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私がCA声楽コンセルヴァトワールという音楽院を阿波座に設立し、しばらくして同じ阿波座スタジオで混声合唱団を立ち上げた。これが「CAC混声合唱団」である。本来は「CA、クレアトーレ混声合唱団」という名称である。初めて自分で立ち上げた合唱団で、是非素晴らしい団に育て上げたいと手塩に掛けて取り組んで来たものである。そして来る2月10日(日)に、第二回定期演奏会を開催する運びとなった。この団の特徴としては、ただただ綺麗な演奏ではなく、音楽の重ねられた、その出発点である詩、詩人歌人が丹精込めて書き綴った感性の叫びを読み取ろうとし、演奏に反映し得ることを念頭に歌うものである。プログラムも、そのような歌い手たちの洞察に適う作品が選び抜かれている。今回は金子みすヾ・宮沢賢治・寺山修二などの詩人に着目し、結果信長貴富氏の作品が多くなった。どれもこれも我々にとって愛着の深い作品で、団員の奏でる表現豊かな音の朗読を是非お楽しみいただきたい。チケットはまだ少々ここにあるので、いち早くご購入いただければと思います。コンサートについての詳細、チケット購入方法についてはフリーページの「コンサート情報」をご覧下さい。
2013.01.30
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・1、29、火これらは知り合いの教員や元教員、武田氏の話を総合して語ることで、僕としても自ら確かめたことではないから、余りいい加減なことは言えないのかもしれない。しかし聞くところによると「子供たちは学校で勉強することのみが義務であるので、それ以外のこと(掃除・授業の準備・先生の手伝い)などは行う必要はない」ということに今はなっている学校が多いとか。このような風潮は何時、何処から出て来たかという問題である。以前僕が勤めていた公立高校音楽科であった事実の話だが、あるヴァイオリンの講師がレッスン室で一人の生徒を待っていた。授業時間も終わるころにその女生徒はヴァイオリンのケースを手にレッスン室に入って来た。その場に立って謝ろうともしない。どうしたんだと講師が尋ねると「電車が人身事故で遅れました」と答えた。講師は「仕方ない、兎に角譜面台がここにないから、上の階の音楽室から一つ持って来なさい」と指示し、その生徒は言われた通り取りに行きレッスンが始まった。しかし数日後その講師は解雇となった。その女子生徒が家で母親にそのいきさつを話すと、母親は激怒して教育委員会と学校に怒鳴り込んだ。「人身事故で長い時間を掛けて学校に辿りついて、疲れ果てている娘に譜面台を上の階まで取りに行かすとは何事か」ということだ。ここで驚くべきことは、学校と教育委員会が「はー、申し訳ありません、すぐその講師は首にいたします」と言って敏速に動いているというところである。何時の間にこのような親と学校の関係が出来てしまったのだろう。僕もそこにいたのだが、その学校では毎年年度明けにすべての講師を会議室に集めて「先生方、兎に角生徒と問題を起こさないで下さい。兎に角穏便に」と毎年校長が懇願した。そのヴァイオリン講師の話もその場で校長の口から見せしめとして聞いたのだ。公立で特に体育科、音楽科を備えたような高校は「面子」ということに学校も教師もぴりぴりしている。ちょっとでも事を起こすと予算が下りなくなるのだろう。しかしそこにPTAが何かしらの援助を行い、そのため学校側が父兄にペコペコする構図も見える。体罰が行き過ぎるのも、体罰を異常に禁止し、そのため「がんばれよ」と教師が生徒の肩をたたくこともできなくなっているのも、すべて大人の利害・面子から来ていることで、その皺寄せを食った生徒が死なねばならないことになる訳である。子供の行動はすべて大人の姿が鏡に映った具現である。橋下市長がこの高校の体育科を凍結させようとしているのも、この予算のことがあるのではないだろうか。それはいいが、それに伴って一層体罰禁止の範囲が広がって、教師が身動きできなくなるのも必至である。その上、大阪ではこれから生徒と父兄が教師に点数を付けるという制度が始まるらしい。そして点数の低い教員は給料が差っ引かれるとか。何故ここまで異常なことをやらねばならないのか。今すでに大阪府・市の教員試験を受けるものが極端に減ってきていて、兵庫、京都などの受験者が増えているらしい。当たり前のことだ。今の橋下氏のやり方を進めると、やる気のある優れた教師は大阪から一人もいなくなることだろう。そんなことは誰が考えても初めから分かる。では何故彼はここまでやるか?大阪の財政を立て直すという名目で、教師を苛めて恨みを晴らしたいのだとしか見えない。そして公立の教師をすべて追い出して、教育の現場を崩壊に導いて、それから何かしたいのかもしれない。全くプライベートな感情で動いているように見える。恐ろしいことだ。恐怖政治に世間を陥れた歴代の独裁者と非常に似ている。橋下氏が聡明であると以前僕は述べたが、この聡明さが個人の中での歪によってあらぬ方向に力を注がれるのが、これまた歴代の聡明なリーダーの常であった。いわゆる本当の聡明さではないということだ。それにこの教師が生徒に指一本触れられないという空気規則を発しているのに、N団体が関係しているという噂もある。ゆとり教育もここから出てきたらしい。さて、一体何が目的で彼らは動くのか?そして彼らと橋下氏との位置関係は?大人たちの歪をすべて吸い上げて、重荷を背負うのはいつも子供たちである。
2013.01.29
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・1、28、月子供たちの自殺について、間違っているかもしれないが一度素人なりに何かしら考えてみようと思う。先日昔の教え子(25歳男性)と話す機会があり、今指導困難な中学で教員をしているその苦労を聞いた。音楽の授業中、もちろん生徒は椅子に座っているものはない。のみならず机の上を歩いているものがいる、叫んでいるものがいる、教師の後ろから肩パンチを食らわして、教員は一週間肩が上がらなくなる。そんな中教師はどうやって授業を行うか。時間一杯を使って生徒を椅子に座らせるのが精一杯だという。一昔前(30年ほど前)ならば、教師は手に竹刀か木刀を持って、力ずくで首根っこを押さえて生徒を黙らせたことだ。だが今は教師は生徒の体に手を触れれば法律で罰せられる。授業の妨げになる煩い生徒を教室から出させても、前に立たせてもこれも違反ということになる。すべて体罰という名目になり、それを破れば教師の立場は大変なことになるらしい。結局今の何処にでもある中学校の教室内の風景のように、先生が黙々と黒板に文字を書いている後ろで、生徒は皆部屋を自由に出入りし、携帯電話で遊びまくり、髪の毛はまっ茶色、騒ぎ放題ということになり、教師はもう頭から注意することもせずに自分の授業を終えて家に帰ることだけを考えて一日を過ごす。教育界に失望した教員は程なく職を辞することになる。では教師にもっと権限を与えるとどうなるか。20、30年前を見ると、男性教員が生徒指導という名目で竹刀を振り回し、暴力団も震え上がるほどに毒づいて、サングラスに肩で風を切って学内を練り歩く。生徒が少しでも規則に反する行為を行えば、女子生徒であろうが一列に並ばせて端から順番に横っ面を平手打ち。その上女子に対して卑猥な冗談を浴びせてその場を去る。このような教師の横暴が何故まかり通ったか?それは他の教員が楽だからである。この暴力教師たちがいてくれるからこそ学校は何とか授業が行れる訳で、少々の無茶は目を瞑る。今回の市内高校の講師暴力事件もこれとおそらく同様の原因であろうと想像する。バスケット部が高い成果を残し、体育科のステータスが上がる。教育委員会にとても良い印象となり、おそらくだが特別な予算が下りる。設備が整い、校舎も新しくなる。以前僕も公立の高校の音楽科講師を勤めていたことがあるので、その辺りの不可思議な予算については大体想像が付く。となると体育科の花形であるバスケット部の講師がある程度行過ぎたことをやっていても、他の教師は見て見ぬふりをするようになる。講師本人もいつの間にか自分が英雄のような気になる。そして生徒が死んで初めて大慌てとなり、一旦事実発覚を隠蔽する画策を試みるが、やはりマスコミに嗅ぎつかれて露見する。しかしここで当事者の講師や学校を攻めても、結局は何も解決しないだろう。マスコミが喜び、個人に責任を負わせて終わりである。根っこは、現代の我々のもっと深いところにあるはずである。 つづく
2013.01.28
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皆様ご心配をお掛けしておりますが、ようやく咳も止まり、体もしゃんとしてきて、まだ少々痰が絡むにせよ元気になってきました。 ちょっと声を出してみると、やはり歌うというところまではそう簡単に行かないようですが、でも間もなく回復するものと思います。 早速ですが、今日20日のニューイヤーコンサートの振り替え日が決まりました。 2013年4月28日(日)サモックホールです。 開演は同じく15:00になります。 もちろんこのころですとニューイヤーコンサートではありませんが、ご容赦下さい。 去年2012年に南港のサンセットホールで行った「時にはエンターテイメントな夕暮れで」を受けてこの度の企画が持ち上がったのですが、ふと気付くとそのコンサートが去年の4月28日だったんですね。 奇しくも同じ日付で行われる大橋さんとの企画が、面白い因縁を含んで開催されることを嬉しく思います。 自分の都合で皆様を翻弄しておいて、嬉しく思うも何もないもんですが、皆様兎に角4月28日のご予定を空けておいていただければ大変有難いと思います。 もしこの日のご都合が悪い方は、何処かで私を捕まえてチケットを突き付けた上「金を返せ!」と訴えて下さい。 皆様何卒よろしくお願い申し上げます。
2013.01.20
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・1、19、土ドイツに住んで5年目ぐらいになったころだろうか、そのころにはレッスンで先生から質問を受けて自分の感じたことや意見を表明したり、友人とディスカッションしたりも楽しめるようになって来ていた。そのころだったか、日本から古い友人が来てレッスンに参加したこともあった。「周りからどんなアドバイスを受けても、意見されても絶対に自分を変えようとしなかった頑固な茶木が、こんなに素直に自分をかなぐり捨てて先生に付いて行こうとしている姿を見て、一体このA先生とはどのような人物なのだろうと思った」と友人が述べたことを印象的に憶えている。アーゲントゥーア(演奏家斡旋事務所)が先生宅に来て、選抜された生徒(僕を含む)がその前で演奏を聴いてもらってアドバイスを受けたりした。「貴方もそろそろ歌劇場へのオーディションを受けるべきです。まだ採用されなくてもいいから、兎に角何かしらのアドバイスだけでももらっては?」と先生は言い出されていた。しかし僕は自分がテノールとして通用するとは思えなかった。それは「まだ」ということか、あるいは「もともと無理」ということかは自分でもその時点で判断できなかった。僕の中にも先生の中にも焦りのような感情が出始めていた。僕は何処かでテノールへの声種変更に踏み切ったことを後悔さえし始めていた。かと言って自分の楽器がバリトンではなくテノールであることははっきりとしていたし、そこから後戻りすることさえ出来ないことは分かり切っていた。もちろんそのころもいろんなところで演奏活動をしていたし、教会の専属テノール歌手も勤めていた。にも関わらず、当初想像していたよりも遥かに僕がテノールとして大成することは困難を極めていたのだ。それでも僕はそこに噛り付いて、根気よく自分の声に取り組み続けた。7年のドイツ滞在のうち、最後の2年ほどは今から思い起こしても苦しい日々であった。このままでは日本でもドイツでも使い物にはならない。そしてそこに僕の場合は「見えない」という問題も覆い被さって来ていた。ドイツ滞在中に少しずつ視力が低下して来ていて、自分でも自覚できるほどだった。楽譜の写譜も困難となり、歩行さえ危なくなって来た。僕の抱えた「網膜色素変性症」という病気では、それは初めから分かっていたことなのだ。ただそのことを真剣に考えないように努めていた。いつ来るか分からない運命が僕に辿りつくのを待ちながら、それまで今の視力でできることだけに力を尽くすことを決めていたのだ。そしてそれは目尻の染みのように、のろのろと気が付かないうちに、でも確実に僕の足元をじっとり浸していた。初めから分かっていたとはいえ、これでは歌劇場も何も頭から無理な話である。そんな何やかやで僕は精神的に不安定な症状が見え、不眠と頭痛と妄想に苦しんだ。毎夜声を上げてベッドの上に起き上がり、体重も見る見るうちに落ち、声もどんどん出なくなって行った。今から考えれば確実に神経衰弱の症状だ。そこからどうしても自分で抜け出すことが出来ず、誰も助けてはくれなかった。僕がそんな状況だとは誰も気が付かなかったのだと思う。じゃあ「これまで」と歌をきっぱり止めてしまうしかないのか?いや、そんな勇気は到底持てない。逆に止めてしまえればどんなに楽だろうとも度々考えた。ある日本人の知り合いの留学生が言った「我々留学生は人工衛星のようなものだ。地球に帰ることもできず、かと言って宇宙に飛んで行くこともできず、ぐるぐる回って、ふとすれば地球の引力にひっぱられて墜落する」ある日レッスン中僕が前に出て歌い、いつものように思うようには歌えず、どんどん声も出なくなる自分を実感しながら皆の前に立っていた。先生もいらいらされているのが感じられたが、それでも努めて優しい言葉を掛けて下さっていた。しかしそれが僕にはかえって辛く思え、自分の番が終わると地下の部屋に下りて誰もいないところで声を上げて泣いた。結局はテノールに成りそこなって、前に進むことも後に戻ることもできず、歌うことを諦めるしかない自分の運命を嘆いたのだ。自分が命を懸けて取り組んだ事柄に挑んで敗れる、その苦痛と絶望を僕はそれまでの人生で初めて味わったのだ。思えば子供のころ以来、本当に久しぶりになりふり構わず泣いた。幸い誰も地下には下りてこなかった。しかし上のレッスン場では先生が「トシはどうした?」と心配されていたようだ。このまま戻らない訳にもいかないので、僕は泣き腫らした目のままで階段を上がった。部屋に入って行くと先生は黙って立ち上がり、僕の傍に来ていきなり強く僕を抱きしめた。それは他の生徒たちの前だったが、僕にはかなり長く感じられる間先生はそうされていた。僕はそろそろ地球に墜落する時期だった。環境を変えてみる以外なす術もなかった。皆のように華々しく成果を上げて帰還する訳ではない。日本からドイツへ、そしてドイツから日本へ結局逃げて帰るのだ。僕はほとんど周りの友人にさよならも言わずドイツを去った。そしてとても長い年月が流れたようだ。今僕は、僕なりに楽しく歌えるようになった。今やテノールになったことへの後悔は微塵もない。何故日本に帰って、僕は自分の声を、歌を、僕の中での最高点と思えるに開花させることができたか。それは紛れもなくA先生が長い時間を掛けてそこへ導いたのだ。日本では僕は多くの生徒さんを指導することになり、レッスン方法もA先生から学んだことをベースにグループレッスンの方式を取った。それはA先生が模索された、ある意味では常識を外れたレッスン方法ではあるのだが。その指導するという作業を通して、A先生が目指されたもの、我々に伝えようとされたこと、そして我々に語られたことなどを事細かく思い出し、何年も後に初めて理解し了解して行ったのだ。もちろん教えられたことを理解したからと言って上達するものではない。その時の年齢に従った体の変化や、長い時間に少しずつ強化された筋肉などが作用する結果なのだろう。しかし今もなおA先生の指導が僕を支えていることには疑う余地はない。僕はそのことを一日も早く先生に伝えたいという衝動に駆られた。そしてもう一度今の僕の演奏を聴いて欲しい。でも先生の年齢を考えると、早くドイツに飛ばなくてはならない。毎年焦るばかりだが結局仕事に暇が取れず、元気におられることを信じて日々を過ごし、そうこうしているうちにとうとう訃報を受けることとなったのだ。声作りに生涯を懸けた先生の87年の人生。先生も自分の声に悩まれ、誰も救ってくれないその声の問題から、自分で切り開く決心をされたトレーナーとしての道。「自分にとって良い先生を選ぶ時には、深い苦悩を克服して大成した人を選びなさい。初めから何の苦労もなく知らないうちに歌えていたという人からは何も与えてはもらえません」と先生はよくおっしゃった。先生にしても僕にしても、決して歌うことに恵まれた肉体を与えられて生まれて来た者ではない。恵まれない歌い手は恵まれた者たちの楽しい人生を横目に、長い長い戦い、声という魔物との果てしない戦いを余儀なくされる。そしてそれを投げ出してしまうことすら出来ず、悪路をただ前に進むしか許されない。いつかその悪路が、平坦な楽しい秋晴れの小道に繋がっていることを信じ続けて。僕は今A先生に、傍に居ないA先生に導かれて、乾いた秋風に吹かれながらその小道を楽しく歩んでいる。先生はあの歪な形の大きな部屋の一番奥にゆったりと座って、足を組んでじっと僕を見ている。友人たちもその周りに座って議論したり、冗談を言い合ったり、向かいに座った異性にウィンクしたりしている。ピアノの和音と歌声が聴こえ、先生の後ろの大きな窓からは、相変わらずりんごの木が日を浴びて風に揺れている。「トシ!」と僕を呼ぶ先生の声が聞こえる。僕は地球の裏側で一つ溜息をついている。そこからは友人たちも消え、先生も消え、がらんとした一層大きな部屋だけが、からっぽの椅子たちだけを残してシーンとしているだろう。かつてそこで熱望された人々の夢もすっかり忘れたように。
2013.01.19
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1月20日、サモックホールでのニューイヤーコンサートのチケットをお買い上げ下さった皆様へ 先週土曜日(12日)ぐらいから何だか喉に違和感を覚え「これはまずい!」と思い、いろいろと手を尽くしましたが、しかしそれでも月曜になっても体調はよくならず、今朝起きると全く声が出ない状況になっていました。 炎症が下に降り、気管支炎に入り込んでしまったようです。 こうなることだけは防ごうと頑張ったのですが、一旦気管支が炎症すると数日でお客様をお迎えできるようにまではなりません。 残念ですが、企画者の方と相談の上、演奏会を延期させていただくことにいたしました。 皆様お手持ちのチケットは、失くさないように保管いただければ嬉しく存じます。 今の段階では振り替えのコンサートの日は未定ですが、その日が都合が悪いという方はチケットと交換で返金させていただきます。 皆様には大変なご迷惑をお掛けいたします。 心よりお詫び申し上げます。 取り急ぎお知らせまで。
2013.01.16
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・1、6、日A先生がよくレッスン中に言われた話で、戦前の歌手たちのことがある。ベルリン生まれの先生は10代のころから足繁くベルリン歌劇場に通い、様々なオペラを見聞きしたという。特にワーグナーが好きで、多くの当時活躍していた歌い手の声を耳にした。その歌い手たちの素晴らしい歌声は、今の歌い手たちには遠く及ばないと言われる。何故今の歌い手たちが当時に劣るのか。それはレコード・スピーカーの普及が原因であろうと推察されると。先生の若かった時代はスピーカーがある家もあったが、習慣として夜は歌劇場や芝居小屋に足を運ぶのが人々の娯楽であった。そこで常に生の声の響きを聴き、スピーカーから流れて来るいわゆる機械音ではない、音ではなく響きを楽しむことがまだ観客にも能力として残っていた。だから観客の歌い手たちへの批判もとても怖かったという。気に入らない歌い手が演奏すると「ブー!」と遠慮なく不満の声が飛び交う。ほとんどの観客が大変優れた耳を備えていたのだ。よって観客こそが歌い手を育てるという厳しく、また生き生きとした歌劇場が存在したと。「その時代の歌手たちの素晴らしい歌声が、私の耳の奥に未だ残っています。そして今私は、貴方たちの声にその音色を求めて止まないのです。貴方たちは決してスピーカーやイヤホーンから聴こえる機械音を手本としてはなりません。それこそが歌い手の声と観客の耳をだめにし、音しか聴き取れない、空気を振るわす響きを楽しめない耳へと貶めて行きます」日本に帰ってきて、ドイツ人に比べてなお日本人の五感のほとんどのパーセンテージを視覚が占領してしまっている状況を僕が特に強く危惧してしまうのも、その先生の検証が納得の行く意見だと思うからだろう。僕が少しずつドイツの生活に慣れたころ、一つの葬儀に参列した。先生のご主人はとても穏やかでいつもにこにこされている紳士であった。丁度先生と同い年で、70歳を迎えておられた。内科であるご主人が学会に出席される時に、その日のテーマがA先生の興味のあることであると付いて行って、昔から生理学的な体の勉強もされていた。ご主人は数年前に一度癌を患われたそうで、A先生は徹底的に食事療法をこなされ見事回復された。ご主人の70歳誕生日パーティーも大々的に開催され、多くの医学会の人々で席は埋まった。そこで何人かの生徒が演奏を依頼され、僕も何曲か歌った。しかしそのパーティーが終わってすぐご主人は倒れて入院された。誕生日後から「私は70歳まで生きたのでもう充分だ、もうこれで思い残すことはないので死にたい」と言い出されていて、その通り倒れられたということになる。最初癌の再発ではと診断されたが、A先生は「そんなはずはない」とご自分の今までの苦労を信じておられた。結局癌ではないという検査の結果が出たが、それでは原因はと言えば全く判然しなかった。そしてご主人はそのまま静かに息を引き取られた。まるでそれは自分の意志で死に向かったように誰もが感じた。彼の死は今でも僕に人の意志の不思議を思わせる。僕は初めてドイツの葬儀に出席した。そこにはA先生が育てた生徒であり、ベルリン歌劇場で現在歌っている「カルメン・レッペル」という有名なソプラノ歌手も参列し、僕は皆とぞろぞろと小高い丘の上の墓場に向かって歩きながら彼女と世間話をした。頂上の開けた所にたくさんの十字架があり、其々の墓の周りに豊かな花が植えてあった。そして参列者は順番にご主人の墓らしいところに近づいて行って、花を一輪ずつ投げ込んでいた。どういうことだろうと思い僕も順番に従って近づいて行くと、ようやく気が付いた。ドイツは土葬なのだ。花に囲まれたその穴の中を見下ろすと、遥か地下低くにご主人が横たわっている。そこに向かって花を落としているのだった。A先生が最後にその穴に花を落としてお別れをするように皆に促されていたが、首を横に振り続けて、結局墓に近づこうとされなかった。その後参列者は丘を去ったが、多分後でその上から多量の土が被せられるのだろう。それから10日間ほどA先生は喪に服された。皆生徒は通常通り集まったが、レッスンは直子さんが指導に当たられた。フロアーなどで時々先生を見かけたが、常時黒い服に身を包み、いつもご主人の写真を手に声を出して泣きながら歩いておられた。そんなに毎日泣き明かして、精神的にまいってしまいはしないかと心配したほどである。11日目に先生は黒い衣装に十字架を首に掛け授業に現れて、いつもの席に腰を下ろされた。そして笑顔で言われた。「主人がこの世を去り、私は涙が枯れるほど泣きました。これで彼と私の長い生活は終わりを告げました。さて、今日からも私は私の人生を生き続けます」と述べて生徒たちの顔を笑顔でぐるりと見回された。 つづく
2013.01.06
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・1、4、金A先生の家はケルンから汽車に乗って、海の底を思わせる広大な草原(そこにはたくさんの羊や野生の鹿が見えた)や何百年そのままだろうと思われるような古い村の中を一時間ほど郊外へ行ったディーリングハウゼンという小さな村にあり、駅から10分ほど歩いた。家の前には川が流れていて、後ろは小高い山のような丘のような所になっていた。昼休みにはその川岸で食事をしたり、山を散歩したりした。家の半地下室を片付けて生徒の休憩所を設けて下さり、そこにコーヒーメーカーを持ち込んで、いろんなクラスメートといろんな話をした。そのような毎日で僕も少しずつではあるがドイツ語にも慣れて行き、3年目に入ったころには直子さんの通訳なしでもある程度授業で先生が言われることも理解できるようになって行った。そのころから先生は、少しずつ僕に人前でテノールとして演奏する機会を与えて下さった。いろんな所からの依頼が学校に持ち込まれ、先生の判断で生徒にその仕事を与えるのだ。ある時山沿いの古い村でコンサートの企画があり、僕はそこでソロミニリサイタルのようなことをする機会に恵まれた。まだテノールとしておぼつかない演奏ではあったが、好きなドイツ歌曲をドイツ人の前で演奏するという初めての経験をした。当然なことではあるのかもしれないが、歌詞の意味にタイムリーに反応があり、溜息が聞こえたり、笑いが起こったりする。本来これが生きたドイツ歌曲の演奏なのだと実感もした。その他国の文化を日本で演奏することの難しさ、観客が興味を持てない当然の理由も改めて考えさせられた。演奏終了後に先生と一緒に写した懐かしい写真も残っている。何度目かの冬になり、まだ薄暗い雪の積もるケルンから汽車に乗り、更に雪の多いディーリングハウゼンに降り毎日先生の家に向かった。気温は冷下13度ぐらい。どんなしっかりした雪靴を履いていても足先は感覚がなくなる。その日は何度目かの先生の誕生日会。先生は急にある提案をされた。「今日は私がレッスンしているところを皆其々物真似して下さい。一番上手な人には賞を出します」その日は全生徒、先生の息子、娘さんなども集まっていて、部屋は満杯状態であった。それでも一人ずつ先生の椅子に座り、一芸ずつ先生の物真似をして、皆で大笑いして騒いだ。僕の番が来て「君たちはこう歌っている(急に咳払い)ほらね、君たちの真似をするといつもえへん虫だ」という先生の口癖を真似て演技した。一同に大爆笑。結局僕は賞をいただき、人形をもらった。時間は流れ、夜の終了時間に近づくにつれてレッスン室の窓の外は見る見るうちに雪が積もり、窓の半分ぐらいを覆うほどになって行った。先生の家を出ると、雪は胸ぐらいまである。通りに出るまで大変な時間が掛かった。車ももちろん一台も通っていないので、我々は道路の真ん中を胸までの雪を掻き分け掻き分け、駅まで一時間以上掛かって汗をかき歩いた記憶が印象的に残っている。その数日後、レッスン中皆の前で先生は大変な告白をされた。何かの話題の流れから、終戦後すぐの先生の体験を語り出されたのだ。終戦といっても、ドイツにとっては日本と同様敗戦ということだ。「戦争が終わってすぐ、ある日ロシア兵がこんな田舎の村にもやって来ました。その時家には私とまだ小さな長男、長女、そしてお腹の中の子供だけで居ました。私は22歳、それは真昼だったのです。三人のロシア兵はずかずか家に入って来て、拳銃の銃口を私のこめかみに当てました。その冷たい感触を今でもここに、こめかみのところに覚えています。そして彼らは子供たちの前で私をレイプしたのです。その時お腹の中に居た息子がLです。だから彼は私の精神的なショックをそのまま感じて生まれて来たのだと思います」これはドイツ人だから告白できることなのか、先生がすでに70歳だからか、それとも先生の気質だからなし得ることか、僕には判断出来なかった。日本人にはなかなか難しいだろう。その時に銃口をこめかみに感じながら、死を覚悟した先生の立場に近づこうとすると胸が苦しくなった。 つづく
2013.01.04
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・1、3、木A先生は、ケルン市内からものすごい音のするディーゼル機関車で一時間ほどの小さな田舎町に、声楽研究所と称する学校を開かれていた。ここは国に認可されたプライベートな学校で、歌劇場に歌い手を送り込むための訓練所というべきところだった。よってそこに在籍することでビザが取れるので、観光ビザぎりぎりの三ヶ月間レッスンに参加した後、先生の一筆を持って一旦僕は日本に帰り、一ヶ月後に認定された学生ビザを携えてケルンに戻った。その時点で季節は夏になっていた。A先生は快活で派手な性格であった。人を笑わすのがとてもうまく、普段も赤いスカートにフリルの付いたようなかわいいブラウスという出で立ちということが多かった。騒ぐことも大好きで、一年後の70歳誕生日パーティーで踊り回っておられた先生を憶えている。当時毎朝11時から13時まで、二時間昼休みの後午後15時から18時までというカリキュラムでグループレッスンを行い、生徒は各クラスに週一度、乃至は二回参加していた。思い起こせば午前のレッスンには7人ほど、午後のレッスンには11人ほどが入れ代わり立ち代り参加していたので、相当の生徒数だったと思う。その中には舞台で活躍するプロの歌い手から、昨日歌を始めたという10代の若い子から、普通の主婦からサラリーマンまで多種多様な人々が居て、先生が定義する課題について果敢に挑戦していた。国籍も多様で、ほとんどがドイツ人の中にオランダ・韓国・ポルトガル・アメリカ・ロシア・トルコ・ルーマニア・日本と様々であった。その中でも先生は日本人を特に贔屓した。A先生はちょっとそういうところもある人だった。気に入った生徒とそうでない生徒への対応がちがうのだ。自然一人の指導時間にも差が出て来るし、生徒通しのやっかみや意識の仕合いも出て来る。そのことで先生を離れて行く生徒も少なくなかった。「貴方たち日本人は遠くから私のところに勉強に来て、いつまでもここに居る訳にはいかないのだから、レッスン料はそのままでいいから、兎に角毎日レッスンに来なさい」とおっしゃった。当時直子さん、僕ともう一人日本人が居て、我々は毎日朝から夕方まで授業に参加した。直子さんはピアノ伴奏を担当することで先生の学校ではスタッフのような役割となっていた。そのせいもあって、僕は語学学校に通うこともできなかったぐらいである。だが毎日一日中ドイツ人たちのディスカッションや先生の説明を聞いていることで、随分耳もトレーニングされ、生きたドイツ語を身に付けることができたと思う。そこには語学だけではなく、ドイツ人の気質や考え方、生き方までが体で感じ取れた。我々日本人はいつも辞書を片手にそんな輪の中に居て、常にA先生の話を聴きいつの日か先生の口調や使う単語まで会得してしまったようで、スムーズに話せるようになったころは「君年寄りみたいなはなし方をするね」とか「君は今は使わない綺麗な単語を知っているね」とよく言われた。日曜日の午後に我々日本人だけお茶に呼ばれることも何度かあった。庭の木陰の中にテーブルと椅子を持ち出して、高価な食器を並べて手作りの大きなケーキと紅茶を皆でいただいた。そのテーブルには我々日本人三人の他に、先生のご主人(内科の医師)・息子L氏・娘さん・先生宅に住み込みの書生のB氏(プロの歌い手に成るべく日夜訓練を受けているテノール歌手)が居た。日本では経験のない、ゆっくりと穏やかに流れる時間の存在を初めて知った。つづく
2013.01.03
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・2013、1、1、火夕べ遅くにドイツの友人から電話があり、A先生(女性)が他界されたという報告を受けた。享年87歳であった。まだまだお元気であるだろうから今のうちにドイツに行き、先生を訪ねてもう一度歌を聴いてもらいたいと強く思っていたので、少なからずショックを受けた。しかし実のところ3年ほど前から痴呆が進み、先生は夜となく昼となく家内の階段を上がったり下がったりされていたという。最後はホームに入られて、そこで息を引き取られたということである。その報告を聞く受話器を持ちながら、瞼の裏に残っている幾つもの先生の残像を見ていた。家のチャイムを鳴らすと、ドアが開いて見える先生の笑顔。レッスン場の広い部屋で、何人もの生徒に囲まれて足を組んで座を占める先生の姿。その先生の後ろの掃き出しの窓から見えるりんごの木のそよぐ葉。そんな断片的な映像が浮かんでは消えた。28歳の1月ごろ僕はドイツへのフライトを決心してから、何人かの知り合いに電話を掛けてコネクションを模索した。何人かへの電話の最後に京都芸大のある先生に電話を掛け、僕がドイツで指示すべき先生を紹介して欲しいと頼んだ。するとその先生の娘さんがケルンにもう10年以上住んでおられるとのことで、とにかくその人を訪ねることとなった。昔「茶木の音楽紀行」に書いた直子さんがその人である。しかし直子さんも今から6年ほど前に55歳の若さで他界された。僕は観光ビザの三ヶ月で何とか落ち着き先を決めようなんて甘い考えで、見えない恐怖と戦いながら生まれて初めての飛行機に乗ったのだ。苦労して一人でケルンに辿り着き、直子さんに会ってケルン大学のメンザで食事し、これからのことを相談した。ケルン音楽大学を受験することを念頭に考えていた僕は、彼女の伝で大学内の幾つかのレッスンを見学させてもらうことになった。しかしどれ一つ心引かれるレッスンはなく、がっかりしてケルンを去ることも考えていた。そこで直子さん自身が通っておられたレッスンに付いて行く機会があり、そこが僕の腰を落ち着ける勉強先となったのだ。僕はただ見学のつもりで付いていったのだが、A先生は僕に何か歌えと要求された。10人ほど円を描いて座るドイツ人たちの前で、僕はフィガロの結婚から「もう飛ぶまいぞこの蝶々」のアリアを歌った。その日から「明日も来なさい・明日も来なさい」とA先生に言われ、とうとう一週間が過ぎた。その間いろんな曲を歌わされ、いろんなことをやらされて、最後に先生は僕の手を取って言われた。「貴方はバリトンではありません、テノールです」と。僕はその時頭からA先生を信じてはいなかった。そんな天地のひっくり返るようなことを言われたことがなかったし、高音の出ない僕がテノールである訳がないと固く信じていたからである。その時点で僕は学生から舞台活動まで10年以上ずっとバリトンで歩んで来ていたのだ。それに女性である先生が男性の声を深く聞き分けられるはずもないとも思っていた。後で先生の耳がそのような性別も超えた技術を持ったものだと分かったのだが。そこでA先生は続けた。「私に2年間の時間をいただけませんか?貴方をテノールにしてみせます」と。僕はその言葉に胸打たれた。もし自分の楽器が本当にテノールであり、今が偽りならば、おそらく僕自身の可能性も解き放たれるかもしれないとも考えた。そしてこの先生にすべてを預けてみようという気になったのだ。もちろん結果2年間ではどうにもならなかったのだけれど。ただ先生の見立ては的を得ていた。今思えば僕の楽器は確実にテノールなのだ。僕の声はそれほどやっかいで特殊な声なのだ。それを見抜ける人はA先生以外に存在しなかった。それを考えると怖くもなる。僕は僕なりに行動を起こしてその結果A先生に辿り着いた。辿り着けなければ今でも偽りのバリトンで歌っていたことだろう。先生はベルリン音楽大学で学ばれた歌い手であったが、いわゆる歌い手ではなくトレーナーの道を選ばれた。先生が育てた世界的に活躍する歌い手も多く居る。声を研究し、多くの経験と知識で自分なりのトレーニング方法を模索し、0から自分の手で優れた歌手を育て上げる野望に燃えておられた。僕が最初先生に出会った時は60代最後ぐらい。今から思えば、その先生の声への情熱は目を見張るものであった。先生はいつも言われた。「声楽教師だからと言って歌えなくてもよいということは決してない。いつでも舞台で活躍する歌い手と同じだけ歌える力を持ってトレーニングに当たらねばならない」と。 つづく
2013.01.01
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本年あけましておめでとうございます。旧年中も拙い日記を読み続けて下さり、誠にありがとうございました。皆様同じ感でおられると推察いたしますが、私の2012年も全くそこに存在したかどうか疑わしくなるほど、立ち止まることも振り向くこともなく一心に通り過ぎてしまいました。手を伸ばし掴まえ、そこでしばしゆっくり考えようと思ってみても、するりと逃げて惜しい心持だけが残るような気がいたします。とは言えゆっくり一年を振り返ってみれば、それはそれでなるほどある程度のことをこなしたりやり遂げたりもして来ているようです。自分に対してあまり贅沢な期待をせずにみればということですが。年々自分への必要な期待は過剰になる傾向でもあるようです。それよりも、今の自分が精一杯やったことへの満足と賞賛も少しは授与できるようになるべきなのでしょう。本来自分という人間は、そんな大それたことなど出来はしないのですから。さて、今年の自分もその貧弱な腕を上げ、未だ蓄え得ない脚力で前に己を運びながら、その限られた可能性をどれだけ最大限に活用しうるか、そこに興味の一点があります。我々生き続ける者にとって、何かしらの理力がある年でありますように。
2013.01.01
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