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我々はまた人々の生活の匂いが満ちた路地を抜け、大きな家の板塀の角まで一緒に歩き「お休みなさい」と言った。私はこれでまたしばらく絹代の姿を見ることが出来ないかもしれないという思いからじっと彼女の顔を見つめた。彼女は困ったように微笑み、軽くお辞儀をして背中を向けて家の玄関まで走って行った。数日後また工場からの帰り一緒になったのでたすき掛けにした布のかばんからそっと本を取り出し彼女に手渡して「急ぎませんのでゆっくりお読み下さい」と言って帽子を被り直した。彼女は大事そうに本を胸に抱いて微笑んで小さく頭を下げ背を向けて家に入って行った。私はその後ろ姿をじっと見つめ、彼女が入って行った門の木戸をいつまでも見ていた。私はこれから一体どうなって行くのだろう、私の心は意識を持つ独立した生物のように体の中で生き生きと脈打ち、昼となく夜となく痛みを伴って呼吸し続けた。勉強も仕事も何も手に付かず、目に映るものがすべて今までとは違ったように見え、すなわち今までなにげなく見ていた道や彼女の家の隣にある黒い板塀や春と秋にそこに塗り替えられるペンキの匂いや工場の汚い建物さえもがとても貴重な物として抒情的な痛みを伴い心にとどまった。本を手渡して以来しばらく学校でも工場でも絹代と顔を合わさなかったし、近所でも見かけなかった。それは大体2週間ぐらいのことだったが私には半年ぐらいに感じられていた。私は以前よりも頻繁に一人で彼女と一緒に歩いた路地を抜け池に行き、彼女と座ったところに腰を下ろし本を読んだ。その道のりで目にする親密でつつましやかな人々の営み、貧しくとも楽しい家族の食卓の気配が誰にも言えない胸の内を密かに理解してくれ、黙って痛みを共有してくれているように思えた。 つづく
2007.01.30
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細い路地の両側には長い年月で真っ黒になった木の板だけで建てられた平屋の家が軒を連ね、芋をふかすような匂いや、焚き木を燃やす匂いがした。もう日は沈みかけていて、夕焼けに風呂屋の煙突が黒く浮き立って見えていた。池に着くと我々は出来るだけ人目に付きにくい木陰の大きな根っこに腰を下ろした。微かな夕映えが水面にちらちら金色の名残の炎を映し出していた。「さすがにもう蚊はいなくなりましたね」と私は何を切り出していいか分からないまま口を開いた。「ええ、貴方はここへはよく来られるのですか?」と彼女が質問した。私は私のことを質問されたことが嬉しく「はい、一人で本を読みたい時よくここへ来ます」と水面を見て微笑んだ。「どんなものを読まれるの?」「今は川端康成の短編集を読んでいます」「それ、読み終えたら私にも読ませていただけます?」「もちろんです、私はこの中の(雨傘)という短い話がとても好きです」「とても楽しみです」と言って彼女はやっと私の顔を見て微笑んだ。もう辺りは真っ暗になっていて、彼女は「もう私行かないと」と言って立ち上がった。私も立ち上がり歩き出したが彼女は木の根っこにつまずき、私は咄嗟に彼女の手を取った。何て優しい手だろうと私は驚いた。それは小さくて柔らかく、少しでも力を加えると崩れて消えてしまいそうで、今まで手に触れたどんなものよりも優しく温かく心を包んだ。 つづく
2007.01.28
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作業員が仕事を終える合図のベルをがらんがらんと鳴らしながら歩き回り、工場内の敷地内を抜けて裏門に向かう時別の棟から出て来た彼女と一緒になる。学校では男女が一緒に肩を並べて歩くなどというのは許されないことだったが、作業の帰りは裏門から帰るのが我々だけだったということもあり、意外と誰の目にも触れなかった。彼女の家は私の家から一筋曲がった黒い板塀の大きな家の隣にあり、工場のちょうど裏手の方向にあって帰る道は一緒で、ほとんど何も話さなかったが初めて母親以外の女性と並んで歩いた。その夜も私は絹代のことばかり考えていて新聞配達のやって来る足音が聞こえるまで眠れなかった。後ろに束ねられた艶やかな真っ黒な髪や、小さな耳、ブラウスの襟元から見えている白い首筋、恥ずかしそうに下を向いたまま微笑む横顔、何本かの前髪が白い額に落ちかかっていた。一緒に歩いた時間は10分足らずだったが、そんな彼女のいろんなことが目の前をちらちらしていた。2回目に工場の出口近くで顔を合わした時「池の方に行ってみませんか」と言って彼女の手を引っ張って家とは違う方向の横手の路地に入った。私の心臓は胸の中で巨大な音を響かせ、息苦しくなり、自分がやっている大胆な行いに自分自身で驚いていた。でも彼女はもっと驚いたらしく、路地を少し行った所で立ち止まり僕の手を払って「困ります」と言って僕に背を向けて歩き出した。私は咄嗟に彼女の前に回って「失礼は存じております、でも貴女のことが一日中忘れられない、どうしても二人でお話がしたい。何とか願いを聞き入れていただけませんでしょうか?」と真っ直ぐ彼女の目を見て言った。彼女の一対の黒い瞳がしばらくの間優しく私の体を射抜いていた。彼女は目を伏せ「分かりました、少しの間だけ」と小さな声で言った。 つづく
2007.01.26
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私が彼女を初めて目にした時、そうあの時体中の血が突然膨張したような感覚を覚え、こめかみが何か巨大な力に押さえ付けられたような気がした。それは長い長い時間に積もった流砂が一瞬の大きな風によって移動し、そこに何千年も前の町が姿を現す時の痛みのように思えた。彼女はヴァイオリンと弓を手に私たちの前に立ってあどけなく微笑んでお辞儀をしていた。彼女たちは弦楽四重奏とピアノの5人でこの老人介護施設に慰問演奏に訪れていて、私はその日はたまたま週に一度しか利用しないデーサービスの日で、いつものようにいやいやそこで車椅子の上に座っていた。とにかくこの場で無になって何時間かをやり過ごせば皆が助かるのだと自分に言い聞かせていた。そんな場所でそのような時間に引きずり込まれるとは予想もしなかったことだ。彼女はどう見ても20歳ぐらい、私は83歳。「絹代さん」と無意識のまま名前が口を吐いて出た。職員の女性が「えっ?何ですか?」と後ろから声を掛けたが私は黙ったまま前を見つめていた。 昭和17年、我々は皆学業を中断して工場に駆り出されて、暗くなるまで作業をやらされていた。その帰りに時々絹代と顔を合わせた。 つづく
2007.01.24
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次の日は我々ドイツ組を含む外国人が帰る日だった。長い滞在でお世話になったお礼をおじさんとおばさんに言って、我々は抱き合って別れを惜しんだ。音楽祭の主催団体から禁止されていたが、我々はそれぞれ枕の下に100マルクを忍ばせてアパートを出て、おじさんとおばさんと共に飛行場へと向かった。飛行場に到着すると何とロシア人の出演者たちが見送りに来てくれていて、例の名テノールの老人も来てくれていた。彼は僕を見ると側に来て「君の歌はとてもよかった」と英語で言い、「貴方こそすばらしい声です」と僕も英語で答えた。もっといろいろ感想を言いたかったが、我々にはそれ以上会話する術はなかった。彼は握手の手を差し出し、僕はそれを握った。あれ以来15年ほどの年月が経ったが今でも彼の声は耳に残っているし、今だそのような感動を呼び起こされる歌に出会っていない。僕の中では永遠の理想であり続けるであろう。帰りはフィンランド航空だった。僕とレナーテは隣同士に座り、僕のちょうど前にクワストフが座った。離陸してしばらくするとレナーテが前に手を伸ばし、クワストフの肩をずっと撫でていて、見るとクワストフは下を向いて一人で泣いているようだった。ヘルシンキで5時間ほどのトランジットがあったので、皆で街中までバスで出てみることにした。驚いたことにヘルシンキの町は大変な近代都市で、ピカピカのおしゃれなビルが建ち並び、タイル張りの歩道にこれまたおしゃれなカフェやブティックが軒を並べ、ちょうど東京の新宿をもっと綺麗に新しくしたような感じで、ドイツでは見ることのない雰囲気だった。僕とクワストフとレナーテはその辺で見付けたカフェに入ってみた。愛想のいいウエイトレスが水を持って来た。これは驚きだ、カフェに入って水がサービスで出て来るのは日本だけだと思っていたが、世界は旅してみないと分からないものだ。美味しいコーヒーとケーキを食べ、我々はまたバスに乗って飛行場に向かった。 つづく
2007.01.22
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最後の最高音Bは若干苦しそうだったが、そんなことは気にならないほどの世にもすばらしい演奏を彼は終え、会場からのわれんばかりの拍手を受け、またよぼよぼと袖に消えていった。僕がポカンと口を開けていると、横に座っていたおじさんが「彼はロシア各地の歌劇場で戦後活躍していた名テノールだよ、今でもあれだけすばらしく歌うのに驚くね」「今幾つぐらいかな」「さあ、75を過ぎているんじゃないかな」「とても考えられない」と僕は首を振った。音楽祭がすべて終了し、観客が皆帰った後で上の大広間にすべての出演者が一同に会し、打ち上げパーティーが行われた。会も進み皆気がほぐれて来たところで、一人のバス歌手が皆の前に出ておもむろにアリアの一部を歌い出した。それを皮切りに皆順番に前に出て、無伴奏でそれぞれの曲のさびの部分を歌い、ベルントやクワストフも自主的に前に出た。やっぱり皆積極的である。そしてあの老人も前に出た。作業服のようなジャンバーに古びたハンティング帽という格好だった。彼は聴いたことのないロシア民謡のような曲を歌ったが、僕の血はやはり逆流して行くように感じた。部屋で聴く彼の声もまた今までに耳にしたことのない魅力に溢れ、他の者たちの歌がどうにも色あせて聴こえてしまう。こんな声を体験してしまうと、僕が歌う意味などいったいどこにあるのだろうと深い絶望に襲われた。 つづく
2007.01.17
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最終日のガラコンサートではロシア人の若い現役の歌い手たちや、こちらでは有名だというコロラトゥーラソプラノなどがそれぞれのアリアや二重唱を演奏した。どれもすばらしく、その中でベルントは歌劇カルメンから「花のうた」を、カタリーナもカルメンの「ハバネラ」を歌った。コンサートも終盤を迎え、舞台を見ていると一人の老人がよぼよぼと出て来て、指揮者の横に立った。歩き方や風貌を遠目で見ている限り、70をとうに過ぎたおじいさんに見えた。まさかこの人が歌う訳ではあるまいが、いったい何をしに出て来たのだろうと不思議に思ったが、会場からは一際大きな拍手が起こり、どうやら観客はこの老人をよく知っているようだった。オーケストラの演奏が始まり、彼は歌い出した。ヴェルディの歌劇「アイーダ」からラダメスのアリアだった。彼はテノールなのだ。歌い出すと僕は全身に電気が走るのを感じた。それは今まで聴いたことのない、何と表現すればよいかわからないが、地底から湧き上がって来て木にワイン色に華やかな花を一面咲きほころばしたような、聴くものの血を沸騰させてしまうような力を持った音色だった。決してやかましい声ではない。空気を魔法のように振動させ会場を包み込む、しかもあの年齢にしてアイーダのこの難曲を悠々と歌っている。僕は驚きと感動で身動き一つ出来ずそこに座っていた。 つづく
2007.01.15
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なつかしい、7年ぶりに帰った生まれた家、子供の時遊んだ砂場の横のブロック塀。なつかしい、交通公園に展示された緑色のチンチン電車。くっきりとした日差しの秋の朝も雨の降る薄暗い朝も毎日この木の床の電車に乗って小学校へ通った。なつかしい、あの子と一緒によく行った溝川の畔にある居酒屋。優しくしてもらうことが当たり前だと思っていた僕はそこで大喧嘩してあの子は引き戸をバタンと思いっ切り閉めて出て行った。なつかしい、何でも出来ると思っていた自分。明日を心配して眠れない夜なんて存在しなかったし、考えると怖くなるようなことは全部未来に付けを回して毎日楽しくやっていた。なつかしい、自分が何処へ行けばいいのか、何処に居るのか全く分からなくなってバケットとにんじんをかじってうずくまっていた37階の小さな部屋。窓の外では渦巻く風の音が聞こえていた。なつかしい、懐かしいと思えることを何処かで見下ろして、すべて今のためにある昔と思って自分を信じ続けた日。一つの欲望のために多くの人の心に爪を立て、自分に対しても爪を立てて来た。肌にそっと手を触れてみる。確かに何十年触れて来た同じ温もりだ。いつか、いつの日か懐かしい自分のあの場所に甘く抱かれて戻って行きたい。夜中目を覚ましても全く痛みはない、安らぎが満ち、虫の声の聞こえる甘いあの場所へ。2006年9月~12月
2007.01.12
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「ねえおじいちゃん、おじいちゃんはお日様の光に当って生活していた事があるんでしょ」7歳になる和樹が地下鉄のおもちゃを走らせながら尋ねた。「ああ、毎日太陽の下で生活していた、今のような夏でも海で泳いでいたよ」「ふーん、夏にはどんなものが地上にはあるの」「蝉とかひぐらしが鳴いて夜には月を見ながら皆で花火をする」と説明したが、和樹にはとても酷な話であることに気付き「お母さん遅いね、いったい何処まで買い物に行ったのかな」と話題を変えた。「今日は新しく出来た南町のショッピングモールまで行くって言ってたよ」と和樹は電車を走らせる手を止めて言った。我々人間が地下に住むようになってもう三十年以上経ったが、今では誰一人地上には住んではいない。気温は50度を超え、殺人的な紫外線により地上で生きる動物はすべて死滅した。「おじいちゃんがいた地上はここよりずっと明るいんだろうね」と和樹はアップルジュースをコップに注ぎながら話題を戻した。「そうだね、いつもお日様が頭の上にあって真っ青な空が広がっていることもあるし、雨っていうやつが降って来ることもある」と私は諦めて話した。和樹は昔の事が知りたいのだ。「こことは違うことをもっと話して」「そうだな、いろんな匂いがするな」「匂い?」「うん、夏草の匂い、木の匂い、夏には夏の風の匂い、それに蚊取り線香の匂い」「え、何それ」「夏にしかいない小さな虫がいて、刺されるとかゆいんだ、それを退治するために線香を焚く」今説明して初めてそんなものがあったことを思い出して、私の脳裏に突然いろんな昔の事がよみがえって来た。「地上の生活って前に一度テレビのアニメで見たけど、学校で授業をしているその教室の窓の外が目がくらむほど明るいんでしょ?何だか想像できないな」「おじいちゃんが通っていた学校の教室の窓からも日の光と青い空、それに川が見えていたな」「川ならここにもあるよ」と和樹は嬉しそうに目を輝かせた。よく考えてみると奇妙な話だ。今や地下の世界には華やかな町が広がり、皆ここでの生活にすっかり慣れてしまっている。でも和樹との会話で私の五感はすっかり地上の懐かしい感覚をよみがえらせていた。そしてここでの生活が不自然で末期的なもののように思えて来た。「人間ももうそんなに長くは生きられないんでしょ」と和樹が私の心を見透かしたように言った。私は驚いて和樹の顔を見た。「道徳の時間に先生が言ってた」「それはもっとずっと先の話だよ、そんなこと考えずいろんな夢を持って生きなさい、ご飯をいっぱい食べて立派な大人になるんだ」と言ったがこんな世界でいったい何を夢見ればいいのだろう。国語の時間にどんなものについて詩を書けばいいのだろう。私を含む昔の人たちが和樹たちをこんな所に閉じ込めたのだ。和樹は鉛筆で紙に何かを書いている。その横顔を見て私はうるさいほどの波の音と、日を浴びて真っ白に輝く砂浜の海岸をずっと思い出していた。2006年8月
2007.01.09
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僕なりのドイツ歌曲の魅力を今の僕の実力の中で精一杯演奏した。すべて歌い終わると大きな拍手が聞こえ、一人のロシア人の女性が舞台の下で僕に花束を差し出し、僕はそれを受け取った。その女性は僕に何かロシア語で言ったが、さっぱり分からない。でもどうやら観客は皆異国の匂いのする音楽と、ロシア音楽にはない表現に新鮮なものを感じてくれたようだ。何度もお辞儀をして「僕の声の技量がもう少しあればな」と申し訳なく思いながら舞台袖に消えた。アパートに帰り夕食の際「トシはいずれもっともっと重く力強い声になって行くと思う」とおじさんは感想を言ってくれた。「重く力強い声ってどんな?」と僕は質問してみると「カヴァレリア・ルスティカーナのトゥリッドゥを歌うようなテノールさ」とおじさんは僕の顔を見て、得意そうに微笑んだ。トゥリッドゥと言えばスピントテノールの分野になる、とてもドラマティックな声であり、そんなことを言われたのは初めてだった。次の日は音楽祭の最終日となり、キエフ歌劇場のオーケストラの伴奏によるガラコンサートで、ベルント、レナーテ、カタリーナがそれに出演することになっていた。午前中におじさんとおばさんが町を案内してくれ、買い物をしたり、エルミタージュ美術館に入ったりした。でも館内は恐ろしく広くほんの一部しか見学することが出来ず、我々はコンサート会場に向かった。 つづく
2007.01.07
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次の日は僕の歌うドイツ歌曲の演奏会だった。 僕がホールに到着した時には若い男性のロシア人ピアニストが演奏しており、少しの間客席で聴いてみた。 音が何というかロシア独特のもので、割鐘のような強い濁った響きを出しそれが不思議な魅力を感じさせる。 やはりこちらの人々の強い筋肉の音に聴こえた。 今から演奏するドイツ歌曲は、ずっと繊細でロシア音楽とは全く違う醍醐味のものであり、おまけにテノールの訓練を始めたばかりの僕のか弱い声で果してロシアの観客を少しでも楽しませることが出来るのだろうか。 初めから抱えていた不安が突然大きく膨らみ、逃げ出したい気持ちになって来た。 こういった場合、今自分の持てる器の中でどのようにマイワールドをつむぎ出すか、一人ぼっちで行う舞台の上での自分との対話である。 僕は伴奏者と共に観客の前に出て行き、大きな拍手を受けた。 何処の場所で歌おうと、そこがどこの国であろうと、自分のドイツ歌曲を頑固に守り演奏出来なければならない。 自分の愛する曲を自分自身が楽しんで歌うことだけを心掛けて歌った。 しかしそううまくは行かない。 人間には誰にでも「他人に良く思われたい、良いところを見せたい」という欲がある。 ある程度はそれも必要であろうが、過ぎると自分を見失う。 自分のために歌う歌というものを僕も少しずつ体で覚えて行かなくてはならない。 つづく
2007.01.05
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演奏会の最後にプッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」の一幕のミミとロドルフォの長い二重唱をスザンナとクワストフによって演奏される。その二重唱の中にそれぞれのアリアが含まれているのだ。プログラムが進み、いよいよ最後の演目になった。スザンナとクワストフが観客の拍手を受けて舞台に出て行った。最初ミミとロドルフォの出会いの軽い二重唱が続き、その後クワストフの歌うロドルフォの「冷たき手を」のアリアとなった。アリア歌い出しからクワストフはすでにとても硬くなっていて、緊張は最高点に達していた。「これはまずい」と僕は思った。先生を見ると下を向いて顔を顰めている。最後のハイCに辿り着くまでにすでにとても苦しそうだ。案の定ハイCは音程が遠く及ばず無残なものとなり、客席から大きなどよめきが起こった。ロシアの観客はシビアだ。クワストフがアリアを歌い終わっても拍手はなく、次のスザンナが歌うミミのアリアとなった。歌い手の演奏、特にテノールの場合はフィギアスケートの演技と全く共通する部分が多い。精神的なことにとても左右されるし、困難な技術を見せなくてはならないことに押し潰され、自分の本来の魅力を見せ切れず終わる。そこをクリアーするには、自分なりの自信と、何が起こってもうろたえない精神力、それに強い集中力が必要とされるのだろう。何をやっても結局自分に勝つということが求められる。この世で最も難しいことの一つ。 つづく
2007.01.03
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その日のワーグナー作曲、歌劇「ローエングリーン」の演奏会形式の抜粋コンサートではベルント、レナーテを含む歌い手たちはすばらしく歌ったが、周りのお客さんを観察していると何だか退屈しているように見えた。 ワーグナーの作品というのは一曲がとても長く、二重唱一つにしても20分から30分掛かるものもあり、音楽がだらだらと繋がって行って、聴き慣れてしまうまではとても疲れる。 ロシアの人々には受け入れてもらえ易い音楽だと思っていたが、言葉もドイツ語だしどうやら難しいようだった。 長い演奏会が終わると皆ため息をついて会場を出て行った。 他国の文化や芸術を即座に楽しんでもらうのは難しいものだ。 僕たちもアパートに戻り食事をしている際、おじさんは「ワーグナーのすばらしさは我々には理解出来ないな」と首をかしげて言った。 次の日はスザンナ、カタリーナも出演するイタリアオペラのガラコンサートだった。 おじさんは夜のうちに自分で車を修理して僕たちを会場へ送ってくれたが、相変わらず不吉なカラカラという音が絶え間なく聞こえ、またいつ動かなくなるか分からない不安を感じていた。 控え室に行くと部屋の隅でクワストフが不安そうな表情で立っていたので、僕は話し掛けてみた。 「やあ、どうだい調子は?昨日は良く眠れたかい?」「ああ、まあまあだ」と彼は小さな声で答え、目を伏せた。 無理もない、先生の意見も聞かず自分で選んだとはいえ、誰もが注目する最高音Cを含むこの曲を歌い切れるかどうか分からない恐怖は痛いほど僕にも分かる。 この一曲に彼は自分の運命を掛けている。 どうしてこんなことで自分を追い込まなくてはならないのか、やはり僕には理解出来なかった。 つづく
2007.01.02
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おじさんは「これからちょっとした距離を歩くよ」とも何も言わず歩き、僕たちはただただ付いて歩いた。アパートを出てから30分は掛かったと思う、ようやくメトロ(地下鉄)の駅に着いた。駅付近はさすがに多くの人々で賑わっていた。しかしメトロの駅もとても古く、入り口の部厚い木の扉を入ると構内は暗く汚かった。切符を買ってエスカレーターに近付いて行き、僕とスザンナ、カタリーナは驚いて目を見張った。そのエスカレーターの動く速度が異常なのだ。幅が広く古いそのエスカレーターは、大きな音を出しながらものすごい速さで動き、皆は慣れたようにそれに飛び乗っていた。しかしこんなものにお年寄りがどうやって乗るのだ。我々の順番が来て勇気を出し、タイミングを計って何とか乗ることが出来た。周りのコンクリートの柱や、タイルの貼られた壁や天井が早い速度で後ろに飛んで行く。それに加えて1分2分3分と時間が経ってもホームに到着しない。この速度でどこまでも地下へ連れて行かれると何だかとても不安になる。横に立っていたおじさんに「どうしてこんなに下まで下るのですか?」と大きな声で尋ねてみた。おじさんはにやりとして「爆弾が埋まっているからね、それよりも下に駅を作ったんだ」と言った。冗談か本当か分からない。ホームに着くまでに5分近く掛かったと思う。なるほどここまで地下深く下るためには、日本のエスカレーターのような速度では明日になってしまう。ホームや壁もやはり古い薄汚れたタイルで、電灯は暗かった。そして線路が見当たらない。ホームの両側はどちらも鉄かアルミのような素材で出来た壁だった。だだっ広いホームの上には人が溢れ、そこは隔離されたガス室のようにも見えた。しかししばらくすると電車の音が聞こえ、その鉄の壁の一部が開いて電車が見えた。扉が開き、皆は次々乗り込んで行き、僕たちも列に続いた。車内も古めかしかったが、これまたものすごい速度で走り、あっと言う間に目的地に着いた。後で聞いた話だが、地下鉄の駅はどこもすべて核シェルターになっているそうだ。いつか来るかもしれない戦争に備えて、国や町がここまで費用を掛けるとは全く驚きだった。 つづく
2007.01.01
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皆様、新年明けましておめでとうございます。いつもご愛読いただきまして誠にありがとうございます。2007年が、わくわくする楽しい年になりますように。本年も引き続きどうぞよろしくお願い申し上げます。 茶木敏行
2007.01.01
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