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・1、29、水先日26日に、一年間練習を重ねて来た「NSK合唱Conbinare、森の歌演奏会」の本番を迎えた。秋から年末に掛けて練習の追い込み、チケット販売、マスコミへのPR、その他の準備で運営委員はてんてこ舞い。その上練習の進みは芳しくなく、チケットの売れ行きも11月時で三割程度。運営委員一同頭を抱える毎日。思い起こせば僕が「もう第九はやめて、森の歌をやってみませんか?」と運営委員会で言い出したのが2年前。そこから数ヶ月掛かって新聞、ラジオ、口コミにて参加者集めを展開。どれだけの人が集まってくれるか全く予想の付かない中で、不安の毎日。結果は270人ほどの参加者が募り、舞台雛壇のマックスが220人なのでどうやって皆が舞台に乗るか思案。2013年の1月12日に結団式を行い、一年間の練習が始まる。僕としてはどうしても目指す一定のレベルがあるため、知らず知らず厳しい練習が続く。車椅子の方、視覚障害の方、知的障害の方など何人か参加下さり、例によって団としての彼らへの特別な計らいはなし。しかし彼らは練習を休むことも少なく熱心に参加。春が過ぎ、夏が過ぎ、秋が来ていよいよ皆さんのお尻にも火が付き出したころ、12月に「入ると突然チケットが飛ぶように売れ始め、12月22日のオケ合わせの際には「チケット販売中止!」と叫ぶことに。その時にはすでにホール座席数1300席を超えていた。練習毎に団長や僕が更なるチケット販売努力をお願いしていたので、団員の皆様が個人個人精一杯PR下さった結果であった。郵送でPRした送り先からの反応はこれからだし、新聞広告も今から、それに当日券も必要である。そこから本番まで、チケット販売調整の難しい日々が始まる。来場率予測と毎日押し寄せるチケット問い合わせ。これは嬉しい悲鳴というべきだろうが、予測しなかった反応であった。第九の際はホール座席数に対して精々半分ぐらいであった来場者数が、この売れ行きである理由はやはり「森の歌」だからのようだ。僕は「森の歌など誰も知らないだろうし、果たしてチケットも売れるのかどうか」と訝っていたが、世間には隠れ森の歌ファンや「どんな曲か聴いてみたい」という方などが多く存在したようである。団員の皆様も年明けからぐいぐい集中力を見せ始め、オケ合わせ、リハーサルと指揮者の高谷光信さんの、僕とは違う優しい指導のもと、和やかな雰囲気で本番へと向かった。受付、会場整理、駐車場、舞台袖などスタッフに配置いただき、お客様入場。僕は楽屋で高谷さんやバスソロのデニス・ビシュニャさんと打ち合わせをしたり、後はのんびりさせていただいていた。その間も運営委員やスタッフは雑用でてんてこ舞いだったと思う。会場では心配していた立ち見も出ず、うまい具合に満杯のお客様に囲まれて演奏開始。冒頭高谷さんと僕で10分間のMC。例によってまた話が伸びて叱られる。第一部はNSK混声合唱団とCAC混声合唱団の合同演奏で「宮澤賢治の詩による歌」の五曲を僕の指揮で演奏。これもまた難曲ばかりで、一年間いやはや苦労したものである。本番では見違えるほどのシャープな演奏。休憩を挟んで森の歌。ソロの僕とデニスさんは、指揮者の傍らに座り出番を待つ。演奏が始まると合唱団、オーケストラ、そして高谷さんの上にピリッとした緊張感が漲る。奈良交響楽団は若い人が多く、演奏でもその若さ溢れるエネルギーが魅力である。アマオケとしてはこれほどレベルの高い楽団は僕は知らない。もしこの団に依頼をしなければ一体森の歌はどうなっていたか、考えるとヒヤッとする。第七曲目の最後に来ると、僕はデニスさんの巨体の横で、この二年余りのNSKの舵転換とその苦労を思い起こしていた。僕の右前方の花道では、六人のバンダが高らかにファンファーレを吹いていた。オーケストラ、コーラスが最後の音を高谷さんの指揮に合わせて長く長く保ち、最後の一振りで指揮者がその音を豊かに切った。
2014.01.29
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・1、5、日今、日韓関係は悪化の一路を辿っているという。阿部総理の靖国参拝と、スーダンでの韓国への弾薬提供がその原因だという。日本が軍国化し始める懸念に対して、韓国は異常とも言える神経質さを見せている。米、韓、中は口を揃えて日本を叩くことに熱心で、まるで北朝鮮と日本がアジアでの悪の枢軸であるかのような扱いである。不思議なことがいくつかあるのだが、日本が憲法を改正して軍が持てるようになることが、彼ら三国にとってどうしてそこまで恐怖なのか。韓国などは、日本が憲法を改正すれば、ただちに韓国は征服される、というような騒ぎ方である。もう一つは、アジアのこの問題に、どうしていちいちアメリカが首をつっこんでくるのか。アメリカが中韓と共に日本叩きに精を出すことが、彼らにどのような利益を齎すのか考えてみれば、アメリカも中国も韓国も軍や核を持ちながら、日本の軍備化をどうどうと批判する。その理由として「日本は昔、韓国や中国でこんな酷いことをしたのだから、その極悪非道な人種を封印し続けなければ世界にとっての危険である」ということなのか。まるでゼウスが500年間洞穴に封印した化け物のようだ。アメリカ、イギリス、ロシアなどがやって来たことは棚の上に放り上げての発言だ。しかしもちろんここには裏がある。それが何なのかはっきり分からない。何故みんなは日本がそんなに怖いのだ?このところの武田氏の記事には、同意できるところと、受け入れられぬところがくっきりと表れて来たが、その中でも彼がブログで一貫して訴えているテーマ「日本人が自分たちの民族性と心を取り戻し、本来の日本人の素晴らしさを認識して国を再建し直す」という活動。礼儀と義侠心と誠実、他人を尊重し、利益のみに走らず心のこもった製品を作り、贅沢を好まず、輪を持って尊ぶとなす。この昔古来の日本人の気質は、やはり仏教、儒教の教えが染み込んだ結果なのかもしれない。今の社会のような人格を持たず、嘘を付く、学力と富だけを持つ日本人では、軍を持とうが持たなかろうが、国はいつか没落する。アメリカや中国の悪いところを取り入れては、この国は立ち行かないということだろう。今の我々の持つべき武器は、軍ではなく日本人としての良い意味のナショナリズム。数日前の武田氏のブログに、思い切ったタイトルが躍った。「日本人で日本国を作りたい」ーーーーーーーーまともな日本へ 合意している教育の目的を実施する「2014010211321132.mp3」をダウンロード昨年も学校教育でイジメや体罰など暗い話題が多かった。でも、これは「大人が混乱している社会」を映したもので、教育分野の乱れが原因しているのではないと私は思う。日本の「学校教育」は算数とか国語のような「学力」を磨くことが主たる目的ではなく、正義感や誠実さなどを教えることだ。それは私が勝手に決めたのではなく、教育基本法の目的(ひとつ前の法律で、現在より簡素に書いてあるので、ここで示す)がそうだからだ。「教育は,人格の完成をめざし,平和的な国家及び社会の形成者として,真理と正義を愛し,個人の価値をたつとび,勤労と責任を重んじ,自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない」最初の「人格の完成、社会の形成者」は目標で、そのための具体的に教えることは「真理と正義を愛する心、個人の価値をたつとぶ心、勤労と責任を重んじる心、そして自主的精神」である。真理が何であるかは学問で教えられるが、それを愛する心は勉強しただけではダメだし、正義を愛するためにはズルなどをしないように厳しく指導しなければならない。文科省がどうしても実施したいと強引にやっている全国学力テストに私は批判的だが、その理由は、現実に全国テストをすると、校長先生が間違った答えを書いている子供の答案に黙って正解を指さしたりしているのだから、正義を愛する心とは正反対になるからだ。また、個人の価値を尊ぶには、自分と違う意見を尊重するなどであり、「仲間はずれ」や「みんなで環境を良くしよう」などは反する心だ。「みんなで一緒に」とか、「優しい心」、「絆」などの概念とは全く違う。どちらかというと付和雷同しない自立した人材を求めている。「イジメ」の根本は「個人の価値を尊ぶ」ことに不足しているからで、「空気を読む」とか「絆」という概念は「個人を殺してみんなに従う」ということになり、イジメにつながっている。でも、実際は文科省や教育委員会は教育基本法を守ろうとしない。日本社会も「成績の良い子のいる学校」を「良い学校」と思っている。日本人の一つの特徴と思うが、「建前」としては「人格の高い人」を教育でということを示して、その実は「学力だけ高ければズルでも良い」という意識が底辺にあり、実際にもそのような教育をしている。これでは教育にひずみができるのは間違いない。また現在の教育が最も成功した人たち(たとえば東大卒業者)が人格が低く、御用学者になる理由も良く納得できる。私の個人的見解だが、誠意がなく自分勝手で勉強だけが得意な人の集団は衰退する。だから日本は衰退している。真理と正義を愛し,個人の価値をたつとび,勤労と責任を重んじ,自主的精神に満ちた人たちの日本に住みたい!と私は思う。このブログは、「真理と正義を愛し」、「個人の価値を尊び」、「勤労と責任を重んじ」、「自主的精神を持って」、「楽しく幸福な人生を送りたい」が良いと思って書き進もうと思う。それは「教育基本法」に「教育目的」として長く明記してきた内容だから、多くの日本人が賛成しているはずで、私の独断と偏見ではないからだ。日本の教育の問題を解決するには、まず文科省と教育委員会がこの教育目標(法律)を守る覚悟をし、学校教育をこのような目的にそって行うことで先生と保護者が合意し、現実に実施することだ。しかし、建前と現実のかい離の大きい日本で、本当にこのような教育をするには、かなり繰り返して議論しなければならず、現在の教育は遠く離れている。この問題は実に奥が深く、「平和憲法と自衛隊」の問題も同じで、あまりに美しい建前を書くので、それを全く実施できず、実態はかなりかけ離れるということになる。でも多くの日本人の心の中に、自分たちのいい加減さ、つまり平和憲法や教育基本法に綺麗なことを書いておかないと歯止めを失う危険性があることも同時にわかっている。教育問題にしても、個別具体的な議論も必要だが、常に大きな意味を考ええて議論する精神的な強さを日本民族が身に着けるようにしなければならないと思う。(平成26年1月3日)武田邦彦
2014.01.05
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「今日一日生きて」・1、3、金確かに後期ロマン派から近代、そして現代へと音楽は綺麗なメロディーを失って行った。それらは専門家の中で今称賛されたとしても、おそらく時代の壁を超えることはできないだろう。それは武田氏が言うように音楽家が貴族に召し抱えられなくなった、パトロンに養われなくなったなどの理由が関係するかもしれない。しかしもっと大きな理由は、音楽家が学校機関で称賛される音楽というものが、聴いて素晴らしい、人の心に染み入る、などという点はどうでもよくて、楽曲的にどれだけ優れているか、紙の上でのテクニックがどれほど優れているかを問われるからではないか。おそらくそれは教科書にどれほど忠実に、間違いを犯さず作曲出来ているか、という視点なのだろう。それがいつの間にか世間の作曲形態になってしまったのではと、僕は推察するのである。要するに現在のクラシック音楽は、従来ヨーロッパの世間の娯楽から、専門家に褒められ、賞をもらうためのものに変化してしまったということではないか。言うまでもなく、勉強を重ねてすぐれた楽曲の作品を書くことは出来うるが、簡単で人の心を捕えて離さないようなメロディーを生み出すには、生まれながらの特別な才能を必要とする。学校という機関がその芽を摘んで回っている結果になっている懸念もある。楽器のためでも、歌のためでも、作曲家の中に豊かな歌心がなくてはならない。複雑なシンフォニーを生み出すにしても、それがなければただの音符遊びになってしまう。作曲家の中にその歌心が育つためには、それだけの環境が必要である。何も歌に満ちたヨーロッパでなくても、昔は日本にもその環境はあったのではないか。山田耕筰があれほど次々溢れ出るメロディーを内に持っていたのだ。何においても、クラシック音楽が娯楽ではなくなり、我々の生活に密着することなく、勉強の道具となった現在、美しいメロディーは誰にも生み出すことはできないのだ。そこには「食べるために曲を書く」という切羽詰まったものが必要なのかもしれない。今は食べるために作曲する者はほんの一握りで、ほとんどは教えることで食べている。それが美しいメロディーの生まれない原因ではと僕は思うのである。歌いながらうっとりするような現代の日本歌曲やドイツ歌曲に出会いたい。ーーーーーーー美しい音と世界・・・クラシック小品3曲先回、日本の歌を3つ上げたが、ヨーロッパで大きく花開いたいわゆる「クラシック」も音の美しさ、構想の大きさ、哲学性などで世界の音楽のトップクラスであることは間違いない。音楽好きな私は歌謡曲、日本の歌、シャンソン、ジャズ・・・なんでもOKだが、やはり音楽性という点ではクラシックは人間の作品のうち、特に優れているように思う。その中でも比較的、軽い3曲を選んでみた。まず、ベートーベンのピアノソナタ「月光」だ。緩やかな三連符で始まるこのソナタの第一楽章を聞いていると、木材で作られた部屋の中からガラスがはめられていない天井付近の小さな窓から月の光がこぼれてくる錯覚にとらわれる。曲自体は後半にかけて激しい調子に代わっていくけれど、「この曲に感激しなくなったら自分の感性も終わりだな」と思うことがある。2番目はショパンの「幻想即興曲」。この曲を最初に聞いた時の驚き、それは今からすでに50年ほど前になるけれど、心の底からびっくりした。なんという美しい曲か!なんという躍動感と寂しさだろう!今ではやや複雑な気持ちで聞く。ショパンの音楽というのはやはり退廃したヨーロッパの味がする。貴族的退廃が悪いわけではないが、骨太の農民の歌と比べると、一面的な美しさだけのようにも感じられるからだ。芸術は「お金持ち」がいなければならないから、現在でいうところの「搾取」がないとなかなか芸術が育たないというところが難しいが、パリに比べてお金持ちの貴族と中世さながらの農奴が混在していたロシアでは、また独特のクラシックが生まれている。その旗手がチャイコフスキーだが、彼の音楽は私は実に奇妙だと思うことがある。重厚なメロディーが続いたと思ったら突如として軽く美しいリズムが刻まれる。その中でもバレエ組曲「くるみ割り人形」の「花のワルツ」ほど美しくおとぎ話そのもののメロディーはないと私は思う。(花のワルツのアドレス)http://video.search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%81%8F%E3%82%8B%E3%81%BF%E5%89%B2%E3%82%8A%E4%BA%BA%E5%BD%A2&tid=29ecf474a0ce4bfe1ebcc30eac8b4fc2&ei=UTF-8&rkf=2&st=youtubeこの世に妖精の舞う天国があるとしたらこんな音楽が流れているのではないかと思うほどで、高校の頃、この曲をレコードで聞いた時の驚きを今でも覚えている。美しい曲はそれだけで十分なのだが、なぜ20世紀になって「美しいクラシック曲」が作曲されなくなったのか、時々不思議に思う。音楽は作り手(作曲家)と聴き手がいないと成り立たないから、ベートーベンがいなくなったのか、それとも聴衆となっていた貴族がいないのか、それとも電子機器の発達で演奏会に行かなくても手軽に音楽を聴くことができるようになったからなのか、いつも考え込んでしまう。すでに「月光」、「幻想即興曲」、そして「花のワルツ」を聞いて感激する人がいなくなったとも思えない。当時でもいわゆる歌謡曲やポップスのたぐいの俗曲はあったのだし、現在の私たちは当時の貴族とそれほど生活が違うわけでもない。私は今、現代に作曲される曲で「一人の男性が歌う歌」を聞いたことがないぐらいだ。かつてのテノールのディスカウ、シャンソンのシナトラ、プレスリーに相当する歌手はいるように思うが、5人ぐらいの団体でダンスを伴わないと流行しない社会になっている。その理由はまたゆっくり正月にでも考えることにしたい。(平成25年12月23日)武田邦彦
2014.01.03
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・2014、1、1、水西暦2014年の始まりである。。去年2013年を振り返ると、僕なりに特別いろいろあった年であった。リサイタルも二度開催し、良きにも悪きにも周囲に変化があり、足に力を込めて物事を前に押し進め、いくつかの良い運と悪い運に見舞われ、重大なことを決断し、重大なことを諦め、たくさんの本を読んだ。そんな一年であった。年々一年が一か月ほどに感じられるこの頃だが、それでもそれなりに充実はしていたのかもしれない。昔からの僕の性癖に、同じところに長く住む、同じことを長く行う、同じ思想を長く温めるというようなことが苦手で、無理にそれを続けようとすると精神的にも少しずつ歪が生じて来る。よって、何処か気持ちの良いところにすっぽり身を落ち着ける、ということを避けて生きなければならない。それが結果周りの人々を振り回すことになり、また後悔することにもなる。それは普通のものでも難しい問題の付随することだが、更に見えない者が出来る範囲となると極めて限定されることになる。幸せとは何だろう。いつも思うのは、自分は最高の名君であると思い込んでいる暴君ほど幸せな人物はいないだろう。また、何処までも自分の行う政に悲観的に納得できず、もんもんと暮らす名君ほど不幸せな者はないかもしれない。自分が及ぼす影響によって他人を幸せにするか否か、そのことが自分の満足に直結するか。何に対して満足するか、それだけなのだ。個々の満足を得ずに暮らすといつか病魔に見舞われる。絶望、落胆、憤慨などの痛みは、大概の場合他者への依存から得る衝撃である。生き物、生ものへの依存を断ち切れば、打撃はほとんど防ぐことができる。だが、皆なかなかどうして、そんな生き方が出来ようもない。生きることは、寂しいことなのだ。我々は寂しさと戦い前に進まねばならない。結果個々巻き込まれるべくしてその運に絡めとられて行くことになる。今までも、そしてこれからも、我が運に逆らい、流れと違う方向に足を踏み出そうとする、そのような勇気と頭の柔らかさを持ち続けたいというのが望みである。今年も一年、どうぞよろしく。
2014.01.01
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