薩」です。この観音様に向かって左側、山門を入ったすぐ左側には、 「厄除観音菩薩」を祀る覆屋 上半分に三観音が浮彫りになっていて、中央の観音菩薩の左右に文字が刻まれていますが、判読できません。右側の観音様の上に「仲山寺」と刻されています。 下半分の観音様の左側には「那智山」と刻まれています。仲山寺が中山寺と同じなら、兵庫県に中山寺があり「聖徳太子創建 日本で最初の観音霊場」と称され、「女人救済の十一面観世音菩薩」が祀られています。「安産の観音さま」と呼ばれているそうです。(資料3)和歌山にある那智山青岸渡寺は西国三十三ヶ所第一番札所です。本尊が如意輪観世音菩薩です。「仁徳天皇の時代、天竺(インド)から那智に渡来した裸形上人が、那智滝の滝壺で見つけた本尊として安置したと伝えられています。」(資料4) 地蔵堂前から山門に向かって左側の全景 手前に見える覆屋の木札に「美薬大菩薩」と。 上掲厄除観音菩薩の下半分に彫られている如意輪観音菩薩と図像学的には同じに思えます。常盤地蔵のことが念頭にあったのですが、事後に調べてみますと、源光寺本堂の本尊は観音菩薩だそうです。それで、境内に様々な名称の石造観音菩薩像が安置されていることをなるほどと思いました。美薬大菩薩の背後の建物は不詳。手前には何も置かれていず、道路側に近い部分は確認できませんでした。この建屋の先、つまり東側は柵があります。そこにこの「常盤御前の由緒書き」が設置されています。常盤御前の略歴を紹介した後に、この「常盤」の地が常盤御前の故郷であり、この地に戻り隠棲したと伝えられるということが記されています。さらに、次の3つの伝承も最後に記されています。*鳥羽天皇の皇女八条院の宮暲子の住む常盤殿がこの地にあった。*後深草天皇がこの地に一時隠れ住んだことがある。*歌人藤原為業(1254-1332)が寂念と称しこの地に隠棲した。 柵があり傍近くで拝見できなかったのですが、境内地の端、道路側に石仏や石塔を集められています。 その中央あたりに、石塔の一種と思えるものがあります。上部の三角形状の石の正面の上部に梵字が刻まれ、その下に「源義経御母堂 常盤御前御墓」と二行書きで刻されています。 近づけませんので側面からしか見ることができませんが、常盤御前がその子供達と一緒に佇む像が建立されています。 この像の背面を山門傍からなんとか撮れました。 この像の北西側に石幢が立っていて、正面(西面)に「大六合常立尊」と刻されています。初めて接した名称なので、少し調べてみますと、「大宇宙を総括する神を大六合常立命といひ、また天之御中主大神と奉称す。」(資料5)という一文を見つけました。これに相当するのでしょうか。相当するとしたら、なぜここにという疑問が残ります。 また、柵に近い手前に近年建立された感じの二基の石塔があります。五輪塔の正面には、上から空・風・火・水・地の五大を表す文字が刻まれ、「地」の下には続けて「法類諸精霊異位菩提」と刻されています。その右には「浄土門常盤院源光寺」、左には「三界萬霊十方至聖」と記されています。供養塔です。五輪塔の右側の宝塔塔身には「常盤院大慈悲母観世音尼霊位菩提」と刻されています。こちらも供養塔です。 常盤地蔵を見仏できず、少し残念な思いを抱きつつお寺を出ました。源光寺前の道(旧下立売通)は歩いたことがない道ですので、東の方向に歩いてみました。この道路は「双ヶ岡」交差点の少し手前で新丸太町通と接近します。この旧下立売通沿いに歩いていると、通り沿いにお地蔵さまの小祠をいくつか見かけました。 この小祠は格子戸の内側に提灯が見えましたので、近づいてみると「天道大日如来」を祀る小祠です。時折、この天道大日如来を祀る小祠があります。祇園祭の宵山巡りで鯉山の会所を訪れますが、会所庭の東端の小祠にこの天道大日如来が祀られているのを思い出しました。双ヶ岡の交差点で、新丸太町通に入り、JR花園駅の方向に進みました。久しぶりに、法金剛院を訪ねることに。歩きながら、ふと思いついたので・・・・。つづく参照資料1) 源光寺 :「京都観光Navi」2) 『昭和京都名所圖會 洛西』 竹村俊則著 駸々堂 p2213) 大本山中山寺 ホームページ4) 那智山青岸渡寺 :「わかやま観光情報」5) 霊界物語 第4巻 霊主体従 卯の巻 :「王仁DB β版」補遺京の六地蔵巡り・四番 常盤地蔵 :「下天の内」源光寺の常盤地蔵 :「絶景かなドットコム」常盤御前 :ウィキペディア常盤御前 :「コトバンク」岩佐又兵衛作 重要文化財 山中常盤物語絵巻 :「黒川孝雄の美」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・右京 常盤・花園を歩く -2 法金剛院(経堂・礼堂・苑池・仏殿・地蔵堂ほか)へ探訪 京都・右京 常盤・花園を歩く -3 法金剛院(苑池をめぐる)へ探訪 京都・右京 常盤・花園を歩く -4 地蔵院・花園西陵・双ヶ丘 へ探訪 京都・右京 常盤・花園を歩く -5 双ヶ丘(続)・長泉寺・西光庵・今宮神社 へ
2019.12.15
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来迎院から川沿いの道を北に向かい、今熊野観音寺への道に入ります。泉涌寺道の三方向への分岐地点で言えば、一番左の道を東に進むことになります。道沿いに歩めば朱塗りの橋「鳥居橋」を渡ることになります。冒頭の景色は、朱塗りの橋の少し手前で見た石標です。上の部分は「為二世安楽」と判読しますが、どう解釈できるのやら・・・・。下の三文字が判読できません。少し先に見える朱色の所が橋です。 橋を渡って、坂道を上って行くと、山の斜面から張り出した舞台が造られ、その上に建物「大講堂」が見えます。京都の清水寺の舞台と同様の景色です。こちらは現代建築ですがやはり縣崖造りと言うのでしょうか? 鐘楼の前には、石塔や石仏が集められ並んでいます。 鐘楼に向かって左側には、稲荷社(左)と熊野権現社(右)が祀ってあります。 こちらは、稲荷社の覆屋内に設置された小社です。 熊野権現社の背後に見えるお堂で「大師堂」です。その名の通り、弘法大師を祀っているお堂です。堂内には、不動明王像、愛染明王像、左大臣藤原緒嗣像も祀られています。(資料1)お堂の前には観音菩薩立像の銅像が建立されています。観音菩薩の膝許に寄り添うように老翁・老婆の彫像があります。「ぼけ封じ観音」と記した駒札と「奉納 ぼけ封じ祈願」と赤地に白抜き文字の幟が傍に立っています。「ぼけ封じ近畿十楽観音霊場」の第一番札所になっています。(資料1)高齢化社会への象徴的な仏像と言えるかもしれません。 本堂側に向かう時、境内で見た井戸「五智の井」です。「弘法大師の霊水 五智水」という木札が覆屋に掲げてあります。 本堂この観音寺は平安時代、825年頃嵯峨天皇の勅願により弘法大師が開創されたと言います。(資料1,2)また、左大臣藤原緒嗣が建立したという伝承もあるようです。(資料3)永暦元年(1160)後白河法皇が熊野権現の勧請し、新熊野(いまくまの)神社を山麓に創祀するに際し、当山を那智山になぞらえ、当寺を本地堂とし、山号を新那智山と号し今熊野観音寺と称されたと言います。(資料1,3,4)本尊は十一面観音菩薩です。「(弘法)大師が熊野権現より授かった一寸八分の観音像を胎内仏として自ら彫刻された十一面観音菩薩である」(資料2)とのこと。洛陽三十三所第十九番札所です。また、西国観音霊場第十五番札所でもあります。(資料1,2)この寺も、応仁の乱の兵火により罹災し、後に再建されて泉涌寺の塔頭となったそうです。御詠歌 むかしより たつともしらぬ いまくまの ほとけのちかい あらたなりけり 本堂の鬼瓦と飾り瓦 本堂東側の山上に平安様式の多宝塔が見えます。「医聖堂」です。「 医と宗教がともに手をたずさえて、人類がともに明るく健康に暮らせるような社会が築かれますよう」(資料1)との願いを込めて建立されたと言います。「この「医聖堂」には医界に貢献された多くの方々が祭祀されています。平成28年、丹塗りの塗り替えが施され、33年ぶりに鮮やかな朱色が蘇りました」(資料1)とのこと。以前に訪れたときに、上掲の鐘楼の傍から、この医聖堂を探訪しました。医聖堂に至る参道は、「今熊野西国霊場」として、西国三十三ヶ所霊場の各御本尊を石仏として祀ってあります。(資料1) 本堂の左側に「地蔵堂」があります。引き戸が開けてあり、正面の突き当たりに仏像が祀ってあります。 デジカメのズーム機能で拝見すると、地蔵菩薩立像ほか諸仏像が並べて安置されています。 この今熊野観音寺に立ち寄った一つの目的は、この「三重石塔」を見ることでした。 当寺の創建時ころに造立された三重石塔で平安様式のもの。 塔身には四方仏が彫り込まれています。 この後、本堂背後の山沿いの道を進みます。山腹にある「藤原三代の墓」と伝承される石塔を見るためです。 山道沿いのお地蔵さま 山道の斜面途中に置かれた石仏。お地蔵さまのようにも見えます。 石造宝塔が3基並んでいます。これが藤原三代の墓。慈円・忠通・長家墓と伝承される供養塔です。鎌倉時代造立と推定されています。(資料3) 一番奥の石造宝塔。基礎が欠落しています。藤原長家(1005~1064)の墓。平安時代中期の公卿・歌人。太政大臣藤原道長の六男。御子左家の祖。藤原俊成の祖祖父。 中央の石造宝塔。藤原忠通(1097~1164)の墓。平安時代後期の公卿。摂政関白太政大臣藤原忠実の長男。基礎には鎌倉風の格狭間が入れてあります。 一番手前の石造宝塔。鎌倉時代の天台宗僧侶慈円(1155~1225)の墓。藤原忠通の第六子・九条兼実の弟。青蓮院に入寺し天台座主就任は4度に及んだ。『愚管抄』の著者。(資料1)これら三基とも、相輪がなく、かわりに新しい五輪石塔の宝珠が置かれています。 藤原三代の墓からさらに少し奧の方にこの石塔が見えました。カメラのズーム機能で撮ってみました。傍近くまで行き実見するゆとりはありませんでした。「島津逆修(ぎゃくしゅ)の塔」と称されています。「中央の大型五輪塔は、その銘文から16代島津義久の三女で18代家久の夫人である『亀寿』の逆修塔で、島津義久が願主であることが指摘されています。」(資料1) 基礎の正面左に慶長3年と刻されています。傍に、小型の五輪塔、月輪塔が並んでいます。これらにも同様に慶長3年と刻されているそうです。(資料1) 右の真新しい墓と思われるものは不詳です。 大講堂を眺めつつ、墓地の傍の道を辿り、「東山トレイル」のルートになっている山道に出ます。 ところどころで、京都市内を遠望しながら、山沿いの道を北に向かいます。 途中で「鳥戸野陵参道」の道標が立つ傍を通り過ぎ、山道を抜けると、剣神社の前に出ます。ここで左折し西方向に坂道を下れば、東大路通に至ります。今回の探訪はここで解散です。 往路に使った道を戻ると、瀧尾神社の境内の提灯には灯がついていました。JR東福寺駅までは後数分です。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 今熊野観音寺 ホームページ2)『京都観音めぐり 洛陽三十三所の寺宝』 編集 長村祥知 勉誠出版 監修 平成洛陽三十三所観音霊場会・京都府京都文化博物館3) 龍谷大学REC 講座レジュメ「京都の古寺を巡る37~泉涌寺~」 (2019.11.7 松波宏隆講師 作成)4) 『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p80-81補遺ぼけ封じ近畿十楽観音霊場 :「常龍寺」洛陽三十三所観音 :「京の霊場」西国三十三所巡礼の旅 ホームページ 第十五番 新那智山 今熊野観音寺 (観音寺)新熊野神社 ホームページ東山コース(伏見稲荷駅~ケーブル比叡駅=24.6km) :「京都一周トレイル」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -1 瀧尾神社・泉涌寺道(古道)・勝林寺 へ探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -2 泉涌寺の総門・即成院 へ探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -3 戒光寺 へ探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -4 泉涌寺(大門・楊貴妃観音堂・心照殿・浴室・仏殿・舎利殿)へ探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -5 泉涌寺(本坊・御座所庭園・月輪陵・泉涌水屋形ほか)へ探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -6 泉涌寺塔頭(善能寺・来迎院)へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 [探訪] 京都・東山 今熊野観音寺スポット探訪 [再録] 京都・東山 今熊野観音寺 -今熊野西国霊場スポット探訪 [再録] 京都・東山 新熊野神社
2019.12.12
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泉涌寺の北側の出入口から出ました。この道は泉涌寺の背後に位置する御陵への参道です。少し先にこの道標「義士旧蹟 来迎院」とその背後にある看板が目に止まりました。分岐点で北方向への道を進みます。降り道です。 まずは「善能寺」を訪れました。 門前に駒札が立っていて、「善能寺祥空殿」という題で説明されています。山門を入ると正面奧に宝形造りの屋根の本堂が見えます。これが「祥空殿」です。詳しくは駒札をお読みいただくとして、この本堂は「航空殉難者の慰霊と事故の絶滅を祈願して建立寄進されたもの」(駒札)と言います。本堂には、本尊聖観音立像が祀られています。平安後期に造立された像だそうです。残念ながら外からは見仏できませんでした。善能寺は、弘仁14年(823)弘法大師の開基と伝えられ、東寺の東(八条北猪熊)に稲荷神の本地仏として聖観音を祀り、二階堂と称し、嵯峨天皇の勅願寺とされたのが始まりだそうです。二階堂の後身と言われています。南北朝時代に八条油小路にあった二階観音堂(泉涌寺別院二階方丈)が戦国時代「天文14年後奈良天皇の勅命で泉涌寺に移り、塔頭と」(資料1)なったそうです。天文20年(1551)とも(資料4)。(資料1.2,3,4、駒札)当初は今熊野観音寺の西北にあったのですが、明治維新の頃に荒廃し、明治20年(1887)に安楽光院跡に再興されたと言います。(資料1,2,4)「安楽光院は、もと西洞院上立売北にあったが、文明7年焼失。元和(1615-1624)の頃に泉涌寺塔頭としてこの地に再建したが、廃絶に至る経緯は不詳」(資料1)という塔頭です。聖観音菩薩は洛陽三十三ヵ所観音の十八番札所として知られています。現在も「平成洛陽三十三所観音霊場」の第十八番札所です。(資料4) 御詠歌 かんのんに まいりてあくを ひるがゑす いまにこころも ぜんのうぢかな 山門を入ると、右側の奥、築地塀の傍近くに稲荷社が祀られています。稲荷社の隣りに小祠が見えますが、不詳です。 山門から本堂に向かい真っ直ぐに延びる参道の左側、本堂の手前に大きな「三尊石」があります。中央の石には俳人荻原井泉水の句が刻まれています。手向けの供養の句です。 南無観音 藤はようらく空に散る 三尊石を起点にして、本堂側に苔蒸した起伏がつらなり、山並みのようにも見えます。本堂の背後から右側周辺に庭園がひろがります。 本堂の背後 本堂の右側 昭和の名造園家と評される重森三玲作の庭園「仙遊苑」です。「多くの曲線による州浜形の池泉鑑賞式とし、あたかも機上より俯瞰する山岳海島の風景をあらわしている」(資料3)という見方もあります。もともと水を湛えた池だったのか、枯れ池としての作庭なのかは不詳です。 山門を入った傍には、こんな石組みも。多数の石は寄進された阿波石だそうです。 善能寺を出て谷川に架かる橋を渡ると、山門のすぐ内側に石段が見える傾斜地に境内が広がるお寺があります。泉涌寺の塔頭「来迎院」です。 門に向かい左側に駒札が立ち、右側には正面に「安産祈願 ゆな荒神社」、左側面に「弘法大師 獨鈷水」と刻された石標が立っています。 弘法大師空海が三宝荒神をこの地に祀ったのが始まりとされているそうですが、藤原信房が泉涌寺の長老月翁和尚に帰依して一院を興したと言います。そこで、月翁和尚が来迎院の開山となっているそうです。建保6年(1218)智鏡(後に泉涌寺四世)が中興開山します。雲龍院と並ぶ主要な塔頭です。(資料1,2,5) 境内側から眺めた蟇股 山門を入り石段を上がると、弘法大師空海の銅像が建立されています。その右側には、「祈願の御石」と題した駒札が立っています。その前にある三角状の石碑には、上部に梵字が刻まれていて、下に「百万遍供養」と刻されています。「お願い事を書いた御石を持って御大師様の像の回りを三度巡ります。その後、前にある石碑の梵字に御石を当てて祈念してから納めてください」(サンスクリット文字を除き、転記) 銅像の左側奧には覆屋が設けられ、右側に「獨鈷水」と刻された石標が立っています。弘法大師が独鈷を以て掘り当てられた霊水と言われる場所です。大師修業場を伝える隠れた遺跡の一つと言えます。最奥に横井戸(洞窟のような形状)があります。柄の長い柄杓で霊水を汲み上げる形です。(資料3,5) 覆屋の入口傍、右側に様々な石仏が安置されています。中央奧の石仏は、阿弥陀如来像のようです。 その左右には双体像の墓塔が並び、右側の墓塔を見ますと、蓮華座が見えます。左側には錫杖らしき形が見えますので、お地蔵さまでしょうか。また、前には如来形石仏やお地蔵さまが並んでいるようです。 本堂には、本尊阿弥陀如来をはじめ、大石内蔵助の念持仏と言われる勝軍地蔵や幻夢観音像等が安置されています。残念ながら来迎院の仏像は非公開になっています。(ホームページでは仏像の写真が公開されています。) 本堂傍の宝篋印塔 境内地の先にからさらに石段が続きます。 石段の上にあるのが、「荒神堂」です。本尊として三宝大荒神坐像(重文)が祀られています。鎌倉時代の造立です。写真を見ますと、冠をのせた四臂像です。(資料2)「ある時、このお寺の山の頂に七日七夜にわたり光を放つことがあって、霊地とお感じになった弘法大師は、この地に宝殿を建ててその座像を安置されました。その後代々の帝が信仰を寄せられましたが、後奈良上皇がお姿を写した画像に『泉涌寺大荒神』とお書きになり、そのお姿がこの三宝大荒神座像とされています。日本最初の荒神さんです。」(資料5) 日本最初の三宝荒神尊だそうです。来迎院は応仁の乱の時(1468)の戦火で伽藍を焼失し荒廃したそうです。前田利家らの尽力により堂宇が再興され、江戸時代を迎えたと言います。(資料5) 荒神堂の左側の境内地に歩むと、奥にこんな石舟が置かれています。 その舟に乗っているのは布袋さんです。ちょっとおもしろい景色です。調べてみると、布袋尊は七福神の一柱として名を連ねていますが、三宝荒神の眷属(従者)という位置づけになっているそうです。布袋和尚は実在した中国の高僧で、名は「契此(かいし)」「定応大師(じょうおうだいし)」と言うそうです。大きな袋を杖にかけて担いで全国を行脚したと伝えられる人物。(資料6) 荒神堂に向かって左方向には、朱色の鳥居が見えます。この奥にある小社には「三宝大明神」が祀られています。来迎院の最後に、冒頭の道標に刻された「義士旧蹟」の部分について、ご紹介します。今回の探訪でも立ち寄りませんでしたが、境内には「茶室含翠軒」があります。赤穂義士(/浪士)大石内蔵助(良雄)が建立したと伝えられる茶室です。軒に掲げる「含翠」の扁額は大石良雄の筆と言います。「大石良雄は、母方の親族であった当院の檀家となり寺請証文を受け、山科に隠棲」(資料2)という形をとったそうです。当時の住職、泉涌寺長老・卓巖和尚は大石良雄の親族だったと言います。(資料5)「寺伝によれば良雄は表向きは山科に閑居しているとみせかけ、実際は当院でその大半をすごしたといわれる」(資料3)とか。この茶室が浪士たちと討ち入り計画の密議に使われた可能性もあるでしょうね。尚、現在の茶室含翠軒は「大正時代、当時の名匠と言われた上坂浅次郎氏によって建て替えられたものです」(資料5)とのこと。この辺りで今回の最終行程の探訪先へと進みます。つづく参照資料1) 『京都市の地名 日本歴史地名大系27』 平凡社 2) 龍谷大学REC 講座レジュメ「京都の古寺を巡る37~泉涌寺~」 (2019.11.7 松波宏隆講師 作成)3) 『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p79-804) 『京都観音めぐり 洛陽三十三所の寺宝』 編集 長村祥知 勉誠出版 監修 平成洛陽三十三所観音霊場会・京都府京都文化博物館5) 来迎院(泉涌寺塔頭) ホームページ6) 眷属堂 :「清荒神清澄寺」補遺三宝荒神 :ウィキペディア重森三玲 :ウィキペディア重森三玲 :「庭園ガイド」重森三玲の庭園 造形美の世界 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -1 瀧尾神社・泉涌寺道(古道)・勝林寺 へ探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -2 泉涌寺の総門・即成院 へ探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -3 戒光寺 へ探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -4 泉涌寺(大門・楊貴妃観音堂・心照殿・浴室・仏殿・舎利殿)へ探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -5 泉涌寺(本坊・御座所庭園・月輪陵・泉涌水屋形ほか)へ探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -7 今熊野観音寺ほか へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 [再録] 京都・東山 泉涌寺周辺の散策 御陵群・善能寺・来迎院
2019.12.10
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舎利殿の北方向にある手水舎。その間を東に進みます。 舎利殿の背後は、南北方向に門と築地塀が連なり、境内地の中で独立した区域になっています。連続する築地塀には3つの門があり、左が本坊に入る表門です。右は霊明殿(非公開)への門です。両門の中間に御座所の御車寄に向かうための勅使門があります。この3箇所はそれぞれが相互に塀で区切られた区域になっています。それでは、まずは本坊へ。この区域の建物内部の拝観です。 表門の屋根の棟には菊華文の丸瓦が並んでいます。門の作りはシンプルです。妻(側面)の板蟇股が目に止まりました。 門を入った右手には御座所との境になる源氏塀と門が見え、御座所への唐破風の御車寄と、南側に位置する霊明殿の側面が見えます。 左側に庫裡への通路があり、右側は白砂が敷き詰められ、筋目が引かれています。前庭の東端に本坊の公式玄関口が見えます。 これがその玄関口です。 建物内から玄関に立ちますと、表門に向かい、こんな景色を眺めることになります。 通路はこの公式玄関口の傍で直角に左折しています。振り返って撮った景色です。 本坊のある庫裡の入口には、「真言宗泉涌寺派宗務所」「総本山御寺泉涌寺寺務所」を併記した木札が柱に掲げてあります。ここから建物内部は撮影禁止。定められた順路沿いに、建物内部の各部屋の障壁画や飾り付けを拝見しながら一巡するという形です。建物外部となる御座所の庭園だけがメインの撮影可能エリアでした。 御座所の廊下伝いに各室を拝見しながら、建物の南側の外縁伝いに、西から東方向へと庭を見ながら進みました。 この庭にも、塀に門が設けてあります。 池の対岸の築山には五重石塔がおかれています。 縁から庭に降りる沓脱石と飛石。 縁から降りる最初の沓脱石には、さり気なく小さな石を紐で結んだ関守石があります。この先は進めませんというシグナルです。 その先は庭を歩む飛石の連なり・・・。 庭を立ち姿で眺めると・・・・。 丸形雪見燈籠の笠が苔蒸していて、時の重なりを感じさせます。「海会堂」です。 御座所の東に宝形造り本瓦葺きの屋根が見えます。土蔵造塗籠めのお堂で、外面は白壁塗りです。「明治4年(1871)5月に宮中の御黒戸(御仏間)が搬出されて恭明宮が成立しますが、さらに明治6年(1873)3月に恭明宮を移築したものが現在の海会堂にあたります」(資料1)と。「内陣に安置される大小の御厨子には、宮中から搬出された歴代天皇・皇后・皇族方の御念持仏30数体が祀られています。海会堂の本尊は阿弥陀如来坐像で、『開山俊芿律師像』(京都府指定)をはじめ歴代先住代々宗師の位牌なども併祀されています」(資料1)とのこと。 御座所の東側の庭御座所の建物からこの海会堂への渡り廊下の前を通り過ぎ、本坊の入口へ戻ります。 本坊の築地塀越しに、舎利殿・仏殿の屋根が見えます。本坊の表門を出て左折します。 勅使門皇族や天皇の勅使が訪れた時に開けられる門で、四脚門の形式です。上掲した御座所の唐破風の御車寄への門です。 駒札 蟇股を眺めると、牡丹が彫刻されて板蟇股の前面に取り付けられているようです。 勅使門を通り過ぎると、御座所の南隣りが霊明殿です。 こちらの門も四脚門です。勅使門は本瓦葺きですが、こちらは檜皮葺きの屋根です。 太めの菱格子は花狭間窓の形式になっていて、門扉は桟唐戸で、狭間は草華文の透かし彫りの中央に大きな菊の紋章がレリーフされています。 門前から白砂の前庭の先に眺めた霊明殿(非公開)。霊明殿とは歴代天皇の御尊牌(位牌)を祀る場所の通称だそうです。入母屋造り檜皮葺きで、外観は宸殿風。すべて尾州檜材で造られた建物だとか。「現在の建物は、明治17年に明治天皇の思し召しによって宮内省が再建したもの」(資料1)と言います。 入母屋造りの屋根の妻(側面)部分。ここにも菊の紋章が見えます。 霊明殿を囲む築地塀を東に回り込みます。そこは御陵への参道です。 その道の先にあるのが「月輪陵」。ここは宮内庁の所管です。 御陵への入口に、この月輪陵に埋葬されている天皇・中宮・女御・親王の名前を列挙した掲示が出ています。鎌倉時代に第87代四条天皇の遺言により、俊?律師の墓の近くに葬るということからこの御陵が始まったそうです。そこから泉涌寺が皇室ゆかりの寺となったのです。天皇はじめ皇室の香華院となったことから「御寺」という尊称を得ることになりました。(資料2.3) 入口を入ると右手(南側)に手水舎があります。 北東方向を眺めた景色です。左端に見える門は御座所南側の庭園に位置した門になるようです。 唐破風の向唐門と左右に続く透塀の向こうが墓域です。墓石は主に天皇は九重の層塔(石塔)、中宮・女御は無逢塔、親王は宝篋印塔を以て標されているそうです。(資料4,5)鎌倉時代の四条天皇と江戸時代の後水尾天皇以降後桃園天皇までの天皇・女御が月輪陵、光格天皇・仁徳天皇を後月輪陵と称するそうです。併せて、室町時代の五天皇の分骨所・灰塚、親王等の墓があります。あわせて25陵・5灰塚・9墓を数えます。(資料2,4,5)また、月輪陵の背後の山麓には、南に孝明天皇の後月輪東山陵、北に英照皇大后の月輪東北陵が所在します。その北には後堀河帝陵もあります。月輪陵の東南方向、泉涌寺境内の最も奥まった場所に、俊芿律師を祀る開山堂が位置し、無逢塔が祀られているそうです。(資料5) 唐破風屋根の上の獅子口や破風のところに、菊の紋章が見えます。月輪陵の入口を出ると、霊明殿・舎利殿・仏殿の南側を通り抜けて大門に向かいます。 仏殿のすぐ近くでまず目に止まったのがこれです。宝塔の右側に「清少納言歌碑」が建立されています。 高さ1m余の吉野石に判読しづらくなっていますが、一首刻まれています。 夜をこめて鳥のそら音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ清少納言は、一条天皇中宮定子に仕えました。晩年、中宮定子の鳥戸野陵に近い月輪に隠棲したという伝承により、この歌碑がここに建立されたそうです。(資料4) 歌碑のすぐ西にあるのが「泉涌水屋形」(京都府指定文化財)です。泉涌寺の名前の由来となった清泉を覆う屋形です。寬文8年(1668)に再建されたそうです。俊芿律師が当寺を造営されたとき、崖下から涌出したと伝えられる井泉です。泉水は今も湧き続けているそうです。 屋根は入母屋造り、妻入の正面に軒唐破風を付けたこけら葺きです。正面は桟唐戸で、上部には弓欄間となっています。内部の鏡天井には、別所如閑筆「雲龍図」が描かれていると言います。(資料1) 正面の扉の前は四角い掘り込みが設けてあります。目的は不詳です。この後、周辺の塔頭を巡ります。本山泉涌寺を後にする前に、当寺の淵源と沿革に触れておきたいと思います。寺伝によれば、天長年間(824-834)弘法大師空海がこの地に一宇の草庵を結び、法輪寺と名付けたのがはじまりといわれます。一説に、斉衡3年(856)左大臣藤原緒嗣が寺を建立し、法論寺と号したとも伝えられといます。法輪寺がのちに仙遊寺に改称されたそうです。俊芿は肥後国に1166年8月生まれ。かつて母に捨てられたがまた拾い戻されたというので不可棄(ふかき)と名乗ったと伝えられるそうです。幼少より仏門に入り、1199年に入宋し、12年間に及ぶ南宋留学で南山律宗(四分律)を学び、また天台教学や臨済禅を併せて修学し、1211年に帰国します。大和国守中原(宇都宮)信房の帰依を受け、その邸地月輪と仙遊寺の故址を与えられて、1218年にこの地に伽藍を建立しました。その傍に俊芿の住房を設けて、我禅房と称したと言います。伽藍造営の時、清水が涌きだしたことにちなみ、仙遊寺を泉涌寺に改めたそうです。つまり、泉涌寺の開山となります。そして、宋代の仏教(律・蜜・禅・浄)の導入をはかります。特に律儀の宣揚が著名となり、南都の真言律宗に対し「北京律」と称されたそうです。鎌倉時代に上記のとおり、泉涌寺は四条天皇の陵寺となります。室町時代には天皇の葬場となり、江戸時代には、泉涌寺「月輪陵」が唯一正統の陵所と幕府からみなされるようになったのです。皇室の菩提寺・香華院となり、「御寺」と称されることになります。(資料1,2,4)さて、それでは、泉涌寺の周辺巡りに移ります。つづく参照資料1) 当日いただいたリーフレット 「御寺泉涌寺」 総本山御寺泉涌寺2) 龍谷大学REC 講座レジュメ「京都の古寺を巡る37~泉涌寺~」 (2019.11.7 松波宏隆講師 作成)3) 『探訪 日本の古寺 7 京都二洛東』 監修:井上靖・笠原一男・久野健・宮本常一 小学館4) 『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p65-735) 月輪陵 開山堂 :「御寺 泉涌寺」補遺御寺泉涌寺 ホームページ関守石 :「コトバンク」沓脱石とは :「紅峰山 興願寺」四条天皇 :ウィキペディア後水尾天皇 :ウィキペディア孝明天皇 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -1 瀧尾神社・泉涌寺道(古道)・勝林寺 へ探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -2 泉涌寺の総門・即成院 へ探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -3 戒光寺 へ探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -4 泉涌寺(大門・楊貴妃観音堂・心照殿・浴室・仏殿・舎利殿)へ探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -6 泉涌寺塔頭(善能寺・来迎院)へ探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -7 今熊野観音寺ほか へ
2019.12.09
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総本山泉涌寺の大門です。「御寺泉涌寺」と刻された寺号標が大門の左側に立っています。四脚門右側の控柱にも同様の名称で大きな木札が掲げてあります。 大門正面の扁額 門の右側傍に、駒札が立っています。泉涌寺の山号「東山(とうせん)」が掲げてあることから、東山門とも呼ばれるそうです。伝中国南宋・張即之筆。慶長18年(1613)造営の内裏の南門を移築したと考えられています。徳川家康が後水尾天皇の即位と共に御所を再建しました。その時の旧門だそうです。(資料1,2,駒札) 正面から眺めた蟇股には、唐獅子・龍が彫られています。上掲扁額の左斜め上に見える蟇股には、玄武(神亀)が彫り込まれています。同様に右斜め上は朱雀でしょうか、鳥の様に思えます。 木鼻はシンプルな形です。妻(側面)に板蟇股が見えます。 この大門の右側前方にこの山内図も掲示されています。 大門を入ると、降り参道(降りの傾斜地)となっていて、正面のかなり先に「仏殿」が見えます。ズームアップで撮ってみました。 後で、仏殿近くから大門の方向を撮った景色です。 大門を入ると、まず左折して境内の奥(北方向)に向かいます。その手前、築地塀の傍で目に止まったのが「願かけ地蔵」と記された駒札が立つ石造地蔵菩薩像と6躰の石仏です。 この地蔵菩薩像はその体に童子像ほかが合体した形に造形されています。あまり見かけない姿です。 前に並ぶ石仏をよく見ますと、それぞれ異なります。六地蔵という形式で造られたものではなさそうです。出処を異にするものがたまたまここに集められたという感じです。 奥にある通称「楊貴妃観音像」が安置されている「楊貴妃観音堂」です。天正3年(1575)織田信長建立の寄棟造りと伝えられているそうです。(資料3) 当日頂いたリーフレットに掲載の楊貴妃観音像(左)と入手したPRチラシに掲載の同像(右)の写真を引用します。(資料2,4)堂内には、六羅漢像とともに、その中央にこの聖観音坐像が安置されています。この像は二世湛海が入宋の際入手したものと伝えられ、湛海が寬喜2年(1230)[建長7年(1255)とも]に宋より帰朝するとき請来したとされています。(資料1,2)江戸時代の観光ガイド本とも言える『都名所図会』には、「観音堂の本尊聖観音は玄宗皇帝楊貴妃に別れ給ひて、追善のため紀の貌(かたち)をうつして作り給ふ。・・・・(洛陽観音巡りのその一なり)」(資料5)と記しています。像容の美しさがこんな伝承を生み、江戸時代初めころから「楊貴妃観音」と呼ばれて女性の篤い信仰されているそうです。「平成洛陽三十三所観音霊場会」が復興していますが、第20番札所となっています。(資料3) 御詠歌 ももたびも あゆみをはこぶ せんにゅうじ などやほとけも まんぞくにます仏体は白檀の寄木造で、光背・台座は後補のようです。瓔珞や緑と赤で塗り分けられた宝相華唐草の透かし彫りの宝冠、手には極楽の花の宝相華を持ち、玉眼入りで美しく、生けるが如く端座するその姿が楊貴妃に喩えられるようになったのでしょう。(資料1,2,3)羅漢像6躯のうち2躯は湛海請来像の可能性があり、4躯は江戸時代の造立だそうです。(資料2) 観音堂の右斜め前には「宝物館 心照殿」があります。ここで訪問時点の展示品を拝見しました。この「心照」という名称は、中御門天皇から俊芿(しゅんじょう)律師に下賜された国師号「大円覚心照国師」に由来するそうです。(資料1) 幅の広い降り参道を挟み、南側は雲龍院に通じる通路が見えます。通行止めになっていますが・・・・。 降り参道を歩みますと、仏殿に至る手前、南側に「浴室」があります。 「浴室」の扁額が掲げられ、その上の蟇股には菊の花でしょうか。透かし彫りが施されています。 仏殿(重文)が境内の中央に位置し、西面しています。三間×三間の身舎に一間づつの裳階が付き、外観は五間四方、一重入母屋造り、本瓦葺、禅宗様の建物です。寬文8年(1668)四代将軍徳川家綱により再建されました。禅宗様仏殿としては最大級の規模。中央部の三間は両開の桟唐戸で、両端に花頭窓が設けられています。(資料1,2) 仏殿には本尊として高い須弥壇の上に「三世仏」が安置されています。リーフレットからの引用です。運慶作と伝わり、阿弥陀仏・釈迦・弥勒の三尊で、過去・現在・未来をあらわす「三世仏」です。俊?律師が留学した宋代の寺院では当時流行していた形式だそうです。(資料1)「創建時俊芿により安置されたものと同様で、再建時にそれを忠実に復元したと考えられる」(資料2)とか。本尊の背後には「飛天図」、鏡天井には「雲龍図」が描かれています。 仏殿の背面(東面)です。こちらは中央の一間だけが両開きの桟唐戸で、その左右両側は板壁です。この中央の桟唐戸の内側は通路で本尊背後の裏壁が眼前にあり、そこには「白衣観音」の貼付画が大きく描かれています。「雲龍図」「「飛天図」「白衣観音」は、すべて狩野探幽の作です。 大屋根の棟の鬼瓦と降り棟の先端の鬼瓦 組物を眺めますと、大屋根の軒は、二手先で尾棰が斜めに二段出ていて、平三ツ斗で組み上げるなど、近世建築には珍しく古様をしめしています。(資料2) 裳階の降り棟の鬼瓦 仏殿から北西方向に少し離れて眺めた景色です。仏殿の背後(東)に舎利殿が見えます。一方、振り返り、北西側を眺めますと、 山の斜面で、一遇に「華」と大きく一文字を刻した碑が立っています。華の供養碑でしょうか。不詳です。その北側に、石段が延びています。石段を上がってみるゆとりはありませんでした。位置的には心照殿の背後、東にあたる場所です。 舎利殿(京都府指定文化財)こちらは、五×四間の身舎に一間づつの裳階が付き、外観は七×六間で、同様に一重入母屋造り、本瓦葺です。慶長期の御所の御殿を移し、長期にわたり改装再建されたそうです。詳細不詳。俊芿律師の遺志を受けて、二世湛海が苦心の末に、宋の泰山白蓮寺から「仏牙舎利」(お釈迦様の歯)を請来したと言います。『都名所図会』はその請来に至る経緯を詳しく紹介しています。舎利殿はこの「仏牙舎利」を奉安しているお堂です。併せて、韋駄天像と月蓋長者が安置されているそうです。こちらの天井には、狩野山雪筆「雲龍図」が描かれていると言います。それは、「西の鳴き龍」として知られているとか。(資料1,2)この泉涌寺の舎利信仰を題材にして、謡曲「舎利」が創作されたと言います。(資料1) 建物の四箇所の角は漆喰壁に花頭窓、そして内裏の建物だと良く分かる半蔀が並び、両開きの板唐戸が見えます。 大屋根の鬼瓦 大屋根と裳階との間の壁面には横に細長い連子窓が設けてあります。 裳階の屋根の鬼瓦外観は仏殿に合わせて裳階を付けた大屋根とし一貫性を持たせて改築されています。しかし、組物の違いが明瞭で、建築方法はごくシンプルになっていることがわかります。舎利殿は通常非公開となっています。この後、舎利殿の東側に広がる「本坊」の拝見になります。つづく参照資料1) 当日いただいたリーフレット 「御寺泉涌寺」 総本山御寺泉涌寺 2)龍谷大学REC 講座レジュメ「京都の古寺を巡る37~泉涌寺~」 (2019.11.7 松波宏隆講師 作成)3) 『京都観音めぐり 洛陽三十三所の寺宝』 編集 長村祥知 勉誠出版 監修 平成洛陽三十三所観音霊場会・京都府京都文化博物館4) PRチラシ「京都秋の東山 三ケ寺巡り 令和元年10月26日(土)~12月22日(日)」5) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p225 補遺御寺泉涌寺 ホームページ俊芿 :ウィキペディア俊芿 :「コトバンク」湛海(1) :「コトバンク」楊貴妃 :ウィキペディア楊貴妃 :「中国語スクリプト」仏像彫刻の保存修理について 美術院所長 藤本靑一:「京都市文化観光資源保護財団」 -泉涌寺本尊「三世仏」の修理を通して-謡蹟めぐり 舎利 :「謡蹟めぐり 謡曲初心者の方のためのガイド」一夜限り「舎利殿能 2018 能と声明 ~祈りと讃嘆~」開催|御寺泉涌寺 :「Kyopi」 舎利殿内(重要文化財)天井 鳴き竜図: 狩野山雪 の部分写真が載っています。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -1 瀧尾神社・泉涌寺道(古道)・勝林寺 へ探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -2 泉涌寺の総門・即成院 へ探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -3 戒光寺 へ探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -5 泉涌寺(本坊・御座所庭園・月輪陵・泉涌水屋形ほか)へ探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -6 泉涌寺塔頭(善能寺・来迎院)へ探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -7 今熊野観音寺ほか へ
2019.12.08
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総門を潜り坂道を上がって行きますと、この山門が左側に見えてきます。山門に向かって右側に、「国宝 丈六釈迦如来」と刻された石碑が立っています。現在の法律では、重要文化財として登録されています。 今回の探訪では、即成院境内からの通路を進んで戒光寺境内に入りました。まず右側に見えたのが、この弁財天のお堂です。お堂は東面していますので、正面に回り込んで鳥居の前から撮りました。正式には「泉山融通弁財天」と称するそうです。 金銭も含めて、「融通を利かせてあらゆるお願いを聞いてくださる」弁財天だとか。「泉山七福神めぐり」の第二番です。弁財天像は伝教大師作と伝えられていて秘仏です。年に2回だけご開帳されるといいます。七福神巡りの日(1月の成人の日)と弁財天大祭(11月3日)。(資料1) 東には本堂が西面しています。戒光寺は真言宗泉涌寺派の塔頭ですが、「準別格本山」の位置づけだそうです。(資料1)元は、安貞2年(1228)に宋から帰国した浄業(曇照)により猪熊八条に、後白河天皇の勅願所、戒律復興の道場として建立され、戒光律寺と呼ばれていたと言います。当時は巨大な伽藍を持ち、泉涌寺と並ぶ北京律の中心寺院だったようです。しかし、15世紀半ばの応仁の乱で伽藍を焼失。幸いにも本尊釈迦如来は兵火を逃れたのです。その後、一条小川、京極三条と移転し、正保2年(1645)後水尾天皇の発願によって、現在地に泉涌寺の塔頭として移転し、現在に至るそうです。(資料1,2)「開基曇照は健保2年渡宋して理宋皇帝より忍律法師の号を賜った」(資料3)と言います。南山律宗を伝えた僧です。戒光寺の本堂に入り、本堂内陣の周囲を巡り本尊他諸仏を拝見しました。その折り、気づいたのですが、その境目で建物を見上げると内陣は別の建物です。前面の外陣の建物と連接しています。形は違いますが、先の即成院の本堂と同様でした。こちらは、山門を出てから道沿いに進む時に、建物の側面を眺めるとわかりやすいです。 拝観の折りにいただいたリーフレットの表紙に本尊の「丈六釈迦如来立像」が載せてありますので、引用します。鎌倉時代の運慶・湛慶の合作で、丈六像です。丈六坐像はかなり見る機会がありますが、こちらは丈六坐像が立ち上がった時の大きさです。つまり、身の丈は約5.4m、台座に立たれ光背がありますので、全体では約10mになるという巨大仏像です。まざに大仏さまです。(資料1)「丈六さん」と呼ばれて親しまれていると言います。 こちらは、山門の傍に掲示されている写真です。右上の小さな文字の文は「兵火を免れ、当時の姿のままで残されている貴重な鎌倉時代の彫像です」と説明しています。この大仏さまは「八条に創建された当初からの像と推定される」(資料2)とのこと。内陣に入り、傍近くで見上げるとさすがにその迫力はすごいですね。一見の価値ありです。 こんな案内メッセージも掲示されています。なぜ、「身代わり丈六釈迦如来」と言われるのか? いただいたリーフレットにその由来となるエピソードが記されています。ご紹介しましょう。「首の辺りから何か流れている様に見えるのは、血の跡だといわれています。これは、後水尾天皇が東宮であった頃、即位争いに巻き込まれ暗殺者に寝首を掻かれました。その時、この釈迦如来が東宮の身代わりにたたれ、ついた血の跡だといわれています。」身代わり地蔵というのは各所で目にしたことがありますが、身代わり釈迦とはめずらしいのではないかな、と思います。京都市内で出会える身代わり地蔵といえば・・・ 寺町商店街にある矢田寺の身代わり地蔵(代受苦地蔵) 伏見区にある勝念寺の身代釜敷地蔵 下京区にある上徳寺の身代わり地蔵 下京区にある権現寺の身代わり地蔵 (注記:非公開寺院) などがあります。 目疾(めやみ)地蔵(仲源寺)、釘抜地蔵(石像寺)、泥足地蔵(着想寺)、矢取地蔵(南区)、屋根葺地蔵(新徳寺)なども、一種の身代わり地蔵伝承の範疇でとらえることができるお地蔵さまでしょう。(資料4)そういえば、三十三間堂の傍にある法住寺には身代わり不動明王というのも・・・・・。脇道に逸れました。戻ります。内陣を巡り始めたときに壁に掛けられた絵が目にとまりました。「お釈迦様一代記」が場面絵として綴られています。この寺を創建したとされる木像「曇照忍律上人坐像」(重文)が安置されています。次の二像を同様に引用してご紹介します。 内陣が薄暗いので、像がリーフレットの写真ほどの鮮やかさで見仏できるわけではありませんが、やはり実像の間近に佇めることは得がたい機会です。 山門の大きな板蟇股が目に止まりました。 山門を入ると左側にこの二躯の銅像が安置されています。その間の少し後に石標が立っています。「おたすけ大師」と刻されています。弘法大師像でしょう。向かって左は「子そだて地蔵尊」です。よく見ると、お地蔵さまは右手で赤子を抱いておられます。 近くに手水舎とこの小祠(不詳)が祀ってあります。戒光寺の最後に「散華」をご紹介します。 これを記念にいただきました。挟まれているのを取り出すと、右の形にした色紙です。これが「散華」と称されるもの。次の説明文が記されています。 山門から出て、本堂の屋根の獅子口や鬼瓦を眺めつつ、道沿いに進みます。左側(北)に新善光寺、右側に京都市立東山泉小中学校(東舍)があり、その先が三叉路に分岐しています。(後で掲げる地図には月輪中学校というかつての名称で記されています。私は今回傍を通り、学校が統合されて変化しているのをはじめて知りました。)三叉路の左が今熊野観音寺への道。 中央が、月輪陵墓への参道です。右側の道を進みます。 曲がり角付近で目に止まったのがこの朱塗りの建物。格子戸の中に何が祀られているのかは未確認です。 その下に石仏が祀られています。その頭部を見た感じでは如来像のように思えます。大日如来像として祀られているのでしょうか。不詳です。 いよいよ、本山泉涌寺の入口(大門)に来ました。この門の前は駐車場スペースになっています。 この観光案内地図が掲示されています。 今回の探訪エリアを切り出し、追記しています。右上の東大路通から泉涌寺道の坂道を上り、総門傍の即成院(赤丸)から境内伝いに戒光寺(マゼンダ色の丸)を訪れ、山門前から再び泉涌寺道を上り、総本山泉涌寺(青色の丸)の山門(大門)前に至りました。つづく参照資料1) 当日いただいたリーフレット「京の大仏 丈六戒光寺」2) 龍谷大学REC 講座レジュメ「京都の古寺を巡る37~泉涌寺~」 (2019.11.7 松波宏隆講師 作成)3) 『京都市の地名 日本歴史地名大系27』 平凡社 4) 『新版 京のお地蔵さん』 竹村俊則著 京都新聞出版センター補遺丈六戒光寺 ホームページ戒光寺 :「御寺泉涌寺」泉山七福神巡り :ウィキペディア泉山七福神巡り(泉涌寺) :「京都に乾杯」京都十三佛霊場 公式ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -1 瀧尾神社・泉涌寺道(古道)・勝林寺 へ探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -2 泉涌寺の総門・即成院 へ探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -4 泉涌寺(大門・楊貴妃観音堂・心照殿・浴室・仏殿・舎利殿)へ探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -5 泉涌寺(本坊・御座所庭園・月輪陵・泉涌水屋形ほか)へ探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -6 泉涌寺塔頭(善能寺・来迎院)へ探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -7 今熊野観音寺ほか へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 [再録] 京都・東山 泉涌寺山内 即成院と戒光寺
2019.12.03
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東方向に泉涌寺道の坂道を上って行きますと、泉涌寺の総門が見えます。 泉涌寺道を上がって行くとき、即成院の境内地の手前で北方向を眺めた景色です。この石段と坂道から北に向かえば今熊野剣宮町です。泉涌寺山内が東山連峰の山腹に広がっていることの一端がイメージできる景色です。 この総門の左斜め前に「即成院」(真言宗泉涌寺派)があります。山号が光明山です。この寺は平安時代、正暦3年(992)に恵心僧都が伏見に建立した光明院が始まりと言います。 即成院三門の両側に、この2つの幕が張られています。この2つが即成院の特徴を表現しています。「極楽浄土」の幕から始めます。関白藤原頼通は宇治に平等院を建立しました。頼通の三男、橘俊綱は寬治元年(1087)に伏見桃山の地に広大な伏見山荘を営み、そこに上記の光明院を阿弥陀堂として移設したそうです。10世紀から12世紀にかけて浄土信仰が盛んとなりました。平等院には定朝作阿弥陀如来坐像が鳳凰堂に祀られていて、浄土信仰の有名な具体例になっているのはご存知の通りです。阿弥陀如来が二十五菩薩とともに迎えに来て、極楽浄土に導いてくれるという阿弥陀来迎の信仰が広まりました。阿弥陀如来二十五菩薩来迎図をご覧になった方もいらっしゃることでしょう。(資料1,2)平安後期、橘俊綱没年頃に、西方浄土から飛雲に乗り往生者を迎えにくる阿弥陀如来と二十五菩薩(聖衆)(重文)が彫像として造立されたと推定されています。それが阿弥陀堂に祀られていたのです。絵図ではなく、彫像として制作されたことで、貴重な遺例となっています。阿弥陀如来坐像と観音菩薩像11躯の合計12躯は、当初(平安末期)のままで、他は江戸時代の補作だそうです。しかし、違和感はありません。尚、本堂内陣には、阿弥陀如来坐像に向かい、左側の一列目左端に二十五菩薩に加わる形で如意輪観音菩薩坐像が安置されています。二十五菩薩の配置と名称は、即成院のホームページ「重要文化財 阿弥陀如来と二十五菩薩」のぺージに詳しく説明されています。こちらからご覧ください。脇道に逸れます。俊綱がなぜ橘姓なのか?「母が讃岐守橘俊道に再婚したので橘氏を姓とした」(資料3)そうです。伏見に豪奢な邸を構えたことから伏見長者とも呼ばれたとのこと。官職は修理大夫で、寬治8年(1094)没。 (資料3)戻ります。では、なぜここに? 豊臣秀吉が伏見城を築城するにあたり、深草大亀谷にお寺が移建されたと言います。明治の排仏棄釈の影響で廃寺となり、仏像宝物などは本寺である泉涌寺の主な塔頭である法安寺に移され、合併することになったそうです。そして、昭和16年(1931)に旧名の即成院に戻ったと言います。(資料1) 本堂内は撮影禁止でしたが、この案内板にその仏像群が紹介されていますので、イメージしていただけるでしょう。阿弥陀如来坐像の高さは5.5m、左右に居並ぶ観音菩薩・勢至菩薩をはじめとする二十五菩薩像の高さは150cmというサイズです。雛壇状に諸像が安置されている全景は荘厳です。やはり絵図では味わえない迫力があります。(資料2) 山門の屋根の棟には、鳳凰像が置かれています。平等院鳳凰堂の屋根の鳳凰を連想してしまいます。 飾り瓦と降り棟の鬼瓦 山門の扉にも、鳳凰の透かし彫りが見えます。 梁の上の笈形や木組みはかなりシンプルな造形です。 山門を入ると、正面に地蔵堂、右折して延びる参道の先に西面する本堂が見えます。 これは当日いただいたリーフレットからの引用です。当日、本堂の北側の部屋には、二十五菩薩の金色の面が展示されていました。上掲の地蔵堂を現世、本堂を極楽浄土に見立てて、その間に高さ2m、長さ50mの橋が特設されて、「二十五菩薩お練り法要」という行事が毎年10月第3日曜日に行われます。その際に、大地蔵菩薩を先頭に二十五菩薩の面に金襴の装束で来迎和讃にあわせて練り歩くという法要です。二十五菩薩には児童たちが扮するそうです。つまり、来迎し衆生を極楽浄土に導入する姿を具象化した行事です。(資料2)昭和の時代からこの法要が行われるようになったとお聞きしました。右折して、本堂に向かいます。 山門に近い側に、「霊弓殿」の篇額を掲げた細身のお堂が見えます。 額に記された名称からすると、弓の供養のためのお堂のようです。 東隣に、弘法大師立像が安置されています。 顕彰碑や供養塔と並んで、石造不動明王像が建立されています。 手水舎には「与一手洗所」と記された木札が掛けてあります。後でご紹介しますが、「与一」とは「那須与一」のことです。手水鉢の正面を見ると、「伏見大亀谷 光明山即成院」と刻され、左に「享保二」「十月」という文字が判読できます。手洗所の西隣りに、石造毘沙門天像が見えます。 庫裡と思える建物の前に、こんな五重石塔が置かれています。 庫裡の東隣の建物の屋根を見上げると、獅子口に菊花のレリーフが見えます。 本堂前の左側には黒御影石を使ったと思われるモニュメントがあります。説明がありませんので不詳です。一方、右側には円筒形の香炉が設けてあります。正面には日の丸の扇が彫り込まれています。「扇が的へ」につながります。本堂に入り、本尊である阿弥陀如来坐像と二十五菩薩坐像を拝観して、本堂の右側を回り込み本堂の背後(東)に出ます。即成院は山の斜面にありますので、坂道の通路を少し上ることになります。 坂道の右側通路沿いには石仏が並んでいます。地蔵菩薩像が大半です。 通路を上った先にこの大きな石造りの宝塔があります。かつてこの即成院を訪れた時には、この宝塔はお堂の中に安置されていました。近年の台風の影響でお堂が破損し、撤去されたそうです。 宝塔の傍に、「那須與市宗高墓」と刻した石標が立っています。鎌倉時代に造立されたと推定されていて、那須与一の墓とされる宝塔です。(資料1)高さ3mもある供養塔で、一説には平安末期に造られたとも。(資料2) お堂に安置されていた時は、宝塔の塔身より上しか見えなかったのですが、今はオープンになったお陰で、塔身基礎の正面が見られるようにしてあります。格狭間の蓮形の中に鳥が向き合う形でレリーフされています。かなり細やかな線彫りが見られます。山門前にあった「願いが的へ」は、この那須与一の宝塔と関係があります。「即成院に来られた方は願いが的へかなうよう、または安らかな極楽往生を願って、必ず、この供養塔にお参りされます」(資料2)なぜ、即成院が那須与一のゆかり寺になるのか?屋島の合戦の折、平家が軍船の一艘の船首の竿に日輪の扇をつけて、義経にこれを射ることができるかと挑んだと言います。その扇の要を那須与一がみごとに射たという劇的なエピソードが、与一の名声を高めました。「屋島の戦いで、武勲を残した与一は阿弥陀さまの仏徳を感じ、即成院に庵を結び没したと伝えられています」(資料2)というゆかりがあるそうです。日本史の年表を見ますと、屋島の戦いは1185年2月。豊臣秀吉が伏見城を築くのは1594年。伏見城築城がらみで深草大亀谷に移転したのですから、与一が庵を結んだとすれば、即成院が伏見桃山にあった時代ということになります。ならば、鎌倉時代に造立されたこの宝塔も即成院の様々な変遷に併せて移ってきたということですね。今回の探訪中に直接目にした記憶がないのですが、「願い扇」が絵馬と同様に奉納されるようです。与一の武勲にあやかり、武功を願う人たちが、扇子を石碑に奉納したことから始まったと言います。(資料2) 那須与一供養塔の傍に、石造の観音菩薩坐像が安置されています。基礎の正面に「萬壽観音」と刻されているように読めます。北西側に目を転じます。 本堂の内陣部分、つまり阿弥陀如来坐像と観音菩薩諸像を安置する建物は、本堂の外陣部分と繋がった別棟になっています。 通路から本堂の背面を眺めると、かなり急斜面のところを開削されて建てられているようです。 通路を下りつつ通路脇の石仏を順番に撮りながら本堂に戻りました。 本堂に戻って、北側の部屋に展示された二十五菩薩の面を拝見してから本堂を出ました。先ほどの通路の鉄柵の反対側もまた幅の狭い通路になっています。その通路は次に訪ねた「戒光寺」の境内に続く道です。 本堂を出てから、この通路を上がって行くと、石造宝塔の背面を見ることができました。お堂の建物がなくなったお陰で、京都市内の眺望が広がっています。それでは、戒光寺に参りましょう。つづく参照資料1) 龍谷大学REC 講座レジュメ「京都の古寺を巡る37~泉涌寺~」 (2019.11.7 松波宏隆講師 作成)2) 当日頂いたリーフレット「京都の古刹 現世極楽浄土 即成院」3) 『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂補遺即成院 ホームページ阿弥陀二十五菩薩来迎図 (早来迎) :「京都国立博物館)絹本著色阿弥陀二十五菩薩来迎図 :「文化遺産オンライン」阿弥陀如来二十五菩薩来迎図 :「龍谷大学人間・科学・宗教オープン・リサーチ・センタ-」阿弥陀二十五菩薩来迎図について :「天台宗」二十五菩薩 仏様の世界 :「Flying Deity Tobifudo」橘俊綱 :ウィキペディア橘俊綱 :「コトバンク」那須 与一 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -1 瀧尾神社・泉涌寺道(古道)・勝林寺 へ探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -3 戒光寺 へ探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -4 泉涌寺(大門・楊貴妃観音堂・心照殿・浴室・仏殿・舎利殿)へ探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -5 泉涌寺(本坊・御座所庭園・月輪陵・泉涌水屋形ほか)へ探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -6 泉涌寺塔頭(善能寺・来迎院)へ探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -7 今熊野観音寺ほか へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 [再録] 京都・東山 泉涌寺山内 即成院と戒光寺
2019.12.02
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11月上旬に「京都の古寺を巡る37~泉涌寺~」という史跡探訪講座に参加しました。その時の記録の整理を兼ねたご紹介です。当日は、東大路通の泉涌寺バス停に近い泉涌寺道を東に入った場所が集合地点でした。交通機関の便宜性から、JR東福寺駅を起点にしてこの講座に参加することにしました。JR東福寺駅前の本町通を北に少し歩むと、冒頭の「瀧尾神社」が東側にあります。本町通に面して石鳥居がありますが、この朱塗りの大鳥居は南面しています。この前の道が五葉の辻町を通る泉涌寺道の古道になるそうです。現在はこの神社から少し北にある京都市立東山泉小中学校(旧一橋小学校の位置)の傍を通る道が、本町通から東大路通の交差点をへて泉涌寺道に繋がるルートになっています。まずは、集合時刻前のプレ探訪からお付き合いください。本町通は東福寺駅から京都国立博物館に往復する経路としてよく利用します。神社を横目に見て通りすぎることが普段ですので、久しぶりに泉涌寺探訪の集合時刻前に、立ち寄ってから行く事にしました。大鳥居の正面に見えるのは拝殿です。 この神社で私がまず好きなのは、この拝殿の天井なのです。なぜか? 天井に、大きくてダイナミックに蠢く木彫龍像を拝見できるからです。周囲に柵が設けてありますが、素通しですので四方から自由に龍を眺めることができます。全長8mに及ぶ丸彫りの龍像は見応えがあります。この木彫龍像の頭部は、祇園祭で2018年遂に復興を果たした大船鉾の船の舳先の龍頭のモデルになりました。この瀧尾神社と大船鉾とはこのブログ記事で既にご紹介しています。 社殿 祭神は大己貴命(オオナムチノミコト)です。大黒天(大国主命)・弁財天・毘沙門天も祀られています。既にご紹介記事を書いていますので、後は駒札をお読みいただくことで・・・・。上掲の龍像をはじめこの社殿を装飾する彫刻は、京の彫物師・九山新太郎の作と言われています。 拝所の唐破風の兎毛通と脇を飾る瑞鳥 蟇股の正面 蟇股の背面 拝所の内側下から振り返り見上げた景色蟇股及び虹梁上の大瓶束の両側全体が総透かし彫りになっています。 本殿を囲む菱格子塀の欄間と中門扉の上部には、様々に透かし彫りの装飾彫刻がぎっしりと周囲を荘厳しています。これらがもう一つの見所と言えます。丁寧に観察していけば、1,2時間くらいはあっという間に過ぎることでしょう。 虹梁の上には、左右に阿吽の龍が彫られています。 頭貫の上部は樹木と鳥たちの透かし彫りです。 鳳凰の頭部でしょうか。 頭貫の両端部には玉眼入りの龍頭が見えます。 参拝に行かれましたら、こちらの柱の上の彫刻も見落とさずにご覧ください。 扉の菱格子越しに拝見した本殿 本殿の階両側に金幣を捧げもつ猿がいます。祭神の大己貴命は、滋賀県大津市坂本にある日吉大社でも西本宮の祭神(大己貴神)です。日吉大社は、通称山王権現とも称されます。猿を神の使いとされています。こちらの主祭神が大己貴命ですので、本殿前に猿が居て、金弊を捧げ持つのもなるほど・・・です。 両猿の少し斜め前には、一対の木彫狛犬像が配されています。 本殿正面の扉の前には金幣が置かれ、扉の上部には極彩色の雲形の上に現れた形で神鏡が掲げてあります。雲間から日の光が輝くというイメージを受けます。三種の神器の一つといわれる神鏡は「八咫(やた)の鏡」です。(資料1) 階の中央部側面の飾り金具の文様は花付き二葉葵の意匠でしょうか。類似の図案をネット検索でみつけました。(資料2)ちょっと立ち寄っただけですので、拝殿と拝所、本殿正面を拝見するだけにしました。 元の泉涌寺道を東に進みます。途中で前方と後方を撮った景色です。自動車が一台通り抜けられる位の道幅です。 東大路通に出ると左折して、少し北に歩みます。東大路通の東側歩道の泉涌寺道への角(左の景色)に右の道標が立っています。 通りを横断して泉涌寺道に入ると、南側にある病院(中嶋外科整形外科)の敷地の一遇にこんな石標が立っています。この病院の斜め前、北側の辺りが一次的な集合場所になっていました。集合時刻にまだ少しゆとりがあったので、病院の東側の道を時間を見計らいながら南下してみることに。 東への道の分岐にこの掲示があります。 地図を切り出してみました。これで大凡の位置関係がお解りいただけるでしょう。左端に赤丸を追記したところがJR東福寺駅、京阪電車の東福寺駅が隣接しています。マゼンダ色が病院のあるところ。その東側を南下しました。今回の探訪の始まりは、次回にご紹介する「即成院」(空色の丸のところ)で、泉涌寺道の坂道を上って行った所で、泉涌寺の山内への大門の手前にあります。少しの時間で南下できたのは青い丸を追記したところまでです。途中にある道路脇の京都市広報板には、泉涌寺東林町と記されています。病院の敷地に立っていた「毘沙門天王」の石標の意味がわかりました。 ここへの道標なのです。ここに同名称の石標が立っています。小さな門があり、「勝林寺」と記された木札が柱に掛けてあります。こちらは東門です。境内に入って気づいたのですが、東福寺の塔頭の一つです。 門を入ると、手水舎が見えます。 境内に立つ駒札 境内参道から眺めた庭の姿と紅葉する樹林の間から本堂を眺めて、思い出しました。南側に表門が位置しているのです。2015年に「京都冬の旅」という観光バスツアーで一度訪れたことがありました。その時は表門からの出入りをしていました。そのため、泉涌寺道との繋がり、経路という位置関係がわかっていませんでした。今回探訪前のちょっとしたプレ探索で地図上の位置関係が、歩くルートとして結びつきました。庭を眺めることでタイムアップです。急いで集合地点に戻ります。それでは、本来の講座での史跡探訪に移ります。つづく参照資料1) 神鏡 :ウィキペディア2)花付き二葉葵 :「payless images」 補遺泉涌寺道 :ウィキペディア勝林寺 ホームページ日吉大社 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -2 泉涌寺の総門・即成院 へ探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -3 戒光寺 へ探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -4 泉涌寺(大門・楊貴妃観音堂・心照殿・浴室・仏殿・舎利殿)へ探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -5 泉涌寺(本坊・御座所庭園・月輪陵・泉涌水屋形ほか)へ探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -6 泉涌寺塔頭(善能寺・来迎院)へ探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -7 今熊野観音寺ほか へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 京都・洛東 瀧尾神社細見 -1 拝殿(天井の龍)スポット探訪 京都・洛東 瀧尾神社細見 -2 社殿(本殿・拝所・透かし垣)スポット探訪 京都・洛東 瀧尾神社細見 -3 境内を巡る探訪 [再録] 2015年「京の冬の旅」 -5 東福寺塔頭・勝林寺観照 祇園祭点描 -2 大船鉾と瀧尾神社 大船鉾の龍頭は瀧尾神社拝殿の木彫龍像をモデルに再現された。探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -17 前祭宵々山(8) 船鉾・大船鉾(船首飾り)・放下鉾 観照 祇園祭 Y2018 後祭 -2 大船鉾、放下鉾の位置決め
2019.11.29
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今年も正倉院展を見に出かけました。その記事は先般ご紹介しています。奈良国立博物館を出た時は、4時半頃でした。興福寺境内に入ると、夕日が北円堂の南側に沈み始めています。すぐ傍の五重塔と遠望する南円堂あたりは影絵です。 中金堂は夕日をうけて、拝観者もまばらになりつつありました。 振り返れば、東金堂と木々の向こうに五重塔の上部が望めるだけに。 奈良博に行く時は、大勢の観光客や参拝者で溢れていた南円堂もひっそりとし始めています。 石段を下り、西を見れば三重塔も影絵です。相輪の法輪・水煙・竜車・宝珠がズームで見ると見やすくなっています。 見上げると南円堂の南側面は、はや扉が閉じられて、夕日の残光に輝くひとときです。 石段を下り、三条通を横断し、猿沢池の南辺を歩みます。池面に映じた五重塔が見えるところがいいですね。奈良博に行く時はこちらまで足をのばすことはあまりありません。この猿沢池は奈良時代に興福寺の「放生会」のための放生池として作られた人工池。周囲は約400m(一説に360m)で、深さは約1m~1.5mだそうです。(資料1,2)この日は久しぶりに橋の上から、眺めたいものがあったのです。 池の南の畔を道沿いに西に歩めば、この景色が見えます。目的地はこの橋のところ。橋を渡って、そのまま西に進めば、「ならまち」です。この橋は「島嘉橋」と称し、伊勢街道上ツ道の起点にあたると言います。(資料3) 上掲の景色の右端に少し見える案内板から付近の地図を切り出しました。それに方位を追記しましたが、頭の中で方位を回転させてイメージしてみてください。猿沢池の西側に流れる川が「率川(いさがわ)」です。橋上から見下ろした景色。舟が川に浮かぶかのように作られています。後部の石柱に「率川」と刻されています。 台風のような大雨で増水すれば、川水に呑み込まれてしまうかもしれません。この船形のところの石仏群を久しぶりに見たかったのです。ここを通ったときにこの石仏群の舟を見つけたのは十数年前だったかもしれません。その時はえ!なぜ、この場所に・・・・・・という印象を抱いたのを覚えています。この石仏群は「率川地蔵尊」と呼ばれていうようです。かつては「尾花谷川地蔵尊」とも呼ばれていたと言います。(資料3) 川沿いに少し歩き、北東側から見た景色。まるで石舟ですね。乗船客はお地蔵さまほか・・・・・。「おそらく廃仏毀釈の時に捨てられたお地蔵様が、工事で川の中から見つかり、一緒に並べられたのでしょう」とは、地元の自治会さんのご説明。(資料3) 錫杖を持つお地蔵さま、持たないお地蔵様などさまざま。 五輪塔をレリーフにした板碑もあります。石船の傍まで降りてみたかったのですが、周辺には降りる階段などはありませんでした。少し残念。ハンディなデジカメのズーム機能で撮った写真です。 道路を外れ、猿沢池沿いの小径を三条通に戻る途中で見かけた「猿沢池こんなお話し」の陶板です。ぜひ猿沢池周辺をお楽しみください。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 南都八景のひとつ!奈良「猿沢池」から興福寺・五重塔を眺める:「LINEトラベル.jp」2) 猿沢池 :「なら旅ネット<奈良県観光公式サイト>」3)率川地蔵尊(奈良市) :「ならリビング.com」補遺法相宗 興福寺 ホームページ猿沢池 :ウィキペディア放生会 :「コトバンク」奈良歴史漫歩 No.053 猿沢池の釆女と龍神伝説 橋川紀夫氏 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 奈良国立博物館 御即位記念 第71回正倉院展探訪 奈良・興福寺 境内のお地蔵さまほかと境内点描観照&探訪 奈良散策 -2 興福寺中金堂と諸堂の眺めスポット探訪 [再録] 奈良 興福寺境内を通り奈良国立博物館にスポット探訪 [再録] 奈良 興福寺国宝特別公開2013 南円堂・北円堂
2019.11.22
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前回、法住寺境内を一部ご紹介しました。京都国立博物館からの帰り、京都駅に所用があり、ひさしぶりに七条通を西行しました。七条大橋の西詰にこの「松明殿(たいまつでん)稲荷神社」が位置します。 久しぶりにこの神社の鳥居をくぐり、境内を再見しました。なぜか? 東側のエリアがすっかり様変わりしていて、境内に開放感が溢れていたのです。以前の記憶では、鴨川を境内からこんな感じで眺められなかったと思います。 鳥居を入ると、すぐ右側にお地蔵さまの小祠があります。明治の神仏分離令はここまでは及ばなかったのでしょうか。それともその後に改めて建立された小祠でしょうか。その辺りの経緯はわかりませんが。違和感はありません。 小祠の格子戸に近づくと、お地蔵様が安置されています。お顔は白化粧で微笑み顔です。今年の地蔵盆で描き直されたお顔でしょうか。ほほえましい。 小祠の左に接した手水舎です。円形堀りの井戸と推測できる「石井戸」と「手洗水」と刻された手水鉢があります。左に立つ駒札には、「宝暦二年夏 木食正禅養阿上人寄贈 手洗 石井戸」と記されています。この井戸は木食養阿寄進の井戸で、年月も刻まれているとか。駒札の下部には、新聞記事が貼付されています。(資料1)この記事の要点をご紹介します。*「木食上人供養碑」が平安高校正門上るに所在すること。*木食上人とは米穀を断ち、木の実を食べて修行し苦行を修めた僧のこと。*木食正禅養阿上人のプロフィール 江戸中期に活躍。丹波保津村の武士の家に生まれる。21歳で仏門に入り泉涌寺で修行。 高野山で木食行、諸国行脚、京都七条大宮に「梅香庵」を構えた念仏聖。無縁墓地巡り。*日の岡や渋谷峠(山科区)の急坂を開平し、人馬・牛車の往来を助け、また井戸を掘る。 民衆のための社会事業に生涯を尽くした念仏聖。 伏見稲荷大社の境外末社で、田中社ともいうそうです。平安時代の天暦2年(948)に創始されたと伝えられています。もとは下京の古御旅町(黒門通塩小路下ル)付近にあり、のちに醒ヶ井通塩小路下ル松明町、さらに七条東洞院を経て宝永8年(1711)現在地、下京区稲荷町に移転したと言います。社名の「松明殿」は、天暦10年(956)勅により燎祭(りょうさい)が行われた際に「炬火(たいまつ)殿」の号を賜ったことに由来すると伝えられています。(資料2) これは江戸時代の『都名所図会』の挿絵。七条大橋を南東側から描いた図です。(資料3)七条大橋の西南端、この図の左上に社が描かれています。右上には、「松明殿」と記されています。本文では「炬火殿」という見だしで説明され、「稲荷の祭礼の日、神輿臨幸の時、七条河原に於いて松明を照らし神輿を迎ふるなり。この社の旧例にして、故に名とす」とあります。(資料2)祭神は倉稲魂命(うがのみたまのみこと)です。大己貴命(おおなむちのみこと)、伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉冉命(いざなぎのみこと)、猿田彦命も祀られています。(駒札より)横道に逸れます。 この挿絵は上掲同様『都名所図会』に載るもので、「日岡峠」の図です。(資料3)上掲の駒札の最後に、「亀の水遺跡」という語句が出て来ます。これを調べてみて、この挿絵と「日岡峠」に行き着きました。赤丸を追記したところに「木食寺」と記されています。「亀の水」というのはここをさすそうです。「梅香庵跡」だとか。『都名所図会』には、「峠の梅香庵は地蔵尊を安置す。木食上人住して坂路を造り、牛馬の労を助く。量散水は石刻の亀の口より漲(みなぎ)る。炎暑の節、旅人の喝を止どむといふ。」と記されています。(資料2)亀の水は、「木食正禅(養阿 1687年~1763年)が、峠道の管理と旅人の休息所として設けたとある。旅人ののどを潤すために設けられたこの石刻の亀の口からは、現在も清水が出ている。敷地内には湯茶接待用石のカマドが置かれ、側面には銘文が刻まれている」そうです。その銘文とは、「南無阿弥陀佛 此の攝待量救水を もって貴賤の往来に そなへまた牛馬等も 喉口を潤し往来 無障ため通行有 之やうに相企つ是 梅香院守真省方 尼公の志願につき 猶又永代退転無之 様に量救水に加 修覆奉供養者也 木食養阿 宝暦二壬申年(1752年) 十一月二十九日」です。(資料4)上掲の新聞記事との関連を考えると、木食正禅養阿は、いずれかの時期に七条大宮から日岡峠に居を移したということなのでしょうね。もう一つ。駒札には木食正禅養阿は「五条坂の安祥院の僧」とあります。これも調べてみますと、五条坂の途中に安祥院があり、木食正禅養阿がこの寺を中興したということのようです。ここは現在、浄土宗鎮西派のお寺です。(資料5)脇道に逸れました。もとに戻ります。 瑞垣傍から眺めた本殿 小さな境内地ですが、ここにも境内社が。右側の石柱形の燈籠に「天満宮」と刻されています。 一遇に、「松明殿稲荷神社社務」と判読できそうな石標が立っています。かつては、境内はもっと広くて、社務所の建物もあったのかなと想像しました。神社は七条通に面して鳥居の両側に石柵が設置されています。最後に、目に止まったことに触れておきましょう。 この柵の石柱には寄進者の名前等が刻まれています。ここにこのあたりの歴史の軌跡が刻まれていることがわかります。「七条新地」という言葉が刻まれています。江戸時代後期、七条には遊郭が存在したことを示しています。当時は繁栄していたそうです。たしか東海道中膝栗毛の弥次さん・喜多さんの京都見物にも登場してきたと記憶します。七条新地は、第二次世界大戦後になり、1958年以降2011年まで「五条楽園」という名称で花街として存続していました。(資料6) これらの石柱には、「朝市一同」「夜市一同」という語句が刻まれています。これも江戸時代のことと思いますが、朝市・夜市が開かれていて、そういう市は世話人のもとにまとまって市の運営が行われていたのでしょう。この石標には「世話方」という文字も刻まれています。寄進のためだけの世話方ではないだろう・・・・と思います。神社の景色が変化していましたので、ちょっと立ち寄り拝見し直した探訪のまとめです。これで終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 「民衆救済につとめた高僧」市民しんぶん 下京版 第51号 平成12年3月15日2) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校註 角川文庫 3) 都名所図会. 巻之1-6 / 秋里湘夕 選 ; 竹原春朝斎 画:「古典籍データベース」4) やましなを歩く東海道1 日岡峠 :「山科区」5) 安祥院(日限地蔵)(京都市東山区) :「京都風光」6) 七条新地 :ウィキペディア補遺木食養阿 :ウィキペディア木食養阿 :「京都通百科事典」木食正禅上人と阿弥陀如来露仏 - 境内霊譚奇談集Ⅸ 七条大橋 :ウィキペディア七条大橋の国の登録有形文化財登録記念式典の開催について :「京都市情報館」七条大橋 :「土木学会 推奨土木遺産」安祥院 京のスポット :「KYOTO design」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2019.11.22
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10月下旬に京都国立博物館での特別展「佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」を見に出かけたとき、久しぶりに、三十三間堂前の道を挟んで東側にある「法住寺」に立ち寄りました。境内に一遇に安置されているお地蔵さまを見仏するためです。冒頭の写真は、法住寺の山門です。現在の法住寺は天台宗のお寺です。法住寺には、通りに面して南側にもう一つの門があります。 龍宮門形式の門です。左手前の石標に「法住寺殿跡」と刻されています。また、門の中央前方に「旧御陵正門」の石標が立っています。 (こちらは今年の9月に京博から帰る途中、通り過ぎる時に撮った写真です。)後白河天皇が出家後、この地に後院を営み院政の拠点としました。その御所が法住寺殿と呼ばれました。石標「法住寺殿」はそれを意味します。後白河法皇が建久3年(1192)3月に亡くなると、蓮華王院(=三十三間堂)東の法華堂に葬られたと言います。後白河法皇の御陵が現在の法住寺の裏側(東側)にあります。かつてはここに御陵への正門があったということでしょう。現在は、冒頭の山門の北側に、御陵への参道が宮内庁管轄で設けられています。お地蔵さまは山門よりも、こちらの門を潜って境内に入ると、すぐ左側(北側)に安置されています。 最初に目に止まるのがブロンズ像の「子育・水子 地蔵尊」です。 その北隣に覆屋があります。ここに石造のお地蔵さまが集まっていらっしゃいます。 手水鉢のすぐ傍に、築地塀を背にして、東面する形で「六地蔵」が安置されています。赤い大きな前掛け(よだれ掛け)が付けられているので、お顔と足下の蓮華座しか見えません。地蔵菩薩は、六道に能化分身して教化救済を行われるとされているところから、六(道)地蔵としても祀られています。よく見かけるのは墓地の入口付近に六地蔵が祀られている姿です。お地蔵さまの名称と持物には諸説があります。前掛けで覆われていて、残念ながら持物や印相は見えません。『覚禅抄』によれば、六道と六分身のお地蔵さまの名称・持物/印相の関係はつぎの説明がなされていると言います。(資料1) 地獄 大定知悲地蔵(地蔵菩薩) 錫杖と宝珠 餓鬼 大徳清浄地蔵(宝手菩薩) 宝珠と与願印 畜生 大光明地蔵 (宝処菩薩) 宝珠と如意 修羅 清浄無垢地蔵(宝印手菩薩)宝珠と梵篋 人道 大清浄地蔵 (持地菩薩) 宝珠と施無畏印 天道 大堅固地蔵 (堅固意菩薩)宝珠と経 六地蔵の北隣りに南面する形で一体のお地蔵さまを安置した小祠があります。 赤い前掛けが五重くらいにかけられていて、お地蔵さまのお顔だけが見えます。 その右側には、同様に南面する形でお地蔵さまが並んでいます。 その中で、一体だけが立像です。よく見るとこのお地蔵さまの頭部は卵形の石にお顔が描かれているようです。少し足許や少し見える肩の部分の石材の質感と頭部の石の質感が異なります。欠損した頭部を卵形の石で補填して、お祀りされているように見受けました。これも信仰心に基づく素朴でかつ暖かみを感じる祀り方だと思います。 東端のこのお地蔵さまもお顔しか拝見できませんが、ここに並ぶお地蔵さまの中では顔立ちが明瞭です。ここに祀ってある石仏のお地蔵さまはどこからここに来られたのでしょう・・・。一体、一体、形が違いますので、それぞれが元は京のどこかで祀られていたのでしょうね。龍宮門を入ったすぐ右側(南側)で、本堂の西側にこの大小の小祠があります。小さい方は何を祀ってあるのか不詳ですが、大きい方の小祠は、 正面に「福寿観音」と記された扁額が掲げてあります。 白衣観音風の石造観音菩薩像が安置されています。 境内の南西隅には、大きな木があり、「区民の誇りの木 クスノキ」と木札が立ててあります。現在の法住寺の本堂(不動堂)は、過去に一度拝観していますが、本尊として不動明王が安置されています。身代わり不動とも言われています。方除け・厄除けの信仰があります。忠臣蔵で知られる大石良雄も義挙の成就をここで祈ったと伝えられています。本堂内には赤穂義士四十七士の像が安置されています。また、摂取堂には親鸞上人自作と伝える阿弥陀如来像と親鸞「そば」食い像が安置されています。(資料2)現在の法住寺の寺名は、ここに後白河法皇の法住寺殿跡であることに由来するそうです。元は、御陵(法華堂)を守護するために妙法院により建立されたお寺です。明治維新後に、御陵が宮内庁の管理となり、御陵と境内が分離されたことで、大興徳院と称されていたそうですが、1995年に法住寺の旧号に復し、現在に至ると言います。(資料2)歴史を溯ると、永延2年(988)藤原為光がこの地に法住寺を創建したそうです。その寺域は東は東山山麓、西は大和大路、北は七条、南は八条という広域だったとか。しかし、長元5年(1032)に焼亡し、復興されず。久寿3年(1156)中納言入道がこの地に法住寺堂を営んだといいます。さらに、後白河法皇がここを御所とし、法住寺殿と呼ばれるに至ったのです。その名称はこれらの過去の経緯からそのように呼ばれたということでしょう。(資料3)それ故、現在の法住寺は後白河法皇の御陵との直接的な関わりに由来するという次第。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 『仏像-イコノグラフィ』 町田甲一著 岩波書店 p572) 『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p1083) 『京都史跡事典 コンパクト版』 石田孝喜著 新人物往来社 p226-227補遺後白河法皇御所聖蹟 天台宗 法住寺 ホームページ 法住寺(京都) :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 京都・東山 法住寺 -後白河上皇ゆかりの地-スポット探訪 京都・東山 後白河天皇陵
2019.11.21
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大神神社の大鳥居を過ぎて右折し上ツ道を北に進みます。しばらくは三輪山を東に眺めながら歩むことになります。 三輪中学校の校門前を通りますが、校門前の左側に案内板が設置されています。この辺りが「芝遺跡」であることを説明しています。 弥生時代前期から後期にかけての複合遺跡が発掘されたそうです。纏向川の沖積地で、東西約700m、南北約400mの範囲で集落遺跡が発掘されたと言います。 道沿いには、古き時代の町家の姿をとどめる建物がみられます。 中学校の少し先で、東に右折して進むと、芝公民館があります。その公民館に隣接するところから、濠が一部残っています。濠端を回り込み、白い柵に沿って北方向に回り込みます。ここはかつての芝村藩陣屋があったところだそうです。南門があったところから、北の「芝陣屋跡」に進みます。北へ左折した道路の東側にも濠が残っています。現在この辺りは住宅地になっています。 道路の先はT字路になっていて、突き当たりの正面はスロープの先に、鉄筋コンクリート製の陣屋の門構えを模した建物があります。「桜井市立織田小学校」です。 校門前の向かって右側に「芝・陣屋跡」の案内板が設置されています。「戒重織田家の七代藩主輔宣の時代に戒重から芝に陣屋を移した。延享2年(1745)のことである。総面積は約8haに及び、北の弁天池を防備の一郭に取り込み、周囲に濠と土塁をめぐらした。上街道に面した西門を入れば大手筋で、他に南と北に入口があった。現在織田小学校の広場、石垣、土塀の一部が、当時のおもかげを残している。」(案内板説明文転記)芝村藩は織田有楽斎長益の四男長政を祖とするとのこと。宝永元年(1704)四代藩主織田長清が戒重からこの地に居城を移すことを決めていたそうです。それが実現するのは上記の七代藩主の時だとか。(資料1)ここは、元は岩田村と称されていたのですが、中世城郭戒重城から、北東4kmのこの地への陣屋替えを幕府に願い出て、1713年(正徳3)に地名を芝村に改称したと言います。(資料2)その改称は江戸屋敷が芝にあったことと関係するそうです。地図で調べてみますと、JR桜井駅の西方向に、大字戒重という地名があり、ここには「大和戒重陣屋跡」が残っているようです。 この小学校の外壁です。陣屋の石垣と土塀のおもかげを再現しているということでしょう。織田小学校前の道を西に進みます。 途中、2箇所でお地蔵さまの小祠をみかけました。その一つです。 大きな池の畔に至ります。北に見えるのが「箸墓古墳」です。 石灯籠の竿に「九日社」と刻されています。 「九日神社」です。駒札によれば、祭神は多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)、狭依理比賣命(さよりひめのみこと)、多岐津比賣命(たぎつひめのみこと)です。素戔嗚尊の十握剣を天照大神が三つに折り、口で噛んで生じた三女神です。いわゆる宗像三女神です。狭依理比賣命の別名は市杵嶋姫(いちきしまひめ)で、こちらの方がよく知られているかもしれません。(資料3)また、ここは廣讀寺址だと言います。「弘安6年(1283)、叡尊が105人に菩薩戒を授けたと『感身学正記』にのこる」(資料1)そうです。 九日神社から、南西方向にある「慶田寺」に向かいます。今回予定の最後の探訪先です。 東門前を通り過ぎ、山門側に回ります。 境内を拝見する予定だったのですが、当日お寺で葬儀の準備が行われていて山門にも葬儀の幕が張られていました。そのため境内に入ることは中止。山門の鬼瓦だけ撮ってみました。慶田寺の山門は先ほどの芝村陣屋の大手門を明治4年に移築したものだとか。長屋門です。(資料1) 築地塀の一隅には、「身代延命地蔵尊」が祀られています。 曹洞宗のお寺で、芝村藩織田氏の菩提寺です。文明2年(1470)海門和尚により開基されたと言います。お寺の納骨堂には、廣讀寺の本尊だったと伝わる阿弥陀如来坐像と、十一面観音菩薩立像が移座され安置されているそうです。(資料1)いつか機会があれば、再訪し見仏したいものです。講座での史跡探訪は慶田寺近くのバス停前にて解散となりました。この後はJR巻向駅まで歩くというオプションが提案されました。駅に向かう途中で箸墓古墳の傍を通るとのこと。勿論それに便乗です。ということで、以下はその行程のご紹介です。 上ツ道を北進します。前方に箸墓古墳が見えています。 途中に、こんな周遊ルート案内板が設置されています。 道路傍で目に止まった石碑。漢字が彫られていますが判読できません。万葉仮名で彫られている雰囲気なのですが・・・・・。 途中には道標も整備されています。 箸墓古墳。後円墳部のすぐ傍を通ることになるとは思っていませんでした。 すぐ傍を通る道路は、すぐに古墳との間に農地が広がり、距離が離れます。その西の方は現状では池のようです。 池の対岸の景色をズームアップ。さらに西にみえるのは二上山です。 道路脇にこの案内地図が設置されています。 部分図を切り出してみました。(右側が北、左側が南になります。) 箸墓古墳の航空写真が掲示されています。箸墓古墳は「全長272メートル、3世紀後半ころの築造で、宮内庁によって倭迹迹日百襲姫命の墓に指定されている前方後円墳。『日本書紀』には、昼は人が造り夜は神が造ったとの不思議な記事が残る。」(資料4)と説明されています。前方後円墳の中では最古式の一つです。邪馬台国の女王「卑弥呼」の墓ではないかという論議の対象として話題に上る古墳です。謎を秘めたロマンがあります。 箸墓古墳の方位を地図で確かめると、大凡この様な位置関係になっていて、赤色の矢線を付けた道路(上ツ道)を歩いていたことになります。 こんな標識も設置されています。 その先にあるのが、この場所です。 この掲示板に貼られている「纏向遺跡ガイドマップ」は桜井市立埋蔵文化財センターで販売されていると上部に貼付されています。 纏向遺跡の発掘調査後の史跡保存地区です。 そこから数分で、JR桜井線の「巻向」駅です。 駅前に上掲の案内地図の掲示板と併せて、纏向遺跡についてのこの案内板も設置されています。 巻向駅のプラットホームに立ちますと、北端側に柱状のものが林立しています。 ここも「史跡纏向遺跡」です。発掘調査で発見された建物の柱の配置状態が再現されています。JRの線路の下も、たぶん遺跡の続きなのでしょうね。 巻向駅到着で、この探訪も終了です。あらためて多くの探訪課題が発見できた半日でした。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 龍谷大学REC 講座レジュメ「関西史跡見学教室34 ~大和・三輪~」 (2019.10.10 松波宏隆講師作成)2) 芝村藩 :「コトバンク」3) 宗像三女神 :ウィキペディア4) 箸墓古墳 :「さくらい」(桜井市)補遺芝村藩 :ウィキペディア桜井市立埋蔵文化財センター ホームページ桜井市纏向向学研究センター ホームページ 纏向遺跡ってどんな遺跡? 纏向遺跡 国史跡 :「始まりの地! それは桜井」(桜井市観光協会) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 奈良 三輪をめぐる -1 三輪駅付近・恵比寿神社・金屋石仏ほか へ探訪 奈良 三輪をめぐる -2 磯城瑞籬宮伝承地・志貴御縣坐神社・平等寺 へ探訪 奈良 三輪をめぐる -3 大神神社(巳の神杉・拝殿・祈祷殿・宝物収蔵庫ほか) へ探訪 奈良 三輪をめぐる -4 大神神社(久延彦神社・大直禰子神社・二之鳥居・大鳥居ほか)、地蔵堂 へ
2019.11.18
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前回最後に引用した境内案内図から始めます。位置関係がわかりやすいと思いますので。宝物収蔵庫から北にある道を西に進みます。 道路沿いに、「久延彦(くえひこ)神社」の参道前を通り過ぎます。北方向にかなり長い参道があり、こんもりとした杜の手前に鳥居が見えます。参道には屋形型の鳥居が参道の両側に立っています。祭神は久延毘古命です。『古事記』に世の中の事をことごとく知っている知恵の神様と記されているとか。(資料1)そこで、『古事記』を調べてみますと、オホクニヌシがあの神は誰かという質問にクエビコがスクナビコナ様であると答えたという場面があり、その先に次のことが記されています。「それで、そのスクナビコナの名と筋とを明らめ申した、あのクエビコは、今でも山田のソホドというのじゃ。この神は、足を歩ませることはできぬが、何から何までこの世のことをお見通しの神なのじゃ」と。(資料2)「山田のソホド」という語句には脚注があり、「田に立つカカシ。ソホドのソホは、濡れそぼつなどのソボと同じ」と説明されています。道沿いに、更に西に進みます。 「若宮社」という篇額を掲げた鳥居が石段の先に見えます。「大直彌子(おおたたねこ)神社」です。ここが今回の大神神社での最後の探訪目的地になります。鳥居から正面に見えるのが本殿です。 鳥居をくぐると、右側には「琴平社」があり、祭神として大物主神が祀られています。一方、左側には、 築地塀で囲われて鳥居が立つ一画があります。鳥居の右に「安産の守護神 御誕生所社」と記した駒札が立っています。 玉垣で囲われ、注連縄が張られた中に石が祀られているだけです。これが磐座でありご神体ということでしょう。柵の右角に木札が掛けてあり、祭神は鴨部美良姫命と記されています。神社名の「大直彌子」は『日本書紀』に記されている大物主神の子孫「大田田根子」のことです。それゆえ、大神神社の若宮社ということになります。一方、鴨部美良姫(かもべのみらひめ)は大田田根子の母にあたるそうです。『古事類苑』に「母美良媛 土左賀茂部臣之女也」という記述があると言います。(資料3)また、『先代旧事本紀』巻四の地祇本紀には、大田田根子の父は建飯賀田須命と記されているそうです。(資料4) 手水鉢 ここも屋形型の灯籠が参道脇に奉納されています。本殿の全景です。 本殿前、参道の両側に吉野の桜と飛鳥の橘が献木されています。傍に立つ駒札には、「遠つ代の垂仁天皇の時代 田道間守(たじまもり)がはるばる常世の国から持ち帰ったという橘の伝えに倣い奉納 昭和48年3月20日 友福会」と記されています。 本殿内を拝見すると、内部は外陣と内陣が格子戸で仕切られています。内陣側には閉められた扉が見えるだけです。社の扉と同様の形式と思われます。 祭神は大直禰子命です。つまり、上記の大田田根子命です。この建物、寺のお堂です。明治の神仏分離まではここに大神神社の神宮寺として大御輪寺(だいごりんじ)があったと言います。神仏習合の時代には、本尊の十一面観音と大直禰子命の神像が併せて祀られていたそうです。もともとは奈良時代に創建され、大神寺と呼ばれていたのですが、後に荒廃したとか。平等寺のところで触れましたが、弘安8年(1285)叡尊が参詣を契機に大御輪寺として再興したそうです。大御輪寺の本尊だった十一面観音は桜井市内の聖林寺に奉安されています。木心乾漆像で国宝となっています。(資料5,駒札) この本殿(重文)は、奈良時代の金堂に礼堂が付いたものが改造されて本堂とされていた建物だそうです。(資料5) 建物側面を眺めます。前部は上掲写真を見ますと柱の上に斗栱の組物がありますが、後部は左の写真の通り、柱の上には肘木がのるだけです。建て方に違いがあります。また右の束は上掲の側面扉の上部箇所のものです。束にほぞ穴があります。改造されたことを示す部材なのかもしれません。 屋根は入母屋造です。棟と平降棟、隅降棟のそれぞれに鬼瓦が見えます。隅降棟はストレートで、一般的にある稚児棟部分がありません。 鬼瓦 本殿の右斜め前に、結界を張られた大石が置かれています。駒札には「御饌石(みけいし)」と記されています。「この御石はお正月のご神火まつりの時、久延彦神社に神饌をお供えする石です。知恵の神様久延彦神社へお参り出来ない方はここから遙拝してください」(駒札の説明を転記)「神饌」は「神(を祭る時)に供える酒食」(『新明解国語辞典』三省堂)のことです。なぜ、この場所なのでしょうか? 素朴な疑問が残りました。大直禰子神社の境内を出て南に進みます。 ほど近いところ、馬場本村に「地蔵堂」があります。両側の門柱には「子安地蔵尊」「ぼけ封じ地蔵尊」と記された木札が掲げてあります。ネットで地図を見ますと、この地蔵堂は記載されていません。この地蔵堂の右側に「馬場本村集会所」の建物があります。こちらは地図に載っています。地蔵堂の表門には寺号が掲げてありませんので、この馬場本村地区で祀っておられるお堂なのでしょうか。 門前から正面に見える地蔵堂です。「地蔵尊」と記された扁額が掲げてあります。格子戸の右側に、「右脇檀 十一面観世音菩薩 御本尊 子安地蔵菩薩 左脇檀 不動明王」と記された駒札が掛けてあります。 格子戸越しに本尊子安地蔵菩薩を拝見しましたが、堂内が薄暗くて像がよく見えません。撮った写真に色調補正の処理をしても左側の程度にしかなりません。右は格子戸の左側に掲げてあった本尊の写真です。「樟一木造、体躯の均整を欠く檀像様の像」(資料5)だそうです。 地蔵菩薩像の写真の下に、この絵図も掲示してあります。江戸時代に出版された『大和名所図会』にこの三輪の絵図が載っていて、若宮と地蔵、二之鳥居との関係でみると、現在も同じ場所に存在するという証です。 お堂の屋根の飾り瓦。ダイナミックな獅子像で阿吽形の姿になっています。 向拝の木鼻は線彫りだけのシンプルさですが、大斗にのる肘木も造形がされて線彫りもあり木鼻とデザインが照応しています。単純な中に工夫が見えます。 お堂の左斜め前に覆屋が設けてあります。そこには石造地蔵菩薩像や宝篋印塔が並べて安置されています。宝篋印塔はよく見ると相輪部が欠損状態です。宝篋印塔の間に立たれたお地蔵さまが「ぼけ封じ地蔵尊」です。錫杖を持たれていない姿です。傍に駒札が立っています。 覆屋の左側、表門に近い方に一体のお地蔵さまを安置した小祠もあります。「脳天地蔵尊」です。おもしろい名前です。少し調べた範囲では、名前の由来がわかりませんでした。地蔵堂を出て、道沿いに進みます。 大神神社の二之鳥居の北西側に出ました。この二之鳥居前の参道は真っ直ぐ西へ延びています。現在では、JR桜井線の線路が正面参道を横切って南北方向に走っています。 JRの踏切を渡り、正面参道を西に進めば、大神神社の「大鳥居」です。高さ32.2m、柱間23mで、車道をまたぐ鳥居としては日本一だそうです。昭和59年(1984)の昭和天皇の親拝記念として昭和61年(1986)に耐候性剛板で建てらてた大鳥居だと言います。この材質は耐久年数1300年と言われるとか。(資料1)大鳥居の先に見える建物は地図を確認すると桜井市の「総合体育館」です。今回の講座もいよいよ最終段階。この後の予定は「芝陣屋跡」と「慶田寺」です。つづく参照資料1) 境内マップ :「大神神社」2) 『口語訳 古事記 [完全版]』 三浦佑之 訳・注釈 文藝春秋 p77,783) 三輪字若宮「御誕生所社・琴平社」大神神社・雑社:「お粥の弛々調査報告記」4) 鴨部美良姫 :「れきち」5) 龍谷大学REC 講座レジュメ「関西史跡見学教室34 ~大和・三輪~」 (2019.10.10 松波宏隆講師作成)補遺三輪明神 大神神社 ホームページ 聖林寺 公式ホームページ トップのページに、廃寺大御輪寺から奉安された十一面観音菩薩の写真が紹介されています。 大和名所図会. 巻之1-6 / 秋里舜福 [著] ; 竹原信繁 画 :「早稲田大学図書館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 奈良 三輪をめぐる -1 三輪駅付近・恵比寿神社・金屋石仏ほか へ探訪 奈良 三輪をめぐる -2 磯城瑞籬宮伝承地・志貴御縣坐神社・平等寺 へ探訪 奈良 三輪をめぐる -3 大神神社(巳の神杉・拝殿・祈祷殿・宝物収蔵庫ほか) へ
2019.11.17
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平等寺、つまり南から大神神社の境内地に入ります。まず、手水舎があります。 東に大神神社の神体山である「三輪山」(標高467.1m)が存在しますので、境内地の側面から入ることになります。ここは二本の円柱に注連縄が張られた門です。 門をくぐると、目に前に大きな御神木「巳の神杉」が聳えています。「大物主大神の化身とされる白蛇が棲むことから名付けられたご神木」(資料1)です。樹齢500年と言われるそうです。参拝者が供えるのは卵です。なぜ? 蛇の好物だからだとか。 東の方向には唐破風の玄関口に、「講社崇敬会本部」の木札を掲げた建物が見えます。 御神木の右斜め方向に拝殿があります。拝殿正面中央の大向拝の部分です。 参拝者の便宜のために、移動式の拝所屋根が備えてあります。すっきりと拝殿を撮りたい私にはちょっと・・・・という思いもありました。 拝殿脇に立つ駒札大神神社は大和国一ノ宮です。三輪明神として知られています。祭神は大物主大神(おおものぬしおおかみ)、配神は二柱で、大己貴神(おおなむちのかみ)と少彦名神(すくなひこなのかみ)。大物主大神=大国主神(大国様)=国土開拓の神=人間生活万般の守護神と説明されています。(駒札より)当社の特徴は、大物主大神の御魂(幸魂さちみたま、奇魂くしみたま)が三輪山に留まりご神体であるとし、山そのものを本殿とみなすことです。拝殿の奥正面に「三ツ鳥居」が設けられていて、この鳥居を通して三輪山を排するという形式です。原始の神祀りを今に伝える最古の神社です。(駒札より)三ツ鳥居は別名「三輪鳥居」とも称されています。申し込めばこの三ツ鳥居の拝観も可能だとか。(資料1)当日いただいたリーフレットによれば、三ツ鳥居の「正面の高さは3.6m、左右の高さは2.6mで、左右には長さ16間の瑞垣が設けられ、すぐれた木彫りの欄間がはめ込まれています」(資料2)とのこと。鳥居と瑞垣はともに昭和28年(1953)に重要文化財に指定されています。(資料2)当日のレジュメ掲載の三ツ鳥居平面図を参照しますと、三ツ鳥居は左右対称ですが、瑞垣16間は、向かって左が9間、右が7間となっているようです。地形の関係でしょうか。それとも意図的に瑞垣の長さを左右で異ならせているのでしょうか。不詳です。現在の三ツ鳥居は明治16年に造替されたものだそうです。しかし、石製鳥居敷の状況などから、古代から存在したことが考えられると言います。(資料3)三ツ鳥居から三輪山内の辺津磐座までは禁足地です。山内からは4世紀後半からの祭祀具や土器が出土しているそうです。(資料3) 拝殿正面から内部を眺めると、垂れ幕と御簾の前に祭壇があります。まさに祈りの場であり、三ツ鳥居とご神体(三輪山)はともに直接垣間見することすらできない感じです。 拝殿正面の千鳥破風と唐破風を見上げますと、獅子口と破風の飾り金具には菊の紋がレリーフされています。 梁の上の束の両側には草花文様の透かし彫りが施されています。 頭貫の上の蟇股は3つあります。小鳥、瑞鳥、神馬の透かし彫りが施されています。 拝殿に向かって左側の建物部分。拝殿本体の屋根の下から拝殿の回縁部の庇屋根が延びて、二段構えの屋根になっています。 拝殿から遠ざかって全体を眺めた景色です。寬文4年(1664)徳川家綱の命により再建された建物。国重要文化財です。(資料1,2)拝殿の背後には樹木が繁り、三輪山の外観を眺めることも境内のこのあたりからは無理です。拝殿の右は「勅使殿」、左は「勤番所」と称される建物に渡り廊下で繋がっています。 正面の門前から眺めた拝殿。西向きに建ち、桁行き21m、梁行7mで、正面に5.5m一面の唐破風造の大向拝がついているという大きさです。 境内から眺めた門の両側。手前は授与所です。 拝殿のある境内地の北辺にある無料休憩所。 拝殿の北西方向に「祈祷殿」の建つ境内地があります。祈祷殿の右側に「参集殿」、左側には「儀式殿」がありこの3つの建物はつながっています。平成の大造営で平成9年に竣功したそうです。桧造りの平屋建てで銅葺き、平安朝様式で建立されています。(資料1) 祈祷殿の正面から内部を眺めた景色です。 祈祷殿の正面の屋根には鬼板がのっています。破風と合わせて菊の紋がレリーフされています。 向拝正面の蟇股 シンプルな木鼻 儀式殿の北側には、「久すり道」と称される東に向かう坂道があります。「狭井神社」に行く道です。 祈祷殿前の広い境内空間をはさみ西辺にあるのが「宝物収蔵庫」です。今回の探訪では、この収蔵庫内を拝見しました。 拝見の折にいただいたリーフレットの表紙に、前回ご紹介した三輪山絵図(室町時代)が使われていました。収蔵庫では、次の諸物を拝見できます。(リーフレットより)*古代祭祀関係の出土品 「三輪山麓・狭井河之上(さいがわのほとり)出土」「禁足地出土」「山の神出土」 各出土地域の滑石製模造品、勾玉、須恵器、土師器などです。*伝世の神宝類 大国主大神神木造(県指定文化財)、高坏(同左)、朱漆金銅装楯(重要文化財)、 古鉄鏡(伝世の御神鏡)、各種銅鏡類(渡来品と和鏡)*新宮寺関係文書*神宮下賜の御神宝 御鏡(伊雑宮御装束)、茶碗 銘「三輪」ほか。宝物収蔵庫の南側にいくつかの蹟碑があります。歌碑などが建立されているようです。 一つ一つ確認している時間がありませんでした。どういう意図でここに集めて建てられているのか・・・。訪れられたら、確かめてみてください。バラエティに富んだ石碑群です。 上掲リーフレットに掲載の境内案内図を引用します。大神神社境内の全体がイメージしやすくなるでしょう。今回の探訪では、大神神社境内の中枢部を拝見するだけにとどまりました。ここもまた機会をみつけて、細見したいところです。前回ご紹介した、「三輪成願稲荷社」について、捕捉しておきます。まとめていて知ったことです。この神社は、「神宮寺の一つで尼寺であった浄願寺の鎮守祠として鎌倉時代に創祀」(資料1)されたそうです。境内マップに記載されていますので、境内社に位置づけられているのでしょう。 宝物収蔵庫を出ると、大直禰子神社に向かいます。その途中で三輪の町を眺めた景色です。つづく参照資料1) 境内マップ :「大神神社」2) 当日入手したリーフレット「三輪明神縁起」 大神神社3) 龍谷大学REC 講座レジュメ「関西史跡見学教室34 ~大和・三輪~」 (2019.10.10 松波宏隆講師作成)補遺三輪明神 大神神社 ホームページ (5)三輪山の神 :「狗奴国私考」大物主神 :「日本の神様辞典 やおよろず」大物主神 :「コトバンク」大国主神 :「コトバンク」出雲大社と大国主大神 :「出雲大社」大国主 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 奈良 三輪をめぐる -1 三輪駅付近・恵比寿神社・金屋石仏ほか へ探訪 奈良 三輪をめぐる -2 磯城瑞籬宮伝承地・志貴御縣坐神社・平等寺 へ
2019.11.15
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金屋の石仏から道沿いに北に少し歩むと、この道標が設置されています。道標に従って先に進みます。 すると、左の道標「磯城瑞籬宮跡(しきみずがきみやあと)があり、その先に「第10代崇神天皇磯城瑞籬宮趾」と記された大きな標識が立っているのが見えます。 木々で囲まれた中に、少し広い空地があり、そこにも石標が建てられています。そして また、近年設置された感じの「磯城瑞籬宮伝承地」と記した表示と案内板が目に止まりました。「磯城瑞籬宮は、第十代崇神天皇が営んだとされています。記紀によりますと崇神天皇の時、民が死に絶えてしまうような疫病が発生しました。これは三輪山の神、大物主大神(オオモノヌシノオオカミ)のしたこととお告げを受けた天皇は、神の意に従い神の子孫となる大田田根子(オオタタネコ)を捜しだしました。そして彼に託して三輪山に大物主大神をお祀りしたところ祟りが鎮まり疫病がおさまったとされています。また、東海や北陸、西国、丹波へと四方に将軍を派遣し国内の安泰につとめ、民をよく治めたことから、初めて国を治めた天皇としてたたえられたと記されています。」(案内文転記)『日本書紀』には、崇神天皇は開化天皇の第2子です。皇位を継承すると、「3年秋9月、都を磯城(しき)に移した。これを瑞籬宮という」と記されています。「5年、国内に疫病多く、民の死亡するもの、半ば以上に及ぶほどであった。」と続きます。疫病は翌年も広がります。天皇は大物主神から夢告で、その子大田田根子に吾を祀らせよと知らされたのです。8月7日、3人が同様の夢をみたと天皇に報せます。大田田根子探しが始まり、「茅渟県(ちぬのあがた)の陶邑(すえむら)に、大田田根子がみつかりおつれした」と記し、「11月13日、・・・・・大田田根子を、大物主大神を祀る祭主とした」とあります。その結果、「ここで疫病ははじめて収まり、国内はようやく鎮まった。五穀はよく稔って百姓は賑わった」(資料1)というのです。この条には、三輪山という名称は記されていません。その後、8年の「冬12月20日、天皇は大田田根子に大物主神を祀らせた」で始まる条に、天皇が歌を詠んだという記述があり、その歌に三輪の社殿の朝の戸をおし開こうという意味のフレーズが出て来ます。(資料1)大凡、このあたり一帯のどこかに、磯城瑞籬宮が設けられていたということでしょう。左側前方に見える建物は天理教会の建物群の一部です。 一遇に石灯籠が集められている箇所があり、その背後に小祠と、ブロックを瑞垣に使った小社があります。 拝殿 本殿この宮跡の空間の北辺に「志貴御縣坐神社」があります。『延喜式』の祝詞に登場する大和六御縣神の一つで、同神名帳記載の志貴御縣坐神社に比定されているところです。室町時代には「シキノミヤ」と呼称していたことが確認されているそうです。また、『三代実録』には貞観元年(859)に従五位から従五位上が授けられたと記されているとか。(資料2)祭神は神社明細帳では大己貴神。尚、志貴連の祖神である天津饒速日命とする説などがあるそうです。(資料3)道沿いに進んで行くと「平等寺」の前を通ります。 平等寺の傍で、振り返った景色です。 平等寺の山門です。今回は時間の関係で平等寺は門前を通り過ぎるだけになりました。 石段の傍の道路沿いに「東海道自然歩道」の大きな案内板があります。 この案内板に「平等寺」の本堂の写真が掲載されています。 また、その左隣りに平等寺の案内板があり、この「旧三輪山平等寺古図」が掲げてありました。 古図の上部右半分は「大神神社」です。左半分のところに、かつての平等寺の寺域が示されています。左上に赤地白抜きで「旧本堂」と記され、中央に「平等寺」とあり、右下に赤く点線で囲んだ箇所に「現在地」と記されています。平等寺は、西暦581年に聖徳太子が三輪明神に祈願した後、十一面観音を彫んで寺を建立し、大三輪寺と称したことにはじまるそうです。(東海道自然歩道案内板より)鎌倉時代初期に、慶円(1140-1223)により、三輪別所が設けられて真言潅頂道場となったそうです。この時、平等寺に改称されたと言います。慶円は神仏両部思想を確立し、三輪神道の創始者でもあるそうです。建長2年(1250)には叡尊が参詣していると言います。その後、大神神社の神宮寺、奧の院となり、古図に描かれるように現在地よりは東に広大な寺域を有する寺だったのです。興福寺大乗院と醍醐三宝院に両属し、室町中期には対立がみられたと言います。明治の神仏分離で平等寺は廃寺となりました。そして、明治以降に、現在地に曹洞宗の寺として再興され、現在に至ると言います。(資料2) 機会を見つけて、この寺を一度訪れてみたいと思っています。序でに、東海道自然歩道の案内板から、山の辺の道のこの辺りの史跡状況をご紹介しておきましょう。 これが部分拡大した掲載地図です。「山の辺の道」は史跡探訪の魅力に溢れています。 山の辺の道を進むと、西方向の視界が開け、畝傍山を遠望できました。 次の探訪地がいよいよ大神神社です。道沿いに進むと、その途中の道路脇に「三輪成願稲荷社」があります。それでは、大神神社へ。つづく参照資料1) 『全現代語訳 日本書紀 上』 宇治谷孟訳 講談社学術文庫 p121-1252) 龍谷大学REC 講座レジュメ「関西史跡見学教室34 ~大和・三輪~」 (2019.10.10 松波宏隆講師作成)3) 志貴御縣坐神社 :「玄松子の記憶」補遺崇神天皇 :「コトバンク」崇神天皇 :ウィキペディア大和の六県 :ウィキペディア志貴御縣坐神社 :ウィキペディア慶円 :ウィキペディア叡尊 :ウィキペディア宗祖:興正菩薩叡尊上人 :「西大寺」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 奈良 三輪をめぐる -1 三輪駅付近・恵比寿神社・金屋石仏ほか へ
2019.11.14
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JR桜井線の「三輪駅」はこじんまりした小さな駅舎の駅です。駅前には一軒ぽつんと「日本酒アイス」という幟が立つお店が目に止まる位です。この三輪駅を集合場所として、大和・三輪の史跡見学をする講座に10月に参加しました。その時の探訪内容をまとめてご紹介します。右の案内図は、駅前に掲示のものから、三輪駅周辺を切り出した部分図です。 もう一つ、このイラストの案内図も掲示されています。赤色の丸の所が三輪駅です。駅舎の北東方向に「大神神社」(黄色の丸の所)があり、西に向かって参道が延びていて、この図の中央下辺りに「大鳥居」が描かれています。大神神社の東にご神体である「三輪山」(標高467.1m)が鎮座します。今回の三輪めぐりのメインはやはり大神神社になります。当日集合時刻までに少し時間がありましたので、三輪駅近辺をふらりと探訪することから始めました。駅前の東西の通りを西に歩み、最初の南北の通りで左折して、南に進むと、 右側にこの入口があります。「恵比須神社」(紫色の丸の所)です。石柱の上部に「日本最初市場 三輪坐」と刻されています。この探訪講座での後知恵になりますが、JR三輪駅の南が後でまず訪れる場所、「金屋」地区であり、ここは古代には「海石榴市(つばいち)」と称される最も大きな市場があったところです。日本最初市場というのはたぶんそのことをさすのでしょう。入口の右側(北)にある建物は「参集殿」です。注連縄の張られた門柱を通り抜けると、 建物の続きにこれが置かれています。駒札には、三輪下新町中から奉納された「御供臼」と記されています。元禄五年正月に奉納された旨がこの御供臼に刻されています。今は手水鉢としてここに設置されていると言います。 御神木「この<欅けやき>は樹齢600年余ともいわれ、木の幹が根元より二つに分かれているので古より夫婦欅とも云い伝えられている。良縁を求める方、恋人同士添われないとき、片思いの方など、また安産・子宝を願う方など、この<欅>にふれて願えば、想いが達すると伝えられている」(駒札転記) 拝殿 拝殿前に立つと、正面に本殿が見えます。社伝によりますと、元は海石榴市の守護神として祀られていたそうですが、延長4年(926)7月の大雨で、初瀬川が氾濫し、そののち市とともに、市の守護神もこの三輪の地に移されたというのが、この神社のはじまりだそうです。祭神は、八重事代主命(やえことしろぬしのみこと)、八尋熊鰐命(やひろくまわにのみこと)、加夜奈流美命(かやなるみのみこと)。八重事代主命は大物主大神(別名大国主命)の御子神だとか。また、「コトシロ」とは「言知る」の意味で、託宣を司る神、言霊の神として崇敬されているそうです。(資料1)この神社の特徴として、先日たまたまテレビのある番組で知ったことでもありますが、初えびすの日にこの年の三輪そうめんの価格が決められるという神事が行われるそうです。(資料2)境内をしばし探訪しました。 本殿の西側に境内社があります。「琴比羅神社」です。 祭神は大物主命。いわゆるエビス・ダイコクのダイコクで、ご神徳は増殖・蓄財だとか。(駒札より) 琴比羅神社の左斜め前に、「佐藤春夫句碑」が建立されています。 海石榴市の野路に飛び交う蟲や何「昭和38年秋、三輪山麓の海石榴市(つばいち)伝承地を訪れて詠まれたもの。その折案内同行した栢木喜一氏の奉納により、昭和63年5月ゆかり深いこの境内に建立された。」(駒札転記) 手水舎となぜか鐘楼があります。 この石鳥居が当神社の正面です。南面しています。 境内地を探訪していると集合時刻が迫ってきましたので、一旦三輪駅に戻りました。いよいよ、三輪をめぐる探訪の始まりです。「三輪」は古代の磯城郡、式上郡の中心地にあたり、上ツ道(上街道)が南北に通っていました。三輪の北に位置する巻向(纏向)は倭国最初の都と考えられています。三輪山はその中心的な祭祀の場だったようです。平安時代にはこの辺りは多武峰寺領荘園が展開したそうですが、次第に興福寺領に変わっていったと言います。中世には、三輪市や三輪宿が存在していたことが確認されています。(資料3)まずは、駅前の通りを西に歩み、二筋目(上街道)で左折して南に向かいます。この道を北に向かえば、大神神社の大鳥居が立つ前に至ります。 道沿いにかつての商家の姿をとどめた町家、虫籠窓が目に止まりました。創業弘化と陽刻された「白玉屋」さん、そして地元銘柄「三諸杉」の看板を表に掲げた創業万治3年(1660)という「今西酒造」さんです。 道沿いに進むと、東側に「春日神社」の篇額を掲げた境内地があります。神社前を通り過ぎると、 先に見えたのが大和川です。「出口橋」の北詰です。橋詰めに立つ石灯籠の竿には、「常夜燈」と「三輪大明神」と太い文字が陰刻されています。 大和川の東方向を眺めた景色です。ベージュ色の高い建物が見えるあたりが、古代に「海石榴市(つばいち)」があり、交通の要衝だったそうです。『日本書紀』巻第16・武烈天皇に、武烈天皇が未だ皇太子の時に、影媛を娶ろうと思ったときのことが記されています。海石榴市の辻で双方行き合う約束をしたのです。その場所の歌垣の人々の中に交じり、太子と影媛、しばらくしてやってきた平群鮪臣(へぐりのしびのおみ)の三人が歌を交わす場面が記されています。このとき太子は鮪が既に影媛と通じていることを知り、平群真鳥と鮪の父子の無礼さに怒りを発します。太子は大伴金村連に命じ鮪を奈良山で殺させます。その後平群真鳥臣も討たせたという経緯が記されています。ここに、海石榴市が出て来ます。(資料3)また、遣隋使の小野妹子が推古天皇の16年夏4月に帰朝した折に、一緒に隋使裴世清が来日します。筑紫に上陸し、その後6月15日に難波に泊ります。そして、難波から大和川(初瀬川)を溯り、「秋8月3日、唐の客は都へはいった。この日飾馬(かざりうま)75匹を遣わして、海石榴市の路上に迎えた。額田部連比羅夫が挨拶をのべた」(資料3)と『日本書紀』は記しています。さらに、『万葉集』第12巻には、作者不詳で次の歌が載っています。(資料4) 紫(むらさき)は 灰指(さ)すものそ 海石榴市(つばいち)の 八十(やそ)の衢(ちまた)に 逢へる児(こ)や誰 3101番 (紫の染料は灰汁を入れるものよ。灰にする椿の、海石榴市の八十の辻に逢ったあなたは何という名か。) 一方、交通の要衝である故に、「物部守屋による仏教弾圧で善信尼らが迫害される刑罰の場(海石榴市亭)」(資料5)にもなったそうです。今回の探訪の行程の対象外ですが、公式の仏教伝来は欽明朝であり、欽明天皇の磯城金刺宮が海石榴市周辺に比定されることにより「仏教伝来碑」が建立されているそうです。後に推古天皇となる豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)が敏達天皇の皇后時代の宮(海石榴市宮)があった地でもあるとか。(資料5) 大和川の傍の道を東に進み、天理教敷島大教会の敷地を回り込み、金屋に向かいます。金屋の集落の集会所をまず訪れました。ここで、集落の人々が大切に祀り維持管理されている様々な仏像を見仏することができました。 この木造地蔵菩薩坐像は胎内に文治4年(1188)の銘がのこるそうです。(資料5) 観音菩薩像 五大明王像の一躰 右は弘法大師像ですが、左は不詳。それぞれ小ぶりな仏像ですが、この土地の歴史を感じます。 集会所前の庭の一遇に、「青面金剛」と刻された石碑が立っています。庚申塔です。 そして、案内していただいたのが、「金屋の石仏」です。お堂は鉄筋コンクリートの収蔵庫になっています。 格子戸越しに堂内を覗けますが、扉を開けていただけ、間近に二体の石仏を見仏できました。 正面から眺めた石仏です。長方形の粘板岩に線刻され浮彫にされた如来形立像です。三輪山南麓の「みろく谷」にあった石仏だそうです。(資料5) 向かって右の石仏は、説法印の印相で釈迦如来と称されています。 側面を眺めると、石材には枘(ほぞ)や繰り込みがあり、古墳の組合式石棺を転用したと考えられるそうです。一方で石龕仏の一部とみる意見もあると言います。 左の石仏は施無畏印(右手)、与願印(左手)の印相で、弥勒如来像と称されています。これら石仏は「重厚な相好、豊満な体躯は9世紀的、温和な平行衣文は平安後期的といえる」(資料5)そうです。 お堂の床下に、石材が保管されています。赤茶色の石材は、案内板に記されていますが、見るからに石棺の蓋のようです。この金屋の石仏が安置されたお堂の前の道は「山の辺の道」でした。この後、山の辺の道を一部辿ります。つづく参照資料1) 三輪恵比須神社の由緒 :「三輪恵比須神社」2) 恵比須神社(えびすじんじゃ) :「さくらい 桜井市観光情報サイト」3) 『全現代語訳 日本書紀』 宇治谷孟訳 講談社学術文庫 上:p337-342,下:p1004) 第3回 海石榴市(つばいち) 万葉のうた :「奈良県ようこそ」5) 龍谷大学REC 講座レジュメ「関西史跡見学教室34 ~大和・三輪~」 (2019.10.10 松波宏隆講師作成)補遺名物みむろ 白玉屋栄壽 ホームページ今西酒造株式会社 ホームページ大和の古道 :ウィキペディア近鉄てくてくまっぷ(奈良-9) 山の辺の道コース約16km :「近畿日本鉄道」 金屋の石仏の箇所が行程に記されています。マップはpdfダウンロード可能。山の辺の道(山辺の道) :「始まりの地!それは桜井」山の辺の道(南)コース :「天理観光ガイド・天理市観光協会」歌垣 :「コトバンク」古代日本ではフリーセックスの祭典(歌垣)が行われていた!? その驚きの実態は? :「Peachy」歌垣 :「岩井國臣の世界」海石榴市(つばいち)・仏教伝来地碑 (桜井市 金屋) :「始まりの地!それは桜井」山の辺の道『海石榴市』周辺を歩いてみました@桜井市 :「奈良に住んでみました」『源氏物語』玉鬘ゆかりの地 椿市[海石榴市・海柘榴市](つばいち):「晴れのち平安」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2019.11.12
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九頭神廃寺史跡公園(黄色の丸の所)から北に進み、突き当たりのT字路を左折します。この道路を道沿いに進めば、京阪電車の牧野駅(黄緑色の丸の所)に至ります。 左折して進むと少し先に、道路の北側に朱色の鳥居が立ち、一段高くなった境内地があります。そこに格子戸のお堂が建っています。堂内を覗くと簡単な祭壇に供花が措かれている程度です。何これ!という感じです。 お堂を回り込むと、背後(北側)には池があります。実はこの池がご神体にあたるそうです。この境内地が「瘡神社(くさがみのやしろ)」です。駒札が立てられていました。読みづらくなっていますので、判読して転記します。*「瘡神社(皮ふ病・火災除けの神)* 御祭神 瘡神(くさかみ)・火酢芹命(ほすせりのみこと)* 「菅原道真公の乗馬がこの場所に葬られ藁草が供えられた事から、瘡(草)神と呼ばれる様になった。草は瘡に通じ、ご神徳は皮ふ病治癒。自然の森と池をご神体とする神社信仰。原始の形を今に伝える。 片埜神社社務所」たぶん、かつては鎮守の森として樹木が生い茂り池の水も豊かだったのでしょうね。そんなイメージを持ちました。なぜ、道真がここに出てくるのか? 調べてみて、一つの説明をみつけました。引用します。「菅原道真が大宰府へ向う途中、当地で道真の馬が病気で倒れた。回復の見込みがないため道真一行は馬を地元の人に託して出発した。馬は介抱の甲斐なく亡くなり、路傍に埋葬された。その場所は、地元の人が馬に供えた草でいっぱいになったことから、いつしか「草神様」と呼ばれるようになった。この「草」が「瘡(クサ)」と同音であることから、後に瘡(皮膚病)に霊験のある神とされるようになり、社名も「瘡神社」となった。現在の祭神は火酢芹命であるが、これは後に定められたものである。」(資料1) 枚方市消防署阪出張所に近いところに、もう一つのこじんまりした神社があります。「朝原神社」です。こちらも瘡神社と同様に、片埜神社社務所により設置された駒札が立っています。瘡神社と朝原神社は、最後に探訪する片埜神社の境外社に位置づけられているようです。「朝原神社 御祭神 猿田彦大神 天孫降臨の際、邇邇芸命(ににぎのみこと)を出迎え、先導を申し出たと伝わる猿田彦大神を祀る。交通安全、道ひらき、導きの神様 片埜神社社務所」(駒札文を転記)さらに先に進むと、最後の探訪地が見えてきました。 片埜神社です。『延喜式』神名帳に記載の片野神社に比定されているそうです。社号碑の上部にも記されていますが、中世には「牧一宮」と称し、午頭天王と北野天神を祀っていたことが確認できるそうです。(資料2)この神社の創建は? 調べてみると次のことが伝えられているようです。「第11代垂仁天皇の頃、出雲の豪族の野見宿禰(のみのすくね)が、当麻蹴速(たいまのけはや)との相撲に勝った恩賞としてこの地を拝領し、建速須佐之男命を祀ったのがはじまりといわれています。平安時代中頃、野見宿禰の後裔である菅原道真公をともに祀っていましたが、戦国の争乱で兵火に見舞われ荒廃します。」と。(資料3)現在は、建速須佐之男大神(すさのおのおおかみ)と菅原道真の他9柱を合祀されています。(資料4) 南門 四脚門で府有形文化財。後でご紹介する本殿に引き継いで建立されたと考えられる門です。 側面に大きな板蟇股が使われ、棟を支える簑束が見えます。そこに時代的特徴が見られます。(資料1)簑束とは「斗束の束の肩に簑を着せたような装飾を附したもの。鎌倉末期の出現」(『日本古建築細部語彙 社寺篇』綜芸舎)というものです。 門を入ると、右側に手水舎があり、手水鉢の正面に「一之宮」と刻されています。 左側に社務所があり、北に真っ直ぐ延びた参道の先に入母屋造の屋根の拝殿が見えます。 拝殿の向拝のところが拝所になっています。そこに立つと正面に鮮やかに赤く塗られた本殿が一部拝見できます。拝殿内には今風に椅子が並べてあります。 向拝の頭貫上の蟇股と木鼻。形はシンプルですが、装飾線刻がリズミカルです。拝殿を右に回り込んで行き、本殿を側面から拝見しました。 瑞垣に囲まれた内側の本殿を部分的に眺めることができます。極彩色の本殿です。豊臣秀吉はこの片埜神社を大阪城の艮(うしとら)鬼門鎮守としたと伝えられています。社殿は秀頼期に整備されたと言います。この本殿(重文)は三間社流造で、慶長7年(1602)豊臣秀頼の建立ということが棟札からわかるそうです。(資料2) 瑞垣のところに、この案内板が設置されています。本殿外観の細部を眺めましょう。斜めから見上げて見れる範囲は限定されますが・・・。 本殿本体の木鼻と屋根の庇(向拝)柱の頭貫の木鼻は形状は、シンプルですが同形で同文様に彩色され統一感があります。斗栱は文様が極彩色で描かれています。 内側に「芙容に鶺鴒」、「椿に鴨」を透かし彫りで極彩色にした蟇股はその形状を青色に塗られ、明瞭に外形を表出しています。透かし彫りには「竹に虎」などもあります。桃山様をよく示す装飾です。秀吉好みの華やかさを演出したのでしょうか。 脇障子には、随身の武家が描かれています。大きな神社の楼門に置かれる随身像と同じ意味合いでしょうか。神を護るガードマンですね。 屋根を見上げると、千木は外削ぎの男千木の形です。男神を祀る神社とわかります。 本殿側面の蟇股には桐紋が透かし彫りにされています。 本殿の東北側に赤く塗られた瑞垣と覆屋のある小祠が祀ってあります。傍に立つ駒札によれば、「依姫社」です。祭神は、玉依姫命・大国主命・市寸嶋姫命と記されています。元は境内に三社が祀られていたそうですが、明治初期に依姫社に合祀したと言います。 玉依姫命:神武天皇の母、京都・下鴨神社の神 大国主命:大己貴命(おおなむちのみこと)、出雲の大黒様、国土守護神 市寸嶋姫命(いちきしまひめのみこと):安芸宮島の大神、弁天様、芸能上達の神 東門です。本来は棟門だそうです。南門と同時期の建立と考えられています。(資料2) 傍に駒札があり、「棟門」について詳しく説明されています。ご一読ください。東門も府有形文化財です。それでは、再び境内に戻り、境内を眺めてみます。 四隅に細い柱を立て注連縄で結界を作った区画が目にとまりましたが、何の儀式に使われる場所なのかは不詳です。 絵馬に般若面が描かれているものが目に止まりました。一方、 大きな赤鬼の面が祀られています。片埜神社が大阪城の艮鬼門鎮守の役割を担ったということを上記しています。この鬼の面と鬼門鎮守の役割との間に何か関係があるのでしょうか。少しネット検索してみますと、”「より強い鬼をもって外の鬼を制する」という考え方で、片埜神社には「巨大な鬼の面」が配置されています。”と説明しているサイトに出会いました。毒をもって毒を制するという発想でしょうか。 ”片埜神社の節分祭では「福は内、鬼は内」と豆をまき、「善い鬼」がとどまるように祈願するのだとか。”とも記されています。 (資料5)つまり、ここはパワースポットだという認識です。 拝殿の手前に、鎌倉時代の建立と推定される石灯籠(府有形文化財)があります。傍に駒札が立っていますが、一部剥落しています。判読できた要点をご紹介しましょう。*宝珠の下の請花を失う他は各部が原初のまま現存している。*火袋に金剛界四方仏の梵字(種字)を刻む。*神社に寺院の石灯籠があるのは、もとこの地に神宮寺があったためと考えられる。 近くにあるもう一つの灯籠 南門を入った右側の先の築地塀傍に、納札所が設けてあり、その右斜め前方にブロンズ製の「神牛」像が奉納されています。上記の通り、北野天神つまり菅原道真が祀られていることにつながります。 境内に稲荷社があります。「稲荷大神」と記した篇額を掲げた赤色の鳥居の短いトンネル参道があり、その先の神社は興味深いことに、お堂形式の建物です。保食神(うけもちのかみ)とともに6柱が合祀されています。(資料4)これで大凡片埜神社の境内を拝見したことになります。後は一路、牧野駅へ行程最終のウォーキングです。 穂谷川に架かる明治橋を渡ると、ほんの少しで牧野駅に着きました。これで今回の探訪のご紹介を終わります。ご覧いただき、ありがとうございます。参照資料1) 瘡神社 枚方市 :「Localwiki」2) 龍谷大学REC「関西史跡見学教室33 ~大阪・牧野~」 (2019.9.14 レジュメ作成 松波宏隆講師)3) 片埜神社 :「OSAKAINFO 大阪観光局公式サイト」4) 片埜神社 枚方市 :「Localwiki」5) 片埜神社ルポ【パワースポット-大阪/枚方】鬼門封じで大阪城守る,お守り,御朱印,駐車場も :「pow!」補遺千木と鰹木について :「出雲大社紫野教会」神社の千木と鰹木の意味 :「開運日和」鬼門 :「コトバンク」鬼 :「コトバンク」般若の面 :ウィキペディア「般若」って、鬼の面? :「副住職の一口法話」(曹洞宗奕葉山昌伝庵)鬼門と裏鬼門とは何なのか、またその対策を考えます :「出雲大社紫野教会」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 大阪・枚方市 牧野を歩く -1 御殿山・渚院跡・西雲寺 へ探訪 大阪・枚方市 牧野を歩く -2 欣求寺・栗倉神社 へ探訪 大阪・枚方市 牧野を歩く -3 牧野車塚古墳・小倉東遺跡・九頭神廃寺 へ
2019.11.07
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青丸を付けた栗倉神社から東に進みます。枚方市車塚1丁目に「牧野車塚古墳」(緑色の丸を付けたところ)があり、国指定文化財に指定(大正11年/1922年)されています。 最初にレジュメから引用して「牧野車塚古墳墳丘測量図」をご紹介します。墳丘長107.5m、後円部径58m、前方部幅45mの前方後円墳です。周溝と外堤が墳丘に沿って全周しています。この古墳は東を前方墳として東西方向に築かれています。(資料1)現在では、外堤は西側から南側にかけてのみ残る状態になっているようです。 古墳には南西側からアプローチしました。 南側から後円墳に上る石段があります。この景色の右側の高まりが外堤だったと思います。 後円部頂上への石段 後円墳の頂上には方形の石が敷き詰められていますが、これは公園化のための整備にすぎないようです。 東方向の前方墳に向かって石段と通路が設けてあります。石段を下り、前方部に向かいます。石段を下り、緩やかな坂道を上ります。 後円墳方向を振り返った景色 前方墳の頂上部分です。上掲の墳丘図と照らしてみてイメージしてみてください。「前方部テラスでは板石組みの葺石が検出され、特異な様相を見せる。石材も阿波・摂津からの搬入と思われる」(資料1)とのことで、4世紀後半以前の鰭付円筒埴輪が出土しているそうです。主体部は未調査だと言います。 前方墳から石段を下り東側に抜けます。振り返った景色です。 外提部分が墳丘に沿ってめぐっています。この牧野車塚古墳の周辺には、4世紀代の箱式石棺墓、5世紀代の方墳群・木棺墓、6世紀後半以降の低墳丘墓が検出されているそうです。付近には、子供塚・赤塚・権現塚・ショーガ塚などの地名が確認できるとか。 東に抜けると、こちら側が正面として整備されていて、この古墳の案内板が設置されています。 通路を挟んで、東側には「やすらぎの杜」があります。その東隣りにある「輝きプラザきらら」で小休止しました。 この建物の前から北~北東方向を眺めた景色です。 この「牧野車塚古墳周辺部の主要遺構配置図」と重ねていただくと、この景色の近傍一帯に、「小倉東遺跡」が発掘されていることがイメージできるかもしれません。(資料1) この南北の道路の南の交差点の北東角には、枚方市立中央図書館があります。 輝きプラザきららの北側は「車塚公園」で、この辺りも小倉東遺跡の発掘調査区域です。この後、中央図書館の南側の通りを進み、関西外国語大学総合体育館の手前で北上します。 穂谷川に架かる橋を渡ると、道路を境に西側が牧野本町1丁目、東側が同2丁目です。牧野本町1丁目に、次の探訪地があります。 「九頭神廃寺史跡東公園」の入口です。この公園が「九頭神廃寺」跡の一部です。(上掲地図に黄色の丸をつけたところ)「大阪府などの関係機関の御協力を得、倉垣院を中心とする範囲と外郭施設の一部の永久的な保存を図り、『市指定史跡 九頭神廃寺』として整備」(資料2,3)されました。 その近くに設置されているのが、この説明碑です。 穂谷川を南に望む台地の緩斜面に立地し、この九頭神廃寺からは、飛鳥時代後半の銅造誕生仏や瓦が収集されているそうです。(資料1)この銅造誕生釈迦仏立像は、明治20年代に字「ドンドン山」付近で発見されたといいます。(資料2)史跡公園になったこの区画には、倉垣院跡、北西院と穴門、瓦組暗渠が検出されています。(資料1,2) 図1の塔跡「1辺10.5m~11mの瓦積基壇が検出され、塔跡と推定される。10世紀に消失。」(資料1)また、「金堂は塔跡の西側にあったと考えられるが、未検出」(資料1)だそうです。 公園に入ると、発掘調査でわかった建物群の配置がわかるようにしてあり、各所に説明碑が設置されています。これは南東側から撮った景色です。 公園の西側にある説明碑 北側から眺めた公園(廃寺跡)この公園から道路を挟んだ北西側に行きます。 「九頭神廃寺史跡公園」です。こちらには、築地のモニュメントと宝幢遺構があります。 「築地」の一部が復元されています。 「寺域の北西隅の大垣が検出され、140m四方であったと考えられる。この北西部域は倉と想定される方位を揃えた掘立柱建物群や大型の建物があり、『倉垣院』や『政所院』といった附属院地であったと思われる」(資料1) 築地塀のさらに西側、公園の北西隅にこの「宝幢遺構」があります。宝幢の支柱が復元されています。 この九頭廃寺の周辺に平安京の瓦を生産した瓦窯があり、この寺の修理にも転用されているといい、「西淨」と記す瓦も出土しているそうです。(資料1)また、「寺域の西方には豪族居館と推定される大型掘立柱建物群が確認された」(資料1)といいます。この公園を出るとそのまま道沿いに北に進み、T字路を左折します。左折後の道路は京阪電車牧野駅前に至る道路でした。今回の探訪地はあと2箇所です。つづく参照資料1) 龍谷大学REC「関西史跡見学教室33 ~大阪・牧野~」 (2019.9.14 レジュメ作成 松波宏隆講師)2) 九頭神廃寺史跡東公園 枚方市 :「Localwiki」3) 九頭神廃寺史跡公園 枚方市 :「Localwiki」探訪 大阪・枚方市 牧野を歩く -1 御殿山・渚院跡・西雲寺 へ探訪 大阪・枚方市 牧野を歩く -2 欣求寺・栗倉神社 へ
2019.11.06
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(資料1)この地図の黒色の実線が史跡探訪の経路です。赤丸が前回ご紹介した西雲寺のあるところ。そのすぐ西側に渚院跡があります。西雲寺から目指したのはマゼンダ色を付けたところにある「欣求寺」です。 欣求寺は少し小高いところに位置します。寬文2年(1662)に浄土宗寺院として建立され、貞享2年(1685)に日蓮宗寺院となったそうです。(資料1) 石段を上っていくと、境内地はさほど広くはないようですが、市内が見下ろせました。「御殿山」と記された篇額を掲げた本堂があります。お堂は建て替えられた感じです。今回はこのお堂の左側斜め前方の境内地を探訪するのが主目的でした。 本堂に向かい左側にこの石造物があります。石段を上がって行くと最初にこれと本堂の側面が見えます。 立ち位置を変えて撮ってみました。 一見違和感を感じないのですが、よく見るとこれは宝篋印塔の基礎石と塔身に石灯籠の笠が載せてある組み合わせです。 塔身には四方仏が浮彫りになっています。上掲の二側面を個別に撮ってみました。 回り込んで、別の角度から眺めたものです。 こちらも立ち位置を変えて撮ったものです。層塔の塔身石に石灯籠の笠を載せた組み合わせです。背景の建物と対比してご覧いただくと、境内地が小高いところにあるのがお解りいただけるでしょう。 こちらは室町時代に建立された十三重石塔の残欠です。(資料1) この相輪部分は十三重塔の笠の残欠にこれを組み合わせたものと思われます。 上掲の背後に移っている小祠を正面から見ますと、「白玉龍王 法倉龍王」と記された篇額が掲げてあります。龍神が祀られています。過去の探訪で、白玉龍王を祀る社は見かけたことがありますが、法倉龍王というのは記憶にありません。 この小祠より手前で、この石灯籠が目に止まりました。 石灯籠の基礎部分が大きな蛙の丸彫りになっているのです。こんな石灯籠は初めてみました。四角い竿の底面が蛙の背の部分とうまく連接していますので、最初からこういう形なのかな・・・・・という気がします。ユニークな石灯籠です。 もう一つ、境内への入口に近いところで見かけたのがこの石碑です。「書写法華経全部聚石塔」と刻されています。「聚」という語は「まとまり集める。まとまるように集める」(『新明解国語辞典』三省堂)という意味です。法華経を全巻写経して集めて奉納あるいは埋めた記念の石塔ということでしょうか。平安時代には写経した経典を経筒に納めて地中に埋めたという事例や奉納事例がいくつもありますので、それと同趣旨なのかもしれません。例えば、藤原道長が金峯山の頂上に埋めたという藤原道長金銅経筒(資料2)、厳島神社に奉納された平家納経が有名です。 欣求寺と同じ小倉町にある「栗倉神社」に向かいました。上掲の地図に青色の丸を付けたところです。 参道の石灯籠の竿には「八幡宮」と刻されています。 竿には宝暦十庚辰年正月吉日と刻されています。 狛犬は茶色く彩色されている印象を持ちました。 元和2年(1662)に八幡神を勧請して造営された神社だそうです。(資料1)格子戸から中を覗くと、正面が施錠された板格子戸の本殿が見えました。渚院跡には、栗倉神社の御旅所があったことを考えますと、旧栗倉郷の古くからの氏神の御旅所としてあったと理解できます。そして、元和2年の八幡神の勧請が双方に行われ、渚院跡には西栗倉神社が独立してでき、こちらの栗倉神社も八幡神が祀られたということでしょう。すると、現在の御殿山神社の本宮はこの栗倉神社ということになりそうです。(資料4)『日本後記』の弘仁7年(816)の条に「水生野での嵯峨天皇遊猟に際し、左為・百済・栗倉の僧尼寺に各の綿一百屯を施捨したとする」(資料1)とか。栗倉寺がこの周辺にあったと考えられています。また、『類聚国史』(892年)にも百済寺・佐為寺と共に粟倉寺が記されているそうです。(資料4) 屋根の飾り瓦が目に止まりました。 神社の傍に草茫々の空地が続いています。公園だそうです。この辺りで平安時代の瓦窯2基の跡が検出され、埋設保存されていると言います。(資料1,4)栗倉神社から東の方向に進み、牧野車塚古墳に向かいます。つづく参照資料1) 龍谷大学REC「関西史跡見学教室33 ~大阪・牧野~」 (2019.9.14 レジュメ作成 松波宏隆講師)2) 金色に輝く藤原道長の経筒 :「京都国立博物館」3) 広島県の文化財 - 平家納経 :「ホットライン教育ひろしま」4) 栗倉神社 枚方市 :「Local Wiki」補遺納経 :「コトバンク」八幡神 :ウィキペディア八幡総本社 宇佐神宮 ホームページ日本後記 :ウィキペディア日本後記 歴史と物語 :「国立公文書館」類聚国史 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 大阪・枚方市 牧野を歩く -1 御殿山・渚院跡・西雲寺 へ
2019.11.03
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9月に「関西史跡見学教室33~大阪・牧野~」という講座に参加し、牧野の史跡を探訪する機会を得ました。その復習と記録の整理を兼ねて、ご紹介します。当日は京阪電車「御殿山駅」の駅前に集合し、史跡を探訪しながら牧野駅までの探訪しました。集合時刻に少し時間があったので、御殿山駅のすぐ近辺を少し歩いてみました。 駅の傍に設置されていた御殿山駅周辺の地図です。冒頭の右の写真は、駅を出て、駅の東側の広場(/ロータリー)から少し北に歩いたところでの北方向の眺めです。京阪電車の線路に沿って、黒田川が流れています。駅前の広場のところは川が暗渠になっているようです。 広場の手前の歩道傍に「ウォーターモニュメント『NAGISA』」というタイトルの説明碑が設置されています。「ここ御殿山のあたりは、古くから淀川という大河川とつながりをもち、『渚』と名付けられました。人々がともにふれあい潤う水辺=『渚』をイメージしたデザインとし御殿山駅前のシンボルとします。 よりそう双柱の形状は、枚方市が目指す『人と人との”心のふれあい”のあるまち』を、柱の中の波形は、淀川の川の流れを象徴しています。 表面をつたい落ちる水は、さまざまな表情をみせながらきらめく川面のせせらぎを表し、アクアブルーの色は、澄んだ水面が青空を映し続け『”うるおい”のあるまち』を表現しています。 平成6年3月」(銘文転記)写真を撮ったときは、水は止まっていました。さて、まずは「牧野」についてです。淀川をのぞむ台地で、交野郡の西部、葛葉郷の南部地域で、中世には牧郷(真木郷)として独立的な状況になっていたそうです。平安時代初期には王家の遊猟地(禁野)となったところだそうです。(資料1)『続日本紀』桓武天皇の延暦4年11月10日の条に「天の神を交野の柏原(大阪府枚方市片鉾本町)に祀った。前々から行ってきた祈願に対するお礼としてである」と記されています。延暦6年10月17日の条には、「天皇は交野に行幸し、鷹を放って遊猟され」と記録があるとともに、同年11月5日の条に「天の神を交野に祀った」と記し、それに続けて祭文の内容が記されています。交野に郊祀檀を設けて、昊天上帝を祀ったのです。そして、高紹(たかつぐ)天皇(光仁天皇)を昊天上帝に合祀して祀りますとということを祭文に記しています。(資料1,2)上記に出てくる光仁天皇が、宝亀2年(771)2月13日に「天皇は交野(現大阪府枚方市・交野市)に行幸した」(資料2)という記述が同書に出てきます。この時に交野ケ原に頓宮が置かれたのが、渚院につながる始まりのようです。このとき、光仁天皇は翌24日、「さらに進んで難波宮に到着した」という記述がありますので、難波に至る交通の要衝でもあったということでしょう。調べてみますと、今回の史跡探訪の範囲外ですが、この郊祀檀を起源とすると由緒書に記す神社があります。「交野天神社」(所在地:枚方市楠葉丘2丁目)です。(資料3)「牧野は交通の要衝であり、南北朝の争乱の舞台となり、応仁の乱では畠山義就の拠点の一つともなった」(資料1)と言います。次に「御殿山」です。平安時代前期に惟喬親王(文徳天皇の第一皇子)の御殿があったという伝承があります。これが最初に訪れることになる「渚院跡」に関係します。上掲地図にその大凡の所在地を赤丸で追記しています。また、江戸時代前期にこのあたりの領主だった淀藩永井家の陣屋が設けらたことに因む地名とも考えられるそうです。(資料1) では、「渚院跡」へ向かいましょう。駅の東にあるロータリーの歩道側にこの道標があります。 渚院跡に向かう途中で南方向を振り返ると、小高くなった丘陵地(御殿山)が見えます。御殿山神社があるところです。景色の右端中央に、御殿山神社と白地に墨書した幟が見えます。 渚院跡は枚方市渚元町にあり、渚保育所の東隣りです。保育所が地図での目印になります。渚院跡は道路から少し奥まった所にあり、入り口にはフェンスが設置されています。 入口である門扉の左側フェンスの右側にこの案内板が見えます。 入口を入ると、ほぼ正面に右の石碑が立ち、その左側に鐘楼があります。 鐘楼の左奥には、石碑などが一列に並んでいます。現在、渚院跡として残るのは長方形のこじんまりとした区画だけです。渚院は、上記の惟喬親王(844-897)が交野遊猟の際に設けた別荘だそうで、淀川の対岸となる山崎水無瀬にも同様に別荘を設けていたと言います。(資料1)『伊勢物語』の第82段「春の心は」の冒頭にそのことが記されています。(資料3)「昔、惟喬の親王と申す親王おはしましけり。山崎のあなたに水無瀬といふところに宮ありけり。年ごとの桜の花ざかりには、その宮へなむおはしましける」と水無瀬の別荘のことが出て来ます。その後に、右の馬の頭なる人が登場します。右馬頭とは在原業平をさします。そして、「いま狩する交野の渚の家、その院の桜ことにおもしろし。その木のもとにおりゐて、枝を折りてかざしにさして、上中下みなよみけり。馬の頭なりける人のよめる。 世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし 」ここに、交野が遊猟地だったことと渚院があったこと、惟喬親王と在原業平などがここで狩猟をし歌を詠み、交遊の場となったことがわかります。この文のすぐ後に、「又人の歌、 散ればこそいとど桜はめでたけれうき世になにかひさしかるべきとてその木のもとはたちてかへるに、日ぐれになりぬ」とつづきます。こちらの歌は、入手した資料によると、「人」とは紀有常だそうです。(資料5)『古今和歌集』『伊勢物語』によって、この「渚院」は都の貴族のあこがれの地となったと言います。(資料5)「元久2年(1205)に、後鳥羽上皇が渚院を宿舎として狩猟を行っている」(資料1)そうです。惟喬親王は文德天皇の第一皇子でしたが、立太子争いに破れます。水無瀬や交野の別荘での遊猟、作歌、饗宴はその憂さ晴らしでもあったと言います。惟喬親王の母は紀名虎の娘で、紀有常の妹でした。一方、藤原良房の娘皇后明子が第四皇子として惟仁親王を生んだことにより、熾烈な立太子争いになり、結局惟仁親王が生後わずか8ヵ月で皇太子に選ばれます。後の清和天皇です。惟喬親王は貞観14年(872)に29歳の若さで出家し、洛北の小野に隠棲し、寛平9年(897)54歳で薨去したそうです。(資料5)鎌倉時代には、この地に水路関が設けられ、讃岐善通寺修理料「禁野渚院艘別銭貨」が徴収された時期があると言います。(資料1)ここからも、交通の要衝だったことがうかがえます。 上掲の石碑等の並ぶ景色の中央にあるのがこれですが、左の下半分に欠損のある石碑を復元したものが、入口の正面に立つ石碑で、「渚院碑銘翻刻碑文(推定)」として碑銘が刻されています。未だ碑文が読めた時代に拓本が作られていて、この碑は寬文元年(1661)11月に建てられたことが判明しています。この地の領主永井伊賀守尚庸が遺跡を荒廃した渚院跡に桜を植えるなど復興に尽くし、江戸初期の儒学者林羅山の三男林鷲峰(1618-1680)に撰文を託して建立した碑だとか。(資料1,5)右の宝篋印塔の基礎の正面には「阿闍梨興善」と刻されています。 一番左端にあるこの大きな石碑は渚院とは関係がありません。上部に、「牧野村紀徳碑」と刻されていて、牧野村誕生に功績があった小山・岡田両氏を讃えた碑だそうです。(資料7,8) 明治28年(1895)の建立だそうです。 右端にあるこの碑は、上記在原業平が詠んだ「世の中に桜の花のなかりせば・・・・」の歌を渚院歌碑(平野南城氏筆)として建立されたものです。(資料5) 最後にこの梵鐘に関わる「観音寺」についてです。渚院は荒廃の後、江戸時代に真言宗の観音寺として復活し、十一面観音を本尊としたそうです。明暦年間(1655-1657)に観音寺は河内国西国三十三ケ所十六番札所として参詣されていたそうですが、荒れ果てた寺になっていたようです。御詠歌が次のとおりです。(資料6) きてみれば渚の院は名のみにてむかしをしのぶ梅さくらかなこの梵鐘の池ノ間には次の文が陽刻されています。 「波瀲邑渚院 観音寺 寛政八丙辰年四月」と刻されています。寛政8年は1796年です。河内鋳物師である枚方の田中家により鋳造されました。別の池ノ間に「冶工枚方住 田中河内大目藤原家信」と刻されています。そして、この梵鐘鋳造の願主が「渚院先住 法印権大僧都興善」です。つまり、上掲の宝篋印塔との繋がりがここで明かとなります。鐘楼も同時期に建立されています。(資料1,5)尚、願主は寺主興善となっていますが、興善が梵鐘鋳造のために有縁の檀施を募りましたが、志を果たせず他界したそうです。「しかし衆檀が興善の三十三回忌に先業の未遂を復するために鐘を作るに至りました」という経緯があるとのこと。(資料6) 梵鐘の龍頭 梵鐘の下帯の文様 草花と躍動する獅子 (資料5)こちらは『河内名所図会』に載る渚院です。本堂の傍に小さな観音堂が描かれています。この『河内名所図会』は享和元年(1802)に刊行されたそうですが、6年前に建てられた鐘楼が描かれていないのです。「たぶん版木の制作後に建立されたためでしょう」(資料6)と解釈されています。排仏毀釈運動の影響を受け、渚院観音寺は明治3年に廃寺となります。明治22年に本尊十一面観音は「西雲寺」に安置され、翌年本堂は禁野本町の和田寺に移築されたそうです。観音寺の鐘楼と梵鐘が残されたのです。この梵鐘は田中家が鋳造したもので枚方市に残る唯一の作品だと言います。鐘楼とともに平成8年(1996)に枚方市指定文化財となっています。(資料5,6)渚院跡が観音寺境内となったとき、境内には栗倉神社御旅所があったようです。元和2年(1616)、この御旅所に八幡大神を勧請し、小倉・渚両村の産土神として西栗倉神社が設立されたと言います。明治の神仏分離令により、この西栗倉神社は御殿山に遷宮されて、御殿山神社と改称されたそうです。(資料7,8)次に、西雲寺を訪れました。十一面観音を見仏にという次第。西雲寺は渚院跡と同じ渚元町で、少し東方向にあります。 こじんまりした山門を入ると、 正面に本堂があり正面に「西雲寺」と記された扁額が掲げてあります。寛永7年(1630)超誉存悦上人の開創。浄土宗のお寺です。それ以前に、真言宗寺院の小山寺があったとも伝わるとか。(資料1) 向拝の頭貫上の蟇股と木鼻はシンプルな造形です。 本堂の屋根は近年葺き替えられた印象を持ちました。鬼瓦と獅子の飾り瓦。 今回の目的は、こちらの境内に建てられた観音堂(四坪)に安置された十一面観音菩薩立像です。明治22年(1889)に観音寺の本尊十一面観音菩薩立像が移される際に観音堂が建てられたそうです。その後、お堂は明治44年(1911)5月に改築されて、現在に至るそうです。(資料6)河内西国19番札所です。 堂内を拝見すると、右側の長テーブルに十一面観音菩薩立像が一体寝かせてありました。 実は修復に出してあった像が戻ってきて間がない状態だということで、ご住職がこの仏像を支えてくださり、すぐ近くで見仏できました。 このような形で拝見することは希な機会だと思います。 こちらは十一面観音の光背です。延宝4年(1676)に、本尊十一面観世音菩薩を安置する厨子を横山平左衛門正勝が奉納しているとのことなのですが、その厨子も修復中だということで、残念ながら今回は拝見できませんでした。 堂内には、もう一体の十一面観世音菩薩立像が安置されていて、向かって右側に弘法大師座像もあります。こちらの観音像の方が上掲の観音像より少し古い時代の作品のようです。弘法大師座像が安置されていることから、もとは真言宗のお寺だったという伝承が頷けます。 不動明王立像 こんな小さな仏像も安置されています。 境内の一遇に、小祠があります。地蔵堂かなと思い近づいて眺めると、 板碑型の石仏や小さな木造の地蔵菩薩像が多数安置されています。この石仏も錫杖は彫られていませんが、たぶんお地蔵さまだと思います。お地蔵さまだとすると、この形式はあまり見かけないものです。西雲寺を出て、北東寄りに進み、欣求寺に向かいます。つづく参照資料1) 龍谷大学REC「関西史跡見学教室33 ~大阪・牧野~」 (2019.9.14 レジュメ作成 松波宏隆講師)2) 『続日本紀(下)全現代語訳』 宇治谷孟訳 講談社学術文庫 p62,p366,p389-3913) 枚方の神社-1 :「戸原のトップページ」4) 『伊勢物語 (下)全訳注』 阿部俊子訳注 講談社学術文庫 p51-615) 『渚院』 枚方市教育委員会発行 2005年12月6) 「渚院観音寺の由来(改訂)」(文責 森崎甚蔵) 西雲寺にていただいた資料 7) 渚院跡の歴史 枚方市 :「Local Wiki」8) 渚院跡 枚方市 :「Local Wiki」補遺惟喬親王 :ウィキペディア惟喬親王 :「コトバンク」御殿山駅 :ウィキペディア御殿山神社 :「ふるさと枚方発見」御殿山神社 枚方市 :「Local Wiki」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2019.11.02
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六地蔵堂の北隣りに「観音堂」があります。宝形造りのお堂で、正面に向拝が付いています。 正面の格子戸越しに堂内を拝見すると、正面に厨子があり残念ながら閉まっていました。 観音堂の屋根の鬼瓦。四方の隅棟が頂上で屋根の中心に集まり、頂点に雨仕舞として露盤と宝珠がのっています。 六地蔵堂と観音堂の間にある石仏像 両手で宝珠を持つ姿ですが、六地蔵堂の地蔵菩薩像と同じ形式の被り物をした姿ですので、この像も地蔵菩薩像だと理解しました。 二つのお堂の背後に進むと、六地蔵堂の背後(東側)寄りに、南側に無縁仏となった墓石を集合させた一画があり、境内墓地に向かう階段をはさみ、北側に数多くの石仏が集められた一画があります。 石仏群のなかで、一際大きい石仏は阿弥陀仏像です。 左の像と下部の蓮華座及び台座が一体のものか、寄せ集められた結果なのかは不詳ですが、石仏はお地蔵さまのようです。右側は錫杖が彫られていますので、お地蔵さまです。 頭部を見ると螺髪様ですので、阿弥陀石仏をお地蔵さまに転用しさのでしょうか。 背後には小型の一石五輪塔が集まっていて、手前には五輪塔を線刻した碑があります。右には錫杖を持つお地蔵様の舟形光背の右には人名らしきものが彫られいますので、これは墓石でしょうか、中央の石仏は何仏なのか判然としません。頭部の形からお地蔵さまではないようです。 東南側からの景色です。石段側には無縁仏となった墓石も集められています。 南側の無縁仏となった墓石群の中央後ろには「三界萬霊塔」と刻された碑が置かれ、その前にがっしりとした五頭身像という感じの地蔵菩薩立像が安置されています。「三界」は、仏教的な世界観で、「欲界」「色界」「無色界」に分かれ、欲界は六天に、色界は四種二十二天その他に細分されると言います。「人間初めすべての生き物が過去・現在・未来にわたって次つぎに生まれ変わる境遇」、「広義では世界じゅうや、生きている限りのこの世をさす」と説明されています。(『新明解国語辞典』三省堂) 他にもお地蔵さまがいらっしゃり、お地蔵さまを彫った墓石も見受けました。 螺髪の頭部が見える石仏も。 境内墓地は傾斜地にあり、上って行くと一番小高いところに、この供養塔が建立されています。2013年5月に訪れた時に一度拝見しています。手前の石標には「永代供養墓 六地蔵尊 大善寺供養塔」と刻されています。蓮華座の上に五輪塔様の石塔が象られています。この供養塔の背後の樹木の先をJR奈良線が通っています。 塔身の正面には「倶會一處(=倶会一処)」と刻されています。調べてみますと、浄土宗の拠り所とする『阿弥陀経』に説かれている言葉です。念仏による浄土往生を説く箇所に出て来ます。「舎利弗よ、衆生にして(極楽国土および阿弥陀仏と聖衆のことを)聞く者あらば、まさに願を発してかの国に生まれんと願うべし。所以はいかに。かくのごときのもろもろの上善人とともに、一処に会うことをうればなり。舎利弗よ、少なる善根・福徳の因縁をもって、かの国に生まるることをうべからず」「得與如是諸上善人倶會一處」という部分です。(資料1)「『たとえこの世で大切な方との別れを迎えようとも、南無阿弥陀仏とお念仏をおとなえする者どうしは、阿弥陀さまのお迎えをいただき、必ず倶(ともに)に一つの処(ところ)、すなわち西方極楽浄土でまたお会いすることができるのです』という教えです。」(資料2) 塔身は六角形で、他の五面には「南無○○如来」と彫られています。南無は「南無三宝」「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」の冒頭の南無と同じです。つまり、サンスクリット語のナマス(namas)の音写で「[帰命・帰敬・帰礼・信従などと訳] 仏・三宝に帰順して信を捧げるをいう」(資料3)という意味です。ここに刻されている如来名は「寶勝如来・甘露王如来・廣博身如来・離怖畏如来・妙色身如来」という五如来です。言葉から大凡イメージが湧くと思います。補遺をご参照ください。 この供養塔の背後に、六地蔵尊が並んでおられます。前回ご紹介した、「この地獄だけでなく、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上など六道の迷いの世界を巡りながら縁のある人々を救っている。」という意味での六地蔵尊をさすのでしょう。地蔵菩薩の六分身ということになるのかもしれません。尚、六角形の台座には地蔵尊名については何も記されてはいません。 右から二体ずつ見仏していきましょう。 六道のそれぞれに赴く地蔵菩薩はその持物が異なっています。それぞれの地蔵菩薩には名前が付けられていますが、幾つか説があり、持物との組み合わせも相違がみられるようです。煩雑になるので触れません。補遺をご参照ください。ここの六地蔵尊はお顔は同じで持物が違うだけですので、まさに分身というイメージですね。持物と印相を右から眺めていきますと、宝珠・錫杖、宝珠・施無畏印、経、蓮華合掌印、数珠、香炉のようです。(私の解釈ですので、間違っているかも知れません) 墓域の端に、歴代住職の墓でしょう、無縫塔(卵塔)が並んでいる一画があります。境内墓地から六地蔵堂前に戻ります。お堂の南方向に正門があり、この門から入ると、右側(東)に、 手水所があります。覆屋の代わりに手水所の上部を樹木の枝が広がっています。藤棚でしょうか。未確認です。この手水鉢のある場所の東側に「鐘楼」があります。鐘楼から北方向に本堂が位置します。 鐘楼の一遇にこの銘板が取り付けてあります。この鐘楼は、後水尾天皇の中宮であり、徳川2代将軍秀忠の娘東福門院が、後に明正天皇となる皇子の安産祈願の成就御礼として寄進されたものと言います。寬文5年(1665)伏見奉行水野石見守に命じて建立させたものです。(銘板、資料4)銘板には普請奉行としてその名前が記されています。大工頭は江州栗田郡高野荘辻の国松平兵衛と記されています。栗田郡はたぶん栗太郡(/栗本郡)のことでしょう。栗本之郡には高野之郷(高野郷)があったことの文書記録があるようです。(資料5) 梵鐘は鋳工藤原朝臣宗次の作。直径3尺(0.9m)高さ4尺3寸(約1.3m)、重量250貫(約1t)と記されています。撞座のある中帯と装飾文のある下帯との間の草ノ間が細い帯程度に狭くなり、中帯の上の池ノ間には、漢文体で文が刻まれています。たぶん鐘楼建立の趣旨でも記されているのでしょう。 注目すべきは鐘楼の天井が格子天井でその升目に菊と三葉葵の紋章が交互に配され装飾文様が極彩色で描かれていた様子が窺えるところです。建立当初は華やかな天井が眺められたことでしょう。 鐘楼の屋根は入母屋造りで、獅子口の中央と足元(鰭)には菊の花の姿が装飾に使われています。 降り棟の先端の鬼板にも菊の花のレリーフが見えます。 木鼻はシンプルですが、頭貫と横木の2本に蟇股があり、上下の蟇股の意匠が異なるのもおもしろいところです。それでは、正門から出ることにしましょう。 道標に記された伏見道に面する表門を境内から眺めた景色です。内側から眺めると、城郭門である「高麗門」の形式であることが分かります。 門を出て、振り返って眺めた景色です。「鎮護道場」と刻された碑が立っています。前回、「1561年(永禄4年)3月4日、頓誉琳晃上人が正親町天皇の勅を奉じてこの寺を浄土宗として再興され」と記したことと、六地蔵堂傍の石標に刻された「勅願所」とともに頷ける気がします。また、左側には武者窓の設けられた建物が門の手前にあります。 門の屋根を見上げると、菊の飾り瓦が置かれ、軒丸瓦の正面には大善寺の「善」という文字が陽刻されています。 伏見道から門までのアプローチはかなりあります。なかなか良い雰囲気です。伏見道に面して右側には地蔵尊の小祠が祀ってあります。 観音開きの格子戸越しに眺めると、石仏のお地蔵さまの顔は化粧がしてありました。地蔵盆の折りに綺麗にお顔が化粧されたのでしょう。京都市内に住んでいた子供の頃の地蔵盆のことをふと思い出しました。 道路に面して、左側には「根本 六地蔵尊 大善寺」と刻された碑があり、碑の色から時の経過、風雪を感じます。この表記に、六地蔵巡りの原点という意味合いを受け止めました。京都で始まった六地蔵巡りは、祇園祭の形が各地に伝播したことと同様に、各地に伝播し、各地域内に存在する六地蔵巡りという信仰が広まったようです。たとえば、江戸六地蔵、阿波六地蔵霊場、伊予六地蔵霊場などがたぶんその一例でしょう。(資料6,7,8)また、近くで言えば滋賀県大津市にも、「坂本の六地蔵めぐり」というのがあります。こちらの一部は、かつて歴史探訪の企画に参加したときに行程途中で訪れたことがあります。(資料9)これでご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 『浄土三部経 下(観無量寿経・阿弥陀経』 中村元・早島鏡正・紀野一義 訳注 岩波文庫 p932) 倶会一処 今日の言葉 :「浄土宗」3) 『新・佛教辞典 増補』 中村元監修 誠信書房4) 『新版 京・伏見 歴史の旅』 山本眞嗣著 山川出版社 p90-925) 近江国 :「ムラの戸籍簿データベース」6) 江戸六地蔵 :ウィキペディア7) 阿波六地蔵霊場 :ウィキペディア8) 伊予六地蔵霊場 :ウィキペディア9) 滋賀県・大津市坂本の六地蔵巡り :「お祓い堂」補遺五如来 :「web版 新纂浄土宗大辞典」五如来 :「極楽浄土~浄土宗~仏教用語集」六地蔵 :「web版 新纂浄土宗大辞典」六地蔵 :「コトバンク」後水尾天皇 :ウィキペディア後水尾天皇 :「コトバンク」東福門院 :ウィキペディア東福門院 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・伏見 大善寺-六地蔵めぐりの原点 -1 道標、本堂、六地蔵堂 へ
2019.10.25
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京阪電車宇治線、JR奈良線の両方に「六地蔵」という駅があります。京阪電車の駅から北西方向に約600mほどのところに「六地蔵」交差点があります。そこは伏見区桃山町東町です。交差点の北西側に「大善寺」が位置します。南北の通りの東側歩道から撮ったのが冒頭の景色です。近世は宇治郡六地蔵村と称し都市近郊の集落でした。昭和6年(1931)に京都市に編入され伏見区桃山の一部になっています。大善寺は桃山町西町に位置します。冒頭の門は、大善寺の境内としては東門にあたるようです。 門の傍に「六地蔵尊」と大書した角柱形の大きな看板が立っていて、その南側にお寺の案内掲示が2つ設置されています。後で触れたいと思います。案内掲示の少し南側にいしぶみが建てられています。 この道標の東面には「みき京みち 法名未徹」と刻されています。つまり、冒頭の景色に見える東門前の道路が京道に相当することになります。道標の南面には「ひたりふしみみち」と刻されています。六地蔵交差点で西方向の道路が伏見道です。大善寺の正門はこの伏見道に面しています。これも後ほどご紹介します。右側の写真は、この道標の北面です。「ひたり わうはく/うち 道」と刻されています。つまり、六地蔵交差点を伏見道とは逆に左(東)方向に進めば、黄檗/宇治に至るという表示です。(資料1)古来、六地蔵は、京都より宇治を経て大和に至る街道の要所として早くから開発されたところでした。付近には大和街道に設けられた「木幡ノ関」<=伏見山(桃山)の東南端にあたる>というのがあったそうです。(資料2,3) 上掲写真に見える案内板の一つの説明文の冒頭に、六地蔵が交通の分岐点だったことが記されています。 東門の正面から境内を眺めますと、北側に本堂・庫裡があり、南側手前に鐘楼、そして正面の西側にお堂が二つ並んでいます。左(南側)が六地蔵堂、右(北側)が観音堂です。序でに、 こちらは2013年5月に大善寺を訪れた時に撮った東門です。右は境内から眺めた以前の門です。今は、門が現代風に様変わりしています。 境内に入り、北側に目を転じると、東側に庫裡があり、公の玄関となる建物を挟んで西側に本堂が並んでいます。 庫裡(寺務所) 公の玄関口 入母屋造の屋根の棟の鬼板には菊花文がレリーフされています。 参道を西に進むと、本堂が見えます。松の傍に石碑があります。「臥龍松」と刻されています。こう称される老木の松がここにあったのですが、今は二代目の松に転生しているといいます。(資料4) 自然石を穿って手水鉢にした様な石や五輪塔の残闕の塔身(水輪)を積み上げた石塔などを配してあるのがおもしろい。 本堂は南面しています。近年に一部修復工事が行われたようです。 2013年5月に訪れたときに撮った本堂です。 本堂前に、この香炉が新しく設置されていました。 私が惹かれたのはこの香炉の口縁上部に設けられた六体の小さなお地蔵菩さまです。 六体すべては同じスタイルなのですが、お顔を含めてその彫りが少しずつ違っているのです。手彫りの仕上げなのでしょうね。 本堂は間口が六間で入母屋造の屋根の側面を正面にした形式です。そこに唐破風屋根の向拝が付いています。正面に「浄妙殿」と記された扁額が掲げてあります。この本堂は、宝永年間(1704~1710)に山科の勧修寺の宮殿を下賜されて移築したものと言います。(資料3,4) 趣の異なる蟇股が二段に組み込まれています。上の蟇股はかなり欠損が見受けられます。向拝の頭貫の装飾はシンプルで、木鼻の造形も簡素化されています。 浄土宗のお寺で、正式には法雲山浄妙院大善寺と言います。通称として「六地蔵」と呼ばれています。寺伝によると、705年(慶雲2年)藤原鎌足の子、定慧によって法雲寺として創建されたと言います。そうだとすると、飛鳥時代文武天皇の時代ですから、仏教が広がる初期段階ということになります。852年(仁寿2)に、三井寺の智証大師が勅を奉じて伽藍を整備し、天台宗に改めたそうです。応仁・文明の乱後に寺は衰退しましたが、1561年(永禄4年)3月4日、頓誉琳晃上人が正親町天皇の勅を奉じてこの寺を浄土宗として再興され、大善寺と改められたと伝えられるそうです。(資料3,4) 本堂前に、神前灯籠形式の石灯籠が置かれているのが興味深いところです。右の石標が何を意味しているのか不詳です。穿たれた円形の穴の周囲には花弁様の薄肉のレリーフがほどこされています。まずは、探訪の主目的である地蔵堂を拝見に向かいました。 お堂は六角堂です。お堂の前に跪き、熱心に祈っているおばあさんがいらっしゃいました。 「六地蔵堂」と記された扁額が正面に掲げてあります。 お堂の傍には、「根本 六地蔵尊」「元勅願所 大善寺」と刻された石標が献燈されています。正面の格子戸から、堂内を拝見しました。 堂内の床面は四半敷に敷瓦(甎)で舗装されています。 正面の奥に檀が設けられていて、その中央に地蔵菩薩像が安置されています。六地蔵の名の起こりとなった地蔵菩薩像(重文・平安)です。像の上半身だけを拝見できる形です。その両側に、左に黒い色の厨子、右には小ぶりな赤漆塗りと思われる厨子が置かれています。大きな黒い厨子の前には、「小野篁」という木札様のものが置かれています。小野篁の像が安置されているとのこと(資料4)。右の厨子は不詳です。 「像高1.6メートル、寄木造り、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ等身像」(資料2)です。この像は、平安時代の初め852年(仁寿2)に小野篁が木幡山から桜の木の一木を切り出して、その一木から六体の地蔵を作り、この地に納めたとされていて、その一体がこの地蔵菩薩像だと言います。小野篁は、849年(嘉祥2)48歳のとき、熱病を患い意識を失い、冥土で地獄に落ち苦しむ人々を救っている僧に出会ったのです。その僧が生身の地蔵菩薩だったとのこと。地蔵菩薩は、小野篁に次のようなことを語ったとか。上掲案内板の記載を以下に転記します。「この地獄だけでなく、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上など六道の迷いの世界を巡りながら縁のある人々を救っている。全ての人々を救いたいが、縁の無い人を救う事はできない。私にとっても残念な事だ。貴方はこの地獄の苦しい有様と地蔵菩薩の事を人々に知らしめて欲しい」と。「1157年(保元2)後白河上皇の勅命により、平清盛が西光法師に命じて、京都の街道の入り口六ヶ所に六角堂を建て、一体づつご尊体を分置されました。最初に六地蔵巡りをされたのが、西光法師といわれています。これが六地蔵巡りの始まりです」(案内板より一部転記)この引用部分と同趣旨のことが、江戸時代に出版された『都名所図会』の「六地蔵」の項に記されています。「本尊地蔵菩薩は仁寿二年小野篁冥土赴き、生身の地蔵尊を拝し、蘇りて後、一木を以て六体の地蔵尊をきざみ、当寺に安置す。保元年中に平清盛西光法師に命じて都の入口毎に六角の堂をいとなみ、この尊像を配して安置す。今の地蔵巡りこれよりはじまる」(資料5)また、この主旨の最初の記録は、13世紀半ばに成立した『源平盛衰記』にあると言います。(資料4)西光法師(?~1177)とは、平安時代後期の政治家藤原師光のことだそうです。後白河法皇の近臣として威をふるった人物ですが、鹿ヶ谷で平家追討をはかり清盛に殺されたと言います。(資料4) 屋根の鬼瓦六地蔵巡りについては、別の説もあります。上記『源平盛衰記』には「西光卒塔婆事」に西光法師が地蔵信仰から「七道ノ辻ゴトニ六体ノ地蔵菩薩」をつくって巡礼したとあるそうです。つまり、「四宮川原、木幡ノ里、造道、西七条、蓮台野、ミゾロ池、西坂本」の七箇所とされているのです。それぞれに「六体」の地蔵をつくったとも読める文章が記録されているとか。現在行われている六地蔵めぐりを中世に始まったものとするには慎重な意見が出されていると言います。そして、寬文5年(1665)「晩秋仲浣日」の奥書がある「山城州宇治郡六地蔵菩薩縁起」において、六地蔵めぐりについて触れていることに注目し、「寬文年間になってから伏見六地蔵大善寺の住僧が、企画発案者となって他の五箇所の仏寺に呼びかけ、賛成を得てこの洛外六地蔵参りという地蔵仏事を作り上げたものと考えられる」(真鍋廣済 1960)と論じられているそうです。また、この縁起を翻刻紹介されている書物では、「本縁起は当時の大善寺僧の発案にかかり、時の権力者伏見町奉行水野石見守忠貞の奥書によってこれに権威づけしようとしたものではないか」(梅津次郎 1957)という見解も提起されているとか。さらに『浄土宗寺院由緒書』という史料の六地蔵大善寺の項を参照併用し、その発案者が寬文5年当時の大善寺住職であった諦誉と推定する見解が出されています。(資料6)いずれにしても、地蔵信仰の広がりの中で、江戸時代初期に京都において現在の六地蔵巡り形式の原型が確立されることになったということでしょう。一方、同時期に、三十三所観音巡礼になぞらえ、京都では「洛陽三十三所観音巡礼」が始まっていると言います。また、「洛陽二十四箇寺地蔵廻」も始まっていると言います。この「洛陽二十四箇寺地蔵廻」には、六地蔵巡りの六ヶ所は含まれていません。(資料6)それでは、六地蔵堂の北隣りにある観音堂の拝見に移りましょう。つづく参照資料1) いしぶみ 京道/伏見道 [道標] :「フィールド・ミュージアム京都」2) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p3623) 『京都府の歴史散歩 中』 京都府歴史遺産研究会編 p244 4) 『新版 京都・伏見 歴史の旅』 山本眞嗣著 山川出版社 p90-925) 『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p976) 『京都地蔵盆の歴史』 村上紀夫著 法蔵館 p25-31 補遺六地蔵めぐりのまわり方 :「Amadeusの『京都のおすすめ』」京の六地蔵巡り :「京都観光チャンネル」洛陽三十三所観音霊場巡礼 ホームページ洛陽三十三所観音霊場 :「京の霊場」地蔵二十四ヶ寺 京都名所案内図会 :「国立国会図書館デジタルコレクション」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 京都・六地蔵尊 -1 洛南 桂地蔵(地蔵寺)スポット探訪 京都・六地蔵尊 -2 洛南:大善寺・恋塚浄禅寺、徳林庵、洛中:上善寺 探訪 [再録] 京都 鳥羽作道を歩く -1 鳥羽殿跡、鳥羽伏見戦跡、恋塚浄禅寺探訪 京都・洛中 寺町北部の寺社を巡る -1 御土居跡・上善寺探訪 [再録] 京都・山科 御陵、安朱を歩く -3 諸羽神社、徳林庵、山階寺跡
2019.10.24
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JR奈良駅を出て、三条通に入ります。東方向は緩やかな傾斜地になっています。三条通を東に進めば、右側に猿沢池が見え、少し勾配が増した坂道を上ると、左側には南大門跡への幅の広い石段があります。 南大門跡が整備され、その北側には再興された中金堂の甍が見えます。南大門跡への三条通に面した石段の少し手前に、興福寺の南円堂前に向かう参道(石段)があります。奈良国立博物館に行くときには、傾斜の急なこの石段を上って、南円堂前で右折して、南大門跡と中門跡の間を真っ直ぐ東に境内を通り抜けます。今回は9月8日までを会期としていた特別陳列「法徳寺の仏像」を鑑賞に行くために通り抜けしたときに撮ったもののご紹介です。早くも1ヵ月以上が経ってしまいました。南円堂への石段の途中に、一段低くなる境内地の南西隅側に建つ三重塔への道があります。 三重塔への参道の手前の斜面地に石仏群が見えます。石仏に掛けられた鮮やかな赤色の前掛け(よだれかけ)に惹かれて、久しぶりに立ち寄ってみました。こちらは三重塔への参道を少し進み、石仏群を通りすぎてから、石段方向を眺めた景色です。 石段に一番近いところにこの石標が立っています。 石垣の手前に「延命地蔵尊」が建立されています。これが石標に刻された「延命能師地蔵尊」をさすのでしょうか。不詳です。 幼い女児がお地蔵さまにまとわりつくように傍に立っています。 このお地蔵さまが石仏群の中心になっているようです。 石仏群から少し離れて、傾斜地の上のほうに石造物が置かれています。よく見ると、五輪塔の残闕のように見えます。これにも赤い前掛けが掛けられていますので、お地蔵さまに見立てているのでしょうか。 下にみえる石仏は、大きな錫杖が彫られていますので、まちがいなくお地蔵さまです。そばにはわらべ地蔵がおかれています。 角柱型で、葉様頭部の錫杖を持つお地蔵さまも見えます。目がちょっと吊り上がっています。 こちらも錫杖を持つお地蔵さま。上掲のお地蔵さまは舟型光背ですが、こちらは駒型で円光背が刻まれています。錫杖の彫り方が違います。こちらの方が一般的な形に近い彫りです。 箱型の中に2体の像が彫り込まれています。錫杖は見えません。 前掛けに奉納した人の名前を大きく記した前掛けもあります。家族みんなの健康と安全を願う前掛け奉納なのでしょう。 もう一つ、わらべ地蔵が目にとまりました。 光背部分の右側、前掛けの上あたりに「救」と判読できる陰刻文字が見えます。救世観音菩薩石像と思われます。 もう一体、菩薩坐像が祀られています。胸の前で手を組み、掌に何かを捧げていらっしゃるようです。何でしょう?お顔の表情がいいですね。出世地蔵尊と水子地蔵尊がどの石仏のことなのか・・・・わかりませんでした。石段を上りきると、左側に南円堂があります。 南円堂から参道をはさみ南東側あるのがこのお堂。普段はこのお堂の前を通り過ぎ、右折するだけなのですが、少し立ち寄って見仏してみました。 坐像と立像、二体の不動明王像が左側に祀られ、右側奧には舟型光背を備えた観音菩薩立像が数多く祀られています。その手前の坐像は弘法大師像でしょうか。左に中金堂、右に南大門跡を見つつ東に進めば、右寄り正面に見えるのは、 五重塔です。 五重塔の正面にこの石灯籠が立っています。角柱の竿の石灯籠で、笠の右側に損壊がみられます。本来の石灯籠はその背後に礎石だけが残る位置に建てられていたことがわかります。あたかも結界の如くに、礎石が竹の簡易に囲われています。五重塔は国宝です。現在の塔は、5回の被災を経て、1426年(応永33)に再建されたものと言います。五重塔と東金堂の間の参道を抜けて、奈良公園に入ります。目指すは奈良国立博物館です。ご覧いただき、ありがとうございます。補遺興福寺 ホームページ 興福寺の伽藍 イラスト図 五重塔(国宝) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 [再録] 奈良 興福寺境内を通り奈良国立博物館にスポット探訪 [再録] 奈良 興福寺国宝特別公開2013 南円堂・北円堂観照&探訪 奈良散策 -2 興福寺中金堂と諸堂の眺め
2019.10.19
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極楽寺の本堂正面の先に別の大きなお堂があります。この景色の背景に見えるのが極楽寺の本堂です。外回廊に欄干があり、その前方に石柵がみえるのが、「温泉寺」です。 この温泉寺は、前夜に温泉街を少時散策したとき、こんな感じで夜景を撮りました。 この略図を先に掲げておきます。駒札としてこの辺りの案内図が立っていたものの部分図です。前回、タンサン坂から銀の湯の前を通る「ねがい坂」を歩んだというご紹介をしました。空色の丸が「極楽寺」の本堂です。その前の赤い丸がここでまずご紹介する「温泉寺」です。 石柵を回り込み、お堂の正面に向かいます。石段上に裳階屋根を付けた本堂が見えます。石段の手前に、出臍のように飛び出た石が嵌め込まれています。近づいてみますと、方位を表示する八角石が嵌め込まれています。本堂は、北西方向を正面にしていることになります。つまり、南東方向に本堂を眺めている次第です 石段を上がって正面から眺めた本堂です。本尊は薬師如来。堂内には、行基上人と仁西上人の両像が祀られているそうです。また、本堂に安置された波夷羅(はいら)大将立像は重文に指定されています。波夷羅大将は薬師如来に従う十二神将の一柱です。一番有名なのは、奈良・新薬師寺の十二神将像でしょう。 この寺は案内板の説明によると、有馬温泉と歩みを共にし、盛衰を繰り返してきた由緒があるお寺です。奈良時代に僧行基が開基したのがそもそもの起こりだと言います。伝承によれば、承徳年間(1097-1098)に有馬温泉は大水害で壊滅的な被害を受け荒廃したそうです。建久2年(1191)に吉野山山麓にあった高源寺の住職仁西が、熊野権現の化身のお告げを受け、有馬温泉の地に至ると現れた白髪の伸びた老人の導きにより、温泉の泉源を掘り起こし、温泉場の整備をはかるとともに、「行基菩薩縁の薬師堂(温泉寺)を再興し、支院として薬師如来の守護神である十二神将に因んで12坊を創建したそうです(現在温泉旅館として残る、北の坊、中の坊、奥の坊、御所坊、上大坊、池の坊、角の坊、萱の坊などはその名残とされます)」(資料1)桃山時代に北政所が温泉寺を復興し、江戸時代・元禄年間に禅宗黄檗派になったと言います。そして明治維新後の神仏分離令以降に衰微し、清涼院以外の寺院は廃絶することになったそうです。(駒札)本堂の正面、参道の左右に大きな石造五輪塔が建立されています。この二基の五輪塔は石造自体は鎌倉中・後期の作と推定されています。 しかし、『摂陽群談』(元禄14年/1701)は、「平相国清盛塔」、「慈信坊尊恵塔」だと記し、ともに平清盛が有馬温泉に滞在した時に建立したものと説明しているそうです。また、慈信坊尊恵には、幾度も冥府に行き閻魔庁で閻魔大王と話をしたという伝承が記録されていると言います。小野篁のことを連想してしまいました。(駒札より) 境内の一遇にこの慰霊塔が建立されています。有馬温泉にあった伝統のある池之坊満月城という旅館が、1968(昭和43)年、深夜に出火・炎上し、死者30人、負傷者44人に及ぶ火災事故を発生させたのです。この火災事故犠牲者の慰霊塔です。この火災をきっかけに国に「旅館ホテル防火安全対策連絡協議会」が設けられたと言います。(資料2) 本堂正面に向かい、境内地の右端(南西側)にこの石鳥居が立ち、「湯泉守護神」と記された扁額を掲げてあり、その右背後に「湯泉神社」の社号碑があります。鳥居の先に見える石段は左折し山手に延びています。上掲の略図では、マゼンタ色の丸を付けたところです。 緩やかな石段参道を上っていくと、 平坦な境内地があり、一際大きな石灯籠が建てられています。 石鳥居の右側傍に手水舎があります。 まずは、境内地正面奧の本殿に向かいます。 本殿は南端の一段高くなった境内地に建てられています。ここには、有馬を最初に発見したとされる神々が祭神として祀られています。大己貴命(おおなむちのみこと、大国主命)、少彦名命(すくなひこなのみこと)、熊野久須美命(くまのくすみのみこと)です。この「湯泉神社」はその呼び方に様々な説があるようですが、一般的には「とうせんじんじゃ」と発音されているそうです。(資料3)温泉神社とも呼ばれているそうです。(案内板より)私は現地で社号比を見た時、何気なく温泉神社と頭の中で変換してしまっていました。この整理をしていて、「湯泉」だったんだ!と振り返った次第です。 入母屋造の屋根の正面に千鳥破風が設けられ、その前に唐破風が連なるという形式で銅板葺きの屋根です。唐破風の正面上に獅子口が見えます。唐破風の兎毛通しには神亀が彫刻されています。大瓶束の両側は波濤文様の装飾彫刻が白塗りにされています。虹梁には、雲形文様が彫刻されて白く塗られ、白雲として目にとまります。その下は蟇股の代わりに松の木と飛ぶ鳥が透かし彫りにされ、鳥たちの躍動感を感じます。ここの彫刻は木肌のままです。頭貫には草花文様が刻まれて、こちらは金色が塗り込まれています。 木鼻は像が深彫りで彫刻されています。結構装飾美を目を楽しませてくれる唐破風の拝所です。 本殿の右隣りに並ぶ小社があります。 本殿の右側で少し離れた位置に、もう一つの小社があります。その隣りには大黒天の石像が置かれています。小社の傍の駒札を見ますと、「子宝・安産を願う 子安堂」と記されています。 小社の格子戸越しに拝見すると、二体の木彫像が安置されています。一つがこれ。男根の木彫像です。ああ、ナルホド!という感じです。陰陽の彫刻物を神体に見立て、多産豊穣を祈願する例は各所にあります。これは日本だけじゃなく世界各地にも同様にみられることと思います。男女和合の始原なのですから・・・・。余談ですが、例えば愛知県の「田縣神社」の豊年祭はいわば奇祭の一つで有名です。実に素朴、ストレートで大らかな祭りという感じです。同様に熱池八幡社(愛知県)、金山神社(神奈川県)の「かなまら祭」、多賀神社凸凹神堂(愛媛県)、林下寺お花大権現(徳島県)、ほだれ神社(新潟県)、飛鳥坐神社(奈良県)などです。(資料5)これらは、写真や動画で拝見しただけなのですが・・・・。脇道に逸れました。戻ります。湯泉神社は、子宝神社として親しまれているようです。「有馬の湯に浴し、当社で祈願すれば子宝に恵まれると伝えられています。」とのこと。(資料4)この後、境内を少時探訪しました。 摂末社三社を併置し祀った建物があります。中央に金比羅神社(大物主命)、右に稲荷社(稲倉魂命)、左は愛宕社(阿遇突命)が祀られています。 吉高神社 大きな石鳥居と手水舎から比較的近い境内の南西辺に、山頂への山道入口と思われる石段道があります。地図を見ますと「愛宕山公園」に通じる山道でしょう。その入口横に池があり、池に架かる小橋を渡る形で覆屋の設けられた小社があります。 この境内社にも駒札が立ててありますが、読み落としています。残念。 湯泉神社の傍に「妙見堂」と記された扁額を掲げた朱塗りの鳥居が建ち、 その先に「妙見堂」の扁額を掲げたお堂があります。お堂の形です。名称から判断できますが、妙見菩薩を祀る妙見信仰のお堂です。妙見菩薩は、「北極星を神格化した天部の尊で、国土を守護し苦悩を除く功徳があるとして修する北斗法・妙見法・尊星法がある。菩薩像と雲中龍に乗る天女形がある。」(『新・仏教辞典 増補』 中村元監修 誠信書房)お堂の形で、鳥居が建てられています。神仏習合の世界の有り様からすれば、仏教、神道と裁断しがたい狭間にある信仰なのかもしれません。分断する必要のない次元での信仰に繋がっているのかも・・・・・。 お堂の傍に、この石仏が鎮座しています。 坂道を上るときには意識していなかったのですが、湯泉神社から下ってきて気がついたのが、この手前の白壁が際立つ建物です。(略図の左下、黄緑色の丸をつけたところです)「神戸市立太閤の湯殿館」です。湯殿館の先に見えるのが既にご紹介した「極楽寺」の本堂です。 太閤の湯殿館の手前に見えるこの石垣の部分に「石垣・帯曲輪(おびぐるわ)」の駒札が立ててあります。「この石垣は、自然石(割ったり削ったりしない石材)だけを用いる野面積(のづらづみ)と呼ばれる幅の狭い平坦面となっており、周囲には、多聞塀(たもんへい)と呼ばれる長屋づくりの塀や、隅の部分は隅櫓(すみやぐら)状の建物の後が確認されます。」(駒札転記)この駒札を読み、念仏寺で見かけた木標の「太閤小城跡」という言葉が結びついてきました。さて、「太閤の湯殿館」についてです。「阪神・淡路大震災」が1995年1月17日に発生しました。震災復興のために極楽寺の書庫を建て替えるという事業を契機として、発掘調査が行われ、400年ぶりに太閤秀吉の湯山御殿が発見されたのです。その結果、その時の発掘資料館が建てられたのです。ここには湯船の遺構が現存しています。「庭は1mの土で埋め戻されていますが、その上に当時のままの状態が復元されています。なお、秀吉の湯山御殿は徳川氏によって取り壊され、その跡地に極楽寺と念仏寺が建てられました。」(資料6) これは、温泉寺本堂の背面と鬼瓦です。上掲石垣の前と温泉寺との間に通路となっている空間があります。そこから撮りました。 温泉寺の背後、通路の北側に石造五輪塔があります。「豊太閤之塔」と刻された石標が立ち、「豊太閤の碑」と記された駒札が立っています。 極楽寺の境内を抜けてねがい坂に出ます。極楽寺を挟み、道路の反対側にはこんな景色「ねがいの庭」が見えます。上掲略図では、「有馬の工房」の白丸の下に付けた紫色の丸のあたりです。 温泉寺を創建したと伝わる僧行基の銅像が建立されていて、その背後には「有馬温泉の歴史」を簡略説明した掲示板が掲げてあります。既にご紹介したことを省き、説明の後半を転記してご紹介します。「太閤秀吉公は、湯治のためにたびたび有馬を訪れ、戦乱や大火で衰退した有馬の改修を行い、湯山御殿を建てました。 江戸時代になってからは、その効能により全国でも評判の湯治場となった有馬には多くの人々が湯治に訪れ、有馬千軒といわれる繁栄をするにいたり、その繁栄はこんにちの礎となっております。」(掲示板より) 北側にあるのは、「ねがいの泉」です。これは冷水(有馬の水道水)の水飲み場で、このデザインは「景」をモチーフにしているそうです。それは上記の仁西上人の有馬温泉にまつわる伝説に由来していると説明されています。このデザインは神戸芸術工科大学プロダクトデザイン科によるもの。神戸市水道局が2010(平成22)年3月に竣工したものです。このあたりを巡る探訪で「有馬の三恩人」が出揃いました。もう、おわかりですね。僧行基(行基菩薩)、仁西上人、太閤秀吉の三人です。説明板にも記されています。この説明板に記された伝説の説明を転記しておきます。「その昔、大洪水により有馬温泉が壊滅していたときがありました。1191年のある日、僧・仁西上人があ夢のお告げで温泉の復興を命じられ、落葉山までやってきましたが、泉源の位置が分かりませんでした。途方にくれている仁西上人に、老人に姿を変えた熊野権現が景を授け、その景の落ちたところから温泉がこんこんと湧きはじめました」という伝説です。略図に記された現在地、つまりねがい坂が不動坂に突き当たる場所に出ます。その近くに略図の駒札が立っています。駒札の横にあるのが、 9063, 8911温泉寺の鐘楼です。右は、前夜の散策のときに、ライトアップされたこの鐘楼を撮った景色です。9069不動坂を少し下ると、「御所泉源」があります。9068説明板には、この泉源が金泉(赤湯)であること、温度は97度であることと成分などが明記されています。「塩分と鉄分が多く含まれ、特に塩分濃度が日本一の温泉として有名です」とのこと。9071不動坂を下り、湯本坂に出ます。温泉街のこのあたりのメインストリートです。左折すると、すぐに「足湯」(黄色の丸を付けたところ)があります。9072足湯から少し先に歩むと、「金の湯」(緑色の丸をつけたところ)があります。御所泉源からの温泉が使われているのでしょう。外装工事中でしたので、入口だけ記念に撮ってきました。そろそろタイムアップです。あとは、湯本坂を逆にもどって、タンサン坂からホテルに戻るだけです。 青い丸を付けた方向に坂道を上ります。 途中の道路の角に赤鳥居と小社、石碑などが見えます。この神社は「妬神社」と称されています。隣りにあるものと関係しています。 小社の右隣りに八角形状にした金網の蓋が見え、傍に石碑と説明板があります。石碑には「宇和奈利湯」と刻されているようです。説明板には「妬(うわなりの湯)」と題して説明されています。「この温泉は間欠泉で、湯の量は少なく、最近では昭和30年代に湧出し、現在は涌出していません。この温泉の由来は定かではありませんが、江戸時代の本には女子が盛装してこの温泉の前に立つと激しく湧いて止まらないとか、自分の醜い心や或口を言ってののしればたちまち湧くと記されています。またこの温泉はきりぎずの治療に効果があるとも言われています。 *江戸時代の本とは、摂津名所図会、有馬手引書、和漢三才図絵です。 神戸市 有馬温泉協会」(説明文転記)現在では、この裏手に新しい泉源が掘られているそうです。(資料7)この後、タンサン坂を上り、ホテルに帰着です。これで今回の有馬温泉探訪記を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 有馬温泉・三恩人・仁西上人 :「日本三名泉」2) 池之坊満月城火災 :ウィキペディア3) 湯泉神社 :「有馬温泉」(有馬温泉観光協会公式サイト)4) 湯泉神社 ホームページ5) 閲覧注意!男根を奉る神社が日本各地にある件 :「NAVER まとめ」6) 神戸市立太閤の湯殿館 :「有馬温泉」7) 有馬温泉妬湯(うわなりゆ) 有馬の昔話 :「元湯 龍泉閣」補遺湯泉神社 :ウィキペディア超リアル過ぎる男根のぼりに仰天!「田縣神社豊年祭」【愛知】:「日本珍スポット100景」ちんちん鈴!?男女のシンボルをかたどった立石が点在する飛鳥坐神社:「LINEトラベル.jp」初嫁さん9人、「男根」に乗って子宝祈願 新潟で奇祭「ほだれ祭」 :YouTube3基の神輿が練り歩く 川崎の奇祭 かなまら祭 :YouTube妙見信仰 :「梅松山 円泉寺」神戸市立太閤の湯殿館 :ウィキペディア阪神・淡路大震災教訓情報資料集阪神・淡路大震災の概要 :「内閣府」阪神・淡路大震災 :ウィキペディア有馬の昔ばなし 有馬ナビ :「湯元 龍泉閣」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 神戸市 有馬温泉 -1 湯けむり広場・太閤橋・ねねの橋・有馬六景ほか へ探訪 神戸市 有馬温泉 -2 寺田町界隈(有馬六彩・杉谷行宮趾・銀の湯・念仏寺・極楽寺ほか)へ
2019.09.26
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有馬温泉一泊の旅は、結果的に寺田町界隈の探訪どまりとなりました。宿泊したのが有馬六彩で、このホテルが寺田町に所在しました。食事後夜の散策で見つけ、翌朝改めて近くで撮ったのがこの案内板です。 寺田町界隈のマップを切り出して、ご紹介の箇所に色丸を付けてみました。太閤橋付近でホテルのマイクロバスにピックアップしてもらい、チェックインしたときは宿泊先がどのあたりに位置するのかわかりませんでした。チェックイン後に、六甲山ロープウェーで山上に上り、数カ所探訪したことは既にご紹介しました。その後、ホテルに戻り、夕食後に近辺を散策しましたが十分に周辺を眺めるには至りませんでした。少し界隈の雰囲気に慣れただけ。翌朝小雨が降っていましたが、この寺田町界隈を探訪するのには前夜の散策が土地勘の手助けになりました。まずは、一泊した有馬六彩(上掲マップにマゼンタ色の丸をつけたところ)から始めます。 六甲山からホテルに戻り、予約の部屋に入ってテラスから眺めた景色です。地図で位置関係を見ると、東方向、有馬の街を展望していることになるようです。ホテルは山の斜面地を利用して建てられていて、1号館にあるメインエントランスは有馬温泉の外周道路と繋がっています。建物全体でとらえると、ロビー階は7階の次の上階になり、更に8~10階が続きます。1号館は2号館と連絡通路でリンクしていました。宿泊したのは2号館です。 部屋のテラスから下を眺めると、中庭の修景池が見えます。 翌朝中庭に降りて地上から眺めた修景池の景色です。 中庭から眺めた有馬六彩の外観です。手前が2号館で、左側が1号館です。「泉科学」と刻した石碑が建てられています。中庭の東南隅に足湯が設けてあります。 有馬六彩の庭園側入口へのアプローチです。温泉街への徒歩ルートとして、この前の坂道が「タンサン坂」と呼ばれています。(マップに茶色の丸を付けた坂道) 庭園側出入口を出て目に止まったのが、「杉ヶ谷行宮跡」碑です。 タンサン坂には両側に所々鬼瓦が置かれ、その下に寺田町界隈の案内パネルが設置されています。「時代とともに変貌してきた有馬温泉にあって、この寺田町界隈は寺社が集まっており、古くからのサンクチュアリ(聖域)の佇まいを保っています。そして、この界隈では古くなった寺院の鬼瓦が魔除け・邪鬼払いの意をもって、町内各所に配置されています。」(説明文一部転記)上掲石碑「杉ヶ谷行宮跡」には、次の説明が別の鬼瓦の下に掲示されています。「 杉谷の古巣にやどる鶯の鳴くこそ春のしるしなりけれ 実仁法師 日本書紀巻23『舒明記』に有馬温泉への行幸の記述があり、その際、造営された行宮は、この敷地内にあったとされています。左(付記:上掲)の写真は、その『杉ヶ谷行宮跡』の石碑です。裏面には以下の碑文が刻まれています。 『この地は、紀元1291年(正暦631年)の9月より、舒明・孝徳二帝に亘って左右大臣・群卿百官を従えられ行幸遊ばさるる事前後3回、行宮を御造営御駐輦11ヶ月に及ばれた聖地であります。高松宮殿下昭和27年12月御臨台を記念して之を建つ』 」(説明文転記)この界隈を探訪する前に、有馬六彩のロビーからの眺めをご紹介しておきます。 チェックアウトする前に、ロビーのガラス壁面ごしに眺めた有馬温泉街の景色です。生憎小雨がふり、ロビーにつづく修景池から先の眺望は朧です。蒼空のもとで眺めるとすばらしい展望が見られることでしょう。それでは、有馬温泉寺田町界隈の探訪に出かけましょう。 上掲マップに茶色の丸を付けた「タンサン坂」を降ります。前夜は温泉街の通りまで降ったのですが、 少し坂道を下るとこの道標がありますので、こちらの道(ながい坂)を行くことにしました。 「銀の湯」です。建物は新し感じ。建て替えられたのでしょうか? 古く鄙びたイメージの建物を当初は想像していたのですが・・・・・。ここは有馬温泉にある外湯(大衆浴場)の一つ。有馬の名物湯である銀泉(無色透明な湯)と呼ばれる炭酸泉、ラジウム泉を利用している温泉だそうです。(資料1) 道路を挟んで反対側には築地塀があり、ここにも鬼瓦がおかれています。壁面に漢詩が墨書されていて、鬼瓦の基壇正面にその漢詩の説明文が掲示されています。 天下和順 天下は太平であり 日月清明 日と月は清らかに明るく照らし 風雨以時 風と雨も時に応じ 災難不起 災害と疫病も起きず 國富民安 国は豊かに人々は安らかに過ごし 兵戈無用 兵や武器を用いる争いごともなく 崇徳興仁 人々は徳を崇め仁を尊び 務修礼讓 務めて礼儀と謙譲を修めます平和な世の中を願う思いが綴られていますね。いつの世も変わることなき願いです。 銀の湯の建物の傍に、このウォーキングマップが掲示されています。ウォーキングとして、5つのコースが設定されています。これを見ると、私は限られた時間の中で、「歴史コース」に相当するところを結果的に探訪する旅だったことになります。銀の湯から坂道を道沿いに歩むと、右側にお寺が見えます。 道路に面して、本堂正面に石柱が左右に門柱として立つだけで、じつにオープンな外観です。 「念仏寺」と記された扁額が本堂正面に掲げてあります。(空色の丸を付けたところ)山号は摂取山です。 本堂正面の障子を一部開けてあり、本尊阿弥陀如来立像を外から拝見できるようにされています。施無畏印・与願印の印相です。念仏寺は浄土宗のお寺です。ここは豊臣秀吉の正室、北の政所(ねね)の別邸跡と伝えられているそうです。 本堂の右端斜め前あたりに、この木標が立っています。「太閤秀吉・北政所館跡(太閤小城跡)」と記されています。拝観していませんが、「沙羅樹園」と呼ばれ、「樹齢が250年といわれる沙羅双樹の大木があり」6月下旬が見頃という庭が美しいとか。(資料2) お堂の左側に、「KOBE 七福神」のこんなポスターが貼ってあります。この念仏寺には「寿老人」が本堂の左隣りのお堂に祀られているのです。七福神巡りの一所になっています。 お堂の左端には、白象が置かれています。念仏寺で印象に残ったものの一つです。 聖観音菩薩立像の銅像も建立されています。その足許にはお地蔵さまが。 念仏寺から道路を挟んで反対側には、建仁寺垣様の竹垣の一画があり、地蔵菩薩立像が建立されています。左腕に幼児を抱くお地蔵さまです。水子地蔵尊でしょうか。 こちらにも、鬼瓦が置かれています。 こちら側もオープンな境内地で、「極楽寺」の本堂があります。(上掲マップの黄緑色の丸をつけたところ)山号は寂静山、傅法院という院号もあります。その寺名からも推測できますが、浄土宗のお寺です。本尊は阿弥陀如来。また、当寺には法然上人と善導大師の二祖対面図を蔵されているそうです。(資料3)本堂の右前に駒札が立っています。これには「法然上人直筆二祖対面御影」という題で説明されています。もう一つ「橋杭地蔵菩薩」という題での説明が続きます。(駒札より)一方、本堂左手前に「火除観音菩薩」と題した駒札が立っています。同観音菩薩像も安置されているそうです。「鳥仏師の作にして聖徳太子の開眼したまえる霊像でありまして、有馬の地に尊奉ましましてより実に一千三百二十余年、有馬中興の先達河上の民部維清朝臣の尊崇措く能わざりしところ、念仏の元祖法然上人もかつては此の尊像の御前に他力本願念仏のご宣伝をあそばしたる霊像でありまして、恐らく有馬の地に出現ましましたる最初の仏像でありましょう。 元禄八年六月廿九日俄然火災がおこり、尊像をお出し申す暇もなく、堂宇一面火となりました。 然るに不思議なるかな菩薩妙智力を現し給い劫火盡きるの時、大悲の金首は熱灰中より現れ給うたのである。 宇治黄檗山第七世悦山大禅師讃仰措く能わず一詩を誦書す。 劫火洞然発未盡 大悲金首現灰中 無辺殊勝真霊威 学世皈投□化風 一文字判読できず 皈:帰の俗字 彦根の城主掃部頭井伊直興朝臣有馬入湯の際当山へ参詣なされ菩薩妙智力の不思議をお聞きになって渇仰措くところを知らず。観世音の御首を奉持して皈坂あそばされ時の名工をして尊像を補い作らしめ、厨子を調整して当院に寄進。これが現存の火除観世音菩薩であります。」(駒札転記)「有馬郡西国三十三ヶ所霊場」の第1番霊場がこの極楽寺です。(資料4) ゆきめぐる みそしの清水(みず)は かの国の なにあふ寺ぞ はじめなりけりまた、上記の念仏寺は第2番霊場となっています。 おもえなを 仏のみなを しるべにて いたるもやすき 法の寺とは 本堂の左端には、この石仏像を祀っる覆屋が設けてあります。 釈迦如来か阿弥陀如来か。判断しかねます。頭部の螺髪の造形が初めてみるような感じ。一部欠損なのかもしれません・・・・。お顔の表情にすごく人間的なものを感じます。光背に七仏が浮彫りにされています。法隆寺の釈迦三尊像の光背には仏像が見られますので、光背の七仏で、釈迦如来と阿弥陀如来のどちらであるかは決めがたい気がします。両脇侍の相貌、姿形も気になるところです。阿弥陀三尊像の場合は観音・勢至の両菩薩と決まっていますが、釈迦三尊像の場合、両脇侍はいくつかの組み合わせがあるようです。剥落欠損がみられるようでもあり、これも何仏を表象しているのかわかりません。そのため、判断しかねます。(資料5,6)ご存知の方、ご教示ください。極楽寺の先に、温泉寺があります。こちらは前夜の散策で本堂前に立ち寄りました。つづく参照資料1) 有馬温泉 銀の湯 :「Feel KOBE」2) 念仏寺(浄土宗) :「有馬温泉」(有馬温泉観光協会公式サイト)3) 極楽寺(浄土宗) :「有馬温泉」(有馬温泉観光協会公式サイト)4) 有馬郡西国三十三ヶ所霊場 :「近畿の霊場」5) 釈迦三尊 :ウィキペディア6) 阿弥陀三尊 :ウィキペディア補遺金の湯と銀の湯を入り比べ!名湯・有馬温泉の二つの公衆浴場 :「LINEトラベルjp」【霊場】有馬郡西国観音霊場 :「朱色の記憶2(御朱印と御朱印帳)法隆寺釈迦三尊像 :「法隆寺」法隆寺阿弥陀三尊像 :「法隆寺」三千院阿弥陀三尊像:藤原彫刻7 :「日本の美術」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 神戸市 有馬温泉 -1 湯けむり広場・太閤橋・ねねの橋・有馬六景ほか へ探訪 神戸市 有馬温泉 -3 寺田町界隈(温泉寺・湯泉神社・太閤の湯殿館・ねがいの泉・御所泉源・金の湯ほか)へ
2019.09.24
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8月下旬に、有馬温泉一泊の旅に出かけました。初日は前回ご紹介した六甲山山上での巡回バスを利用した数カ所の探訪です。今回は、有馬温泉での探訪をまとめてみたいと思います。冒頭は、有馬温泉にバスで到着した後、ホテルのマイクロバスが迎えに来てくれる待ち時間に撮った「湯けむり広場」です。太閤秀吉の坐像が建立されています。湯けむりは見られませんでした。この前には道路を挟んで有馬川が流れています。 この有馬川に「太閤橋」が架かっています。五七桐紋がレリーフされています。 瓢箪のレリーフでしょうか。 千成り瓢箪も一つからというところ・・・・かな? 橋上から眺めた川の景色です。 川の中に遊歩道が作られているようです。 太閤橋を渡ったところに「元湯 古泉閣泉源」があります。有馬温泉にはいくつもの泉源が設置されています。その一つです。有馬温泉については、『日本書紀』巻第23、舒明天皇の3年、「秋9月19日、摂津国の有馬の湯へ行幸された」という記されています。舒明天皇(629~641)の時代には既に有馬の湯は天皇にも確実に知られた存在になっていたことがわかります。(資料1,2)「温泉神社」の縁起によれば、有馬を訪れた大已貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の二柱の神が、三羽の傷ついたカラスが水たまりで水浴しているのを見たのを契機に、泉源を発見したのがはじまりとされているそうです。(資料2) この泉源のすぐ傍に「仏座厳」と題した案内板が設置されています。1812年6月25日の大洪水で埋没してしまい、巨岩の一部が今は露呈するだけになっているとのことです。その巨岩の形が仏座に似ていたことから、江戸時代の寬文期(1661-1673)に、日蓮宗の元政上人が命名したと説明されています。(案内板より) 傍には石灯籠が奉燈され、小祠が設けてあります。何が祀られているのか不詳。 近くには注連縄が掛けられた大きな岩があります。 そこに、この「袂たもと石(礫つぶて石)」と題して、この巨岩にまつわる2つの伝承が紹介されています。一つは小石が年とともに巨岩に成長するという信仰とも関係している伝承です。ご一読ください。 橋上から川下側を眺めますと、石鳥居や朱色の鳥居が橋詰に見えます。傍には行きませんでしたが、後に地図で調べて見ますと、「増富稲荷神社」のようです。 湯けむり広場前の道路に沿って太閤橋から川上方向に少し歩いてみると、赤く塗られた橋が架かる箇所が見えました。観光客らしき人々が見えますので、その橋の方向に行ってみました。 上流側から眺めた有馬川の景色。ここは二川の合流地点です。「二級河川 有馬川」と一文字ずつ記したタイルが堤防石垣に取り付けてあります。この赤い橋を渡ると、河原に下れるようです。 赤い橋の傍には、「ねねの像」(新谷英子作)が建立されています。赤い橋には「ねね橋」の銘板が付けられています。もう一方には「有馬川」と記された銘板が取り付けてあります。 ねねの像の背後に設置されているのは「有馬六景」です。「有馬六景」は誰が、いつ頃、どういう経緯で決めたのだろうか?という疑問から、少し調べてみました。こういうとき、インターネットは便利です。有馬温泉は、二度大火に見舞われたのです。1753年(宝暦3年)、1766年(明和3年)と続けて。湯治客が減り、有馬の街が寂れます。その起死回生策が、有馬の良さを世間に広めることでした。有馬の人たちの願いに一役買ったのが近衛家だとか。近衛家をはじめ公家達が、有馬の風光明媚な景観を撰び、和歌や詩を添えて、「有馬六景」を撰定したそうです。1770(明和7)年に「有馬六景」が世に出ます。高僧の描いた風景画を公家達が見て、撰定した八景が次の景色だそうです。(資料3) 1) 鼓ケ滝 2) 有明桜 3) 巧地山の秋の月 4) 落葉山 5) 温泉寺の晩鐘 6) 有馬冨士 巻頭の第一景「鼓ケ滝」を、「鼓滝松風」と題し、近衛摂政太政大臣内前が歌を詠んでいます。 山まつのあらしになおもひびくかな つづみがたきの水のしらべは第2,第4,第6の景色には漢詩が吟じられ、第1,第3,第6の景色には歌が詠まれたのです。第5景の温泉寺については、閑院大宰帥典仁親王が、「温泉寺晩鐘」と題し いく里の暮おどろかす声ならん 此やまでらのいりあいの鐘と詠んでいます。高僧の描いた風景画は簡単に見られなくても、和歌や漢詩は口伝えでも筆写であっても、容易に広まっていくことでしょう。和歌や漢詩で形成されたイメージが、一度現地を訪れて自分の目で見て、温泉を味わいたいな・・・・かつては太閤秀吉も好んだ湯だそうだ。という具合のPR効果が自ずと生み出されて行ったということでしょう。この六景は現在の地名や場所等に対比するとどこになるのでしょう? 1) 鼓ケ滝 鼓ケ滝公園 (資料3) 2)有明桜 鼓ケ滝のほとりにあったといわれる山桜 (資料4) 有馬では善福寺の糸桜が特に有名。有馬川沿いの「さくらの小径」も。 3)巧地山の秋の月 巧地山の位置と範囲は不詳。孝徳天皇の有馬行幸時の記録に 行宮建築用木材を供給した山と記載。公智神社の公智の呼称は巧地山 に因むと言われているとのこと。(資料5) 4)落葉山 標高533m。有馬三山(愛宕山・灰形山・落葉山)の一つ。(資料6) 5)温泉寺の晩鐘 温泉禅寺(黄檗宗)有馬町1643に所在。 6)有馬冨士 三田市の北東に位置する山。角山(つのやま)とも言う。 (資料7) マイクロバスでのピックアップを待つために、湯けむり広場の方に早々と戻りました。そこで「ゆけむり広場」の案内板を見つけました。「中央には湯煙に見立てた滝があり、右手には有馬温泉を愛した太閤秀吉の像が、有馬川をはさんでねねの像が見つめあっています。」(説明文転記)「ゆけむり」は見立てだったのですね。滝であるなら、水が流れて水しぶきがあがる風情でしょう。たまたま断水中だったのかもしれません。 「ゆけむり広場」の案内板にこの略地図が載せてあります。この地図によると、六甲川と滝川が合流し有馬川になるようです。ねねの橋は六甲川側に架かり、合流地点ですので、ここが有馬川と名を変える起点に相当すると言えますね。川は南から流れ来たり、合流して有馬川と称され、北に流れ下って行くようです。一方、この図の六甲川を有馬川と表記している地図もあることもネット検索中に知りました。これは京都の桂川(保津川、大堰川)のように、河川全域の表記と地域での名称との関係なのかも知れませんが。つづく参照資料1) 『全現代語訳 日本書紀 下』 宇治谷孟訳 講談社学術文庫 p1282) 有馬温泉について :「有馬温泉」(有馬温泉観光協会公式サイト)3) 有馬六景 有馬ナビ 有馬の風土と歴史 :「元湯 龍泉閣」4) 有馬温泉と桜 :「有馬温泉うんちく情報」5) 「公智神社の遷座伝承について」西川卓志氏 西宮市立郷土資料館ニュース第46号6) 「六甲の川物語 みんなで語り、伝えよう! 有馬川物語」 国土交通省近畿地方整備局 六甲砂防寺務所7) 『有馬富士』ってどの山?どんな山? :「有馬温泉の自然」補遺有馬温泉 有馬温泉観光協会公式サイト 有馬温泉ナビ ホームページ 有馬温泉 ねね橋・ねね像「太閤の湯殿館」と秀吉の愛した有馬温泉 :「龍泉閣日記」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 神戸市 有馬温泉 -2 寺田町界隈(有馬六彩・杉谷行宮趾・銀の湯・念仏寺・極楽寺ほか)へ探訪 神戸市 有馬温泉 -3 寺田町界隈(温泉寺・湯泉神社・太閤の湯殿館・ねがいの泉・御所泉源・金の湯ほか)へ
2019.09.23
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