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図書館に予約していた『「おバカ大国」オーストラリア』という本をゲットしたのです。オーストラリアには個人的に好感を持っているし、ミニブームの感があるのです。【「おバカ大国」オーストラリア】沢木サニー祐二著、中央公論新社、2015年刊<「BOOK」データベース>より犬は基本、放し飼い。泥酔文化にドラッグ蔓延。移民に仕事を奪われ、失業保険で暮らす…。そんなオーストラリアは、こんなに幸せな国だった!おバカと幸福、相反する二つが同居する秘密を在住18年の著者が探る。賢い日本、今こそ「おバカ大国」に学べ!<読む前の大使寸評>オーストラリアには個人的に好感を持っているし、ミニブームの感があるのです。<図書館予約:(1/12予約、2/23受取)>rakuten「おバカ大国」オーストラリアそこそこうまくやっているオーストラリアであるが、なぜうまくいけてるのかを見てみましょう。p101~104 <孤立大陸に危機感は無い> 国としてのオーストラリアは、1788年にイギリスによって植民地として発足し、のちの金鉱ラッシュなどを経て、1901年に連邦政府ができました。今からわずか100年あまり前のこと。日本でいえば明治34年、伊藤博文が総理大臣をしていた時代に、ようやくその大陸に足を踏み出したのです。 そして歴史が浅いため、国土の大部分はまだ未開発です。シドニーの市街地からちょっと内陸にいくだけで広大な土地が広がっています。 森林もあれば、潅木が茂るだけのだだっ広い草原もあります。見渡す限りの大地ですが、ほとんど誰も手を付けていない。本当にただの草っぱらです。 「ランドリリース」といって、国有地を一般の人々に販売していますが、それでもまだまだ土地はあります。ただし、そこに電気や水道、道路などのインフラをつなげていくだけの資本力と計画性、そして「ソフト」と実行力がない。だから手付かずのままなんです。 しかしこれは決して悪いことばかりではありません。おそらくこれらも人々にストレスを与えていない要因になっています。 みなさんも地元などへ久しぶりに帰ったとき、何年経っても景色に変わりが無いと、「ああ、変わらないな」などとホッとしませんか? 21世紀になってすら変わらない部分があるからこそ、オーストラリアという存在は貴重であり、世界のなかでも特異な位置を占めることができているのでしょう。 都市が発展してメリットを享受することがあっても、一方で、自宅まわりの道が渋滞して混雑し、騒音が起きて、人通りが増えて物騒になれば、すべてがいいこととは限らないかもしれません。 地域が発展し、国が発展すれば、自分たちも幸せになれる、というのはおそらく前世紀までの幻想です。オーストラリアで暮らしていてよく分かりますが、個人の幸せは、国の発展と必ずしも同じではないようです。個人が幸福になれる社会こそが、これからの時代、本当の意味で幸福な社会なのではないかと私は感じています。ウーム 資源の大地であったことに加えてイギリスの植民地経営がうまかったのか、入植者たちのいいかげんさがよかったのか・・・どうなんでしょうね。日本から来た「ユニクロとダイソー」が衝撃的だったようです。p177~179 <グローバル化の波> そんな独自路線のオーストラリアにも、グローバル化の波はやってきています。 オージーにとっての衝撃的なグローバル化、それはなんと日本から来た「ユニクロとダイソー」でした。 ダイソーがオーストラリアにやってきたのは2010年。ユニクロのオーストラリア国内初店舗がオープンしたのは2014年4月。いずれもその後は店舗数を拡大し、特にユニクロはシドニー郊外のマッコーリーヤ、シドニーの中心地にも新店舗をオープンしました。 人々はまずその価格設定に驚きました。 ダイソーの価格設定である「100円」は、こちらでは「2ドル80」(約250円)ですが、それでも格安です。特に文房具と化粧品の安さに、オージーたちは驚愕したようです。 「本当に2ドル80セントで手袋が買えるの?」「こんな値段で化粧水が買えるの?」 ランチタイムになれば、近隣で働くオージーが、レジに列を作って並んでいます。若いアジア系の女の子たちなどは文房具や小物を夢中で選んでいます。これは100均と呼ばれる販売方法が日本でできた当初などに見られた、かつての光景に近いと思われます。 これほどダイソーが歓迎される理由、それは物価高だから。 よく言われるのが「靴下2倍、書籍3倍、文具4倍、化粧品5倍」。日本と比較すると、実際にそれだけの差がありました。 ユニクロの衣料品もカジュアル服の価格破壊につながりました。 これまで、高価格で粗悪な衣料品しか知らない人々は、高品質で低価格のユニクロ商品にとても衝撃を受けました。シャツも靴下も、これまでオーストラリアで売られていた物と、その品質に雲泥の差がありました。 ユニクロの登場でオージーの意識は変わり、「普段着でも、ある程度小綺麗な服を着ることができるんだ」などと考えだしたようです。 これまで彼らが着るものと言えば、パーティに着ていくようなドレスアップか、家の中で着るようなTシャツ、短パン、サンダル(もしくは裸足)。多くのオージーにとって、それ以外の服装というものは存在していませんでした。 しかし移民増によって、ジーンズやスニーカーを普段着として着用する人が増え、とどめにユニクロの普及もあって、ようやく「普段着」という存在をオージーが意識するようになりました。これは革新的なことと思います。 この傾向に沿うように、スウェーデン資本のH&Mも、2014年に初のショップをメルボルンにオープンしました。 スペイン資本のZARAは、今やオーストラリア国内に9店舗。イギリスの資本であるTepshopは2011年に開店して以来、4店舗まで増えました。 実はこれらは北海道へスキーに行くオージーが増加した時期と重なります。オージーの日本好きを促すのにもダイソーとユニクロは大きく貢献したのでしょう。『「おバカ大国」オーストラリア』1『「おバカ大国」オーストラリア』2この本も気分はオーストラリアR3に収めておきます。
2017.02.28
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図書館に予約していた『「おバカ大国」オーストラリア』という本をゲットしたのです。オーストラリアには個人的に好感を持っているし、ミニブームの感があるのです。【「おバカ大国」オーストラリア】沢木サニー祐二著、中央公論新社、2015年刊<「BOOK」データベース>より犬は基本、放し飼い。泥酔文化にドラッグ蔓延。移民に仕事を奪われ、失業保険で暮らす…。そんなオーストラリアは、こんなに幸せな国だった!おバカと幸福、相反する二つが同居する秘密を在住18年の著者が探る。賢い日本、今こそ「おバカ大国」に学べ!<読む前の大使寸評>オーストラリアには個人的に好感を持っているし、ミニブームの感があるのです。<図書館予約:(1/12予約、2/23受取)>rakuten「おバカ大国」オーストラリアオーストラリアといえば流刑地としての歴史を持つが、そのあたりを見てみましょう。p40~43 <流刑者の血を引くメンタリティ>■流刑先としての歴史 オーストラリアは18世紀後半から本格的にイギリスによって開発が進められました。 極端な話をしてしまえば、アボリジニなどの先住民を除き、入植開始時にオーストラリアへ渡った人々は、入植地の管理者側として来たか、犯罪者のいずれかに大きく分類されます。流刑先としてオーストラリアへ渡った人たちは、近代国家としてのオーストラリアを開拓する労働力となり、管理者側は政府を組み立てる側になりました。 彼らがオーストラリアに植民地を建設した1788年以来、当初の数十年間では「犯罪者のほうが圧倒的に数が多かった」(豪教育省)のも事実です。ニューサウスウェールズ州発表の数字によれば、1868年までのあいだにオーストラリアへ渡った犯罪者はおよそ16万5000人であり、当時の人口の多数を占めています。 彼らを起点に今のオーストラリアが発展してきたため、多くの国民には「先祖をさかのぼれば、結構な確率で犯罪者」というメンタリティが強く共通認識として残っています。■犯罪者がヒーロー扱い 警官に包囲されても降伏せずに、甲冑で身を固めて戦った犯罪人ネッド・ケリー(1855~80年)は、今でもオーストラリアの国民的ヒーローです。「ネッド・ケリーのように勇敢な」というオージー流の言い回しもあります。 日本で言うところの「桃太郎」とでもいえば分かりやすいでしょうか。 勇気を持って村の人々のために鬼退治に出かけ、無事に帰ってきた桃太郎は日本の伝統的なヒーローですが、ネッド・ケリーは「警察という権力に強く立ち向かった勇敢な犯罪者だった」と、ある意味であがめられています。 自分たちの祖先がどんな罪を犯したのか検索できるサイトもあり、そこからの「自分探し」も盛んです。 今の世代でも、「先祖が犯罪者だった」とあっけらかんと語るオーストラリア人はたくさんいます。むしろ「祖父はこんな罪で植民地送りにされたのか」などと自分の歴史をたどることで感慨にふけるといいます。 メルボルンを舞台にしたマフィア社会の抗争を描いたテレビドラマ「アンダーベリー」も大人気でした。2012年、ドラマのなかでマフィアのボスが逮捕されたときには、国内メディアはヒーローが捕まえられたかのように大騒ぎとなりました。そろいのユニフォームを着て大型バイクを連ねて走る、いわゆるバイキーギャングも広く知られています。■バレなければいい・バレたら逃げる 流刑者の血を引く、という意識は国民のメンタリティに影響を与えていると思われます。 それはやや極端に言えば、「悪いことをしてもバレなければいい」という考えをどこかに持っている、ということ。もしくは「多少のルール違反なら許容範囲」「何も被害が起らなければ問題なし」ということです。 もちろんすべてがそうだということはあり得ませんが、「バレなければいい・バレたら逃げる」というメンタリティは、オージーにしっかりと備わっていると感じられます。 たとえば赤信号で車が止まっているとき、周りに誰もいなければかなりの頻度でその車は赤信号を無視し、走り出します。右折禁止、ユーターン禁止も同じ。誰も見ていなければ、どんどん走ります。この本も気分はオーストラリアR3に収めておきます。
2017.02.28
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図書館で『やっとかめ!大名古屋語辞典』という本を手にしたのです。おお 清水義範さんの本やないけ♪この本は、過去に一度借りたことがあるが、それを承知の上で借りたわけでおます。借りた理由としては、まず第一に、大使には名古屋弁がどえりゃあ面白いことがある。でもそれだけでなくて、清水義範さんの本には、売れない作家の苦悩がつづられていて、それが結構、面白いわけです。【やっとかめ!大名古屋語辞典】清水義範著、学研プラス、2003年刊<「BOOK」データベース>より本書は、名古屋語の、生きた姿をやみくもに伝えてしまうかつてない辞典である。<読む前の大使寸評>おお 清水義範さんの本やないけ♪この本は、過去に一度借りたことがあるが、それを承知の上で借りたわけでおます。rakutenやっとかめ!大名古屋語辞典わりと独特な名古屋の味について、見てみましょう。p125~126 <愛知県人の味覚のルーツ> 愛知県の吉良町は、古くから製塩業の行われたところである。現在の吉良町内の古墳から製塩壷が発見されているぐらいだから歴史が古い。吉良町の隣の西尾市は、もともとは、煮塩という製塩にちなんだ地名だったのでは、という説もあるほどだ。 とにかく、吉良では江戸時代にも、製塩業が行われていた。吉良の塩は饗庭塩と呼ばれて、質のよいことで知られていた。そして、その塩こそが、忠臣蔵で有名になった、浅野内匠頭の刃傷事件の原因だ、という説がある。その説とはこうだ。 吉良は、吉良上野介の領地である。そこでは塩を生産しているが、それほど大規模な産業ではない。一方、浅野内匠頭の所領は播州赤穂である。赤穂は塩の大産地で、江戸でも大いに消費されていた。 そこで、吉良側が赤穂側に、塩の生産拡大の技術を尋ねたところ、それは秘密ですと断られた、という話を作るのだ。そのことを吉良上野介は恨みに思い、勅使饗応役に選ばれた浅野内匠頭をいじめにいじめた。それでついに刃傷事件となってしまったのだ。というのが作家の海音寺潮五郎氏なども大いに説いた仮説である。 ところが、どうもその説は違っているらしい。赤穂の塩は江戸で庶民に使われるものであるのに対して、生産量は少ないが吉良の饗庭塩は上質で、信州や三河の味噌や、漬物用に使われたらしいのだ。要するに、流通ルートがまるで別で、競合する商品ではなかったのである。 それに、吉良から赤穂に製塩法の改良策を尋ねたことは実際にあり、その時赤穂藩は技術者をよこして指導してくれている。塩をめぐっての恨み、というものはなかったのだ。 吉良の塩は、矢作川をさかのぼるルートで信州に多く運ばれた。信州の味噌と、野沢菜着けなどの漬物用の、塩の道があったと考えればよい。そして、その塩の終点が、塩尻である。ちゃんと地名に、物流の証拠が残っているのが面白い。西尾(煮塩)や吉良で造った塩を運んだ先が塩尻、というわけだ。 もちろん、三河でも味噌用に吉良の塩が使われた。三河の味噌、といって思い出すのは岡崎の八丁味噌だが、あれは忠臣蔵事件のあった元禄時代に考案されたものだ。あの味噌が、尾張や三河の人間の味覚に大いに刺激を与え、味の文化を生み出していったのは間違いのないところで、そこにも吉良の塩がからんでいるわけだ。 そもそも、愛知・岐阜・三重の三県は、味噌を大豆と塩だけから造るという豆味噌文化圏である。それ以外の地方では米味噌や麦味噌が造られている。 だから、愛知県人はどうも信州の白い味噌に舌がなじまないのだろう。赤い愛知県の味噌で造った味味噌でないと満足できないのだ。そして、味噌カツ、なんてものを考案してしまうほどに味噌好きである。味噌煮込みうどん、という名作も、その文化の中から出てくる。 愛知県人のそういう味覚は、かつて吉良の塩に支えられていたわけだ。もちろん今では吉良で製塩業は行われていないのだが、味覚のルーツはそこにあったのだ。ウン 豆味噌文化圏というものがあったのか♪味噌煮込みうどんの味にはまった大使としては、この記事には大いに啓蒙されたわけでおます♪この辞典で、名古屋弁の一例を見てみましょう。p33 <えりゃあ> 普通ではないことを表すきわめて使い道の広い言葉。「疲れる」「大変な」「ものすごい」そして「偉い」等、様々な意味をもち、発音もまったく同じなので理解するのがきわめてむずかしい。 「えりゃ」と短縮形で使われることもある。「えりゃあを笑う者は、えりゃあに泣く」という格言があるほどで、名古屋語をマスターするためにはどうしても越えなければならない関門である。なお、英語と同様比較変化をし、比較級は「どえりゃあ」、最上級は「どえらけねゃあ」となる。これが名古屋独特の圧縮技術により「どえりゃあ」→「でりゃあ」→「でら」となると、もう名古屋人以外には理解不可能。東海地方限定ビールの「でらうま」が「どえりゃあうみゃあ」の圧縮形であることを理解できた東京人は皆無と言っていいだろう。 なお、一部地域では、「ど」ではなく「も」がついて、「もえりゃあ」「もえらけねゃあ」となることがあるが、意味は同じである。(例)「今日、学校で先生に、えりゃあってほめられたがや」「そりゃえらかった。何でほめられたん?」「遊んでて窓ガラス割ってまったら、どえりゃあことしてくれたって」なお、過去の日記を調べてみると、この本は去年の9月に借りていました。で、今回の記事は、その2としたのです。『やっとかめ!大名古屋語辞典』1神戸市の味噌煮込みうどんに関連するお店
2017.02.27
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今回借りた4冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「人類学」でしょうか♪<市立図書館>・「おバカ大国」オーストラリア・お言葉ですが・・・別巻2・やっとかめ!大名古屋語辞典・二十一世紀の人類像<大学図書館>(今回はパス)図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【「おバカ大国」オーストラリア】沢木サニー祐二著、中央公論新社、2015年刊<「BOOK」データベース>より犬は基本、放し飼い。泥酔文化にドラッグ蔓延。移民に仕事を奪われ、失業保険で暮らす…。そんなオーストラリアは、こんなに幸せな国だった!おバカと幸福、相反する二つが同居する秘密を在住18年の著者が探る。賢い日本、今こそ「おバカ大国」に学べ!<読む前の大使寸評>オーストラリアには個人的に好感を持っているし、ミニブームの感があるのです。<図書館予約:(1/12予約、2/23受取)>rakuten「おバカ大国」オーストラリア************************************************************【お言葉ですが・・・別巻2】高島俊男著、連合出版、2015年刊<「BOOK」データベース>より【目次】退屈老人雑録(選ばなかった道/ヨーロッパ最新の『隠居論』/諸藩のえりぬき「貢進生」 ほか)/うまいものあり、重箱のスミ(ミスタータイガース永久缺番10/天もとこしえ地もとこしえ/多藝の天才?器用貧乏? ほか)/戦後国語改革の愚かさ(戦後国語改革の愚かさ/漢字の輸入は日本語にとって不幸であった/なんだこりゃ、中国の漢字 ほか)<読む前の大使寸評>追って記入rakutenお言葉ですが・・・別巻2************************************************************【やっとかめ!大名古屋語辞典】清水義範著、学研プラス、2003年刊<「BOOK」データベース>より本書は、名古屋語の、生きた姿をやみくもに伝えてしまうかつてない辞典である。<読む前の大使寸評>おお 清水義範さんの本やないけ♪この本は、過去に一度借りたことがあるが、それを承知の上で借りたわけでおます。rakutenやっとかめ!大名古屋語辞典***********************************************************【二十一世紀の人類像】梅棹忠夫著、講談社、1991年刊<内容紹介>より噴出する世界の民族問題をどう考えるべきか。東西冷戦後の世界は21世紀へむけ国家体制を乗りこえ民族のせめぎあいが強まる。民族・人種・国家の概念さえ判然としないわれわれ日本人は、それらの理解なしには世界に貢献できない。ますます強まる民族の自己主張の本質はなにか。本書は卓越した見識をもつ著者が豊富なフィールドワークから世界を見る目=民族学的視点を開示する刮目の書である。<読む前の大使寸評>追って記入kodansha二十一世紀の人類像************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き201
2017.02.27
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図書館で『京町屋拝見』というビジュアル本を手にしたのです。全ページにわたってカラー写真満載であり、きれいな本である。【京町屋拝見】水野克比古著、光村推古書院、2011年刊<「BOOK」データベース>より【目次】京町家ー都のくらしとともに/名家探訪(長江家/秦家/吉田家)/町家歳時記(新春/春/初夏 ほか)/暮らしの意匠と構成(鍾馗/屋根/虫篭窓 ほか)<読む前の大使寸評>全ページにわたってカラー写真満載であり、きれいな本である。rakuten京町屋拝見ハシリ大使にとって京町屋の関心事といえば坪庭ということで、その坪庭見てみましょう。p12~13 <京町屋と坪庭> 都市住宅である町屋は、密集して立ち並ぶため一年中薄暗く、ジメジメしている。家の中に光と風をとりこんで、こうした不快さをやわらげてくれるのが「坪庭」とよばれる小さな庭だ。表屋造のようないくつもの建物からなる家では建物と建物の間、小さな家でも建物の裏や横のわずかな空地に、意匠を凝らした庭がつくられてきた。 指図の町屋の坪庭は、玄関をはじめ表・主屋という三つ建物に囲まれているため、それぞれの建物からそれぞれの楽しみ方ができる。たとえば、客が玄関から迎えられるとき、主人の背後に坪庭を見ながら家にあがることになる。 表の店の間から坪庭をとおして奥の座敷や、さらにその奥の庭が垣間見えたりすると、つくづく町屋の空間の広がりとゆたかさを感じるものだ。そして、これはとっておきの楽しみなのだが、二階から坪庭を見下ろすと、両掌におさまってしまうミニチュアの庭のようだ。 また、坪庭に入ってくる光は季節や天候によってずいぶんとかわる。そして、光は屋根と屋根の小さなすき間から落ちてくるために、差し込み方が時間とともに移り変わっていく。高密度な町屋の建築構成と、時間や季節の変化が坪庭にさまざまな表情をあたえるのだ。 一方、奥の庭はより大きく開放的で、ゆたかな緑の演出が可能となる。指図の町屋では主屋から奥の庭に面して湯殿が張り出し、この家では風呂からも四季の庭を楽しんだことだろう。
2017.02.26
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図書館で『木の住まい』という大型ムックを手にしたのです。もともと木造住宅を志向していた大使であるが・・・・予定外の阪神大震災を被災した関係で、熱物に懲りたように鉄骨プレハブ系の注文住宅を建てたわけです。家は一代の高価な買い物であるだけに、今でもやや悔しい思いがあるわけでおます。【木の住まい】大型ムック、朝日新聞社、1984年刊<「BOOK」データベース>よりデータなし<読む前の大使寸評>もともと木造住宅を志向していた大使であるが・・・・予定外の阪神大震災を被災した関係で、熱物に懲りたように鉄骨プレハブ系の注文住宅を建てたわけです。amazon木の住まい木がつくる生活空間あたりを、見てみましょう。p23~27 <木がつくる現代の生活空間:吉田桂二>■木がつくり出す表現の原点は柔和なものでは決してない 木ばかりだった建具がアルミに変わり、昔どおりに壁に塗っている左官の材料さえ、土ではなく、合成樹脂をたっぷりふくんだ化学製品に変わった。アルミを木の色に似せて茶褐色にし、樹脂壁を土壁に似せ、ボードの表面に木目プリントを使い、イグサ色のビニールで畳をつくる。自然の材料でつくられていたころの、それらの姿の摸倣は、事実として少しも巧みではないが、いかに巧みに行われたとしても所詮はまがい物にすぎない。 まがい物よりも本物のほうがよい、と思わぬ人はいない。しかし本物はいかにも高価すぎる、という経済原理には抗しがたい。だが、それに流され続けてしまうことは、大げさな比喩だが、食うために流されて戦争に加担してしまうのに似ている。ほかに道はないのか。■木でつくる骨格をそのままに表現するのが生活空間の伝統だ 木材資源が豊かだった日本で、木の家が高度に発達してきたのは自然の理だ。しかし、木を惜しげもなくふんだんに使ってきたわけでは決してない。柱を立て、桁で結び、梁をかけ渡して家の骨格をつくり、柱の間に壁を塗り、あるいは建具を立て込んで家にする日本の伝統的な工法は、木材の使用量でいえば、最近、技術導入されてつくられるようになってきたツー・バイ・フォーの工法とくらべて、2割ほども少なくてすむ。つまり用材節約型の工法なのだ。 成りゆきまかせにすれば、用材を減らせば家が弱くなり持ちが悪くなる。日本の伝統的工法はそれを大工のわざで補い、精緻な仕口の技法を育てあげてきた。そうした技術が今なお、健在とまではいえないけれども、生き続けていることは確かだ。 日本の伝統的な生活空間の形は、伝統的な工法で組みあげられた家の骨格を、そのまま表現することでつくられてきた。そこでは、木の骨格を仕上げ材で覆いかくしてしまうことでおこる、躯体と仕上げの分離という現代的な現象はおこっりえない。躯体そのものがすでに仕上げの大半をとり仕切って、壁・天井その他の仕上げ材などは補完の意味しか持たない。 これは伝統的な民家に見られる生活空間の構成原理だが、この例もふくめて、この類型はきわめて多い。現在も、また将来も、伝統につちかわれたこの原理は、なお受けつがれてゆくに違いない。建築材としての木そのものについて、見てみましょう。p34 <木を生かして使う:高須賀晋> 木はもともとが軽く、細工がしやすい材である。難点がいくつか挙げられるが、それも技術でカバーできるようになった。難燃性も耐震性も永続性も得て、今ではますます材料としての優秀さを加えている。 こうした技術的発達は、不足する資源の面でも加速されている。世界的に木材は乱伐されてきたから、大事に大事に使わねばならない時代である。銘木のたぐいはなおさらで、独占は許されなくなっている。ムクの銘木は得がたく、それを薄く削って張る集成・積層の技術となった。 たしかにマガイものだが、木にはちがいない。それに、その美しい木肌を多くの人が愛で、心なぐさめられることはやはり素晴らしいことだろう。 日本人の持ちつづけけた木への愛着は、感覚的に正しかったと思う。だが、豊富なゆえに木は乱用され、一代ごとの共生関係となった。民家で最古のものが室町期、多くが古いといっても江戸末期のものであることを考えれば、木造住宅に文化の積層性は薄かったといえる。 建て替え、建て替えの歴史が木造住宅だったが、今では許されぬ時代である。逆に、建て替えず、古い基層に新しさを加えていく積層の文化が可能になった時代ともいえる。木との共生は一代ごとであってはならず、木の家も石のように積み重ねていかなくてはならない。 木肌の持つ温もりと優しさが人を心安らかにすることが、将来ともに変わるとは思えないからである。 ウン 古民家再生という直裁な行為でなくて、文化の積層性という概念で語るのが・・・ええでぇ♪
2017.02.26
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図書館で『不愉快な本の続編』という本を手にしたのです。カミユの「異邦人」を意識した小説とのこと・・・・期待できるかも♪絲山秋子ミニブームがまだ続いています。【不愉快な本の続編】絲山秋子著、新潮社、2011年刊<「BOOK」データベース>より女と暮らす東京を逃げ出した乾。新潟で人を好きになり、富山のジャコメッティと邂逅し、そして故郷・呉から見上げる、永遠の太陽ー。不愉快な本を握りしめ彷徨する「異邦人」を描き、文学の極点へ挑む最新小説。<読む前の大使寸評>カミユの「異邦人」を意識した小説とのこと・・・・期待できるかも♪絲山秋子ミニブームがまだ続いています。rakuten不愉快な本の続編この小説の語り口をちょっとだけ、見てみましょう。p18~20 十年も前だったらコジャレた洋風居酒屋だったのかもしれないが、時代は変わり、今では中途半端に腐りかけたイヤな感じの店だった。タイプとしては長野や山梨で山小屋風のペンション出してオーガニックなんてバカ言っちゃってる連中に近い。ほらボク、農業経済専攻でパリ大学に留学しちゃったくらいだから、別に否定はしないけどそーゆーセンチメンタルなうさんくささにはすぐ気がつくのさ。 この店は、オーベルジュなんて名乗って民宿やったり、「自分たちの農業」なんて言っちゃったりするよーな実力も財力も運もパトロンもなかったもんだから、まだ渋谷区なんかでくすぶってる。イサオにお似合いなわけだよ。 ボクたちは和紙に筆ぺんで書かれたメニューから「アスパラガスの我が家風サラダ」と「海老とキノコのとろーりオムレツイタリアンパセリを添えて」を選び、「酸化防止剤たっぷり、日なたでじっくり寝かした安物ハウスワイン」のグラスを手に向かい合った。ボクが黙って灰皿を押しやるとイサオはそそくさとタバコに火をつけて、それから目をぱちぱちさせて、 「乾、タバコは?」 と言った。 「やめたんだ」 「やめた?」 「刑務所じゃタバコなんて吸えないからさ」 「冗談言うなよ」 「パイプ椅子作ってたんだよ、来る日も来る日もさ」 「マジで?」 「まあ冗談なんだけど、それでイサオちゃん、今いくら返せる?」 いい靴履きやがってと思いながらボクは言う。 「やっぱりタカリに来たんだな」 「人聞きの悪いこと言うなよ」 「急に言われたって俺だって・・・」 「せっかく会いに来たんだから一時金くらいは欲しいなあ」 「ほんと余裕ないんだよ今、アッ・・・・」 語尾が裏返ったのはボクがイサオちゃんの脛を蹴り飛ばしたからだ。いつまでもワガママ言ってるとホントに痛い目にあうよって警告。 ウーム カミユの『異邦人』というよりは・・・・いさましい秋子節がはじけている感じでんな♪パリ、ジェノバ、新潟、富山、呉と舞台が変わるのが、いかにも漂泊の作家と言うかんじである。富山で出会った女性の隠された趣味が空き巣という、あっと驚く展開であるがこの女性の泥臭いような性格に、人の哀しみがあるわけで・・・ええで。この本も絲山秋子ミニブームR6に収めておきます。
2017.02.25
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<(ニッポンの宿題)人質司法の闇> 映画監督の周防正行さんがオピニオン欄で「不条理な拘束、改善に及び腰」と説いているので、紹介します。(周防さんのオピニオンを2/24デジタル朝日から転記しました) 逮捕された刑事事件の被疑者(容疑者)や起訴内容を認めない被告人が身柄を長期間拘束されて取り調べを受ける実態は、「人質司法」と批判されてきました。保釈されず、拘束が数カ月に及ぶことも、冤罪の原因になることもあります。改善策はあるでしょうか。■《なぜ》不条理な拘束、改善に及び腰 周防正行さん(映画監督) 痴漢の冤罪事件を取り上げた映画「それでもボクはやってない」(2007年公開)の制作で取材を始めたとき、最初に衝撃を受けたのが「人質司法」でした。被疑者の身柄を人質のように長期にわたって拘束し、自白を強要する不条理な司法のあり方のことです。 たとえば、サラリーマンが通勤電車の中で痴漢に間違われて、警察に突き出されたとします。「やっていない」と否認すると、勾留されて、まず20日間は身柄を拘束されます。「やった」と認めればすぐに釈放されて、罰金だけで済む場合が多い。会社に知られなければ、クビになることもない。真実を貫いて否認するより、ウソの自白をする方が、はるかに不利益が少ないのです。被疑者がこの現実を知れば、「罪を認めたほうがましだ」となるのが普通です。 勾留期間中は、警察官や検事の取り調べを受けます。勾留の本来の目的は、証拠隠滅や逃亡を防ぐことにあるのに、実際には密室での取り調べが続き、被疑者に自白を迫っている。痴漢事件で証拠を隠滅しようとすれば、被害者を脅して、唯一の証拠となる証言を変えさせるぐらいしかないはずです。家族や会社がある人が逃亡する恐れも低い。にもかかわらず、否認していると勾留が続きます。 痴漢事件に限りません。後に無罪判決が確定した元厚生労働事務次官の村木厚子さんは、虚偽有印公文書作成などの罪で逮捕・起訴された際、否認したため勾留が5ヵ月以上も続きました。3ヶ月を超える勾留は珍しくありません。 * 私は、この人質司法の問題は是正が必要だと思いました。検察不祥事を機に刑事司法改革のために設置された法制審議会の特別部会の委員に入り、指摘を続けてきました。でも、警察や検察出身の委員、そして裁判官出身の委員は最も強硬に、「被疑者や被告人の身柄拘束は、刑事訴訟法に基づいて適正に運用されている」の一点張り。一切、非を認めず、議論は平行線のままでした。一人一人の裁判官は悪い人ではないのですが、なぜか感情的なまでに「適正な運用」を主張して譲りません。 ある元裁判官が「万が一、釈放された被疑者が逃亡したり証拠隠滅したりしたら、事件をつぶしてしまう。自分の判断で事件がつぶれたと批判されるのはいやですからね」という趣旨の発言をしているのを聞いたことがあります。このあたりに、多くの裁判官の本音があるのではないでしょうか。 法制審は2014年に出した答申に、「身柄拘束に関する判断の在り方についての規定の新設」を盛り込みました。16年の刑事訴訟法の改正では、裁判所の裁量による保釈の際に考慮すべき事情が明文化されましたが、制度を改革する側も、判断を下す側もそろって消極的ですから、どこまで実効性があるかは疑問です。 * とはいえ、最近は痴漢事件で否認している被疑者にも勾留を認めず、釈放するケースが増えているようです。良識のある裁判官もいるのでしょう。さいたま地裁では、若手の裁判官たちが数年前に勾留のあり方について勉強会を開いて議論して以降、勾留却下率が上昇し、以前は1%だったのに月によっては11%以上になった、という話も報道されました。 こうした流れが大きくなって不必要な勾留が減れば、取り調べに過度に依存している現在の捜査のあり方も変わっていくはずです。 人質司法の問題は、法律家たちだけでなく、社会全体の議論にしていかなければ、何も動かないと感じています。まずは世論を喚起したいとの思いから、「それでもボクはやってない」を撮りました。機会があれば、裁判官の心の中の動きを描くような映画も撮ってみたいと思っています。 ◇周防正行:1956年生まれ。主な監督作品に「Shall we ダンス?」など。著書に「それでもボクは会議で闘う」。今、たまたま伊坂幸太郎の小説『火星に住むつもりかい?』を読んでいるのだが、警察のすさまじい尋問が出てきて・・・・周防監督の『それでもボクはやってない』を彷彿とするのです。(ニッポンの宿題)人質司法の闇周防正行2017.2.24この記事も 朝日のインタビュー記事スクラップR2に収めておきます。
2017.02.25
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図書館で宮崎駿著『折り返し点』という分厚い本を手にしたのです。宮崎さんの近作『風立ちぬ』は、かなりジジ臭くて子ども向きではなくてがっかりしたが・・・『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』を生んだ栄光の時代を回顧するのも一興かと思うのです♪【折り返し点】宮崎駿著、岩波書店、2008年刊<「BOOK」データベース>より『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』『ハウルの動く城』から最新作『崖の上のポニョ』までー企画書、エッセイ、インタビュー、対談、講演、直筆の手紙など60本余を一挙収録。宮崎駿12年間にわたる思想の軌跡。<読む前の大使寸評>近作『風立ちぬ』は、かなりジジ臭くて子ども向きではなくてがっかりしたが・・・『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』を生んだ栄光の時代を回顧するのも一興かと思うのです♪rakuten折り返し点宮崎さんの宗教観を見てみましょう。p261~263 <日本人が生きるために必要なもの>Q:監督は、『となりのとトトロ』『もののけ姫』でも、日本の草木に宿る神々を描いていますが、なぜでしょう宮崎:これは亡くなった司馬遼太郎さんもおっしゃっていたことなんですけど、途中から仏教や儒教が入ってきても、結局僕たち日本人のなかには、原始的な宗教心がのこっている。たとえば僕は、「笠地蔵」って話がとても好きなんですけど、あの話に出てくるおじいさんとおばあさんってそれは無欲なんです。笠が売れなくてもお餅も買えないけど、お地蔵さんが気の毒だから、雪を払って笠をお地蔵さんにさして帰ってきた。そうするとおばあさんが「いいことをなさいましたね」っていうんですよ。 そんなふうに生きられたらどんなにいいだろう、それで満足して、生きていくことができたら・・・・。僕はそういうおばあさんとの暮らしを夢見るんです。無垢であることは至上のことなんですよ。浄めることが、けがれを払うこと、清々しくあること、邪念をなくすことが、至上のものという考えが、この島国の人間たちの心の奥に、今なおあるんです。そういう無垢への憧憬みたいなものを、僕らは今なお心のどこかで追っている。 ですから自然保護っていうときに、ドイツ人と話すと全然かみ合わないんですよ。彼らは自然をコントロールしようとするけど、僕らはコントロールしたくない、しない場所を作ろうと思うんですよ。欲で汚さない場所を。その生態系に、何か別のものが入り込んで、変わってしまっても構わない。でも、人間の手で汚すのはやめようね、という。こういう考え方って、日本人が国際性をもてない大きな理由かもしれないけど、日本人が日本人であるための大事な部分だと思うんです。 リアリズムをなくして滅私奉公とか、そういう方向に暴走する危険性をはらんでいるのかもしれないけど、地球がある種の困難に陥ったときに、自分たちにとって、大切な支えになると思うんです。世界をコントロールしきれないこと、それに対して尊敬の念と謙譲の心を持つということが。こういう考えは、昔はヨーロッパ人も持っていたんですけどね。ケルト人が広く深く残してますから。話がちょっと、逸れちゃいましたね。Q:『千尋』の世界の神様たちは、我々が生きているこの現実世界からあの湯屋へ行くのでしょうか湯屋宮崎:そうだと思いますよ(笑)。あそこにはあそこの世界があるわけですから。湯屋の向こうには街があって、湯屋は、実はその街のはずれにあったりするんです。そして側を通っていた電車は、最近は行きっぱなしで帰ってこない。グルーッと回って3年後くらいに戻ってくるのか、三日くらいで戻ってくるのかもよくわからない。Q:その電車はどこに繋がっているのですか?宮崎:普段自分が生きている世界や周りのことに関心を持たない人が、どうして物語の中のことにだけそんなに関心を持つんですか? 家や会社のかたわらを走る電車やトラックの行先を気にもとめない人に限って。あの電車は?ってたずねてきます。千尋はそんなことには関心を持てないんですよ。目の前で起っている現実だけで精いっぱいなんです。あの世界は我々が住む現代の世界と同じように、茫漠とした世界なんです。 そこに住んでいる人たちにとっては、自分たちの世界なんです。そこへたまたま他所から人が来た。それが千尋なんです。それでいいと思いませんか? 僕は千尋に、あの世界にもきれいな所はあるんだということを知ってもらいたかった。だから、魔物が住んでる全部が異常なところという風にはしたくなかった。世界というのは常に美しいものを持ってるし、雨が降れば海くらいできるさって。そういうものが世界だと思うんです。それはあの世界も、僕らが生きているこの世界も同じことです。(中略)Q:つまり、あの異世界はこの現実そのものということなんでしょうか?宮崎:それはある種の現実感がなかったらつまらないですからね。でも現実を皮肉るためとか、風刺するためにこの作品を作ったわけじゃないですよ。例えばスタジオジブリで10歳の少女が働かなければならなくなったとします。それは親切な人もいじわるな人も含めて、カエルの大群の中に入ったようなものです。これはそういう映画なんです。この映画のねらいを企画書に見てみましょう。p230~231 <不思議の町の千尋> この作品は、武器を振りまわしたり、超能力の力くらべこそないが、冒険ものがたりというべき作品である。冒険とはいっても、正邪の対決が主眼ではなく、善人も悪人もみな混じり合って存在する世の中ともいうべき中へ投げ込まれ、修業し、友愛と献身を学び、知恵を発揮して生還する少女のものがたりになるはずだ。 彼女は切り抜け、体をかわし、ひとまずは元の日常に帰って来るのだが、世の中が消滅しないのと同じに、それは悪を滅ぼしたからではなく、彼女が生きる力を獲得した結果なのである。 今日、あいまいになってしまった世の中というもの、あいまいなくせに、侵食し喰い尽くそうとする世の中を、ファンタジーの形を借りて、くっきりと描き出すことが、この映画の主要な課題である。(中略) もっとも、ただパニクって、「ウソーッ」としゃがみこむ人間がほとんどかも「しれないが、そういう人々は千尋の出会った状況下では、すぐ消されるか食べられるかもしてしまうだろう。千尋が主人公である資格は、実は喰い尽くされない力にあるといえる。決して、美少女であったり、類まれな心の持ち主だから主人公になるのではない。その点が、この作品の特長であり、だからまた、10歳の女の子達のための映画でもあり得るのである。(中略) 困難な世間の中で、千尋はむしろいきいきとしていく。ぶちゃむくれのだるそうなキャラクターは、映画の大団円にはハッとするような魅力的な表情を持つようになるだろう。世の中の本質は、今も少しも変わっていない。言葉は意思であり、自分であり、力なのだということを、この映画は説得力を持って訴えるつもりであるウーム 一家の生活を補填するために若年労働に明け暮れる中高生が多いと聞く昨今であり・・・・現実は『千と千尋』を通り越して、より過酷である。アニメ映画ではディズニーの跳梁を許しているが『君の名は』に日本コンテンツ復活の芽が見えるかも。・・・と言いつつも、臍が曲がった大使は『アナ雪』も『君の名は』も観ていません。最新報道によれば、宮崎監督が長編製作復帰とのこと♪ 2017/02/24宮崎監督が長編製作復帰へ 事実上の引退撤回より 約3年半前に長編アニメーション映画の製作から引退を表明した宮崎駿さん(76)が、新作長編の準備に入ったことを、スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサー(68)が23日(日本時間24日)、米国のイベントで明らかにした。事実上の引退撤回とみられる。 鈴木プロデューサーはイベントで、宮崎監督から新作の絵コンテを見せられたことを明らかにした上で、「(宮崎監督は)今も一生懸命、東京で作っています」と話した。 宮崎監督は2013年9月、年齢による集中力の衰えを理由に、公開中だった「風立ちぬ」を最後に長編製作から退くと発表。以後は三鷹の森ジブリ美術館(東京都三鷹市)で上映する短編アニメ「毛虫のボロ」を、初めてCGを使って制作中だった。『折り返し点』1『折り返し点』2『折り返し点』3
2017.02.24
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図書館で宮崎駿著『折り返し点』という分厚い本を手にしたのです。宮崎さんの近作『風立ちぬ』は、かなりジジ臭くて子ども向きではなくてがっかりしたが・・・『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』を生んだ栄光の時代を回顧するのも一興かと思うのです♪【折り返し点】宮崎駿著、岩波書店、2008年刊<「BOOK」データベース>より『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』『ハウルの動く城』から最新作『崖の上のポニョ』までー企画書、エッセイ、インタビュー、対談、講演、直筆の手紙など60本余を一挙収録。宮崎駿12年間にわたる思想の軌跡。<読む前の大使寸評>近作『風立ちぬ』は、かなりジジ臭くて子ども向きではなくてがっかりしたが・・・『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』を生んだ栄光の時代を回顧するのも一興かと思うのです♪rakuten折り返し点シトロエン2CV宮崎さんの自然観を見てみましょう。p202~205 <自然に対して礼儀をもってつきあう>Q:今回の特集のテーマは「自然」なんです。いままでのお話も当然かかわりますが、自然環境や地球規模の現在をどう見ていらっしゃいますか宮崎:ぼくはみんながすでにいっていることしかいえないですよ。そのなかで、どういうふうに生きるかということを自分なりに結論を出さなきゃいけないと思っています。いまつくってる映画のテーマもそうですし、『ナウシカ』という作品もそうでしたけれども、そういうのは人間のもっている根本的なジレンマだと思うんです。バランスのとれた農業をやっているように見えていても、じつは自然を収奪しているんですよね。農耕を始めたときから、こうなってしまう運命が決まったといっていい。Q:火をもったときから、というふうにもいわれますね宮崎:農耕をやめたとしても、狩猟民だと地球上で400万人しか生きられないらしいですね。 だから、ぼくらができることはなんなんだろうって考えていくと、やっぱりぼくは自然に対する一種の礼儀作法、日常のつきあいだと思ってるんです。 自然環境が、たとえば過去はすばらしくていまが最悪になったという考え方は間違いだと思うんです。なんでそんなこと思うようになったかといいますと、自分が散歩していくところに八国山という山があるんですよ。それは狭山丘陵のいちばん外れなんですが、そこはその丘の上に立つと、昔は八国見える、相模の国とか武蔵の国とかの国が全部で八国見えるから八国山といわれるようになった所なんです。 だけどいまは雑木林に覆われていて、まわりはなにも見えないんですよ。だから鎌倉時代にはつんつるてんだったんでしょうね。そこに将軍塚という、仁田義貞が群馬から押し寄せてきたときに、源氏の白旗を立てたという場所もあるのですが、雑木林なんかに旗立てたって見えやしないですからね。そうすると、この丘は、人間によって何度も焼き払われたり、畑になったり、また木が植わったり、刈り取られたり、延々とやってきた山だというふうに思うんです。つまり、人間の手の届く範囲は相当めちゃくちゃやっていたんじゃないかと思うんですね。相当前からかなり乱暴に切るものは切ってたんじゃないかという気がしてきたんです。 この前、新聞にある人が書いてましたけど、絵巻物の絵をずっと調べて絵巻に出てくる風景を見ると、里のすぐそばまで原生林が押し寄せてるような自然観というのはうそなんだそうです。日本人が草木を大事にしたというのはうそでね、相当切ってるぞって書いてありました。雑木林のある関東地方の、二次林の風景が人口的にできて、安定したのは明治の中頃から昭和の初めにかけてなんじゃないかと。つまり、雑木林の薪や炭が、商品として値打ちをもってきたから、植生を人口的に持続しようとなったんじゃないかというふうな仮説が書いてありまして、ぼくは自分の八国山体験からすると、それは正しいんじゃないかなという気がしているんですよ。 人間は生死のぎりぎりで生きてきたわけですから、自然に対してそんなにやさしくなかっただろうと思う。ぼくらが直面している問題というのは、じつは何度も何度も直面してきたんだと思う。Q:ヨーロッパの国なんかみんなそうですものね。日本に比べれば、スペインにしてもはるかに緑が少ない。牧場と畑、あとは砂漠ですよね。宮崎:ですから、自然とどういうふうにつきあうか、どれだけのリスクを自分たちが払うかということですね。全面的にディープ・エコロジストになって、自然のなかに入って幸せになれるっていったって、幸せにならないですよ。縄文時代の人が、みんな幸せだったかというと、違うでしょ。だってお釈迦様が生きた時代でも、キリストが生きた時代でも、なぜ人間はかくも苦しまなければいけないんだといって世界的宗教が生まれたんですから。ずっと繰り返してきたことなんですよ。 ついこの間まで平和だったんです。日本は。なぜかというと、右肩上がりの経済成長のせいで、なんとなく楽天的だったんです。危機に瀕しながら、周りの自然をぶっ壊して、やばいと思って、なんとか持ち直した国もあるし、そのままだめになった国もある。そういうことをやってきたのが人類なんだと思ったほうがいいですね。 それが世界的規模になったから簡単に解決はつかないけれども、でもじつは根本的解決はついてきたためしがないんだとわかれば、逆にいうとやりようがあるんです。礼儀として近所の川を少しぐらい掃除しようとか、木を全部切っちゃうのやめて、柿の実も全部取るんじゃなくて、これは鳥が食うぶんだと、半分は残しておくとかね、そういうふうに具体的に思ったほうがいいと思うんですよ。世界の運命はと悩み始めても、解決なんかつかないんです。だって、お釈迦様も悩み、孔子も悩み、親鸞も悩み、みんな悩んで、たぶんこれからも悩み続けるんですよ。だから自分の能力に合わせて悩みながら(笑)。Q:それはニヒリズムといってよいのですか、楽天主義ですか宮崎:堀田善衛さんは「透明なニヒリズム」という言葉を使っていました。でも、やけくそでいっているんじゃなくて、そういう生き方ができて、感動したりやさしい気持ちになれたりして生きられたら、それは最高じゃないでっすか。ぼくは、炭酸ガス税を払ってもいいから、自分は最後まで自動車に乗り続けるっていい張ってる人間ですが、一方でこの木は残すとか、トトロ基金に少しはお金出しましょうとか、このスタジオをデザインするとき、駐車スペースを削っても木を増やそうとか、そうやって残りを生きていくつもりです。『折り返し点』1『折り返し点』2
2017.02.24
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図書館で『世界「最終」戦争論編』という本を予約して、待つこと5日でゲットしたのです。・・・本屋の店頭から消えた頃の新書が狙い目なのかも♪【世界「最終」戦争論】内田樹, 姜尚中著、集英社、2016年刊<「BOOK」データベース>よりアメリカの国力の低下と共に勃興する諸大国の新たな覇権主義。拡大する中東の戦乱、国境を越える大量の難民、欧州のテロ事件。行き過ぎたグローバル経済と格差社会。国内に目を転じれば大規模な災害が起こる中、平和主義の戦後レジームからの脱却を主張する動きが勢いを増している。いよいよ混迷を深める世界と社会の情勢。その背景にあるのは、世界史レベルのパラダイム(知的枠組)の地殻変動である。顕在化している近代の崩落過程についてリベラル派の言論人を代表するふたりが語り合い、難局を避けるために必要な世界の見取り図を提示する。<読む前の大使寸評>予約して待つこと5日でゲットしたが、本屋の店頭から消えた新書が狙い目なのかも♪<図書館予約:(2/13予約、2/18受取)>rakuten『世界「最終」戦争論』1日米の棄民たちを、見てみましょう。p140~143 <近代百五十年の成長の陰に「棄民」ありき>姜:福島の浪江に、第一原発から14キロぐらいのところに牧場があるんですね。そこで牛を飼っている人を取材しました。希望の牧場・ふくしまの吉沢正巳さんという方です。吉沢さんは汚染された牛を殺処分しろという国の厳命に逆らって、330頭の牛をその牧場で飼い続けている。絶対殺さない。生かしておくんだと言って。彼が言うには、殺してしまったら放射能が生物にどういう影響を与えるのかわからなくなると。 放射能牛を長期的に生かした場合にどういう変化が起きるのか、それを調査するための貴重なモルモットでもあるのだから、生かしておくんだと。そのために数ヶ月で六百万も餌代がかかるのに、飼い続けている。僕はそれはもっともな話だと思うのです。内田:被爆の症状って、どういう風に出るんですか。姜:びっくりしましたけど、牛に斑点が出ている。内田:殺したって、放射性物質は消えないわけですからね。死体を焼いても消えないし。姜:ええ、吉沢さんと話して、あっと思ったのは、彼の口から「棄民」という言葉が出てきたんです。国は自分たちを畜生のように扱って、棄民扱いにしていると、泣きながら話すのですね。なぜそういうのかと聞いてみると、彼の両親は満州の開拓民で、関東軍に捨てられ、国に捨てられて命からがら日本に帰って来た人たちなんです。 そういう悲惨なことがあって、彼の両親はまさに棄民を体験した人で、その息子である彼も、被災して、生活の糧であったものを強制的に国に取り上げられようとしている。それで、彼は自分も棄民と同じだと言っている。考えてみれば、汚染された福島を追われて四散した人たちだって、故郷を奪われた棄民ですよね。帰るに帰れない。 そう考えると、近代の成長の陰に棄民ありきです。難民も移民も含めて。炭鉱労働者も、閉山が始まってからいろんなところへ流れて行ったようですが、彼らも使い捨てられた棄民です。僕がドイツへ行っていたとき知ったのですが、三井三池炭鉱からドイツの炭鉱に渡った人たちもいて苦労したようです。やっぱりこの人たちも棄民でしょうね。 日本はエネルギーを石油に転換して、苦しいところを乗り切って発展しましたというサクセスストーリーでは、とても語り得ない。昔の話だけではなく、今の格差社会で社会からはじき出されて、ブラック企業で死ぬほど働かされたり、ネットカフェを転々としている若者だって棄民同然です。お二人の対談はこのあと、煙草とか綿花など、北米大陸の奴隷労働のようなモノカルチャーが続きます。それはそうと、かつてニッポンの外務官僚が確固たるヴィジョンを持って、南米移民を推進したようだが・・・戦後初の棄民政策だったようです。『世界「最終」戦争論』1
2017.02.23
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図書館で『世界「最終」戦争論編』という本を予約して、待つこと5日でゲットしたのです。・・・本屋の店頭から消えた頃の新書が狙い目なのかも♪【世界「最終」戦争論】内田樹, 姜尚中著、集英社、2016年刊<「BOOK」データベース>よりアメリカの国力の低下と共に勃興する諸大国の新たな覇権主義。拡大する中東の戦乱、国境を越える大量の難民、欧州のテロ事件。行き過ぎたグローバル経済と格差社会。国内に目を転じれば大規模な災害が起こる中、平和主義の戦後レジームからの脱却を主張する動きが勢いを増している。いよいよ混迷を深める世界と社会の情勢。その背景にあるのは、世界史レベルのパラダイム(知的枠組)の地殻変動である。顕在化している近代の崩落過程についてリベラル派の言論人を代表するふたりが語り合い、難局を避けるために必要な世界の見取り図を提示する。<読む前の大使寸評>予約して待つこと5日でゲットしたが、本屋の店頭から消えた新書が狙い目なのかも♪<図書館予約:(2/13予約、2/18受取)>rakuten世界「最終」戦争論トランプさんの登場で、抜き差しならないほど先鋭化してきた米帝とイスラムの対立あたりを見てみましょう。p103~106 <帝国再編のコスモロジーと宗教>内田:今、「グローバル化」と呼ばれている趨勢は現実にはアメリカが主導しているものですよね。英語が公用語で、キリスト教が「国教」で、金を持っている人間が一番偉いという価値観が共有されているけれど、これは、規模は大きくても、所詮はアメリカ・ローカルの民族誌的偏見を量的に拡大したものに過ぎません。でも、それで世界を覆い尽くそうとした。そうすれば「歴史の終り」が来ると思っていた。 でも、「歴史の終り」は来なかった。アメリカ・ローカルの民族誌的偏見ではやっぱり世界は覆い尽くせなかった。そういうことだと思います。アメリカン・グローバリズムがイスラーム共同体に衝突してしまったからです。 イスラーム共同体のほうがグローバル共同体としてはるかに老舗なわけです。なにしろ7世紀から存在するのですから。モロッコからインドネシアに至る人口16億の巨大な共同体がある。この共同体は宗教、言語、食文化、服飾規定、なかんずく「喜捨の文化」という固有の経済感覚を共有している。その文化圏に向かって、「君たちが信じて実践しているのは、全部ローカルな奇習であるので、そういうものは捨てて、これからはグローバル・スタンダードに従うように」と言っても、通りませんよ。 特に「金があるやつが偉い」というグローバル資本主義の基本的な信憑がイスラームの価値観とは相容れない。そこが大きいと思います。 「金があるやつが一番偉い。だから万人は金儲けのために生きるべきだ」ということをグローバリストは自明のことだと思っているけれど、それよりも神の教えに従うほうが大切だと思う人たちがいる。これでは衝突するのが当然です。 プロテスタンティズムと資本主義は相性がよかったけれど、資本主義とイスラームとは相性が悪かった。そういうことだと思います。姜:やっぱりイスラームの共同体は、グローバル資本主義の外部にあったということなのでしょうか。その異質性がアメリカン・グローバリズムと折り合わなかった・・・・。内田:イスラーム圏が一貫して資本主義によって収奪される対象であったという歴史的事実もあると思いますけれど、根本にあるのは宗教の問題じゃないでしょうか。「喜捨の文化」「歓待の文化」というのは遊牧民にとって生き延びるために必須のモラルなわけです。 砂漠では利己的にふるまうと生き延びることができない。最も重要な生活資源は、それなしでは生きられないがゆえに、見知らぬ他者とでも共有しなければならない。そういう発想はグローバリストには絶対理解できないと思います。 中田先生によると、イスラーム圏では、タクシーに乗っているときに、ドライバーがミネラルウォーターを飲むのをじっと見たりしていると、必ず「飲む?」と訊かれるのだそうです。それが遊牧民の文化なんです。 前に村上龍がエッセイで書いていましたけど、彼がテレビクルーと一緒にパリ=ダカール・ラリーの取材に行ったとき、日本人のテレビスタッフがミネラルウォーターのボトルに自分の名前を書いておいたら、現地のスタッフたちが「こんなやつとは仕事はできない」と言って辞めると言い出したそうです。日本人は「砂漠では水が大切だから、私的に独占するのが当然だ」と考える。でも、遊牧民はそうは考えない。「砂漠では水が大切だから、私的に独占してはならない」と考える。その落差はなかなか僕たちには理解できないんじゃないですか。 遊牧民は幕屋を訪れた人を追い返しません。見ず知らずの人であっても、食事と一夜の宿を提供して、歓待する。そのほうが自分自身にとっても生き延びる上で合理的だからです。自分自身も遊牧民ですから、ある日荒野で食べ物も飲み物なくさまようという可能性は常にある。そのときに、荒野の向こうに幕屋があって、「水をください」と頼んだときに、水がもらえるかどうかが幕屋の主人の人間性次第ということでは困るわけです。ウーム 清教徒にしても、イスラムにしても、体感的にぴんとこないニッポンである。戦後のアメリカ・ローカルの民族誌的偏見(グローバル化)に過剰適応してしまったニッポンにおいて・・・・さらに尻尾を振るような安倍さんがいるわけか。
2017.02.23
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図書館で『むかしのはなし』という本を手にしたのです。三浦しをんの短篇小説集ってか・・・・いけるかも♪【むかしのはなし】三浦しをん著、幻冬舎、2008年刊<「BOOK」データベース>より三カ月後に隕石がぶつかって地球が滅亡し、抽選で選ばれた人だけが脱出ロケットに乗れると決まったとき、人はヤケになって暴行や殺人に走るだろうか。それともモモちゃんのように「死ぬことは、生まれたときから決まってたじゃないか」と諦観できるだろうか。今「昔話」が生まれるとしたら、をテーマに直木賞作家が描く衝撃の本格小説集。<読む前の大使寸評>三浦しをんの短篇小説集ってか・・・・いけるかも♪データは文庫本のものだが、借りたのは2005年刊のハードカバーです。amazonむかしのはなし三浦しをんと言えば、オッサンのようなエッセイを書く人との印象が強かったけど・・・短篇小説もいけてるでぇ♪・・・ということで、その語り口をちょっとだけ見てみましょう。p33~35 <ロケットの思い出> どうせ最後には、「反省しています。刑期を務め終えたら、心を入れかえてまっとうに働くつもりです」なんて書かれて、型どおりにまとめられちゃうんだろう? あんまり気が進まないけど、まあいい。しかたがない。昔の話をいよう。ガキのころに飼っていたロケットの話だ。まずはあいつの話をしないと、はじまらないからな。 ロケットは薄茶色の犬で、両耳の先っぽが折れてる。尻尾は固く巻いているんだけど、全体的に右に片寄って尻の上で揺れた。子犬のときに、ロケットみたいに猛然と餌皿に走ってきたから、ロケット。そんなありがちな理由で名づけた。 もちろん、ペットショップなんかで買った犬じゃない。俺は、自分と一緒の時間を過ごす生き物を、金で買うほど悪趣味にはなりたくない。いろいろひとに言えないようなことをして、いまここにいるわけだが、とにかくそれだけは俺の信念なんだ。自慢じゃないが、俺は女を買ったことだって一度もない。そんなことをしなくても充分もてる。いまの部分は自慢だ。ちゃんと書いといてくれよ。 ロケットは、俺が近所の友だちと河原でキャッチボールをして遊んでるときに、上流から流れてきた。溺れる寸前で助けた。ロケットが溺れそうだったんじゃない。俺が、だ。あいつは子犬のくせに、わりとうまく川の流れに乗っていた。新聞の地方版にも記事が出たんだぜ。「子犬を助けようとした少年、川で溺れかける」って。田舎町で、よっぽどほかに話題がなかったんだろうな。 一緒にいた友だちは、自分もロケットを飼いたいと言ったんだが、冗談じゃない。俺が命がけでロケットを助けたの。河原で「どうしよう、どうしよう」って半べそかいてただけのやつに、ロケットを任せられるわけないでしょ。そういうわけで、ロケットは俺のうちで飼われることになった。 いまみたいに、ペットを片時もそばから離さずにかわいがるようなアホな風潮もなかったから、ロケットはたいてい庭先につながれたまま放置されていた。ロケットもべつにそれで不満もないみたいで、綱の届くかぎり小屋のまわりを嗅いだり、前足の上に顎を載せて眠ったり、たまに思いついたようにちょっと吠えてみたりして、1日を過ごしてたよ。 餌皿に残飯を盛ると、傾いた尾を小刻みに振った。うちでは残飯をやるほうが多くて、ドッグフードは残飯が出なかった日だけのご馳走だった。「今日はご馳走だぞ」と言って皿にドッグフードをざらざらと入れるんだが、ロケットはあまり違いに気づいていなかった。食べられればなんでもいいって感じに、いつも同じリズム、同じ振り幅で尾を動かしてみせた。 ロケットは庭に穴を掘ったり、首輪抜けをしたりと、犬がよくやる悪戯をした。あまり賢くはないけれど、愛嬌があったと思う。「あまり賢くはないけれど」ってのは、たぶんそうなのだろうという憶測にすぎない。俺が飼ったことのある犬は、ロケットだけだ。比較の対象がないから、ロケットが実際どれほどの犬だったのか、よくわからない。ただひとつ、ロケットには変わった特技があった。毎朝毎夕の散歩ルートを、自分で決めるんだ。こういう調子で、この話が主人の生業(空き巣)になっていくわけで、三浦さんのお話は大人でもじゅうぶんに楽しめるのです♪この本も三浦しをんの世界R3 に収めておくものとします。
2017.02.22
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<図書館大好き201>今回借りた5冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「建築」でしょうか♪<市立図書館>・世界「最終」戦争論・不愉快な本の続編・折り返し点<大学図書館>・京町屋拝見・木の住まい図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【世界「最終」戦争論】内田樹, 姜尚中著、集英社、2016年刊<「BOOK」データベース>よりアメリカの国力の低下と共に勃興する諸大国の新たな覇権主義。拡大する中東の戦乱、国境を越える大量の難民、欧州のテロ事件。行き過ぎたグローバル経済と格差社会。国内に目を転じれば大規模な災害が起こる中、平和主義の戦後レジームからの脱却を主張する動きが勢いを増している。いよいよ混迷を深める世界と社会の情勢。その背景にあるのは、世界史レベルのパラダイム(知的枠組)の地殻変動である。顕在化している近代の崩落過程についてリベラル派の言論人を代表するふたりが語り合い、難局を避けるために必要な世界の見取り図を提示する。<読む前の大使寸評>予約して待つこと5日でゲットしたが、本屋の店頭から消えた新書が狙い目なのかも♪<図書館予約:(2/13予約、2/18受取)>rakuten世界「最終」戦争論『世界「最終」戦争論』2byドングリ************************************************************【不愉快な本の続編】絲山秋子著、新潮社、2011年刊<「BOOK」データベース>より女と暮らす東京を逃げ出した乾。新潟で人を好きになり、富山のジャコメッティと邂逅し、そして故郷・呉から見上げる、永遠の太陽ー。不愉快な本を握りしめ彷徨する「異邦人」を描き、文学の極点へ挑む最新小説。<読む前の大使寸評>カミユの「異邦人」を意識した小説とのこと・・・・期待できるかも♪絲山秋子ミニブームがまだ続いています。rakuten不愉快な本の続編不愉快な本の続編byドングリ************************************************************【折り返し点】宮崎駿著、岩波書店、2008年刊<「BOOK」データベース>より『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』『ハウルの動く城』から最新作『崖の上のポニョ』までー企画書、エッセイ、インタビュー、対談、講演、直筆の手紙など60本余を一挙収録。宮崎駿12年間にわたる思想の軌跡。<読む前の大使寸評>近作『風立ちぬ』は、かなりジジ臭くて子ども向きではなくてがっかりしたが・・・『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』を生んだ栄光の時代を回顧するのも一興かと思うのです♪rakuten折り返し点『折り返し点』2byドングリ************************************************************【京町屋拝見】水野克比古著、光村推古書院、2011年刊<「BOOK」データベース>より【目次】京町家ー都のくらしとともに/名家探訪(長江家/秦家/吉田家)/町家歳時記(新春/春/初夏 ほか)/暮らしの意匠と構成(鍾馗/屋根/虫篭窓 ほか)<読む前の大使寸評>全ページにわたってカラー写真満載であり、きれいな本である。rakuten京町屋拝見京町屋拝見byドングリ************************************************************【木の住まい】大型ムック、朝日新聞社、1984年刊<「BOOK」データベース>よりデータなし<読む前の大使寸評>もともと木造住宅を志向していた大使であるが・・・・予定外の阪神大震災を被災した関係で、熱物に懲りたように鉄骨プレハブ系の注文住宅を建てたわけです。amazon木の住まい『木の住まい』2byドングリ************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き200
2017.02.22
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図書館で『なぜ中国人は、日本が好きなのか!』という本を手にしたのです。中国人がつくる「日本文化を紹介する月刊誌」のダイジェスト版ってか・・・・面白そうやでぇ♪【なぜ中国人は、日本が好きなのか!】毛丹青, 蘇静著、潮出版社、2014年刊<「BOOK」データベース>より『知日』は、2011年1月に北京で創刊された、日本文化やライフスタイルを紹介する月刊誌。毎号テーマを絞り、日本のありのままの姿を紹介する。これまで取り上げてきたのは、「制服」「森ガール」「明治維新」「暴走族」「妖怪」「鉄道」「断捨離」「禅」「犬」「日本食」「手帳」「礼儀」など、日本人もびっくりの計24タイトル(2014年12月現在)。中でも「猫」や「漫画」は10万部を突破するなど、日中関係が冷え込むなかで、メディアを始めとして日中両国で大きな話題を呼んできた。そんな『知日』のすべてがわかるダイジェスト版が、ついに日本初上陸!<読む前の大使寸評>中国人がつくる「日本文化を紹介する月刊誌」のダイジェスト版ってか・・・・面白そうやでぇ♪rakutenなぜ中国人は、日本が好きなのか!『知日』編集長の蘇静さんへのインタビューを見てみましょう。p140~142●『知日』の35元(約670円)という価格は、雑誌の平均価格よりかなり高いのでは? まず、中国の出版事情から説明すると、出版物は所轄部門への申請許可が必要で、雑誌であれば「刊号」(注:雑誌出版許可番号)、書籍であれば「書号」(注:書籍出版許可番号)を得て、初めて出版できる。両者のうち広告に頼るビジネスモデルの「刊号」のほうは、現状では認可が下りるのがとても難しく、『知日』は毎号ごとに「書号」を得て発行しています。 だから定期刊行物という意味では雑誌と呼べるけれど、認可の分類上は書籍だし、「広告に頼らず、質のよいコンテンツのみ販売していく」という点でも、書籍といえる。 最初から広告に頼るつもりはなく、中身で勝負していくつもりだったので、「書号」でよかったのです。ただ、こういうやり方、つまり「書号」の刊行物だけど、定期的に出版していく、という雑誌的でもあるやり方が、これまでの中国出版界ではあまり存在せず、認可の隙間を行くようなもので、まあ初期は結構、スリリングでもあった。『知日』は、「書号」の刊行物なので、販売される場所も、雑誌スタンドではなく、おもに書店の書籍コーナーとネット書店になります。販売期間も長く、今でも創刊号からバックナンバーをずっと売っている。 写真のほとんどない、文字だけの書籍が今、40元(約760円)前後なので、写真がふんだんにある『知日』の35元は決して高いわけではないです。●特集テーマはどんなふうに決めていくのですか? 最後は、思いつきです(笑)。毎日、主にネットをチェックして、日本で今何が流行っているかをチェックはするし、日本のライフスタイル雑誌「pen」と「BRUTUS」は定期購読していて参考にしたりもする。 職業柄、北京の書店はしょっちゅう見に行くし、日本に出張した時は代官山の蔦屋書店など書店は必ず回ります。それで、何が流行っているかは参考にするのだけど、『知日』は販売期間が長い書籍的な刊行物なので、ただ日本で流行っているものを追う、流行情報ではダメなんです。 流行りは、『知日』の「微博」に、毎日最低4回は流しているので、『知日』は流行りとは別次元の、本質に迫るテーマを掘っていく。でも、難しく概念的にせずにどう見せていくか。目指すところは、ベストセラーの娯楽性、かつロングセラーの資料性。そうしたことをすべて考えたうえで、最後はエイッ!と(笑)。●売れた特集をベスト5まで挙げると? おお(笑)。まず「猫」。これはさっきも言ったけど、待っていてくれたファンが多く、再出発というので、注目されていたこともあると思う。あと「猫」は日本カルチャーに興味を持つ層というだけでなく、広がりがある。つまり、「日本の猫」に興味を持つのではなくて、「猫」そのものが好きだという読者に広がった。 それと「漫画」。これは「猫」とほぼ並んで10万部を超えているけど、理由は言うまでもなくて、日本の漫画には熱心なファンがついている。ええと・・・3位は「妖怪」だったか・・・? いや、「料理の魂」ですね。これも日本カルチャーに興味を持つ層以外に広がりがあって、食文化に関心を持つ、より広範な読者が買ってくれている。 次が「妖怪」で、これは中国にも妖怪がいて、その関連で興味を持つ層がいるのと、オカルト好きなタイプの若者にヒットしたこと。 あとは5位と6位がほぼ並んで、「断捨離」と「家宅」。この2特集、特に「断捨離」は、若い女性、主婦層も買ってくれ、実用性もあるのが評価されていると思います。『なぜ中国人は、日本が好きなのか!』1。
2017.02.21
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図書館で『なぜ中国人は、日本が好きなのか!』という本を手にしたのです。中国人がつくる「日本文化を紹介する月刊誌」のダイジェスト版ってか・・・・面白そうやでぇ♪【なぜ中国人は、日本が好きなのか!】毛丹青, 蘇静著、潮出版社、2014年刊<「BOOK」データベース>より『知日』は、2011年1月に北京で創刊された、日本文化やライフスタイルを紹介する月刊誌。毎号テーマを絞り、日本のありのままの姿を紹介する。これまで取り上げてきたのは、「制服」「森ガール」「明治維新」「暴走族」「妖怪」「鉄道」「断捨離」「禅」「犬」「日本食」「手帳」「礼儀」など、日本人もびっくりの計24タイトル(2014年12月現在)。中でも「猫」や「漫画」は10万部を突破するなど、日中関係が冷え込むなかで、メディアを始めとして日中両国で大きな話題を呼んできた。そんな『知日』のすべてがわかるダイジェスト版が、ついに日本初上陸!<読む前の大使寸評>中国人がつくる「日本文化を紹介する月刊誌」のダイジェスト版ってか・・・・面白そうやでぇ♪rakutenなぜ中国人は、日本が好きなのか!『知日』創刊第一号あたりを見てみましょう。p13 <奈良美智> 『知日』の今後の運命を決定づける、大事な創刊号のテーマ。蘇静編集長は「奈良美智」を選んだ。「2011年当時の中国ではほとんど知られておらず、奈良美智の名前を女性だと勘違いする人も多かった」という。「でも、『知日』の創刊号で、武士道とか禅とかだと普通すぎる。奈良美智っていったい何だろう? という読者の好奇心をそそることができたと思う」。 同時期に奈良美智の画集も刊行、メディアミックスの作戦を展開。当時、急速に普及し始めた中国版ツイッター「微博」を活用したプロモーションも功を奏し、創刊号は2ヶ月で見事、完売。その後の展開に勢いをつけた。《2010年の中国人訪日観光客は日本政府観光局によれば、10月現在までで128万4300人。中日両国の有史以来の記録を更新している。『知日』はそんな背景のもと、始まっている。目立たないスタートであるにしても》(編集長序文より)ウーム 中国でこんな月刊誌が発売されて継続的に売れているのか?・・・それにしても、このような中国共産党政府の日本文化容認スタンスが解せないのです。
2017.02.21
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<『折り返し点』2>図書館で宮崎駿著『折り返し点』という分厚い本を手にしたのです。宮崎さんの近作『風立ちぬ』は、かなりジジ臭くて子ども向きではなくてがっかりしたが・・・『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』を生んだ栄光の時代を回顧するのも一興かと思うのです♪【折り返し点】宮崎駿著、岩波書店、2008年刊<「BOOK」データベース>より『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』『ハウルの動く城』から最新作『崖の上のポニョ』までー企画書、エッセイ、インタビュー、対談、講演、直筆の手紙など60本余を一挙収録。宮崎駿12年間にわたる思想の軌跡。<読む前の大使寸評>近作『風立ちぬ』は、かなりジジ臭くて子ども向きではなくてがっかりしたが・・・『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』を生んだ栄光の時代を回顧するのも一興かと思うのです♪rakuten折り返し点土木工学の権威・中村良夫氏との対談を見てみましょう。p169~171 <人・町・国土が元気になるために>宮崎:我々の業界でもこの映画のコンセプトは何ですか、テーマは何ですかとか聞かれます。皆、言葉でそれが伝わる気でいる。うそなんです。メッセージはこうですと言ってそれですむならそれだけ渡せばいい。その方が2,3行で済むンですから。映画観る必用ないでしょう。メッセージとかテーマで映画つくっているんじゃない。中村:大きな公共事業を試行錯誤的にやっていくのは難しい。ただ住民に任せるだけじゃうまくいかない。専門家に任せてもうまくいかない。専門家には専門家の業がある。エゴイズムが。私自身がエンジニア出身だからわかります。エンジニアは技術を試し斬りしたくなるんです。よくないですね。宮崎:職場がコンピューター化して彼らと付き合うようになってわかりました。あれは試し斬りの固まりですね(笑)。とにかく新しいことをやりたい(笑)。中村:私の恩師が恐ろしいことを言ったんです。「国防の専門家である軍人が国を滅ぼす。経済の専門家が経済を、農業を滅ぼすのは農業の専門家だ」と。専門家には危険な一面がある。土木のエンジニアも国土を滅ぼさぬよう気をつけなければ・・・・。宮崎:だから専門家やデザイナーのほかにプロデューサーがいなくてはだめですね。プロデューサーは相当柔軟な権限と気転の利く頭や言葉を持っていなくてはいけない。いろんな能力がいる。プロデューサーの位はもの凄く高いんです。ただ責任を取らされるかもしれないとおびえる人達がいくらいてもしようがない。「責任は俺がとるよ」と軽く言える人間でなくてはいけない。 それからディレクターにあたる者がいると思うんですが、ディレクターはとんがりきっていいのです。これは俺の作品と思い込んで。だけどそれを社会の中でどう位置づけるか、どういう宣伝をすれば人に受け入れられるか、お客さんが来てくれるかも含めてちゃんと全体のスポンサー対策をやれるプロデューサーがいなくちゃだめです。中村:戦前は仕事も少なかったし、官の直営で、一つの橋をやるならたとえば建設省の一人の技術者がずーっと最後までやった。だからエンジニアであると同時にプロデューサーでもある人が、全体を見られたわけですよ。それが最近は管理社会がすすんで担当者がコロコロ替わる。宮崎:誰がプロデューサーやるのか、コンペで選んでもいいんです。政党と同じで、だいたい裁量権を渡してできあがった時に作品を批判すればいいんです。相当にくそみそに言われるけど多数決でやってもだめなんです。中村:技術のシビリアン・コントロールが必要なのでしょう。出身はエンジニアでもなんでもいいのですが。英国のヒースロー空港が満杯になったのでマップリンという所に第3空港をつくるかどうか諮問された。その委員長は歴史家なんですよ。エンジニアではなかった。答えはノーでした。宮崎:陸軍士官学校上がりの将校よりも、予備役で市民生活やった人の部下の方がずっと死ぬ数が少なかったと言うんです。ノーマルな人が、ここで踏ん張ったってしかたがないとか、ここにいなきゃだめだということをちゃんと判断できる。それと同じようなことが都市づくりにもあるんでしょうね。 僕が今日ぜひ考えなくてはいけないと思ったのは、地下水汚染とかダイオキシン、そういう片付けないといけない問題はいっぱいあるけれど、それを片付けた後、どういう町をつくるかということです。その考えが自分にもない。でも、公園をつくる時のプロデューサーは公園の専門家じゃないほうがいいですね。 どうやったらこの町が住み良くなるかとか、この町を売り出そうと考える。ある意味では素人です。そういう人材は道楽から出てくると思うんです。藤森照信さん!あの人、道楽ですよね。本人はどう言っているか知りませんが、最初に彼がやった諏訪湖のそばにある「神長官守屋資料館」、あれ道楽以外の何物でもないですね。それだから、とてもいい感じです。いい仕事というのは、やらなきゃいけないところを全部やるんでと思わなきゃできないわけです。自分の仕事をやりとげたいでしょう。(中略) 子供たちに何が一番説得力があるかというと「ここはこうやってうまくやりました」という場所が日本に1ヶ所でもあれば、大人に対する信頼がずっと増すと思うんですよ。僕らはブロック塀がいけないとか全部パーツのせいにしているけど、建て方、色のつけ方、様式とか、地形を生かすと魅力的な都市ができるはずですね。中村:特に日本の場合、自然というより地形です。地形が持っている力というのは大変大きい。東京の町は坂があると必ず石垣ができる。あれはなかなか魅力的なものですね。宮崎:映画の舞台も東京近郊のどこでもいいからと言いながら、ちゃんと坂のある所を選んでいるんですよ。坂を選ぶと実に意味ありげな空間になって、歩き甲斐のある楽しい道になります。 ただ絶望的なのはあまりに人間が増えたので地形が平らだろうが何だろうが家が建っているということです。飛行船に乗って三百メートルの上空の東京の空から2時間見たことがあるのですが、結論としていやになりましたね。地平線の霞のかなたまで家が並んでいる。<ウーム 東京都の豊洲市場の設計疑惑でも、土建専門家が関与していましたね。中村さんは「景観工学」を提唱したエンジニアだけに、ユニークな意見が見られます♪『折り返し点』1
2017.02.20
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図書館で宮崎駿著『折り返し点』という分厚い本を手にしたのです。宮崎さんの近作『風立ちぬ』は、かなりジジ臭くて子ども向きではなくてがっかりしたが・・・『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』を生んだ栄光の時代を回顧するのも一興かと思うのです♪【折り返し点】宮崎駿著、岩波書店、2008年刊<「BOOK」データベース>より『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』『ハウルの動く城』から最新作『崖の上のポニョ』までー企画書、エッセイ、インタビュー、対談、講演、直筆の手紙など60本余を一挙収録。宮崎駿12年間にわたる思想の軌跡。<読む前の大使寸評>近作『風立ちぬ』は、かなりジジ臭くて子ども向きではなくてがっかりしたが・・・『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』を生んだ栄光の時代を回顧するのも一興かと思うのです♪rakuten折り返し点『もののけ姫』の演出あたりを見てみましょう。p29~33 <『もののけ姫』の演出を語る>宮崎:人間と自然のかかわりについていえば、『環境考古学』(マイラ・シャクリー)とか『緑の世界史』(クライブ・ボンディング)とか、最近すぐれた文献も出ていますけれど、自然と人間の間には抜き差しならないものがあって、生産のつもりが破壊であったり、ひとつの文明が滅亡したりというふうな失敗を、人類はくりかえしてきたんですね。それはいままでは地域的に行われていたんですが、いまや地球規模になってきています。 それは善いとか悪いとか言うまえに、人間が善なるものと思ってやってきたことの結果であるわけですから、それをただ悪として片づけるには問題が複雑すぎて収まりがつかない。一エンターテインメントとしてそういう素材を取り上げることについてはためらいもものすごくあったけれども、ここでその問題をやっとかなきゃいけないんじゃないかと思いましてね。 扉があることは分かってるんだから、その扉を入ったらえらいことになると分かっていたとしても、扉を開けて真正面から入んなきゃいけない。真正面から問題を取り上げずに、横にある草花がきれいだねといっているだけでいいのか、そういう覚悟を固めて入ろう、いまその時期が来たんだと思って、『もののけ姫』にとりかかったわけです。 それがエンターテインメントとして成立しうるのかなどいろんなことを含めて、戸惑いとか不安はありました。そういう力量があるのかどうかとかね。さんざん悩みましたけど、とにかくやっちゃったんですよ。とりかえしのつかないところもありますけど、いまはもう開き直る以外にありません(笑)。Q:『もののけ姫』のあのテーマに挑むということがどんな大冒険だったかは分かるような気がします。宮崎:そういった、この時代が持っている通奏低音みたいなかたちでずっと鳴っている問題を、子どもたちは本能的に察知していると思うんです。自分たちは祝福されていないとか、ババを引いているという気分があって苛立っているのに、それにたいして大人たちは明瞭な答えをひとつも与えていない。そこにある木を大事にしましょうということぐらいしかいえない。僕らはこっちに目をむけようといった以上、その問題についてはこういう明瞭な答えをもっていますとは言えないけれども、こういうふうに感じているという映画だと作れるだろう。それでもいいから作るべきだと思ったんですよ。 作っているときは全然気付かなかったし、対象年齢もなにも考えなかったんですが、実は小学生にいちばん見てもらいたい映画だったと、完成披露試写会のあとから思うようになりました。子どもたちがこの映画をどういうふうに認めてくれるのか。ただおっかないお化けがいっぱい出てくる映画として終わるかもしれない。それでもいいから見てほしいと思ってます。よく分からなくてもいいんですよ。この世の中には分かんないことがいっぱいあるわけですから。 分からなくてもちっとも恥ずかしいことはない。とにかく子どもたちにぜひ見てもらいたい映画になったなと、いまは思っています。『トトロ』とか『ナウシカ』とかを見て育った子どもたちが一定の年齢になったときに、その世界にも通じるものとして作られていますので、この映画を見てもらってそこに描かれているものについてどう感じるのか、僕はそのことが知りたいですね。 Q:『ナウシカ』『トトロ』『もののけ姫』と時代は未来、現在、過去と遡っていくんですが、テーマの質はだんだん現代化していますよね。宮崎:そうですか。僕は思想的にいえば『耳をすませば』と『もののけ姫』が同じ基盤に立っていると思っているんですが。Q:どこがですか?宮崎:『耳をすませば』はここまでは言える、ここから先のことについては触れないでおこうと、はっきり線を引いて作っています。そのとき触れなかったものが『もののけ姫』の中にある部分なんです。僕はコンクリートロードの中に暮らしている人間たちが、どういうように生きていくかというときに、別に新しい生き方があるわけじゃない、クラシックな生き方しかないと思っていますので、そういう生き方でいいんだという指摘をし、そういう生き方をする人にエールを送りたかったのです。Q:エボシ御前という女が、宮崎さんのおっしゃるところの難しいのは承知で扉を開けたという、テーマを具現する人物になっていますね。あの人は森を切り崩してタタラ場を作った。その点では自然を破壊した悪い奴ですが、タタラ場を作って鉄を生産することで封建的なしがらみから女たちを解放し、差別された病人を人間として扱うことが出来た。その点では善行をつんだといえる。しかしまた、その鉄で鉄砲を作り、人間や動物を殺りくする。この人はいい人とも悪い人とも簡単には決められませんね。宮崎:人間の歴史ってそういうものなんですね。戦争やったおかげで女性の職場進出がすすんだりするわけです。僕は複雑な部分は切り捨てて、善と悪だけで見ようとしても、物事の本質は掴めないと思います。そういうつもりでこの映画を作りましたから、だれを悪役にするか、だれは悪役にしないとかといった区分けはしておりません。とりあえずサン(もののけ姫)とアシタカはあんまり手が汚れていない。 といっても、まだ子どもで手が汚れるほどの生活をしていないというだけのことですけどね。彼女や彼もこれからそういう生活がはじまるんだし、困難が訪れることが予想されます。でも、その他大勢の人間たちはすでに手を汚している。しかし、それぞれが理由を持っていて、手が汚れたものは排除すればケリがつくという単純な問題じゃないですから、その面倒臭い部分をも抱え込んで僕らは生きていかなきゃいけないんですね。そのうえ、自然を破壊している人が人間的には実はいい人だったりするわけです。 悪人ではない人間たちが善かれと思って勤勉にやっていることが、実はたいへんな問題を起こしていたりするわけです。私利私欲で固まっていて、誰が見てもいやな奴が木を切ったり、山を削ったり、諫早湾を閉じ込めたりしているんだったら、善悪の判断をつけるのは楽なんですけどね(笑)。 そうじゃないところに人間の抱えている問題の複雑さがあるわけですから、こんがらがってる部分をこんがらがってるまま見せることにしたんです。意識的にそうしたわけではありませんが、終わってみたらそういう映画になってたかなという気がします。
2017.02.20
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図書館に予約していた『火星に住むつもりかい?』であるが・・・・売れっ子作家の新刊であっても予約0とあれば、待つこと4日でゲットできたのです♪映画の『それでも僕はやってない』をもっと酷くしたような「平和警察」であるが・・・怖い物見たさで読んでみるか。【火星に住むつもりかい?】伊坂幸太郎著、光文社、2015年刊<「BOOK」データベース>より住人が相互に監視し、密告する。危険人物とされた人間はギロチンにかけられる―身に覚えがなくとも。交代制の「安全地区」と、そこに配置される「平和警察」。この制度が出来て以降、犯罪件数が減っているというが…。今年安全地区に選ばれた仙台でも、危険人物とされた人間が、ついに刑に処された。こんな暴挙が許されるのか?そのとき!全身黒ずくめで、謎の武器を操る「正義の味方」が、平和警察の前に立ちはだかる!<読む前の大使寸評>売れっ子作家の新刊であっても予約0とあれば、待つこと4日でゲットできたのです♪映画の『それでも僕はやってない』をもっと酷くしたような「平和警察」であるが・・・怖い物見たさで読んでみるか。<図書館予約:(2/12予約、2/16受取)>amazon火星に住むつもりかい?この小説の語り口を、ちょっとだけ見てみましょう。p44~46 千葉県が「安全地区」となり、その調査と管理がはじまったのは7ヶ月前だ。はじめの2ヶ月は大きな動きがなかった。誰かが捕まったというニュースはおろか、調査を受けたという噂すら聞かず、それは臼井淋の同僚が表現した、「税務調査みたいなものですかね」という物言いがぴたりの感覚で、物足りなさを覚えるほどだった。 5月末に処刑されたのは、押し込み強盗を繰り返す中年の男だった。通常の警察が取り締まる範疇の、規模の小さな犯罪者に思えたのだが、強盗で得た金品をテログループに渡していたのだという。それを皮切りに、次々と、危険人物が見つかった。東京湾アクアラインの、海ほたるパーキングエリアでの爆破を企むグループが見つかり、仲間が芋蔓式に発見された。さらには、学習塾を経営する男が国家機密の情報にアクセスした罪で捕まり、そこから会社員の男も数人、連行されたと新聞には書かれていた。 9月末、2回目の処刑が行われ、その斬首の現場を見た時は、臼井淋も緊張した。緊張し、恐怖し、興奮した。 壇上で、首が切られた瞬間、流血や小さな悲鳴はあったものの、シンプルで美しい造形の、斬首装置のせいもあるのか、どこか厳かな儀式がなされた雰囲気が漂っていたのは事実だった。罪の意識と恐ろしさ以上に、達成感や満足感を覚えた。不謹慎を承知で言えば、大掃除や害虫駆除を終えた、すっきりとした気持ちすらあった。 「それにですね」テレビの中で、教授がまだ続けていた。「犯罪者が処刑されて、大変な事件が未然に防がれているのだとすれば、それはもちろん、悪くはないかもしれません」 「かもしれません、じゃなくて、断定しいてくださいよ」 「ただ、これは政府にとって、都合の悪い人間を片端から処分していく手段にもなりかねませんよ」 「どういう意味ですか」 「罪を犯した人間を処刑するのではなく、未然に防ぐとなれば、誰がいつ捕まり、処刑されるのか分かりません。中世の魔女狩りと同じです。それにほら、噂が絶えませんよね」 「噂?」 「平和警察の取調べでは、怖ろしい拷問がつきものだ、という話です」教授の口ぶりは、美食家がコース料理の食べ方をレクチャーするような優雅なものだ。深刻さはない。 「警察は否定していますし、そのあたりは首相がコメントもしていますよ」 「そりゃあ、実は拷問しているんだけどね、とは言えませんよ」 論客全員が苦笑し、言葉を濁した。 野党議員は、「そういうのは、UFOに連れ去られて手術されちゃった人の話みたいなものですから」と笑い飛ばし、別の男は、「昔の特高警察とかをイメージされているんでしょうが、さすがに現代にあれはないですよ」と手を振った。 そこで教授が、「小林多喜二の死!」と訴えはじめる。帝国軍隊を批判した作品を書いた小林多喜二はよほど特高警察から憎まれていたのか、逮捕された後、拷問され死亡した。体中が内出血で変色し、腫れあがり、体には釘を打たれたという話もある、と彼は興奮気味に話した。「あれだって、当時からすれば平和のための取り調べだったわけです。特高警察は、それを、心臓発作だ、と言い張ったんですから。どう見ても、拷問された遺体を前に、心臓発作で押し通せる。それが国家権力ですよ」 「昔と今とは違います」議員が顔をしかめる。 「しかし結果は出ています」「だからこれまでも言ったように、結果が出ているからそれで良いとは」「じゃあ、どうしろって言うんですか」(中略) 矢継ぎ早に言葉が行き交った末に、教授は一瞬、言葉に詰まった。そこでわずかではあるが静かになったところで、カメラに写らぬところで誰かが、「そんなに反対反対って、嵐山さんこそ、危険人物なんじゃないっすか」とぼそっと言った。 嵐山さん、と呼ばれた教授の表情が強張り、困惑したように苦笑するのが画面に映る。ほかの論客たちが笑ったところで、コマーシャルに入った。ウーム 国会では共謀罪の議決が取りざたされているが・・・この小説ではもっと過酷な悪夢のような世界となっています。とにかく、この小説では主人公が次々と変わる、つまり次々と死んでいく構成になっていて・・・そういえば、井坂さんの小説には死神を第一人称に据えたのも、あったなあ♪
2017.02.20
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図書館で『国境のない生き方』という新書を手にしたのです。パラパラとめくってみると、ヤマザキマリの自叙伝のような本になっています。しかしまあ、我が子を谷に突き落とすようなお母さんの薫陶によく耐えたマリさんである♪【国境のない生き方】ヤマザキマリ著、小学館、2015年刊<出版社>よりヤマザキマリの名言満載、体験的人生論! 14歳で1か月間、欧州を一人旅。17歳でイタリアに留学し、どん底のビンボー生活も経験。様々な艱難辛苦を経験しながらも、明るく強く生きてこられたのは、本と旅、人との出会いのおかげでした!この新書に登場する本は、三島由紀夫に安部公房、『百年の孤独』のマルケスに、『蜘蛛女のキス』のブイグ、漫画界からは手塚治虫に藤子・F・不二雄、つげ義春に高野文子など。<読む前の大使寸評>パラパラとめくってみると、ヤマザキマリの自叙伝のような本になっています。しかしまあ、我が子を谷に突き落とすようなお母さんの薫陶によく耐えたマリさんである♪どん底の生活体験とか読書歴が興味深いのです。rakuten国境のない生き方ヤマザキマリがつげ義春を語っているので見てみましょう。p166~168 <つげ義春が描く不条理> イタリアで自分がどん底に落ちていた頃は、つげ義春のエッセイなんかも何度も読んでました。『無能の人』みたいな比較的新しい作品より、『ゲンセンカン主人』とか『長八の宿』みたいな初期の作品が好きです。 『山椒魚』なんて下水に棲んでいる山椒魚の話で、捨てた胎児がそこに流れてくる。山椒魚は、ぎょろ目でちょっとすっとんきょうな感じがするんだけれど、感情的じゃない感じ。特に初期の、ペン画の作品って絵もほとんど墨ベタ、つまりまっ黒なんです。つげ義春の漫画って「背景が語る漫画」なんですよ。 人物が出てこなくたって、執拗に掻き込まれた畳のじめっとした質感を見ただけで「ああーっ」て伝わってくるものがある。だから『ねじ式』みたいなシュールな作品も好きだけど、むしろ私は、さびれた温泉宿にひとりで旅するような話がたまらないわけです。 漫画家の三宅乱丈さんと、のちに行きましたからね。つげ義春の漫画に出てくる温泉のうち、東北地方にあるものはすべて制覇しています。『テルマエ・ロマエ』に、つげ義春も描いた八幡平の「オンドル小屋」が出てくるのは、そういうわけです。 つげ義春が描く昭和の貧しい日常も、私にとってまったく知らない世界ではない。トタン屋根のバラックや、親が何してるかわからなくて、就学しないで洟垂らしてる子どもたちって、昔を振り返れば、近所にあった、「あるある」な日常だったりする。 何か貧しげで不条理なんだけど、でも逆に生命力を感じる。 つげ義春が描く世界って、退廃的に見えるけど、あの墨ベタとか塗りまくりの絵にはすごくしぶとい実存的なオーラがあって、実はものすごく、生きる、生きているってことを描いている漫画だと思う。もうどん底でボロボロに、ドロドロになりながら、こんなに悲惨なのにそれでも生きています。死にませんっていう漫画。 だからこそ、どん底にいた私が、もう死んじゃいたいくらいのギリギリのところで、「わかるわかる、生きるってこういうことだよね」と思いつつ読んだんだと思うんです。 つげさんと、あとは水木しげるさんも、背景でそういうことを語れる人ですよね。 『水木しげるのラバウル戦記』では水木さんが自ら背景も描いていますけど、つげさんともまた違う細かさで、本当に素晴らしい。水木さんはものすごい画力で天才少年と呼ばれた人だし、つげさんのお師匠さんだから、それこそ人物なんて1分くらいで描いてそう。むしろ背景にものすごく時間をかけている。 つげ義春も、背景の漫画家、墨ベタの漫画家ですから。 あの塗りたくった暗闇に物語らせる人。 背景で語る、絵全体で物語る、その精神は、まさに『プリニウス』で受け継いでいます。あの漫画ではそれがやりたくて、とり・みきさんとふたりでやることにしたんです。 ひとりだったら、とてもじゃないけど、あそこまで描き込むことは不可能ですから。あの漫画は、プリニウスがどんな人物なのか、そのキャラクターを描きたいというよりも、彼を通して古代ローマの闇の部分、人間の不条理さを描いてみたいと思った。だから一緒にやるのも、絵がうまければ誰でもいいってわけにはいかなかったんです。人間の不条理さ、ドロドロした闇の部分もわかる、人間嫌いの人じゃないと。ウーム とり・みきと一緒にやっている理由は、とり・みきが人間嫌いだからとか・・・・マリさんは結構、難しい人のようです。『国境のない生き方』1『国境のない生き方』2
2017.02.19
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図書館で『国境のない生き方』という新書を手にしたのです。パラパラとめくってみると、ヤマザキマリの自叙伝のような本になっています。しかしまあ、我が子を谷に突き落とすようなお母さんの薫陶によく耐えたマリさんである♪【国境のない生き方】ヤマザキマリ著、小学館、2015年刊<出版社>よりヤマザキマリの名言満載、体験的人生論! 14歳で1か月間、欧州を一人旅。17歳でイタリアに留学し、どん底のビンボー生活も経験。様々な艱難辛苦を経験しながらも、明るく強く生きてこられたのは、本と旅、人との出会いのおかげでした!この新書に登場する本は、三島由紀夫に安部公房、『百年の孤独』のマルケスに、『蜘蛛女のキス』のブイグ、漫画界からは手塚治虫に藤子・F・不二雄、つげ義春に高野文子など。<読む前の大使寸評>パラパラとめくってみると、ヤマザキマリの自叙伝のような本になっています。しかしまあ、我が子を谷に突き落とすようなお母さんの薫陶によく耐えたマリさんである♪どん底の生活体験とか読書歴が興味深いのです。rakuten国境のない生き方マリさんが入れ込んでいる映画『デルス・ウザーラ』を見てみましょう。p148~151 <デルスとデルス> アルセーニエフの探検記『デルス・ウザーラ』は、黒澤明監督が映画化しています。 イタリアでは「クロサワといえば『デルス・ウザーラ』だよね」って言う人が多いんですよ。『七人の侍』でも『用心棒』でもなく、まず『デルス・ウザーラ』なんです。 ただ、全篇ロシア語で、出演者もロシア人だけ。日本で有名な俳優はひとりも出てきませんから、何の予備知識もなく観たら、クロサワの映画だと思わないかもしれない。 黒澤明は当初、デルス役に三船敏郎を考えていたという話があります。もし三船がデルス役をやっていたらまた全然違う、「ザ・クロサワ」みたいな映画になっていたでしょうね。 ハリウッド映画『トラ・トラ・トラ!』の監督を解任され、次作の『どですかでん』は酷評され、興行も不振。追いつめられた黒澤監督は、1971年に自殺未遂をしています。その後の監督復帰作がこの『デルス・ウザーラ』で、ソビエト政府が「うちが資本を出すから、ソビエトに映画を撮りにこないか」と、失意の底にあった監督に声をかけたのです。 クロサワ映画の中でも異色の作品ではあるのですが、映画に追いつめられ、映画に救われた監督の心境を反映したかのような、これ見よがしではない、透徹したまなざしが全篇に貫かれています。まさに珠玉の、と言いたくなるようなとてもいい映画で、その年のアカデミー賞外国語映画賞を受賞しています。 そのせいか、ヨーッロッパでは結構知っている人が多いのですが、日本ではあまり知っている人がいない、知る人ぞ知る作品みたいになっているのはなぜでしょう。 この映画の何がヨーロッパの人たちの琴線に触れたのかと言えば、ひとつには北方シベリアに調査にやってきたロシア人探検家アルセーニエフと先住民族の猟師デルス・ウザーラの友情がクロサワ節によって感動的に描かれていること、でもそれ以上に描かれている独特の自然観が、西欧合理主義の文化圏の人々の心をとらえたのだと思います。 北方シベリアって、いろんな少数民族がいて面白いんですよ。 アイヌが有名ですが、ギリヤーク人という、アムール川沿いから樺太にかけて住んでいた、ものすごい少数民族がいて、もともとアムール川沿いにいた人たちが日本にも渡ってきていた。網走には、日本に来たギリヤーク人の唯一の生き残りの人がつくった博物館があって、北海道にいた頃、行ったことがあります。(中略) 探検記の方は、ロシア人探検家アルセーニエフによる語りになっていて、彼は測量技術もあるので、北方シベリアが地形的にどんな場所かがすごく伝わってきて、彼らと共に、人を寄せつけないようなあの厳しい土地を探検しているような気持ちにさせてくれます。 アルセーニエフがまた素晴らしい人で、デルスの魅力を見抜いている。未開の地で暮らす野蛮人などとは思っていないんですね。過酷な自然と共に生きるデルスのあり方に、ちゃんと敬意を払える人なんです。だからこそ、デルスも心を許す。 ロシアの教養人でもあるアルセーニエフと、原初的な人間の資質を持っているデルス。過酷な旅をともにする時、彼らはおたがいを照らし合う明りにもなっている。 自分の名前の由来だと知って以来、息子のデルスもこの探検記が大好きになりました。旅に出る時はいつも、英語版のこの体験記を携えています。ギリヤーク人といえば、ギリヤーク尼崎という大道芸人のパフォーマンスを観て、惹かれたことがあるのだが・・・今のロシアで、これらの少数民族はどのように暮らしているのか、気にかかるのです。映画『デルス・ウザーラ』をいま思うより『デルス・ウザーラ』をまだ観ていないのだが、『黒澤明 夢のあしあと』というムック本から紹介します。p281<『デルス・ウザーラ』は30年前からの夢だった、黒澤明>より 『デルス・ウザーラ』の映画化は、ぼくが30年も前から考えていたことでした。まだ助監督だったころ、たまたま探検記が好きで、『デルス・ウザーラ』の原作を読んで、デルスという人物がとても好きになったわけです。ぜひ映画にしたいと、『白痴』(51年)を終えたあとだったと思いますが、いちど久板栄二郎さんに話してシナリオを書いてもらったのです。そのころは勿論ソビエトで撮るなんて考えてもみなかったから、舞台も人物も置き換えてやったのですが、できたシナリオがどうもおもしろくない。しょせん日本ではうまくいかないのです。 その後、1971年2月、ソビエトのセルゲイ・ゲラーシモフ監督が来日したとき、ソビエトで一本撮る気はないかという話があり、それからその年のモスクワ映画祭に特別出品として「どですかでん」を持って、ぼくがソビエトに行ったとき、向こうからあらためて一本撮らないかという話がでたのです。 日本に来たことのあるレフ・クリジャーノフ監督と会って話していたとき、『デルス・ウザーラ』をやってみたいと言ったのです。すると向こうは、びっくりして「『デルス・ウザーラ』を知っているのか」と言うわけです。「いやあ、30年も前からずっと考えていた」と言うと、「それならそれがいいじゃないか。実は、すでにソビエトで撮った『デルス・ウザーラ』があるけれども、それはとてもつまらない、黒澤さんが撮るなら勿論、全然違うものができるだろう、それがいい」と、けっきょく『デルス・ウザーラ』を撮ることに決まったのです。『国境のない生き方』1
2017.02.19
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今回借りた5冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「女性作家」でしょうか♪<市立図書館>・むかしのはなし・国境のない生き方・眠る魚・火星に住むつもりかい?・なぜ中国人は、日本が好きなのか!<大学図書館>(今回はパス)図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【むかしのはなし】三浦しをん著、幻冬舎、2008年刊<「BOOK」データベース>より三カ月後に隕石がぶつかって地球が滅亡し、抽選で選ばれた人だけが脱出ロケットに乗れると決まったとき、人はヤケになって暴行や殺人に走るだろうか。それともモモちゃんのように「死ぬことは、生まれたときから決まってたじゃないか」と諦観できるだろうか。今「昔話」が生まれるとしたら、をテーマに直木賞作家が描く衝撃の本格小説集。<読む前の大使寸評>三浦しをんの短篇小説集ってか・・・・いけるかも♪データは文庫本のものだが、借りたのは2005年刊のハードカバーです。amazonむかしのはなし************************************************************【国境のない生き方】ヤマザキマリ著、小学館、2015年刊<出版社>よりヤマザキマリの名言満載、体験的人生論! 14歳で1か月間、欧州を一人旅。17歳でイタリアに留学し、どん底のビンボー生活も経験。様々な艱難辛苦を経験しながらも、明るく強く生きてこられたのは、本と旅、人との出会いのおかげでした!この新書に登場する本は、三島由紀夫に安部公房、『百年の孤独』のマルケスに、『蜘蛛女のキス』のブイグ、漫画界からは手塚治虫に藤子・F・不二雄、つげ義春に高野文子など。<読む前の大使寸評>パラパラとめくってみると、ヤマザキマリの自叙伝のような本になっています。しかしまあ、我が子を谷に突き落とすようなお母さんの薫陶によく耐えたマリさんである♪どん底の生活体験とか読書歴が興味深いのです。rakuten国境のない生き方『国境のない生き方』byドングリ************************************************************【眠る魚】坂東眞砂子著、集英社、2014年刊<商品の説明>より東日本大震災後。父の訃報を受け、南太平洋の島から故郷に一時帰国した彩実。放射線被害に対する海外の情報との温度差、保守的な家族たちに違和感を覚えるなか、奇妙な風土病の噂を耳にして・・・。。<読む前の大使寸評>郷土の作家でもあるし、著者渾身の遺作とあれば、読むしかないか。amazon眠る魚************************************************************【火星に住むつもりかい?】伊坂幸太郎著、光文社、2015年刊<「BOOK」データベース>より住人が相互に監視し、密告する。危険人物とされた人間はギロチンにかけられる―身に覚えがなくとも。交代制の「安全地区」と、そこに配置される「平和警察」。この制度が出来て以降、犯罪件数が減っているというが…。今年安全地区に選ばれた仙台でも、危険人物とされた人間が、ついに刑に処された。こんな暴挙が許されるのか?そのとき!全身黒ずくめで、謎の武器を操る「正義の味方」が、平和警察の前に立ちはだかる!<読む前の大使寸評>売れっ子作家の新刊であっても予約0とあれば、待つこと4日でゲットできたのです♪『それでも僕はやってない』をもっと酷くしたような「平和警察」であるが・・・怖い物見たさで読んでみるか。<図書館予約:(2/12予約、2/16受取)>amazon火星に住むつもりかい?************************************************************【なぜ中国人は、日本が好きなのか!】毛丹青, 蘇静著、潮出版社、2014年刊<「BOOK」データベース>より『知日』は、2011年1月に北京で創刊された、日本文化やライフスタイルを紹介する月刊誌。毎号テーマを絞り、日本のありのままの姿を紹介する。これまで取り上げてきたのは、「制服」「森ガール」「明治維新」「暴走族」「妖怪」「鉄道」「断捨離」「禅」「犬」「日本食」「手帳」「礼儀」など、日本人もびっくりの計24タイトル(2014年12月現在)。中でも「猫」や「漫画」は10万部を突破するなど、日中関係が冷え込むなかで、メディアを始めとして日中両国で大きな話題を呼んできた。そんな『知日』のすべてがわかるダイジェスト版が、ついに日本初上陸!<読む前の大使寸評>中国人がつくる「日本文化を紹介する月刊誌」のダイジェスト版ってか・・・・面白そうやでぇ♪rakutenなぜ中国人は、日本が好きなのか!************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き199
2017.02.18
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『サバイバルファミリー』が11日から公開されたので、見る前に個人的予告を作っていたが・・・と言いつつも昨日(17日)観てきました。【サバイバルファミリー】矢口史靖監督、2017年制作、2017.2.17観賞<movie.walker解説>よりある日突然、電気がなくなった世界を舞台に、とある家族のサバイバル生活を描く、矢口史靖監督によるコメディ。登場人物たちに次から次へとトラブルが降りかかる監督お得意の手法で物語が進行。バラバラだった一家が、過酷な生活を通して、絆を取り戻していく。一家の主を小日向文世、その妻を深津絵里が演じる。<観る前の大使寸評>矢口史靖監督の新作とあれば・・・観るしかないか♪movie.walkerサバイバルファミリーある日突然、電気あるいは電磁波がとだえたら世界はどうなるか?矢口監督は、こんなSFのような、思考実験のような思いにとりつかれたようで・・・・この映画は、電気がとだえた3年間ほどのサバイバル生活を描いています。とにかく電話、報道などによる情報がとだえるので、情報伝達は口伝えだけになるわけで、仕事にならないし、都市の生活は成り立たないし・・・しばらくすると現行紙幣は効力を失い、経済活動といえば食料品主体の物々交換だけになるという矢口監督のお話は、説得力があるわけです。西日本は電気が生きているという噂を信じて、この家族は東京から自分の故郷でもある鹿児島を目指して自転車で旅を始めるのです。その後の生活は明治期以前のような生活に変わり、陸上の輸送手段は自転車と蒸気機関車だけとなるのが・・・へんに納得できるのです。阪神大震災の際、被災直後は茫然自失の呈であったが、3時間ほど後には飲料水、ガスボンベ、トイレ用水の確保に動いたことを思いだしたわけで・・・わりと既視感のある映画でした。鏡反射によるモールス式情報伝達を使って現代的な行政を模索するとか・・・このお話には、いくらでもいちゃもんをつけられるが、よしておこう♪監督の初日舞台挨拶を見てみましょう。小日向文世、妻・深津絵里から「一生可愛い人でいて。ずっと大好き」より『ウォーターボーイズ』(01)の矢口史靖監督最新作『サバイバルファミリー』の初日舞台挨拶が2月11日にTOHOシネマズ六本木ヒルズで開催。小日向文世、深津絵里ら豪華キャストと矢口史靖監督が登壇した。深津は撮影から宣伝まで大奮闘してきた小日向について「こんなにキュートな63歳はどこにもいません。一生可愛い人でいてください。ずっと大好きです」と笑顔で語った。過酷な撮影で胸部を殴打したり、極寒の川に入ったりした小日向だったが、深津のねぎらいを受け「いや、全部吹っ飛びました」と満面の笑顔を浮かべた。舞台挨拶には小日向、深津の他、泉澤祐希、葵わかな、時任三郎、藤原紀香、大野拓朗、志尊淳も登壇。クロストークでは藤原の天然ぶりが笑いを誘った。切り出したのは矢口監督で「案外雨女で、藤原さんが来た日に限って雨が降る。噂で聞いたら海外で砂漠に行ってもたいがい雨を降らせちゃうとか」と藤原の雨女ぶりを明かす。藤原は「気づかないふりをしていました。ケニアの干ばつで乾季だったのに降っちゃった。そしたら動物たちやマサイ族がうれしがって出てきちゃった」と珍エピソードを披露した。また、矢口監督は全員のなかで藤原のサバイバル能力が一番高いと発言。「本物の天然は危機に強い。なんでもポジティンブシンキングできるし、水の確保もできる」と言って笑いを取ると、藤原は「大変光栄です」と苦笑いした。この記事も矢口史靖の世界R1に収めておきます。
2017.02.18
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図書館で『国境のない生き方』という新書を手にしたのです。パラパラとめくってみると、ヤマザキマリの自叙伝のような本になっています。しかしまあ、我が子を谷に突き落とすようなお母さんの薫陶によく耐えたマリさんである♪【国境のない生き方】ヤマザキマリ著、小学館、2015年刊<出版社>よりヤマザキマリの名言満載、体験的人生論! 14歳で1か月間、欧州を一人旅。17歳でイタリアに留学し、どん底のビンボー生活も経験。様々な艱難辛苦を経験しながらも、明るく強く生きてこられたのは、本と旅、人との出会いのおかげでした!この新書に登場する本は、三島由紀夫に安部公房、『百年の孤独』のマルケスに、『蜘蛛女のキス』のブイグ、漫画界からは手塚治虫に藤子・F・不二雄、つげ義春に高野文子など。<読む前の大使寸評>パラパラとめくってみると、ヤマザキマリの自叙伝のような本になっています。しかしまあ、我が子を谷に突き落とすようなお母さんの薫陶によく耐えたマリさんである♪どん底の生活体験とか読書歴が興味深いのです。rakuten国境のない生き方どん底の生活体験あたりを見てみましょう。p136~139 <母になったのは、人生最悪の時だった> 息子の名前を「デルス」と名づけたのは、ロシアの探検家で軍人のウラディミール・アルセーニエフの探検記『デルス・ウザーラ』からでした。シベリアの過酷な自然の中でも、体ひとつで生きている、あの本の登場人物のように、人間というひとりの生き物としてたくましくこの世界を生き抜いてほしいと思ったからです。 デルスを産んだのは1994年、私が27歳の時でした。 若く多感で青春を謳歌するはずの年代に、ひとつでも耐えられないような試練が山のように重なって、当時の私は人生のどん底にいました。あの時くらい、人間が嫌いになったことはなかったと思います。 当時の私をよく知るイタリア人の友達に言わせれば、「あの頃のマリって、『世の中の人間はみんな敵』みたいな感じで、誰も信じてないし、誰とも友達になる気がなくて、人を寄せつけないところがあったよね」と。 「楽しそうにしている人がいると、蔑むような目で見ていた」と言われても、自分ではまるで自覚がなかったけれど、そういうこともあったかもしれないと思うくらい、あの頃は何もかもがうまくいかず、疲れ切っていました。 20代の若さで、すっかり絶望して「生きていて何が楽しいんだろう」と日々、自問自答しながら、かろうじて文学や芸術につなぎとめてもらっていた日々でした。 だいたい絵描きと詩人が同棲していたのだから、生活は初めからビンボーの王道です。 でもそれだけなら耐えられたと思います。屋台でアクセサリーを売る商売が軌道に乗ると、ジュセッペは、やがて稼いだ分をその日のうちに使ってしまうようになって、ケンカが絶えなくなりました。経済的な不安定以上に、言葉のバトルがつらかった。 とうとう不渡り手形が出て、銀行から「今日中にお金を入れてくれ」と矢の催促なのに、彼は相変わらず働こうともしない。 家を抵当にとられて追い出されるかもしれないのに「君が、日本からお金を送ってもらえばいい」と言い出す始末です。毎日のように飲んだくれては、家にも寄りつかなくなり、ある日、警察から電話がかかってきました。酔っぱらったジュセッペがケンカに巻き込まれて大けがをしたというのです。 浴びるようにお酒を飲む彼を見ていると、いつも不安でした。 出会った頃は「俺は絶対」と自負して、過剰なくらいの自信に満ちあふれていた人が、自分の才能を疑い、自暴自棄になっている。つぶれていく人間というものを目の当たりにしていると、自分もいつかこんなふうになっていくのかと、ものすごく怖かった。 27歳で帰国するまでの7年間は、私にとってそういう暗黒の青春時代でした。 人生はうまくいかないものだというのを身に染みて感じながら、もはやこれまでという地点まで転がり落ちていた。 妊娠がわかったのは、そういう時でした。 「風邪かな」と思って病院に行ったら、妊娠11週目。でもそんな状況では、とてもじゃないけれど、素直に喜ぶことができませんでした。ごはんもろくに食べていなかったので、10キロもやせて、妊婦とは思えないほどひょろひょろの体で、私は思いました。 結婚もしていないし、彼はどうしようもないし、神様は一体どういうつもりで私に子どもを産めというのか。 それでもお金を稼がないといけないから、身重の私がひとりで屋台を出して、日が暮れるまで店番をして、とてもじゃないけど絵を描くどころじゃない。良くないことは続くもので、雇った人にまでお金を持ち逃げされて、もう誰を信じたらいいのかもわからない。家に帰っても疲れ果てて、本を開く気にもなれません。 朝から晩まで手形の支払いのことばかり考えて、一体自分は何のために生きているのだろうと途方に暮れました。不渡りが出た時も、私が、日本円で50万円くらいのお金をあちこちに頭を下げてかき集めたけれど、それが限界で、結局、倒産して、家から何から全部差し押さえられてしまったのです。ウーム すさまじい体験をくぐってきたようですね。テレビで見ると、ドスの効いた低音にすごみがあるわけで・・・あの声でイタリア語をしゃべると、イタリア人がおびえるとか(笑)。
2017.02.17
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図書館に予約していた『村上春樹 雑文集』という本を待つこと4日でゲットしたのです。なるほど、予約するには6年前発刊の本なんかが狙い目なのか♪【『村上春樹 雑文集』】村上春樹著、新潮社、2011年刊<「BOOK」データベース>より1979-2010。未収録の作品、未発表の文章を村上春樹がセレクトした69篇。【目次】序文・解説など/あいさつ・メッセージなど/音楽について/『アンダーグラウンド』をめぐって/翻訳すること、翻訳されること/人物について/目にしたこと、心に思ったこと/質問とその回答/短いフィクションー『夜のくもざる』アウトテイク/小説を書くということ<読む前の大使寸評>なるほど、予約するには6年前発刊の本なんかが狙い目なのか♪<図書館予約:(2/07予約、2/11受取)>rakuten『村上春樹 雑文集』村上さんは翻訳家でもあるのだが、翻訳のあたりを見てみましょう。p224~226 <翻訳することと、翻訳されること> 過去に欠いた作品は、よほどのことがなければまず読み返しません。「過去は振り返らない」と言うといかにもかっこいいけれど、自分の小説を手に取るのはなんとなく気恥ずかしいし、読み返したってどうせ気にいらないことはわかっているから。それよりは前をむいて、次にやることについて考えたい。 だから昔の本のなかで、自分が何をどんな風に書いたか、すっかり忘れてしまっていることがよくあります。読者に「あの本のこれこれこういうところは、どういう意味なのですか」と訊かれて、「そんなところあったっけなあ」と首をひねるのはしょっちゅうです。何かの本か雑誌で目についた文章を読んでいて、「これ、なかなか悪くないじゃないか」と思ったら、それが実は僕の書いた文章の引用だったりすることもあります。ずいぶん厚かましいようですが・・・・。 でも逆に、引用されているのが、いやな、気にくわない文章だったりすると、「あ、これは僕の書いた文章だ」と必ず一目で見分けられる。どうしてかはわからないけど、いつもそうです。よいところはだいたい忘れてしまって、不満のあるところばかりよく覚えている。なんだか不思議なものですね。 とにかくそのようなわけで、僕の小説が、書き上げた何年かのちに外国語に翻訳されて出版されるころには、その本のなかで自分がいったい何を書いたのか、うまく思い出せなくなっていることが多い。もちろん筋書きをすっ駆り忘れるということはないけれど、少なくともディテイルの大半は、まるで夏の驟雨の湿り気がアスファルト道路の路面からさっと音もなく蒸発してしまうみたいに、僕の記憶から(もともとがそれほど上等な記憶でもないんだけど)きれいに消えてしまっています。 僕は英語で翻訳された自分の小説は、いちおうぱらぱらと読んでみるのですが、読み出すとけっこうおもしろくて、わくわくしたり笑ったりしながら、最後まですっと読み終えてしまったりする。だからあとで翻訳者に「翻訳はどうでした?」と訊かれても、「いや、すらすら読めましたよ。いいんじゃないですか」と答えるしかない。「ここはどうで、あそこはああで・・・」というような技術的な指摘はまったくといっていいくらいできない。自分の小説が翻訳されるのはどんな感じがするものですか、と訊かれても、正直言ってそういう実感はほとんどありません。 でも、すらすらとよどみなく読めて、それで楽しめたのなら、その翻訳は翻訳としての義務を十全に果たしていることになるだろう・・・というのが僕の原著者としての基本的なスタンスです。僕の考える物語、設定する物語というのは、つまりはそういうものなのだから。 自分の作品が多言語にトランスフォームされることの喜びの一つは、僕にとっては、こういうふうに自分の作品を別の形で読み返せるというところにある、と言ってもいいでしょう。日本語のままでならまず読み返さなかったはずの自作を、それが誰かの手によって別の言語に置き換えられたことで、しかるべき距離を置いて振り返り、見直し、いうなれば準第三者としてクールに享受することができる。 そうすることによって、自分自身というものを、違った場所から再査定することもできる。だから僕は、僕の小説を訳してくれる翻訳者たちにとても感謝しています。たしかに僕の本が僕自身に読まれる(これはいまのところ残念ながら英語の場合に限られているのだけれど)のも、僕にとってはなかなかうれしいことなのです。ウーム 英訳文を意識して小説を書くといわれる村上さんならではのお話ですね。『村上春樹 雑文集』1
2017.02.17
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図書館に予約していた『限りなく完璧に近い人々』という本を待つこと約3ヶ月でゲットしたのです。手にとるとわりと分厚いこの本にたじろくわけで・・・全篇読破は無理でしょうね。【限りなく完璧に近い人々】マイケル・ブース著、KADOKAWA、 2016年刊<「BOOK」データベース>より税金は高い、生産性は低い。高齢化、社会保障、移民、格差、教育、暴力、地方衰退。みんな私たちと同じ問題を抱えている。なのに、人生がつらいと感じる人はわずか1%!(デンマーク)。世界が注目する「北欧社会の奇跡」にぐいっと迫る!【目次】はじめに/デンマーク/アイスランド/ノルウェー/フィンランド/スウェーデン/終わりに<読む前の大使寸評>手にとるとわりと分厚いこの本にたじろくわけで・・・全篇読破は無理でしょうね。北欧社会の光と影が、気になるのです。<図書館予約:(11/20予約、2/14受取)>rakuten限りなく完璧に近い人々最初にデンマークを見てみましょう。p29~31 <第1章 幸福> ようやく雨雲が切れて、真っ青な夕空が見えてくると、私たちはひさしの下から思い切って外へ出る。緊張した救助犬のようにくんくんと、ひんやり湿った空気を吸い込み、消えそうな太陽の最後の暖かさを味わおうと、ピンク色の輝きの方へ顔を向ける。夜が更けるにつれ、そのピンク色は夏至の頃に特有の魔法のような白い光へ変わり、最期には空全体がプラネタリウムの天球のような、黒に近い深い藍色へと変わる。 夏至祭前夜はスカンジナビアの暦におけるハイライトの一つだ。夏至祭はもともとキリスト教以前の古代宗教の祭りだったが、キリスト教に乗っ取られ、聖ヨハネに敬意を表して「ヨハネ祭」と呼ばれるようになった。 スウェーデンでは、花輪で飾った「5月柱」の周りで人々が踊り、フィンランドやノルウェーではたき火を囲んで集う。ここデンマークのコペンハーゲンの北にある私の友人宅の庭では、誰もが盛大にビールやカクテルを飲んでいる。夜10時になると、皆でたき火を囲んで「私たちは祖国を愛す」をはじめとする感動的かつ愛国的な歌を合唱する。使い古した庭仕事用の雑巾とホウキで作った魔女の人形が火にくべられ、友人の8歳の娘によると、魔女をドイツのハルツ山脈に送り出すのだそうだ。 デンマーク人はこういったお祭りを楽しむのが本当に上手い。パーティーに対して極めて真剣な姿勢で取り組み、お酒に目がなくて、合唱にも献身的に打ち込み、友人同士では極めて打ち解けた付き合いをする。デンマークではパーティを「フェスト」と呼び、あそこのフェストは良い、などという言い方をする。今回は、バーテンダーが二人、大きなグリルが二つもあって、さまざまな豚の部位がきつね色になるまでゆっくりと焼かれている。あとで饗される夜食も極めて大切だ。ソーセージやチーズ、ベーコンにロールパンなどが振る舞われ、酔いを覚まし、日の出までの間をつないでくれる。(中略) 今ここにいる人たちは皆、今日は仕事を早く切り上げて来たはずだ。「打ち合わせに行く」と言ってオフィスを抜け出したり、仮病を使ったりする必要はなく、上司に「1時間ほど北に行った海岸沿いで行われるパーティに出席するので、準備のために早退します」と率直に伝えて構わない。上司はあっさり許可してくれたはずだ。デンマーク人は、仕事と私生活のバランスについて、すがすがしいほどのんびりした考えを持っている。このことは、後で見るように、プラスの結果(幸福)とマイナスになり得る結果(時おり、例えば世界的な不況が起きた時などに、相当に身を入れて仕事に取り組まなければならなくなる)をもたらしている。 私はデンマークで、「仕事が生きがい」という人にほとんどお目に掛かったことがない。多くのデンマーク人(とりわけ公務員)が、仕事に対しては、そこそこ快適な暮らしを支えるために、必要最低限の時間を充てようと努力し続けることについて、隠し立てもしなければ言い訳もしない。デンマーク人の1週間当たりの労働時間は1世紀前のほぼ半分であり、他のヨーロッパ諸国と比べてもかなり少ない。EU諸国の年間平均労働時間が1749時間であるのに対し、デンマークは1559時間だ。2011年にOECDが30カ国にを対象に行った調査によれば、デンマーク人は世界的に見ても、ベルギー人に次いで最も怠け者の部類に入る。『限りなく完璧に近い人々』1
2017.02.16
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図書館に予約していた『限りなく完璧に近い人々』という本を待つこと約3ヶ月でゲットしたのです。手にとるとわりと分厚いこの本にたじろくわけで・・・全篇読破は無理でしょうね。【限りなく完璧に近い人々】マイケル・ブース著、KADOKAWA、 2016年刊<「BOOK」データベース>より税金は高い、生産性は低い。高齢化、社会保障、移民、格差、教育、暴力、地方衰退。みんな私たちと同じ問題を抱えている。なのに、人生がつらいと感じる人はわずか1%!(デンマーク)。世界が注目する「北欧社会の奇跡」にぐいっと迫る!【目次】はじめに/デンマーク/アイスランド/ノルウェー/フィンランド/スウェーデン/終わりに<読む前の大使寸評>手にとるとわりと分厚いこの本にたじろくわけで・・・全篇読破は無理でしょうね。北欧社会の光と影が、気になるのです。<図書館予約:(11/20予約、2/14受取)>rakuten限りなく完璧に近い人々20ページにもおよぶ長い「はじめに」の冒頭を先入観なしで、見てみましょう。p7~10 <はじめに> 2,3年ほど前の4月のある日、まだ暗い早朝、コペンハーゲン中心部にあるわが家のリビングで、春の訪れを待ちわびながら毛布にくるまって朝刊を開いた時のことだ。私にとって第二の祖国であるデンマークの人々が、人類で最も幸福な国民に選ばれた、という記事が目に飛び込んできた。英国レスター大学の心理学部による「人生の幸福度指数」とかいう調査の結果だそうだ。 思わず新聞の日付を見た―エイプリルフールではなかった。パソコンを開いてみると、確かにこの話題は世界中のニュースの見出しを飾っていた。英国の日刊大衆紙『デイリー・メール』から「アル・ジャジーラ」までが、あたかもご神託のごとく報じている。 デンマークは世界で一番幸せな場所だった。一番幸せ? 現在、私が住んでいる、この暗くて雨が多くて退屈で平坦な国、冷静で分別あふれる、ごく少数の国民が住む、世界一税金の高いこの国が? ちなみに私の母国である英国は41位だった。だが大学の先生がおっしゃるなら間違いないのだろう。 「これはまた、うまいこと隠しおおせたものだ」雨が降りしきる港を窓から眺めながら思った。 「そんなご機嫌な場所にはとても見えないが・・・」窓の下を見ると、北極地方に特有の極彩色のウェアに身を固めて自転車をこぐ人々と、傘を差した歩行者が押し合いへし合い、トラックやバスがはね上げる水しぶきを必死によけながらランゲ橋を渡っている光景が見えた。 午前中に自転車で訪れた近所のスーパーマーケットには、週に2回は顔を合わせるレジ係の女性がいる。彼女はいつもどおり、途方もなく高価で質の低い食品の値段を不機嫌そうに打ち込んでいる間、前に立っている私をまったく見なかった。店を出て赤信号を渡ると、数人から舌打ちが浴びせられた。 デンマークでは、車が通っていなくても、信号機に緑色の歩行者マークが現れるより先に歩き出すことは、社会的なエチケットを欠いた挑発行為とみなされる。 霧雨に濡れながら自転車で帰宅する途中には、左折禁止を無視したことで車のドライバーからお叱りを受けた。家に着くと納税通知が届いていた。1ヵ月の収入からぎょっとするほどの割合で税金を持って行かれる。 夜、ゴールデンタイムにやっていたテレビ番組といえば、搾乳時に牛の皮膚を傷つけない方法を紹介する番組、その後は10年前の刑事ドラマ『タガート』、続いて『クイズミリオネア』だ。ミリオネア(百万長者)というと大そうな響きがあるが、100万クローネは1600万円程度にしかならないので、外食をして、お釣りで映画を観る程度のものだ。(中略) デンマーク国民は、信仰心に行動が伴っているかは別として、生まれついてのルター派だ。つまり、ひけらかすことを嫌い、大げさな感情表現を信用せず、自分のことは人に話さない。たとえばタイ人やプエルトリコ人、いっそ英国人と比較してさえ、無愛想で面白みに欠ける。はっきり言って、それまでに私が旅した世界の50ヶ国の人々を「楽しそうに見える順」に並べたら、デンマーク人は、スウェーデン人、フィンランド人、ノルウェー人と並んで、下から四分の一のグループに入るだろう。 デンマーク人幸福論を掘り下げて調べるうちに、レスター大学の調査は、それほど驚くような結果ではないことがわかった。はるか以前、1973年にEC(欧州委員会)が実施した初めての世論調査「ユーロバロメーター」において、デンマーク国民は幸福度が第1位であり、現在も第1位なのだ。直近の調査では、調査対象となった数千人のデンマーク人の三分の二以上が、人生に「大変満足している」と答えている。わりと分厚いこの本は、こんな冗長な語り口が続くのであるが・・・全篇読破はあきらめました(笑)
2017.02.16
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図書館に予約していた『村上春樹 雑文集』という本を待つこと4日でゲットしたのです。なるほど、予約するには6年前発刊の本なんかが狙い目なのか♪【『村上春樹 雑文集』】村上春樹著、新潮社、2011年刊<「BOOK」データベース>より1979-2010。未収録の作品、未発表の文章を村上春樹がセレクトした69篇。【目次】序文・解説など/あいさつ・メッセージなど/音楽について/『アンダーグラウンド』をめぐって/翻訳すること、翻訳されること/人物について/目にしたこと、心に思ったこと/質問とその回答/短いフィクションー『夜のくもざる』アウトテイク/小説を書くということ<読む前の大使寸評>なるほど、予約するには6年前発刊の本なんかが狙い目なのか♪<図書館予約:(2/07予約、2/11受取)>rakuten『村上春樹 雑文集』小説を書くことの意味が興味深いので、そのあたりを見てみましょう。p400~403 <物語の善きサイクル> 小説家とは、もっとも基本的な定義によれば、物語を語る人間のことである。人類がまだ湿っぽい洞窟に住んで、堅い木の根を齧ったり、やせた野ネズミの肉を焙って食べていたりしていた太古の時代から、人々は飽きることなく物語を語り続けてきた。 たき火のそばで身を寄せ合って、友好的とはお世辞にも言えない獣や、厳しい気候から身を護りながら、長く暗い夜を過ごすとき、物語の交換は彼らにとって欠かすことのできない娯楽であったはずだ。 そして言うまでもないことだがあ、物語というものは、いったん語られるからには、上手に語られなくてはならない。愉快な物語はあくまで愉快に、怖い物語はあくまで怖く、荘重な物語はあくまで荘重に語られなくてはならない。それが原則である。 物語は聞く人の背筋を凍らせたり、涙を流させたり、あるいは腹の皮をよじらせたりしなくてはならない。飢えや寒さをいっときであれ、忘れさせるものでなくてはならない。そのような肌に感じられる物理的な効用が、優れた物語にはどうしても必用とされる。 なぜなら物語というものは聞き手の精神を、たとえ一時的にせよ、どこか別の場所に転移させなくてはならないからだ。おおげさに言うなら、「こちらの世界」と「あちらの世界」を隔てる壁を、聞き手に越えさせなくてはならない。あちら側にうまく送り込まなくてはならない。それが物語りに課せられた大きな役目のひとつだ。 どのような集団の中にも一人くらい、物語をそのように生き生きと語ることに長けたものがいたはずだ。そしてその人物が多かれ少なかれ専門家として、部族固有の多くの物語を記憶の中にプールし、それを自分なりにうまく脚色し、リアルな語り口で、巧妙に語ることになった。おそらく世界の多くの地域で、言語の違いこそあれ、そのような光景が同時的に、同質的に見受けられたことだろう。 このような物語を語る専門技術を(あるいは才能を)身につけた人々は、その部族が固有の文字を獲得したとき、物語を文章に固定する役割を担い始めた。長い年月にわたって口頭で、世代から世代へと伝えられてきた部族の神話や伝承やノウハウが、木片や石片に刻まれ、やがては紙片に書きつけられるようになった。そしてやがて情報の機能が分化し、フィクションという概念が確立されたとき(それは人類全体の歴史から見ればほんの昨日のことなのだが)、そのような作業を専門とする人々は「作家」という名前で呼ばれるようになった。 そして栄誉の桂冠を与えられたり、やんごとないご婦人の寵愛を受けたり、無理解な民衆に石を投げられたり、ある場合には為政者の逆鱗に触れて気の毒にも首を切られたり、生きたまま穴に埋められたり、火で焼かれたりすることにもなった。 僕は小説を書くことを職業とするもののひとりである。フィクッションを書き、それを本のかたちにして出版し、その印税で食料品を買ったり、レッド・ホット・チリ・ペッパーズのCDを買ったり、電気料金を払ったりしている。その仕事をかれこれ25年も続けている。ありがたいことに今のところまだ、首は切られていない。ときどき背中に石を投げつけられるくらいのことはあるけれど、胴体と頭が離れることに比べれば、そんなものは些細なトラブルに過ぎない。 作家はどちらかといえば孤独な職業である。一人きりで書斎にこもり、何時間も机の前に座り、意識を集中して文字の配列と格闘する。そのような作業が、来る日も来る日も続くことになる。集中して作品を書いていると、一日ほとんど誰とも話をしないということがけっこうある。社交的な性格の人にとっては、かなりつらい仕事ではないかと推察される。 しかしそのような本質的な孤立性にもかかわらず、自分がそのような「たき火の前の語り手」の、一人の末裔であることを、僕はことあるごとに認識させられることになる。一人きりでコンピューターの画面を睨みながら、僕はときおり夜の漆黒の闇の深さを目にし、たき火のはぜる音を耳にすることになる。人々が僕のまわりを囲んで、僕の語る物語に耳を澄ませる気配を感じることになる。そして僕はそのような架空の気配に励まされながら、文章を書き続ける。 そう、僕は語るべき物語を持ち、それを表現するための言葉を持ち、そしてある種の部族に属する人々は(なんとお礼を言えばいいのだろう)僕の語る言葉に熱心に耳を傾けてくれているのだ。僕は彼らに、「こちら側」と「あちら側」を隔てる壁を(多かれ少なかれ)越えさせることができるのだ。そのような「語ること」の喜びの質には、現代においても、1万年前においても、それほどの差異はないのではあるまいか?ウーム 直球勝負というか生真面目な語りであるなあ・・・・これが村上さんの持ち味なんだろうけど。
2017.02.15
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図書館で『和紙:デザインのひきだし29』という本を手にしたのです。表紙も本文もすべて和紙でできているのが、すごい♪全国各地のメーカーの和紙のサンプル集、高度な印刷の例証にもなっているようです。【和紙:デザインのひきだし29】グラフィック社編、グラフィック社、2016年刊<みんなのレビュー>より仕事に関係する特集の時だけ買おうと思っていますが最近は毎号買っています。表紙に和紙が使われて筆で書かれているのも良いです(こういう美しい文字が書けたら・・・)中身のページも全部和紙で出来ておりいつも感じますがこの値段で作れる本ではないと思っています。<読む前の大使寸評>表紙も本文もすべて和紙でできているのが、すごい♪全国各地のメーカーの和紙のサンプル集、高度な印刷の例証にもなっているようです。rakuten和紙:デザインのひきだし29世界一薄い和紙を見てみましょう。p42~44「ひだか和紙」を訪ねる 昔から「かげろうの羽」とも例えられる土佐典具貼紙。蜘蛛の巣ほどの薄さで、向こう側が見えてしまう薄い和紙。触っても大丈夫だろうか? 誰もがそう思ってしまう世界一薄い和紙を抄いているのが、高知県は土佐にある「ひだか和紙」。機械で抄くというその和紙の現場をたずねた。■海外30ヶ国以上に輸出される世界で信用される最薄和紙 初めてその紙を見たとき、本当に紙なんだろうか。触れられるのだろうか。そんなふうに思った。世界最薄・厚さ0.02ミリの紙は、米坪1.6g/m2、つまり1メートル四方の紙が1.6グラムしかないのだ。 物体としてあるけど、向こうは透けて見えるし、重みもほぼ感じない。「かげろうの羽」と例えられると聞くが、蜘蛛の巣のように思えた。 この世界一薄い和紙をつくっているのが、高知県は日高村にある「ひだか和紙」。昭和24年、日高村日下という谷合いの里に暮らす土佐典具貼紙の漉き屋十軒が集まり、前身となる輸出典具貼紙共同組合を設立。その後、昭和44年に機械抄きに成功。そこから機械抄きにによる典具貼紙の抄紙を続けている。 「抄紙機の網の上で一応、紙にはなるけれど、毛布の上にくっつかなくて失敗したり、切れたり、試行錯誤の連続でした」(先代社長・鎮西是男さん) (中略) この世界一薄い和紙は、美術品や重要文化財の修復に使われることが多い。国内はもちろんだが海外でも広まっており、現在は約30ヶ国に輸出している。 「破れたり穴があいた文化財を、典具貼紙でサンドして貼るんです。そのためにこれだけ薄い和紙が必要になるんですね」ネットで「ひだか和紙」を見てみましょう。ひだか和紙有限会社より 創業六十年、和紙ひと筋を貫いています-土佐和紙|修復用典具帳紙|ひだか和紙 製紙ではなく、和紙。私どもの社名には、その紙へのこだわりが込められています。ひだか和紙は昭和24年、日高村日下という谷合いの里に暮らす土佐典具帳紙の漉き家十軒が集まり、前身となる輸出典具帳紙協同組合を設立したことに始まります。 当時、手漉きの典具帳紙はタイプライター用原紙として盛んに海外に輸出されていました。その手漉きの手技が長年の研究と努力の末、機械漉きの技術に持ち込まれたのは昭和44年。記念すべき懸垂式短網抄紙機の一号機は私どもの工場から生まれました。その後、現在のひだか和紙に社名を変更。和紙ひと筋を貫いています。
2017.02.15
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図書館で『受け継がれる住まい』という本を手にしたのです。日本の家が、なぜスクラップ&ビルトに短絡してしまうのか?・・・知りたいわけです。【受け継がれる住まい】内田青蔵、他著、柏書房、2016年刊<「BOOK」データベース>より歴史あふれる大切な我が家、古き良き日本の暮らしを永遠に失わないために…重い税負担で維持・継承をあきらめる前に、住み継ぐためのヒントを伝授します。<読む前の大使寸評>日本の家が、なぜスクラップ&ビルトに短絡してしまうのか?・・・知りたいわけです。rakuten受け継がれる住まい「はじめに」として「寿命の短い日本の住宅」や「スクラップ・アンド・ビルド」が説かれているので、見てみましょう。p2~5 ■寿命の短い日本の住宅 現代の日本の住宅と海外住宅を比較して、その違いがよくわかるのが、平均寿命のデータです。1996年度の建設白書をもとにした早稲田大学の小松幸男の「建物は何年もつか」によれば、減失建物の平均寿命はアメリカが44年、イギリスが75年であるのに対し、日本は26年ときわめて短命です。 その理由として、日本の住宅が石やレンガよりも燃えやすい木造であることや住宅の質の問題、あるいは中古住宅の流通市場が未発達であることなどが考えられます。しかしながら、その最たる理由は、建築そのものの価値が、新築当時が最も高く、年代を経るなかで徐々に低くなるという経年減価の考え方が定着していることにあるように思われます。 日本の住宅の寿命が短いといっても、建物そのものの寿命が短いのではなく、人為的に所有者や使用者が壊しているのです。そして、こうした、まだ十分に使える住宅を自ら壊して立て直す文化を奨励する考え方の一つが、財務省令による減価償却「耐用年数」の規定にもはっきりとみられるように思います。 財務省令による「耐用年数」は、鉄筋コンクリート造の住宅は1998年の改正以降47年、木造の住宅は22年とされています。これは、木造住宅は建設後22年経つとその価値がゼロとなるということを意味します。当然ながら、こうした規定は建物に大きな影響を与え、不動産取引の際、まだ使える建物でも評価額はゼロとして、土地代だけで取引されるということが起ります。そのため、既存の建物の建つ敷地は、取引時に不利となり、使える建物であっても取り壊されることになるのです。 こうした動きを、かつては「スクラップ・アンド・ビルド」と称していました。日本の近代化を進め、また、経済大国に成長するにあたっては、この「スクラップ・アンド・ビルド」の考え方が大きな役割を担ってきました。しかし、時代は大きく変わりはじめているのです。 木造住宅も規定の「耐用年数」である22年を経ると、新品だった住宅も風雪のなかで傷み、見かけも古臭いものとなり、価値がゼロにはならなくとも低下するのは一見当たり前のようにも思われます。しかし、本当にそうでしょうか。たとえば、住み手がメンテナンスを十分おこないながら大切に使い続けてきた住宅ならば、22年経ってもその魅力は変わらず、その地域の景観にとってなくてはならないものとなっているようにも思います。 また、建築家の作品の場合、その建築家が著名になれば、個性的な作品として価値が上がり、新築以上になることだってあるはずです。あるいは、古い歴史を感じさせる住宅が好きでたまらない人もいるでしょう。そうした人々にとっては、評価額がゼロであっても、古い住宅は価値ある建物なのです。 こう考えてくると、十分使える建物の価値をゼロとする社会、あるいは、使える建物を次々と壊してしまう社会こそ、消費社会のなかで生まれた異常な状態であることがわかります。大げさに言えば、これまでの日本は、住まいを受け継ぐという当たり前のことを忘れた近代病にかかっていたのです。そうした病気は治す必用があります。(中略) ■時代に合わせて使いこなす 「貴重な価値ある歴史的建造物は、文化財として国が保護しているじゃないか」と考えている人は多いと思います。確かに国や都道府県が、文化財として歴史的構造物を保存しています。ただ、これまでの文化財行政は、古代から中世の神社仏閣を中心にして、学術性や希少性といった観点を重視して展開されてきました。しかし、その対象が住宅建築となると、学術性や希少性といった観点からだけでは把握しきれず、もっと多様な評価基準が必要です。そうした考えを反映して、1996年に文化財保護法が改正され、登録有形文化財の制度が新たに施行されました。 この「登録有形文化財」の制度は、住宅の所有者たちの意識を、壊して新築することから古い住宅をできるだけ受け継ぐ方向へと導く強いきっかけとなりました。これまでの指定文化財では取り上げられなかった、より身近で、地域性などの観点から貴重で大切と思われる歴史的建造物が登録され、保存・保護の対象となる予備軍として広く認知されるようになったのです。それに伴い、人々は少しずつですが、自らの住まいや周辺環境に興味をもちはじめ、当たり前のように取り壊して新しく刷新するだけではなく、多くの先人たちがつくり継承してきた歴史を受け継ぐということの意味を模索しはじめたのです。ウン バブルを煽るかのような減価償却「耐用年数」という財務省令があったのか。ここは、住宅「耐用年数」規定の見直し、文化や環境にも目をむける動きに期待したいものです。・・・ということで、『京都の町家を再生する』なんかを読み返してみようと思うのです。
2017.02.14
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今回借りた6冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「予約本」でしょうか♪<市立図書館>・村上春樹『雑文集』・限りなく完璧に近い人々・でーれーガールズ・オスプレイ配備の危険性<大学図書館>・和紙:デザインのひきだし29・受け継がれる住まい図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【村上春樹『雑文集』】村上春樹著、新潮社、2011年刊<「BOOK」データベース>より1979-2010。未収録の作品、未発表の文章を村上春樹がセレクトした69篇。【目次】序文・解説など/あいさつ・メッセージなど/音楽について/『アンダーグラウンド』をめぐって/翻訳すること、翻訳されること/人物について/目にしたこと、心に思ったこと/質問とその回答/短いフィクションー『夜のくもざる』アウトテイク/小説を書くということ<読む前の大使寸評>なるほど、予約するには6年前発刊の本なんかが狙い目なのか♪<図書館予約:(2/07予約、2/11受取)>rakuten村上春樹『雑文集』************************************************************【限りなく完璧に近い人々】マイケル・ブース著、KADOKAWA、 2016年刊<「BOOK」データベース>より税金は高い、生産性は低い。高齢化、社会保障、移民、格差、教育、暴力、地方衰退。みんな私たちと同じ問題を抱えている。なのに、人生がつらいと感じる人はわずか1%!(デンマーク)。世界が注目する「北欧社会の奇跡」にぐいっと迫る!【目次】はじめに/デンマーク/アイスランド/ノルウェー/フィンランド/スウェーデン/終わりに<読む前の大使寸評>北欧社会の光と影が、気になるのです。<図書館予約:(11/20予約、2/14受取)>rakuten限りなく完璧に近い人々************************************************************【でーれーガールズ】原田マハ著、祥伝社、2011年刊<「BOOK」データベース>より1980年、岡山。佐々岡鮎子は東京から引っ越してきたばかり。無理に「でーれー(すごい)」と方言を連発して同じクラスの武美に馬鹿にされていた。ところが、恋人との恋愛を自ら描いた漫画を偶然、武美に読まれたことから、二人は急速に仲良しに。漫画に夢中になる武美に鮎子はどうしても言えないことがあって…。大切な友だちに会いたくなる、感涙の青春小説。<読む前の大使寸評>「でーれー」とは、名古屋弁で言うところの「どえりゃー」にあたる岡山弁であるわけで・・・タイトルに惹かれて借りたわけでおま♪rakutenでーれーガールズ************************************************************【オスプレイ配備の危険性】真喜志好一, リムピース著、七つ森書館、2012年刊<「BOOK」データベース>より第1章 危険なオスプレイが全国に展開される(オスプレイが全国に展開されることの意味/オスプレイとは、どんな航空機か/低空飛行訓練が全国で展開される)/第2章 オスプレイ配備の危険性(オスプレイの何が問題か/オスプレイ普天間配備の危険性/主任分析官が証言するオスプレイの欠陥/V―22オスプレイー空飛ぶ恥)/第3章 沖縄のオスプレイ問題(1995年からの問題の経緯/環境アセスメントとオスプレイ配備/オスプレイ配備をめぐる住民への説明と国会答弁/ジュゴン訴訟で得られたオスプレイ配備の議事録/アッス訴訟でのタカミザワ証人尋問/「環境レビュー」と事故説明文書から読めること/米軍の安全基準に合わない普天間飛行場は即時閉鎖を)<読む前の大使寸評>オートローテーションが効かない機体と聞けば、工学系の人間には「フェイルセイフでない」と聞えるわけで・・・たちどころにその危険性が認識できるわけです。rakutenオスプレイ配備の危険性************************************************************【和紙:デザインのひきだし29】グラフィック社編、グラフィック社、2016年刊<みんなのレビュー>より仕事に関係する特集の時だけ買おうと思っていますが最近は毎号買っています。表紙に和紙が使われて筆で書かれているのも良いです(こういう美しい文字が書けたら・・・)中身のページも全部和紙で出来ておりいつも感じますがこの値段で作れる本ではないと思っています。<読む前の大使寸評>表紙も本文もすべて和紙でできているのが、すごい♪全国各地のメーカーの和紙のサンプル集、高度な印刷の例証にもなっているようです。rakuten和紙:デザインのひきだし29************************************************************【受け継がれる住まい】内田青蔵、他著、柏書房、2016年刊<「BOOK」データベース>より歴史あふれる大切な我が家、古き良き日本の暮らしを永遠に失わないために…重い税負担で維持・継承をあきらめる前に、住み継ぐためのヒントを伝授します。<読む前の大使寸評>日本の家が、なぜスクラップ&ビルトに短絡してしまうのか?・・・知りたいわけです。rakuten受け継がれる住まい************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き198
2017.02.14
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図書館で『オスプレイ配備の危険性』という本を手にしたのです。オートローテーションが効かない機体と聞けば、工学系の人間には「フェイルセイフでない」と聞えるわけで・・・たちどころにその危険性が認識できるのだが。【オスプレイ配備の危険性】真喜志好一, リムピース著、七つ森書館、2012年刊<「BOOK」データベース>より第1章 危険なオスプレイが全国に展開される(オスプレイが全国に展開されることの意味/オスプレイとは、どんな航空機か/低空飛行訓練が全国で展開される)/第2章 オスプレイ配備の危険性(オスプレイの何が問題か/オスプレイ普天間配備の危険性/主任分析官が証言するオスプレイの欠陥/V―22オスプレイー空飛ぶ恥)/第3章 沖縄のオスプレイ問題(1995年からの問題の経緯/環境アセスメントとオスプレイ配備/オスプレイ配備をめぐる住民への説明と国会答弁/ジュゴン訴訟で得られたオスプレイ配備の議事録/アッス訴訟でのタカミザワ証人尋問/「環境レビュー」と事故説明文書から読めること/米軍の安全基準に合わない普天間飛行場は即時閉鎖を)<読む前の大使寸評>オートローテーションが効かない機体と聞けば、工学系の人間には「フェイルセイフでない」と聞えるわけで・・・たちどころにその危険性が認識できるのだが。rakutenオスプレイ配備の危険性オスプレイの欠陥に関するアーサー・レックス・リボロ氏の証言を見てみましょう。p73~74 ■オートローテーションの能力欠如 オートローテーションとは滑空のヘリコプター版である。ヘリコプターはすべてエンジン故障や回転翼の駆動システム内の故障でパイロットがローターへのパワーの伝達を意図的に切る必要に迫られる、あるいはローターそのものの故障で完全にあるいは突然パワーを喪失しても滑空して安全に着陸できる能力を持っている。 V-22が安全に自動回転できないということは今ではメーカーも海兵隊も認めていることだ。しかしこのことが提起する意味合いはほとんど深刻に受け止められていない。すなわち、V-22はもし民間の輸送機だったらFAA(連邦航空局)規則によって基本的耐空性要件を満たしていないということだ。 にもかかわらず、海兵隊幹部はこの問題にまったく懸念を示しておらず、若者が戦闘という状況下で、V-22に乗員として乗るよう求めることにまったく抵抗はない。 FAAの耐空性要件は軍用機には適用されないが、過去には同等の要件がすべての乗客を乗せた軍用機に課されていた。V-22は国防総省内でこの政策からの最初の逸脱を意味する。私の考えでは、このことは、この航空機の大儀に対する盲目的忠誠心を支えるために皮肉にも兵士の命を軽視していることを意味する。 海兵隊首脳部や、それに国防総省調達担当高官や連邦議会が消極的同位を通して、この非難さるべき態度を取ることは、彼らが今後V-22の戦闘による損失に加担したことになる。オートローテーションだったら命を救えたかもしれないのに。このかなり大きなそして道理に合わないリスクの意識的軽視は法的には無謀な行為と見なされると思う。 V-22のエンジンが全部駄目でも固定翼モードに転換することによって安全に着陸できると主張する擁護者は自分をごまかしているかあるいは故意に事実を歪曲している。V-22は垂直離着陸モードから固定翼モードに転換するのに12秒必要だ。この間に、両方のエンジンが作動しなくなるかまたは一つのエンジンが相互接続のドライブ・シャフトとともに故障したときには、V-22は理想的な条件下で、約1600フィート落下する。だから、地上1600フィート以下で垂直離着陸モードでいるときに全パワーを喪失した場合は、大惨事を引き起こす。こんな危険なV-22の訓練は、アメリカの過疎地域とか海上で行ってほしいものである。人口稠密な日本での訓練などとんでもないのだが。
2017.02.13
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図書館で『でーれーガールズ』という本を手にしたのです。「でーれー」とは、名古屋弁で言うところの「どえりゃー」にあたる岡山弁であるわけで・・・この本のタイトルに惹かれて借りたわけでおま♪【でーれーガールズ】原田マハ著、祥伝社、2011年刊<「BOOK」データベース>より1980年、岡山。佐々岡鮎子は東京から引っ越してきたばかり。無理に「でーれー(すごい)」と方言を連発して同じクラスの武美に馬鹿にされていた。ところが、恋人との恋愛を自ら描いた漫画を偶然、武美に読まれたことから、二人は急速に仲良しに。漫画に夢中になる武美に鮎子はどうしても言えないことがあって…。大切な友だちに会いたくなる、感涙の青春小説。<読む前の大使寸評>「でーれー」とは、名古屋弁で言うところの「どえりゃー」にあたる岡山弁であるわけで・・・この本のタイトルに惹かれて借りたわけでおま♪rakutenでーれーガールズ読み始めると標準語と岡山弁の確執がでてくるわけで・・・そのあたりを見てみましょう。p18~19「佐々岡さんってお上品すぎるんじゃが。でーれーとっつきにくいんじゃ」 いかにも強そうな武美が堂々とそう言い放ったので、ほかの女子にも敬遠され始めた。 私が何かちょっと標準語で言うたびに、「でーれーなあ」と笑う。「でーれーって、なに?」と聞くと、「でーれーは、でーれーじゃが」とまた笑われる。 そのうちに、「でーれー」というのが、「ものすごい」というような意味だとわかってきた。そして、「なんかヘン」というようなニュアンスで私に対して使われているんだ、ということも。 最初のうちは、一方的に岡山弁で揶揄されることをじっとこらえていた。下手に標準語で反発しようものならいっそう茶化されるからだ。しばらくして、思い切ってこっちも岡山弁を使ってみた。「きのうの宿題、でーれーかった」って感じで。「でーれーかった、じゃて」とクラスメートがやっぱり笑う。「どういう意味なん? でーれーかった、ゆうて」「だから、むずかしかった、っていうか・・・・」 言い返す声から力が抜けていく。女子たちはいっせいに笑う。「やっぱりでーれーが、佐々岡さん」「ほんまじゃわ。でーれーわあ」 でーれー、でーれー。私を囲む女子たちは、おもしろがってそうはやし立てた。 いつのまにか私は、「でーれー佐々岡」などと陰で呼ばれるようになっていた。 いつも、ぽつんとひとり。登校も下校も、教室でも、お昼の時間も。私はひとりぽっちだった。 あのとき、ほんの16歳。友だちも、好きな人もいなくて。 やがて私は神戸の短大に進学して、そのあと両親も東京に戻った。以来、岡山は私にとってなんの縁故もない街になった。女子高内での同化圧力は凄まじいと聞き及んでいるが・・・単なる方言と笑っている場合でもないようですね。大使が暮らした学生寮では、岡山弁が一大派閥をなしていて、「でーれー」をよく聞いたものだが、まさか女子生徒も使う言葉だったとは・・・ぼっけー、きょうてー(笑)。
2017.02.13
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図書館で『絆のはなし』という本を手にしたのです。NHKに異業種対談のスイッチインタビューという番組があるのだが、この本にはそんな趣きがあるなー♪とにかく、伊坂幸太郎の作品がどのようにして生まれたのか、興味深いのでおます。【絆のはなし】伊坂幸太郎, 斉藤和義著、講談社、2007年刊<「BOOK」データベース>よりマイペースに、飄々と、作品を作り続ける男二人が初めて語ったプライベート対談。【目次】第1章 対談歩いて話そう/第2章 伊坂幸太郎・斉藤和義が出来るまで/第3章 伊坂幸太郎・斉藤和義の作り方(伊坂・斉藤を作った20の作品/作品が生まれる現場/職人の小道具)/Question on 100<読む前の大使寸評>NHKに異業種対談のスイッチインタビューという番組があるのだが、この本にはそんな趣きがあるなー♪とにかく、伊坂幸太郎の作品がどのようにして生まれたのか、興味深いのでおます。rakuten絆のはなし対談の一部を見てみましょう。p98~100 <情報が入ってこないほうが頭がクリアになる気がする(斉藤)>伊坂:インタビューで、テレビを全然見ないって斉藤さんが言っているの見ましたけど、テレビ見ないんですか?斉藤:ほとんど見てないっすねえ。伊坂:僕も最近見なくて、まあ、子どもが生まれたせいもあるんですけど、教育テレビしか見ない。何が起きているのかわからなくて、こんなんでいいのかな?みたいな。斉藤:いいんじゃないですかね。最近パソコンが数ヶ月前から壊れているんで、なんかいいっすね。クリアになる気がして。頭の中が。伊坂:それでも普通に生きていけますもんね。斉藤:なんら問題ないっすね。そのほうが非常にスッキリしてて。Q:創作期間中だったら、いろんな情報を入れないほうが集中できたりもするんですか?斉藤:そうそう。それは絶対そうだって気がする。放っておいても街を歩けば流行っている曲が入ってくるし。まあ、ちょろっと車でラジオつけたりすると、これ、この前も聴いた曲だ、流行ってんだな、ってわかるし、メシ屋入ればテレビはついてる。そこでなんとなく、今、世の中はこんな感じなのかなってのはわかるし。いろんな知りたくない情報までどんどん入ってきちゃうのが、なんか飽和しちゃっているんだなと思って。なくなったほうがスッキリしますね。伊坂:そうなんですよね。情報を持っていることが今はあまり武器にならない。みんなどこでも手に入るし。難しいですね。斉藤:ネットとかやっていると、ギターのサイトばかり見ちゃうんで。見なきゃほしくなんないのに、見たばっかりにほしくなっちゃったりして。伊坂:僕も本とか見ていると、クリック、あ、これもクリック、みたいな。ああ、術中にハマってるって。Q:逆に、みんながテレビやネットを見ているような時間は、何をされているんですか?斉藤:何してんでしょうねえ。ボーッとしてるか。酒でも飲んでいるか、うーん、なにしてるんだろうなあ。なんにもしてないなあ。Q:そのボーッとしている時間も大切だったりするんですか?斉藤:そうなんだと思いますね。伊坂:僕もボーッとしている時間がないと、何もしない時間がやっぱりほしいんですよ。マンガ読んでるとサボッているように思われて、奥さんの理解が得られないんですけど、「いや、これも必用なんだよ!」とも思います。斉藤:フフフ。Q:斉藤さんはライブのときと、こうしているときとまったくテンションが違うように見えるんですけど。斉藤:よく言われるんですよね。なぜこの対談が実現したのか、見てみましょう。p30~33 <斉藤さんは、僕が唯一対談したかった人なんですよ(伊坂)>Q:そもそも、お二人の最初の出会いはいつだったんですか?斉藤:出会いって・・・・恋人同士?(笑)伊坂:去年(2006年)の11月、ライブで仙台にいらしたときに、打上げに呼んでいただいたんです。そのとき初めてお会いしました。Q:緊張しました?伊坂:しました、しました、しましたよ。もう、一緒に行った編集者さんにも、「会う前に帰りたい」ってずっと言ってました。斉藤さんは、僕が唯一、会いたい人だったんで、今まで「〇〇さんと対談しませんか?」とか言われても、たいがいお断りしていたんですが、斉藤さんだけには会いたいなあと思っていましたから。Q:斉藤さん、想われてますねえ。斉藤:ははは。Q:斉藤さんは、井坂さんの作品は読まれているんですか?斉藤:そうですね。井坂さんが何かの記事で、僕のCDをお気に入りにあげてくれているっていうのをレコード会社の人やスタッフから聞いていたので、「どういう人が俺の曲を聴くんだろう」と思って、何冊か読んでみました。なかでも、そうだなあ、銀行強盗の話は面白かった! ええと、『ゆかいな泥棒たち』。違った?伊坂:いいんです。ほとんど合っています(笑)。斉藤:でしたっけ?伊坂:ですです。だいたい同じですから(笑)。Q:今回の短篇小説『アイネクライネ』はいかがでした?斉藤:すごくいい話で、特に何か、劇的な何かが起こるわけじゃないけれども、本当にありそうな素敵な話っでした。井坂さんのほかの小説『チルドレン』もそうだったりしますが、かっこいい先輩とか年上の人がいて、主人公の若い人がいて、っていうのが今回もあったので、そのあたりをテーマにしたいなと思いました。 井坂さんの小説って、全部の登場人物のキャラクターが魅力的ですよね。社会的には悪人という部類の人物だったとしても、本当は悪くないんじゃないか。そんな人たちがいて、こう、なごむっていうのとは違うけど、あったかい気持ちになるんですよ。そのへんが今回の『アイネクライネ』にもすごく感じられて、いい話だなあって。だから、プレッシャーでしたね。こんないいモノ書いてきやがった、みたいな(笑)。Q:「とにかくかっこいい曲だった」という井坂さんの感想でしたが。斉藤:それを聞いて安心しましたね。小説『アイネクライネ』を自分なりに要約した感じだったから。的外れだったらどうしようって。井坂さんからの感想が届くまでのあいだ、スタッフにずっと「井坂さん、なにか言ってた?」って聞いてたんですよ。伊坂:“ベリーベリーストロング”という言葉に反応してくれたっていうのがうれしいです。物語自体にはあんまり関係なくて、なくてもいい一言なんですけど、やっぱりああいうのは好きだし、自分としたは大切にしている部分だったりするので。あとはシャンプー! あれも物語上、必ずしもなくてもいいシーンですけど、歌詞の中に入っていてうれしかったです。 実は、この小説を書いているときに、スターバックスに行ったんです。そこの女性の店員さんからコーヒーを受け取ったときにふと見たら、彼女のココ(左手の親指の付け根)に何か書いてああって。すごく気になってのぞき込みたくなったんですけど。そういうくだらないことがきっかけだったので、あれが歌詞に入っていたときは、びっくりもしたけどうれしかったですねえ。シャンプー書いてよかった!って(笑)。
2017.02.12
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図書館で『ローカルメディアのつくりかた』という本を手にしたのです。最近、日本の出版社を脅かすまでに、幅をきかすアマゾン・キンドル連合を苦々しく見ているわけで・・・・この本に載っている編集・デザイン・流通に着目したローカルメディア(紙媒体)が気になるわけです。【ローカルメディアのつくりかた】影山裕樹著、学芸出版社、2016年刊<「BOOK」データベース>より【目次】Prologue つながりを生み出すローカルメディア/1 観察力×コミュニケーション力(『みやぎシルバーネット』(宮城県仙台市)-お年寄りが表現し、語り合う場所/『ヨレヨレ』(福岡県福岡市)-現実を真剣に描くからこそ面白い/考察 時間をかけて見つめることでコミュニケーションが生まれるー無明舎出版、『kalas』)/2 本・雑誌の新しいかたち×届けかた(『東北食べる通信』(岩手県花巻市)-生産者と消費者の関係を深める食べ物付き情報誌/本と温泉(兵庫県豊岡市)-“地産地読”という届けかた/考察 その地に最適なかたちと方法があるー「十和田奥入瀬芸術祭」「宿命の交わるところー秋田の場合」ほか)/3 地域の人×よそ者(『雲のうえ』(福岡県北九州市)-平凡な場所が素敵に見えてくる/『La Collina』(滋賀県近江八幡市)-地元の再発見が愛着と自信を育てる/考察 地域の人とよそ者の情熱が広がりを生むーissue+design、『離島経済新聞』)/Epilogue ローカルメディアはいつも実験場だったー『谷根千』、せんだいメディアテーク、『フリースタイルな僧侶たちのフリーマガジン』『飛騨』『TO magazine』<読む前の大使寸評>最近、日本の出版社を脅かすまでに、幅をきかすアマゾン・キンドル連合を苦々しく見ているわけで・・・・この本に載っている編集・デザイン・流通に着目したローカルメディア(紙媒体)が気になるわけです。rakutenローカルメディアのつくりかた瀬戸内海の離島の魅力を伝えるメディアを見てみましょう。p154~157 『せとうち暮らし』(香川県高松市) ―クリエイターがつながり、応援する人がいて、メディアが成長する 香川発の雑誌『せとうち暮らし』は瀬戸内海の多様な群島文化を紹介するメディアとして注目を集めている。「瀬戸内国際芸術祭」など、近年文化イベントが多数行われ、国内外から観光客を集める瀬戸内海地域だが、一言で瀬戸内と言っても、島々の数は全部で727にのぼる。瀬戸内海に面している中国地方や四国の陸地も入ってくる。総編集長の小西智都子さんに、なぜこの雑誌を始めたのか、香川県高松市内にある事務所で話を聞いた。 「私はもともと、地元新聞社で生活情報紙のデザインの仕事に携わっていました。退職後はフリーランスのデザイナーとして活動する一方、TMO(Town Maanagement Organization)にも参画していて、半分は紙モノのデザインの仕事をしつつ、半分はまちづくりのお手伝いをしていました」 小西さんはそこで、地元商店街の活性化を考える任意団体「まちづくりラボラトリー」を立ち上げた。メンバーは行政の都市計画の担当者、大学教授、不動産業者、考古学者、広告代理店などさまざま、月1回ゲストを招いて交流サロンをやりながら、空き店舗をリノベーションしてアジトをつくったり、商店街をジャックしてイベントを行ったりしていた。 地元有志、かつ30代で働き盛りのメンバーが、それぞれの現場の意見を持ち寄って議論する「まちラボ」の提案は、行政に対しても一定程度の発言力を持つようになった。そんななか、「まちラボ」が高松市に提言したプランを機に、小西さんは「瀬戸内IJUトラベルネット」という任意団体を立ち上げ、高松市と香川県の移住促進事業を受託することになった。 「まず、1年くらいかけて実態調査を行いました。ちょうど全国の市町村が移住促進に取組み始めた頃で、じゃあ高松は何を売りにするかということが議論されていました。定年を迎える団塊世代で田舎暮らしがブームになり始めていましたけれど、高松って田舎でもなければ、都会でもない。さらに、香川県は全国で一番小さな県ですから、土地がなく一次産業が弱い。だったらサービス業などのソフト産業を強化できる人材を集めてはとプランを練りました。首都圏で高松市に関するヒアリングをしてみると、高松よりも直島とか小豆島のほうが人気がある。それも、いわゆるシニアではなく若者、アートやクリエイティブに興味がある世代に人気があるのがわかってきました」 小西さんたちが、県内外の若者向けに瀬戸内海の離島の魅力を伝えるメディアとして構想したのが『せとうち暮らし』だった。 彼女らが感じていたこと、「一次産業ではなく、サービス業などのソフトで地域振興を」という視点は地元行政の方針とも合致していた。多くの観光客を動員している瀬戸内国際芸術祭をはじめ、アートで地域振興をめざす県や市の方針も、地域の魅力を若者に伝え、呼び寄せたいという事情があったようだ。ネットで『せとうち暮らし』を見てみました。『せとうち暮らし』とはよりせとうち暮らしは、瀬戸内海の島と陸をつなぐマガジンです。瀬戸内の島々と沿岸のまちに息づく暮らしのストーリーをお届けします。『ローカルメディアのつくりかた』1
2017.02.12
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図書館で『ローカルメディアのつくりかた』という本を手にしたのです。最近、日本の出版社を脅かすまでに、幅をきかすアマゾン・キンドル連合を苦々しく見ているわけで・・・・この本に載っている編集・デザイン・流通に着目したローカルメディア(紙媒体)が気になるわけです。【ローカルメディアのつくりかた】影山裕樹著、学芸出版社、2016年刊<「BOOK」データベース>より【目次】Prologue つながりを生み出すローカルメディア/1 観察力×コミュニケーション力(『みやぎシルバーネット』(宮城県仙台市)-お年寄りが表現し、語り合う場所/『ヨレヨレ』(福岡県福岡市)-現実を真剣に描くからこそ面白い/考察 時間をかけて見つめることでコミュニケーションが生まれるー無明舎出版、『kalas』)/2 本・雑誌の新しいかたち×届けかた(『東北食べる通信』(岩手県花巻市)-生産者と消費者の関係を深める食べ物付き情報誌/本と温泉(兵庫県豊岡市)-“地産地読”という届けかた/考察 その地に最適なかたちと方法があるー「十和田奥入瀬芸術祭」「宿命の交わるところー秋田の場合」ほか)/3 地域の人×よそ者(『雲のうえ』(福岡県北九州市)-平凡な場所が素敵に見えてくる/『La Collina』(滋賀県近江八幡市)-地元の再発見が愛着と自信を育てる/考察 地域の人とよそ者の情熱が広がりを生むーissue+design、『離島経済新聞』)/Epilogue ローカルメディアはいつも実験場だったー『谷根千』、せんだいメディアテーク、『フリースタイルな僧侶たちのフリーマガジン』『飛騨』『TO magazine』<読む前の大使寸評>最近、日本の出版社を脅かすまでに、幅をきかすアマゾン・キンドル連合を苦々しく見ているわけで・・・・この本に載っている編集・デザイン・流通に着目したローカルメディア(紙媒体)が気になるわけです。rakutenローカルメディアのつくりかた食べ物付き情報誌とやらを見てみましょう。p62~65 『東北食べる通信』(岩手県花巻市) ―生産者と消費者の関係を深める食べ物付き情報誌 岩手県花巻市。高校野球強豪校の花巻東高校や、宮沢賢治記念館などを擁したのどかなこの町に現在、全国各地に兄弟誌を持つ『東北食べる通信』編集部がある。 『東北食べる通信』の特徴は、なんといっても「食材が雑誌についてくる」ということ。そして、会員制という定期購読システムを取り扱っている点である。購読契約をした読者=会員は毎号どんな食材が届くかわからない。何が届くかわからないけど、特定の地域から地元の食材が毎号届くのを楽しみにする仕掛けだ。 『東北食べる通信』を皮切りに、『四国食べる通信』『神奈川食べる通信』『山形食べる通信』『北海道食べる通信』『築地食べる通信』・・・・と、全国各地に『食べる通信』が生まれている。それぞれ独自に運営され、読者=会員を抱えているのも特徴だ。これら各地の『食べる通信』は「日本食べる通信リーグ」の加盟者としてホームページ上でリンクされているいるのみならず、定期的に交流を図り、互いの経験を持ち寄って切磋琢磨競い合っているのだという。 この『食べる通信』を生み出したのが、『東北食べる通信』編集長の高橋博之さん。岩手県議会議員を二期務めた後、震災復興の現場に携わり、「世なおしは食なおし」をモットーに「NPO法人東北開墾」を立ち上げ、東北と全国各地を駆け回る多忙な日々を送っている。 地産地消がブームとなり、1次産業の従事者にも若い世代が増えたが、実際の現場を議員として走りながら見聞きしてきた高橋さんにとっては、この状況を楽観視することはできない。特に東北の現状には危機意識を持っている。 「生産現場が変わるには、消費者が変わらなければいけない」と高橋さんは言う。農水産物の流通は、農協・漁協を含め小売・卸など物流を担う起業が消費者のニーズに応えることを最優先しており、生産者は消費者の都合に振り回されがちだ。 たとえば、痛むのが早い水産物や、かたちの悪い農産物は流通に乗りづらいという状況がある。農家や漁師がいくら頑張っても、その食材を食べる都市部の消費者の意識を変えなければ生産現場の状況を変えることができない―高橋さんは「都市と地方をかき混ぜたい」と考えるようになった。『東北食べる通信』(Web版)で、立ち読み、登録、注文ができるようです。2016年10月号
2017.02.11
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図書館で『日本人の「住まい」はどこから来たか』という本を手にしたのです。日本家屋の間取りが気になり、『「縁側」の思想』、『民家ウォッチング事典』と読んできたが…その勢いでこの本にたどり着いたわけでおます。【日本人の「住まい」はどこから来たか】吉田桂二著、鳳山社、1986年刊<「BOOK」データベース>より歴史をちょっとひもとけば、日本人の衣食住は中国や朝鮮の影響ぬきには考えられないはずなのだが。では、おまえは日本以外の東アジアの家がどうなっているのか知っているのか、と自問して愕然とした。何も知らない。建築の専門家ずらをしてこんなありさまだ。―町並み保存運動に情熱を傾け日本各地の伝統的な民家を訪ね歩いた旅の建築家である著者は、日本人の住まいの源を求めて海を渡った。韓国、中国、タイ、マレーシア、インドネシア…。そして彼の地で触れた人々の生活と住まいに驚くべき類似性を発見する。日本の伝統とは何かを問う異色ドキュメント。<読む前の大使寸評>日本家屋の間取りが気になり、『「縁側」の思想』、『民家ウォッチング事典』と読んできたが…その勢いでこの本にたどり着いたわけでおます。amazon日本人の「住まい」はどこから来たか著者は、日本独自のものとして引戸に注目しています。p305~309 <建具の開閉の仕方に見る引戸主体の形式こそ日本独自といってよい> 何が日本の家の独自性として残るか。床の間だの何だのというようなものを取り上げてゆけばいくらもあるが、もっと家の基本的な要素にかかわる独自性はないのか、と考えたすえ、思いあたった最大の要素は引戸だった。これこそ間違いなく、どこを見渡しても他にない日本独自のものだ。 欧米の家の建具の開閉形式が、出入口・窓ともに開き戸式なのは誰も知っていることだが、日本を除けば東アジアにおいても、この点は変わらない。 引き戸式というのは家を閉鎖的につくるのにふさわしい。その意味は、あまり建具の幅が広いと、スムーズに開閉しにくいし、大きなスペースが開閉のために必要となるので、いきおい開口部の幅がかぎられてくるからだ。 そうするとタイやインドネシアなど、熱帯の南国で開き戸というのは似つかわしくないということになうが、これらの地帯では、開放的にしたい部分は全く建具なしの完全開放にしてしまうから、建具の形式なんぞは問題にもならない。開き戸がついているのは、夫婦の寝室といったところにかぎられるようだ。 中国と一口にいっても北と南では大違いだが、中心部をとれば、気候的に見て開き戸形式一本槍というのはよく理解できる。しかし三合院・四合院で中庭を囲む部分の開口部には、もっと開放的な建具がほしくなってもよいように思えるのだが、いかがなものか。柱の間を両開き建具にして、これを連続させているけれども、引戸形式で何ものも残らない開口部をつくっているわれら日本人から見ると、どうにもうっとうしいような気がしてくる。 朝鮮の家には僅かながら引戸がある。それは両開きの紙障子窓の内側にあって、襖と紙障子の二重の建具を壁の前に両引きに引きあけるタイプ。これについては前にも述べた。しかしあるにはあっても、これは補助的な建具にすぎず、基本的にはやはり開き戸が主体だ。それでいて朝鮮の家が日本以上に開放的なのは興味がある。そのために開放したい部分は建具なしにしてしまうか、さもなければ、開き戸を二枚折りに折り重ねたものを上に吊り上げてしまうという、世にも珍しい朝鮮独自の開閉形式を発明した。引戸を使って引き違いにしても半分しか開放できないが、この朝鮮式なら完全開放になる。しかしまことに思いきった形式ではある。 日本の場合、建具の伝統形式はいうまでもなく引戸、玄関戸はもちろん、便所の出入口ですら引戸による。近頃は洋風化の浸透で開き戸の使用が多くなってきて、玄関をはじめとして、洋間の出入口にも開き戸が使われているけれども、窓やテラス戸など、開口部の主体は依然として引戸が使われ続けている。 引戸は日本独自の伝統的な建具形式として間違いないが、それなら一体いつ頃からそうなったのか。朝鮮の家の移入と思われる平安時代の寝殿造りは実物は残っていないが、絵巻物などで見るかぎり、引戸は見当たらない。しかしその後の鎌倉時代になると引戸が出現し、室町時代には主座を占めるようになる。 どうやらこのあたりが引戸発祥の時らしいが、いつ誰が発明したのかなど、詳しいことは何ひとつわかっていない。思えば、日本独自の建具形式として今なお使われ続け、日本の家の空間の特質を形造ってきた引戸の発明というのは、評価してしきれぬほど偉大な発明だった。ウーム 確かに引戸は日本建築の特徴的外観ではあるが、発祥の経緯がよく分かっていないとのこと…その事実が興味深いのだが。『日本人の「住まい」はどこから来たか』1『日本人の「住まい」はどこから来たか』2
2017.02.11
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<『世界マヌケ反乱の手引書』2>図書館に予約していた『世界マヌケ反乱の手引書』という本をゲットしたのです。おお 著者の前作『貧乏人の逆襲』は読んだかどうか忘れたけど、そのアナーキーで破れかぶれのスタンスはよく覚えていたんです。ニッチな就活もここまでくると、コロンブスの卵のようでスゴイ♪【世界マヌケ反乱の手引書】松本哉著、筑摩書房、2016年刊<「BOOK」データベース>よりまずは、大バカな仲間の作り方、イカサマな金集め作戦など、マヌケ反乱の基本から始まる!そして、最高にマヌケな面白いやつと友達になったり、なんだか知らないけど生きていけたりする空間、金持ちや大企業によって作られた、働きまくって金を使いまくるような消費社会とは無縁な場所を作ろう!!<図書館予約:(11/24予約、2/07受取)><読む前の大使寸評>ニッチな就活もここまでくると、コロンブスの卵のようでスゴイ♪著者の前作がすぐに韓国、台湾で出版され、各地に「貧乏人の逆襲」、「マヌケ反乱」を生み出したとのこと。rakuten世界マヌケ反乱の手引書台湾のバカセンターを見てみましょう。p108~110 <能盛興工廠=元・町工場の台南ゲストハウス> 海外にも、金持ち中心社会とは一線を画した謎のスペース、バカセンターは無数にある。まずは、台湾南部の町、台南にある「能盛興工廠」という場所を紹介してみよう。 ここは、わかりやすく言えばいろいろなことができるゲストハウス。その名の通り、町工場を改装してゲストハウスにしてしまったところ。最初は汚い町工場って感じのところだったんだけど、どんどん改装工事を始めて、瞬時にすごいことに。 2階建てプラス屋根裏部屋の工場の各所には畳敷きの宿泊部屋が。その上、3階だか4階だかわからないようなところには、テーブルや椅子が置いてあり、くつろげるテラスのような場所がある。この建物、元々は二つの工場を無理やり一体化させたものなので、構造が謎のことになっており、部屋の窓を開けてみるとそのまま隣の部屋になっていたりして、もう4次元空間のような感じ。いや~、建物だけ見てもすでに楽しそうなところ。 そして中には、カフェのスペース、木工や鉄工、ギャラリースペースなど、いろいろな作業やイベントができる場所があり、何かをしに来る人が次々に訪れるという充実ぶり。いやー、これは本気っぷりがすごい! で、この設備やら、内装やら、すごく大掛かりに作っているけど、もちろんどっかのスポンサーが付いてたり、商売がうまくてボロもうけしたりしているわけではない。ここの中心人物の郁宜がまたやたらと活発な人で、次々と行動しまくる。 うまく交渉して安く借りたり、残置物の重機や鉄クズを売りまくって現金にしたり、足りない部分はみんなでバイトして貯めて、自力でオープンに漕ぎつけたという。う~ん、すごい執念だ! ちなみに、ここは7~8人で共同運営という形をとっており、それぞれ、木工所、ゲストハウス、カフェなどがチームを作り、基本的には独立した形で運営されているという。 で、一度こんな感じの何でもできるようなスペースができてしまうと、あとはとんでもない奴らが集まってくるのがまたいい。のんびりした台湾にも日本と同様、どんどん、無駄まみれの消費社会やら、何でもかんでも禁止されるような窮屈な社会が着々と忍び寄ってきていることもあり、そういう「金もうけ中心のバカバカしい社会なんかやってらんねーよ」っていう連中が続々とこういう場所に集まってくる。 特に台南はわりとゆっくりした場所だから、「台北が最近窮屈すぎてやばい!」って奴が逃げて遊びにきたりもする。この界隈で仲良くなった阿クンというオッサンなんか本当にすごい。スクラップ工場から化けて出たようなボロボロの車を街で乗り回し、林の前で突然停まったと思ったら、「この木の実は食える!」と言い出したり、海を通りかかったら突然車から降りて海に飛び込み、魚を3匹手で捕まえてきて「今日の晩ごはんはこれにしよう」と言い出すような最強の男。 住宅ローンにヒーヒー言って、焼き鳥屋でニュース見ながら政治家の悪口を言いつつも、寝て起きたらまた奴隷のように文句ひとつ言わず働き続ける日本のショボいオッサンとはだいぶ格が違う。 あ、ちなみにこの阿クン氏、台南の港にほったらかしにされていた船の構造物を一晩にして取り払い(売り払い)、塗装を塗り替え、ケロッとして3年前から自分のものだったような顔をして住み着いており、それが阿クンの家。ネットに能盛興工廠のイベントが出ていました。能盛興工廠がやってくる!より「NO LIMIT東京」のイベントのひとつとして台南のオルタナティブ・スペース能盛興工廠のメンバーが下北沢気流舎にやってきて、トークショーをやります。ゲストハウスでありギャラリー、カフェであり工作室でもある、そして時々有機野菜のマーケットも開催され、果物狩りにも行っちゃう、台南のオルタナティブ・スペース能盛興工廠。日本でも彼らの御世話になった人はいっぱいいるはずです。さらに、以前気流舎でも報告会をやりましたがクラウド・ファンディングで資金を集めて大規模な反原発デモをしたり、レインボー・パレードなど、社会的な活動も積極的に組織しています。メンバーは10人前後で、共に働き、共に食べ(彼らに会うと、あいさつより先にまず「食べた?」と聞かれます)、年齢、性別を超えた家族のような共同体を模索しています。それでは能盛興工廠とはいったい何なのか? そもそも何て読むのか?能盛興工廠の重要人物YUIが、気流舎でこの謎なスペースと人々について、スライドも交えて語ってくれます。台湾の古都、台南に行きたいと思っている人も必見です。ピリカタントの美味しい料理もありますよ。『世界マヌケ反乱の手引書』1
2017.02.10
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図書館で『日本人の「住まい」はどこから来たか』という本を手にしたのです。日本家屋の間取りが気になり、『「縁側」の思想』、『民家ウォッチング事典』と読んできたが…その勢いでこの本にたどり着いたわけでおます。【日本人の「住まい」はどこから来たか】吉田桂二著、鳳山社、1986年刊<「BOOK」データベース>より歴史をちょっとひもとけば、日本人の衣食住は中国や朝鮮の影響ぬきには考えられないはずなのだが。では、おまえは日本以外の東アジアの家がどうなっているのか知っているのか、と自問して愕然とした。何も知らない。建築の専門家ずらをしてこんなありさまだ。―町並み保存運動に情熱を傾け日本各地の伝統的な民家を訪ね歩いた旅の建築家である著者は、日本人の住まいの源を求めて海を渡った。韓国、中国、タイ、マレーシア、インドネシア…。そして彼の地で触れた人々の生活と住まいに驚くべき類似性を発見する。日本の伝統とは何かを問う異色ドキュメント。<読む前の大使寸評>日本家屋の間取りが気になり、『「縁側」の思想』、『民家ウォッチング事典』と読んできたが…その勢いでこの本にたどり着いたわけでおます。amazon日本人の「住まい」はどこから来たか日中における風流の思想を見てみましょう。もっとも、今では本家の中国では廃れているようですが。p163~167 <数寄屋は禅に由来するか> 数寄屋は和風建築の粋といわれる。そのことに反対するいわれはないし、確かにその通りだと思うのだが、あまりに日本独自を強調されるとつい反発したくなる。先史の頃から江戸期に至るまで、日本にとって中国文化は常に師たる立場にあり続けたのだから、数寄屋といえども決して無縁にできてしまったわけでもなかろう、と思うからである。 ここで数寄屋の何たるかについて述べておこう。数寄屋は丸太や竹を多用して、家のつくりように自然の味わいをとり入れ、様式にしばられない自由な造形をする種類の建築のことを指す。したがって、書院造りというような建築様式に対等する言葉ではなく、たとえば、数奇屋風書院造りというふうに使うのが正しい用法だ。 数寄屋は千利休が創始した草庵風茶室に始まるといわれる。もちろん茶道はそれ以前からあったけれども、それまでの茶室は書院造りの堅い造形から大きく抜け出すものではなかった。しかし草庵風茶室は千利休ひとりの個人的創作のみに帰するべきではなく、すでに時代背景としてつくられつつあり、千利休はそうした中で、これを美の体系に完成させた天才としてとらえるべきだ、というようにもいわれる。 数寄屋という言葉は当初は草庵風茶室のみを指す言葉であったが、数奇屋風の味が書院造りにもとり入れられるようになる。書院造りは武士階級支配層の御殿の建築様式で、金銀を散りばめて漆塗り、格天井、上段の間を最高位に設け、その背に押板と違い棚、左右に書院と帳台構えを設け、壁や襖に障壁画を描いて格式の高い絢爛豪華なもの、安土桃山時代を代表する建築様式だが、それが常では肩が凝るためか、日常的な居所に使う書院造りには、いち早く数奇屋風がとり入れられ、渋いものへと変化した。その代表例が桂離宮である。桂離宮 数寄屋は作意を重んじる。作意という言葉は今では悪い意味に使われるが、本来の意味は文字の示すとおり、デザイン意図ということである。数寄屋の手法が広く用いられるに及んで、従来は様式にしばられつくられてきた建築が、個人的デザインの展開する場へと変化してきた。 数寄屋の手法は一般の建築へも普及し、民家にも数奇屋風の座敷がつくられるようになる。数奇屋風デザインはさまざまな作意によって多彩な展開をみせ、ついには和風建築の主座を占めるに至ったわけである。 しかし数寄屋が16世紀に誕生してその後大普及した事情には、それを可能にした下地が充分に用意されていたからだ、と見なくてはなるまい。数寄屋は日本的産物には違いないが、その下地となる風流の思想は中国原産だと見たい。 <中国江南の水気の多い文化は日本の伝統文化の母体であろう> 中国の文化は色とりどりで、チンドン屋のように派手で賑やかなものだ、という見方は近世の中国にかたむき過ぎた見方だといえるだろう。古代から中世にかけての中国文化はもっと渋味のあるものだったようだ。 おしなべてそうだというのではなく派手な文化もあったであろう。日本でも数寄屋の渋さと安土桃山風の派手さが同時に存在したことを考えれば、文化というものがひと筋縄でないことは確かだ。時代によって表層にあらわれる部分が異なるのである。 渋い中国ということで江南に注目したい。揚子江下流域から南部にかけては、黄河流域の中原に漢民族の文明がおこった後においても、長く異民族の地であった。ここが中国文明に溶融されるのはおよそ6世紀、南北朝の頃からといわれる。しかしその後においても微妙な差が残された。 文化の体質というのは、最も基礎的には、風土と生活によって築かれるのであろう。そうだとすれば、中原と江南とではおのずから文化的体質が違って当然といえる。対比すれば、乾燥して寒冷な土地と温暖多雨の土地という気候条件の違いから、麦作と水稲作の違いが生まれ、南船北馬という交通輸送の手段の違いも生じてくる。北が苛烈な気質を生むとすれば、南は駘蕩とした気質を生むであろう。これほどの差異があれば、長く異民族の地であったという経過も納得できることだ。中国江南 こうした文化体質なら、中国における覇者が殆ど常に北であったことも理解しやすい。政治的中心が南におかれた南北朝時代の南朝や宋の後期である南宋は一種の植民地政権といってもよく、北の圧迫を避けて豊暁な南の植民地の上に乗っかった支配者であった。そうした政権はもちろん北の文化を持ち込んだけれども、南の文化と同化せざるをえず、そのことが刺激剤となってこのとき、南中国的文化が高揚したと見ることができる。 南北朝時代の南朝の文化は六朝文化と呼ばれる。これが朝鮮の百済におよび、さらに日本に至って飛鳥天平の文化を築いた。奈良時代は大陸文化直輸入の時期だが、それに続く平安時代は国風文化が育った時期といわれる。漢字を使った万葉仮名がひらがなに変わったことは、その象徴的事例であるけれども、平安時代に国風として育った風流の精神は、六朝文化が濃厚に持っていたし、百済もまたそうした体質の文化であった。 風流とは離俗・耽美・自然の三要素から成るといわれる。日本に移植されて日本的なものへと育ってきた風流は、やがて南宋文化の影響をうけてさらに発展する。六朝にせよ南宋にせよ、その文化的体質は中原のものとは微妙に異なり、駘蕩として煙霧がたなびく中から生まれた水気の多い文化であろう。日本が地理的に江南に近く風土条件も似ていることで、日本への移植が日本の伝統文化の母体となったことは、当然といえば当然のことのように思える。ウン 駘蕩とした江南や百済の文化を愛でた日本であるが・・・どうしても華北の民とか新羅とは、そりがあわないようです。『日本人の「住まい」はどこから来たか』1
2017.02.10
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図書館で『日本人の「住まい」はどこから来たか』という本を手にしたのです。日本家屋の間取りが気になり、『「縁側」の思想』、『民家ウォッチング事典』と読んできたが…その勢いでこの本にたどり着いたわけでおます。【日本人の「住まい」はどこから来たか】吉田桂二著、鳳山社、1986年刊<「BOOK」データベース>より歴史をちょっとひもとけば、日本人の衣食住は中国や朝鮮の影響ぬきには考えられないはずなのだが。では、おまえは日本以外の東アジアの家がどうなっているのか知っているのか、と自問して愕然とした。何も知らない。建築の専門家ずらをしてこんなありさまだ。―町並み保存運動に情熱を傾け日本各地の伝統的な民家を訪ね歩いた旅の建築家である著者は、日本人の住まいの源を求めて海を渡った。韓国、中国、タイ、マレーシア、インドネシア…。そして彼の地で触れた人々の生活と住まいに驚くべき類似性を発見する。日本の伝統とは何かを問う異色ドキュメント。<読む前の大使寸評>日本家屋の間取りが気になり、『「縁側」の思想』、『民家ウォッチング事典』と読んできたが…その勢いでこの本にたどり着いたわけでおます。amazon日本人の「住まい」はどこから来たか縁側について、日朝でその類似と違いを見てみましょう。朝鮮民家の縁側p66~68 <日本以上に開放的な家> 朝鮮の家の房(バン)は閉鎖的だ。壁が多く、開口部をとる場合も柱間の二分の一が普通である。温突(オンドル)の熱をなるべく逃がさないようにしようとすれば、閉鎖的になるのは当然であろう。しかし房を一歩外に出れば、どこもかしこも極めて開放的である。チョイマル=縁側は全くの吹きさらしで建具はない。この点は日本の民家と同じで、くらべてみても見分けがつかないくらいによく似ている。 チョイマルは、つまりは閉鎖的な房から出て開放的な生活をするための、半戸外の空間で、閉鎖空間はあくまでも閉鎖的に、開放空間はあくまでも開放的にという、朝鮮流の徹底した思想性から、この部分がいかに柱を立てて並べているとしても、ここに建具が立て込まれて室内化することはなかった。西欧の家の回廊によく似た成立条件といえるであろう。土足を脱ぐ生活が床を板張りの高床にさせた点が違うだけだ。チョイマルがない場合には濡れ縁がとりつけられるが、日本の濡れ縁にくらべて相当に立派だ。 日本の民家の縁側はチョイマルによく似ているが、成立の条件は全く違う。日本の民家は、家の内外がさだかでないほど開放的につくられているが、そうなるのは江戸中期以降のことであり、その昔は開口部の極端に少ない閉鎖的な姿で、縁側もなかった。 しかし同じ閉鎖性でも朝鮮の家とは違っていた。朝鮮の家は房がひと部屋ごとに閉鎖されているのだが、日本民家の閉鎖性は家全体をまとめてであり、内部はいくつかの部屋に分かれていようとも、殆ど一室のように一体であった。 イロリなどで得られる暖気を室内にゆきわたらせ貧弱な夜具で寒さをしのぐには、一体空間の家にして外殻を閉鎖的につくる以外に方法はなかったのである。江戸中期になって、これがにわかに開放的になり変わるのは、綿を入れた夜具がその頃から普及しはじめたからで、家の外殻が開放的になると内部の開放性がそのまま露出され、閉鎖性のかけらもない家になった。 縁側がつくられはじめるのはこれと期を一にする。外殻が開放的になって紙障子が立ち並んできたので、雨のときでも大丈夫なようにそのプロテクターとして縁側が出現した。チョイマルは開放的な生活空間を求めての縁側だが、日本の縁側の成立にはそうした要素は希薄であったといえるようだ。 その証拠は、ガラスが普及しはじめるとたちまちにして縁側の外側にガラス戸を立て込み、縁側を室内に囲い込んでしまったことだ。どこもかも開放的にしてしまったのは夏のむし暑さに対処したからだが、閉鎖性が全く欠如して冬寒くて仕方がなかったことでの反応と見ることができるだろう。 朝鮮の家のチョイマルがあくまでも戸外に開放された空間として推移してきたのは、温突をそなえて確とした閉鎖空間である房が存在したからなのであろう。開放性一点張りの日本の民家が、生活上の要求から開放性に多少の手心を加えなければならなかったというようなアイマイさは、朝鮮の家ではおこることがなかった。 ウン 朝鮮の縁側の確とした思想性がいいではないか♪ なにより夏場に、朝鮮の縁側の日陰ですごすのは極楽気分がするのでおます。
2017.02.09
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今回借りた5冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「東アジア」でしょうか♪<市立図書館>・世界マヌケ反乱の手引書・私のとっておきソウル・絆のはなし<大学図書館>・日本人の「住まい」はどこから来たか・ローカルメディアのつくりかた図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【世界マヌケ反乱の手引書】松本哉著、筑摩書房、2016年刊<「BOOK」データベース>よりまずは、大バカな仲間の作り方、イカサマな金集め作戦など、マヌケ反乱の基本から始まる!そして、最高にマヌケな面白いやつと友達になったり、なんだか知らないけど生きていけたりする空間、金持ちや大企業によって作られた、働きまくって金を使いまくるような消費社会とは無縁な場所を作ろう!!<図書館予約:(11/24予約、2/07受取)><読む前の大使寸評>ニッチな就活もここまでくると、コロンブスの卵のようでスゴイ♪著者の前作がすぐに韓国、台湾で出版され、各地に「貧乏人の逆襲」、「マヌケ反乱」を生み出したとのこと。rakuten世界マヌケ反乱の手引書************************************************************【私のとっておきソウル】おいしいしごと著、東京地図出版、2009年刊<商品の説明>よりこの本は、ソウルに何十回も通う方や今、実際に住んでいる方に、いちおしの情報を聞き出して作った、口コミガイドブックです。<読む前の大使寸評>追って記入amazon私のとっておきソウル************************************************************【絆のはなし】伊坂幸太郎, 斉藤和義著、講談社、2007年刊<「BOOK」データベース>よりマイペースに、飄々と、作品を作り続ける男二人が初めて語ったプライベート対談。【目次】第1章 対談歩いて話そう/第2章 伊坂幸太郎・斉藤和義が出来るまで/第3章 伊坂幸太郎・斉藤和義の作り方(伊坂・斉藤を作った20の作品/作品が生まれる現場/職人の小道具)/Question on 100<読む前の大使寸評>追って記入rakuten絆のはなし************************************************************【日本人の「住まい」はどこから来たか】吉田桂二著、鳳山社、1986年刊<「BOOK」データベース>より歴史をちょっとひもとけば、日本人の衣食住は中国や朝鮮の影響ぬきには考えられないはずなのだが。では、おまえは日本以外の東アジアの家がどうなっているのか知っているのか、と自問して愕然とした。何も知らない。建築の専門家ずらをしてこんなありさまだ。―町並み保存運動に情熱を傾け日本各地の伝統的な民家を訪ね歩いた旅の建築家である著者は、日本人の住まいの源を求めて海を渡った。韓国、中国、タイ、マレーシア、インドネシア…。そして彼の地で触れた人々の生活と住まいに驚くべき類似性を発見する。日本の伝統とは何かを問う異色ドキュメント。<読む前の大使寸評>日本家屋の間取りが気になり、『「縁側」の思想』、『民家ウォッチング事典』と読んできたが…その勢いでこの本にたどり着いたわけでおます。amazon日本人の「住まい」はどこから来たか【ローカルメディアのつくりかた】影山裕樹著、学芸出版社、2016年刊<「BOOK」データベース>より【目次】Prologue つながりを生み出すローカルメディア/1 観察力×コミュニケーション力(『みやぎシルバーネット』(宮城県仙台市)-お年寄りが表現し、語り合う場所/『ヨレヨレ』(福岡県福岡市)-現実を真剣に描くからこそ面白い/考察 時間をかけて見つめることでコミュニケーションが生まれるー無明舎出版、『kalas』)/2 本・雑誌の新しいかたち×届けかた(『東北食べる通信』(岩手県花巻市)-生産者と消費者の関係を深める食べ物付き情報誌/本と温泉(兵庫県豊岡市)-“地産地読”という届けかた/考察 その地に最適なかたちと方法があるー「十和田奥入瀬芸術祭」「宿命の交わるところー秋田の場合」ほか)/3 地域の人×よそ者(『雲のうえ』(福岡県北九州市)-平凡な場所が素敵に見えてくる/『La Collina』(滋賀県近江八幡市)-地元の再発見が愛着と自信を育てる/考察 地域の人とよそ者の情熱が広がりを生むーissue+design、『離島経済新聞』)/Epilogue ローカルメディアはいつも実験場だったー『谷根千』、せんだいメディアテーク、『フリースタイルな僧侶たちのフリーマガジン』『飛騨』『TO magazine』<読む前の大使寸評>追って記入rakutenローカルメディアのつくりかた************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き197
2017.02.08
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図書館に予約していた『世界マヌケ反乱の手引書』という本をゲットしたのです。おお 著者の前作『貧乏人の逆襲』は読んだかどうか忘れたけど、そのアナーキーで破れかぶれのスタンスはよく覚えていたんです。ニッチな就活もここまでくると、コロンブスの卵のようでスゴイ♪【世界マヌケ反乱の手引書】松本哉著、筑摩書房、2016年刊<「BOOK」データベース>よりまずは、大バカな仲間の作り方、イカサマな金集め作戦など、マヌケ反乱の基本から始まる!そして、最高にマヌケな面白いやつと友達になったり、なんだか知らないけど生きていけたりする空間、金持ちや大企業によって作られた、働きまくって金を使いまくるような消費社会とは無縁な場所を作ろう!!<図書館予約:(11/24予約、2/07受取)><読む前の大使寸評>ニッチな就活もここまでくると、コロンブスの卵のようでスゴイ♪著者の前作がすぐに韓国、台湾で出版され、各地に「貧乏人の逆襲」、「マヌケ反乱」を生み出したとのこと。rakuten世界マヌケ反乱の手引書著者は大阪へも足を伸ばしているので、そのあたりを見てみましょう。p116~118 <グラウンドゼロ(閉店)=大バカスペース作りの過激派> やりたいことを全開でやるのと、控えめに長続きさせる努力のバランスって話だけど、ここはひとつ全開でやらしまくった、とんでもない場所を紹介してみよう。 大阪は難波の味園ビルという、新宿ゴールデン街がビルになったようなところに、「グラウンドゼロ」というBARがあった。ずいぶん前に大阪に遊びに行ったとき、友達に「とんでもない場所でいいイベントがあるから行きましょうよ」と誘われたので、行ってみたのが、キッカケ。 すでにその味園ビル自体が昭和感を全開。1階がキャバレーで、2階以上はスナックやBARがひしめき合い、最上階にはサウナという完璧なパターン。 で、その小さい飲み屋がひしめく建物内の路地を入っていくと「グラウンドゼロ」が出現。扉を開くなり完全に意味のわからない世界。まあまあ広いほぼ正方形の店内のど真ん中に巨大な六角形のカウンターがあり、店員がまん中にいる。お客さんはもう壁に沿ってその六角カウンターを囲んで飲んでいる感じで、頑張れば30~40人は入るかな? 見たこともないようなレイアウト。そのカウンター内にはドラムセットやサウンドシステムが組んであり、スナック街ではありえないぐらいの爆音を出しながら連日、狂乱のライブを行っている。で、その演奏がまたビックリするぐらいうるさい。連日のようにライブイベントをやりまくり、やたら人も集まってきて、毎日大騒ぎ。う~ん、やりたいことを全部やるとこうなるのか、という、まさに狂乱のBAR! ちなみに、ここの店主のオッチーさんという人がまた飛ばしていて、生き方自体がロックンロールな人で、むやみに反抗心が旺盛。若い頃も、昭和天皇が死んで平成に代替わりする瞬間に、原宿のホコ天でいきなり反天皇ライブを勝手にやって警察から追い回されたりするほどで、すごいテンションの高さ。 優秀な奴隷みたいな人のもとに集まる人はつまらない人が多いけど、反逆心を秘めてる人のもとに集まる人たちってのは、これまた何かしでかしそうとしている人が多くて面白い。ということで、このグラウンドゼロで知り合う人がまた面白いので、この辺をウロウロしているだけで、とんでもない人脈ができてしまうという所だった。 ライブハウスでもないし、山の中の一軒屋でも地下室でもない雑居ビルの一室で、これだけ轟音を響かせ、とんでもない奴らが死ぬほど集まってくる…。当然、こんな店が長続きするはずがない。これはうるさすぎると、近隣からの苦情も殺到。これはやばいと防音を試みるけど、焼け石に水。ほとんど効果がない。でも、やりたいことをセーブするつもりはゼロ。こうなってくると、さっきの直走珈琲と同じお決まりのコースで、各テナントから大家さん(ビルのオーナー)のところに「勘弁してくれ!」との陳情が続出し、オーナーからも「これじゃ、契約の更新はできないよ」ということに!大ピンチ!(中略) こうして、オープンから約1年という短期間で、伝説のバカセンター「グラウンドゼロ」は幕を閉じたのだった。いや~、しかし、いきなりトップギヤで突き進んでも1年ももったというのは、なかなか我々に勇気を与えてくれた。それに、全開で進み、ものすごく濃い日々だったので、穏便に店をやる10年分ぐらいの内容があったと思う。これはこれで一つのやり方だ。 世界各地にマヌケな奴らの集まるバカセンターが大量に増殖することは大事だ。しかし、実は作ることよりも維持するのが意外と大変だ。めちゃくちゃやってすぐ潰れてももったいないし、続けることだけを考えて全然つまらないことをやり続けてもしょうがない。直走珈琲やグラウンドゼロは、結果的になくなってしまったが、別に失敗なわけではない。ウーム 懲りない面々であるが、バカセンターは作った時点で既に成功なんだそうです。
2017.02.08
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図書館で『「縁側」の思想』という本を手にしたのです。大使が注文建築に要求したのは、縁側付きの日本間をひとつ設けるというものだったけど・・・「縁側」の心地よさに、外国人も気づいていたようですね♪【「縁側」の思想】ジェフリー・ムーサス著、祥伝社、2008年刊<著者について>より現代建築の観点から日本の伝統建築に魅せられ、京都を拠点として町家の修復を中心に、寺修復や戸建て住宅の設計など国内外で活躍。自身も自ら改築した町家に暮らす。京都大学、関西大学などで非常勤講師を務める。朝日放送系『大改造!!劇的ビフォーアフター』に出演、町家や江戸時代の蔵などのリフォームを行なった。<読む前の大使寸評>大使が注文建築に要求したのは、縁側付きの日本間をひとつ設けるというものだったけど・・・「縁側」の心地よさに、外国人も気づいていたようですね♪amazon「縁側」の思想この本で最も関心のある「縁側」のあたりを見てみましょう。p107~109<あいまいな場所> 日本の伝統的な家屋は外と内の境界がはっきりしておらず、外から内、内から外へと段階的に連なっているようです。第二章でお話したように、町屋の構造にはとりわけのその特徴が顕著で、層(layer)になっていて、外でもなく内でもない中間的なあいまいな場所があります。 このような場所として、日本人にとって最もイメージしやすいのが「縁側」です。 縁側は家の外でしょうか? それとも家の内でしょうか? こう聞いたら、それぞれの体験によって答えはさまざまでしょう。 私の住む町屋では客間と庭の間にあるのは「縁側」、風呂場やトイレに面している部分は「渡り廊下」、も一つ、手水鉢の近くにある短い部分を「濡れ縁」と言います。いずれも庇によって雨からは守られていますが、どれほど外なのか内なのかの度合いには差異があります。 客間と庭の間にある縁側は、ガラスの引き戸が屋外寄りにあり、そのため他の縁側と比べるとより内である感じが強くなります。一方、この縁側の室内寄りには障子があるので、閉めると冬などは部屋よりぐんと気温が下がり、完全に内とはいえません。昔はガラスを使っていませんでしたから、縁側はもっと寒かったはずです。 すると、現在より多少、外に近い感じだったのかもしれません。 ですからこの空間を「あいまいな場所」と表現しました。時には外とみなし、時には内とみなすことができるのです。 風呂場につながる渡り廊下へは、このあいまいな場所である縁側の、ガラスの引き戸を開けていくことになります。雨降りでも庇のおかげで濡れることはありませんが、外と内を遮断するものがないので、一歩外に近づいたと感じられます。ここは庭の一部ともいえるでしょう。 最後に、文字とおり、大雨の場合は濡れかねない作りになっている濡れ縁があります。三つの中で最も外とみなされる空間です。昭和の間取りといえば、障子、縁側、ガラス引き戸というワンセットが多々みられるが、これでも冬場は寒かったわけで・・・暖房はコタツということになりまんな♪『「縁側」の思想』1
2017.02.07
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図書館で絲山秋子著『末裔』という本を手にしたのです。著者初の長篇家族小説ってか・・・・爆走気味の著者なので、いかなる自叙伝になっているやら。【末裔】絲山秋子著、講談社、2011年刊<「BOOK」データベース>より家族であることとはいったい何なのか。父や伯父の持っていた教養、亡き妻との日々、全ては豊かな家族の思い出。懐かしさが胸にしみる著者初の長篇家族小説。<読む前の大使寸評>著者初の長篇家族小説ってか・・・・爆走気味の著者なので、いかなる自叙伝になっているやら。<大使寸評>玄関ドアに鍵穴がないというミステリアスな冒頭があるわけで…現実とも白昼夢とも区別できないような語り口で、これが自叙伝なのか?とも思うが、これもまた一興である♪rakuten末裔著者の語り口を、ちょっとだけ見てみましょう。p138~140 きょうだいの中で、大人になってからもこの家に来ていたのは省三だけだった。足利の姉は、子どもが出来てからは来なかったと思う。 省三の子どもたちは、「鎌倉のおじいちゃん、おばあちゃん」と呼んで伯父夫婦に懐いた。 「鎌倉のおじいちゃんってハイカラだよねえ」 小学校に上がるか上がらないかの梢枝が大きな目を見張って言ったとき、伯父は、 「梢枝ちゃんもハイカラがわかる年になったのか」 と言って笑ったものだ。 「だって昔から言うでしょ。ハイカラって」 「梢枝ちゃんに昔なんかあるもんか!」 伯父は確かに、お洒落な人だった。ハンチングをかぶり、モスグリーンのオイルジャケットを着ていると年齢も国籍も不明になってしまうようだった。ジャケットの胸には赤と緑の散弾のケースを短い革のベルトで縫い止めてアクセサリーにしていた。ハミルトン・カーキの時計を省三が褒めると、「質流れだよ」と照れた。あの時計は形見分けのときに梢枝がもらったはずだ。 朔矢は、大きくパネルに引き伸ばしたジャンの写真に夢中になった。そして犬の飼い方で伯父を質問攻めにしたものだ。そして梢枝はルネに、子どもと見なされてバカにされながらも、おやつをやったり、言葉を教え込もうとしてかまっていた(かまってもらっていたと言うべきか)。省三は伯父とワインを飲み、ソファで居眠りをした。靖子は台所で、鎌倉の商店街や横浜のデパートについて伯母と話し込んでいた。 ここにかつて、幸せな家族の午後があった。 しかし今、籠から逃れたルネは何を食べて生きているのだろうか。ひまわりの種だけってわけじゃないだろう。烏のようにゴミを漁るとも思えない。人になれていて愛嬌があるから、あちこちで猫のように餌をもらっているのだろうか。 省三は、ルネに何か食べさせたくてたまらなくなった。 「ちょっと出かけるよ。すぐ戻る」 話しかける相手がいて、待っていてくれと言って出かけるのはいつ以来だろう。 「ゴメンネ マタクルカラネ」 省三の後ろ姿にルネが言った。きっと伯母の声だろう。そう言って伯母は訪問を切り上げ、帰って行くのだろう。 「すぐ戻るからな」 省三は振り向いてルネに言ったが、かれは、 「マタクルカラネ」 と繰り返した。省三はこの賢い鳥のことを不憫に思った。ウン やや穏やかな、こういう語り口もあるのか♪現実とも白昼夢とも区別できないような語り口で・・・これが自叙伝なのか?とも思うが、これもまた一興である♪ご先祖の故郷を、もう少し見てみましょうp261~263 省三は車を停めて窓を下ろした。 遠い昔の先祖とその仲間たちの一団が、一休みするべえ、などと言って馬に水を飲ませる光景が浮かんだ。彼らは思い思いに草履の紐を締め直したり、手拭を沢の水に浸したりしていた。 省三はイメージの中の先祖の休息の時間を静かに眺め、それからまた発進した。 そうか、この沢の水は千曲川に入るんだな。千曲川はすなわち信濃川だ。 さっき登ってきた上野村の沢はどこかで利根川に入るんだろう。 不思議なもんだ。同じとき、同じ山に降った雨が太平洋と日本海に分かれちまうんだから。 山の境界というのはそういうものだ。矢印の根元のことなんだ。そして人間も雨水と同じように拡散し、混じり合い、ついにはどこの由来だかわからなくなってしまう。 この沢の水は、いつのものなのだろう。 最近なのか、去年なのか、十年前か、もっと前か。 靖子が病院の窓越しにため息をついて眺めた長雨が岩からしみ出したものかもしれないし、父が溺死する遠因となった台風のもたらした雨と同じなのかもしれない。氷河やアルプスじゃあるまいしと思うが、そういう喩えをしてみたっていい。 だが一人一人の人間など問題にならないくらい、水は流れ続けるのだ。 飢饉に襲われた江戸時代も、戦国大名が走り抜けた時代も、半島から渡来人がやってきて人々が古墳を作った時代も、水は流れ続けるのだった。山の形も、人々の姿も違っただろうが、それでも、水は流れ続け、山と海とを結んでいる。 そう考えたら俺なんかまるでどこにもいないようなもんだ。 省三は何も映っていないルームミラーを見やった。 時が後方に流れ去って行く。俺は、坂を下りながら古い時間へと遡上していくのだ。 ついに小さな黒い車は森から出て、幅の広くなった川沿いに耕地が開けていくのをみた。まるで初めて人間の世界に入ってきたように無防備に、富井省三は佐久穂に下りてきた。 里に入るということは、山が低くなるということなのか。 集落の名前が標識に書いてある。なるほど「大日向」とはよく言ったものだ。蔵まで持った立派な農家が集まった集落は南に田畑を抱いたのびやかな風景だった。 大きな黒い瓦屋根に天窓が並び、白い土壁を黒い柱と梁が縦横に区切る様が美しい。典型的な養蚕農家だった。確かこういう家を、出梁造りというのだと省三は思い出す。
2017.02.07
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図書館で『民家ウォッチング事典』という本を手にしたのです。全ての項目が絵と説明文が開いた2ページに収まっているという構成なので、たいへんビジュアルで親しみやすい。著者の絵心もなかなかのもんやでぇ♪【民家ウォッチング事典】吉田桂二著、東京堂出版、1987年刊<「BOOK」データベース>より民家はバラエティーに富んだ存在だから、これを通観して断片をひとつにまとめることはできない相談だが、心に刻みこまれた民家の映像を、育てることができるのではないか。断片は、それに注目する目を持たなかったら、拾い集めることはできない。そんな目を自分の目にすることに、この本が役立ってくれたら、ということで、書名を「民家ウオッチング事典」とした。【目次】高八方造り/高塀造り/雀おどり/港町/切り落し造り/反り棟造り/十村役/ひんぷん/塗り家造り/じょうご造り/武家屋敷/曲り家/寄棟屋根/かぶと屋根/切妻屋根/入母屋屋根〔ほか〕<読む前の大使寸評>全ての項目が絵と説明文が開いた2ページに収まっているという構成なので、たいへんビジュアルで親しみやすい。著者の絵心もなかなかのもんやでぇ♪rakuten民家ウォッチング事典関東の寄棟を見てみましょう。阿久沢家の寄棟p26 <寄棟は草葺き屋根の原型としての屋根型> このあたりで屋根型の種類について解説しておきたい。後のページ説明がしやすくなる。 そこで先ず寄棟。この形の屋根は図で見られるように、矩形平面の家の各辺から、同じ勾配で屋根を立ち上げたときにできる形だ。言葉の意味は棟を寄せていくということ。しかし平面形が正方形だと、頂点は一点に集まって尖った屋根になるので、この形だけを特別に方形と呼ぶ。言葉の意味は正方形ということだ。 最も古いタイプの屋根型といった場合、後で出てくるが切妻といって、単純に雨流れになったタイプと考えやすいのだが、草葺きの場合はこの形では葺きにくい。端部がなくて丸めてゆくように葺ける寄棟の方が葺きやすい。また構造上も材を真中にむけて寄せかけてゆけばよいので楽につくれる。 こんなわけで、草葺き屋根の場合は寄棟が原型ということになる。「何々造り」などと呼んで、屋根型に特長のある民家に、昔はごく普通の寄棟だったという例が多いことからも、寄棟が原型ということができる。 だから江戸時代初期の頃には、日本中どこに行っても寄棟ばかりという風景だったらしいが、西と東では多少の違いはあったようだ。 あづまやというと、公園などにある屋根だけの簡単な家を意味するけれども、昔は草葺き寄棟の家を指す言葉だった。あづまは東ということだが、昔は東日本は後進地帯だったから、原型である寄棟の、古くさい形の家が目立って多かったのではなかろうか。 絵の家は重要文化財の阿久沢家で、1600年代後半の建築と推定されている。前に紹介した赤城の切り落とし造りの多い中にある。関東のあづまやだから寄棟だ。こんな家が切り落とし造りへと発達してゆく。棟に咲いているのはしゃがの花、花かんざしのように華やかだが、棟に土をのせて棟押さえにするのは草葺き屋根の原型で、土が飛ばないように宿根草を植えておく。この種の棟を「くれぐし」という。土くれの意味だろう。次に、うだつを見てみましょう。脇町のうだつp112 <うだつは何のためにつくられたのだろう> うだつは平入りの町屋の妻壁を屋根よりも少し立ち上げ、瓦などの小屋根をのせたものである。うだつの効用は防火壁だといわれているが、古いと思われるものは板壁で小屋根が板葺きのものもあるので、防火壁として発生したのではなかろう。古い絵図で見ると、板葺き屋根で草葺きの小屋根をのせたうだつも見られる。 うだつは板葺き屋根で発生した平入りの町屋のつくりといってよかろうが、板葺き屋根は前にも述べたように端部が風にめくられたりして弱く、町屋として平入りの屋根を連ねる場合、屋根を横にのばすわけにはいかないので、端部の補強が不充分になる。うだつはその補強の意味もあるし、隣家との間に雨水を落さない屋根でもあったろう。 しかしうだつと同類のものは中国にもあって、それは防火防風壁なのだが、そのことはさておき、形として移入したものと見ることもできる。 ともかくも、うだつは独立した一戸の町屋が、隣家と接しなければならないときのしつらえだったから、ひと続きの長屋では不要のものだが、うだつさえのせれば一戸として独立しているように見える。そうしてつけられたものに置きうだつというのがある。これなどは全く無用のものなのだが、つけた人間にとってはかけがえのないステイタスシンボルということになる。 そうしてひと度、うだつという言葉が、他と区別するシンボルということになると、それらしいものは皆うだつと呼ばれるようにもなる。うだつの端部の下部は二階部分に降りてきて袖壁になるが、袖壁だけでもうだつというし、袖壁に小屋根をのせたうだつもある。 また、これはどうかと思われるものに、蔵造りの商家の看板の台の太い横木をうだつと呼ぶことがあるし、鬼瓦の上の飾りをうだつと呼ぶこともある。こうなると何がうだつなのか全く分からない。『民家ウォッチング事典』1『民家ウォッチング事典』2
2017.02.06
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図書館で『民家ウォッチング事典』という本を手にしたのです。全ての項目が絵と説明文が開いた2ページに収まっているという構成なので、たいへんビジュアルで親しみやすい。著者の絵心もなかなかのもんやでぇ♪【民家ウォッチング事典】吉田桂二著、東京堂出版、1987年刊<「BOOK」データベース>より民家はバラエティーに富んだ存在だから、これを通観して断片をひとつにまとめることはできない相談だが、心に刻みこまれた民家の映像を、育てることができるのではないか。断片は、それに注目する目を持たなかったら、拾い集めることはできない。そんな目を自分の目にすることに、この本が役立ってくれたら、ということで、書名を「民家ウオッチング事典」とした。【目次】高八方造り/高塀造り/雀おどり/港町/切り落し造り/反り棟造り/十村役/ひんぷん/塗り家造り/じょうご造り/武家屋敷/曲り家/寄棟屋根/かぶと屋根/切妻屋根/入母屋屋根〔ほか〕<読む前の大使寸評>全ての項目が絵と説明文が開いた2ページに収まっているという構成なので、たいへんビジュアルで親しみやすい。著者の絵心もなかなかのもんやでぇ♪rakuten民家ウォッチング事典合掌造りを見てみましょう。合掌造りp50 <この雄偉な多層民家も元は寄棟だったのだ> 飛騨から越中にかけての山中をゆくと、草葺き切妻の壮大な民家が、谷あいに点在する。合掌造りと呼ばれるこれらの民家群はあまりにも有名だ。合掌造りという名の由来は、屋根の主たる骨格を形づくる梁が、棟の位置で結ばれて三角形をなし、その形が両掌を合わせた合掌の形に似ていることによる。屋根架構 しかしこの形の構造形式は、何も合掌造りだけに特有のものではなく、草葺き屋根の場合にはどこにでも見られるごくありふれた形式にすぎない。ちなみに言えば、草葺き屋根の屋根架構の形式としては、図のように、さすとおだちの二つがあって、さすというのは合掌造りに同類の形式、おだちというのは棟の受けるための柱を立てた形式をいう。 長大なさすでつくられる合掌造りの大きな屋根裏空間は、中が4階から5階にもなっている。先ず中二階が家の一部にあり、そこから上が屋根裏になって下二階、その上に上二階、最上階をそら二階と呼ぶ。 合掌造りが有名なのは形の雄偉さもあるが、大家族制度だったといわれる生活もそれにあづかっている。大家族制度だから、幾組もの家族が大きな屋根裏空間を住み分けていて、現在の集合住宅であるかのように空間が使われていたと考えているむきがあるが、それは間違っている。 大家族制度というのは山間部で農地が少ないために、長男以外は妻帯できず、したがって分家もできず、部屋住まいのままで一生を送らねばならなかった悲しい生活があったということだ。だから一戸に住む人数は多かったが、屋根裏を住みわけていたのではない。屋根裏はここでも養蚕のための空間であり、ここの切妻屋根もそのために、寄棟屋根からの発達としてつくられた。大平宿のいろりを見てみましょう。いろりの里p128 <いろりは生活の中心をなすしつらえだった> 民家といえばいろり。ふるさとを象徴する道具立てである。いろりに燃える火は、そこに生活が確実に存在する証しだ。その歴史をさかのぼれば、おそらくは家そのものの起源にたどりつくに違いない。 原初の家の中には、何はなくとも火を焚く場所だけは必ずあった。もっと根源的に見れば、家が発生する以前からそれはあって、家はその火を保存するための容器として発生した、と見ることさえできそうだ。 したがって、いろりは民家のつくりようの根本のところを定めている。火による採暖が家全体に及ぶための間取りとか、そこでの炊事が便利にできるための土間とのつながり、当然発生する煙をうまく排出するための家の構造、火がつくり出す人のあつまりのための部屋づくりと座る席次など、いろりを視点にして理解できることは少なくないはずだ。(中略) 絵は集団移住で廃村になった信州大平宿の民家。ここに残っている民家を保存再生させようと、市民運動が自主的に管理運用している。名付けて「いろりの里」、民宿ではないから、ここの利用客は自分で炊事などして昔の生活を味わうことになる。 大平宿のいろりは一畳大ほどで、板張りと畳敷きの混在する広間にあって、その土間境にある。そのほかの部屋はいろりを囲むように、この部屋を取り巻く。土間で薪割りし、いろりに火を入れて鍋などをかけ、その火を囲んで話に花を咲かせる頃ともなれば、まどいに集う誰もが、いろりの良さをしみじみと味わっている。『民家ウォッチング事典』1
2017.02.06
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図書館で『「縁側」の思想』という本を手にしたのです。大使が注文建築に要求したのは、縁側付きの日本間をひとつ設けるというものだったけど・・・「縁側」の心地よさに、外国人も気づいていたようですね♪【「縁側」の思想】ジェフリー・ムーサス著、祥伝社、2008年刊<著者について>より現代建築の観点から日本の伝統建築に魅せられ、京都を拠点として町家の修復を中心に、寺修復や戸建て住宅の設計など国内外で活躍。自身も自ら改築した町家に暮らす。京都大学、関西大学などで非常勤講師を務める。朝日放送系『大改造!!劇的ビフォーアフター』に出演、町家や江戸時代の蔵などのリフォームを行なった。<読む前の大使寸評>大使が注文建築に要求したのは、縁側付きの日本間をひとつ設けるというものだったけど・・・「縁側」の心地よさに、外国人も気づいていたようですね♪amazon「縁側」の思想京町屋の歴史を見てみましょう。p82~85 <町屋の歴史> ここで少し、町屋の歴史に触れたいと思います。 京都成立以前にまでさかのぼると、日本の住宅は都市の中でもあちこちにばらばらに建てられていました。それまでの都は数十年単位でつくり替えられ、西暦794年の平安遷都まで、長期にわたる本格的な都市開発といえるものはほとんどなかったようです。そして、その頃から家は中国に起源を持つ条里制の碁盤目の街路に沿って建てられるようになります。 家屋の配置は、中国の伝統的なレイアウトに似ていました。中国では大家族の家々が中庭を囲む形で編成され(四合院)、井戸、風呂、小さな野菜畑などの共有の設備はこの中庭にあります。京都の開発が始まった当時、家々はこの中国に似たレイアウトでしたが、まもなく少しずつ変化し共有スペースは分割され個別の家に属するようになりました。 それが平安時代の後期から室町時代にかけて、都市が発達していくにつれて商店が通りに沿って立ち並ぶようになったのですが、それでも今日のように長細くはなく、より正方形に近く、せいぜい二つか三つの部屋を持つ長屋のような住居だったようです。 84ページの絵は安藤広重の浮世絵ですが、江戸時代の池鯉鮒宿の様子が描かれています。池鯉鮒宿 品物を並べて売るための机のような板が、店と屋外の間に置かれていることが窺えます。店の形は正方形に近いことが分かります。都だった室町時代の京都では、すでにこのような町屋が立ち並んでいたことがこの絵からも想像できます。 ところが江戸時代に入り、京都では商人に対して通りに面した家の間口の幅で税金が課せられるようになり、節税のため間口は広げず共用スペースを取り込み、居住面積を奥へ奥へと拡張していったのです。この傾向は現在の京都まで続いたため、家と家の間の共有スペースがほとんど消滅してしまいました。結果、「うなぎの寝床」と呼ばれるような町屋独特の奥へ細長い間取りが確立されました。 町屋の標準的なサイズは間口5~8メートル、奥行きは20~50メートルほどです。もとは平屋でしたが、いつしか二階も造られるようになりしばらくは倉庫(納戸)の役割でしたが、100年ほど前からは寝室としても使われるようになりました。 なお、昔から店は建物の表側にあり、このスタイルは今日まで基本的に変わっていません。
2017.02.05
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図書館で『民家ウォッチング事典』という本を手にしたのです。全ての項目が絵と説明文が開いた2ページに収まっているという構成なので、たいへんビジュアルで親しみやすい。著者の絵心もなかなかのもんやでぇ♪【民家ウォッチング事典】吉田桂二著、東京堂出版、1987年刊<「BOOK」データベース>より民家はバラエティーに富んだ存在だから、これを通観して断片をひとつにまとめることはできない相談だが、心に刻みこまれた民家の映像を、育てることができるのではないか。断片は、それに注目する目を持たなかったら、拾い集めることはできない。そんな目を自分の目にすることに、この本が役立ってくれたら、ということで、書名を「民家ウオッチング事典」とした。【目次】高八方造り/高塀造り/雀おどり/港町/切り落し造り/反り棟造り/十村役/ひんぷん/塗り家造り/じょうご造り/武家屋敷/曲り家/寄棟屋根/かぶと屋根/切妻屋根/入母屋屋根〔ほか〕<読む前の大使寸評>全ての項目が絵と説明文が開いた2ページに収まっているという構成なので、たいへんビジュアルで親しみやすい。著者の絵心もなかなかのもんやでぇ♪rakuten民家ウォッチング事典町屋の通り土間を見てみましょう。p116 <町屋の生活に欠くことができない通り土間> 町屋の間取りは、ごく大ざっぱに言い切ってしまえば、どこでもほとんど同じと言っていい。部屋数とか家の大小とか、多少のつくりの違いを無視してしまうなら、それほどの違いがあるっわけではない。しかしそんなことを言うと、農家だって大同小異ではないか、という反論があるだろう。 けれども町屋と農家のどちらに地方性が濃厚かというなら、これは農家に軍配を上げないわけにはいかない。自然発生的な農村に比べ、都市というのはどこでも人為的なものだから、地方性が意外と少ない。 では、町屋に見られる最も大きな共通性は何か、というなら、それは通り土間でしかないだろう。通り土間は町屋が町屋として成立しうる底辺をなす重要な要素である。もっとも長屋のような規模の小さな家にあっては別になる。 農家と町屋の違いの最たるものは、家の密集度だ。家が密集して隣家と密接し、家の横に余地がなく、土足のままで家をまわって家の裏にゆけないとき、家の中に貫通して土間を設ける通り土間は必須の施設となる。 今の生活だったら、土足のまま家の裏にゆくことができなくても、さして困ることはないが、台所や便所などが家の奥にあって、そこと表との間の物の運搬、たとえば薪とか汚物の汲み取りなど、土足のままの方が都合のよいものが家の奥にあれば、通り土間は欠くことができない。 土足でなければならない生活が、もし家の奥にないなら、通り土間は必要でないだろう。しかし町では地価が高く、特に通りに面した部分では顕著であるし、間口の大小によって課税したところもあった。このため町屋には間口が狭くて、奥に長い家が多くならざるをえない。家の通りに面した部分は経済価値の高い部分だから、そんなところに台所や便所を取ることはできない相談だ。 そこは家の表側として大切なスペースである。こんなわけで、通り土間は町屋に共通する最大の要素となった。 神戸市に在る「箱木千年家」を見てみましょう。箱木千年家p34 <現存する最古(15世紀)の民家・千年家> 古い民家を訪ねてゆくと、住んでいる人に、この家は何百年たっている、などということをよく聞かされるが、たいていの場合は明治以後の家が多い。江戸時代にさかのぼる家は、それほど多くは残っていない。 では、現存する家でもっとも古い家はいつごろのものでどこにあるのか。それは箱木千年家と呼ばれる家で、新神戸駅よりなお北の、神戸市のはずれにあって、室町時代後期、1400年代末と推定されている。この家は元禄の頃、すでに千年家と呼称されたというのだから大変なものだ。 千年はオーバーだが、その頃でさえ二百年、今では五百年もたっている。ちなみにいえば、千年家と呼ばれる家はもう一軒ある。古井千年家と呼び、同じ兵庫県だが、もっと山中、中国自動車道よりも北にあって、こちらの方は室町時代末期、1500年代であるという。 このふたつの千年家はよく似ていて、軒が非常に低くて、かがんで入るほどだし、土壁が柱の外面についているので、中からは柱が見えるが、外は土壁が塗りまわあれていて柱が見えない。内部には細い柱が林立している。 民家は古い家ほど用材が細いのだ。かんなのない時代なので、刃の丸い手斧でけずってあるため、木材の仕上面に細かい凹凸がある。間取りは家の東半分が土間で内厩を区分し、家の西半分は板床で表側に一室のおもて、奥は二分されてなんどとおえだが、おえの方は土間に開放されている。おもては座敷で儀礼の部屋、おえが居間でなんどが寝間である。 貧相な家にしか見えないであろうが、この程度で土地の権力者の家であったのだ。したがって一般が住む家はおして知るべしだ。室町時代でさえ、太古さながらの竪穴式住居に住んでいる人がいたという。
2017.02.05
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<図書館大好き197>今回借りた4冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「民家」でしょうか♪<市立図書館>・わたし・末裔<大学図書館>・「縁側」の思想・民家ウォッチング事典図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【わたし】坂東真砂子著、角川書店、2002年刊<商品の説明>よりタヒチで恋人との激しい愛憎と闘いから、真の自分を探す自伝小説。本作品は、著者が表現者としての原点に立ち返って、自らの傷、性、修羅を見つめ直し、屍のように生きていた祖母の人生への回顧を交えながら、自分の生の意味を見いだし覚醒してゆく、傑作自伝小説。<読む前の大使寸評>坂東真砂子といえば、郷土の成り上がりでもある西原理恵子と違って、土佐校、奈良女子大を経てイタリアで建築とデザインを学んだという正真の才女である。自伝小説とのことであるが、ほぼ彼女の経歴に忠実に書いているようです。amazonわたし************************************************************【末裔】絲山秋子著、講談社、2011年刊<「BOOK」データベース>より家族であることとはいったい何なのか。父や伯父の持っていた教養、亡き妻との日々、全ては豊かな家族の思い出。懐かしさが胸にしみる著者初の長篇家族小説。<読む前の大使寸評>著者初の長篇家族小説ってか・・・・爆走気味の著者なので、いかなる自叙伝になっているやら。rakuten末裔【「縁側」の思想】ジェフリー・ムーサス著、祥伝社、2008年刊<著者について>より現代建築の観点から日本の伝統建築に魅せられ、京都を拠点として町家の修復を中心に、寺修復や戸建て住宅の設計など国内外で活躍。自身も自ら改築した町家に暮らす。京都大学、関西大学などで非常勤講師を務める。朝日放送系『大改造!!劇的ビフォーアフター』に出演、町家や江戸時代の蔵などのリフォームを行なった。<読む前の大使寸評>大使が注文建築に要求したのは、縁側付きの日本間をひとつ設けるというものだったけど・・・「縁側」の心地よさに、外国人も気づいていたようですね♪amazon「縁側」の思想【民家ウォッチング事典】吉田桂二著、東京堂出版、1987年刊<「BOOK」データベース>より民家はバラエティーに富んだ存在だから、これを通観して断片をひとつにまとめることはできない相談だが、心に刻みこまれた民家の映像を、育てることができるのではないか。断片は、それに注目する目を持たなかったら、拾い集めることはできない。そんな目を自分の目にすることに、この本が役立ってくれたら、ということで、書名を「民家ウオッチング事典」とした。【目次】高八方造り/高塀造り/雀おどり/港町/切り落し造り/反り棟造り/十村役/ひんぷん/塗り家造り/じょうご造り/武家屋敷/曲り家/寄棟屋根/かぶと屋根/切妻屋根/入母屋屋根〔ほか〕<読む前の大使寸評>全ての項目が絵と説明文が開いた2ページに収まっているという構成なので、たいへんビジュアルで親しみやすい。著者の絵心もなかなかのもんやでぇ♪rakuten民家ウォッチング事典************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き196R
2017.02.04
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大使の新聞スクラップの一つに池澤夏樹さんの(終わりと始まり)シリーズがあるのだが・・・そこに載っていた「漢字の来し方行く末」がええでぇ♪ということで、紹介します。坊主憎けりゃ、袈裟まで憎し、というか・・・とにかく中国で使われる簡体字が嫌いな大使である。2017-2-2(終わりと始まり)漢字の来し方行く末より 先日、自分が書いている小説の中で、ある男が中国人であることを伝えなければならなくなった。主人公との出会いは一瞬で会話はない。服装や容貌(ようぼう)をしっかり見る暇もない。 その場に男が書いたメモが落ちていたことにした。「●●●●●(職員駐車場の簡体字表記)」と書いてある。「職員駐車場」の意だが、五字とも中国のいわゆる簡体字。 アルファベットは世界の広い範囲で使われているが、簡体字の漢字を使うのは中国とシンガポールなどに限られる。 昨今、日本でもテレビの旅行番組などでこの文字を見かけることは少なくないけれど、我々は使わない。 文字というものの発明に改めて感心する。声に乗って空中を漂ってすぐに消えるものだった言葉が、粘土や木片や石や紙の上に定着できるようになった。そこで記憶が記録に変わった。 はじまりは帳簿だったか呪術だったか。公的な用途ばかりで私的な使用が始まるのはずっと後のことだ。 * 文字には表音と表意がある。 人体が声帯と咽喉と口腔で作れる音にはかぎりがあるから、表音文字の数はさほど多くはならない。七、八十もあればまず充分。 しかし意想の方は無限に多い。だから表意文字はいくらでも増え、どんどん複雑になった。表意文字は文字であると同時にそのまま単語なのだ。 世界ぜんたいを見て、繁栄した表意文字は漢字だけらしい。中国に生まれた漢字は日本や朝鮮や越南(ベトナム)に伝わり、異なる言語を記述するのに使われた。マヤの文字はマヤ文明と共に消えてしまった。 文字としては煩雑なので筆などで急いで書く時は細部を略す。しかし公式の文書では一画ずつを丁寧に美しく書く。そこから崩すのは自由だが、基本は楷書。 その状態が何千年も続いたのに、二十世紀に入ってなぜ漢字の簡略化が図られたのだろう? 知識の大衆化? 日本は仮名という表音文字も併用してきたから、漢字の数を制限することができたが、中国には漢字しかない。そこで彼らは文字そのものを変えることにした。「廣」という字は複雑すぎるから「广」にしてしまおう。十五画がわずか三画になるが、見た目はすかすか。日本では「広」で、台湾の繁体字は「廣」と昔のまま。 中国でどんな論議があったかぼくは知らない。政治的なメッセージを書いた大字報(壁新聞)が書きやすいというのが理由だったとも思えない(日本でも学生運動の立て看板には「斗争(とうそう)」のような文字が踊っていた)。 私用の略字を公用の文字に反映させて文字体系を変えてしまってよかったのか。伝統との断絶ということは考えなかったのか。植字工の作業において、「廣」でも「广」でも活字一本を拾う労力に差はないのだが。 簡体字が普及した後でコンピュータが登場した。活字の場合と同じでここでも廣と广の間に手間の差はない。もう我々は文字を書くのではなく打ち込む、ないし入力するのだから。 * 漢字改革は日本でも行われた。 戦争に負け、何もわかっていない占領軍の連中が漢字こそが日本の後進性の理由だと誤解したとしても、そんなものは突っぱねればよかった。 これが中国の場合ほど徹底しなかったのは、中途半端を好む日本人の性格のおかげかもしれない。 吉行淳之介さんがどこかで、戻るという字は中が犬だから実感があったのに、それが大になってしまってつまらない。と言っていた。手で「戻る」と書いて、犬を書くところで勝手に遊びに行った犬が戻ってくるという情景を人々は一瞬だけ想像した。そもそも、戻と●(戻の大が犬)、一画だけ節約してどんな利があるというのだろう。なんともみみっちい話だ。 文字を統括するのは度量衡や法律などと同じく権力者の権能である。だから近代の漢字の基準は清朝の最盛期に康熙帝の指示で作られた康熙字典だった。 文字を改めるのはリスクが多い。朝鮮のハングルはまこと優れた表音文字だが、それだけを用いるか漢字も併用するかで今も議論が続いている。ベトナムは漢字を捨ててアルファベットにしてしまった。ホーチミンが元は胡志明であったことを知る人は少ない。 ひらかなとカタカナと漢字を使う日本語の表記法は複雑で、習得には手間がかかるが、しかし利点も多い。意味を漢字で表し、発音をふりがなにすると方言などがうまく伝わる。その他さまざまな利用法を駆使して我々はずいぶん豊かな言語生活を送っている。 歴史はもとに戻せない。コンピュータの出現は予想できなかったとしても、中国は拙速に走って何かを失った気がする。同じことは我が国の仮名遣いについても言えるのだが。アレ? 楽天が「广」という簡体字を受け付けてくれたなあ…どういう基準になっているんだか?紙のスクラップとWebデータとで、重複保管になるのだが、ま~いいか。
2017.02.03
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