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【6月3日】
アヤソフィアの見学を終え外に出ると目の前にはブルーモスクが。
古都イスタンブールには様々な歴史的建造物があるが、その多くはビザンティン帝国時代から
のものとオスマントルコ帝国時代のもの。その中で、スルタンアフメットモスク、
通称ブルーモスク はオスマントルコ帝国時代から残る建築物としては一番の必見ポイント。
振り返ると先ほど見学したアヤソフィアのピンクの姿が。
ブルーモスク入り口へ移動。
通常、モスクの周囲にはその規模によってミナレットと呼ばれる尖塔が1~4基設置されて
いるのだ。一番大きいモスクでも4基が普通だが、このスルタンアフメットモスクにはなんと
6基のミナレットが。
これには、当時スルタンの命令の「アルトゥン(金)」を「アルトゥ(6)」を聞き間違えた建築家が、
金のミナレットを建てる代わりに6本のミナレットを建ててしまったという話も伝わっていると。
しかし地上からは6基のミナレットを同時に見える場所を歩くことは出来なかった。
ここでも見えるのは4基。
ブルーモスクの入り口の門。
中庭。庭には26本の柱があり、30もの小ドームが連なる回廊で囲まれていた。
スルタンアフメットモスク、、「ブルーモスク 」の名の方がひろく知られるこのモスク。
その云われは内部の壁、天井、柱を覆う文様がほんのり青を帯びていることから。
昔は全体的にもっと青みが強かったものの、近年の改修で天井などはより抑えられた
色彩になっており、全体的に優しい色調で覆われていた。
一方で昔から残っている壁のイズニックタイルなどははっきりとした青が美しく、
これもまた見どころの一つ。
ステンドグラス。偶像崇拝禁止のイスラム教会のステンドグラスは花の模様。
こちらのステンドグラスも繊細で美しい。
ステンドグラスと一面の赤い絨毯。
51m x 53mの広さを誇るというブルーモスクの内部は、巨大な空間で、床には赤い色調の
絹の絨毯が敷き詰められていた。この絨毯は、絹で織られた宮殿御用達のヘレケ絨毯
とのこと。ヘレケ絨毯は、イスタンブールの南東60kmほどにあるマルマラ海に面する
ヘレケという小さな村で古くから織られている手織りの絨毯で、世界で最も高品質で芸術性の
高いものだと。思わず絨毯の上に座り込みしばし休憩。メッカに向かい祈る人々の姿も。
高さ43mのドームは直径5mの巨大な4本の柱(象の足)で支えられていた。
ブルーモスクの見学を終え外に出る。目指すはピッポドローム。
ヒッポドロームとは、古代ローマ時代の戦車競技場。馬に車を引かせて、競争をする
シーンが映画『ベンハー』にも映像化されていたと。
この競技場は4世紀にコンスタンティヌス帝によって造られたのだ。
コンスタンティヌスはローマ帝国の都をここビザンティオンに移し、自分の名前をとって、
コンスタンティノープルと改めたのだ。これが現在、イスタンブルとさらに改称。
競技場跡は現在では、長方形の広場となって、ブルーモスクのすぐ近く、北西側に。
この広場には現在3本のオベリスクが残されていた。
一番奥には
切り石の表面は元来は青銅で覆われていたと。しかし、現在は切り石がむき出し。
これは、13世紀初頭のヴェネチア商人の侵入(第4回十字軍)に際して、彼らが貨幣鋳造の
ために削り取ったためとも言われているとのこと。
そして『蛇の柱』。
ギリシアがペルシアを打ち負かしたペルシア戦争において、ギリシア軍が決定的勝利を
収めたのがプラタイアの戦い。その勝利を記念して、ギリシアのデルフォイのアポロン神殿に
立てられていた記念碑。これをコンスタンティヌス帝の頃(4世紀前半)、この地に運び込まれたと。
そして『テオドシウスのオベリスク』。
ローマ帝国最後の皇帝、テオドシウス帝がエジプトのカルナック神殿から運んで来たもの。
古代エジプトのヒエログリフ(神聖文字)が彫られていた。
そこには紀元前15世紀のエジプトのファラオ、トトメス3世を讃える碑文が刻まれていると。
近くに8角形の『ドイツの泉』。
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が1898年にイスタンブールを訪問したのを記念し、 1900年に
ドイツ政府により建てらたとのこと。
この日の見学を終えバスでホテルに向かう。
この旅行で最初のホテルは『KAYA RAMADA PLAZA ISUTANBUL』
ブルーモスク、アヤソフィア博物館があるイスタンブルの歴史的中心部から35kmの距離
にある★★★★★のホテル。
・・・もどる・・・
・・・つづく・・・