本をずっと読みつづけることは、いい本を探して読むのではなく、いい本に巡り会うためなのだった。『金沢』を読み終わって至福の時間は過ぎたけれども、何度でも味わい返せるから惜しむことはない。
大げさかもしれないが、そう言いたくなる小説だった。といっても筋がおもしろいとか、はらはらどきどきの高揚はない。淡々と語られる情景。なぞめいた、むしろわけのわからないような会話。
文章がとぎれないため息継ぎが苦しいようになる。一度文章から離れると読みさしのところがわからなくなり、何度も同じところを読んでしまう。でもなぜか惹きつけられやめられないのである。
そうして、その文章に慣れてくると、「あれ?どこかでこんな感じをあじわったよ」と既視感にたびたびおそわれる。
いえいえ、わたしは金沢に粋な別宅を構え、夜な夜な酒宴にて粋人と会い、会話を楽しみ、夢幻の時間を過ごす、なんてことは経験していないのに。
だから何処ということでなく、いつということもなくて、したかもしれない会話、見たかもしれないものを全部ひっくるめた、わたしのささやかな経験が増幅されてわたしに返ってくるような物語なのだ。
これは読んでみなければわからない。どんな本でもそうだけれども特に。
さすが倉橋由美子が『偏愛文学館』で最後の最後に挙げた作家の小説である。それに倉橋由美子自身の作品「圭子さんシリーズ」には色濃く影響があったのではと思ったことである。
読み直してみてあら、作品の影響か、ちょっとわかりにくい感想になってしまったと思う。
要するに、小説の情景がどこかでみたような里山の風景に出会ったような、会話が人生の機微にふれるような普遍的なものを感じたということ。作者の奥深い素養が粋な境地をかもして、それに酔ってしまったところもある。
『影法師』百田尚樹 2016年12月11日
悲しみよ こんにちわ 2010年08月25日 コメント(9)
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