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図書館に予約していた『日本人はどこから来たのか?』という本をゲットしたのです。2016年夏の航海の再現実験の失敗にはガッカリしたのです。・・・でも、この一見アホな実験を企てた人は賞賛に値すると思うのです。【日本人はどこから来たのか?】海部陽介著、文芸春秋、2016年刊<「BOOK」データベース>より約10万年前、アフリカを出た私たちの祖先は、4万8000年前、ヒマラヤ山脈を挟んで、南北に別れて拡散、1万年後、東アジアで再会する。そして、私たちの遙かなる祖先は、古日本列島に、3ルートから進出した。3万8000年前の航海術の証拠そして実験、世界各地の遺跡の年代調査比較、DNA分析、石器の比較研究。国立科学博物館気鋭の人類学者の重層的な調査によって浮かび上がる日本にいたる人類の「グレート・ジャーニー」その新たなる仮説ー。<読む前の大使寸評>今夏の航海の再現実験の失敗にはガッカリしたのです。・・・でも、この一見アホな実験を企てた人は賞賛に値すると思うのです。その張本人の出した本とあれば、惹かれまんな♪<図書館予約:(10/11予約、1/28受取)>rakuten日本人はどこから来たのか?一見アホな実験に対する想いとその意義を「あとがき」に見てみましょう。人類学者の発言とは思えないほどわりと政治的なメッセージになっているが・・・ええでぇ♪p208~210 <あとがき>より 本書で焦点を日本に絞ったのは、決して日本人の祖先だけを賞讃したいからではないことを強調しておかねばならない。太古の日本列島にやってきた人々の来歴はたいへん興味深いことがわかったが、アジアの他の地域にも、それぞれに魅力的なストーリーがあったはずだ。ヒマラヤの南北のルート上の証拠をながめるだけでも、その一端をうかがうことができた。 そうして自分たち以外の集団の成り立ちも理解することには、おおいに意義があるだろう。私自身はそうすることにより、各地の人々や文化に対して、優劣を考えるのでなく敬意を抱くようになった。元は一つの集団だった祖先たちが世界各地へ広がり、行く先々でそれぞれ異なる経験をして多様な文化が生まれたのだ。その過程には、それぞれ聞く価値のあるドラマがある。 本文では、最初に日本列島にやってきた人々の血が、部分的に私たちに受け継がれているとも書いた。その裏には別な意味があることも、述べておかねばならない。それは人類史の中では集団の移動と混血、文化の伝播と相互作用が繰り返されているため、事実上「純粋な民族」や「純粋な文化」は存在しないということだ。 アイヌ、大和民族、琉球民族、そして朝鮮民族や漢民族などの区分があるが、これらも長い歴史の中で互いに混血しあっており、その間はゆるやかに連続している。同じホモ・サピエンスの集団どうしなのだから、それはそういうものなのだろう。 だが現実社会の中では、個々の民族は明確に独立した単位で、時代的に不変で固定的と誤解されることがあるし、その上で特定の民族の優越性を唱える声や政治的意図も根強くある。そうした行為は不必要な軋轢を生むだけで、人類にとって利益のあるものではない。 だから私は、より多くの一般市民が、人類史を学ぶことを通じて「民族」というものが、政治や言語そして人々の認識といったもので人工的に規定されている仮の線引きにすぎないということを理解することが重要だと思う。それによって優劣という意識が薄まり、他の人々を尊重する空気が国際的に醸成されることを願っている。 最後に、人類史をながめる上で、私自身が意識している一つの大事な姿勢について記しておきたい。それは、自分がなるべくその当時の状況を理解し、祖先たちの立場になってものを見るということである。 例えば旧石器時代の人類の大拡散について、現代の私たちは世界地図をながめながらそれを追うことができる。しかし当事者である祖先たちは世界の地理を知らずに移動しているので、自分たちが出アフリカを果たしたとか、アジアの東端まで到達したということを意識したり、ましてや感激したりはしていない。日本にたどり着いた祖先たちにしても、彼らはアフリカから日本列島を目指して旅していたわけではない。知らずに進んだ先にたまたま日本列島があった、というのが実情であろう。彼らが大移動したこと・できたことには凄みがあるが、現代の私たちの観点から、その移動に大きな目的や目標があったと考えてはいけない。 縫い針や舟の発明が偉大だと言われても、現代人にはあまりピンとこないかもしれない。しかし裁縫するとか、水面上を移動しようとかいう発想そのものがなかった時代に身をおけば、そのアイデアの凄さがわかる。さらにその上で、これらが人類の寒冷地適応を飛躍的に向上させ、海洋進出を可能にしたことを理解すれば、その偉大さがわかってくる。 『3万年前の航海 徹底再現プロジェクト』でも、そうしたことが重要な課題だ。例えば現代の探検家なら、ある島からある島への航海は難しくないと言うかもしれないが、それは公表されている地理・気象・海流データを見ながらしている話だし、あるいは現代的な装備で自らが一度横断した経験に基いてしている話かもしれない。私たちがこのプロジェクトで追求したいのは、そうした知識を持たない祖先たちが最初にどうやって海峡を渡ったか、なのである。「海上の道」論の真の意義については、『海を渡ったモンゴロイド』という本の中で述べられています。『日本人はどこから来たのか?』1『日本人はどこから来たのか?』2
2017.01.31
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図書館に予約していた『スペース金融道』という本をゲットしたのです。取り立て屋コンビが駆ける!新本格SFコメディ誕生ってか・・・・面白そうやでぇ♪【スペース金融道】宮内悠介著、河出書房新社、2016年刊<「BOOK」データベース>より人類が最初に移住に成功した太陽系外の星ー通称、二番街。ぼくは新生金融の二番街支社に所属する債権回収担当者で、大手があまり相手にしないアンドロイドが主なお客だ。直属の上司はユーセフ。この男、普段はいい加減で最悪なのに、たまに大得点をあげて挽回する。貧乏クジを引かされるのは、いつだってぼくだ。「だめです!そんなことをしたら惑星そのものが破綻します!」「それがどうした?おれたちの仕事は取り立てだ。それ以外のことなどどうでもいい」取り立て屋コンビが駆ける!新本格SFコメディ誕生。<読む前の大使寸評>取り立て屋コンビが駆ける!新本格SFコメディ誕生ってか・・・・面白そうやでぇ♪<図書館予約:(9/28予約、1/27受取)>rakutenスペース金融道この小説の語り口を、ちょっとだけ見てみましょう。p66~68 <スペース地獄篇> 人類最古の太陽系外の植民惑星…通称、二番街。 それぞれの支社は独自に動いているが、一応、本社からブランドマネージャーのアンドロイドが送りこまれている。「債務者のトレーサビリティ一覧、送信しておきました」ぼくはユーセフに報告する。「おう」 ゲームでもやっていたのか、ユーセフの作業コンソールには草原を駆け回る兎たちの映像が表示されていた。この男が、ぼくのバディで、直属の上司にあたる。この前などは、なんと首相との取引を成立させてしまった。皺寄せは、ぼくに。普段はいい加減で最悪なのに、たまに大得点をあげて挽回する。どこの部署にも、必ず一人はいるタイプだ。「マージ作業はこちらでしておく。お疲れ、帰っていいぞ」「はい」 こういうときはすぐ退散するに限る。案の定、「待て」と呼び止められた。「おまえ、おれがゲームで遊んでると思ったろう」「違うんですか」思わず問い返してから、「いや、まったく思ってないです」「…こいつらは、債務者なんだよ」「ええと」ぼくは画面の兎を凝視した。「この、おチビちゃんたちが?」「人口生命だ」 金を返してさえくれるなら、エイリアンでもバクテリアでも融資する。それがうちの方針だ。しかし、仮想世界まで対象にしているとは知らなかった。「なんで兎なんですか」「おれたちにはそう見えるだけだ。人間の姿をしていると、奴隷として使いづらい」「さりげなくひどい表現が聞えた気もしますが、よくわかりました」 草原を駆ける兎たちの姿は、牧歌的で気を惹くものがあった。 詳しく聞いてみると、牧歌的とは程遠かった。 かつて彼らが知性を持つまでに進化したころ、人類はこれを使って知的労働力の不足を補おうと考えた。報酬は仮想世界での温泉旅行であるとか、地域通貨であるとか。ついでにサーバー内を自治させ、維持費は外貨収入でまかなわせることにした。 しかし、簡単に百万二百万と増産できてしまう存在である。 アンドロイドは三原則や雇用機会均等法でなんとか共存共栄しているが、人口生命の場合はそうはいかなかった。おのずと人間の職が奪われ、労働問題はなおのこと悪化し、しまいには保守層が人工生命の禁止とジェノサイドを要求するに至った。 要は、いたらいたで厄介だが、いなければいないで困る。まるでどこかの誰かだ。 どこかの誰が言った。「議論が重ねられ、最終的にこうなった。まず、仮想世界は各システムごとに一つの独立した外国として扱う。その上で、人工生命への労働報酬にはアンチダンピングの相殺関税を適用する」 ぼくはテレパシーを送った。「人間の言葉で」 通じなかった。「もちろん、巷のソフトハウスがこっそり人口生命を労働力として使うことは禁止だ。破った場合は、多額の罰金を支払うことになる。電子商取引の関税ゼロ法と矛盾するんだが、その件はひとまず棚上げされ、この貿易関税システムが既成事実として運用されはじめた。ところが、相殺関税は百万パーセント以上にまで跳ね上がった」 もう一度、テレパシーを試みる。通じた。「…仮に、人工生命が労働の対価として1ペソを要求したとしよう」「その単位はなんです」「知らないのか、ニカラグアとかアルゼンチンとか」 たぶん、古代地球にあった国々のことだろう。なぜか、ユーセフはこういうことに詳しいのだ。ぼくはペソの件を脳内の「いらない情報」箱に移し替えた。血も涙も無いようなアンドロイドの上司(ユーセフ)とぼく(パトリック)が組んで、人工生命たちから借金を取り立てるのだが…ぼくが気を抜いていると酷い仕打ちが待っています。
2017.01.31
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図書館に予約していた『日本人はどこから来たのか?』という本をゲットしたのです。2016年夏の航海の再現実験の失敗にはガッカリしたのです。・・・でも、この一見アホな実験を企てた人は賞賛に値すると思うのです。【日本人はどこから来たのか?】海部陽介著、文芸春秋、2016年刊<「BOOK」データベース>より約10万年前、アフリカを出た私たちの祖先は、4万8000年前、ヒマラヤ山脈を挟んで、南北に別れて拡散、1万年後、東アジアで再会する。そして、私たちの遙かなる祖先は、古日本列島に、3ルートから進出した。3万8000年前の航海術の証拠そして実験、世界各地の遺跡の年代調査比較、DNA分析、石器の比較研究。国立科学博物館気鋭の人類学者の重層的な調査によって浮かび上がる日本にいたる人類の「グレート・ジャーニー」その新たなる仮説ー。<読む前の大使寸評>今夏の航海の再現実験の失敗にはガッカリしたのです。・・・でも、この一見アホな実験を企てた人は賞賛に値すると思うのです。その張本人の出した本とあれば、惹かれまんな♪<図書館予約:(10/11予約、1/28受取)>rakuten日本人はどこから来たのか?台湾~与那国島の渡海の困難さを見てみましょう。p166~169 <台湾から与那国島に行くには100キロ以上の航海が必要だった> ワラセアの海域には、最長80キロメートルの航海でサフルランドに到達できるルートがある。つまり、ワラセアの海は、人類最初の海洋進出には適した場であったのかもしれない。この偉大な最初の航海の後、さらにいくつものチャレンジを続けて、祖先たちは次第に遠くの海洋世界へ出て行くようになったのだろう。私はそうしたステップの中で、琉球列島への渡海には、ワラセアの次の段階の挑戦があったと考えている。 先に考察したように、琉球の島々への移住には、南北両方からの移動があったようだが、九州からの南下が確認できるのは大隈諸島までで、沖縄島への移動は台湾からの北上であった可能性が高い。奄美群島への移住経路については、現段階ではよくわからない。図7 当時海面は今より80メートルほど低かったので、琉球列島の地形はおおよそ図7のようであったと考えられる。九州島と種子島は22キロメートルほど離れていたが、これは3万8000年前に対馬海峡(40キロメートル)を横断している人々にとっては、大きな問題ではなかったろう。 しかし台湾から北上するルートは、最初の与那国島への渡海から大きな問題にぶちあたる。台湾~与那国島の直線距離は、海面が低かった当時でも105キロメートルほどあった。しかも与那国島は小さくて低いので、近くまで寄らないと舟から目視できない。祖先たちは、目的地が見えない航海を強いられたということになる。小さな与那国島をやり過ごして、最初からより大きな西表島を目指したと考えてもよいが、目的地が見えないことに変わりはなく、かつそれはもっと距離の長い大航海となる。 次の問題は、海流だ。現在、台湾と与那国島の間を、黒潮が横断している。フィリピン沖から北上して日本列島と絡むように流れる黒潮は、世界最大規模の海流の一つで、その幅は100キロメートルに及び、流速は速いところで毎秒2メートルに達するという。これを動力のない小舟で横断するのは容易であったはずはなく、海流に流されることを見越し、かつ航行距離が伸びることを覚悟して、台湾からの出発地を南に下げないと与那国島に到達することはできなかったはずだ。 4万~3万年前の黒潮がどこをどう流れていたのかは、実はまだ解明されていない。しかし台湾~与那国島の海峡は深さ800メートルに達するので、海面が80~130メートル下がったところでこの巨大海流が止まるわけはないだろう。(中略) このように台湾から与那国島への渡海は一筋縄では行かないのだが、話はこれで終わらない。八重山諸島から宮古初頭までは、次の島が見える距離になり、60~30キロメートルほどの航海を繰り返せば宮古島まで行ける。しかしその先の沖縄島は220キロメートルの彼方にあったので、またしても見えない目的地への、しかもさらに遠い距離の大航海にチャレンジしなくてはならなかった。今夏にも台湾~与那国島の航海実験が予定されているようだが…この航海の出発地が朝鮮半島でなくて台湾というのが、なんとなく惹かれるのでおます♪古代人の渡海の困難さが、ナショジオに載っていました。フィリピンから台湾へ、風待ち停滞と国境の壁より縄文号(奥) 2年目(2010年)の航海は最初に難関が待っていた。フィリピンのパラワン諸島とミンドロ島の間にあるミンドロ海峡80キロを渡らなければならない。最短コースでもベーリング海峡と同じ距離だ。今まではセレベス海、スールー海という、島々に囲まれた比較的静かな海を走って来たが、これからは、南シナ海に放り出される。うねりも波も大きくなるはずだ。 私たちは5月中旬に出航するため、パラワン諸島北端のコロンにいた。出航をこの時期にしたのは、フィリピン、台湾、沖縄の風の動きのデータを読んでのことだ。 ここ30年間のデータを見てみると、この地域は共通した風の動きをしていた。10月から4月までは北風が吹いているが、5月に風がやみ、やがて南風が吹き始める。(中略)■帆走4割、漕ぎ4割、風待ち2割 5月21日の午後から弱い南風が吹くようになり、23日早朝に出航することに決めた。ミンドロ海峡は南からの微風で、穏やかだった。最後は風が止み、漕がなければならなかったが、無事渡れた。 しかしそれから南風はめったに吹かなかった。ミンドロ島とルソン島の岸に沿って北上していくのだが、北寄りの、前方から吹く風が多く、四苦八苦しながら進んだ。1日60キロ以上進んだこともあったが、大抵は20キロほどで、6キロしか進まなかった日もあった。マニラ湾を通過したのが6月10日。予定よりかなり遅れた。1日およそ12~13時間航海していた。私が乗っていた縄文号に限って言えば、時間で言うと、帆走4割、漕ぎ4割、風待ち2割という割合だろうか。(中略) 台湾の方は大方問題はなかったのだが、「インドネシア人クルーの海外旅行保険証はインドネシア語で書かれているので、英語に翻訳し、在日インドネシア全権大使にその保険証が本物で、英訳が正しいかを確認してもらい、その証明書を提出するように」という難題を突き付けてきた。結構ハードルの高い要求だった。 私たち自身はいつでも出発できる準備ができていて、実は出発直前にやるイスラム式の儀式は済ませてしまった。しかし、海のグレートジャーニーも、太古の人々にはなかった国境の壁が大きく立ちはだかっていた。『日本人はどこから来たのか?』1
2017.01.30
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図書館で『日本人の美意識』という本を手にしたのです。キーンさんは、日清戦争をどのように見ているのか・・・興味深いのです。借りたのは1990年刊のハードカバーです。【日本人の美意識】ドナルド・キーン著、中央公論社、1999年刊<「BOOK」データベース>より枯枝に鳥のとまりけり秋の暮ー芭蕉の句の鳥は単数か複数か、その曖昧性にひそむ日本の美学。無個性な日本の肖像画の中で一休像だけがなぜ生きているのか。日清戦争の及ぼした文化的影響など、鋭い分析による独創的日本論。<読む前の大使寸評>キーンさんは、日清戦争をどのように見ているのか・・・興味深いのです。借りたのは1990年刊のハードカバーです。rakuten日本人の美意識キーンさんが日本語習得について語っているので見てみましょう。p241~243 <一専門家の告白> 一体私は自分の人生のうち果たしてどれぐらいの時間を、日本語の勉強に費やしてきたのだろう、と時たまではあるが、想い起こしてみることがある。その度に、わずかながら胸のうずきを感じる。あの、今は昔の1941年の夏、私は本当にこれといった動機もなしに、日本語を始めたのだ。 日本との戦争が間近に迫っているという予感もなければ、自分が、あるエキゾティックな言語をちょっとかじってみることが、いずれ国家的利害関係から見て、重大な意味を持つと判断されるようになることなど、一瞬たりとも思ってみたことはなかった。のちに私は、アメリカ海軍の外国語学校で学び、それから通訳兼翻訳者として四年間軍務に服した。そしてそのあとも、大抵の海軍語学校の同級生が、覚えた日本語は1日も早く、すっかり忘れてしまいたいぐらいに思っていたのに、私だけは、いくつかの大学で、頑固に勉強を続けていったのである。 今でも時々、私はその連中に会うことがある。すると彼らは、まるでなにかにとりわけなつかしい童謡でも思い出すように、まだ彼らの記憶にどうにか残っている最後の日本語を、私に向かって暗唱してくれるのだ。例えば、「敵を水際にて殲滅せよ!」とか、そういった、今では郷愁を誘うような文句である。そしてきまって私のことを、半ば羨望、半ば優越感でもって眺めるのである。 つまり財界の大物が、プロ・ゴルファーか、あるいはアメリカ・ボーイ・スカウトの団長かなんかを見る、あの眼つきだと思えばよい。時として彼らの中には、なぜ私が、折角なにがしかの才能を持ちながら、いわゆる大人の世界に入らないで、彼らもかつてはなんとか解読出来た、あの妙なのたくり書きの言葉への、子供じみた愛着を捨てないのか、と不思議がるのもいる。 これと同じ態度は、日本人にも、時に見られるから面白い。ある日本人がアメリカへ来た時、この人は、微笑を浮かべながら、彼の国の言語をやるのは、社会的不適合者だけだという意見を、私の同僚に告げたという。またある時は、日本のビザを申請に行った時、ある若いビザ係の領事が、私の職業の選択を褒めてくれたのはいいが、その理由は、「日本文学を選ばれたのは賢明でしたよ。もっと競争の激しい分野なら、なかなか有名になれませんからね」、というのだった。 最も好意的な友達ですら、もちろん褒めているのは確かだが、次のような言い方をすることがある。「日本語だけに限定してはいけませんよ。あなたみたいに聡明な方なら、英文学についてでも、フランス文学についてでも書けるじゃありませんか」。最近ある編集者が私にスペイン語かイタリア語の詩の翻訳をやってくれないかと頼んできたことがある。 意味するところは、いつまでそんなエキゾティックな、つまらん文学をごねごねひねくるのを止めて、もいいい加減に、ちゃんとした大人の仕事をやってもいいのではないか、ということだったのだ。どうも人は、私が日本文学研究という自分の本職を捨てない訳が呑み込めないらしい。『日本人の美意識』1
2017.01.30
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図書館で『SF映画の世界』という大型のムック本を手にしたのです。「2001年宇宙の旅」「ブレードランナー」「スター・ウォーズ」に関して、多くのページを割いているのがええでぇ♪【SF映画の世界】大型ムック、近代映画社、1991年刊<「BOOK」データベース>より「メトロポリス」を生んだSF映画発祥の地ドイツの伝統ある映画出版社と提携、特別編集で作りあげた決定版がこの“SF映画の世界”です。「2001年宇宙の旅」から「スター・ウォーズ」3部作、「E・T」まで、SF映画の名作・話題作を一堂に集め、さらに宇宙船やロボット、アンドロイド、スーパーヒーロー、怪獣まで各ジャンルごとの分析やキャラクター紹介も織り込んだ、これ一冊でSF映画のすべてが分かるファン必読の保存版です。<読む前の大使寸評>「2001年宇宙の旅」「ブレードランナー」「スター・ウォーズ」に関して、多くのページを割いているのがええでぇ♪amazonSF映画の世界大使一押しのSF映画といえば、「ブレードランナー」になるわけです。p80~82 <ブレードランナー> 「ブレードランナー」のもとになったアイデアは、アメリカの現代SF作家の第一人者フィリップ・K・ディックのもので、彼が1968年に発表した『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』の映画化だ。未来における賞金稼ぎのリック・デッカードは、植民地化計画の一部として配置された火星から、地球へ逃げて普通の人間として生きたいと願っている6人のアンドロイドを追跡する。 彼らは主人を殺し、自由になろうとしていた! 彼らを本当の人間であるかどうか生物学的に見分けることは大変難しく、確認するには複雑な心理学のテストが必要である。その結果、デッカードは人間を偽物と本物と見分けることにまじめに悩み、葛藤する。 アンドロイド物語の最初の脚本は、1973年にロバート・ジャフィーが書いたが、ディックはすべてのものに同意しなかった。のちにオプションが別の人物に渡った後、ディックは『単なるアンドロイド狩りのアイデアに誰も関心を寄せないだろう』と望んだ。同じ目的を持っている次の脚本家ハンプトン・ファーンチャーが興味を示した。しかい、ディックは『フィリップ・マーローがステップフォードの妻たちに会う』というレベルの脚本に失望した。映画化権を持つフィルムウェーズ・プロが経営危機に陥り、最終的に新しい出資者ラッド・カンパニーが権利を取得し、全く新しい脚本が書かれることになり、ディックは満足した。デーヴィッド・ピープルズが執筆したバージョンにディックは大変感動した。 『私はエクスタシーを感じた。自分のエージェントに言った。朝、私は癌であると言われても、笑って病院に行きたい。なぜなら、私の本が実に名作であり、私が優れた小説家であるということが、皆に認められるというかつて無いほどの興奮を体験しようというのだから』と語った。 アンドロイドのボスをやるオランダの俳優ルトガー・ハウアーの写真を見た時、ディックはまた疑いの口調でブロンドの君主的人間を思い出すと語った。映画プロジェクトに対するディックの最後の意見も結局墓の中に入った。 1982年2月の終り、彼は身体が麻痺し、1週間後の3月2日に死亡した。神聖な大都会の沈黙 リドリースコット監督は、映画のために構築した2019年のメトロポリスが実際に時の終りを告げる廃墟(スモッグ、降り続く雨、人口過密)になると考えた。スコットは言った。『我々が観客に見せる町は悪夢である。ニューヨークもその悪夢の一つだ。我々は未来の40年間を構想し、一つのメガロポリスを写し出している。それは、例えばニューヨークとシカゴを一緒にしたような町で、人口が約1億人ぐらいである。それはまたサンフランシスコとロサンジェルスを一緒にしたようなものであるかもしれない。事実、我々はその町をサンジェルスという名にしようとした。もちろん西海岸の大きな植民都市としての郊外都市も含まれる。しかし我々は雨という点で、この町を東海岸におくことにした』 ディックのアンドロイドは、遠隔地の植民地を離れて壊れていく大都会にやって来る。この記事もブレードランナーあれこれに収めておきます。
2017.01.29
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図書館に予約していた『日本人はどこから来たのか?』という本をゲットしたのです。2016年夏の航海の再現実験の失敗にはガッカリしたのです。・・・でも、この一見アホな実験を企てた人は賞賛に値すると思うのです。【日本人はどこから来たのか?】海部陽介著、文芸春秋、2016年刊<「BOOK」データベース>より約10万年前、アフリカを出た私たちの祖先は、4万8000年前、ヒマラヤ山脈を挟んで、南北に別れて拡散、1万年後、東アジアで再会する。そして、私たちの遙かなる祖先は、古日本列島に、3ルートから進出した。3万8000年前の航海術の証拠そして実験、世界各地の遺跡の年代調査比較、DNA分析、石器の比較研究。国立科学博物館気鋭の人類学者の重層的な調査によって浮かび上がる日本にいたる人類の「グレート・ジャーニー」その新たなる仮説ー。<読む前の大使寸評>今夏の航海の再現実験の失敗にはガッカリしたのです。・・・でも、この一見アホな実験を企てた人は賞賛に値すると思うのです。その張本人の出した本とあれば、惹かれまんな♪<図書館予約:(10/11予約、1/28受取)>rakuten日本人はどこから来たのか?日本列島への移住民の歴史を見てみましょう。p199~202 <沖縄ルートの祖先はどこへ行ったのか> 沖縄(あるいは奄美大島)以南の琉球の島々は、台湾を出発して困難な航海にチャレンジした旧石器時代人によって、3万年以上前にはじめて植民された。1万年前頃になると、これらの島に、九州方面から縄文文化の影響が及びはじめる。それは九州でみられる石斧や土器が沖縄地方に出現することであるが、沖縄県立博物館の山崎真治によれば、そういう文化要素の南下が、1万4000年前以降に幾度か繰り返された可能性があるという。 その後の沖縄地方では、11~12世紀頃から農耕とグスク(各地に築かれた石積みの城塞)に特徴づけられるグスク時代がはじまり、やがて15世紀には地域を統一した琉球王国が生まれる。 こうした長期に渡る文化変遷史の中で、沖縄地方と周辺地域との間にどのような人の移動があったかは十分に明らかではないが、琉球大学の研究グループが2014年に興味深い研究成果を発表している。沖縄・宮古・八重山諸島の現代人のDNAを解析したところ、少なくとも3万年前頃にこれらの島へ渡った旧石器時代集団が、そのまま各島の現代人になったというモデルは否定された。縄文時代以降に、九州方面から沖縄地方へ大きな集団の移住があったことが想定されるのである。 しかしだからといって、旧石器時代の島の住人たちの系譜が完全に途絶えたということにはならない。彼らは縄文時代以降の移民たちに吸収されたのかもしれないが、混血というかたちをとりながら、そのDNAは現代の集団に受け継がれているはずだ。現在調査が進行中の沖縄県のサキタリ洞遺跡や、石垣島の白保竿根田原遺跡の内容の充実ぶりを見ると、そんなふうに思えてくる。 <縄文人は単一の集団だったという誤解> 20世紀までの人類学では、全国の縄文人は一つの均一な集団とみなされるのが一般的だった。それは考古学においても同様で、北海道から沖縄まで一つの「縄文文化圏」にあったという説明がしばしばなされ、人類史的観点から縄文人が本当に一つの集団なのかを問う動きはこれまであまりなかった。さらに縄文人の上下に低い顔、彫りの深い顔面、高くない身長といった身体的特徴は、彼らがアジア南方に起源したことを示しているというのが、伝統的な考えだった。 この見方に疑問の目を向けはじめた一人が、国立化学博物館の篠田謙一である。篠田は関東と北海道の縄文人のミトコンドリアDNAのタイプの違いに注目し、縄文人のルーツが一つではない可能性を示唆していた。 本書で復元してきた列島各地域の人類史は、この考えを強く支持する。旧石器時代からの移住史をみていくと、古本州島領域と北海道の縄文人は、それぞれ3万8000年前と2万5000年前に異なるルートで列島に入ってきた、異なる歴史を持つ集団とみるべきだ。従って、全国の縄文人は一つの起源を持つ均一な集団と考えるのは早計であろう。沖縄地方の縄文人の由来は、前節で述べたとおり現時点ではよくわからない。 <日本人が生まれた舞台> このように均一ではない縄文人社会に、弥生渡来民が現れた。大陸からの渡来者数は莫大ではなかったようだが、彼らは平野部に水田を開発して列島内で人口を増やしたらしい。そして弥生時代以降、この渡来系集団の列島内拡散とともに、九州~本州で、縄文の系譜を継ぐ在来系の人々との大規模な混血が進んでいった。この間、沖縄地方の人々と台湾原住民との混血は確認されていないが、アイヌはオホーツク文化人と交流があった。そのように地域によって異なる経緯をたどりつつ、現代の日本列島に暮らす人々が形成されていった…。再現実験プロジェクトをネットで見てみましょう。「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」より「日本人のルーツ」という大きな謎。これまでに蓄積されてきた膨大な遺跡データから、新たに見えてきたことがあります。5~3万年前に起こった、アフリカから日本列島までの祖先たち(ホモ・サピエンス)の大移動。そこには専門家もこれまで認識できていなかった、凄い過去があったことがわかってきました。 それは人類が海を越えて島に進出しはじめた最古段階の重要な証拠が、この日本列島にあったということ。最初の日本列島人は3万8000年前頃に対馬の海を渡って来ました。つまり日本人は最初から航海者だったのです! 祖先たちはどうやってそれを成し遂げたのか。そもそもなぜそんなことに挑戦したのか─。こうした問いに答えて私たちの祖先の本当の姿に迫りたい。そのためにできる限りのことをしたい。そこで私、海部陽介(国立科学博物館 人類史研究グループ長)と、24名の多彩な分野の一流研究者・エキスパートたちが集結し、「3万年前の事実」を追求する実証実験プロジェクトが始動しました。皆さんも大航海の”クルー”となって、この厚いベールに包まれた 大きな謎解きに一緒に挑みましょう。この航海実験の出発地が朝鮮半島でなくて台湾というのが、なんとなく惹かれるのでおます♪
2017.01.29
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図書館で『日本人の美意識』という本を手にしたのです。キーンさんは、日清戦争をどのように見ているのか・・・興味深いのです。借りたのは1990年刊のハードカバーです。【日本人の美意識】ドナルド・キーン著、中央公論社、1999年刊<「BOOK」データベース>より枯枝に鳥のとまりけり秋の暮ー芭蕉の句の鳥は単数か複数か、その曖昧性にひそむ日本の美学。無個性な日本の肖像画の中で一休像だけがなぜ生きているのか。日清戦争の及ぼした文化的影響など、鋭い分析による独創的日本論。<読む前の大使寸評>キーンさんは、日清戦争をどのように見ているのか・・・興味深いのです。借りたのは1990年刊のハードカバーです。rakuten日本人の美意識日清戦争当時の日本と中国を、キーンさんはどのように見ているのでしょう。p116~120 <明治初年における日本と中国> この戦争に、いわばその文化的特徴を提供したのは、敵…すなわち中国であった。それまで日本が、ずっとその模範、もしくは張り合う相手にしていた国に他ならない。なるほど18世紀以後、国学者が、神国日本の霊的優位を唱えて、中国軽視の態度を取ってきたのは確かである。 また蘭学を修めた学者は、ヨーロッパ文明への熱中のあまり、中国人の化学精神の欠如をしばしば批判した。例えば中国の解剖学者にによる記述の出鱈目さを言うのに、オランダ医学書の正確さを持ち出したり、また「霊的な」喚起力を持つ中国画家による風景画をおとしめようとして、ヨーロッパ風の写実主義を持ち上げたりしたのである。 とはいえ中国からの文化的影響は、19世紀の日本においても、依然として、きわめてあなどりがたいものがあった。西欧文物の盲目的摸倣時代を招来したとはいえ、明治維新は、その中国文化の威信を、基本的に変えることはなかったのである。明治天皇がどこか神道の社に参詣したならば、それを記念する石碑には、漢文で銘文が刻まれた。また徳川家の支配者が奉じていた儒学思想は、ある程度の修正は加えられたとしても、「純粋に」日本的、あるいは西洋的思想体系によって、取って代わられたわけではなかった。 中国文化はさておき、中国という国に対する日本人の感情には、もっと曖昧なところがあった。すでに18世紀、林子平は、中国のことを、日本の安全に対する潜在的脅威として説明しており、国土防衛をやかましく言うものの中には、子平のこの見解を真面目に信じるものもいた。 阿片戦争で中国が敗北を喫したことは、例えばイギリスのようなヨーロッパの諸国に比べて、中国が、軍事的にはいかに弱いかという事実を、勿論日本人に見せつけた。と言って日本人の中国崇拝の伝統は、そうたやすく崩れ去るものではなかった。1890年に生きていた大方の日本人は、中国が強国だということを、信じて疑わなかった。 1883年から85年にかけて起ったフランスとの要領を得ない戦争は、日本でも、細大洩らさず報道され、錦絵にさえ描かれたが、それによって中国の威信は、日本人の心の中で、少なからず回復されていた。その上、中国海軍が、日本が持っていたものより、はるかに優秀な戦艦を増強したことに、日本人はすでに肝をつぶしていたのだ。 1890年、中国の艦隊が日本を訪れた時、『国民新聞』の見出し記者は、つぎのような戯詩を書いたという。「チヤンチヤン坊頭は意張りけり、世の弱虫はおそれけり」。東大総長をしたこともあり、指導的な教育者、その上作家でもあった外山正一は、中国艦隊の旗艦定遠号を訪れた時の印象を、次のように書いている。「私は過日支邦北洋艦隊提督丁汝昌閣下から貴族院議員の一人としてお招きに預りました。支邦の軍艦即彼の定遠号と申しまするのは実に立派なる軍艦で御座りまする。其堅牢なることに於きましては東洋にある色々の艦隊の中には是に匹敵するものは殆ど無いと云うやうな雷名がありまするやうであります。(中略)然るに此時少し遺憾に思ひましたのは其水夫の有様であります水夫は大概はどうも其人に充分気力がないやうに見えます、色は充分能くなく、肉は充分付いて居らぬ様に思はれました」 日本人を感心させるための、多分に示威運動だったと思われるこの丁汝昌提督の訪問にによって、外山やその朋輩は、少なからずの恐慌を感じさせられたはずである。だがそうした心理のさなかにあっても、彼らは中国の文化に対する敬意を表明するのにやぶさかではなかった。 丁提督と中国海軍士官たちは亜細亜協会に招かれて、東京の紅葉館での饗宴に出席している。この席で主客互に漢詩を作って交換しあったが、中国側の詩の大方は、日本の景色の美しさや、提供されたもてなしに対する丁重な讃辞を連ねたものであった。(中略) これを読むと、この日亜細亜協会の会員たちが、それより千年前の日本人と同じように、なんとか中国人に好印象を与えようとして、いかに懸命であったかが、分かるのである。日清戦争以前の日本に居住したさまざまな中国使節たちは、ヨーロッパやアメリカから訪れる高官たちへのもっと贅沢だがいかにもあからさまなもてなしより、もっと懇篤なもてなしを受けていた。 ところが日本人で中国を訪問するものは、必ずしもそのような好遇を受けるとはかぎらなかった。すでにその頃日本は、物質面での進歩では中国を追い越していたのに、まだ多くの中国人が、日本人のことを「東夷」だと見なしていた。したがって日本人の賞讃を、無理してかちとることもない、と見ていたのである。しかし日本に来た中国の文人たちは、行くところどこででも賓客扱いを受け、しかもヨーロッパ人ではとてもそうはいかないやり方で、日本的状景にぴったりとはまっていた。日本の学者文人が、王〇のような学者や、黄遵憲のような外交官と、詩を交換することから得た喜びは、漢字の世界でこそ享受しうるものであった。漢字は、国境を越えることができたのだ。ウン 漢字文化圏がキーワードになるんだろうね♪更に読み進めてみましょう。p138~139 <敵意の創造> 日本人の反中国感情は、とりわけ李鴻章に向けられた。しかしこの政治家は、とくに1879年、アメリカのグラント将軍が、李は世界の三大政治家の一人だと褒め上げたこともあって、以前は日本でも高く評価されていた。事実李鴻章は、東洋のビスマルクだと言われたことさえあったのだ。しかし日清戦争の勃発とともに、彼は急に嘲弄の的となってしまったのである。だから錦絵の絵師は、常に珍妙きわまる服を着ていて、なにかにびっくりしているか、それともおびえているか、いずれにしてもまことに無様な姿の李を描いた。講和談判の席上、こぶしで机を叩きながら、決然として要求を提示する日本側に相対した時の李、あるいはいずれかの戦闘で、中国軍惨敗のニュースを聞かされた時の李、そうした時の李の周章狼狽ぶりは、常に滑稽に描かれている。(中略) 李鴻章の日本での悪評は、ようやく戦争の終結後に回復されることになる。すなわち講和条約を結ぶために全権として、李が下関に来ていた時、日本の過激な愛国者によってピストルで撃たれ、傷を受けた際である。折角戦争中、細心に育て上げた日本の評判が、この無謀なテロ行為のおかげで、海外で失墜することを恐れた日本は、和平条約の条件を思いきって和らげた。そして皇后自身、傷ついてベッドに横たわる李のために包帯を作ったという。とはいえ、こうした寛大な出方も、中日間の、新しい関係を変えることは出来なかった。 錦絵、流行歌、戦争劇など、どれも、今の中国人がいかにおくれていて、卑怯未練、そして軽蔑にさえ値するか、したがって栄光ある過去の文化伝統を受け継ぐに値しない連中であるか、ということを、日本人に信じこまそうとしたのである。なお、中国人が日清戦争をどのように見ているのかは、『日本にとって中国とは何か』2にも、述べられています。
2017.01.28
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今回借りた5冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「SF」でしょうか♪<市立図書館>・スペース金融道・老後破産・日本人の美意識・日本人はどこから来たのか?<大学図書館>・SF映画の世界図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)R:『日本人はどこから来たのか?』を追加************************************************************【スペース金融道】宮内悠介著、河出書房新社、2016年刊<「BOOK」データベース>より人類が最初に移住に成功した太陽系外の星ー通称、二番街。ぼくは新生金融の二番街支社に所属する債権回収担当者で、大手があまり相手にしないアンドロイドが主なお客だ。直属の上司はユーセフ。この男、普段はいい加減で最悪なのに、たまに大得点をあげて挽回する。貧乏クジを引かされるのは、いつだってぼくだ。「だめです!そんなことをしたら惑星そのものが破綻します!」「それがどうした?おれたちの仕事は取り立てだ。それ以外のことなどどうでもいい」取り立て屋コンビが駆ける!新本格SFコメディ誕生。<読む前の大使寸評>新本格SFコメディ誕生ってか・・・・予約後、待つこと4ヶ月でこの本をゲットしたのです。<図書館予約:(9/28予約、1/27受取)>rakutenスペース金融道************************************************************【老後破産】日本放送協会、新潮社、2015年刊<「BOOK」データベース>より年金だけでは暮らしていけない!平均的な年金支給、自宅を所有、ある程度の預貯金…それでも「老後破産」は防げない!なぜ起きるのか、その実態はどうなっているのか、予防策は?「予備軍」も含め、驚くべき現状を追った衝撃のルポ!【目次】序章 「老後破産」の現実/第1章 都市部で急増する独居高齢者の「老後破産」/第2章 夢を持てなくなった高齢者たち/第3章 なぜ「老後破産」に陥るのかー社会保障制度の落とし穴/第4章 地方では見えにくい「老後破産」/第5章 急増する「老後破産」予備軍/終章 拡大再生産される「老後破産」<読む前の大使寸評>老後破産の不安にさいなまれる大使なんです。rakuten老後破産************************************************************【日本人の美意識】ドナルド・キーン著、中央公論社、1999年刊<「BOOK」データベース>より枯枝に鳥のとまりけり秋の暮ー芭蕉の句の鳥は単数か複数か、その曖昧性にひそむ日本の美学。無個性な日本の肖像画の中で一休像だけがなぜ生きているのか。日清戦争の及ぼした文化的影響など、鋭い分析による独創的日本論。<読む前の大使寸評>キーンさんは、日清戦争をどのように見ているのか・・・興味深いのです。借りたのは1990年刊のハードカバーです。rakuten日本人の美意識************************************************************【日本人はどこから来たのか?】海部陽介著、文芸春秋、2016年刊<「BOOK」データベース>より約10万年前、アフリカを出た私たちの祖先は、4万8000年前、ヒマラヤ山脈を挟んで、南北に別れて拡散、1万年後、東アジアで再会する。そして、私たちの遙かなる祖先は、古日本列島に、3ルートから進出した。3万8000年前の航海術の証拠そして実験、世界各地の遺跡の年代調査比較、DNA分析、石器の比較研究。国立科学博物館気鋭の人類学者の重層的な調査によって浮かび上がる日本にいたる人類の「グレート・ジャーニー」その新たなる仮説ー。<読む前の大使寸評>今夏の航海の再現実験の失敗にはガッカリしたのです。・・・でも、この一見アホな実験を企てた人は賞賛に値すると思うのです。その張本人の出した本とあれば、惹かれまんな♪<図書館予約:(10/11予約、1/28受取)>rakuten日本人はどこから来たのか?************************************************************【SF映画の世界】大型ムック、近代映画社、1991年刊<「BOOK」データベース>より「メトロポリス」を生んだSF映画発祥の地ドイツの伝統ある映画出版社と提携、特別編集で作りあげた決定版がこの“SF映画の世界”です。「2001年宇宙の旅」から「スター・ウォーズ」3部作、「E・T」まで、SF映画の名作・話題作を一堂に集め、さらに宇宙船やロボット、アンドロイド、スーパーヒーロー、怪獣まで各ジャンルごとの分析やキャラクター紹介も織り込んだ、これ一冊でSF映画のすべてが分かるファン必読の保存版です。<読む前の大使寸評>「2001年宇宙の旅」「ブレードランナー」「スター・ウォーズ」に関して、多くのページを割いているのがええでぇ♪amazonSF映画の世界************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き195
2017.01.27
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映画監督、オリバー・ストーンさんが「介入主義を捨て、戦争への道避ける」と説いているので、紹介します。あのスノーデン氏が日米安保の機密を語っているあたりが怖いです。(オリバー・ストーンさんへのインタビューを1/24デジタル朝日から転記しました)過激な言動で物議を醸すドナルド・トランプ氏が超大国のトップに就いた。政権批判の映画を世に出し続けてきた米アカデミー賞監督が「トランプ大統領もあながち悪くない」と意外な「評価」をしている。かつてはトランプ氏に手厳しい発言もしていたオリバー・ストーン監督に、真意を聞いた。Q:米大統領選の結果はショックだったと米メディアに語っていましたが、ツイッターで「トランプを良い方向にとらえよう」とも書いていました。A:ヒラリー・クリントン氏が勝っていれば危険だったと感じていました。彼女は本来の意味でのリベラルではないのです。米国による新世界秩序を欲し、そのためには他国の体制を変えるのがよいと信じていると思います。ロシアを敵視し、非常に攻撃的。彼女が大統領になっていたら世界中で戦争や爆撃が増え、軍事費の浪費に陥っていたでしょう。第3次大戦の可能性さえあったと考えます。 米国はこうした政策を変える必要があります。トランプ氏は『アメリカ・ファースト(米国第一主義)』を掲げ、他国の悪をやっつけに行こうなどと言いません。妙なことではありますが、この結果、政策を変えるべきだと考える人たちに近くなっています。Q:トランプ政権下で、米国の介入主義は終わりを迎えると?A:そう願っています。米軍を撤退させて介入主義が弱まり、自国経済を機能させてインフラを改善させるならすばらしいことです。これまで米国は自国経済に対処せず、多くが貧困層です。自国民を大事にしていません。ある面では自由放任主義かと思えば、別の面では規制が過剰です。トランプ氏もそう指摘しており、その点でも彼に賛成です。 トランプ氏はまともではないことも言います。かつてないくらいに雇用を増やすなんて、どうやって成し遂げられるのか私にはわからない。だがものすごい誇張だとしても、そこからよい部分を見いださねばなりません。少なくとも米国には新鮮なスタイルです。 彼は、イラク戦争は膨大な資産の無駄だった、と明確に語っています。正しい意見です。第2次大戦以降すべての戦争がそうです。ベトナム戦争はとてつもない無駄でした。けれども、明らかに大手メディアはトランプ氏を妨害したがっており、これには反対します。トランプ氏がプラスの変化を起こせるように応援しようじゃありませんか。Q:プラスの変化とは?A:例えばロシアや中国、中東、IS(過激派組織「イスラム国」)への新政策です。テロと戦うためロシアと協調したいと発言しており、これは正しい考えです。Q:ロシアが米国にサイバー攻撃したとされる問題について、監督は疑義を呈していますね。A:米国の情報機関について私は極めて懐疑的です。米中央情報局(CIA)は長年、多くの間違いを犯してきました。キューバのピッグス湾事件やベトナム戦争、イラクの大量破壊兵器問題です。米国は世界をコントロールしたがり、他国の主権を認めたがらず、多くの国家を転覆させてきました。そんな情報機関をけなしているトランプ氏に賛成です。だが、そうしたことは社会で広く語られません。米国社会のリーダー層と反対の立場となるからです。Q:リベラル派が多いハリウッドは反トランプ氏が目立ちます。A:そのリベラルと呼ばれてきた人たちが、ものすごい介入主義者と化しています。リベラルと言われるクリントン氏をみればわかります。民主党は中道右派となり、左派を真に代表していません。 ■ ■Q:米政府による個人情報の大量監視を暴露したCIA元職員エドワード・スノーデン氏を描いた新作映画「スノーデン」を撮ったのはなぜでしょうか。A:私は、いつも時代に合わせて映画をつくっています。2013年にスノーデン氏の暴露を知り、衝撃を受けました。米国が監視国家だという疑いが確信になりました。スノーデン氏の弁護士の招きでモスクワに行って以来、彼と9回会って話を聞いたのです。 映画はスノーデン氏の証言に基づいてつくっています。彼が09年に横田基地内で勤務していた頃、日本国民を監視したがった米国が、日本側に協力を断られたものの監視を実行した場面も描きました。スノーデン氏は、日本が米国の利益に背いて同盟国でなくなった場合に備えて、日本のインフラに悪意のあるソフトウェアを仕込んだ、とも述懐しています。これは戦争行為でしょう。あくまで彼が語る話であり、確認をとろうにも米国家安全保障局(NSA)側と話すことは認められませんでした。でも、私は経験上、彼は事実を話していると思っています。米情報機関は映画の内容を否定するでしょう。米大手メディアも取り合いません。でも、そこから離れて考えてほしいと思います。 ■ ■Q:米議会は昨年、スノーデン氏がロシアの情報機関と接触しているとの報告書を出しました。A:まったくのたわ言。動機も見当たりません。彼は米国の情報活動が米国の安全保障に役立つ形で改善されることを願っています。彼はまず、ジャーナリストに情報を提供したし、今も表だって理想主義的な発言を続けています。スパイがやることではないでしょう。 スノーデン氏がモスクワに着いた時、経由するだけでロシアに滞在するためではなかった。空港でロシアの情報機関の職員から『私たちに出せる情報はないか』と言われ、『ノー』と答えたそうです。彼は出国したがっていました。南米諸国からは受け入れの申し出もあったようですが、米政府の手がおよび、安全が確保できそうにありません。結果としてロシアが最も安全だとなったのです。Q:就任後、トランプ氏はCIAの影響で反ロシアに陥るかもしれないと懸念していますね。A:彼がそうなる可能性はあるでしょう。でもトランプ氏はビジネスマン。貿易を好む限り、ビジネスマンは戦争をよしとしません。Q:トランプ政権下でスノーデン氏はどうなるでしょう。A:トランプ氏はスノーデン氏を非難しましたが、大統領に就任後、米国の情報機関がいかに堕落したものかを知れば、違った感情を持つようになるかもしれません。ニクソン元大統領は訪中し、レーガン元大統領はゴルバチョフ旧ソ連書記長と会談しました。トランプ氏も変わり得るでしょう。彼が情報機関の本質を知るにつれ、内部告発者寄りになっていく可能性があります。ウィキリークスに情報を提供したマニング上等兵も減刑となったし、スノーデン氏にもいずれ寛大な措置がなされることを願っています。 ■ ■Q:映画「スノーデン」の制作にあたっては、米国からは出資が一切得られなかったそうですね。A:米国のどの映画スタジオにも断られ、大変でした。彼らの多くは政府と関係があり、政府の何かを踏んでしまうのを恐れて自己規制したのだと思います。制作にはとても困難を伴い、なんとか配給会社は見つかりましたが、小さな会社です。Q:かつて、監督は映画「JFK」などで、米大手スタジオ「ワーナー・ブラザース」とよく連携していました。A:今回、ワーナーにも断られました。米国がテロとの戦いを宣告した01年以降、米国に批判的な映画をつくるのが難しくなり、そうした映画がどんどん減っています。米軍が過剰に支持・称賛されたり、CIAがヒーローに仕立てられたりする映画やテレビシリーズが目立ちます。非常に腹立たしいことです。Q:今回は結局、どうやって資金を集めたのでしょう。A:少額資金を集めながら悪戦苦闘。フランスとドイツからの出資が支えとなりました。欧州議会がEU加盟国にスノーデン氏の保護を求める決議をするなど、欧州は彼に耳を傾けています。2度の大戦を経た欧州は国家による監視を好まず、その危険性も理解しています。英国は例外ですけれど。Q:そうした状況下、今後も映画制作を続けられますか。A:わかりません。今はプーチン・ロシア大統領についてのドキュメンタリー映画を仕上げているのですが、(商業映画としては)『スノーデン』が私の最後の作品になるかもしれません。米国では映画制作への協力を得にくくなっているためです。仮につくるとしても、たぶん国外で制作することになるでしょう。Q:トランプ氏は、彼を批判した俳優メリル・ストリープ氏をツイッターで罵倒しました。今後、米映画業界は萎縮していくのでしょうか。A:そうなるかもしれません。ただ、私はハリウッドの政治とは一線を画しています。時に嫌われることもありますが、これまで同様、私は発言し続けます。(聞き手・藤えりか) *Oliver Stone:1946年生まれ。従軍したベトナム戦争を題材にした「プラトーン」「7月4日に生まれて」でアカデミー監督賞。トランプ政権への期待オリバー・ストーン2017.1.24この記事も 朝日のインタビュー記事スクラップR2に収めておきます。
2017.01.27
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図書館に予約していた桐野夏生著『バラカ』をゲットしたのです。震災のため原発4基がすべて爆発・・・怒りの作家が描く近未来というべきか。待つこと約9ヶ月で、やっとゲットできました。今のところ最長待機記録の本でおます。【バラカ】桐野夏生著、集英社、2016年刊<「BOOK」データベース>より震災のため原発4基がすべて爆発した!警戒区域で発見された一人の少女「バラカ」。ありえたかもしれない日本で、世界で蠢く男と女、その愛と憎悪。想像を遙かに超えるスケールで描かれるノンストップ・ダーク・ロマン!<読む前の大使寸評>震災のため原発4基がすべて爆発・・・怒りの作家が描く近未来というべきか。待つこと約9ヶ月で、やっとゲットできました。今のところ最長待機記録の本でおます。読み始めたが、並行して進行する三つのストーリーが、爺さん決死隊とかブラジルからの移住日系人とか養子願望の未婚女性とか…どれをとってもニッポンの課題のような人々を描いています。果たしてこれらのストーリーはどのように繋がるのか?<図書館予約:(5/01予約、1/22受取)>rakutenバラカこの小説の語り口を、ちょっとだけ見てみましょう。p120~122 <美しい子供> 女たちも、いろいろな国からやって来ていた。東欧系、ロシア系、アフリカ諸国、インド、パキスタン、スリランカ、中国、ベトナム、フィリピン…。下は10代から上は50代、痩せた女から太った女まで、あらゆる男の好みに合わせた女たちが、カモを待っていた。 パウロは、カウンターの端に陣取って、バドワイザーを飲んでいた。この店に毎日通って、すでに3ヶ月近く経った。いつの間にか顔になって、知り合いも増えた。 今やパウロを見ると、娼婦たちが寄って来て、「二人は見付かったか?」と心配して訊ねるほどだ。だが、ロザとミカの行方は、依然わからなかった。「パウロ」 安香水の匂いをぷんぷんさせた男が、パウロの肩に手を置いた。「セルジュ」 パウロは、鷲鼻の男と握手した。セルジュはロシア人だが、わざとフランス風の名を名乗っているところが胡散臭い。 しかも、何の仕事をしているのかよくわからない。おそらく、女衒のようなことをしているのだろうと思われた。だから、情報屋として使っている。 役に立ちそうな情報なら20ドル渡し、その情報が有効ならもっと出す、と言ってある。セルジュは優秀で、すでに300ドル以上パウロからせしめていた。「何かあったか?」 セルジュは首を振った。「相変わらずだ。あれっきりないよ」 ジョンと名乗る運転手が、トルコ出身だと調べて来たのはセルジュだった。 パウロは、ジョンが働いていたパームジュメイラのイギリス人の別荘には、何度も訊きに行った。だが、相手にされず、インターホンにさえ出てもらえなくなった。 何度目かに様子を見に行った時、インド系らしき男たちが芝生の水撒き作業をしていたので、ロザトミカの写真を見せた途端、ガードマンに見付かり、摘み出されてしまった。以後、敷地にも近付けない。 セルジュはどういう手を使ったのか、いとも簡単に、ジョンが「ジャン」という姓のトルコ人だと訊き出してきた。しかも、ジャンからは、無事に国に帰った、という電話が仲間にあったこともわかった。 その仲間に、ロザとミカのことを訊いて貰ったが、「そんな親子は知らない」ときっぱりと言われたらしい。現にジャンは、トルコに妻子がいる。 以来、情報は絶えて、パウロはひたすら、この娼婦の集まる店に来ては、何かが訪れるのを待っているのだった。何かとは、希望という言葉だ、と最近気が付いたところだ。 パウロはセルジュに言った。「俺がトルコに行ってジャンを捜し当てて、締め上げてみようか」「無駄だよ、見付かりっこない」セルジュは痩せた肩を窄める。「こんなことを言って悪いが、奥さんたちはもう売られたよ。ジャンはその金を持ってトンズラしたんだ」 ジャンと、パームジュメイラにいる仲間との連絡は途絶しているらしい。「ロザはいくらくらいで売れたんだろうか」 パウロの独り言が聞えたのか、セルジュは言いにくそうに、曲がった鼻を摘んだ。「レベルによるさ。奥さんはまだ20代だったな」「そうだ」 パウロは、二人の写真をポケットから出してセルジュに見せた。前にも見せたことがあったが、こんな露骨な話はしたことがない。 セルジュは、ロザの写真を凝視した後、言った。「可愛いし若く見えるから、高く売れそうだ。1万ドルは堅い」 パウロは顔を上げて、バーで客待ちをする娼婦たちを眺めた。彼女たちは決して媚びることなく、よい商売相手を探し続けるだけの逞しさがある。 ロザには、こんなことはできないだろう。悪い男に引っかかって、困窮の中で苦しむのが落ちだ。妻が哀れでならなかった。大震災8年後の東京を見てみましょう。p521~525 <父と娘> 東京にはこれまでになかった奇妙な活力が生まれてきていた。 まず、子供や若い女がほとんどいない。大人の男だけの街に特有の荒々しさがある。外国人労働者や移民、非正規雇用者などが大勢住んでいるから、客を求めて商売女たちが集まってくる。まるで、パウロが8年前に出稼ぎに行ったドバイの下町にそっくりだ。危険でパワフルでカウンターな街。それが今の東京の姿だ。もう少し経てば、斬新なアートや音楽を生むかもしれない。 新しい街には新しい住人が住み、新しい宗教が合うはずだ。ヨシザキ牧師は、「失敗のサイクルを断て」と説いてきた。それが己の心に住まう悪魔の呟きを断つ道である、と。 しかし、原発事故後に崩壊した東京という街には、悪魔よりもっと邪悪な災厄の訪れがあったはずである。それは何だ、とパウロは真っ青な夏空を見上げた。人間の心を浄化しても、し足りないのだから。(中略) 大阪でのオリンピック開催が終われば、東京に再遷都しようという案も出ているという。東京という巨大な街は、捨てるには勿体ないのだろう。 もし、再遷都となれば、貧乏人や移民は街から一掃されるから、高級住宅街での暮らしはもうできなくなる。東京はまたつまらない街に戻るのだ。第3章『大震災8年後』は、より過酷な福島原発事故が描かれています。東日本は線量が高いので西日本への民族移動が見られ、富裕層は国外に脱出しているのだが…現実の復興がこの小説を後追いしているような錯覚を覚えるのです。折りしも日系ブラジル人の女性の犯罪が報道されているが、現実がこの小説を後追いしているような証拠なのかも?
2017.01.26
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図書館で『外来種は本当に悪者か?』という本を手にしたのです。外来種もさることながら・・・外来種に直面する人間の反応のほうが面白そうでおます。【外来種は本当に悪者か?】フレッド・ピアース著、草思社、2016年刊<「BOOK」データベース>より著名科学ジャーナリストが敵視されてきた生物の活躍ぶりを評価し、外来種のイメージを根底から覆す、知的興奮にみちた科学ノンフィクション。よそ者、嫌われ者の生き物たちが失われた生態系を元気にしている!?<読む前の大使寸評>外来種もさることながら・・・外来種に直面する人間の反応のほうが面白そうでおます。rakuten外来種は本当に悪者か?イタドリイギリスにおける外来種イタドリを見てみましょう。p126~129 <イタドリにしばられた国> われらイギリス人は、故国の動植物を帝国植民地に持ち込み、反対に各地のめずらしい動植物を故国に持ちかえった。その多くは、つかのまの蜜月が過ぎると邪険にされるようになった―押しが強くてやり手のアメリカ産はことにそうだった。 人間もそうだが、なかには扱いに手こずるやつがいるのだ。現在イギリスにいる外来種は2300種。北アメリカから導入したミンクは養殖場から逃げだして野生化した。カナダのアカオタテガモは、環境保護主義者ピーター・スコットがスリムブリッジにつくった野鳥の楽園から飛びたった。北アメリカから移入されたウチダザリガニは養殖池から外に出て、固有種のザリガニを駆逐した。だが園芸愛好家が多いイギリスでとりわけ目の敵にされているのが、日本の火山の斜面に多く自生していて、観賞用に輸入されたイタドリだ。 前出のクズとともに、イギリスとアメリカで最も迷惑がられている外来種の植物がどちらも日本産ということになるが、その点に関して深追いはやめておこう。 ウェールズ南部のスウォンジーは、イタドリの町と言われることがある。日本人がどう思うか知らないが、イタドリはスウォンジーで我が物顔に生えている。夏になるとハート形であざやかな緑色の葉と白い花が、谷間や教会付属の墓地、海辺の砂丘まで埋めつくす。冬になると茎が枯れて赤みを帯びた根茎がいっせいに露出するので、町全体がうっすら赤く染まるほどだ。 スウォンジー市職員のショーン・ハサウェイは、イタドリ対応を専門とするイギリス、いや世界で唯一の公務員だろう。イタドリがはびこる現状を伝えるために、スウォンジーには世界中から取材にやってくる。鋭い調査報道で知られる全国紙『サンデー・タイムズ』から、女性誌『ハーパーズバザー』、さらには困惑気味の日本人ジャーナリストまで、スウォンジーを記者が訪れるたびに、ハサウェイは「イタドリジャングル」を案内する。そのひとりとしてスウォンジー駅に降りた私を、彼は出迎えてくれた。 「イタドリがスウォンジーに入ってきたのは1918年だと思われます」ハサウェイはそう話しはじめた。「なぜわかるかというと、地元教会の写真を使った当時の絵葉書にイタドリの茂みが写っているからです。でも注目されるようになったのは、イタドリが庭に生えて困ると住民が言いだした1970年代からです」 イタドリが急に暴れだしたのには理由がある。スウォンジーは長いあいだ、銅産業で世界を牽引していた。だが銅産業が衰退していき、産業廃棄物の一大集積地へと変貌していく。有害金属に強いイタドリは、こうした荒廃地にも好んで生える。「どんな土質でも生きていけるのです」とハサウェイが言うように、ほかの植物は生えないような溶岩原でも繁茂するし、群落を形成してほかの植物を追いだしてしまう。その後スウォンジーではヨーロッパ最大規模の都市改造が敢行され、イタドリの根茎の混じった大量の土砂があちこちに運ばれた。これでイタドリの定着と蔓延は決定的になった。 イタドリをヨーロッパに持ちこんだのは、ドイツの医師フォン・シーボルトだった。1820年代、オランダ東インド会社から日本に派遣されたシーボルトは植物学にも通じ、手術代のかわりにめずらしい植物をもらっていくほどだった。集めた植物は本国に送り、オランダ東インド会社がライデンに開設した植物園に植えられた。 こうした植物が1850年代にイギリスのキュー・ガーデンにも入ってきて、園芸業者に広く販売された。日本産の植物はめずらしがられ、人気が高かったのだ。名高い作庭家のウィリアム・ロビンソンも日本産植物を愛好していた。 1種類の花だけで整然と花壇を埋める当時の造園技法に反発したロビンソンは、いろいろな種類の草花を混在させ、より自然に近い状態で見せる「ワイルド・ガーデン」を提唱した。北アメリカ産のアキノキリンソウやエゾギクのほか、ユリやシロガネヨシ、シュウメイギクといった外国産の植物も、ロビンソンの庭を彩っていた。ロビンソンが1883年に出版した代表作『ザ・イングリッシュ・フラワー・ガーデン』は、その後も新たな知見を盛り込みながら版を重ねていくが、そのなかでイタドリを「栽培される草本性植物のなかで最も優れたもののひとつ」と絶賛している。 ロビンソンのワイルド・ガーデンには、名前のとおりワイルドに増える植物もあった。勢いが良すぎると抜かれて処分されるが、その後は簡単に想像がつく。空間と日光さえあれば根づくイタドリなどは、ごみ捨て場、線路、墓地と場所を選ばず生えていった。20世紀に入るころにはロンドンでも見られるようになり、1940年代にはヨークシャー全域に広がった。 『外来種は本当に悪者か?』1『外来種は本当に悪者か?』2
2017.01.26
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図書館で『捨てる女』という本を手にしたのです。断捨離のエッセイかと思いきや、パラパラとめくると著者の収集癖がすご~い♪【捨てる女】内澤旬子、本の雑誌社、2013年刊<「BOOK」データベース>より突然あたしは何もない部屋に住みたくなった。生活道具や家具などから自ら長年蒐集してきたお宝本や書き続けてきたイラストまで大放出する捨て暮らしエッセイ。<読む前の大使寸評>断捨離のエッセイかと思いきや、パラパラとめくると著者の収集癖がすご~い♪rakuten捨てる女内澤さんは配偶者も含めて断捨離したようだが、本の処分について見てみましょう。p162~165 <本が減らない!> 震災後、嬉々として? トイレットペーパーに頼る生活を捨てていたのであるが、そんなものより別居以降、整理整頓仕分けに廃棄しなけりゃならないモノが山積みなのは、明々白々。世の中の離婚する人々の中にはかたづけられない人、モノがたくさんある人もいると思うんだが、みなさん一体どうやって仕事をしながらこの難事業をこなしているのだろうか。 ともあれ震災から5ヵ月後に、離婚が成立した。実はもう少し前に判子をいただいてたんであるが、前にも書いたように、夏休みにタイ行きを決めており、戸籍名とパスポート名が違うと日本に帰国できないことがあると聞き及び、せっかくもらえたのに留守中に火事でもあって燃えたらかなわんと、離婚届をジップロップに入れて冷蔵庫に突っ込み、原稿を書きつつタイの海岸で遊びほうけて帰国してから、離婚届を出した。 その後に降りかかるさまざまな名義変更の面倒なことといったらもう、二度と結婚はしないと心に誓うくらいは、ハードワークであった。ううう。 そして荷物の整理。別居したときから、少しずつは進めていた。まず最初のターゲットは、イラストとデザイン資料本。 イラストレーターやデザイナーという仕事は、以前に書いた通り、受け身仕事。なにがくるのかさーっぱりわからない。江戸ポルノ小説の挿絵をやったと思ったら、関連で中国古典の挿絵がきたり、かと思えば語学教材本の表紙イラストで、その国っぽい文様を作るという仕事もあったな、そういえば。 そのたびに、関連資料をついつい買い込んでしまっていた。で、ちょっといい本は、またいつか同じジャンルの仕事がくるかもしれないし、ってことでとっておく。んで、20年やってみて、二度使いできた資料、ゼロ冊。いやあああ。 海外で買い込んでくるアート、建築系の本もたくさんあった。直接イラスト資料になることもなくはないけど、それよりは二度と出会えないかもしれない資料、と思って買うことが多かった。 タイトルさえわかれば、今やどこの国の本でも入手可能である。しかし英語以外の図録となったらもう、タイトル検索すらできないんだから、一期一会の存在であることは確か。それにしても買いすぎたし、貯めすぎた。(中略) てなわけで、押入れ下段がみっしり埋まるくらいの美術書を、アート系を得意とする古書店、日月堂さんに入ってもらって、業者の市にまとめて出した。これが一番値のつく方法なのだそうだ。 んで。蓋を開けたら泣きたくなるような安値がついてきた。1冊あたり新刊価格の50分の1くらいか。すべてなけなしの本だったのに。 「ここまで安くなっているとは、私も思いませんでした」 と残念そうに言う日月堂の佐藤真砂さん。 「あと5年早ければ、倍はついたと思うんですけど」 うえええ、世の中の人たち、そんなに本が嫌いになってるんか。世界のあらゆる場所の写真も、自宅でPCのスイッチ入れて、グーグルストリートビューのゆがんだ画像でみりゃ、それでいいのか? ひどいよ…。っておまえもその一人じゃん! と独り自分に突っ込みを入れてみる。虚しい。 小説その他の一般書は、もっと以前に別の古書店に来ていただいて、同じ分量くらいは処分している。こちらなんかもう、いくらついたのかも、覚えていないよ。はははははーだ。 それでもまだまだ本は減らない。ホワイ?なんで? 自慢じゃないけど体重や脂肪ならば、サクサク減らす自信があるんだけど。『捨てる女』1『捨てる女』2
2017.01.25
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図書館で『捨てる女』という本を手にしたのです。断捨離のエッセイかと思いきや、パラパラとめくると著者の収集癖がすご~い♪【捨てる女】内澤旬子、本の雑誌社、2013年刊<「BOOK」データベース>より突然あたしは何もない部屋に住みたくなった。生活道具や家具などから自ら長年蒐集してきたお宝本や書き続けてきたイラストまで大放出する捨て暮らしエッセイ。<読む前の大使寸評>断捨離のエッセイかと思いきや、パラパラとめくると著者の収集癖がすご~い♪rakuten捨てる女メインテーマともいえる「断捨離」の極意とやらを見てみましょう。p121~124 <募集の血統> 捨てても捨ててもとんでもない量の物も服も書物も、襲いかかるようにやってくるということ自体が、なんだか改めてすごいなと。ほんの50年前まで、一度手に入れたものをまた必用なときに買えばいいからという理由で手放すなんて、ありえないことでしたよね。ねえmottainaiのマータイさん。 しかし部屋を整理するにはせっかく買ったモノ、読んだ本への執着を断たねばならない。執着を断てばいいことがあると断じる「断捨離」が、だからこそブームとなっているんだろう。 それにしても捨てることで理想の自分に近づくなんてことが本当にあるんだろうか。捨てたい病にとりつかれたあたしは、「断捨離」本を読みかけたんだが、途中で放り出してしまった。もちろん参考になる部分もあったのだが、なんていうんでしょうか、捨てることで得られる精神境地がワンランク上の状態かの如く書かれているのには、どうにも賛同できなかったのである。 今の自分の、捨てまくりたくてたまらん心境の先にあるものが、幸福(当社比)だとは、まるで思えない。さっぱりはするだろうけど、そのさっぱりってそんなに偉いものか?? それに本当に捨てるだけで、魂のステージがあがるか?? 人間、死ぬときまで寄り添えるモノなんて、たいしてありゃあしないんだってこと、それはあたしだってわかってるんですよ。 先日死んだオジの棺桶に入ったのは、アメリカのウェスタン音楽雑誌1冊と、珈琲豆と、ペ-パーフィルターだけだったのだった。 一時期は万を超えるLPレコードのコレクションを持っていた人だった。音楽関係の仕事がうまくいかずに、音楽機材などとともに一切合財を二束三文で手放したのが、20年くらい前のことだったか。 彼の場合、レコードと機材一切合財を捨てることで、音楽への執着を断ち離すことはできなかった。生きている限り音楽を聞かずにはいられない。いやそんな甘いものではなく、音楽を仕事にすることを考え続けずにいられない。オジはそういう人だったらしい。筋金入りの、くるっくるの人。こういう人は周囲に迷惑を掛けがちである。ええ、かなり遠慮がちに書いてます。全然ガチでは書けない話がトグロを巻いております。 結局引っ越し先の借家で、懲りずにあれこれと再び音楽機材を買いそろえていたとか、同居していた祖母があの子はこれがないと生きていけけないんだからと、嫁と子どもたちをだまらせたとかなんとか、葬儀のあとの席で聞かされた。さもありなんと頷こうとしたら、横であたしの母親が、さっきまですすり泣いてたくせに、弟のくるっくる加減に逆毛をたてて噴火寸前になってしまいました。(中略) 本の仕事をするフリーランスになっただけでなく、本という存在に入れ込みすぎて、くるっくるになって、自分が作りたかった本にまつわる資料を膨大に溜め込んでしまった。周りを困らせ続けたオジを嫌っていたはずなのに、反面教師にはまるでならなかったのである。むしろ近づいている気がする不思議。はあああ。故人には申し訳ないけれど、うんざりです。 あたしゃ結局オジが好きなんだか嫌いなんだか。それほど交流もなかったけどさ…。つらつら考えながら葬儀から帰宅したら、右肩がどしっと重い。いや、読経を聞いているときから、なんかスーツが窮屈だなと思ってたんだが、首まで回らなくなってきた…(汗)。ちなみにこういう経験は人生ではじめて。やああああべええええっ。これこそ断捨離せねば!!『捨てる女』1
2017.01.25
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図書館で『食料の帝国』という本を手にしたのです。現代のアメリカと中国を食糧という視点で見るとどうなるのか?大使の興味は、いつもこのG2になるのです。【食料の帝国】エヴァン・D.G.フレイザー, アンドリュー・リマス著、太田出版、2013年刊<「BOOK」データベース>より食物が世界文明を築きそして崩壊させた。メソポタミアからエジプト、古代ギリシャ・ローマ、中世ヨーロッパ、現代のアメリカ、中国まで、食糧の視点から描く1万年史。<読む前の大使寸評>現代のアメリカと中国を食糧という視点で見るとどうなるのか?大使の興味は、いつもこのG2になるのです。rakuten食料の帝国アメリカ型農法の特殊性を見てみましょう。p171~173 <トマトの勝利> 人類の農業の歴史のなかで、カリフォルニアのトマトほど利益を出した果実はないだろう。トマトは大量の公的資金の恩恵にあずかり、20世紀のフルーツビジネスを先導する地位にカルフォルニアを押し上げる一助となった。トマトもまた、食糧が絶え間ない政治の駆け引きによって維持されていることを示す顕著な例のひとつにすぎない。 トマトがそんな存在になるまでには紆余曲折があった。1900年代半ばには、カルフォルニアのトマトは手摘みで収穫されていた。たいていはメキシコからの低賃金の出稼ぎ労働者がおこなっており、1962年には、4000ヵ所の農場に5万人の労働者が働いていた。その頃、カルフォルニア大学からトマト収穫機とともに、収穫機の金属パーツでつかんでも痛まない新製品を発表したが、関心を示す者はいなかった。収穫機1台に2万5000ドルを投資する価値が見出せなかったのである。収穫機の発表から3年後も依然としてカルフォルニアのトマトの96.2パーセントは手摘みで収穫されていたが、アメリカ連邦政府は1960年代初めに出稼ぎ労働者の取り締まりを決定していた。 アメリカのトマト生産者は、度重なる罰金とメキシコの生産者に市場シェアを奪われることを恐れて動揺した。多くの生産者が農場を捨て、残った生産者は合併し、機械の導入を進める。1973年にはトマト農家の数は600軒未満に減り、農場労働者の数もわずか1万8000人に減少した。カルフォルニアではほぼすべてのトマトが機械で収穫されるようになる。19世紀後半には、農業と工業に関する研究をおこなう目的で、政府から土地をキョウヨされた大学が設立され、近代化を後押ししたが、ちょうどそれと同じように政治がトマト生産の近代化の追い風になった。 政府が推し進める分野には、民間の資金も流れ込むのが通常で、逆に民間が押し進める分野にも政府の資金がついてくる。トマト生産者の統合が進んだ頃、連邦政府は、サン・ホワキン・ヴァレーの西側に州間高速道路5号線を建設することを決定する。フレズノ郡のこの区域がアメリカのトマト生産の中心地となることと、灌漑や食品加工、輸送をおこなう民間企業がこの状況から利益を得ようと殺到したことは、決して偶然ではない。 アメリカ人の食生活はカルフォルニア流に適応していく。1950年から1975年のあいだに、冷凍食品の消費量は3倍以上の伸びを見せ、事実上、消費者と地元の生産者の市場が切り離されていく。瓶詰めのパスタソースや冷凍豆、缶入りスープの時代の到来である。世界じゅうの人々が、付加価値のある製品として販売される加工食品を食べるようになった。温暖な気候と肥沃な土壌という恵まれた地理的条件が、業界団体、政策、テクノロジーというきわめて現代的な要素とあいまって、カルフォルニアを20世紀の野菜生産のメッカへと成長させた。 州内のいたるところで作物の上からは農薬が散布され、地中には化学肥料が施された。科学の力を借りて効率を極限まで高めた農業がおこなわれ、水質汚染が進んでいるという事実を誰もが無視していた。小麦農場から果実や野菜などの園芸作物が豊かに実る土地へとカルフォルニアを変貌させた灌漑も、地下水のある帯水層を劣化させていた。 当初は作物の水やりには河川の水が使われていたが、1920年代に入ると地中深くの地下水を利用するようになり、その量は雨では補いきれない量にのぼった。1980年代の推定(状況は過去30年間改善されていない)によると、カルフォルニアの地下水面は年間平均で15センチから1メートル低下していた。近年では、ポンプで地下水が大量に汲み上げられているせいで、実際に地面が陥没してしまった場所もある。 サン・ホワキン・ヴァレーでは、ポンプによる汲み上げが始まってから、1万3470平方キロにわたり30センチから9メートルの地盤の沈下が見られる。農作物には当然水が必要だが、帯水層から地下水が流出している状況は、持続可能性の点から見て理想的とはとても言えない。カリフォルニアは今後、農業のやり方を変更せざるをえなくなるだろう。アメリカ人の食生活はカルフォルニア流に適応していったそうだが・・・・伝統食とか食育という意識が乏しいかの地の民に、大企業が誘導する食生活が定着したようです。清教徒の入植者のやることといったら、神がかっているというか、アホというか・・・利益にこだわるモンサントやトランプさんみたいですね。『食料の帝国』1
2017.01.24
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図書館で『食料の帝国』という本を手にしたのです。現代のアメリカと中国を食糧という視点で見るとどうなるのか?大使の興味は、いつもこのG2になるのです。【食料の帝国】エヴァン・D.G.フレイザー, アンドリュー・リマス著、太田出版、2013年刊<「BOOK」データベース>より食物が世界文明を築きそして崩壊させた。メソポタミアからエジプト、古代ギリシャ・ローマ、中世ヨーロッパ、現代のアメリカ、中国まで、食糧の視点から描く1万年史。<読む前の大使寸評>現代のアメリカと中国を食糧という視点で見るとどうなるのか?大使の興味は、いつもこのG2になるのです。rakuten食料の帝国単一栽培作物の長所、短所を見てみましょう。p237~239 <未来の食糧帝国> 20世紀半ば、科学者は成育が早く、密集して植えることができ、なおかつ食用以外の部分(レタスの根など)に栄養分を取られない作物を生み出そうと品種改良を始める。その取組みを牽引した遺伝子学者のひとりが、アイオワのコーン・ベルトと呼ばれるトウモロコシ栽培地帯出身のノーマン・E・ボーローグである。 ボーローグは1940年代、の援助のもと、メキシコに研究所を設け、すぐれた小麦とトウモロコシの新品種開発に取り組む。彼は小麦の茎の構造的な欠陥を修正したいと考えた。最も豊かに実を付ける小麦品種は、茎が実の重みに耐えかねて、実が熟す前に倒れてしまう。肥料を与えると、栄養が行きすぎて成長しすぎてしまい、さらに早く倒れてしまうため、収量の増加に結びつかなかった。これを解決するため、ボーローグのグループは草丈の低い半矮性品種を開発した。茎が短くて太く、丸々とした実の重みにも耐えられる品種である。 半矮性の小麦品種は、人口肥料の力を借りて、最高4500キロほどだった1ヘクタールあたりの収量を9000キロにまで増加させることができた。ボーローグは世界の食糧供給に貢献したとして1970年にノーベル平和賞を贈られ、半矮性の小麦と稲はメキシコからマレーシアまでの貧しい農村地帯に広く植えられた。 農地の生産性を倍増させることで、飢餓という世界的な問題は解決されたかに見えた。世界は栽培作物を特化させ、ボーローグの開発した種子だけを植えた。最初の実験から50年後、ボーローグの品種は数えきれないほどの伝統的な植物を農地から追いやり、かつては多様な生物が生息していた場所を広大な単一栽培の農地に変更させてしまった。 このように、ある種のなかで遺伝子の多様性が失われる現象を「遺伝的浸食」という。中国では今や、大海原のように広がる単一栽培の畑のなかに在来種の稲の田んぼが小島のようにぽつりぽつりと点在する風景が広がり、ギリシャでは1930年から1960年のあいだにほぼすべての小麦在来種が姿を消してしまった。現在、人間や動物が食べている穀物はほぼすべて、ボーローグとそのグループが緻密に実地試験を繰り返した成果なのである。 遺伝的浸食はボーローグの種子が引き起こした唯一の問題ではない。より差し迫った問題は、ボーローグの種子が糞などの自然の肥料だけでは栄養が足りず、生き延びられないことにある。そのため、高収量の作物を育てている農地には大量の人口肥料が使用される。日本では1950年代にはボーローグが開発した稲品種が導入されており、1950年から1974年のあいだに肥料にかかるエネルギーコストが400パーセントも上昇している。 農業用機械に消費されたエネルギーは12倍に跳ね上がった。米の収穫量は50パーセント増加し、消費エネルギーに見合った成果が上がったかにも見えたが、別の見方をするとそうとも言えない。稲田から得られるエネルギーをそれを生産するのに消費されたエネルギーで割った比率を見ると、1950年には消費カロリーあたり生産されたカロリーは1.27だったが、1974年には0.38まで落ち込んでいる。 それ以降には、多くの野菜を温室で栽培うるようになっており、エネルギー比の計算では温室野菜が最悪の数値になるかもしれない。北方の国々のほとんどは同じく野菜の温室栽培をしてきた。たとえば、アメリカ、メイン州のトマトは、12月でもいつもボストンのスーパーマーケットに並んでいる。 ボーローグの品種は、農家と害虫のいたちごっこも引き起こした。不自然に収穫量が増え始めると、害虫も敏感にそれを察知する。農家は化学農薬で対抗した。1950年代、新種の作物がツマグロヨコバイの注意を惹きつけると、アジアの農家は殺虫剤を散布してツマグロヨコバイを退治した。しかし害虫を捕食し、その数を抑制していた益虫のクモまでも殺してしまう。ツマグロヨコバイは回復するが、クモの個体数は元に戻らず、その後の害虫の被害が悪化する。さらに悪いことに、殺虫剤の過剰使用のせいで害虫に殺虫成分への耐性ができてしまう。1970年代初めになる頃、日本では有効な殺虫剤がなくなってしまったこともあった。それ以来、科学者はツマグロヨコバイの遺伝子との競争を続けている。 じつは単一栽培植物を植えなければ、強力な殺虫剤は必用がない。殺虫剤の使用を制限し、多様な作物を栽培すれば、農場は害虫を捕食する益虫や益鳥から最大の恩恵を受けられるだろう。しかし現実には、さらに強力ですぐれた品種を開発することで、ボーローグの構築したシステムの改良を目指すのが最も一般的な戦略となっている。
2017.01.24
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図書館で『極限の民族』という本を手にしたのです。著者の芳名は知っているが、その著書を読むのは初めてかな。極限の3ヶ所がルポルタージュされているが、大使の個人的な関心はサバクに向かうわけです。【極限の民族】本多勝一編、朝日新聞社、1967年刊<カスタマーレビュー>より昔々、朝日新聞に連載されていた新聞記事を切り取って今でも持っている。当時(中学生)、こんな経験が出来る新聞記者っていう職業を面白そうだと思ったけれど、エスキモーの生活でカリブーの内臓を食べる話を読んで早々にギブアップした。エスキモーからニューギニアそしてアラビアと今から考えたらかなりの短期間に3ヶ所に実際に住み込んでのルポルタージュである。全て本当に面白い。いたずらに学術っぽくなく内容が深い。<読む前の大使寸評>著者の芳名は知っているが、その著書を読むのは初めてかな。極限の3ヶ所がルポルタージュされているが、大使の個人的な関心はサバクに向かうわけです。rakuten極限の民族本多さんの取材スタンスを「あとがき」に見てみましょう。p424~426 <あとがき> 高校などで、私たちがモンゴルやサラセンの大帝国が成立する歴史を学んだとき、そこにどれだけ具体的なイメージを浮かべることができただろうか。中国やペルシャのような、高い文化と、それ相応に強い(と思われた)軍隊を持った大国が、わけのわからぬ辺境の遊牧民族に忽ち攻めおとされてゆく話をきくと、なんとなく結果を承認するしかなかった。 遊牧民族は、私たち日本人とは縁がなさすぎて、ロマンチックな誤解の上に美化された歴史小説でしかなかった。ただ一度の接触たる元寇も、漢蒙混成軍と高麗軍など、非遊牧民出身の兵隊の割合が多い大軍と、鎌倉時代の勇敢な武士たちとの血戦であって、本来の遊牧民の何たるかは想像の余地もなかった。 もっとも、牧畜民に関する日本人の研究は、ベドウィンについてこそ絶無だったが、モンゴルについては戦時中にかなり突っ込んだ仕事がなされており、また最近もたとえば東アフリカで、ネグロイドの牧畜民について京大隊によるインテンシブな住みこみ調査が続けられている。 すでに3年間余りをここのマンガティ族などと生活を共にした富川盛道氏は、やはりネグロイドの間でも、狩猟民や農耕民に比べて遊牧民との接触が最も苦労させられると言っている。いわく「孤高、獰猛、猜疑心・・・」。遊牧民のパーソナリティーは、北のモンゴロイドからアラブのコーカソイドを経て南のネグロイドに到るまで、人種を超えて共通なものがあるのだろうか。これはまた、地球の大乾燥地帯としての風土のベルトでもある。 いうまでもなく、このルポは文化人類学の研究に目的があるわけではないが、アプローチの方法には人類学に負うところが大きかった。また新聞ルポの性質を考えて、食物や住居などの生活環境を、可能な限り現地の人々と密着させることに重点を置いた。必用な滞在期間は、第一部よりも第二部、さらに第三部になるほど長くあるべきだったのに、実際には本文に述べたような事情で全く逆になったのは痛恨事である。 その意味ではあとの方ほど、再訪の希望は強い。私自身の気持ちとしては、彼らの外面的生活様式よりも、内面的な心の世界にいっそう興味をもっていた。しかし、ひとつには取材期間の短さ、ふたつには従って言葉の習得の未熟さのため、思うように深いところまで突っ込んだ仕事は望むべくもなかった。ただ、さきに「新聞と本の違い」についてのところでも述べたように、かなり思い切って書いた面もある。 きれいごとですましたら、狩猟民族なり原始農耕民族なりの本当の姿、ひいては人間の本当の姿が骨抜きにされてしまうからである。主観的意見も強く出した。なかには、その道の専門家がふきだすようなこともあると思う。ともかく「謙譲の美徳」には甚だしく欠けた本だから、反発を覚える読者も多いに違いない。でも、「歴史とは、歴史的意味という点から見た選択の過程」(E・H・カー)だから、この線が極端になったものと考えていただきたい。 また、エスキモーやモニ族、ダニ族に対して、かれらの立場にたちすぎたととられる記述もあるかもしれないが、それは、かれらを原始人と頭からきめてかかる考え方への反発、すなわち偏見を事実に近づけたいためであって、ルソーが理想としたような未開人社会の礼賛ではもちろんなく、いわゆる善意や人道主義とも関係はない。 ベドウィンについても、このルポによって多少とも、遊牧民に関する神話と現実の差を感じていただけるなら、学者の仕事とはまた別に、ジャーナリストとしての狙いの一端は果たされたことになろう。誤謬の指摘や、疑問、反論は、いつでも歓迎したい。ウン ジャーナリストとしての狙いが感じられるでぇ♪主観的意見も強く出したとのことであるが、いい味がでています。何も論文を書くわけではないので。『極限の民族』1
2017.01.23
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図書館で『問題があります』という本を手にしたのです。SNSにさらされて、ますます早く軽く意地悪になっていく世相であるが・・・佐野さんのエッセイを読んで、精神のバランスをとることも肝要ではないか?♪【問題があります】佐野洋子著、筑摩書房、2009年刊<「BOOK」データベース>より中国で迎えた終戦の記憶から極貧の美大生時代まで、夫婦の恐るべき実像から楽しい本の話、嘘みたいな「或る女」の肖像まで。愛と笑いがたっぷりつまった極上のエッセー集。<読む前の大使寸評>SNSにさらされて、ますます早く軽く意地悪になっていく世相であるが・・・佐野さんのエッセイを読んで、精神のバランスをとることも肝要ではないか?♪(この本を借りたのは2度目であることがわかったので、その4としました)rakuten問題があります佐野さんの『シズコさん』という本はまだ読んでいないのだが、この本で佐野さんの父母を見てみましょう。p34~37 <母のこと、父のこと> 一昨年の夏、93歳で母が死んだ。 死ぬまでの十年以上、痴呆だった。 正気の母親と私は、実に折り合いが悪く、母を好きだったことはなかった。 死んだ人は皆いい人である。 呆けるという事は、生と死をつなぐ橋のようなものだと私は考える様になり、母は別の人格の人になった。それを人格と言うかどうかわからないが、母は正気を失ってから、一生分の不仲と和解できた。 4歳の時、手を邪険にふりはらわれてから、私は生理的な嫌悪感を持ってしまった。中でも匂いが一番不快だった。 呆けた母の足をさわった時、さわれた自分に驚いた。母を嫌悪していた何十年もそれは自責となり、汚い川が胃袋の奥をずっと流れ続けていた。ナマのものにさわるという事がすごい事だとすれば、ふだん何でも無意識にさわっている事も本当はすごい事なのかも知れない。 『シズコさん』という本を書き終わったら、どっと疲れた。心底疲れた。 そして、私は幸せになった。 黒い川は消えた。母が死んだからか、私も老いたからか、自分の人生の帳尻を自分に都合よく合わせたからなのか、わからない。 読み直したら、同じ事が何回も出て来た。でも訂正する根性がなかった。そしてにわかに、父の事ばかり思い出すようになった。 もしあの世というものがあったら、佐野利一とシズコさんはいったい何歳で相まみえたのか、聞いてみたい。もうすぐあの世で、我々家族は一族が全てもう一度同じメンバーで、再構成されるはずで、この世には誰もいなくなる。細々とつながる子孫は、父や母には見知らぬ人達である。 父が生まれたところは、前も後も、山がせまりその間に富士川が流れるところだった。80世帯位が山にへばりついている村落で、従妹は、武田信玄の落ち武者が住みついたところだと教えてくれた。「すごいじゃん」と私が言うと、従妹は「落ち武者といっても侍のぞうり取りのそのまた家来なのよ、誰でもないんだよ」。私はぞうり取りに家来が居たという事に感心したが、多分本当の事はわからない。 父はその百姓の家の11人兄弟の7男だと思っていたし、書類なんかにもそう書いていた。この間ただ一人生きている叔父が、「おみゃあのおやじは7男じゃねえぞ、9男だったはずだ」、二人や三人は間引きでもしたのだろうか。 私達は引き揚げてしばらくその田舎に住んだが、私は子どもだったから、明日や未来の事なんかなんにも考えなかった。 小学校は身延線の駅を二つ行ったところだった。単線で線路の両側も山がせまっていて、山百合が両側にどっさり咲いていた。(中略) よたよたのばあさんが、石垣にへばりついて、一日中立っていたりする。そこへ私と同じ年の8歳のいとこのあっちゃんが通りかかると、あっちゃんは「ひゃあ、ばあちゃん、死ぬの忘れただか」と呼びかけたりする。 戦後しばらくは、母は姑にいじめられたと、泪をふきながら友達に話していたが、今思うと、姑の方がずっと母をうさんくさく思っていただろう。 母の姑は、畑で一日中泥にまみれて働き、一時も休んでいる事がなかった。お茶の時間に縁側に伯母がお茶を用意して待っているとわざとの様に前後にこえおけをかついで、何度も行ったり来たりする。意地も結構悪かったのだろう。 縁側に座っている母は、ばっちり化粧している。そこにはほんの3,4ヶ月しか居なかったが、姑にいじめられたと、何十年も根にもっていた。母は父の田舎に行くのを、本当に嫌がった。 母は父を尊敬していたと思うが、母にとって、父は、底に狂気を持っている様な非凡と言える人だったかも知れない。 平凡などこにでもいる様な母の一生はしかし、日本の運命と共にもみくちゃにされながら、実によく生きたと思う。 日本中のどこにでもいる女が、同じようによく生きたと思う。 いざという時に、その働きをよくするのは平凡な小母さんとやくざだと私は考えている。(しかし今の小母さんは変になって来ている。やくざも株式会社になってしまったので、あまり確信は持てない) 父と母はよい夫婦だったと思う。そして、よく父と母の役割を果たしたと思う。『問題があります』3
2017.01.23
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今回借りた5冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「歴史」でしょうか♪<市立図書館>・食料の帝国・呆韓論・「戦後」の墓碑銘・問題があります・バラカ<大学図書館>(今回はパス)図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【食料の帝国】エヴァン・D.G.フレイザー, アンドリュー・リマス著、太田出版、2013年刊<「BOOK」データベース>より食物が世界文明を築きそして崩壊させた。メソポタミアからエジプト、古代ギリシャ・ローマ、中世ヨーロッパ、現代のアメリカ、中国まで、食糧の視点から描く1万年史。<読む前の大使寸評>現代のアメリカと中国を食糧という視点で見るとどうなるのか?大使の興味は、いつもこのG2になるのです。rakuten食料の帝国************************************************************【呆韓論】室谷克実著、産經新聞出版、2013年刊<「BOOK」データベース>より“普通の国”だと思ったら大間違い!これでもまだあの国につき合いますか?すべての問題の根源と責任はかの国の病にある!ベストセラー『悪韓論』の著者最新作。【目次】妄想と非常識に巻き込まれた日本/「自由と民主主義」の価値を同じくしない国/恥を知らない国際非常識国家/反日ならすぐにバレる嘘でも吐く/世界から軽蔑される哀れな反日病/歪みだらけのオンリー・イン・コリア/呆れかえるウリジナルの暴走/本当に恐ろしい人間差別大国/「売春輸出大国」の鉄面皮/わかりあえない不衛生・不法・不道徳/反撃の種「対馬」の仕込み方/官邸、皇居の耳目役への警鐘<読む前の大使寸評>いわゆる嫌韓本であるが、つい手が出てしまいます。昨今の混迷を深める韓国の病理とは何か?rakuten呆韓論************************************************************【「戦後」の墓碑銘】白井聡著、金曜日、2015年刊<出版社コメント>より「戦後」の断末魔=安倍政権を歴史の屑籠に叩き込め! 「永続敗戦レジーム」という構造を歴史的、社会的、精神的に暴露し、生起しつつある新たな民主主義革命のヴィジョンを示す必読のテキスト。<読む前の大使寸評>新著『属国民主主義論』を図書館に予約しているのだが、なかなか順番がまわってこないので、この本を先に読もうと思ったのです。<図書館予約:(1/15予約、1/21受取)>rakuten「戦後」の墓碑銘************************************************************【問題があります】佐野洋子著、筑摩書房、2009年刊<「BOOK」データベース>より中国で迎えた終戦の記憶から極貧の美大生時代まで、夫婦の恐るべき実像から楽しい本の話、嘘みたいな「或る女」の肖像まで。愛と笑いがたっぷりつまった極上のエッセー集。<読む前の大使寸評>SNSにさらされて、ますます早く軽く意地悪になっていく世相であるが・・・佐野さんのエッセイを読んで、精神のバランスをとることも肝要ではないか?♪rakuten問題があります************************************************************【バラカ】桐野夏生著、集英社、2016年刊<「BOOK」データベース>より震災のため原発4基がすべて爆発した!警戒区域で発見された一人の少女「バラカ」。ありえたかもしれない日本で、世界で蠢く男と女、その愛と憎悪。想像を遙かに超えるスケールで描かれるノンストップ・ダーク・ロマン!<読む前の大使寸評>震災のため原発4基がすべて爆発・・・怒りの作家が描く近未来というべきか。待つこと約9ヶ月で、やっとゲットできました。今のところ最長待機記録の本でおます。<図書館予約:(5/01予約、1/22受取)>rakutenバラカ************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き194
2017.01.22
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図書館で『極限の民族』という本を手にしたのです。著者の芳名は知っているが、その著書を読むのは初めてかな。極限の3ヶ所がルポルタージュされているが、大使の個人的な関心はサバクに向かうわけです。【極限の民族】本多勝一編、朝日新聞社、1967年刊<カスタマーレビュー>より昔々、朝日新聞に連載されていた新聞記事を切り取って今でも持っている。当時(中学生)、こんな経験が出来る新聞記者っていう職業を面白そうだと思ったけれど、エスキモーの生活でカリブーの内臓を食べる話を読んで早々にギブアップした。エスキモーからニューギニアそしてアラビアと今から考えたらかなりの短期間に3ヶ所に実際に住み込んでのルポルタージュである。全て本当に面白い。いたずらに学術っぽくなく内容が深い。<読む前の大使寸評>著者の芳名は知っているが、その著書を読むのは初めてかな。極限の3ヶ所がルポルタージュされているが、大使の個人的な関心はサバクに向かうわけです。rakuten極限の民族サバクの景色とベドウィンの歓待を見てみましょう。p328~331 <遊牧民を求めて> サバクはアラビア語でバーディア(アラビア地方)、またはサハラ(北アラビア地方)と呼ばれる。砂漠と書くと、砂を連想するが、サバクは砂とは限らない。昔は沙漠と書いた。デザート(英)やデゼール(仏)などにも砂の意味は含まれていない。土でも岩でも、山でも谷でも、植物がほとんどなくて地ハダの露出している自然をサバクと呼ぶ。アラビア半島の大部分は平坦なサバクだが、ヘジャズ地方には山岳地帯のサバクもある。 日没に近づいたので、平均時速60キロぐらいで1時間以上走り続けた。道のないサバクとしては相当のスピードだ。その間、限りなく広がる地平線のいかなる部分にも、人間や樹木や家畜に類するものは一切見えない。これで果たしてベドウィンにぶつかるのだろうか。こんな中に彼らのテントがぽつりとあるだけでは、車のコースがちょっとよろめいただけでも見おとすのではなかろうか。これでも、なにか目印になる地形のようなものが、あり得るのだろうか。悠然としているガイドが、にわかに心強く感じられ始めた。 私たちは最初、サバクの旅にガイドが必要なことは知っていたが、ガイドの質については真剣に考えていなかった。できれば車の運転手にガイドを兼ねさせたかったし、ガイドとしての内容のことよりも、たとえば多少なりと英語を話す便利さなどの方を重視していた。 だから政府当局がガイドを勝手に選んでつけてくれた時、有難さとめいわくとを半々ぐらいに感じた程度であった。本当は自分たちで選びたいと思っていた。 だが、まさに沈まんとする太陽が、澄みきった大気のため真昼の太陽に劣らず強く輝き、自分たちの影が生まれて初めてと思うぐらい長く伸びてゆき、ついに無限大となって東の地平線に消えるのを見ると、私たちはサバクに対する認識がまだ甘かったと思った。 アラビアのサバクは、あまりにも平坦で、あまりに広く、人間があまりにも少ない。居所の不安定な遊牧民を自由に捜し歩くには、確実な情報と、微細な地形的判断を欠かせず、従って現地出身のガイドがぜひ必要になる。 この年の6月。エジプトのサバクでドライブに出た5人のドイツ人が、ルートを間違って人間にも出会えず、全員ドライ・アップ(乾燥死)した。私たちも、遊牧民に会う問題だけならともかく、ドライ・アップしては困る。 ウエメンという名の、45歳になる私たちのガイドは、4年前にベドウィンから足を洗った。公務員としての彼の本職は王族の従者、一種の護衛である。ベドウィン時代、彼はダワシル族だった。ネジド地方の中では南の方に広がる部族だ。腕力・体力ともにすぐれて名高い。巨人王イブン・サウドの母親は、このダワシル族の首長の娘であった。またアラビア半島東岸ぞいの部族からは、恐るべき暴れ者として敬遠されていた。 かれらが、ペルシャ湾を通る船を海賊行為によって略奪してくると、こんどはダワシル族がかれらの略奪品を略奪するために、内陸から襲撃してきたと伝えられている。このダワシル族の勢力範囲の限りでは、ウエメン氏は当然カオが広く、地理もくわしいから、信頼すべき大ガイドということができよう。 日没後のお祈り、つまりイスラム教徒の1日5回のうち4回目に行う祈りの時間のころ、行く手のくぼ地に突然テント村が見えた。ラクダやヒツジの大群もいる。なるほどウエメンは大ガイドだ。 <お茶攻め> テント村は、クブシャートと呼ばれる水場である。水場といっても、井戸が掘ってあるだけで私たちがサバクから連想するロマンチックな泉のオアシスではない。代表的なオアシスは、地下水が泉となってわき出ているもので、大きな池になっているところもある。しかし、たとえばナイル川下部流域も、サバクの中のオアシスといえるし、井戸を掘って水を得ている所も、広い意味ではオアシスである。 残念ながら、ロマンチックな池ができるほど水が豊富なところは、アラビア半島では例外中の例外だ。そんな所はたいてい古くから大きな町が発達してきた。遊牧民たちは、サバクに井戸をほじくって、たいへん散文的な水場を頼りに生きている。 私たちは、テント村からやや離れたところに車をとめて、野宿の用意をした。雨は決して降らないし、乾燥しているし、深夜の気温はむしろ快適だから、用意といっても地上に敷物を広げるだけだ。ガイドのウエメンは、サソリが心配なら車の荷台に寝たらいいといったが、地面の方が涼しいので、だれも車には敷物を広げなかった。(中略) 月の光がサバクに満ちると、自然の視覚的背景だけは『月のサバク』の童謡と大差がないように思われたが、お姫さまに類するものは絶対に現れる可能性はなく、私たちが招かれたテントにはむくつけき男ばかり車座になって待っていた。 じゅうたんが敷かれた片すみにすわると、再びまずコーヒーだ。ワンコース終わったら、またお茶。次はまたまたコーヒー。頭のシンが変になったような気もする。さらにお茶。実に、さらにさらにコーヒー。 子羊を一頭殺して出された夕食までに、私たちは合計9コースのお茶とコーヒーを飲み続けたことになる。遊牧民は、うわさよりも何倍も親切だと、そのとき私たちは思いこんだ。大使にとってサバクの思い出は、ナツメヤシ(デーツ)とラクダになります。p360~362 <水と意思> ファへド一家と私たちは、太陽がまだ低いうちにナツメヤシとお茶の朝食をとった。ナツメヤシの実は、味といい色といい、日本の干柿に似ている。私たちには少し甘すぎるが、これはサバクの民にとって古来きわめて重要な食糧だ。ギャゼルやオリックスなど、カモシカの類も昔は豊富で、ファヘドが言ったようにときどき収穫があったものだが、今ではサバクに自動車が普及してきて、カモシカのスピードでは逃げきれず、絶滅しかかっている。昔といっても、第一次大戦のころは、古くから開けていたヘジャズ地方さえ、ローレンスのゲリラ隊がこれらの動物をよく狩って食糧にしていたものだ。 ラクダの群れはムハンマド(50)とファラー(12)に追われて、サダーニのワジでの放牧を続けた。ファヘドの一家は、夏でも草が少なければテントを移動して放浪するが、ことしは草が多いので、コノサダーニとアブヒダードに二つテントを張って、しばらく定着しているのである。ラクダたちは草を食べながらも、かなりの早さで歩いていく。 草の乏しいサバクでは、広大な面積を歩きまわらないと、腹いっぱい食うことが出来ないことは事実だ。しかしかれらは、途中の草を一本残らず食いつくしながら移動しているのではない。あっちこっちと間引き食いしながら進むから、なおさら早く、かつ広く歩きまわることになる。従って、一群が通過したあとに、他の一群がまた遊牧にやってくることは、ごく普通の現象だ。 貧弱な草を、一本ずつ拾うようにして口に入れ、巨体を養うラクダたち。一日中食いながら歩き続けてやっと満腹する。長い首は、大地をなめまわすようにして草を拾い集めるのに便利だろう。 それでも、とにかくサバクには草がある。私たちが初めてアラビア半島の上空を飛行機で飛んだとき、眼下には荒涼たるサバク以外の何ものも見えず、草など思いもよらなかった。にもかかわらず、半島の大部分がベドウィン各部族のナワバリで古くから分割されてきたのは、遊牧の対象としての最低限度の草があったからだ。空からではわからないが、直接サバクを歩いてみればこれはわかる。見渡す限り一本の草も絶無というような部分は、きわめて少ない。一見絶無のように見えても、注意ぶかく捜せば、枯れかけたような植物体をどこかに発見することができよう。100%不毛ではないのだ。 ラクダはしかし、どんな草でも無差別に食うわけではない。決して食わぬ草から、大好きな草まで、序列がある。草がとくに少ない夏の間、ラクダに最も好まれるのは、アンヌシとよばれるイネ科の細い草だ。大きくても高さ30センチ。広大なワジの底に、とくに多いところで1平方メートル当り十数本、少なければ9平方メートルで1,2本、ほとんど枯れかけて、弱々しく風にゆれている。 ラクダの群れは、もう解散してしまったかのように、各自勝手にサバクを食べ歩く。こんなに放任してしまって、大丈夫なのだろうか。視界の外に消えたものもかなりある。しかしムハンマドは、ハーシー(4歳未満の子ラクダ)についてはよく注意していて、常に視界の中にあるように、ファラー少年にも協力させて監視を怠らない。子ラクダを確保しておけば、母ラクダも夜暗くなるころには帰ってくるのだ。ウーム 著者の筆致は、あくまでも科学的かつ実証的であるが・・・ルポがこんなに面白くていいもんだろうか♪大使がサウジで体験した場所は紅海沿岸部に位置していたので、ここでルポされたネジド地方とは遠く離れているが、砂漠の光景はほぼ同じようです。まあとにかく暑い場所でおました。
2017.01.22
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図書館で『呆韓論』という本を手にしたのです。いわゆる嫌韓本であるが、つい手が出てしまいます。昨今の混迷を深める韓国の病理とは何か?【呆韓論】室谷克実著、産經新聞出版、2013年刊<「BOOK」データベース>より“普通の国”だと思ったら大間違い!これでもまだあの国につき合いますか?すべての問題の根源と責任はかの国の病にある!ベストセラー『悪韓論』の著者最新作。【目次】妄想と非常識に巻き込まれた日本/「自由と民主主義」の価値を同じくしない国/恥を知らない国際非常識国家/反日ならすぐにバレる嘘でも吐く/世界から軽蔑される哀れな反日病/歪みだらけのオンリー・イン・コリア/呆れかえるウリジナルの暴走/本当に恐ろしい人間差別大国/「売春輸出大国」の鉄面皮/わかりあえない不衛生・不法・不道徳/反撃の種「対馬」の仕込み方/官邸、皇居の耳目役への警鐘<読む前の大使寸評>いわゆる嫌韓本であるが、つい手が出てしまいます。昨今の混迷を深める韓国の病理とは何か?rakuten呆韓論今では漢字教育が細々と復活しているようだが・・・・不便さをともなう日本語排斥、漢字排斥を見てみましょう。p41~44 <日本語排斥の反日民族主義運動> 時として韓国で吹き荒れる社会運動の一つに「国語醇化」がある。日本にも「正しい日本語を使おう」という運動がある。しかし韓国の「国語醇化」運動は、日本の「正しい日本語」運動とは異質だ。 前者は、韓国で日常使われている言葉の中に溶け込んでいる倭語を、本来の韓国語に言い換えようという、反日的で強圧的な民族主義運動なのだ。 なるほど、韓国語の中には日本語がたくさん取り入れられている。和製英語まで入り込んでいる。たとえば野球の「ナイター」。これを、韓国語ではないが、正しい英語表現である「ナイト・ゲーム」に変えさせたことは醇化運動の成果であるらしい。 日中韓で共通した漢字表記だった「出口」をハングル表記で「ナガヌンゴッ(出ていく所)」とさせたことは、最も目立つ成果だ。 ところが醇化運動には、どうにも越えられない壁がある。 日本人が創作した概念語だ。 科学、経済、主義、資本、共産、社会、哲学・・・・みんな江戸時代末期から明治初頭にかけて、日本人が考え出した漢字熟語であり、これらの言葉は中国でも韓国でも、そのまま取り入れられている。 とりわけ『脱亜論』を書いた福沢諭吉が、明治年間の翻訳語に大きな役割を演じているのだから、韓国のインテリは悔しくて堪らないようだ。 さらに公害、衛生、系列といった比較的新しい概念語。 目的、視点、立場、自動車、自転車といった一般名詞にまで、日本人が創作した漢字語が満ちあふれている。 もちろん、漢字を捨てた国民だから、これらの漢字語をハングルで示しているわけだが、本を正せば・・・だ。 しかし、いまさら独自の新造熟語を考えだしたところで、一般国民が倭語とは思いもよらぬほど定着している言葉に代わることはできまい。 「ナガヌンゴッ」(出口)のように、本来の韓国語だけで示そうと思ったら、とてつもなく長い説明言葉になってしまうこともあるだろう。 学校の理科の時間に「火成岩」を「火が燃えてできた岩」と言い換えて教えた時期もあったが、結局は元に戻ってしまった。 一国の言葉が、他国の言葉の中に入っていくのは、文化力によるのだろう。日本語の日常会話の中に(和製)英語が多々あるのも、もちろん同じ理由だ。 だから日本語の中に入り込んでいる韓国語だってある。 食品・料理の名前は別にして、チョンガ(未婚の男子)は、その代表だ。チャリンコも元は日本語の自転車だが、その韓国語チャジョンゴがなまって逆輸入された言葉だ。それにヤク・・・あれ、他に思いつかないな。
2017.01.21
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図書館で『外来種は本当に悪者か?』という本を手にしたのです。外来種もさることながら・・・外来種に直面する人間の反応のほうが面白そうでおます。【外来種は本当に悪者か?】フレッド・ピアース著、草思社、2016年刊<「BOOK」データベース>より著名科学ジャーナリストが敵視されてきた生物の活躍ぶりを評価し、外来種のイメージを根底から覆す、知的興奮にみちた科学ノンフィクション。よそ者、嫌われ者の生き物たちが失われた生態系を元気にしている!?<読む前の大使寸評>外来種もさることながら・・・外来種に直面する人間の反応のほうが面白そうでおます。rakuten外来種は本当に悪者か?外来種と人間の関係を見てみましょう。p50~56 <外来種も病原菌も人類の旅のお供> 人類は地球上を大移動しながら、いろいろな生き物を新しい場所に運んでいった。アフリカにいたホモ・サピエンスが大陸を出て中東をめざしたのは12万5000年前。最後の氷河期を迎える前のことだ。 彼らは5万年前に南アジアに入り、4万年前にはヨーロッパとオーストラリア、1万2000年前に南北アメリカに到達したとされる。人類には食料だけでなく、身体を包む衣服、庭を飾る花々、建築や製造の材料が不可欠だったし、狩猟や有害生物を退治する手段、さらには生活の伴侶やペットも必要だった。それらをまかなうために、人類は新しい土地にさまざまな種を導入したのだ。 意図的にせよ偶然にせよ、人類の旅にはたくさんのお供がいた。イヌ、ネコ、ネズミ、ミミズ、ハチ、ヒツジとヤギ、ムクドリやハト、小麦と大麦、バナナと豆。だから人類は地球の征服者になれたのだ。農業が発明されるまで、地球上に人類はわずか数百万人しかいなかった。しかしこれらの動植物を飼育・栽培することを覚えてから、養える数が飛躍的に増えた。小麦は中東、トウモロコシは中央アメリカ、ジャガイモはアンデス山脈のペルー側、大豆は中国、米は東南アジアが原産だが、いまでは原産地とは縁もゆかりもない土地でも栽培されていて、70億人が生きる糧となっている。 ポリネシア人は舟にブタなどの家畜を乗せ、サツマイモやパンノキ、タロイモを積んで太平洋を渡り、遠くチリにニワトリをもたらした。コロンブスをきっかけにヨーロッパ原産種が新世界に導入され、いわゆる「コロンブス交換」が始まったのはそれから100年もたってからだ。 コロンブス交換は環境歴史学者アルフレッド・クロスビーが提唱した言葉で、正確には大西洋をはさんだ双方向の行き来だ。小麦はヨーロッパから南北アメリカにやってきたし、チョコレートは南アメリカからヨーロッパに伝わった。アフリカ人奴隷は米を南北アメリカに持ってきた。イギリス人はアマゾンのジャングルでゴムの樹液をとったり、キナノキの皮からマラリアの特効薬キニーネをつくったりした。世界を股にかけた旅はほかにもある。南北アメリカ原産のアカシアは、太平洋交易でオーストラリアにやってきた。それから植民地開発に合わせて世界中に広がり、南アフリカでは最大級のプランテーションがつくられるまでになった。 おなじみの風景にも、実は外国産がたくさん混じっている。たとえば地中海。目に飛びこんでくる自然はすべて在来種だと思うかもしれないが、オレンジは極東からアラブ商人が持ってきたものだし、イトスギはイラン原産だ。トマト、タバコ、サボテン、トウガラシなど南北アメリカに由来するものも多い。 ウシはおよそ4000年前にアフリカからスペインにやってきた。アフリカ大陸の奥地にも外来種はしっかり根づいている。バナナは2000年前にアラブの船乗りがニューギニアから伝えた。マンゴーとヤムイモも同じだろう。アボカド、オオバコ、パイナップルはアマゾン川流域が原産で、大西洋を越えてアフリカに広まった。キャッサバは中央アメリカから、ヤギは中東からやってきた。米は1000年前にマレーシアからマダガスカルに伝わった。 つまり私たちが生きているのは、モナシュ大学のクリスチャン・カルの言う「」なのだ。生態系はその場所の地質や気候に形づくられ、制限を受ける。だが人間や自然の働きによって、あまりに多くの生き物が出たり入ったりしているために、何がどこから来たという色分けとうの昔に意味を失っているのだ。 (中略) 有害生物は、ときに予想もしないところからやってくる。ヨーロッパの空港には、ジャガイモを食い荒すコロラドハムシへの注意を呼びかける掲示がある。この虫はメキシコ中央部で、トマトダマシというナス科の植物の種をおとなしく食べて生きていた。ところがスペイン人征服者がウシを飼いはじめ、育てたウシを北アメリカのテキサスまで運んで売るようになる。トマトダマシの種もウシにくっついて移動し、それを追いかけるようにコロラドハムシもやってきた。どちらも新天地が気にいったらしく、北上を続けてグレート・プレーンズが広がるコロラド州まで到達した。 コロラド州で大々的に栽培されているジャガイモもまた、長旅を経てこの地にやってきた。原産地のアンデス山脈からまずヨーロッパに伝わり、18世紀初頭にアメリカに入ってきたのだ。コロラドハムシはこのジャガイモがお気に召したらしく、トマトダマシからこちらに乗りかえた。ジャガイモは栽培範囲が広い。コロラドハムシは畑づたいにアメリカ東部へと勢力を広げた。さらには第一次大戦後、フランスのボルドー近郊にアメリカ軍の基地がつくられたことで、ついにヨーロッパにも伝わることになる。 1950年代はじめ、ジャガイモを常食する東ドイツはコロラドハムシの被害が深刻だった。アメリカ軍が、「ヤンキー虫」を生物兵器として投下したという噂まで流れたほどだ。当時は冷戦の最中だったこともあり、一時はジャガイモ戦争が始まりそうな勢いだった。さすがに戦争は起こらなかったが、1955年ごろにはコロラドハムシはソ連にすっかり定着した。西ヨーロッパ諸国では、コロラドハムシの侵入を水際で防ぐために検疫に神経をとがらせている ウーム 生物兵器とまで噂されたコロラドハムシの威力は絶大だったようです。外来種とは人類の旅のお供だったようだが、在来種にとって怖いのは人類(厳密にいえば外国人)ということのようです。『外来種は本当に悪者か?』1
2017.01.21
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図書館で『いまでも天国にいちばん近い島』という本を手にしたのです。大ベストセラーの後日譚であるが…写真が綺麗だし、この地域の日系人が興味深いのです。【いまでも天国にいちばん近い島】森村桂, 後藤鐵郎著、PHP研究所、2002年刊<「BOOK」データベース>より青春時代、心を熱くしたあの大ベストセラーが輝く写真とともに甦る。本書は、『天国にいちばん近い島』(角川文庫)の物語をもとに、写真撮影を行い、新たに書き下ろしエッセイを加えて、再編集したものである。<読む前の大使寸評>大ベストセラーの後日譚であるが…写真が綺麗だし、この地域の日系人が興味深いのです。rakutenいまでも天国にいちばん近い島著者の今を見てみましょう。p116~118 <『天国にいちばん近い島』は、いま『アリスの丘』に> ニューカレドニアへ、初めて渡ったときから38年もたったいま、私はニューカレドニアとはまったく逆の、避暑地軽井沢に住んでいる。街のはずれの『アリスの丘』という、夫が経営する小さなティールームで、毎日お菓子を焼いているのだ。 この店の名物は、『忘れんぼのバナナケーキ』。アリスの丘始まって以来、17年間、くる日もくる日も焼いている。 なぜ、バナナケーキに、私がそれほどまでにとりつかれてしまったかというと、あの『天国にいちばん近い島』ニューカレドニアに、はじめて行ったときに話はさかのぼる。ビザが3ヶ月しかなかったので、さらに3ヶ月延ばすためには、隣の国のニュージーランドまで渡らねばならなかった。渡航費は、ムッシュ・ワタナベが盲腸の手術費、入院費用のすべてを貸してくださったために、手持ちのお金でやっとまかなうことが出来たのだ。 そこで、芳枝さんという、ニュージーランド人の奥さんに泊めていただき、バナナケーキを焼いていただいたのが、すごくおいしかった。 日本に帰ってからは、早く、あのバナナケーキを焼きたいと思いながら、『天国にいちばん近い島』や、その他の原稿書きが忙しく、めったに焼くことは出来なかった。 ニューカレドニアを旅したことで、外国行きの夢がかなった後、私はいろいろと旅をした。 フランスを訪れたとき、パリでお世話になった方が、カトルカーという、バターと、玉子、砂糖、粉を同量に使ったざっくりしたお菓子を焼いてくださった。このおいしさには、大感激。お土産に日本に持って帰って、母を喜ばせた。 そしてある頃から、夏の3ヶ月を家を借りて、涼しいザルツブルグで過ごすようになった。午後の三時前まで原稿を書き、お茶をしに街に出るのだが、そこはもうお菓子の街。おいしいお菓子のあるカフェが何軒もあり、毎日、色々な店で食べた。 そんなある日、パリのカトルカーほどの感激をおぼえるお菓子に出会った。そのおいしさにとりつかれて毎日通って、その作り方や、材料のことを教わり、おいしさの決め手である粉を、たくさんゆずってもらうことが出来た。 その後、東京のにぎやかさに疲れ、この軽井沢に住むようになった。ここにティールームが出来たことで、私はあのなつかしいバナナケーキを思い出した。粉はザルツブルグから送っていただくものを使い、「『忘れんぼのバナナケーキ』でーす」といってお客さまにお出しすると、とても喜んでくださり、何と17年後のいまも、毎日、焼いているような次第。 今日も、軽井沢でお菓子を焼いた。焼き上がったお菓子を見て思い出したことがある。あの真っ白な浜を持つ、ウベア島の酋長さんのヤシ小屋の前で開いてくださった大ごちそう会でのこと。あのときのデザートのお菓子も、今日私が焼いたお菓子のように、ペッチャンコで何の飾りもないものだった。どこか似ていて、たまらなくなつかしい。まるでアリスの丘が酋長さんのヤシ小屋のように思えて、胸がジーンとなってしまった。
2017.01.20
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図書館で『外来種は本当に悪者か?』という本を手にしたのです。外来種もさることながら・・・外来種に直面する人間の反応のほうが面白そうでおます。【外来種は本当に悪者か?】フレッド・ピアース著、草思社、2016年刊<「BOOK」データベース>より著名科学ジャーナリストが敵視されてきた生物の活躍ぶりを評価し、外来種のイメージを根底から覆す、知的興奮にみちた科学ノンフィクション。よそ者、嫌われ者の生き物たちが失われた生態系を元気にしている!?<読む前の大使寸評>外来種もさることながら・・・外来種に直面する人間の反応のほうが面白そうでおます。rakuten外来種は本当に悪者か?清教徒の支配下にあるアメリカでは、外来種はどのような扱いを受けたのでしょうね。p92~97 <ようこそアメリカへ> 旧世界イギリスの人間である私は、アメリカ人は新しいものを積極的に取り入れたり、方向転換するのが得意だと思っていた。ところが外来種への彼らの対応を見ていると、かならずしもそうではなさそうだ。英雄もあっというまに悪人へと転落する。その一例がマメ科のクズだ。 成長が速く、「奇蹟のつる植物」として20世紀初頭のアメリカ南部でもてはやされた。とくに砂嵐の激しい乾燥地帯では、クズのあざやかな緑と香りたかい花がまたとない救いだったのだ。荒れた大地と疲弊した人びとを癒やし、再生させるという意味で、クズはいわば「植物のニューディール」だった。 原産地がアジアだろうと関係ない。そもそもアメリカは、世界を一からつくれると信じて集まってきたよそ者の国なのだから。クズはそんなアメリカにふさわしい植物だった。ところが半世紀後、奇蹟のつる植物は、「南部を食いつくすつる植物」に変貌していた。ほかの樹木を枯らし、耕作地に侵入し、建物を破壊し、送電線を切る悪魔になっていたのだ。 いったい何があったのか? 変わってしまったのはクズ? それともアメリカ? クズの原産地は中国だ。いまでも地方の村では、クズのつるを編んで縄やかごをつくったり、繊維を取りだして紙に漉いたりしている。根は漢方薬として利用される。葉は飼料になるし、飢饉のときは人間も食べていた。ただしクズという呼び名は日本語で、アメリカに入ったのも日本経由だった。 1870年代、東京のアメリカ公使館に勤務していたトマス・ホッグは、日本の植物を採集してはニューヨークの兄弟が経営する種苗店に送っていた。クズもこの種苗店で観賞用として販売された。フィラデルフィアに1000万人が詰めかけた1876年の建国百周年記念博覧会をはじめ、全米で開かれた万国博覧会で、会場の日本庭園にクズを積極的に使うよう働きかけたのもホッグだった。 ホッグの見立てどおり、クズはたちまち人気を集めた。園芸業者は「フロントポーチにぴったり」と売りこんだ。1909年の雑誌『グッド・ハウスキーピング』は、紫色の花の「かぐわしい香り」をたたえ、「何も育たない土地にもよく根づく」と評した。いまにして思えばそれが最初の警告だったわけだが、当時はむしろ利点だったのだ。 政府の農業関係者も興味を示し、クズの葉を家畜飼料に推奨した。どこでも育つクズは、とりわけ旱魃対策として注目された。1935年、政府に新設されたばかりの土壌保全局のヒュー・ハモンド・ベネット局長は、南部の綿栽培で荒れた土壌を回復させる切り札として、クズを強力に推した。クズは成長が速く、1日に30センチ近く伸びる。葉が茂って地面を覆えば、風雨による侵食が防げるし、地中深く根を張って水を吸い上げてくれる。大気中の窒素を固定するバクテリアを持っているので、土壌が肥沃になると良いことずくめだった。 こうしてクズ・ブームが巻き起こる。ラジオもひと役買った。ジョージア州の農夫チャニング・コープは、自宅ポーチにミニラジオ局を設けて番組を放送していた。クズを植えていた彼は全米クズ愛好会を結成すると、『アトランタ・コンスティチューション』紙にクズ礼讃の記事をたびたび発表した。「クズこそは神がジョージア州民に与えたもうた寛大な贈り物」であり、魂を「浄化」してくれる植物だとコープは高らかに宣言している。「私たちが大地を育めば、大地も私たちを育んでくれる」 キング・オブ・クズとなったコープは、ジョージア州環境保護マン・オブ・ザ・イヤーにも選ばれた。クズが地面を埋めつくす光景を見れば、いまのアメリカ人はぞっとするだろう。けれども当時は、南部の環境と経済を救う頼みの綱だった。1935年から1950年代はじめまでのあいだに、政府の種苗場が育てたクズの苗は1億本になる。道路や線路の土手にはクズの種がまかれ、クズを植える農家には奨励金も出た。こうしてクズの栽培面積は8000平方キロにまで広がった。(中略) しかし時代は変わっていく。「望まれない場所にもよく根づく」クズの特性は、早くも1953年には認識されていた。1970年代、土壌保全局は土壌流出防止に役立つ植物リストから、ひっそりとクズをはずす。そして1997年、ついにクズの立場は正式に逆転し、連邦有害植物法に定める有害植物リストに入った。在来の潅木や樹木、作物を脅かす邪悪なエイリアンになったのである。「葉が密に繁茂するため、その下では他の植物は枯れるか衰弱する。茎や幹に巻きつき、その重さで樹木や潅木の枝を折ったり、あるいは全体を根こそぎにする」 かつては奇蹟のつる植物とうたわれたクズも、政府の文書でこう説明されるまでになった。充分な光合成ができるだけの日照があれば、クズはどんなところでも育つ。電柱をはいのぼり、樹木を締めつけ、生け垣を覆いつくし、廃墟となった建物を占領する。旺盛すぎる繁殖力と生命力は、もはや悩みの種でしかない。南部での繁殖面積は2万8000平方キロにもなり、1年に500平方キロ弱増えつづけているという。 だがクズ自身は何も変わっていない。日本ではいまも有用植物の扱いだ。変わったのはアメリカの土地の使い方である。家畜は飼育場で肥育させるようになり、南部の牧草地は多くが放棄された。家畜に葉を食べられることがなくなり、増えるいっぽうのクズは、南部のあらゆる場所にはびこりはじめる。牧草地が林になったところでも、クズは厄介者だった。もはやクズは敵である。(中略) 現代アメリカにおいて、クズはあらゆるものを象徴する。『ニューヨーク・タイムズ』のウェブサイトで検索をかけると、クズをたとえに持ちだした表現がごまんと出てくる。なかには不可解な比喩もあったりするが、それを掘りさげていくと、アメリカ人の精神構造を暴くことになりそうだ。映画が「全篇ジューイッシュ音楽で満ちている」のも、「自己満足のプロットだらけ」の本をけなすのも、みんなクズがたとえだ。有名人の話しかたは「クズの葉の下に隠れた枝のように、南部風アクセントがちらりと顔を出す」と言われ、ファッションショーを最前列で見る出席者は、脚を組んだ様子を「クズのつるみたい」と表現されていた。 ウーム クズは初期には栽培が奨励され、そして今では有害植物とされたようだが・・・ アメリカでは、日本人には理解できない神がかった動きが起こるようですね。
2017.01.20
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図書館で『捨てる女』という本を手にしたのです。断捨離のエッセイかと思いきや、パラパラとめくると著者の収集癖がすご~い♪【捨てる女】内澤旬子、本の雑誌社、2013年刊<「BOOK」データベース>より突然あたしは何もない部屋に住みたくなった。生活道具や家具などから自ら長年蒐集してきたお宝本や書き続けてきたイラストまで大放出する捨て暮らしエッセイ。<読む前の大使寸評>断捨離のエッセイかと思いきや、パラパラとめくると著者の収集癖がすご~い♪rakuten捨てる女著者の収集癖の片鱗を見てみましょう。趣味の領域があいまいな身の程知らずのところが大使そっくりで、身につまされるのでおます。p18~20 <カタストロフ襲来> この体質は、父親譲りなのではと思う。さすがに現在は母に止められてやっていないようだが、あたしが子どもの頃、父は夜中に工事現場に行っては、廃材を拾ってきていたし、あたしや兄を遊びに連れていくのは、なぜか近所のゴルフ場裏の崖下の川なのだった。そこでゴミに混じって落ちてるゴルフボールを拾わされていたのである。割れていたり汚れているゴルフボールをよけて、落ちたての、綺麗なゴルフボールを捜して、河岸を歩きまわる。ときには川にも入ったり、宝探しみたいでとっても楽しかったんですけどね。 高校生のときにはもう鎌倉の骨董屋や古道具屋に通っていた。いやもう古本屋にも通ってたか。骨董屋で魅せられたのが、砂と波で丸く洗われた翡翠色の陶器の欠片。建長寺船が難破したときに、宋代青磁の器がいくつも由比ガ浜に沈んだとかで、拾ったら持ってきなよ、とそそのかされて、海乞食、今の言葉で言えばシーコーミング・デビュー。サーフィン全盛期に、砂浜をうつむきがちに歩いては、ガラスの欠片やら貝殻やら石ころや流木まで拾い集めていた。青磁の欠片と思われるものは結局拾えないうちに、その骨董屋はなくなってしまったのだが。 同世代女子校生がヴァレンチノのバッグで登校しているときに、黒いゴミ袋や古道具屋で買った、寅さんみたいなボロ革トランクで登校。おいしい生活なんてクソだ、すべての資本主義にファッキューとか喚いていた。海馬の芯まで終わってました。 その後イラストの仕事の合間に装丁の勉強をしようと、上製本の構造を知るために製本工芸を習ってからは、もう大変。仕事の参考だったはずが、趣味の領域すらも超えてのめり込み、本づくりの合間に仕事をすることになってしまう。 製本工芸と一口に言っても、捉え方もさまざまである。19世紀フランスの方式にのっとって製本する作家もいれば、ほとんどアートオブジェのような本を作る作家もいる。自分はどんなものを作ればいいのか、作りたいのか。考え始めたらキリがない。 海外に出かけるたびに謎のブツや、読めない本を買うか拾うかして持ってくる。手漉き紙、インドの建材、そして装丁の綺麗なチェコの絵本、初期合成樹脂や牛の血を固めてできた表紙の祈祷書、銀細工の箱入りコーラン、乳香、没薬、岩塩、パルミラ椰子の葉っぱ・・・香油、オンドル床に敷く油紙、モロッコタイルの欠片、煙草の空き箱、アムハラ文字コカコーラの蓋、各砂漠の砂、岩、化石、蜜蝋。太鼓皮、羊皮紙、ウナギの皮・・・。 いや、お恥ずかしい。いつか本を作る材料に使えると信じていたのである。もともと骨董が大好きだったから、古臭い本を作りたくて、汚れた素材ばかり集めていた。オブジェのように表紙に貼ったりなんだりしようと。ところがどういうわけか、それらのがらくたや古ぎれに自分の手を加えて冊子にした途端、元の形のときに放っていたそれらのものの輝きが薄れてしまう。 要は自分の才能が作りたいものに追っつかなかったのだろう。苦いのであるが、事実なんでしかたない。ううう。はじめの目的である、商業出版の装丁デザインの参考だけにしておけば良かったのに、美しい書物とはなんぞやという問いにとりつかれてしまったのがまずかった。 活版印刷や革なめしの歴史を調べ、工程をみせてもらいに現地に行ったりして、こんな本ができないか、いやこんな本はと、素材を買いまくり、道具も買いはじめ、どんどんはまり狂っていったのであった。もちろんいくつかは取材にして、イラストルポの仕事として発表させていただいたが。 『世界屠畜紀行』(解放出版社)というルポを書かせてもらったのだって、その余技みたいなもんで、革なめしの現場に行きたい一心で、世界各国屠畜場ルポを思いついたのだった。おかげさまでこの本は評判をとることができ、うれしかったのだが、各地で集めてきた膨大な素材は、何にもならずに放置したまま部屋にのさばった。ウーム 凄まじい骨董趣味ではある。製本工芸への造詣や実践は只者とは思えませんね♪
2017.01.19
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今回借りた4冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「フィールドワーク」でしょうか♪<市立図書館>・いまでも天国にいちばん近い島・捨てる女<大学図書館>・外来種は本当に悪者か?・極限の民族図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【いまでも天国にいちばん近い島】森村桂, 後藤鐵郎著、PHP研究所、2002年刊<「BOOK」データベース>より青春時代、心を熱くしたあの大ベストセラーが輝く写真とともに甦る。本書は、『天国にいちばん近い島』(角川文庫)の物語をもとに、写真撮影を行い、新たに書き下ろしエッセイを加えて、再編集したものである。<読む前の大使寸評>大ベストセラーの後日譚であるが…写真が綺麗だし、この地域の日系人が興味深いのです。rakutenいまでも天国にいちばん近い島************************************************************【捨てる女】内澤旬子、本の雑誌社、2013年刊<「BOOK」データベース>より突然あたしは何もない部屋に住みたくなった。生活道具や家具などから自ら長年蒐集してきたお宝本や書き続けてきたイラストまで大放出する捨て暮らしエッセイ。<読む前の大使寸評>断捨離のエッセイかと思いきや、パラパラとめくると著者の収集癖がすご~い♪rakuten捨てる女************************************************************【外来種は本当に悪者か?】フレッド・ピアース著、草思社、2016年刊<「BOOK」データベース>より著名科学ジャーナリストが敵視されてきた生物の活躍ぶりを評価し、外来種のイメージを根底から覆す、知的興奮にみちた科学ノンフィクション。よそ者、嫌われ者の生き物たちが失われた生態系を元気にしている!?<読む前の大使寸評>外来種もさることながら・・・外来種に直面する人間の反応のほうが面白そうでおます。rakuten外来種は本当に悪者か?************************************************************【極限の民族】本多勝一編、朝日新聞社、1967年刊<カスタマーレビュー>より昔々、朝日新聞に連載されていた新聞記事を切り取って今でも持っている。当時(中学生)、こんな経験が出来る新聞記者っていう職業を面白そうだと思ったけれど、エスキモーの生活でカリブーの内臓を食べる話を読んで早々にギブアップした。エスキモーからニューギニアそしてアラビアと今から考えたらかなりの短期間に3ヶ所に実際に住み込んでのルポルタージュである。全て本当に面白い。いたずらに学術っぽくなく内容が深い。<読む前の大使寸評>著者の芳名は知っているが、その著書を読むのは初めてかな。rakuten極限の民族************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き193
2017.01.19
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図書館で『あんぽん』という本を手にしたのです。今では、トランプさんとサシで話をするほどの経済人であるが…起業したてのころは、かなりはったり気味で、胡散臭かった孫さんだったことを覚えています。【あんぽん】佐野真一著、小学館、2012年刊<みんなのレビュー>より佐野眞一著の「孫正義伝 あんぽん」を読みました。孫という名字から「在日の人なのかな?」とは思っていましたが、「あ、やっぱりそうなんだ。」とまずは思いました。在日の方に対する日本人の差別は今に始まった事ではありませんが、私が思っていた以上に差別があるのには驚きました。まず、在日の方は官僚(公務員)になれないのにはビックリしました。<読む前の大使寸評>今では、トランプさんとサシで話をするほどの経済人であるが…起業したてのころは、かなりはったり気味で、胡散臭かった孫さんだったことを覚えています。rakutenあんぽんまず、この本のプロローグを見てみましょう。p5~10 <プロローグ> ソフトバンクの本社は、東京・汐留の高層ビルのオフィスフロア最上階にある。眼下には浜離宮が広がり、東京湾が一望できる。晴れた日には、房総半島まで眺望できるという。 26階の部屋に昇るエレベーターに乗りながら、孫正義が歩んできたここまでの道のりを考えて、ある種の感慨にうたれた。 孫が生まれた佐賀県の隣、福岡出身の武田鉄矢ではないが、孫本人も「」と思っているのではないか。 孫はいまから55年前の昭和32年、佐賀県鳥栖駅に隣接し、地番もないという理由で無番地とつけられた朝鮮部落に生まれ、豚の糞尿と、豚の餌の残飯、そして豚小屋の奥でこっそりつくられる密造酒の強烈なにおいの中で育った。 それが、世界長者番付で例年日本人ベストテンの中に入るまでの成功をおさめた。 「3.11」以降は、“反原発”の旗頭役的存在となっている。孫正義はいまや、情報革命の世界屈指の成功者というだけでなく、日本の将来を左右するトップリーダーとなっている。さらに、ソフトバンクホークスも日本シリーズで優勝し、折から起きた読売巨人軍の醜い内紛劇とは打ってかわった爽やかな印象を残した。孫には日本のプロ野球を再生させる盟主への期待も高まっている。 貧民窟生まれの出自から考えれば、孫正義はいま目もくらむような高みにいる。 2011年の10月5日、米アップル創業者のスティーブ・ジョブスが56歳の若さで世を去った。 このとき世界中のパソコン世代が、ジョブスの早すぎる死を悲しんだ。ジョブスより2歳年下で、同じッシリコンバレー世代に属する孫正義は、ジョブスの死を知ったとき、「涙があふれて仕方がなかった」と語っている。また、死後刊行されたジョブスの評伝を読んで、「彼の歩んだ人生は、彼の偉業とともに永遠に輝き続け、人々に勇気を与え続ける」と絶賛している。 ジョブスの父親はシリア出身のウィスコンシン大学大学院生、母親も同大学院生という学生同士の結婚だった。母親はシリア人との結婚を父親に反対され未婚のまま出産した。ジョブスは産まれてすぐ里子に出され、貧しい機械工の子として育った。 ジョブスの生涯は、その複雑な出自と経歴からして物語性に満ちている。だが、孫がこれまで歩んできた人生は、ジョブスに遜色ないほどドラマチックである。 在日三世の孫は東大出のエリートではない。そうした連中が集まったライバル企業のNTTやKDDIとは、そもそもからして出自が違うのである。孫の一族は父方にしても母方にしても、世間的にあまり褒められる仕事をしてこなかった連中がほとんどである。 しかし、これまで書かれた孫の評伝で、孫の血脈を三代前まで遡って調べ上げ、現存する父方・母方の親族全員に会って取材したものもなければ、そのルーツを追って韓国まで取材の足を伸ばしたものもなかった。 さらに言うなら孫に決定的な影響を与えた父親の安本三憲に長時間インタビューしたものもなかった。これまで書かれた孫正義の評伝は、孫のサクセスストーリーに目を奪われ、紋切型の記述に終始してきた。 私流に言えば、孫一族が経験してきた波瀾と被差別の歴史を、自らの体で受けとめ、それを全身で抱きしめる愛情と根性が欠けていたのである。 本書はこれまで書かれてこなかったこれらの事実を徹底的に追及し、その成果をすべて盛り込んだ。いささかの自負を込めて言うなら、本書は死の直後に刊行されてベストセラーになったジョブスの評伝に負けない面白さだと思っている。 孫に会うのは実にこれが二度目である。最初に孫に会ったのは、1983年5月のことである。ソフトバンクの前身の日本ソフトバンクが設立されて3年目、孫がまだ25歳のときだった。(中略) 孫はこのインタビューで、米国のIT起業家はアメリカンドリームの体現者としてヒーローと讃えられるが、日本のIT起業家は“成り金”扱いされるとも語っている。 アメリカの大学に留学中の18歳のとき、パソコンが手作りできるマイクロチップという「黒船」を見たと言う孫にとって、日本のIT立国の決定的な立ち遅れは、ふつうの人が考えるよりずっと我慢ならない事態だったに違いない。 だが、結果だけ述べておけば、NTTから光回線だけを分離し、通信各社が共同で利用できるインフラ機関をつくるという、NTTからすれば虫のいい孫の提案は退けられた。 孫は「光の道」構想への千々に乱れる思いを、ツイッターに書きまくっている。 ウーム (元)親方日の丸のドコモが、日本の将来の邪魔をしているようですね。昨秋の「3.3兆円の英企業買収劇」のニュースには、ビックリポンの大使でおました。2016.10.243.3兆円で買収のアーム、孫氏が未来を見通す千里眼により エーゲ海に臨むトルコの景勝地マルマリス。ソフトバンクグループの孫正義社長は今年7月4日の昼時、ここのヨットハーバーに面するレストランを借り切った。 ランチに招いたのは、英半導体設計会社ARMホールディングスのスチュアート・チェンバース会長(当時)とサイモン・シガースCEO(最高経営責任者)。地中海で休暇中のチェンバース氏に、孫氏が急な面談を持ちかけたところ、指定されたのが彼のヨットが寄港するこの港町だった。 ふだんは米シリコンバレーにいるシガース氏は、トルコへ呼び出されたことをいぶかしんだ。その1週間前、夕食をともにした孫氏から「IoT(モノのインターネット化)に関して何か一緒にできないか」と意味深長な提案を受けていたからだ。「買収だろうか。いやいや提携の申し入れぐらいだろう……」。機中で自問自答を繰り返し、押っ取り刀で駆けつけたという。 打ち解けた雰囲気のなか料理を楽しんでいると、孫氏が切り出した。「我が社なら御社の事業を加速できる。だから買収したい」 日本企業として過去最高の3.3兆円の巨額買収という大勝負に出た瞬間だった。それは、彼が10年越しで温めていた案だった。 孫氏がアームに魅力を感じたのは、2006年に英ボーダフォンの日本法人(現ソフトバンク)を買収して間もないころ。このころシガース氏は、すでに「アームに淡い気持ちを抱いていた」という孫氏と東京で携帯電話の将来について語り合っている。孫氏側近の後藤芳光財務部長は当時をこう語る。「孫さんは『通信事業も大事だが携帯に入るチップ(半導体)はより重要だ。アームという面白い会社があるんだ』と言い出した。僕らへの刷り込みが始まっていた」 米通信大手スプリント買収を計画した12年、孫氏の念頭にアーム買収もよぎったが、「より直接的な相乗効果がある」と同じ通信事業のスプリント買収を先行させた。だが、「毎年のようにアーム買収の研究をしてきた」(後藤氏)という。 パソコンのCPU(中央演算処理装置)は米インテルが制したが、携帯電話やスマートフォンの9割以上にアームが設計した中核回路が搭載されている。アームは低消費電力で小型化できる利点から携帯むけ回路設計で頭角を現し、今やアームのコアが組み込まれた半導体の年間出荷数は148億個以上にもなる。 孫氏は、保有する中国ネット通販大手アリババ株を一部売却するなど2兆円余の軍資金を用意すると、一気に動き出したのだった。■IoT「次」は何? 英ケンブリッジ大に近いアーム本社の展示室には、一見ハイテク機器とは無縁な帽子やフォークが並んでいる。「中にチップが入っています」と案内役の社員。「例えばこの靴の中敷き。寒くなると自然と発熱します。スキー場や冬山で使えますね」。IoTで意外なものへのチップ搭載が進み、アームのコアへの需要は激増しそうなのだ。 アームは1990年、英コンピューター会社から独立した12人のエンジニアが創業した。半導体業界でその成り立ちは極めて特異だ。インテルや東芝など半導体メーカーは開発、設計から製造、販売まですべて自社で担う垂直統合型ビジネスモデルが一般的。だがアームは設計に特化した。回路の設計図をメーカーに売り、製品に搭載されたコアの知的財産権の使用料も収入源となる。量産工場は持たない。 創業メンバーの1人、マイク・ミュラーCTO(最高技術責任者)は「ほかに選択肢がなかったんだ。我々にはアイデアはあったが資金がなかったからね」と笑う。垂直統合型の半導体メーカーは毎年巨額投資が必要だし、過剰生産は値崩れを呼ぶ。しかし量産工場を持たないアームはそうしたリスクを避けられる。売上高営業利益率は40%という好業績ぶり。戦略的に狙ったというより、企図せずに進化したビジネスモデルとなった。 最終製品の性能を決定づける回路設計を担うだけに、注文はかなり早い段階で舞い込む。シガース氏は「いま開発中のものは2、3年後に完成し、その後、出荷に1、2年かかる。消費者が製品として手にするまでにさらに数年」と言う。5~10年先の製品の回路設計に、いま取り組んでいるのだ。 シガース氏はソフトバンクとの相乗効果について「まったくない」と即答。むしろ孫氏に買収された背景をこう受け止める。「孫社長は『次に何が来るのか』と非常に気にしている。アームを買収したことで、次は何が重要なのか、どんな分野に投資すればいいのか、そういうことが分かるのではないか」 設計図の納入先との契約は新オーナーの孫氏にも秘密だが、少なくとも今後の潮流ぐらいは占うことができる。孫氏の側近の後藤氏は「アームに集まる情報で未来を予測できる。ライフスタイルがどう変わるのか予見できるようになる」とみる。アームは孫氏にとって未来を見通す「千里眼」になりそうだ。■孫氏のタイムマシン経営 孫氏はこれまで「時間差」に商機を見いだしてきた。米国留学中、日本でブームを過ぎたインベーダーゲームを安く仕入れ、米国のレストランに置いて稼いだ。ソフトバンク創業後、買収した米パソコン関連出版大手のジフ・デイビスから「インターネットに不可欠な検索の会社だ」と紹介され、ネット検索のヤフーを発見。創業間もないヤフーに出資し、日本法人も設立した。 以来「タイムマシン経営」を標榜し、米国の進んだネット企業に出資したり、合弁で日本事業を立ち上げたりして業容を拡大した。ネットの波は新興国にも広がるとみてアリババなど中国やインドのネット企業にも投資し、巨額の含み益を手にしてきた。 孫氏は「他にだれもやっていなかったし、創業時はお金もなかったから」とパソコンソフトの卸という業界の下流から起業。出版、インターネット、携帯電話と歩みを進めた。そして創業35年で半導体設計という業界の最も上流に触手を伸ばした。「ソフトバンクはパラダイムチェンジのたびに姿形が変わる出世魚」と語る。 変化の際の目利きには自信がある。「IoTに人工知能、そして自動運転で車はスパコン並みになる」と孫氏。そのときにアームという未来を予測できる「千里眼」があれば、成長分野への先行投資の確度が高まる。サウジアラビアの政府系ファンドと組んで10兆円ファンドを創設したのも、そうした文脈の延長線上にある。 ソフトバンクは9月、「ARM事業推進室」を設置。元同社経営戦略担当部長で、アマゾンジャパンに転じた田中錬氏を呼び戻し、担当幹部に任じた。孫、田中両氏はアーム幹部を交え、人工知能やIoTにどう対応し、どんな分野に投資すべきか、毎週のように話し合っている。「具体的には言えないが、いくつかのアイデアを議論している」とシガース氏。 IoTと人工知能は、アームの力が生かされる高集積度の半導体の固まりだ。膨大な情報を集め、即座に処理できる技術が整うと、有望視される製品の一つが実は自動翻訳機である。 孫氏もそれに気づいている。100件以上の特許をもつ孫氏は数年前、相手の話す外国語がメガネに翻訳されて表示されるアイデアを思いつき、「メガネ型表示装置」の特許を取得した。彼が留学中に初めて取り組んだビジネスは、後にシャープに1億円余で売れた「音声つき電子辞書」の開発だった。 「姿形は変わっても情報革命を志向する点は40年間変わらないんです」 そう孫氏は言った。
2017.01.18
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図書館で『刀と首取り』という本を手にしたのです。著者によれば、日本人が白兵戦を嫌い「飛び道具」志向であったとのこと・・・興味深い切り口ですね。【刀と首取り】鈴木真哉著、 平凡社、2000年刊<「BOOK」データベース>より戦国時代の合戦場、馬上で白刃を振るう武将、刀で渡り合う武士というイメージは後世に作られたものだった。では、戦場で日本刀はどのような役割を果たしたのか。日本人が白兵戦を嫌い、「飛び道具」志向であったことを明らかにし、特異な風習「首取り」の意味と刀との関わりを解明する。日本刀への幻想を振り払い、戦国合戦の実像が浮かび上がる。<読む前の大使寸評>著者によれば、日本人が白兵戦を嫌い「飛び道具」志向であったとのこと・・・興味深い切り口ですね。rakuten刀と首取り武器武具のなかで、なぜ刀だけがたくさん残っているのだろうか。p15~16 <なぜ刀だけがたくさん残っているのだろうか> 同じ武器である弓にしろ、槍や鉄砲にしろ、また武具である甲冑にしろ、大変な需要があったろうことは想像に難くない。刀に及ばないにしても、膨大な数がつくられたはずである。 ところが、それらの現存作品に接する機会は、刀に比べたらはるかに少ない。さきに触れた「日本の武器武具展」でも槍や鉄砲などは、いずれも数点ずつしか展示されていなかった。これは見に来る人のお関心が乏しいからということではなく、現存作品の絶対量が圧倒的に違うからではないかと思われる。 なぜ、そういうことになったのかについては、素材の関係で刀は残りやすかったのだろうという意見もあるかもしれない。たしかに、弓矢などに比べれば、刀は残りやすいといえるだろう。しかし、槍や鉄砲だって、素材的に残りやすいという点では、刀と変わるところはない。 ところが、戦国時代に詳しい方ならご存知のように、鉄砲などは、明らかにこの時代につくられたと見られるものは、ほんの一挺か二挺しか残されていない。われわれが博物館で見ることのできる「古銃」は、ほとんど江戸時代以降のものである。ひかえ目に見ても何十万という単位で存在したはずの戦国時代の鉄砲は、いったいどこへ消えてしまったのだろうか。戦国時代はおろか、平安・鎌倉時代の作品まで、山ほど残されている刀とは大違いではないか。 こうなると、刀の現存作品が多いのは、単にたくさんつくられたからであるとか、素材の関係で残りやすかったからであるとかいう説明だけでは片づかなくなる。他に理由があると考えてみなければなるまい。 その理由として刀の神聖視があったと、著者は述べています。。p24~25 <刀の神聖視> 刀の呪術的な力に期待する傾向は、もっと直接の形をとることもあった。徳川家康と戦った真田幸村(信繁)は、徳川家が村正の刀を不吉として嫌っていることを知って、わざと村正をハイ刀としたといわれる。これで家康を調伏してやろうというわけだが、人臣として立派な心がけであると、家康の孫の水戸(徳川)光圀がこれを褒めている。 こういう感覚は、武士の世が続いていた間は、ずっと生きていたらしい。ある幕臣直参の士が伝家の宝刀を神棚に上げて、毎朝、灯明を供えて拝んでいたところ、心願かなって役職に就くことができた、それを聞いた儒学者の佐藤一斎が一詩をつくったという話が江戸時代の随筆に載っている。幸村の逸話に比べると、ずいぶん俗っぽい話だが、こうした御利益も刀には期待されていたのである。 この話を読んだ人が大正10年に刀剣雑誌に投稿して、日本刀というものは物質的な道具ではなく、精神的に崇敬すれば必ず霊光のあるものという感を起こしたと改めて感動している。武士の世は終わっても、こうした形での刀剣崇拝の念は、根強く生き残っているのである。そういえば同じ雑誌の別の号には、長船裕定の威霊によって水害を免れたので、この刀を「水神裕定」と命名するのだという福岡の人の投書が載っている。あながち洒落や冗談でいっているわけでなく、けっこう本気であるらしい。 後に紹介する成瀬関次氏は、昭和10年ころまでの刀剣界について、そのころ日本刀は武器だなどといおうものなら声を立てて笑われた、この世界の人たちは、書画骨董をいじくりまわすのと同じ感覚で刀を見ていた、彼らの書いた刀剣書は、ほとんど例外なしに、名刀の条件は、その霊性を以て戦わずして敵をしょう伏させるところにあると結論していたと記している。私は一々確認したわけではないが、霊性云々などは、いかにもありそうなことである。
2017.01.18
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中京大学教授の佐道明広さんがオピニオン欄で「独自の戦略持ち、米に注文を」と説いているので、紹介します。(佐道さんのオピニオンを1/14デジタル朝日から転記しました) 1945年の敗戦で占領軍が進駐して以来、主権を回復してからも、米軍が日本国内に駐留しなかった日は1日もありません。戦後100年、2045年の日本にも、米軍基地は各地に残るのでしょうか。この先のロードマップを、どう考えればよいのでしょう。■独自の戦略持ち、米に注文を 佐道明広さん(中京大学教授) 本来、外国の軍隊が自国の中に居続けるのは、占領期を除けばきわめて例外的なことです。しかし多くの日本人は当たり前に思っていて、疑問に感じていません。 これだけ状況が変わってきているのに、米軍基地について、ほとんどの日本国民は考えていない。しわ寄せは全部、沖縄に行っている。基地という宿題を解決しようとするなら、日本の安全保障はどうあるべきか、政府だけでなく、国民も考える時期に来ています。 日米安保の本質は「基地と防衛の交換」です。「基地を提供する代わりに日本を守ってください」という発想から始まっている。欧州でもドイツやイタリアなどに米軍基地がありますが、北大西洋条約機構(NATO)という枠組みで、互いに防衛の義務を負う「双務性」がかなりある。「基地と防衛の交換」ではないんです。 日本が、例外中の例外ともいえるやり方をとっているのは、やはり憲法9条の制約が大きいから。憲法問題にならない範囲内で、国を守るためのウルトラCとして、「基地と防衛の交換」という方法が発明された。もともとは、日本の防衛に米国を巻き込もうという発想だったのです。 しかし、安保体制のもとで、日本の外交・安全保障政策は、米国の戦略にいかに合わせていくか、いかに米国に見捨てられないようにするかだけを考えるようになった。日本独自の戦略というものがなくなってしまいました。 * 日本は、防衛や安全保障の戦略をもつことが必要です。国会で、国家安全保障問題調査会のようなものを与野党がつくり、国際情勢の調査や有識者ヒアリングを行い、徹底的に議論する。憲法についてもタブーにせず、きちんと議論していくべきでしょう。 NATO加盟国のアジア版のようになることも一つの選択肢ですが、完全に「普通の国」になる必要はありません。日本は少し違っていてもいい。平和国家として、「これはやらない」と憲法に明記することも考えられます。 自衛隊の役割は何なのかも、根本的に考え直すべきです。国防、災害救助の支援、国際協力という三つの役割をこなしていくには、自衛隊は組織的にも、予算的にもすでに限界に来ています。防衛予算を倍にできるわけがない。 むしろ、海上保安庁をもっと拡充してはどうでしょうか。海保の船なら、相手もいきなり軍艦を出してくることはできません。海上警察力を強化すると同時に、海保と自衛隊との連携のあり方も検討すべきでしょう。 中国の状況なども考えると、米軍が日本に駐留を続けることは当面必要だと思います。日本だけでできることには、どうしても限界があります。とはいえ、基地は本来、日本が提供しているものです。全部米軍の都合に合わせるのではなく、「我が国の防衛戦略はこうです。だから基地の数や場所はこうしてください」と言える関係にしていかなくてはいけない。 * 1950年代に比べれば、米軍基地は大きく減りました。日本から注文をつけたからです。57年には岸信介首相がアイゼンハワー米大統領に、在日米軍の地上兵力を減らすよう要望しました。70年代には、関東地方の米軍基地を整理・統合する「関東計画」が行われました。しかし、いつからか注文をつけなくなり、米国に合わせるだけになった。基地もほとんど減らなくなりました。 しかし、明確な戦略をもって米国と議論していけば、沖縄の海兵隊撤退の可能性を含めて、基地のあり方を変えていくことはできるはずです。(聞き手・尾沢智史) ◇佐道明広:1958年生まれ。専門は日本政治外交史。著書に「戦後日本の防衛と政治」「自衛隊史」「沖縄現代政治史」など。これからトランプさん統治下の日米同盟が始まるのだが…安倍さんにしろ、我々庶民にしろ、かなり心して対応しないとアメリカのポチとなりかねないのだが。白井聡さんが、朝日オピニオン欄で次のように展望しています。『ひたすら対米追従するという日本側の本質は何ら変わっていないのだから、米国の国益追求がむき出しになる分だけ、今後、従属の露骨さはむしろ強まると思います。』(ニッポンの宿題)米軍基地のこれから佐道明広2017.1.14この記事も 朝日のインタビュー記事スクラップR2に収めておきます。保護者なき日本白井聡2016.11.25
2017.01.17
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図書館で『日本にとって中国とは何か』という本を手にしたのです。「日本にとって中国とは何か」とは、古くて新しい課題といえるわけで…昨今の狂ったような中国の軍拡の行く先が気になるのです。【日本にとって中国とは何か】砺波護編、 講談社、2005年刊<みんなのレビュー>より遂に全巻完結。実にタイムリーな好著です。高校以来、中国の歴史を改めて学ぶことが出来、新たな発見・見識を獲得できました。<読む前の大使寸評>「日本にとって中国とは何か」とは、古くて新しい課題といえるわけで…昨今の狂ったような中国の軍拡の行く先が気になるのです。rakuten日本にとって中国とは何か戦後の日中国交を見てみましょう。p341~345 <親愛と嫌悪のないまぜの国:砺波護>■日中国交正常化まで 戦争末期からアメリカ・イギリスなどの自由主義陣営とソ連がひきいる社会主義陣営の対立が目立ち始め、戦後になって激化した。ドイツでは二つの陣営が分裂して占領、1949年に西ドイツと東ドイツの二国家が生まれた。 連合国に加わって日本に勝利した中国は、国際的地位を高め、植民地の地位を脱した。ところが大戦が終わるや、それまで国共合作によって抗日戦争を行ってきた国民党と共産党の対立が、ふたたび表面化し、中国は内戦状態となった。蒋介石がひきいる国民党は、アメリカから軍事援助をえて攻勢にでたが、共産党は農村を中心に改革を進めて、支持を集めていった。内戦は共産党に有利になり、1949年10月1日に毛沢東を主席とする中華人民共和国が成立した。首相は周恩来であった。アメリカは冷戦を背景として人民共和国の政権を否認、内戦に敗れて台湾に逃れた蒋介石を正式の中国代表とみなして援助をつづけた。 1951年の吉田=ダレス書簡において、日本は台湾の中華民国政府を国交回復の相手とすることを選択した。サンフランシスコ講和会議に52カ国が参加したが、ソ連は条約への調印を拒否、中国と朝鮮は招待されなかった。52年4月に中華民国との平和条約が結ばれた。71年10月の国連総会で、中国の代表権の中華民国から中華人民共和国への交代が決定し、翌72年9月に田中角栄首相が訪中し、周恩来首相との会談で日中国交正常化が実現するのである。■ねじれた文化交流と嫌中感の広がり 1966年から76年にかけて、毛沢東が主導し、中国全土を混乱の渦に巻き込んだ<文化大革命>の10年間、日本でも知識人や大学生の間で、毛沢東と四人組を熱烈に讃美する人と、嫌悪感を示す人とに二分された。私などは、四人組から批判された周恩来に親近感をもった。 しかし89年6月4日、戒厳令下の天安門広場に集まった学生・市民のデモ隊に戦車から無差別発砲がなされた現場が、リアルタイムで日本のテレビに放映され、恐怖感を抱いた人も多い。90年代は、市民レベルで中国に対する親近感が急激に冷めていった時代となった。 1995年夏の中国では、抗日戦争勝利50周年ということで、総書記江沢民の指導による徹底した愛国教育が行われた。中国各地で行われてきた記念式典をしめくくる。9月3日に北京の人民大会堂で開かれた抗日戦争勝利50周年記念式典で、江沢民は演説し、日本の戦争責任と台湾問題に言及した。その江沢民が98年11月に国家主席として来日し、滞日中に歴史問題すなわち戦争責任を執拗に強調した発言に対して、日本で反感をもつ人が激増した。詳しくは清水美和『中国はなぜ「反日」になったか』(文春新書、2003年)に譲る。 2005年夏の抗日戦争勝利60周年記念日を前にした、中国各地における政府黙認の反日運動の高まりは、近年の日本でおこる凶悪犯罪に不法滞在の中国人の関与が目立つこともあり、中国への嫌悪感、嫌中感を広げることとなった。 中国人留学生の不法就労が増加する一方、中国のめざましい経済発展により、今や日本の対外貿易額は、アメリカを抜いて中国が首位となった。最近になって中国在留邦人が約10万人になったのは、日系企業の中国進出が相次いだ影響である。なお日中国交正常化以後30年間の、日本文化の中国への伝播と影響を検証した、李文『日本文化在中国的伝播与影響(1972-2002)』(中国社会科学出版社、2004年)が刊行された。 日本の敗戦から60年、日本にとって中国は、親愛感と嫌悪感のないまぜになった国になった。ウン 戦後の日中国交史のおさらいになっていますね。中国共産党のしかける「歴史戦」にさらされて、日本人が嫌中に振れて行く様が述べられています。『日本にとって中国とは何か』1『日本にとって中国とは何か』2
2017.01.17
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図書館で『君たちに明日はない』という本を手にしたのです。この作品は山本周五郎賞受賞作とのことであるが・・・何といっても、最近読んだ『ワイルド・ソウル』が良かったので、借りる決め手になったのです。【君たちに明日はない】垣根涼介著、 新潮社、2007年刊<「BOOK」データベース>より「私はもう用済みってことですか!?」リストラ請負会社に勤める村上真介の仕事はクビ切り面接官。どんなに恨まれ、なじられ、泣かれても、なぜかこの仕事にはやりがいを感じている。建材メーカーの課長代理、陽子の面接を担当した真介は、気の強い八つ年上の彼女に好意をおぼえるのだが…。恋に仕事に奮闘するすべての社会人に捧げる、勇気沸きたつ人間ドラマ。山本周五郎賞受賞作。<読む前の大使寸評>この作品は山本周五郎賞受賞作とのことであるが・・・何といっても、最近読んだ『ワイルド・ソウル』が良かったので、借りる決め手になったのです。rakuten君たちに明日はないこの小説の語り口を、ちょっとだけ見てみましょう。p175~178 <オモチャの男> 監督は頑として自分の意見を譲らなかった。真介は必死に食い下がった。 ついに監督は妥協案を提示した。 「在京のちゃんとした会社に、正社員で勤めることが条件だ。今後の生活にちゃんと保険をかけておけ。そうしたら、土日のレースだけはセカンドライダーとして面倒をみよう」 屈辱の条件。それでも、言われたとおりにした。新橋にある中堅規模の広告代理店に入社して、土日だけサーキット場に向かった。自宅からレース用具を積み込んで移動するためのクルマも買った。中古のインテグラ。 が、1年が経ち、2年が過ぎ、次第に週末のサーキット場に誘われることもなくなっていった。どうやら監督は、もともとそのつもりだったらしい。そういうふうにして真介をこの世界からゆっくりとフェイドアウトさせるつもりだったのだ。 毎月決まった給料をもらい、以前よりもはるかに暮らし向きも良くなった。 反面、気持ちは荒れた。心にぽっかりと開いた穴をもてあまし、どうしようもなく寂しかった。虚しかった。気がつけば女に走っていた。肉の快楽に逃げ込んだ。合コン。ナンパ。ゆきずりのセックス。遊びまくった。会社での仕事も、以前にも増して最低限にしかこなさなくなった。当然、クビになり、今の会社に拾われた。 その時点でようやく目が覚めた。吹っ切れた。 今となっては分かる。自分に甘えていた。現実を見たくなくて、自分をごまかしていただけだ。なにかに縋りつきたかった。 まるで大好きな玩具を取り上げられたまま駄々をこねている子ども。そうだ。そういうことだ。 でもいつまでも子どもではいられない。これからも人生はつづく。生きていかなくてはならない。仕事を、ちゃんと仕事として捉えようと思った。 もうあの世界には戻れない。そう決心した時点で、不思議に女遊びもピタリと止んだ。自分が本当に向き合うことのできそうな相手としか、付き合いたいと思わなくなった。 階段を下りながら腕時計を見る。8時45分。廊下の先。真介用の面接室に使わせてもらっている、この会社の小会議室。足を進めていく。 好きな仕事をつづけるために、なりふり構わなかった緒方。オモチャの男。今の自分にないものを、あの男は持ちつづけようとしている。 うらやましいと思ったわけではない。 ただ、あんなに冴えないトッチャン坊やでもどこかで救ってあげられればと、無意識に願っていた。だから社長にこの件を詰められたとき、妙に苛立った。 ふたたび微笑む。 会議室の前まで来る。ドアを開ける。 あ。おはようございまーす。 先に来ていた川田美代子が、例によって間抜けな声を上げる。が、やはり安心する。今日は薄茶色のツーピース。 「おはよー」 と、真介も返す。しかしまあ、リストラ請負会社に勤める主人公という設定が、今日的でドラマティックであり・・・・官能的な箇所もまぶして、ちょっと泣かせるわけでおます。以前に読んだ『ワイルド・ソウル』を添えておきます。【ワイルド・ソウル】垣根涼介著、幻冬舎、2003年刊<商品説明>より遺恨、情愛、希望、再生。歴史の闇に葬り去られてしまう前に──。今、最後の矜持を胸に、国家を相手に壮大な復讐劇の幕が上がる! 嵌められた枠組みを打破するために颯爽と走り出した男女の姿を圧倒的なスケールと筆致で描く、史上最強の書き下ろしクライム・エンターテイメント1314枚!<読む前の大使寸評>史上最強の書き下ろしエンターテイメントとは、大きく吹いているで。読み始めると、ブラジル移民が出てくるお話のようです。かつて拓務省が、満州への入植を奨励したが・・・戦後、ニッポン官僚は棄民政策のようなブラジル移民を奨励したことが、知られていますね。役所のなかで三流と呼ばれる外務省、農水省、文科省などがあるが、この棄民を推進したのは外務省だったかな?高給で閨閥優先で知られた外務省の気風は、戦後70年にもなる現在、改善されているだろうか?<図書館予約:(11/27予約、12/15受取)>rakutenワイルド・ソウル
2017.01.16
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<豊洲移転判断の遅れ必至>都庁職員も驚く検査結果である。報道によれば、これまで8回の検査結果が疑わしいし、8回目までの検査会社には都庁OBが天下っていたとか・・・・2017.1.15豊洲移転判断、遅れ必至 市場地下水、基準79倍の有害物質より 東京都の豊洲市場(江東区)の土壌汚染を調べるため、都が2年間続けてきた地下水検査の最終結果が14日公表され、環境基準の最大79倍の有害物質が検出された。調べた敷地内の201ヶ所のうち72ヶ所から基準超の物質を検出した。ほとんどが基準値以下だったこれまでの結果と大きく異なることから、都は原因を詳しく調べる方針。築地市場(中央区)からの移転に向けた行程が遅れるのは必至だ。▼2面=想定外の水質■専門家会議、3月までに再調査 小池百合子知事は14日、記者団に「想定を超す値で驚いた。今後の方向性を(安全性を検討する)専門家会議などで議論いただき、日程もその結果次第」と話した。「食の安全重視」で移転を延期した小池氏は難しい判断を迫られる。 結果によると、検出されたのはベンゼン、ヒ素、シアンの3種類。地下水1リットルあたりの濃度を観測した結果、ベンゼン(環境基準は0.01ミリグラム)は35ヶ所で最大0.79ミリグラム、ヒ素(同)は20ヶ所で同0.038ミリグラム、シアン(環境基準は「不検出」)は39ヶ所で同1.2ミリグラムをそれぞれ検出した。環境省の資料によると、基準値は1日2リットルの地下水を70年飲み続けても健康に有害な影響がない濃度とされる。水銀と鉛は検出されなかった。 検査は、都が土壌汚染対策工事を終えた後の2014年11月に2年間の予定で開始。昨年6月公表の7回目までは基準値以下にとどまり、同9月公表の8回目で初めて基準の1.1~1.9倍のベンゼンとヒ素が3ヶ所で検出された。 都の専門家会議(座長=平田健正・放送大和歌山学習センター所長)は14日、今回の結果について、これまでとの変動が大きいため「暫定値」として公表。都によると、今回の調査は前回までとは違う調査会社が受託したという。採水方法などで実態と異なる結果が出ることもあるといい、平田座長は「原因は調査したうえで判断したい」。複数の会社に委託し、専門家会議が直接関わる形で3月までに再調査する。 一方で、今回の値について健康への影響を記者会見で問われた内山巌雄・京都大名誉教授は、地下水が環境基準を超えたとしても「飲むわけではなく人体に影響はない」と話した。 小池氏は昨年11月に移転に向けた行程表を公表。専門家会議の意見集約は今年4月の予定だが、今回の結果に関する再調査で、行程は遅れる見通しとなった。湾岸の埋立地造成は許されるとしても、豊洲市場移転先選定の不手際による経済的損失は大きかったようですね。思うに・・・移転先は東京ガスの工場跡地であり、盛り土でカタが付く程度の汚染レベルではなかったのではないか?食品市場の移転先としては、豊洲選定そのものに間違いがあったと言わざるをえないのだが。土壌汚染について、土壌汚染調査会社のサイトを覗いてみました。土壌汚染の原因と対策より 土壌汚染とは、重金属・有機溶剤・農薬・油などの物質が、自然環境や人の健康・生活に害を及ぼすほど土壌に含まれている状態のこと。 土壌汚染のおもな原因として、有害物質を取り扱う工場や排水施設からの漏洩、廃棄物の埋め立てなどが挙げられます。また、有害物質を取り扱う工場や埋め立て地などがない土地においても、自然発生的な土壌汚染が数多く発生しています。
2017.01.16
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図書館で『遥かなる海上の道』という本を手にしたのです。中華文明の痕跡を嫌う大使は、なにかにつけて「海上の道」説に惹かれるわけでおます。【遥かなる海上の道】小田静夫著、 青春出版社、2002年刊<「MARC」データベース>より最新の考古学データに基づき、日本列島をとりまく黒潮圏、特に、琉球列島、南九州、伊豆諸島、小笠原諸島で活躍した先史日本人の実像と現代日本人のルーツを検証する。海流によって育まれた幻の文化圏の秘められた実像を追う。<読む前の大使寸評>中華文明の痕跡を嫌う大使は、なにかにつけて「海上の道」説に惹かれるわけでおます。amazon遥かなる海上の道『海上の道』の成り立ちを見てみましょう。p47~50 ■柳田国男の直感より 日本民族学の祖とも呼ばれる柳田国男の著書『海上の道』は、1961年の最晩年に出版された。この単行本は、柳田が1950~60年の過去10年間に発表した論文を集めたものだが、民俗学の名著として現在まで読み継がれている。 巻頭論文の「海上の道」で、柳田は、日本文化の起源としての海上移住について詳細に論述し、あわせて海上移住者が定住後、どのような生活を展開していくかに視点を設定して、その過程を追及していった。 この『海上の道』構想の端緒をなしたのは、先にもふれたように柳田の学生時代の夏、愛知県渥美半島伊良湖崎でのココヤシの実の発見の思い出にあるといわれている。 その思い出を聞いた友人の島崎藤村はあの有名な「ヤシの実」を作詞し、一方、柳田は後にこの時のひと夏の体験を最晩年まで暖めて、柳田民俗学の総決算、遺書とまで讃えられるこの本に結実させたのである。 柳田の沖縄研究旅行は、1920年暮から翌年はじめの40日間、ただ1回という短期間のものだった。しかし、柳田のこの取材旅行にかける意気込みは凄まじいもので、事前に沖縄関係の全ての書物に目を通すという周到な準備をした旅であった。現地では豊富な沖縄研究の知識を得ようと時間を惜しむ程の行動力を見せたのである。地元で対応した研究者たちは、この柳田の精力的な行動と旺盛な知識欲に驚かされたという。そして、このことが契機になって、やがてウチナーンチュ自身による「沖縄研究」が開始されたともいわれている。 精力的な取材・研究の結果生まれた『海上の道』で、柳田が展開した日本人の祖先についての説はおおむね以下のようなものである。 中国の殷の王国では貨幣の一つに子安貝(宝貝)を多用していた。その産地は沖縄・宮古島のサンゴ礁の海にあった。 殷人たちは子安貝採取のために多数宮古島までやってきていた。彼らは当然稲作技術を知っていたので、やがて殷人たちは貝採取から稲作技術に転向し、宮古島から沖縄本島へ更に北上して九州本土に上陸した。稲作文化を基調にした日本人の祖先はこのように誕生したのではないか…。 ■『海上の道』再考 果たして今日の考古学的研究の成果から、この柳田国男が提唱した稲作文化の南方からの渡来説は成り立つのであろうか。 柳田が稲作技術をもって九州本土に上陸したと述べた時代は、縄文時代晩期~弥生時代初期の2000年前頃とされている。この頃は、九州本土と琉球列島との間で多くの文物が交流した時期であることは確かである。 沖縄本島の遺跡から、九州の弥生人が使用していた弥生土器、ガラス玉、青銅器などが発見されている。更に沖縄・奄美諸島からオオツタノハ、ゴホウラ、イモガイを利用した南海産大型貝製腕輪の貝殻貯蔵遺構が見つかっており、九州本土、瀬戸内地域に運ばれた貝の交易ルートが「貝の道」となって確立する時期でもあった。 今のところ柳田が拠り所とした稲作栽培については、この時期の琉球列島の遺跡からは確認されていない。しかし、イモ畑跡やアワ・ヒエなどの種子が沖縄本島の遺跡から検出されており、イモ類や雑穀類の栽培は確実なことから、もしかしたら陸稲栽培の可能性は残されている。 その証拠に、生物遺伝学の発達によって、近年、熱帯ジャポニカ種が大陸から琉球列島経由で北上するルートが推定されている。 柳田が提示した日本人の南方渡来ルートについて、今後の研究によっては、また新たな展開が期待できるかも知れない。フンフン 稲作伝来については、南方由来の陸稲説の可能性がまだ残っているようですね♪・・・とにかく殷人の痕跡が薄まることに大使は満悦でおます。
2017.01.15
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<NHKスペシャル『沸騰!14億人の投資熱』>11月末のNHKスペシャル『沸騰!14億人の投資熱』を観たのだが、刺激的であった。ウォール街商法が中国で解禁されると、どんな地獄が現出するか?という興味に尽きるわけで…怖い物見たさもあったわけです。2016.11.19成長産業にカネを流せ、14億人の資産の行方より 四半世紀ぶりに経済成長率が6%台に落ち込んだ中国。「世界の工場」と呼ばれ安い人件費に支えられた経済から、自力でイノベーションを起こせる“創新型国家”への転換が、至上課題となった。新たなベンチャー企業を量産し、次なる成長エンジンに育てることを目論む。しかし、その壁になっているのが「マネーの流れ」。 かつて国有企業が中心だった中国では、民間企業に融資する金融システムが立ち後れていた。そこで注目されたのが1800兆円に迫る個人資産の活用。国家の旗振りのもと、成長産業にマネーを流し込む役割を担うのが、経済首都・上海の民間・投資会社群だ。富裕層から資金をかき集め、有望なベンチャー企業に投資。一攫千金を狙うとともに、成長の芽を育てようという新たなマネーの潮流が出現した。 中でも脚光を浴びるのが、一般の人々からネットを駆使して小口の資金を集め、企業へ貸し出す新手の金融サービス。これまで株や不動産に投じられていた資金が、市場の低迷で一気に流れ込んだことで急成長した。中国政府もその力を認め、産業転換の下支えを託すまでになっている。 番組は女性経営者率いる新興投資会社と、中小企業向けインターネット融資の先駆となった金融仲介会社を主役に、官民あげて貪欲に成長を追い求めるマネーの新潮流を活写する。中国のネット金融の3割ほどがトラブルを抱えているそうで、まさにハイリスクな業界である。中国政府は、ネット金融規制を匙加減してコントロールしているのだが・・・人民の欲がそれを圧倒しているようです。確かに成長率に目を向けると、重厚長大な企業よりエンタメ企業が有望であるが・・・それは企業経営者の論理であるが、それが政府の経済論理であって・・・いいはずがない。インターネット金融が急成長する中国、製造業を飛び越えて、金が金を生む金融業が今の中国では成長産業である。金融に関する規制を緩くしているので、金融業の成長率はまさに青天井で、バブル状態である。この余るほどの資金は、世界経済との軋轢を増すし、中国国内の格差を拡大するわけで・・・これが経済破綻のトリガーとなるはずである。融資先調査の費用がアップしているそうで、それが騙し騙されの彼の地の特殊事情かも知れませんね。ところで昨今では、農地使用権の売買が可能になったとのことであるが…これなんかバブルの延命策あるいは、地方公務員の蓄財政策ではないかと勘ぐるのだが?
2017.01.15
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<『日本にとって中国とは何か』2>図書館で『日本にとって中国とは何か』という本を手にしたのです。「日本にとって中国とは何か」とは、古くて新しい課題といえるわけで…昨今の狂ったような中国の軍拡の行く先が気になるのです。【日本にとって中国とは何か】砺波護編、 講談社、2005年刊<みんなのレビュー>より遂に全巻完結。実にタイムリーな好著です。高校以来、中国の歴史を改めて学ぶことが出来、新たな発見・見識を獲得できました。<読む前の大使寸評>「日本にとって中国とは何か」とは、古くて新しい課題といえるわけで…昨今の狂ったような中国の軍拡の行く先が気になるのです。rakuten日本にとって中国とは何か明治維新から日清戦争あたりの中国が受けた衝撃を見てみましょう。p266~270 <中国史の中の日本:王勇>より■維新変法の手本 明治維新をきっかけとして、近代化をいそぐ日本は西洋の文物制度を積極的に導入するとともに、西洋列強の「負の遺産」も継承してしまった。台湾出兵をはじめ、しだいに欧米諸国のアジア侵略の共謀者となり、貪欲の魔手を隣国にのばすようになった。 1894年、日本は念願の大陸侵略を実現するため、朝鮮の権益をめぐって清王朝に戦争をしむけ、それが甲午戦争(日清戦争)の勃発となった。その結果、「天朝大国」は「サイ爾島夷」に大敗を喫し、清王朝は苦心して経営した北洋艦隊をあっけなく殲滅され、日本に銀二億両という巨額な賠償金の支払いを約束して、1895年4月に屈辱の「馬関条約(下関条約)」をむすんだ。(中略) 1895年4月17日、李鴻章は清王朝を代表して、下関の春帆楼で売国の「馬関条約」にサインした。条約調印のうわさが中国に伝わると、全国に大きな波乱が巻き起こり、康有為を中心とする愛国の知識人たちは、連名して条約拒否と変法実施の主張をまとめて、光緒帝に直訴した。史上に有名な「公車上書」の事件である。 亡国の危機に瀕した中国の有識者たちは、維新変法を清王朝に呼びかけ、その手本を敵国の日本にしたのである。康有為は光緒帝への直訴状のなかで、「土地と国民が中国の十分の一しかない」日本が明治維新によってわずか30年も経たないいちに強国となり、琉球と台湾を強奪し大清帝国を侵略したのだと分析し、弱肉強食の世の中で生きていくために「強敵を師資に」しようと力説した。 これまではごく一部の知識人にしか注目されなかった明治維新は、今や日本の奇跡的な変身をなしとげた「秘訣」として、民族の存続を真剣に考えざるをえなくなった人々から熱い視線を向けられるようになった。■百日維新 康有為ら知識人の八方奔走で、維新変法の気運がしだいに高まり、光緒帝も政治刷新の必要性を痛感するようになり、1898年1月24日に康有為を宮中に招きいれて変法の構想を聞き、ようやく改革に本腰を入れようとした。 そのとき、康有為は中国の変法を「日本の明治の政を治譜と為すべし」と力説し、具体的に真似るべき3項目を皇帝に提示した。つまり、「一に群臣と革旧維新を約束して天下の輿論を採択し万国の良法を取り入るること、二に宮内に制度局を開いて天下の通才20人を参与に徴用し一切の政事制度を見直すこと、三に待詔所を設けて天下の人々の上書を許すこと」というものである。 以上の3項目はいずれも明治政府の行った重大な政治改革の措置であって、康有為はそれを変法の綱領として推奨し、維新派の政権入りを強く期待していた。その後、康有為は明治維新を詳しく紹介した『日本変政考』を呈上した。それを読んだ光緒帝はついに変法の決意を固め、6月11日に「国是を明定す」る維新の詔をくだした。この日から西太后によるクーデターの勃発した9月21日までの103日間は、中国版の「明治維新」が試みられた。(中略) ところが、一連の変法措置は、既得権益の喪失を危惧していた保守派の顰蹙を買い、西太后を中心とする反対派からことごとく阻害された。9月になると、維新派の敗色はひとしお濃厚となってきた。まさにこの時、明治維新の主役だった伊藤博文が中国をおとずれてきた。 維新派は「溺れるものは藁をもつかむ」ような心境で、伊藤博文を政府顧問に起用しようと光緒帝に建言した。9月20日、光緒帝は伊藤博文を引見し、難局の打開策を伊藤博文の経験に期待したが、時期すでに遅し、その翌日に西太后のクーデターが演じられ、光緒帝はたちまち階下の囚人となり、百日維新もあっけなくピリオドが打たれたのである。■辛亥革命 清王朝を倒して国民政府を建てた孫文は、「中国近代革命の父」として尊敬されている。孫文の指導した辛亥革命が、日本と深い関わりを持っていることは、周知のとおりである。革命の幹部には多くの日本留学の経験者が加わっており、孫文自身もしばしば日本へ渡り、その数は15回にも達し、あわせて9年間ほど日本に滞在したのである。また辛亥革命の成功したのは、少なからざる日本人が貢献していたことも忘れてはならない。 1894年、孫文はかつて李鴻章に「救国救民」の方策を建言し、明治維新の経験を「人がよくその才を尽くし、地がよくその利を尽くし、物がよくその用を尽くし、商品がよくその流れをのびやかにす」と総括し、それらを中国の参照にすべきだとした。 右の建言は、当然のことながら李鴻章に受けいれられなかった。そこで、孫文は革命運動を行う以外に中国を救う道はないと判断し、1911年に武昌蜂起を引きおこし、民国政府の樹立に成功したのである。史上にいう「辛亥革命」である。『日本にとって中国とは何か』1
2017.01.14
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<『中国「歴史認識」の正体』2>図書館で『中国「歴史認識」の正体』という本を手にしたのです。まるで、ネトウヨのような石平さんの舌鋒がすごいでぇ♪生活のためとはいえ売国奴のような論調の石平さんであるが、その経歴を見ると愛国的であることが分かります。【中国「歴史認識」の正体】石平著、 宝島社、2015年刊<「BOOK」データベース>より「ご都合主義」でつくられる中国史の病巣。日本軍から逃げていただけの「抗日戦争」、尖閣諸島領有権、南京大虐殺ー。捏造された中国史観は打ち破れるか!嘘が真実に変えられる!<読む前の大使寸評>まるで、ネトウヨのような石平さんの舌鋒がすごいでぇ♪生活のためとはいえ売国奴のような論調の石平さんであるが、その経歴を見ると愛国的であることが分かります。rakuten中国「歴史認識」の正体中国の歴史学あたりを見てみましょう。p52~55 <辛亥革命で訪れた文明開化> 天命思想と正統思想に基づく「二十四史」の歴史観は、中国人を何千年も支配してきた。しかし、この支配が終わるかに思えた時期が存在する。それが辛亥革命(1911~1912年)後に現れた中華民国による大陸統治時代(1912~1949年)だ。 辛亥革命によって清王朝が打倒されると、古代以来続いていた皇帝が支配する専制国家は廃され、中国には共和制国家である中華民国が誕生した。ただし、権力基盤の不安定な中華民国は軍閥が割拠する内戦状態に突入する。 辛亥革命を主導した孫文の死後には、蒋介石が中心となり、全国統一を目指す「北伐」を行う。1928年に北伐が完了すると、内戦状態は落ち着き、中華民国は束の間の平和・安定期を迎える。その後、日中戦争(1937~1945年)や、中国共産党との戦いである国共内戦(1946~1950年)を経て、中華民国は大陸から撤退。現在のように台湾を拠点にするようになった。 革命の気運が高まった清王朝末期から、中華民国が大陸を統治し、なおかつ比較的平和だった1937年までは、中国で歴史上初めて、近代科学が花開いた時代だ。 ちょうど日本の文明開化期のように、中国には欧米諸国や日本からさまざまな文化・文明が一気に流入した。いろんな大学も設立され、そこで近代学問が本格的に扱われるようになる。 その意味では、中華民国による大陸統治時代は自由闊達な議論が行われた「百家争鳴」の時代だった。いろいろな人物が出てきて、近代科学に基いた新たな学問を提唱していった。まさに啓蒙時代である。 <梁啓超による伝統史学の批判と「新史学」の提唱> この啓蒙時代においては、政治・経済はもちろんのこと、歴史学の分野でも近代化が進められた。中華民国は古代から続いてきた易姓革命ではなく、近代的な市民革命によって誕生した国だ。長い呪縛から解き放たれ、歴史の作り手は官僚ではなく、政治から独立した学者が行われるようになった。 清王朝までの歴史学は、新しい王朝が自分たちを正当化して、前の王朝を貶めるためのものだった。一方、中華民国の学者たちは、政府におもねることなく、自由に学問を追及する。歴史を道具にした王朝美化・正当化の繰り返しがようやく終り、歴史学は初めて公正で客観的な学問となったのである。 近代科学に基づくこの時代の歴史学は「新史学」と呼ばれる。「新史学」の流れを作ったのが梁啓超(1873~1929年)だ。梁啓超は清王朝の官僚だったが、内部改革を行おうとして失敗。日本に亡命して近代学問を多く勉強し、再び中国に戻って新しい学問を提唱した。 最初に伝統史学への痛烈な批判を梁啓超が行うようになったのは、亡命先である日本においてだ。『新史学篇』という著作の中で、「中国の二十四史は歴史ではない。単なる二十四家の家譜にすぎない」と伝統的な歴史書を鋭く批判。この『新史学篇』というタイトルから、「新史学」という言葉が生まれた。 梁啓超は近代科学の観点から、二十四史とは李家とか、朱家のような各王朝を創始した一族の「家譜」でしかない、と論じた。皇帝一族の「家譜」である以上、その内容は一族を賛美するものとなる。結局、二十四史は以前の王朝の歴史を悪く書くように歪曲しながら、現在の王朝の正統性を主張するための粉飾と美化に終始する。そこには本当の歴史はないのである。梁啓超についてウィキペディアを覗いてみました。孫文に匹敵するほどの存在だったようです。wikipedia梁啓超より【思想・評価】・現在の中国語にも多くの和製漢語が使用されているが、その端緒を開いたのは梁啓超であった。胡適・毛沢東をはじめ、感化を受けた清末青年は多く、その意味でジャーナリストとしての梁は大きな足跡を残した。・梁啓超は知識や学問について書いた文章で、フランスのヴォルテール、日本の福澤諭吉、ロシアのトルストイを「世界三大啓蒙思想家」のトップとして紹介し、三人の生涯や功績を紹介している。・革命主義的な政治手法を激しく批判し、「開明専制」という国家主義的な思想を展開したこともあって、長らくその評価はあまり芳しいものではなかった。しかし日本における近年の中国近代史研究においては、梁啓超は研究対象として最も扱われている知識人となり、その存在感は孫文以上であると言っても過言ではなくなっている。その理由は、1980年代以降に起こった歴史学における分析視座の変化と大きく関わっている。『中国「歴史認識」の正体』1
2017.01.14
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図書館で『中国「歴史認識」の正体』という本を手にしたのです。まるで、ネトウヨのような石平さんの舌鋒がすごいでぇ♪生活のためとはいえ売国奴のような論調の石平さんであるが、その経歴を見ると愛国的であることが分かります。【中国「歴史認識」の正体】石平著、 宝島社、2015年刊<「BOOK」データベース>より「ご都合主義」でつくられる中国史の病巣。日本軍から逃げていただけの「抗日戦争」、尖閣諸島領有権、南京大虐殺ー。捏造された中国史観は打ち破れるか!嘘が真実に変えられる!<読む前の大使寸評>まるで、ネトウヨのような石平さんの舌鋒がすごいでぇ♪生活のためとはいえ売国奴のような論調の石平さんであるが、その経歴を見ると愛国的であることが分かります。rakuten中国「歴史認識」の正体石平さんの歴史認識を見てみましょう。p23~26 <中国のアジア支配に邪魔な日米同盟> 最近、中国主導で進めているアジアインフラ投資銀行(AIIB)の設立は、まさに「民族の偉大なる復興」に向けた一環だろう。中国が日本・アメリカ主導のアジア開発銀行というシステムに対抗し、中国主導の経済秩序を打ち立てアジアへの経済支配を強める。それこそがAIIB構想の本当の狙いがある。 要するに、習近平政権が目指しているものは、もう一度アジアで中国中心の新しい政治秩序と経済秩序を創り上げることだ。これを実現するために一番邪魔であり、障害になっているのが日米同盟である。アジアにおけるアメリカの軍事力と経済力、その同盟国である日本の絶大な経済的影響力は、中国にとって大きな障壁だろう。アジアで中国の新秩序を打ち立てるには、アジアからアメリカを追い出し、日本から切り離し、日本を孤立させなければならない。 その手段として用いられているのが「歴史戦」の展開なのである。日本に対して「歴史戦」を挑むことで、中国はいくつかのことを手に入れようとしている。 一つ目は、日米同盟の解消だ。そのため、中国はアメリカ国内で「対日歴史戦」の展開に力を入れている。日本がアジアを侵略したという根拠のないウソや捏造を増幅させ、アメリカ国民の日本への信頼を揺るがすのである。日米同盟の信頼性がなくなり、さらに日米同盟が崩れることになれば、中国のアジア戦略の半分は成功したと考えていいだろう。 二つ目は、中国はアジアにおける侵略的行為、拡張的行為を南シナ海や東シナ海で続けている。これはアジア諸国からすれば中国こそ現実の行為となっている。しかし、中国は日本に「歴史戦」を挑むことで、自分たちが現在進行形で南シナ海で行っている侵略行為を覆い隠す、あるいはアジア諸国の目を逸らそうとしている。 そのため、ことさらに「日本は昔、アジアを侵略した」と強調するのである。つまり、70年前の歴史を捏造し強調することで、今自分たちがやっている侵略行為からアジアの人々の目を逸らそうというわけだ。これが中国共産党政権のアジア戦略の一環と言える。 <政治のためにウソの歴史を堂々と語る> このようにして、中国はアジア支配の戦略推進のために、「歴史問題」を利用して「対日歴史戦」を展開している。その際、彼らにとって歴史は単なる道具にすぎない。歴史を単なる道具として利用するため、「歴史の事実」を尊重するつもりは最初からないのだ。むしろ、「歴史」を自分たちの都合のいいように利用するために、歴史に対する改ざんも捏造も辞さないのである。ウーム、官僚が作る「歴史」はかくも嘘っぱちになるのか・・・よどみのない論調であるが、概ね妥当であることが怖い。
2017.01.13
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今回借りた6冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「中国」でしょうか♪<市立図書館>・日本にとって中国とは何か・中国「歴史認識」の正体・毎日かあさん9<大学図書館>・君たちに明日はない・遥かなる海上の道・刀と首取り図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【日本にとって中国とは何か】砺波護編、 講談社、2005年刊<みんなのレビュー>より遂に全巻完結。実にタイムリーな好著です。高校以来、中国の歴史を改めて学ぶことが出来、新たな発見・見識を獲得できました。<読む前の大使寸評>「日本にとって中国とは何か」とは、古くて新しい課題といえるわけで…昨今の狂ったような中国の軍拡の行く先が気になるのです。rakuten日本にとって中国とは何か************************************************************【中国「歴史認識」の正体】石平著、 宝島社、2015年刊<「BOOK」データベース>より「ご都合主義」でつくられる中国史の病巣。日本軍から逃げていただけの「抗日戦争」、尖閣諸島領有権、南京大虐殺ー。捏造された中国史観は打ち破れるか!嘘が真実に変えられる!<読む前の大使寸評>まるで、ネトウトのような石平さんの舌鋒がすごいでぇ♪生活のためとはいえ売国奴のような論調の石平さんであるが、その経歴を見ると愛国的であることが分かります。rakuten中国「歴史認識」の正体************************************************************【毎日かあさん9】西原理恵子著、 毎日新聞出版、2012年刊<「BOOK」データベース>より連載10周年。息子の背が私を超えました。傑作描き下ろし「贈り物」と松本ぷりっつ「うちの3姉妹」とのコラボも収録。<読む前の大使寸評>サイバラの子育ても佳境に入っているが・・・相変わらずのゴーイング・ハー・ウェイのようでおます♪rakuten毎日かあさん9************************************************************【君たちに明日はない】垣根涼介著、 新潮社、2007年刊<「BOOK」データベース>より「私はもう用済みってことですか!?」リストラ請負会社に勤める村上真介の仕事はクビ切り面接官。どんなに恨まれ、なじられ、泣かれても、なぜかこの仕事にはやりがいを感じている。建材メーカーの課長代理、陽子の面接を担当した真介は、気の強い八つ年上の彼女に好意をおぼえるのだが…。恋に仕事に奮闘するすべての社会人に捧げる、勇気沸きたつ人間ドラマ。山本周五郎賞受賞作。<読む前の大使寸評>この作品は山本周五郎賞受賞作とのことであるが・・・何といっても、最近読んだ『ワイルド・ソウル』が良かったので、借りる決め手になったのです。rakuten君たちに明日はない************************************************************【遥かなる海上の道】小田静夫著、 青春出版社、2002年刊<「MARC」データベース>より最新の考古学データに基づき、日本列島をとりまく黒潮圏、特に、琉球列島、南九州、伊豆諸島、小笠原諸島で活躍した先史日本人の実像と現代日本人のルーツを検証する。海流によって育まれた幻の文化圏の秘められた実像を追う。<読む前の大使寸評>中華文明の痕跡を嫌う大使は、なにかにつけて「海上の道」説に惹かれるわけでおます。amazon遥かなる海上の道************************************************************【刀と首取り】鈴木真哉著、 平凡社、2000年刊<「BOOK」データベース>より戦国時代の合戦場、馬上で白刃を振るう武将、刀で渡り合う武士というイメージは後世に作られたものだった。では、戦場で日本刀はどのような役割を果たしたのか。日本人が白兵戦を嫌い、「飛び道具」志向であったことを明らかにし、特異な風習「首取り」の意味と刀との関わりを解明する。日本刀への幻想を振り払い、戦国合戦の実像が浮かび上がる。<読む前の大使寸評>追って記入rakuten刀と首取り************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き192
2017.01.13
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図書館で『日本にとって中国とは何か』という本を手にしたのです。「日本にとって中国とは何か」とは、古くて新しい課題といえるわけで…昨今の狂ったような中国の軍拡の行く先が気になるのです。【日本にとって中国とは何か】砺波護編、 講談社、2005年刊<みんなのレビュー>より遂に全巻完結。実にタイムリーな好著です。高校以来、中国の歴史を改めて学ぶことが出来、新たな発見・見識を獲得できました。<読む前の大使寸評>「日本にとって中国とは何か」とは、古くて新しい課題といえるわけで…昨今の狂ったような中国の軍拡の行く先が気になるのです。rakuten日本にとって中国とは何か華人のアイデンティティあたりを見てみましょう。p176~178 <華人のアイデンティティ> 東南アジアにすむ華僑・華人というと、中国との絆を大切にし、中国文化のもとに強い結束を誇っているというイメージがある。確かにタイ王国には、華人が漢字の看板を掲げた街があり、中国伝統の神々を信仰し、同郷のネットワークを動員して中国的な祭祀を行う行事もある。こうした現象を見て、中国人は強固なアイデンティティを持っているとする論調をしばしば見かけるが、これはことの一面しか語っていない。 漢族は18世紀以降、積極的に海を渡って外に出た。その多くが、男性の単身赴任者であった。渡航者が出稼ぎ先に定住することをおそれ、政策的に女性の渡航が禁止されたこともあって、多くの漢族の渡航者が、移住先で現地の女性と結婚するケースが多かった。 バーン・プラーの元村長もまた、中国向け米穀輸出の経路に沿って中国から渡ってきた男性を、父方の祖先とする。この系譜を見る限り、元村長は華人になることもできた。しかし、彼は中国人としてのアイデンティティは持っていない。 タイの親族関係は双系的である。つまり、生まれてきた子が、父方か母方のいずれの系譜に属するかは、固定的には決まっておらず、そのときどきの具体的な家族関係のもとで決まってくる。元村長の父親は、その姉のように中国人として生きる可能性もあったが、さまざまな事情から、タイ人というアイデンティティを獲得したのである。こうした現地社会に同化した渡航者の子孫は、決して少なくなかったと思われる。 現地社会に同化する道を選ばなかった人々のみが、華人として生きている。従って華人のコミュニティを調査して、中国との強い絆を発見したというのは、実は本末転倒であるといっても良いかもしれない。強い絆を常に自覚しながら生活しているから、彼らは華人でいられると言い換えた方がよいであろう。 <政治パフォーマンスとしての祖先への巡礼> フィリピン大統領コラソン=アキノ(当時)は、1988年に中国を訪問した際、北京に行く前に彼女の父方の祖先の郷里である福建省の鴻漸村を訪ねている。夫が暗殺されたことが契機となって大統領に選ばれたアキノは、フィリピンでも有数の華人の家柄の出身であった。彼女自身は父方の系譜のなかでは、鴻漸村許氏の第22世輩にあたる。曽祖父の許玉〇が19世紀後半に、この村からフィリピンに渡ったのである。 もちろんアキノはフィリピン人である。しかし、北京に赴いて中国の要人と会見する前に、祖先ゆかりの土地を巡礼することで、彼女は文化を中国と共有することを、中国の人々に印象づけることに成功した。これは、政治パフォーマンスとして理解すべきことであろう。 台湾独立問題が世界の注目を集めるなか、2005年には独立反対を主張する台湾の野党の要人たちが、あいついで中国を訪問した。そのときに、彼らは必ず祖先にゆかりの土地を巡礼する。さらに漢族の共通の祖先とされる黄帝の陵を、西安に訪ねる要人もいた。 そこで語られるメッセージは、台湾人もまた父方の系譜をたどれば、中国の大地に至るというものである。台湾人にとっても中国人にとっても、究極の共通の祖先は、炎帝、黄帝であるという。これもまた、祖先への巡礼の形をとった政治パフォーマンスである。 自分の民族アイデンティティを何にするか、という問題に直面する機会をほとんど持たない日本人は、こうした中国系の人々が発するメッセージを、しばしば読み誤まる。民族アイデンティティは、一義的に決まるものではない。華人の場合、自分の母方の系譜をたどれば、いま生きる社会に自らをつなぎ留めることができる。しかし、漢族であることを強調しようと思ったら、父方の系譜を顕示すればよい。 民族アイデンティティは、産まれや育ちで決まるのではなく、もちろん話している言語で決まるものでもない。自分がなろうとする民族になろうとするプロセスがアイデンティティの中核なのであり、その努力がいささかでも成功して他者に認められれば、その民族になり得る。そして人は、そのときどきの情勢に応じて、自らがなろうとする民族を変更することが可能なのである。 漢族の場合は、その文化を学ぼうと努め、輩フンを尊重する感覚を身に付けることが、そのアイデンティティを獲得する手順となる。祖先への巡礼の旅は、輩フンの感覚を持っていることの証である。そして、自己の祖先を正史のなかに見いだせば、その試みは成功したといっても良いであろう。漢族のアイデンティティといえば、以前は(清朝勃興あたりまでは)寛容さが見られたけど、昨今は不寛容さが目立つのです。この本は2005年発刊なので、その辺りは深く追求していないけど。
2017.01.12
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図書館で『小泉武夫のほんとうに美味い話』という本を手にしたのです。小泉さんといえば、以前『発酵する夜』という著書を読んだことがあり、発酵の権威として覚えていたのです。【小泉武夫のほんとうに美味い話】小泉武夫著、海竜社、2012年刊<「BOOK」データベース>より日本経済新聞夕刊に大好評連載中の「食あれば楽あり」より。よりすぐりのあの味この味101選。<読む前の大使寸評>小泉さんといえば、以前『発酵する夜』という著書を読んだことがあり、発酵の権威として覚えていたのです。rakuten小泉武夫のほんとうに美味い話ぶっかけ飯の愉悦を見てみましょう。p56~57 <ぶっかけ飯> ぶっかけ飯の快感に味をしめて以来、ずいぶんとこれを味わい、楽しんできた。比較的多かったのは、いろいろな具を卵でとじたものを丼飯にぶっかけたもので、簡単なうえにとても美味しいのでよくつくって今も賞味している。中でもニラの卵とじぶっかけ飯は大好物である。 まず我が輩流ニラ卵をつくる。ニラを洗って水切り後、4センチぐらいに切る。鍋にサラダ油を入れ、熱してからニラを加えて炒める。そこに溶きほぐした生卵を流し入れ、炒め合わせて、全体がぷっくりとしてきたら火を止める。上からだし汁を少々加え、塩、胡椒を適宜の味加減に降り込み、今一度全体を混ぜて出来上がり。 炊きたての飯を丼に八部目ほど盛り、そこにニラの卵とじをぶっかけて食うのであります。温かく、ずっしりとする丼を左手に持ち、箸を右手に持ってかっ込むようにして貪るその快感。まず鼻から、ニラ特有の快香と炒められた卵からの甘ったるい匂いとが一体となって抜けてくる。 それを口いっぱいに入れてかみ始めると、ニラのシコリシコリとした歯ごたえの中から甘いうまみが湧き出してくる。ホクホクとした卵からも上品なうまみと微かな甘みとが出てきて、飯からも優雅な甘みがチュルチュルと溶け出てきて、もう口の中は極楽模様と相成った。 さて、このニラの卵とじぶっかけ飯は、使う具によってさまざまな味を楽しむことができる。例えば、卵でとじる時、釜揚げのシラスを加えたものを丼飯にぶっかけると、シラスから湧き出てきた濃いうまみが全体を引きたてて絶妙である。またある時、ウィンナーソーセージを筒切りに細断し、それを加えたところ、こちらも飯に合ってとても美味しい丼となった。 しかし、これまでの最高傑作といえばカキ(牡蠣)を使うものであった。まずカキに片栗粉をまぶし、全体にからめる。それを一度、フライパンに落としたサラダ油で炒め、全体がこんがりとキツネ色になるまで焼き上げる。これをいったん皿に戻し、次に前述のようにしてニラの卵とじをつくり、そこにカキを加えてよく合えて出来上がり。これを丼飯の上からぶっかけて食べるのである。 潮の匂いのするカキから、とても重厚で押しの強いうまみがジュルジュルと溶け出してきて、油で染まった衣からはコクのある滑らかなうまみが出てきて、ニラと卵からも快香とうまみが湧き出てきて、飯からは上品な甘みも溶け出してきて、それはそれは感動ものの美味しさを味わえるのである。とにかく我が輩にとって、ぶっかけ飯は生涯の伴侶のようなものだ。中韓のぶっかけ飯といえば・・・天津飯とかデジクッパあたりになるのかな?でも日本とは食べ方が違うようです。つまり丼を手に持って口から離さずかっ込むという(わりと下品な)スタイルは日本だけではないか♪『小泉武夫のほんとうに美味い話』1
2017.01.12
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図書館で『日本伝統の町』という本を手にしたのです。目次を見ると、蒼々たる伝統的建造物群保存地区が並んでいるのです。【日本伝統の町】河合敦編、東京書籍、2004年刊<「BOOK」データベース>より故郷へ帰ってきたような、そんな心やすらぐ旅ができる町並みガイド。<読む前の大使寸評>目次を見ると、蒼々たる伝統的建造物群保存地区が並んでいるのです。町並みの種類としては、集落、宿場町、港町、洋館群、商家町、産業町、社家町、門前町、武家町・城下町となっています。amazon日本伝統の町鯖街道の中継地・熊川宿を見てみましょう。p48~50 <上中町熊川宿>福井県遠敷郡■海産物の通り道にして近江に近い要衝 熊川は小浜から京都にいたる鯖街道の中継地として発展した若狭国の宿場だ。若狭湾の海産物は古くから全長約70キロの若狭街道を経て都に運ばれており、特に18世紀後半からは鯖の水揚げが増え、鯖街道の呼び名が生まれたのである。さらに海産物に加え、日本海側の諸藩の物資を都へ運ぶ人や馬が常に行き来し、熊川は交易の重要な中継地点としての役割を果たしてきたといえる。 また、近江の国境に近いことは、この地の戦略的な重要性をも高めた。鎌倉時代には関所があったともいわれ、室町時代には要害の地として足利将軍直属の沼田氏が山城を構えている。 その熊川が宿場として整備されたのは、天正17(1589)年以降のこと。豊臣秀吉に重用された浅野長政が若狭の領主になると、熊川は軍事・経済上の要衝であるとして緒役免除の布告が出され、発展が図られたのである。 当時はまだ寒村だったが、この緒役免除の政策は代々の領主・藩主に受け継がれ、熊川は、江戸時代初期から中期にかけて約200戸が軒を連ねる最盛期を迎えることになる。■街道沿いに前川が流れ多様な建物が並ぶ町 熊川の景観に瑞々しさを添えているのが、街道沿いを流れる前川。北川上流と河内川から引き込まれた用水路で、400年もの歳月を通して枯れることなく人々の生活を支えている。 この前川とともに歩んできた宿場町は全長1.1キロで、北から下ノ町、中ノ町、上ノ町と続く。町の中心である中ノ町では道幅が広く、町奉行所、蔵奉行所や問屋、社寺があった。現在まで残る建物の代表格、問屋の萩野家は、間口の広い木造2階建てで、2階には虫籠窓がある。また、若狭街道は西国霊場の巡礼の道にもあたり、下ノ町、上ノ町には茶店の他、巡礼宿も多くあった。 熊川宿の建造物の特徴は、画一的でないところにある。街道に面して、平入、妻入の町家が入り混じって並んでいるうえ、その間に土蔵が建っていたることもある。古い町家では2階が低い厨子2階、新しいものでは本2階となり、屋根には地場産のいぶし瓦が葺かれている。鯖寿司が好きな大使は、小浜から京都にいたる鯖街道が気にかかるので・・・そのうち訪ねてみたいと思っているのです♪若狭鯖街道・熊川宿 葛と鯖寿しの店 まる志ん 観光案内より ●鯖街道「京は遠ても十八里」 その昔、大陸文化の玄関口として、小浜からたくさんの鯖をはじめ若狭湾の魚介類や多くの物資が京都に運ばれました。そのルートはいくつもあり最も盛んに用いられたのが、熊川から朽木・大原・八瀬を経て京都に至る若狭街道。通称「鯖街道」でありました。
2017.01.11
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図書館で『海のシルクロード』という本を手にしたのです。人民解放軍の海洋覇権にさらされて現在の中国沿岸にはロマンのへったくれもないのだが・・・古代から中世までは別で、『海のシルクロード』のロマンが感じられるのです。【海のシルクロード】辛島昇, 大村次郷著、集英社、2000年刊<「BOOK」データベース>より絹、香料、陶磁器、馬…。ジャンクやダウ船が風に乗り、港から港へと人類の夢を運んだ。十数世紀に亘る海上交易の壮大なドラマを探る、豊穣アジアの旅。<読む前の大使寸評>人民解放軍の海洋覇権にさらされて現在の中国沿岸にはロマンのへったくれもないのだが・・・古代から中世までは別で、『海のシルクロード』のロマンが感じられるのです。rakuten海のシルクロードインド西海岸あたりを見てみましょう。p62 <インド西海岸>■たわわに実る大粒の胡椒を求めて、東西の船がその港に入りつづけた インドの半島部にはアラビア海側の海岸線に沿って高い西ガーツ山脈が走り、海岸との間にケーララの狭い平野を生み出している。南西からのモンスーンは、その山に遮られて大量の雨を降らせる。山麓には林が茂り、その木々に巻きついた胡椒のつるに、緑の粒がたわわに実る。その実を求めて、ローマから、中国から、たくさんの船がやってきた。 海岸にはまた、一面に椰子の林が広がっている。実の白い果肉は絞られて油となり、実を包む繊維は撚られて丈夫な紐となる。その紐はダウ船外板の縫合に用いられた。鄭和の随行者馬歓は、コチを胡椒の一大産地とし、カリカットの項では、「」と述べている。 中国船がもたらすもので人気があったのは錦綺(あやぎぬ)のような織物であったが、種々の技術や文化ももたらされた。チーナ・ヴァラー(中国漁網)と呼ばれる大掛かりな四つ手網は中国人のものであったらしく、また、ケーララの舞踏劇カタカリは、役者の顔の隈取に、京劇との類似が見て取れる。カタカリ 深い交渉を持ったのは中国人だけではない。古くから西方の来訪者が絶えず、キリストの十二使徒の一人、聖トマスがやって来て布教したという伝説もある。それ故ケーララには、大航海時代以降の改宗者に加え、それ以前からのシリア派クリスチャンが多く見られる。さらにまた、同様に古くやって来たユダヤ教徒も、未だにコチに住みついている。 ケーララの港は山脈を背に、一見、マレー・スマトラ型の港市国家をも思わせるが、大きな違いは、その後ろに、常に大国家が存在したことである。15世紀のティムール朝の使者アブドール・ラザークも、16世紀ポルトガルの馬商人ヌーネスやパイスも、7重の城壁にかこまれたヴィジャヤナガル王国の首都を訪問するために、それぞれカリカットとゴアから西ガーツ山脈を越えて行ったのである。現在の中印関係は犬猿の仲であるが、鄭和のいた頃は友好的だったようですね。『海のシルクロード』が、友好の道であるところが、ええでぇ♪『海のシルクロード』1
2017.01.11
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図書館で『民家造』という本を手にしたのです。パラパラとめくると、カラー写真やモノクロ写真が多く、大使の好きなビジュアル本となっています。【民家造】安藤邦広著、 学芸出版社、2009年刊<みんなのレビュー>よりカラー写真や白黒の写真が思った以上に豊富。前半は「素材を生かす技」ということで民家に使われる素材(材木の使い方など)について、後半は「暮らしを映すかたち」というテーマで、暮らし方などが見えてくる内容になっています。<読む前の大使寸評>パラパラとめくると、カラー写真やモノクロ写真が多く、大使の好きなビジュアル本となっています。rakuten民家造仏国寺の松朝鮮半島と日本の松文化を見てみましょう。p52~55 <松文化の成立> 古代朝鮮に栄えた新羅の国(4~10世紀)の古都慶州は、日本の奈良に相当する歴史的都市である。市内に残された多くの古墳は古墳公園として保存され、往時の繁栄を偲ぶことができる。高麗芝で覆われた古墳は緑の丘で、樹木はない。古墳のまわりは整備されたマツ林で、マツの落ち葉で赤く染まった地面と芝生の緑の対比が美しい。(中略) マツは陽樹で痩せ地に強く成長も早い。多くのマツ林は山火事や人為的に森林が破壊された跡に生じた二次林であり、そのまま放置すると、広葉樹林に遷移していく。しかし定期的に伐採するとマツ林は維持され、薪炭や肥料を採集する里山として農村の生活を支えてきた。また海岸の防風林としてあるいは街道の並木としてマツの特性が生かされ、生活に密着して親しまれてきた。 マツが日本人の生活にとっていかに重要な木であったかは、絵画や文学の題材として最も頻度の高い木がマツであることに表れている。また松竹梅といわれるように、縁起の良いものの筆頭として、正月を象徴する木として、樹木の第一位を占めてきた。 日本列島より農耕と仏教の伝来および製鉄と製陶の普及も早かった朝鮮半島では、寒冷な気候に加えて度重なる戦火も相まって二次林としてのマツ林への変化も早かった。その結果、朝鮮半島の木造建築はほとんどすべてがマツ材でつくられているといっても過言ではない。 柱梁から床板や建具、家具に至るまでマツが使われてきた。それはマツ以外に選択の余地がないというほどの徹底ふりである。朝鮮半島は日本列島に先駆けて成立した松文化の先進地といえる。慶州の古墳公園の芝生と松林の風景は、このような朝鮮半島の松文化を象徴するものなのである。 このようなマツが日本人の暮らしに根づいたのはいつ頃からであろうか。近年の環境考古学の成果によれば、地中に堆積した花粉を分析するとおよそ1500年前からマツの花粉が急激な増加を見せ始め、この頃から日本にマツ林の風景が広がったと考えられている。この頃は古墳時代にあたり、森林を切り開いて稲作農耕が日本各地に広がる時期と重なる。 北九州に伝来した稲作が4世紀にすでに関東地方に達していた。また6世紀の仏教の伝来により壮大な寺院建築の建造も活発になる。そのために日本の原生林は後退し、その二次林としてマツ林が出現したのであろう。このマツ林の拡大に拍車をかけたのが、たたら製鉄と製陶であった。その燃料としての大量のマツの薪炭が必要とされたのである。 農耕文化の普及によってマツ林が広がったといっても、温暖で森林資源に恵まれた日本列島では、原生林の後退が比較的穏やかであったことは、古代から中世の社寺や寝殿の建築用材にヒノキやケヤキが主として用いられていることに表れている。この時代にはマツの使用は主に小屋梁にとどまっていた。 日本でマツが建築の主役を占めるのは室町時代から戦国時代にかけての頃である。この時代に庶民の住まいとしての民家が成立する。度重なる戦乱に加えて、庶民が本格的な住宅を求めるという建築生産の急増に応えたのがマツであった。室町時代末に日本列島で朝鮮半島と同様な松文化が成立したのである。『民家造』1
2017.01.10
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図書館で『民家造』という本を手にしたのです。パラパラとめくると、カラー写真やモノクロ写真が多く、大使の好きなビジュアル本となっています。【民家造】安藤邦広著、 学芸出版社、2009年刊<みんなのレビュー>よりカラー写真や白黒の写真が思った以上に豊富。前半は「素材を生かす技」ということで民家に使われる素材(材木の使い方など)について、後半は「暮らしを映すかたち」というテーマで、暮らし方などが見えてくる内容になっています。<読む前の大使寸評>パラパラとめくると、カラー写真やモノクロ写真が多く、大使の好きなビジュアル本となっています。rakuten民家造板の間のあたりを見てみましょう。神戸市にある箱木千年家も載っています。p128~130 <板の間> 板の間は地面から床を上げて、板張りとした床であり、このような地面から床を上げて暮らす形式は、夏の湿気から逃れるためであり、一般的に南方の文化に由来するものといえる。 弥生時代に南方から稲作農耕が伝えられるとともに、日本列島の住まいに南方の居住様式が取り入れられる。南方の高床といえば人の背丈を超すほどの高床であり、これに匹敵する高床建築で日本に現存するものは、南西諸島の高倉などの穀倉に限られる。 住まいとしての高床建築としては古墳時代の副葬品に描かれたものや埴輪にその形を確認できる。現存しているものとしては、奈良時代の寝殿造の遺構とされる法隆寺東院んお伝法堂が最も古い。しかしこの寝殿造の高床は数十センチの高さで、構造的にも高倉とは異なるので、高床と区別する意味で揚床または床上と呼ぶ場合もある。寝殿造はこの高床の板敷きに最大の特徴がある。 民家の板の間はこの寝殿造の高床にその系譜を遡ることができる。現存する日本最古の民家である神戸市の箱木家住宅は室町時代の終り頃(15世紀)につくられたものとされる。この民家の接客空間は板の間で、庭に面した前側に設けられるので、前座敷型の間取りと呼ばれ、近畿地方の古い民家に共通する特徴となっている。 座敷といっても接客空間という意味で、床が板張りであることに加え、壁も板壁、建具も板戸であり、板の間とは文字とおり板でつくられた部屋であることが理解できる。このような板材は、太くて質の良い材を楔で打ち割ってつくられ、縦挽き鋸のない時代の製材技術を考慮すると、板を用いることは最も高級な仕事であった。 15世紀に製材法の革新によって民家の接客の場としての板の間をつくることが可能になる。それは貴族住宅の形式を取り入れて、その文化を受入れようとした民衆の願いの表れといえる。貴族文化の先進地域であった近畿地方で、いち早く接客空間として板の間を導入した民家形式ができあがったのである。 一方、東日本の民家の板の間は江戸時代に入ってから導入され、土間に面した広間として吹き抜けの大空間を構成する。その中心に大きないろりを据えた、生活空間と接客空間が一体となったいわゆる広間型民家が形成される。 西日本の前座敷型間取りが庭に面して接客空間を設けているのに対して、東日本の広間型民家が土間に面して接客の場を設けているのは、東日本の民家が土間を中心に構成され、その土座住まいの伝統の上に板の間が導入されたことを示している。 江戸時代以降、前挽き大鋸(まえびきおが)の普及により木材資源に恵まれた東日本の板の間は、床の板張りや幅広い板を用いた帯戸に加えて、四角に製材された木材をふんだんに使った柱と梁の木組みが重厚で雄大な木造空間を構成し、民家建築の最大の見せ場をつくりあげている。ウン 東西の民家の違いがよくわかる説明ですね。それから…貴族文化の先進地域であった近畿地方というくだりが、なんとなく上方意識をくすぐるわけでおます♪
2017.01.10
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<かわぐち漫画の原点>NHKの「浦沢直樹の漫勉」シリーズをよく見ているのだが、昨晩は「かわぐち漫画」を再放送していたのです。「浦沢直樹の漫勉:かわぐち漫画」より 「沈黙の艦隊」「太陽の黙示録」といった大ヒット作を生んだ現場へ密着する。漫画家としてデビューしてから15年近く、ヒットが生まれずに苦しんだかわぐちが、ブレイクするきっかけとなった技法が語られる。また、無骨なイメージとは異なる、緻密で繊細なかわぐち流の仕事術が、明らかにされる。浦沢:かわぐちさん、あるときから「人物の目」が大きくなったじゃないですか。かわぐち:「感情は目で表現されるので、小さいとわかりづらい」という編集者のアドバイスがあって。最初は突っ張っていたんだけど、あるとき描いてみると「おお。意外に違うな」と。目で伝える感情というのは大事なんだと気がついた。ポップ感を狙ったのかもしれないけれど。アクター、沈黙の艦隊あたりで、目の表現に注力するようになってブレークしたが・・・デビューして49年、68歳の現在も、週間、隔週の6本の仕事に追われているわけで、けっこう楽しみでこなしているのがすごい。かわぐちかいじが作画手順を語っていたが・・・・せりふが先とのことで、このあたりに黒澤作品に憧れた映画好きの特徴が表れている。創作ノートがちらっと見えたのだが、映画のシナリオとほぼ同じであることに驚いたのです。漫画家のモチベーションとしては、「絵が好きであること」を挙げていたが、まずシナリオを作るあたりが、ストーリー漫画の申し子なんだろうね♪以前に、読破した『ジパング』を紹介します。【ジパング1】 かわぐちかいじ著、講談社、2001年刊<出版社/著者からの内容紹介より>想定不能事態、勃発!!海上自衛隊所属、最新鋭護衛艦「みらい」。原因不明の暴風雨に遭遇。すべての僚艦、失踪(ロスト)。通信・衛星、ともに感無し。そして目の前に現れたのは……。(太平洋戦争は)今から考えれば、とんでもない事態なのだが、それをとんでもないと考えない人々も当時はいたようだ。そのギャップってなんだろうという問いから、この物語を始めたい。――かわぐちかいじ<大使寸評>このシリーズはブックオフで25巻まで購入したが、きりがないので、そのあとは漫画喫茶に通って全巻読破しました。過去にタイムスリップしてご先祖様と戦うという映画は「戦国自衛隊」や「ファイナル・カウントダウン」がありましたね。歴史にIFを持ち込むと夢想が膨らみ止め処がないが、大使はこの種のSFが好きなんですね。ウィキペディアのジパング の膨大な説明に、説明者の思い入れがよく現れているけど、もろにネタバレになっているので・・・そこそこに読み飛ばす必要があります。Amazonジパング1「ジパング」読破byドングリ
2017.01.09
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ダイバーシティ研究所代表理事の田村太郎さんがオピニオン欄で「人材、アジアで融通し合おう」と説いているので、紹介します。(田村さんのオピニオンを1/08デジタル朝日から転記しました) 日本で働いて暮らす外国人が増えています。政府は移民を認めていませんが、国際的にみれば、移民同様の存在です。建前と本音を使いわける政策が続くなか、弊害も出ています。受け入れの是非を正面から議論するときが、すぐそこに来ているのかもしれません■人材、アジアで融通し合おう 田村太郎さん(ダイバーシティ研究所代表理事) 格安航空会社の登場やインターネットの普及で、国境を越えるハードルがこの10年で下がりました。高い賃金より自分らしい生き方を求め、国を転々とする人もいます。移民という言葉ではくくれない、新たな人の移動が起きているいまこそ、アジア全体を視野に入れた議論を始めるときです。 国際的な人の移動の要因には、送り出す側の「プッシュ」と呼び込む側の「プル」があります。少子高齢化が加速する日本では「プル」は強まっていますが、アジア各国では経済成長で「プッシュ」が弱まっています。一方、欧州に移民が押し寄せているのは、中東情勢の不安定化により「プッシュ」が増大しているためです。 日本はもはやアジアで唯一の経済大国ではなく、外国人からみれば自国の何倍もの賃金をもらえる国でもない。門戸を開けば、人がわっと押し寄せると心配されたのは、もう20年以上前の話です。生活支援政策を充実させなければ、だれも日本には来なくなります。 少子高齢化は中国や韓国でも進んでいます。日本人の介護福祉士が国外へ働きに行くかもしれません。すでにフィリピンにはカナダなどの国々が、専門学校を作ってケア人材の確保に動いています。国際的に人材の奪い合いが起きているなか、アジア全体の少子高齢化を見据えた議論を、日本が呼びかけるべきです。 具体的には、ケアにかかわる資格をアジアで共通化し、先行して高齢化が進む日中韓と、まだプッシュの余力のある東南アジアとをつなぐようなしくみを作っていくことが考えられます。アジア全体でケア人材の育成に取り組み、融通しあう発想です。 * 地域に魅力を感じて根を下ろす外国人を増やしていく必要があります。様々な在留資格で来日し、永住資格を持つ外国人はすでに70万人以上いるわけですから、国には日本語教育の充実と、通訳や翻訳者の養成に本気で取り組んでほしい。 異なる人たちと接することに不安を抱くのは当然です。不安を減らすには、出会っていくしかありません。外国人に偏見があった人でも、○○さんと固有名詞でつながると意識が変わる例を、私は数多く見てきました。治安の悪化を懸念する声もありますが、外国人の犯罪検挙者数は減っています。 愛知県の県民意識調査では、はじめ外国人の存在を否定的に見る人が半数以上いたのが、生活支援や住民との交流を進めたところ、肯定的にとらえる人の方が多くなったという結果があります。 これまで外国人住民が増えても大きな問題が起きなかったのは、地域の人たちやNPO、自治体が熱心に共生に取り組んできたからです。こうした素地も生かしながら、「うちの街でチャンスをつかみたい人は、だれでも来てください」と自治体が競い合えば、地方創生にもつながります。 * 改めるべきは、外国人を単に安い労働力としてみなす発想です。外国人技能実習制度は、違法行為が後を絶たず、職業選択の自由もありません。国連や米国から長年、「人身売買」と批判されており、早くやめた方がいい。 子どものときに教室で外国人と机を並べた経験のある人が、社会で仕事を始めています。家庭科共修世代の男性は家事や育児の分担意識が高いと言われるように、外国人とともに育った世代では、日本社会の一員として外国人を迎え入れることに抵抗感のない人が増えていくでしょう。 漠然とした不安を理由に議論を避けるのではなく、アジア全体の変化を認識したうえで、受け入れの是非を冷静に話し合っていくべきです。(聞き手・北郷美由紀) ◇田村太郎:1971年生まれ。阪神大震災を契機に多文化共生のための調査・提言活動を展開。復興庁復興推進参与も務める。(ニッポンの宿題)移民の受入れ方田村太郎2017.1.08この記事も 朝日のインタビュー記事スクラップR2に収めておきます。
2017.01.09
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図書館で『小泉武夫のほんとうに美味い話』という本を手にしたのです。小泉さんといえば、以前『発酵する夜』という著書を読んだことがあり、発酵の権威として覚えていたのです。【小泉武夫のほんとうに美味い話】小泉武夫著、海竜社、2012年刊<「BOOK」データベース>より日本経済新聞夕刊に大好評連載中の「食あれば楽あり」より。よりすぐりのあの味この味101選。<読む前の大使寸評>小泉さんといえば、以前『発酵する夜』という著書を読んだことがあり、発酵の権威として覚えていたのです。rakuten小泉武夫のほんとうに美味い話「猫まんま」やぶっかけ飯の愉悦を見てみましょう。p74~75 <塩辛飯> ぶっかけ飯の大好きな私が最も好むのは、丼に飯を七分目ぐらい入れ、そこに削り節を多めにまき、その上から菜っ葉の味噌汁をぶっかけた、意外にシンプルなやつだ。人によっては「猫飯」とか「猫まんま」なんて呼んでいる。今の猫は美食家が多いからまたいで通るかもしれないが、昔はドラ君やミケちゃんもタマちゃんも目の色変えてたくましく食っていた。 そのぶっかけ飯の快感がずっと忘れられず、今も大いに楽しんでいるのであるが、私が思うにぶっかけ飯には、二つの型がある。その一つは汁型、他方は半汁半固形型で、前者は味噌汁や吸い物のごとき汁ものをぶっかけ、後者はイカの煮付け、肉じゃがなど、汁を伴った固形状のものをぶっかけるものである。街で流行の「牛丼」なんていうのも後者に入るだろう。 実はこのところ、その半汁半固形型のぶっかけ飯が好物となり、ガツガツと貪っている。中でも大好物なのが自家製のイカの塩辛汁のぶっかけ飯だ。新鮮なイカを丸のまま買ってきて、外皮をはいでから外套も胴も足も細い切り身とし、それにたっぷりの腸を加えて和え、それに塩も加えて仕込む。それを1週間ぐらい寝かせたものだ。 炊きたての飯を丼に盛り、思い切り気前よく、殿様になった気分で大胆にその塩辛をドバッとぶっかける。塩辛はやや赤みと桃色を帯びた代シャ色で、そこにやや大きめに細切りしたイカ肉身がゴロゴロと漬かっている。それが、飯の真っ白い肌と絶妙に似合ってまぶしく、妖しさを秘めるほど官能的ですらある。それを、ざっと軽く箸でかき混ぜると、飯の一粒一粒が代シャ色に染まっていく。それを貪るのだ。 鼻からまず潮の香りのような肉感的匂いがスーッと入ってきて、次にかむと、飯からの上品な甘み、塩辛の腸からの濃厚なコクみ、ムッチリとしたイカ肉からのうまみが口中に広がる。ああ、日本に生まれてきて幸せだなあ、とつくづく思う。 このわた(ナマコの腸の塩辛)は高級な塩辛であるが、実はうれしいことに昨年暮れに一瓶手に入った。ウヒヒヒとほほ笑み、大胆だぞそれは、と思われるかもしれないが、大型の匙で二杯分ぐらいを飯にぶっかけて食った。すばらしい潮の香りと塩馴れした腸のうまみが飯の甘みと合って絶妙であった。 ほかにカツオの酒盗、アユのうるか、サケのメフン(背腸)でもぶっかけ飯にしているが、どれも一等賞の味がする。小泉さんは「イカの塩辛汁のぶっかけ飯」が好物だそうだが・・・・大使の好物は「カツオの酒盗汁のぶっかけ飯」である。まあ同類でしょうけどね♪以前に読んだ『発酵する夜』を紹介します。【発酵する夜】小泉武夫著、新潮社、2002年刊<「BOOK」データベース>より荒俣宏とは「世界一臭い缶詰」を開けながら、椎名誠とは上海でビールを飲みながら......「食の冒険家」小泉教授が、東海林さだお、日高敏隆、立川談志、杉浦日向子、村上信夫、高橋昇、南伸坊、嵐山光三郎ら、食にうるさい10人と、日本のうまみの原点「発酵」の薀蓄談義。臭くてうまい肴をつまみに、お酒とともに豪快愉快な対談がグイグイと進む!<読む前の大使寸評>著者が対談した食にうるさい10人というのが、すごい♪Amazon発酵する夜
2017.01.08
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「泉北をつむぐ まちとわたしプロジェクト」代表)の石橋尋志さんがオピニオン欄で「楽しめる街、僕ら世代が動く」と説いているので、紹介します。とかくニュータウンとは一過性で…放っておけばオールドタウンになる事例はことかきませんね。(石橋さんのオピニオンを1/06デジタル朝日から転記しました) 高度経済成長期、ニュータウンは夢のマイホームの舞台として憧れの的でした。国土交通省によると、大小合わせて全国に2009あり、開発区域を合わせると大阪府とほぼ同じ面積になります。でも、造成開始から数十年がたち、街も人も老いてオールドタウンと揶揄されるところもあります。ふるさとがこの先も輝き続けるために、何ができるでしょう。■楽しめる街、僕ら世代が動く 石橋尋志さん(「泉北をつむぐ まちとわたしプロジェクト」代表) ニュータウンの再生に、絶対の正解はありません。あるべき姿の考えも、人それぞれに違うでしょう。私たち市民ができることは、可能性のある事業を取りそろえ、それが時流に合って「化ける」のを待つこと。これは、全国どこでも応用できることだと思います。 私が生まれ育った堺市の泉北ニュータウンは、1967年から入居が始まりましたが、他と同じく急激な高齢化が進んでいます。堺市の予測では、2040年の高齢化率は45.4%。限界集落間近です。近年は若者世代が住みたいと思う、きれいでおしゃれな住宅が足らず、結婚を機に親元を離れる20代、30代の転出が目立ちます。人口は25年前のピークの16万5千人から、13万人に減りました。 住宅などハード更新は行政や住宅供給者の役割で、私たち市民はソフト更新の担い手という位置づけです。住んでいて楽しい、住民をひきつけるまちになるには、ソフトの力も欠かせませんから。市民自らがまちを再生する取り組み「泉北をつむぐ まちとわたしプロジェクト」には20代から70代の53人が集まり、メンバーの6割以上を40代までが占めます。 * 若手が多いのは、堺市の担当者が3年前の最初の募集から、戦略的に動いたためです。市の広報誌で募集しても若者には届かないので、まちづくりのメールマガジンやフェイスブックを活用しました。会議は平日の夜か土日のみ。チラシ作りや採算の考え方、おしゃれな事業と感じてもらうための発信の仕方を学ぶ講座なども用意され、勉強を重ねています。 メンバーが街中を歩き回り、泉北の良さを再確認して事業のネタを掘り起こします。発案者がリーダーになって賛同者とチームを結成、議論しながら事業計画を組み立てる。秋に市民向けのお披露目会を開き、実際にイベントとして打ち出して反応を探り、これも踏まえて事業の可否を決める。これを、1年単位で繰り返します。 僕が直接かかわる「泉北レモンの街ストーリー」は、戸建て住宅の敷地が平均300平方メートルと広い利点を生かした取り組みです。庭にレモンの苗木を植えてもらい、まち全体を一大果樹園にする。収穫したら生や加工品で売り、収益は再投資に回します。いずれ規模を広げて特産品として地場産業に育て、雇用も増やしたい。すでに「泉北レモン」で商標登録を済ませ、販路も複数、確保しました。 原則は「自分が楽しめる」「まちの課題を解決できる」「採算性があり事業が継続できる」の三つ。楽しいボランティアで終わるのではなく、持続性がポイントです。メンバーは毎年追加募集し、すでに八つの事業が具体化されました。堺市はプロジェクトの大枠を示し、広報を手伝うだけで、各事業の企画と実行は市民の役目。補助金はいっさいありません。 * ニュータウンの再生を考えるとき、意外に大きいのは親世代との意識の差です。 親世代は、緑が多く歩車分離が徹底し、徒歩圏で何でもまかなえる先端都市・泉北に憧れて移ってきました。だから古くなった住宅なども「入居時のピカピカの姿に行政の力で戻してほしい」という、リフォーム意識が強い。住宅街の各所に働く場をつくるような、まちの形を変える「リノベーション」には抵抗があります。 逆に、生まれ育った僕たち世代は、あまり抵抗がない。しかも、子ども時代をともにしていて仲間意識が強く、協力関係が築きやすい利点もあります。 だからこそ、僕たち世代が主体になり、より若い世代までもが住みたいと思う、時代にあったまちづくりを担っていかなくては、と考えています。(聞き手・畑川剛毅) ◇石橋尋志:1978年生まれ。大学卒業後、泉北に戻り、夏祭りや地域イベントなどの市民活動に携わる。地元工務店の営業職。(ニッポンの宿題)老いるニュータウン石橋尋志2017.1.06この記事も 朝日のインタビュー記事スクラップR2に収めておきます。
2017.01.07
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今回借りた5冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「建築」でしょうか♪<大学図書館>・民家造・日本伝統の町・海のシルクロード<市立図書館>・あんぽん・小泉武夫のほんとうに美味い話図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【民家造】安藤邦広著、 学芸出版社、2009年刊<みんなのレビュー>よりカラー写真や白黒の写真が思った以上に豊富。前半は「素材を生かす技」ということで民家に使われる素材(材木の使い方など)について、後半は「暮らしを映すかたち」というテーマで、暮らし方などが見えてくる内容になっています。<読む前の大使寸評>パラパラとめくると、カラー写真やモノクロ写真が多く、大使の好きなビジュアル本となっています。rakuten民家造************************************************************【日本伝統の町】河合敦編、東京書籍、2004年刊<「BOOK」データベース>より故郷へ帰ってきたような、そんな心やすらぐ旅ができる町並みガイド。<読む前の大使寸評>目次を見ると、蒼々たる伝統的建造物群保存地区が並んでいるのです。町並みの種類としては、集落、宿場町、港町、洋館群、商家町、産業町、社家町、門前町、武家町・城下町となっています。amazon日本伝統の町************************************************************【海のシルクロード】辛島昇, 大村次郷著、集英社、2000年刊<「BOOK」データベース>より絹、香料、陶磁器、馬…。ジャンクやダウ船が風に乗り、港から港へと人類の夢を運んだ。十数世紀に亘る海上交易の壮大なドラマを探る、豊穣アジアの旅。<読む前の大使寸評>人民解放軍の海洋覇権にさらされて現在の中国沿岸にはロマンもへったくれもないのだが・・・古代から中世までは別で、『海のシルクロード』のロマンが感じられるのです。rakuten海のシルクロード************************************************************【あんぽん】佐野真一著、小学館、2012年刊<みんなのレビュー>より佐野眞一著の「孫正義伝 あんぽん」を読みました。孫という名字から「在日の人なのかな?」とは思っていましたが、「あ、やっぱりそうなんだ。」とまずは思いました。在日の方に対する日本人の差別は今に始まった事ではありませんが、私が思っていた以上に差別があるのには驚きました。まず、在日の方は官僚(公務員)になれないのにはビックリしました。<読む前の大使寸評>今では、トランプさんとサシで話をするほどの経済人であるが…起業したてのころは、かなりはったり気味で、胡散臭かった孫さんだったことを覚えています。rakutenあんぽん************************************************************【小泉武夫のほんとうに美味い話】小泉武夫著、海竜社、2012年刊<「BOOK」データベース>より日本経済新聞夕刊に大好評連載中の「食あれば楽あり」より。よりすぐりのあの味この味101選。<読む前の大使寸評>小泉さんといえば、以前『発酵する夜』という著書を読んだことがあり、発酵の権威として覚えていたのです。rakuten小泉武夫のほんとうに美味い話************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き191R
2017.01.07
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図書館で『漂泊の俳人たち』という本を手にしたが・・・アポなしの漂泊の旅にあこがれる大使としては、気になるわけです。この際、漂泊テイストのあふれる本を集めてみました。・鴨長明著『方丈記』・金子兜太著『漂泊の俳人たち』2000年刊・高野慎三著『つげ義春を旅する』2001年刊・島田雅彦著『ニッチを探して』2013年刊無能の人【方丈記,徒然草】日本古典文学大系〈第30〉、岩波書店、1957年刊<「BOOK」データベースより>自然に囲まれた方一丈の空間に限りない慰めを見い出す方丈記。欠けたる月、祭りの後を愛で、人の心の無常を異様な好奇心をもって描写した徒然草。日本人の心性を鋭く造形した中世文学の最高峰2篇が、最古の様態をいきいきと伝える本文と創造的注解によって、あざやかに蘇る。(新日本古典文学大系の解説より) <大使寸評>古文のエッセイとしては、この2篇が最強ではないでしょうか。Amazon方丈記,徒然草方丈庵が見たいbyドングリ*****************************************************************************【漂泊の俳人たち】金子兜太著、日本放送出版協会、2000年刊<「BOOK」データベース>より古人も多く旅に死せるありと『おくのほそ道』に記した芭蕉。その後も多くの俳人たちが旅を日常とし、漂泊のなかに生を求めていった。先人芭蕉との違いに句作の原点を求めた一茶、信州伊那に居続けた井月、全国を気の向くままに歩いた山頭火、瀬戸内の小豆島に短い生を閉じた放哉、人々の間を水のように流離った三鬼。彼ら六人の魂の軌跡を探り、漂泊への憧景を読む。【目次】第1章 松尾芭蕉/第2章 小林一茶/第3章 井上井月/第4章 種田山頭火/第5章 尾崎放哉/第6章 西東三鬼<読む前の大使寸評>俳句をたしなんでいるわけではないが、アポなしの漂泊の旅にあこがれる大使である。老境にさしかかり、ヒマなんで・・・俳句あたりにチャレンジしようか♪rakuten漂泊の俳人たち『漂泊の俳人たち』byドングリ*****************************************************************************【つげ義春を旅する】高野慎三著、筑摩書房 、2001年刊<「BOOK」データベース>より「ガロ」の編集者だった著者がつげ作品の舞台となった風景をさがして東北の秘湯から漁港の路地裏までを訪ね歩く。砂煙のまいあがる会津西街道で見つけたワラ屋根のある景色や、老人たちとともに時間がとまった上州・湯宿温泉、赤線の雰囲気を残す東京下町など、貧困旅行を追体験する。失われた日本の風景のなかに、つげ義春の桃源郷が見えてくる!つげ義春との対談も収録。図版満載。<読む前の大使寸評>漂泊願望があるつげさんだから、その旅の独特な味には・・・しびれるわけです♪rakutenつげ義春を旅するつげさんの“多摩川体験”が載っています。p281~282<「散歩の日々」「無能の人」と武蔵野> さて、いよいよ調布篇のクライマックスである。「無能の人」シリーズが『COMICばく』に発表されたのは、1985年6月から翌年の12月までだった。「石を売る」「無能の人」「鳥師」「探石行」「カメラを売る」「蒸発」の6篇で構成され、独立したそれぞれが、ユーモアとエロスに富みつつも、奥行きの深い秀作として結実していた。 その根底に横たわっていたのは、孤立感であり、またあるとくべつの虚無感であったりしたのだが、全体を包み込んでいたのは、読み物としての娯楽性であったと言えよう。 十数年を経た今日、これらの作品は、名作のほまれ高いけれども、発表当時にあっては、マンガベスト100(『COMIC・BOX』誌上)で、マンガ評論家、読者を含め誰ひとりとして1票も投じていなかったのだ。けっきょく、竹中直人の映画化によってあらためて注目されることになったといってもいい。この事実は、マンガ評論家のお粗末さを物語っている。 ところで、当シリーズのなかで「鳥師」はさらに一段と抽象性の濃い、そして精神性の強い作風を示していた。もちろん、「鳥師」とて、多摩川の河原で石売りにはげむ助川助三の貧乏物語がベースとなっている。したがって、ここでは、シリーズの代表作ということで「鳥師」をとりあげるにとどめたい。 つげ義春は、1978年から93年までの15年間を多摩川東岸の染地の団地ですごした。この団地は、20棟以上が並ぶ大きなものだった。作者は、団地に近い多摩川の土手を散歩するのを日課としていた。あるとき、河原で石拾いに精を出している老人に出遭い、「無能の人」のモチーフを構想したらしい。 いわば、多摩川の土手道や河原は、作者にとっての憩いの庭というか、生活空間のひとつであったと思われる。団地住まいになる以前の酒井荘や富士マンションも団地からそう遠くない距離にあった。つまり、作者は、「無能の人」までの20年を多摩川ぞいで暮らし続けていたわけだ。多摩川周辺の風景がことさら好みにあっていたのか、それともたんに家賃が安かったからであるのか、その理由は知らない。 作者は、つねづね、山奥でひっそりと暮らしたいという願望を抱きつづけていた。だが、団地住まいをやめたとはいえ、じつは現在も多摩川ぞいで日々を送っているのである。ということは、“多摩川体験”25年に及ぶ。*****************************************************************************【ニッチを探して】島田雅彦著、新潮社、2013年刊<「BOOK」データベース>より背任の容疑をかけられ、妻と娘を残し失踪した元銀行員の冒険。飢えに耐え、星を見ながら、草の上で眠り、雨に濡れ、虫に刺されながら、死者と対話したり、神に祈ったりし、なまった筋肉に鞭打ち、鈍った勘を研ぎ澄まし、わずかばかりの食料を調達してくる。所持金ゼロでも暮らせるニッチは何処にある?<読む前の大使寸評>元銀行員のホームレスの所持金ゼロの生活とは、如何なるものか♪パラパラめくると、どうやらミステリー調のエンタメ小説のようである。島田さんのエンタメ小説とやらは、いかなる趣きか・・・ということで借りたのです。amazonニッチを探して『ニッチを探して』6byドングリ
2017.01.06
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図書館で『海のシルクロード』という本を手にしたのです。人民解放軍の海洋覇権にさらされて現在の中国沿岸にはロマンのへったくれもないのだが・・・古代から中世までは別で、『海のシルクロード』のロマンが感じられるのです。【海のシルクロード】辛島昇, 大村次郷著、集英社、2000年刊<「BOOK」データベース>より絹、香料、陶磁器、馬…。ジャンクやダウ船が風に乗り、港から港へと人類の夢を運んだ。十数世紀に亘る海上交易の壮大なドラマを探る、豊穣アジアの旅。<読む前の大使寸評>人民解放軍の海洋覇権にさらされて現在の中国沿岸にはロマンのへったくれもないのだが・・・古代から中世までは別で、『海のシルクロード』のロマンが感じられるのです。rakuten海のシルクロードマルコ・ポーロが驚いたエピソードを見てみましょう。p6 <マルコ・ポーロは、泉州に入港するジャンクの数に驚嘆の声を上げた> 海のシルクロードとはなんとやわらかな響きをもった言葉だろう。そこから目に浮かぶのは、白い帆に風をうけ紺碧の海原を帆走するダウ船の姿であり、蛇腹のような帆をたわませながら白波を切って進むジャンクの姿である。 しかし、海はいつもが晴天で、紺碧ではありえない。一天にわかに掻き曇り、風吹きすさぶ嵐となることもしばしばである。古代・中世にダウやジャンクで海を渡ろうとして、どれほどの旅人が命を落としたであろうか。14世紀に三大陸を周遊したタンジールの旅行家イブン・バットウータも、一度はインドの沖合で海に投げ出されている。幸いにも彼は助かって、歴史に名を残した。 一体、何が人々をしてそんな危険な目にあう海の旅へと駆り立てたのであろうか。海原の先に人々は何を求めたのであろうか。古代のローマ人はインドに胡椒を求め、中国人もまた胡椒や南海の珍しい物産を求めて海を渡った。 インド人は、東方の海上に黄金島があると信じてベンガル湾を渡り、時代が下って大航海時代幕開けの役を演じたポルトガル人は、イスラーム商人に邪魔されることなくアジアの富を得ようと、はるかアフリカの南端を廻って航海をした。キリスト教の布教も、彼らの今一つの情熱であった。 かの鄭和が大船団を率いてインド洋へ乗り出したのは、15世紀初頭のことである。彼は皇帝の命により7回の航海を行い、自身はペルシャ湾のホルムズまで、分遣隊は遠くアフリカ東岸からメッカにまで至っている。その彼が航海にあたり、海上守護の女神である天妃(マ祖)に祈りを捧げたことを示す石刻が、泉州に近い南山寺に残っている。 危険を冒して海に乗り出すとき、人々はいつも神仏の加護を願う。「アレクサンドリアに一隻の胡椒を積んだ船が入るとすれば、ここには百隻の船が入る」と、マルコ・ポーロがその繁栄に驚嘆の記録を残した泉州では、郊外の九日山に、貿易船の無事運航を祈る「祈風石刻」が多数見られるのである。港湾都市の中心がカイロに移るヘゲモニー争いを見てみましょう。p112~113 <ペルシャ湾と紅海沿岸の港間のヘゲモニー争い> ここでしばらく西方サブ航路をなすペルシャ湾、アラビア半島、紅海における港湾都市の消長について見てみよう。 少し時代をさかのぼることになるのだが、8世紀に創建のアッバース朝支配下にバクダードがその都として繁栄していたころ、東方への海上ルート出入口として優位を占めたのはペルシャ湾のシーラーフであった。シーラーフ商人の名は海のシルクロードにとどろいていて、『諸蕃史』「大食国」の条に「泉州の南に豪勢な邸宅を構えている」と記される外国商人「施那カン」は、シーラーフ出身者を意味するシーラーヴィーのことであるという。10世紀のシーラーフにはインド産、アフリカ産の木材を使って建てられた高層住宅が海岸に立ち並んでいたらしい。 そのシーラーフを大地震が襲ったのは977-978年のことで、町は壊滅し、その後はキーシュ島に繁栄を奪われることになった。先述のキーシュ島領主が盛んに馬をインドに輸出したのは13世紀のことであったが、14世紀初頭にはそのキーシュ島も、今度は湾頭の島に建設された新ホルムズに併合されてしまう。ペルシャ湾内部でも貿易港は時代による栄枯盛衰の様を示している。話を今少しマクロな領域に拡大して、ペルシャ湾と紅海の両方を視野におさめれば、また違った様相が見えてくる。 北アフリカに興ったファーティマ朝が969年にエジプトを占領し、フスタート・カイロに首都を遷したことによって、東西貿易のネットワークを海上に立ち上げる軸が、ペルシャ湾側から紅海の方に移動することになったのである。すなわち、カイロに中心が置かれることによって、地中海から、エジプト、シリア、ヒジャース、イエメンを通って、インド洋とつながる軸が成立したのである。 アデン、ジッダ、アイザーブなどの繁栄は、それによってもたらされた。それは当然、ペルシャ湾岸の港と紅海沿岸の港の対立を生み、1135年にキーシュ島の領主がアデンを攻撃している。チョーラ朝とシュリーヴィジャヤが戦ったように、海のシルクロードをめぐってのヘゲモニー争いである。(中略) アイユーブ朝に代わったマルムーク朝は、1325年、アデンの支配を目指してイエメンに遠征した。海上商人たちは利益の大きいジッダでの取引を望み、15世紀になるとカリカットのナホダー=イブラーヒームの率いる船団のように、海峡の強行突破を試みる者も現れた。ラスール朝は1454年には滅亡するのだが、その支配末期に鄭和船団の分遣隊がアデンを訪れ、1432年、第7次航海の分遣隊はアデンからジッダに向かい、ついにメッカにまで到達したのである。紅海沿岸、ペルシャ湾沿岸には個人的に土地勘が働くので、このあたりのヘゲモニー争いが興味をひくのでおます♪
2017.01.06
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